明史

列傳第一百八十五 孝義二

◎孝義二

○王俊(劉準・楊敬)・石鼐(任鏜)・史五常・周敖・鄭韺(榮瑄・葉文榮)・傅檝・楊成章・謝用・何競・王原・黃璽・歸鉞(族子繡)・何麟・孫清(宋顯章・李)・劉憲(羅璋等)・容師偃(劉靜・溫鉞)・俞孜(張震・孫文)・崔鑒・唐儼・丘緒・張鈞(張承相等)・王在復(王抃等)・夏子孝・阿寄・趙重華(謝廣)・王世名・李文詠(王応元等)・孔金(子良)・楊通照(弟通傑・浦邵等)・張清雅(白精忠等)

王俊は城武の人である。父は順天府知事であった。母が官舎で没すると、俊は棺を支えて還葬し、草を刈って仮小屋を作り、墓の傍らに寝起きした。野火が山の尾根に延焼して将に及ばんとした時、俊は叩頭して慟哭すると、火は墓域の木に至って止んだ。正統三年に旌表された。

劉準は唐山の諸生である。父が喪に服し、墓の傍らに廬した。冬の月に野火が将に冢樹に及ばんとした時、準は悲号して天に告げると、火は遂に消えた。正統六年に旌表された。

楊敬は帰徳の人である。父が戦陣で没し、木主を作って招魂して葬った。読書して戦陣の事に至る毎に、涙を流して止まなかった。母が没し、柩が堂にある時、隣家が失火し、烈焔が甚だ迫った。敬は柩を撫でて哀号すると、風が止み火が消えた。正統十三年に旌表された。

石鼐は渾源の諸生である。父が没し、墓の傍らに廬した。墓が初めて成った時、天は大雨が降り、山水が驟然と漲った。鼐が天を仰いで号哭すると、水が将に墓に及ばんとして、忽ち二道に分かれて去り、墓は全きを得た。弘治五年に旌表された。

任鏜は夏邑の人である。嫡母が卒し、墓の傍らに廬した。黄河が沖溢し、将に塋域を嚙まんとした。鏜が地に伏して号哭すると、河は即ち南に徙った。嘉靖二十五年に旌表された。

史五常は内黄の人である。父の萱は広東僉事に官した。卒し、南海の和光寺の側に葬られた。五常は七歳の時、母が連れて帰った。成長して、母に奉じて至孝であり、常に父が帰葬されないことを恨んだ。母が之に語って曰く、「爾が父の杉木の棺の中に、大銭十枚を置いた。爾は謹んで之を誌せ。」母が没し、墓の傍らに廬して毀瘠に至り、既に喪を終えると、往きて父の棺を迎えた。時に相去ること既に五十年、寺は水に没して久しかった。五常が泣いて祈ると、老人が杖を以て寺の址を示した。地を発くと、果たして父の棺を得、中に置かれた銭は母の言う如くであった。乃ち扶けて帰り、母と合葬し、復た墓の側に廬した。正統六年に旌表された。

周敖は河州衛の軍家の子である。正統末、英宗が北狩されたと聞き、大哭し、七日間食わずして死んだ。其の子の諸生の路は別荘で読書していたが、父の死を聞き、慟哭して奔り帰り、頭を以て庭の槐に触れて亦た死んだ。郷人は之を異とし、州に聞こえた。知州が躬ら其の喪に臨み、賻として麦四十斛・白金一斤を贈った。路の妻の方氏は、厲誌して節を守り、子の堂を撫育して成立させ、後ち知県となった。

鄭韺は石康の人である。父の賜は挙人、兄の頀は進士であった。天順中、母が瑤賊に掠められた。韺は十六歳、身を挺して賊の塁に入り、之を欺いて曰く、「吾は吾が母を乞いたい。豈に金を惜しまんや、但し金は皆母が埋めた所である。願わくは母に代わって帰り之を取らん。」賊は遂に韺を拘えて母を釈した。然れども其の家には実は金が無かった。韺は遂に殺された。廉州知府の張嶽が祠を建てて之を祀った。

榮瑄は瓊州の人である。三歳で孤となり、兄の琇と並びに孝を以て聞こえた。天順四年、土賊が瓊城を占拠した。瑄兄弟は母を扶けて走り避けた。賊に遇い、琇が瑄に謂って曰く、「我は死を以て母を衛い、汝は急ぎ去れ。」瑄は之に従い、琇と母は遂に賊の中に陥った。官軍が至り、琇が捕らえられた。主将が将に琇を殺さんとした時、瑄が趨り至り、叩頭して血を流し、泣いて請うて曰く、「兄は母の故に賊に陥り、母は老いて家は貧しく、兄を恃んで命と為す。願わくは瑄を殺して兄を存し母を養わしめよ。」主将は察せず、竟に瑄を殺した。

後に葉文榮という者あり、海寧の人である。弟が人を殺して死罪と論ぜられ、母は日々悲泣して食わなかった。文榮が母に謂って曰く、「児は年既に長く、子あり。請うて弟に代わりて死せん。」遂に官に詣でて人を殺した罪を服し、弟は釈放され、而して文榮は死罪に坐した。

傅檝は字を定済と云い、泉州南安の人である。祖父の凱、父の浚は並びに進士であった。部郎を為した。檝は十六歳で郷試に挙げられ、二十歳で進士となった。弘治中、行人に授かり、出でて襄府に行った。半道で母の病を聞き、京に入り省視して再び往きて事を竣えんことを請うた。礼部尚書の劉春が曰く、「若に害無く、而して孝を教うる可し。」奏して之を許させた。浚は後に山東塩運司同知に遷った。継妻を娶り、其の二奴と私通した。浚が聞き将に之を治めんとすると、遂に暴卒した。檝は心に疑い未だ発せず、奴は遽かに亡去した。久しくして、一奴が徳化県に逃れ、巨姓の家に傭うを偵知した。檝は微行して往き、奴の出るを伺い、袖の鉄椎を以て之を撃殺した。而して其の一は跡を付けるべからざりき。檝は継母に会うことを欲せず、父を葬り畢え、号慟して曰く、「父の仇尚在す、何を以て人と為さんや!」乃ち衣冠を裂き、妻子を屏け、出でて郊墟の間に宿り、蓬首垢面、飢寒風雨、就き避くるを知らず。親戚故人は率ね之を目して狂と為し、檝は終に自ら明かさなかった。子の燾が卒しても、哭さず。或る人が之を詰ると、則ち涙を垂れて曰く、「我は子と為る能わず、敢えて父と為らんや!」継母が卒して、乃ち帰った。蓋し自ら廃し自ら罰すること三十五年、又た十五年にして卒した。

楊成章は道州の人である。父の泰は浙江長亭巡検となり、妻の何氏は子がなく、丁氏の女を妾として迎え、成章を生んだ。わずか四歳の時、泰が死去した。何氏が棺を扶けて帰郷しようとしたところ、丁氏の父は子を渡したが、その母を奪った。母は銀銭を剪り、何氏と別れ、それぞれその半ばを蔵め、成章が成長したらこれを授けることを約した。六年を経て、何氏が臨終に際し、成章に半銭を授け、その故を告げた。成章は嗚咽して命を受けた。元服した後、妻を娶って一月余りで、ただちに半銭を執って浙中に赴き母を尋ねた。母は先に東陽の郭氏に嫁ぎ、瑉という子を生んでいたが、成章は知らなかった。遍く訪ねたが、出会うことができずに帰った。弘治十一年、東陽の典史李紹裔が事があって瑉の家に宿泊した。瑉の母は彼が道州の人であることを知り、瑉を遣わして成章の存否を問わせ、成章がすでに諸生となっていることを知ると、瑉に半銭を執らせてその兄を探させた。時に会稽人の訓導官がおり、かつて東陽で教えを設け、瑉の師となり、成章に瑉の母が子を憶う様子を述べた。成章もまた母を尋ねに行き、江西の舟中で瑉と出会った。兄弟は悲しみ且つ喜び、それぞれ半銭を出して合わせると、ますます確信し、ともに東陽に至り、母子は初めて相聚った。ここより成章は三度母を迎えに行ったが果たせず、月廩を棄て、東陽に赴き侍養した。母が死去すると、墓側に廬して三年を経て初めて帰った。嘉靖十年に至り、成章は歳貢として都に入り、瑉もまた事があって至ったので、成章の親を尋ねた事を述べ、これを吏部に上奏し、一官を進めることを請うた。部臣は言う、「成章の孝行は、両地においてすでに勘実され、朝覲憲綱に登載されている。瑉の言は誤りではない。昔、朱寿昌は官を棄てて母を尋ね、宋の神宗は詔して官に就かせた。今、所司は知りながら推薦できず、臣等はまた例に拘って旌表を請わず、まことに古誼に愧じる。請う、成章に量りを以て国子学録を授け、瑉に花紅羊酒を賜わんことを。」制して曰く、「可なり。」と。

謝用は字を希中といい、祁門の人である。父は永貞。生母の馬氏が妊娠していた時、永貞は外に客居し、嫡母の汪氏は妬んで彼女を嫁がせ、そこで用を生んだ。永貞が帰ると、大いに恨み、用を抱いて帰り、隣のおうに乳を寄せた。汪氏は収めて自らこれを鞠育し、一年余りしてまた子を生み、均しく愛して厚薄がなかった。用が元服して初めて生母を知った。密かに訪ねると、彼女はまた改嫁しており、その所在を知らなかった。用は遍く探し求めてほぼ一年。一夕、休寧の農家に宿ったところ、寡婦の媼が出て来て問うて曰く、「汝は誰か。」用は姓名と母を尋ねる故を告げた。曰く、「汝の母は誰か。」曰く、「馬氏です。」曰く、「汝は永貞の子ではないか。」曰く、「そうです。」媼はそこで用を抱いて曰く、「我こそ汝の母である。」ここにおいて母子相い抱いて泣き、時に弘治十五年四月であった。用は帰って父に告げ、その同母弟とともに迎えて帰り、別室に住まわせた。二人の母に孝養を尽くし、誠を曲げて尽くした。後に汪氏は感悔し、馬氏を迎えて同居させ、終に間言がなかった。永貞が死去すると、用は喪に居て孝をもって聞こえた。隣人が失火し、数十家に延焼し、用の家に至らんとした時、風が反転して火が消えた。用は時に諸生であり、督学御史はその孝を廉察し、これを德行優等に列し、月廩を与えた。

何競は字を邦植といい、蕭山の人である。父の舜賓は御史となり、広西慶遠衛に謫戍されたが、赦に遇って帰還した。吏の短長を執ることを好んだ。鄒魯という者あり、当塗の人。また御史として謫官となり、やや遷って蕭山知県となったが、貪暴で狡悍であった。舜賓は魯の陰事を求めてこれを訐り、二人は互いに猜疑した。県中の湘湖が富人に私占されていたので、舜賓はその事を官に発し、奏してこれを核させた。富人により奏して舜賓が戍卒として潜逃し、擅自に冠帯したとされた。奏章はともに所司に下り核治された。魯はその文牒を隠し、詭言して舜賓は赦に遇っても験証がなく、原衛に戻して査核すべしと言った。上官は許さず、これを駁した。時に舜賓の門人訓導童顕章が魯に陥れられて死罪と論ぜられ、府に下って覆験され、道すがら舜賓の家を通り、入って謀った。魯はこれを聞き、大いに詬って曰く、「舜賓は敢えて重囚を竄すとは。」卒を発してその門を囲み、ただちに舜賓を捕らえ、径ちに慶遠に解送した。また爪牙の吏に命じてその衣服を屏けさせた。余幹に至り、昌国寺に宿し、夜に湿った衣でその口を閉じ、圧殺した。魯はまた舜賓の妻子を捕らえた。競は母とともに常熟に逃れ、父の友王鼎の家に匿れた。―やがて魯は山西僉事に遷り、将に行かんとした。競はそこで潜かに帰り、族人と謀り、親党数十人を召し酒を飲ませ、舜賓の冤を称えた。中座に、競が出て叩頭して哭きつつ請うと、皆躍り上がって命を効さんことを願った。そこでそれぞれ器を執って道傍に伏し、魯の通過を伺い、競は袖に鉄槌を隠して奮撃し、騶従は驚き散った。その輿を倒し、裸にし、杖を斉しく下し、両目を霍き、鬚髪を尽く抜いた。競は佩刀を抜いてその左股を斬りつけ、必ず殺さんとしたが、衆に止められた。そこで魯と連鎖して按察司に赴き、予め族父の沢を遣わして闕下に走らせ冤を訴えさせた。僉事の蕭翀はもと魯の与党であり、厳刑をもって競を訊いた。競は大言して曰く、「必ず我を殺さんとするならば、我は死を畏れぬ者ではない。顧みるに人孰く父母なからんや、且つ我はすでに朝廷に訟じており、公輩の擅殺すべきところではない。」臂の肉を噛み切り案上に擲ち、血を含んで翀の面に噀き、一堂皆驚いた。

時に競の上疏がすでに上り、刑部郎中李時、給事中李挙を遣わし、巡按御史鄧璋とともに雑治させた。諸人は両端を持し、魯を故に人に衣食を屏けて死に至らしめた罪と擬し、競を部民として本属知県を毆打して篤疾にした罪と擬し、律に従ってともに絞刑とし、その他逮捕された数百人も、罪を擬すること差等があった。競の母朱氏がまた登聞鼓を撾いて冤を訴え、魯もまた人を馳せて訴えさせたので、大理寺正曹廉を命じて巡按御史陳銓とともに覆治させた。廉は曰く、「汝らはどうして県官を毆ったのか。」競は曰く、「競は父の仇を知り、県官は知りません。ただ恨むらくは未だこれを殺さなかったことです。」廉は致死の確証がないとして、県令を遣わして棺を開き検証させた。検者が傷を報告し、解役の任寛が慷慨して首実し、かつ舜賓が臨命に付した血書を出した。ここにおいて衆は皆辞して伏し、改めて魯を斬刑と擬し、競を徒刑三年と擬した。法司は競を遣戍すべく議し、かつ曰く、「魯はすでに篤疾となり、競は父のために仇を報い、律の意するところあり、ともに上裁を俟つべし。」帝はその議に従い、競を福寧衛に戍らせた。時に弘治十四年二月である。後に武宗が登極して肆赦し、魯は死を免れ、競は赦されて帰り、また九年して卒した。競は父の没より死に至るまで、凡そ十六年、衰服を終身にわたって着た。

王原は文安の人である。正徳年間、父の珣は家が貧しく役が重いため逃げ去った。原がやや成長し、父の所在を問うた。母はその故を告げると、原は大いに悲慟した。そこで邑治の衢に店を設け、酒食を調えて諸の行旅に施した。遠方の客が至ると、父の姓名・年貌を告げ、父の蹤跡を得んことを冀った。久しく得るところがなかった。妻を娶って一月余りすると、跪いて母に告げて曰く、「児は父を尋ねに行きます。」母は泣いて曰く、「汝の父は去ること二十余載、存亡も知れない。且つ汝の父は氓に過ぎず、流落して何所にいるか、誰が名を知る者があろうか。父子相継いで羈鬼となることなかれ、我をして依る所なからしむるな。」原は痛哭して曰く、「幸いに妻が母に陪います。母は児を以て念いとすることなかれ、児は父を得ずして帰りません。」号泣して母に別れ去り、山東南北を遍歴し、去来すること数年。

ある日、海を渡って田横島に至り、神祠の中で仮寐していると、寺に至る夢を見た。ちょうど正午で、莎(ハマスゲ)を炊き肉羹と和えて食べていた。一人の老父が来て、驚いて目が覚めた。原が夢のことを告げ、占ってもらおうとした。老父が言うには、「お前は何をする者か」と。原が「父を尋ねています」と答えると、老父は言った。「午は正南の位である。莎の根は附子、肉と和えるのは附子膾である。南方に求めよ、父子は会うであろうか」。原は喜び、礼を言って去り、南へ洺水・漳水を越え、輝県の帯山に至った。夢覚という寺があり、原は心が動いた。天は雪が降り、寒さが甚だしく、寺の門外に臥していた。夜が明ける頃、一人の僧が門を開けて出てきて、驚いて言った。「お前は何者か」。原が「文安の人で、父を尋ねて来ました」と言うと、僧は「父を識っているか」と問うた。原が「識りません」と答えると、僧は原を禅堂に引き入れ、哀れんで粥を与えた。王珣がちょうど竈の下で炊事をしていた。僧は平素から彼が文安の人であることを知っており、珣に言った。「お前の同郷に父を尋ねる若者が来ている。お前はその人を知っているかもしれない」。珣が出てきて原を見たが、互いに面識がなかった。父の姓名を問うと、それは王珣であった。珣もまた原の幼名を呼んだ。互いに抱き合って慟哭したので、寺の僧たちは感動しない者はいなかった。珣は言った。「帰ってお前の母に告げよ。私は故郷に帰る顔がない」。原は言った。「父が帰らなければ、子は死ぬまでです」。衣を引っ張って泣き止まなかった。寺の僧たちが力説して諭したので、父子は互いに支え合って帰り、夫妻子母は再び集まった。後に原の子孫には官に仕える者が多かった。

黄璽、字は廷璽、余姚の人である。兄の伯震が商売で十年帰らない。璽は出て兄を求め、万里を行き巡ったが、跡形もなかった。最後に衡州に至り、南嶽廟に祈ると、夢に神人が「纏綿盜賊際、狼狽江漢行」の二句を授けた。一人の書生が彼に告げて言った。「これは杜甫の『舂陵行』の詩である。舂陵は今の道州だ。どうしてそこへ尋ねに行かないのか」。璽はその言葉に従った。既に到着したが、何も出会わなかった。ある日、厠に入り、傘を道端に置いた。伯震がちょうど通りかかって言った。「これは我が郷里の傘だ」。その柄をたどって見ると、「余姚黄廷璽記」の六字があった。ちょうど疑い驚いていると、璽が出てきて問い訊ねた。それは兄であった。そこで兄を奉じて帰った。

帰鉞、字は汝威、嘉定県の人である。早くに母を失った。父が後妻を娶り、子ができたので、鉞は寵愛を失った。父がたまたま鉞を鞭打つと、継母はすぐに大杖を求めて父に与え、「お前の父上の力を損なうな」と言った。家は貧しく、食が足りなかった。毎度炊事が熟そうになると、すぐに諓諓と鉞の過失を数え上げ、父は怒って彼を追い出したので、継母とその子は飽食できた。鉞は飢え困り、道中を匍匐した。帰宅すると、父母は互いに言った。「子が家におらず、外で賊をしているのだろう」。すぐにまた杖で打ち、幾度も死に瀕した。父が亡くなると、母はますます排斥して受け入れず、鉞は市中で塩を売り、時折ひそかに弟に与え、母の飲食を問い、美味しいものを届けた。正徳三年、大飢饉があり、母は自活できなくなった。鉞は涙を流して迎え奉った。母は内心恥じて行きたがらなかったが、頼る所がなかったので、ついに従った。鉞は食を得ると、まず母と弟に与え、自分は飢えた様子であった。弟はまもなく亡くなり、鉞は母を終生養い、嘉靖年間に亡くなった。同族の子の帰繡もまた塩を売り、二人の弟の紋・緯と友愛であった。緯がたびたび法を犯すと、繡はいつも財産を尽くして庇い、終に怒りの色を見せなかった。繡の妻の朱は、衣服を作る時必ず三着作り、「二人の叔父(夫の弟)には家室がない。どうして郎君(夫)だけを暖かくさせられようか」と言った。郷里の人々は帰氏の二孝子と称した。

何麟は沁水の人で、布政司の吏であった。武宗が微行し、大同から太原に至ったが、城門が閉ざされ入れなかった。怒って京に戻り、中官を遣わして門を開けなかった守臣を逮捕させると、巡撫以下は皆大いに恐れた。麟は言った。「朝廷は主たる者の名を知らない。中官に厚く賄賂を贈り、私が一緒に行きましょう。仮に聖怒が測り難くとも、私一人が引き受けます」。京に着くと、上疏して言った。「陛下が晋陽に巡幸なされた時、城門を司った者は実に臣・何麟ただ一人で、他の官は関与しません。臣は門を開けて御駕を迎えることができず、罪は万死に当たります。しかし陛下は宗廟社稷を軽んじて巡遊に事を為し、かつ服を易えて微行され、清道警蹕の詔もなく、白龍魚服(天子が変装すること)であれば、臣下はどうして見分けられましょう。昔、漢の光武帝が夜に狩りをされ、上東門に至られた時、守臣の郅惲は受け入れを拒んだ。光武帝は惲が法を守れるとして賞された。今、小臣が郅惲の節義を守ろうとしたのに、陛下には不敬の誅罰をお加えになる。臣は天下後世が、臣の不遇は郅惲に及ばず、陛下の寛仁の量も光武帝に遠く及ばないと思うことを恐れます」。疏が入ると、帝の怒りはやや解け、廷杖六十を加えて釈放し帰還させ、他は問わなかった。巡撫以下は郊外に出迎え、礼を尽くして敬った。

孫清は睢陽の諸生である。幼くして孤となり、母に孝事した。母が亡くなり未だ葬らず、流賊がその境に入った。居民は皆逃げたが、清だけは柩を守って去らなかった。賊は二度その門前を通ったが、皆入らなかったので、郷里の人は多く頼って全うした。正徳九年四月、河南巡按御史の江良貴が奏聞し、併せて言った。「清の同邑の徐儀の女・雪梅、厳清の女・鋭児は皆賊の汚辱を受けず、憤って罵り殺された。沭陽の諸生・沈麟は知府の劉祥・県丞の程儉が賊に捕らえられた時、身を挺して賊のもとに赴き、利害を開陳し、身を以て代わることを願った。賊はその義を感じ、二人は釈放された。凡そこれらの義烈は風化に関わるもので、制に準じて旌表すべきです」。章は礼官に下った。これに先立ち、八年二月、山東巡按御史の張璿が奏上した。賊が通過した州県に、父を救う子、夫を守る婦で、賊の兵刃に罹った者が凡そ百十九人おり、皆旌表すべきであると。時に傅珪が費宏に代わって礼部を為し、言った。「奏上された人数は多く費用が広がる。山西の近例に準じ、所在の旌善亭の側に二つの石碑を建て、男女の姓名・邑里及びその孝義・貞烈の大略を分けて書き記し、旌揚を示し、有司は量って殯殮の費用を与えるのがよい。その後地方から奏上があれば、全てこの令に従って事を行え」。帝はこれを許可した。この時、良貴の奏が下り、劉春が珪に代わって礼部を為したが、ついに旌表を請うことはせず、ただ珪の前議を用い、併せて銀を与えて坊を建てる令も復た行われず、旌善の意は微かになった。

この時、濮州の諸生・宋顯章、淅川の諸生・李豫は、皆孝行で著しく聞こえ、流賊がその門前を通っても敢えて犯さず、郷里の人も多く頼って全うした。而して顯章が死んだ時、その妻の辛氏は自縊して殉じた。知州の李緝が孝節坊を建て、併せて祠祀した。嘉靖七年、豫だけが旌表された。

劉憲は霊石の諸生である。父は既に亡くなっていた。母は七十余歳で、両目とも失明しており、劉憲は謹んで仕えた。正徳六年、流賊が城に入ると、劉憲は母を背負って城外に避難した。賊が追い付き、母を殺そうとしたので、劉憲は哀願して言った、「私を殺してください、母を害さないでください。」賊はそこで彼らを放免したが、嶺の後ろまで行くと、劉憲は結局他の賊に殺された。賊が民家に放火したが、劉憲の家だけは燃えてもすぐに消えた。同時期の羅璋は、遂寧の諸生である。大盗がしょく中で乱を起こし、母が賊に捕らえられたので、羅璋は手に長槍を挺して、続けざまに三人の賊を斃し、賊は母を捨てて去った。後で賊が追い付くと、羅璋は力を尽くして賊を防ぎ、長く戦って疲れ果て、ついに捕らえられた。賊は非常に憤慨し、その心臓をえぐり肝臓を割き、遺体を引き裂いた。ともに正徳年間に旌表された。李壮丁という者がいた、安定県の人である。嘉靖年間、北虜が侵入し、父母に従って山谷に逃げ隠れた。賊に遭遇し母が縛られて連れ去られそうになったので、壮丁は石を取って奮撃し、母は逃れることができた。先へ進むとまた五人賊に遭遇し、一人の賊がその母を縛ったので、母は大声で叫んだ、「息子よ早く逃げよ、私のことは構うな!」壮丁は憤激し、手に鉄器を提げて賊を撃ち倒し、母は逃げられたが、壮丁は結局賊に殺された。正徳年間、賊が巨鹿を掠奪し、趙智と趙慧の母を捕らえ、殺そうとした。趙智が追い付き、跪いて告げた、「母は年老いています、どうか私を殺してください。」趙慧も到着し、泣いて言った、「兄は年長です、母を養うために残し、私を殺してください。」趙智がちょうど争って死のうとしたところ、母もまた請うて言った、「私は年老いているから死ぬべきです、どうか二人の息子を残してください。」賊の群れは笑って言った、「皆善人である。」ともに彼らを釈放した。

容師偃は香山の人である。父が癱疾を患い、傍らを離れず世話をした。正徳十二年、賊がその郷を掠奪したので、師偃は父を背負って逃げた。追手が急迫し、父は手を振って逃げるよう命じたが、泣いて言った、「父子は互いに命を頼りにしている、逃げてどこへ行けようか。」間もなく捕らえられ、賊がその父を焼き灼くと、師偃は号泣して身代わりを請うた。賊はこれに従い、父は釈放されたが、師偃は焼き殺された。後に劉静という者がいた、万安の諸生である。嘉靖年間、流賊がその県を陥落させたので、母を背負って逃げ出した。賊に遭遇し、母を殺そうとしたので、劉静は身を以て母を覆い隠し、身代わりの死を求めた。賊は怒り、刃を集中させて彼を殺したが、なおも母を抱いて離さず、遺体は七日経っても変わらなかった。万暦元年に旌表された。また温鉞という者がいた、大同の人である。父の景清は胆力があった。嘉靖三年、鎮兵が叛乱し、巡撫張文錦を殺した。その後、巡撫蔡天佑が景清に命じて首謀者を密かに捕らえさせ、数人を誅戮したので、その仲間は彼を恨んだ。十二年、再び叛乱し、総兵李瑾を殺し、そこでかつて軍府に命を尽くした者を広く捜索した。景清は深く身を隠して出てこなかったので、ついに鉞とその母の王氏を捕らえて連れ去り、景清の所在を言わせた。鉞は言った、「お前たちは我が父を殺そうとして、私にその居場所を言わせるのは、私が父を殺すことになる。もし仇が解けぬなら、私を殺して憤りを晴らせば足りる。」賊は聞き入れず、母を脅して言わせようとしたが、母は大声で罵り続けた。賊は怒り、体を切り裂いて鉞を脅した。鉞は大声で泣きながら罵り、ともに殺された。事態が収まると、母子ともに旌表された。

俞孜は字を景修といい、浙江山陰の人である。諸生となり、行誼に篤実であった。嘉靖初年、父の華が里役を務め、流人徐鐸を口外まで護送した。徐鐸は華を毒殺し、逃亡した。孜は棺を運んで帰り、必ず仇を討つと誓い、数十郡を追跡したが見つからなかった。後に郷里に戻ったと聞き、その甥の楊氏の家に隠れていることを知った。そこで十数人の力士を結集し、魚売りを装って往来し偵察し、また知府の南大吉に謁して助力を乞うた。大吉はその義を認め、数人の健卒を付き従わせ、夜半に急に卒を率いて楊氏の家に入り、徐鐸を呼び出して会わせ、縛って官に送り、法に照らして処断させた。孜はこれ以降、科挙に応じず、継母を養って終えた。

張震という者がいた、余姚の農家の子である。生後一歳の時、父が人に陥れられて死にそうになり、震の指を噛んで言った、「某は、私の仇だ、忘れるな。」震が成長しても指の傷は癒えず、母がその故を告げると、震は必ず報復すると誓った。その友が言った、「お前の力は弱い、私がお前のために奴を殺そう。」間もなく、仇が馬に乗って出てきたので、友が農具で撃つと、即死した。震は喜び、走って父の墓に告げた。やがて事が発覚し、役人はその志を哀れみ、死罪を減じて辺境戍守に論じ、赦令に遇って帰郷した。孫文もまた余姚の人である。幼い時、父が同族の時行に鞭打たれて死んだ。成長して報復しようとしたが、力が敵わず、偽って和好し、ともに郷里で横行した。時行は平然として疑わなくなった。ある日、田間で時行に出会うと、すぐに農具で撃ち殺した。戍守に処せられたが、間もなく赦令に遇って釈放された。

崔鑒は京師の人である。父は酒を嗜み娼婦を寵愛し、呼び寄せて同居させた。娼婦は寵愛を恃み、しばしば鑒の母を陵辱し、父もまた酒に酔って、たびたび彼女を侵辱した。ある日、娼婦が悪口を言って母を罵ると、母が言い返したので、娼婦は遂に母の顔を殴りつけた。母は憤りに耐えかね、部屋に入り床に伏して泣き、自害しようとした。鑒は当時十三歳で、学舎から帰ると、それを尋ね、母が故を告げた。鑒は言った、「母上、死なないでください。」すぐに学舎に走り、刃物を持って戻った。ちょうど娼婦が掃除をしており、掃きながら罵っていた。鑒は刃物を抜いてその左脇を刺し、即死させた。そこで刃物を窓の下に隠し、数里逃げたが、ふと思い至って言った、「父は私が娼婦を殺したことを知らないから、必ず母に累が及ぶ。」急いで帰ると、父は果たして官に訴え、母を縛ろうとしていた。鑒が到着し、捕吏に告げた、「これは私がやったことで、母ではありません。」皆は彼が幼いので信じなかった。鑒は言った、「お前たちが信じないなら、凶器がどこにあるか尋ねてみよ。」自ら刃物を出して見せると、皆はようやく母を釈放し、鑒を縛って獄に置いた。事が聞こえ、刑部に下って審議された。尚書の聞淵らが議して、鑒の志は母を救うことにあり、かつ年少で哀れむべきであり、常律に拘るのは難しいとした。帝もまたその罪を赦した。

唐儼は全州の諸生である。父の蔭は郴州知州で、老いて帰郷し危篤の病を得た。儼は十二歳の時、密かに腕の肉を切り取って進めると、病は良くなった。父が亡くなると、成人のように哀毀した。その後、外で遊学していた時、嫡母が病臥した。儼の妻の鄧氏は十八歳で、奮って言った、「私は婦人で、どうして湯薬を知ろうか。かつて夫子(夫)は腕の肉で舅(しゅう、夫の父)を癒した、私だけが姑(しゅうとめ、夫の母)を癒せないことがあろうか。」そこで脇腹の肉を切り取って進めると、姑の病もまた癒えた。儼は母の病を聞き、馳せ帰ったが、すでに長らく無事であったので、妻に拝して言った、「これは私の務めだ、急いで私を呼ぶべきだったのに、どうして自らこのように苦しんだのか。」妻は言った、「子が父に仕え、婦が姑に仕えるのは、同じことです。危急の時に、子を呼んでも間に合いません。かつ事は必ず子を待つなら、婦は何の用があるでしょう。」儼はますます感嘆した。嫡母が亡くなって二十年後、生母が亡くなると、儼は墓側に廬して三年過ごした。嘉靖四年に貢生として京に至り、役人がその門を旌表するよう上奏した。

丘緒、字は継先、鄞県の諸生である。生母の黄は、嫡母の余に追い出され、江東の包氏に嫁いだ。間もなくまた別の所に嫁ぎ、遂に消息が絶えた。緒が十五歳の時、父が没し、余に仕えて至孝であった。余が病むと、謹んで湯薬を奉じ、数ヶ月間衣帯を解かなかった。余はその孝行に深く感じ入り、病が重くなり訣別の際に言うには、「我が死んだ後、汝は汝の母を忘れるな」と。時に母が追い出されてから既に二十年経っていた。ある夜、夢に人が告げて言うには、「汝の母は台州の金鰲寺の前にいる」と。目覚めてそれを覚えていた。翌日、一人の人と道端で休んでいると、尋ねてみると、それは包氏の元で馬丁をしていた者であった。母の行方を尋ねると、言うには、「周平という者がかつてその事をよく知っていたが、今は京衛に戍っている」と。緒の姉婿が京で謁選に赴いていたので、手紙を送って平を訪ねるよう頼んだが、長い間見つからなかった。ある日、邸門で雨宿りしている者がいて、その声が鄞の人に似ていたので尋ねると、それが周平であった。黄は既に台州の李副使の息子に嫁いだと教えた。緒は報せを得ると、すぐに台州へ行ったが、李は既に没しており、その継嗣の子は以前の事を全く知らなかった。緒は道端で彷徨い泣き伏すと、それを哀れんだ者がいて、老いた媒酌人の王四に会うよう案内した。王四は言うには、既にまた仙居の呉義官に嫁いだと。呉は仙居の大族である。緒が到着すると、数十軒を尋ね回ったが、出会えなかった。やがて一人の儒生呉秉朗の家に至り、事情を話した。生はその志に感じ入り、留め置いた。叔母が留めている者が異郷の人だと聞き、怒って騒ぎ立てた。生が緒の意図を告げると、その叔母は、黄がかつて仕えていた主母であり、以前の事をよく覚えていたが、どこへ行ったかは詳しく知らなかった。昔の下男を呼んで尋ねると、金鰲寺の前で、去年そこを通った時、棺が寺の傍らに葬られていたという。緒はその言葉が夢と合致したので、信じて、泣きながら歩いていると、牛に突かれて溝に落ちた。それは輿夫の馬長の家の門前であった。驚いて出て来て、どこから来たのか尋ねた。緒が事情を告げると、長は言うには、「私は以前、一人の婦人を輿で縉雲の蒼嶺の下まで送ったことがある。多分それだ」と。緒をその場所まで連れて行った。緒はあちこち探し回ったが、出会えず、茫然として路地を歩いていると、一人の老婆が門の外に立っていた。尋ねてみると、鄞の人だと分かり、自分がどこから来たかを告げた。老婆もまた丘氏の消息を尋ねると、それが緒の母であった。抱き合って泣き、近隣の人々も皆感動した。寺の傍らの棺は、実はその兄嫁であったという。嫁いだ先の陳翁は貧しく子もなく、しかも多くの借金があった。緒は帰って金を取りに行ってそれを返済し、併せて翁を迎えて帰り、極めて孝養を尽くした。嘉靖十四年、知県趙民順が入朝した際、上疏して朝廷に奏聞し、旌表を受けた。

張鈞、石州の人。父は赦、国子生。両親が早く亡くなったため、仕官しないことを誓い、城北村に隠居した。鈞は正徳末年に郷挙に及第した。親が老いているためやはり仕官せず、読書して親を養い、遠近にその孝行を称えられた。嘉靖二十年、俺答が石州を侵犯した。鈞は父が難に遭うことを憂い、城中から一騎で号泣しながら駆けつけて救おうとした。賊寇がその肩に矢を射当てたが、傷を包帯して疾駆し、到着した時には父は既に殺されていた。鈞は気絶し、父の血を全て舐め、三日間水漿を口にせず、悲痛に耐えかねて卒去した。二年後、役人がその状況を上奏し、旌表を受けた。この時殺戮掠奪は甚だ惨く、石州で親のために死んだ者は十一人おり、張承相、於博、張永安が特に著名である。承相は幼くして孤となり、成長して諸生となり、二十余年母を養い、孝で知られた。賊寇が来ると、母を背負って逃げ出したが、捕らえられ、叩頭して号泣し、母を免じてくれるよう乞うた。賊寇は怒り、両方とも殺し、承相は母の首を抱いて死んだ。博は二歳で孤となり、母に仕えて孝を尽くした。賊寇が城下に迫った時、博は城中で読書していた。母は村の家屋に居たので、急いで城を下り号泣しながら母を探し求めた。母は既に捕らえられており、途中で出会うと、博は石を取って奮撃して賊寇を撃った。賊寇はその心臓をえぐり、母は逃げ去ることができた。博は年わずか十八であった。永安は石州の吏である。父が賊寇に追われたので、永安は棒を持って追撃し、二賊を傷つけ、父に逃げるよう促し、自らは後衛となって、数十の傷を受けて死んだ。鈞と共に旌表された。温継宗という者、沁州の諸生。父が卒去し、葬ることができず、日々柩の傍らで哀泣していた。嘉靖二十一年、賊寇が侵犯して来た時、或る者が城を出て避難するよう勧めたが、父の葬儀があるので行こうとしなかった。賊寇が来ると、叔父の淵らと力を合わせて防ぎ、一賊を撃ち傷つけ、矢に当たって柩の傍らで死に、淵らも皆死んだ。これも鈞と共に旌表された。

王在復、太倉の人。二十一歳の時、父に従って城外で読書していた。倭寇が侵犯して来ると、父子は急いで城内へ駆け込んだ。父は体が肥満で速く走れず、途中で賊に遭遇し、遂にはぐれてしまった。在復は二里ほど走り、あちこち父を探し回った。父が捕らえられたと聞くと、急いで賊の所へ行き、叩頭して免じてくれるよう求めた。賊は聞き入れず、刃を抜いて父を脅した。在復は身を以てこれを蔽い、痛哭して哀願した。賊は怒り、両方とも殺し、二人の首は地に落ちたが、手はなお父を抱いて離さなかった。時は嘉靖三十三年五月である。当時、倭寇が東南を乱し、父母を守って殺された孝子は甚だ多く、朝廷で旌表された者は、在復及び黄巖の王蒐、慈谿の向敘、無錫の蔡元鋭、丹徒の殷士望である。蒐は父の顕に従って賊を避けた。顕が捕らえられ、殺されようとした。蒐は急いで前に進み出て代わることを請うた。賊は遂に蒐を殺して顕を釈放した。敘は慈谿の諸生。倭が侵犯して来た時、県に城が無かったので、母を支えて避難した。賊に遭遇し、敘を倒してその母を斬ろうとした。敘は急いで起き上がり母の首に抱きつき、大声で叫んだ、「私を殺してください、私の母を殺さないで!」と。賊はその言葉に従い、母は全きを得た。共に嘉靖三十五年に旌表された。元鋭は無錫の人、弟の元鐸と共に孝友であった。倭が無錫を犯し、元鋭の家に入った。兄弟は急いで父を支えて屋根に昇らせ避難させた。しかし元鋭は賊に捕らえられ、父の所在を言うよう命じられたが、堅く従わず、遂に殺された。元鐸は兄の死を知らず、翌日多額の金を持って身代金を払いに行き、共に殺された。嘉靖三十八年に旌表された。士望は丹徒の人、親に仕えて孝であった。倭が京口を犯し、父が掠われたので、士望は代わりに死ぬことを請うた。賊は笑って試そうとし、火で炙り刀で刺したが、それを平然と受け、賊は両方とも釈放した。嘉靖四十三年に旌表された。その他旌表に及ばなかった者に、また陳経孚、龔可正、伍民憲がいる。経孚は平陽の人。倭が来ると、母を背負って逃げ出したが、賊に遭遇し、母の耳飾りを要求し、殺そうとした。経孚は身を以て蔽い、賊は怒り、刃を振るって耳と肩を切り落として殺したが、手はなお母の首を抱いて離さなかった。可正は嘉定の諸生。祖母を背負って賊を避け、雨で泥濘み、突然賊に遭遇した。賊は婦人を見るのを嫌い、その祖母を殺そうとし、可正に去るよう叱った。可正は跪いて泣きながら代わりを請うたが、賊は従わなかった。可正は身を以て祖母を覆い、賊は両方とも殺した。民憲は晋江の人。父を支えて避難し、賊に遭遇し、長跪して哀願して言った、「私の父を驚かさないでください、他の物は好きに取ってください」と。賊は聞き入れず、遂にその父を殺した。民憲は憤り、身を挺して二賊を殺し、数賊を傷つけた。賊が益々多くなり、民憲の右手を斬り落とした。草むらに臥せり、なお片手で戈を執り、その父を呼び三日して絶命した。

夏子孝、字は以忠、桐城の人。六歳にして母を失い、哀哭すること成人の如し。九歳の時、父危篤の疾を得、天地に祈り、股を六寸許り刲き、羹を調えて進む。父之を食して頓に愈ゆ。翌日、子孝創に痛み、父其の故を詰む、始めて之を知る。裏老以て官に聞く、知府胡麟先づ王祥の来謁するを夢み、詰旦にして県の牒至る、詫えて曰く、「孺子其れ祥の後身なるか」と。召見し、其の旧名「恩」を易えて「子孝」と曰う。督学御史胡植即ち令して学に入り諸生と為し、月に之を廩す。麟復た貢士趙簡に属して之に経を授けしむ。嘉靖末、父卒す、墓に廬し、独り荒山に居り、身完き衣無く、形容槁瘁す。後に王畿・羅汝芳・史桂芳・耿定向に事へ、聖賢の学を聞くことを獲たり。定向督学御史と為り、将に疏して朝に聞かんとす、固く辞して曰く、「不肖亡親を以て名を賈うに忍びず」と。乃ち止む。将に死せんとし、其の子に命じて曰く、「我を父の墓側に葬れ」と。

阿寄は、淳安徐氏の僕なり。徐氏の昆弟産を析きて居る。伯は一馬を得、仲は一牛を得、季の寡婦は阿寄を得たり。時に年五十余なり。寡婦泣いて曰く、「馬は則ち乗じ、牛は則ち耕す。老仆何の益かあらん」と。寄嘆じて曰く、「主我を牛馬に若かずと謂うか」と。乃ち策を画きて生を営み、用ふ可き状を示す。寡婦尽く簪珥を脱ぎ、白金十二両を得、寄に畀う。寄山に入り漆を販ひ、期年にして其の息三倍す。寡婦に謂ひて曰く、「主憂うること無かれ、富は致す可し」と。二十年を歴て、資を積むこと巨万、寡婦が為に三女を嫁し、二子を婚し、賫聘皆千金なり。又師を延いて二子を教へ、粟を輸して太学生と為す。是より、寡婦財一邑に雄なり。寄病み且つ死せんとし、寡婦に謂ひて曰く、「老奴牛馬の報尽きたり」と。枕中の二籍を出す、則ち家の鉅細悉く均分す。曰く、「此を以て両郎君に遺す、世守る可し」と。既に歿し、或は其の私有を疑ひ、窃かに其の篋を啓く、一金の蓄へ無し。遺す所の一嫗一児、僅に敝缊を以て体を掩ふのみ。

趙重華、雲南太和の人。七歳の時、父廷瑞江湖の間を遊び、久しく返らず。重華長じ、郡守に謁して路引を請ひ、其の背に榜して曰く、「万里親を尋ぬ」と。別に父の年貌・邑里を数千紙に書き、歴る所の都会州県に遍く之を張る。西に武当山に禱り、太子巖を経る。巖陰に字有りて曰く、「嘉靖四十四年十二月十二日、趙廷瑞山に朝して此に至る」と。重華之を読み、慟哭して曰く、「吾が父果して此を過ぎたり、今吾の来る月日正に同じ、相逢ふことを卜す可し」と。遂に其の後に書して曰く、「万暦六年十二月十二日、趙廷瑞の子重華、父を尋ねて此に至る」と。久しくして竟に遇ふ所無し。丹陽を過ぎ、盗其の資を攫ふ、遺る所独り路引のみ。且つ行き且つ乞ひ、一老僧に遇ひ呼んで其の故を問ふ。笑ひて曰く、「汝が父無錫南禅寺の中に客たり」と。語訖りて忽ち見えず。重華急ぎ趨りて寺に至れば、果たして其の父なり。路引を出して之を示す、相与に慟哭す。数日留まり、乃ち雲南に還る。

是の時、謝廣と云ふ者有り、祁門の人。父仙を求め返らず、廣婦を娶ること七日にして即ち母に別れ父を求め、開封の逆旅の中に於て遇ふ。父隙に乗じて復た脱ぎ去る。廣四方に跋渉すること垂二十年、終に父を得ず、聞く者之を哀しむ。

王世名、字は時望、武義の人。父良、族子俊と同居して屋を争ひ、俊に毆ち死さる。世名年十七、父の屍を残すを恐れ、理に就くに忍びず、乃ち佯りて其の田を輸して和を議するを聴く。凡そ田の入る所、輒ち価を易へ封識す。俊饋する所有り、亦た佯りて之を受く。而して潜かに父の像を繪し密室に懸け、己が像を旁に繪し、刀を帯びて侍り、朝夕泣拝し、且つ一刃を購ひ、「報仇」の二字を銘す。母妻知らず。服闋し、諸生と為る。及んで子を生むこと数月、母妻に謂ひて曰く、「吾已に後有り、以て死す可し」と。一日、俊外より酔ひて帰る。世名刃を挺て迎へ撃つ、立ち斃す。出でて衆に号し、入りて母に白す。即ち前の封識する者を取って吏に詣り死を請ふ。時に万暦九年二月、父の死するを去ること六年なり。知県陳某曰く、「此れ孝子なり、獄に置く可からず」と。別に之を館し、而して其の事を府に上る。府檄して金華知県汪大受に来り訊ぜしむ。世名死を請ふ。大受曰く、「屍を検すれば傷有り、爾死無かる可し」と。曰く、「吾惟だ父の屍を残すに忍びず、以て今日に至る。然らずんば、何ぞ六年を待たん。乞ふらくは放ち帰り母に辞して乃ち死に就かん」と。之を許す。帰れば、母迎へて泣く。世名曰く、「身は父の遺す所なり。父の遺す所を以て父の為に死す、母を離るると雖も、父に従ふことを得たり、何の憾かあらん」と。頃し、大受至る。県の人奔走し世名を直す者千計を以てす。大受乃ち人を令して父の棺を舁き致し、将に開き之を視んとす。世名大いに慟し、頭を以て階石に触れ、血地に殷し。大受及び旁観者咸た之が為に涕を隕す。乃ち令して柩を舁き去らしめ、将に上官に白して屍を検するを免し、以て孝子を全からんとす。世名曰く、「此れ法に非ず。法に非ざれば君無し、何を以てか生くると為さん」と。遂に食はずして死す。妻俞氏、孤を撫づること三載、自縊して以て殉ず。其の門を旌して孝烈と曰う。

李文詠、昆山の諸生。父大経、沂水知県。万暦二十七年、父の寝室火に被る。文詠突入し、将に父を抱き出ださんとす。而して榱棟尽く覆ひ、父子俱に焚死す。火息み、入りて視るに、屍猶ほ其の父を覆ひ、父は全体を存し、文詠但だ一股を余すのみ。

王応元、武隆の人。力を農に尽くし父を養ふ。父酔ひて臥す、家火を失ふ。応元外より趨りて烈焰の中に入る、竟に出づること能はず、父を抱きて死す。

唐治、黄岡の人。父の柩堂に在り、鄰居火す。治尽く資財を出して人を募り柩を舁かしむ。人各おのれを顧み、応ずる者無し。或は之を挽きて出ださんとす。泣いて曰く、「父の柩此に在り、我死すとも出でず」と。火息み、後堂巋然として独り存し、柩亦た恙無し。而して治竟に熏灼して柩に伏して死す。万暦中旌表す。

許恩、蘄水の人。夜半鄰家火を失ふ。恩驚き出で、遍く母を尋ね得ず、復た突入す。遂に母と俱に焚る。

馮象臨、慈谿の諸生。家火に被る。遍く父母を覓む。煙焰空に彌り、庭戸を迷失す。象臨大呼し、初めに母を得、即ち火中より負ひ出づ。再び入りて父を負ひ、並びに一弟を挟み出づ。半体已に焦爛す。妹尚ほ臥内に留まるを聞く。母号呼し、将に自ら入らんとす。亟に之を止め、烈焰に触れて妹を携へ出づ。竟に灼爛して死す。事聞こゆ、賜ひて旌す。

後に龔作梅と云ふ者有り、陳州の人。年十七、父母俱に亡ぶ。殯を舎にす。闖賊民居に火す。作梅柩の前に跪きて焚死す。

孔金は山陽の人である。父は早く亡くなり、母の謝氏は遺腹三月にして金を生んだ。母は大賈の杜言に逼娶せられ、河に投じて死せり。金が成長し、屡々官に訟うるも勝たず。言は賄賂を用いて金を斃さんと欲し、金は乃ち食を乞いて闕下に走り、登聞鼓を撃って冤を訴うるも、達せず。墓所に還り、昼夜号泣す。里人の劉清等その事を府に陳ず。知府の張守約これを異とし、閭族と媒氏を召して質実せしめ、言を大辟に坐す。未だ幾ばくもせずして守約卒し、言は夤縁して免る。金復た号訴して已まず、箠を受けて完膚無し。已にして撫按が旧牘を理するに、仍って言を大辟に坐し、遂に獄中に死す。金の子の良も亦た孝行有り。父病み、股を刲いて羹と為し以て進むるに、旋って愈ゆ。卒するに及び、墓に廬して哀毀す。万暦四十三年、父子並びに旌表を得たり。

楊通照・通傑は銅仁の人なり。母の周氏疾有り、兄弟争って拝祷し、身を以て代らんことを求む。三年を閲し、内室に入らず。万暦三十六年、群苗流劫し、其の家に至り、母は執へ去らる。二人追闘すること数十里、傷を受けても顧みず。鬼空溪に至り、賊が母を縶るを見て、大罵し、声は山谷に震ひ、万衆の中を横撃す。賊の為に磔死せらる。通照は年二十五、通傑は年二十二。泰昌元年、巡撫の李枟・巡按の史永安其の事を上る。旌して曰く双孝の門と。

時に無錫の民浦邵有り。賊其の父の虞を縛り、将に之を殺さんとす。邵は首を以て刃を迎へて死し、父は免る。寧化の民林上元、賊其の継母の李氏を掠めて城を出づ。上元城上より槍を持ちて一躍して下り、直ちに賊塁に奔り、二人を刺死す。賊其の鋒を避け、直ちに李氏を出だし、因りて去る。城は之に頼りて全し。皆万暦四十三年に旌さる。

崇禎七年、流賊竹谿を陥とし、知県の余霄を執へて将に之を殺さんとす。子の諸生伯麟代らんことを請ふ。乃ち免る。

張清雅は潜山の人なり。家貧しく、力學して親を養ふ。崇禎十年、張献忠来たりて犯す。清雅は父年老いて臥病するを以て、之を守りて去らず。未だ幾ばくもせずして父卒す。斂すること甫く畢り、賊其の家に入り、棺内に金銀を蔵すと疑ひ、剖きて之を視んと欲す。清雅棺に拠りて哀泣す。賊其の手を断ち、地に仆す。幼子の超藝年十六、号哭して代らんことを求む。賊復た之を砍つ。父子倶に死す。而して棺は剖かるるを得ず。僕の雲満、両棺を具へて之を斂し、亦た食はずして死す。

時に白精忠なる者有り、潁州の人なり。五歳にして孤と為り、母の袁氏之を撫育す。家貧しく、母は糠核を食ひ、而して精なる者を以て児に哺す。精忠之を知り、毎餐必ず先づ其の悪き者を啖ふ。天啓中、郷に挙げらる。崇禎八年、流賊潁州を陥とす。家人逃匿を勧む。精忠は母年老いたるを以て、独り去るに忍びず。遂に遇害す。

州に檀之槐なる者有り、母の柩を護りて去らんとす。賊と格闘し、数人を殺し、磔死せらる。

又た李心唯有り、素より孝行を敦くす。賊至り、泣きて母の喪を守る。賊其の室を掠め、将に之を縛らんとす。出でずして殺さる。子の果、父の死を見て、厲声して賊を罵る。賊又た之を殺す。

余承德なる者有り、無為の人なり。崇禎十五年、流賊突如として至る。其の祖母の劉氏・母の魏氏及び妻の楊氏・妹の玉女を掖き出だして避く。祖母・母行くこと遅く、盗の獲る所と為り、将に之を刃せんとす。承德号呼して救護す。並びに遇害す。楊氏之を見て、急ぎ河に投じて死す。賊将に玉女を犯さんとす。玉女大罵し、堅く従はず、寸磔に死す。