明史

列傳第一百九十五 佞倖 紀綱 門達 李孜省 繼曉 江彬 錢寧 陸炳 邵元節 陶仲文 顧可學

◎佞幸

漢の史書に載る佞幸、例えば藉孺、閎孺、鄧通、韓嫣、李延年、董賢、張放の類は、皆宦官や弄臣として千古の譏りを遺しているが、武夫、健児、貪人、酷吏、方技、雑流が親しく昵近し、寵愛を蒙って衰えなかったということは聞かない。明が興り、錦衣衛を創設し、親軍を管轄し、肘腋に居を匿わせた。成祖が即位し、人が己に附かぬを知り、威をもって天下を詟かせんと欲し、特に紀綱を錦衣衛に任用し、耳目を寄せた。綱は廷臣の陰事を刺探し、以て上意に迎合し、帝は忠と為し、残殺された者は数え切れなかった。英宗の時、門達、逯杲の徒、並びに親信せられる。その後に至り、廠衛遂に相表裏し、清流の禍酷なり。憲宗の世、李孜省、僧継曉は祈祷を以て寵任を受け、万安、尹直、彭華等は遂に之に因りて高位を得た。武宗は日々遊楽に事とし、国事を恤れず、一時宵人並びに起こり、銭寧は錦衣衛を以て幸せられ、臧賢は伶人を以て幸せられ、江彬、許泰は辺将を以て幸せられ、馬昂は女弟を以て幸せられた。禍は中外に流れ、宗社幾くんか墟と為らんとす。世宗が大統を継ぎ、前軌を矯うべきに、陸炳を従龍に任じ、郭勲を議礼に寵し、而して一時の方士、陶仲文、邵元節、藍道行の輩の如き、紛然として並びに進み、玉杯牛帛、詐妄滋く興る。凡そ此の諸人、口に天憲を銜み、威福手に在り、天下の士大夫靡然として風に従う。成祖、世宗の英武聡察を以てすら、而して嬖幸乱を醸し、幾くんか昏庸失道の主と其の蒙蔽を同じくせんとす。彼は第に己に親しむを以て信ずべきと為し、而して孰れか其の害の此に至るを知らんや。顧可学、盛端明、朱隆禧の属に至りては、皆甲科より起家し、通顕の位に致り、乃ち秘術を以て栄を干し、世の戮笑と為る。此も亦佞幸の尤なる者、之を篇末に附し、以て戒めを示すという。

○紀綱門達(逯杲)李孜省継曉江彬(許泰)銭寧陸炳邵元節陶仲文顧可学(盛端明等)

紀綱

紀綱は、臨邑の人、諸生たり。燕王兵を起こし其の県を過ぐるや、綱は馬に叩きて自ら効せんことを請う。王之と語り、之を説ぶ。綱は騎射に善く、便辟詭黠にして、人の意向を鉤るに善し。王大いに愛幸し、忠義衛千戸を授く。既に帝位に即くや、錦衣衛指揮使に擢で、親軍を典せしめ、詔獄を司らしむ。

都御史陳瑛は建文朝の忠臣数十族を滅ぼし、親属戮せられたる者数万人。綱は帝の旨を覘い、広く校尉こういを布き、日々臣民の陰事を摘ます。帝悉く綱に下して治めしめ、深文誣詆す。帝は忠と為し、之を親しむこと肺腑の若し。都指揮僉事に擢で、仍って錦衣衛を掌る。綱は指揮庄敬、袁江、千戸王謙、李春等を用いて羽翼と為し、浙江按察使周新を誣いて逮え、之を死に致す。帝の怒る所の内侍及び武臣を綱に下して死を論ぜしむるや、輙ち将ちて家に至らしめ、洗沐して好く飲食し、陽に言い、上に見ゆれば必ず赦さんことを請う若し罪を、誘いて金帛を取ること且つ尽くし、忽ち市に刑す。

数たび家人をして偽りて詔と為らしめ、諸方の塩場に下し、塩四百余万を勒む。還り復た詔と称し、官船二十、牛車四百輛を奪い、私第に載ち入り、直を与えず。大賈数十百家を構陥し、其の資を罄くして乃ち已む。交址使の珍奇を詐取す。吏民の田宅を奪う。故晋王、呉王を籍没し、金宝を乾没すること算無し。王冠服を得て之を服し、高く坐して酒を置き、優童を命じて楽を奏し觴を奉げしめ、万歳を呼ばしめ、器物乗輿に僭す。一女道士を買いて妾と為さんと欲し、都督ととく薛禄先ず之を得たり、禄に大内に遇い、其の首を撾ち、脳裂けて幾くんか死す。都指揮啞失帖木の道を避けざるを恚り、冒賞の事を以て誣い、捶ちて之を殺す。良家の子数百人を腐し、左右に充つ。詔して妃嬪を選び、試みて可とし、暫く出でて年を待たしむるを令す。綱は其の尤なる者を私かに納る。呉中の故大豪沈万三は、洪武の時籍没せられ、漏れたる資尚ほ富めり。其の子文度蒲伏して綱に見え、黄金及び龍角、龍文被、奇宝異錦を進め、願わくは門下と為り、歳時供奉せんとす。綱乃ち文度をして呉中の好女を求索せしむ。文度は因りて綱の勢を挟み、什五にして中分す。

綱は又多く亡命を蓄え、刀甲弓弩を造ること万計。端午、帝柳を射る。綱は鎮撫龐瑛に属して曰く、「我故に射て中たらず、若し柳を折り鼓噪せば、以て衆の意を覗わん」と。瑛其の言の如くす。敢えて糾す者無し。綱喜びて曰く、「是れ我を難ずる能わざるなり」と。遂に不軌を謀る。十四年七月、内侍綱を仇とする者其の罪を発す。給事、御史を命じて廷劾せしめ、都察院に下して按治せしむ。状有り。即日綱を市に磔く。家属少長無く皆辺に戍す。罪状を列ねて天下に頒示す。其の党敬、江、謙、春、瑛等、誅譴差有り。

門達

門達は、豊潤の人。父の職を襲い錦衣衛百戸と為る。性機警沈鷙。正統末、千戸に進み、鎮撫司の刑を理す。久しくして指揮僉事に遷り、累に坐して職を解かる。景泰七年故官に復し、衛事を佐理し鎮撫を兼ねて刑を理す。天順改元、「奪門」の功に与り、指揮同知に進む。旋って指揮使に進み、専ら理刑を任ず。千戸謝通という者は、浙江の人なり、達を佐けて司事を理し、法を用いること仁恕、達倚信す。重獄多く平反し、罪有る者は禁獄を下さるるを以て幸いと為し、朝士翕然として達の賢を称す。然れども是の時英宗は廷臣の党比を慮り、外事を知らんと欲し、錦衣官校を倚りて耳目と為す。由って逯杲大いに幸せられ、達反って之を用いらる。

逯杲

逯杲は、安平の人なり。錦衣衛校尉を以て達及び指揮劉敬の腹心と為り、「奪門」に従う。帝大いに奸党を治む。杲は錦衣百戸楊瑛を縛り、張永の親属と指し、又千戸劉勤を朝に執り、其の上を訕るを奏す。兩人並びに誅に坐す。楊善の薦を用い、本衛百戸を授く。妖賊を捕うる功を以て、副千戸に進む。又曹吉祥の薦を用い、指揮僉事に擢でらる。帝は杲の強鷙を以て、之を委任す。杲乃ち群臣の細故を摭いて以て帝の旨に称す。英国公張懋、太平侯張瑾、外戚会昌侯孫継宗兄弟並びに官田を侵す。杲劾奏し、其の田を官に還す。懋等皆服罪し、乃ち已む。石亨寵を恃みて法に不法す。帝漸く之を悪む。杲即ち其の陰事を伺う。亨の従子彪罪有りて獄に下る。杲を命じて大同に赴き其の党都指揮朱諒等七十六人を械せしむ。杲因りて彪の弟慶の他の罪を発し、連及する者皆坐す。杲指揮同知に進む。明年復た亨の怨望を奏し、不軌を懐く。亨獄に下りて死す。詔有りて「奪門」の功を尽く革せんとす。達、杲言う、臣等俱に特恩に由り、亨の故に非ずと。帝優詔を以て留任せしめ、杲の亨の奸を発するを以て、益々倚重を加う。

杲はますます伸び伸びと振る舞い、その勢いは達の上に出た。白は校尉を四方に派遣して偵察させ、文武の大官や富家高門は多く伎楽や賄賂を進めて免れようとし、親藩や郡王もまた同様であった。賄賂のない者はすぐに達のもとに捕らえ送られ、罪状を捏造して獄に落とされた。天下の朝覲官の大半が譴責を受け、一人を逮捕すれば、数多くの大家がたちまち破れた。四方の奸民は校尉を詐称し、駅伝を乗り回して縦横に振る舞い、憚るところがなかった。鼓城伯張瑾は妻の葬儀を理由に病気と称して朝参せず、諸公侯と私邸で酒宴を開いた。杲が弾劾上奏し、重罪に陥りかけた。杲が派遣した校尉が寧府弋陽王奠壏母子の姦通を誣告した。帝は官を派遣して調査させたが、事はすでに明白となり、靖王奠培らもまた証拠がないと述べた。帝は怒って杲を責めたが、杲は当初の主張を固執した。帝はついに奠壏母子に死を賜った。ちょうど屍を担ぎ出そうとした時、大雷雨があり、平地に数尺の水が溜まり、人々は皆冤罪と思った。指揮使李斌はかつて弘農衛千戸陳安を陥れて殺害し、安の家族が訴えたため、巡按御史邢宥に下して再審させたが、石亨が宥に李斌の罪を軽くするよう依頼した。この時、校尉が言うには、「李斌は平素より妖書を隠し持ち、その弟の健が大位につくべきだとし、密かに外蕃と結んで石亨の仇を討とうとしている」と。杲はこれを上聞し、錦衣衛の獄に下し、達は李斌を謀反の罪に問うた。帝は二度にわたり廷臣に会審を命じたが、杲を恐れて平反を敢えてしなかった。李斌兄弟は極刑に処せられ、連座して死罪となった者は二十八人に及んだ。

杲はもともと石亨・曹吉祥によって推挙されたが、亨を告発して死に至らしめ、さらに吉祥とその甥の欽の陰事を上奏したため、吉祥・欽は大いに恨んだ。五年七月、欽が反乱を起こし、杲の邸宅に侵入してこれを斬り、その首を取って去った。事態が鎮まると、杲に指揮使を追贈し、その子に指揮僉事の俸給を与えた。

当時、達はすでに衛の事務を掌っていたが、依然として刑務を兼ねて処理していた。杲が殺害されると、達は守衛の功績により、都指揮僉事に進んだ。初め、杲は達の左右に仕えていたが、志を得てからは甚だしく恣に振る舞った。達は怒り、力を尽くしてこれを追い出した。杲はまもなく復官し、達を陥れようとしたため、達は恐れおののいて勝手に振る舞えなかった。杲が死ぬと、達の勢力はたちまち拡大した。杲の行ったことに倣おうとし、ますます旗校を四方に配置した。告発する者は日増しに盛んとなり、朝廷内外は重ね足して立つほど恐れ、帝はますます彼を有能と認めた。

外戚の都指揮孫紹宗および軍士六十七人が曹欽討伐の功績を詐称した。達がこの事を発覚させた。紹宗は責められ譴責を受け、その他は皆獄に下された。戸部山西司の庫金を盗んだ者がおり、巡城御史徐茂が郎中趙昌・主事王珪・徐源の監督不行き届きを弾劾した。達がこの事件を処理し、皆獄に下して官を貶した。達は囚人が多く、獄舎が少なく収容できないため、城西の武邑庫の空地に増築するよう請うた。許可された。御史樊英・主事鄭瑛が贓罪を犯した。給事中趙忠らが事実通りに報告しなかった。達が彼らの私曲を弾劾し、これもまた獄に下して官を貶した。給事中程萬里ら五人が登聞鼓を担当していたが、ある軍士の妻の冤罪について、斎戒中であったため上奏しなかった。達が諸人の蒙蔽を弾劾し、詔によって達に審理させた。その後、南京戸部侍郎馬諒、左都御史石璞、前府を掌る忻城伯趙榮、都督同知範雄・張斌が老いて目がくらんでいることを弾劾し、皆罷免させた。裕州の民が知州秦永昌が黄衣を着て兵を閲兵したと上奏した。帝は怒り、達に官を派遣して調査させ、その財産を没収し、永昌を処刑し、天下に高札で示させた。併せて布政使侯臣・按察使呉中以下および先後の巡按御史呉琬ら四人を逮捕して獄に下し、侯臣らは俸給を停止され、呉琬らは県丞に左遷された。御史李蕃が宣府を巡察したが、ある者が李蕃が軍職者を勝手に鞭打ちし、軍容で迎送したと告発した。御史楊琎が遼東を、韓琪が山西を巡察したが、校尉が彼らが妄りに威福を振るったと報告した。皆達に下して審理させ、李蕃・韓琪はともに枷を付けられて死んだ。陝西督儲参政婁良、湖広参議李孟芳、陝西按察使銭博、福建僉事包瑛、陝西僉事李観、四川巡按田斌、雲南巡按張祚、清軍御史程萬鐘および刑部郎中馮維・孫瓊、員外郎貝鈿、給事中黄甄は、皆校尉に発覚されて獄に下された。包瑛は官職に汚点がなく、憤りに耐えかねて自縊死した。その他は多く辺境への流罪に処された。湖広の諸生馬雲が罪により除名され、錦衣鎮撫を詐称し、命を受けて親を葬るとして、布政使孫毓ら八人から皆葬儀の贈り物を受けた。事が発覚し、法司が逮捕審問を請うたが、結局馬雲を罪に問わなかった。達は初め督責の術を行おうとしたが、同僚の呂貴が言うには、「武臣は容易に犯しがたく、曹欽の例が鑑とすべきである。ただ文吏のみが容易に裁断できるのだ」と。達はこれを然りとし、故に文吏の災いは特に酷かった。

都指揮袁彬は帝の旧恩を恃み、達の下に立とうとしなかった。達は深くこれを恨み、彬の妾の父である千戸王欽が人から財物を騙し取ったことを探知し、彬を獄に下すよう上奏して請うた。贖罪により徒刑を論じられ、職に復した。趙安という者がおり、初めは錦衣の力士として彬に使えていたが、後に鉄嶺衛に流罪となり、赦されて帰還し、府軍前衛に改められた。罪を犯し、詔獄に下された。達は趙安が府軍に改補されたのは彬の請託によるものと断じ、再び彬を捕らえ、拷打して、彬が石亨・曹欽から賄賂を受け取り、官用の木材で私邸を建て、内官の督工者から磚瓦を強要し、人の子女を奪って妾にしたなどの罪名を誣告した。軍匠の楊塤は不公平に思い、登聞鼓を打って彬の冤罪を訴え、その言葉は達を侵害した。詔によって併せて達に審理させた。この時、達は大学士李賢が寵愛されているのを害し、またしばしば己を諫めたため、かつて帝に讒言して、賢が陸瑜から金を受け取り、尚書の官職で報いたと述べた。帝はこれを疑い、半年間詔を下さなかった。この時、楊塤を拷打し、賢を引き合いに出すよう教えた。塤はすぐに虚偽を述べて、「これは李学士が私を導いたのです」と言った。達は大いに喜び、直ちに上奏して報告し、法司に塤を午門外で会審するよう請うた。帝は中官裴當を派遣して監視させた。達は賢を捕らえて併せて審問しようとしたが、當が「大臣は辱めを受けるべきではない」と言ったため、やめた。審問に及んで、塤は言った、「私は小人です。どうして李学士にお目にかかることができましょう。これは錦衣衛の者が私に教えたのです」と。達は顔色を失って言葉が出ず、彬もまた歴々と達が賄賂を受け取った様子を数え上げた。法司は達を恐れて聞き入れず、彬を絞首刑に処し贖罪を認め、塤を斬首刑に処した。帝は命じて彬が贖罪を終えたら南京錦衣に転任させ、塤を禁錮した。

翌年、帝の病が重篤になると、達は東宮局丞王綸が必ず権力を握ると知り、あらかじめ結び付こうとした。まもなく、憲宗が帝位を継ぐと、王綸は失脚し、達は連座して貴州都勻衛に転任させられ、帯俸で差操に従事することとなった。出発したばかりの時、言官が相次いで上奏してその罪を論じた。逮捕して審理するよう命じられ、斬罪に論じられて獄に繋がれ、その巨万の財産を没収された。指揮張山は同謀殺人を犯し、同様の罪に問われた。子の序班升、甥の千戸清、婿の指揮楊観およびその党与の都指揮牛循ら九人は、流罪・降格・転任などそれぞれ処分が異なった。後に審録が行われる時、命じて達を赦し、広西南丹衛に発遣して軍に充て、そこで死んだ。

李孜省

李孜省は南昌の人である。布政司の吏として京職を待選していたが、贓罪が発覚し、隠れて帰らなかった。当時、憲宗は方術を好み、孜省は五雷法を学び、中官梁芳・銭義と深く結び付き、符籙を献上した。成化十五年、特旨をもって太常丞を授けられた。御史楊守随・給事中李俊らが孜省は贓吏であり祭祀を司るにふさわしくないと弾劾したため、上林苑監丞に改められた。日に日に寵愛を受け、金冠・法剣および印章二顆を賜り、密封して奏請することを許された。ますます淫邪な方術を献上し、梁芳らと表裏をなして奸を働き、次第に政事に干渉するようになった。十七年、右通政に抜擢され、本司に寄俸し、依然として監事を掌った。同官の王昶が彼を軽んじ、礼を加えなかった。孜省は王昶を讒言し、太僕少卿に左遷させた。故事によれば、寄俸官は郊壇の分献に預かることはできないが、帝は特に孜省に命じた。廷臣は王昶の件を戒めとし、敢えて執奏する者はいなかった。

初め、帝が即位して僅か一月余りで、早くも宦官に命じて旨を伝えさせ、工人を文思院副使に任用した。その後も相次いで絶えることなく、一度に伝旨された姓名は百十人に及び、当時これを伝奉官と呼び、文武官・僧侶・道士で恩沢を濫受した者は数千に及んだ。鄧常恩・趙玉芝・淩中・顧工及び奸僧の継暁らは、皆尊貴顕要となり、孜省と互いに依りかかって奸計をなしたが、権勢と寵愛は全て孜省の下にあった。二年を経て、左通政に進んだ。給事中の王瑞・御史の張稷らが相次いで彼を弾劾した。そこで二階級を貶し、本司の左参議とし、他に貶黜された者また十二人あり。これはただ内外の望みを塞ぐための口実に過ぎず、孜省の寵愛は固より未だ衰えなかった。間もなく、また左通政に復した。

二十一年正月、星変があり、直言を求めた。九卿大臣・給事中・御史らは皆伝奉官の弊害を極論し、まず孜省・常恩らに及んだ。帝はやや悟り、孜省を上林監丞に貶し、吏部に命じて冗濫の者の名簿を記録させると、凡そ五百余人に及んだ。帝は六十七人を留め、残りは全て斥罷し、内外大いに悦んだ。孜省はこれにより廷臣を甚だ恨み、主事の張吉・員外郎の彭綱を陥れて追放し、ますます左道の術で帝の意を操った。その年十月、再び左通政に復し、ますます威福を振るった。吏部尚書の尹旻とその子の侍講・尹龍に罪を捏造した。また扶鸞の術を借りて江西人は赤心をもって国に報いると言い、これにより致仕した副都御史の劉敷・礼部郎中の黄景・南京兵部侍郎の尹直・工部尚書の李裕・礼部侍郎の謝一夔らは、皆これによって進用された。時折、時の声望を採り入れ、学士の楊守陳・倪嶽、少詹事の劉健、都御史の余子俊、李敏ら諸名臣を、悉く密封して推薦した。縉紳の進退は、多くその口から出、執政大臣の万安・劉吉・彭華はこれに従って付和雷同した。通政の辺鏞が僉都御史となり、李和が南京戸部侍郎となったのは、皆その力による。彼が排擠した江西巡撫の閔珪・洗馬の羅璟・兵部尚書の馬文升・順天府丞の楊守随らは、皆譴責を受け、朝野側目した。

吏部が通政使の欠員を奏上すると、即座に孜省をこれに任命し、右通政の陳政以下五人を、順次一官進めた。当時、張文質が尚書として司事を掌っていたため、通政使は本来欠員ではなかった。その後、また礼部右侍郎に抜擢され、通政使を掌ることは従前の通りであった。

常恩

常恩は臨江の人で、宦官の陳喜を通じて進んだ。玉芝は番禺の人で、宦官の高諒を通じて進んだ。共に方術に通暁していることを以て、累進して太常卿となった。玉芝は母の喪に服したが、特に祭葬を賜り、墳域を大いに造営し、制度は等級を超えた。顧工・淩中は何れの人か知れない。顧工は扶鸞の術により、累官して太常少卿となり、母の喪に際し賜祭を受け、且つ贈誥を給された。故事によれば、四品官で三年未満の者は贈誥・賜祭を受けることはないが、憲宗は特にこれを与えた。吏部尚書の尹旻はこれに因んで併せてその父への贈官を請うた。間もなく、本寺卿に進んだ。その二子の顧経・顧綸もまた太常少卿の官にあった。淩中は書を善くして文華殿に供事し、数年を経ずして太常卿となった。一月余りして、諫官の言により、寺丞に降格した。孜省は星変により貶されたが、常恩もまた本寺丞に貶され、玉芝・顧工・淩中は共に従前の通りであった。孜省が通政に復すると、常恩もまた太常卿に復した。

李文昌という者がおり、術を試みて効験がなく、杖五十を受け、斥還された。岳州通判の沈政は絵事によって縁故を求め太常少卿に至り、天下の貨財を徴収して内府に充てることを請うた。帝は怒り、獄に下し、杖罰の上、広西慶遠通判に貶謫した。人々は大いに快とした。

しかし、群奸は内外に蟠り結び、士大夫でこれに附く者は日増しに多くなった。進士の郭宗は刑部主事から、篆刻をもって宦官に引き立てられ、尚宝少卿に抜擢され、日々市井の工人・技芸者と伍して、宮廷に奔走した。兵科左給事中の張善吉は官を貶されていたが、秘術によって宦官の高英に取り入り、召見を得て、自ら陳べて給事中への復職を乞い、士論はこれを恥とした。大学士の万安もまた房中術を献じて寵愛を固めた。そして、諸雑流で侍郎・通政・太常・太僕・尚宝に加えられた者は、数え切れないほどであった。

憲宗が崩じ、孝宗が嗣位すると、初めて科道官の言を用い、伝奉官を尽く淘汰し、孜省・常恩・玉芝・顧工・淩中・顧経を辺境の衛所に戍らせた。また、宦官の蒋琮の言により、孜省・常恩・玉芝らを詔獄に逮捕し、近侍と交結した律により斬罪に処し、妻子を二千里流刑とした。詔して死を免じ、なお辺境に戍らせた。孜省は拷打に耐えられず、獄死した。

継暁

継暁は江夏の僧侶である。憲宗の時、秘術によって梁芳を通じて進み、僧録司左覚義を授けられた。右善世に進み、通元翊教広善国師と命ぜられた。日々帝を誘って仏事を行わせ、西市に大永昌寺を建立し、民家数百家を強制移転させ、国庫数十万を費消した。員外郎の林俊が芳と継暁を斬って天下に謝罪するよう請うたが、重い譴責を受けそうになった。継暁は禍が及ぶことを恐れ、帰郷して母を養うことを乞い、併せて空名の度牒五百道を乞うたが、帝は全て従った。帝は即位の初め、早くも道士の孫道玉を真人とした。その後、西番僧の劄巴堅参に万行荘厳功徳最勝智慧円明能仁感応顕国光教弘妙大悟法王西天至善金剛普済大智慧仏の号を封じ、その徒の劄実巴・鎖南堅参・端竹也失は皆国師とし、誥命を賜った。服食器用は王者に僭擬した。出入りには棕輿に乗り、衛卒が金吾の仗を執って前導し、錦衣玉食の者が数千人に及んだ。荒塚の頂骨を取って数珠とし、髑髏を法碗とした。給事中の魏元らが切諫したが、容れられなかった。間もなく劄実巴を法王に進め、班卓児蔵卜を国師とし、また領占竹に万行清修真如自在広善普慧弘度妙応掌教翊国正覚大済法王西天円智大慈悲仏の号を封じ、また西天仏子の劄失蔵卜・劄失堅参・乳奴班丹・鎖南堅参・法領占の五人を法王とし、その他に西天仏子・大国師・国師・禅師を授けられた者は数え切れない。道士で真人・高士の号を加えられた者もまた都下に満ちた。大国師以上には金印を、真人には玉冠・玉帯・玉珪・銀章を与えた。継暁は特に奸黠で権力を窃み、奏請することは直ちに従われた。成化二十一年、星変があり、言官が極力その罪を論じ、初めて民に勒し、諸番僧は従前の通りであった。

孝宗の初め、詔して礼官に淘汰を議させた。礼官が言うには、諸寺の法王から禅師まで四百三十七人、ラマ諸僧七百八十九人。華人で禅師及び善世・覚義などの僧官は百二十人、道士で真人・高士及び正一演法などの道官は百二十三人、これらを全て貶黜するよう請うた。詔して法王・仏子は順次国師・禅師・都綱に降格し、その他は全て職を落として僧とし、本土に遣還し、誥敕・印章・儀仗などの法物を追奪した。真人は左正一に降格、高士は左演法に降格し、また印章及び諸玉器を追奪した。僧録司は善世など九員のみを留め、道録司は正一など八員を留め、その他は全て廃黜した。そして継暁は科臣の林廷玉の言により、逮捕して処刑し、市に棄てた。

江彬

江彬は宣府の人である。初め蔚州衛指揮僉事であった。正徳六年、畿内に賊が起こり、京軍では制圧できず、辺境の兵を徴発した。江彬は大同遊撃として総兵官張俊に隷属し、徴発に応じて赴いた。薊州を過ぎる際、一家二十余人を殺害し、賊と誣らえて賞を得た。後に賊と淮上で戦い、三本の矢を受け、その一本は顔面に当たり、鏃が耳から出たが、これを抜いて再び戦った。武宗はこれを聞いて壮とし、七年、賊が次第に平定されると、辺兵を帰還させて大同・宣府に駐屯させた。軍が京師を通過した際、これを労い、ついに宣府の守将許泰も共に留めて帰さなかった。江彬は銭寧を通じて召見を得た。帝はその矢傷を見て、「江彬は健やかでよくもかくあらんや」と呼んだ。江彬は狡猾で強情、容貌魁偉で力強く、騎射に優れ、帝の前で兵事を談じると、帝は大いに喜び、都指揮僉事に抜擢し、豹房に出入りして共に起居した。かつて帝と囲碁を打って不遜な態度をとり、千戸周騏がこれを叱責した。江彬は周騏を陥れて拷問死させ、左右の者は皆江彬を恐れた。江彬は帝を導いて微行し、しばしば教坊司に至った。鋪花氈幄百六十二間を進上し、その規格は離宮に等しく、帝が出行する際は皆これを用いた。

銭寧は江彬が急に昇進するのを見て、心中穏やかでなかった。ある日、帝が虎を捕らえようとし、銭寧を召したが、銭寧は縮こまって進まなかった。虎が帝に迫ると、江彬が駆け寄ってこれを撃退した。帝は戯れて言った、「我は自ら十分に処理できる、お前を用いる必要はない」と。しかし心では江彬に恩を感じ、銭寧を恨んだ。銭寧が後日江彬の短所を言うと、帝は応じなかった。江彬は銭寧が自分を容れないと知り、左右が皆銭寧の党与であるのを見て、辺兵を頼りに自らの地位を固めようとし、盛んに辺軍がぎょう悍で京軍に勝ると称し、互いに調換して訓練するよう請うた。言官が相次いで諫め、大学士李東陽が十の不便を疏で称えたが、皆聞き入れられなかった。そこで遼東・宣府・大同・延綏の四鎮の軍を京師に入れ、外四家と号し、都市を縦横にした。大内で団練する毎に、間に角抵戯を挟んだ。帝は戎服を着てこれに臨み、江彬と連騎で出て、鎧甲が入り乱れ、ほとんど見分けがつかなかった。

八年、許泰に敢勇営を統領させ、江彬に神威営を統領させた。太平倉を鎮国府と改め、辺兵を置いた。奮武営に西官庁を建てた。江彬・許泰に国姓を賜った。二年を経て、都督僉事に遷した。江彬は万全都指揮李琮・陜西都指揮神周の勇略を推薦し、共に召して豹房に侍らせ、同様に姓を賜って義児とした。積慶・鳴玉の二坊の民家を壊し、皇店酒肆を造り、義子府を建てた。四鎮の軍は、江彬が兼ねて統率した。帝は自ら群閹で善射の者を率いて一営とし、中軍と号した。朝夕馳せ逐せ、甲光が宮苑を照らし、呼噪の声が九門に達した。帝は時折閲兵し、過錦と名付けた。諸営は皆黄罩甲を着、許泰・李琮・神周らは遮陽帽を冠り、帽に天鵞の羽根を立て、貴い者は三本、次は二本とした。兵部尚書王瓊は一本を賜られ、大いに喜んだ。

江彬は既に心の中で銭寧を忌み、帝を導いて遠く寧を巡幸させようとした。そこでしばしば宣府の楽工に美婦人が多いと言い、また辺境の隙を観察でき、瞬く間に千里を馳せることができる、どうして鬱々と大内に居て、廷臣に制せられようか、と述べた。帝はこれをよしとした。十二年八月、急いで装いを整え微服で昌平に出幸し、居庸関に至ったが、御史張欽に遮られ、引き返した。数日後、再び夜に出た。先に太監谷大用に張欽の代わりをさせ、廷臣の追諫を止めさせた。そこで居庸関を越え、宣府に幸した。江彬は鎮国府第を建て、豹房の珍玩・女御をことごとく車で運び込んで満たした。江彬は帝に従い、しばしば夜に人家に入り、婦女を求めた。帝はこれを大いに楽しみ、帰るのを忘れ、家裏と称した。間もなく、陽和に幸した。迤北の五万騎が侵入し、諸将王勛らが力戦した。応州に至り、敵は退去した。首級十六を斬り、官軍の死者は数百人に上ったが、勝利として京師に報じた。帝は自ら威武大将軍朱寿と称し、また自ら鎮国公と称し、駐蹕する所を軍門と称した。内外の事は大小を問わず、江彬に白状してから奏上し、あるいは滞って二、三年に及んだ。廷臣が前後して切諫したが、ことごとく放置して省みなかった。

十三年正月、京に還り、しばしば宣府を懐かしんだ。江彬は再び帝を導いて往かせ、そこで大同に幸した。太皇太后の崩御を聞き、京に還って発喪した。葬送に臨み、昌平に行き、諸陵に祭告し、ついに黄花・密雲に幸した。江彬らは良家の女数十車を掠め、日々これらを載せて随行し、死者も出た。永平知府毛思義が江彬に逆らい、獄に下され官を貶された。典膳李恭が回鑾を請う疏を上し、江彬の罪を指弾した。未だ止められぬうちに、江彬は李恭を捕らえて詔獄で死なせた。帝は大喜峰口に駐蹕し、朶顔三衛の花当・把児孫らに質を納めさせ宴労しようとしたが、御史劉士元が四つの不可を陳べたが、返答がなかった。帝が還ると、詔を下して総督軍務威武大将軍総兵官朱寿が六軍を統率すると称し、江彬を威武副将軍に任じた。応州の功を記録し、江彬を平虜伯に封じ、子三人を錦衣衛指揮とし、許泰を安辺伯とし、李琮・神周を共に都督とした。内外の官九千五百五十余人を昇進・賞賜し、賞賜は億万に及んだ。

江彬はまた帝を導いて大同から黄河を渡り、榆林に駐屯し、綏徳に至り、総兵官戴欽の邸に幸してその娘を納れた。帰途、西安を経て偏頭関を歴り、太原に至り、大いに女楽を徴発し、晋府の楽工楊騰の妻劉氏を納れて帰った。江彬と諸近幸は皆これを母として仕え、劉娘娘と称した。初め、延綏総兵官馬昂が罷免されていたが、妹が歌を善くし、騎射ができ、外国語を解し、指揮畢春に嫁ぎ、妊娠していた。馬昂は江彬に頼んで奪い返し、帝に進上すると、豹房に召し入れられ、大いに寵愛された。伝旨により馬昂を右都督に昇進させ、弟の馬炅・馬昶に共に蟒衣を賜い、大璫らは皆舅と呼び、太平倉に邸を賜った。給事中・御史が諫めたが、応じなかった。かつて馬昂の邸に幸し、その妾を召そうとした。馬昂が従わないと、帝は怒って立ち去った。馬昂はまた太監張忠に結びついてその妾杜氏を進上し、ついに伝旨により馬炅を都指揮に、馬昶を儀真守備に昇進させた。馬昂は望外の喜びで、また美女四人を進上して恩に謝した。この時、戴欽の娘を納れたのも、皆江彬が導いたことであった。

十四年正月、太原から宣府に還り、江彬に十二団営を提督させた。帝は東西に遊幸し、数千里を歴り、馬に乗り弓矢を腰に、険阻を渡り、風雪を冒し、従者は多く道中で病んだが、帝に倦怠の色はなかった。京に還ると、再び南幸を望んだ。刑部主事汪金が九つの不可を疏で陳べ、かつ酒に酣することを戒めることを極言したが、帝は省みなかった。廷臣百余人が闕に伏して諫めると、江彬はわざと帝を怒らせ、ことごとく獄に下し、多くが杖死した。江彬もまた意気沮喪し、議論はやんだ。

折しも寧王宸濠が反逆すると、江彬はまた帝の親征を賛成し、諫める者は極刑に処すと下令した。江彬に提督賛画機密軍務を命じ、併せて東廠錦衣官校の事務を督させた。この時、張鋭が東廠を治め、銭寧が錦衣を治めていたが、江彬は両者の任を兼ね、権勢は比べる者なく、ついに帝に扈従して行った。間もなく銭寧を止めさせ、皇店の役を監督させ、従うことを許さなかった。八月、京師を発った。江彬は途中で、詔旨を偽ってしばしば長吏を縛り、通判胡琮は恐れて自縊死した。十二月に揚州に至り、民家をそのまま都督府とし、処女・寡婦をことごとくかき集め、帝を導いて漁猟した。劉姫が諫めたので、やや止んだ。南京に至り、また帝を導いて蘇州に幸し、浙江を下り、湖・湘に至ろうとした。諸臣が極諫し、折しもその党与もまた諫めて止めたので、やめた。この時、江彬は辺兵数万を率い、甚だ跋扈した。成国公朱輔は長跪し、魏国公徐鵬挙及び公卿大臣は皆側足してこれに仕えた。ただ参賛尚書喬宇・応天府丞寇天叙のみが身を挺して抗い、江彬の気勢はやや挫けた。

十五年六月、帝は牛首山に幸す。諸軍夜間に驚き、彬の逆を為さんとすと云い、久しくして乃ち定まる。時に宸濠は既に擒えられ、江上の舟中に繋がれ、民間数たび訛伝して変を為さんとすとす。帝心に疑い、帰らんと欲す。閏八月、南京を発つ。清江浦に至り、積水池に漁す。帝の舟覆り溺れ、遂に疾を得る。十月、帝は通州に至る。彬は尚ほ帝の宣府に幸するを勧めんと欲し、旨を矯って勛戚大臣を召し宸濠の獄を議せしむ。又上言す、「鎮国公朱寿の方略を指授するに頼り、宸濠の逆党申宗遠等十五人を擒え、乞うらくは其の罪を明らかに正さんことを」と。乃ち詔を下し鎮国公を褒め賜い、歳ごとに彬の禄米百石を加え、一子を錦衣千戸に蔭す。会に帝の体憊え甚だしく、左右力めて請うて乃ち京に還る。彬は猶ほ旨を矯って団練営を威武団練営と改め、自ら軍馬を提督し、泰、周、琮等に教場の操練を提督せしむ。

帝の崩ずるに及び、大学士楊廷和は遺命を用い、辺兵を分遣し、威武団練営を罷む。彬は内に疑い、疾と称して出でず、腹心を陰に布き、甲を衷にして変を観、泰をして内閣に詣り意を探らしむ。廷和は温語を以て之を慰め、彬稍々安んじ、乃ち出でて服を成す。廷和は密かに司礼中官魏彬と計り、中官温祥を因って入り太后に白し、彬を除かんことを請う。会に坤寧宮に獣吻を安ず。即ち彬と工部尚書李鐩を命じて入り祭らしむ。彬は礼服を以て入り、家人は従うことを得ず。事竟りて将に出でんとす。中官張永は彬、鐩を留めて飯を食わしむ。太后遽かに詔を下し彬を収む。彬覚り、急ぎ西安門に走る。門閉ず。尋いで北安門に走る。門者曰く、「旨有りて提督を留む」と。彬曰く、「今日安んぞ旨を得ん」と。門者を排す。門者之を執り、其の須を抜くこと且く尽くす。収むる者至り、之を縛す。有る頃、周、琮並びに縛されて至り、彬を罵りて曰く、「奴早く我に聴かば、豈に人の擒えらるるを得んや」と。世宗即位し、彬を市に磔く。周、琮は彬の子勛、傑、鰲、熙と倶に斬らる。処決の図を絵し、天下に榜示す。幼子然及び妻、女は倶に功臣家に発して奴と為す。時に京師久しく旱し、遂に大雨ふる。彬の家を籍没し、黄金七十櫃、白金二千二百櫃を得、他の珍缶数うべからず。

許泰

許泰は江都の人なり。都督寧の子、職を襲い羽林前衛指揮使と為る。武会挙に中り第一、擢て都指揮同知を署す。尋いで副総兵に充ち、宣府を協守す。正徳六年、郤永、江彬と倶に調せられ流賊を剿し、賊を州に敗り、之を東光半壁店に追い敗る。未だ幾ばくもせず、復た賊を棗強に敗る。劉六曹州を寇す。泰は馮楨、郤永と撃ちて之を却け、勝に乗じ千八百人を擒斬す。賊蠡県、臨城を犯す。泰等撃たず、劾せられて俸を停めらる。既にして賊衛輝に奔る。泰は為に敗る。萊陽に赴くを調せらる。逗遛して進まず、詔して署都督僉事の新銜を革め、仍た都指揮同知を以て賊を辦せしむ。賊平ぐ。署都督同知に進み、京師に留まり、彬と日々左右に侍し、国姓を賜い、歴て左都督に遷る。応州の功を冒し、安辺伯に封ぜらる。

宸濠反す。帝は泰を以て威武副将軍と為し、中官張忠に偕い禁軍を率い先ず往かしむ。宸濠は既に王守仁に擒えらる。泰は其の功を攘まんと欲し、疾駆して南昌に至り、逆党を窮め捜し、士民誣陷せらるる者数うべからず。誅求刑戮、宸濠の乱に甚だし。守仁の功を嫉み、之を排擠すること百方なり。伍文定を執り、窘辱備わり至る。居ること久しくして、始めて師を旋す。世宗即位し、廷臣交えて劾す。文定亦た備えて虐民妒功の状を以て上聞し、獄に下し死を論ず。貴近に夤縁し、死を減じて辺に徙す。馬昂亦た罷めらる。炅等は辺に戍す。

錢寧

錢寧、其の出づる所を知らず。或いは云う、鎮安の人なりと。幼くして太監錢能の家に鬻がれて奴と為り、能之を嬖し、錢姓を冒す。能死す。恩を家人に推し、錦衣百戸を得る。正徳初め、曲く劉瑾に事え、帝に幸を得る。性獪狡にして、射を善くし、左右の弓を拓く。帝喜び、国姓を賜い、義子と為り、伝えて錦衣千戸に升す。瑾敗る。計を以て免れ、指揮使を歴、南鎮撫司を掌る。累て左都督に遷り、錦衣衛事を掌り、詔獄を典とし、言うこと聴かれざる無し。其の名刺自ら皇庶子と称す。楽工臧賢、回回人於永及び諸番僧を引き、秘戯を以て進む。禁内に豹房、新寺を建つることを請い、声伎を恣にして楽しましめ、復た帝を誘いて微行せしむ。帝豹房に在り、常に酔いて寧に枕して臥す。百官朝に候す。晡に至りても未だ帝の起居を得ず、密かに寧を伺う。寧来れば、則ち駕の将に出づるを知る。

太監張銳は東廠緝事を領し、横甚だし。而して寧は詔獄を典とし、勢最も熾なり。中外「廠、衛」と称す。司務林華、評事沈光大は皆た杖を以て校尉を系え、寧の奏する所と為り、逮えられ錦衣獄に下り、光大は黜けられ、華は一級を貶せらる。錦衣千戸王註は寧と匿い、人を撻ちて死に至らしむ。員外郎劉秉鑒は其の獄を急に持す。寧は註を家に匿い、而して東廠に属して刑部の他事を発せしむ。尚書張子麟は亟に造り寧に謝し、立って註を釈し、乃ち已む。廠衛の校卒部院に至り事を白すに、尚書子麟の輩を老尊長と称す。太僕少卿趙経は初め工部郎を以て乾清宮の工を督し、帑金数十万を乾没す。経死す。寧は佯りて校尉を遣わし喪を治め、経の妻子を迫りて櫬を扶けて出さしめ、姬妾、帑蔵悉く之を据え有す。中官廖常は河南を鎮す。其の弟錦衣指揮鵬は悪を肆にし、巡撫鄧庠の劾する所と為り、詔して級を降し安置す。鵬懼れ、其の嬖妾をして寧に私事せしめ、留任を得しむ。

寧の子永安、六歳にして都督と為る。養子錢傑、錢靖等は、倶に国姓を冒し、錦衣衛官を授けらる。富貴已に極まれりと念い、帝に子無く、強藩を結び自ら全からんとす。寧王宸濠の為に護衛を復するを営み、又人を宸濠の所に遣わし、異謀有り。又宸濠をして数たび金銀玩好を帝に進めしむ。謀りて其の世子を召し太廟に香を司らしめ、入嗣の地と為さんとす。又玉帯、彩纻を以て其の典宝萬銳に附けて帰らしめ、詐りて上賜と称す。凡そ宸濠の遣わす所の私人京師に行賄するは、皆た伶人臧賢の家を主とし、寧を由りて以て帝の左右に達す。

宸濠反す。帝心に寧を疑う。寧懼れ、帝に白して宸濠の遣わす所の盧孔章を収め、而して罪を賢に帰し、辺に謫し戍らしめ、校尉をして途に之を殺さしめて口を滅し、又孔章を致して瘐死せしめ、冀くは自ら全からんことを得んとす。然れども卒に中りて江彬の計に、皇店の役を董ぜしむ。彬は道に在り、尽く其の通逆の状を白す。帝曰く、「黠奴、我固より之を疑う」と。乃ち之を臨清に羈し、馳せて其の妻子家属を収む。帝京に還る。寧を裸縛し、其の家を籍没し、玉帯二千五百束、黄金十余万両、白金三千箱、胡椒数千石を得る。世宗即位し、寧を市に磔く。養子傑等十一人皆た斬らる。子永安は幼く、死を免る。妻妾は功臣家に発して奴と為す。

陸炳

陸炳、其の先は平湖の人なり。祖墀は軍籍を以て錦衣衛に隷し総旗と為る。父松は職を襲い、興献王に従い之国安陸し、選ばれて儀衛司典仗と為る。世宗入りて大統を承く。松は従龍の恩を以て、錦衣副千戸に遷る。累官して後府都督僉事に至り、錦衣事を協理す。

世宗が生まれた時、陸炳の母(松の妻)が乳母となり、炳は幼くして母に従い宮中に入った。やや成長すると、日に侍して左右に仕えた。炳は武勇に優れ沈着で猛々しく、背が高く顔色は火のようで、歩く様は鶴に似ていた。嘉靖八年の武会試に挙げられ、錦衣副千戸を授かった。父の松が卒すると、指揮僉事の官職を襲った。まもなく署指揮使に進み、南鎮撫司の事務を掌った。十八年、帝の南幸に従い、衛輝に宿泊した。夜の四更、行宮が火災に遭い、従官は慌てふためいて帝の所在を知らなかった。炳は扉を押し開けて帝を背負って出て、帝はこの時より炳を寵愛するようになった。たびたび都指揮同知に抜擢され、錦衣衛の事務を掌った。

帝が即位した当初、錦衣衛を掌ったのは朱宸であったが、まもなく罷免された。代わりの駱安、続く王佐、陳寅はいずれも興邸(世宗が即位前の邸宅)の旧臣で錦衣衛を掌った。佐はかつて張鶴齢兄弟の獄を保持し、賢明な名声があった。寅もまた謹厚で悪事を働かなかった。炳が寅に代わると、その権勢ははるかに諸人を上回った。まもなく、署都督僉事に抜擢された。さらに緝捕の功により、都督同知に抜擢された。炳は急に貴顕となったが、同僚の多くは父の世代であった。炳は表面上は彼らを敬って仕え、徐々に策を弄して自分を軽んじる者を除いていった。また、閣臣の夏言、厳嵩の歓心をも得たため、それゆえ日に日に重用されるようになった。かつて兵馬指揮を殴打して殺し、御史に糾弾されたが、詔により問われなかった。夏言はもとより炳を匿っていたが、ある日、御史が炳の諸々の不法行為を弾劾すると、言はただちに旨を擬して逮捕処罰しようとした。炳は窮地に陥り、三千金を贈って和解を求めたが得られず、長跪して泣きながら謝罪し、ようやく許された。炳はこの時より言を骨髄に徹して憎むようになった。嵩が言と対立すると、炳は嵩を助け、言と辺境の将軍との間の私的な書簡を暴露し、言は死罪となった。嵩は炳に恩義を感じ、そのなすがままに任せ、彼を引き入れて計画を練り、賄賂を取り次いだ。後に仇鸞が寵愛を得て、嵩を凌駕する勢いとなったが、ただ炳だけは恐れた。炳は曲げて鸞に奉じ、対等の礼をとろうとはせず、ひそかに金銭を出して鸞の親愛する者と結び、鸞の陰私を入手した。鸞が病篤くなると、炳はその不軌の様子をことごとく暴露した。帝は大いに驚き、ただちに鸞の勅書と印を没収し、鸞は憂い恐れて死に、ついには棺を剖いて屍を戮するに至った。

炳はまず左都督に進み、ハジュル(哈舟兒)を擒えた功績により、太子太保を加えられた。鸞の密謀を暴露した功により、少保兼太子太傅を加えられ、毎年伯爵の禄を給された。三十三年、西苑に入って直することを命じられ、厳嵩、朱希忠らとともに玄修(道教の修行)に侍った。三十五年三月、進士恩栄宴を賜った。故事では、錦衣衛は西側に列する。帝は炳のため、特に上座に着くことを命じ、二品の末席に列した。翌年、上疏して司礼監の宦官李彬が工所の物料を侵食盗用し、墳墓を営み、山陵に僭擬したことを弾劾し、その党の杜泰ら三人を斬罪に論じ、その財産を没収した。銀四十万余両、金珠珍宝は数えきれなかった。まもなく炳に太保兼少傅を加え、錦衣衛を掌ることはもとどおりとした。三公が三孤を兼ねることはなく、ただ炳においてのみ見られた。

炳は豪悪な吏を爪牙として任用し、民間の些細な奸悪をことごとく知った。富人が小さな過ちを犯すとすぐに収捕し、その家財を没収した。蓄積した財産は数百万に上り、別宅を十余所営み、荘園は四方に遍く、その勢いは天下を傾けた。当時、厳嵩父子は六曹の事務をことごとく掌握していたが、炳は関与し取り次がないことはなかった。文武の大吏は争ってその門を奔走し、歳入は計り知れず、権要と結び、善類と交際しても、少しも吝嗇としなかった。帝はたびたび大獄を起こしたが、炳は多くを保全し、士大夫に礼を尽くし、一人も陥れ中傷したことはなく、それゆえ朝士で彼を称える者は多かった。三十九年、官のまま卒した。忠誠伯を追贈され、諡は武惠、祭礼と葬儀は加増され、その子の繹を本衛の指揮僉事に任じた。隆慶初年、御史の上言により、炳の罪を追及して論じ、官秩を削り、その財産を没収し、繹と弟の太常少卿煒の官職を奪い、数十万に上る贓罪に連座させ、繹らを拘束して追徴償還させた。久しくして財産は尽きた。万暦三年、繹が上章して免罪を乞うた。張居正らが言うには、炳には救駕の功があり、かつ律には謀反叛逆奸党でない者は没収する規定はない。ましてや没収と追徴は二つの罪を併せて科するもので、律の趣旨ではない、と。帝はこれを哀れみ、ついに免罪を得た。

邵元節

邵元節は、貴谿の人で、龍虎山上清宮の道士である。範文泰、李伯芳、黄太初に師事し、その術をことごとく極めた。寧王宸濠が召し出したが、辞して行かなかった。世宗が即位すると、宦官の崔文らの言葉に惑わされ、鬼神の事を好み、日に斎醮(道教の祭祀)を行った。諫官がたびたびこれを諫言したが、聞き入れられなかった。嘉靖三年、元節を召し出して京に入れ、便殿で引見し、大いに寵信を加え、顕霊宮に住まわせ、専ら祈祷祭祀を司らせた。雨雪の時期が狂った時、祈祷が効験があり、清微妙済守静修真凝玄衍範誌默秉誠致一真人に封じられ、朝天、顕霊、霊済の三宮を統轄し、道教を総領し、金、玉、銀、象牙の印各一つを賜った。

六年、還山を乞うと、詔して馳伝を許した。まもなく、朝廷に急ぎ参じた。南郊に祭祀があり、風雲雷雨壇の分献を命じられた。奉天殿の宴に預かり、二品の班に列した。その父に太常丞、母に安人を追贈し、あわせて文泰に真人を追贈し、元節に紫衣玉帯を賜った。給事中の高金がこれを論じると、帝は金を詔獄に下した。城西に真人府を建てることを勅し、その孫の啓南を太常丞に、曾孫の時雍を太常博士に任じた。毎年元節に禄百石を給し、校尉四十人を供して灑掃に当たらせ、荘田三十頃を賜い、その租を免除した。また、中使を遣わして貴谿に道院を建て、仙源宮と名を賜った。完成すると、仮を乞うて還山した。途中で上奏し、大学士李時の弟で員外郎の李文に侮辱されたと述べた。李時は上章して罪を引き、李文は獄に下され譴責を受けた。還朝する際、舟が潞河に至ると、中官を命じて迎え入れ、蟒服と「闡教輔国」の玉印を賜った。

先に、皇嗣がまだ生まれなかったため、たびたび元節に命じて醮を建てさせ、夏言を監礼使とし、文武大臣に日に二度香を上らせた。三年を経て、皇子が次々と生まれ、帝は大いに喜び、たびたび元節に恩を加え、礼部尚書を拝し、一品の服を賜った。孫の啓南、弟子の陳善道らはみな官秩を進められ、伯芳、太初に真人を追贈した。

帝が承天に行幸した時、元節は病で従えなかった。まもなくなく死去すると、帝は涙を流し、少師を追贈し、祭礼十壇を賜い、中官と錦衣衛に喪を護送して還らせ、有司に葬儀を営ませ、伯爵の礼を用いた。礼官が栄靖の諡を擬したが、帝の意にかなわず、再び文康を擬した。帝は両方を兼ね用い、文康栄靖とした。啓南の官は太常少卿に至った。善道もまた清微闡教崇真衛道高士に封じられた。隆慶初年、元節の称号と諡を削った。

陶仲文

陶仲文は、初めの名は典真といい、黄岡の人である。かつて羅田の万玉山に符水の訣を受け、邵元節と親しかった。

嘉靖年間、黄梅県の吏から遼東の庫大使となった。任期が満ちて、京師で次の官を待ち、元節の邸宅に寄寓した。元節は年老い、宮中に黒眚(妖怪)が現れ、治めても効がなく、そこで仲文を帝に推薦した。符水で剣に含み噴き、宮中の妖を絶った。莊敬太子が痘瘡を患うと、祈祷して治癒し、帝は深く寵愛し異遇を与えた。

十八年、帝が南巡した際、邵元節が病み、陶仲文が代わった。衛輝に滞在した時、旋風が御駕を巡った。帝が「これは何の兆しか」と問うと、仲文は「火災の兆しです」と答えた。その夜、行宮は果たして火災に遭い、宮人の死者は甚だ多かった。帝はますます彼を異とし、神霄保國宣教高士を授け、まもなく神霄保國弘烈宣教振法通真忠孝秉一真人に封じた。翌年八月、帝は太子に監国させ、自らは専ら静養しようとした。太僕卿楊最が諫疏を上したため、杖刑で死に至らしめられ、廷臣は震え上がった。大臣は争って諂媚して容れられようとし、神仙への祈祷祭祀は日に日に激しくなった。仲文の子陶世同を太常丞とし、娘婿の吳浚と従孫の陶良輔を太常博士とした。帝が病気になり、やがて癒えたので、仲文の祈祷の功を喜び、特に少保・禮部尚書を授けた。しばらくして、少傅を加え、なお少保を兼ねた。仲文は倉庫管理の役人から出て、二年と経たずに三孤(少師・少傅・少保)に登り、恩寵は邵元節を上回った。そこで郷里の県に雷壇を建てて聖寿を祈るよう請い、その徒の臧宗仁を左至霊とし、駅伝で急行させ、黄州同知郭顕文を監督させた。工事が少し遅れたため、顕文を典史に左遷し、工部郎の何成を代わりに派遣して、督促を非常に急がせたので、公私ともに騒然となった。御史楊爵と郎中劉魁がこのことに言及した。給事中周怡が時事を陳じた中に「日々祈祷祭祀に事とる」との言葉があった。帝は大いに怒り、ことごとく詔獄に下し、拷問して長く拘禁した。吏部尚書熊浹が乩仙を諫めたので、即座に官籍削除を命じた。これより、朝廷内外で争って符瑞を献じ、焚修や斎醮の事については、敢えて指摘する者はいなくなった。

帝は二十年に宮婢の変事に遭って以来、西内に移り住み、日夜長生を求め、郊廟の祭祀には親臨せず、朝講は全て廃し、君臣は互いに接することなく、ただ陶仲文だけが時折謁見することができた。謁見するたびに座を賜り、師と称して名を呼ばなかった。帝は臣下が必ず己を非議していると心で知り、詔旨を下すごとに多く憤り憎む言葉を用いたが、廷臣はその指すところを知らなかった。小人の顧可学・盛端明・朱隆禧の輩は、皆これに縁って進用された。その後、夏言以下が香葉冠をかぶったことが、他の積もったわだかまりと相まって死に至らしめた。一方、厳嵩は焚修を虔しく奉じたことで異例の寵遇を蒙ること二十年に及んだ。大同で諜者王三を捕らえた時、帝はその功を上玄(天)に帰し、仲文に少師を加え、なお少傅・少保を兼ねさせた。一人で三孤を兼ねたのは、明朝一代を通じて、仲文だけである。しばらくして、特進光禄大夫柱國を授け、さらに大学士の俸給を支給し、子の陶世恩を尚宝丞に蔭官させた。さらに聖誕(帝の誕生日)の恩典で、伯爵の俸給を与え、その徒の郭弘経・王永寧を高士とした。時に都御史胡纘宗が獄に下され、数十人が連座した。二十九年春、京師に災異が頻繁に現れたので、帝は仲文に諮問した。仲文は冤獄があるのではと答え、雨が降れば解消するだろうと言った。まもなく法司が纘宗らの供述書を上奏すると、帝は全て軽い刑罰に従い、果たして雨が降った。そこで冤獄を平らげた功績により、仲文を恭誠伯に封じ、歳禄千二百石とし、郭弘経・王永寧を真人に封じた。仇鸞が死後追って刑戮に処せられた時、詔を下して仲文の功を称え、禄を百石増やし、子の陶世昌を国子監生に蔭官させた。三十二年、仲文が言うには、「斉河県の道士張演が大清橋を建て、河を浚って龍骨一つを得、重さ千斤。また石砂の一脈が突如現れ、長さ数丈、神の加護がある類いのものである」。帝は即座に国庫の銀を出してこれを助成した。時に元嶽(武当山)を湖広太和山に建立し、完成すると、英国公張溶を派遣して安神の礼を行わせ、仲文は顧可学とともに斎醮を建てて福を祈った。翌年、聖誕の恩典で、子を錦衣衛百戸に蔭官させた。

帝はますます長生を求め、日夜祈祷祭祀を行い、文武大臣や詞臣を選んで西苑に入直させ、青詞を供奉させた。四方の奸人段朝用・龔可佩・藍道行・王金・胡大順・藍田玉の類いは、皆焼煉や符咒で天子を惑わしたが、まもなく皆失敗し、ただ陶仲文だけは恩寵が日に日に重く、長く衰えず、士大夫の中には彼に縁って進用される者もいた。また「二龍相見ず」の説を作り出し、皇太子の位が空位のまま二十年に及んだ。

三十五年、皇考(嘉靖帝の父)に三天金闕無上玉堂都仙法主玄元道德哲慧聖尊開真仁化大帝の道号を、皇妣(母)に三天金闕無上玉堂總仙法主玄元道德哲慧聖母天後掌仙妙化元君の号を上った。帝は自ら霊霄上清統雷元陽妙一飛玄真君と号し、後に九天弘教普済生霊掌陰陽功過大道思仁紫極仙翁一陽真人元虚玄応開化伏魔忠孝帝君の号を加え、さらに太上大羅天仙紫極長生聖智昭霊統元証応玉虚總掌五雷大真人玄都境万寿帝君と号した。翌年、仲文が病気になり、帰山を乞い、歴年に賜った蟒玉・金宝・法冠及び白金一万両を献上した。帰った後も、帝は彼を忘れず、錦衣衛の官を派遣して見舞わせ、役所に命じて時折礼を加えさせ、その子で尚宝少卿の陶世恩を太常丞兼道録司右演法に改め、真人府に供奉させた。

陶仲文は寵遇を得ること二十年、人臣の位の極みに至った。しかし小心で慎み深く、恣肆することはなかった。三十九年に卒去、享年八十余。帝は聞いて痛悼し、葬祭の礼は邵元節に準じ、特に栄康恵粛と諡した。陶世恩は後に太常卿に至った。隆慶元年、王金とともに偽りの薬物を調製した罪に坐し、獄に下されて死罪と論じられた。仲文の官秩と諡号も追って削られた。

段朝用

段朝用は合肥の人。焼煉の術で郭勛に取り入り、化した銀は皆仙物であり、飲食の器に用いれば不死となると言った。郭勛が彼を帝に推薦すると、帝は大いに喜んだ。陶仲文も彼を推薦し、万金を献じて雷壇の工費を助けた。帝はその忠を嘉し、紫府宣忠高士を授けた。朝用は毎年数万金を進めて国用を助けようと請うたので、帝はますます喜んだ。やがてその術が験せず、その徒の王子巖がその詐偽を暴露した。帝は子巖と朝用を捕らえ、鎮撫司に付して拷問させると、朝用が献じた銀は、もと郭勛の資金から出たものであった。事が敗露すると、帝は次第に郭勛を疎んじるようになった。翌年、郭勛もまた獄に下されると、朝用は郭勛を脅して賄賂を求め、その家人を殴打して死に至らしめ、さらに上疏して濫りに上奏した。帝は怒り、遂に死罪と論じた。

龔可佩

龔可佩は嘉定の人。昆山で出家して道士となり、道家の神名に通暁し、陶仲文によって推薦された。青詞を撰する諸大臣は、時に可佩に道家の故事を問い、皆彼を愛し、太常博士となった。帝は命じて西宮に入り、宮人に法事を習わせさせ、累進して太常少卿となった。宦官に憎まれ、酒を嗜むと誣告され、使者に偵察させたところ、可佩が員外郎邵畯の宅で酔っていると報告した。捕らえて詔獄に下し、邵畯をも逮捕し、ともに六十回の杖刑に処した。可佩は杖刑で死に、屍体は潞河に晒され、群犬に食われ、邵畯もまた官を奪われた。邵畯と可佩はもとより交わりがなく、その無実を訴える者はいなかった。

藍道行は扶鸞の術で寵遇を得、帝が何か問うと、必ず密封して宦官に壇に持って行かせて焼かせ、その答えは多く帝の意に沿わなかった。帝は宦官が穢れていると咎めたので、宦官は恐れ、道行と内通して、封を開いて見てから焼くようにし、答えが初めて帝の意にかなうようになった。帝は大いに喜び、「今、天下がなぜ治まらないのか」と問うた。道行はもとより厳嵩を憎んでいたので、乩仙を仮託して厳嵩の奸悪な罪を言わせた。帝が「果たしてそうなら、上仙はなぜ彼を誅しないのか」と問うと、答えは「皇帝が自ら誅するのを待っている」と言った。帝の心は動き、ちょうど御史鄒応龍が厳嵩を弾劾する上疏が上ると、帝は即座に厳嵩を免職して郷里に帰した。やがて、厳嵩が道行の所為を探り知り、帝の側近に厚く賄賂して、彼が寵を恃んで権を招き、諸々の不法を行ったことを発覚させた。詔獄に下され、斬罪に処せられ、獄中で死んだ。

胡大順

胡大順は、仲文と同じ県の者である。仲文に縁って進み、霊済宮に供事した。仲文が死ぬと、大順は奸欺の事が発覚し、斥けられて原籍に戻された。後に再び用いられることを覬覦し、偽って『万寿金書』一帙を撰し、詭称して呂祖の作とし、かつ呂祖が三元大丹を授け、病を退け不老となることを得ると言った。その子元玉を遣わし、妖人何廷玉に従って京に入り、左演法藍田玉・左正一羅萬象を介して内官趙楹に通じ、これを帝に献上した。

田玉

田玉は、鉄柱観の道士である。厳嵩が罷免されて帰郷し、南昌に至った時、聖誕に値し、田玉は帝のために醮を建てた。ちょうど御史姜儆が秘法を訪ねて至り、嵩は田玉の諸符籙を求め進献した。田玉もまた自ら召鶴の術を以て儆に託して附奏し、召されて演法となり、萬象とともに扶鸞の術を以て西内に供奉し、よって趙楹と交わりを結んだ。時に帝はちょうどこの三人を寵幸していたので、大順の書は三人を通じて進上された。帝は書を覧て問うた、「既に乩書と云うならば、扶乩する者は何故来ないのか」。田玉はそこで詐って聖諭としてこれを徴し、至ると屡々上書して求見した。帝は徐階に語って言った、「藍道行が獄に下されて以来、百の孽が宮を擾している。今大順が来たが、再び用いることが出来ようか」。対えて言う、「扶乩の術は、ただ中外が交通する時、間々験のある者があるが、そうでなければ茫然として知らない。今宮中の孽は久しく、道行によるものとは似ていない。かつこの輩を用いても、孽は必ずしも消えない。小人は無頼であるから、法を以て治めるべきである」。帝は悟り、報じて言った、「田玉は無状である。去る冬、廷玉に代わって水銀薬を進め、遂に密旨を詐伝し、大順を徴取した。治めなければ将来を戒めることが出来ない」。階が対える、「水銀は服食すべきでない。詔旨を詐伝する罪は特に重い。仮に問わずに置けば、群小互いに朋結し、恐らく大患を醸すであろう」。そこで大順・田玉・萬象らを錦衣獄に下すことを命じたが、その奸が趙楹によることを知らなかった。錦衣が獄詞を上奏すると、帝は寛大に処する意向があり、階に問うた。階は重く治めざるを得ないと力説し、そこで諸人を法司に下し、重く擬するよう命じた。趙楹が隙を窺い、密奏を具して、諸人のために申し立てた。帝は大いに怒り、司礼監に付して拷訊させ、その交通の状をことごとく得たので、遂に大順・田玉・萬象・廷玉・元玉とともに死罪に論じた。趙楹は獄死した。帝は逆囚は顕戮すべきであるとして、所司が法の如くでないことを怒り、刑部司官の俸給停止を詔した。嘉靖四十四年のことである。

世宗の朝、奏章に前朝・後朝の説があった。前朝に奏するものは、諸司の章奏である。他方の方士雑流が陳靖することがあれば、則ち後朝から入り、前朝の官は関与して聞かないので、摘発する者がいなかった。帝の晚年に漸くその妄りを悟ったことに頼り、政府が力強く執奏したので、諸奸は正法を得たという。

王金

王金は、鄠県の者である。国子生となり、人を殺して死に当たった。知県陰応麟は雅に黄白術を好み、金に秘方があると聞き、彼のために解き、末減を得させた。金はそこで京師に逃れ、通政使趙文華の所に匿れた。仙酒を以て文華に献じ、文華はこれを帝に献上した。文華が江南を視師するに及んで、金は落魄して遇う所がなかった。ある日、帝が秘殿で扶乩すると、芝を服すれば延年できると言い、使者を遣わして天下に芝を採らせた。四方から来献するものは、皆苑中に積まれた。中使が窃かに出して市人に売り、また進めて賞を邀えた。金は中使に厚く結びつき、芝一万本を得て、一つの山に聚め、万歳芝山と号し、また偽って五色亀を作り、礼部を通じて献じようとしたが、尚書呉山は進めなかった。山が罷免されると、金は自らこれを進めた。帝は大いに喜び、官を遣わして太廟に告げさせ、礼官袁煒に廷臣を率いて表賀させ、金を太医院御医に授けた。

先に、総督胡宗憲が白鹿を献じたことが再びあった。帝は喜び、玄極宝殿及び太廟に告謝し、宗憲の秩を進め、百官に表賀させた。已にして、宗憲は霊芝五本・白亀二匹を献じた。帝はますます喜び、金幣・鶴衣を賜い、廟に告げて表賀すること初めの如くであった。数日も経たないうちに亀が死んだので、帝は言った、「天が霊物を降したが、朕は固より塵寰に処すること久しからずと疑っていた」。淮王が白雁二羽を献じると、帝は言った、「天が祥羽を降した。廟に告げよ」。厳嵩の孫鵠が玉兎一匹・霊芝六十四本を献じ、藍道行が瑞亀を献じた。皆中官を遣わして太廟に献じ、廷臣に表賀させた。未だ幾ばくもせず、兎が二子を生んだので、礼官は玄に謝して廟に告げるよう請うた。その月、兎がまた二子を生んだので、帝は延生の祥とし、特に謝典を建てて廟に告げた。已にしてまた数子を生み、皆賀称した。その他の西苑の嘉禾、顕陵の甘露、廟に告げて賀称しないものはなかった。この時、陶仲文は既に死に、厳嵩もまた政を罷め、藍道行もまた詐偽を以て誅せられ、宮中に数えきれぬ妖孽が見え、帝は春秋高く、意邑邑として楽しまず、中官がよって詐り飾ってこれを楽しませた。四十三年五月、帝が夜に庭中に坐すと、桃一つを御幄の後に獲た。左右が空中より下ると言う。帝は大いに喜んで言った、「天の賜いである」。迎恩醮を五日間修した。明日また桃一つが降り、その夜白兎が二子を生んだ。帝はますます喜び、玄に謝して廟に告げた。未だ幾ばくもせず、寿鹿もまた二子を生み、廷臣が表賀した。帝は奇祥三たび錫り、天眷非常なるを以て、手詔を下して褒め答えた。

時に官を遣わして四方に方士を求め、至る者日増しに衆かった。豊城の人熊顕が仙書六十六冊を進め、方士趙添寿が秘法三十二種を進め、医士申世文もまた三種を進めた。帝はその多くが妄りであることを知り、殊錫はなかった。金は帝を動かす方法を考え、そこで世文及び陶世恩・陶仿・劉文彬・高守中とともに『諸品仙方』・『養老新書』・『七元天禽護国兵策』を偽造し、製した金石薬とともに進めた。その方は詭秘で弁別できず、性燥であり、服食に宜しくなかった。帝がこれを服用すると、少しずつ火発して癒えなかった。世恩は竟に太常卿に遷り、仿は太医院使に、文彬は太常博士となった。未だ幾ばくもせず、帝は大いに病篤くなり、遺詔して金らを帰罪し、悉く正典刑に処することを命じ、五人ともに死罪に論じて獄に繋がれた。隆慶四年十月、高拱が国を柄とし、徐階の政をことごとく反したので、乃ち金らの死を宥し、口外に編して民とした。

顧可学

顧可学は、無錫の人である。進士に挙げられ、浙江参議を歴官した。言官がその部在任時に官帑を盗んだと劾し、斥けられて帰郷し、家に居すること二十余年であった。世宗が長生を好むと世間に聞き、同年生の厳嵩がちょうど国を柄としていたので、乃ち嵩に厚く賄賂し、自ら童男女の溲を煉って秋石とし、これを服すれば延年できると言った。嵩が帝に言上し、使者を遣わして金幣を賫え、その家に就いて賜った。可学は闕に詣でて謝し、遂に右通政に命じられた。嘉靖二十四年、超えて工部尚書に拝し、尋いで礼部に改め、さらに太子太保に加えられた。時に盛端明もまた方術を以て帝の眷を受けたが、可学は独り揚揚として自ら喜び、公事に請属し、人皆畏れてこれを悪んだ。帝が乩仙の言に惑い、手詔して礼部に問うた、「古は芝を薬に入れたが、今は何れの所に産するか」。尚書呉山は博く『本草』・『黄帝内経』・『漢旧儀』・王充『論衡』・『瑞命記』を引き、「歴代皆芝を瑞とす。然れども服食の法は伝わらず、産地もまた敢えて予め擬することはできない」と言った。そこで有司に命じて五嶽及び太和・龍虎・三茅・斉雲・鶴鳴の諸山にこれを採らせた。間もなく、宛平の民が芝五本を献じた。帝は悦び、銀幣を賜った。ここより、来献する者踵を接した。時にまた銀鉱・龍涎香を採り、中使が四方に出で、論者皆可学を咎めた。可学は尋いで年老いを以て休を乞うた。卒すと、祭葬を賜い、諡して栄僖とした。

盛端明

端明は饒平の人である。進士に挙げられ、官を歴て右副都御史となり、南京の糧儲を督し、弾劾されて罷免され、家に居ること十年。自ら薬石に通暁し、これを服用すれば長生を得ると言い、陶仲文を以て進み、厳嵩もまたこれを左右し、遂に召されて礼部右侍郎となった。尋いで工部尚書を拝し、礼部に改め、太子少保を加えられ、皆可学と並んで命ぜられた。二人はただ俸禄を食むのみで事を治めず、供奉して薬物を進めるだけであった。端明は頗る才名を負い、晩年は他途より進み、士論これを恥じた。端明は内に自ら安からず、引退し、家に卒した。祭葬を賜い、諡して栄簡という。隆慶初め、二人共に官を褫奪され諡を奪われた。

朱隆禧

朱隆禧は昆山の人である。進士より順天府丞を歴任し、大計に坐して罷免された。二十七年、陶仲文が太和山に赴くに当たり、隆禧はこれを家に招き、伝えられた長生の秘術及び製した香衲を以て代わりに進めることを請うた。仲文が朝に還り、これを奏上した。帝は悦び、即ちその家に白金・飛魚服を賜った。隆禧が朝に入り謝恩すると、帝は大計により罷免された閑官は例として再び起用せず、太常卿を加えて致仕させた。二年居て、礼部右侍郎を加えられた。時に辺境の警報あり、仲文が隙に乗じて隆禧が兵を知ることを推薦した。帝曰く、「祖宗の法は廃すべからず。」終に用いなかった。既に卒すると、その妻が恤典を請うたが、所司は執って与えず、帝は特に諭してこれを与えた。隆慶初め、官を褫奪された。

帝は晩年方術を求めること益々急で、仲文・可学の輩は皆先に死んだ。四十一年冬、御史姜儆・王大任に命じて天下を分行させ、方士及び符籙秘書を訪求させた。儆は江南・山東・浙江・江西・福建・広東・広西を、大任は畿輔・河南・湖広・四川・山西・陝西・雲南・貴州を巡った。四十三年十月に還朝し、得た法秘数千冊、方士唐秩・劉文彬等数人を上った。儆・大任は侍講学士に抜擢され、秩等は京師に邸宅を賜った。儆は自ら安からず、尋いで引退した。大任は翰林に入ったが、同官に歯されなかった。隆慶元年正月、言官が二人の進めた劉文彬等が既に刑章に正されたことを弾劾し、併せて罪すべきとし、遂に職を奪われた。