明史

列傳第一百九十五 佞倖 紀綱 門達 李孜省 繼曉 江彬 錢寧 陸炳 邵元節 陶仲文 顧可學

列傳第一百九十五 佞倖 紀綱 門達 李孜省 繼曉 江彬 錢寧 陸炳 邵元節 陶仲文 顧可學

原文列傳第一百九十五 佞倖 紀綱 門達 李孜省 繼曉 江彬 錢寧 陸炳 邵元節 陶仲文 顧可學

◎佞幸

原文◎佞幸

漢の史書に載る佞幸、例えば藉孺、閎孺、鄧通、韓嫣、李延年、董賢、張放の類は、皆宦官や弄臣として千古の譏りを遺しているが、武夫、健児、貪人、酷吏、方技、雑流が親しく昵近し、寵愛を蒙って衰えなかったということは聞かない。明が興り、錦衣衛を創設し、親軍を管轄し、肘腋に居を匿わせた。成祖が即位し、人が己に附かぬを知り、威をもって天下を詟かせんと欲し、特に紀綱を錦衣衛に任用し、耳目を寄せた。綱は廷臣の陰事を刺探し、以て上意に迎合し、帝は忠と為し、残殺された者は数え切れなかった。英宗の時、門達、逯杲の徒、並びに親信せられる。その後に至り、廠衛遂に相表裏し、清流の禍酷なり。憲宗の世、李孜省、僧継曉は祈祷を以て寵任を受け、万安、尹直、彭華等は遂に之に因りて高位を得た。武宗は日々遊楽に事とし、国事を恤れず、一時宵人並びに起こり、銭寧は錦衣衛を以て幸せられ、臧賢は伶人を以て幸せられ、江彬、許泰は辺将を以て幸せられ、馬昂は女弟を以て幸せられた。禍は中外に流れ、宗社幾くんか墟と為らんとす。世宗が大統を継ぎ、前軌を矯うべきに、陸炳を従龍に任じ、郭勲を議礼に寵し、而して一時の方士、陶仲文、邵元節、藍道行の輩の如き、紛然として並びに進み、玉杯牛帛、詐妄滋く興る。凡そ此の諸人、口に天憲を銜み、威福手に在り、天下の士大夫靡然として風に従う。成祖、世宗の英武聡察を以てすら、而して嬖幸乱を醸し、幾くんか昏庸失道の主と其の蒙蔽を同じくせんとす。彼は第に己に親しむを以て信ずべきと為し、而して孰れか其の害の此に至るを知らんや。顧可学、盛端明、朱隆禧の属に至りては、皆甲科より起家し、通顕の位に致り、乃ち秘術を以て栄を干し、世の戮笑と為る。此も亦佞幸の尤なる者、之を篇末に附し、以て戒めを示すという。

原文漢史所載佞幸,如藉孺、閎孺、鄧通、韓嫣、李延年、董賢、張放之屬,皆以宦寺弄臣貽譏千古,未聞以武夫、健兒、貪人、酷吏、方技、雜流任親匿承寵渥於不衰者也。明興,創設錦衣衛,典新軍,匿居肘腋。成祖即位,知人不附己,欲以威詟天下,特任紀綱為錦衣,寄耳目。綱刺廷臣陰事,以希上指,帝以為忠,被殘殺者不可勝數。英宗時,門達、逮杲之徒,並見親信。至其後,廠衛遂相表裏,清流之禍酷焉。憲宗之世,李孜省、僧繼曉以祈禱被寵任,萬安、尹直、彭華等至因之以得高位。武宗日事般遊,不恤國事,一時宵人並起,錢寧以錦衣幸,臧賢以伶人幸,江彬、許泰以邊將幸,馬昂以女弟幸。禍流中外,宗社幾墟。世宗入繼大統,宜矯前軌,乃任陸炳於從龍,寵郭勛於議禮,而一時方士如陶仲文、邵元節、藍道行之輩,紛然並進,玉杯牛帛,詐妄滋興。凡此諸人,口銜天憲,威福在手,天下士大夫靡然從風。雖以成祖、世宗之英武聰察,而嬖幸釀亂,幾與昏庸失道之主同其蒙蔽。彼第以親己為可信,而孰知其害之至於此也。至顧可學、盛端明、朱隆禧之屬,皆起家甲科,致位通顯,乃以秘術幹榮,為世戮笑。此亦佞幸之尤者,附之篇末,用以示戒雲。

○紀綱門達(逯杲)李孜省継曉江彬(許泰)銭寧陸炳邵元節陶仲文顧可学(盛端明等)

原文○紀綱門達(逮杲)李孜省繼曉江彬(許泰)錢寧陸炳邵元節陶仲文顧可學(盛端明等)

紀綱

原文紀綱

紀綱は、臨邑の人、諸生たり。燕王兵を起こし其の県を過ぐるや、綱は馬に叩きて自ら効せんことを請う。王之と語り、之を説ぶ。綱は騎射に善く、便辟詭黠にして、人の意向を鉤るに善し。王大いに愛幸し、忠義衛千戸を授く。既に帝位に即くや、錦衣衛指揮使に擢で、親軍を典せしめ、詔獄を司らしむ。

原文紀綱,臨邑人,為諸生。燕王起兵過其縣,綱叩馬請自效。王與語,說之。綱善騎射,便辟詭黠,善鉤人意向。王大愛幸,授忠義衛千戶。既即帝位,擢錦衣衛指揮使,令典親軍,司詔獄。

都御史陳瑛は建文朝の忠臣数十族を滅ぼし、親属戮せられたる者数万人。綱は帝の旨を覘い、広く校尉を布き、日々臣民の陰事を摘ます。帝悉く綱に下して治めしめ、深文誣詆す。帝は忠と為し、之を親しむこと肺腑の若し。都指揮僉事に擢で、仍って錦衣衛を掌る。綱は指揮庄敬、袁江、千戸王謙、李春等を用いて羽翼と為し、浙江按察使周新を誣いて逮え、之を死に致す。帝の怒る所の内侍及び武臣を綱に下して死を論ぜしむるや、輙ち将ちて家に至らしめ、洗沐して好く飲食し、陽に言い、上に見ゆれば必ず赦さんことを請う若し罪を、誘いて金帛を取ること且つ尽くし、忽ち市に刑す。

原文都御史陳瑛滅建文朝忠臣數十族,親屬被戮者數萬人。綱覘帝旨,廣布校尉,日摘臣民陰事。帝悉下綱治,深文誣詆。帝以為忠,親之若肺腑。擢都指揮僉事,仍掌錦衣。綱用指揮莊敬、袁江,千戶王謙、李春等為羽翼,誣逮浙江按察使周新,致之死。帝所怒內侍及武臣下綱論死,輒將至家,洗沐好飲食之,陽為言,見上必請赦若罪,誘取金帛且盡,忽刑於市。

数たび家人をして偽りて詔と為らしめ、諸方の塩場に下し、塩四百余万を勒む。還り復た詔と称し、官船二十、牛車四百輛を奪い、私第に載ち入り、直を与えず。大賈数十百家を構陥し、其の資を罄くして乃ち已む。交址使の珍奇を詐取す。吏民の田宅を奪う。故晋王、呉王を籍没し、金宝を乾没すること算無し。王冠服を得て之を服し、高く坐して酒を置き、優童を命じて楽を奏し觴を奉げしめ、万歳を呼ばしめ、器物乗輿に僭す。一女道士を買いて妾と為さんと欲し、都督薛禄先ず之を得たり、禄に大内に遇い、其の首を撾ち、脳裂けて幾くんか死す。都指揮啞失帖木の道を避けざるを恚り、冒賞の事を以て誣い、捶ちて之を殺す。良家の子数百人を腐し、左右に充つ。詔して妃嬪を選び、試みて可とし、暫く出でて年を待たしむるを令す。綱は其の尤なる者を私かに納る。呉中の故大豪沈万三は、洪武の時籍没せられ、漏れたる資尚ほ富めり。其の子文度蒲伏して綱に見え、黄金及び龍角、龍文被、奇宝異錦を進め、願わくは門下と為り、歳時供奉せんとす。綱乃ち文度をして呉中の好女を求索せしむ。文度は因りて綱の勢を挟み、什五にして中分す。

原文數使家人偽為詔,下諸方鹽場,勒鹽四百餘萬。還復稱詔,奪官船二十、牛車四百輛,載入私第,弗予直。構陷大賈數十百家,罄其資乃已。詐取交址使珍奇。奪吏民田宅。籍故晉王、吳王,乾沒金寶無算。得王冠服服之,高坐置酒,命優童奏樂奉觴,呼萬歲,器物僭乘輿。欲買一女道士為妾,都督薛祿先得之,遇祿大內,撾其首,腦裂幾死。恚都指揮啞失帖木不避道,誣以冒賞事,捶殺之。腐良家子數百人,充左右。詔選妃嬪,試可,令暫出待年,綱私納其尤者。吳中故大豪沈萬三,洪武時籍沒,所漏貲尚富。其子文度蒲伏見綱,進黃金及龍角、龍文被、奇寶異錦,願得為門下,歲時供奉。綱乃令文度求索吳中好女。文度因挾綱勢,什五而中分之。

綱は又多く亡命を蓄え、刀甲弓弩を造ること万計。端午、帝柳を射る。綱は鎮撫龐瑛に属して曰く、「我故に射て中たらず、若し柳を折り鼓噪せば、以て衆の意を覗わん」と。瑛其の言の如くす。敢えて糾す者無し。綱喜びて曰く、「是れ我を難ずる能わざるなり」と。遂に不軌を謀る。十四年七月、内侍綱を仇とする者其の罪を発す。給事、御史を命じて廷劾せしめ、都察院に下して按治せしむ。状有り。即日綱を市に磔く。家属少長無く皆辺に戍す。罪状を列ねて天下に頒示す。其の党敬、江、謙、春、瑛等、誅譴差有り。

原文綱又多蓄亡命,造刀甲弓弩萬計。端午,帝射柳,綱屬鎮撫龐瑛曰:「我故射不中,若折柳鼓噪,以覘眾意。」瑛如其言,無敢糾者。綱喜曰:「是無能難我矣。」遂謀不軌。十四年七月,內侍仇綱者發其罪,命給事、御史廷劾,下都察院按治,具有狀。即日磔綱於市,家屬無少長皆戍邊,列罪狀頒示天下。其黨敬、江、謙、春、瑛等,誅譴有差。

門達

原文門達

門達は、豊潤の人。父の職を襲い錦衣衛百戸と為る。性機警沈鷙。正統末、千戸に進み、鎮撫司の刑を理す。久しくして指揮僉事に遷り、累に坐して職を解かる。景泰七年故官に復し、衛事を佐理し鎮撫を兼ねて刑を理す。天順改元、「奪門」の功に与り、指揮同知に進む。旋って指揮使に進み、専ら理刑を任ず。千戸謝通という者は、浙江の人なり、達を佐けて司事を理し、法を用いること仁恕、達倚信す。重獄多く平反し、罪有る者は禁獄を下さるるを以て幸いと為し、朝士翕然として達の賢を称す。然れども是の時英宗は廷臣の党比を慮り、外事を知らんと欲し、錦衣官校を倚りて耳目と為す。由って逯杲大いに幸せられ、達反って之を用いらる。

原文門達,豐潤人。襲父職為錦衣衛百戶。性機警沈鷙。正統末,進千戶,理鎮撫司刑。久之,遷指揮僉事,坐累解職。景泰七年復故官,佐理衛事兼鎮撫理刑。天順改元,與「奪門」功,進指揮同知。旋進指揮使,專任理刑。千戶謝通者,浙江人也,佐達理司事,用法仁恕,達倚信之。重獄多平反,有罪者以下禁獄為幸,朝士翕然稱達賢。然是時英宗慮廷臣黨比,欲知外事,倚錦衣官校為耳目,由是逯杲得大幸,達反為之用。

逯杲

原文逯杲

逯杲は、安平の人なり。錦衣衛校尉を以て達及び指揮劉敬の腹心と為り、「奪門」に従う。帝大いに奸党を治む。杲は錦衣百戸楊瑛を縛り、張永の親属と指し、又千戸劉勤を朝に執り、其の上を訕るを奏す。兩人並びに誅に坐す。楊善の薦を用い、本衛百戸を授く。妖賊を捕うる功を以て、副千戸に進む。又曹吉祥の薦を用い、指揮僉事に擢でらる。帝は杲の強鷙を以て、之を委任す。杲乃ち群臣の細故を摭いて以て帝の旨に称す。英国公張懋、太平侯張瑾、外戚会昌侯孫継宗兄弟並びに官田を侵す。杲劾奏し、其の田を官に還す。懋等皆服罪し、乃ち已む。石亨寵を恃みて法に不法す。帝漸く之を悪む。杲即ち其の陰事を伺う。亨の従子彪罪有りて獄に下る。杲を命じて大同に赴き其の党都指揮朱諒等七十六人を械せしむ。杲因りて彪の弟慶の他の罪を発し、連及する者皆坐す。杲指揮同知に進む。明年復た亨の怨望を奏し、不軌を懐く。亨獄に下りて死す。詔有りて「奪門」の功を尽く革せんとす。達、杲言う、臣等俱に特恩に由り、亨の故に非ずと。帝優詔を以て留任せしめ、杲の亨の奸を発するを以て、益々倚重を加う。

原文逯杲者,安平人也,以錦衣衛校尉為達及指揮劉敬腹心,從「奪門」。帝大治奸黨,杲縛錦衣百戶楊瑛,指為張永親屬,又執千戶劉勤於朝,奏其訕上,兩人並坐誅。用楊善薦,授本衛百戶。以捕妖賊功,進副千戶。又用曹吉祥薦,擢指揮僉事。帝以杲強鷙,委任之,杲乃摭群臣細故以稱帝旨。英國公張懋、太平侯張瑾、外戚會昌侯孫繼宗兄弟並侵官田,杲劾奏,還其田於官。懋等皆服罪,乃已。石亨恃寵不法,帝漸惡之,杲即伺其陰事。亨從子彪有罪下獄,命杲赴大同械其黨都指揮朱諒等七十六人。杲因發彪弟慶他罪,連及者皆坐,杲進指揮同知。明年復奏亨怨望,懷不軌,亨下獄死。有詔盡革「奪門」功,達、杲言臣等俱特恩,非以亨故。帝優詔留任,以杲發亨奸,益加倚重。

杲はますます伸び伸びと振る舞い、その勢いは達の上に出た。白は校尉を四方に派遣して偵察させ、文武の大官や富家高門は多く伎楽や賄賂を進めて免れようとし、親藩や郡王もまた同様であった。賄賂のない者はすぐに達のもとに捕らえ送られ、罪状を捏造して獄に落とされた。天下の朝覲官の大半が譴責を受け、一人を逮捕すれば、数多くの大家がたちまち破れた。四方の奸民は校尉を詐称し、駅伝を乗り回して縦横に振る舞い、憚るところがなかった。鼓城伯張瑾は妻の葬儀を理由に病気と称して朝参せず、諸公侯と私邸で酒宴を開いた。杲が弾劾上奏し、重罪に陥りかけた。杲が派遣した校尉が寧府弋陽王奠壏母子の姦通を誣告した。帝は官を派遣して調査させたが、事はすでに明白となり、靖王奠培らもまた証拠がないと述べた。帝は怒って杲を責めたが、杲は当初の主張を固執した。帝はついに奠壏母子に死を賜った。ちょうど屍を担ぎ出そうとした時、大雷雨があり、平地に数尺の水が溜まり、人々は皆冤罪と思った。指揮使李斌はかつて弘農衛千戸陳安を陥れて殺害し、安の家族が訴えたため、巡按御史邢宥に下して再審させたが、石亨が宥に李斌の罪を軽くするよう依頼した。この時、校尉が言うには、「李斌は平素より妖書を隠し持ち、その弟の健が大位につくべきだとし、密かに外蕃と結んで石亨の仇を討とうとしている」と。杲はこれを上聞し、錦衣衛の獄に下し、達は李斌を謀反の罪に問うた。帝は二度にわたり廷臣に会審を命じたが、杲を恐れて平反を敢えてしなかった。李斌兄弟は極刑に処せられ、連座して死罪となった者は二十八人に及んだ。

原文杲益發舒,勢出達上。白遣校尉偵事四方,文武大吏、富家高門多進伎樂貨賄以祈免,親藩郡王亦然。無賄者輒執送達,鍛煉成獄。天下朝覲官大半被譴,逮一人,數大家立破。四方奸民詐稱校尉,乘傳縱橫,無所忌。鼓城伯張瑾以葬妻稱疾不朝,而與諸公侯飲私第。杲劾奏,幾得重罪。杲所遣校尉誣寧府弋陽王奠壏母子亂,帝遣官往勘,事已白,靖王奠培等亦言無左驗。帝怒責杲,杲執如初,帝竟賜奠壏母子死。方舁屍出,大雷雨,平地水數尺,人鹹以為冤。指揮使李斌嘗構殺弘農衛千戶陳安,為安家所訴,下巡按御史邢宥覆讞,石亨囑宥薄斌罪。至是,校尉言:「斌素藏妖書,謂其弟健當有大位,欲陰結外番為石亨報仇。」杲以聞,下錦衣獄,達坐斌謀反。帝兩命廷臣會訊,畏杲不敢平反。斌兄弟置極刑,坐死者二十八人。

杲はもともと石亨・曹吉祥によって推挙されたが、亨を告発して死に至らしめ、さらに吉祥とその甥の欽の陰事を上奏したため、吉祥・欽は大いに恨んだ。五年七月、欽が反乱を起こし、杲の邸宅に侵入してこれを斬り、その首を取って去った。事態が鎮まると、杲に指揮使を追贈し、その子に指揮僉事の俸給を与えた。

原文杲本由石亨、曹吉祥進,訐亨致死,復奏吉祥及其從子欽陰事,吉祥、欽大恨。五年七月,欽反,入杲第斬之,取其首以去。事平,贈杲指揮使,給其子指揮僉事俸。

当時、達はすでに衛の事務を掌っていたが、依然として刑務を兼ねて処理していた。杲が殺害されると、達は守衛の功績により、都指揮僉事に進んだ。初め、杲は達の左右に仕えていたが、志を得てからは甚だしく恣に振る舞った。達は怒り、力を尽くしてこれを追い出した。杲はまもなく復官し、達を陥れようとしたため、達は恐れおののいて勝手に振る舞えなかった。杲が死ぬと、達の勢力はたちまち拡大した。杲の行ったことに倣おうとし、ますます旗校を四方に配置した。告発する者は日増しに盛んとなり、朝廷内外は重ね足して立つほど恐れ、帝はますます彼を有能と認めた。

原文時達已掌衛事,仍兼理刑。杲被殺,達以守衛功,進都指揮僉事。初,杲給事達左右,及得誌恣甚。達怒,力逐之。杲旋復官,欲傾達,達惴惴不敢縱。杲死,達勢遂張。欲踵杲所為,益布旗校於四方。告訐者日盛,中外重足立,帝益以為能。

外戚の都指揮孫紹宗および軍士六十七人が曹欽討伐の功績を詐称した。達がこの事を発覚させた。紹宗は責められ譴責を受け、その他は皆獄に下された。戸部山西司の庫金を盗んだ者がおり、巡城御史徐茂が郎中趙昌・主事王珪・徐源の監督不行き届きを弾劾した。達がこの事件を処理し、皆獄に下して官を貶した。達は囚人が多く、獄舎が少なく収容できないため、城西の武邑庫の空地に増築するよう請うた。許可された。御史樊英・主事鄭瑛が贓罪を犯した。給事中趙忠らが事実通りに報告しなかった。達が彼らの私曲を弾劾し、これもまた獄に下して官を貶した。給事中程萬里ら五人が登聞鼓を担当していたが、ある軍士の妻の冤罪について、斎戒中であったため上奏しなかった。達が諸人の蒙蔽を弾劾し、詔によって達に審理させた。その後、南京戸部侍郎馬諒、左都御史石璞、前府を掌る忻城伯趙榮、都督同知範雄・張斌が老いて目がくらんでいることを弾劾し、皆罷免させた。裕州の民が知州秦永昌が黄衣を着て兵を閲兵したと上奏した。帝は怒り、達に官を派遣して調査させ、その財産を没収し、永昌を処刑し、天下に高札で示させた。併せて布政使侯臣・按察使呉中以下および先後の巡按御史呉琬ら四人を逮捕して獄に下し、侯臣らは俸給を停止され、呉琬らは県丞に左遷された。御史李蕃が宣府を巡察したが、ある者が李蕃が軍職者を勝手に鞭打ちし、軍容で迎送したと告発した。御史楊琎が遼東を、韓琪が山西を巡察したが、校尉が彼らが妄りに威福を振るったと報告した。皆達に下して審理させ、李蕃・韓琪はともに枷を付けられて死んだ。陝西督儲参政婁良、湖広参議李孟芳、陝西按察使銭博、福建僉事包瑛、陝西僉事李観、四川巡按田斌、雲南巡按張祚、清軍御史程萬鐘および刑部郎中馮維・孫瓊、員外郎貝鈿、給事中黄甄は、皆校尉に発覚されて獄に下された。包瑛は官職に汚点がなく、憤りに耐えかねて自縊死した。その他は多く辺境への流罪に処された。湖広の諸生馬雲が罪により除名され、錦衣鎮撫を詐称し、命を受けて親を葬るとして、布政使孫毓ら八人から皆葬儀の贈り物を受けた。事が発覚し、法司が逮捕審問を請うたが、結局馬雲を罪に問わなかった。達は初め督責の術を行おうとしたが、同僚の呂貴が言うには、「武臣は容易に犯しがたく、曹欽の例が鑑とすべきである。ただ文吏のみが容易に裁断できるのだ」と。達はこれを然りとし、故に文吏の災いは特に酷かった。

原文外戚都指揮孫紹宗及軍士六十七人冒討曹欽功,達發其事。紹宗被責讓,余悉下獄。盜竊戶部山西司庫金,巡城御史徐茂劾郎中趙昌、主事王珪、徐源疏縱。達治其事,皆下獄謫官。達以囚多,獄舍少,不能容,請城西武邑庫隙地增置之,報可。御史樊英、主事鄭瑛犯贓罪。給事中趙忠等報不以實。達劾其徇私,亦下獄謫官。給事中程萬里等五人直登聞鼓,有軍士妻冤,會齋戒不為奏。達劾諸人蒙蔽,詔下達治。已,劾南京戶部侍郎馬諒,左都御史石璞,掌前府忻城伯趙榮,都督同知範雄、張斌老瞆,皆罷去。裕州民奏知州秦永昌衣黃衣閱兵。帝怒,命達遣官核,籍其貲,戮永昌,榜示天下。並逮布政使侯臣、按察使吳中以下及先後巡按御史吳琬等四人下獄,臣等停俸,琬等謫縣丞。御史李蕃按宣府,或告蕃擅撻軍職,用軍容迎送。御史楊琎按遼東,韓琪按山西,校尉言其妄作威福。皆下達治,蕃、琪並荷校死。陜西督儲參政婁良,湖廣參議李孟芳,陜西按察使錢博,福建僉事包瑛,陜西僉事李觀,四川巡按田斌,雲南巡按張祚,清軍御史程萬鐘及刑部郎中馮維、孫瓊,員外郎貝鈿,給事中黃甄,皆為校尉所發下獄。瑛守官無玷,不勝憤,自縊死,其他多遣戍。湖廣諸生馬雲罪黜,詐稱錦衣鎮撫,奉命葬親,布政使孫毓等八人鹹賻祭。事覺,法司請逮問,卒不罪雲。達初欲行督責之術,其同列呂貴曰:「武臣不易犯,曹欽可鑒也。獨文吏易裁耳。」達以為然,故文吏禍尤酷。

都指揮袁彬は帝の旧恩を恃み、達の下に立とうとしなかった。達は深くこれを恨み、彬の妾の父である千戸王欽が人から財物を騙し取ったことを探知し、彬を獄に下すよう上奏して請うた。贖罪により徒刑を論じられ、職に復した。趙安という者がおり、初めは錦衣の力士として彬に使えていたが、後に鉄嶺衛に流罪となり、赦されて帰還し、府軍前衛に改められた。罪を犯し、詔獄に下された。達は趙安が府軍に改補されたのは彬の請託によるものと断じ、再び彬を捕らえ、拷打して、彬が石亨・曹欽から賄賂を受け取り、官用の木材で私邸を建て、内官の督工者から磚瓦を強要し、人の子女を奪って妾にしたなどの罪名を誣告した。軍匠の楊塤は不公平に思い、登聞鼓を打って彬の冤罪を訴え、その言葉は達を侵害した。詔によって併せて達に審理させた。この時、達は大学士李賢が寵愛されているのを害し、またしばしば己を諫めたため、かつて帝に讒言して、賢が陸瑜から金を受け取り、尚書の官職で報いたと述べた。帝はこれを疑い、半年間詔を下さなかった。この時、楊塤を拷打し、賢を引き合いに出すよう教えた。塤はすぐに虚偽を述べて、「これは李学士が私を導いたのです」と言った。達は大いに喜び、直ちに上奏して報告し、法司に塤を午門外で会審するよう請うた。帝は中官裴當を派遣して監視させた。達は賢を捕らえて併せて審問しようとしたが、當が「大臣は辱めを受けるべきではない」と言ったため、やめた。審問に及んで、塤は言った、「私は小人です。どうして李学士にお目にかかることができましょう。これは錦衣衛の者が私に教えたのです」と。達は顔色を失って言葉が出ず、彬もまた歴々と達が賄賂を受け取った様子を数え上げた。法司は達を恐れて聞き入れず、彬を絞首刑に処し贖罪を認め、塤を斬首刑に処した。帝は命じて彬が贖罪を終えたら南京錦衣に転任させ、塤を禁錮した。

原文都指揮袁彬恃帝舊恩,不為達下。達深銜之,廉知彬妾父千戶王欽誆人財,奏請下彬獄,論贖徒還職。有趙安者,初為錦衣力士役於彬,後謫戍鐵嶺衛,赦還,改府軍前衛,有罪,下詔獄。達坐安改補府軍由彬請托故,乃復捕彬,搒掠,誣彬受石亨、曹欽賄,用官木為私第,索內官督工者磚瓦,奪人子女為妾諸罪名。軍匠楊塤不平,擊登聞鼓為彬訟冤,語侵達,詔並下達治。當是時,達害大學士李賢寵,又數規己,嘗譖於帝,言賢受陸瑜金,酬以尚書。帝疑之,不下詔者半載。至是,拷掠塤,教以引賢,塤即謬曰:「此李學士導我也。」達大喜,立奏聞,請法司會鞫塤午門外。帝遣中官裴當監視。達欲執賢並訊,當曰:「大臣不可辱。」乃止。及訊,塤曰:「吾小人,何由見李學士,此門錦衣教我。」達色沮不能言,彬亦歷數達納賄狀,法司畏達不敢聞,坐彬絞輸贖,塤斬。帝命彬贖畢調南京錦衣,而禁錮塤。

翌年、帝の病が重篤になると、達は東宮局丞王綸が必ず権力を握ると知り、あらかじめ結び付こうとした。まもなく、憲宗が帝位を継ぐと、王綸は失脚し、達は連座して貴州都勻衛に転任させられ、帯俸で差操に従事することとなった。出発したばかりの時、言官が相次いで上奏してその罪を論じた。逮捕して審理するよう命じられ、斬罪に論じられて獄に繋がれ、その巨万の財産を没収された。指揮張山は同謀殺人を犯し、同様の罪に問われた。子の序班升、甥の千戸清、婿の指揮楊観およびその党与の都指揮牛循ら九人は、流罪・降格・転任などそれぞれ処分が異なった。後に審録が行われる時、命じて達を赦し、広西南丹衛に発遣して軍に充て、そこで死んだ。

原文明年,帝疾篤,達知東宮局丞王綸必柄用,預為結納。無何,憲宗嗣位,綸敗,達坐調貴州都勻衛帶俸差操。甫行,言官交章論其罪。命逮治,論斬繫獄,沒其貲巨萬,指揮張山同謀殺人,罪如之。子序班升、從子千戶清、婿指揮楊觀及其黨都指揮牛循等九人,謫戍、降調有差。後當審錄,命貸達,發廣西南丹衛充軍,死。

李孜省

原文李孜省

李孜省は南昌の人である。布政司の吏として京職を待選していたが、贓罪が発覚し、隠れて帰らなかった。当時、憲宗は方術を好み、孜省は五雷法を学び、中官梁芳・銭義と深く結び付き、符籙を献上した。成化十五年、特旨をもって太常丞を授けられた。御史楊守随・給事中李俊らが孜省は贓吏であり祭祀を司るにふさわしくないと弾劾したため、上林苑監丞に改められた。日に日に寵愛を受け、金冠・法剣および印章二顆を賜り、密封して奏請することを許された。ますます淫邪な方術を献上し、梁芳らと表裏をなして奸を働き、次第に政事に干渉するようになった。十七年、右通政に抜擢され、本司に寄俸し、依然として監事を掌った。同官の王昶が彼を軽んじ、礼を加えなかった。孜省は王昶を讒言し、太僕少卿に左遷させた。故事によれば、寄俸官は郊壇の分献に預かることはできないが、帝は特に孜省に命じた。廷臣は王昶の件を戒めとし、敢えて執奏する者はいなかった。

原文李孜省,南昌人。以布政司吏待選京職,贓事發,匿不歸。時憲宗好方術,孜省乃學五雷法,厚結中官梁芳、錢義,以符箓進。成化十五年,特旨授太常丞。御史楊守隨、給事中李俊等劾孜省贓吏,不宜典祭祀,乃改上林苑監丞。日寵幸,賜金冠、法劍及印章二,許密封奏請。益獻淫邪方術,與芳等表裏為奸,漸干預政事。十七年,擢右通政,寄俸本司,仍掌監事。同官王昶輕之,不加禮。孜省譖昶,左遷太僕少卿。故事,寄俸官不得預郊壇分獻,帝特以命孜省。廷臣懲昶事,無敢執奏者。

初め、帝が即位して僅か一月余りで、早くも宦官に命じて旨を伝えさせ、工人を文思院副使に任用した。その後も相次いで絶えることなく、一度に伝旨された姓名は百十人に及び、当時これを伝奉官と呼び、文武官・僧侶・道士で恩沢を濫受した者は数千に及んだ。鄧常恩・趙玉芝・淩中・顧工及び奸僧の継暁らは、皆尊貴顕要となり、孜省と互いに依りかかって奸計をなしたが、権勢と寵愛は全て孜省の下にあった。二年を経て、左通政に進んだ。給事中の王瑞・御史の張稷らが相次いで彼を弾劾した。そこで二階級を貶し、本司の左参議とし、他に貶黜された者また十二人あり。これはただ内外の望みを塞ぐための口実に過ぎず、孜省の寵愛は固より未だ衰えなかった。間もなく、また左通政に復した。

原文初,帝踐位甫逾月,即命中官傳旨,用工人為文思院副使。自後相繼不絕,一傳旨姓名至百十人,時謂之傳奉官,文武、僧道濫恩澤者數千。鄧常恩、趙玉芝、淩中、顧工及奸僧繼曉輩,皆尊顯,與孜省相倚為奸,然權寵皆出孜省下。居二年,進左通政。給事中王瑞、御史張稷等交劾之。乃貶二秩,為本司左參議,他貶黜者又十二人。蓋特借以塞中外之望,孜省寵固未嘗替也。頃之,復遷左通政。

二十一年正月、星変があり、直言を求めた。九卿大臣・給事中・御史らは皆伝奉官の弊害を極論し、まず孜省・常恩らに及んだ。帝はやや悟り、孜省を上林監丞に貶し、吏部に命じて冗濫の者の名簿を記録させると、凡そ五百余人に及んだ。帝は六十七人を留め、残りは全て斥罷し、内外大いに悦んだ。孜省はこれにより廷臣を甚だ恨み、主事の張吉・員外郎の彭綱を陥れて追放し、ますます左道の術で帝の意を操った。その年十月、再び左通政に復し、ますます威福を振るった。吏部尚書の尹旻とその子の侍講・尹龍に罪を捏造した。また扶鸞の術を借りて江西人は赤心をもって国に報いると言い、これにより致仕した副都御史の劉敷・礼部郎中の黄景・南京兵部侍郎の尹直・工部尚書の李裕・礼部侍郎の謝一夔らは、皆これによって進用された。時折、時の声望を採り入れ、学士の楊守陳・倪嶽、少詹事の劉健、都御史の余子俊、李敏ら諸名臣を、悉く密封して推薦した。縉紳の進退は、多くその口から出、執政大臣の万安・劉吉・彭華はこれに従って付和雷同した。通政の辺鏞が僉都御史となり、李和が南京戸部侍郎となったのは、皆その力による。彼が排擠した江西巡撫の閔珪・洗馬の羅璟・兵部尚書の馬文升・順天府丞の楊守随らは、皆譴責を受け、朝野側目した。

原文二十一年正月,星變求言。九卿大臣、給事御史皆極論傳奉官之弊,首及孜省、常恩等。帝頗感悟,貶孜省上林監丞,令吏部錄冗濫者名凡五百餘人。帝為留六十七人,餘皆斥罷,中外大說。孜省緣是恨廷臣甚,構逐主事張吉、員外郎彭綱,而益以左道持帝意。其年十月,再復左通政,益作威福。構罪吏部尚書尹旻及其子侍講龍。又假扶鸞術言江西人赤心報國,於是致仕副都御史劉敷、禮部郎中黃景、南京兵部侍郎尹直、工部尚書李裕、禮部侍郎謝一夔,皆因之以進。間采時望,若學士楊守陳、倪嶽,少詹事劉健,都御史余子俊,李敏諸名臣,悉密封推薦。搢紳進退,多出其口,執政大臣萬安、劉吉、彭華從而附麗之。通政邊鏞為僉都御史,李和為南京戶部侍郎,皆其力也。所排擠江西巡撫閔珪、洗馬羅璟、兵部尚書馬文升、順天府丞楊守隨,皆被譴,朝野側目。

吏部が通政使の欠員を奏上すると、即座に孜省をこれに任命し、右通政の陳政以下五人を、順次一官進めた。当時、張文質が尚書として司事を掌っていたため、通政使は本来欠員ではなかった。その後、また礼部右侍郎に抜擢され、通政使を掌ることは従前の通りであった。

原文吏部奏通政使缺,即以命孜省,而右通政陳政以下五人,遞進一官。時張文質方以尚書掌司事,通政故未嘗缺使也。已,復擢禮部右侍郎,掌通政如故。

常恩

原文常恩

常恩は臨江の人で、宦官の陳喜を通じて進んだ。玉芝は番禺の人で、宦官の高諒を通じて進んだ。共に方術に通暁していることを以て、累進して太常卿となった。玉芝は母の喪に服したが、特に祭葬を賜り、墳域を大いに造営し、制度は等級を超えた。顧工・淩中は何れの人か知れない。顧工は扶鸞の術により、累官して太常少卿となり、母の喪に際し賜祭を受け、且つ贈誥を給された。故事によれば、四品官で三年未満の者は贈誥・賜祭を受けることはないが、憲宗は特にこれを与えた。吏部尚書の尹旻はこれに因んで併せてその父への贈官を請うた。間もなく、本寺卿に進んだ。その二子の顧経・顧綸もまた太常少卿の官にあった。淩中は書を善くして文華殿に供事し、数年を経ずして太常卿となった。一月余りして、諫官の言により、寺丞に降格した。孜省は星変により貶されたが、常恩もまた本寺丞に貶され、玉芝・顧工・淩中は共に従前の通りであった。孜省が通政に復すると、常恩もまた太常卿に復した。

原文常恩,臨江人,因中官陳喜進。玉芝,番禺人,因中官高諒進。並以曉方術,累擢太常卿。玉芝丁母憂,特賜祭葬,大治塋域,制度逾等。工、中不知何許人。工以扶鸞術,累官太常少卿,喪母賜祭,且給贈誥。故事,四品未三載無給誥賜祭者,憲宗特予之。吏部尚書尹旻因請並贈其父。未幾,進本寺卿。其二子經、綸,亦官太常少卿。中以善書供事文華殿,不數年為太常卿。逾月,以諫官言,降寺丞。孜省以星變貶,常恩亦貶本寺丞,而玉芝、工、中並如故。孜省復通政,常恩亦復太常卿。

李文昌という者がおり、術を試みて効験がなく、杖五十を受け、斥還された。岳州通判の沈政は絵事によって縁故を求め太常少卿に至り、天下の貨財を徴収して内府に充てることを請うた。帝は怒り、獄に下し、杖罰の上、広西慶遠通判に貶謫した。人々は大いに快とした。

原文有李文昌者,試術不效,杖五十,斥還。岳州通判沈政以繪事夤緣至太常少卿,請斂天下貨財充內府。帝怒,下獄,杖謫廣西慶遠通判。人頗以為快。

しかし、群奸は内外に蟠り結び、士大夫でこれに附く者は日増しに多くなった。進士の郭宗は刑部主事から、篆刻をもって宦官に引き立てられ、尚宝少卿に抜擢され、日々市井の工人・技芸者と伍して、宮廷に奔走した。兵科左給事中の張善吉は官を貶されていたが、秘術によって宦官の高英に取り入り、召見を得て、自ら陳べて給事中への復職を乞い、士論はこれを恥とした。大学士の万安もまた房中術を献じて寵愛を固めた。そして、諸雑流で侍郎・通政・太常・太僕・尚宝に加えられた者は、数え切れないほどであった。

原文然群奸中外蟠結,士大夫附者日益多。進士郭宗由刑部主事,以篆刻為中人所引,擢尚寶少卿,日與市井工技伍,趨走闕廷。兵科左給事中張善吉謫官,因秘術幹中官高英,得召見,因自陳乞復給事中,士論以為羞。大學士萬安亦獻房中術以固寵。而諸雜流加侍郎、通政、太常、太僕、尚寶者,不可悉數。

憲宗が崩じ、孝宗が嗣位すると、初めて科道官の言を用い、伝奉官を尽く淘汰し、孜省・常恩・玉芝・顧工・淩中・顧経を辺境の衛所に戍らせた。また、宦官の蒋琮の言により、孜省・常恩・玉芝らを詔獄に逮捕し、近侍と交結した律により斬罪に処し、妻子を二千里流刑とした。詔して死を免じ、なお辺境に戍らせた。孜省は拷打に耐えられず、獄死した。

原文憲宗崩,孝宗嗣位,始用科道言,盡汰傳奉官,謫孜省、常恩、玉芝、工、中、經戍邊衛。又以中官蔣琮言,逮孜省、常恩、玉芝等下詔獄,坐交結近侍律斬,妻子流二千里。詔免死,仍戍邊。孜省不勝搒掠,瘐死。

継暁

原文繼曉

継暁は江夏の僧侶である。憲宗の時、秘術によって梁芳を通じて進み、僧録司左覚義を授けられた。右善世に進み、通元翊教広善国師と命ぜられた。日々帝を誘って仏事を行わせ、西市に大永昌寺を建立し、民家数百家を強制移転させ、国庫数十万を費消した。員外郎の林俊が芳と継暁を斬って天下に謝罪するよう請うたが、重い譴責を受けそうになった。継暁は禍が及ぶことを恐れ、帰郷して母を養うことを乞い、併せて空名の度牒五百道を乞うたが、帝は全て従った。帝は即位の初め、早くも道士の孫道玉を真人とした。その後、西番僧の劄巴堅参に万行荘厳功徳最勝智慧円明能仁感応顕国光教弘妙大悟法王西天至善金剛普済大智慧仏の号を封じ、その徒の劄実巴・鎖南堅参・端竹也失は皆国師とし、誥命を賜った。服食器用は王者に僭擬した。出入りには棕輿に乗り、衛卒が金吾の仗を執って前導し、錦衣玉食の者が数千人に及んだ。荒塚の頂骨を取って数珠とし、髑髏を法碗とした。給事中の魏元らが切諫したが、容れられなかった。間もなく劄実巴を法王に進め、班卓児蔵卜を国師とし、また領占竹に万行清修真如自在広善普慧弘度妙応掌教翊国正覚大済法王西天円智大慈悲仏の号を封じ、また西天仏子の劄失蔵卜・劄失堅参・乳奴班丹・鎖南堅参・法領占の五人を法王とし、その他に西天仏子・大国師・国師・禅師を授けられた者は数え切れない。道士で真人・高士の号を加えられた者もまた都下に満ちた。大国師以上には金印を、真人には玉冠・玉帯・玉珪・銀章を与えた。継暁は特に奸黠で権力を窃み、奏請することは直ちに従われた。成化二十一年、星変があり、言官が極力その罪を論じ、初めて民に勒し、諸番僧は従前の通りであった。

原文繼曉,江夏僧也。憲宗時,以秘術因梁芳進,授僧錄司左覺義。進右善世,命為通元翊教廣善國師。日誘帝為佛事,建大永昌寺於西市,逼徙民居數百家,費國帑數十萬。員外郎林俊請斬芳、繼曉以謝天下,幾得重譴。繼曉虞禍及,乞歸養母,並乞空名度牒五百道,帝悉從之。帝初即位,即以道士孫道玉為真人。其後西番僧劄巴堅參封萬行莊嚴功德最勝智慧圓明能仁感應顯國光教弘妙大悟法王西天至善金剛普濟大智慧佛,其徒劄實巴、鎖南堅參、端竹也失皆為國師,錫誥命。服食器用,僭擬王者。出入乘棕輿,衛卒執金吾仗前導,錦衣玉食幾千人。取荒冢頂骨為數珠,髑髏為法碗。給事中魏元等切諫,不納。尋進劄實巴為法王,班卓兒藏卜為國師,又封領占竹為萬行清脩真如自在廣善普慧弘度妙應掌教翊國正覺大濟法王西天圓智大慈悲佛,又封西天佛子劄失藏卜、劄失堅參、乳奴班丹、鎖南堅參、法領占五人為法王,其他授西天佛子、大國師、國師、禪師者不可勝計。羽流加號真人、高士者,亦盈都下。大國師以上金印,真人玉冠、玉帶、玉珪、銀章。繼曉尤奸黠竊權,所奏請立從。成化二十一年,星變,言官極論其罪,始勒為民,而諸番僧如故。

孝宗の初め、詔して礼官に淘汰を議させた。礼官が言うには、諸寺の法王から禅師まで四百三十七人、ラマ諸僧七百八十九人。華人で禅師及び善世・覚義などの僧官は百二十人、道士で真人・高士及び正一演法などの道官は百二十三人、これらを全て貶黜するよう請うた。詔して法王・仏子は順次国師・禅師・都綱に降格し、その他は全て職を落として僧とし、本土に遣還し、誥敕・印章・儀仗などの法物を追奪した。真人は左正一に降格、高士は左演法に降格し、また印章及び諸玉器を追奪した。僧録司は善世など九員のみを留め、道録司は正一など八員を留め、その他は全て廃黜した。そして継暁は科臣の林廷玉の言により、逮捕して処刑し、市に棄てた。

原文孝宗初,詔禮官議汰。禮官言諸寺法王至禪師四百三十七人,刺麻諸僧七百八十九人。華人為禪師及善世、覺義諸僧官一百二十人,道士自真人、高士及正一演法諸道官一百二十三人,請俱貶黜。詔法王、佛子遞降國師、禪師、都綱,余悉落職為僧,遣還本土,追奪誥敕、印章、儀仗諸法物。真人降左正一,高士降左演法,亦追奪印章及諸玉器。僧錄司止留善世等九員,道錄司留正一等八員,餘皆廢黜。而繼曉以科臣林廷玉言,逮治棄市。

江彬

原文江彬

江彬は宣府の人である。初め蔚州衛指揮僉事であった。正徳六年、畿内に賊が起こり、京軍では制圧できず、辺境の兵を徴発した。江彬は大同遊撃として総兵官張俊に隷属し、徴発に応じて赴いた。薊州を過ぎる際、一家二十余人を殺害し、賊と誣らえて賞を得た。後に賊と淮上で戦い、三本の矢を受け、その一本は顔面に当たり、鏃が耳から出たが、これを抜いて再び戦った。武宗はこれを聞いて壮とし、七年、賊が次第に平定されると、辺兵を帰還させて大同・宣府に駐屯させた。軍が京師を通過した際、これを労い、ついに宣府の守将許泰も共に留めて帰さなかった。江彬は銭寧を通じて召見を得た。帝はその矢傷を見て、「江彬は健やかでよくもかくあらんや」と呼んだ。江彬は狡猾で強情、容貌魁偉で力強く、騎射に優れ、帝の前で兵事を談じると、帝は大いに喜び、都指揮僉事に抜擢し、豹房に出入りして共に起居した。かつて帝と囲碁を打って不遜な態度をとり、千戸周騏がこれを叱責した。江彬は周騏を陥れて拷問死させ、左右の者は皆江彬を恐れた。江彬は帝を導いて微行し、しばしば教坊司に至った。鋪花氈幄百六十二間を進上し、その規格は離宮に等しく、帝が出行する際は皆これを用いた。

原文江彬,宣府人。初為蔚州衛指揮僉事。正德六年,畿內賊起,京軍不能制,調邊兵。彬以大同遊擊隸總兵官張俊赴調。過薊州,殺一家二十餘人,誣為賊,得賞。後與賊戰淮上,被三矢,其一著面,鏃出於耳,拔之更戰。武宗聞而壯之。七年,賊漸平,遣邊兵還鎮大同、宣府。軍過京師,犒之,遂並宣府守將許泰皆留不遣。彬因錢寧得召見。帝見其矢痕,呼曰:「彬健能爾耶!」彬狡黠強很,貌魁碩有力,善騎射,談兵帝前,帝大說,擢都指揮僉事,出入豹房,同臥起。嘗與帝弈不遜,千戶周騏叱之。彬陷騏搒死,左右皆畏彬。彬導帝微行,數至教坊司;進鋪花氈幄百六十二間,制與離宮等,帝出行幸皆禦之。

銭寧は江彬が急に昇進するのを見て、心中穏やかでなかった。ある日、帝が虎を捕らえようとし、銭寧を召したが、銭寧は縮こまって進まなかった。虎が帝に迫ると、江彬が駆け寄ってこれを撃退した。帝は戯れて言った、「我は自ら十分に処理できる、お前を用いる必要はない」と。しかし心では江彬に恩を感じ、銭寧を恨んだ。銭寧が後日江彬の短所を言うと、帝は応じなかった。江彬は銭寧が自分を容れないと知り、左右が皆銭寧の党与であるのを見て、辺兵を頼りに自らの地位を固めようとし、盛んに辺軍が驍ぎょう悍で京軍に勝ると称し、互いに調換して訓練するよう請うた。言官が相次いで諫め、大学士李東陽が十の不便を疏で称えたが、皆聞き入れられなかった。そこで遼東・宣府・大同・延綏の四鎮の軍を京師に入れ、外四家と号し、都市を縦横にした。大内で団練する毎に、間に角抵戯を挟んだ。帝は戎服を着てこれに臨み、江彬と連騎で出て、鎧甲が入り乱れ、ほとんど見分けがつかなかった。

原文寧見彬驟進,意不平。一日,帝捕虎,召寧,寧縮不前。虎迫帝,彬趨撲乃解。帝戲曰:「吾自足辦,安用爾。」然心德彬而嗛寧。寧他日短彬,帝不應。彬知寧不相容,顧左右皆寧黨,欲籍邊兵自固,固盛稱邊軍驍悍勝京軍,請互調操練。言官交諫,大學士李東陽疏稱十不便,皆不聽。於是調遼東、宣府、大同、延綏四鎮軍入京師,號外四家,縱橫都市。每團練大內,間以角〓戲。帝戎服臨之,與彬聯騎出,鎧甲相錯,幾不可辨。

八年、許泰に敢勇営を統領させ、江彬に神威営を統領させた。太平倉を鎮国府と改め、辺兵を置いた。奮武営に西官庁を建てた。江彬・許泰に国姓を賜った。二年を経て、都督僉事に遷した。江彬は万全都指揮李琮・陜西都指揮神周の勇略を推薦し、共に召して豹房に侍らせ、同様に姓を賜って義児とした。積慶・鳴玉の二坊の民家を壊し、皇店酒肆を造り、義子府を建てた。四鎮の軍は、江彬が兼ねて統率した。帝は自ら群閹で善射の者を率いて一営とし、中軍と号した。朝夕馳せ逐せ、甲光が宮苑を照らし、呼噪の声が九門に達した。帝は時折閲兵し、過錦と名付けた。諸営は皆黄罩甲を着、許泰・李琮・神周らは遮陽帽を冠り、帽に天鵞の羽根を立て、貴い者は三本、次は二本とした。兵部尚書王瓊は一本を賜られ、大いに喜んだ。

原文八年命許泰領敢勇營,彬領神威營。改太平倉為鎮國府,處邊兵。建西官廳於奮武營。賜彬、泰國姓。越二年,遷都督僉事。彬薦萬全都指揮李琮、陜西都指揮神周勇略,並召侍豹房,同賜姓為義兒。毀積慶、鳴玉二坊民居,造皇店酒肆,建義子府。四鎮軍,彬兼統之。帝自領群閹善射者為一營,號中軍。晨夕馳逐,甲光照宮苑,呼噪聲達九門。帝時臨閱,名過錦。諸營悉衣黃罩甲,泰、琮、周等冠遮陽帽,帽植天鵝翎,貴者三翎,次二翎。兵部尚書王瓊得賜一翎,自喜甚。

江彬は既に心の中で銭寧を忌み、帝を導いて遠く寧を巡幸させようとした。そこでしばしば宣府の楽工に美婦人が多いと言い、また辺境の隙を観察でき、瞬く間に千里を馳せることができる、どうして鬱々と大内に居て、廷臣に制せられようか、と述べた。帝はこれをよしとした。十二年八月、急いで装いを整え微服で昌平に出幸し、居庸関に至ったが、御史張欽に遮られ、引き返した。数日後、再び夜に出た。先に太監谷大用に張欽の代わりをさせ、廷臣の追諫を止めさせた。そこで居庸関を越え、宣府に幸した。江彬は鎮国府第を建て、豹房の珍玩・女御をことごとく車で運び込んで満たした。江彬は帝に従い、しばしば夜に人家に入り、婦女を求めた。帝はこれを大いに楽しみ、帰るのを忘れ、家裏と称した。間もなく、陽和に幸した。迤北の五万騎が侵入し、諸将王勛らが力戦した。応州に至り、敵は退去した。首級十六を斬り、官軍の死者は数百人に上ったが、勝利として京師に報じた。帝は自ら威武大将軍朱寿と称し、また自ら鎮国公と称し、駐蹕する所を軍門と称した。内外の事は大小を問わず、江彬に白状してから奏上し、あるいは滞って二、三年に及んだ。廷臣が前後して切諫したが、ことごとく放置して省みなかった。

原文彬既心忌寧,欲導帝巡幸遠寧。因數言宣府樂工多美婦人,且可觀邊釁,瞬息馳千里,何郁郁居大內,為廷臣所制。帝然之。十二年八月,急裝微服出幸昌平,至居庸關,為御史張欽所遮,乃還。數日,復夜出。先令太監谷大用代欽,止廷臣追諫者。因度居庸,幸宣府。彬為建鎮國府第,悉輦豹房珍玩、女禦實其中。彬從帝,數夜入人家,索婦女。帝大樂之,忘歸,稱曰家裏。未幾,幸陽和。迤北五萬騎入寇,諸將王勛等力戰。至應州,寇引去。斬首十六級,官軍死數百人,以捷聞京師。帝自稱威武大將軍朱壽,又自稱鎮國公,所駐蹕稱軍門。中外事無大小,白彬乃奏,或壅格至二三歲。廷臣前後切諫,悉置不省。

十三年正月、京に還り、しばしば宣府を懐かしんだ。江彬は再び帝を導いて往かせ、そこで大同に幸した。太皇太后の崩御を聞き、京に還って発喪した。葬送に臨み、昌平に行き、諸陵に祭告し、ついに黄花・密雲に幸した。江彬らは良家の女数十車を掠め、日々これらを載せて随行し、死者も出た。永平知府毛思義が江彬に逆らい、獄に下され官を貶された。典膳李恭が回鑾を請う疏を上し、江彬の罪を指弾した。未だ止められぬうちに、江彬は李恭を捕らえて詔獄で死なせた。帝は大喜峰口に駐蹕し、朶顔三衛の花当・把児孫らに質を納めさせ宴労しようとしたが、御史劉士元が四つの不可を陳べたが、返答がなかった。帝が還ると、詔を下して総督軍務威武大将軍総兵官朱寿が六軍を統率すると称し、江彬を威武副将軍に任じた。応州の功を記録し、江彬を平虜伯に封じ、子三人を錦衣衛指揮とし、許泰を安辺伯とし、李琮・神周を共に都督とした。内外の官九千五百五十余人を昇進・賞賜し、賞賜は億万に及んだ。

原文十三年正月還京,數念宣府。彬復導帝往,因幸大同。聞太皇太后崩,乃還京發喪。將葬,如昌平,祭告諸陵,遂幸黃花、密雲。彬等掠良家女數十車,日載以隨,有死者。永平知府毛思義忤彬,下獄謫官。典膳李恭疏請回鑾,指斥彬罪。未及止,彬逮恭死詔獄。帝駐大喜峰口,欲令朵顏三衛花當、把兒孫等納質宴勞,御史劉士元陳四不可,不報。帝既還,下詔稱總督軍務威武大將軍總兵官朱壽統率六軍,而命彬為威武副將軍。錄應州功,封彬平虜伯;子三人,錦衣衛指揮;泰,安邊伯;琮、周,俱都督。升賞內外官九千五百五十餘人,賞賜億萬計。

江彬はまた帝を導いて大同から黄河を渡り、榆林に駐屯し、綏徳に至り、総兵官戴欽の邸に幸してその娘を納れた。帰途、西安を経て偏頭関を歴り、太原に至り、大いに女楽を徴発し、晋府の楽工楊騰の妻劉氏を納れて帰った。江彬と諸近幸は皆これを母として仕え、劉娘娘と称した。初め、延綏総兵官馬昂が罷免されていたが、妹が歌を善くし、騎射ができ、外国語を解し、指揮畢春に嫁ぎ、妊娠していた。馬昂は江彬に頼んで奪い返し、帝に進上すると、豹房に召し入れられ、大いに寵愛された。伝旨により馬昂を右都督に昇進させ、弟の馬炅・馬昶に共に蟒衣を賜い、大璫らは皆舅と呼び、太平倉に邸を賜った。給事中・御史が諫めたが、応じなかった。かつて馬昂の邸に幸し、その妾を召そうとした。馬昂が従わないと、帝は怒って立ち去った。馬昂はまた太監張忠に結びついてその妾杜氏を進上し、ついに伝旨により馬炅を都指揮に、馬昶を儀真守備に昇進させた。馬昂は望外の喜びで、また美女四人を進上して恩に謝した。この時、戴欽の娘を納れたのも、皆江彬が導いたことであった。

原文彬又導帝由大同渡黃河,次榆林,至綏德,幸總兵官戴欽第,納其女。還,由西安歷偏頭關,抵太原,大徵女樂,納晉府樂工楊騰妻劉氏以歸。彬與諸近幸皆母事之,稱曰劉娘娘。初,延綏總兵官馬昂罷免,有女弟善歌,能騎射,解外國語,嫁指揮畢春,有娠矣。昂因彬奪歸,進於帝,召入豹房,大寵。傳升昂右都督,弟炅、昶並賜蟒衣,大珰皆呼為舅,賜第太平倉。給事、御史諫,不應。嘗幸昂第,召其妾。昂不聽,帝怒而起。昂復結太監張忠進其妾杜氏,遂傳升炅都指揮,昶儀真守備。昂喜過望,又進美女四人謝恩。及是,納欽女,皆彬所導也。

十四年正月、太原から宣府に還り、江彬に十二団営を提督させた。帝は東西に遊幸し、数千里を歴り、馬に乗り弓矢を腰に、険阻を渡り、風雪を冒し、従者は多く道中で病んだが、帝に倦怠の色はなかった。京に還ると、再び南幸を望んだ。刑部主事汪金が九つの不可を疏で陳べ、かつ酒に酣することを戒めることを極言したが、帝は省みなかった。廷臣百余人が闕に伏して諫めると、江彬はわざと帝を怒らせ、ことごとく獄に下し、多くが杖死した。江彬もまた意気沮喪し、議論はやんだ。

原文十四年正月自太原還至宣府,命彬提督十二團營。帝東西遊幸,歷數千里,乘馬腰弓矢,涉險阻,冒風雪,從者多道病,帝無倦容。及還京,復欲南幸。刑部主事汪金疏陳九不可,且極言酣酒當戒,帝不省。廷臣百餘人伏闕諫,彬故激帝怒,悉下獄,多杖死者。彬亦意沮,議得寢。

折しも寧王宸濠が反逆すると、江彬はまた帝の親征を賛成し、諫める者は極刑に処すと下令した。江彬に提督賛画機密軍務を命じ、併せて東廠錦衣官校の事務を督させた。この時、張鋭が東廠を治め、銭寧が錦衣を治めていたが、江彬は両者の任を兼ね、権勢は比べる者なく、ついに帝に扈従して行った。間もなく銭寧を止めさせ、皇店の役を監督させ、従うことを許さなかった。八月、京師を発った。江彬は途中で、詔旨を偽ってしばしば長吏を縛り、通判胡琮は恐れて自縊死した。十二月に揚州に至り、民家をそのまま都督府とし、処女・寡婦をことごとくかき集め、帝を導いて漁猟した。劉姫が諫めたので、やや止んだ。南京に至り、また帝を導いて蘇州に幸し、浙江を下り、湖・湘に至ろうとした。諸臣が極諫し、折しもその党与もまた諫めて止めたので、やめた。この時、江彬は辺兵数万を率い、甚だ跋扈した。成国公朱輔は長跪し、魏国公徐鵬挙及び公卿大臣は皆側足してこれに仕えた。ただ参賛尚書喬宇・応天府丞寇天叙のみが身を挺して抗い、江彬の気勢はやや挫けた。

原文會寧王宸濠反,彬復贊帝親征,下令諫者處極刑。命彬提督贊畫機密軍務,並督東廠錦衣官校辦事。是時,張銳治東廠,錢寧治錦衣,彬兼兩人之任,權勢莫與比,遂扈帝以行。尋止寧,令董皇店役,不得從。八月發京師。彬在途,矯旨輒縛長吏,通判胡琮懼,自縊死。十二月至揚州,即民居為都督府,遍刷處女、寡婦,導帝漁獵。以劉姬諫,稍止。至南京,又欲導帝幸蘇州,下浙江,抵湖、湘。諸臣極諫,會其黨亦勸沮,乃止。當是時,彬率邊兵數萬,跋扈甚。成國公朱輔為長跪,魏國公徐鵬舉及公卿大臣皆側足事之。惟參贊尚書喬宇、應天府丞寇天敘挺身與抗,彬氣稍折。

十五年六月、帝は牛首山に幸す。諸軍夜間に驚き、彬の逆を為さんとすと云い、久しくして乃ち定まる。時に宸濠は既に擒えられ、江上の舟中に繋がれ、民間数たび訛伝して変を為さんとすとす。帝心に疑い、帰らんと欲す。閏八月、南京を発つ。清江浦に至り、積水池に漁す。帝の舟覆り溺れ、遂に疾を得る。十月、帝は通州に至る。彬は尚ほ帝の宣府に幸するを勧めんと欲し、旨を矯って勛戚大臣を召し宸濠の獄を議せしむ。又上言す、「鎮国公朱寿の方略を指授するに頼り、宸濠の逆党申宗遠等十五人を擒え、乞うらくは其の罪を明らかに正さんことを」と。乃ち詔を下し鎮国公を褒め賜い、歳ごとに彬の禄米百石を加え、一子を錦衣千戸に蔭す。会に帝の体憊え甚だしく、左右力めて請うて乃ち京に還る。彬は猶ほ旨を矯って団練営を威武団練営と改め、自ら軍馬を提督し、泰、周、琮等に教場の操練を提督せしむ。

原文十五年六月幸牛首山。諸軍夜驚,言彬欲為逆,久之乃定。時宸濠已就擒,系江上舟中,民間數訛傳將為變。帝心疑,欲歸。閏八月發南京。至清江浦,漁積水池,帝舟覆被溺,遂得疾。十月,帝至通州。彬尚欲勸帝幸宣府,矯旨召勛戚大臣議宸濠獄。又上言:「賴鎮國公朱壽指授方略,擒宸濠逆黨申宗遠等十五人,乞明正其罪。」乃下詔褒賜鎮國公,歲加彬祿米百石,蔭一子錦衣千戶。會帝體憊甚,左右力請乃還京。彬猶矯旨改團練營為威武團練營,自提督軍馬,令泰、周、琮等提督教場操練。

帝の崩ずるに及び、大学士楊廷和は遺命を用い、辺兵を分遣し、威武団練営を罷む。彬は内に疑い、疾と称して出でず、腹心を陰に布き、甲を衷にして変を観、泰をして内閣に詣り意を探らしむ。廷和は温語を以て之を慰め、彬稍々安んじ、乃ち出でて服を成す。廷和は密かに司礼中官魏彬と計り、中官温祥を因って入り太后に白し、彬を除かんことを請う。会に坤寧宮に獣吻を安ず。即ち彬と工部尚書李鐩を命じて入り祭らしむ。彬は礼服を以て入り、家人は従うことを得ず。事竟りて将に出でんとす。中官張永は彬、鐩を留めて飯を食わしむ。太后遽かに詔を下し彬を収む。彬覚り、急ぎ西安門に走る。門閉ず。尋いで北安門に走る。門者曰く、「旨有りて提督を留む」と。彬曰く、「今日安んぞ旨を得ん」と。門者を排す。門者之を執り、其の須を抜くこと且く尽くす。収むる者至り、之を縛す。有る頃、周、琮並びに縛されて至り、彬を罵りて曰く、「奴早く我に聴かば、豈に人の擒えらるるを得んや」と。世宗即位し、彬を市に磔く。周、琮は彬の子勛、傑、鰲、熙と倶に斬らる。処決の図を絵し、天下に榜示す。幼子然及び妻、女は倶に功臣家に発して奴と為す。時に京師久しく旱し、遂に大雨ふる。彬の家を籍没し、黄金七十櫃、白金二千二百櫃を得、他の珍缶数うべからず。

原文及帝崩,大學士楊廷和用遺命,分遣邊兵,罷威武團練營。彬內疑,稱疾不出,陰布腹心,衷甲觀變,令泰詣內閣探意。廷和以溫語慰之,彬稍安,乃出成服。廷和密與司禮中官魏彬計,因中官溫祥入白太后,請除彬。會坤寧宮安獸吻,即命彬與工部尚書李鐩入祭。彬禮服入,家人不得從。事竟將出,中官張永留彬、鐩飯,太后遽下詔收彬。彬覺,亟走西安門,門閉。尋走北安門,門者曰:「有旨留提督。」彬曰:「今日安所得旨?」排門者。門者執之,拔其須且盡。收者至,縛之。有頃,周、琮並縛至,罵彬曰:「奴早聽我,豈為人擒!」世宗即位,磔彬於市,周、琮與彬子勛、傑、鰲、熙俱斬,繪處決圖,榜示天下,幼子然及妻、女俱發功臣家為奴。時京師久旱,遂大雨。籍彬家,得黃金七十櫃,白金二千二百櫃,他珍缶不可數計。

許泰

原文許泰

許泰は江都の人なり。都督寧の子、職を襲い羽林前衛指揮使と為る。武会挙に中り第一、擢て都指揮同知を署す。尋いで副総兵に充ち、宣府を協守す。正徳六年、郤永、江彬と倶に調せられ流賊を剿し、賊を霸州に敗り、之を東光半壁店に追い敗る。未だ幾ばくもせず、復た賊を棗強に敗る。劉六曹州を寇す。泰は馮楨、郤永と撃ちて之を却け、勝に乗じ千八百人を擒斬す。賊蠡県、臨城を犯す。泰等撃たず、劾せられて俸を停めらる。既にして賊衛輝に奔る。泰は為に敗る。萊陽に赴くを調せらる。逗遛して進まず、詔して署都督僉事の新銜を革め、仍た都指揮同知を以て賊を辦せしむ。賊平ぐ。署都督同知に進み、京師に留まり、彬と日々左右に侍し、国姓を賜い、歴て左都督に遷る。応州の功を冒し、安辺伯に封ぜらる。

原文許泰,江都人。都督寧子,襲職為羽林前衛指揮使。中武會舉第一,擢署都指揮同知。尋充副總兵,協守宣府。正德六年,與郤永、江彬俱調剿流賊,敗賊霸州,追敗之東光半壁店。未幾,復敗賊棗強。劉六寇曹州,泰與馮楨、郤永擊卻之,乘勝擒斬千八百人。賊犯蠡縣、臨城,泰等不敢擊,被劾停俸。既而賊奔衛輝,泰為所敗。調赴萊陽,逗遛不進,詔革署都督僉事新銜,仍以都指揮同知辦賊。賊平,進署都督同知,留京師,與彬日侍左右,賜國姓,歷遷左都督。冒應州功,封安邊伯。

宸濠反す。帝は泰を以て威武副将軍と為し、中官張忠に偕い禁軍を率い先ず往かしむ。宸濠は既に王守仁に擒えらる。泰は其の功を攘まんと欲し、疾駆して南昌に至り、逆党を窮め捜し、士民誣陷せらるる者数うべからず。誅求刑戮、宸濠の乱に甚だし。守仁の功を嫉み、之を排擠すること百方なり。伍文定を執り、窘辱備わり至る。居ること久しくして、始めて師を旋す。世宗即位し、廷臣交えて劾す。文定亦た備えて虐民妒功の状を以て上聞し、獄に下し死を論ず。貴近に夤縁し、死を減じて辺に徙す。馬昂亦た罷めらる。炅等は辺に戍す。

原文宸濠反,帝以泰為威武副將軍,偕中官張忠率禁軍先往。宸濠已為王守仁所擒。泰欲攘其功,疾馳至南昌,窮搜逆黨,士民被誣陷者不可勝計。誅求刑戮,甚於宸濠之亂。嫉守仁功,排擠之百方。執伍文定,窘辱備至。居久之,始旋師。世宗即位,廷臣交劾,文定亦備以虐民妒功狀上聞,下獄論死。夤緣貴近,減死徙邊」馬昂亦罷,炅等戍邊。

錢寧

原文錢寧

錢寧、其の出づる所を知らず。或いは云う、鎮安の人なりと。幼くして太監錢能の家に鬻がれて奴と為り、能之を嬖し、錢姓を冒す。能死す。恩を家人に推し、錦衣百戸を得る。正徳初め、曲く劉瑾に事え、帝に幸を得る。性獪狡にして、射を善くし、左右の弓を拓く。帝喜び、国姓を賜い、義子と為り、伝えて錦衣千戸に升す。瑾敗る。計を以て免れ、指揮使を歴、南鎮撫司を掌る。累て左都督に遷り、錦衣衛事を掌り、詔獄を典とし、言うこと聴かれざる無し。其の名刺自ら皇庶子と称す。楽工臧賢、回回人於永及び諸番僧を引き、秘戯を以て進む。禁内に豹房、新寺を建つることを請い、声伎を恣にして楽しましめ、復た帝を誘いて微行せしむ。帝豹房に在り、常に酔いて寧に枕して臥す。百官朝に候す。晡に至りても未だ帝の起居を得ず、密かに寧を伺う。寧来れば、則ち駕の将に出づるを知る。

原文錢寧,不知所出,或云鎮安人。幼鬻太監錢能家為奴,能嬖之,冒錢姓。能死,推恩家人,得為錦衣百戶。正德初,曲事劉瑾,得幸於帝。性猬狡,善射,拓左右弓。帝喜,賜國姓,為義子,傳升錦衣千戶。瑾敗,以計免,歷指揮使,掌南鎮撫司。累遷左都督,掌錦衣衛事,典詔獄,言無不聽,其名刺自稱皇庶子。引樂工臧賢、回回人於永及諸番僧,以秘戲進。請於禁內建豹房、新寺,恣聲伎為樂,復誘帝微行。帝在豹房,常醉枕寧臥。百官候朝,至晡莫得帝起居,密伺寧,寧來,則知駕將出矣。

太監張銳は東廠緝事を領し、横甚だし。而して寧は詔獄を典とし、勢最も熾なり。中外「廠、衛」と称す。司務林華、評事沈光大は皆た杖を以て校尉を系え、寧の奏する所と為り、逮えられ錦衣獄に下り、光大は黜けられ、華は一級を貶せらる。錦衣千戸王註は寧と匿い、人を撻ちて死に至らしむ。員外郎劉秉鑒は其の獄を急に持す。寧は註を家に匿い、而して東廠に属して刑部の他事を発せしむ。尚書張子麟は亟に造り寧に謝し、立って註を釈し、乃ち已む。廠衛の校卒部院に至り事を白すに、尚書子麟の輩を老尊長と称す。太僕少卿趙経は初め工部郎を以て乾清宮の工を督し、帑金数十万を乾没す。経死す。寧は佯りて校尉を遣わし喪を治め、経の妻子を迫りて櫬を扶けて出さしめ、姬妾、帑蔵悉く之を据え有す。中官廖常は河南を鎮す。其の弟錦衣指揮鵬は悪を肆にし、巡撫鄧庠の劾する所と為り、詔して級を降し安置す。鵬懼れ、其の嬖妾をして寧に私事せしめ、留任を得しむ。

原文太監張銳領東廠緝事,橫甚,而寧典詔獄,勢最熾,中外稱曰「廠、衛」。司務林華、評事沈光大皆以杖系校尉,為寧所奏,逮下錦衣獄,黜光大,貶華一級。錦衣千戶王註與寧匿,撻人至死,員外郎劉秉鑒持其獄急。寧匿註於家,而屬東廠發刑部他事。尚書張子麟亟造謝寧,立釋註,乃已。廠衛校卒至部院白事,稱尚書子麟輩曰老尊長。太僕少卿趙經初以工部郎督乾清宮工,乾沒帑金數十萬。經死,寧佯遣校尉治喪,迫經妻子扶櫬出,姬妾、帑藏悉據有之。中官廖常鎮河南,其弟錦衣指揮鵬肆惡,為巡撫鄧庠所劾,詔降級安置。鵬懼,使其嬖妾私事寧,得留任。

寧の子永安、六歳にして都督と為る。養子錢傑、錢靖等は、倶に国姓を冒し、錦衣衛官を授けらる。富貴已に極まれりと念い、帝に子無く、強藩を結び自ら全からんとす。寧王宸濠の為に護衛を復するを営み、又人を宸濠の所に遣わし、異謀有り。又宸濠をして数たび金銀玩好を帝に進めしむ。謀りて其の世子を召し太廟に香を司らしめ、入嗣の地と為さんとす。又玉帯、彩纻を以て其の典宝萬銳に附けて帰らしめ、詐りて上賜と称す。凡そ宸濠の遣わす所の私人京師に行賄するは、皆た伶人臧賢の家を主とし、寧を由りて以て帝の左右に達す。

原文寧子永安,六歲為都督。養子錢傑、錢靖等,俱冒國姓,授錦衣衛官。念富貴已極,帝無子,思結強藩自全。為寧王宸濠營復護衛,又遣人往宸濠所,有異謀。又令宸濠數進金銀玩好於帝。謀召其世子司香太廟,為入嗣地。又以玉帶、彩纻附其典寶萬銳歸,詐稱上賜。凡宸濠所遣私人行賄京師,皆主伶人臧賢家,由寧以達帝左右。

宸濠反す。帝心に寧を疑う。寧懼れ、帝に白して宸濠の遣わす所の盧孔章を収め、而して罪を賢に帰し、辺に謫し戍らしめ、校尉をして途に之を殺さしめて口を滅し、又孔章を致して瘐死せしめ、冀くは自ら全からんことを得んとす。然れども卒に中りて江彬の計に、皇店の役を董ぜしむ。彬は道に在り、尽く其の通逆の状を白す。帝曰く、「黠奴、我固より之を疑う」と。乃ち之を臨清に羈し、馳せて其の妻子家属を収む。帝京に還る。寧を裸縛し、其の家を籍没し、玉帯二千五百束、黄金十余万両、白金三千箱、胡椒数千石を得る。世宗即位し、寧を市に磔く。養子傑等十一人皆た斬らる。子永安は幼く、死を免る。妻妾は功臣家に発して奴と為す。

原文宸濠反,帝心疑寧。寧懼,白帝收宸濠所遣盧孔章,而歸罪賢,謫戍邊,使校尉殺之途以滅口,又致孔章瘐死,冀得自全。然卒中江彬計,使董皇店役。彬在道,盡白其通逆狀。帝曰:「黠奴,我固疑之。」乃羈之臨清,馳收其妻子家屬。帝還京,裸縛寧,籍其家,得玉帶二千五百束、黃金十餘萬兩、白金三千箱、胡椒數千石。世宗即位,磔寧於市。養子傑等十一人皆斬,子永安幼,免死,妻妾發功臣家為奴。

陸炳

原文陸炳

陸炳、其の先は平湖の人なり。祖墀は軍籍を以て錦衣衛に隷し総旗と為る。父松は職を襲い、興献王に従い之国安陸し、選ばれて儀衛司典仗と為る。世宗入りて大統を承く。松は従龍の恩を以て、錦衣副千戸に遷る。累官して後府都督僉事に至り、錦衣事を協理す。

原文陸炳,其先平湖人。祖墀,以軍籍隸錦衣衛為總旗。父松,襲職,從興獻王之國安陸,選為儀衛司典仗。世宗入承大統,松以從龍恩,遷錦衣副千戶。累官後府都督僉事,協理錦衣事。

世宗が生まれた時、陸炳の母(松の妻)が乳母となり、炳は幼くして母に従い宮中に入った。やや成長すると、日に侍して左右に仕えた。炳は武勇に優れ沈着で猛々しく、背が高く顔色は火のようで、歩く様は鶴に似ていた。嘉靖八年の武会試に挙げられ、錦衣副千戸を授かった。父の松が卒すると、指揮僉事の官職を襲った。まもなく署指揮使に進み、南鎮撫司の事務を掌った。十八年、帝の南幸に従い、衛輝に宿泊した。夜の四更、行宮が火災に遭い、従官は慌てふためいて帝の所在を知らなかった。炳は扉を押し開けて帝を背負って出て、帝はこの時より炳を寵愛するようになった。たびたび都指揮同知に抜擢され、錦衣衛の事務を掌った。

原文世宗始生,松妻為乳媼,炳幼從母入宮中。稍長,日侍左右。炳武健沈鷙,長身火色,行步類鶴。舉嘉靖八年武會試,授錦衣副千戶。松卒,襲指揮僉事。尋進署指揮使,掌南鎮撫事。十八年從帝南幸,次衛輝。夜四更,行宮火,從官倉猝不知帝所在。炳排闥負帝出,帝自是愛幸炳。屢擢都指揮同知,掌錦衣事。

帝が即位した当初、錦衣衛を掌ったのは朱宸であったが、まもなく罷免された。代わりの駱安、続く王佐、陳寅はいずれも興邸(世宗が即位前の邸宅)の旧臣で錦衣衛を掌った。佐はかつて張鶴齢兄弟の獄を保持し、賢明な名声があった。寅もまた謹厚きんこうで悪事を働かなかった。炳が寅に代わると、その権勢ははるかに諸人を上回った。まもなく、署都督僉事に抜擢された。さらに緝捕の功により、都督同知に抜擢された。炳は急に貴顕となったが、同僚の多くは父の世代であった。炳は表面上は彼らを敬って仕え、徐々に策を弄して自分を軽んじる者を除いていった。また、閣臣の夏言、厳嵩の歓心をも得たため、それゆえ日に日に重用されるようになった。かつて兵馬指揮を殴打して殺し、御史に糾弾されたが、詔により問われなかった。夏言はもとより炳を匿っていたが、ある日、御史が炳の諸々の不法行為を弾劾すると、言はただちに旨を擬して逮捕処罰しようとした。炳は窮地に陥り、三千金を贈って和解を求めたが得られず、長跪して泣きながら謝罪し、ようやく許された。炳はこの時より言を骨髄に徹して憎むようになった。嵩が言と対立すると、炳は嵩を助け、言と辺境の将軍との間の私的な書簡を暴露し、言は死罪となった。嵩は炳に恩義を感じ、そのなすがままに任せ、彼を引き入れて計画を練り、賄賂を取り次いだ。後に仇鸞が寵愛を得て、嵩を凌駕する勢いとなったが、ただ炳だけは恐れた。炳は曲げて鸞に奉じ、対等の礼をとろうとはせず、ひそかに金銭を出して鸞の親愛する者と結び、鸞の陰私を入手した。鸞が病篤くなると、炳はその不軌の様子をことごとく暴露した。帝は大いに驚き、ただちに鸞の勅書と印を没収し、鸞は憂い恐れて死に、ついには棺を剖いて屍を戮するに至った。

原文帝初嗣位,掌錦衣者朱宸,未久罷。代者駱安,繼而王佐、陳寅,皆以興邸舊人掌錦衣衛。佐嘗保持張鶴齡兄弟獄,有賢聲。寅亦謹厚不為惡。及炳代寅,權勢遠出諸人上。未幾,擢署都督僉事。又以緝捕功,擢都督同知。炳驟貴,同列多父行,炳陽敬事之,徐以計去其易己者。又能得閣臣夏言、嚴嵩歡,以故日益重。嘗捶殺兵馬指揮,為御史所糾,詔不問。言故匿炳,一日,御史劾炳諸不法事,言即擬旨逮治。炳窘,行三千金求解不得,長跪泣謝罪,乃已。炳自是嫉言次骨。及嵩與言構,炳助嵩,發言與邊將關節書,言罪死。嵩德炳,恣其所為,引與籌畫,通賕賂。後仇鸞得寵,陵嵩出其上,獨憚炳。炳曲奉之,不敢與鈞禮,而私出金錢結其所親愛,得鸞陰私。及鸞病亟,炳盡發其不軌狀。帝大驚,立收鸞敕印,鸞憂懼死,至剖棺戮屍。

炳はまず左都督に進み、ハジュル(哈舟兒)を擒えた功績により、太子太保を加えられた。鸞の密謀を暴露した功により、少保兼太子太傅を加えられ、毎年伯爵の禄を給された。三十三年、西苑に入って直することを命じられ、厳嵩、朱希忠らとともに玄修(道教の修行)に侍った。三十五年三月、進士恩栄宴を賜った。故事では、錦衣衛は西側に列する。帝は炳のため、特に上座に着くことを命じ、二品の末席に列した。翌年、上疏して司礼監の宦官李彬が工所の物料を侵食盗用し、墳墓を営み、山陵に僭擬したことを弾劾し、その党の杜泰ら三人を斬罪に論じ、その財産を没収した。銀四十万余両、金珠珍宝は数えきれなかった。まもなく炳に太保兼少傅を加え、錦衣衛を掌ることはもとどおりとした。三公が三孤を兼ねることはなく、ただ炳においてのみ見られた。

原文炳先進左都督,錄擒哈舟兒功,加太子太保。以發鸞密謀,加少保兼太子太傅,歲給伯祿。三十三年命入直西苑,與嚴嵩、朱希忠等侍修玄。三十五年三月賜進士恩榮宴。故事,錦衣列於西。帝以炳故,特命上坐,班二品之末。明年疏劾司禮中官李彬侵盜工所物料,營墳墓,僭擬山陵,與其黨杜泰三人論斬,籍其貲,銀四十餘萬,金珠珍寶無算。尋加炳太保兼少傅,掌錦衣如故。三公無兼三孤者,僅於炳見之。

炳は豪悪な吏を爪牙として任用し、民間の些細な奸悪をことごとく知った。富人が小さな過ちを犯すとすぐに収捕し、その家財を没収した。蓄積した財産は数百万に上り、別宅を十余所営み、荘園は四方に遍く、その勢いは天下を傾けた。当時、厳嵩父子は六曹の事務をことごとく掌握していたが、炳は関与し取り次がないことはなかった。文武の大吏は争ってその門を奔走し、歳入は計り知れず、権要と結び、善類と交際しても、少しも吝嗇としなかった。帝はたびたび大獄を起こしたが、炳は多くを保全し、士大夫に礼を尽くし、一人も陥れ中傷したことはなく、それゆえ朝士で彼を称える者は多かった。三十九年、官のまま卒した。忠誠伯を追贈され、諡は武惠、祭礼と葬儀は加増され、その子の繹を本衛の指揮僉事に任じた。隆慶初年、御史の上言により、炳の罪を追及して論じ、官秩を削り、その財産を没収し、繹と弟の太常少卿煒の官職を奪い、数十万に上る贓罪に連座させ、繹らを拘束して追徴償還させた。久しくして財産は尽きた。万暦三年、繹が上章して免罪を乞うた。張居正らが言うには、炳には救駕の功があり、かつ律には謀反叛逆奸党でない者は没収する規定はない。ましてや没収と追徴は二つの罪を併せて科するもので、律の趣旨ではない、と。帝はこれを哀れみ、ついに免罪を得た。

原文炳任豪惡吏為爪牙,悉知民間銖兩奸。富人有小過輒收捕,沒其家。積貲數百萬,營別宅十餘所,莊園遍四方,勢傾天下。時嚴嵩父子盡攬六曹事,炳無所不關說。文武大吏爭走其門,歲入不貲,結權要,周旋善類,亦無所吝。帝數起大獄,炳多所保全,折節士大夫,未嘗構陷一人,以故朝士多稱之者。三十九年卒官。贈忠誠伯,謚武惠,祭葬有加,官其子繹為本衛指揮僉事。隆慶初,用御史言,追論炳罪,削秩,籍其產,奪繹及弟太常少卿煒官,坐贓數十萬,系繹等追償,久之貲盡。萬歷三年,繹上章乞免。張居正等言,炳救駕有功,且律非謀反叛逆奸黨,無籍沒者;況籍沒、追贓,二罪並坐,非律意。帝憫之,遂獲免。

邵元節

原文邵元節

邵元節は、貴谿の人で、龍虎山上清宮の道士である。範文泰、李伯芳、黄太初に師事し、その術をことごとく極めた。寧王宸濠が召し出したが、辞して行かなかった。世宗が即位すると、宦官の崔文らの言葉に惑わされ、鬼神の事を好み、日に斎醮(道教の祭祀)を行った。諫官がたびたびこれを諫言したが、聞き入れられなかった。嘉靖三年、元節を召し出して京に入れ、便殿で引見し、大いに寵信を加え、顕霊宮に住まわせ、専ら祈祷祭祀を司らせた。雨雪の時期が狂った時、祈祷が効験があり、清微妙済守静修真凝玄衍範誌默秉誠致一真人に封じられ、朝天、顕霊、霊済の三宮を統轄し、道教を総領し、金、玉、銀、象牙の印各一つを賜った。

原文邵元節,貴谿人,龍虎山上清宮道士也。師事範文泰、李伯芳、黃太初,鹹盡其術。寧王宸濠召之,辭不往。世宗嗣位,惑內侍崔文等言,好鬼神事,日事齋醮。諫官屢以為言,不納。嘉靖三年,徵元節入京,見於便殿,大加寵信,俾居顯靈宮,專司禱祀。雨雪愆期,禱有驗,封為清微妙濟守靜修真凝玄衍範誌默秉誠致一真人,統轄朝天、顯靈、靈濟三宮,總領道教,錫金、玉、銀、象牙印各一。

六年、還山を乞うと、詔して馳伝を許した。まもなく、朝廷に急ぎ参じた。南郊に祭祀があり、風雲雷雨壇の分献を命じられた。奉天殿の宴に預かり、二品の班に列した。その父に太常丞、母に安人を追贈し、あわせて文泰に真人を追贈し、元節に紫衣玉帯を賜った。給事中の高金がこれを論じると、帝は金を詔獄に下した。城西に真人府を建てることを勅し、その孫の啓南を太常丞に、曾孫の時雍を太常博士に任じた。毎年元節に禄百石を給し、校尉四十人を供して灑掃に当たらせ、荘田三十頃を賜い、その租を免除した。また、中使を遣わして貴谿に道院を建て、仙源宮と名を賜った。完成すると、仮を乞うて還山した。途中で上奏し、大学士李時の弟で員外郎の李文に侮辱されたと述べた。李時は上章して罪を引き、李文は獄に下され譴責を受けた。還朝する際、舟が潞河に至ると、中官を命じて迎え入れ、蟒服と「闡教輔国」の玉印を賜った。

原文六年乞還山,詔許馳傳。未幾,趨朝。有事南郊,命分獻風雲雷雨壇。預宴奉天殿,班二品。贈其父太常丞、母安人,並贈文泰真人,賜元節紫衣玉帶。給事中高金論之,帝下金詔獄。敕建真人府於城西,以其孫啟南為太常丞,曾孫時雍為太常博士。歲給元節祿百石,以校尉四十人供灑掃,賜莊田三十頃,蠲其租。又遣中使建道院於貴谿,賜名仙源宮。既成,乞假還山。中途上奏,言為大學士李時弟員外文所侮。時上章引罪,文下獄獲譴。比還朝,舟至潞河,命中官迎入,賜蟒服及「闡教輔國」玉印。

先に、皇嗣がまだ生まれなかったため、たびたび元節に命じて醮を建てさせ、夏言を監礼使とし、文武大臣に日に二度香を上らせた。三年を経て、皇子が次々と生まれ、帝は大いに喜び、たびたび元節に恩を加え、礼部尚書を拝し、一品の服を賜った。孫の啓南、弟子の陳善道らはみな官秩を進められ、伯芳、太初に真人を追贈した。

原文先是,以皇嗣未建,數命元節建醮,以夏言為監禮使,文武大臣日再上香。越三年,皇子疊生,帝大喜,數加恩元節,拜禮部尚書,賜一品服。孫啟南、徒陳善道等鹹進秩,贈伯芳、太初為真人。

帝が承天に行幸した時、元節は病で従えなかった。まもなくなく死去すると、帝は涙を流し、少師を追贈し、祭礼十壇を賜い、中官と錦衣衛に喪を護送して還らせ、有司に葬儀を営ませ、伯爵の礼を用いた。礼官が栄靖の諡を擬したが、帝の意にかなわず、再び文康を擬した。帝は両方を兼ね用い、文康栄靖とした。啓南の官は太常少卿に至った。善道もまた清微闡教崇真衛道高士に封じられた。隆慶初年、元節の称号と諡を削った。

原文帝幸承天,元節病不能從。無何死,帝為出涕,贈少師,賜祭十壇,遣中官錦衣護喪還,有司營葬,用伯爵禮。禮官擬謚榮靖,不稱旨,再擬文康。帝兼用之,曰文康榮靖。啟南官至太常少卿。善道亦封清微闡教崇真衛道高士。隆慶初,削元節稱謚。

陶仲文

原文陶仲文

陶仲文は、初めの名は典真といい、黄岡の人である。かつて羅田の万玉山に符水の訣を受け、邵元節と親しかった。

原文陶仲文,初名典真,黃岡人。嘗受符水訣於羅田萬玉山,與邵元節善。

嘉靖年間、黄梅県の吏から遼東の庫大使となった。任期が満ちて、京師で次の官を待ち、元節の邸宅に寄寓した。元節は年老い、宮中に黒眚(妖怪)が現れ、治めても効がなく、そこで仲文を帝に推薦した。符水で剣に含み噴き、宮中の妖を絶った。莊敬太子が痘瘡を患うと、祈祷して治癒し、帝は深く寵愛し異遇を与えた。

原文嘉靖中,由黃梅縣吏為遼東庫大使。秩滿,需次京師,寓元節邱舍。元節年老,宮中黑眚見,治不效,因薦仲文於帝。以符水噀劍,絕宮中妖。莊敬太子患痘,禱之而瘥,帝深寵異。

十八年、帝が南巡した際、邵元節が病み、陶仲文が代わった。衛輝に滞在した時、旋風が御駕を巡った。帝が「これは何の兆しか」と問うと、仲文は「火災の兆しです」と答えた。その夜、行宮は果たして火災に遭い、宮人の死者は甚だ多かった。帝はますます彼を異とし、神霄保國宣教高士を授け、まもなく神霄保國弘烈宣教振法通真忠孝秉一真人に封じた。翌年八月、帝は太子に監国させ、自らは専ら静養しようとした。太僕卿楊最が諫疏を上したため、杖刑で死に至らしめられ、廷臣は震え上がった。大臣は争って諂媚して容れられようとし、神仙への祈祷祭祀は日に日に激しくなった。仲文の子陶世同を太常丞とし、娘婿の吳浚と従孫の陶良輔を太常博士とした。帝が病気になり、やがて癒えたので、仲文の祈祷の功を喜び、特に少保・禮部尚書を授けた。しばらくして、少傅を加え、なお少保を兼ねた。仲文は倉庫管理の役人から出て、二年と経たずに三孤(少師・少傅・少保)に登り、恩寵は邵元節を上回った。そこで郷里の県に雷壇を建てて聖寿を祈るよう請い、その徒の臧宗仁を左至霊とし、駅伝で急行させ、黄州同知郭顕文を監督させた。工事が少し遅れたため、顕文を典史に左遷し、工部郎の何成を代わりに派遣して、督促を非常に急がせたので、公私ともに騒然となった。御史楊爵と郎中劉魁がこのことに言及した。給事中周怡が時事を陳じた中に「日々祈祷祭祀に事とる」との言葉があった。帝は大いに怒り、ことごとく詔獄に下し、拷問して長く拘禁した。吏部尚書熊浹が乩仙を諫めたので、即座に官籍削除を命じた。これより、朝廷内外で争って符瑞を献じ、焚修や斎醮の事については、敢えて指摘する者はいなくなった。

原文十八年南巡,元節病,以仲文代。次衛輝,有旋風繞駕,帝問:「此何祥也?」對曰:「主火。」是夕行宮果火,宮人死者甚眾。帝益異之,授神霄保國宣教高士,尋封神霄保國弘烈宣教振法通真忠孝秉一真人。明年八月欲令太子監國,專事靜攝。太僕卿楊最疏諫,杖死,廷臣震懾。大臣爭諂媚取容,神仙禱祀日亟。以仲文子世同為太常丞,子婿吳浚、從孫良輔為太常博士。帝有疾,既而瘳,喜仲文祈禱功,特授少保、禮部尚書。久之,加少傅,仍兼少保。仲文起筦庫,不二歲登三孤,恩寵出元節上。乃請建雷壇於鄉縣,祝聖壽,以其徒臧宗仁為左至靈,馳驛往,督黃州同知郭顯文監之。工稍稽,謫顯文典史,遣工部郎何成代,督趨甚急,公私騷然。御史楊爵、郎中劉魁言及之。給事中周怡陳時事,有「日事禱祠」語。帝大怒,悉下詔獄,拷掠長繋。吏部尚書熊浹諫乩仙,即命削籍。自是,中外爭獻符瑞,焚修、齋醮之事,無敢指及之者矣。

帝は二十年に宮婢の変事に遭って以来、西内に移り住み、日夜長生を求め、郊廟の祭祀には親臨せず、朝講は全て廃し、君臣は互いに接することなく、ただ陶仲文だけが時折謁見することができた。謁見するたびに座を賜り、師と称して名を呼ばなかった。帝は臣下が必ず己を非議していると心で知り、詔旨を下すごとに多く憤り憎む言葉を用いたが、廷臣はその指すところを知らなかった。小人の顧可学・盛端明・朱隆禧の輩は、皆これに縁って進用された。その後、夏言以下が香葉冠をかぶったことが、他の積もったわだかまりと相まって死に至らしめた。一方、厳嵩は焚修を虔しく奉じたことで異例の寵遇を蒙ること二十年に及んだ。大同で諜者王三を捕らえた時、帝はその功を上玄(天)に帰し、仲文に少師を加え、なお少傅・少保を兼ねさせた。一人で三孤を兼ねたのは、明朝一代を通じて、仲文だけである。しばらくして、特進光禄大夫柱國を授け、さらに大学士の俸給を支給し、子の陶世恩を尚宝丞に蔭官させた。さらに聖誕(帝の誕生日)の恩典で、伯爵の俸給を与え、その徒の郭弘経・王永寧を高士とした。時に都御史胡纘宗が獄に下され、数十人が連座した。二十九年春、京師に災異が頻繁に現れたので、帝は仲文に諮問した。仲文は冤獄があるのではと答え、雨が降れば解消するだろうと言った。まもなく法司が纘宗らの供述書を上奏すると、帝は全て軽い刑罰に従い、果たして雨が降った。そこで冤獄を平らげた功績により、仲文を恭誠伯に封じ、歳禄千二百石とし、郭弘経・王永寧を真人に封じた。仇鸞が死後追って刑戮に処せられた時、詔を下して仲文の功を称え、禄を百石増やし、子の陶世昌を国子監生に蔭官させた。三十二年、仲文が言うには、「斉河県の道士張演が大清橋を建て、河を浚って龍骨一つを得、重さ千斤。また石砂の一脈が突如現れ、長さ数丈、神の加護がある類いのものである」。帝は即座に国庫の銀を出してこれを助成した。時に元嶽(武当山)を湖広太和山に建立し、完成すると、英国公張溶を派遣して安神の礼を行わせ、仲文は顧可学とともに斎醮を建てて福を祈った。翌年、聖誕の恩典で、子を錦衣衛百戸に蔭官させた。

原文帝自二十年遭宮婢變,移居西內,日求長生,郊廟不親,朝講盡廢,君臣不相接,獨仲文得時見;見輒賜坐,稱之為師而不名。心知臣下必議己,每下詔旨多憤疾之辭,廷臣莫知所指。小人顧可學、盛端明、朱隆禧輩,皆緣以進。其後,夏言以下冠香葉冠,積他釁至死。而嚴嵩以虔奉焚修蒙異眷者二十年。大同獲諜者王三,帝歸功上玄,加仲文少師,仍兼少傅少保。一人兼領三孤,終明世,惟仲文而已。久之,授特進光祿大夫柱國兼支大學士俸,蔭子世恩為尚寶丞。復以聖誕加恩,給伯爵俸,授其徒郭弘經、王永寧為高士。時都御史胡纘宗下獄,株連數十人。二十九年春,京師災異頻見,帝以咨仲文。對言慮有冤獄,得雨方解。俄法司上纘宗等爰書,帝悉從輕典,果得雨。乃以平獄功,封仲文恭誠伯,歲祿千二百石,弘經、永寧封真人。仇鸞之追戮也,下詔稱仲文功,增祿百石,蔭子世昌國子生。三十二年,仲文言:「齊河縣道士張演建大清橋,浚河得龍骨一,重千斤。又突出石沙一脈,長數丈,類有神相。」帝即發帑銀助之。時建元嶽湖廣太和山,既成,遣英國公張溶往行安神禮,仲文偕顧可學建醮祈福。明年,聖誕,加恩,蔭子錦衣百戶。

帝はますます長生を求め、日夜祈祷祭祀を行い、文武大臣や詞臣を選んで西苑に入直させ、青詞を供奉させた。四方の奸人段朝用・龔可佩・藍道行・王金・胡大順・藍田玉の類いは、皆焼煉や符咒で天子を惑わしたが、まもなく皆失敗し、ただ陶仲文だけは恩寵が日に日に重く、長く衰えず、士大夫の中には彼に縁って進用される者もいた。また「二龍相見ず」の説を作り出し、皇太子の位が空位のまま二十年に及んだ。

原文帝益求長生,日夜禱祠,簡文武大臣及詞臣入直西苑,供奉青詞。四方奸人段朝用、龔可佩、藍道行、王金、胡大順、藍田玉之屬,鹹以燒煉符咒熒惑天子,然不久皆敗,獨仲文恩寵日隆重,久而不替,士大夫或緣以進。又創二龍不相見之說,青宮虛位者二十年。

三十五年、皇考(嘉靖帝の父)に三天金闕無上玉堂都仙法主玄元道德哲慧聖尊開真仁化大帝の道号を、皇妣(母)に三天金闕無上玉堂總仙法主玄元道德哲慧聖母天後掌仙妙化元君の号を上った。帝は自ら霊霄上清統雷元陽妙一飛玄真君と号し、後に九天弘教普済生霊掌陰陽功過大道思仁紫極仙翁一陽真人元虚玄応開化伏魔忠孝帝君の号を加え、さらに太上大羅天仙紫極長生聖智昭霊統元証応玉虚總掌五雷大真人玄都境万寿帝君と号した。翌年、仲文が病気になり、帰山を乞い、歴年に賜った蟒玉・金宝・法冠及び白金一万両を献上した。帰った後も、帝は彼を忘れず、錦衣衛の官を派遣して見舞わせ、役所に命じて時折礼を加えさせ、その子で尚宝少卿の陶世恩を太常丞兼道録司右演法に改め、真人府に供奉させた。

原文三十五年,上皇考道號為三天金闕無上玉堂都仙法主玄元道德哲慧聖尊開真仁化大帝,皇妣號為三天金闕無上玉堂總仙法主玄元道德哲慧聖母天後掌仙妙化元君,帝自號靈霄上清統雷元陽妙一飛玄真君,後加號九天弘教普濟生靈掌陰陽功過大道思仁紫極仙翁一陽真人元虛玄應開化伏魔忠孝帝君,再號太上大羅天仙紫極長生聖智昭靈統元證應玉虛總掌五雷大真人玄都境萬壽帝君。明年,仲文有疾,乞還山,獻上歷年所賜蟒玉、金寶、法冠及白金萬兩。既歸,帝念之不置,遣錦衣官存問,命有司以時加禮,改其子尚寶少卿世恩為太常丞兼道錄司右演法,供事真人府。

陶仲文は寵遇を得ること二十年、人臣の位の極みに至った。しかし小心で慎み深く、恣肆することはなかった。三十九年に卒去、享年八十余。帝は聞いて痛悼し、葬祭の礼は邵元節に準じ、特に栄康恵粛と諡した。陶世恩は後に太常卿に至った。隆慶元年、王金とともに偽りの薬物を調製した罪に坐し、獄に下されて死罪と論じられた。仲文の官秩と諡号も追って削られた。

原文仲文得寵二十年,位極人臣。然小心慎密,不敢恣肆。三十九年卒,年八十餘。帝聞痛悼,葬祭視邵元節,特謚榮康惠肅。世恩後至太常卿。隆慶元年坐與王金偽制藥物,下獄論死。仲文秩謚亦追削。

段朝用

原文段朝用

段朝用は合肥の人。焼煉の術で郭勛に取り入り、化した銀は皆仙物であり、飲食の器に用いれば不死となると言った。郭勛が彼を帝に推薦すると、帝は大いに喜んだ。陶仲文も彼を推薦し、万金を献じて雷壇の工費を助けた。帝はその忠を嘉し、紫府宣忠高士を授けた。朝用は毎年数万金を進めて国用を助けようと請うたので、帝はますます喜んだ。やがてその術が験せず、その徒の王子巖がその詐偽を暴露した。帝は子巖と朝用を捕らえ、鎮撫司に付して拷問させると、朝用が献じた銀は、もと郭勛の資金から出たものであった。事が敗露すると、帝は次第に郭勛を疎んじるようになった。翌年、郭勛もまた獄に下されると、朝用は郭勛を脅して賄賂を求め、その家人を殴打して死に至らしめ、さらに上疏して濫りに上奏した。帝は怒り、遂に死罪と論じた。

原文段朝用,合肥人。以燒煉幹郭勛,言所化銀皆仙物,用為飲食器,當不死。勛進之帝,帝大悅。仲文亦薦之,獻萬金助雷壇工費。帝嘉其忠,授紫府宣忠高士。朝用請歲進數萬金以資國用,帝益喜。已而術不驗,其徒王子巖攻發其詐。帝執子巖、朝用,付鎮撫拷訊,朝用所獻銀,故出勛資。事既敗,帝亦浸疏勛。明年,勛亦下獄,朝用乃脅勛賄,捶死其家人,復上疏瀆奏。帝怒,遂論死。

龔可佩

原文龔可佩

龔可佩は嘉定の人。昆山で出家して道士となり、道家の神名に通暁し、陶仲文によって推薦された。青詞を撰する諸大臣は、時に可佩に道家の故事を問い、皆彼を愛し、太常博士となった。帝は命じて西宮に入り、宮人に法事を習わせさせ、累進して太常少卿となった。宦官に憎まれ、酒を嗜むと誣告され、使者に偵察させたところ、可佩が員外郎邵畯の宅で酔っていると報告した。捕らえて詔獄に下し、邵畯をも逮捕し、ともに六十回の杖刑に処した。可佩は杖刑で死に、屍体は潞河に晒され、群犬に食われ、邵畯もまた官を奪われた。邵畯と可佩はもとより交わりがなく、その無実を訴える者はいなかった。

原文龔可佩,嘉定人。出家昆山為道士,通曉道家神名,由仲文進。諸大臣撰青詞者,時從可佩問道家故事,俱愛之,得為太常博士。帝命入西宮,教宮人習法事,累遷太常少卿。為中官所惡,誣其嗜酒,使使偵之,報可佩醉員外郎邵畯所。執下詔獄,並逮畯,俱杖六十。可佩杖死,屍暴潞河,為群犬所食,畯亦奪官。畯與可佩故無交,無敢白其枉者。

藍道行は扶鸞の術で寵遇を得、帝が何か問うと、必ず密封して宦官に壇に持って行かせて焼かせ、その答えは多く帝の意に沿わなかった。帝は宦官が穢れていると咎めたので、宦官は恐れ、道行と内通して、封を開いて見てから焼くようにし、答えが初めて帝の意にかなうようになった。帝は大いに喜び、「今、天下がなぜ治まらないのか」と問うた。道行はもとより厳嵩を憎んでいたので、乩仙を仮託して厳嵩の奸悪な罪を言わせた。帝が「果たしてそうなら、上仙はなぜ彼を誅しないのか」と問うと、答えは「皇帝が自ら誅するのを待っている」と言った。帝の心は動き、ちょうど御史鄒応龍が厳嵩を弾劾する上疏が上ると、帝は即座に厳嵩を免職して郷里に帰した。やがて、厳嵩が道行の所為を探り知り、帝の側近に厚く賄賂して、彼が寵を恃んで権を招き、諸々の不法を行ったことを発覚させた。詔獄に下され、斬罪に処せられ、獄中で死んだ。

原文藍道行以扶鸞術得幸,有所問,輒密封遣中官詣壇焚之,所答多不如旨。帝咎中官穢褻,中官懼,交通道行,啟視而後焚,答始稱旨。帝大喜,問:「今天下何以不治?」道行故惡嚴嵩,假乩仙言嵩奸罪。帝問:「果爾,上仙何不殛之?」答曰:「留待皇帝自殛。」帝心動,會御史鄒應龍劾嵩疏上,帝即放嵩還。已,嵩诇知道行所為,厚賂帝左右,發其怙寵招權諸不法事。下詔獄,坐斬,死獄中。

胡大順

原文胡大順

胡大順は、仲文と同じ県の者である。仲文に縁って進み、霊済宮に供事した。仲文が死ぬと、大順は奸欺の事が発覚し、斥けられて原籍に戻された。後に再び用いられることを覬覦し、偽って『万寿金書』一帙を撰し、詭称して呂祖の作とし、かつ呂祖が三元大丹を授け、病を退け不老となることを得ると言った。その子元玉を遣わし、妖人何廷玉に従って京に入り、左演法藍田玉・左正一羅萬象を介して内官趙楹に通じ、これを帝に献上した。

原文胡大順者,仲文同縣人也。緣仲文進,供事靈濟宮。仲文死,大順以奸欺事發,斥回籍。後覬復用,偽撰萬壽金書一帙,詭稱呂祖所作,且言呂祖授三元大丹,可卻疾不老。遣其子元玉從妖人何廷玉賫入京,因左演法藍田玉、左正一羅萬象以通內官趙楹,獻之帝。

田玉

原文田玉

田玉は、鉄柱観の道士である。厳嵩が罷免されて帰郷し、南昌に至った時、聖誕に値し、田玉は帝のために醮を建てた。ちょうど御史姜儆が秘法を訪ねて至り、嵩は田玉の諸符籙を求め進献した。田玉もまた自ら召鶴の術を以て儆に託して附奏し、召されて演法となり、萬象とともに扶鸞の術を以て西内に供奉し、よって趙楹と交わりを結んだ。時に帝はちょうどこの三人を寵幸していたので、大順の書は三人を通じて進上された。帝は書を覧て問うた、「既に乩書と云うならば、扶乩する者は何故来ないのか」。田玉はそこで詐って聖諭としてこれを徴し、至ると屡々上書して求見した。帝は徐階に語って言った、「藍道行が獄に下されて以来、百の孽が宮を擾している。今大順が来たが、再び用いることが出来ようか」。対えて言う、「扶乩の術は、ただ中外が交通する時、間々験のある者があるが、そうでなければ茫然として知らない。今宮中の孽は久しく、道行によるものとは似ていない。かつこの輩を用いても、孽は必ずしも消えない。小人は無頼であるから、法を以て治めるべきである」。帝は悟り、報じて言った、「田玉は無状である。去る冬、廷玉に代わって水銀薬を進め、遂に密旨を詐伝し、大順を徴取した。治めなければ将来を戒めることが出来ない」。階が対える、「水銀は服食すべきでない。詔旨を詐伝する罪は特に重い。仮に問わずに置けば、群小互いに朋結し、恐らく大患を醸すであろう」。そこで大順・田玉・萬象らを錦衣獄に下すことを命じたが、その奸が趙楹によることを知らなかった。錦衣が獄詞を上奏すると、帝は寛大に処する意向があり、階に問うた。階は重く治めざるを得ないと力説し、そこで諸人を法司に下し、重く擬するよう命じた。趙楹が隙を窺い、密奏を具して、諸人のために申し立てた。帝は大いに怒り、司礼監に付して拷訊させ、その交通の状をことごとく得たので、遂に大順・田玉・萬象・廷玉・元玉とともに死罪に論じた。趙楹は獄死した。帝は逆囚は顕戮すべきであるとして、所司が法の如くでないことを怒り、刑部司官の俸給停止を詔した。嘉靖四十四年のことである。

原文田玉者,鐵柱觀道士。嚴嵩罷歸,至南昌,值聖誕,田玉為帝建醮。會御史姜儆訪秘法至,嵩索田玉諸符箓進獻。田玉亦自以召鶴術托儆附奏,得召為演法,與萬象並以扶鸞術供奉西內,因交觀楹。時帝方幸此三人,故大順書由三人進。帝覽書問:「既雲乩書,扶乩者何不來?」田玉遂詐為聖諭徵之,至則屢上書求見。帝語徐階曰:「自藍道行下獄,遂百孽擾宮。今大順來,可復用乎?」對曰:「扶乩之術,惟中外交通,間有驗者,否則茫然不知。今宮孽已久,似非道行所致。且用此輩,孽未必消。小人無賴,宜治以法。」帝悟,報曰:「田玉無狀,去冬代廷玉進水銀藥,遂詐傳密旨,徵取大順,不治無以儆將來。」階對:「水銀不可服食,詐傳詔旨罪尤重。倘置不問,群小互相朋結,恐釀大患。」乃命執大順、田玉、萬象等下錦衣獄,不知其奸由楹也。錦衣上獄詞,帝有意寬之,以問階。階力言不可不重治,乃下諸人法司,令重擬。楹伺間,具密奏,為諸人申理。帝大怒,付司禮拷訊,具得其交通狀,遂與大順、田玉、萬象、廷玉、元玉並論死。楹瘐死。帝以逆囚當顯戮,怒所司不如法,詔停刑部司官俸。嘉靖四十四年也。

世宗の朝、奏章に前朝・後朝の説があった。前朝に奏するものは、諸司の章奏である。他方の方士雑流が陳靖することがあれば、則ち後朝から入り、前朝の官は関与して聞かないので、摘発する者がいなかった。帝の晚年に漸くその妄りを悟ったことに頼り、政府が力強く執奏したので、諸奸は正法を得たという。

原文世宗朝,奏章有前朝、後朝之說。前朝所奏者,諸司章奏也;他方士雜流有所陳靖,則從後朝入,前朝官不與聞,故無人摘發。賴帝晚年漸悟其妄,而政府力為執奏,諸奸獲正法雲。

王金

原文王金

王金は、鄠県の者である。国子生となり、人を殺して死に当たった。知県陰応麟は雅に黄白術を好み、金に秘方があると聞き、彼のために解き、末減を得させた。金はそこで京師に逃れ、通政使趙文華の所に匿れた。仙酒を以て文華に献じ、文華はこれを帝に献上した。文華が江南を視師するに及んで、金は落魄して遇う所がなかった。ある日、帝が秘殿で扶乩すると、芝を服すれば延年できると言い、使者を遣わして天下に芝を採らせた。四方から来献するものは、皆苑中に積まれた。中使が窃かに出して市人に売り、また進めて賞を邀えた。金は中使に厚く結びつき、芝一万本を得て、一つの山に聚め、万歳芝山と号し、また偽って五色亀を作り、礼部を通じて献じようとしたが、尚書呉山は進めなかった。山が罷免されると、金は自らこれを進めた。帝は大いに喜び、官を遣わして太廟に告げさせ、礼官袁煒に廷臣を率いて表賀させ、金を太医院御医に授けた。

原文王金者,鄠縣人也。為國子生,殺人當死。知縣陰應麟雅好黃白術,聞金有秘方,為之解,得末減。金遂逃京師,匿通政使趙文華所。以仙酒獻文華,文華獻之帝。及文華視師江南,金落魄無所遇。一日,帝於秘殿扶乩,言服芝可延年,使使采芝天下。四方來獻者,皆積苑中;中使竊出市人,復進之以邀賞。金厚結中使,得芝萬本,聚為一山,號萬歲芝山,又偽為五色龜,欲因禮部以獻,尚書吳山不為進。山罷,金自進之。帝大喜,遣官告太廟禮官袁煒率廷臣表賀,而授金太醫院禦醫。

先に、総督胡宗憲が白鹿を献じたことが再びあった。帝は喜び、玄極宝殿及び太廟に告謝し、宗憲の秩を進め、百官に表賀させた。已にして、宗憲は霊芝五本・白亀二匹を献じた。帝はますます喜び、金幣・鶴衣を賜い、廟に告げて表賀すること初めの如くであった。数日も経たないうちに亀が死んだので、帝は言った、「天が霊物を降したが、朕は固より塵寰に処すること久しからずと疑っていた」。淮王が白雁二羽を献じると、帝は言った、「天が祥羽を降した。廟に告げよ」。厳嵩の孫鵠が玉兎一匹・霊芝六十四本を献じ、藍道行が瑞亀を献じた。皆中官を遣わして太廟に献じ、廷臣に表賀させた。未だ幾ばくもせず、兎が二子を生んだので、礼官は玄に謝して廟に告げるよう請うた。その月、兎がまた二子を生んだので、帝は延生の祥とし、特に謝典を建てて廟に告げた。已にしてまた数子を生み、皆賀称した。その他の西苑の嘉禾、顕陵の甘露、廟に告げて賀称しないものはなかった。この時、陶仲文は既に死に、厳嵩もまた政を罷め、藍道行もまた詐偽を以て誅せられ、宮中に数えきれぬ妖孽が見え、帝は春秋高く、意邑邑として楽しまず、中官がよって詐り飾ってこれを楽しませた。四十三年五月、帝が夜に庭中に坐すと、桃一つを御幄の後に獲た。左右が空中より下ると言う。帝は大いに喜んで言った、「天の賜いである」。迎恩醮を五日間修した。明日また桃一つが降り、その夜白兎が二子を生んだ。帝はますます喜び、玄に謝して廟に告げた。未だ幾ばくもせず、寿鹿もまた二子を生み、廷臣が表賀した。帝は奇祥三たび錫り、天眷非常なるを以て、手詔を下して褒め答えた。

原文先是,總督胡宗憲獻白鹿者再。帝喜,告謝玄極寶殿及太廟,進宗憲秩,百官表賀。已,宗憲獻靈芝五、白龜二。帝益喜,賜金幣、鶴衣,告廟表賀如初。不數日,龜死,帝曰:「天降靈物,朕固疑處塵寰不久也。」淮王獻白雁二,帝曰:「天降祥羽,其告廟。」嚴嵩孫鵠獻玉兔一、靈芝六十四,藍道行獻瑞龜。俱遣中官獻太廟,廷臣表賀。未幾,兔生二子,禮官請謝玄告廟。是月,兔又生二子,帝以為延生之祥,特建謝典告廟。已又生數子,皆稱賀。其他西苑嘉禾,顯陵甘露,無不告廟稱賀者。當是時,陶仲文已死,嚴嵩亦罷政,藍道行又以詐偽誅,宮中數見妖孽,帝春秋高,意邑邑不樂,中官因詐飾以娛之。四十三年五月,帝夜坐庭中,獲一桃禦幄後,左右言自空中下。帝大喜曰:「天賜也。」修迎恩醮五日。明日復降一桃,其夜白兔生二子。帝益喜,謝玄告廟。未幾,壽鹿亦生二子,廷臣表賀。帝以奇祥三錫,天眷非常,手詔褒答。

時に官を遣わして四方に方士を求め、至る者日増しに衆かった。豊城の人熊顕が仙書六十六冊を進め、方士趙添寿が秘法三十二種を進め、医士申世文もまた三種を進めた。帝はその多くが妄りであることを知り、殊錫はなかった。金は帝を動かす方法を考え、そこで世文及び陶世恩・陶仿・劉文彬・高守中とともに『諸品仙方』・『養老新書』・『七元天禽護国兵策』を偽造し、製した金石薬とともに進めた。その方は詭秘で弁別できず、性燥であり、服食に宜しくなかった。帝がこれを服用すると、少しずつ火発して癒えなかった。世恩は竟に太常卿に遷り、仿は太医院使に、文彬は太常博士となった。未だ幾ばくもせず、帝は大いに病篤くなり、遺詔して金らを帰罪し、悉く正典刑に処することを命じ、五人ともに死罪に論じて獄に繋がれた。隆慶四年十月、高拱が国を柄とし、徐階の政をことごとく反したので、乃ち金らの死を宥し、口外に編して民とした。

原文時遣官求方士於四方,至者日眾。豐城人熊顯進仙書六十六冊,方士趙添壽進秘法三十二種,醫士申世文亦進三種。帝知其多妄,無殊錫。金思所以動帝,乃與世文及陶世恩、陶仿、劉文彬、高守中偽造《諸品仙方》、《養老新書》、《七元天禽護國兵策》,與所制金石藥並進。其方詭秘不可辨,性燥,非服食所宜。帝御之,稍稍火發不能愈。世恩竟得遷太常卿,仿太醫院使,文彬太常博士。未幾,帝大漸,遺詔歸罪金等,命悉正典刑,五人並論死繫獄。隆慶四年十月,高拱柄國,盡反徐階之政,乃宥金等死,編口外為民。

顧可学

原文顧可學

顧可学は、無錫の人である。進士に挙げられ、浙江参議を歴官した。言官がその部在任時に官帑を盗んだと劾し、斥けられて帰郷し、家に居すること二十余年であった。世宗が長生を好むと世間に聞き、同年生の厳嵩がちょうど国を柄としていたので、乃ち嵩に厚く賄賂し、自ら童男女の溲を煉って秋石とし、これを服すれば延年できると言った。嵩が帝に言上し、使者を遣わして金幣を賫え、その家に就いて賜った。可学は闕に詣でて謝し、遂に右通政に命じられた。嘉靖二十四年、超えて工部尚書に拝し、尋いで礼部に改め、さらに太子太保に加えられた。時に盛端明もまた方術を以て帝の眷を受けたが、可学は独り揚揚として自ら喜び、公事に請属し、人皆畏れてこれを悪んだ。帝が乩仙の言に惑い、手詔して礼部に問うた、「古は芝を薬に入れたが、今は何れの所に産するか」。尚書呉山は博く『本草』・『黄帝内経』・『漢旧儀』・王充『論衡』・『瑞命記』を引き、「歴代皆芝を瑞とす。然れども服食の法は伝わらず、産地もまた敢えて予め擬することはできない」と言った。そこで有司に命じて五嶽及び太和・龍虎・三茅・斉雲・鶴鳴の諸山にこれを採らせた。間もなく、宛平の民が芝五本を献じた。帝は悦び、銀幣を賜った。ここより、来献する者踵を接した。時にまた銀鉱・龍涎香を採り、中使が四方に出で、論者皆可学を咎めた。可学は尋いで年老いを以て休を乞うた。卒すと、祭葬を賜い、諡して栄僖とした。

原文顧可學,無錫人。舉進士,歷官浙江參議。言官劾其在部時盜官帑,斥歸,家居二十餘年。間世宗好長生,而同年生嚴嵩方柄國,乃厚賄嵩,自言能煉童男女溲為秋石,服之延年。嵩為言於帝,遣使賫金幣就其家賜之。可學詣闕謝,遂命為右通政。嘉靖二十四年超拜工部尚書,尋改禮部,再加至太子太保。時盛端明亦以方術承帝眷,可學獨揚揚自喜,請屬公事,人鹹畏而惡之。帝惑乩仙言,手詔問禮部:「古用芝入藥,今產何所?」尚書吳山博引《本草》、《黃帝內經》、《漢舊儀》、王充《論衡》、《瑞命記》,言:「歷代皆以芝為瑞,然服食之法未有傳,所產地亦未敢預擬。」乃詔有司采之五嶽及太和、龍虎、三茅、齊雲、鶴鳴諸山。無何,宛平民獻芝五本。帝悅,賚銀幣。自是,來獻者接踵。時又采銀礦、龍涎香,中使四出,論者咸咎可學。可學尋以年老乞休。卒,賜祭葬,謚榮僖。

盛端明

原文盛端明

端明は饒平の人である。進士に挙げられ、官を歴て右副都御史となり、南京の糧儲を督し、弾劾されて罷免され、家に居ること十年。自ら薬石に通暁し、これを服用すれば長生を得ると言い、陶仲文を以て進み、厳嵩もまたこれを左右し、遂に召されて礼部右侍郎となった。尋いで工部尚書を拝し、礼部に改め、太子少保を加えられ、皆可学と並んで命ぜられた。二人はただ俸禄を食むのみで事を治めず、供奉して薬物を進めるだけであった。端明は頗る才名を負い、晩年は他途より進み、士論これを恥じた。端明は内に自ら安からず、引退し、家に卒した。祭葬を賜い、諡して栄簡という。隆慶初め、二人共に官を褫奪され諡を奪われた。

原文端明,饒平人。舉進士,歷官右副都御史,督南京糧儲,劾罷,家居十年。自言通曉藥石,服之可長生,由陶仲文以進,嚴嵩亦左右之,遂召為禮部右侍郎。尋拜工部尚書,改禮部,加太子少保,皆與可學並命。二人但食祿不治事,供奉藥物而已。端明頗負才名,晚由他途進,士論恥之。端明內不自安,引去,卒於家。賜祭葬,謚榮簡。隆慶初,二人皆褫官奪謚。

朱隆禧

原文朱隆禧

朱隆禧は昆山の人である。進士より順天府丞を歴任し、大計に坐して罷免された。二十七年、陶仲文が太和山に赴くに当たり、隆禧はこれを家に招き、伝えられた長生の秘術及び製した香衲を以て代わりに進めることを請うた。仲文が朝に還り、これを奏上した。帝は悦び、即ちその家に白金・飛魚服を賜った。隆禧が朝に入り謝恩すると、帝は大計により罷免された閑官は例として再び起用せず、太常卿を加えて致仕させた。二年居て、礼部右侍郎を加えられた。時に辺境の警報あり、仲文が隙に乗じて隆禧が兵を知ることを推薦した。帝曰く、「祖宗の法は廃すべからず。」終に用いなかった。既に卒すると、その妻が恤典を請うたが、所司は執って与えず、帝は特に諭してこれを与えた。隆慶初め、官を褫奪された。

原文朱隆禧者,昆山人。由進士歷順天府丞,坐大計黜。二十七年,陶仲文赴太和山,隆禧邀至其家,以所傳長生秘術及所制香衲祈代進。仲文還朝,奏之。帝悅,即其家賜白金、飛魚服。隆禧入朝謝恩,帝以大計罷閑官例不復起,加太常卿致仕。居二年,加禮部右侍郎。會有邊警,仲文乘閑薦隆禧知兵。帝曰:「祖宗法不可廢。」卒不用。既卒,其妻請恤典,所司執不予,帝特諭予之。隆慶初,褫官。

帝は晩年方術を求めること益々急で、仲文・可学の輩は皆先に死んだ。四十一年冬、御史姜儆・王大任に命じて天下を分行させ、方士及び符籙秘書を訪求させた。儆は江南・山東・浙江・江西・福建・広東・広西を、大任は畿輔・河南・湖広・四川・山西・陝西・雲南・貴州を巡った。四十三年十月に還朝し、得た法秘数千冊、方士唐秩・劉文彬等数人を上った。儆・大任は侍講学士に抜擢され、秩等は京師に邸宅を賜った。儆は自ら安からず、尋いで引退した。大任は翰林に入ったが、同官に歯されなかった。隆慶元年正月、言官が二人の進めた劉文彬等が既に刑章に正されたことを弾劾し、併せて罪すべきとし、遂に職を奪われた。

原文帝晚年求方術益急,仲文、可學輩皆前死。四十一年冬,命御史姜儆、王大任分行天下,訪求方士及符箓秘書。儆,江南、山東、浙江、江西、福建、廣東、廣西;大任,畿輔、河南、湖廣、四川、山西、陜西、雲南、貴州。至四十三年十月還朝,上所得法秘數千冊,方士唐秩、劉文彬等數人。儆、大任擢侍講學士,秩等賜第京師。儆不自安,尋引退。大任入翰林,不為同官所齒。隆慶元年正月,言官劾兩人所進劉文彬等已正刑章,宜並罪,遂奪職。