◎外戚
明の太祖は国を建て、家法は厳格であった。史臣が称えるには、后妃は宮中に居て、一毫の政にも預からず、外戚は理に従い度を謹み、寵を恃んで民を害する者はなく、漢・唐以来の及ぶところではなかった。そして高皇后・文皇后の二人の后は賢明で、外戚を抑えて遠ざけた。太祖が高皇后の親族を訪ね出し、官を授けようとした。后は辞して言うには、「国家の爵禄は、賢士大夫と共にすべきであり、妾の家に私すべきではない」と。かつ前世の外戚が驕佚して禍を致したことを引き合いに出して言上した。帝は后の言葉を善しとし、金帛を賜うのみであった。定国公の封は、文皇后は己が志ではないと言い、臨終に至ってもなお帝を諫め、外家を驕らせて養うなと勧めた。謀り事は既に遠く、宗社は安んじられ、また椒房の貴戚も亦これによって福慶を保ち子孫に及び、全うされたことは既に多からずや。ただ英宗の時、会昌侯孫継宗が奪門の功により、国政に参与した。これより以下、その賢者は多くは身を謹み法を奉じ、謙謙として儒者の風があった。而して一二の恩に恃み乗を負う徒は、好むところは田宅・狗馬・音楽に過ぎず、親しむところは俳優・伎妾に過ぎず、軍国の権もなく、賓客朋党の勢もなかった。然るに朝廷の諸臣は危言激論を好み、汰るが如き寿寧侯兄弟、庸駑の如き鄭国泰に対しても、既に影を逐い声を尋ね、余力を遺さず抨撃した。故に有明一代、外戚は最も孱弱であった。然しながら恵安伯・新楽侯は、挙宗して国に殉じ、嗚呼卓なるかな。成祖の后家は、『中山王伝』に詳しい。余りはその行いを採りて記すべきものを、『外戚伝』を作る。
陳公、馬公、呂本、馬全、張麒(子昶・昇等)、胡栄、孫忠(子継宗)、呉安、銭貴、汪泉、杭昱、周能(子寿・彧)、王鎮(子源等)、万貴、邵喜、張巒、夏儒、陳万言、方鋭、陳景行、李偉、王偉、鄭承憲、王昇、劉文炳(弟文燿等)、張国紀、周奎
陳公
王は陳氏を姓とし、世々維揚の人、その諱を知らず。宋の季に当たり、名を尺籍伍符の中に隷し、大将張世傑に従って祥興帝に扈従す。至元己卯の春、世傑が元兵と戦い、師大いに潰え、士卒多く溺死す。王幸いに死を脱して岸に達し、一二の同行者と、石を累ねて破釜を支え、遺糧を煮て以て饑を療す。已にして糧絶え、同行者山に死馬有ると聞き、将にこれを烹って食らわんとす。王疲極まって昼睡す、夢に一白衣の人來りて曰く、「汝慎んで馬肉を食うることなかれ、今夜舟有りて共に載せん」と。王未だこれを深く信ぜず、俄に又初めの如く夢見る。夜将に半ばに至り、夢中彷彿として櫓声を聞き、衣紫衣の者杖を以て王の胯に触れて曰く、「舟至れり」と。王驚いて寤る、身已に舟上に在り、旧く事えし統領官を見る。
時に統領は已に元将に降り、元将は来附する者に輒ち水中に擲棄せしむ。統領は王を憐れみ、之を艎板の下に蔵し、日ごとに乾糇を取りて板隙より之を投じ、王掬いて以て食らう。復た王と約し、足を以て板を撼かせば、王即ち口を張りて板隙より漿を受く。数日居るに、事泄れ、彷徨として自ら安からず。颶風舟を吹き、盤旋して転輪の如く、久しく進む能わず、元将大いに恐る。統領は王の巫術に善きを知り、遂に白して之を出だす。王天を仰ぎ歯を叩き、鬼神を指麾するが若き状、風濤頓に息む。元将喜び、因って之に飲食せしむ。通州に至り、之を送りて岸に登らしむ。
王維揚に帰り、軍伍たるを楽しまず、避けて盱眙の津裏鎮に去り、巫術を行って以て世を渡る。王に子無く、二女を生む、長は季氏に適し、次は即ち皇太后なり。晩年に季氏の長子を以て後と為し、年九十九にして薨じ、遂に之を葬る、今の墓是れ已なり。
臣濂聞く、君子の制行は、能く人に感ずるは固より難く、而して能く神明に通ずるは尤も難しと。今患難危急の時に当たり、神夢寐を仮り、挟みて舟に昇らしむ、精誠天に上通せずんば、何を以て神人の佑を致して斯に至らんや。此を挙げて之を推すに、則ち積徳の深厚なるは、断じて信ずべきなり。是れ宜しく慶聖女に鐘り、皇上を誕育し、以て億万年無疆の基を啓く、於乎盛なるかな。
臣濂既に其事を序し、復た再拝稽首して銘を献ずるに曰く、皇帝国を建て、克く孝思を展ぶ。母族を封じ疏く、親よりして推す。爵を錫うること維揚、地帝畿に邇し、廟を立て祀りを崇む、玄冕袞衣。痛みに念う宅兆、之を卜するは何の墟ぞ、閭師来り告ぐ、今盱眙に在り。皇情悦豫し、継ぐに涕洟を以てす、即ち礼官に詔し、汝往きて葺め治めよ、蕘豎をして跳踉して以て嬉わしむる毋かれ。惟れ我が揚王、昔戎麾に隷し、獰風海を蕩し、糧絶え饑に阻まる。天に顕相有り、夢に紫衣来たり、挟みて舟に登らしむ、神力の持つ所、死を易えて生と為し、寿期頤に躋る。積累深長なり、未だ厥の施すを究めず、乃ち聖女を毓み、皇支を茂衍す。蘿図肇めて開き、鴻祚峨巍たり、日照月臨し、風行霆馳す。流より源に徂り、功亦帰する有り、徳無くんば弗く酬いず、典礼稽うべし。聿ち化原を昭かにし、政基を扶植し、以て孝治を広め、以て民彜を惇くす。津裏の鎮、王霊の依る所、於昭万年、此の銘詩を視よ。
馬公
馬公、その名は逸す、高皇后の父なり、宿州の人。元末人を殺し、亡命して定遠に至る。郭子興と善くし、季女を子興に属せしむ、後太祖に帰す、即ち高皇后なり。
詔書に曰く、「朕惟うに、古より創業の君は、必ず賢后を得て以て内助と為し、共に大業を定む。天下已に安んずるに及んで、必ず外家を追崇し、以て其の徳に報ゆ。惟れ外舅・外姑、実に賢女を生み、中宮に正位す。朕既に外舅を追封して徐王と為し、外姑を王夫人と為す。王に継嗣無きを以て、廟を京師に立て、歳時祭を致す。然れども之を古典に稽ふるに、礼に於いて未だ安からず。又た念ふに、人生く其の土に、魂魄必ず故郷に遊ぶ。故に即ち塋所に廟を立て、司をして春秋に奉祀せしむ。茲に吉辰を択び、礼官を遣わして神主を新廟に奉安す。霊其れ昭格せよ、尚鑒茲に在り。」
二十五年、祠祭署を設け、奉祀・祀丞各一人を置く。王に後嗣無く、外戚の武忠・武聚を以て之を為し、灑掃戸九十三家を置く。永楽七年、北巡し、親しく祠下に謁す。守冢の武戡は建陽衛鎮撫と為り、法を犯す。責めて之を宥す。十五年、帝復た親しく祭り、戡を以て徐州衛指揮僉事と為す。
呂本
馬全
馬全は、洪武中に光禄少卿と為る。其の女は、乃ち恵帝の后なり。燕兵都城を陥すに及び、全は所終を知らず。
張麒
張麒は、永城の人。洪武二十九年、女を以て燕世子の妃と為り、兵馬副指揮を授かる。世子太子と為り、京衛指揮使に進み、尋で卒す。仁宗即位し、追封して彭城伯と為し、諡して恭靖と曰ひ、後進して侯と為す。二子昶・升、並びに昭皇后の兄なり。
張昶
張瑾
長子輔病みて廢す。子瑾嗣ぐ。伯爵を以て輔を封ぜんとし、命未だ下らざるに輔卒す。初め、昶私に奄人を蓄ふ。瑾匿して挙げず。事発し、獄に下る。已にして釈放を得る。瑾の従弟玘、天順中、官は錦衣衛副千戸。千戸呂宏の家に飲み、酔ひて刀を抽ひて宏を刺し死なしむ。法当に斬に当たるべし。有司議親を援ひて末減を請ふ。詔して従はず、遂に律の如くす。成化十六年、瑾卒す。子信嗣ぐ。其の後裔封を嗣ぎ、『世表』に見ゆ。
張升
張偉
張慶臻
胡榮
孫忠
純宗は錦衣衛指揮僉事の官にあり、早世した。
継宗は字を光輔といい、章皇后の兄である。宣徳初め、府軍前衛指揮使を授けられ、錦衣衛に改めた。景泰初め、都指揮僉事に進み、まもなく父の爵を襲った。天順に改元し、奪門の功により、侯に進み、奉天翊衛推誠宣力武臣の号を加えられ、特進光禄大夫・柱国とされ、自身は二度の死罪を免れ、子は一度の死罪を免れ、世襲の侯爵となった。諸弟で都指揮僉事の官にある者は、皆錦衣衛に改めた。また自ら言上した、「臣と弟の顕宗が子・婿・家奴四十三人を率いて奪門の功に預かりました。恩命を加えられたい」。これにより顕宗は都指揮同知に進み、子の璉は錦衣衛指揮使を授かり、婿の指揮使武忠は都指揮僉事に進み、下僕どもで官を授かった者は十七人であった。五月、五軍営の戎務を督し、兼ねて後軍都督府事を掌ることを命じられた。
左右にまた紹宗のために官を求める者がいた。帝は李賢を召して言った、「孫氏一門は、長は侯に封ぜられ、次は皆顕職にあり、子孫二十余人悉く官を得て、十分である。今また請うて以て太后の心を慰めようとするが、初めにその子弟に官を与えた時、太后に請うて、数度請うて始めて允され、かつ数日不機嫌であったことを知らないのか。『国に何の功があって、この官秩を濫授するのか。物盛んなれば必ず衰える。一旦罪があれば、私は庇うことができない』と。太后の意は固よりこのようであった」。賢は稽首して太后の盛徳を称え、因って従容として祖宗以来、外戚は軍政を典としないことを言った。帝は言った、「初め内侍が京営軍は皇舅でなければ統べる者がいないと言い、太后は実に今に至るまで悔いている」。賢は言った、「侯は幸い淳謹ですが、ただ今後これを故事とすべきではありません」。帝は言った、「そうだ」。まもなく、錦衣の逯杲が英国公張懋・太平侯張瑾及び継宗・紹宗が並びに官地を侵し、私荘を立てたと奏上した。各々に実を自首することを命じ、懋らはことごとく服したので、乃ちこれを宥し、荘を管理する者を悉く逮捕して問い、その地を官に還した。石亨が罪を得た時、継宗は顕宗・武忠及び子孫・家人・軍伴の辞職を願い出た。帝は家人・軍伴で職を授かった者七人を革するのみで止め、その他は問わなかった。五年、曹欽が平定されると、太保に進んだ。まもなく病気を理由に兵権を解くことを奏上し、太保を辞したが、許されなかった。
呉安
錢貴
錢貴は海州の人で、英宗睿皇后の父である。祖父の整は成祖に従って起兵し、燕山護衛副千戸となった。父の通が職を嗣ぎ、官は金吾右衛指揮使に至った。貴は祖父の職を嗣ぎ、しばしば成祖・宣宗に従って北征し、累進して都指揮僉事となった。正統七年、后が中宮に正位せんとするに及び、貴を中府都督同知に抜擢した。英宗はたびたび彼を封じようとしたが、后は常に辞退したので、后の家のみが封を得られなかった。
汪泉
汪泉は代々金吾左衛指揮使を務め、京師に家を構えた。正統十年、その子の瑛に娘がおり、郕王妃に冊立せんとし、瑛を中城兵馬司指揮に任じ、禄を食み事を視ざしめた。妃が中宮に正位すると、泉を都指揮同知府軍衛に進め、帯俸とし、瑛を錦衣衛指揮使とした。まもなく共に左都督に抜擢し、瑛の弟もまた錦衣千戸などにそれぞれ授けた。英宗が復位すると、泉は依然として金吾の旧職に居り、瑛は錦衣の旧職に居り、その四弟は皆官を奪われて故里に還った。まもなく瑛を錦衣指揮僉事と命じ、子孫に世襲させた。
杭昱
周能
子の瑛が嗣ぎ、封殖父に過ぎた。嘉靖中、河西務に店舗を設けて商貨を邀え、市民を虐げ、國課を虧き、巡按御史に弾劾され、禄を三月停められた。而して瑛は悪に怙って故の如く、また主事の翁萬達に弾劾され、詔してその廛肆を革し、家人を法司に下した。時に既に外戚の世爵を革しており、瑛が卒すると、遂に嗣ぐを得なかった。
彧は太后の次弟である。成化の時、累官して左府都督同知となった。二十一年に長寧伯に封じ、世襲とした。弘治中、外戚が私利を営み、彧は壽寧侯張鶴齡と聚衆して相闘うに至り、都下震駭した。九年九月、尚書の屠滽が九卿を偕えて上言した。
憲宗皇帝の詔に、勲戚の家は関津陂澤を占拠し、肆を設け廛を開き、民利を侵奪することを得ず、違う者は所在の官司に執り治めて以て聞かしむべしと。皇上践極し、また惟だ先帝の法を是れ訓じ是れ遵う。而るに勲戚諸臣は先詔を恪守すること能わず、家人を縦して列肆を通衢にし、商貨を邀截し、都城内外、所在これ有り。永楽間の榜例を観るに、王公の僕従は二十人、一品は十二人を過ぎず。今勲戚の多き者は百数を以てし、大いに旧制に乖く。その間多くは市井の無頼、名を冒して利を罔り、利は群小に帰し、怨は一身に叢り、計の得るに非ず。邇者長寧伯周彧・壽寧侯張鶴齢の両家、瑣事を以て忿争し、喧伝都邑にし、戚里の観瞻を失い、朝廷の威重を損ず。伏して綸音を望み戒諭し、各旧好を修めしむ。凡そ店肆にあるものは、悉く皆停止せしむ。更に都察院を敕して榜を掲げ禁戒し、商賈を擾し、民利を奪う者は、巡城巡按御史及び所在の有司に執り治めしむ。仍って永楽間の榜例を考し、勲戚家人を裁定し、濫収することを得ざらしむ。
科道官もまたこれを言上し、帝は嘉してこれを容れた。十八年、太保に進む。彧は侯となることを求めたが、吏部は封爵は朝廷より出るもので、請い乞う者はないと言い、そこで止んだ。武宗が即位すると、彧の子瑭ら六人を悉く錦衣官に抜擢した。彧はまもなく卒した。子の瑭に伝え、孫の大経、及び曾孫の世臣に至り、降授されて錦衣衛指揮同知となった。
先に、孝肅(周太后)に弟の吉祥がおり、幼時に出遊して去り僧となり、家人はその所在を知らず、孝肅もまた忘れたかのようであった。ある夜、伽藍神が来る夢を見、後の弟が今ある所にいると言い、英宗も同時に夢を見た。朝に小黄門を遣わし、夢中の言葉で物色させ、報国寺の伽藍殿中にてこれを得た。召し入れて見ると、后は喜び且つ泣き、爵位を与えようとしたができず、厚く賜与して帰らせた。憲宗が即位すると、大慈仁寺を建立し、庄田数百頃を賜った。その後、周氏は衰えたが、慈仁寺の庄田は久しくなお存続した。
王鎮
王鎮、字は克安、上元の人、憲宗純皇后の父である。成化初年、金吾左衛指揮使を授かる。まもなく、后が中宮に正位せんとし、中軍都督同知に拝された。四年、右都督に進む。鎮は人となり重厚で清く謹み深く、栄寵を受けてもその素を改めず、長者と称された。十年六月卒す。弘治六年、阜国公を追封され、諡して康穆。子三人:源、清、浚。
萬貴
萬貴は、憲宗の萬貴妃の父であり、歴官して錦衣衛指揮使となった。貴は頗る謹み深く、賜物を受けるごとに、常に憂いの色を形に表して言うには、「私は掾史より起こり、尺伍(下級兵士)に編され、天子の恩を蒙り、戚属に備わり、子孫皆官を得た。福過ぎれば災い生ず、終わりを知らぬ。」時に貴妃は寵を擅にし、貴の子の喜は指揮使となり、弟の通・達らと共に驕横であった。貴は諸子が賜物を粗末にするのを見るごとに、戒めて言うには、「官より賜わる物は、皆籍に著す。他日また宣索(求め)があれば、汝らは重く罪を得るであろう。」諸子は笑って迂闊だと思った。成化十年卒し、賻贈・祭葬を加えられた。十四年、喜を都指揮同知に、通を指揮使に、達を指揮僉事に進めた。通は若い時貧賤で、商売を業としていた。急に貴顕となると、益々貪欲で飽くことを知らず、奇巧を造って利を邀えた。中官の韋興・梁芳らがまた左右となり、一物を進めるごとに、内庫より出して償い、金銭を車に載せて絡繹と絶えなかった。通の妻の王氏は宮掖に出入りし、大学士の萬安は通に附いて同宗と為り、婢仆が朝夕王氏の所に至り、起居を謁した。妖人李孜省の輩も皆喜を縁として進み、朝野これを苦しんだ。通が死ぬと、帝は萬氏を眷顧して已まず、喜を都督同知に、達を指揮同知に遷した。通の庶子は二歳、養子は四歳であったが、共に官を授かった。憲宗が崩ずると、言官がその罪状を弾劾した。孝宗は乃ち喜らの官を奪い、封誥及び内帑の賜物を尽く追回したが、貴の言う通りとなった。
邵喜
邵喜は、昌化の人、世宗の大母(祖母)邵太后の弟である。世宗が即位すると、喜を昌化伯に封じ、翌年卒す。子の蕙が嗣ぎ、嘉靖六年卒し、子がなく、族人が継承を争った。初め、太后が入宮した時、父の林は早くに歿していた。太后の弟四人:宗、安、宣、喜。宗と宣には後がなく、蕙が卒すると、帝は蕙の弟の萱に嗣がせた。蕙の甥の錦衣指揮輔と千戸の茂が言うには、萱は嫡派でなく、襲封すべきでないと、蕙の母がこれを争い、議論は久しく決しなかった。大学士張璁らが言うには、「邵氏の子孫は既に絶え、今争っている者は皆傍枝であり、嗣ぐに宜しくない。」時に帝は必ず喜に後を立てようとし、乃ち喜の兄の安の孫の傑を昌化伯とした。翌年、『明倫大典』が成ると、武定侯郭勛に命じて戚畹に頒賜させたが、傑には及ばなかった。傑が自らこれを請うと、帝は勛を詰問した。勛は怒り、邵氏の襲封争いの章奏を録し、傑は実は他姓であるとを発覚させ、再調査を請うたが、帝は聴かなかった。時に給事中陸粲が大学士桂萼が傑の賄賂を受け、奴隷に封爵を冒させたと論じた。帝は怒り、粲を獄に下し、外戚の封爵を尽く革し、傑もまた襲封を奪われた。
張巒は、敬皇后(孝宗張皇后)の父である。弘治四年、寿寧伯に封ぜられる。皇太子が立てられると、侯に進む。卒して昌国公を贈られ、子の鶴齢が侯を嗣いだ。十六年、その弟の延齢もまた建昌伯より侯に進爵した。巒は諸生より起こり、貴盛であっても、士大夫を敬礼することができた。
初めに、正徳年間、日者曹祖がその子の鼎が延齢の奴隷となり、延齢と共に不軌を謀っていると告発した。武宗はこれを獄に下し、群臣を集めて廷議で審問しようとしたところ、曹祖は仰薬して死んだ。当時、曹祖の暴死を延齢の仕業と疑う風説がかなりあったが、獄に左証がなく、遂に釈放された。指揮の司聡という者は、延齢のために金銭の用務を行い、その五百金を負っていた。延齢が厳しく催促したので、司聡は天文生董昶の子の至と謀り、以前曹祖が首告した事柄を摘発して、延齢を脅して賄賂を取ろうとした。延齢は司聡を捕らえて幽閉し殺害し、司聡の子の升に命じてその屍を焼かせ、負債の証文を折り捨てた。升は口を噤んで敢えて言わず、常に憤って至を罵った。至は事が発覚することを憂慮し、かえって司聡の以前の上奏を摘録して上申した。刑部に下され、延齢及び諸奴隷を捕らえて雑治した。延齢はかつて没官した第宅を買い、園池を造営し、奢侈が制を僭越していた。また私怨で婢及び僧を殺したが、これらの事が共に発覚した。刑部は延齢の不軌を謀ったことを審理したが、証拠がなく、制を違えて人を殺したことは皆事実であったので、死罪を論じた。獄に繋がれて四年、獄囚の劉東山が延齢の手紙で上を誹謗したことを発覚させ、東山は戍を免れ、また密かに奸人劉琦を陥れて延齢が宮禁の内帑を盗んだと誣告させ、その告発は数十百人に連座した。翌年、奸人の班期、於雲鶴がまた延齢兄弟が左道の祝詛を挟んでいると告発し、その供述は太后に及んだ。鶴齢は南京から逮捕に赴き、獄死し、期、雲鶴も誣告の罪で流罪に処せられた。また翌年、東山は父を射殺して亡命し、御史陳譲に捕獲され、また延齢を誣告し、かつ陳譲及び遂安伯陳鏸等数十人を陥れ、以て上意を悦ばせて己の罪を逃れようとした。奏上されると、錦衣衛に下して窮治させた。陳譲は獄中から上疏して言う、「東山は奸党を扇動糾合し、宮禁を危うくしようと図っています。陛下には帝堯の既に睦まじき徳があるのに、東山は敢えて陛下に漢武の巫蠱の禍を言い、陛下には帝舜の底豫の孝があるのに、東山は敢えて陛下を暴秦の母を遷す謀に導こうとしています。骨肉を離間し、背逆不道であり、義として赦すべからず」。疏が奏上されると、帝はやや悟った。指揮王佐がその獄を主管し、東山の内情を探り出して奏上した。そこで東山を械にかけて死に至らしめ、陳譲、陳鏸等を赦免し、延齢は長く繋がれたまま従前の通りであった。太后が崩じて五年後、延齢は西市で斬られた。
夏儒
陳萬言
方銳
陳景行
李偉
李偉は、字を世奇といい、漷県の人で、神宗の生母李太后の父である。幼い時、里中で遊んでいると、羽士が通りかかり、驚いて人に言うには、「この児の骨相は、人臣の極位に至るであろう」。嘉靖年間、偉は夢に空中に五色の彩輦があり、旌幢鼓吹が導いて寝所に下り、やがて太后が生まれた。警報を避けて、家を携えて京師に入った。久しく住んで、太后が裕邸に入り、神宗を生んだ。隆慶に改元し、皇太子が立てられると、偉に都督同知を授けた。神宗が即位すると、武清伯に封ぜられ、さらに武清侯に進んだ。太后はその家をよく約束し、偉が過ちを犯すと、太后は召し入れて宮中で厳しく責め、父であることを理由に祖宗の法を曲げなかった。このため、偉はますます小心で畏慎し、賢い名声があった。万暦十一年に卒し、安国公を贈られ、諡は荘簡。子の文全が侯を嗣ぎ、卒すると、子の銘誠が嗣いだ。天啓末、銘誠は魏忠賢の功德を称え、鴻勲と名付けた祠を建てた。荘烈帝が逆案を定めると、銘誠は幸いに免れた。久しくして、大学士薛国観が勲戚に軍餉を助けさせるよう請うた。当時銘誠は既に卒しており、子の国瑞が爵を嗣ぐべきであったが、その庶兄の国臣が財産を争い、父が遺した資財四十万があり、これを輸納して軍興を助けたいと言った。帝は初め允さなかったが、この時に至り詔して国臣の言う通りに借餉を命じたので、国瑞は応じられなかった。帝は怒り、国瑞の爵を奪い、遂に悸死し、役人はまたその家人を拘束した。国瑞の娘は嘉定伯周奎の孫に嫁ぐことになっており、奎が荘烈后に請うた。后は言う、「ただ娘を迎えるだけで、秋毫も取らなければよい」。諸戚畹は人人自ら危うく感じた。時に皇五子が病篤く、李太后が憑いて言った。帝は恐れ、李氏の産を悉く返還し、武清の爵を復し、しかし皇五子はついに夭逝した。或いは言うには、宦官が乳母をそそのかして、皇五子に言わせたのであると。まもなく、国観は事によって誅せられた。
王偉
王偉は、神宗の顕皇后の父である。万暦五年、都督を授けられた。まもなく永年伯に封ぜられた。帝は偉の子の棟及びその弟の俊に恩を加えようとし、閣臣は共に錦衣正千戸を授けるよう請うた。帝は言う、「正徳年間、皇親の夏助等は皆錦衣指揮使を授けられ、世襲した。今なぜ薄くするのか」。大学士張居正等が言う、「正徳年間の例は、世宗が悉く厘革されました。棟に錦衣衛指揮僉事、俊に千戸を授け、前議の通りとされますように」。帝の意はまだ満足せず、居正が固く奏上したので、やめた。偉が卒すると、子の棟及び曾孫の明輔に伝え、制に従って伯を襲封した。
鄭承憲
王升
劉文炳
劉文炳は、字を淇筠といい、宛平の人である。祖父の応元は徐氏を娶り、娘を生んだ。宮中に入り、すなわち荘烈帝(崇禎帝)の生母孝純皇太后である。応元は早くに卒去した。帝が即位すると、太后の弟の效祖を新楽伯に封じた。これが文炳の父である。崇禎八年に卒去し、文炳が嗣いだ。この年、文炳の大母(祖母)徐氏が七十歳となり、宝鈔・白金・文綺を賜った。帝は内侍に言った、「太夫人は年老いているが、なお聡明でよく食事をとる。太后が生きておられたなら、どのように寿を祝われたであろうか」と。そこで悲しげに涙を流した。九年、文炳を新楽侯に進め、その祖父・父にも世贈として同じ爵位を贈った。
文炳の母杜氏は賢明で、常に文炳らに言った、「我が家には功徳が無い。ただ太后の故をもって、この大恩を受けた。忠を尽くして天子に報いるべきである」と。帝は文炳を遣わして鳳陽の祖陵を視察させ、密かに大事があれば上聞するよう諭した。文炳が帰ると、史可法・張国維は忠正で方略があり、長く任用すべきで、必ず賊を滅ぼせると奏上した。後、この二人は果たして国難に殉じた。文炳は謹厚で妄りに交際せず、ただ宛平の太学生申湛然・布衣の黄尼麓及び駙馬都尉鞏永固と親しくした。時に天下は多難で、流賊の勢いはますます強くなり、文炳は尼麓らと忠義を講明し、守禦の計を練った。李自成が三秦を占拠し、榆林を破り、京師を犯そうとした時、文炳は勢いが支えられぬと知り、慷慨して涙を流し、永固に言った、「国事ここに至る。我と公は国恩を受け、死をもって報いるべきである」と。
十七年正月、帝は文炳・永固らを召して国事を諮問した。二人は早く藩封を建て、永王・定王を封国に遣わすよう請うた。帝はこれを是としたが、内帑が乏しいため、果たせなかった。三月初一日、賊の警報がますます急を告げ、文武の勲戚に命じて京城を分守させた。継祖は皇城の東安門を守り、文燿は永定門を守り、永固は崇文門を守った。文炳は継祖・文燿が共に城を守っているので、故に職事がなかった。十六日、賊が西直門を攻め、勢いはますます急となった。尼麓がよろめきながら来て、文炳に言った、「城は陥落せんとしている。君は自ら計らうべきだ」と。文炳の母杜氏はこれを聞くと、すぐに侍女に命じて楼上で箱から赤い絹を取り出させ、七、八つの輪を作らせ、家僮に命じて楼下に薪を積ませた。続いて老仆の鄭平を遣わして李氏・呉氏の二人の娘を迎え帰らせ、言った、「我ら母女はここで共に死のう」と。また、瀛国太夫人が年老いて衰えているので、共に焼け死にはさせられないと考え、文炳と計らい、申湛然の家に匿わせた。
十八日、帝は内使を遣わして密かに文炳と永固を召した。文炳は帰って母に告げて言った、「詔があり、私を召しています。私は母に仕えることができません」と。母は文炳の背を撫でて言った、「太夫人は既に所を得た。私はお前の妻と妹と死ぬだけだ。また何の遺憾があろうか」と。文炳は永固と共に帝に謁した。時に外城は既に陥落していた。帝は言った、「二卿が糾合した家丁は、巷戦ができるか」と。文炳は衆寡敵せずと答えた。帝は愕然とした。永固が奏上して言った、「臣らは既に邸内に薪を積んでいます。門を閉ざして焼け死にし、以て皇上に報いましょう」と。帝は言った、「朕の志は決した。朕は社稷を守ることができぬが、社稷のために死ぬことはできる」と。二人は共に涙を流して死を誓い、出て崇文門へ馳せた。間もなく賊が大挙して至り、永固は賊を射、文炳はこれを助け、数十人を殺し、それぞれ自邸へ馳せ帰った。
十九日、文照がちょうど母に食事を給仕していると、家人が急ぎ入って来て言うには、「城が陥ちました!」と。文照は碗を落とし、母を直視した。母は急ぎ立ち上がって楼に登り、文照と二人の娘がこれに従い、文炳の妻王氏も楼に登った。孝純皇太后の像を掛け、母は皆を率いて泣きながら拝礼し、それぞれ縊死した。文照は縄にかかったが落ち、母の背を撫でながら連呼して言うには、「子は死ぬことができません。母の命に従い、太夫人に仕えるために留まります」と。そこで逃げ去った。家人は共に楼を焼いた。文炳が帰ると、火が激しくて中に入れず、後園に入った。ちょうど湛然と尼の麓が来て言うには、「鞏都尉はすでに邸宅を焼き、自刎しました」と。文炳は言う、「承知した」と。井戸に身を投げようとしたが、突然止めて言うには、「軍服である。皇帝にお目にかかれぬ」と。湛然は自らの幘を脱いで彼にかぶらせ、そこで井戸に身を投げて死んだ。継祖が帰り、また井戸に身を投げて死んだ。継祖の妻左氏は大邸宅の火を見て、急いで楼に登り自焚し、妾の董氏、李氏も焼死した。初め、文燿は外城が破られたのを見て、突き出て渾河に至ったが、内城が破られたと聞き、再び入り、邸宅が焼かれているのを見て、大声で泣いて言うには、「文燿が死ななかったのは、君と母がおられたからである。今ここに至って、どうして生きていようか!」と。そこで文炳の死んだ場所を探し、井戸の傍らに大きな字で板に書き記して「左都督劉文燿同兄文炳畢命報國處」とし、また井戸に身を投げて死んだ。一家で死んだ者は四十二人であった。この時、惠安伯張慶臻は妻子を集めて共に焼死した。新城侯王國興も焼死した。宣城伯衛時春は鉄券を懐にし、一家で井戸に身を投げて死んだ。永固と共に賊を射た楊光陛は、駙馬都尉の子であり、甲冑を着けて馳せ突き左右を射たが、永固とはぐれ、矢が尽き、観象臺の下の井戸に身を投げて死んだ。そして湛然は瀛國を匿ったために賊に拷問掠奪されたが、終に言わず、体が糜爛して死んだ。福王の時、文炳に忠壯、文燿に忠果の諡を贈った。
張國紀
張國紀は祥符の人で、熹宗張皇后の父である。天啓初年、太康伯に封ぜられた。魏忠賢と客氏は皇后を忌み、そこで國紀を陥れようと謀り、その党の劉誌選、梁夢環に先後して國紀を弾劾させ、宮婢の韋氏を謀り占めようとし、中宮の旨を偽って獄を売ったとさせた。忠賢は中からその事を究明しようとして、后を動揺させようとした。大学士李國〓普は言う、「君と后は、父母のようなものである。どうして父に勧めて母を陥れることがあろうか」と。國紀は初めて故郡に帰されたが、忠賢はなお彼を牽制しようとした。莊烈帝が立つと、ようやく免れることができた。崇禎末、餉を輸送した功により爵を進めて侯とし、間もなく賊のために死んだ。
周奎