明史

列傳第一百九十二 宦官一 鄭和、金英、王振、曹吉祥、懷恩、汪直、梁芳、何鼎、李廣、蔣琮、劉瑾、張永、谷大用

列傳第一百九十二 宦官一 鄭和、金英、王振、曹吉祥、懷恩、汪直、梁芳、何鼎、李廣、蔣琮、劉瑾、張永、谷大用

原文列傳第一百九十二 宦官一 鄭和 金英 王振 曹吉祥 懷恩 汪直 梁芳 何鼎 李廣 蔣琮 劉瑾 張永 谷大用

宦官

原文宦官

明の太祖は江左を平定した後、前代の過失を鑑み、宦官を置くも百人に満たなかった。末年になって『祖訓』を頒布し、十二監および各司局を定めて、ようやく人員が整備された。しかし制度として、外臣の文武の官職を兼ねることを許さず、外臣の冠服を着用することを許さず、官位は四品を超えず、月米は一石、衣食は内廷に仰いだ。かつて鉄牌を刻んで宮門に置き、「内臣は政事に干渉することを許さず、干渉する者は斬る」と記した。諸司に命じて文書の往来を行わしめなかった。老いた宦官で長く供事した者がおり、ある日政事について穏やかに語ったところ、帝は大いに怒り、即日郷里に追い返した。かつて杜安道を御用監に用いたことがある。安道は外臣であり、鑷工として数十年帝に仕え、帷幄の計議にすべて参与し、性格は緻密で漏らさず、諸大臣の前を通る時は一揖するだけで口を開かずに退いた。太祖は彼を愛したが、それ以外の寵遇はなく、後に転出して光禄寺卿となった。趙成という者がおり、洪武八年に内侍として河州に派遣され馬を買い付けた。その後、馬の買い付けで出た者には、司礼監の慶童らもいるが、皆敢えて干渉や窃盗を行うことはなかった。建文帝が位を継ぐと、内臣を統御すること一層厳しく、詔を出して外で少しでも不法があれば、有司に捕縛して上奏することを許した。燕王の軍が江北に迫ると、内臣の多くはその軍に逃げ込み、朝廷の虚実を漏らした。文皇(成祖)はこれを己に忠なりとし、狗児らがさらに軍功によって寵遇を得たので、即位後は多くを委任するようになった。永楽元年、内官監の李興は勅を奉じて暹羅国王を慰労しに出向いた。三年、太監鄭和に命じて舟師を率い西洋に下らせた。八年、都督譚青の営に内官の王安らがいた。また馬靖に命じて甘粛を鎮守させ、馬騏に命じて交阯を鎮守させた。十八年、東廠を設置し、偵察を行わせた。およそ明一代における宦官の出使・専征・監軍・分鎮・臣民の隠事を探る諸大権は、皆永楽年間に始まるのである。

原文明太祖既定江左,鑒前代之失,置宦者不及百人。迨末年頒《祖訓》,乃定為十有二監及各司局,稍稱備員矣。然定制,不得兼外臣文武銜,不得御外臣冠服,官無過四品,月米一石,衣食於內庭。嘗鐫鐵牌置宮門曰:「內臣不得干預政事,預者斬。」敕諸司不得與文移往來。有老閹供事久,一日從容語及政事,帝大怒,即日斥還鄉。嘗用杜安道為御用監。安道,外臣也,以鑷工侍帝數十年,帷幄計議皆與知,性縝密不泄,過諸大臣前一揖不啟口而退。太祖愛之,然亡他寵異,後遷出為光祿寺卿。有趙成者,洪武八年以內侍使河州市馬。其後以市馬出者,又有司禮監慶童等,然皆不敢有所干竊。建文帝嗣位,御內臣益嚴,詔出外稍不法,許有司械聞。及燕師逼江北,內臣多逃入其軍,漏朝廷虛實。文皇以為忠於己,而狗兒輩復以軍功得幸,即位後遂多所委任。永樂元年,內官監李興奉敕往勞暹羅國王。三年,遣太監鄭和帥舟師下西洋。八年,都督譚青營有內官王安等。又命馬靖鎮甘肅,馬騏鎮交阯。十八年置東廠,令刺事。蓋明世宦官出使、專征、監軍、分鎮、刺臣民隱事諸大權,皆自永樂間始。

初め、太祖の制度では、内臣は読書識字あざなを許されなかった。後に宣宗が内書堂を設け、小内侍を選び、大学士陳山に教習させたので、遂に定制となった。このため多くは文墨に通じ、古今に通暁し、その智巧を逞しくして、君に逢って奸をなすようになった。数代を経るうちに、勢いは積み重なって重くなり、王振に始まり、魏忠賢に終わった。その禍敗を考察すれば、漢や唐とどれほど遠いことであろうか。間に賢者もいた、例えば懷恩、李芳、陳矩らであるが、利は一にして害は百である。今、その成敗に関わる者を拾い集め、『宦官伝』を作る。

原文初,太祖制,內臣不許讀書識字。後宣宗設內書堂,選小內侍,令大學士陳山教習之,遂為定制。用是多通文墨,曉古今,逞其智巧,逢君作奸。數傳之後,勢成積重,始於王振,卒於魏忠賢。考其禍敗,其去漢、唐何遠哉。雖間有賢者,如懷恩、李芳、陳矩輩,然利一而害百也。今摭其有關成敗者,作《宦官傳》。

鄭和

原文鄭和

鄭和は雲南の人で、世にいう三保太監である。初め藩邸で燕王に仕え、起兵に従って功があった。累進して太監に至った。成祖は恵帝が海外に逃亡したのではないかと疑い、その跡を追跡しようとし、また異域に兵威を示し、中国の富強を示そうとした。永楽三年六月、和とその同輩の王景弘らに命じて西洋に通使させた。将兵士卒二万七千八百余人を率い、多く金幣を携帯した。大船を造り、長さ四十四丈、幅十八丈のものを六十二隻建造した。蘇州劉家河から海を渡って福建に至り、さらに福建五虎門から帆を揚げ、まず占城に到達し、順次諸番国を遍歴し、天子の詔を宣べ、その君長に賜物を与え、服従しなければ武力で威圧した。五年九月、和らは帰還し、諸国の使者が和に随行して朝見した。和は捕虜とした旧港の酋長を献上した。帝は大いに喜び、爵禄賞賜を差等をつけて与えた。旧港とは、かつての三仏斉国であり、その酋長陳祖義は商旅を掠奪していた。和は使者を遣わして招諭したが、祖義は偽って降伏し、密かに迎え撃って掠奪を謀った。和はその衆を大いに破り、祖義を生け捕りにし、捕虜を献上し、都市で処刑した。

原文鄭和,雲南人,世所謂三保太監者也。初事燕王於藩邸,從起兵有功。累擢太監。成祖疑惠帝亡海外,欲蹤跡之,且欲耀兵異域,示中國富強。永樂三年六月,命和及其儕王景弘等通使西洋。將士卒二萬七千八百餘人,多賫金幣。造大舶,修四十四丈、廣十八丈者六十二。自蘇州劉家河泛海至福建,復自福建五虎門揚帆,首達占城,以次遍歷諸番國,宣天子詔,因給賜其君長,不服則以武懾之。五年九月,和等還,諸國使者隨和朝見。和獻所俘舊港酋長。帝大悅,爵賞有差。舊港者,故三佛齊國也,其酋陳祖義,剽掠商旅。和使使招諭,祖義詐降,而潛謀邀劫。和大敗其眾,擒祖義,獻俘,戮於都市。

六年九月、再び錫蘭山に赴いた。国王の亜烈苦柰児は和を国中に誘い込み、金幣を要求し、兵を発して和の船を襲撃した。和は賊の大軍が既に出払い、国内が手薄なのを窺い、率いる二千余人を以て、不意を突いてその城を攻め落とし、生け捕りに亜烈苦柰児とその妻子官属を捕らえた。和の船を襲撃していた者らはこれを聞き、戻って自救しようとしたが、官軍は再びこれを大破した。九年六月、捕虜を朝廷に献上した。帝は誅殺せず赦し、釈放して帰国させた。この時、交阯は既に破滅し、その地を郡県とし、諸邦はますます震え恐れ、来朝する者は日増しに多くなった。

原文六年九月,再往錫蘭山。國王亞烈苦柰兒誘和至國中,索金幣,發兵劫和舟。和覘賊大眾既出,國內虛,率所統二千餘人,出不意攻破其城,生擒亞烈苦柰兒及其妻子官屬。劫和舟者聞之,還自救,官軍復大破之。九年六月獻俘於朝。帝赦不誅,釋歸國。是時,交阯已破滅,郡縣其地,諸邦益震詟,來者日多。

十年十一月、再び和らに命じて使いに赴かせ、蘇門答剌に至った。その前の偽王子の蘇幹剌は、ちょうど主君を弑しいして自立を謀っており、和の賜物が己に及ばなかったことを怒り、兵を率いて官軍を迎え撃った。和は力戦し、喃渤利まで追撃してこれを捕らえ、その妻子をも捕虜とし、十三年七月に帰朝した。帝は大いに喜び、諸将士に差等をつけて賞を与えた。

原文十年十一月,復命和等往使,至蘇門答剌。其前偽王子蘇幹剌者,方謀弒主自立,怒和賜不及己,率兵邀擊官軍。和力戰,追擒之喃渤利,並俘其妻子,以十三年七月還朝。帝大喜,賚諸將士有差。

十四年冬、満剌加、古裏など十九国が皆使者を遣わして朝貢し、辞去して帰国した。再び和らに命じて同行させ、その君長に賜物を与えた。十七年七月に帰還した。十九年春に再び赴き、翌年八月に帰還した。二十二年正月、旧港の酋長施済孫が宣慰使の職を襲封することを請うたので、和は勅書と印を携えて行きこれを賜った。帰還する頃には、成祖は既に崩御していた。洪熙元年二月、仁宗は和に命じて下番した諸軍を率いて南京を守備させた。南京に守備を置くのは、和に始まるのである。宣徳五年六月、帝は即位して年久しいのに、諸番国で遠い者はまだ朝貢していないとして、和と景弘は再び命を受け、忽魯謨斯など十七国を歴訪して帰還した。

原文十四年冬,滿剌加、古裏等十九國咸遣使朝貢,辭還。復命和等偕往,賜其君長。十七年七月還。十九年春復往,明年八月還。二十二年正月,舊港酋長施濟孫請襲宣慰使職,和賫敕印往賜之。比還,而成祖已晏駕。洪熙元年二月,仁宗命和以下番諸軍守備南京。南京設守備,自和始也。宣德五年六月,帝以踐阼歲久,而諸番國遠者猶未朝貢,於是和、景弘復奉命歷忽魯謨斯等十七國而還。

和は三朝に仕え、先後七度使いを奉じ、歴訪した国は占城、爪哇、真臘、旧港、暹羅、古裏、満剌加、渤泥、蘇門答剌、阿魯、柯枝、大葛蘭、小葛蘭、西洋瑣裏、瑣裏、加異勒、阿撥把丹、南巫裏、甘把裏、錫蘭山、喃渤利、彭亨、急蘭丹、忽魯謨斯、比剌、溜山、孫剌、木骨都束、麻林、剌撒、祖法児、沙裏湾泥、竹歩、榜葛剌、天方、黎伐、那孤児、合わせて三十余国である。得た無名の宝物は数え切れず、しかし中国の消耗もまた莫大であった。宣徳以降、遠方から時々来朝する者はあったが、要するに永楽の時には及ばず、和もまた老いて死んだ。和の後、海表に命を受ける者は皆、和を盛んに称えて外番に誇ったので、俗に三保太監下西洋は、明初の盛事と伝えられている。

原文和經事三朝,先後七奉使,所歷占城、爪哇、真臘、舊港、暹羅、古裏、滿剌加、渤泥、蘇門答剌、阿魯、柯枝、大葛蘭、小葛蘭、西洋瑣裏、瑣裏、加異勒、阿撥把丹、南巫裏、甘把裏、錫蘭山、喃渤利、彭亨、急蘭丹、忽魯謨斯、比剌、溜山、孫剌、木骨都束、麻林、剌撒、祖法兒、沙裏灣泥、竹步、榜葛剌、天方、黎伐、那孤兒,凡三十餘國。所取無名寶物,不可勝計,而中國耗廢亦不貲。自宣德以還,遠方時有至者,要不如永樂時,而和亦老且死。自和後,凡將命海表者,莫不盛稱和以誇外番,故俗傳三保太監下西洋,為明初盛事云。

成祖の時、鋭意四夷と通じようとし、使いを奉ずるには多く中貴を用いた。西洋には和と景弘、西域には李達、迤北には海童、そして西番には多く侯顯を使者とした。

原文當成祖時,銳意通四夷,奉使多用中貴。西洋則和、景弘,西域則李達,迤北則海童,而西番則率使侯顯。

侯顯

原文侯顯

侯顯は、司礼少監である。帝は烏思蔵の僧侶尚師哈立麻が道術に通じ、幻化を善くすると聞き、一度会いたいと思い、それによって迤西の諸番と通じようとした。そこで侯顯に命じて書幣を携えて迎えに行かせ、壮士と健馬を選んで護衛させた。元年四月に使節として出発し、陸路数万里を行き、四年十二月にようやくその僧侶とともに来朝した。詔して駙馬都尉沐昕にこれを迎えさせた。帝は奉天殿で引見し、寵愛と賜物は厚く、儀仗・鞍馬・什器の多くを金銀で作り、道中の威勢は赫々たるものがあった。五年二月、霊谷寺に普度大斎を建て、高帝・高后のために福を薦めた。ある者は卿雲・天花・甘露・甘雨・青鳥・青獅・白象・白鶴および舎利の祥光が、連日ことごとく現れたと言い、また梵唄や天楽が空から降りてくるのを聞いたとも言う。帝はますます大いに喜び、廷臣は上表して賀し、学士胡広らはみな『聖孝瑞応歌』の詩を献じた。そこで哈立麻を万行具足十方最勝円覚妙智慧善普応祐国演教如来大宝法王西天大善自在仏に封じ、天下の釈教を統領させ、印誥の制は諸王と同じく与え、その徒三人もまた灌頂大国師に封じ、再び奉天殿で宴を開いた。侯顯は使節としての功労により、太監に抜擢された。

原文侯顯者,司禮少監。帝聞烏思藏僧尚師哈立麻有道術,善幻化,欲致一見,因通迤西諸番。乃命顯賫書幣往迓,選壯士健馬護行。元年四月奉使,陸行數萬里,至四年十二月始與其僧偕來,詔駙馬都尉沐昕迎之。帝延見奉天殿,寵賚優渥,儀仗鞍馬什器多以金銀為之,道路烜赫。五年二月建普度大齋於靈谷寺,為高帝、高後薦福。或言卿雲、天花、甘露、甘雨、青鳥、青獅、白象、白鶴及舍利祥光,連日畢見,又聞梵唄天樂自空而下。帝益大喜,廷臣表賀,學士胡廣等咸獻《聖孝瑞應歌》詩。乃封哈立麻萬行具足十方最勝圓覺妙智慧善普應祐國演教如來大寶法王西天大善自在佛,領天下釋教,給印誥制如諸王,其徒三人亦封灌頂大國師,再宴奉天殿。顯以奉使勞,擢太監。

十一年春、再び命を受け、西番の尼八剌・地湧塔の二国に賜物を与えた。尼八剌王沙的新葛は使者を侯顯に随行させて入朝し、表を奉り方物を貢いだ。詔して国王に封じ、誥印を賜った。十三年七月、帝は榜葛剌諸国と通じようと思い、再び侯顯に命じて舟師を率いて行かせた。その国はすなわち東インドの地で、中国からは極めて遠い。その王賽仏丁は使者を遣わして麒麟および諸方物を貢いだ。帝は大いに喜び、賜物を増やした。榜葛剌の西に、沼納朴児という国がある。地は五インドの中にあり、古い仏国であるが、榜葛剌を侵した。賽仏丁が朝廷に訴えた。十八年九月、侯顯を遣わして宣諭させ、金幣を賜い、そこで兵を罷めさせた。宣徳二年二月、再び侯顯を使者として諸番に賜物を与えさせ、烏斯蔵・必力工瓦・霊蔵・思達蔵の諸国を遍歴して帰還した。途中で賊寇に遭遇し劫掠されたが、将士を督して力戦し、多くを斬り捕らえた。還朝し、功績を記録して昇進・賞賜を受けた者は四百六十余人に及んだ。

原文十一年春復奉命,賜西番尼八剌、地湧塔二國。尼八剌王沙的新葛遣使隨顯入朝,表貢方物。詔封國王,賜誥印。十三年七月,帝欲通榜葛剌諸國,復命顯率舟師以行,其國即東印度之地,去中國絕遠。其王賽佛丁遣使貢麒麟及諸方物。帝大悅,錫予有加。榜葛剌之西,有國曰沼納樸兒者,地居五印度中,古佛國也,侵榜葛剌。賽佛丁告於朝。十八年九月命顯往宣諭,賜金幣,遂罷兵。宣德二年二月復使顯賜諸番,遍歷烏斯藏、必力工瓦、靈藏、思達藏諸國而還。途遇寇劫,督將士力戰,多所斬獲。還朝,錄功升賞者四百六十餘人。

侯顯は才弁があり、強力で敢えて任に当たり、五度絶域に使いし、その労績は鄭和に次ぐものであった。

原文顯有才辨,強力敢任,五使絕域,勞績與鄭和亞。

金英(興安)

原文金英(興安)

金英は、宣宗朝の司礼太監であり、親信されて用いられた。宣徳七年、金英および范弘に免死の詔を賜い、その文辞は極めて褒め称えるものであった。英宗が立つと、興安とともに貴寵された。王振が権力を擅にするに及んで、金英はこれと抗うことができなかった。正統十四年夏、旱魃があり、金英に命じて刑部・都察院の獄囚を審理させ、大理寺に壇を築かせた。金英は黄蓋を張り中央に座り、尚書以下は左右に列座した。この時より六年ごとに一審録する制度は、すべてこのようになった。その秋、英宗が北狩(土木の変)すると、中外大いに震動した。郕王は金英・興安らに廷臣を召して計を問わせた。侍読徐呈が南遷を提唱すると、興安がこれを叱り、徐呈を扶け出させ、大声で言った。「遷都を言う者は斬る!」そこで太后に告げ入り、郕王に于謙を任じて戦守を治めさせるよう勧めた。あるいは、徐呈を叱ったのは金英であるとも言う。

原文金英者,宣宗朝司禮太監也,親信用事。宣德七年賜英及範弘免死詔,辭極褒美。英宗立,與興安並貴幸。及王振擅權,英不敢與抗。正統十四年夏旱,命英理刑部、都察院獄囚,築壇大理寺。英張黃蓋中坐,尚書以下左右列坐。自是六年一審錄,制皆如此。其秋,英宗北狩,中外大震。郕王使英、安等召廷臣問計。侍讀徐呈倡議南遷,安叱之,令扶呈出,大言曰:「敢言遷者斬!」遂入告太后,勸郕王任于謙治戰守。或曰叱呈者,英也。

也先が侵入し徳勝門に至ると、景帝は興安と李永昌に于謙・石亨とともに軍務を総理するよう命じた。李永昌もまた司礼の近侍である。景泰元年十一月、金英が贓罪を犯し、獄に下されて死罪と論じられた。帝はこれを禁錮するよう命じ、景帝の世が終わるまで廃して用いず、ただ興安だけを任用した。也先が使者を遣わして和議を請い、上皇(英宗)を迎えたいと言うと、廷議で返礼の使者を送ることになった。帝は快く思わず、興安を出させ、群臣に向かって呼ばわらせた。「公らは返礼の使者を送りたいというが、誰が適任か? 誰が文天祥や富弼なのか!」言葉と表情はともに厳しかった。尚書王直が面と向かってこれを論破すると、興安は言葉に詰まった。やがて都給事中李寔を派遣することになったが、勅書には上皇を迎えることに言及しなかった。李寔は驚き、走って内閣に報告しようとし、興安に出会った。興安はまた罵って言った。「お前は黄紙の詔を奉じて行くだけだ、他に何か関わることか!」そして皇太子の廃立(易儲)の件では、人々はついに興安が予め謀っていたと疑うようになった。

原文也先入寇,至德勝門,景帝敕安與李永昌同于謙、石亨總理軍務。永昌,亦司禮近侍也。景泰元年十一月,英犯贓罪,下獄論死。帝令禁錮之,終景帝世廢不用,獨任安。也先遣使議和,請迎上皇,廷議報使。帝不懌,令安出,呼群臣曰:「公等欲報使,孰可者?孰為文天祥、富弼!」詞色俱厲。尚書王直面折之,安語塞。及遣都給事中李寔往,敕書不及迎上皇。寔驚,走白內閣,遇安。安復詬曰:「若奉黃紙詔行耳,他何預!」及易儲諸,人遂疑安預謀矣。

興安には廉潔な節操があり、かつ于謙の賢さを知って、力を尽くして彼を庇護した。ある者が帝が于謙を任用しすぎると言うと、興安は言った。「国を分かち憂える于公のような者は、どうして二人といようか!」

原文安有廉操,且知于謙賢,力護之。或言帝任謙太過,安曰:「為國分憂如于公者,寧有二人!」

英宗が復辟すると、景帝が用いた太監王誠・舒良・張永・王勤らを磔刑に処し、彼らが黄厷と邪議を構え、太子を廃立し、かつ于謙・王文と謀って外藩を立てようとしたと言った。そこで給事中・御史らは皆、興安が王誠・舒良らと党をなしたと言い、同じ罪にすべきだと主張した。帝はこれを赦し、ただ官職を奪っただけだった。この時、宦官で誅殺に坐する者は多く、興安はただ免れただけだったという。興安は仏を佞ねいし、臨終に、骨を搗いて灰とし、浮屠(仏塔)に供えるよう遺言した。

原文英宗復辟,蓋磔景帝所用太監王誠、舒良、張永、王勤等,謂其與黃厷構邪議,易太子,且與于謙、王文謀立外藩。於是給事、御史皆言安與誠、良等為黨,宜同罪。帝宥之,但奪職。是時,中官坐誅者甚眾,安僅獲免云。安佞佛,臨歿,遺命舂骨為灰,以供浮屠。

范弘

原文范弘

范弘は、交阯の人で、初名は安といった。永楽年間、英国公張輔が交阯の童子で美秀な者を連れ帰り、宦官に選ばれたが、范弘および王瑾・阮安・阮浪らがこれに与った。応対は嫺雅で、成祖はこれを愛し、読書を教え、経史に通じさせ、筆札を善くし、仁宗の東宮に侍らせた。宣徳初年、改名させられ、累進して司礼太監となり、金英とともに免死の詔を受け、また金英および御用太監王瑾とともに銀記を賜った。正統年間、英宗は范弘を眷愛し、かつて彼を「蓬莱吉士」と目した。十四年、従征し、土木で没し、喪が帰ると、香山の永安寺に葬られたが、この寺は范弘が建立したものである。一方、王瑾は景泰年間になってようやく没した。

原文范弘,交阯人,初名安。永樂中,英國公張輔以交童之美秀者還,選為奄,弘及王瑾、阮安、阮浪等與焉。占對嫻雅,成祖愛之,教令讀書,涉經史,善筆劄,侍仁宗東宮。宣德初,為更名,累遷司禮太監,偕英受免死詔,又偕英及御用太監王瑾同賜銀記。正統時,英宗眷弘,嘗目之曰蓬來吉士。十四年從征,歿於土木,喪歸,葬香山水安寺,弘建也。而王瑾至景泰時始卒。

王瑾は、初名を陳蕪といった。宣宗が皇太孫の時、朝夕に給事した。即位すると、姓名を賜った。漢王高煦の征討に従って帰還すると、四方の兵事に参預し、賞賜は累巨万に及び、数度にわたり「忠肝義胆」「金貂貴客」「忠誠自励」「心跡双清」という銀記を賜った。また二人の宮人を賜い、その養子王椿に官職を与えた。その寵愛眷顧は、金英・范弘も及ばないところであった。

原文瑾,初名陳蕪。宣宗為皇太孫時,朝夕給事。及即位,賜姓名。從征漢王高煦還,參預四方兵事,賞賚累巨萬,數賜銀記曰「忠肝義膽」,曰「金貂貴客」,曰「忠誠自勵」,曰「心跡雙清」。又賜以兩宮人,官其養子王椿。其受寵眷,英、弘莫逮也。

阮安は巧みな思慮があり、成祖の命を受けて北京の城池・宮殿および百官の府廨を営み、目で測り心で計画して、すべて規制に適い、工部はただ奉行するだけであった。正統年間、三殿を重建し、楊村河を治め、ともに功績があった。景泰年間、張秋河を治め、道中で卒し、囊中に十金もなかった。

原文阮安有巧思,奉成祖命營北京城池宮殿及百司府廨,目量意營,悉中規制,工部奉行而已。正統時,重建三殿,治楊村河,並有功。景泰中,治張秋河,道卒,囊無十金。

阮浪は景帝の時に至り、御用監少監となった。英宗が南宮に居た時、阮浪が入って侍ると、鍍金の繍袋および鍍金の刀を賜った。阮浪はこれを門下の皇城使王瑤に贈った。錦衣衛指揮の盧忠は、険悪な人物で、王瑤の袋と刀が通常の制と異なるのを見て、王瑤を酔わせてこれを窃盗し、尚衣監の高平に告げた。高平は校尉李善に命じて変事を上奏させ、阮浪が上皇の命を伝え、袋と刀で王瑤と結んで復位を謀ったと言わせた。景帝は阮浪・王瑤を詔獄に下し、盧忠がこれを証言したため、阮浪・王瑤はともに磔刑に処せられて死んだが、供述は終始上皇に及ばなかった。英宗が復辟すると、盧忠および高平を磔刑に処し、阮浪に太監を追贈した。

原文阮浪至景帝時,為御用監少監。英宗居南宮,浪入侍,賜鍍金繡袋及鍍金刀。浪以贈門下皇城使王瑤。錦衣衛指揮盧忠者,險人也,見瑤袋刀異常制,醉瑤而竊之,以告尚衣監高平。平令校尉李善上變,言浪傳上皇命,以袋刀結瑤謀復位。景帝下浪、瑤詔獄,忠證之,浪、瑤皆磔死,詞終不及上皇。英宗復辟,磔忠及平,而贈浪太監。

王振

原文王振

王振は蔚州の人である。年少の頃選抜されて内書堂に入った。英宗が東宮に在った時、侍して局郎となった。初め、太祖は宦官の政事への関与を禁じた。永楽の後より、次第に委任寄託が加えられたが、法を犯せば直ちに極刑に処せられた。宣宗の時、袁琦が阮巨隊らをして外に出て採買させた。事が発覚し、袁琦は磔刑に処せられ、阮巨隊らは皆斬首された。また裴可烈らが不法を働き、直ちに誅殺された。諸宦官はこのため敢えて横行できなかった。英宗が即位すると、年少であった。王振は狡猾で帝の歓心を得、遂に金英ら数人を越えて司礼監を掌り、帝を導いて重典をもって臣下を統御し、大臣の欺瞞を防いだ。ここにおいて大臣で獄に下される者が絶えず、王振はこれによって権勢を売買することができた。しかしこの時は、太皇太后が賢明で、政事を内閣に委ねていた。閣臣の楊士奇・楊栄・楊溥は皆累朝の元老であり、王振は内心畏れて未だ敢えてほしいままにしなかった。正統七年に至り、太皇太后が崩御し、楊栄は既に先に卒し、楊士奇は子の楊稷が死罪と論ぜられて出仕せず、楊溥は老病であり、新たな閣臣の馬愉・曹鼐は勢い軽く、王振は遂に跋扈して制御できなくなった。皇城の東に大邸宅を造営し、智化寺を建立し、土木の工を極めた。麓川の軍を起こし、西南は騒動した。侍講の劉球が雷震に因って上言し得失を陳べ、言葉は王振を刺した。王振は劉球を獄に下し、指揮の馬順に命じてこれを支解させた。大理少卿の薛瑄・祭酒の李時勉は平素より王振を礼遇しなかった。王振は他事を摘発して薛瑄を陥れ死に至らしめ、李時勉は国子監の門に枷をはめられるに至った。御史の李鐸が王振に会って跪かず、鉄嶺衛に流罪となった。駙馬都尉の石璟がその家の宦官を罵ったが、王振は賎しい者が己と同類であることを憎み、石璟を獄に下した。霸州知州の張需が牧馬校卒を禁制したことに怒り、これを逮捕し、併せて張需の挙主である王鐸を連座させた。また戸部尚書の劉中敷、侍郎の呉璽・陳常を長安門に枷で拘束した。忤逆し恨む者があれば、直ちに罪を加えて流罪とした。内侍の張環・顧忠、錦衣衛の卒の王永が心に不平を抱き、匿名の書をもって王振の罪状を暴露した。事が発覚し、市で磔刑に処せられ、覆奏されなかった。

原文王振,蔚州人。少選入內書堂。侍英宗東宮,為局郎。初,太祖禁中官預政。自永樂後,漸加委寄,然犯法輒置極典。宣宗時,袁琦令阮巨隊等出外采辦。事覺,琦磔死,巨隊等皆斬。又裴可烈等不法,立誅之。諸中官以是不敢肆。及英宗立,年少。振狡黠得帝歡,遂越金英等數人掌司禮監,導帝用重典禦下,防大臣欺蔽。於是大臣下獄者不絕,而振得因以市權。然是時,太皇太后賢,方委政內閣。閣臣楊士奇、楊榮、楊溥,皆累朝元老,振心憚之未敢逞。至正統七年,太皇太后崩,榮已先卒,士奇以子稷論死不出,溥老病,新閣臣馬愉、曹鼐勢輕,振遂跋扈不可制。作大第皇城東,建智化寺,窮極土木。興麓川之師,西南騷動。侍講劉球因雷震上言陳得失,語刺振。振下球獄,使指揮馬順支解之。大理少卿薛瑄、祭酒李時勉素不禮振。振摭他事陷瑄幾死,時勉至荷校國子監門。御史李鐸遇振不跪,謫戍鐵嶺衛。駙馬都尉石璟詈其家閹,振惡賤己同類,下璟獄。怒霸州知州張需禁飭牧馬校卒,逮之,並坐需舉主王鐸。又械戶部尚書劉中敷,侍郎吳璽、陳常於長安門。所忤恨,輒加罪謫。內侍張環、顧忠、錦衣衛卒王永心不平,以匿名書暴振罪狀。事發,磔於市,不覆奏。

帝は正に心を傾けて王振に向かい、嘗て先生と呼んだ。王振に勅を賜い、極めて褒め称えた。王振の権勢は日増しに積み重なり、公侯勛戚は翁父と呼んだ。禍を畏れる者は争って王振に附き死を免れ、賄賂が輻輳した。工部郎中の王祐は諂うことを善くして本部侍郎に抜擢され、兵部尚書の徐晞ら多くは屈膝するに至った。その甥の王山・王林は都督指揮に蔭官された。私党の馬順・郭敬・陳官・唐童らは併せてほしいままに行い憚らなかった。久しくして、瓦剌と隙を構え、王振は遂に敗れた。瓦剌とは、元の裔である。十四年、その太師の也先が馬を貢いだが、王振がその価を減らしたため、使者は憤って去った。秋七月、也先が大挙して侵入し、王振は帝を挟んで親征した。廷臣は交々諫めたが、聞き入れなかった。宣府に至り、大風雨があり、また諫める者があったが、王振はますます哮り怒った。成国公の朱勇らが事を申し述べるに、皆膝行して進んだ。尚書の鄺埜・王佐が王振の意に逆らい、草むらに跪くことを罰せられた。その党の欽天監正の彭徳清が天象をもって諫めたが、王振は終に従わなかった。八月己酉、帝は大同に駐蹕し、王振はますます北進を欲した。鎮守太監の郭敬が敵の情勢を告げ、王振は初めて懼れた。班師し、双寨に至り、雨が甚だしかった。王振は初め紫荊関を経由する道を議し、蔚州を経由して帝をその邸宅に招こうとしたが、既に郷里の作物を踏み荒らすことを恐れ、再び宣府を経由する道に改めた。軍士は迂回して奔走し、壬戌に初めて土木に駐屯した。瓦剌の兵が追い至り、軍は大いに潰えた。帝は蒙塵し、王振は乱兵に殺された。敗報が聞こえ、百官は慟哭し、都御史の陳鎰らが朝廷で王振の罪を奏し、給事中の王竑らが直ちに馬順及び毛・王の二中官を撃殺した。郕王が命じて王山を市で臠切りにし、併せて王振の党を誅し、王振の一族は少長皆斬首された。王振が権を擅にして七年、その家を没収すると、金銀六十余庫、玉盤百、珊瑚高さ六七尺のもの二十余株、その他の珍玩数え切れずを得た。先に、郭敬が大同を鎮守し、密かに箭鏃数十甕を造り、王振の命によって瓦剌に贈り、瓦剌は良馬をもって報いた。帝が親征した時、西寧侯の宋瑛・駙馬都尉の井源が前鋒となり、敵に陽和で遭遇したが、郭敬がまた妨げて敗北させた。この時に至って逃げ帰り、また連座して誅殺された。

原文帝方傾心向振,嘗以先生呼之。賜振敕,極褒美。振權日益積重,公侯勛戚呼曰翁父。畏禍者爭附振免死,賕賂輳集。工部郎中王祐以善諂擢本部侍郎,兵部尚書徐晞等多至屈膝。其從子山、林至蔭都督指揮。私黨馬順、郭敬、陳官、唐童等並肆行無忌。久之,構釁瓦剌,振遂敗。瓦剌者,元裔也。十四年,其太師也先貢馬,振減其直,使者恚而去。秋七月,也先大舉入寇,振挾帝親征。廷臣交諫,弗聽。至宣府,大風雨,復有諫者,振益虓怒。成國公朱勇等白事,咸膝行進。尚書鄺埜、王佐忤振意,罰跪草中。其黨欽天監正彭德清以天象諫,振終弗從。八月己酉,帝駐大同,振益欲北。鎮守太監郭敬以敵勢告,振始懼。班師,至雙寨,雨甚。振初議道紫荊關,由蔚州邀帝幸其第,既恐蹂鄉稼,復改道宣府。軍士紆回奔走,壬戌始次土木。瓦剌兵追至,師大潰。帝蒙塵,振乃為亂兵所殺。敗報聞,百官慟哭,都御史陳鎰等廷奏振罪,給事中王竑等立擊殺馬順及毛、王二中官。郕王命臠王山於市,並振黨誅之,振族無少長皆斬。振擅權七年,籍其家,得金銀六十餘庫,玉盤百,珊瑚高六七尺者二十餘株,他珍玩無算。先是,郭敬鎮大同,幾造箭鏃數十甕,以振命遺瓦剌,瓦剌輒報以良馬。及帝親征,西寧侯宋瑛、駙馬都尉井源為前鋒,遇敵陽和,敬又撓使敗。至是逃歸,亦坐誅。

英宗が復辟すると、王振を顧みて措かずにはいられなかった。太監の劉恒の言を用い、王振に祭を賜い、招魂して葬り、智化寺に祀り、祠に精忠と賜名した。そして王振の門下の曹吉祥がまた奪門の功によって、寵愛を受け政を専らにした。

原文英宗復辟,顧念振不置。用太監劉恒言,賜振祭,招魂以葬,祀之智化寺,賜祠曰精忠。而振門下曹吉祥復以奪門功,有寵顓政。

曹吉祥

原文曹吉祥

曹吉祥は灤州の人である。平素より王振に依った。正統初年、麓川を征し、監軍となった。兀良哈を征し、成国公の朱勇・太監の劉永誠と分道した。また寧陽侯の陳懋らと福建で鄧茂七を征し、曹吉祥は出る毎に、輒ち達官・跳蕩卒を選んで帳下に隷属させ、軍が還ると家に蓄えたので、家に多く甲冑を蔵した。

原文曹吉祥,灤州人。素依王振。正統初,征麓川,為監軍。征兀良哈,與成國公朱勇、太監劉永誠分道。又與寧陽侯陳懋等征鄧茂七於福建,吉祥每出,輒選達官、跳蕩卒隸帳下,師還畜於家,故家多藏甲。

景泰年中、京営を分掌した。後に石亨と結び、兵を率いて英宗を迎えて復位させた。司礼太監に遷り、三大営を総督した。嗣子の曹欽、甥の曹鉉・曹䥧らは皆都督に官し、曹欽は昭武伯に進封され、門下の賤しい者で官を冒す者は千百人に及び、朝士にも依附して進用を望む者があり、権勢は石亨と等しく、時に併せて曹・石と称された。二人は言官が言うことを憎み、共に帝に讒言し、吏部尚書の王翺に命じて三十五歳以上を察核して留め、及ばない者を調用させた。ここにおいて給事中の何玘ら十三人が州判官に改められ、御史の呉禎ら二十三人が知県に改められた。時に風雷雨雹の変があり、帝は乃ち悟り、悉くその職に還した。未だ幾ばくもなく、二人は寵を争って隙が生じ、御史の楊瑄・張鵬がこれを弾劾したので、曹吉祥は乃ち再び石亨と合し、隙に乗じて帝を醞した。帝は楊瑄らを詔獄に下し、閣臣の徐有貞・李賢らを逮捕して処罰した。事は李賢伝に具わる。承天門に災害があり、帝は閣臣の嶽正に命じて罪己詔を草させたが、詔の言葉が激切であった。曹吉祥・石亨がまた嶽正が誹謗したと讒言し、帝はまた嶽正を貶した。気焰はますます張り、朝野は側目した。

原文景泰中,分掌京營。後與石亨結,帥兵迎英宗復位。遷司禮太監,總督三大營。嗣子欽,從子鉉、䥧等皆官都督,欽進封昭武伯,門下廝養冒官者多至千百人,朝士亦有依附希進者,權勢與石亨埒,時並稱曹、石。二人惡言官有言,共譖於帝,命吏部尚書王翺察核年三十五以上者留,不及者調用。於是給事何玘等十三人改州判官,御史吳禎等二十三人改知縣。會有風雷雨雹之變,帝乃悟,悉還其職。未幾,二人爭寵有隙,御史楊瑄、張鵬劾之,吉祥乃復與亨合,乘間醞帝。帝為下瑄等詔獄,而逮治閣臣徐有貞、李賢等。事具賢傳。承天門災,帝命閣臣嶽正草罪己詔,詔語激切。吉祥、亨復正謗訕,帝又謫正。焰益張,朝野仄目。

長くして、帝はその奸を覚り、心に少しずつ疑いを抱く。李賢が奪門は非なりと力説するに及んで、始めて大いに悟り、吉祥を疎んず。間もなく、石亨敗れ、吉祥自ら安からず、次第に異謀を蓄え、日々諸達官を犒い、金銭・穀帛を恣に取らしむ。諸達官は吉祥の敗れて己も随いて黜退されるを恐れ、皆力を尽くし死を効さんと願う。欽、客の馮益に問うて曰く、「古より宦官の子弟にして天子たる者あるか」と。益曰く、「君が家の魏武、その人なり」と。欽大いに喜ぶ。天順五年七月、欽、家人の曹福来を私に掠め、言官に弾劾される。帝、錦衣指揮の逮杲に命じてこれを按じ、勅を降して群臣に遍く諭す。欽驚きて曰く、「前に勅を降せしとき、遂に石将軍を捕えたり。今また爾り、危うきかな」と。謀遂に決す。この時、甘・涼より警報あり、帝、懐寧侯孫鏜に命じて西征せしむ、未だ発せず。吉祥、その党の掌欽天監太常少卿湯序をしてこの月の庚子の昧爽を択ばしめ、欽に兵を擁して入らしめ、而して己は禁軍を以てこれに応ぜんとす。謀定まり、欽、諸達官を召して夜飲す。この夜、鏜及び恭順侯呉瑾ともに朝房に宿す。達官の馬亮、事の敗るるを恐れ、逸出し、走って瑾に告ぐ。瑾、鏜を促して長安右門の隙より疏を投じて入らしむ。帝急ぎて吉祥を内に縶し、而して皇城及び京城九門を閉じて啓かざらしむ。欽、亮の逸れたるを知り、中夜馳せ往きて逮杲の家に至り、杲を殺し、李賢を東朝房にて斬り傷つく。杲の頭を以て賢に示して曰く、「杲我を激せしなり」と。また都御史寇深を西朝房にて殺す。東・西長安門を攻むるも入るを得ず、火を放つ。守衛者、河壖の磚石を拆きて諸門を塞ぐ。賊往来して門外に叫呼す。鏜、二子を遣わして急ぎ西征軍を召し、欽を東長安門にて撃たしむ。欽走りて東安門を攻め、途上にて瑾を殺す。また火を放ち、門毀る。門内に薪を聚めてこれを益し、火熾んにして、賊入るを得ず。天漸く曙け、欽の党少しずつ散去す。鏜兵を勒して欽を逐い、鉉・䥧を斬り、鏜の子軏、欽の膊を斬り中つ。欽走りて安定諸門を突く、門尽く閉ず。家に奔り帰り、戦いを拒む。会うこと大雨注ぐが如く、鏜諸軍を督して大呼して入り、欽井に投じて死す。遂に鐸を殺し、その家を尽く屠る。三日を越え、吉祥を市にて磔く。湯序・馮益及び吉祥の姻党皆伏誅す。馬亮は反を告げたるを以て、都督に授く。

原文久之,帝覺其奸,意稍稍疑。及李賢力言奪門非是,始大悟,疏吉祥。無何,石亨敗,吉祥不自安,漸蓄異謀,日犒諸達官,金錢、穀帛恣所取。諸達官恐吉祥敗而己隨黜退也,皆願盡力效死。欽問客馮益曰:「自古有宦官子弟為天子者乎?」益曰:「君家魏武,其人也。」欽大喜。天順五年七月,欽私掠家人曹福來,為言官所劾。帝令錦衣指揮逮杲按之,降敕遍諭群臣。欽驚曰:「前降敕,遂捕石將軍。今復爾,殆矣。」謀遂決。是時甘、涼告警,帝命懷寧侯孫鏜西征,未發。吉祥使其黨掌欽天監太常少卿湯序擇是月庚子昧爽,欽擁兵入,而已以禁軍應之。謀定,欽召諸達官夜飲。是夜,鏜及恭順侯吳瑾俱宿朝房。達官馬亮恐事敗,逸出,走告瑾。瑾趣鏜由長安右門隙投疏入。帝急縶吉祥於內,而敕皇城及京城九門閉弗啟。欽知亮逸,中夜馳往逮杲家,殺杲,斫傷李賢於東朝房。以杲頭示賢曰:「杲激我也。」又殺都御史寇深於西朝房。攻東、西長安門不得入,縱火。守衛者拆河壖磚石塞諸門。賊往來叫呼門外。鏜遣二子急召西征軍擊欽於東長安門。欽走攻東安門,道殺瑾。復縱火,門毀。門內聚薪益之,火熾,賊不得入。天漸曙,欽黨稍稍散去。鏜勒兵逐欽,斬鉉、䥧,鏜子軏斫欽中膊。欽走突安定諸門,門盡閉。奔歸家,拒戰。會大雨如註,鏜督諸軍大呼入,欽投井死。遂殺鐸,盡屠其家。越三日,磔吉祥於市。湯序、馮益及吉祥姻黨皆伏誅。馬亮以告反者,授都督。

英宗始めて王振を任用し、継いで吉祥を任用し、凡そ二度禍乱を致す。他の宦者、跛児幹・亦失哈・喜寧・韋力転・牛玉の類は、率ね凶狡なり。土木の敗に、跛児幹・喜寧皆敵に降る。跛児幹は敵を助けて反攻し、内使黎定を射る。既にして又敵の使として京に至り、需索する所あり、景帝これを執りて誅す。喜寧は数えても先に策を画き、賞賜を索め、導いて辺寇掠せしむ。上皇これを患え、也先に言う。寧をして還京して礼物を索めしめ、而して校尉袁彬に命じて密書を以て辺臣に報ぜしむ。独石に至り、参将楊俊、寧を擒えて京師に送り、景泰元年二月市にて磔く。亦失哈は遼東を鎮む。敵広寧を犯すに、亦失哈は官軍を禁じて出撃せしめず。百戸施帯児は敵に降り、脱脱不花のために亦失哈に通ず。正統十四年冬、帯児逃れ帰り、巡按御史劉孜並びに亦失哈及び他の不法の事を劾す。景帝、帯児を誅するを命じ、而して亦失哈を置いて問わず。韋力転は、性淫毒にして、大同を鎮守し、過悪多し。軍の妻が宿を共にせざるを恨み、その軍を杖死せしむ。また養子の妻と淫戯し、養子を射殺す。天順元年、工部侍郎霍瑄、力転の王者の如き金器を僭用し、及び部下の女を強娶して妾とせる諸不法の事を発す。帝怒り、これを執り下して錦衣衛の獄とし、既にしてこれを宥す。牛玉の事は、詳しく『呉廃後伝』にあり。

原文英宗始任王振,繼任吉祥,凡兩致禍亂。其他宦者若跛兒幹、亦失哈、喜寧、韋力轉、牛玉之屬,率凶狡。土木之敗,跛兒幹、喜寧皆降敵。跛兒幹助敵反攻,射內使黎定。既又為敵使至京,有所需索,景帝執而誅之。喜寧數為也先畫策,索賞賜,導入邊寇掠。上皇患之,言於也先;使寧還京索禮物,而命校尉袁彬以密書報邊臣。至獨石,參將楊俊擒寧送京師,景泰元年二月磔於市。亦失哈鎮遼東。敵犯廣寧,亦失哈禁官軍勿出擊。百戶施帶兒降敵,為脫脫不花通於亦失哈。正統十四年冬,帶兒逃歸,巡按御史劉孜並劾亦失哈及他不法事。景帝命誅帶兒,而置亦失哈不問。韋力轉者,性淫毒,鎮守大同,多過惡。銜軍妻不與宿,杖死其軍。又與養子妻淫戲,射殺養子。天順元年,工部侍郎霍瑄發力轉僭用金器若王者,及強娶所部女為妾諸不法事。帝怒,執之下錦衣衛獄,既而宥之。牛玉事,詳《吳廢後傳》。

劉永誠

原文劉永誠

吉祥と分道して兀良哈を征したる者は劉永誠なり。永楽の時、嘗て偏将たり、累ねて北征に従う。宣徳・正統の中、再び兀良哈を撃つ。後に甘・涼を監鎮し、沙漠に戦い、功あり。景泰の末、団営を掌る。英宗復辟し、兵を勒して従い、その嗣子聚に官す。成化の中、永誠始めて卒す。

原文其與吉祥分道征兀良哈者劉永誠,永樂時,嘗為偏將,累從北征。宣德、正統中,再擊兀良哈。後監鎮甘、涼,戰沙漠,有功。景泰末,掌團營。英宗復辟,勒兵從,官其嗣子聚。成化中,永誠始卒。

懐恩

原文懷恩

懐恩は、高密の人、兵部侍郎戴綸の族弟なり。宣宗、綸を殺し、並びに恩の父太僕卿希文の家を籍没す。恩方に幼く、宮せられて小黄門と為り、名を懐恩と賜う。憲宗の朝、司礼監を掌る。時汪直は西廠を理め、梁芳・韋興等用事す。恩の班は前に在り、性忠鯁にして撓ぐ所無く、諸閹皆これを敬憚す。員外郎林俊、芳及び僧継曉を論じて獄に下す。帝これを誅せんと欲し、恩固く争う。帝怒り、硯を以て投げて曰く、「若俊を助けて我を訕るか」と。恩冠を免じて地に伏し号哭す。帝これを叱して出だす。恩、人を遣わして鎮撫司に告げて曰く、「汝曹芳に諂いて俊を傾く。俊死せば、汝曹何を以てか生くべき」と。径ちに帰り、疾を称して起たず。帝の怒り解け、医を遣わして恩を視せしめ、遂に俊を釈す。会うこと星変あり、諸の伝奉官を罷む。御馬監王敏、馬房の伝奉者を留めんことを請う、帝これを許す。敏、恩に謁す、恩大いに罵って曰く、「星変は、専ら我曹の国政を壊す故なり。今甫かにこれを正さんと欲するに、又汝の為に壊す、天雷汝を撃たん」と。敏愧恨し、遂に死す。宝石を進むる者章瑾、錦衣衛鎮撫たらんことを求む、恩不可として曰く、「鎮撫は詔獄を掌る、奈何ぞ賄を以て進まん」と。当是の時、尚書王恕は直諫を以て名あり、恩毎に嘆じて曰く、「天下の忠義、この人のみ」と。憲宗の末、万貴妃の言に惑い、太子を易えんと欲す、恩固く争う。帝懌せず、斥いて鳳陽に居らしむ。孝宗立ち、召し帰し、仍って司礼監を掌らしめ、力めて帝を勧めて万安を逐い、王恕を用いしむ。一時の正人匯進するは、恩の力なり。卒し、祠額を賜うて曰く顕忠。

原文懷恩,高密人,兵部侍郎戴綸族弟也。宣宗殺綸,並籍恩父太僕卿希文家。恩方幼,被宮為小黃門,賜名懷恩。憲宗朝,掌司禮監。時汪直理西廠,梁芳、韋興等用事。恩班在前,性忠鯁無所撓,諸閹咸敬憚之。員外郎林俊論芳及僧繼曉下獄,帝欲誅之,恩固爭。帝怒,投以硯曰:「若助俊訕我。」恩免冠伏地號哭。帝叱之出。恩遣人告鎮撫司曰:「汝曹諂芳傾俊。俊死,汝曹何以生!」徑歸,稱疾不起。帝怒解,遣醫視恩,卒釋俊。會星變,罷諸傳奉官。御馬監王敏請留馬房傳奉者,帝許之。敏謁恩,恩大罵曰:「星變,專為我曹壞國政故。今甫欲正之,又為汝壞,天雷擊汝矣!」敏愧恨,遂死。進寶石者章瑾求為錦衣衛鎮撫,恩不可,曰:「鎮撫掌詔獄,奈何以賄進。」當是時,尚書王恕以直諫名,恩每嘆曰:「天下忠義,斯人而已。」憲宗末,惑萬貴妃言,欲易太子,恩固爭。帝不懌,斥居鳳陽。孝宗立,召歸,仍掌司禮監,力勸帝逐萬安,用王恕。一時正人匯進,恩之力也。卒,賜祠額曰顯忠。

覃吉

原文覃吉

同時に覃吉なる者有り、その由って進まる所を知らず、老閹として太子に侍る。太子年九歳、吉口ずから『四書』の章句及び古今の政典を授く。憲宗、太子に庄田を賜う、吉受くる毋からんことを勧めて曰く、「天下皆太子の有する所なり」と。太子偶々内侍に従いて仏経を読む、吉入る、太子驚きて曰く、「老伴来たれり」と。亟に『孝経』を手にす。吉跪きて曰く、「太子仏書を誦すや」と。曰く、「無し。『孝経』のみ」と。吉頓首して曰く、「甚だ善し。仏書は誕にして、信ずべからず」と。弘治の世、政治醇美、君徳清明、端本正始するは、吉力有りてなり。

原文同時有覃吉者,不知所由進,以老閹侍太子。太子年九歲,吉口授《四書》章句及古今政典。憲宗賜太子莊田,吉勸毋受,曰:「天下皆太子有也。」太子偶從內侍讀佛經,吉入,太子驚曰:「老伴來矣。」亟手《孝經》。吉跪曰:「太子誦佛書乎?」曰:「無有。《孝經》耳。」吉頓首曰:「甚善。佛書誕,不可信也。」弘治之世,政治醇美,君德清明,端本正始,吉有力焉。

汪直

原文汪直

汪直は、大藤峡の瑤種なり。初め万貴妃に給事して昭徳宮に在り、遷りて御馬監太監と為る。成化十二年、黒眚宮中に見え、妖人李子龍符術を以て太監韋舍と結び私に大内に入る。事発し、伏誅す。帝心にこれを悪み、鋭く外事を知らんと欲す。直は人便黠なり、帝因りて服を易えしめ、校尉一二人を将いて密かに出でて伺察せしむ、人知る莫し、独り都御史王越と結び歓ぶ。明年西廠を設け、直を以てこれを領せしめ、官校を列ねて事を刺さしむ。南京鎮監覃力朋進貢して還るに、百艘を以て私塩を載せ、州県を騒擾す。武城県の典史これを詰む、力朋典史を撃ち、その歯を折り、一人を射殺す。直廉みて以て聞こえ、逮治して斬を論ず。力朋後幸いに免るるを得、而して帝これに因りて直よく奸を摘むと謂い、益々直を幸いす。直乃ち錦衣百戸韋瑛を心腹と為し、屡々大獄を興す。

原文汪直者,大藤峽瑤種也。初給事萬貴妃於昭德宮,遷御馬監太監。成化十二年,黑眚見宮中,妖人李子龍以符術結太監韋舍私入大內,事發,伏誅。帝心惡之,銳欲知外事。直為人便黠,帝因令易服,將校尉一二人密出伺察,人莫知也,獨都御史王越與結歡。明年設西廠,以直領之,列官校刺事。南京鎮監覃力朋進貢還,以百艘載私鹽,騷擾州縣。武城縣典史詰之,力朋擊典史,折其齒,射殺一人。直廉得以聞,逮治論斬。力朋後得幸免,而帝以此謂直能摘奸,益幸直。直乃任錦衣百戶韋瑛為心腹,屢興大獄。

建寧衛指揮の楊曄は、故少師楊榮の曾孫であり、父の楊泰と共に仇家に訴えられ、京師に逃げ込み、姉婿の董玙の家に匿われた。董玙は汪瑛に取り成しを頼み、汪瑛は表向き承諾しながらも急ぎ汪直に報告した。汪直は直ちに楊曄と董玙を捕らえて拷問し、三度琶の刑を加えた。琶とは、錦衣衛の酷刑である。骨節はすべて寸断され、気絶してはまた蘇生する。楊曄は苦痛に耐えかね、虚言を吐いて金を叔父の兵部主事楊士偉の所に預けたと言った。汪直はさらに奏請することなく、楊士偉を捕らえて獄に下し、その妻子をも拷掠した。獄が決すると、楊曄は獄中で死に、楊泰は斬刑と論ぜられ、楊士偉らは皆貶官され、郎中の武清・楽章、行人の張廷綱、参政の劉福らは皆理由なく逮捕された。諸王府から辺鎮、南北の河道に至るまで、校尉が到る所に羅列し、民間の喧嘩や鶏犬の些細な事でも、直ちに重法を以て処し、人心は大いに乱れた。汪直が外出するたび、随従は甚だ多く、公卿も皆道を避けた。兵部尚書の項忠が避けなかったので、脅迫して辱め、その権勢の炎は東廠をも凌いだ。

原文建寧衛指揮楊曄,故少師榮曾孫也,與父泰為仇家所告,逃入京,匿姊夫董玙所。玙為請瑛,瑛陽諾而馳報直。直即捕曄、玙考訊,三琶之。琶者,錦衣酷刑也。骨節皆寸解,絕而復蘇。曄不勝苦,妄言寄金於其叔父兵部主事士偉所。直不復奏請,捕士偉下獄,並掠其妻孥。獄具,曄死獄中,泰論斬,士偉等皆謫官,郎中武清、樂章,行人張廷綱,參政劉福等皆無故被收案。自諸王府邊鎮及南北河道,所在校尉羅列,民間鬥詈雞狗瑣事,輒置重法,人情大擾。直每出,隨從甚眾,公卿皆避道。兵部尚書項忠不避,迫辱之,權焰出東廠上。

五月、大学士の商輅が万安・劉珝・劉吉と共にその状況を奏上した。帝は激怒し、司礼太監の懐恩・覃吉・黄高を閣下に遣わし、厳しい顔色で旨を伝えさせ、「上疏は誰の意によるものか」と問わせた。商輅は口を極めて汪直の罪を詳しく述べ、因みに言った、「臣等は心を一つにし、国の害を除くためであり、前後はありません」。劉珝は慷慨して涙を流した。懐恩は遂に実情に基づいて奏上した。しばらくして、旨を伝えて慰労した。翌日、尚書の項忠及び諸大臣の上疏も入った。帝は已むを得ず、西廠を廃止し、懐恩に汪直の罪を数えさせてこれを赦し、御馬監に帰らせ、韋瑛を辺衛に転任させ、諸旗校を散じて錦衣衛に還らせた。朝廷内外は大いに喜んだ。しかし帝の汪直への寵愛は衰えなかった。汪直は因みに言った、閣臣の上疏は司礼監の黄賜・陳祖生の意によるもので、楊曄への報復であると。帝は直ちに黄賜・陳祖生を南京に斥けた。御史の戴縉は、佞人である。九年任期が満ちても昇進できなかった。帝の意向を窺い、盛んに汪直の功績を称えた。詔して西廠を再開させ、千戸の呉綬を鎮撫とし、汪直の勢いはますます盛んになった。間もなく、東廠の官校に項忠を誣告させ、かつ言官の郭鏜・馮貫らに項忠の違法事を論じるようそそのかした。帝は三法司・錦衣衛に会同審問を命じた。衆人は汪直の意によることを知り、敢えて逆らう者なく、遂に項忠を平民に追いやった。そして左都御史の李賓も汪直の意に背いて職を奪われ、大学士の商輅も罷免されて去った。一時に九卿が弾劾されて罷免された者は、尚書の董方・薛遠及び侍郎の滕昭・程万里ら数十人に及んだ。親しい王越を兵部尚書兼左都御史とし、陳鉞を右副都御史として遼東巡撫とした。

原文五月,大學士商輅與萬安、劉珝、劉吉奏其狀。帝震怒,命司禮太監懷恩、覃吉、黃高至閣下,厲色傳旨,言:「疏出誰意?」輅口數直罪甚悉,因言:「臣等同心一意,為國除害,無有先後。」珝慷慨泣下。恩遂據實以奏。頃之,傳旨慰勞。翼日,尚書忠及諸大臣疏亦入。帝不得已,罷西廠,使懷恩數直罪而宥之,令歸御馬監,調韋瑛邊衛,散諸旗校還錦衣。中外大悅。然帝眷直不衰。直因言閣疏出司禮監黃賜、陳祖生意,為楊曄報復。帝即斥賜、祖生於南京。御史戴縉者,佞人也,九年秩滿不得遷。窺帝旨,盛稱直功。詔復開西廠,以千戶吳綬為鎮撫,直焰愈熾。未幾,令東廠官校誣奏項忠,且諷言官郭鏜、馮貫等論忠違法事。帝命三法司、錦衣衛會問。眾知出直意,無敢違,竟勒忠為民。而左都御史李賓亦失直旨褫職,大學士輅亦罷去。一時九卿劾罷者,尚書董方、薛遠及侍郎滕昭、程萬里等數十人。以所善王越為兵部尚書兼左都御史,陳鉞為右副都御史巡撫遼東。

十五年秋、詔して汪直に辺境巡視を命じ、飛騎を率いて日に数百里を馳せ、御史・主事等の官は馬首に迎え拝し、守令を鞭打った。各辺境の都御史は汪直を畏れ、弓袋を着けて迎え謁し、百里の外で供応を設けた。遼東に至ると、陳鉞は郊外に出迎えて平伏し、供応は特に盛大で、左右の者には皆賄賂があった。汪直は大いに喜んだ。ただ河南巡撫の秦紘のみが汪直と対等の礼をとり、密かに汪直の辺境巡視が民を擾乱していると奏上した。帝は省みなかった。兵部侍郎の馬文升がちょうど遼東を撫諭していたが、汪直が来ても礼をせず、また陳鉞を軽んじたため、陥れられて流刑に処せられ、これによって汪直の威勢は天下を傾けた。

原文十五年秋,詔直巡邊,率飛騎日馳數百里,御史、主事等官迎拜馬首,箠撻守令。各邊都御史畏直,服櫜迎謁,供張百里外。至遼東,陳鉞郊迎蒲伏,廚傳尤盛,左右皆有賄。直大悅。惟河南巡撫秦纮與直抗禮,而密奏直巡邊擾民。帝弗省。兵部侍郎馬文升方撫諭遼東,直至不為禮,又輕鉞,被陷坐戍,由是直威勢傾天下。

汪直は若くして軍事を好んだ。陳鉞は汪直に伏当加を征討し、辺境の功を立てて自らの地位を固めるようそそのかした。汪直はこれを聞き入れ、撫寧侯の朱永を総兵官とし、自らその軍を監軍した。軍が還ると、朱永は保国公に封ぜられ、陳鉞は右都御史に進み、汪直は禄米を加増された。また王越の言を用い、詐って亦思馬因が辺境を侵犯したと称した。詔して朱永が王越と共に西征し、汪直が監軍となった。王越は威寧伯に封ぜられ、汪直はさらに禄米を加増された。後に、伏当加が遼東を寇し、亦思馬因が大同を寇して、殺戮略奪甚だ多かった。遼東巡按の強珍が陳鉞の奸状を暴くと、汪直は陳鉞をかばって強珍を貶官した。ここにおいて汪直を憎む者は、王越・陳鉞を指して二鉞と呼んだ。小宦官の阿醜は俳優が巧みで、ある日帝の前で酔っぱらいが罵る様子を演じた。人が言う、「御駕がお見えです」と。罵る様子は相変わらずである。「汪太監がお見えです」と言うと、避けて逃げた。曰く、「今の人はただ汪太監を知るのみです」。また汪直の様子を演じ、二本の鉞を操って帝の前に進んだ。傍の人が問うと、言った、「我は兵を将うるに、この二鉞に頼るのみ」。何の鉞かと問うと、曰く、「王越・陳鉞です」。帝はにっこりと笑い、少し悟ったが、しかし廷臣はまだ敢えて汪直を攻撃しようとはしなかった。折しも東廠の尚銘が賊を捕らえて厚い賞賜を得たので、汪直は嫉み、かつ尚銘が報告しなかったことを怒った。尚銘は恐れ、そこで彼が禁中の秘語を漏らしたことを探り出して奏上し、王越の交際と不法の事をことごとく暴いた。帝は初めて汪直を疎んじた。

原文直年少喜兵。陳鉞諷直征伏當加,立邊功自固。直聽之,用撫寧侯朱永總兵,而自監其軍。師還,永封保國公,鉞晉右都御史,直加祿米。又用王越言,詐稱亦思馬因犯邊。詔永同越西討,直為監軍。越封威寧伯,直再加祿米。已,伏當加寇遼東,亦思馬因寇大同,殺掠甚眾。遼東巡按強珍發鉞奸狀,直右鉞謫珍。於是惡直者,指王越、陳鉞為二鉞。小中官阿醜工俳優,一日於帝前為醉者謾罵狀。人言駕至,謾如故。言汪太監至,則避走。曰:「今人但知汪太監也。」又為直狀,操兩鉞趨帝前。旁人問之,曰:「吾將兵,仗此兩鉞耳。」問何鉞,曰:「王越、陳鉞也。」帝聽然而笑,稍稍悟,然廷臣猶未敢攻直也。會東廠尚銘獲賊得厚賞,直忌,且怒銘不告。銘懼,乃廉得其所泄禁中秘語奏之,盡發王越交通不法事,帝始疏直。

十七年秋、汪直に王越と共に宣府へ往きて敵を防ぐことを命じた。敵が退くと、汪直は帰還を請うた。許されず、大同に転鎮し、将吏をすべて召還したが、ただ汪直と王越だけを留めた。汪直は久しく鎮守して還ることができず、寵愛は日々衰えた。給事中・御史が相次いで上奏してその苛酷な擾乱を弾劾し、西廠を再び廃止するよう請うた。閣臣の万安も力を込めてこれを言った。そして大同巡撫の郭鏜がまた汪直が総兵の許寧と不和であり、辺境の事を誤る恐れがあると上言した。帝はそこで汪直を南京御馬監に転任させ、西廠を廃止して再び設けなかった。朝廷内外は欣快した。まもなくまた言官の上言により、汪直を奉御に降格し、その党の王越・戴縉・呉綬らを追放した。陳鉞は既に致仕しており、問わなかった。韋瑛は後に他の事に坐して誅殺され、人々は皆快哉を叫んだが、しかし汪直は結局善終した。戴縉は御史から数年も経たずに南京工部尚書に至った。王越・陳鉞は頗る才能によって進んだ。戴縉には他に能がなく、へつらい媚びることに巧みなだけである。

原文十七年秋,命直偕越往宣府禦敵。敵退,直請班師。不許,徙鎮大同,而盡召將吏還,獨留直、越。直既久鎮不得還,寵日衰。給事御史交章奏其苛擾,請仍罷西廠。閣臣萬安亦力言之。而大同巡撫郭鏜復言直與總兵許寧不和,恐誤邊事。帝乃調直南京御馬監,罷西廠不復設。中外欣然。尋又以言官言,降直奉御,而褫逐其黨王越、戴縉、吳綬等。陳鉞已致仕,不問。韋瑛後坐他事誅,人皆快之,然直竟良死。縉由御史不數年至南京工部尚書。越、鉞頗以材進。縉無他能,工側媚而已。

西廠が廃されると、尚銘は遂に東廠の事を専らにした。京師に富室があると聞けば、直ちに事をでっち上げて絡め取り、多額の賄賂を得てやめた。官爵を売り、至らぬところはなかった。帝はまもなくそれに気づき、南京の浄軍に貶し、その家を没収して内府に運び入れたが、数日かかっても尽きなかった。そして陳準が東廠を代わった。陳準は平素から懐恩と親しく、尚銘に代わると、諸校尉に戒めて言った、「大逆があれば、我に告げよ。それでなければ、お前たちは関わるな」。都人は安心した。

原文西廠廢,尚銘遂專東廠事。聞京師有富室,輒以事羅織,得重賄乃已。賣官鬻爵,無所不至。帝尋覺之,謫充南京凈軍,籍其家,輦送內府,數日不盡。而陳準代為東廠。準素善懷恩,既代銘,誡諸校尉曰:「有大逆,告我。非是,若勿預也。」都人安之。

梁芳

原文梁芳

梁芳は、憲宗朝の内侍である。貪欲で諂佞、韋興と結託した。そして万貴妃に諂い、日に美珠珍宝を進めて妃の心を喜ばせた。その党の銭能・韋眷・王敬らは、争って采辦の名を借り、出て大鎮を監督した。帝は貴妃の故に、問わなかった。妖人李孜省・僧侶継暁は皆梁芳によって進用され、共に奸利をなした。中旨を取って官を授け、数千人を累ね、名を伝奉官といい、白衣からいきなり太常卿に至る者もあった。陝西巡撫の鄭時が梁芳を論じて罷免されると、陝西の民は泣いて見送った。帝は聞いて頗る後悔し、伝奉官十人を斥け、六人を獄に繋ぎ、詔して以後は伝旨によって官を授ける者はすべて覆奏するよう命じたが、しかし梁芳を罪にはしなかった。刑部員外郎の林俊が梁芳及び継暁を弾劾して獄に下された。久しくして、帝が内帑を視ると、累朝の金七窖がことごとく尽きているのを見て、梁芳及び韋興に言った、「帑蔵を浪費したのは、実に汝ら二人によるものだ」。韋興は敢えて答えなかった。梁芳は言った、「顕霊宮及び諸祠廟を建立したのは、陛下のために万年の福を祈るためです」。帝は快からず言った、「我は汝を咎めないが、後の人が汝と計算するであろう」。梁芳は大いに恐れ、そこで貴妃を説いて帝に太子を廃し、興王を立てるよう勧めさせた。折しも泰山がたびたび震動し、占者が言うにはその応は東宮にあると。帝は恐れ、そこで止めた。孝宗が即位すると、梁芳を南京に居らせ、まもなく獄に下し、韋興もまた斥退された。正徳初年、群閹がまた韋興を推薦して太和山の司香とし、兼ねて湖広行都司地方を分守させた。尚書の劉大夏・給事中の周璽・御史の曹来旬が諫めたが、聞き入れなかった。韋興は遂に再び用いられ、梁芳は結局廃されて死んだ。

原文梁芳者,憲宗朝內侍也。貪黷諛佞,與韋興比。而諂萬貴妃,日進美珠珍寶悅妃意。其黨錢能、韋眷、王敬等,爭假采辦名,出監大鎮。帝以妃故,不問也。妖人李孜省、僧繼曉皆由芳進,共為奸利。取中旨授官,累數千人,名傳奉官,有白衣躐至太常卿者。陜西巡撫鄭時論芳被黜,陜民哭送之。帝聞頗悔,斥傳奉官十人,系六人獄,詔自後傳旨授官者俱覆奏,然不罪芳也。刑部員外郎林俊以劾芳及繼曉下獄。久之,帝視內帑,見累朝金七窖俱盡,謂芳及韋興曰:「糜費帑藏,實由汝二人。」興不敢對。芳曰:「建顯靈宮及諸祠廟,為陛下祈萬年福耳。」帝不懌曰:「吾不汝瑕,後之人將與汝計矣」。芳大懼,遂說貴妃勸帝廢太子,而立興王。會泰山累震,占者言應在東朝。帝懼,乃止。孝宗立,謫芳居南京,尋下獄,興亦斥退。正德初,群閹復薦興司香太和山,兼分守湖廣行都司地方。尚書劉大夏、給事中周璽、御史曹來旬諫,不聽。興遂復用,而芳卒廢以死。

銭能

原文錢能

錢能は梁芳の党である。憲宗の時、鄭忠は貴州を鎮め、韋朗は遼東を鎮め、錢能は雲南を鎮め、共に恣に放縱したが、錢能が特に横暴であった。貴州巡撫陳宣が鄭忠を弾劾し、それに因って諸鎮監を尽く撤去するよう請うたが、帝は允さなかった。而して雲南巡按御史郭陽は顧みて上疏して錢能を称え、之を雲南に留めるよう請うた。旧制、安南の貢道は広西より出で、後に雲南より改めるよう請うたが、許されなかった。錢能は詐って安南の捕盗兵が国境に入ったと言い、指揮使郭景を遣わして其の王を諭すよう請うた。詔して之に従う。錢能は遂に郭景に命じて玉帯・彩繒・犬馬を以て王に贈り、其の貢使を騙して貢道を雲南に改めさせた。辺吏が阻んで入れず、乃ち去った。又た郭景と指揮盧安等を遣わして幹崖・孟密諸土司に宝貨を求めさせ、遂に曩罕弄の女孫を逼淫し、宣撫を奏授することを許すに至った。三年を逾えて、事発す。詔して巡撫都御史王恕に之を廉察させ、郭景を捕らえると、郭景は井に赴いて死す。再び刑部郎中鍾蕃を遣わして往きて按じさせると、事皆実であった。帝は錢能を赦し、而して其の党九人を法に致した。指揮姜和・李祥は就逮せず、錢能は再び上疏して二人の赦免を求め、帝は曲げて之に従う。巡按御史甄希賢が又た錢能が守礦千戸一人を杖殺したことを弾劾したが、亦た罪とせず。召し還して南京に安置す。又た縁故を求めて南京守備を得た。時に王恕は南京参賛尚書であり、錢能は心に王恕を憚って敢えて放肆せず。久しくして卒す。

原文錢能,芳黨也。憲宗時,鄭忠鎮貴州,韋朗鎮遼東,能鎮雲南,並恣縱,而能尤橫。貴州巡撫陳宣劾忠,因請盡撤諸鎮監,帝不允。而雲南巡按御史郭陽顧上疏譽能,請留之雲南。舊制,安南貢道出廣西,後請改由雲南,弗許也。能詐言安南捕盜兵入境,請遣指揮使郭景往諭其王,詔從之。能遂令景以玉帶、彩繒、犬馬遺王,紿其貢使改道雲南。邊吏格之不得入,乃去。復遣景與指揮盧安等索寶貨於幹崖、孟密諸土司,至逼淫曩罕弄女孫,許為奏授宣撫。逾三年,事發。詔巡撫都御史王恕廉之,捕景,景赴井死。再遣刑部郎中鍾蕃往按,事皆實。帝宥能,而致其黨九人於法。指揮姜和、李祥不就逮,能復上疏為二人求宥,帝曲從之。巡按御史甄希賢復劾能杖守礦千戶一人死,亦不罪。召歸,安置南京。復夤緣得南京守備。時恕為南京參贊尚書,能心憚恕不敢肆。久之卒。

韋眷・王敬も亦た梁芳の党である。韋眷は広東市舶太監となり、商人を恣にさせて諸番と通じさせ、珍宝を聚めて甚だ富みし。広南の均徭戸六十を市舶に隷属させるよう請う。布政使彭韶が之を争い、詔して其の半を給す。韋眷は又た布政使陳選を誣奏し、逮えられて道中に卒す。是より、人敢えて韋眷に逆らう者無し。弘治初、韋眷は蔡用と結びて妄りに李父貴を挙げて紀太后の族を冒称させた事により、左少監に降格され、撤回されて京に帰る。事は詳しく『紀太后伝』に在り。

原文韋眷、王敬亦芳黨。眷為廣東市舶太監,縱賈人通諸番,聚珍寶甚富。請以廣南均徭戶六十隸市舶。布政使彭韶爭之,詔給其半。眷又誣奏布政使陳選,被逮道卒,自是,人莫敢逆眷者。弘治初,眷因結蔡用妄舉李父貴冒紀太后族,降左少監,撤回京。事詳《紀太后傳》。

王敬は左道を好み、妖人王臣を信ず。南方に使し、王臣を挟んで同行す。詔を偽り、書画・古玩を括り、白金十万余両を聚む。蘇州に至り、諸生を召して妖書を録させ、且つ之を辱しむ。諸生大いに嘩す。巡撫王恕以て聞こゆ。東廠尚銘も亦た其の事を発す。詔して王臣を斬り、而して王敬を黜して孝陵衛の浄軍に充つ。

原文王敬好左道,信妖人王臣。使南方,挾臣同行。偽為詔,括書畫、古玩,聚白金十萬餘兩。至蘇州,召諸生使錄妖書,且辱之。諸生大嘩。巡撫王恕以聞。東廠尚銘亦發其事。詔斬臣,而黜敬充孝陵衛凈軍。

何鼎(鄧原)

原文何鼎(鄧原)

何鼎、余杭の人、一名は文鼎、性忠直なり。弘治初、長随となり、上疏して伝奉官を革めるよう請い、儕輩の忌む所と為る。寿寧侯張鶴齢兄弟は宮禁に出入りし、嘗て内庭の宴に侍る。帝厠に如く、張鶴齢酒に倚りて帝の冠を戴く。何鼎心に怒る。他日張鶴齢復た禦帷を窺う。何鼎大瓜を持ちて之を撃たんと欲し、奏して言う、「二張は大不敬にして、人臣の礼無し」と。皇后帝の怒りを激し、何鼎を錦衣獄に下す。主使を問うと、何鼎曰く、「有り」と。誰ぞと問うと、曰く、「孔子・孟子なり」と。給事中龐泮・御史呉山及び尚書周経・主事李昆・進士呉宗周先後に論じて救う。帝は皇后の故を以て、俱に納れず。後竟に太監李広に命じて何鼎を杖殺せしむ。帝之を追思し、祭を賜い其の文を碑に勒す。是の時、中官多くは守法し、詔を奉じて出鎮する者、福建の鄧原・浙江の麦秀・河南の藍忠・宣府の劉清、皆謙潔にして民を愛す。兵部其の事を上す。賜勅して旌励す。又た司礼太監蕭敬なる者有り、英宗・憲宗に歴事し、典故に諳習し、善く琴を鼓す。帝嘗て劉大夏に語して曰く、「蕭敬は朕の顧問する所なり、然れども未だ嘗て権を仮さず」と。独り李広・蔣琮は帝の寵任を得、後二人俱に敗る。而して蕭敬は世宗の朝に至り、年九十余にして始めて卒す。

原文何鼎,餘杭人,一名文鼎,性忠直。弘治初,為長隨,上疏請革傳奉官,為儕輩所忌。壽寧侯張鶴齡兄弟出入宮禁,嘗侍內庭宴。帝如廁,鶴齡倚酒戴帝冠,鼎心怒。他日鶴齡復窺禦帷,鼎持大瓜欲擊之,奏言:「二張大不敬,無人臣禮。」皇后激帝怒,下鼎錦衣獄。問主使,鼎曰:「有。」問為誰,曰:「孔子、孟子也。」給事中龐泮、御史吳山及尚書周經、主事李昆、進士吳宗周先後論救,帝以後故,俱不納。後竟使太監李廣杖殺鼎。帝追思之,賜祭勒其文於碑。是時,中官多守法,奉詔出鎮者,福建鄧原、浙江麥秀、河南藍忠、宣府劉清,皆謙潔愛民。兵部上其事,賜敕旌勵。又有司禮太監蕭敬者,歷事英宗、憲宗,諳習典故,善鼓琴。帝嘗語劉大夏曰:「蕭敬朕所顧問,然未嘗假以權也。」獨李廣、蔣琮得帝寵任,後二人俱敗,而敬至世宗朝,年九十餘始卒。

李広

原文李廣

李広は孝宗の時の太監なり。符籙祷祀を以て帝を蠱し、因って奸弊を為し、旨を矯って伝奉官を授け、成化間の故事の如くし、四方争って賄賂を納む。又た擅に畿内の民田を奪い、塩利に専りて巨万なり。大第を起し、玉泉山の水を引き、前後之を繞る。給事葉紳・御史張縉等交章して論劾す。帝問わず。十一年、李広帝を勧めて万歳山に毓秀亭を建つ。亭成りて、幼公主殤る。未だ幾ばくもせず、清寧宮災有り。日者言う、李広の亭を建つるは歳忌に犯すと。太皇太后恚みて曰く、「今日李広、明日李広、果たして禍及びたり」と。李広懼れて自殺す。帝は李広に異書有りと疑い、使をして即ち其の家に之を索めしむ。賂籍を得て以て進む。多く文武大臣の名有り、黄白米各千百石を饋る。帝驚きて曰く、「李広食幾何ぞ、乃ち米を如許く受く」と。左右曰く、「隠語なり、黄は金、白は銀なり」と。帝怒り、法司に下して究治せしむ。諸李広に交結する者、寿寧侯張鶴齢に走りて求解し、乃ち寝して治めず。李広初めに死せし時、司設監太監祠額葬祭を請う。及んで是に大学士劉健等の言を以て、祠額を給うるを罷む。猶祭を賜う。

原文李廣,孝宗時太監也。以符箓禱祀蠱帝,因為奸弊,矯旨授傳奉官,如成化間故事,四方爭納賄賂。又擅奪畿內民田,專鹽利巨萬。起大第,引玉泉山水,前後繞之。給事葉紳、御史張縉等交章論劾,帝不問。十一年,廣勸帝建毓秀亭於萬歲山。亭成,幼公主殤,未幾,清寧宮災。日者言廣建亭犯歲忌,太皇太后恚曰:「今日李廣,明日李廣,果然禍及矣。」廣懼自殺。帝疑廣有異書,使使即其家索之,得賂籍以進,多文武大臣名,饋黃白米各千百石。帝驚曰:「廣食幾何,乃受米如許。」左右曰:「隱語耳,黃者金,白者銀也。」帝怒,下法司究治。諸交結廣者,走壽寧侯張鶴齡求解,乃寢勿治。廣初死時,司設監太監為請祠額葬祭,及是以大學士劉健等言,罷給祠額,猶賜祭。

蔣琮

原文蔣琮

蔣琮は大興の人。孝宗の時、南京を守備す。沿江の蘆場は旧く三廠に隷す。成化初、江浦県の田多く江に沈み、而して江に瀕して沙洲六つ生ず。民之を耕すを請い、以て江に沈みし田額を補わんとす。洲は蘆場に近く、又た瓦屑壩の廃地及び石城門外の湖地は、故に三廠に隷せず。太監黄賜が守備たりし時、奸民の献ずるを受け、俱に蘆場と指し、尽く其の利を収む。民已に失業し、而して歳額の租課仍て之を民に責めて償わしむ。孝宗立ち、県民相率いて朝に醞す。南京御史姜綰等に下して覆按せしむ。弘治二年、姜綰等蔣琮を劾して民と利を争い、且つ掲帖を用いて詔旨に抗すとす。蔣琮条に姜綰の疏を弁じ、而して泛くに御史劉愷・方嶽等及び南京諸司の違法の事に及ぶ。給事中韓重星変に因りて蔣琮及び太監郭鏞等を斥け、以て天怒を弭がんことを請う。未だ報ぜず。而して太監陳祖生復た戸部主事盧錦・給事中方向が私に南京後湖の田を種うる事を奏す。後湖とは洪武の時に黄冊庫を其の中に置き、主事・給事中各一人をして之を守らしめ、百司至ることを得ざるなり。歳久しくして湖塞がる。盧錦・方向は湖灘に稍々蔬を種え葦を伐ち、公用に給す。故に陳祖生の奏する所と為る。事南京法司に下る。適に郭鏞両広に奉使し、道南京、往きて之を観る。御史纮等因りて郭鏞を劾して擅に禁地に遊ぶとす。郭鏞怒り、帰りて帝に醞し、府尹楊守随が盧錦・方向を勘するに失出し、御史は劾奏せず、独り内臣を繩すと言う。帝乃ち太監何穆・大理寺少卿楊謐を遣わして再び後湖の田を勘し、並びに姜綰・蔣琮の訐奏の事を覆さしむ。

原文蔣琮,大興人。孝宗時,守備南京。沿江蘆場,舊隸三廠。成化初,江浦縣田多沈於江,而瀕江生沙洲六,民請耕之,以補沈江田額。洲與蘆場近,又瓦屑壩廢地及石城門外湖地,故不隸三廠。太監黃賜為守備時,受奸民獻,俱指為蘆場,盡收其利。民已失業,而歲額租課仍責償之民。孝宗立,縣民相率醞於朝,下南京御史姜綰等覆按。弘治二年,綰等劾琮與民爭利,且用揭帖抗詔旨。琮條辨綰疏,而泛及御史劉愷、方嶽等及南京諸司違法事。給事中韓重因星變請斥琮及太監郭鏞等,以弭天怒,未報。而太監陳祖生復奏戶部主事盧錦、給事中方向私種南京後湖田事。後湖者,洪武時置黃冊庫其中,令主事、給事中各一人守之,百司不得至。歲久湖塞,錦、向於湖灘稍種蔬伐葦,給公用,故為祖生所奏。事下南京法司。適郭鏞奉使兩廣,道南京,往觀焉。御史纮等因劾鏞擅遊禁地。鏞怒,歸醞於帝,言府尹楊守隨勘錦、向失出,御史不劾奏,獨繩內臣。帝乃遣太監何穆、大理寺少卿楊謐再勘後湖田,並覆綰、琮訐奏事。

明年、奏上り、盧錦の職を褫い、楊守随・方向以下の官を差等有りて謫す。又た蔣琮が献地を受くるは当たらず、私に勘官に囑し、訐する事皆誣なり、姜綰等の蔣琮を劾するも多く実ならず、並びに宜しく逮治すべしと勘す。詔して姜綰等を逮う。御史伊宏・給事中陳矞等皆言う、一内臣を以て御史十人を獄に置くべからずと。聴かず。姜綰等は級を鐫られて外に調じ、而して蔣琮を宥して問わず。時に劉吉柄を窃にし、素より南京御史の己を劾するを悪み、故に此の獄を興す。尚書王恕・李敏、給事中趙竑、御史張賓先後に言う、蔣琮・姜綰は同罪にして罰を異にし、平を失うと。亦た納れず。蔣琮是より益々忌憚無し。久しくして、広洋衛指揮石文通蔣琮の僭侈殺人、聚宝山を掘りて皇陵の気を傷つけ、及び商人を毆殺する諸罪を奏す。蔣琮竟に死を免れ、孝陵の浄軍に充つ。

原文明年,奏上,褫錦職,謫守隨、向以下官有差。又勘琮不當受獻地,私囑勘官,所訐事皆誣,綰等劾琮亦多不實,並宜逮治。詔逮綰等。御史伊宏、給事中陳矞等皆言不宜以一內臣而置御史十人於獄,不聽。綰等鐫級調外,而宥琮不問。時劉吉竊柄,素惡南京御史劾己,故興此獄。尚書王恕、李敏,給事中趙竑,御史張賓先後言琮、綰同罪異罰,失平,亦不納。琮由是益無忌。久之,廣洋衛指揮石文通奏琮僭侈殺人,掘聚寶山傷皇陵氣,及毆殺商人諸罪。琮竟免死,充孝陵凈軍。

劉瑾

原文劉瑾

劉瑾は興平の人である。もとは談氏の子であったが、宦官の劉姓の者に頼って進み、その姓を冒した。孝宗の時、法に坐して死に当たるべきところ、免れた。後に、武宗の東宮に侍るを得た。武宗が即位すると、鐘鼓司を掌り、馬永成・高鳳・羅祥・魏彬・丘聚・谷大用・張永と共に旧恩によって寵を得、人は「八虎」と号し、劉瑾は特に狡猾で狠悪であった。かつて王振の為人を慕い、日々鷹犬・歌舞・角觝の戯れを進めて、帝を微行に導いた。帝は大いにこれを楽しみ、次第に劉瑾を信任し用いるようになり、内官監に進み、団営を総督した。孝宗の遺詔で中官監槍及び各城門監局を罷めることとなったが、劉瑾は皆これを格止めて行わず、かえって帝に勧めて内臣の鎮守する者に各々万金を貢がせた。また皇荘を置くことを奏し、次第に三百余所に増え、畿内は大いに擾乱した。

原文劉瑾,興平人。本談氏子,依中官劉姓者以進,冒其姓。孝宗時,坐法當死,得免。已,得侍武宗東宮。武宗即位,掌鐘鼓司,與馬永成、高鳳、羅祥、魏彬、丘聚、谷大用、張永並以舊恩得幸,人號「八虎」,而瑾尤狡狠。嘗慕王振之為人,日進鷹犬、歌舞、角觝之戲,導帝微行。帝大歡樂之,漸信用瑾,進內官監,總督團營。孝宗遺詔罷中官監槍及各城門監局,瑾皆格不行,而勸帝令內臣鎮守者各貢萬金。又奏置皇莊,漸增至三百餘所,畿內大擾。

外廷は八人が帝を遊宴に誘っていることを知り、大学士劉健・謝遷・李東陽が急いで諫めたが、聞き入れられなかった。尚書張升、給事中陶諧・胡煜・楊一瑛・張襘、御史王渙・趙佑、南京給事御史李光翰・陸昆らが、相次いで上疏して論諫したが、これも聞き入れられなかった。五官監候楊源が星変を以て意見を陳べると、帝の意はやや動いた。劉健・謝遷らはさらに連疏して劉瑾らの誅殺を請うた。戸部尚書韓文が諸大臣を率いてこれに続いた。帝は已むを得ず、司礼太監陳寛・李栄・王嶽を閣に遣わし、劉瑾らを南京に居住させることを議させた。三度返したが、劉健らは固執して許さなかった。尚書許進が「過激にすれば変が有るだろう」と言ったが、劉健は従わなかった。王嶽は元来謇直で、太監範亨・徐智と共に心の中で八人を憎み、劉健らの言葉をことごとく帝に告げ、かつ閣臣の議は是であると言った。劉健らはちょうど韓文及び諸九卿と約して明朝に闕に伏して面と向かって争おうとしたところ、吏部尚書焦芳が馳せて劉瑾に告げた。劉瑾は大いに恐れ、夜に永成らを率いて帝の前に伏して泣き繞った。帝の心は動き、劉瑾は機に乗じて言うには、「奴らを害する者は王嶽です。王嶽は閣臣と結んで上(帝)の出入りを制しようとし、故に先ず忌む所の者を除こうとするのです。かつ鷹犬が万機に何の損いがありましょう。もし司礼監に適任を得れば、左班の官(文官)が安んぞかくの如くであろうか」と。帝は大怒し、直ちに劉瑾に司礼監を掌らせ、永成に東廠を掌らせ、大用に西廠を掌らせ、夜のうちに王嶽及び範亨・徐智を捕らえて南京の浄軍に充てた。明朝、諸臣が朝に入り、闕に伏せんとしたが、事が既に変わったことを知り、ここにおいて劉健・東陽は皆去ることを求めた。帝は独り東陽を留め、焦芳を入閣させ、途上で王嶽・範亨を追って殺させ、徐智を杖折して臂を折らせた。時は正徳元年十月であった。

原文外廷知八人誘帝遊宴,大學士劉健、謝遷、李東陽驟諫,不聽。尚書張升,給事中陶諧、胡煜、楊一瑛、張襘,御史王渙、趙佑,南京給事御史李光翰、陸昆等,交章論諫,亦不聽。五官監候楊源以星變陳言,帝意頗動。健、遷等復連疏請誅瑾,戶部尚書韓文率諸大臣繼之。帝不得已,使司禮太監陳寬、李榮、王嶽至閣,議遣瑾等居南京。三反,健等執不可。尚書許進曰:「過激將有變。」健不從。王嶽者,素謇直,與太監範亨、徐智心嫉八人,具以健等語告帝,且言閣臣議是。健等方約文及諸九卿詰朝伏闕面爭,而吏部尚書焦芳馳白瑾。瑾大懼,夜率永成等伏帝前環泣。帝心動,瑾因曰:「害奴等者王嶽。嶽結閣臣欲制上出入,故先去所忌耳。且鷹犬何損萬幾。若司禮監得人,左班官安敢如是。」帝大怒,立命瑾掌司禮監,永成掌東廠,大用掌西廠,而夜收嶽及亨、智充南京凈軍。旦日諸臣入朝,將伏闕,知事已變,於是健、東陽皆求去。帝獨留東陽,而令焦芳入閣,追殺嶽、亨於途,箠智折臂。時正德元年十月也。

劉瑾は既に志を得ると、やがて事を以て韓文の職を革め、劉健・謝遷の留任を請うた給事中呂翀・劉郤及び南京給事中戴銑ら六人、御史薄彦徽ら十五人を杖責した。南京守備武靖伯趙承慶・府尹陸珩・尚書林瀚は皆、呂翀・劉郤の上疏を伝えたことで罪を得、陸珩・林瀚は致仕を勅され、趙承慶は半禄を削られた。南京副都御史陳寿、御史陳琳・王良臣、主事王守仁はまた、戴銑らを救ったことでそれぞれ謫杖に処せられた。劉瑾の勢いは日増しに張り、官僚の細かい過失を毛を挙げるように摘発し、校尉を散布して遠近を偵察させ、人に過失を救う暇を与えなかった。よって専ら威福を擅にし、党閹を悉く遣わして各辺に分鎮させた。大同の功を叙し、官校を遷擢すること一千五百六十余人に及び、また旨を伝えて錦衣官数百員を授けた。『通鑑纂要』が完成すると、劉瑾は諸翰林纂修官が謄写を謹まなかったと誣い、皆譴責を受け、文華殿書弁官張駿らに改めて謄写させ、官秩を超えて拝した。張駿は光禄卿から礼部尚書に擢げられ、他に京卿を授けられた者数人、装潢の匠役も悉く官を授かった。枷法を創め、給事中吉時、御史王時中、郎中劉繹・張瑋、尚宝卿顧璿、副使姚祥、参議呉廷挙らは、皆小過を摘発され、枷に瀕死して初めて釈放され戍辺した。その他枷で死んだ者は数え切れない。錦衣獄は徽纆(縄)が相連なった。錦衣僉事牟斌が獄囚を善く看るのを憎み、杖して錮した。府丞周璽・五官監候楊源は杖されて死に至った。楊源は初め星変を以て意見を陳べ、劉瑾を罪した者である。劉瑾は毎度奏事するに、必ず帝が戯弄している時を偵った。帝はこれを厭い、急いで麾き去って「我が若(汝)を用いるは何事ぞ、乃ち我を混ぜるのか」と言った。ここより遂に専決し、再び白(報告)しなくなった。

原文瑾既得志,遂以事革韓文職,而杖責請留健、遷者給事中呂翀、劉郤及南京給事中戴銑等六人,御史薄彥徽等十五人。守備南京武靖伯趙承慶、府尹陸珩、尚書林瀚,皆以傳翀、郤疏得罪,珩、瀚勒致仕,削承慶半祿。南京副都御史陳壽,御史陳琳、王良臣,主事王守仁,復以救銑等謫杖有差。瑾勢日益張,毛舉官僚細過,散布校尉,遠近偵伺,使人救過不贍。因顓擅威福,悉遣黨閹分鎮各邊。敘大同功,遷擢官校至一千五百六十餘人,又傳旨授錦衣官數百員。《通鑒纂要》成,瑾誣諸翰林纂修官謄寫不謹,皆被譴,而命文華殿書辦官張駿等改謄,超拜官秩。駿由光祿卿擢禮部尚書,他授京卿者數人,裝潢匠役悉授官。創用枷法,給事中吉時,御史王時中,郎中劉繹、張瑋,尚寶卿顧璿,副使姚祥,參議吳廷舉等,並摭小過,枷瀕死,始釋而戍之。其餘枷死者無數。錦衣獄徽纆相屬。惡錦衣僉事牟斌善視獄囚,杖而錮之。府丞周璽、五官監候楊源杖至死。源初以皇變陳言,罪瑾者也。瑾每奏事,必偵帝為戲弄時。帝厭之。亟麾去曰:「吾用若何事,乃混我!」自此遂專決,不復白。

二年三月、劉瑾は群臣を召して金水橋の南に跪かせ、奸党を宣示した。大臣では大学士劉健・謝遷、尚書では韓文・楊守随・張敷華・林瀚、部曹では郎中李夢陽、主事王守仁・王綸・孫磐・黄昭、詞臣では検討劉瑞、言路では給事中湯礼敬・陳霆・徐昂・陶諧・劉郤・艾洪・呂翀・任恵・李光翰・戴銑・徐蕃・牧相・徐暹・張良弼・葛嵩・趙士賢、御史陳琳・貢安甫・史良佐・曹閔・王弘・任諾・李熙・王蕃・葛浩・陸昆・張鳴鳳・蕭乾元・姚学礼・黄昭道・蒋欽・薄彦徽・潘鏜・王良臣・趙佑・何天衢・徐玨・楊璋・熊卓・朱廷声・劉玉ら、皆海内に忠直と号せられる者である。また六科に寅の刻に入り酉の刻に出ることを令し、息するを得ざらしめて、以て彼らを困苦させた。文臣に軽々しく封誥を与えるなと令し、文吏を痛く縛った。寧王宸濠は不軌を図り、劉瑾に賄賂して護衛の復活を求めた。劉瑾はこれを与え、宸濠の反謀は遂に成った。劉瑾は学がなく、毎度章奏を批答するに、皆私第に持ち帰り、妹婿の礼部司務孫聡・華亭の大猾張文冕と相参決し、言辞は概ね鄙冗で、焦芳がこれを潤色し、李東陽は頫首するのみであった。

原文二年三月,瑾召群臣跪金水橋南,宣示奸黨,大臣則大學士劉健、謝遷,尚書則韓文、楊守隨、張敷華、林瀚,部曹則郎中李夢陽,主事王守仁、王綸、孫磐、黃昭,詞臣則檢討劉瑞,言路則給事中湯禮敬、陳霆、徐昂、陶諧、劉郤、艾洪、呂翀、任惠、李光翰、戴銑、徐蕃、牧相、徐暹、張良弼、葛嵩、趙士賢,御史陳琳、貢安甫、史良佐、曹閔、王弘、任諾、李熙、王蕃、葛浩、陸昆、張鳴鳳、蕭乾元、姚學禮、黃昭道、蔣欽、薄彥徽、潘鏜、王良臣、趙佑、何天衢、徐玨、楊璋、熊卓、朱廷聲、劉玉等,皆海內號忠直者也。又令六科寅入酉出,使不得息,以困苦之。令文臣毋輒予封誥,痛繩文吏。寧王宸濠圖不軌,賂瑾求復護衛,瑾予之,濠反謀遂成。瑾不學,每批答章奏,皆持歸私第,與妹婿禮部司務孫聰、華亭大猾張文冕相參決,辭率鄙冗,焦芳為潤色之,東陽頫首而已。

この時、劉瑾の権は天下を擅にし、威福を任情にした。罪人が溺水死したのに、御史匡翼の罪に坐した。かつて学士呉儼に賄賂を求めたが得られず、また都御史劉宇の讒言を聴き、御史楊南金を怒り、大計で外吏を奏する中で、二人の職を落とした。播州土司楊斌を四川按察使に授けた。奴婿の閭潔に山東学政を督めさせた。公侯勲戚以下、敢えて鈞礼する者なく、毎度私謁するに、相率いで跪拝した。章奏は先ず紅揭を具えて劉瑾に投じ、紅本と号し、それから通政司に上り、白本と号し、皆劉太監と称して名を呼ばなかった。都察院が奏讞で誤って劉瑾の名を書くと、劉瑾は怒って罵り、都御史屠滽が属を率いて跪謝してやっと済んだ。使者を遣わして辺倉を察核し、都御史周南・張鼐・馬中錫・湯全・劉憲、布政以下官孫禄・冒政・方矩・華福・金献民・劉遜・郭緒・張翼、郎中劉繹・王藎らは、赦前の罪を以て並びに獄に下し辺粟を追補させ、劉憲は獄死に至った。また塩課を察し、巡塩御史王潤を杖し、前運使寧挙・楊奇らを逮えた。内甲字庫を察し、尚書王佐以下百七十三人を謫した。また罰米法を創め、かつて劉瑾に忤った者を皆摘発して辺境に輸送させた。故尚書雍泰・馬文升・劉大夏・韓文・許進、都御史楊一清・李進・王忠、侍郎張縉、給事中趙士賢・任良弼、御史張津・陳順・喬恕・聶賢・曹来旬ら数十人は悉く家を破り、死者はその妻子を繫いだ。

原文當是時,瑾權擅天下,威福任情。有罪人溺水死,乃坐御史匡翼之罪。嘗求學士吳儼賄,不得,又聽都御史劉宇讒,怒御史楊南金,乃以大計外吏奏中,落二人職。授播州土司楊斌為四川按察使。令奴婿閭潔督山東學政。公侯勛戚以下,莫敢鈞禮,每私謁,相率跪拜。章奏先具紅揭投瑾,號紅本,然後上通政司,號白本,皆稱劉太監而不名。都察院奏讞誤名瑾,瑾怒詈之,都御史屠滽率屬跪謝乃已。遣使察核邊倉,都御史周南、張鼐、馬中錫、湯全、劉憲,布政以下官孫祿、冒政、方矩、華福、金獻民、劉遜、郭緒、張翼,郎中劉繹、王藎等,並以赦前罪,下獄追補邊粟,憲至瘐死。又察鹽課,杖巡鹽御史王潤,逮前運使寧舉、楊奇等。察內甲字庫,謫尚書王佐以下百七十三人。復創罰米法,嘗忤瑾者,皆擿發輸邊。故尚書雍泰、馬文升、劉大夏、韓文、許進,都御史楊一清、李進、王忠,侍郎張縉,給事中趙士賢,任良弼,御史張津,陳順、喬恕、聶賢、曹來旬等數十人悉破家,死者繫其妻孥。

その年の夏、御道に匿名の書があり、劉瑾の行ったことを誹謗した。劉瑾は詔を偽って百官を召し出し、奉天門の下に跪かせた。劉瑾は門の左に立って詰問し、日が暮れると五品以下の官をことごとく収監した。翌日、大学士李東陽が救済を申し出、劉瑾もまたこの書が内臣の仕業であると微かに聞き知り、ようやく諸臣を釈放した。しかし主事の何釴、順天推官の周臣、進士の陸伸はすでに熱中症で死んでいた。この日は酷暑であり、太監の李栄が氷瓜を群臣に与えたが、劉瑾はこれを憎んだ。太監の黄偉は非常に憤慨し、諸臣に言った、「書に言うところは皆、国と民のための事である。身を挺して自ら認めよ。たとえ死んでも好男子を失わぬ。どうしてむやみに他人を累わすのか」。劉瑾は怒り、即日、李栄を閑住に追いやり、黄偉を南京に追放した。この時、東廠・西廠の緝事人が四方に出て、道路は恐れおののいた。劉瑾はさらに内行廠を立て、特に苛烈で、中人(宦官)が微罪に触れても、全うする者はなかった。また京師の客傭をことごとく追い払い、寡婦はことごとく再嫁させ、喪を葬らぬ者は焼き捨て、輦下は騒然としてほとんど乱に至らんとした。都給事中の許天錫は劉瑾を弾劾しようとしたが、果たせぬことを恐れ、上疏を懐いて自縊した。

原文其年夏,御道有匿名書詆瑾所行事,瑾矯旨召百官跪奉天門下。瑾立門左詰責,日暮收五品以下官盡下獄。明日,大學士李東陽申救,瑾亦微聞此書乃內臣所為,始釋諸臣。而主事何釴、順天推官周臣、進士陸伸已暍死。是日酷暑,太監李榮以冰瓜啖群臣,瑾惡之。太監黃偉憤甚,謂諸臣曰:「書所言皆為國為民事,挺身自承,雖死不失為好男子,奈何枉累他人。」瑾怒,即日勒榮閑住,而逐偉南京。時東廠、西廠緝事人四出,道路惶懼。瑾復立內行廠,尤酷烈,中人以微法,無得全者。又悉逐京師客傭,令寡婦盡嫁,喪不葬者焚之,輦下洶洶幾致亂。都給事中許天錫欲劾瑾,懼弗克,懷疏自縊。

劉瑾はもとより賄賂を急ぎ、入覲・出使の官はすべて厚く献上させた。給事中の周鑰は事を勘えて帰ったが、金がないため自殺した。その党の張綵が言った、「今、天下が公に贈るものは、必ずしも私財ではなく、しばしば京師で借り、帰っては庫金で償う。公はどうして怨みを集めて患いを残すのか」。劉瑾はこれを然りとした。ちょうど御史の欧陽雲ら十余人が旧例に従って賄賂を入れたので、劉瑾はことごとく発覚させて罪に問わせた。そこで給事・御史十四人を分遣して盤察させると、有司は争って厚く徴収して国庫を補った。派遣された者はみな劉瑾の意に阿り、専ら搏撃に務め、尚書の顧佐・侶鐘・韓文以下数十人を弾劾した。浙江塩運使の楊奇は課税を滞納して死に、ついにその孫娘を売るに至った。また給事中の安奎・潘希曾、御史の趙時中・阮吉・張彧・劉子厲は、重い弾劾がないとして下獄された。安奎・張彧は枷をつけられて死にかけ、李東陽が上疏して救い、ようやく民に落とされた。潘希曾らもまた皆、杖罰を受け斥けられ、意に逆らう者は差等をつけて謫斥された。また詔を偽って故都御史の錢鉞、礼部侍郎の黄景、尚書の秦紘の家を没収した。劉瑾が逮捕する者は、一家が罪を犯せば、隣里もみな連座し、あるいは河を見下ろす家に住む者は、河の外の居民をもって連座させた。たびたび大獄を起こし、冤号が道路に満ちた。『孝宗実録』が完成し、翰林で預纂修に与った者は昇進すべきところ、劉瑾は翰林官が平素から己に従わぬことを憎み、侍講の呉一鵬ら十六人を南京六部に転任させた。

原文瑾故急賄,凡入覲、出使官皆有厚獻。給事中周鑰勘事歸,以無金自殺。其黨張綵曰:「今天下所饋遺公者,非必皆私財,往往貸京師,而歸則以庫金償。公奈何斂怨貽患。」瑾然之。會御史歐陽雲等十餘人以故事入賂,瑾皆舉發致罪。乃遣給事、御史十四人分道盤察,有司爭厚斂以補帑。所遣人率阿瑾意,專務搏擊,劾尚書顧佐、侶鐘、韓文以下數十人。浙江鹽運使楊奇逋課死,至鬻其女孫。而給事中安奎、潘希曾,御史趙時中、阮吉、張彧、劉子厲,以無重劾下獄。奎、彧枷且死,李東陽疏救,始釋為民。希曾等亦皆杖斥,忤意者謫斥有差。又矯旨籍故都御史錢鉞、禮部侍郎黃景、尚書秦纮家。凡瑾所逮捕,一家犯,鄰里皆坐,或瞰河居者,以河外居民坐之。屢起大獄,冤號遍道路。《孝宗實錄》成,翰林預纂修者當遷秩,瑾惡翰林官素不下己,調侍講吳一鵬等十六人南京六部。

この時、内閣の焦芳・劉宇、吏部尚書の張綵、兵部尚書の曹元、錦衣衛指揮の楊玉・石文義は、皆、劉瑾の腹心であった。旧制を変更し、天下の巡撫を入京させて勅を受けさせ、劉瑾に賄賂を納めさせた。延綏巡撫の劉宇が至らなかったので、逮捕して下獄した。宣府巡撫の陸完は後れて至り、ほとんど罪を得るところであったが、賄賂を済ませてから、試職として事を視させた。都指揮以下の昇進を求める者には、劉瑾がただ紙片に「某を某官に授く」と書くだけで、兵部は即座に奉行し、再び奏上することはなかった。辺将が軍律を失っても、賄賂が入れば、即座に問わず、かえって昇擢される者もあった。またその党を遣わして辺塞の屯田を丈量させ、誅求は苛酷を極めた。辺軍は耐えられず、公廨を焼き、守臣が諭してようやく鎮定した。給事中の高淓が滄州を丈量し、弾劾処分した者は六十一人に及び、ついにはその父の高銓を弾劾して劉瑾に媚びた。また謝遷のゆえに、余姚の人に京官を授けぬように命じた。占城国の使人の亜劉の謀逆の獄により、江西の郷試の定員を五十名削減し、なお余姚と同様に京秩を授けることを禁じたのは、焦芳が彭華を憎んだゆえである。劉瑾はまた自ら陝西の郷試定員を百名に増やし、また焦芳のために河南の定員を九十五名に増やして、その郷里の士人を優遇した。その年、帝は大赦したが、劉瑾は峻刑を自らのままにした。刑部尚書の劉璟は弾劾するところがなく、劉瑾はこれを罵った。劉璟は恐れ、その属官の王尚賓ら三人を弾劾すると、ようやく喜んだ。給事中の郗夔が榆林の功績を審査し、劉瑾の意に背くことを恐れて自縊死した。給事中の屈銓、祭酒の王雲鳳は劉瑾の行ったことを編纂し、律令として著すよう請うた。

原文是時,內閣焦芳、劉宇,吏部尚書張綵,兵部尚書曹元,錦衣衛指揮楊玉、石文義,皆為瑾腹心。變更舊制,令天下巡撫入京受敕,輸瑾賂。延綏巡撫劉宇不至,逮下獄。宣府巡撫陸完後至,幾得罪,既賂,乃令試職視事。都指揮以下求遷者,瑾第書片紙曰「某授某官」,兵部即奉行,不敢復奏。邊將失律,賂入,即不問,有反升擢者。又遣其黨丈邊塞屯地,誅求苛刻。邊軍不堪,焚公廨,守臣諭之始定。給事中高淓丈滄州,所劾治六十一人,至劾其父高銓以媚瑾。又以謝遷故,令餘姚人毋授京官。以占城國使人亞劉謀逆獄,裁江西鄉試額五十名,仍禁授京秩如餘姚,以焦芳惡彭華故也。瑾又自增陜西鄉試額至百名,亦為芳增河南額至九十五名,以優其鄉士。其年,帝大赦,瑾峻刑自如。刑部尚書劉璟無所彈劾,瑾詬之。璟懼,劾其屬王尚賓等三人,乃喜。給事中郗夔核榆林功,懼失瑾意,自縊死。給事中屈銓、祭酒王雲鳳請編瑾行事,著為律令。

五年四月、安化王の寘鐇が反乱し、檄文で劉瑾の罪状を数え上げた。劉瑾は初めて恐れ、その檄文を隠し、都御史の楊一清、太監の張永を総督として立て、これを討伐させた。初め、劉瑾とともに八虎であった者は、劉瑾が専政する時、請うところ多く応じられず、永成・大用らは皆、劉瑾を怨んだ。劉瑾はまた張永を追い出そうとしたが、張永は譎略によって免れた。張永が出師して帰還すると、劉瑾を誅殺しようとし、楊一清が策を授け、張永は遂に決意した。劉瑾は術士を招くことを好み、俞日明という者が、妄りに劉瑾の従孫の二漢が大いに貴ぶと述べた。兵仗局太監の孫和はたびたび甲冑兵器を贈り、両広鎮監の潘午・蔡昭はまた弓弩を造り、劉瑾は皆これを家に隠した。張永の捷報の上疏が届き、八月十五日に献俘しようとしたが、劉瑾はその期日を遅らせさせた。張永は変事があることを慮り、遂に期日より先に入り、献俘が終わると、帝は酒を設けて張永を労い、劉瑾らは皆侍った。夜になり、劉瑾が退くと、張永は寘鐇の檄文を出し、劉瑾の不法十七事を奏上した。帝はすでに酒に酔っており、うつむいて言った、「劉瑾は我に背いた」。張永は言った、「これは緩めてはなりませぬ」。永成らもまたこれを助けた。そこで劉瑾を捕らえ、菜廠に拘禁し、官校を分遣してその内外の私邸を封じた。翌日、朝が遅くなった後、帝は張永の奏文を内閣に出して示し、劉瑾を奉御に降格し、鳳陽に謫居させた。帝は自らその家を没収し、偽璽一つ、穿宮牌五百枚、および衣甲・弓弩・袞衣・玉帯などの諸々の禁制品を得た。また常に持っていた扇の中に、鋭利な匕首二本が隠されていた。帝は初めて大いに怒って言った、「奴は果たして反逆した」。急いで獄に付すよう命じた。獄が決すると、詔して市で磔刑に処し、その首を梟し、獄詞と処刑の図を掲示して天下に示させた。族人・逆党は皆誅殺された。張綵は獄中で死に、その屍を磔にした。閣臣の焦芳・劉宇・曹元以下、尚書の畢亨・朱恩ら、合わせて六十余人は、皆降格・左遷された。後に、廷臣が劉瑾の変えた法を奏上した。吏部二十四事、戸部三十余事、兵部十八事、工部十三事であり、詔して悉く旧制の通りに正させた。

原文五年四月,安化王寘鐇反,檄數瑾罪。瑾始懼,匿其檄,而起都御史楊一清、太監張永為總督,討之。初,與瑾同為八虎者,當瑾專政時,有所請多不應,永成、大用等皆怨瑾。又欲逐永,永以譎免。及永出師還,欲因誅瑾,一清為畫策,永意遂決。瑾好招致術士,有俞日明者,妄言瑾從孫二漢當大貴。兵仗局太監孫和數遺以甲仗,兩廣鎮監潘午、蔡昭又為造弓弩,瑾皆藏於家。永捷疏至,將以八月十五日獻俘,瑾使緩其期。永慮有變,遂先期入,獻俘畢,帝置酒勞永,瑾等皆侍。及夜,瑾退,永出寘鐇檄,因奏瑾不法十七事。帝已被酒,俯首曰:「瑾負我。」永曰:「此不可緩。」永成等亦助之。遂執瑾,繫於菜廠,分遣官校封其內外私第。次日晏朝後,帝出永奏示內閣,降瑾奉御,謫居鳳陽。帝親籍其家,得偽璽一,穿宮牌五百及衣甲、弓弩、袞衣、玉帶諸違禁物。又所常持扇,內藏利匕首二。始大怒曰:「奴果反。」趣付獄。獄具,詔磔於市,梟其首,榜獄詞處決圖示天下。族人、逆黨皆伏誅。張綵獄斃,磔其屍。閣臣焦芳、劉宇、曹元而下,尚書畢亨、朱恩等,共六十餘人,皆降謫。已,廷臣奏瑾所變法,吏部二十四事,戶部三十餘事,兵部十八事,工部十三事,詔悉厘正如舊制。

張永

原文張永

張永は保定新城の人である。正徳初年、神機営を総管し、劉瑾と党をなした。後にその所為を憎み、劉瑾もまた己に附かぬと覚り、帝に言って、彼を南京に左遷しようとした。張永はこれを知り、直ちに帝の前に進み出て、劉瑾が己を陥れたと訴えた。帝は劉瑾を召して対質させたが、争論している最中、張永は奮って拳を振るい劉瑾を殴った。帝は谷大用らに命じて酒を設けて和解させ、これにより二人はますます合わなくなった。寘鐇が反乱すると、張永と右都御史の楊一清を派遣して討伐させた。帝は戎服を着て東華門まで送り、関防・金瓜・鋼斧を賜って出発させ、寵遇は非常に盛んであった。劉瑾もまたこれを忌んだが、帝は張永を信頼しており、離間することができなかった。出師すると、寘鐇はすでに捕らえられ、張永は遂に五百騎を率いて余党を撫定した。帰還して霊州に駐屯し、楊一清と語り、劉瑾の不法事を奏上しようとした。楊一清は言った、「彼は上の左右におり、公の言葉が必ず入ると言えようか。計略をもってこれを誅するに如かず」。そこで張永のために策を授け、張永は大いに喜び、その言葉は詳しく楊一清伝にある。この時、劉瑾の兄の都督同知の景祥が死に、京師ではうわさが広まり、劉瑾が八月十五日に百官の葬送を待ち、乱を起こすと言われた。ちょうど張永の捷報の上疏が届き、この日に献俘しようとしたが、劉瑾はその期日を遅らせさせ、事が成って張永も併せて捕らえようとした。ある者がこれを張永に告げ、張永は期日より先に入って献俘し、この夜、遂に劉瑾誅殺を奏上した。

原文張永,保定新城人。正德初,總神機營,與瑾為黨。已而惡其所為,瑾亦覺其不附己也,言於帝,將黜之南京。永知之,直趨帝前,訴瑾陷己。帝召瑾與質,方爭辯,永輒奮拳毆瑾。帝令谷大用等置酒為解,由是二人益不合。及寘鐇反,命永及右都御史楊一清往討。帝戎服送之東華門,賜關防、金瓜、鋼斧以行,寵遇甚盛。瑾亦忌之,而帝方永,不能間也。師出,寘鐇已擒,永遂率五百騎撫定余黨。還次靈州,與一清言,欲奏瑾不法事。一清曰:「彼在上左右,公言能必入乎?不如以計誅之。」因為永畫策,永大喜,語詳一清傳。是時,瑾兄都督同知景祥死,京師籍籍謂瑾將以八月十五日俟百官送葬,因作亂。適永捷疏至,將以是日獻俘,瑾使緩其期,欲俟事成並擒永。或以告永,永先期入獻俘,是夜遂奏誅瑾。

ここにおいて英国公張懋・兵部尚書王敞らが上奏し、張永が内外を鎮撫平定し、二度の奇勲を立てたと述べ、ついに張永の兄の富を泰安伯に、弟の容を安定伯に封じた。涿州の男子王豸がかつて足に龍の形と「人王」の字を刺青していたのを、張永は妖人であるとしてこれを捕らえた。兵部尚書何鑒が張永にさらに封を加えるよう請うたので、廷臣に下して議させた。張永は自ら侯に封ぜられんことを欲し、劉永誠・鄭和の故事を引き合いに出して廷臣にほのめかしたが、内閣は制度に合わないとしてこれを退けた。張永の意気は阻喪し、恩沢を辞退した。吏部尚書楊一清は張永の譲りを聞き入れてその賢を成すべきであると述べたが、事はついに立ち消えとなった。久しくして、庫官が庫銀を盗んだ事件に連座し、閑住を命ぜられた。九年、北辺に警報があり、張永に宣府・大同・延綏の軍を督させてこれを防がせ、寇が退いてから帰還した。

原文於是英國公張懋、兵部尚書王敞等,奏永輯寧中外,兩建奇勛,遂封永兄富為泰安伯、弟容為安定伯。涿州男子王豸嘗刺龍形及「人王」字於足,永以為妖人,擒之。兵部尚書何鑒乞加永封,下廷臣議。永欲身自封侯,引劉永誠、鄭和故事風廷臣,內閣以非制格之。永意沮,乃辭免恩澤。吏部尚書楊一清言宜聽永讓,以成其賢,事竟已。久之,坐庫官盜庫銀事,閑住。九年,北邊有警,命永督宣府、大同、延綏軍禦之,寇退乃還。

寧王宸濠が反逆すると、帝は南征し、張永は辺兵二千を率いて先発した。時に王守仁はすでに宸濠を捕らえ、檻車に乗せて北上していた。張永は帝の意向を奉じて王守仁を遮り、宸濠を鄱陽湖に放ち、帝が到着するのを待って戦わせようとした。王守仁は承知せず、杭州に至って張永に面会を求めた。張永は面会を拒んだが、王守仁は門番を叱りつけて直入し、大声で呼んで言った、「我は王守仁なり、公と国家の事を議しに来たる、何ぞ我を拒むや」と。張永はその気勢に圧倒された。王守仁はそこで江西が塗炭の苦しみを極めていること、王師が至れば乱は測りがたいものとなろうと述べた。張永は大いに悟り、言った、「群小が側近にいるので、永が来たのは聖躬を保護せんがためであって、功を掠め取ろうとするのではない」と。そこで江上の檻車を指して言った、「これは我に帰すべきである」と。王守仁は言った、「我は何ぞこれを用いん」と。即座に張永に引き渡し、張永とともに江西に帰還した。時に太監張忠らはすでに大江を経て南昌に至り、逆党を厳しく取り調べていたが、張永が来たのを見て大いに意気阻喪した。張永は数旬留まり、張忠を促してともに帰還させ、江西はこれによって安泰を得た。張忠らはたびたび王守仁を讒言したが、これも張永が取りなして弁護したおかげで罪を免れた。武宗が崩御すると、張永は九門を督して変事に備えた。世宗が即位すると、御史蕭淮が谷大用・丘聚らが先帝を蠱惑し、悪党と結んで奸をなしたと奏上し、張永にも言及した。詔して張永を閑住させた。まもなく蕭淮が再び張永の江西における不法の事を弾劾し、張永を再び降格して奉御とし、孝陵の司香を務めさせた。しかし張永が江西にいた時は、実際には不法の事はなかった。嘉靖八年、大学士楊一清らが張永の功績は大きく、消し去るべきではないと述べ、ついに張永を起用して御用監を掌らせ、団営を提督させた。間もなく卒去した。

原文寧王宸濠反,帝南征,永率邊兵二千先行。時王守仁已擒宸濠,檻車北上。永以帝意遮守仁,欲縱宸濠於鄱陽湖,俟帝至與戰。守仁不可,至杭州詣永。永拒不見,守仁叱門者徑入,大呼曰:「我王守仁也,來與公議國家事,何拒我!」永為氣懾。守仁因言江西荼毒已極,王師至,亂將不測。永大悟,乃曰:「群小在側,永來,欲保護聖躬耳,非欲攘功也。」因指江上檻車曰:「此宜歸我。」守仁曰:「我何用此。」即付永,而與永偕還江西。時太監張忠等已從大江至南昌,方窮治逆黨,見永至,大沮。永留數旬,促忠同歸,江西賴以安。忠等屢讒守仁,亦賴永營解獲免。武宗崩,永督九門防變。世宗立,御史蕭淮奏谷大用、丘聚輩蠱惑先帝,黨惡為奸,並及永。詔永閑住。已而淮復劾永在江西不法事,再降永奉御,司香孝陵,然永在江西,實非有不法也。嘉靖八年,大學士楊一清等言,永功大,不可泯,乃起永掌御用監,提督團營。未幾卒。

谷大用

原文谷大用

谷大用は、劉瑾が司礼監を掌っていた時に西廠を提督し、官校を分遣して遠くに出向け偵察させた。江西南康の民である呉登顕らが、五月五日に競渡を行ったのを、勝手に龍舟を造ったと誣告し、その家を没収したので、天下はみな重ね足を踏み息を潜めた。安州に鷹房草場を建て、民田を奪うこと数知れず。劉瑾が誅殺されると、谷大用は西廠を辞した。間もなく、帝は再び彼を用いようとしたが、大学士李東陽が強く諫めたのでやめた。六年、劉六・劉七が反乱すると、谷大用に軍務を総督させ、伏羌伯毛鋭・兵部侍郎陸完とともにこれを討たせた。谷大用は臨清に駐屯し、辺将の許泰・郤永・江彬・劉暉らを内地に召し入れ、調遣に従わせた。久しく功績がなく、賊が鎮江の狼山を過ぎた時、颶風に遭って舟が転覆し、陸完の兵が至ってこれを殲滅したので、ついに谷大用の弟の大亮を永清伯に封じた。そして先に寘鐇を平定した時には、その兄の大寛はすでに高平伯に封ぜられていた。義子を称して昇進や恩賞を冒す者は数え切れなかった。世宗が即位すると、迎立の功により金幣を賜った。給事中閻閎が極力これを論じたので、まもなく奉御に降格し、南京に居住させた。後に、康陵を守るよう召された。嘉靖十年、その家を没収した。

原文谷大用者,瑾掌司禮監時提督西廠,分遣官校遠出偵事。江西南康民吳登顯等,五月五日為競渡,誣以擅造龍舟,籍其家,天下皆重足屏息。建鷹房草場於安州,奪民田無數。瑾誅,大用辭西廠。未幾,帝復欲用之,大學士李東陽力諫乃止。六年,劉六、劉七反,命大用總督軍務,偕伏羌伯毛銳、兵部侍郎陸完討之。大用駐臨清,召邊將許泰、郤永、江彬、劉暉等入內地,聽調遣。久之無功,會賊過鎮江狼山,遇颶風舟覆,陸完兵至殲之,遂封大用弟大亮為永清伯。而先是平寘鐇時,其兄大寬已封高平伯矣,義子冒升賞者,不可勝紀。世宗立,以迎立功賜金幣。給事中閻閎極論之,尋降奉御,居南京。已,召守康陵。嘉靖十年籍其家。

魏彬

原文魏彬

魏彬は、劉瑾の時代に三千営を総督した。劉瑾が誅殺されると、代わって司礼監を掌った。その年、寧夏の功績を叙し、弟の英を鎮安伯に封じ、馬永成の兄の山も平涼伯に封じた。世宗が即位すると、魏彬は自ら不安を感じ、弟の英のために伯爵を辞退した。詔して都督同知に改め、世襲の錦衣指揮使とした。給事中楊秉義・徐景嵩・呉厳はいずれも魏彬が逆賊劉瑾に附和し、江彬と姻戚を結んだことを述べ、極刑に処すべきであると論じた。帝はこれを許して問わなかった。後に御史が再びこれを論じ、ようやく閑住を命じた。

原文魏彬,當瑾時,總三千營。瑾誅,代掌司禮監。其年,敘寧夏功,封弟英鎮安伯,馬永成兄山亦封平涼伯。世宗立,彬不自安,為英辭伯爵。詔改都督同知,世襲錦衣指揮使。給事中楊秉義、徐景嵩、吳嚴皆言彬附和逆瑾,結姻江彬,宜置極典。帝宥不問。已而御史復論之,始令閑住。

張忠

原文張忠

張忠は、覇州の人である。正徳年間に御馬太監となり、司礼監の張雄・東廠の張鋭とともに豹房に侍して権勢を振るい、当時「三張」と号され、その性格はいずれも凶暴で道理に悖っていた。張忠は大盗張茂の財産を欲し、弟分として結び、豹房に引き入れ、帝に蹴鞠を侍らせた。一方、張雄は父が自分を愛さなかったために自ら宮刑に及んだことを怨み、面会を拒んだ。同輩が諫めて、ようやく簾を垂らして父を杖打ち、その後抱き合って泣いた。その人倫に悖ることはこのようなものであった。張鋭は妖言を捕らえた功績により、禄を加えられて一百二十石となった。毎回捜査する際、まず邏卒に人を誘って奸を行わせ、それから捕らえ、賄賂を得れば釈放し、しばしば危険な法律で人を陥れた。三人はいずれも宸濠と通じ、臧賢・銭寧らの賄賂を受け、その反逆を助成した。寧王が反乱すると、張忠は帝に親征を勧めた。王守仁の捷報を遮り、宸濠を鄱陽湖に放ち、帝が自ら戦うのを待とうとしたのは、いずれも張忠の謀略であった。

原文張忠,霸州人。正德時御馬太監,與司禮張雄、東廠張銳並侍豹房用事,時號三張,性皆凶悖。忠利大盜張茂財,結為弟,引入豹房,侍帝蹴鞠。而雄至怨其父不愛己致自宮,拒不見。同儕勸之,乃垂簾杖其父,然後相抱泣,其無人理如此。銳以捕妖言功,加祿至一百二十石。每緝事,先令邏卒誘人為奸,乃捕之,得賄則釋,往往以危法中人。三人並交通宸濠,受臧賢、錢寧等賄,以助成其叛。寧王反,忠勸帝親征。其遮王守仁捷,欲縱宸濠鄱陽,待帝自戰,皆忠之謀也。

この時、また呉経という者がおり、特に親密であった。帝が南征すると、呉経は先に揚州に至った。かつて夜半に炬火を大通りに灯し、寡婦や処女の家に遍く入り、掠い出しては、金で贖うことを許し、貧しい者は多く自縊した。先にまた劉允という者がおり、正徳十年に勅を奉じて烏斯蔵の僧を迎えに行き、携帯した金宝は百余万に及んだ。廷臣が相次いで上章して諫めたが、聞き入れられなかった。劉允は成都に至り、装備を整えるのに一年余りを費やし、費用はまた数十万に及び、公私ともに窮乏した。到着すると、番人に襲撃された。劉允は逃れて免れたが、将士の死者は数百人に上り、携帯したものはすべて失った。帰還した時、武宗はすでに崩御しており、世宗は御史王鈞らの上言を用い、張忠・呉経を孝陵衛に発遣して軍に充て、張雄・張鋭を都察院に下して審問させ、劉允もまた罪を得た。

原文是時,又有吳經者,尤親匿。帝南征,經先至揚州。嘗夜半燃炬通衢,遍入寡婦、處女家,掠以出,號哭震遠近,許以金贖,貧者多自經。先是,又有劉允者,以正德十年奉敕往迎烏斯藏僧,所賫金寶以百餘萬計。廷臣交章諫,不聽。允至成都,治裝歲餘,費又數十萬,公私匱竭。既至,為番人所襲。允走免,將士死者數百人,盡亡其所賫。及歸,武宗已崩,世宗用御史王鈞等言,張忠、吳經發孝陵衛充軍,張雄、張銳下都察院鞫治、允亦得罪。

世宗は正徳年間の宦官の禍をよく見知っていたので、即位後は近侍を非常に厳しく取り締まり、罪があれば打ち殺すか、あるいは屍を晒して戒めとした。張佐・鮑忠、麦福・黄錦らは、興邸の旧人から出て司礼監を掌り、東廠を督めたが、いずれも謹厳で大いに振る舞うことはなかった。帝はまた天下の鎮守内臣および京営・倉場を掌る者をすべて撤去し、四十余年を終えるまで再び設置しなかった。ゆえに内臣の勢力は、嘉靖朝においてのみ幾分か衰えたのである。

原文世宗習見正德時宦侍之禍,即位後御近侍甚嚴,有罪撻之至死,或陳屍示戒。張佐、鮑忠,麥福、黃錦輩,雖由興邸舊人掌司禮監,督東廠,然皆謹飭不敢大肆。帝又盡撤天下鎮守內臣及典京營倉場者,終四十餘年不復設,故內臣之勢,惟嘉靖朝少殺云。