明史

列傳第一百八十七 方伎

左氏(左傳)には醫和・醫緩・梓慎・裨竈・史蘇の類を載せ、甚だ詳にして且つ確かである。下って巫祝に至っても、亦た往々その事を誇張して神異化している。論ずる者はこれを浮誇と謂う、もっともである。而して『史記しき』は扁鵲・倉公、日者、龜策を傳え、黄石・赤松・倉海君の流に至っては、神仙の荒唐無稽に近いものも、備えて録し遺さず。范蔚宗(范曄)は乃ち方術を以て傳を名付けた。夫れ藝人術士は、道徳の途に登ること能わざる者なり。然れども民の前に立ちて利用するは、亦た先聖の緒餘にして、その精なる者は神明に通じ、造化に参ずるに至る。豈に小道観るべしと曰うべきのみならんや。

明初、周顛・張三丰の類は、蹤跡秘幻にして測り識るべからず。而して天子を震動せしむるは、要するに妄誕にして寵を取る者の及ぶところではない。張中・袁珙は、占驗奇中す。夫れ事には常理を以て拘うる能わざるものあり、浅見寡聞は道うるに足らざるなり。醫と天文とは皆な世業の専官たり、亦た『周官』の遺意に本づく。その術を攻むる者は、要は必ず古人の書に博く極め、而してその理を会通し、沈思独詣し、考験を以て参じ、私智自用せず、乃ち以て当世に名を成し後学の宗たるに足る。今その最も異なる者を録し、『方伎傳』を作す。真人張氏は、道家の流れにして、世に恩沢を蒙る。その事蹟は当代の典故に関わる、その大略を撮りて篇に附す。

滑壽

滑壽、字は伯仁、先世は襄城の人、儀真に徙り、後また余姚に徙る。幼にして警敏好学、詩を能くす。京口の王居中は名醫なり。壽これに従いて学び、『素問』・『難経』を授かる。既に卒業し、師に請いて曰く、「『素問』は詳し、然れども錯簡多し。愚、蔵象・経度等を分けて十類と為し、類ごとに抄して読まんとす。『難経』は又た『素問』・『霊枢』に本づく、その間の栄衛蔵府と夫れ経絡腧穴とを弁ずること博し、而れども缺誤亦た多し。愚、その義旨に本づき、注して読むこと可ならんか」と。居中躍然として善しと称す。是より壽の学日進す。壽は又た張仲景・劉守真・李明之の三家を参会して会通し、治むる疾は中らざる無し。既に東平の高洞陽に針法を学び、嘗て言う、「人身の六脈は皆な系属有りと雖も、惟だ督・任の二経は、腹背を苞み、専穴有り。諸経満ちて溢るる者は、此れ則ちこれを受く、宜しく十二経と並び論ずべし」と。乃ち『内経骨空』諸論及び『霊枢篇』の述ぶる経脈を取り、『十四経発揮』三巻を著し、隧穴六百四十有七を通考す。他の如き『読傷寒論抄』・『診家枢要』・『痔瘻篇』、又た諸書の『本草』を采りて『医韻』と為す、皆な世に功有り。晩年自ら攖寧生と号す。江・浙の間に攖寧生を知らざる者無し。年七十余、容色童孺の如く、行歩蹻捷、飲酒算無し。天台の朱右その治疾の神効なる者数十事を摭り、為に傳を作す、故にその著述益々世に称せらる。

葛乾孫

葛乾孫、字は可久、長洲の人。父応雷、醫を以て名有り。時に北方の劉守真・張潔古の学未だ南に行われず。李姓と称する者あり、中州の名醫、吳下に官し、応雷と談論し、大いに駭歎し、因って張・劉の書を授く。是より江南に二家の学有り。乾孫は体貌魁碩、撃刺戦陣の法を好む。後節を折りて書を読み、陰陽・律暦・星命の術に兼ねて通ず。屡試偶わず、乃ち父の業を傳う。然れども肯て人の為に疾を治さず、或いはこれを施せば、輒ち奇効を著し、名は金華の朱丹溪と埒し。富家の女、四支痿痹を病み、目瞠りて食う能わず、衆醫治めて効無し。乾孫命じて悉く房中の香奩・流蘇の属を去らしめ、地に坎を掘り、女を其中に置く。久しうして、女手足動き、声を出す能う。薬一丸を投ず、明日女自ら坎中より出づ。蓋し此の女香を嗜み、脾香気に蝕まれたれば、故に是の症を得たり。その病を療すること奇中すること此の如し。

呂復

呂復、字は元膺、鄞の人。少孤貧、師に従いて経を受く。後に母の病を以て醫を求め、衢人の名醫鄭禮之に遇い、遂に謹んでこれに事え、因ってその古先の禁方及び色脈薬論諸書を得、試みるに輒ち験有り。乃ち古今の醫書を尽く購し、曉夜研究す、是より出て世に行われ、效を取ること神の若し。その『内経』・『素問』・『霊枢』・『本草』・『難経』・『傷寒論』・『脈経』・『脈訣』・『病原論』・『太始天元玉冊公誥』・『六微旨』・『五常政』・『玄珠密語』・『中蔵経』・『聖済経』等の書に於いて、皆な辨論有り。前代の名醫扁鵲・倉公・華佗・張仲景より張子和・李東垣諸家に至るまで、皆な評騭有り。著する所に『内経或問』・『霊枢経脈箋』・『五色診奇眩』・『切脈枢要』・『運気図説』・『養生雑言』諸書甚だ衆し。浦江の戴良その治效最も著しき者数十事を采り、醫案と為す。歴って仙居・臨海の教諭を挙げ、台州教授に至るも、皆な就かず。

倪維德

倪維德、字は仲賢、吳縣の人。祖父・父皆な醫を以て顕る。維德幼より学を嗜み、已にして乃ち醫を業とし、『内経』を宗とす。大観以来を病む、醫者率ね裴宗元・陳師文の『和剤局方』を用うるを以て、故に方と新病と多く合わず。乃ち金人の劉完素・張従正・李杲の三家の書を求めて読み、出て疾を治むるに、立效無きこと無し。周萬戸の子、八歳にして昏眊、饑飽寒暑を識らず、土炭を以て自らその口を塞ぐ。診して曰く、「此れ慢脾風なり。脾は智を蔵す、脾慢なれば則ち智短し」と。疏風助脾の剤を以てこれに投ずれば、即ち愈ゆ。顧顯卿、右耳下に癭を生じ、大いさ首と同じく、痛み忍ぶ可からず。診して曰く、「此れ手足少陽経の邪を受くるなり」と。これに薬を飲ますこと、月を逾えて愈ゆ。劉子正の妻、気厥を病み、或いは哭き或いは笑う、人崇りと為す。診して曰く、「両手の脈俱に沈み、胃脘必ず積む所有らん、積むれば則ち痛む」と。問うに果たして然り、生熟水を以てこれを導けば、痰涎数升を吐きて愈ゆ。盛架閣の妻、左右の肩臂奇痒、頭面に延び及び、禁ずる可からず、艾を以てこれを灼けば、則ち暫く止む。診して曰く、「左脈沈み、右脈浮かんで且つ盛ん、此れ滋味過盛の致す所なり」と。剤を以てこれに投ずれば、旋ち愈ゆ。林仲実、労を以て熱疾を得、熱日出入に随いて進退を為し、暄しき盛んなれば則ち劇しく増し、夜涼及び雨なれば則ち然らず、是の如きこと二年。診して曰く、「此れ七情内傷、陽気昇らず、陰火漸く熾んなるなり。故に温なれば則ち進み、涼なれば則ち退く」と。東垣の内傷の剤を以てこれに投ずれば、亦た立って愈ゆ。他の療治する所、多く此れに類す。常に言う、「劉・張の二氏は多く攻を主とし、李氏は惟だ中気を調護し補を主とす、蓋し時に随いて推移し、然らざるを得ざるなり」と。故にその方を主とするに一説に執わず。常に眼科の方論雑出し、全書無きを患え、『元機啓微』を著し、又た『東垣試効方』を校訂し、並びに世に刊行す。洪武十年卒す、年七十五。

周漢卿

周漢卿は松陽の人である。医術は内科・外科を兼ね、鍼術は特に神妙であった。同郷の蔣仲良は左目を馬に蹴られ、眼球が桃のように突出した。他の医師は眼の絡脈が損傷して治せないと言った。漢卿は神膏を塗って封じ、三日を経て元通りになった。華州の陳明遠は十年間盲目であった。漢卿が診て言うには、「鍼を打てる」と。眼球を翻して翳を刮り、たちまち五色を弁じた。武城の人が胃痛を病み、激しく転げ回って死を乞うた。漢卿が薬を鼻から注入すると、やがて赤い虫を一寸ばかり噴き出し、口と眼がそろっており、痛みはたちまち止んだ。馬氏の妻は妊娠したが、十四月経っても産まず、やつれて黒ずんでいた。漢卿は言う、「これは蠱毒であって、妊娠ではない」と。下剤を投じると、金魚のような物が出て、病はたちまち癒えた。永康の人が腹痛を患い、背を曲げて歩いていた。漢卿が衣を解いて診ると、気が腹の間に二つ衝き上がり、その大きさは臂のようであった。一つを刺すと、砉然と音がし、もう一つを刺しても同様で、按摩を加えると、病はたちまち癒えた。長山の徐嫗は癇疾を患い、手足が震え、裸で走り回り、歌ったり笑ったりした。漢卿がその十指の先を刺して出血させると、全快した。錢塘の王氏の娘は瘰鬁を生じ、頭部から腋下まで環状に、合わせて十九の穴があった。穴が破れて白い沈渣が出て、死にかけていた。漢卿は穴の母を深さ二寸ほど剔り、残りを火で焼き烙し、数日で痂が結んで癒えた。山陰の楊翁は項に瓜ほどの疣があり、酔って階下に倒れ、血が止まらなくなった。疣が潰れる者は必ず死ぬ。漢卿が薬をその穴に撒くと、血はたちまち止まった。義烏の陳氏の子は腹に塊があり、撫でると罌のようであった。漢卿は言う、「これは腸癰である」と。大針を焼いて刺し、三寸ほど入れると、膿が針に随って迸り出て音がし、癒えた。諸暨の黄生は背が曲がり、杖が必要であった。他の医師は皆、中風として治療したが、漢卿は言う、「血の澀滞である」と。両足の昆侖穴を刺すと、しばらくして杖を投げ捨てて去った。その速効はこのようであった。

王履

王履、字は安道、昆山の人である。金華の硃彦修に医を学び、その術をことごとく会得した。かつて張仲景の『傷寒論』は諸家の祖であり、後人はその範囲を出られないと言った。また『素問』に「傷寒は病熱なり」とあるが、常を言って変を言わず、仲景に至って初めて寒熱を分けたが、その義はまだ尽きていない。そこで常と変を備え、『傷寒立法考』を著した。また『陽明篇』には目痛がなく、『少陰篇』には胸背満を言って痛みを言わず、『太陰篇』には嗌乾がなく、『厥陰篇』には囊縮がないのは、必ず脱簡があると言った。そこで三百九十七法を取り、その重複する二百三十八条を除き、さらに増補して、依然として三百九十七法とした。内外傷の経旨の異同を極論し、併せて『中風』『中暑辨』を加え、『溯洄集』と名付け、合わせて二十一篇。また『百病鉤玄』二十巻、『医韻統』一百巻を著し、医家に尊ばれた。履は詩文に巧みで、絵画にも長じた。かつて華山の絶頂に遊び、図四十幅、記四篇、詩一百五十首を作り、当時に称された。

滑壽より以下の五人までは、皆元に生まれ、明の初めに至って死去した。

周顛

周顛は建昌の人で、名も字もない。十四歳の時、狂疾を得て、南昌の市中を走り回り物乞いをし、言葉に常がなく、皆から顛と呼ばれた。成長すると異様な風貌となり、しばしば長官に謁して「太平を告ぐ」と言った。当時天下は平穏で、人はその意味を測りかねた。後に南昌が陳友諒に占拠されると、顛は避けて去った。太祖が南昌を平定すると、顛は道端で謁した。金陵に帰還する際も、顛は随行した。ある日、車駕が出ると、顛が謁して来た。「何をするのか」と問うと、「太平を告ぐ」と言った。これより後、しばしば告げた。太祖はこれを厭い、巨缸で覆い、薪を積んで焼かせた。薪が尽きて開けて見ると、無事で、頂上に微汗が出ただけであった。太祖はこれを奇異に思い、蔣山の僧寺に寄食させた。やがて僧が訴えて来た。顛が沙弥と飯を争い、怒って半月も食べないという。太祖が顛を見に行くと、顛に飢えた様子はなかった。そこで盛大な饌を賜り、食べ終わると空室に閉じ込め、一か月間粒を絶ったが、訪ねて見ると、元の通りであった。諸将兵が争って酒食を進めたが、食べては吐き出し、太祖と共に食すると吐かなかった。太祖が友諒を征討しようとする時、問うた。「この行いは可か」と。答えて「可なり」と言った。「彼は既に帝を称している。これを克つのは難しくないか」と。顛は仰いで天を見つめ、顔を正して言った。「天上に他の座はない」。太祖は彼を連れて行った。舟が安慶に停泊した時、風がなく、使いを遣って問うと、「行けば風がある」と言った。そこで舟を牽かせて進ませると、しばらくして風が大いに起こり、直ちに小孤に到達した。太祖はその妄言が軍心を惑わすのを慮り、人を遣って監視させた。馬當に至り、江豚が水に戯れるのを見て、嘆いて言った。「水怪が現れた。人を損なうことが多い」。監視者がこれを報告した。太祖はこれを憎み、江に投げ込ませた。軍が湖口に駐屯すると、顛がまた来て、かつ食を乞うた。太祖が食を与えると、食べ終わると、すぐに衣を整えて遠行の様子をし、そこで辞去した。友諒が平定された後、太祖は使いを遣って廬山に求めさせたが、得られず、仙去したのではないかと疑った。洪武年間、帝は自ら『周顛仙伝』を撰し、その事を記した。

張中

張中、字は景華、臨川の人である。若くして進士の挙に応じたが及第せず、そこで山水に情を放った。異人に遇い、数学を授けられ、禍福を談じると、多く奇しく当たった。太祖が南昌を下すと、鄧愈の推薦により召し出され、座を賜った。問うて言った。「予が章を下したのは、兵に血刃させず、この邦の人は少しは安息できたか」と。答えて言った。「まだです。旦夕のうちにこの地で流血があり、廬舎は壊れ尽くし、鉄柱観も僅かに一殿を残すのみです」。間もなく、指揮の康泰が反逆し、その言の通りとなった。続いてまた国中の大臣に変あり、予め防ぐべきと言った。秋に至り、平章の邵栄・参政の趙継祖が北門に甲兵を伏せて乱を起こし、事が発覚して誅殺された。陳友諒が南昌を三月間包囲した時、太祖がこれを討伐するに当たり、召して問うた。言うには、「五十日で大勝し、亥子の日にその渠帥を獲るでしょう」。帝は従行を命じた。舟が孤山に停泊した時、風がなく進めなかった。そこで洞玄法で祭ると、風が大いに起こり、鄱陽に到達した。湖中で大戦し、常遇春が孤舟で深く入り、敵舟に数重に包囲され、衆はこれを憂えた。言うには、「憂うるなかれ、亥時に自ら出るでしょう」。やがて果たしてその通りとなった。連戦して大勝し、友諒は流れ矢に当たって死に、その衆五万を降した。出発から降伏を受けるまで、丁度五十日であった。初め南昌が包囲された時、帝が「何日に解けるか」と問うと、「七月丙戌」と言った。報せが届いたのは乙酉で、術官が暦を算じて、この月が一日違っており、実際は丙戌であったのである。その占験が奇しく当たることは、多くこのようであった。人となりは狷介で寡合であった。彼と話すと、少しでも倫理に触れると、すぐに他の言葉でかき乱し、狂を装って世を玩ぶ者の類であった。かつて鉄冠を戴くのを好み、人は鉄冠子と呼んだという。

張三丰

張三丰は遼東懿州の人で、名は全一、またの名は君寶、三丰はその号である。その辺幅を飾らないことから、また張邋遢とも号した。背が高く偉丈夫で、亀の形に鶴の背、大きな耳に丸い目、鬚髯は戟のようであった。寒暑を通じて一つの衲衣と蓑一枚のみで、食べる時は升斗を平らげ、あるいは数日に一度食べ、あるいは数か月食べないこともあった。書物は目を通せば忘れず、遊行する所に常がなく、あるいは一日に千里を行くことができると言われた。諧謔を善くし、傍若無人であった。かつて武当の諸岩壑を遊歴し、人に言った。「この山は異日必ず大いに興る」。当時、五龍・南岩・紫霄は皆兵火で焼失しており、三丰はその徒と共に荊棘を除き、瓦礫を開き、草廬を創って住んだが、やがて捨て去った。

太祖はかねてよりその名を聞いており、洪武二十四年に使者を遣わして探させたが、得られなかった。後に宝鶏の金台観に住んだ。ある日、自分は死ぬべきであると言い、頌を残して逝去し、県人が共に棺に納めて葬った。埋葬の際、棺の中から音が聞こえたので開けてみると、復活していた。そこで四川に遊び、しょく献王に謁見した。再び武当山に入り、襄陽・漢中を経巡り、その行跡はますます奇異であった。永楽年間、成祖は給事中胡濙に内侍の朱祥を伴わせ、璽書と香幣を携えて訪ねさせ、辺境の地をくまなく探し回ったが、数年を経ても遭遇できなかった。そこで工部侍郎郭璡・隆平侯張信らに命じ、丁夫三十余万人を監督させて武当山の宮観を大々的に造営させ、費用は百万を数えた。完成すると、太和太嶽山と名付け、官を置き印を鋳造して守らせたが、これはまさに三丰の言った通りとなった。

あるいは三丰は金の時代の人で、元の初めに劉秉忠と同門であり、後に鹿邑の太清宮で道を学んだとも言われるが、いずれも確かめることはできない。天順三年、英宗は誥命を賜い、通微顕化真人を追贈したが、その存否はついに測り知れなかった。

袁珙

袁珙は字を廷玉といい、鄞の人である。高祖こうその袁鏞は、宋末に進士に挙げられた。元の兵が来ると屈せず、一族十七人皆死んだ。父の袁士元は、翰林検閲官であった。珙は生まれつき非凡な素質を持ち、学問を好み詩を作ることができた。かつて海外の洛伽山に遊んだ時、異僧の別古崖に遇い、人相見の術を授けられた。まず仰いで皎々たる太陽を見つめ、目が眩むまでにし、暗室に赤黒の豆を撒いてそれを識別し、また五色の糸を窓外に吊るし、月明かりに映してその色を見分け、いずれも誤りがなくなってから人相を見た。その方法は、夜中に二つの松明を燃やして人の形状と気色を見、生まれた年月を参考にして、百に一つも誤りがなかった。

珙は元の時代ですでに有名で、相を見た士大夫は数十百人に及び、その死生禍福、遅速大小について、日時を刻んで言い当て、奇しくも当たらぬことはなかった。南台大夫の普化帖木児が、閩海道から珙に会いに来た。珙は言った、「貴公は神気厳粛にして挙動風の如く、大貴の相である。ただし印堂と司空しくうに赤気あり、着任して百十四日目に印を奪われるであろう。しかし正を守り忠を尽くし、名を後世に垂れる、自ら努められよ」。普化帖木児が越で台の事務を代行すると、果たして張士誠に迫られて印綬を取られ、節を守って死んだ。江西憲副の程徐を見て言った、「君の帝座の上に黄紫の気が再び現れ、千日以内に二度の美しい任命がある。ただし冷笑して情がなく、忠節の相ではない」。程徐は一年後に兵部侍郎に任じられ、尚書に昇進した。さらに二年後、明に降り、吏部侍郎となった。かつて陶凱を見て言った、「君は五嶽が朝揖するが気色未だ開けず、五星分明だが光沢未だ見えず、器を蔵して時を待つべし。十年を経ずして文により進み、異代の臣となり、官は二品、それは荊・揚の間であろう」。凱は後に礼部尚書・湖広行省参政となった。その精確さはこのようなものであった。洪武年間、嵩山寺で姚広孝に遇い、彼に言った、「貴公は劉秉忠の同類である、どうか自らを大切に」。後に広孝が燕王に推薦し、北平に召し出された。王は自分に似た衛士九人を混ぜ、弓矢を持ち、酒肆で飲ませた。珙は一目見てすぐに進み出て跪き言った、「殿下、何故軽々しくご自身をここまでお出でになられますか」。九人は彼の誤りを笑ったが、珙の言はますます切実であった。王は立ち去り、珙を宮中に召して詳しく見て言った、「龍行虎歩、日角天を插す、太平の天子である。四十歳、髭が臍を過ぎれば、すなわち大宝に登られるであろう」。すでに藩邸の諸校卒を見て、皆公侯将帥になると言い当てた。王は言葉が漏れるのを慮り、彼を帰らせた。即位すると、召し出して太常寺丞に任じ、冠服・鞍馬・文綺・宝鈔及び邸宅を賜った。帝は東宮を立てようとしたが、意に属する者がおり、故に久しく決断しなかった。珙が仁宗を見て言った、「天子である」。宣宗を見て言った、「万歳の天子である」。儲位はこうして定まった。

珙は人相を見て即座にその心術の善悪を知った。人は義を畏れず、禍患を畏れるので、しばしばその不善に因って善に導き、これに従って行いを改める者は甚だ多かった。人となり孝友で端厚であり、族党に恩をもって接した。住まいは鄞城の西にあり、家の周りに柳を植え、自ら柳荘居士と号し、『柳荘集』がある。永楽八年に卒去、七十六歳。祭葬を賜い、太常少卿を追贈された。

子に袁忠徹

子の忠徹は、字を静思という。幼くして父の術を伝授された。父に従って燕王に謁見し、王が北平の諸文武を宴する際、忠徹に彼らを見させた。都督ととくの宋忠は面方で耳が大きく、身短く気浮わしく、布政使の張昺は面方で五小(五官が小さい)、歩み蛇の如く、都指揮の謝貴は擁腫して早く肥え気短く、都督の耿瓛は頬骨が鬢に差し込み、色飛火の如く、僉都御史の景清は身短く声雄大、これらは法に照らせば皆刑死すべきであると言った。王は大いに喜び、起兵の意思をますます固くした。帝となると、すぐに召し出して鴻臚寺序班に任じ、賜与は甚だ厚かった。尚宝寺丞に遷り、やがて中書舎人に改められ、北巡に扈従した。御駕が戻ると、仁宗が監国していたが、讒言に中られ、帝は怒り、午門に掲示し、東宮の処分した事は全て行われないようにした。太子は憂懼して病となり、帝は蹇義・金忠に忠徹を伴わせて見させた。戻って奏上したところ、東宮の面色は青藍色、驚憂の象である、午門の掲示を収めれば癒えるであろうと。帝はこれに従い、太子の病は果たして治った。帝は左右を退け、密かに武臣の朱福・朱能・張輔・李遠・柳升・陳懋・薛禄、文臣の姚広孝・夏原吉・蹇義及び金忠・呂震・方賓・呉中・李慶らの禍福を問うたが、後皆その通りになった。九年任期が満ち、再び尚宝司丞となり、少卿に進んだ。

礼部郎の周訥が福建から戻り、閩人は南唐の徐知諤・徐知誨を祀り、その神は最も霊験あらたかであると述べた。帝はその像と廟祝を迎えに往かせ、そこで都城に霊済宮を建てて祀った。帝は病に罹るたび、使者を遣わして神に問うた。廟祝は仙方と偽って進上し、薬性は多く熱性で、服用すると痰が塞ぎ気が逆らい、暴怒することが多く、声を失うに至り、朝廷内外諫める者もなかった。忠徹がある日侍して、諫言して言った、「これは痰火虚逆の症候で、実は霊済宮の符薬によるものです」。帝は怒って言った、「仙薬を服さず、凡薬を服するというのか」。忠徹は叩頭して泣き、内侍二人も泣いた。帝はますます怒り、二人の内侍を引きずり出して杖刑に処せよと命じ、かつ言った、「忠徹が私のことを泣くから、私は死ぬというのか」。忠徹は恐れおののき、階下に走り伏し、ようやく事が解けた。帝は藩邸時代に忠徹を知っていたので、外臣とは異なる待遇で接した。忠徹も帝が自分を厚遇するので、敢えて直言を進め、かつて外国から宝を取るのは良くないと諫め、武臣には喪服を着ることを許すべきであるとし、衍聖公の誥命は玉軸に改めて賜うべきであると述べ、聞いてもっともだと思った。

宣徳初年、帝の容色を見て言った、「七日以内に、宗室に謀叛を企てる者があるであろう」。漢王が果たして反した。かつて事に坐して吏に下され贖罪を科された。正統年間、また事に坐して吏に下され休致させられた。二十余年後に卒去、八十三歳。

忠徹の相術はその父に劣らず、世に伝わる逸事は甚だ多いが、全ては載せない。王文を見て、「面に人色無く、法に曰く瀝血頭」。于謙を見て、「目常に上を視、法に曰く望刀眼」。後、果たしてその言う通りになった。しかし性質陰険で、その父に及ばず、群臣と不和があると、すぐに相法に縁って帝の前で齮齕した。頗る読書を好み、著作に『人相大成』及び『鳳池吟稿』・『符台外集』があり、元の順帝は瀛国公の子であると載せている。

戴思恭

戴思恭、字は原禮、浦江の人、字をもって行われる。義烏の朱震亨に学ぶ。震亨は金華の許謙に師事し、朱子の伝統を得、また宋の内侍・錢塘の羅知悌に医を学ぶ。知悌はこれを荊山の浮屠より得、浮屠はすなわち河間の劉守真の門人なり。震亨の医学は大いに行われ、時に丹溪先生と称される。思恭の才敏を愛し、医術を尽くしてこれを授く。洪武の中、御医に徴され、療治する所は直ちに効あり、太祖これを愛重す。燕王瘕を患う、太祖思恭を遣わして往きて治せしむ、他医の用いる薬は良く是なるを見、何を以て効せざるかを思い、乃ち王の何を嗜むかを問う。曰く、「生芹を嗜む。」思恭曰く、「これを得たり。」一剤を投ずれば、夜暴下し、皆細蝗なり。晋王疾あり、思恭これを療して癒ゆ。已にして、復発し、即ち卒す。太祖怒り、王府の諸医を逮治す。思恭従容として進みて曰く、「臣前に命を奉じて王の疾を視、王に啓して曰く、『今即ち癒ゆるも、但だ毒は膏肓に在り、復作して療すべからざるを恐る。』と。今果たして然り。」諸医ここに由りて死を免る。思恭時に既に老い、風雨には輒ち朝を免ぜらる。太祖不豫、少しく間ありて、右順門に出で御し、疾に侍する諸医の無状なる者を治め、独り思恭を慰めて曰く、「汝は仁義の人なり、恐るる毋れ。」已にして太祖崩じ、太孫位を嗣ぎ、諸医を罪す、独り思恭を擢げて太医院使とす。永楽の初、年老を以て帰を乞う。三年の夏、復た征し入れて、その拝を免じ、特召して乃ち進見せしむ。その年の冬、復た骸骨を乞い、官を遣わして護送せしめ、金幣を齎し、月を逾えて卒す、年八十有二、行人を遣わして祭を致す。著する所に『証治要訣』『証治類元』『類証用薬』諸書あり、皆丹谿の旨を括す。又た丹谿の『金匱鉤玄』三巻を訂正し、己が意を以て附す。人はその師に愧じずと謂う。

盛寅

盛寅、字は啓東、呉江の人。郡人の王賓に業を受く。初め、賓は金華の戴原禮と交わり、その医術を得んことを冀う。原禮笑いて曰く、「吾固より吝む所無し、君独り少しく屈する能わざるか。」賓謝して曰く、「吾老いり、復た弟子の列に居る能わず。」他日原禮の出づるを伺い、窃かにその書を発して去り、遂にその伝を得たり。将に死せんとし、子無く、以て寅に授く。寅既に原禮の学を得、復た『内経』以下の諸方書を討究し、医大いに名有り。永楽の初、医学正科と為る。累に坐し、天寿山に輸作す。列侯監工の者、見てこれを奇とし、書算を主らしむ。先ず是に中使有りて花鳥を江南に督し、寅の舎を主り、脹を病み、寅これを癒やす。適に諸途に遇い、驚いて曰く、「盛先生固より恙無きか。予の事うる所の太監、正に脹を苦しむ、何ぞ我とともにこれを視ざる。」既に視て、薬を投ずれば立って癒ゆ。会に成祖西苑に射を較べ、太監往きて侍す。成祖遥かに望み見て、愕然として曰く、「汝死せりと謂う、安んぞ生を得ん。」太監具に以て告げ、因りて寅を盛んに称す、即ち便殿に召し入れて、脈を診せしむ。寅奏す、上の脈に風湿の病有りと、帝大いにこれを然りとし、薬を進めれば果たして効あり、遂に御医を授く。一日、雪霽み、召して見る。帝白溝河の戦勝の状を語り、気甚だ厲し。寅曰く、「是れ殆ど天命有るのみ。」帝懌ばず、起ちて雪を視る。寅復た唐人の詩「長安ちょうあんに貧者あり、宜しく瑞とすべくして宜しく多しとすべからず」の句を吟じ、聞く者は咋舌す。他日、同官と対して禦薬房に弈す。帝猝かに至り、兩人枰を斂めて地に伏し、死罪を謝す。帝終わらしむるを命じ、且つ坐して観る、寅三たび勝つ。帝喜び、詩を賦せしむ、立って就く。帝益々喜び、象牙の棋枰並びに詞一闋を賜う。帝晚年猶お塞に出でんと欲す、寅帝の春秋高きを以て、行く毋れと勧む。納れられず、果たして榆木川の変有り。

仁宗東宮に在りし時、妃張氏経期至らずすること十月、衆医妊身を以て賀す。寅独り然らずと謂い、病状を言い出だす。妃遥かにこれを聞きて曰く、「医の言甚だ当たる、この人ありて何を以て早く我を視せしめざる。」及び方疏すれば、乃ち破血の剤なり。東宮怒り、用いず。数日病益々甚だしく、寅を命じて再び視しむ、方疏は前の如し。妃薬を進むるを令す、而るに東宮胎を堕すを慮り、寅を械して以て待つ。已にして血大いに下り、病旋ちに癒ゆ。寅の系せらるるに当たり、闔門惶怖して曰く、「是れ殆ど磔死す。」既に三日、紅仗前導して邸舎に還り、賞賜甚だ厚し。

寅と袁忠徹素より東宮に悪まれる、既に妃の疾を癒やし、而して怒猶未だ解けず、甚だ懼る。忠徹相術に暁け、仁宗の寿永からざるを知り、密かに寅に告ぐ、寅猶お禍を畏る。及び仁宗位を嗣ぎ、出でて南京太医院と為るを求む。宣宗立ち、召し還す。正統六年卒す。両京太医院皆寅を祀る。寅の弟宏も亦た薬論に精しく、子孫その業を伝う。

初め、寅朝に御医房に直し、忽ち昏眩して死せんと欲す、人を募りて寅を療せしむ、応うる能う者莫し。一の草沢の医人これに応じ、一服にして癒ゆ。帝状を問う、その人曰く、「寅空心に薬房に入り、猝かに薬毒に中る。諸薬を和解する能う者は、甘草なり。」帝寅に問う、果たして空腹に入る、乃ち厚く草沢の医人に賜う。

皇甫仲和

皇甫仲和、睢州の人。天文推歩の学に精し。永楽の中、成祖北征し、仲和と袁忠徹扈従す。師漠北に至り、寇を見ず、将に還らんと引き、仲和を命じてこれを占わしむ、言う、「今日未申の間、寇当に東南より来るべし。王師始めは却き、終には必ず勝つ。」忠徹対することこれに如し。比日中に至らず、復た問う、二人対すること初めの如し。帝二人を械するを命じ、験せざれば、将に誅死せんとす。頃之、中官奔り告げて曰く、「寇大いに至れり。」時に初めて安南の神砲を得、寇一騎直ち前に進めば、即ち砲を以てこれを撃ち、一騎復た前に進めば、再びこれを撃つ、寇動かず。帝高きに登りてこれを望みて曰く、「東南少しく却かざるか。」亟に大将譚広等を麾して進撃せしめ、諸将奮いて馬足を斫れば、寇少しく退く。俄かに疾風沙を揚げ、両軍相見えず、寇始めて去るを引く。帝即夜班師せんと欲す、二人曰く、「明日寇必ず降らん、請うこれを持て。」期に至れば果たして降り、帝始めてその術を神とし、仲和に欽天監正を授く。

英宗将に北征せんとす、仲和時に既に老い、学士曹鼐問うて曰く、「駕止むべけんや。胡・王両尚書既に百官を率いて諫む。」曰く、「能わざるなり、紫微垣の諸星既に動けり。」曰く、「然らば則ち奈何。」曰く、「何ぞ先ず内を治めざる。」曰く、「親王に命じて国を監せしむ。」曰く、「儲君を立つるに如かず。」曰く、「皇子幼く、未だ立つ易からず。」曰く、「恐らく終には立つを免れざらん。」及び車駕北狩し、景帝遂に即位す。寇の都城に薄るや、城中の人皆哭く。仲和曰く、「憂うる勿れ、雲南に向かい、大将の気至らん、寇退かん。」明日、楊洪等入りて援い、寇果たして退く。一日朝に出で、衛士有りて占を請う。仲和辞す、衛士怒る。仲和笑いて曰く、「汝が室中の妻妾正に相闘う、速やかに返るべし。」返れば則ち方に闘い解けず。或る人問う、「何に由りて知る。」曰く、「彼問う時、適に両鵲の屋上に闘うを見る、是を以てこれを知る。」その事を占うこと率ねこれに類す。

仝寅

仝寅、字は景明、安邑の人。十二歳で失明し、師に従って京房の術を学び、禍福を占って多く奇しく当たった。父の清が大同に遊び、彼を連れて塞上を行く。石亨が参将であった時、彼を大いに信じ、何事も彼に諮った。英宗が北狩(土木の変)の際、使者を遣わして還期を問う。『乾』の初爻を筮って得て、言うには「大吉なり。四爻は初爻の応なり、初は潜み四は躍る。明年は歳午に在り、その幹は庚なり。午は躍る候なり。庚は良く、更新す。龍は歳に一躍し、秋に潜み秋に躍る。明年仲秋、駕は必ず復す。但だ繇に用いる勿しとあり、応は淵に在り、還りて復すも、必ず位を失う。然れども象は龍なり、数は九なり。四は五に近く、躍るは飛に近し。龍は醜に在り、醜を赤奮若と曰い、復は午に在り。午の色は赤、午は醜に奮い、若は順なり、天の之に順うなり。其れ丁に於いては、象は大明なり。位は南方に在り、火なり。寅は其の生、午は其の王、壬は其の合なり。歳丁丑に至り、月は寅、日は午、壬に合するに、帝其れ復辟せんか」と。已にして悉く験す。

石亨が京営を督して入ると、彼を連れて随行した。及んで也先が都城を逼るや、城中の人々は恐れ騒ぎ、或る者が筮を請うと、仝寅は言う「彼は驕り我は盛ん、戦えば必ず勝つ」と。寇は果たして敗れて去る。明年、也先が上皇を迎える使者を遣わすことを請うと、廷臣は其の詐りを疑う。仝寅は石亨に言う「彼は天に順い義を仗つ、我が中国反って奉迎の礼を失わば、寧ろ外蕃に笑いを貽さざらんや」と。石亨は乃ち于謙と決計し、上皇は果たして還る。景泰三年、指揮の盧忠が変を告げ、事は南宮(英宗)に連なる。帝は中官の阮浪を殺し、猶ほ窮治して已まず、外議洶洶たり。盧忠ある日人を屏いて筮を請うと、仝寅は之を叱して言う「是の兆は大凶、死して以て贖うに足らず」と。盧忠は懼れて狂を佯い、事は竟わず。已にして盧忠は果たして誅せらる。英宗が復辟すると、仝寅を官にしようとしたが、仝寅は固く辞す。命じて金銭・金の卮等の物を賜う。其の父を指揮僉事に官し、徐州に赴かんとする。英宗は仝寅が偕に行くを慮り、乃ち錦衣百戸を授け、京師に留め置く。仝寅は石亨の勢い盛んなるを見て、毎に筮に因りて之を戒むるも、石亨は用いる能わず、卒に禍に及ぶ。仝寅は筮を以て公卿貴人の間に遊び、信重せざる者無きも、然して私に及ぶ一語も無し。年幾くか九十にして乃ち卒す。

呉傑

呉傑、武進の人。弘治年中、善医を以て京師に征せられ、礼部で高等を試みる。故事に、高等は御薬房に入り、次は太医院に入り、下なる者は遣還される。呉傑は尚書に言う「諸医は征せられ、都下に十余年待次す。一旦遣還せられば、誠に流落憫むべし。傑は御薬房を辞し、諸人と共に院に入ることを願う」と。尚書は其の義を感じて許す。正徳年中、武宗が疾を得るや、呉傑一薬にして愈ゆ、即ち御医に擢る。一日、帝が射猟より還り、甚だ憊れ、血疾を感ず。呉傑の薬を服して愈え、一官を進む。是より、毎に帝の一疾を愈す毎に、輒ち一官を進み、積もりて太医院使に至り、前後彪虎の衣・繡春刀及び銀幣を賜うこと甚だ厚し。帝は毎に行幸すれば、必ず呉傑を以て扈行せしむ。帝が南巡せんと欲するや、呉傑は諫めて言う「聖躬未だ安からず、遠く渉るに宜しからず」と。帝怒り、左右を叱して掖き出さしむ。及んで駕が還り、清江浦に漁りて、溺れて疾を得る。臨清に至り、急ぎ使者を遣わして呉傑を召す。比して至るに、疾已に深く、遂に扈して通州に帰る。時に江彬は兵を握り左右に居り、帝の晏駕して己が禍を得んことを慮り、力を尽くして宣府に幸するを請う。呉傑は之を憂い、近侍に語りて言う「疾亟し、僅かに大内に還るべし。倘し宣府に至りて不諱あらば、吾輩寧んぞ死する所あらんや」と。近侍懼れ、百方帝を勧め、始めて京師に還る。甫くにして還りて帝崩じ、江彬は誅せられ、中外晏然たり、呉傑力有り。未だ幾ばくもせずして致仕す。子の希周は進士、戸科給事中。希曾は挙人。

附 許紳

又た許紳有り、京師の人。嘉靖初年、御薬房に供事し、世宗に知られ、累遷して太医院使となり、歴て工部尚書を加え、院事を領す。二十年、宮婢の楊金英等謀逆し、帛を以て帝を縊り、気已に絶ゆ。許紳急ぎ峻薬を調えて之を下し、辰の時に薬を下し、未の時に忽ち声を発し、紫血数升を去り、遂に言う能く、又た数剤にして愈ゆ。帝は許紳を徳とし、太子太保・礼部尚書を加え、賜齎甚だ厚し。未だ幾ばくもせず、許紳疾を得て言う「吾起たず。曩に宮変有り、吾は自ら分つ、效あらざれば必ず身を殺さるべしと。此れに因り驚悸し、薬石の能く療する所に非ず」と。已にして果たして卒す。諡を恭僖と賜い、其の一子を官し、恤典加わり有り。明の世、医者官最も顕なるは、許紳一人に止まる。

附 王綸

其の士大夫に医を以て名有る者は、王綸・王肯堂有り。王綸、字は汝言、慈谿の人、進士に挙る。正徳年中、右副都御史を以て湖広を巡撫し、医に精しく、所在疾を治めて、立効せざる無し。『本草集要』・『名医雑著』有りて世に行わる。王肯堂の著す所の『証治準縄』は、医家の宗と為り、行履は父の『樵伝』に詳し。

淩雲

淩雲、字は漢章、帰安の人。諸生と為り、棄て去る。北に遊びて泰山に至り、古廟の前で病人に遇い、気垂絶せんとする。淩雲久しく之を嗟歎す。一道人忽ち曰く「汝之を生かさんと欲するか」と。曰く「然り」と。道人其の左股を針し、立ち蘇りて言う「此人毒気内侵し、死に非ず、毒散じて自ら生く耳」と。因りて淩雲に針術を授け、疾を治めて効無き無し。

里人の病嗽、食を絶つこと五日、衆補剤を投ずるも、益甚だし。淩雲曰く「此れ寒湿積なり、穴は頂に在り、之を針すれば必ず暈絶し、時を逾えて始めて蘇る」と。四人を命じて其の髪を分かち牽き、傾側せしめざらしめ、乃ち針す。果たして暈絶す。家人皆哭くも、淩雲は言笑自若たり。頃くして気漸く蘇り、復た補を加え、始めて針を出し、積痰斗許りを嘔し、病即ち除く。男子有り、病後に舌吐く。淩雲の兄も亦た医を知り、淩雲に謂いて言う「此れ病後に女色に近づくこと太だ早きなり。舌は心の苗、腎水竭きて、心火を制する能わず、病は陰虚に在り。其の穴は右股の太陽に在り、是れ当に陽を以て陰を攻むべし」と。淩雲曰く「然り」と。其の穴の如く之を針すも、舌吐くこと故の如し。淩雲曰く「此れ瀉するを知りて補するを知らざるなり」と。数剤を補し、舌漸く故に復す。

淮陽王、風を病むこと三載、朝に請い、四方の名医を召すも、治効無し。淩雲之に針を投ずるに、三日とせず、行歩故の如し。金華の富家の婦、少寡にして、狂疾を得、裸形野立するに至る。淩雲視て曰く「是れ喪心と謂う。吾其の心を針せん。心正しければ必ず恥を知らん。之を帳中に蔽い、好言を以て慰めて其の愧を釈せば、発せずして可なり」と。乃ち二人をして堅持せしめ、涼水を以て面に噴き、之を針して果たして愈ゆ。呉江の婦、臨産して、胎下らざること三日、呼号して死を求む。淩雲其の心を針刺し、針出ずるや、児手に応じて下る。主人喜び、故を問う。曰く「此れ心を抱くを生むなり。手針痛めば則ち舒ぶ」と。児の掌を取って之を視るに、針痕有り。

孝宗、淩雲の名を聞き、京に召し、太医官に命じて銅人を出だし、衣を以て蔽いて之を試みるに、刺す所中らざる無く、乃ち御医を授く。年七十七、家に卒す。子孫其の術を伝え、海内針法を称する者は、帰安の淩氏と曰う。

附 李玉

李玉という者がおり、六安衛の千戸に任官し、鍼灸に長じていた。ある者が頭痛を患い耐え難く、雷鳴がしても聞こえないほどであった。李玉が診察して言うには、「これは虫が脳を食っているのである」と。殺虫の諸薬を粉末に調合し、鼻の中に吹き込むと、虫はすべて眼・耳・口・鼻から出て、たちまち治癒した。足の不自由な者が二本の杖にすがって来ると、李玉が鍼を打つと、すぐにその杖を捨てさせた。両京では「神針李玉」と号された。また方剤にも通じていた。ある者が痿病を患い、李玉が諸医の処方を調べると、治法と合致しているのに効果がないので、疑問に思った。ふと悟って言うには、「薬には新旧があり、それゆえ効果に遅速がある。この病は表にあって深く、小剤では治癒できない」と。そこで薬を二鍋煮て甕に注ぎ、少し冷まして患者をその中に座らせ、薬をかけてやると、しばらくして大汗が出て、たちまち治癒した。

李時珍

李時珍、字は東璧、蘄州の人である。医書を読むことを好み、医家の『本草』は、神農から伝えられたものは三百六十五種に止まり、梁の陶弘景が増補したものも同数、唐の蘇恭が百十四種を増やし、宋の劉翰がさらに百二十種を増やし、掌禹錫・唐慎微らに至っては、先後して増補し合わせて千五百五十八種となり、当時は完備していると称された。しかし品類が煩雑となり、名称が多く雑駁で、あるいは一物を二、三に分け、あるいは二物を一品に混同しているのを、時珍は問題とした。そこで広く探求し博く採集し、煩雑を削り欠落を補い、三十年を経て、八百余家の書を読み、草稿を三度改めて書を成し、『本草綱目』と名付けた。薬を三百七十四種増やし、十六部に整理し、合わせて五十二巻とした。まず正名を掲げて綱とし、その他はそれぞれ解釈を付して目とし、次に集解でその産地・形状・色を詳述し、さらに気味・主治・附方を載せた。書が完成し、朝廷に献上しようとした時、時珍は急逝した。間もなく、神宗が国史編纂を詔し、四方の書籍を購求した。その子の建元が父の遺表とこの書を持って献上すると、天子はこれを嘉し、天下に刊行するよう命じ、これより士大夫の家にこの書が備わるようになった。時珍は楚王府奉祠正に任官し、子の建中は四川蓬谿知県となった。

附 繆希雍

また呉県の張頤・祁門の汪機・杞県の李可大・常熟の繆希雍はいずれも医術に精通し、病気を治すのに奇しく的中することが多かった。そして希雍は常に『本草』は神農に由来し、朱氏(震亨)がこれを『五経』に譬え、その後さらに『別録』が増補されたのは、注疏に譬えられるが、朱と墨(本文と注)が錯綜しているのを惜しんだ。そこで深く研究し分析し、『本経』を経とし、『別録』を緯として、『本草単方』一書を著し、世に行われた。

周述学

周述学、字は継志、山陰の人である。書を読み深遠な思索を好み、特に暦学に精通し、『中経』を撰した。中国の算法を用いて、西域の占術を測った。また五緯(惑星)の細かな運行を推究し、『星道五図』を作り、これにより七曜(日月五星)すべてに軌道を求めることができた。武進の唐順之と暦を論じ、歴代の史書・志書の議論を取り、その誤りを正し、煩雑を削った。また『大統万年二暦通議』を撰し、歴代の及ばなかったところを補った。暦以外に、図書・皇極・律呂・山経・水志・分野・輿地・算法・太乙・壬遁・演禽・風角・鳥占・兵符・陣法・卦影・禄命・建除・葬術・五運六気・海道針経に至るまで、それぞれ成書があり、合わせて千余巻、総称して『神道大編』と名付けた。嘉靖年間、錦衣衛の陸炳が経歴の沈煉に人材を訪ねると、煉は述学を推挙した。陸炳は礼を尽くして招聘して京に至らせ、その英偉さに感服し、兵部尚書の趙錦に推薦した。趙錦が辺境の事について訪ねると、述学は言った、「今年は主に辺境の兵事があり、乾と艮に応じる。艮は遼東、乾は宣府・大同の二鎮で、京師は心配ないであろう」と。後に果たしてその通りになった。趙錦が朝廷に推薦しようとした時、ちょうど仇鸞がその名を聞き招こうとしたが、述学は彼が必ず敗れると見抜き、郷里に帰った。総督胡宗憲が倭寇を征討する時、幕中に招いたが、やはり推薦できず、布衣のまま終わった。

張正常

張正常、字は仲紀、漢の張道陵の四十二世孫である。代々貴谿の龍虎山に居住した。元の時代に天師の号を賜っていた。太祖が南昌を平定すると、正常は使者を遣わして謁見させ、その後二度入朝した。洪武元年、即位を祝賀して入朝した。太祖は言った、「天に師があるのか?」そこで正一嗣教真人に改めて授け、銀印を賜い、位階は二品に準じた。僚佐を設置し、贊教・掌書と称した。これを制度として定めた。

長子の宇初が嗣いだ。建文の時、法に背いた罪により、印と誥命を剥奪された。成祖が即位すると、これを回復させた。宇初はかつて長春真人劉淵然から道法を授かったが、後に淵然と不和になり、互いに誹謗し合った。永楽八年に卒去し、弟の宇清が嗣いだ。宣徳初年、淵然が大真人の号を進められると、宇清は入朝して礼部尚書胡濙に懇願して請願させ、崇謙守静の号を加えられた。

さらに曾孫の元吉に伝わったが、幼少であったため、その祖母に護持を命じ、その父の留綱に真人を追贈し、母の高氏に元君を封じた。景泰五年に入朝し、四百二十人の道童への度牒給与を請うた。胡濙が再び請願し、許された。まもなく大真人の号を得ようとし、胡濙が請願すると、また許された。天順七年、さらに三百五十人の道童への度牒給与を請うたが、礼部尚書の姚夔が認めず、詔により百五十人の度牒を許した。

憲宗が即位すると、元吉はさらに母への加封を請い、太元君を太夫人に改めようとしたが、吏部の言上により許されず、やめた。初め、元吉にはすでに沖虚守素昭祖崇法安恬楽静玄同大真人の号を賜り、母には慈恵静淑太元君の号を賜っていたが、この時元吉に体玄悟法淵黙静虚闡道弘法妙応大真人の号を加え、母には慈和端恵貞淑太真君の号を加えた。しかし元吉はもとより凶暴で、ついに乗輿の器物・服飾を僭用し、制書をほしいままに改易した。良家の子女を奪い、人々の財物を強要して取り立てた。家に獄を設け、前後四十余人を殺害し、一家三人という者もいた。事が聞こえると、憲宗は怒り、元吉をかせにかけて京に送り、百官を集めて廷訊し、死罪と論じた。ここにおいて刑部尚書陸瑜らが世襲停止、真人号剥奪を請うたが、許されなかった。旧制に従い、その族人を選んで授けることとし、妄りに天師を称し、印を押して符籙を行う者は、罪を赦さないと命じた。これは成化五年四月のことであった。元吉は二年間投獄されたが、ついに縁故を頼って死罪を免れ、百回の杖刑を受け、粛州の軍に流され、まもなく庶人として釈放された。

族人の元慶が嗣いだが、弘治年間に卒去した。子の彦が嗣ぎ、嘉靖二年に大真人の号を進められた。彦は天子が神仙を好むことを知り、その徒十余りを駅伝で雲南・四川に派遣し、遺経・古器を採取して朝廷に献上させ、また蟒衣玉帯を鎮守の中貴(宦官)に贈ったが、雲南巡撫の欧陽重に弾劾されたが、問責されなかった。十六年、内庭で雪を祈ると験があり、金冠玉帯・蟒衣銀幣を賜り、金印に替えられ、詔勅では卿と称して名を呼ばなかった。彦が入朝する際の経路では、駅伝の供応が遅れることがあり、常山知県の呉襄らはついに按察使に処罰された。

子の永緒が伝わり、嘉靖末年に卒し、子がなかった。吏部主事の郭諫臣が穆宗の初政に乗じ、上章してその世襲の封を奪うよう請うた。江西の守臣に下して議わせると、巡撫の任士憑らは強く革めるべきと主張し、ついに真人の号を去り、上清観提点に改めて授け、秩は五品とし、銅印を与え、その宗人の国祥をこれに任じた。万暦五年、馮保が権勢を振るうと、国祥の旧封を復し、なお金印を与えた。国祥は応京に伝わった。崇禎十四年、帝は天下多事であることを以て、応京を召して祈祷させようとした。到着すると、命じて宴を賜わった。礼臣が言うには、「天順中の制では、真人は宴には与からず、ただ筵席を賜わるのみである。今、応京は優れた旨を奉じており、法王・仏子の例に倣い、霊済宮で宴を設け、内官を主席とすべきことを請う」と。これに従った。明年三月、応京は三官神の封号を加えるよう請い、中外一体で尊奉すべしとした。礼官がその謬りを力駁し、事は止んだ。張氏は正常以来、他に神異はなく、専ら符籙を恃み、雨を祈り鬼を駆り、時に小験があった。顧みるに代々相伝襲し、世を閲むこと既に久しく、ついに廃去されることはなかったという。

附 劉淵然 等

劉淵然は、贛県の人である。幼くして祥符宮の道士となり、よく風雷を呼召することができた。洪武二十六年、太祖がその名を聞き、召し寄せて高道の号を賜い、朝天宮に館した。永楽中、北京に従った。仁宗が立つと、長春真人の号を賜い、二品の印誥を与え、正一真人と等しくした。宣徳初め、大真人に進んだ。七年、朝天宮に帰ることを請い、御製の山水図歌を賜わった。卒年八十二、七日を閲して入殮するに、端坐して生けるが如しであった。淵然は道術があり、人となり清静自守であったので、累朝に礼せられた。その徒に邵以正という者がおり、雲南の人で、早く淵然に法を得た。淵然が老を請うと、これを推薦し、召されて道籙司左玄義となった。正統中、左正一に遷り、京師の道教事を領した。景泰の時、悟玄養素凝神沖默闡微振法通妙真人の号を賜わった。天順三年、慶成宴を行わんとした。故事によれば、真人は二品の班末に列するが、この時、帝が言うには、「殿上で文武の官を宴するに、真人どうして与ることができようか」と。筵席を送ってこれに与え、これが制となった。

また沈道寧という者もおり、同様に道術があった。仁宗の初め、混元純一沖虚湛寂清静無為承宣佈沢助国佐民広大至道高士に命じ、階は正三品とし、法服を賜わった。

時に浮屠の智光という者もおり、円融妙慧浄覚弘済輔国光範衍教灌頂広善大国師の号を賜い、金印を賜わった。智光は武定の人である。洪武の時、命を奉じて二度烏斯蔵諸国に使した。永楽の時、また烏斯蔵に使いし、尚師哈立麻を迎え、ついに番国の諸経に通じ、多く訳解した。六朝に歴事し、寵錫は群僧に冠し、淵然らと淡泊自甘し、戒行を失わなかった。成化・正徳・嘉靖の朝に至り、邪妄雑進し、恩寵濫加され、これが先朝と異なる所以となった。