明史

列傳第一百八十九 列女一

列傳第一百八十九 列女一

原文列傳第一百八十九 列女一

◎列女一

原文◎列女一

婦人の行いは、閨門の外に出ず。故に『詩経』は『関雎』『葛覃』『桃夭』『芣苜』を載せるが、皆、常に処し順に履み、貞静にして和平であり、内行の修めと王化の行われる様子が、具に考うべく見える。その変ずるものは、『行露』『柏舟』、一二見えるのみである。劉向が列女を伝え、取る所は行事の鑑戒と為し得るもので、一つの操行のみを存せず。範曄(『後漢書』)もこれを宗とし、また才行高秀なる者を採る。ただ節烈を貴ぶのみではない。魏・隋以降、史家は多く患難顛沛はい、身を殺して義に殉ずる事を取る。蓋し近世の情、庸行を忽せにして奇激を尚び、国制の褒むる所、誌乗の録する所、及び裏巷の称道する所、流俗の震駭する所、皆、至奇至苦を以て難能と為す。而して文人墨客は往々にして俶儻非常の行いを借り、以てその偉麗激越跌宕にして喜ぶべき思を発する。故にその伝は特に遠く、而してその事は特に著しい。然れども至性の存する所、倫常の係る所、正気の澌滅に至らざる所以、而してこの人(列女)の禽獣に異なる所以は、筆を載せる者は宜しくこれを敢て忽せにせざるべし。

原文婦人之行,不出於閨門,故《詩》載《關雎》、《葛覃》、《桃夭》、《芣苜》,皆處常履順,貞靜和平,而內行之修,王化之行,具可考見。其變者,《行露》、《柏舟》,一二見而已。劉向傳列女,取行事可為鑒戒,不存一操。範氏宗之,亦采才行高秀者,非獨貴節烈也。魏、隋而降,史家乃多取患難顛沛、殺身殉義之事。蓋挽近之情,忽庸行而尚奇激,國制所褒,誌乘所錄,與夫裏巷所稱道,流俗所震駭,胥以至奇至苦為難能。而文人墨客往往借俶儻非常之行,以發其偉麗激越跌宕可喜之思,故其傳尤遠,而其事尤著。然至性所存,倫常所系,正氣之不至於淪澌,而斯人之所以異於禽獸,載筆者宜莫之敢忽也。

明が興り、規条として著し、巡方督学は歳ごとにその事を上奏す。大なる者は祠祀を賜い、次もまた坊表を樹て、烏頭綽楔、井閭を照耀し、乃至僻壤下戸の女も、亦た貞白を以て自ら砥ぐことを能くす。その実録及び郡邑誌に著わるる者は、万余人に下らず。間に文芸を以て顕わるる者あれども、要するに節烈多し。嗚呼、何ぞその盛んなるや。豈に声教の被る所、廉恥の分明なるに非ずや。故に名節重んぜられて義に蹈むこと勇なるか。今その尤なる者を掇り、或いは年次を以てし、或いは類に従い、具に篇に著す。前史に視れば殆どこれを倍せんとす。然れども姓名湮滅する者は、尚お勝ちて計うべからず。その什一を存するも、亦た以て勧めを示すに足る。

原文明興,著為規條,巡方督學歲上其事。大者賜祠祀,次亦樹坊表,烏頭綽楔,照耀井閭,乃至僻壤下戶之女,亦能以貞白自砥。其著於實錄及郡邑誌者,不下萬餘人,雖間有以文藝顯,要之節烈為多。嗚呼!何其盛也。豈非聲教所被,廉恥之分明,故名節重而蹈義勇歟!今掇其尤者,或以年次,或以類從,具著於篇,視前史殆將倍之。然而姓名湮滅者,尚不可勝計,存其什一,亦足以示勸雲。

○月娥 劉孝婦(甄氏) 諸娥 丁氏(石氏) 楊氏(張氏等) 貞女韓氏(黄善聰) 姚孝女(蔡孝女 招遠孝女) 盧佳娘(施氏) 呉氏(畢氏) 石孝女 湯慧信 義婢妙聡 徐孝女 高氏 孫義婦 梁氏 馬氏 義姑万氏(陳氏) 郭氏(幼谿女) 程氏 王妙鳳(唐貴梅 張氏) 楊泰奴(張氏) 陳氏(秀水張氏 欧陽金貞) 莊氏(唐氏) 王氏(易氏) 鐘氏 四節婦 宣氏(孫氏) 徐氏 義妾張氏 龔烈婦(江氏) 範氏二女(丁美音) 成氏(興安二女子) 章銀児(茅氏) 招囊猛 淩氏(杜氏) 義婦楊氏 史氏(林端娘) 汪烈婦 竇妙善 石門丐婦 賈氏 胡氏 陳宗球妻史氏 葉氏 胡貴貞 孫氏 江氏(厳氏)

原文○月娥劉孝婦(甄氏)諸娥丁氏(石氏)楊氏(張氏等)貞女韓氏(黃善聰)姚孝女(蔡孝女招遠孝女)盧佳娘(施氏)吳氏(畢氏)石孝女湯慧信義婢妙聰徐孝女高氏孫義婦梁氏馬氏義姑萬氏(陳氏)郭氏(幼谿女)程氏王妙鳳(唐貴梅張氏)楊泰奴(張氏)陳氏(秀水張氏歐陽金貞)莊氏(唐氏)王氏(易氏)鐘氏四節婦宣氏(孫氏)徐氏義妾張氏龔烈婦(江氏)範氏二女(丁美音)成氏(興安二女子)章銀兒(茅氏)招囊猛淩氏(杜氏)義婦楊氏史氏(林端娘)汪烈婦竇妙善石門丐婦賈氏胡氏陳宗球妻史氏葉氏胡貴貞孫氏江氏(嚴氏)

月娥は、西域の人、元の武昌尹職馬祿丁の女なり。少より聡慧、諸兄の経史を誦説するを聴き、輒ち大義を通ず。長じて蕪湖の葛通甫に適し、上に事え下を撫でること、一に礼法に秉る。長姉の盧、諸婦女を率い、悉くその教えを受く。太祖の江を渡るの六年、偽漢の兵上流より下る。盧曰く「太平は城郭有り、且つ兵を厳しく守る、恃むべし」と。月娥をして諸婦女を挟み往きてこれに避けしむ。未だ幾ばくもせず、寇至り、城陷る。月娥嘆いて曰く「吾れ詩礼の家に生る、賊に失節すべけんや」と。幼女を抱いて水に赴きて死す。諸婦女相従いて水に投ずる者九人。時に盛暑、屍七日浮かばず、顔色生けるが如し。郷人、巨穴を為し合葬す故居の南に、題して十女墓と曰う。娥の弟丁鶴年、幼より経史に通ず、皆娥の口授なり。後、通甫と盧は皆寇に死す。

原文月娥,西域人,元武昌尹職馬祿丁女也。少聰慧,聽諸兄誦說經史,輒通大義。長適蕪湖葛通甫,事上撫下,一秉禮法。長姒盧率諸婦女,悉受其教。太祖渡江之六年,偽漢兵自上遊而下,盧曰:「太平有城郭,且嚴兵守,可恃。」使月娥挾諸婦女往避之。未幾,寇至,城陷,月娥嘆曰:「吾生詩禮家,可失節於賊邪!」抱幼女赴水死。諸婦女相從投水者九人,方盛暑,屍七日不浮,顏色如生。鄉人為巨穴合葬之故居之南,題曰十女墓。娥弟丁鶴年,幼通經史,皆娥口授也。後通甫與盧皆死於寇。

劉孝婦は、新楽の韓太初の妻。太初は、元の時知印と為る。洪武初、例に和州に徙り、家を挈きて行く。劉、姑に事うること謹し。姑、道に病み、血を刺して薬に和し以て進む。和州に抵る。夫卒す。劉、蔬を種じて姑に食を給す。二年を越え、姑、風疾を患いて起つこと能わず、昼夜湯薬を奉じ、蚊蠅を駆りて側を離れず。姑の体腐り、蛆、席の間に生ず。蛆を嚙み、蛆復た生ぜず。姑の疾篤きに及び、肉を刲いてこれを食わしむ。少しく蘇り、月を逾えて卒す。これを殯す舎の側に。還りて葬らんと舅の冢に欲すれども、力喪を挙ぐる能わず、哀号すること五載。太祖これを聞き、中使を遣わし衣一襲・鈔二十錠を賜い、命じて有司にその喪を還らしめ、門閭を旌し、徭役ようえきを復す。時に甄氏、欒城の李大の妻、姑に事えて孝なり。姑、寿九十一にして卒す。甄、墓に廬すること三年、旦暮悲号す。亦た旌せらる。

原文劉孝婦,新樂韓太初妻。太初,元時為知印。洪武初,例徙和州,挈家行。劉事姑謹,姑道病,刺血和藥以進。抵和州,夫卒,劉種蔬給姑食。越二年,姑患風疾不能起,晝夜奉湯藥,驅蚊蠅不離側。姑體腐,蛆生席間,為嚙蛆,蛆不復生。及姑疾篤,刲肉食之,少蘇,逾月而卒,殯之舍側。欲還葬舅冢,力不能舉喪,哀號五載。太祖聞之,遣中使賜衣一襲、鈔二十錠,命有司還其喪,旌門閭,復徭役。同時甄氏,欒城李大妻,事姑孝。姑壽九十一卒,甄廬墓三年,旦暮悲號,亦被旌。

孝女諸娥は、山陰の人。父は士吉、洪武初、糧長と為る。黠にして賦を逋うる者有り、士吉を官に誣う。死を論ぜられ、二子の炳・煥も亦た罪に罹る。娥方に八歳、昼夜号哭し、舅の陶山長と京師に走りて冤を訴う。時に令有り、冤ある者は釘板に臥さざれば、勘問を与えず。娥、その上に輾転し、幾くばくか斃れんとす。事乃ち聞こえ、これを勘す。僅かに一兄を戍するに止む。娥、重傷して卒す。裏人これを哀しみ、肖像を曹娥廟に配す。

原文孝女諸娥,山陰人。父士吉,洪武初為糧長。有黠而逋賦者,誣士吉於官,論死,二子炳、煥亦罹罪。娥方八歲,晝夜號哭,與舅陶山長走京師訴冤。時有令,冤者非臥釘板,勿與勘問。娥輾轉其上,幾斃,事乃聞,勘之,僅戍一兄而止。娥重傷卒,裏人哀之,肖像配曹娥廟。

唐方の妻は、浙の新昌の丁氏の女、名は錦孥。洪武中、方は山東僉事と為り、法に坐して死し、妻子は官婢に没すべし。有司、籍を按じてこれを取る。監護者、丁の色美なるを見、梳を借りて発を掠む。丁、梳を以て地に擲つ。その人これを取り掠めて、持って丁に還す。丁罵って受けず、家人に謂いて曰く「此の輩礼無し、必ずや我を辱めん。死せずんば以て節を全うすること無からん」と。肩輿にて陰沢を過ぐ。崖峭く水深し。躍り出でて水に赴く。衣厚く沈むこと能わず、従容として手を以て裙を斂め、流れに随いて没す。年二十八。時にその処を称して夫人潭と曰う。

原文唐方妻,浙新昌丁氏女,名錦孥。洪武中,方為山東僉事,坐法死,妻子當沒為官婢。有司按籍取之,監護者見丁色美,借梳掠發,丁以梳擲地,其人取掠之,持還丁。丁罵不受,謂家人曰:「此輩無禮,必辱我,非死無以全節。」肩輿過陰澤,崖峭水深,躍出赴水,衣厚不能沈,從容以手斂裙,隨流而沒,年二十八,時稱其處為夫人潭。

鄭煁の妻は石氏。煁は、浦江の鄭泳の孫なり。洪武初、李文忠これを朝に薦む。屡遷して蔵庫提点と為り、法に坐して死す。石、配遣に当たる。泣いて曰く「我は義門の婦なり、身を辱めて以て門を辱しむべけんや」と。食わずして死す。

原文鄭煁妻石氏。煁,浦江鄭泳孫也。洪武初,李文忠薦諸朝,屢遷藏庫提點,坐法死。石當遣配,泣曰:「我義門婦也,可辱身以辱門乎!」不食死。

楊氏は、慈谿の人、同邑の鄭子来に字あざなす。洪武中、子来の父仲徽、雲南に戍す。明の制、子成丁なる者は随いて遣わす。子来も亦た戍中に在り。楊、年甫だ十六、子来の母老い弟幼きを聞き、父母に請い、鄭に適して姑を養い、以て子来の返るを待つ。子来竟に戍所に卒す。楊、姑と諸叔を撫でて成立せしめ、夫の従子孔武を以て嗣と為す。苦節五十余年。その後、鄭煥の妻張氏は、嫁して未だ旬日にせず。泰然の妻厳氏は子一蘭を生み、方に孩抱す。栻の妻王氏は夫の癇病に事え、狂いて人事を省みず、服勤すること八年怠らず。三人は皆楊氏の夫族、先後早く寡し、皆節を以て聞こゆ。万暦中、知府鄒希賢題して鄭氏節門と曰い、以て浦江の鄭氏義門に比す。

原文楊氏,慈谿人,字同邑鄭子來。洪武中,子來父仲徽戍雲南。明制,子成丁者隨遣,子來亦在戍中。楊年甫十六,聞子來母老弟幼,請於父母,適鄭養姑,以待子來之返。子來竟卒戍所,楊與姑撫諸叔成立,以夫從子孔武為嗣,苦節五十餘年。其後,鄭煥妻張氏,嫁未旬日;泰然妻嚴氏生子一蘭,方孩抱;栻妻王氏事夫癇病,狂不省人事,服勤八年弗怠;三人皆楊氏夫族,先後早寡,皆以節聞。萬歷中,知府鄒希賢題曰鄭氏節門,以比浦江鄭氏義門雲。

貞女韓氏は保寧の人である。元末に明玉珍が蜀を占拠すると、貞女は掠奪されることを憂い、男子の服装に偽装し、民間に混じって潜伏した。やがて兵士として駆り出され、七年間転戦したが、誰も彼女が処女であることを知らなかった。後に玉珍に従って雲南を破り帰還する途中、叔父に出会い、身請けされて成都に帰り、初めて服装を改めて行った。同時に従軍していた者たちは皆驚いた。洪武四年に尹氏の妻に嫁いだ。成都の人々は韓貞女と呼んだ。その後、黄善聰という者がいた。南京の人である。十三歳で母を失い、父は廬州・鳳陽の間で香を商い、善聰に男子の服装をさせて数年従わせた。父が死ぬと、善聰はその商売を継ぎ、姓名を変えて張勝と名乗った。李英という者も香を商い、一年余り伴侶として行動したが、彼女が女であることを知らなかった。後に共に南京に戻り、姉を訪ねた。姉は初め彼女を識別できず、事情を詰問して知ると、怒って罵った。「男女が群れを乱し、我を甚だ辱めた。」と受け入れようとしなかった。善聰は死をもって誓った。そこで隣の老女を呼んで調べさせると、果たして処女であった。互いに抱き合って痛哭し、直ちに服装を改めさせた。翌日、李英が来て、女であることを知ると、怏怏として失意の様子で帰り、母に求婚を告げた。善聰は従わず、言った。「もし英に嫁げば、瓜田李下の嫌疑をどうするのか。」隣近所が交々勧めたが、ますます固執した。役人がこれを聞き、聘礼を援助し、夫婦となるよう判決した。

原文貞女韓氏,保寧人。元末明玉珍據蜀,貞女慮見掠,偽為男子服,混跡民間。既而被驅入伍,轉戰七年,人莫知其處女也。後從玉珍破雲南還,遇其叔父贖歸成都,始改裝而行,同時從軍者莫不驚異。洪武四年嫁為尹氏婦。成都人以韓貞女稱。其後有黃善聰者,南京人。年十三失母,父販香廬、鳳間,令善聰為男子裝從遊數年。父死,善聰習其業,變姓名曰張勝。有李英者,亦販香,與為伴侶者逾年,不知其為女也。後偕返南京省其姊。姊初不之識,詰知其故,怒詈曰:「男女亂群,辱我甚矣。」拒不納。善聰以死自誓。乃呼鄰嫗察之,果處子也。相持痛哭,立為改裝。明日,英來,知為女,怏怏如失,歸告母求婚。善聰不從,曰:「若歸英,如瓜李何?」鄰裏交勸,執益堅。有司聞之,助以聘,判為夫婦。

姚孝女は余姚の人で、呉氏に嫁いだ。母が水を汲みに出ると、虎が母を咥えて去った。女は追いかけて虎の尾を掴み、虎が前に進もうとすると、女はますます力を込めて掴み、尾は遂に抜けた。虎は痛みを負って跳び去った。女は母を背負って帰り、薬を与えて癒させ、二十年間母を養った。後に成化年間、武康に蔡孝女がいた。母に従って山に入り薬草を採った。虎が母を攫うと、女は木の枝を折って格闘し、三百余歩に及んだ。虎は母を放し、女を傷つけ、血が一丈いちじょうほど噴き出し、竹の葉が赤くなったが、女もまた命を全うした。後に招遠に孝女がいた。姓は知らない。父が南山で石を採っていると、大蛇に呑まれた。女はこれを哭き、父の屍を見て共に死ぬことを願った。俄かに大雷電が起こり、大蛇を撃ち落として女の前に堕ち、腹が裂けて父の屍が見えた。女は土を背負って埋め、石に触れて死んだ。

原文姚孝女,余姚人,適吳氏。母出汲,虎銜之去,女追掣虎尾,虎欲前,女掣益力,尾遂脫,虎負痛躍去。負母還,藥之獲愈,奉其母二十年。後成化間,武康有蔡孝女,隨母入山采藥。虎攫其母,女折樹枝格鬥三百餘步。虎舍其母,傷女,血歕丈許,竹葉為赤,女亦獲全。後招遠有孝女,不知其姓。父采石南山,為蟒所吞。女哭之,願見父屍同死。俄頃大雷電擊蟒墮女前,腹裂見父屍。女負土掩埋,觸石而死。

盧佳娘は福清の李広の妻である。結婚して僅か十月で、李広が急死した。盧は慟哭して気絶し、蘇生すると、李広の口鼻から悪血が出ているのを見て、全て舐め食った。納棺後、哭くたびに卒倒し、五六日経った。家人の監視が緩んだ時、寝室に潜り込んで自縊した。後にその県に遊政の妻倪氏が夫に殉じたが、同様であった。また施氏がいた。滁州の彭禾の妻である。正徳元年、彭禾が病に伏せて起き上がれず、手を握って別れを告げて言った。「病は甚だ疲弊し、必ず死ぬと知る。汝には子が無い。婿を選んで嫁げ。死を守って徒らに苦しむな。」施は泣いて言った。「君は未だ妾を知らないのですか。願わくば君より先に死にます。」彭禾は固く止めたが、施は彭禾の嘔吐した血を全て飲み干し、志を示した。彭禾が没すると、直ちに自縊した。

原文盧佳娘,福清李廣妻。婚甫十月,廣暴卒,盧慟絕復蘇,見廣口鼻出惡血,悉餂食之。既殮,哭輒僵仆,積五六日,家人防懈,潛入寢室自經。後其縣有遊政妻倪氏殉夫,亦然。又有施氏,滁州彭禾妻。正德元年,禾得疾不起,握手訣曰:「疾憊甚,知必死。汝無子,擇婿而嫁,毋守死,徒自苦也。」施泣曰:「君尚不知妾乎!願先君死。」禾固止之,因取禾所嘔血盡吞之,以見誌。及禾歿,即自經。

呉氏は潞州の廩生盧清の妻である。舅姑が臨洺で亡くなり、旅先に仮埋葬された。盧清は教え子を取って生計を立てたが、後に廩生の資格を失い、汴で下級役人となったが、憤りと恥辱のため発狂して死んだ。呉は訃報を聞き、悲痛の極みに達し、哭いて言った。「我が舅姑の遺骨は北に委ねられ、良人は死んだ。どうして終に帰らぬままにしておけようか。」そこで幼い孤児を姉兄に預け、次女を売って資金とし、独りで臨洺に赴き、舅姑の埋葬地を探したが見つからず、野中で号泣した。突然一人の男が現れたが、それは盧清が教えた弟子であり、指示して二体の遺骨を収めて帰した。さらに暑さを冒して汴に行き、夫の遺骨を背負って帰った。三つの喪を全て済ませ、飢えを忍んで他に志さなかった。学正の劉崧が知州の馬暾に言上し、彼女の娘を身請けし、手厚く救済した。七十五歳で没した。後に畢氏がいた。河間の鄧節の妻である。凶年に、家族を連れて景州に食を求めて移り住んだが、舅姑が相次いで亡くなり、鄧節も間もなく没し、皆景州に仮埋葬された。畢氏は三十三歳で、子女が無く、独りで郷里に帰り、飢えと寒さを忍び、昼夜紡績し、数年かけて蓄え、城北八里荘に土地を買い、独りで景州に行き、舅姑と夫の遺骨を背負って帰り埋葬した。

原文吳氏,潞州廩生盧清妻。舅姑歿於臨洺,寄瘞旅次。清授徒自給,後失廩,充掾於汴,憤恥發狂死。吳聞訃,痛絕,哭曰:「吾舅姑委骨於北,良人死,忍令終不返乎!」乃寄幼孤於姊兄,鬻次女為資,獨抵臨洺,覓舅姑瘞處不得,號泣中野。忽一丈夫至,則清所授徒也,為指示,收二骸以歸。復冒暑之汴,負夫骨還。三喪畢舉,忍餓無他誌。學正劉崧言於知州馬暾,贖其女,厚恤之。年七十五乃卒。後有畢氏,河間鄧節妻。年饑,攜家景州就食,舅姑相繼亡,節亦尋歿,俱槁葬景州。氏年三十三,無子女,獨歸里中,忍饑凍,晝夜紡織,積數年,市地城北八里莊,獨之景州,負舅姑及夫骨還葬。

石孝女は新昌の人である。幼少の時、父の石潜が罪に坐して財産没収となり、京師の獄に繋がれた。母の呉氏は戸籍漏れで免れ、兄弟を頼って生計を立てた。ある日、父が脱走して帰り、呉家に匿われた。呉の兄弟は連座を恐れ、殺して大窖の中に置いた。母は敢えて言えなかった。女が成長すると、母に問うた。「私に父方の親族がいないのは何故ですか。」母が事情を告げると、女は大いに悲憤した。永楽初年、十六歳の時、母方の伯父が主婚して同族の子に嫁がせようとした。女は母に言った。「我が父を殺したのは呉です。どうして父の仇の妻となれましょうか。」母は言った。「事は私が主ではない。どうしようもない。」女は頷いて答えなかった。婚礼の日、賓客に礼をしている最中、女は室中で自縊した。母は天を仰いで哭き言った。「我が娘の死は、仇人の妻となることを欲しなかったのだ。」号慟すること数日、母もまた死んだ。役人がこれを聞き、石潜を殺した者の罪を治めた。湯慧信は上海の人である。『孝経』『列女伝』に通じ、華亭の鄧林に嫁いだ。鄧林が没した時、彼女は二十五歳、一女は七歳であった。鄧の一族はその住居を欲し、帰郷するよう迫ったが、彼女は言った。「私は鄧家の嫁です。何処に帰るというのですか。」一族は奪い難いと知り、その住居を富豪に売った。彼女は泣いて言った。「私はこの地で夫の骨を収め、存亡を共にします。どうして棄てられましょうか。」自害しようとしたので、富豪はその義を感じて立ち去った。彼女はやがて自ら考えて言った。「一族は我が財を欲するだけだ。」そこで家財を出し、全て一族に与え、自ら紡績して生計を立てた。

原文石孝女,新昌人。繈褓時,父潛坐事籍沒,系京獄。母吳以漏籍獲免,依兄弟為生。一日,父脫歸,匿吳家。吳兄弟懼連坐,殺置大窖中,母不敢言。及女長,問母曰:「我無父族何也?」母告之故,女大悲憤。永樂初,年十六,舅氏主婚配族子。女白母曰:「殺我父者,吳也。奈何為父仇婦?」母曰:「事非我主,奈何?」女頷而不答。嫁之日,方禮賓,女自經室中。母仰天哭曰:「吾女之死,不欲為仇人婦也。」號慟數日亦死。有司聞之,治殺潛者罪。湯慧信,上海人。通《孝經》、《列女傳》,嫁華亭鄧林。林卒,婦年二十五,一女七歲。鄧族利其居,迫使歸家,婦曰:「我鄧家婦,何歸乎?」族知不可奪,貿其居於巨室。婦泣曰:「我收夫骨於茲土,與同存亡,奈何棄之。」欲自盡,巨室義而去之。婦尋自計曰:「族利我財耳。」乃出家資,盡畀族人,躬績纴以給。

大水の年、荒野の湿った地に住んだ。嫁いだ娘が舟を操って迎えに来たが、許さなかった。暫し舟中で休むことを請うたが、これも許さず、言った。「私はここを六十年守ってきた。大水に従って汝の父に従うのは本望だ。また何処へ行こうか。」母と娘が互いに引き合って未だ離れないうちに、水が来て、湯は遂に溺死した。

原文歲大水,居荒野沮洳中。其女適人者,操舟來迎,不許。請暫憩舟中,亦不許,曰:「我守此六十年,因巨浸以從汝父,所甘心焉,復何往!」母女方相牽未舍,水至,湯竟溺死。

義婢妙聰は保安右衛指揮張孟喆の家の婢である。永楽年間、兵を調発して宣府で訓練した。張孟喆はその一行にいた。北虜が侵入して掠奪すると、妻の李氏は夫の妹に言った。「私は命婦であり、汝もまた官門の女である。辱めを受ける義理はない。」互いに連れ立って井戸に投身した。妙聰もまた従って入った。二人とも未だ死んでいないのを見て、李氏が妊娠しているため、水の冷たさが害になると恐れ、遂に彼女を背負った。賊が退くと、張孟喆の弟の仲喆が三人を井戸の中に探し、縄で嫂と妹を引き上げたが、婢は既に死んでいた。

原文義婢妙聰,保安右衛指揮張孟喆家婢也。永樂中,調兵操宣府。孟喆在行。北寇入掠,妻李謂夫妹曰:「我命婦,與若皆宦門女,義不可辱。」相挈投井中,妙聰亦隨入,見二人俱未死,以李有娠,恐水冷有所害,遂負之於背。賊退,孟喆弟仲喆求三人井中,以索引嫂妹出,而婢則死矣。

徐孝女は嘉善の徐遠の娘である。六歳の時、母が臁瘡を患った。女は母にどうすれば癒えるかと問うと、母は適当に言った。「児が吸ってくれれば癒える。」女は吸うことを請うたが、母は難色を示した。女が悲しく泣き止まないので、母は已むを得ず許し、数日吸うと、果たして癒えた。

原文徐孝女,嘉善徐遠女也。年六歲,母患臁瘡。女問母何以得愈,母謾曰:「兒吮之乃愈。」女遂請吮,母難之。女悲啼不已,母不得已聽之,吮數日,果愈。

高氏の女は武邑の人で、諸生陳和に嫁いだ。陳和が早世すると、高は独りで家門を支え、舅姑に甚だ孝養を尽くした。宣徳年間に至り、舅姑が共に没すると、礼をもって殯葬し、当時五十歳であった。子の陳剛に泣いて言った。「我が父は洪武年間に一家を挙げて河南虞城に客居した。父が死ぬと、直ちに城北に葬り、母は刺木の小車の輞で目印とした。郷里に帰ると、母もまた死に、弟は懦弱で自立できなかった。私が三十年間敢えて言わなかったのは、汝の祖母が健在で、朝夕侍養すべきであったからだ。今大事は既に終わった。我が父の遺骸を運び出し、合葬に帰したい。」陳剛は唯々とし、母に従って虞城に至り、埋葬地に着くと、塚が累々として識別できなかった。高氏は髪を馬鞍に結びつけて逆に歩き、朝から夕方まで歩き、一つの小塚に至ると、鞍が重くて前に進めなくなった。直ちにその塚を開くと、識別した車の輞が確かにあった。遠近の見物人は皆驚異し、帰還を助け、母の墓を開いて同葬した。

原文高氏女,武邑人,適諸生陳和。和早卒,高獨持門戶,奉翁姑甚孝。及宣德時,翁姑並歿,氏以禮殯葬,時年五十矣。泣謂子剛曰:「我父,洪武間舉家客河南虞城。父死,旋葬城北,母以刺木小車輞識之。比還家,母亦死,弟懦不能自振。吾三十年不敢言者,以汝王母在堂,當朝夕侍養也。今大事已畢,欲舁吾父遺骸歸合葬。」剛唯唯,隨母至虞城,抵葬所,冢累累不能辨。氏以發系馬鞍逆行,自朝及夕,至一小冢,鞍重不能前,即開其冢,所識車輞宛然。遠近觀者鹹驚異,助之歸,啟母窆同葬。

孫義婦は慈谿の人。定海の黄誼昭に嫁ぎ、子の湑を生んだ。間もなく夫が亡くなり、孫は彼を育てて成人させ、兄の娘を娶らせた。結婚して三年足らず、二人の子を生んだが、湑もまた亡くなった。当時、田賦はすべて民に自ら輸納させており、孫は姑と嫁と共に幼子を連れて南京に赴き賦を納め、尚書の蹇義に訴えて言った。「県は潮害に苦しみ、十年のうち九年は凶作です。どうか海塘を築いて防いでください。」義は彼女らの孤苦を見て、詰問した。「なぜ再嫁しないのか。」答えて言った。「餓死することは極めて小さな事であり、節を失うことは極めて大きな事です。」義は長く嘆息した。翌日、直ちに上奏して請願し、役人を派遣して有司と共に測量させ完成させた。龍山から始まり観海に至り、潮害を永久に免れた。慈谿の人々は塘の上に廟を建てて祀った。

原文孫義婦,慈谿人。歸定海黃誼昭,生子湑。未幾夫卒,孫育之成立,求兄女為配。甫三年,生二子,湑亦卒。時田賦皆令民自輸,孫姑婦相率攜幼子輸賦南京,訴尚書蹇義,言:「縣苦潮患,十年九荒,乞築海塘障之。」義見其孤苦,詰曰:「何為不嫁?」對曰:「餓死事極小,失節事極大。」義嗟嘆久之,次日即為奏請,遣官偕有司相度成之,起自龍山,迄於觀海,永免潮患。慈谿人廟祀之塘上。

梁氏は、大城の尹之路の妻。嫁いで一年余り、夫が食に困って山海関に出て行き、熟食を売って生計を立てた。また馬氏を娶り、二人の子を生んだが、十数年音信不通であった。梁氏は舅姑に仕え、艱苦に耐えても怨言がなかった。夫が客死すると、梁氏は徒歩で物乞いをしながら夫の遺骸を迎えに行き、往復二千里、ついに柩を支え後妻と二人の子を連れて帰った。里人は嘆き驚いた。

原文梁氏,大城尹之路妻。嫁歲餘,夫乏食出遊山海關,賣熟食為生。又娶馬氏,生子二,十餘年不通問。氏事翁姑,艱苦無怨言。夫客死,氏徒步行乞,迎夫喪,往返二千里,迄扶柩攜後妻二子以歸,裏人嘆異。

余佈の妻馬氏は、呉県の人。嫁いで五年、夫が死に子がなく、家は極めて貧しかった。姑がその志を変えさせようとし、田二畝半があり、得た粟を嫁に与えなかったが、馬氏は動じなかった。姑は密かに他人の聘を受け、ある夜、鼓吹の音が門前に臨み、急いで化粧を整えるよう促した。馬氏は寝室に入って自ら縊死した。机の上の食器には、糠粥がまだ残っていた。

原文余佈妻馬氏,吳縣人。歸五年,夫死無子,家酷貧。姑欲奪其誌,有田二畝半,得粟不以與婦,馬不為動。姑潛納他人聘,一夕鼓吹臨門,趣治妝,馬入臥室自經死,幾上食器,糠乞尚存。

義姑の万氏、名は義顓、字は祖心、鄞の人、寧波衛指揮僉事の万鐘の娘である。幼い頃から貞淑で静か、読書を好んだ。二人の兄、文と武は、ともに世職を継ぎ、戦死し、傍らに期功の親はいなかった。継母の曹氏、二人の兄嫁の陳氏・呉氏は、皆盛年にして寡居であった。呉氏は遺腹で僅か六月であった。姑は朝夕天を拝み泣いて告げた。「万氏は絶えようとしている。願わくは天が一男児を賜り、忠臣の後を継がせてください。私は誓って嫁がず、共に育てます。」果たして男児が生まれた。名を全と付けた。姑は喜んで言った。「万氏に後継ぎができた。」そこで諸々の寡婦と共に守り、名門からの求婚をすべて謝絶し、全を訓導して読書させ、ついに成人に至らせた。全が職を継ぎ、子の禧、孫の椿に伝えたが、皆姑の訓戒を謹んで奉じた。姑は七十余歳で亡くなった。姑の祖父の斌と父兄はともに王事に死に、母と二人の兄嫁は数十年貞節を守り、姑はさらに義をもって顕著であった。郷人は彼女らを重んじ、四忠三節一義の門と称した。

原文義姑萬氏,名義顓,字祖心,鄞人,寧波衛指揮僉事鐘女也。幼貞靜,善讀書。兩兄文、武,皆襲世職,戰死,旁無期功之親。繼母曹氏,兩嫂陳氏、吳氏,皆盛年孀居。吳遺腹僅六月,姑旦暮拜天哭告曰:「萬氏絕矣,願天賜一男,續忠臣後。我矢不嫁,共撫之。」已果生男,名之曰全。姑喜曰:「萬氏有後矣。」乃與諸嫠共守,名閥來聘,皆謝絕之,訓全讀書,迄底成立。全嗣職,傳子禧、孫椿,皆奉姑訓惟謹。姑年七十餘卒。姑之祖斌及父兄並死王事,母及二嫂守貞數十年,姑更以義著。鄉人重之,稱為四忠三節一義之門。

後に陳義姑という者がいた。沙県の陳穂の娘。十八歳の時、父母が相次いで亡くなり、二人の弟が残された。長は七歳、次は五歳。親族はその財産を狙い、日々傍らで虎視眈々としていた。姑は志を立てて弟を育てることを誓い、常に帚を数十本置いておいた。族兄弟が夜分に門を叩くと、姑は帚に火を付けて照らし、急いで戸を開け酒食を整えて歓待した。叩いた者は告げた。「我々は夜道で火が消えたので、蝋燭を求めに来ただけだ。」これ以来、窺う者は思いを絶った。二人の弟が結婚を終えると、四十五歳でようやく嫁ぎ、ついに子はなかった。二人の弟は彼女を迎え帰り、母として仕えた。

原文後有陳義姑者,沙縣陳穗女。年十八,父母相繼卒,遺二男,長七歲,次五歲。親族利其有,日眈眈於旁。姑矢誌撫弟,居常置帚數十。族兄弟暮夜叩門,姑燃帚照之,亟啟戶具酒食款。叩者告曰:「吾輩夜行滅火,就求燭耳。」自此窺伺者絕意。及二弟畢婚,年四十五乃嫁,終無子。二弟迎歸,母事之。

郭氏は大田の人。鄧茂七の乱の時、郷人は東巖に寨を結んだ。寨が破られ、郭は幼児を襁褓に抱いて逃げたが、また身ごもっており、賊に追い立てられた。郭は奮って罵り、百尺の巖下に投身し、児とともに乱石の間に粉砕され、胎児と腸胃が迸り出て、巖下に散乱した。賊は高みからこれを俯瞰ふかんし、皆嘆いて言った。「真の烈婦である!」葬って去った。同時に幼渓の女がいた。姓名は失われている。茂七が沙県を破った時、草むらに隠れていたが、二人の賊に捕らえられた。渓の橋に差し掛かると、貞女は言った。「私を支えて渡してくれれば、一人に従って終わる。」二人の賊は争って駆け寄り支えた。橋の中程に至ると、女は渓流の急なのを見て、二人の賊を引きずり水中に投げ込み、ともに溺死させた。

原文郭氏,大田人。鄧茂七之亂,鄉人結寨東巖。寨破,郭褓幼兒走,且有身,為賊所驅。郭奮罵,投百尺巖下,與兒俱碎亂石間,胎及腸胃迸出,狼籍巖下。賊據高瞰之,皆嘆曰:「真烈婦也!」瘞之去。同時有幼溪女,失其姓名。茂七破沙縣,匿草間,為二賊所獲。遇溪橋,貞女曰:「扶我過,當從一人而終。」二賊爭趨挽,至橋半,女視溪流湍急,拽二賊投水中,俱溺死。

程氏は、揚州の胡尚絅の妻。尚絅が危篤の病にかかると、妻は手首の肉を切り取って食べさせたが、飲み込めずに亡くなった。妻は慟哭して二日間食事を取らなかった。懐妊四ヶ月であった。ある者が言った。「男児を得れば夫の後を継がせることができる。無駄に死ぬことはないか。」答えて言った。「私もそれは知っている。もし女児ならば、数ヶ月を苟めに生きるだけだ。」そこで再び食事を取り、満月を迎えて果たして男児を生んだ。翌年その子が夭折すると、すぐに舅姑に言った。「嫁は常に侍ることができません。弟嫁たちがいますから、悲しまないでください。」再び絶食した。二日過ぎて、その姑が撫でて言った。「お前の実家は二百里以内だ。面会して別れを告げるのを待たないのか。」妻は言った。「急いで迎えてください。」日々米のとぎ汁一匙を飲んで待った。十二日余り過ぎ、父母が幼い弟を遣わした。妻は言った。「これで私の志を明らかにできます。」この日から一滴も口にせず、ゆっくりと篋の中の簪や耳飾りを選び、後事を整えるよう命じ、残りを家人や隣の老女でかつて消息を通じた者に分け与えた。また自ら占って言った。「十八日、十九日はともに良き日だ。私は逝くべきである。かつて肉を切って夫を救おうとしたが、夫は救えなかった。その肉を灰に混ぜて枕元に置き、私の左腕に添えて、全きままに帰ることを示したい。」そして亡くなった。

原文程氏,揚州胡尚絅妻。尚絅嬰危疾,婦刲腕肉啖之,不能咽而卒。婦號慟不食二日。懷孕四月矣,或曰:「得男可延夫嗣,徒死何為?」答曰:「吾亦知之,倘生女,徒茍活數月耳。」因復食,彌月果生男。明年殤,即前語翁姑曰:「媳不能常侍奉,有娣姒在,無悲也。」復絕食,越二日其姑撫之曰:「爾父母家二百里內,若不俟面訣乎?」婦曰:「可急迎之。」日飲米沈一匙以待。逾十有二日,父母遣幼弟至,婦曰:「是可白吾誌。」自是滴水不入口,徐簡中奩簪珥,令辦後事,以其餘散家人並鄰嫗嘗通問者,復自卜曰:「十八、九日皆良,吾當逝。向曾刲肉救夫,夫不可救,以灰和之置床頭,附吾左腕,以示全歸。」遂卒。

王妙鳳は呉県の人。呉奎に嫁いだ。姑に淫らな行いがあった。正統年間、奎は外で商売をしていた。姑は私通の相手と酒を飲み、妙鳳をも汚そうとし、妙鳳に酒を取るよう命じたが、瓶を持って進まなかった。頻りに促されたので、やむを得ず入った。姑の私通相手が戯れてその腕をねじった。妙鳳は憤り、刀を抜いて腕を斬ったが、切れず、もう一度斬ってようやく絶った。父母が官に訴えようとしたが、妙鳳は言った。「死ぬなら死ぬまでだ。嫁が姑を訴える道理があろうか。」十日余りして亡くなった。

原文王妙鳳,吳縣人。適吳奎。姑有淫行。正統中,奎商於外。姑與所私飲,並欲汙之,命妙鳳取酒,挈瓶不進。頻促之,不得已而入。姑所私戲紾其臂。妙鳳憤,拔刀斫臂不殊,再斫乃絕。父母欲訟之官,妙鳳曰:「死則死耳,豈有婦訟姑理邪?」逾旬卒。

唐貴梅は貴池の人。同里の朱姓に嫁いだ。姑が富商と私通し、貴梅を見て気に入り、金帛でその姑を賄い、婦に淫らなことを勧めさせたが、あらゆる手立てを用いても聞かず、鞭打ちを加えても聞かず、続いて炮烙を用いても、ついに聞かなかった。そこで不孝を理由に官に訴えた。ある通判が商人の賄賂を受け、何度も死にそうになるまで拷問した。商人は彼女が節を改めることを期待し、再び姑に保釈させて出させた。親族は婦に実情を自白するよう勧めたが、婦は言った。「もしそうすれば、私の名は幸いにも全うされるが、姑の悪を広めることになるのはどうか。」夜、服を着替え、後園の梅の木の下で自縊した。夜が明けて姑が起き、これから鞭打とうとした。園中に至ってその死を知った。屍は三日間木に懸かり、顔色は生きているようであった。

原文唐貴梅者,貴池人。適同里朱姓。姑與富商私,見貴梅悅之,以金帛賄其姑,誨婦淫者,百端勿聽,加箠楚勿聽,繼以炮烙,終不聽。乃以不孝訟於官。通判某受商賂,拷之幾死者數矣。商冀其改節,復令姑保出之。親黨勸婦首實,婦曰:「若爾,妾之名幸全,如播姑之惡何?」夜易服,自經後園梅樹下。及旦姑起,且將撻之。至園中乃知其死,屍懸樹三日,顏如生。

その後、嘉靖二十三年、嘉定の張氏という者がいた。汪客の子に嫁いだ。その姑は多くの者と私通し、諸悪少の中に胡巖という者がおり、最も傑出して狡猾で、群党は皆その指図を聞いた。そこで姑と謀り、その子を県に卒として入らせ、巖らは日夜酒を飲みふけった。ある日、婦を呼んで共に座らせようとしたが、応じなかった。巖が後からその櫛を奪おうとすると、婦は櫛を折って地面に投げつけた。しばらくして、巖がじかに侵入して婦を犯そうとした。婦は「人殺し」と大声で叫び、杵で巖を撃った。巖は怒って走り出た。婦は自ら地面に投げ出し、夜通し泣き止まず、息はかろうじて続くばかりであった。翌朝、巖と姑は事が漏れるのを恐れ、彼女を床の脚に縛り付けて監視した。翌日、諸悪少を呼んで酣に飲ませた。二更になって共に婦を縛り、槌と斧が交互に下った。婦は苦痛に身もだえして言った。「どうして鋭い刃で私を刺さないのか。」一人が前に進んでその首を刺し、一人がその脇腹を刺し、またその陰部を打ちつけた。屍を挙げて焼こうとしたが、屍は重くて挙げられず、その家に火を放った。隣近所の火を消しに来た者が門を踏み破って入り、恐ろしい死人を見て、驚いて官に知らせた。官は小女奴と諸悪少を捕らえて取り調べ、ことごとく実情を得て、皆順次刑を受けた。婦が死んだ時は十九歳であった。邑にはもと烈婦祠があった。婦が死ぬ三日前、祠の傍の者が空中の鼓楽の声を聞き、炎々たる火が祠の柱の中から出るのを見た。人は貞婦が死に事を遂げる兆しであると思ったという。

原文其後,嘉靖二十三年,有嘉定張氏者,嫁汪客之子。其姑多與人私,諸惡少中有胡巖者,最桀黠,群黨皆聽其指使。於是與姑謀,遣其子入縣為卒,而巖等日夕縱飲。一日,呼婦共坐,不應。巖從後攫其梳,婦折梳擲地。頃之,巖徑入犯婦。婦大呼殺人,以杵擊巖。巖怒走出,婦自投於地,哭終夜不絕,氣息僅屬。詰旦,巖與姑恐事泄,縶諸床足守之。明日召諸惡少酣飲。二鼓共縛婦,槌斧交下。婦痛苦宛轉曰:「何不以利刃刺我。」一人乃前刺其頸,一人刺其脅,又椓其陰。舉屍欲焚之,屍重不可舉,乃火其室。鄰裏救火者蹋門入,見嚇然死人,驚聞於官。官逮小女奴及諸惡少鞫之,具得其實,皆以次受刑。婦死時年十九。邑故有烈婦祠,婦死前三日,祠旁人聞空中鼓樂聲,火炎炎從祠柱中出,人以為貞婦死事之征雲。

楊泰奴は、仁和の楊得安の娘である。許嫁したが未だ嫁がず。天順四年、母が疫病に罹り癒えず。泰奴は三度胸の肉を切り取って母に食わせたが、効き目がなかった。ある日の夕暮れ、胸を剖いて肝臓一片を取り出すと、長く昏倒した。目覚めると、衣で傷口を包み、手ずから粥を調えて進めると、母は遂に癒えた。母は元来膝の攣縮の病を患っていたが、それも癒えた。後に張氏という者がいた。儀真の周祥の妻である。姑が病み、医師が百方手を尽くしても効き目がなかった。ある方士がその門に至り言うには、「人の肝臓で治せる」と。張氏は左脇の下を切り、綿の如き膜を得、手を探って腕まで没し、肝臓を二寸ほど取り出したが、少しも痛まず、羹を作って姑に進めると、病は遂に癒えた。

原文楊泰奴,仁和楊得安女。許嫁未行。天順四年,母疫病不愈。泰奴三割胸肉食母,不效。一日薄幕,剖胸取肝一片,昏仆良久。及蘇,以衣裹創,手和粥以進,母遂愈。母宿有膝攣疾,亦愈。後有張氏,儀真周祥妻。姑病,醫百方不效。一方士至其門曰:「人肝可療。」張割左脅下,得膜如絮,以手探之沒腕,取肝二寸許,無少痛,作羹以進姑,病遂瘳。

陳氏は、祥符の人である。楊瑄に許嫁したが、嫁がぬうちに瑄が卒した。女は死を請うたが、父母は許さず、哭きに行かんとすれば、また許さなかった。密かに髪を切り、媒人に託して瑄の懐に置かせた。汴の習俗では、娘を聘するに、金で生年月日を書いて男家に与え、定婚帖と号した。瑄の母はその帖で彼女の髪を包み、瑄の懐に置いて葬った。女は遂に素服で暮らした。間もなく、父母が改めて聘することを謀ると、女は縊死した。後五十三年、正徳年間に至り、瑄の甥の永康が瑄を改葬し、陳氏の骨を求めて合葬しようとした。二つの骨は朽ちていたが、髪と定婚帖は鮮やかに完存して元のままだった。葬って三年、墓の上に岐谷や丫瓜が生じた。

原文陳氏,祥符人。字楊瑄,未嫁而瑄卒。女請死,父母不許,欲往哭,又不許。私剪發,屬媒氏置瑄懷。汴俗聘女,以金書生年月日畀男家,號定婚帖。瑄母乃以帖裹其發,置瑄懷以葬。女遂素服以居。亡何,父母謀改聘,女縊死。後五十三年,至正德中,瑄侄永康改葬瑄,求陳骨合焉。二骨朽矣,發及定婚帖鮮完如故。葬三年,岐谷、丫瓜產墓上。

張氏は、秀水の人である。十四歳の時、同邑の諸生劉伯春の聘を受けた。伯春は才名を負い、必ず郷試に挙げられてから娶ろうとした。間もなく卒すると、女は号泣して髪を切り、自ら詩を作って祭った。喪服を着て三年、閫を越えず、葷を食わなかった。喪が明けると、直ちに飲食を絶ち、父母が強いて諭しても、終に食わず、十日にして卒した。二十歳であった。舅姑が柩を迎えて合葬した。また江夏の欧陽金貞という者がいた。父の梧が『孝経』『列女伝』を授けた。稍々長ずると、羅欽仰に許嫁し、梧に従って柘城に赴任した。梧が艱難により帰る時、舟が儀真に停泊すると、欽仰が水に墜ちて死んだ。金貞は年十四にして、驚き哭き水に赴いて従おうとしたが、父母が押しとどめて許さなかった。また自縊しようとすると、父母は言った、「汝は未だ嫁いでいないのに、どうしてそうできるのか」と。答えて言うには、「女は自ら生きる道理なしと分かっています。仮に父母の仰せの通りにしても、終身未亡人と称することを願います」と。大声で哀号して止まなかった。殮の時、髪を切って夫の右臂に結び付けて殉じた。家に着くと、父母に告げて言うには、「婦があるのは、姑に仕えるためです。姑は既に子を失ったのに、更に婦も無くしてよいでしょうか。羅家に帰り、為すべきことを終えたい」と。父母はこれに従った。後、父が広元県の知県となると、姑が病没し、女は里帰りした。他に適うようほのめかす者がいると、言うには、「姑に仕えることは終わりました。更に何を待ちましょうか」と。女は言った、「私は昔、羅郎を殮った時、一束の髪でその手を縛りました。誰かが塚を掘り棺を開けて、その髪を取り返して私に還してくれるなら、その時は志を変えましょう」と。遂に止んだ。生涯独り一つの楼に臥し、六十余歳で卒した。

原文張氏,秀水人。年十四,受同邑諸生劉伯春聘。伯春負才名,必欲舉於鄉而後娶。未幾卒,女號泣絕發,自為詩祭之。持服三年,不逾閫,不茹葷。服闋,即絕飲食,父母強諭之,終不食,旬日而卒。年二十,舅姑迎柩合葬焉。又有江夏歐陽金貞者,父梧,授《孝經》、《列女傳》。稍長,字羅欽仰,從梧之官柘城。梧艱歸,舟次儀真,欽仰墜水死。金貞年甫十四,驚哭欲赴水從之,父母持不許。又欲自縊,父母曰:「汝未嫁,何得爾?」對曰:「女自分無活理,即如父母言,願終身稱未亡人。」大聲哀號不止。及殮,剪發系夫右臂以殉。抵家,告父母曰:「有婦,以事姑也。姑既失子,可並令無婦乎?願歸羅,以畢所事」。」父母從之。後父知廣元縣,姑病卒,女乃歸寧。有諷他適者,曰:「事姑畢矣,更何待?」女曰:「我昔殮羅郎時,有一束發纏其手,誰能掘冢開棺,取發還我,則易誌矣。」遂止。生平獨臥一樓,年六十餘卒。

荘氏は、海康の呉金童の妻である。成化初年、広西の流賊が郷邑を掠め、荘は夫に従って新会に避難し、劉銘の家に傭われた。銘は荘が美しいのを見て、犯さんと欲し、度々誘ったが従わなかった。そこで仲間の梁狗に命じて金童と共に海に入り魚を捕らせ、水に没して死なせた。三日過ぎても帰らず、荘が海辺で探すと、屍が岸辺に浮かび、手足を縛られ、腫れ腐って識別できなかった。荘は衣でそれと識り、帰って娘を連れて水に赴き、夫の屍を抱いて没した。翌日、三つの屍が流れに従って銘の門を巡り、去ってはまた戻った。土地の人は異変に感じて殯葬し祭ったが、銘が殺したとは知らなかった。後、梁狗が漏らして言ったので、役人が併せて捕らえ拷問し、極刑に処した。

原文莊氏,海康吳金童妻。成化初,廣西流寇掠鄉邑,莊隨夫避新會,傭劉銘家。銘見莊美,欲犯之,屢誘不從。乃令黨梁狗同金童入海捕魚,沒水死。越三日不還,莊求之海賓,屍浮岸側,手足被縛,腫腐莫可辨。莊以衣識之,歸攜女赴水,抱夫屍而沒。翼日,三屍隨流繞銘門,去而復還。士人感異殯祭之,然莫知銘殺也,後梁狗漏言,有司並捕考,處以極刑。

唐氏は、汝陽の陳旺の妻で、その夫に従って歌舞を以て四方に食を逐うた。正徳三年秋、旺は妻と娘の環児、甥の成児を連れて江夏の九峰山に至った。史聡という者もまた傀儡を業としていた。婦と娘が皆艶麗で、しかも旺が老いているのを見て、旺を青山に誘い出し、夜に殺した。翌日、聡は独り戻り、その婦・娘・幼い甥を連れて武昌山の呉王祠に入り、利刃を以て唐を脅した。唐は言った、「汝は我が夫を殺した。私は汝を殺して仇を返すことができないのに、どうして汝の乱に従うことを忍ぼうか」と。遂に害に遇った。賊は席で包み、荊棘の中に置いた。翌日、蓑衣園に移し、賊はまた環児を迫り、刃を以て臨んだ。環児は哭き且つ罵り、声は林木を振るわし、賊もまたこれを殺し、糞土の中に埋めて去った。その年の冬至、賊が酒に酔うと、成児が潜り出て官に告げ、葛店市で擒えられ、誅に伏した。

原文唐氏,汝陽陳旺妻,隨其夫以歌舞逐食四方。正德三年秋,旺攜妻及女環兒、侄成兒至江夏九峰山。有史聰者,亦以傀儡為業。見婦、女皆艷麗,而旺且老,因紿旺至青山,夜殺之。明日,聰獨返,攜其婦、女、幼侄入武昌山吳王祠,持利刃脅唐。唐曰:「汝殺吾夫,吾不能殺汝以復仇,忍從汝亂邪?」遂遇害。賊裹以席,置荊棘中。明日,徙蓑衣園,賊又迫環兒,臨以刃。環兒哭且詈,聲振林木,賊亦殺之,瘞糞壤中而去。其年冬至,賊被酒,成兒潛出告官,擒於葛店市,伏誅。

王氏は、慈谿の人である。陳に聘されたが、夫の佳が病み、その父母が婦を娶って慰めようとした。門に至ると、直ちに入って湯薬を侍った。間もなく佳が卒すると、王は年十七にして、志を立てて再嫁せず。姑の張氏は言った、「礼を成さずに守るのは、名が無い」と。女は言った、「陳氏の門に入り、君子に事えました。何を以て名無しと言いましょうか」と。姑はそこで二人の娘に委ねて緩やかに諷させた。婦は答えず、髪を切り容を毀った。姑は終に強くしようとし、窮屈辱め万状に及んだ。二人の小姑は婢の如くにこれを陵ぎ、稍々従わなければ即ちその面を爪で掻き、姑は聞いて更に箠楚を加えた。女は口に怨言を出さず、言った、「嫁に逼らなければ、婢となっても甘んじます」と。夜は小姑の床の下に寝所し、湿気を受けて傴疾を得たが、密かに幸いとして言った、「私は免れたと知る」と。甥の梅を養子として嗣がせ、これを教えた。成化初年に郷薦に挙げられ、遂にその家を昌えさせた。後に易氏という者がいた。分宜の人で、安福の王世昌に嫁いだ。時に世昌は既に疾に罹り、奄奄として十余月、易はこれに事え、衣を解かずに帯した。世昌が死ぬと、喪が明けても尚縞素のままであった。姑はこれを憐れみ、言った、「汝は猶処子の身である。終身累となることがあろうか」と。跪いて泣いて言った、「何という言葉でしょうか。父母が私を王氏に許した以上、終身王氏の婦です」と。ここより独り一つの楼に処し、外戸を窺わず四十余年を過ごした。世昌が病んだ時、吐いた痰血を、常に手ずから一つの布嚢に盛った。卒後、盛った嚢を枕とし、それを枕として終身を過ごした。

原文王氏,慈谿人。聘於陳,而夫佳病,其父母娶婦以慰之。及門,即入侍湯藥。未幾,佳卒,王年甫十七,矢誌不嫁。姑張氏曰:「未成禮而守,無名。」女曰:「入陳氏門,經事君子,何謂無名?」姑乃使其二女從容諷之。婦不答,截發毀容。姑終欲強之,窘辱萬狀。二小姑陵之若婢,稍不順即爪其面,姑聞復加箠楚。女口不出怨言,曰:「不逼嫁,為婢亦甘也。」夜寢處小姑床下,受濕得傴疾,私自幸曰:「我知免矣。」鞠從子梅為嗣,教之。成化初領鄉薦,卒昌其家。後有易氏,分宜人,嫁安福王世昌。時世昌已遘疾,奄奄十餘月,易事之,衣不解帶。世昌死,除喪猶縞素。姑憐之,謂:「汝猶處子,可終累乎?」跪泣曰:「是何言哉?父母許我王氏,即終身王氏婦矣。」自是獨處一樓,不窺外戶四十餘年。方世昌疾,所吐痰血,輒手一布囊盛之。卒後,用所盛囊為枕,枕之終身。

鐘氏は、桐城の陶鏞の妻である。鏞は罪により辺境に戍され、外で卒した。鐘は二十五歳、子の継は尚ほ抱かれる程で、鏞の骨を負って四千余里を帰葬した。乃ち髪を断ち門を閉ざし、八十二歳で節を以て終わった。継もまた早く卒し、妻の方は二十七歳、子の亮は二歳であった。その兄がこれを憐れみ、微かにその意を叩くと、方は死を以て誓った。景泰年間、亮が郷試に挙げられ、太学で学んだが、卒した。妻の王氏は二十八歳、妾の呉氏は二十二歳で、皆子が無く、棺を扶けて帰葬した。貧しく支えられず、親しい者が嫁ぐよう勧めると、二人は哭いて言った、「あなたは私が節婦の婦であることを知らないのですか」と。乃ち共に紡績を以て自ら給した。二十六年を経て、県令の陳勉がこれを聞き上げ、詔して三代を旌表した。人はこれを称して四節裏と言った。

原文鐘氏,桐城陶鏞妻。鏞以罪被戍,卒於外。鐘年二十五,子繼甫在抱,負鏞骨四千餘里歸葬。乃斷髮杜門,年八十二以節終。繼亦早卒,妻方氏年二十七,子亮甫二歲。其兄憐之,微叩其意,方以死誓。景泰中,亮舉鄉試,業於太學,卒。妻王氏年二十八,妾吳氏二十二,皆無子,扶櫬歸葬。貧不能支,所親勸之嫁,兩人哭曰:「而不知我之為節婦婦乎!」乃共以紡績自給。越二十六年,縣令陳勉以聞,詔旌三代。人稱之曰四節裏。

宣氏は、嘉定の張樹田の妻である。夫は元来狂悖で、宣と睦まじくなかった。夫が病むと、宣は朝晩奉事した。死ぬと、身を殉ずることを誓った。時に樹田の友人沈思道もまた死に、その婦の孫と宣は死を以て互いに約し、各々尺の帛を分けた。孫は自経した。或る者が宣に勧めて言った、「彼女は夫と相得ていたから、死を以て報いたのだ。汝は何故それを倣うのか」と。宣は嘆いて言った、「私はただ婦道を尽くすことを知るのみで、どうして夫の賢不賢を論じましょうか」と。遂に縊死した。

原文宣氏,嘉定張樹田妻。夫素狂悖,與宣不睦。夫病,宣晨夕奉事。及死,誓身殉。時樹田友人沈思道亦死,其婦孫與宣以死相要,各分尺帛。孫自經,或勸宣曰:「彼與夫相得,故以死報,汝何為效之?」宣嘆曰:「予知盡婦道而已,安論夫之賢不賢。」卒縊死。

徐氏は慈谿の人、定海の金傑の妻である。成化年間、傑の兄が罪に坐して京師に捕らわれ、傑は代わりに行くことを請うた。出発に際し、徐はすでに身ごもっており、傑は言った、「私は行くが、生死は知れない、もし男子が生まれたらよく養い育てよ、金氏の亡霊もようやく供養を受けられるだろう」。しばらくして後悔して言った、「私はほとんど汝を誤るところであった、私は戻る見込みはない、たとえ死んでも、後の人に良く仕えよ」。徐は泣いて言った、「君は義のために行かれる、上も必ず君を義と認められる、君兄弟はともに帰るべきであり、過度に苦しまれるな。たとえ君の言うようになったとしても、妾は死ぬのみ、どうして託されたことを忘れようか」。果たして男子を生み、ほどなく兄は帰還したが、傑はついに獄死した。徐は孤児を養い育てて慟哭し、「私はもとより汝の父の後を地下で追おうと思ったが、金氏のことはどうすればよいか」と言い、無理に葬儀を営んだ。喪が明けると、父母は他の人に嫁ぐよう勧めたが、髪を切り指を断って自ら誓い、粗食に耐え苦労を嘗めて六十余年、子孫が二世にわたって成長するのを見届けて、ようやく卒した。

原文徐氏,慈谿人,定海金傑妻也。成化中,傑兄以罪逮入京,傑往請代。瀕行,徐已有身,傑謂曰:「予去,生死不可知,若生男善撫之,金氏鬼庶得食也。」已而悔曰:「我幾誤汝,吾去無還理,即死,善事後人。」徐泣曰:「君以義往,上必義君,君兄弟當同歸,無過苦也。即如君言,妾有死耳,敢忘付托乎?」已果生男,無何兄得還,傑竟瘐死。徐撫孤慟曰:「我本欲從汝父地下,奈金氏何?」強營葬事。服闋,父母勸他適,截發斷指自誓,食淡茹苦六十餘年,視子孫再世成立,乃卒。

義妾の張氏は、南京の人である。松江の楊玉山が南京で商いをし、妾として娶った。一月余りして正妻の嫉妬により、帰らされた。張は慎んで独りで身を守り、楊もたびたび往来し、贈ったものは千を数えた。後二十余年、楊が役務の連累に坐し、その財産を失い、鬱々として失明した。張はこれを聞き、直ちに楊の家を訪れ、主母に拝礼し、楊の袖を捧げて大いに慟哭した。そしてかつて贈られた金珠をすべて出し、装いを整え、二人の娘を嫁がせ、また二人の息子に嫁を娶らせ、自らは湯薬の世話に留まった。一年余りして楊が死ぬと、その柩を守って去らなかった。喪が明けた後、父母が帰るよう強いたが、従わず、志を誓って没し、生涯一人にも会わなかった。

原文義妾張氏,南京人。松江楊玉山商南京,娶為妾。逾月以婦妒,遣之歸。張屏居自守,楊亦數往來,所贈千計。後二十餘年,楊坐役累,罄其產,怏怏失明。張聞之,直造楊廬,拜主母,捧楊袂大慟。乃悉出向所贈金珠,具裝,嫁其二女,並為二子娶婦,留侍湯藥。逾年楊死,守其柩不去。既免喪,父母強之歸,不從,矢誌以歿,終身不見一人。

龔烈婦は江陰の人。十七歳で劉玉に嫁ぎ、家は貧しく、力を尽くして姑を養った。姑が亡くなると、夫を助けて葬った。夫もまた亡くなり、殮するものがなかった。里にこの婦の色を羨む者がおり、棺を助けようとした。龔はその意を察し、断った。その後また強いてきたので、龔は自ら逃れられないことを恐れ、生んだ六歳の男児と三歳の女児を母の家に寄食させた。その夜、麦藁を屋中に積み、火を放って自ら焼死し、夫の屍を抱いて死んだ。また江氏は、蒙城の王可道の妻。夫は貧しく、荷を担いで売り歩き糊口をしのぎ、死んでも殮することができなかった。隣家の諸生李雲蟾が金を合わせて殮し、日を卜して葬ろうとした。その日、衆を率いてその家に行くと、ひっそりとして声がなく、台所の灯が微かに明るい。急いで見ると、飲食がすべて揃っており、棺を担ぐ者を待っていたのであろうが、婦はすでに竈の傍で縊死していた。衆は驚嘆し、再び金を合わせてともに葬った。

原文龔烈婦,江陰人。年十七嫁劉玉,家貧,力作養姑。姑亡,相夫營葬。夫又亡,無以為斂。裏有羨婦色者,欲助以棺。龔覺其意,辭之。既又強之,龔恐無以自脫,乃以所生六歲男、三歲女寄食母家。是夜,積麥稿屋中,舉火自焚,抱夫屍死。又江氏,蒙城王可道妻。夫貧,負販糊口,死不能斂。比鄰諸生李雲蟾合錢斂之,卜日以葬。及期,率眾至其家,闃然無聲,廚下燈微明,趨視之飲食畢具,蓋以待舁棺者,婦已縊死竈旁矣。眾驚嘆,復合錢並葬之。

会稽の範氏の二女は、幼い頃から読書を好み、ともに『列女伝』に通じていた。長女は江氏に嫁ぎ、一月で寡婦となった。次女は傅氏に嫁ごうとしたが、夫が亡くなった。二女はともに節を守り、高い塀を築き、十畝の田を囲い、その中に井戸を穿ち、三間の屋を建てて住んだ。種まきや収穫の時には、父が圭竇を開いて雇い人を率いて入り、その他の日はその竇を塞ぎ、ともに井戸から水を汲んで田を灌いだ。このようにして三十年。自ら屋の後に墓域を作り、成化年間に卒し、ついに合葬された。族人はその田に祠を立てて祀った。

原文會稽範氏二女,幼好讀書,並通《列女傳》。長適江,一月寡。次將歸傅,而夫亡。二女同守節,築高垣,圍田十畝,穿井其中,為屋三楹以居。當種獲,父啟圭竇率傭以入,餘日則塞其竇,共汲井灌田。如是者三十年。自為塋於屋後,成化中卒,竟合葬焉。族人即其田立祠以祀。

また丁美音あり、漵浦の丁正明の女。幼い頃に夏学程と婚約し、十八歳で嫁ごうとしたが、学程が死んだので、美音は再嫁しないと誓った。父母は言った、「嫁がずに節を守るのは礼ではない。どうしてこのように自ら苦しむのか」。美音は指を嚙んで血を滴らせ、天に呼びかけて自ら誓った。当道の者が相次いでこれを表彰し、銀幣およそ百金を賜ったので、屋を構えて独り住み、田を売って自ら生計を立て、舅姑に仕え、父母を養った。郷人はその田を貞女田と呼んだ。

原文又有丁美音,漵浦丁正明女。幼受夏學程聘,年十八將嫁,學程死,美音誓不再嫁。父母曰:「未嫁守節,非禮也。何自苦如此?」美音嚙指滴血,籲天自矢。當道交旌之,賫以銀幣約百金,乃構室獨居,鬻田自贍,事舅姑,養父母。鄉人名其田為貞女田。

成氏は無錫の人、定陶の教諭繒の女、登封の訓導尤輔の妻である。輔が靖江に遊学し、成も従った。江水が夜に溢れ、家人は慌てて屋根に登ったが、成は衣を整えて登ろうとし、尋ねた、「あなた方は衣を着ているか」。衆は「間に合わなかった」と謝した。成は言った、「どうして男女が裸で、なおともに生きられようか。私だけが留まって死のう」。衆が号泣して請うたが、応じなかった。翌朝、水が引き、寝台の上に坐して死んでいた。

原文成氏,無錫人,定陶教諭繒女,登封訓導尤輔妻也。輔遊學靖江,成從焉。江水夜溢,家人倉卒升屋,成整衣欲上,問:「爾等衣邪?」眾謝不暇。成曰:「安有男女裸,而尚可俱生邪?我獨留死耳。」眾號哭請,不應。厥明,水退,坐死榻上。

後に崇禎年間、興安で大水があり、家屋が流され没した。筏を作って自ら救おうとする者がおり、近隣の多くがそれに付いた。二人の女子が朽ちた木に付き、沈んでは浮かびを繰り返していたので、筏を近づけて救おうとした。年はともに十六、七歳で、その姓氏を尋ねても答えなかった。二女は筏の上の男子に裸の者がいるのを見て、嘆いて言った、「我ら姉妹は木にすがって死なず、善き地があって生き延びられることを望んだが、今このようでは、どうして生きる必要があろうか」。手を携えて波の中に躍り込んで死んだ。

原文後崇禎中,興安大水,漂沒廬舍。有結筏自救者,鄰裏多附之。二女子附一朽木,倏沈倏浮,引筏救之,年皆十六七,問其姓氏不答。二女見筏上男子有裸者,嘆曰:「吾姊妹倚木不死,冀有善地可存也,今若此,何用生為!」攜手躍入波中死。

章銀児は蘭谿の人。幼くして父を亡くし、母と二人で暮らした。邑には火災が多く、家はすべて焼け、茅を結んで母を住まわせた。母がちょうど病気の時、隣家でまた火事が起こり、銀児が出て見ると、衆は急いで避けるよう呼びかけた。銀児は言った、「母は病気で動けない、どうして一人で避けられようか」。急いで家に戻り、母を助け出そうとしたが、激しい炎が突然その家を覆い、衆は救うことができなかった。火光の中、遥かに銀児が母を抱き、もがきながらともに焼け死ぬのが見えた。時は弘治元年三月である。

原文章銀兒,蘭谿人。幼喪父,獨與母居。邑多火災,室盡毀,結茅以棲母。母方疾,鄰居又火,銀兒出視,眾呼令疾避。銀兒曰:「母疾不能動,何可獨避。」亟返入廬,欲扶母出,烈焰忽覆其廬,眾莫能救。火光中,遙見銀兒抱其母,宛轉同焚死,時弘治元年三月也。

義妹の茅氏は慈谿の人。十四歳の時、父母が亡くなり、兄と嫂とだけ住んでいた。その兄は病で萎えて寝ていた。倭が県に入った時、嫂は逃げ出し、一緒に行くよう呼びかけた。女は言った、「私は未婚の娘、どこへ行けばよいのか。かつてともに去れば、誰が我が兄を支えるのか」。賊が来て火を放つと、女は力を尽くして兄を支え空き家に避けたが、ついに焼け死に、ともに死んだ。

原文義妹茅氏,慈谿人。年十四,父母亡,獨與兄嫂居。其兄病痿臥。值倭入縣,嫂出奔,呼與偕行。女曰:「我室女,將安之!且俱去,誰扶吾兄者!」賊至,縱火,女力扶其兄避於空室,竟被燔灼並死。

招囊猛は、雲南孟璉長官司の土官舍人刁派羅の妻である。二十五歳で夫が死に、二十八年節を守った。弘治六年九月、雲南都指揮使がその事績を奏上した。帝は言った、「朕は天下を家とし、まさに名教を励まして夷俗を変えようとしている。礼義に赴く者がいれば、どうして急いで奨励しないでいられようか。招囊猛の貞節は嘉すべきであり、直ちに役人に命じてその門閭を顕彰させ、遠方の夷人により一層教化に向かわせよ。核して報告するを待つ必要はない」。

原文招囊猛,雲南孟璉長官司土官舍人刁派羅妻也。年二十五,夫死,守節二十八年。弘治六年九月,雲南都指揮使奏其事。帝曰:「朕以天下為家,方思勵名教以變夷俗。其有趨於禮義者,烏可不亟加獎勵。招囊猛貞節可嘉,其即令有司顯其門閭,使遠夷益知向化,無俟核報。」

張維の妻淩氏は慈谿の人。弘治年間、維が郷試に合格したが、卒した。婦は二十五歳、子は四歳でこれもまた卒した。その兄が再婚するようほのめかしたが、婦は痛哭して唇を嚙み、血を地面に噴き、生涯実家に帰らなかった。舅姑が慰めて言った、「不幸にも後嗣が絶え、日々の暮らしも頼るものがない。我ら二人は日が迫っているが、汝の年はまだ遠い、どうして生きていくのか」。婦は言った、「恥辱の事は重く、餓死しても甘んじる」。そこで簪や耳飾りを出して舅のために妾を娶らせ、果たして子を得た。喜んで言った、「張氏が絶えず、亡き夫の墓門にも寒食の供え物があろう」。後、舅が癲病にかかり、姑は両目が失明したが、婦は紡績して養い、二十年衰えなかった。後に杜氏あり、貴池の曹桂の妻。二十四歳で夫が亡くなり、遺腹で女児を生み、悲しみ苦しんで方策がなかった。日々姑に勧めて舅に妾を娶らせ、果たして一子を生んだ。出産後、妾が死ぬと、杜は自分の娘を族の母に託し、自らその叔父(夫の弟)を乳した。一年余りして舅が亡くなると、勧める者が言った、「汝は辛苦して孤児を育てるが、叔父が汝を後継ぎにしてくれるだろうか」。杜は言った、「叔父が我が舅の後を継ぎ、異日に二子を生めば、その一子をもって我が夫の後を継がせ、我が志は果たされる」。後、ついにその言うようになった。

原文張維妻淩氏,慈谿人。弘治中,維舉於鄉,卒。婦年二十五,子四歲亦卒。其兄諷之改圖,婦痛哭嚙唇,噀血灑地,終身不歸寧。舅姑慰之曰:「不幸絕嗣,日計無賴,吾二人景逼矣,爾年尚遠,何以為活?」婦曰:「恥辱事重,餓死甘之。」乃出簪珥為舅納妾,果得子,喜曰:「張氏不絕,亡夫墓門且有寒食矣。」後舅病瘋,姑雙目瞽,婦紡績供養,二十年不衰。後有杜氏,貴池曹桂妻。年二十四,夫亡,遺腹生女,悲苦無計。日諷姑為舅納妾,果生一子。產後,妾死,杜以己女托於族母,而自乳其叔。逾年翁喪,勸者曰:「汝辛苦撫孤,寧能以叔後汝乎?」杜曰:「叔後吾翁,異日生二子,即以一子後我夫,吾誌畢矣。」後卒如其言。

義婦楊氏は、王世昌の妻、臨漳の人。弘治年間、世昌の兄が事に坐して死罪と決せられた。世昌は兄が嫡子であることを思い、その刑に代わることを請うた。当時楊はまだ笄をしていなかったが、父母と宗族に謀って言った、「彼が兄に代わって死ぬのは義士である、私はどうして義婦となれないことがあろうか。願わくは上に訴えて夫に代わって死にたい」。そこで京師に入り陳情し、法司に議させたところ、夫妻ともに釈放された。

原文義婦楊氏,王世昌妻,臨漳人。弘治中,世昌兄坐事論死。世昌念兄為嫡子,請代其刑。時楊未笄,謀於父母宗族曰:「彼代兄死為義士,我顧不能為義婦邪?願訴於上代夫死。」遂入京陳情,敕法司議,夫妻並得釋。

史氏は杞県の人である。字は孔弘業、嫁がずして夫が卒した。殉じようとしたが、母が許さなかった。女は七日間食を絶ち、母が茶を捧げて飲ませようとすると、二匹の蛾がちょうど杯の中に落ちて死んだ。女は指さして言った、「物の心さえもなお我が心に通じるのに、母だけが人を諒としないのか」と。母は奪い難いと知り、翌日素衣縞裳を整え、彼女を孔氏に送った。暮れに及び、舅姑に別れを告げ、衣を整えて自縊して死んだ。白気が縷縷として屋上に立ち昇り、夜明けになって初めて消えた。また林端娘という者がいた。甌寧の人で、字は陳廷策である。廷策の訃報を聞き、伝言して言った、「殯するな、我は死に就かん」と。父が言った、「汝は許嫁したとはいえ、まだ納幣はしていない」と。答えて言った、「既に許嫁した以上、何の幣を問う必要があろうか」と。父は厳重に防いだ。女は言った、「女がどこで死ねないというのか、ただ夫の家で死ぬのが正しいだけだ」と。父は言った、「婿の家は貧しく、身を包むものもない」と。女は言った、「身など顧みるに足らぬ」と。また言った、「婿の家は貧しく、誰が名を顕彰しようか」と。女は言った、「名など求めるに足らぬ」と。遂に往って哭奠を終え、自ら死期を定め、帛を整えて自縊し、三度うなずいて絶命した。陳の旧家は青陽山の下にあり、山下の人は言う、婦が尽きようとする時、山が三昼夜鳴ったと。

原文史氏,杞縣人。字孔弘業,未嫁而夫卒。欲往殉之,母不許。女七日不食,母持茗逼之飲,雙蛾適墮杯中死,女指示曰:「物意尚孚我心,母獨不諒人邪!」母知不可奪,翌日制素衣縞裳,送之孔氏。及暮,辭舅姑,整衣自經死。白氣縷縷勝屋上,達旦始消。又有林端娘者,甌寧人,字陳廷策。聞廷策訃,寄聲曰:「勿殮,吾將就死。」父曰:「而雖許字,未納幣也。」對曰:「既詐矣,何幣之問?」父謹防之。曰:「女奚所不可死,顧死夫家韙耳。」父曰:「婿家貧,無以周身。」曰:「身非所恤。」又曰:「婿家貧,孰為標名?」曰:「名非所求。」遂往哭奠畢,自克死期,理帛自經,三拱而絕。陳故家青陽山下,山下人言婦將盡時,山鳴三晝夜。

汪烈婦は、晋江の諸生楊希閔の妻である。二十三歳の時、夫が死に、子がなく、自縊しようとした。家人が厳重に防いだので、機会がなかった。氏は茉莉に毒があり人を殺せることを聞き、様々な方法でそれを求めた。家人は知らず、日に数百の花を供えた。一ヶ月余り過ぎ、家人が亡者のために斎祭を行った時、婦は自ら祭文を撰し、その文は甚だ悲しかった。夜の五更、防ぐ者が少し懈んだ時、積んだ花を取り煎じて飲み、夜明けに死んだ。

原文汪烈婦,晉江諸生楊希閔妻也。年二十三,夫死,無子,欲自經。家人防之謹,不得間。氏聞茉莉有毒能殺人,多方求之,家人不知也,日供數百朵。逾月,家人為亡者齋祭,婦自撰祭文,辭甚悲。夜五鼓,防者稍懈,取所積花煎飲之,天明死。

竇妙善は、京師崇文坊の人である。十五歳の時、工部主事余姚の姜栄の妾となった。正徳年間、栄は瑞州通判として府事を摂った。華林の賊が起こり、瑞を寇した。栄は逃げ出した。賊が城に入り、その妻と婢数人を捕らえ、栄の所在を問うた。時に妙善は別室に居り、急いで府印を取り、後ろの窓を開けて荷池に投げ入れた。鮮やかな衣を着て前に出て言った、「太守は数千の援兵を統率し、東門を出て汝らを捕らえようとしており、旦夕に首を斬られるであろう。どうして我が婢を捕らえられようか」と。賊は彼女が夫人だと思い、前に捕らえていた数人を解き放ち、妙善だけを輿に乗せて城外に出した。ちょうど追い立てられた隷の中に、盛豹という父子が掠奪されていた。その子が叩頭して父を放すよう乞うたので、賊は許した。妙善は言った、「この者は力がある、我を担ぐべきだ。どうしてすぐに放せようか」と。賊はこれに従った。数里行くと、妙善は前後に賊がいないのを見て、低い声で豹に言った、「我が汝を留めたのは、太守が印の在り処を知らないので、汝に告げさせようとしたからだ。今汝を帰らせよう。幸いにも太守に告げよ、ここから先に進んで井戸に遇えば、即ち命を終えるであろうと」と。賊に呼びかけて言った、「この者は担ぐのが上手でない、やはり放して、担ぎの上手な者と替えよ」と。賊はまたこれに従った。花塢に至って井戸に遇うと、妙善は言った、「我は渇いて耐えられぬ。井戸の傍らに水を汲んで置け、我は飲もう」と。賊がその言う通りにすると、妙善は井戸の傍らに至り、身を跳ねて入った。賊は驚いて救おうとしたが得ず、去った。豹は城に入って栄に告げて印を取り、花塢に導き、井戸を探すと、果たして妙善の屍を得た。七年を経て、郡県がその事を上奏し、詔して特祠を建て、額を貞烈と賜った。

原文竇妙善,京師崇文坊人。年十五,為工部主事余姚姜榮妾。正德中,榮以瑞州通判攝府事。華林賊起,寇瑞,榮出走。賊入城,執其妻及婢數人,問榮所在。時妙善居別室,急取府印,開後窗投荷池。衣鮮衣前曰:「太守統援兵數千,出東門捕爾等,旦夕授首,安得執吾婢?」賊意其夫人也,解前所執數人,獨輿妙善出城。適所驅隸中,有盛豹者父子被掠,其子叩頭乞縱父,賊許之。妙善曰:「是有力,當以舁我,何得遽縱。」賊從之。行數里,妙善視前後無賊,低語豹曰:「我所以留汝者,以太守不知印處,欲藉汝告之。今當令汝歸,幸語太守,自此前行遇井,即畢命矣。」呼賊曰:「是人不善舁,可仍縱之,易善舁者。」賊又從之。行至花塢遇井,妙善曰:「吾渴不可忍,可汲水置井傍,吾將飲。」賊如其言,妙善至井傍,跳身以入,賊驚救不得而去。豹入城告榮取印,引至花塢,覓井,果得妙善屍。越七年,郡縣上其事,詔建特祠,賜額貞烈。

石門の丐婦は、湖州の人で、その姓氏は詳らかでない。正徳年間、湖は大いに飢えた。婦はその夫と姑に従って崇徳石門市に走り、食を乞うた。三人は偶然に相失った。婦に色があり、市人は争って彼女を挑んだ。食を与えても顧みず、財で誘っても顧みなかった。東高橋に寓居し、二日間もはや乞食しなかった。夫と姑が皆至らないのを窺い、集まって見る者が益々多くなると、婦は橋から躍り込んで水中に死んだ。

原文石門丐婦,湖州人,莫詳其姓氏。正德中,湖大饑,婦隨其夫及姑走崇德石門市乞食。三人偶相失。婦有色,市人爭挑之。與之食不顧,誘之財亦不顧。寓東高橋上,不復乞食者二日。伺夫與姑皆不至,聚觀者益眾,婦乃從橋上躍入水中死。

賈氏は、慶雲の諸生陳俞の妻である。正徳六年、兵変が起こり、ちょうど舅が病で卒した。家人が彼女を引き留めて避けさせようとしたが、痛哭して言った、「舅はまだ殯もしていない。婦として何ぞ一死を惜しまん」と。身に斬衰を着て解かなかった。兵が至り、火を放って彼女を出させようと迫ると、罵り絶えず、刃が身に及び無完膚となり、舅の屍とともに灰燼に帰した。二十五歳。

原文賈氏,慶雲諸生陳俞妻。正德六年,兵變,值舅病卒,家人挽之避,痛哭曰:「舅尚未斂,婦何惜一死。」身服斬衰不解。兵至,縱火迫之出,罵不絕口,刃及身無完膚,與舅屍同燼。年二十五。

鄞県の諸生李珂の妻胡氏は、十八歳で珂に嫁いだ。七年を経て、珂が死に、男女各一人を遺した。胡は閾を越えぬと誓った。隣家で火災が起こり、珂の兄珮が救いに行こうとすると、言った、「阿姆が来れば、我は出よう」と。珮は妻の陳を行かせた。婦は七歳の男児を窓から彼女に渡し、言った、「幸いに我が夫を思い、善くこれを見よ」と。陳が言った、「嬸はどうするのか」と。欺いて言った、「少しばかりの首飾りを取ればすぐに出よう」と。陳が去ると、胡は直ちに衣箱を積み重ねて戸を塞ぎ、三歳の女児を抱いて端坐したまま火中に死んだ。

原文鄞縣諸生李珂妻胡氏,年十八歸珂。閱七年,珂死,遺男女各一,胡誓不逾閾。鄰火作,珂兄珮往救之,曰:「阿姆來,吾乃出。」珮使妻陳往,婦以七歲男自牖付之,屬曰:「幸念吾夫,善視之。」陳曰:「嬸將何如?」紿之曰:「取少首飾即出。」陳去,胡即累衣箱塞戶,抱三歲女端坐火中死。

陳宗球の妻史氏は、南安の人である。夫が死に、殉じようとして期日を定めたが、なお姑のために酒を醸していた。姑が言った、「婦は既に死を決した。生きて存する日は多くないのに、何故辛苦するのか」と。答えて言った、「正に日が短いからこそ、醸して姑に奉じるのです」と。死のうとする時、舅に告げて言った、「婦に喪があれば、幸いにも棺を漆塗りにしないでください」と。遂に縊死した。

原文陳宗球妻史氏,南安人。夫死將殉有期矣,尚為姑釀酒。姑曰:「婦已決死,生存豈多日,何辛苦為?」曰:「政為日短,故釀而奉姑。」將死,告舅曰:「婦有喪,幸毋髹棺。」遂縊。

葉氏は、定海の人である。慈谿の翁姓に許嫁されたが、父母ともに歿したので、遂に翁の家で育てられた。十四歳の時、翁の資産が日に落ち、かつその姑を失い、舅は彼女を奴隷のように扱い、万状の労苦を課したが、少しも怨色を見せなかった。舅は子が幼いのを理由に、羅姓の者に売ろうとした。葉は憤って言った、「我は貨物ではない。どうして転々と貿易されねばならないのか」と。日々哽咽して涙を垂らした。既に免れ難いと知ると、偽って喜色を見せ、舅は遂に彼女を寛大に扱った。夜、月が上り、諸姒を欺いて言った、「月の色が甚だ佳い。少しでもゆったりとしませんか」と。門外に急いで長くいた。諸姒がともに勧めて言った、「夜は既に半ばです。どうぞ就寝なさいませ」と。遂に入り、朝になって彼女を探すと、則ち氏は既に河に浮かぶ屍となっており、引き上げた時その色は生きているようであった。

原文葉氏,定海人。許聘慈谿翁姓,而父母俱歿,遂育於翁。年十四,翁資產日落,且失其姑,舅待之如奴,勞勚萬狀,略無怨色。舅以子幼,欲鬻之羅姓者,葉恚曰:「我非貨也,何輾轉貿易為?」日哽咽垂涕。既知不可免,偽為喜色,舅遂寬之。夜月上,紿諸姒曰:「月色甚佳,盍少猶夷乎?」趨門外良久。諸姒並勸曰:「夜既半矣,盍就寢。」遂入,及晨覓之,則氏已浮屍於河矣,起之色如生。

胡貴貞は、楽平の人である。生まれた時、父母は養おうとせず、その隣の曾媼が救い帰り、子の天福と同乳し、その成長を待って配そうとした。天福が十八歳の時、父母相次いで亡くなり、家は甚だ零落した。貴貞の父は富家と姻戚関係を結ぶために彼女を奪おうとした。女は言った、「我は曾に育てられ、曾に嫁ぐ。姑媳の分、母子の恩、どうして飢寒を理由にこれを棄てられようか」と。乃ち従姑に依って居り、蓽舍は単浅で、外人は未だその面を識らなかった。その兄は天福が未婚であるのに乗じ、彼女を曳き帰り、求婚者の金宝や笄飾りを見せた。女は免れ難いと知り、潜かに房に入り縊死した。

原文胡貴貞,樂平人。生時,父母欲不舉,其鄰曾媼救之歸,與子天福同乳,欲俟其長而配焉。天福年十八,父母繼亡,家甚落。貴貞父將奪以姻富家,女曰:「我鞠於曾,婦於曾,分姑媳,恩母子,可以饑寒棄之邪?」乃依從姑以居,蓽舍單淺,外人未嘗識其面。其兄乘天福未婚,曳以歸,出視求聘者金寶笄飾。女知不免,潛入房縊死。

孫氏は、呉県の衛廷珪の妻である。夫に従って商販し、潯陽の小江口に寓居した。寧王が九江を陥落させた時、廷珪はちょうど他に出ていた。親しい者が急いで孫を誘って共に逃げようとした。孫は二人の娘、金蓮と玉蓮に言った、「我々は異郷の人である。汝の父は不在で、逃げてどこに行こうというのか。今賊は既に隣家を劫掠した。どうしようか」と。娘は言った、「生死も離れず、父のためにこの身を全うすべきです」と。ここにおいて母子は共に一つの長い縄で自らを束ね、河に赴いて死んだ。

原文孫氏,吳縣衛廷珪妻。隨夫商販,寓潯陽小江口。寧王陷九江,廷珪適他往,所親急邀孫共逃。孫謂兩女金蓮、玉蓮曰:「我輩異鄉人,汝父不在,逃將安之?今賊已劫鄰家矣,奈何?」女曰:「生死不相離,要當為父全此身耳。」於是母子共一長繩自束,赴河死。

江氏は、余幹の夏璞の妻である。正徳年間、賊が至り、方に一歳の弟を抱いて逃げたが、脱することができなかった。賊が彼女を縛ろうとすると、言った、「誠に将軍とともにありたいと願いますが、顧みるに我が父は年老いており、ただ一弟があるのみです。幸いにこれを全うさせてください」と。賊はこれを信じ、抱いている児を置かせて出ることを許した。出ると大声で賊を罵り、橋の下に投じて死んだ。

原文江氏,余幹夏璞妻。正德間,賊至,抱方晬弟走,不得脫。賊將縛之,曰:「誠願與將軍俱,顧吾父年老,惟一弟,幸得全之。」賊以為信,縱令置所抱兒,出遂大聲罵賊,投橋下死。

後に隆慶年間、高明の厳氏という者がいた。賊がその境を掠め、兄に従って出て避けたが、賊に遇い、刃がその兄に及んだ。女は跪いて泣きながら言った、「父は早くに喪い、孀母は堅く守り、この一兄に恃んでいます。これを殺せば祀りが絶えます。どうか身をもって代わりたい」と。賊は憫然として刃を納めた。既にして彼女を汚そうとすると、則ち言った、「どうか我が兄を釈放してください。そうすればあなたに嫁ぎます」と。兄が去ると、執って従わず、遂に腹を剖かれて死んだ。

原文後隆慶中,有高明嚴氏,賊掠其境,隨兄出避,遇賊,刃及其兄。女跪泣曰:「父早喪,孀母堅守,恃此一兄,殺之則祀殄矣,請以身代。」賊憫然為納刃。既而欲汙之,則曰:「請釋吾兄即配汝。」及兄去,執不從,竟剖腹而死。