明史

列傳第一百八十九 列女一

◎列女一

婦人の行いは、閨門の外に出ず。故に『詩経』は『関雎』『葛覃』『桃夭』『芣苜』を載せるが、皆、常に処し順に履み、貞静にして和平であり、内行の修めと王化の行われる様子が、具に考うべく見える。その変ずるものは、『行露』『柏舟』、一二見えるのみである。劉向が列女を伝え、取る所は行事の鑑戒と為し得るもので、一つの操行のみを存せず。範曄(『漢書かんじょごかんじょ』)もこれを宗とし、また才行高秀なる者を採る。ただ節烈を貴ぶのみではない。魏・隋以降、史家は多く患難顛はい、身を殺して義に殉ずる事を取る。蓋し近世の情、庸行を忽せにして奇激を尚び、国制の褒むる所、誌乗の録する所、及び裏巷の称道する所、流俗の震駭する所、皆、至奇至苦を以て難能と為す。而して文人墨客は往々にして俶儻非常の行いを借り、以てその偉麗激越跌宕にして喜ぶべき思を発する。故にその伝は特に遠く、而してその事は特に著しい。然れども至性の存する所、倫常の係る所、正気の澌滅に至らざる所以、而してこの人(列女)の禽獣に異なる所以は、筆を載せる者は宜しくこれを敢て忽せにせざるべし。

明が興り、規条として著し、巡方督学は歳ごとにその事を上奏す。大なる者は祠祀を賜い、次もまた坊表を樹て、烏頭綽楔、井閭を照耀し、乃至僻壤下戸の女も、亦た貞白を以て自ら砥ぐことを能くす。その実録及び郡邑誌に著わるる者は、万余人に下らず。間に文芸を以て顕わるる者あれども、要するに節烈多し。嗚呼、何ぞその盛んなるや。豈に声教の被る所、廉恥の分明なるに非ずや。故に名節重んぜられて義に蹈むこと勇なるか。今その尤なる者を掇り、或いは年次を以てし、或いは類に従い、具に篇に著す。前史に視れば殆どこれを倍せんとす。然れども姓名湮滅する者は、尚お勝ちて計うべからず。その什一を存するも、亦た以て勧めを示すに足る。

○月娥 劉孝婦(甄氏) 諸娥 丁氏(石氏) 楊氏(張氏等) 貞女韓氏(黄善聰) 姚孝女(蔡孝女 招遠孝女) 盧佳娘(施氏) 呉氏(畢氏) 石孝女 湯慧信 義婢妙聡 徐孝女 高氏 孫義婦 梁氏 馬氏 義姑万氏(陳氏) 郭氏(幼谿女) 程氏 王妙鳳(唐貴梅 張氏) 楊泰奴(張氏) 陳氏(秀水張氏 欧陽金貞) 莊氏(唐氏) 王氏(易氏) 鐘氏 四節婦 宣氏(孫氏) 徐氏 義妾張氏 龔烈婦(江氏) 範氏二女(丁美音) 成氏(興安二女子) 章銀児(茅氏) 招囊猛 淩氏(杜氏) 義婦楊氏 史氏(林端娘) 汪烈婦 竇妙善 石門丐婦 賈氏 胡氏 陳宗球妻史氏 葉氏 胡貴貞 孫氏 江氏(厳氏)

月娥は、西域の人、元の武昌尹職馬祿丁の女なり。少より聡慧、諸兄の経史を誦説するを聴き、輒ち大義を通ず。長じて蕪湖の葛通甫に適し、上に事え下を撫でること、一に礼法に秉る。長姉の盧、諸婦女を率い、悉くその教えを受く。太祖の江を渡るの六年、偽漢の兵上流より下る。盧曰く「太平は城郭有り、且つ兵を厳しく守る、恃むべし」と。月娥をして諸婦女を挟み往きてこれに避けしむ。未だ幾ばくもせず、寇至り、城陷る。月娥嘆いて曰く「吾れ詩礼の家に生る、賊に失節すべけんや」と。幼女を抱いて水に赴きて死す。諸婦女相従いて水に投ずる者九人。時に盛暑、屍七日浮かばず、顔色生けるが如し。郷人、巨穴を為し合葬す故居の南に、題して十女墓と曰う。娥の弟丁鶴年、幼より経史に通ず、皆娥の口授なり。後、通甫と盧は皆寇に死す。

劉孝婦は、新楽の韓太初の妻。太初は、元の時知印と為る。洪武初、例に和州に徙り、家を挈きて行く。劉、姑に事うること謹し。姑、道に病み、血を刺して薬に和し以て進む。和州に抵る。夫卒す。劉、蔬を種じて姑に食を給す。二年を越え、姑、風疾を患いて起つこと能わず、昼夜湯薬を奉じ、蚊蠅を駆りて側を離れず。姑の体腐り、蛆、席の間に生ず。蛆を嚙み、蛆復た生ぜず。姑の疾篤きに及び、肉を刲いてこれを食わしむ。少しく蘇り、月を逾えて卒す。これを殯す舎の側に。還りて葬らんと舅の冢に欲すれども、力喪を挙ぐる能わず、哀号すること五載。太祖これを聞き、中使を遣わし衣一襲・鈔二十錠を賜い、命じて有司にその喪を還らしめ、門閭を旌し、徭役を復す。時に甄氏、欒城の李大の妻、姑に事えて孝なり。姑、寿九十一にして卒す。甄、墓に廬すること三年、旦暮悲号す。亦た旌せらる。

孝女諸娥は、山陰の人。父は士吉、洪武初、糧長と為る。黠にして賦を逋うる者有り、士吉を官に誣う。死を論ぜられ、二子の炳・煥も亦た罪に罹る。娥方に八歳、昼夜号哭し、舅の陶山長と京師に走りて冤を訴う。時に令有り、冤ある者は釘板に臥さざれば、勘問を与えず。娥、その上に輾転し、幾くばくか斃れんとす。事乃ち聞こえ、これを勘す。僅かに一兄を戍するに止む。娥、重傷して卒す。裏人これを哀しみ、肖像を曹娥廟に配す。

唐方の妻は、浙の新昌の丁氏の女、名は錦孥。洪武中、方は山東僉事と為り、法に坐して死し、妻子は官婢に没すべし。有司、籍を按じてこれを取る。監護者、丁の色美なるを見、梳を借りて発を掠む。丁、梳を以て地に擲つ。その人これを取り掠めて、持って丁に還す。丁罵って受けず、家人に謂いて曰く「此の輩礼無し、必ずや我を辱めん。死せずんば以て節を全うすること無からん」と。肩輿にて陰沢を過ぐ。崖峭く水深し。躍り出でて水に赴く。衣厚く沈むこと能わず、従容として手を以て裙を斂め、流れに随いて没す。年二十八。時にその処を称して夫人潭と曰う。

鄭煁の妻は石氏。煁は、浦江の鄭泳の孫なり。洪武初、李文忠これを朝に薦む。屡遷して蔵庫提点と為り、法に坐して死す。石、配遣に当たる。泣いて曰く「我は義門の婦なり、身を辱めて以て門を辱しむべけんや」と。食わずして死す。

楊氏は、慈谿の人、同邑の鄭子来に字す。洪武中、子来の父仲徽、雲南に戍す。明の制、子成丁なる者は随いて遣わす。子来も亦た戍中に在り。楊、年甫だ十六、子来の母老い弟幼きを聞き、父母に請い、鄭に適して姑を養い、以て子来の返るを待つ。子来竟に戍所に卒す。楊、姑と諸叔を撫でて成立せしめ、夫の従子孔武を以て嗣と為す。苦節五十余年。その後、鄭煥の妻張氏は、嫁して未だ旬日にせず。泰然の妻厳氏は子一蘭を生み、方に孩抱す。栻の妻王氏は夫の癇病に事え、狂いて人事を省みず、服勤すること八年怠らず。三人は皆楊氏の夫族、先後早く寡し、皆節を以て聞こゆ。万暦中、知府鄒希賢題して鄭氏節門と曰い、以て浦江の鄭氏義門に比す。

貞女韓氏は保寧の人である。元末に明玉珍がしょくを占拠すると、貞女は掠奪されることを憂い、男子の服装に偽装し、民間に混じって潜伏した。やがて兵士として駆り出され、七年間転戦したが、誰も彼女が処女であることを知らなかった。後に玉珍に従って雲南を破り帰還する途中、叔父に出会い、身請けされて成都に帰り、初めて服装を改めて行った。同時に従軍していた者たちは皆驚いた。洪武四年に尹氏の妻に嫁いだ。成都の人々は韓貞女と呼んだ。その後、黄善聰という者がいた。南京の人である。十三歳で母を失い、父は廬州・鳳陽の間で香を商い、善聰に男子の服装をさせて数年従わせた。父が死ぬと、善聰はその商売を継ぎ、姓名を変えて張勝と名乗った。李英という者も香を商い、一年余り伴侶として行動したが、彼女が女であることを知らなかった。後に共に南京に戻り、姉を訪ねた。姉は初め彼女を識別できず、事情を詰問して知ると、怒って罵った。「男女が群れを乱し、我を甚だ辱めた。」と受け入れようとしなかった。善聰は死をもって誓った。そこで隣の老女を呼んで調べさせると、果たして処女であった。互いに抱き合って痛哭し、直ちに服装を改めさせた。翌日、李英が来て、女であることを知ると、怏怏として失意の様子で帰り、母に求婚を告げた。善聰は従わず、言った。「もし英に嫁げば、瓜田李下の嫌疑をどうするのか。」隣近所が交々勧めたが、ますます固執した。役人がこれを聞き、聘礼を援助し、夫婦となるよう判決した。

姚孝女は余姚の人で、呉氏に嫁いだ。母が水を汲みに出ると、虎が母を咥えて去った。女は追いかけて虎の尾を掴み、虎が前に進もうとすると、女はますます力を込めて掴み、尾は遂に抜けた。虎は痛みを負って跳び去った。女は母を背負って帰り、薬を与えて癒させ、二十年間母を養った。後に成化年間、武康に蔡孝女がいた。母に従って山に入り薬草を採った。虎が母を攫うと、女は木の枝を折って格闘し、三百余歩に及んだ。虎は母を放し、女を傷つけ、血が一丈ほど噴き出し、竹の葉が赤くなったが、女もまた命を全うした。後に招遠に孝女がいた。姓は知らない。父が南山で石を採っていると、大蛇に呑まれた。女はこれを哭き、父の屍を見て共に死ぬことを願った。俄かに大雷電が起こり、大蛇を撃ち落として女の前に堕ち、腹が裂けて父の屍が見えた。女は土を背負って埋め、石に触れて死んだ。

盧佳娘は福清の李広の妻である。結婚して僅か十月で、李広が急死した。盧は慟哭して気絶し、蘇生すると、李広の口鼻から悪血が出ているのを見て、全て舐め食った。納棺後、哭くたびに卒倒し、五六日経った。家人の監視が緩んだ時、寝室に潜り込んで自縊した。後にその県に遊政の妻倪氏が夫に殉じたが、同様であった。また施氏がいた。滁州の彭禾の妻である。正徳元年、彭禾が病に伏せて起き上がれず、手を握って別れを告げて言った。「病は甚だ疲弊し、必ず死ぬと知る。汝には子が無い。婿を選んで嫁げ。死を守って徒らに苦しむな。」施は泣いて言った。「君は未だ妾を知らないのですか。願わくば君より先に死にます。」彭禾は固く止めたが、施は彭禾の嘔吐した血を全て飲み干し、志を示した。彭禾が没すると、直ちに自縊した。

呉氏は潞州の廩生盧清の妻である。舅姑が臨洺で亡くなり、旅先に仮埋葬された。盧清は教え子を取って生計を立てたが、後に廩生の資格を失い、汴で下級役人となったが、憤りと恥辱のため発狂して死んだ。呉は訃報を聞き、悲痛の極みに達し、哭いて言った。「我が舅姑の遺骨は北に委ねられ、良人は死んだ。どうして終に帰らぬままにしておけようか。」そこで幼い孤児を姉兄に預け、次女を売って資金とし、独りで臨洺に赴き、舅姑の埋葬地を探したが見つからず、野中で号泣した。突然一人の男が現れたが、それは盧清が教えた弟子であり、指示して二体の遺骨を収めて帰した。さらに暑さを冒して汴に行き、夫の遺骨を背負って帰った。三つの喪を全て済ませ、飢えを忍んで他に志さなかった。学正の劉崧が知州の馬暾に言上し、彼女の娘を身請けし、手厚く救済した。七十五歳で没した。後に畢氏がいた。河間の鄧節の妻である。凶年に、家族を連れて景州に食を求めて移り住んだが、舅姑が相次いで亡くなり、鄧節も間もなく没し、皆景州に仮埋葬された。畢氏は三十三歳で、子女が無く、独りで郷里に帰り、飢えと寒さを忍び、昼夜紡績し、数年かけて蓄え、城北八里荘に土地を買い、独りで景州に行き、舅姑と夫の遺骨を背負って帰り埋葬した。

石孝女は新昌の人である。幼少の時、父の石潜が罪に坐して財産没収となり、京師の獄に繋がれた。母の呉氏は戸籍漏れで免れ、兄弟を頼って生計を立てた。ある日、父が脱走して帰り、呉家に匿われた。呉の兄弟は連座を恐れ、殺して大窖の中に置いた。母は敢えて言えなかった。女が成長すると、母に問うた。「私に父方の親族がいないのは何故ですか。」母が事情を告げると、女は大いに悲憤した。永楽初年、十六歳の時、母方の伯父が主婚して同族の子に嫁がせようとした。女は母に言った。「我が父を殺したのは呉です。どうして父の仇の妻となれましょうか。」母は言った。「事は私が主ではない。どうしようもない。」女は頷いて答えなかった。婚礼の日、賓客に礼をしている最中、女は室中で自縊した。母は天を仰いで哭き言った。「我が娘の死は、仇人の妻となることを欲しなかったのだ。」号慟すること数日、母もまた死んだ。役人がこれを聞き、石潜を殺した者の罪を治めた。湯慧信は上海の人である。『孝経』『列女伝』に通じ、華亭の鄧林に嫁いだ。鄧林が没した時、彼女は二十五歳、一女は七歳であった。鄧の一族はその住居を欲し、帰郷するよう迫ったが、彼女は言った。「私は鄧家の嫁です。何処に帰るというのですか。」一族は奪い難いと知り、その住居を富豪に売った。彼女は泣いて言った。「私はこの地で夫の骨を収め、存亡を共にします。どうして棄てられましょうか。」自害しようとしたので、富豪はその義を感じて立ち去った。彼女はやがて自ら考えて言った。「一族は我が財を欲するだけだ。」そこで家財を出し、全て一族に与え、自ら紡績して生計を立てた。

大水の年、荒野の湿った地に住んだ。嫁いだ娘が舟を操って迎えに来たが、許さなかった。暫し舟中で休むことを請うたが、これも許さず、言った。「私はここを六十年守ってきた。大水に従って汝の父に従うのは本望だ。また何処へ行こうか。」母と娘が互いに引き合って未だ離れないうちに、水が来て、湯は遂に溺死した。

義婢妙聰は保安右衛指揮張孟喆の家の婢である。永楽年間、兵を調発して宣府で訓練した。張孟喆はその一行にいた。北虜が侵入して掠奪すると、妻の李氏は夫の妹に言った。「私は命婦であり、汝もまた官門の女である。辱めを受ける義理はない。」互いに連れ立って井戸に投身した。妙聰もまた従って入った。二人とも未だ死んでいないのを見て、李氏が妊娠しているため、水の冷たさが害になると恐れ、遂に彼女を背負った。賊が退くと、張孟喆の弟の仲喆が三人を井戸の中に探し、縄で嫂と妹を引き上げたが、婢は既に死んでいた。

徐孝女は嘉善の徐遠の娘である。六歳の時、母が臁瘡を患った。女は母にどうすれば癒えるかと問うと、母は適当に言った。「児が吸ってくれれば癒える。」女は吸うことを請うたが、母は難色を示した。女が悲しく泣き止まないので、母は已むを得ず許し、数日吸うと、果たして癒えた。

高氏の女は武邑の人で、諸生陳和に嫁いだ。陳和が早世すると、高は独りで家門を支え、舅姑に甚だ孝養を尽くした。宣徳年間に至り、舅姑が共に没すると、礼をもって殯葬し、当時五十歳であった。子の陳剛に泣いて言った。「我が父は洪武年間に一家を挙げて河南虞城に客居した。父が死ぬと、直ちに城北に葬り、母は刺木の小車の輞で目印とした。郷里に帰ると、母もまた死に、弟は懦弱で自立できなかった。私が三十年間敢えて言わなかったのは、汝の祖母が健在で、朝夕侍養すべきであったからだ。今大事は既に終わった。我が父の遺骸を運び出し、合葬に帰したい。」陳剛は唯々とし、母に従って虞城に至り、埋葬地に着くと、塚が累々として識別できなかった。高氏は髪を馬鞍に結びつけて逆に歩き、朝から夕方まで歩き、一つの小塚に至ると、鞍が重くて前に進めなくなった。直ちにその塚を開くと、識別した車の輞が確かにあった。遠近の見物人は皆驚異し、帰還を助け、母の墓を開いて同葬した。

孫義婦は慈谿の人。定海の黄誼昭に嫁ぎ、子の湑を生んだ。間もなく夫が亡くなり、孫は彼を育てて成人させ、兄の娘を娶らせた。結婚して三年足らず、二人の子を生んだが、湑もまた亡くなった。当時、田賦はすべて民に自ら輸納させており、孫は姑と嫁と共に幼子を連れて南京に赴き賦を納め、尚書の蹇義に訴えて言った。「県は潮害に苦しみ、十年のうち九年は凶作です。どうか海塘を築いて防いでください。」義は彼女らの孤苦を見て、詰問した。「なぜ再嫁しないのか。」答えて言った。「餓死することは極めて小さな事であり、節を失うことは極めて大きな事です。」義は長く嘆息した。翌日、直ちに上奏して請願し、役人を派遣して有司と共に測量させ完成させた。龍山から始まり観海に至り、潮害を永久に免れた。慈谿の人々は塘の上に廟を建てて祀った。

梁氏は、大城の尹之路の妻。嫁いで一年余り、夫が食に困って山海関に出て行き、熟食を売って生計を立てた。また馬氏を娶り、二人の子を生んだが、十数年音信不通であった。梁氏は舅姑に仕え、艱苦に耐えても怨言がなかった。夫が客死すると、梁氏は徒歩で物乞いをしながら夫の遺骸を迎えに行き、往復二千里、ついに柩を支え後妻と二人の子を連れて帰った。里人は嘆き驚いた。

余佈の妻馬氏は、呉県の人。嫁いで五年、夫が死に子がなく、家は極めて貧しかった。姑がその志を変えさせようとし、田二畝半があり、得た粟を嫁に与えなかったが、馬氏は動じなかった。姑は密かに他人の聘を受け、ある夜、鼓吹の音が門前に臨み、急いで化粧を整えるよう促した。馬氏は寝室に入って自ら縊死した。机の上の食器には、糠粥がまだ残っていた。

義姑の万氏、名は義顓、字は祖心、鄞の人、寧波衛指揮僉事の万鐘の娘である。幼い頃から貞淑で静か、読書を好んだ。二人の兄、文と武は、ともに世職を継ぎ、戦死し、傍らに期功の親はいなかった。継母の曹氏、二人の兄嫁の陳氏・呉氏は、皆盛年にして寡居であった。呉氏は遺腹で僅か六月であった。姑は朝夕天を拝み泣いて告げた。「万氏は絶えようとしている。願わくは天が一男児を賜り、忠臣の後を継がせてください。私は誓って嫁がず、共に育てます。」果たして男児が生まれた。名を全と付けた。姑は喜んで言った。「万氏に後継ぎができた。」そこで諸々の寡婦と共に守り、名門からの求婚をすべて謝絶し、全を訓導して読書させ、ついに成人に至らせた。全が職を継ぎ、子の禧、孫の椿に伝えたが、皆姑の訓戒を謹んで奉じた。姑は七十余歳で亡くなった。姑の祖父の斌と父兄はともに王事に死に、母と二人の兄嫁は数十年貞節を守り、姑はさらに義をもって顕著であった。郷人は彼女らを重んじ、四忠三節一義の門と称した。

後に陳義姑という者がいた。沙県の陳穂の娘。十八歳の時、父母が相次いで亡くなり、二人の弟が残された。長は七歳、次は五歳。親族はその財産を狙い、日々傍らで虎視眈々としていた。姑は志を立てて弟を育てることを誓い、常に帚を数十本置いておいた。族兄弟が夜分に門を叩くと、姑は帚に火を付けて照らし、急いで戸を開け酒食を整えて歓待した。叩いた者は告げた。「我々は夜道で火が消えたので、蝋燭を求めに来ただけだ。」これ以来、窺う者は思いを絶った。二人の弟が結婚を終えると、四十五歳でようやく嫁ぎ、ついに子はなかった。二人の弟は彼女を迎え帰り、母として仕えた。

郭氏は大田の人。鄧茂七の乱の時、郷人は東巖に寨を結んだ。寨が破られ、郭は幼児を襁褓に抱いて逃げたが、また身ごもっており、賊に追い立てられた。郭は奮って罵り、百尺の巖下に投身し、児とともに乱石の間に粉砕され、胎児と腸胃が迸り出て、巖下に散乱した。賊は高みからこれを俯瞰し、皆嘆いて言った。「真の烈婦である!」葬って去った。同時に幼渓の女がいた。姓名は失われている。茂七が沙県を破った時、草むらに隠れていたが、二人の賊に捕らえられた。渓の橋に差し掛かると、貞女は言った。「私を支えて渡してくれれば、一人に従って終わる。」二人の賊は争って駆け寄り支えた。橋の中程に至ると、女は渓流の急なのを見て、二人の賊を引きずり水中に投げ込み、ともに溺死させた。

程氏は、揚州の胡尚絅の妻。尚絅が危篤の病にかかると、妻は手首の肉を切り取って食べさせたが、飲み込めずに亡くなった。妻は慟哭して二日間食事を取らなかった。懐妊四ヶ月であった。ある者が言った。「男児を得れば夫の後を継がせることができる。無駄に死ぬことはないか。」答えて言った。「私もそれは知っている。もし女児ならば、数ヶ月を苟めに生きるだけだ。」そこで再び食事を取り、満月を迎えて果たして男児を生んだ。翌年その子が夭折すると、すぐに舅姑に言った。「嫁は常に侍ることができません。弟嫁たちがいますから、悲しまないでください。」再び絶食した。二日過ぎて、その姑が撫でて言った。「お前の実家は二百里以内だ。面会して別れを告げるのを待たないのか。」妻は言った。「急いで迎えてください。」日々米のとぎ汁一匙を飲んで待った。十二日余り過ぎ、父母が幼い弟を遣わした。妻は言った。「これで私の志を明らかにできます。」この日から一滴も口にせず、ゆっくりと篋の中の簪や耳飾りを選び、後事を整えるよう命じ、残りを家人や隣の老女でかつて消息を通じた者に分け与えた。また自ら占って言った。「十八日、十九日はともに良き日だ。私は逝くべきである。かつて肉を切って夫を救おうとしたが、夫は救えなかった。その肉を灰に混ぜて枕元に置き、私の左腕に添えて、全きままに帰ることを示したい。」そして亡くなった。

王妙鳳は呉県の人。呉奎に嫁いだ。姑に淫らな行いがあった。正統年間、奎は外で商売をしていた。姑は私通の相手と酒を飲み、妙鳳をも汚そうとし、妙鳳に酒を取るよう命じたが、瓶を持って進まなかった。頻りに促されたので、やむを得ず入った。姑の私通相手が戯れてその腕をねじった。妙鳳は憤り、刀を抜いて腕を斬ったが、切れず、もう一度斬ってようやく絶った。父母が官に訴えようとしたが、妙鳳は言った。「死ぬなら死ぬまでだ。嫁が姑を訴える道理があろうか。」十日余りして亡くなった。

唐貴梅は貴池の人。同里の朱姓に嫁いだ。姑が富商と私通し、貴梅を見て気に入り、金帛でその姑を賄い、婦に淫らなことを勧めさせたが、あらゆる手立てを用いても聞かず、鞭打ちを加えても聞かず、続いて炮烙を用いても、ついに聞かなかった。そこで不孝を理由に官に訴えた。ある通判が商人の賄賂を受け、何度も死にそうになるまで拷問した。商人は彼女が節を改めることを期待し、再び姑に保釈させて出させた。親族は婦に実情を自白するよう勧めたが、婦は言った。「もしそうすれば、私の名は幸いにも全うされるが、姑の悪を広めることになるのはどうか。」夜、服を着替え、後園の梅の木の下で自縊した。夜が明けて姑が起き、これから鞭打とうとした。園中に至ってその死を知った。屍は三日間木に懸かり、顔色は生きているようであった。

その後、嘉靖二十三年、嘉定の張氏という者がいた。汪客の子に嫁いだ。その姑は多くの者と私通し、諸悪少の中に胡巖という者がおり、最も傑出して狡猾で、群党は皆その指図を聞いた。そこで姑と謀り、その子を県に卒として入らせ、巖らは日夜酒を飲みふけった。ある日、婦を呼んで共に座らせようとしたが、応じなかった。巖が後からその櫛を奪おうとすると、婦は櫛を折って地面に投げつけた。しばらくして、巖がじかに侵入して婦を犯そうとした。婦は「人殺し」と大声で叫び、杵で巖を撃った。巖は怒って走り出た。婦は自ら地面に投げ出し、夜通し泣き止まず、息はかろうじて続くばかりであった。翌朝、巖と姑は事が漏れるのを恐れ、彼女を床の脚に縛り付けて監視した。翌日、諸悪少を呼んで酣に飲ませた。二更になって共に婦を縛り、槌と斧が交互に下った。婦は苦痛に身もだえして言った。「どうして鋭い刃で私を刺さないのか。」一人が前に進んでその首を刺し、一人がその脇腹を刺し、またその陰部を打ちつけた。屍を挙げて焼こうとしたが、屍は重くて挙げられず、その家に火を放った。隣近所の火を消しに来た者が門を踏み破って入り、恐ろしい死人を見て、驚いて官に知らせた。官は小女奴と諸悪少を捕らえて取り調べ、ことごとく実情を得て、皆順次刑を受けた。婦が死んだ時は十九歳であった。邑にはもと烈婦祠があった。婦が死ぬ三日前、祠の傍の者が空中の鼓楽の声を聞き、炎々たる火が祠の柱の中から出るのを見た。人は貞婦が死に事を遂げる兆しであると思ったという。

楊泰奴は、仁和の楊得安の娘である。許嫁したが未だ嫁がず。天順四年、母が疫病に罹り癒えず。泰奴は三度胸の肉を切り取って母に食わせたが、効き目がなかった。ある日の夕暮れ、胸を剖いて肝臓一片を取り出すと、長く昏倒した。目覚めると、衣で傷口を包み、手ずから粥を調えて進めると、母は遂に癒えた。母は元来膝の攣縮の病を患っていたが、それも癒えた。後に張氏という者がいた。儀真の周祥の妻である。姑が病み、医師が百方手を尽くしても効き目がなかった。ある方士がその門に至り言うには、「人の肝臓で治せる」と。張氏は左脇の下を切り、綿の如き膜を得、手を探って腕まで没し、肝臓を二寸ほど取り出したが、少しも痛まず、羹を作って姑に進めると、病は遂に癒えた。

陳氏は、祥符の人である。楊瑄に許嫁したが、嫁がぬうちに瑄が卒した。女は死を請うたが、父母は許さず、哭きに行かんとすれば、また許さなかった。密かに髪を切り、媒人に託して瑄の懐に置かせた。汴の習俗では、娘を聘するに、金で生年月日を書いて男家に与え、定婚帖と号した。瑄の母はその帖で彼女の髪を包み、瑄の懐に置いて葬った。女は遂に素服で暮らした。間もなく、父母が改めて聘することを謀ると、女は縊死した。後五十三年、正徳年間に至り、瑄の甥の永康が瑄を改葬し、陳氏の骨を求めて合葬しようとした。二つの骨は朽ちていたが、髪と定婚帖は鮮やかに完存して元のままだった。葬って三年、墓の上に岐谷や丫瓜が生じた。

張氏は、秀水の人である。十四歳の時、同邑の諸生劉伯春の聘を受けた。伯春は才名を負い、必ず郷試に挙げられてから娶ろうとした。間もなく卒すると、女は号泣して髪を切り、自ら詩を作って祭った。喪服を着て三年、閫を越えず、葷を食わなかった。喪が明けると、直ちに飲食を絶ち、父母が強いて諭しても、終に食わず、十日にして卒した。二十歳であった。舅姑が柩を迎えて合葬した。また江夏の欧陽金貞という者がいた。父の梧が『孝経』『列女伝』を授けた。稍々長ずると、羅欽仰に許嫁し、梧に従って柘城に赴任した。梧が艱難により帰る時、舟が儀真に停泊すると、欽仰が水に墜ちて死んだ。金貞は年十四にして、驚き哭き水に赴いて従おうとしたが、父母が押しとどめて許さなかった。また自縊しようとすると、父母は言った、「汝は未だ嫁いでいないのに、どうしてそうできるのか」と。答えて言うには、「女は自ら生きる道理なしと分かっています。仮に父母の仰せの通りにしても、終身未亡人と称することを願います」と。大声で哀号して止まなかった。殮の時、髪を切って夫の右臂に結び付けて殉じた。家に着くと、父母に告げて言うには、「婦があるのは、姑に仕えるためです。姑は既に子を失ったのに、更に婦も無くしてよいでしょうか。羅家に帰り、為すべきことを終えたい」と。父母はこれに従った。後、父が広元県の知県となると、姑が病没し、女は里帰りした。他に適うようほのめかす者がいると、言うには、「姑に仕えることは終わりました。更に何を待ちましょうか」と。女は言った、「私は昔、羅郎を殮った時、一束の髪でその手を縛りました。誰かが塚を掘り棺を開けて、その髪を取り返して私に還してくれるなら、その時は志を変えましょう」と。遂に止んだ。生涯独り一つの楼に臥し、六十余歳で卒した。

荘氏は、海康の呉金童の妻である。成化初年、広西の流賊が郷邑を掠め、荘は夫に従って新会に避難し、劉銘の家に傭われた。銘は荘が美しいのを見て、犯さんと欲し、度々誘ったが従わなかった。そこで仲間の梁狗に命じて金童と共に海に入り魚を捕らせ、水に没して死なせた。三日過ぎても帰らず、荘が海辺で探すと、屍が岸辺に浮かび、手足を縛られ、腫れ腐って識別できなかった。荘は衣でそれと識り、帰って娘を連れて水に赴き、夫の屍を抱いて没した。翌日、三つの屍が流れに従って銘の門を巡り、去ってはまた戻った。土地の人は異変に感じて殯葬し祭ったが、銘が殺したとは知らなかった。後、梁狗が漏らして言ったので、役人が併せて捕らえ拷問し、極刑に処した。

唐氏は、汝陽の陳旺の妻で、その夫に従って歌舞を以て四方に食を逐うた。正徳三年秋、旺は妻と娘の環児、甥の成児を連れて江夏の九峰山に至った。史聡という者もまた傀儡を業としていた。婦と娘が皆艶麗で、しかも旺が老いているのを見て、旺を青山に誘い出し、夜に殺した。翌日、聡は独り戻り、その婦・娘・幼い甥を連れて武昌山の呉王祠に入り、利刃を以て唐を脅した。唐は言った、「汝は我が夫を殺した。私は汝を殺して仇を返すことができないのに、どうして汝の乱に従うことを忍ぼうか」と。遂に害に遇った。賊は席で包み、荊棘の中に置いた。翌日、蓑衣園に移し、賊はまた環児を迫り、刃を以て臨んだ。環児は哭き且つ罵り、声は林木を振るわし、賊もまたこれを殺し、糞土の中に埋めて去った。その年の冬至、賊が酒に酔うと、成児が潜り出て官に告げ、葛店市で擒えられ、誅に伏した。

王氏は、慈谿の人である。陳に聘されたが、夫の佳が病み、その父母が婦を娶って慰めようとした。門に至ると、直ちに入って湯薬を侍った。間もなく佳が卒すると、王は年十七にして、志を立てて再嫁せず。姑の張氏は言った、「礼を成さずに守るのは、名が無い」と。女は言った、「陳氏の門に入り、君子に事えました。何を以て名無しと言いましょうか」と。姑はそこで二人の娘に委ねて緩やかに諷させた。婦は答えず、髪を切り容を毀った。姑は終に強くしようとし、窮屈辱め万状に及んだ。二人の小姑は婢の如くにこれを陵ぎ、稍々従わなければ即ちその面を爪で掻き、姑は聞いて更に箠楚を加えた。女は口に怨言を出さず、言った、「嫁に逼らなければ、婢となっても甘んじます」と。夜は小姑の床の下に寝所し、湿気を受けて傴疾を得たが、密かに幸いとして言った、「私は免れたと知る」と。甥の梅を養子として嗣がせ、これを教えた。成化初年に郷薦に挙げられ、遂にその家を昌えさせた。後に易氏という者がいた。分宜の人で、安福の王世昌に嫁いだ。時に世昌は既に疾に罹り、奄奄として十余月、易はこれに事え、衣を解かずに帯した。世昌が死ぬと、喪が明けても尚縞素のままであった。姑はこれを憐れみ、言った、「汝は猶処子の身である。終身累となることがあろうか」と。跪いて泣いて言った、「何という言葉でしょうか。父母が私を王氏に許した以上、終身王氏の婦です」と。ここより独り一つの楼に処し、外戸を窺わず四十余年を過ごした。世昌が病んだ時、吐いた痰血を、常に手ずから一つの布嚢に盛った。卒後、盛った嚢を枕とし、それを枕として終身を過ごした。

鐘氏は、桐城の陶鏞の妻である。鏞は罪により辺境に戍され、外で卒した。鐘は二十五歳、子の継は尚ほ抱かれる程で、鏞の骨を負って四千余里を帰葬した。乃ち髪を断ち門を閉ざし、八十二歳で節を以て終わった。継もまた早く卒し、妻の方は二十七歳、子の亮は二歳であった。その兄がこれを憐れみ、微かにその意を叩くと、方は死を以て誓った。景泰年間、亮が郷試に挙げられ、太学で学んだが、卒した。妻の王氏は二十八歳、妾の呉氏は二十二歳で、皆子が無く、棺を扶けて帰葬した。貧しく支えられず、親しい者が嫁ぐよう勧めると、二人は哭いて言った、「あなたは私が節婦の婦であることを知らないのですか」と。乃ち共に紡績を以て自ら給した。二十六年を経て、県令の陳勉がこれを聞き上げ、詔して三代を旌表した。人はこれを称して四節裏と言った。

宣氏は、嘉定の張樹田の妻である。夫は元来狂悖で、宣と睦まじくなかった。夫が病むと、宣は朝晩奉事した。死ぬと、身を殉ずることを誓った。時に樹田の友人沈思道もまた死に、その婦の孫と宣は死を以て互いに約し、各々尺の帛を分けた。孫は自経した。或る者が宣に勧めて言った、「彼女は夫と相得ていたから、死を以て報いたのだ。汝は何故それを倣うのか」と。宣は嘆いて言った、「私はただ婦道を尽くすことを知るのみで、どうして夫の賢不賢を論じましょうか」と。遂に縊死した。

徐氏は慈谿の人、定海の金傑の妻である。成化年間、傑の兄が罪に坐して京師に捕らわれ、傑は代わりに行くことを請うた。出発に際し、徐はすでに身ごもっており、傑は言った、「私は行くが、生死は知れない、もし男子が生まれたらよく養い育てよ、金氏の亡霊もようやく供養を受けられるだろう」。しばらくして後悔して言った、「私はほとんど汝を誤るところであった、私は戻る見込みはない、たとえ死んでも、後の人に良く仕えよ」。徐は泣いて言った、「君は義のために行かれる、上も必ず君を義と認められる、君兄弟はともに帰るべきであり、過度に苦しまれるな。たとえ君の言うようになったとしても、妾は死ぬのみ、どうして託されたことを忘れようか」。果たして男子を生み、ほどなく兄は帰還したが、傑はついに獄死した。徐は孤児を養い育てて慟哭し、「私はもとより汝の父の後を地下で追おうと思ったが、金氏のことはどうすればよいか」と言い、無理に葬儀を営んだ。喪が明けると、父母は他の人に嫁ぐよう勧めたが、髪を切り指を断って自ら誓い、粗食に耐え苦労を嘗めて六十余年、子孫が二世にわたって成長するのを見届けて、ようやく卒した。

義妾の張氏は、南京の人である。松江の楊玉山が南京で商いをし、妾として娶った。一月余りして正妻の嫉妬により、帰らされた。張は慎んで独りで身を守り、楊もたびたび往来し、贈ったものは千を数えた。後二十余年、楊が役務の連累に坐し、その財産を失い、鬱々として失明した。張はこれを聞き、直ちに楊の家を訪れ、主母に拝礼し、楊の袖を捧げて大いに慟哭した。そしてかつて贈られた金珠をすべて出し、装いを整え、二人の娘を嫁がせ、また二人の息子に嫁を娶らせ、自らは湯薬の世話に留まった。一年余りして楊が死ぬと、その柩を守って去らなかった。喪が明けた後、父母が帰るよう強いたが、従わず、志を誓って没し、生涯一人にも会わなかった。

龔烈婦は江陰の人。十七歳で劉玉に嫁ぎ、家は貧しく、力を尽くして姑を養った。姑が亡くなると、夫を助けて葬った。夫もまた亡くなり、殮するものがなかった。里にこの婦の色を羨む者がおり、棺を助けようとした。龔はその意を察し、断った。その後また強いてきたので、龔は自ら逃れられないことを恐れ、生んだ六歳の男児と三歳の女児を母の家に寄食させた。その夜、麦藁を屋中に積み、火を放って自ら焼死し、夫の屍を抱いて死んだ。また江氏は、蒙城の王可道の妻。夫は貧しく、荷を担いで売り歩き糊口をしのぎ、死んでも殮することができなかった。隣家の諸生李雲蟾が金を合わせて殮し、日を卜して葬ろうとした。その日、衆を率いてその家に行くと、ひっそりとして声がなく、台所の灯が微かに明るい。急いで見ると、飲食がすべて揃っており、棺を担ぐ者を待っていたのであろうが、婦はすでに竈の傍で縊死していた。衆は驚嘆し、再び金を合わせてともに葬った。

会稽の範氏の二女は、幼い頃から読書を好み、ともに『列女伝』に通じていた。長女は江氏に嫁ぎ、一月で寡婦となった。次女は傅氏に嫁ごうとしたが、夫が亡くなった。二女はともに節を守り、高い塀を築き、十畝の田を囲い、その中に井戸を穿ち、三間の屋を建てて住んだ。種まきや収穫の時には、父が圭竇を開いて雇い人を率いて入り、その他の日はその竇を塞ぎ、ともに井戸から水を汲んで田を灌いだ。このようにして三十年。自ら屋の後に墓域を作り、成化年間に卒し、ついに合葬された。族人はその田に祠を立てて祀った。

また丁美音あり、漵浦の丁正明の女。幼い頃に夏学程と婚約し、十八歳で嫁ごうとしたが、学程が死んだので、美音は再嫁しないと誓った。父母は言った、「嫁がずに節を守るのは礼ではない。どうしてこのように自ら苦しむのか」。美音は指を嚙んで血を滴らせ、天に呼びかけて自ら誓った。当道の者が相次いでこれを表彰し、銀幣およそ百金を賜ったので、屋を構えて独り住み、田を売って自ら生計を立て、舅姑に仕え、父母を養った。郷人はその田を貞女田と呼んだ。

成氏は無錫の人、定陶の教諭繒の女、登封の訓導尤輔の妻である。輔が靖江に遊学し、成も従った。江水が夜に溢れ、家人は慌てて屋根に登ったが、成は衣を整えて登ろうとし、尋ねた、「あなた方は衣を着ているか」。衆は「間に合わなかった」と謝した。成は言った、「どうして男女が裸で、なおともに生きられようか。私だけが留まって死のう」。衆が号泣して請うたが、応じなかった。翌朝、水が引き、寝台の上に坐して死んでいた。

後に崇禎年間、興安で大水があり、家屋が流され没した。筏を作って自ら救おうとする者がおり、近隣の多くがそれに付いた。二人の女子が朽ちた木に付き、沈んでは浮かびを繰り返していたので、筏を近づけて救おうとした。年はともに十六、七歳で、その姓氏を尋ねても答えなかった。二女は筏の上の男子に裸の者がいるのを見て、嘆いて言った、「我ら姉妹は木にすがって死なず、善き地があって生き延びられることを望んだが、今このようでは、どうして生きる必要があろうか」。手を携えて波の中に躍り込んで死んだ。

章銀児は蘭谿の人。幼くして父を亡くし、母と二人で暮らした。邑には火災が多く、家はすべて焼け、茅を結んで母を住まわせた。母がちょうど病気の時、隣家でまた火事が起こり、銀児が出て見ると、衆は急いで避けるよう呼びかけた。銀児は言った、「母は病気で動けない、どうして一人で避けられようか」。急いで家に戻り、母を助け出そうとしたが、激しい炎が突然その家を覆い、衆は救うことができなかった。火光の中、遥かに銀児が母を抱き、もがきながらともに焼け死ぬのが見えた。時は弘治元年三月である。

義妹の茅氏は慈谿の人。十四歳の時、父母が亡くなり、兄と嫂とだけ住んでいた。その兄は病で萎えて寝ていた。倭が県に入った時、嫂は逃げ出し、一緒に行くよう呼びかけた。女は言った、「私は未婚の娘、どこへ行けばよいのか。かつてともに去れば、誰が我が兄を支えるのか」。賊が来て火を放つと、女は力を尽くして兄を支え空き家に避けたが、ついに焼け死に、ともに死んだ。

招囊猛は、雲南孟璉長官司の土官舍人刁派羅の妻である。二十五歳で夫が死に、二十八年節を守った。弘治六年九月、雲南都指揮使がその事績を奏上した。帝は言った、「朕は天下を家とし、まさに名教を励まして夷俗を変えようとしている。礼義に赴く者がいれば、どうして急いで奨励しないでいられようか。招囊猛の貞節は嘉すべきであり、直ちに役人に命じてその門閭を顕彰させ、遠方の夷人により一層教化に向かわせよ。核して報告するを待つ必要はない」。

張維の妻淩氏は慈谿の人。弘治年間、維が郷試に合格したが、卒した。婦は二十五歳、子は四歳でこれもまた卒した。その兄が再婚するようほのめかしたが、婦は痛哭して唇を嚙み、血を地面に噴き、生涯実家に帰らなかった。舅姑が慰めて言った、「不幸にも後嗣が絶え、日々の暮らしも頼るものがない。我ら二人は日が迫っているが、汝の年はまだ遠い、どうして生きていくのか」。婦は言った、「恥辱の事は重く、餓死しても甘んじる」。そこで簪や耳飾りを出して舅のために妾を娶らせ、果たして子を得た。喜んで言った、「張氏が絶えず、亡き夫の墓門にも寒食の供え物があろう」。後、舅が癲病にかかり、姑は両目が失明したが、婦は紡績して養い、二十年衰えなかった。後に杜氏あり、貴池の曹桂の妻。二十四歳で夫が亡くなり、遺腹で女児を生み、悲しみ苦しんで方策がなかった。日々姑に勧めて舅に妾を娶らせ、果たして一子を生んだ。出産後、妾が死ぬと、杜は自分の娘を族の母に託し、自らその叔父(夫の弟)を乳した。一年余りして舅が亡くなると、勧める者が言った、「汝は辛苦して孤児を育てるが、叔父が汝を後継ぎにしてくれるだろうか」。杜は言った、「叔父が我が舅の後を継ぎ、異日に二子を生めば、その一子をもって我が夫の後を継がせ、我が志は果たされる」。後、ついにその言うようになった。

義婦楊氏は、王世昌の妻、臨漳の人。弘治年間、世昌の兄が事に坐して死罪と決せられた。世昌は兄が嫡子であることを思い、その刑に代わることを請うた。当時楊はまだ笄をしていなかったが、父母と宗族に謀って言った、「彼が兄に代わって死ぬのは義士である、私はどうして義婦となれないことがあろうか。願わくは上に訴えて夫に代わって死にたい」。そこで京師に入り陳情し、法司に議させたところ、夫妻ともに釈放された。

史氏は杞県の人である。字は孔弘業、嫁がずして夫が卒した。殉じようとしたが、母が許さなかった。女は七日間食を絶ち、母が茶を捧げて飲ませようとすると、二匹の蛾がちょうど杯の中に落ちて死んだ。女は指さして言った、「物の心さえもなお我が心に通じるのに、母だけが人を諒としないのか」と。母は奪い難いと知り、翌日素衣縞裳を整え、彼女を孔氏に送った。暮れに及び、舅姑に別れを告げ、衣を整えて自縊して死んだ。白気が縷縷として屋上に立ち昇り、夜明けになって初めて消えた。また林端娘という者がいた。甌寧の人で、字は陳廷策である。廷策の訃報を聞き、伝言して言った、「殯するな、我は死に就かん」と。父が言った、「汝は許嫁したとはいえ、まだ納幣はしていない」と。答えて言った、「既に許嫁した以上、何の幣を問う必要があろうか」と。父は厳重に防いだ。女は言った、「女がどこで死ねないというのか、ただ夫の家で死ぬのが正しいだけだ」と。父は言った、「婿の家は貧しく、身を包むものもない」と。女は言った、「身など顧みるに足らぬ」と。また言った、「婿の家は貧しく、誰が名を顕彰しようか」と。女は言った、「名など求めるに足らぬ」と。遂に往って哭奠を終え、自ら死期を定め、帛を整えて自縊し、三度うなずいて絶命した。陳の旧家は青陽山の下にあり、山下の人は言う、婦が尽きようとする時、山が三昼夜鳴ったと。

汪烈婦は、晋江の諸生楊希閔の妻である。二十三歳の時、夫が死に、子がなく、自縊しようとした。家人が厳重に防いだので、機会がなかった。氏は茉莉に毒があり人を殺せることを聞き、様々な方法でそれを求めた。家人は知らず、日に数百の花を供えた。一ヶ月余り過ぎ、家人が亡者のために斎祭を行った時、婦は自ら祭文を撰し、その文は甚だ悲しかった。夜の五更、防ぐ者が少し懈んだ時、積んだ花を取り煎じて飲み、夜明けに死んだ。

竇妙善は、京師崇文坊の人である。十五歳の時、工部主事余姚の姜栄の妾となった。正徳年間、栄は瑞州通判として府事を摂った。華林の賊が起こり、瑞を寇した。栄は逃げ出した。賊が城に入り、その妻と婢数人を捕らえ、栄の所在を問うた。時に妙善は別室に居り、急いで府印を取り、後ろの窓を開けて荷池に投げ入れた。鮮やかな衣を着て前に出て言った、「太守は数千の援兵を統率し、東門を出て汝らを捕らえようとしており、旦夕に首を斬られるであろう。どうして我が婢を捕らえられようか」と。賊は彼女が夫人だと思い、前に捕らえていた数人を解き放ち、妙善だけを輿に乗せて城外に出した。ちょうど追い立てられた隷の中に、盛豹という父子が掠奪されていた。その子が叩頭して父を放すよう乞うたので、賊は許した。妙善は言った、「この者は力がある、我を担ぐべきだ。どうしてすぐに放せようか」と。賊はこれに従った。数里行くと、妙善は前後に賊がいないのを見て、低い声で豹に言った、「我が汝を留めたのは、太守が印の在り処を知らないので、汝に告げさせようとしたからだ。今汝を帰らせよう。幸いにも太守に告げよ、ここから先に進んで井戸に遇えば、即ち命を終えるであろうと」と。賊に呼びかけて言った、「この者は担ぐのが上手でない、やはり放して、担ぎの上手な者と替えよ」と。賊はまたこれに従った。花塢に至って井戸に遇うと、妙善は言った、「我は渇いて耐えられぬ。井戸の傍らに水を汲んで置け、我は飲もう」と。賊がその言う通りにすると、妙善は井戸の傍らに至り、身を跳ねて入った。賊は驚いて救おうとしたが得ず、去った。豹は城に入って栄に告げて印を取り、花塢に導き、井戸を探すと、果たして妙善の屍を得た。七年を経て、郡県がその事を上奏し、詔して特祠を建て、額を貞烈と賜った。

石門の丐婦は、湖州の人で、その姓氏は詳らかでない。正徳年間、湖は大いに飢えた。婦はその夫と姑に従って崇徳石門市に走り、食を乞うた。三人は偶然に相失った。婦に色があり、市人は争って彼女を挑んだ。食を与えても顧みず、財で誘っても顧みなかった。東高橋に寓居し、二日間もはや乞食しなかった。夫と姑が皆至らないのを窺い、集まって見る者が益々多くなると、婦は橋から躍り込んで水中に死んだ。

賈氏は、慶雲の諸生陳俞の妻である。正徳六年、兵変が起こり、ちょうど舅が病で卒した。家人が彼女を引き留めて避けさせようとしたが、痛哭して言った、「舅はまだ殯もしていない。婦として何ぞ一死を惜しまん」と。身に斬衰を着て解かなかった。兵が至り、火を放って彼女を出させようと迫ると、罵り絶えず、刃が身に及び無完膚となり、舅の屍とともに灰燼かいじんに帰した。二十五歳。

鄞県の諸生李珂の妻胡氏は、十八歳で珂に嫁いだ。七年を経て、珂が死に、男女各一人を遺した。胡は閾を越えぬと誓った。隣家で火災が起こり、珂の兄珮が救いに行こうとすると、言った、「阿姆が来れば、我は出よう」と。珮は妻の陳を行かせた。婦は七歳の男児を窓から彼女に渡し、言った、「幸いに我が夫を思い、善くこれを見よ」と。陳が言った、「嬸はどうするのか」と。欺いて言った、「少しばかりの首飾りを取ればすぐに出よう」と。陳が去ると、胡は直ちに衣箱を積み重ねて戸を塞ぎ、三歳の女児を抱いて端坐したまま火中に死んだ。

陳宗球の妻史氏は、南安の人である。夫が死に、殉じようとして期日を定めたが、なお姑のために酒を醸していた。姑が言った、「婦は既に死を決した。生きて存する日は多くないのに、何故辛苦するのか」と。答えて言った、「正に日が短いからこそ、醸して姑に奉じるのです」と。死のうとする時、舅に告げて言った、「婦に喪があれば、幸いにも棺を漆塗りにしないでください」と。遂に縊死した。

葉氏は、定海の人である。慈谿の翁姓に許嫁されたが、父母ともに歿したので、遂に翁の家で育てられた。十四歳の時、翁の資産が日に落ち、かつその姑を失い、舅は彼女を奴隷のように扱い、万状の労苦を課したが、少しも怨色を見せなかった。舅は子が幼いのを理由に、羅姓の者に売ろうとした。葉は憤って言った、「我は貨物ではない。どうして転々と貿易されねばならないのか」と。日々哽咽して涙を垂らした。既に免れ難いと知ると、偽って喜色を見せ、舅は遂に彼女を寛大に扱った。夜、月が上り、諸姒を欺いて言った、「月の色が甚だ佳い。少しでもゆったりとしませんか」と。門外に急いで長くいた。諸姒がともに勧めて言った、「夜は既に半ばです。どうぞ就寝なさいませ」と。遂に入り、朝になって彼女を探すと、則ち氏は既に河に浮かぶ屍となっており、引き上げた時その色は生きているようであった。

胡貴貞は、楽平の人である。生まれた時、父母は養おうとせず、その隣の曾おうが救い帰り、子の天福と同乳し、その成長を待って配そうとした。天福が十八歳の時、父母相次いで亡くなり、家は甚だ零落した。貴貞の父は富家と姻戚関係を結ぶために彼女を奪おうとした。女は言った、「我は曾に育てられ、曾に嫁ぐ。姑媳の分、母子の恩、どうして飢寒を理由にこれを棄てられようか」と。乃ち従姑に依って居り、蓽舍は単浅で、外人は未だその面を識らなかった。その兄は天福が未婚であるのに乗じ、彼女を曳き帰り、求婚者の金宝や笄飾りを見せた。女は免れ難いと知り、潜かに房に入り縊死した。

孫氏は、呉県の衛廷珪の妻である。夫に従って商販し、潯陽の小江口に寓居した。寧王が九江を陥落させた時、廷珪はちょうど他に出ていた。親しい者が急いで孫を誘って共に逃げようとした。孫は二人の娘、金蓮と玉蓮に言った、「我々は異郷の人である。汝の父は不在で、逃げてどこに行こうというのか。今賊は既に隣家を劫掠した。どうしようか」と。娘は言った、「生死も離れず、父のためにこの身を全うすべきです」と。ここにおいて母子は共に一つの長い縄で自らを束ね、河に赴いて死んだ。

江氏は、余幹の夏璞の妻である。正徳年間、賊が至り、方に一歳の弟を抱いて逃げたが、脱することができなかった。賊が彼女を縛ろうとすると、言った、「誠に将軍とともにありたいと願いますが、顧みるに我が父は年老いており、ただ一弟があるのみです。幸いにこれを全うさせてください」と。賊はこれを信じ、抱いている児を置かせて出ることを許した。出ると大声で賊を罵り、橋の下に投じて死んだ。

後に隆慶年間、高明の厳氏という者がいた。賊がその境を掠め、兄に従って出て避けたが、賊に遇い、刃がその兄に及んだ。女は跪いて泣きながら言った、「父は早くに喪い、孀母は堅く守り、この一兄に恃んでいます。これを殺せば祀りが絶えます。どうか身をもって代わりたい」と。賊は憫然として刃を納めた。既にして彼女を汚そうとすると、則ち言った、「どうか我が兄を釈放してください。そうすればあなたに嫁ぎます」と。兄が去ると、執って従わず、遂に腹を剖かれて死んだ。