韓愈は言う、「『蹇』の六二に『王臣蹇蹇』とあり、『蠱』の上九に『高尚其事』とある。居る時が一ならず、蹈む徳が同じからざるによる」と。そもそも聖賢は世を用いることを心とし、逸民は隠遁を節とする。豈に性分実然ならんや、亦た各其の志を行うのみ。明の太祖は儒士を礼し、文学を聘し、岩穴を搜求し、幽人に側席す。後に君に用いられざる罰を置くも、然れども跡を韜みて自ら遠ざかる者も、亦た人に乏しからず。中葉に至りて承平、声教淪浹し、巍科顕爵、天網を頓てて以て英俊を羅し、民の秀なる者は、国光を観て王廷に賓たる無からざりき。其の瑰材を抱き、積学を蘊み、形を泉石に槁し、当世に意を絶つ者は、称するを得ず。是れより観れば、世道升降の端、遭逢する所に係る。豈に其の時之れを為さざらんや。凡そ徴聘の及ぶ所、文学行誼称すべき者は、已に諸傳に散見す。茲に貞節超邁なる者数人を取り、『隱逸傳』を作る。
張介福
張介福、字は子祺、懐慶より徙りて呉中に住む。少くして許衡に学を受く。二親早く終わり、遂に仕進の意無し。家貧しく、冬に夾襦を具ふる能はず。或ひは糹寧絮を遺るも、受けず。纖介必ず礼を以てす。張士誠、呉に入る。卒其の家を犯す有り。危坐して起たず。刀面を斫ち、地に僕す。醒めて復た冠を取りて之を戴き、坐して自若たり。卒怪しみて、異物と為す。走り去る。介福其の先墓を発するを恐れ、往きて廬す。士誠聞きて之を致さんと欲す。不可。其の弟をして往きて問わしむ。答えて曰く、「乱を楽しまず、天禍を貪まず、国家を忘れず」と。之に饋るも、力めて辞す。已にして病革む。其の友に謂ひて曰く、「吾が志は古人に希ふも、能はざりき。惟だ時に污れざる、庶幾からんか」と。遂に卒す。
倪瓚
倪瓚、字は元鎮、無錫の人なり。家貲に雄なり。詩を工にし、書画を善くす。四方の名士日々其の門に至る。居る所に閣有り、清閟と曰ふ。幽迥塵を絶つ。蔵書数千巻、皆手自ら勘定す。古鼎法書、名琴奇画、左右に陳列す。四時の卉木、其の外に縈繞し、高木修篁、蔚然として深秀なり。故に自ら雲林居士と号す。時に客と其中に觴詠す。人として潔癖有り、盥濯手を離れず。俗客廬を造る、去るに比し、必ず其の処を洗滌す。縑素を求むる者踵を接して至る。瓚も亦た時に之に応ず。至正の初め、海内事無く、忽ち其の貲を散じて親故に給す。人皆怪しむ。未幾兵興り、富家悉く禍を被る。而して瓚は扁舟箬笠、震澤・三泖の間を往来し、独り患を罹らず。張士誠累ね鉤致せんと欲すも、漁舟に逃れて以て免る。其の弟士信、幣を以て画を乞ふ。瓚又た斥けて去る。士信恚る。他日賓客に従ひて湖上に游ぶ。異香葭葦の間より出づるを聞き、瓚なるかと疑ひ、漁舟の中を物色し、果たして之を得たり。抶して幾くか斃れんとす。終に一言無し。呉平ぐるに及び、瓚年老ゆ。黄冠野服、編氓に混跡す。洪武七年に卒す。年七十四。
徐舫
徐舫、字は方舟、桐廬の人。幼くして軽侠、撃剣・走馬・蹴踘を好む。既にして之を悔ひ、科挙業を習ふ。已にして復た棄て去り、歌詩を学ぶを為す。睦は故より詩人多し。唐に方干・徐凝・李頻・施肩吾有り、宋に高師魯・滕元秀有り、睦州詩派と号す。舫悉く之に歩聚を取る。既にして乃ち四方に游び、其の名士と交はり、詩益々工なり。行省参政蘇天爵将に之を薦めんとす。舫笑ひて曰く、「吾は詩人耳。章紱を以て羈すべけんや」と。竟に避けて去る。室を江皋に築き、日々雲煙出没の間に苦吟し、翛然として世と隔たるが若く、因りて自ら滄江散人と号す。宋濂・劉基・葉琛・章溢の召に赴くや、舟桐江を溯る。忽ち黄冠鹿裘の人江上に立ち、基を招きて笑ひ、且つ語を以て之を侵す。基望見し、急ぎ舟中に延び入る。琛・溢競ひて歓謔し、各冠服を取りて之を服し、黟川に載せ上らんと欲す。其人不可として乃ち止む。濂初め未だ相識らず、以て問ふ。基曰く、「此れ徐方舟なり」と。濂因りて起ち共に歓笑し、酒を酌みて別る。舫の詩に『瑤林』・『滄江』の二集有り。年六十八、丙午の春、家に卒す。
楊恆
楊恆、字は本初、諸暨の人。外族方氏義塾を建て、四方の游学士を館す。恆幼くして往きて諸経を受け、輒ち其の旨要を領す。文峻潔、郡邑の間に声有り。浦江の鄭氏延べて師と為す。十年を閲し退きて白鹿山に居す。棕冠を戴き、羊裘を披き、経を帯びて煙雨の間に耕し、嘯歌自ら楽しむ。因りて自ら白鹿生と号す。太祖既に浙東を下す。欒鳳を命じて州事を知らしむ。鳳請ふて州学の師と為さしむ。恆固く譲りて起たず。鳳乃ち州中の子弟を命じ即ち家に道を問はしむ。政缺失有れば、輒ち書を貽ひて咨訪す。後唐鐸紹興を知り、辟きて之を起さんと欲す。復た固く辞す。宋濂の学士と為るや、擬へて国子師に薦めんとす。州郡の辟命を受けざるを聞きて乃ち已む。恆性醇篤、人と語れば、肺肝を出して相示す。事稍く名義に乖けば、輒ち峻言を以て指斥す。家儋石無しと雖も、財に臨みて甚だ介なり。郷人之を奉りて楷法と為す。
陳洄
時に陳洄有り、義烏の人。幼くして経を治め、長じて百家の言に通ず。初め功名を以て顕はさんと欲す。既にして隠居し、青霞冠を戴き、白鹿裘を披き、復た塵事と接せず。居る所大溪に近く、修竹多し。自ら竹溪逸民と号す。常に小艇に乗り、短簫を吹き、吹き已りて舷を叩きて歌ひ、悠然として自ら適す。宋濂俱に之が傳を為す。
楊引
楊引、吉水の人。学を好み詩文を能くす。宋濂・陶安に称せらる。駙馬都尉陸賢従ひて学を受く。朝に入り、挙止端雅なり。太祖喜び、誰か教ふる者ぞと問ふ。賢引を以て対ふ。立ちて召見し、食を賜ふ。他日、賢褻服を以て見ゆ。引太息して曰く、「是れ其の心我を易ふるなり。久しく此に居るべからず」と。復た纂修を以て征すも、亦た就かず。其の学者を教ふるに、先づ操履にして後れ文藝す。嘗て『論語郷黨』の篇を掲げて人に示し曰く、「吾が教へ自ら養生の術有り。安んぞ偃仰吐納を事とせん」と。乃ち飲食を節し、時に動息し、老に至るまで視聽衰へず。既に歿す。安福の劉球其の学道原を探り、文後世を範とし、去就出処、卓然として陶潛・徐穉の風有りと称す。
吳海
吳海、字は朝宗、閩縣の人。元の末世に学行をもって称された。四方に賊が起こるに当たり、仕進の意を絶つ。洪武の初め、守臣が朝廷に推薦しようとしたが、力辞して免れた。その後、史局に召し出されたが、またも力辞した。かつて言う、「楊・墨・仏・老は聖道の賊、管・商・申・韓は治道の賊、稗官野乗は正史の賊、支詞艶説は文章の賊である。上に立つ者は、経書に通じた大臣に命じ、諸儒を集めてその品目を定め、天下に頒布し、民間ではこれ以外の書を蔵することを許さず、坊市で売ることも許さぬようにすべきである。このように数年を経れば、学者は成長して異聞に触れず、徳を養い才を育むのに、小補といえようか」と。そこで『書禍』と題する一編を著し、このことを明らかにした。永福の王翰と親善であった。王翰はかつて元に仕えたが、吳海はしばしば死を勧め、王翰は果たして自決した。吳海はその子の偁を教養し、ついに成立に至らしめた。平素は虚懐で善を楽しみ、過ちを規諫する者がいれば、欣然として直ちに改め、そのために書斎に「聞過」と名付けた。文章は厳整典雅で、すべて理に帰し、後学はみなこれを宗仰した。『聞過斎集』が世に行われている。
劉閔
楊黼
楊黼、雲南太和の人。好学で、『五経』をいずれも百回読んだ。篆籀に巧みで、仏典を好んだ。ある人が科挙を受けるよう勧めたが、笑って言った、「性命を究めずに、外物を究めるのか」と。庭前に大きな桂樹があり、板を樹上に縛り、「桂楼」と題した。その中に身を横たえ、詩を歌って自得した。数畝を自ら耕して美味を供し、ただ親の喜びを求め、余りは顧みなかった。『孝経』に数万字の注を付け、群書を証し、性命に根ざし、字はすべて小篆であった。用いる硯が乾くと、楼を下りて水を取ろうとしたところ、硯池が忽然と満ち、これ以後常となり、当時の人はみな怪しんだ。父母が亡くなると、雇われて葬儀を営み終え、雞足山に入り、羅漢壁石窟山に十余年棲み、八十歳まで生きた。子の遜が迎え帰り、ある日沐浴し、子孫に拝礼させ、「明日、私は行く」と言い、果たして逝去した。
孫一元
孫一元、字は太初、どこの人か知らない。郷里を問うと、「私は秦の人である」と言った。かつて太白山の頂きに棲んだので、太白山人と号した。あるいは安化王の一族で、王が不軌の罪で誅殺されたため、姓名を変えて難を避けたともいう。一元は姿質天性が人に優れ、詩を作るのが巧みで、風儀は秀朗、蹤跡は奇譎、烏巾に白帢、鉄笛と鶴瓢を携え、中原を遍歴し、東は斉・魯を越え、南は江・淮に渡り、荊を経て呉越に至り、至る所で詩を賦し、神仙を談じ、当世の事を論じ、しばしば座の人を傾倒させた。鉛山の費宏が宰相を罷免され、杭州の南屏山を訪ねた時、彼が昼寝をしているのに出会い、寝室に入って語った。送って門まで来たが、まったく応答しなかった。費宏は出て人に語って言った、「私は一生このような人を見たことがない」。時に劉麟は知府を罷免されて帰り、龍霓は僉事を辞して政を退き、ともに湖州に客居し、郡人の故御史陸昆と親善で、長興の呉珫は隠居して客を好んだ。三人はともにその家に寄寓した。呉珫はそこで一元を招いて社に入れ、「苕溪五隠」と称した。一元は溪上に田を買い、そこで老いようとした。挙人の施侃は一元と大変親しく、妻の妹の張氏を娶わせたが、一女を生んで逝去し、わずか三十七歳であった。呉珫らは道場山に葬った。
沈周
郡守が沈周を賢良に推薦しようとした。沈周が『易』を占うと、『遁』の九五を得たので、隠遁を決意した。住まいには水竹亭館の勝があり、図書や鼎彝が充満して錯列し、四方の名士が訪れる日がなく、風流文彩は一時を照映した。親に仕えること至孝であった。父が亡くなり、ある人が仕官を勧めると、「母が私を命としておられることを知らないのか。どうして膝下を離れられようか」と答えた。平素は城市に入るのを厭い、郭外に行窩を設け、用事がある時に一度そこを訪れた。晚年は、跡を匿うこと深からんことを恐れ、先後の巡撫である王恕、彭禮はいずれも礼敬し、幕下に留めようとしたが、ともに母が老いていることを理由に辞した。
陳繼儒
陳繼儒、字は仲醇、松江府華亭県の人である。幼少より聡明で異なり、文章を能くし、同郡の徐階が特にこれを器重した。長じて諸生となり、董其昌と齊名した。太倉の王錫爵が招き、子の衡と共に支硎山で読書させた。王世貞もまた雅に繼儒を重んじ、三呉の名ある士は争って師友と為らんと欲した。繼儒は通明にして高邁、年甫だ二十九にして、儒者の衣冠を取って焼き棄てた。昆山の南に隠居し、廟を構えて二陸を祀り、草堂数椽を建て、香を焚き晏坐し、意豁如たり。時に錫山の顧憲成が東林で講学し、これを招いたが、謝して往かず。親が亡くなると、神山の麓に葬り、遂に東佘山に室を築き、門を杜して著述し、終焉の志有り。詩を工み文を善くし、短翰小詞も皆極めて風致有り、兼ねて絵事を能くした。又博文強識、経史諸子・術伎稗官と二氏の家言に至るまで、較核せざるは無し。或いは瑣言僻事を刺取し、詮次して書を成し、遠近競って相購い写した。詩文を征請する者虚日無し。性、士類を獎掖するを喜び、屨常に戸外に満ち、片言の酬応も、意に当らざるは無くして去った。暇あれば則ち黄冠老衲と峰泖の勝を窮め、吟嘯して返るを忘れ、足跡稀に城市に入る。其昌が来仲楼を築きて招き至らしめた。黄道周が上疏して「志尚高雅、博学多通、繼儒に如かず」と称し、その推重すること此の如し。侍郎沈演及び御史・給事中諸朝貴が、先後論薦し、繼儒は道高く齒茂し、呉與弼を聘う故事の如くすべしと謂う。屢詔を奉じて征用せられたが、皆疾を以て辞した。卒年八十二、自ら遺令を為し、纖悉畢く具わる。