明史

列傳第一百九十 列女二

列女二

歐陽氏は九江の人、彭澤の王佳傅の妻なり。姑に事へ至孝なり。夫亡ぶ、氏年方に十八、遺腹の子を撫で、紡績を以て生と為す。父母之を嫁がすを迫る、乃ち針を以て其の額を刺し、誓死守節の字と為し、墨を以て之を涅し、膚裏に深入す、里人黒頭節婦と称す。

又徐氏は烏程の人。年十六、潘順に嫁す。期せずして夫病篤く、顧みて徐に曰く「母老い、汝年少、奈何」と。徐泣下し、即ち刀を引いて左の小指を断ち、以て死を誓ふ。夫死し、布衣長齋す。年七十八にして卒す。遺命して断指を取って棺中に入る。家人其の指を出だすに、染むる所の爪の紅色尚存す。

馮氏は宣城の劉慶の妻。年十九、夫亡ぶ、誓って節を守る。其の娣姒之を諷して曰く「守は未だ言ひ易からず、鉄釘を咬み断つ者に非ざれば能はざるなり」と。馮即ち袂を投げ起ち、壁上の釘を抜きて之を嚙む、剨然として歯痕有り。復た臂の肉を抉り、釘を以て壁上に著けて曰く「脱し異志有らば、此れ即ち狗彘の肉も若かず」と。已にして遺腹に子を生み、曰く大賢。長じて李氏を娶る、大賢又夭す、姑婦相守りて老に至る。卒し、壁の釘肉を取って視るに、尚韌くして腐らず、歯痕新しきが如し。

方氏は金華の軍士袁堅の妻。堅酒を嗜み家を敗り、卒して城北の濠上に殯す。方貧にして依る所無く、乃ち殯処に即ち棺を置き、其の中に寢處し、饑うれば則ち出でて濠に於て飲む。久しく復た出でず、則ち死せり。郡守劉郤土を封じて之を祭る。

又葉氏は蘭谿の人。神武中衛の舍人許伸に適す。伸家素より財に饒なり、不檢を以て、蕩尽せんとし、妻を携へて親しむ所に投じ、通州に卒す。氏屍を守り、晝夜跪きて哭す。或は之に食を遺し、或は金を饋り、或は以て改嫁を勧む、俱に卻して応ぜず。水漿口に入れざること十四日、竟に屍の傍に死す、年二十餘、州人棺を買ひて合葬す。

潘氏は海寧の人。年十六、許釗に帰り、子淮を生む。甫だ期年、釗卒す、既に殮し、潘自経す。死すること已に両日、老嫗有り之を過ぎて曰く「是れ活く可し」と。之に薬を投じ、更に蘇る。釗の族兄孤に利あらんと欲し、潘を嗾して改適せしむ、潘容を毀りて自ら誓ふ。族兄なる者、夜勢家の仆数十人を率ひて債を以て誣ひ、門を椎きて入る。潘子を負ひ、風雨を冒し、垣を踰えて逸る。前に大河を距つ、追ふ者迫る、潘號慟して河に投ず。適に木浮かび至る有り、之に憑りて渡り、母家に達し、遂に止まりて帰らず。淮年十九、始めて帰る。淮諸生を補し、婦を娶りて五子を生む。潘年五十、宗人聚りて祝す、族兄なる者も亦至る。潘曰く「氏以て今日有る所以は、伯氏の玉成に頼る」と。目して淮に酒を酌ませて伯に飲ませ、爵を卒へ、北向ひて拝して曰く「未亡人、三十年来瀕死すること数たびなり、而るに顧みて強く生くるは、独り淮が故のみ。今幸ひに成立し、且つ多く子有り、復た何の憾か有らん」と。語畢りて室に入る。頃にして宴徹く、諸宗人淮と同に入りて謝す、則ち室中に縊死せり。

楊氏は桐城の吳仲淇の妻。仲淇卒す、家貧しく、舅更に之を嫁がさんと欲す。楊曰く「即ち饑死すとも、必ず舅姑と俱にすべし」と。舅奪ふ能はず。数年、家益貧しく、舅其の父母に謀り、将に以て債を償はんとす。楊天を仰ぎて呼びて曰く「吾が口を以て舅姑を累はすは、不孝なり。貧を助くる所無きは、不仁なり。節を失へば則ち不義なり。吾死有るのみ」と。因りて発を咽みて死す。張烈婦は蕪湖の諸生繆釜の妻。年十八、釜に帰る。四年を越え、釜病み、張に属して善く自ら托せよとす。張泣いて曰く「夫吾に二心有りと為すか。子有れば則ち志を守り主に奉じ、妻の道なり。子無ければ則ち身を潔くして夫に殉じ、婦の節なり」と。乃ち沐浴して衣を更へ、戸を闔ぢて自縊す。日を閲て、而して釜乃ち卒す。又蔡烈婦は松陽の葉三の妻。三薪を負ふを業と為し、蔡小心に敬事す。三久しく病み、織纴を以て薬餌を供す。病篤く、婦の手を執りて訣して曰く「我が生けるに及んで嫁げ、三年の苦を受くる無かれ」と。婦梳洗して衣を更へ、袖に刀して前に曰く「我先づ嫁げり」と。頸を刎ねて死す。三驚嘆し、尋ねて死す。又鄭氏は安陸の趙鈓の妻。性剛烈、閨房中言動非禮に渉らず。某寡婦更に人に適し、茶餅を以て饋る。鄭怒り、命じて之を傾けしむ。夫戯れて曰く「若罵る勿れ、幸ひに夫死せざるのみ」と。鄭正色して曰く「君憂ふる勿れ、我豈に此れを為さんや」と。後鈓疾み将に死せんとし、回りて鄭を視るに、目を瞪きて瞑らず。鄭曰く「君我を疑ふこと得毋れや」と。即ち自ら床楣に縊す。鈓少しく蘇り、回りて盼み、涙を出だして絶ゆ。

王烈婦は上元の人。夫酒を嗜み業を廢す、破屋一間に僦居し、竹篷を以て内外を隔つ。婦日戸を塞ぎ、門扉に坐して麻を績ぎ自給す。夫博徒の李と遊ぶ。李婦の姿を悅び、之を乱さんと謀る。夫酒に被り、狂言を以て婦を餂ふ、婦母家に奔りて之を避く。夫之を逼りて帰らしめ、夜酒脯を携へて李と俱に至り、婦を引いて坐せしむ、婦駭き走り且つ罵る。夫威を以て之を挟む、婦堅く拒み、大いに搒笞せらる。婦免れ難きを度り、夜幼女を携へて河干に坐し、慟哭して河に投じて死す。是の夜、大風雨、屍漂没せず。曙に及び、女尚草間に熟睡す。

又許烈婦は松江の人許初の女。夫飲博して生を治めず。諸博徒聚りて謀りて曰く「若の婦少艾なり、曷ぞ我輩と歡を共にせざる、日々錢を得て酒を治む可し」と。夫即ち意を以て婦に諭す、婦之を叱し、屢箠撻を加ふれども従はず。一日、諸悪少酒肴を以て進む。婦走りて鄰の嫗家に避け、泣きて懷中の女を顧みて曰く「而が父不才なり、吾安んぞ顔を存し自らん、汝の民となるを俟たんや」と。少間、戸を闔づる聲を聞く。嫗之を覘ふるに、則ち刀を抜きて頸を刎ね地に仆る。父醫を挈へ来りて視るに、熱き雞皮を取って之を封ず、復抓き去る。明旦氣絶す、年二十五。

吳氏は永豐の人、名は吉姑。年十八、寧集略に適す。未だ一年ならず、夫卒す、六日食はず。親しむ所の方百方解譬し、始めて粥を食し、朝暮一溢米。服除け、母其の少きを憐み、令して改適せしめんと欲す。往きて之を視るに、同寢食すること三年、竟に敢へて一語を出ださず。帰りて諸婦に謂ひて曰く「此の女鐵石の心なり、動かす可からず」と。

慈谿の沈氏六節婦。章氏は祚の妻。周氏は希魯の妻。馮氏は信魁の妻。柴氏は惟瑞の妻。孟氏は弘量の妻。孫氏は琳の妻。居る所の名は沈思橋、海に近し。族の衆二千人、多くぎょう黠にして善く鬥ふ。嘉靖中、倭賊入り犯す、屢其の魁を殲し、虜掠を奪ひ還す。賊深く之を仇とす。一日、賊大いに至る、沈氏の豪衆に誓ひて曰く「婦女を出す無かれ、貨財を輦する無かれ、共に死を以て守り、違ふ者は誅す」と。章亦族中の婦女を集めて誓ひて曰く「男子は死して鬥ひ、婦人は死して義す、賊の辱しむる為す無かれ」と。衆竦息して命を聽く。賊圍み合はす、群婦一樓に聚りて以て待つ。既にして賊入る、章先づ出でて河に投ず、周と馮之に從ふ。紫方に夫の為に刃を礪く、即ち刃を以て賊を斫り、旋ねて自ら刃す。孟と孫賊に得らる、賊の刃を奪ひて自ら刺して死す。時に宗婦の死する者三十餘人、而して此の六人尤も烈し。

黄氏は、沙県の王珣の妻である。嘉靖年間、倭寇が乱を起こし、その郷里を流れ劫掠した。郷里の隣近所は皆、舟を操ることを業としていた。賊が至ると、多くの婦人が舟に乗り、艙の中に隠れたが、黄氏は一人外に坐っていた。婦人たちが呼んで言うには、「賊に見られることを心配しないのか」と。黄氏は言った、「篷の窓の下に安坐していては、賊が来た時に逃れられぬ恐れがある。私は外に居て、すぐに水に飛び込もう」と。賊が来ると、黄氏は水中に躍り込んで死んだ。時に同県の羅挙の妻張氏は、夫に従って乱を避け、巌穴の間にいた。賊が来ると、張氏は妾及び妾の子と共に捕らえられた。賊は張氏が美しいのを見て、犯そうとしたが、従わなかった。途中に至り、張氏は髪を解いて自縊したが、賊はそれを断ち切った。張氏はまた行纏を解いたが、賊はまたそれに気づき、徒跣のまま追い立てて営に至った。賊の首魁が留め置こうとすると、張氏は厲声で言った、「速やかに一死を賜われ」と。賊は言った、「死を畏れぬなら、汝の妾を殺すぞ」と。張氏は頸を伸ばして言った、「妾に代わってください。子供を養育するために残して」と。賊は言った、「子供を殺すぞ」と。張氏は頸を伸ばして言った、「子供に代わってください。夫の後嗣を存続させるために」と。賊は引き出して殺すように命じた。張氏は先に行き、少しも懼れる色がなかった。賊がなお躊躇していると、張氏は罵りを絶やさず、遂に害に遇った。屍を河に投げ込むと、数日後、屍は浮かび上がり、生きているようであった。

張氏は、政和の遊銓の妻である。倭寇が将に至らんとする時、婦人は数回その女に語って言った、「婦道はただ節を尊ぶのみ。変事に値して窮すれば、溺れることと刃とがあるのみ。汝は謹んでこれを覚えておけ」と。銓がこれを聞き、不吉だと思った。婦人は言った、「婦と女がこのようにできるならば、これより大いなる吉事があろうか」と。未だ幾ばくもせず、賊が政和を陥落させると、張氏は逃れられぬと覚悟し、連呼して女に言った、「以前の教えを省みるか」と。女が頷くと、即ち井戸に赴いた。張氏は笑みを含んでそれに従い、共に死んだ。

また葉氏は、松溪の江華の妻、陳氏は、葉の弟の恵勝の妻で、里人と共に倭寇を避けて長潭にいた。歳除に値し、里の老女が幼い男の髪を整えるための刀を探したが見つからず、葉氏が懐中から取り出した。衆人が理由を問うと、言った、「急に備えるためです」と。倭が長潭を囲み、二婦を捕らえ、共に一つの縄に繋いだ時、葉氏は陳氏に言った、「我ら二人は縛られ、たとえ生きて帰れても、また悪名を被る。死ぬ方がましだ」と。陳氏は唯々と承諾した。葉氏が懐から刀を探ると、既に失われていた。各々幼い女を抱いて潭に跳び込み死んだ。時に林寿の妻范氏も、衆婦と共に山の塢に隠れていた。倭が衆婦を捜し出し、共に水南に至ると、范氏だけが抗った。或る者が姑息に従うようにと言うと、家から贖いに来るだろうと。答えて言った、「身は贖えても、辱は贖えようか。私は寧ろ死のう」と。賊がこの言葉を聞き、その幼い女を殺して脅したが、動じなかった。言った、「汝にも及ぶぞ」と。厲声で言った、「固より我が願いである」と。賊は彼女を殺した。

劉氏の二女は、興化の人である。嘉靖四十一年、里中の婦人と共に倭に掠められ、路傍の神祠に繋がれた。倭が酒に酣になると、繋がれている者を遍く見て、先ずその姉を取った。姉は厲声で言った、「我は名家の女である。賊に汚されようか」と。倭は笑って慰めて言った、「もし我に従うなら、父母を尋ねて汝を帰そう」と。女は言った、「父母は知る由もない。この時に尚帰ることを論じようか」と。倭が尚背中を撫でて懇ろな様子をすると、女は怒り、大いに罵った。時に黄昏で、倭が火を放つと、女は即ち火に赴いて死んだ。已にしてまたその妹を侵そうとすると、妹もまた大いに罵った。倭が刃を露わにして脅したが、動じず、言った、「殺したければ、即ち殺せ」と。倭が強いて犯そうとすると、女は欺いて言った、「私は固より従いたいが、姉の骨が燼となるのを待ってからでなければならぬ。そうでなければ忍びない」と。倭は喜んで薪を負って火を増し、火が熾ると、女はまた火に赴いて死んだ。時に同死した者は四十七人、二女が最も烈しかった。

孫烈女は、五河の人である。性は貞静で、軽々しく嬉笑しなかった。母の朱が卒すると、継母の李が前夫の子の鄭州兒を連れて来た。州兒は母を恃んで女と私通しようとし、嘗て手で挑んだが、憤ってその頬を打った。一日、女が顔を整えていると、州兒が後から抱きしめた。女は髪を掴んで刃を探したが、州兒がその腕を噛んで逃れた。女は姉に訴えに走り、地に触れて慟哭して言った、「母は不幸で、父はまた他所に出ている。賊子が敢えて私を辱めようとする。必ずやこれを刃にかけて後死のう」と。姉は曲げて慰撫した。乃ち腕の痕を李に見せ、戒めてこれを止めさせた。州兒は改めず、李を欺いて言った、「兒が薪を採り、腕の力が勝たず、束を路に置き忘れた」と。李が取りに行くと、帰ると戸は厳しく閉ざされていた。母方の伯母の舒氏もまた駆けつけて来て言った、「初めは小牛の悲鳴のようであり、続いてまた雷の響きのように震えた。必ず異変がある」と。力を合わせて開けると、州兒は閾の下で死んでおり、項はほとんど断たれ、女もまた壁に倚って死んでいた。蓋し州兒が母を騙して出させ、女をからかったのである。女は陽に承諾して戸を閉めさせ、既にその後を踏んでこれを殺したのである。また蔡烈女は、上元の人である。幼くして孤となり、祖母と住んでいた。一日、祖母が出ると、僧となった追放された僕が来て食を乞い、挑んだが、従わなかった。刃で脅すと、女は徒手でこれと搏ち、十数ヶ所傷を受け、罵りを絶やさず、竈の下で宛転して死んだ。賊は逃げ去り、官が検分を行おうとすると、突然来て自首した。官が怪しんで理由を問うと。賊は言った、「女が私をここに拘引したのです」と。遂に罪に当てられた。

陳諫の妻李氏は、番禺の人である。諫は、嘉靖十一年の進士である。太平の推官となり、二月で卒した。その弟が棺を扶けて帰ろうとした。李氏は言った、「私は若い寡婦である。どうして叔父と万里を同じくして帰ることができようか」と。遂に食を絶って死んだ。

胡氏は、会稽の人である。同里の沈袠に許嫁した。将に嫁がんとする時、袠が父の煉の難に遭い、二兄の袞・褒が塞上で杖死し、袠と兄の襄は共に宣府の獄に逮系された。総督の楊順が厳嵩の意に逢い、必ず二子を死に置かんとし、数百回搒掠し、夜分に二子の病状を記させた。時に順が給事中の呉時来に弾劾され、檻車に就いて去ったので、襄等は乃ち釈放を得た。ここより病んで嘔血し、父の喪を扶けて帰り、服闋に及んで始めて婚し、胡氏の年は既に二十七であった。六月を過ぎ、袠が卒すると、胡氏は哀哭して声を絶やさず、全ての奩具を出して喪事を治めた。他の諷する者がいると、髪を断ち面を剺いて絶った。終日一室の中にあり、即ち同産でも時ならずしては会わなかった。晩年に疾を染め、家人が医を迎えようとすると、その父に告げて言った、「寡婦の手をどうして他人に見せられようか」と。薬を服さずに卒し、年五十一であった。襄の子を嗣がせた。

戴氏は、莆田の人で、名は清である。蔡本澄に嫁ぎ、年甫十四であった。二年住み、本澄が世籍により遼東に戍り、妾を買って婦に代わって行かせた。戴の父と約して言った、「遼左は天の果て、五年帰らねば、我が女は改嫁すべきである」と。期に至り、父が清に約の如く語った。泣いて従わず、独居すること十五年であった。本澄が帰り、一子を生んだが、未だ晬に及ばず、父子相継いで亡くなった。清は哀毀してほとんど絶えた。父が密かに呉氏に聘を受け、清がこれを聞いて言った、「人は私を蔡本澄の婦と呼ぶのみ。どうしてまた呉と言おうか」と。即ち父の家に行き、婚を絶たせた。呉が官に訟うと、令は節を守らせ、表して「寡婦清の門」と称した。時に莆田にはまた欧茂仁の妻胡氏がおり、節を守って厳しく苦しく、内外これを重んじた。郡に長く断じられない獄があり、人が言った、「太守は胡寡婦に問うべし」と。守は乃ち婦を訪れてこれを問うと、一言で決した。

胡氏は、鄞の許元忱の妻である。元忱は徐祝師の養子となり、巫祝の事を習った。胡氏はこれを卑しみ、夫に改業を勧め、且つ許宗に帰ることを勧めた。未だ果たさず、元忱が疫病で死んだ。氏はこれを許氏の廬に殯し、苫を敷いて柩の傍に臥し、夜は一刀を抱いて臥した。里の某が氏を偶に求めると、氏は面を毀ち鬢髪を截ち、左手の三指を断ち、流血淋漓とし、某は驚いて逃げた。族の婦人で尊行の者が抱きかかえて慟哭し、因って後を継ぐ者を立て、これを子とした。氏は喪に服すること三年、洗濯せず櫛もせず。葬を終えると、乃ち子に婦を娶らせた。夫に弟がおり、少なくして外に流移していたが、またこれを返し、許氏はこれにより復興した。

李氏は、郃陽の安尚起の妻である。尚起は河南に商いに行き、病没した。李氏は訃報を聞くと、財産を全て売り払って夫の借金を完済し、さらに棺を用意して夫の棺の帰還を待ち、跪いて一族や同党に告げて言うには、「二つの棺を地中に入れる煩わしさをお願いします」と。戸を閉めて自ら縊死しようとしたところ、隣の婦人が彼女を生かそうと、戸を押し開けて言うには、「あなたにはまだ返済すべきものがあるのに、どうして急いで死ぬのですか」と。李氏は戸を開けて応えて言うには、「確かにそうですが、私の資産はすでに尽きました。どうしましょうか。もう一日だけ待ってください」と。そこで履物一足を縫い、それを持って行って渡し、言うには、「これで十分償えます」と。家に帰ると、遂に縊死した。

呉節婦は、無為の周凝貞の妻である。凝貞が亡くなると、婦人は二十四歳で、容貌を損なって死を誓い、再嫁せず、女工の仕事をして寡婦の姑を養った。姑は年老いて病に臥せり、歯が駄目になって食べられなかった。婦人は自分の子の乳を断って姑に乳を与え、冬の月には臥して姑の背中を抱き温め、床の上で身をよじらせて三年を過ごした。姑が亡くなると、哀哭して骨と皮ばかりになり、七十五歳で亡くなった。また楊氏は、清苑の劉寿昌の妻である。十九歳の時、夫が亡くなり、死を誓って殉じようとした。姑が病み寄る辺がないことを思い、死ななかった。実家が迎えに来たが、姑が年老いて側を離れがたいので、ついに帰寧しなかった。三十年を経て、姑が亡くなり、葬儀を終えると、夫の墓で哀号して言うには、「妾は今ようやく地下でお伴することができます」と。そこで飲食を絶った。家人が遺言を尋ねると、言うには、「姑の喪服を着ている身なので、布の素服で納棺してほしい」と。そこで目を閉じた。

徐亜長は、東莞の徐添男の娘である。添男は徐姓の僕であり、亜長が四歳の時に死んだ。母は亜長をその主人に返し、去って別に嫁いだ。成長するにつれ、貞淑で静かで笑い話も少なく、多くの婢たちの中にいても、凛として犯しがたい様子があった。家童の進旺が彼女と密通しようとしたが、できなかった。亜長は主人の命で田で草や豆を取っていたところ、進旺が跡をつけて迫り、力ずくで拒んで免れたが、そこで泣いて言うには、「郎君が読書しているのを聞きましたが、寡婦が手を引かれた時、斧でその手を断ったという話があります。まして私はまだ娘です、どうして生きていられましょうか」と。そこで江に身を投げて死んだ。

蒋烈婦は、丹陽の姜士進の妻である。幼い頃から聡明で悟りが早く、読書を好んだ。弟の文止がちょうど塾に通っていた。夜帰ると、いつも餅や菓子を与え、その日に授かった書物を誦させると、全て記憶でき、長くして遂に文章が書けるようになった。士進に嫁いで数年、士進が肺病で死んだ。婦人は金を粉末にして酒と共に飲み、また塩鹵も飲んだ。その父が幾度か察知して駆けつけ救い、死を免れた。十二日間食べず、父がその歯を開けて薬を飲ませると、また死ななかった。礼部尚書の姜宝は、士進の叔父であり、婦人が読書を好むことを知り、多くの古い図書や史書をその寝室に置き、劉向の『列女伝』を続けさせた。婦人は承諾し、家人はますます謹んで備えた。ある日、婦人は繐帳の前に穴を掘って大きな甕を埋め水を貯めるよう命じ、笑って家人に言うには、「ここに白蓮を植えよう。この花は泥から出て染まることがない。亡き人に私の心を知らせたいのです」と。そこで日々編纂に励んで怠らなかった。書物が完成しようとした時、監視する者が少し油断すると、頭を甕に浸して死んだ。文章は脱稿するとすぐに破棄し、現存する『列女伝』及び『哭夫文』四篇、『夢夫賦』一篇は、全て文止が盗み出して得たものである。御史が朝廷に上奏し、その門に「文章貞節」の札を掲げた。初め、その兄が妹が文章を書けるのを見て、李易安や朱淑真に比べたが、彼女はいつも眉をひそめて言うには、「易安は再嫁し、淑真はその夫に満足せず、文章ができても大節を損なっています」と。その幼い頃の志操は既にこのようなものであった。

楊玉英は、建寧の人である。書史に広く目を通し、詩を詠むことを得意とした。十八歳の時、官時中に許嫁された。時中に不当な罪がかかり、父母は他の家に改めて聘礼を受けた。玉英はこれを聞くと、その婢に言い付けて言うには、「私の箱に佩囊や布靴などがある。いつの日か官官人に渡してほしい」と。婢は悟らず、尋ねた。そこで寝室に忍び込み、自ら縊死し、目は閉じなかった。時中が訃報を聞き、礼を尽くして祭りに行き、手で覆うと、遂に目を閉じた。婢が遺された物を出し、父母に渡して開かせると、詩が得られた。それには、「崑山の一片の玉、既に卞和に売り与えらる。和の足苦く刖られ、玉は堅くして磨くべからず。若し再び他人に付せば、其れ平生を如何せん」と。また張蟬雲は、蒲城の人で、俞檜に許嫁された。万暦年間、檜は誣告されて獄に繋がれた。女は賄賂で脱することができると聞き、母に相談し、嫁入り道具を売って助けようとした。母は許さず、言うには、「汝はまだ嫁いでいないのに、どうしてそんなことをするのか」と。女は食事中だったが、すぐに碗を地面に投げつけ、憤って語らなかった。夜になると自ら縊死した。

陳襄の妻倪氏。襄は鄞の諸生で、早世した。婦人は三十歳で、子がなく、家は貧しく、女紅に力を尽くして姑を養った。その容姿に憧れる者がいて、媒人を遣わして姑に申し出た。婦人は沸騰した湯を煎じて自らその顔を浸し、左目が飛び出し、さらに煙煤で傷口を塗り、遂に恐ろしい形相になった。媒人が訪れると、驚いて走り去り、再び聘のことを告げようとはしなかった。二十年を経て、姑は七十余歳で亡くなり、婦人は哀慟して飲食せずに死んだ。

彭氏は、安丘の人である。幼い頃に王枚臯に許嫁された。嫁ぐ前に、枚臯が亡くなり、再嫁しないことを誓った。濰県の丁道平が密かにその父に頼んで娶ろうとした。彭氏はこれを察知し、六日間食べなかった。道平は後悔して止め、女の節烈を心から敬い、後に彼女が危篤で起き上がれないと聞くと、棺を贈った。彭氏は父に言うには、「葦で私を包んで埋めてください。急いで丁氏の棺を返してください。地下で王枚臯に会いたいのです」と。遂に死んだ。また劉氏は、潁州の劉梅の娘で、李之本に許嫁された。之本が亡くなると、女は血の涙を流して食べず、父に言うには、「娘は李郎のために三年喪に服し、弟が少し成長するのを待って、その後殉じます。舅に伝えてください、まだ郎のために棺を用意しないでと」と。そこで全ての化粧をやめ、弟に読書を教え、自ら句読を正した。一年後、劉梅が密かに田家に許した。女はこれを聞くと、夜中に箱を開け、李家からの幣を取り出し、灯りを挑んで衣を縫い、それを着て、縊死した。知府の謝詔がその喪に臨むと、近隣の弔問客が市のようであった。田家も奠賻の品を用意し、酒を挙げてちょうど地に注ごうとすると、柩の前に置かれた灌ぎの瓦盆がぱっくりと割れ、高さ一丈余り跳ね上がり、檐の周りを蝶が落ちるように回った。見物人は顔色を失った。

劉氏の二人の孝女は、汝陽の人である。父の玉は七人の娘を生み、家は貧しく田を耕した。かつて畝の上で嘆いて言うには、「男児を生まずに女児を生むとは、私に鋤を握らせて休ませない」と。その第四女と第六女がこれを聞いて哀れに思い、嫁がないことを誓い、短い衣を着て父に代わって耕作した。父母が相次いで亡くなると、葬る力がなく、二人の女は家屋を丘とし、親の側を離れなかった。隆慶四年、督学副使の楊俊民と知府の史桂芳がその家を訪れて面会を請うたが、二人の女は年齢ともに六十を超えていた。

黄氏は、江寧の陳伯の妻である。十八歳で、陳伯に嫁いだ。父が死に、母が節操を変えようとしたが、黄氏は苦言を諫めたが聞き入れられなかった。ある日、母が訪ねて来たが、女は門を閉めて会おうとせず、母は恥じて去った。後に陳伯が病篤くなると、黄氏は独り生きないことを誓った。ある日、姑が陳伯を支えて起き上がらせると、黄氏はじっと見つめて言うには、「ああ、病がここまでとは、私は望みがありません」と。竈の下に走り、食器を割って喉を刺したが死にきれず、包丁で自ら喉を切って死んだ。二十一歳であった。

邵氏は、丹陽の大俠邵方の家の婢女である。邵方の子の儀がおり、婢女にその世話をさせた。かつての宰相徐階と高拱がともに郷里にいたとき、邵方は策を以て徐階に仕えようとしたが、用いられず、すぐに高拱を訪ねて謁見し、彼が再び宰相となるよう画策し、その名声は朝廷内外に轟いた。万暦初め、高拱が罷免されると、張居正が巡撫張佳胤に命じて邵方を捕らえ殺させ、同時に儀も逮捕した。儀はわずか三歳で、捕吏は日が暮れたのでまだ出発せず、邵方の住む屋敷を閉ざして守っていた。邵方の娘婿である武進の沈応奎は、義に厚い烈士で、気概と膂力があり、当時は諸生であったが、儀が死ねば邵氏の血筋が絶えると思い、救いに行こうとした。ところが府の推官が応奎と親しく、強く酒宴に誘い、夜半になってようやく終わった。武進から邵方の家までは五十里あり、応奎は城を越えて出て、夜半に邵方の家に着き、塀を越えて入った。婢女はちょうど灯りの下に座り、儀を抱いて泣きながら言った。「どうか沈郎が来て、この子を託してくれますように。」応奎が慌てて前に進むと、婢女は立ち上がって儀を彼に渡し、頭を地に付けて言った。「邵氏の祭祀はあなたにあります。この子が生きれば、婢は死んでも悔いはありません。」応奎は儀を匿って去り、朝に推官を訪ねた。翌朝、捕吏が儀を見失い、婢女を捕らえて毒打して尋問したが、終始何も言わなかった。ある者が太守に言った。「必ずや応奎が匿っているに違いない。」応奎と親しい推官が同席しており、大笑いして言った。「冤罪だ!応奎は昨夜私と酒を飲み、今朝もまた私を訪ねてきた。」ちょうど邵方のために弁解する者が現れ、事態は収まった。婢女はその子を養育して老いた。

楊貞婦は、潼関衛の人で、郭恒に嫁ぐ約束をしていた。万暦初め、郭恒が湖南に遊学し、長く帰らなかった。父が他の縁談を受け入れようとしたが、娘は承知せず、髪を断って節を守った。家に岩壁があり、壁に穴を穿ってそこに住み、袋を垂らして飲食を通し、このようにして二十六年を過ごした。郭恒が帰ってきて、ようやく婚礼を挙げた。また倪氏という者がおり、帰安の人で、陳敏に嫁ぐ約束をしていた。陳敏は従軍し、すでに死んだと伝えられた。五十余年を経てようやく帰ってきた。倪は志を守って嫁がず、この時に至って婚礼を挙げ、六十一歳であった。

楊氏は、寧国の饒鼎の妻である。饒鼎が単衣のまま湖で溺死したので、楊はその魂を招いて葬り、二人の子を厳しく教え導いて一人前にし、冬でも袷の衣を着なかった。万暦初め、八十歳の時、ついに単衣のまま家の傍らの池に入り、端座して死んだ。

丁氏は、五河の王序礼の妻である。序礼の弟の序爵が他郷にいて、賊に殺された。その妻の郭氏は妊娠中で、すぐには殉死しなかった。そして子を産んで一月後、首を吊って死んだ。その時、丁氏はちょうど女児を産んだばかりで、泣きながら序礼に言った。「叔父様が不運にも他郷で亡くなり、叔母様もまた殉死され、孤児を養わずに置き去りにされました。その責務はあなたと私にあります。私は初めて女児を産みましたが、後にはまだ機会があります。しかし孤児が亡くなれば、叔父様の後継ぎは絶え、かつ叔母様に背くことになります。」そこで女児を捨てて甥に乳を与えた。間もなく序礼もまた死に、ついに子も娘もいなくなった。丁氏は年若かったが、甥を養育して成人させ、まったく怨み悔いることはなかった。

尤氏は、昆山の貢生尤鏞の娘である。諸生の趙一鳳に嫁いだが、夫は早死にした。殉死しようとしたが、二人の子がまだ幼いのを顧みて、無理に食事をとった。二人の子もまた夭折すると、慟哭して言った。「これで夫に従うことができる。」夫がまだ葬られていないのを悲しみ、すぐに墓穴を営んだ。悪少年がその美しさに心を奪われ、彼女の目を指さして言った。「あの目は美しく流れるように輝いている、どうして長く保てようか。」婦人はこれを聞き、夜に石灰を取って手で目を揉み、血が出てたちまち枯れた。棺を用意して常に傍らに置いた。夫の葬儀が終わると、すぐに首を吊った。ある者が解き放すと、石に頭を打ち付けて額を裂き、走って棺の中に臥して死んだ。

李氏は、王寵麟の後妻である。寵麟は知府として仕えていたが死去し、李氏は二十余歳で、泣き叫び食事もとらず、四十日を経て病状が危篤となった。一族の者がその財産を狙い、必ずや悪口を言って先妻の子を陥れようとすることを知り、あらかじめ家人に命じて自分の棺を用意させ、封をせず殯も行わないようにした。人々が果たして蝟集し、孤児が母を殺したと騒ぎ立てた。李氏が棺の中から言った。「お前たちの計略が必ずこうなることは、すでに知っていた。」人々は大いに恥じて去り、その後李氏は目を閉じた。

孫氏は、甌寧の人である。幼い頃から経史に通じ、呉廷桂に嫁ぐ約束をしていた。廷桂が死ぬと、孫は喪に服そうとしたが、家族が止められず、父が輿を用意した。彼女は言った。「喪に赴くのに輿に乗ってよいのか?」夜に入り、徒歩で行き、納采の時に贈られた一対の金雀を携えて舅姑に会った。拝礼を終えると、柩の側に祭り、その後は喪中の席を離れず、必ず死ぬことを期した。呉家はもともと貧しく、用意した棺は、用が足りる程度のものだった。好事の者が美しい槚の木を贈って助けようとしたが、孫はそれを見て言った。「木が美しいからといって私の夫を超えるのは、礼に適いません。」と断った。粗末な棺が来ると、ようやく承諾した。期日が来ると首を吊って死に、衣帯の中に書いて言った。「男子は屍に近づかず、女子は衣を開くな。」

方孝女は、莆田の人である。父の瀾は、儀制郎中として官にあり、京師で死去した。娘は十四歳で、他に兄弟がおらず、叔父と共に棺を運んで帰った。揚子江を渡る時、中流で船が転覆し、棺が浮かんだ。娘は別の船にいたが、慌てふためいて救いを呼んだ。風濤が激しく怒り狂い、誰も前に出ようとしなかった。娘は天を仰いで大泣きし、ついに水に飛び込んで死んだ。三日後、屍体が浮かび上がり、父の棺の傍らに寄り、ともに南岸に漂着した。また解孝女という者がおり、寧陵の人である。十四歳の時、母と共に洗濯をしていた。母が誤って水に落ちた。娘は周りを見回しても人がいないので、号泣して水に飛び込んだ。しばらくして兄の紹武が到着し、潜って二人を引き上げたが、母も娘も死んでいた。娘の手は母をしっかりと握りしめていた。兄が母を救うと、しばらくして母は蘇生した。娘の手はまだ離れず、兄が泣きながら撫でて言った。「母はもう生き返った、妹も安心できるだろう。」すると手が離れた。

李氏は、東郷の何璇の妻である。何璇が他郷で死去した。李氏は並外れた美貌を持ち、父が再嫁を迫った。そこで簪を耳の中に入れ、自ら手で押し込んで没するまでにし、また抜き出した。血が注ぐように飛び散った。姑が気づき、家人を呼んで救わせたが、すでに死んでいた。

項貞女は、秀水の人である。国子生の項道亨の娘で、呉江の周応祁に嫁ぐ約束をしていた。女工に精通し、琴瑟を解し、『列女伝』に通じ、祖母と母に仕えて極めて孝行であった。十九歳の時、周が労咳の病であると聞き、すぐに斎戒し、香燈を焚いて仏を礼拝し、ひそかに何かを祈った。侍女たちがこっそり聞くと、わずかに身を以て代わるという言葉が聞こえた。ある日、乳母に言った。「嫁いでいないのに夫が亡くなったら、どうすればよいか。」乳母が言った。「まだ婦人となっていないのだから、縁組みを変えても害はない。」娘は厳しい顔で言った。「昔の賢人は一剣を人に約束しても、なお負けることを忍ばなかった。ましてや身においてはどうか。」そして訃報が届いた。父母はその事を秘密にしたが、しかし呉江の人が来たと伝わり、娘はすでに理解していた。祖母が母に見に行くように言うと、娘は母を座らせ、顔色はとても穏やかだったので、母は安心して去った。夜、侍女たちが熟睡するのを待ち、一人で起きて素糸で髪を結い、内外の衣をすべて縞のものに替え、下裳を縫い合わせた。侍女たちに労をかけるべき衣類などを点検し、名前を記して、それらを床上に並べた。机の上に大きく書いて言った。「父母上様に申し上げます。娘は一日もお仕えすることができませんでした。今、周郎のために死にます。」そして自ら首を吊った。両家の父母はその志に従い、ついに合葬した。

李氏は、寿昌の人である。十三歳の時、翁応兆と婚約した。応兆が急死すると、娘は嫁入り支度の衣装や飾りをすべて取り出して焼き、身を以て火の中に飛び込もうとしたが、父母に救い止められた。そこで翁の家に赴き、哀願して舅姑に後継ぎを立てることを乞い、また小さな楼を一つ乞い、夫の位牌を設け、その傍らに坐臥し、供え物を前に向かい合い、姑以外には顔を合わせなかった。舅が亡くなり、家は落ちぶれ、飢えを忍び紡績して姑を養った。間もなく姑もまた亡くなった。近所で大火が起こり、夜半から明け方まで燃え続け、百余りの家に延焼した。隣の婦人が楼に上がり、避難するよう勧めた。婦人は言った。「これこそ私が命を授かる時です。」夫の木主を抱いて焼かれるのを待った。しばらくすると四方はすべて灰燼かいじんに帰したが、小さな楼だけが残った。

玉亭県君は、伊府の宗室典柄の娘である。二十四歳の時、楊仞に嫁いだ。二ヶ月も経たぬうちに仞が死去し、慟哭して食事を取らなかった。ある者が舅姑が年老いており、かつ遺腹の子があることを以て諭したので、死を忍んで喪事を執り行った。やがて男児が生まれたが、家は次第に零落した。万暦二十一年、河南は大飢饉となり、宗室の禄も長らく支給されず、紡績を三日しても一食も得られず、母子は抱き合って慟哭した。夜半に神が夢に現れて告げた、「汝の節行は天に上聞されており、助けを得るであろう」。朝になって起きると、母子が述べた夢の内容は一致しており、互いに怪しんだ。その子が言うには、「屋後の土を取って土坯を作り、粟と交換しよう」。その日に土を掘ると、銭数百文を得た。それ以来、掘るごとに銭を得た。ある日、家の傍らの地が陥没し、石炭一窖を得たので、これを取って炊事に用いた。二ヶ月余り経つと、官からの俸給も届き、人々は苦節が天に感応したのだと考えた。

馬節婦は、十六歳で平湖の諸生劉濂に嫁いだ。十七歳で寡婦となった。舅の家は甚だ貧しく、彼女が再嫁することを利として、必ずその志を奪おうとした。飲食を与えず、あらゆる手段で挫こうとしたが、志はますます固かった。かつて門を閉じて首を吊ろうとしたが、ある者が救い出すと、縄が切れて地面に落ちて死んでいた。急いで解くと、次第に蘇生した。舅はまた密かに沈氏からの聘礼を受け取り、姑は彼女を誘って共に出かけさせ、女奴に抱きかかえさせて沈氏の舟に乗せた。婦は河に飛び込むことができず、天に救いを求めて大声で叫んだ。しばらくして風雨が起こり昼間も暗くなり、激しい雷が舟を撃ち、転覆しそうになること数度。沈氏は恐れ、舟を回して彼女を返した。事が県に知られると、県令は婦に別居を命じた。当時父と兄は皆亡くなっており、帰る所がなく、一つの学舎を借りて住み、官が養って老いるまで過ごした。

王氏は、東莞の葉其瑞の妻である。其瑞は貧しく、舟を操って近隣の境を行き来し、一月に一度帰宅した。婦は紡績して食糧を得た。万暦二十四年、嶺南は大飢饉となり、民は多く妻子を売った。其瑞は婦を博羅の民家に売ろうとし、契約が成立すると、その人を載せて共に来た。門に入って王氏が甚だ痩せ衰えているのを見て、尋ねると、数日も粥を食べていないという。其瑞は泣いて事情を告げ、かつ金を見せると、婦は笑って承諾した。舟が宝潭を出発すると、潭に躍り込んで死んだ。両岸の見物人は壁のようであり、皆、水流が速く、屍はどこにも留まらないだろうと言った。其瑞が到着し、上流から数声泣くと、屍が忽然と湧き出し、飛び込んだ場所から、既に数十歩も逆流していた。

劉氏は、博平の呉進学の妻である。楊氏は、進性の妻である。進学が疫病で死に、埋葬が済むと、劉は夜に墓所に匍匐して縊死した。間もなく、進性も疫病で死に、楊は一慟してほとんど絶命しそうになった。姑が再嫁させようと議すると、楊は言った、「私がどうして姒(劉氏)に及ばないことがありましょうか」。遂に縊死した。

譚氏は、南海の方存業の妻である。子を生んで三ヶ月で夫が亡くなり、悲号して殉死しようとした。母と姑が共に止め、かつ改嫁をほのめかした。氏は涙を流して言った、「私は久しく生きることを楽しまず、ただ姑と子を思うのみです」。嗚咽して涙が止まらず、二人は再び言うことができなかった。子が七歳になった時、塾師に就かせようとし、先に姑に拝礼させ、微かに託す意を示し、密かに喜んで言った、「私は今、志を遂げることができる」。ある日、媒氏が来て、また改嫁を勧めると、氏はますます憤り、夜中に縊死した。また張氏は、臨清の林与岐の妻である。夫が亡くなり、自ら縊死しようとした。舅姑が慰めて言った、「お前が死んだら、遺された孤児をどうするのか」。氏は衣服や物を乳母に与えてその子を育てさせ、三ヶ月後、子が乳母に安らかに育てられていると知ると、遂に飲食を絶って死んだ。

李烈婦は、餘姚の呉江の妻である。二十歳の時、夫と舅が共に死去し、家は酷く貧しく、婦は紡績して姑を養い、自分は常に凍え飢えていた。黄某という者が、彼女を娶ろうと謀り、夫の一族の者に賄賂を贈って姑を誘惑させたが、すぐには従わなかった。その者は密かに黄某及び実家と約束し、母が急病になったと偽って、駕籠を担いで迎えに来た。婦は慌てて駕籠に乗ったが、門に着くと、実家ではなかった。姑も間もなく到着し、机や敷物を設け、急いで婚礼を挙げさせようとした。婦は偽って言った、「私が嫁ぎたくなかったのは、姑が老いて寄る辺がないからです。姑が既に許されたなら、また何を言いましょう。しかし妾は夫が亡くなってから一度も帯を解かず、今一度沐浴を願います」。また尋ねた、「聘財はどれほどですか」。姑が金額を答えると、言った、「急いでそれを懐に入れて行きなさい。姑がここにいるのに、私が人に従うのは、甚だ恥ずかしいことです」。皆は喜び、姑を行かせ、湯を用意させた。湯が来たが、長く出て来ないので、戸を開けて見ると、縊死していた。その後、崇禎十五年、餘姚にまた黄烈婦という者がいた。金一龍の妻である。夫が早くに亡くなり、黄は指を切って自ら誓い、従子を嗣子と立て、姑と寄り添って暮らした。熊氏の子が彼女を娶ろうとし、母方の親族がその財産を利として、実家に帰らせると騙し、間道を通って熊氏に送り届けた。黄は勢いが挽回できないと知り、有り合わせの物を全て取り集めて聘金を返済したいと願ったが、聞き入れられず、夜更けまで押し問答となり、刀を引いて自刎したが死ななかった。その姑がこれを聞き、急いで見に来ると、黄は言った、「私がすぐに死ななかったのは、姑に一目会いたかったからです。今また何を求めましょう」。遂に喉をえぐって絶命した。郡邑がこれを聞き、熊氏の子を獄中で死なせた。

須烈婦は、呉県の人である。夫の李が死ぬと、町の者たちがその色を好み、争って娶ろうとした。婦は泣いて言った、「私は一人の夫を送り終えたばかりで、すぐにまた一人の夫を迎えるのですか。かつて私の夫の死を利として私を妻にしようとするのは、私の夫を殺すのと同じではありませんか」。町の者たちは徒党を組んで謀議し、彼女を掠奪しようとした。婦は驚いて母の家に駆け込んだが、母は恐れて留めようとしなかった。姑の家に戻ると、姑は母と同じく恐れた。姉の家に身を寄せると、姉はますます留めようとせず、婦は泣いて帰った。隣人が諭して言った、「もし死んだとしても、誰が汝の節を表彰するだろうか、どうしてここまで自ら苦しむのか」。婦は結局免れられないと覚悟し、自縊して死んだ。

陳節婦は、安陸の人である。李姓に嫁ぎ、早くに寡婦となり、独りぼっちで、実家に帰り志を守り、小楼に坐臥し、三十年間足を楼から下ろさなかった。臨終に際し、その婢に言った、「私が死んだら、慎んで男子に私を担がせてはならない」。家人はその言葉を軽んじ、男子に楼に登らせて担がせると、気絶してからしばらく経って、起き上がって坐り言った、「最初に私は何と言ったか、それなのに汝らをここまで来させた」。家人は驚き恐れて下り、目はようやく閉じた。

馬氏は、山陰の劉晋嘯の妻である。万暦年間、晋嘯が客死し、馬は二十歳余りで、家に立錐の余地もなかった。伯氏に楼があったので、母と共にそこに寄寓し、十本の指で生計を立て、数十年間梯子を下りなかった。常に瓦盆に新たな土を貯め、足をそれに付けた。隣の婦人が理由を尋ねると、言った、「私は土気を服するためです」。六十五歳で死去した。

謝烈婦は、名を玉華といい、番禺の曹世興の妻である。世興は馮氏の塾師となり、婚礼を挙げたばかりで、すぐに書箱を背負って赴いた。間もなく病気で帰り、起き上がれず、婦は改嫁しないと誓った。曹族の長老はこれを称賛し、祭田を分けて養うことを議した。ある者が、婦は年が盛んであり、喪事が済むまで待ち、実家に帰寧させるべきだと言うと、婦は偽って承諾した。その期日になると、駕籠を用意して行こうとし、諸姉嫁に別れを告げ、多く訣別の言葉を述べ、ゆっくりと部屋に入り戸を閉め、刀で自ら首を断った。家人が急いで板に穴を開けて入ると、血が衣に満ちて流れ、まだ絶命しておらず、諸人が入って来るのを見ると、急いで左手を断ち口から喉を探り出し、右手で刀を引いて一割りし、ようやく目を閉じた。

張氏は、桐城の李棟の妻である。棟が死んで子がなく、張は床で自縊した。母が救うと、奮い立って起き上がり、斧を取って左腕を三度斬った。家人が斧を奪い、押さえつけて蓐の上に坐らせると、張は気絶して悶え言葉を発しなかった。家人が少し退くと、張は急に身を覆って戸外に出て水に飛び込んだ。水は丁度氷っており、頭で穴を突いて入り、遂に死んだ。この邑にまた烈婦王氏がいた。高文学の妻である。文学が死ぬと、父の道美が弔問に来て、王に言った、「過度に哀しむな。事には三等あり、汝が自ら為すことだ」。王は泣きやんで尋ねると、父は言った、「その一は夫に従って地下に赴く烈、次は氷霜の如く翁姑に仕える節、三は恒人の事である」。王はすぐに戸に鍵をかけ、飲食を絶って食べず、七日を経て死んだ。また戚家の婦という者がいた。宝応の人である。婚礼を挙げたばかりで、夫が急死した。婦はこれを哀しんで哭き、門外の汪(池)に投身して死んだ。後世の人々はその死んだ所を戚家汪と名付けた。

金氏は、通渭の劉大俊の妻である。十九歳の時、夫が風痹の病にかかり、金氏は温泉に連れて行き入浴させた。暴風雨が起こり、山水が急に漲り、夫は動けず、金氏に急いで逃げるよう命じた。金氏は泣き叫びながらしっかりと抱きしめて離れず、共に溺死した。屍は数十里流れて浮かび上がったが、手はなお夫を引き寄せて離さなかったという。また、応山の諸生王芳の妻楊氏がいる。芳が酔って塘に落ちた時、楊氏は水に入って救おうとした。夫は水の深みに入り、楊氏は深みを追って共に死んだ。

王氏は、山陰の沈伯燮の妻である。婚約して数年後、伯燮が癩病にかかり、手が攣り髪が抜け、父母は他に縁談を考えた。女が問うた、「沈郎の病はいつからですか。」父が言う、「初めに許した時は確かに良い子であったが、今は病にかかった。」女が言う、「既に許してから病にかかったのは天命です、天命に背くのは不祥です。」遂に嫁いだ。伯燮は病みかつ衰弱していたが、王は仕えて少しも怠らなかった。八年住んで伯燮が亡くなり、その従子を後継ぎとした。さらに簪珥を出して舅を助け妾を買わせ、さらに子を得た。一年余りして、舅姑が相次いで亡くなり、王は独りで二人の幼い孤児を養い、手仕事で食わせ、共に成人させた。

李孝婦は、臨武の人で、名は中姑、江西の桂廷鳳に嫁いだ。姑の鄧が痰疾を患い、危篤に陥ろうとした時、婦は泣き悲しみ憂い悼んだ。乳肉が治療できると聞いた話を心に留めた。ある日、薬を煮ている時、竈神に香を焚いて祈り、自ら一つの乳房を切り落とし、気絶して地に倒れた。廷鳳が薬を呼んでも来ないので、出て見ると、血が地面に満ちているのを見て、大いに驚き救いを呼び、町中が驚き動き、邑の長官や補佐官が皆その家を訪れ、急いで治療するよう命じた。しばらくして僧が門を訪れ言う、「部屋の中の蘄艾をそれに当てれば、直ちに治る。」その言葉通りにすると、果たして蘇生し、僧を探し求めるともう見えなかった。そこで乳を取って薬と合わせて姑に捧げると、姑は遂に全快した。また洪氏は、懷寧の章崇雅の妻である。崇雅が早世し、洪は志を守って十年を過ごした。姑の許が病で起き上がれず、洪は乳房の肉をえぐり取って羹を作り飲ませると、全快し、残りの肉は池に投げ入れ、人に知られないようにした。数日後、群鴨が水中からそれを咥えて出てきて、鳴き騒ぎ回り飛び、小童がそれを獲って姑に告げた。姑が起きてそれを見ると、乳房の血がなお淋漓としていた。その夫の兄の崇古も早く亡くなり、姒の朱氏は死を誓って他に心を移さず、妯娌は五十年を共に守ったという。

倪氏は、興化の陸鰲の妻である。性質は純孝で、舅は早世し、姑の老いを憐れみ、朝夕寝所に侍し、夫と別居すること十五年であった。姑が鼻に疽を患い危篤に陥った時、自らすすって治療したが治らず、夜に香を焚いて天に告げ、左腕の肉を切り取って進上すると、姑がそれを食べて全快した。遠近孝婦と称された。

劉氏は、張能信の妻で、太僕卿憲寵の娘、工部尚書九德の嫁である。性質は至孝で、姑が十年病み、湯薬を侍して側を離れなかった。病が重くなった時、刀を挙げて腕を切ろうとしたが、侍女が驚いて押さえた。舅が聞き、医者に病は腥膩に近づくべからずと言わせ、力づくで止めた。一日過ぎて、遂に肉を切り取って粥を煮て進上したが、姑は既に食べられず、大いに悔しみ恨んで言う、「医者が私を欺き、姑に私の心を認めさせなかった。」さらに肉を一寸ほど切り取り、慟哭して棺の前で奠し、棺を閉じようとする時、奠したものを取って棺の中に置き言う、「婦は再び我が姑に仕えることを得ず、この肉を以て姑の側に伴い、なお身をもって姑に仕えるが如し。」郷人はその孝を称えざる者なし。