明史

列傳第一百八十四 孝義一

◎孝義

孝弟の行は、天稟と謂うも、豈に教化に頼らざらんや。聖賢の道明らかにしてより、誼壁の英君、汲汲として厚人倫・敦行義を以て風俗を正すの首務とせざるは莫し。旌勸の典、閭閻に賁り、下って委巷に逮ぶ。布衣の氓・匹夫匹婦・兒童稚弱の微賤、閨闥の中に行を修め、而して名朝廷の上に顯る。其の至性の激する所を観れば、天地を感ぜしめ、神明を動かし、水も濡らす能わず、火も爇つ能わず、猛獸も害する能わず、山川も阻む能わず、名天壤に留まり、行古今に卓たり、以て道教を扶樹し、末俗を敦厲するに足り、綱常之に由りて泯びず、気化之に頼りて維持す。是を以て君子之を尚び、王政之に先んず。至って或いは刑政平を失い、復讐して忿を泄らし、或いは時に遭いて造らず、荒盗流離すとも、九死を誓いて回らず、白刃を冒して顧みざるに至る。時に則ち有司の辜、民牧の咎有り、民上たる者、当に之が為に惻然として念を動かすべし。故に史氏忠孝義烈の行を誌すこと、恐らくは及ばざるが如くす。徒らに側陋の幽光を発するのみに非ず、亦以て世変を覗い、法戒を昭かにせんとす。

明太祖詔して孝弟力田の士を挙げしめ、又た府州県の正官に令して礼を以て孝廉の士を京師に遣わさしむ。百官父母の喪に聞き、報を待たず、官を去るを得。股を割き氷に臥す、生を傷つくるを禁ず。其の後国家海内に覃恩有るに遇えば、輒ち詔書を以て事に従う。有司礼部に上りて旌を請う者は、歳に人に乏しからず、多き者は十数。激勸の道、備えたりと云うに綦し。実録の載する所、殫述す可からず、今其の尤なる者を采りて傳を輯む。余『唐書』の例を援き、其の姓氏を左に臚す。

其の親に事えて孝を尽くし、或いは万里親を尋ね、或いは三年墓に廬し、或いは喪を聞きて命を殞し、或いは骨を負いて郷に還る者、洪武の時には、則ち麗水の祝昆、上元の徐真童・李某女、龍江衛の丁歪頭、懷寧の曹鏞・鏞の妻王氏、徐州の王僧兒、廣德の姚觀壽、廣武衛の陳禮關、桃源の張註、江浦の張二女勝奴、上海の沈德、溧陽の史以仁、丹徒の唐川、邳州の李英、北平東安の王重、遵化の張拾、保定の顧仲禮、樂亭の杜仁義の妻韓氏、昌平の劉驢兒、保定新城の王興、祁陽の郝安童、山東寧海の姜瑜、汶上の侯昱、孟県の李德、鞏県の給事中魏敏、登封の王中、舞陽の周炳、臨桂の李文選有り。而して鈞州の張宗魯は瞽の子として孝行有り、十七年に旌さる。

永樂の間には、則ち大興の王萬僧奴、東光の回滿住、金吾右衛の何黑廝、金吾後衛の包三、武功中衛の蔣小保・周阿狗、錦州衛の趙興祖、旗手衛の周來保、大寧前衛の滑中、保安衛の徐宗賢、羽林前衛の孫誌、漢府左護衛千戸の許信の男斌、江寧の浦阿住・沈得安・嚴分保、上元の馮添孫・邵佛定、上海の沈氏妙蘭、儀真の韓福緣、江陰衛の徐佛保、府軍衛の浦良兒、府軍後衛の王保兒・潘醜兒、水軍右衛の黄阿回、廣武衛百戸の劉玉、蘇州衛の張阿童、廣洋衛の鄭小奴、大河衛の朱阿金、興武衛の張彥昇、龍江提挙司の匠張貴・胡佛保・聶廣、永新の左興兒、濟陽の張思名、泰安の張翼、肥城の趙讓、安邑の張普圓、永寧の王仕能、陽武の劉大、靈寶の賀貳、鈞州の袁節、膚施の陳七兒、鳳翔の梁準有り。

洪熙の間には、則ち江陰の越鉉有り。

宣德の間には、則ち慶都の邊靖、南樂の康祥・楊鐸、内黄の崔克昇、江寧の張繼宗、定遠の王絅、舒城の錢敏、徐州衛の張文友、歸德衛の任貴、浮梁の洪信文、堂邑の趙巖、汶上の馬威、翼城の劉原真、太康の順孫陳智、鈞州の楊鼐、延安衛指揮の王永・安嶽・李遇中有り。

正統の間には、則ち大興の劉懷義、元城の谷真、邢臺の劉鏞、獻縣の崔鑒、通州左衛総旗の孫雄、昌黎の侯顯、新樂の孫禮、定興の魏整、交河の田畯、柏鄉の張本、歸德の楊敬、井陘の畢鸞、永年の楊忠、永清右衛の穆弘、武驤左衛の成貴、江寧の顧昜、舒城の吏部主事胡紀・御史王紹、廬江の張政、武進の胡長寧、徐州の金暠・王、桐城の檀郁、歸德衛の呂仲和、麻城の趙說、聊城の裴俊、陵縣の虎賁左衛経歴張讓、費縣の葛子成、樂安の孫整、冠縣の陳勉、臨清の賈貴、郯城の郭秉、東平の張琛、德州の張泰、平陰の王福緣、猗氏の王約、高平の王起孝・太僕丞王遂、介休の楊智、興縣の郭安、朔州衛の呉順、杞縣の高朗、太康の軒茂良、鄭州の邢恭、祥符の李斌、鳳翔の石玫、膚施の劉友得・張信、邠州の郭元、延安衛の薛廣、蘭州の呉仕坤有り。

景泰の間には、則ち成安の張憲、威縣の傅海、邳州の岑義、鳳陽の李忠、徐州の朱環、宿州の郭興・李寬、泗州衛の蔡興、龍泉の顧佛僧、龍遊の常州通判徐珙、武昌衛の呉綬、靖州衛の方觀、鄆城の李逵、朝城の王禮、聊城の朱舉、洛陽らくようの昌黎訓導閻禹錫有り。

天順の間には、則ち宛平の龔然勝、遷安の蔣盛、永清の賈懋、任丘の黄文、唐縣の寇林・大寧指揮張英、平山衛の房鎮、忠義衛総旗の鐘通、潼関衛の楊順通・順素、蒙城の汪泉、六合の胡琛、合肥の高興・張俊、和州の獲嘉知県薛良、上元の龍景華、杭州の姚文・姚得、平湖の夔州知府沈琮、金華の宗祉、德州の尹綸、東昌の許通、臨汾の續鳳、絳州の陳璽、鄢陵の解禮・順孫張縉、上蔡の朱儉、同州の侯智、醴泉の張璉、西安前衛の張軫、延安衛指揮の柏英、太和の楊寧、金歯衛の徐訥有り。

成化年間には、神機営指揮の方栄、大医院生安陽の郭本、順天の挙人万盛、順天東安昌楽の訓導周尚文、武清の柳芳、玉田の李茂、無極の李皚、開州の任勉・陳璋・僉事侯英及びその弟侃・副使甘沢、賛皇の劉哲、平山の光禄署丞李傑、莘県の李誌及びその子忱、邢台の井澍、豊潤の馬敬、柏郷の高明、定州の竇文真・王達、平郷の張翺・史諫・史誼、永平の秦良・朱輝、武平衛の成綱・楊升、隆慶左衛の衛瑾、宣府左衛の何文玘、潼関衛千戸の藍瑄、遼東定遼左衛の劉定・東寧衛序班の劉鼎、江寧福建参議の盧雍、徐州の呉友直・路車・張棟、山陽の楊旻・順孫の王鉷、滁州の黄正、長洲の朱灝、無錫の秦永孚・仲孚、合肥の沈諲、六安の黄用賢、沭陽の支儉、休寧の呉仲成、懐寧の呉本清、はい県の蔡清、帰徳衛の沈忠、杭州右衛の金洪、黄巌の項茂、富陽の何訥、浙江西安錦衣百戸の鄭得、麗水の葉伯広、海寧の董謙、浙江建徳の蔡廷茶、奉化の陸洪、余干桃源の訓導張憲、永豊の呂盛、晋江の史恵、平谿の汪浩、江夏の傅実・周璽、監利の劉祥、湘陰の邵敏、東昌の張鋭、莘県の孔昭・趙全、恩県の王弘、汶上の張鄜、堂邑の王歓、陽谷の銭道、単県の徐洲、聊城の王安・孫良、歴城湖広布政使の王允、曹州の黄表・張倫、臨清の劉端、寿陽の呉宗、潞州の張倫、大同の楊茂・楊瑞・焦鑒、渾源慶都県丞の王誠、高平の李振民、平陽衛指揮僉事の楊輔、安東中屯衛の王経、許州の何清、汜水の張俊、信陽の王綱・袁洪、汲県の張琛、封丘の陳瑛、光州太平通判の劉進、羅山の王賓、衛輝の徐寧、郟県の劉済、西平の尹冕、新郷の王興、確山の劉政、長葛蒙陰の訓導羅貴、陽武の挙人蕭盛、弘農衛の習潤、涇陽の趙謐・駱森・趙遂、同州の張鼎、洋県の武全、甘州左衛の毛綱、華陰の周祿、保安の李端、合州の陳伯剛、臨桂の劉本、姚州土官の高紫・潼賜がいた。

弘治年間には、大興の銭福、宛平の序班夏琮、青県の張俸、南和の張彪、曲周の趙象賢、長垣の王鼐、開州の甘潤・馬宗範、薊州の孟振、遷安の韓廷玉、元氏の王懋、深州の王寧、天津衛の鄭海、武平衛の王矩、広寧右衛の李周、霍丘の徐汝楫、海州定辺衛の経歴徐謐、邳州の丁友、懐遠の徐本忠・劉澄、宣城の呉宗周、潁上の王翊、鳳陽衛の張全、鳳陽の張欽・王澄、嘉定県の沈輔・沈呈、昆山の徐協祥、豊県の周潭、徐州の権宇・楊輔、績谿の許欽、英山の段弘仁、六安の張時厚、蕭県の唐鸞・南傑、銭塘の朱昌、仁和の陳璋・璋の妻銭氏、余姚の黄済之、桐廬の王瑁、江西楽安の謝紳、南昌左衛の黄璉、安福の劉珍、豊城の余寿、湖広寧郷の同知劉端、湘陰の甘準、祁陽の張機、閩県の高惟一、龍谿の王彜、済南の序班谷珍、莘県の白溥、鄒平の辛恕、堂邑の李尚質、益都の冀琮、文登の致仕県丞劉鑒、臨清の王祐、寧海州の卜懐、陵川の徐河・徐瑛、平遥の趙澄、沢州の宋甫・裴春・挙人李用、興県の白好古、解州の李錦、陽曲の薛敬、榆次の趙復性、屯留衛の李清、儀封の謝欽、祥符の陳鎧・周府儀賓の史経、西平の張文佐、河南唐県の李拡、登封の王祺、嵩県の杜端、裕州の劉宗周、閿郷の薛璋、洛陽護衛の軍余章瀚、鈞州の陳希全、新鄭の張遂、郟県の黄錦、鹹寧の挙人楊時敷、涇陽の熊玻・張憲、隴西の李琦、甘州後衛の徐行、博羅の何宇新、雲南芮城の李錦及びその子沢・沢の子柄、太和の楊謫仙、靖安の陳伯瑄及びその子恩がいた。

正徳年間には、高邑湘潭の駅丞董玄、槁城の劉強、定州の趙鵬、呉橋の段興、直隷新城の李瑟、沙河の王得時、青陽の李希仁、永康帰徳の訓導応剛、進賢の趙氏郡珍、宜春の易直、善化の陳大用、湘陰の蘇純、侯官の黄文会、邵武の謝思、長山の許嗣聡、聊城の梁瑾、曲阜の孔承夏、日照の張旻、臨汾の李大経及びその子承芳、新鄭の王科、蒲城の雷瑜、嵩明の陳大韶がいた。

嘉靖以後は、国史に詳しく記載されず、姓名の考証できる者は、嘉靖年間には、直隷の趙進・黄流・張節、冀州の王国臣、六安の順孫李九疇、望江の順孫龍湧、太湖の呂腆、沛県の楊冕、潁上の王敷政、華亭の徐億、浙江の龔曇・王晁・孫堪・楼階・丘叙・呉燧、江西の余冠雄・曾柏、福建の呉毓嘉・孫炳・丘子能、莆田の挙人方重傑、山東の宮守礼・王選、河南の馮金玉・劉一魁、信陽の趙謨、孝婦韓氏・安氏、杞県の辺雲鵡、陝西の黄驥・張琛・李実、環県の趙璋、新会の容某、四川の李応麒、嘉定州の挙人王表、禄豊の唐文炳・文蔚、蒙化の挙人範運吉・黄巌がいた。また、天下の孝子として旌表された鮑燦・陸爻・徐億等は、いずれもその郷里が失われている。

隆慶年間には、大興の李彪、静海の周一念・周斐、遷安の楊騰、松江の挙人馮行可、新郷の張登元、興業の何世錦、崇善の何呈がいた。

万暦年間には、直隷の韓錫、深州の林基、井陘の張民望、清豊の侯燦、河間の呉応奎、平山の挙人邢雲衢、邳州の張縝、直隷華亭の楊応祈・高承順、太湖の顧槐、盱眙の蔣臚、六安の何金、遂安の毛存元、江西の余鑰・徐信、都昌の曹珊、万安の劉静、新建の樊儆・舒泰、会昌の欧於復、鄱陽の李岐、奉新の周勃、南昌の曹必和、湖広の賈応進、光化の蔡玉・蔡佩、黄岡の唐治、浦城の徐彪、泉州の訓導王熺及び熺の子文升、晋江の韋起宗、山東の馬致遠、冠県の申一琴・一攀、岳陽の王応科、河南の侯鶴齢、帰徳の賈洙、密県の陳邦寵、舞陽の楊愈光、汜水の王謙、淅川の劉待徵、陝西の劉燧、涇陽の韓汝復、寧州の周大賢、成都後衛の楊茂勲、井研の曾海、大姚の金鯉、蒙化の範潤、四川の孝女解氏がいた。また、馬錦・張浩・杜恵・孝女楊氏等は、邑里が詳らかでない。

天啓年間には、安州の邵桂、棗強の先自正、晉州の張蘭、高邑の孫喬、上海の張秉介、高淳の葛至學、旌徳の江景宗、山陽の張致中、歙県の呉栄譲、孝童女の胡之憲・玉娥、慈谿の馮象臨、吉水の郭元達、宜春の鐘名揚、峡江の黄国賓、臨川の傅合、万載の彭夢瑞、南康の楊可幸、万安の羅応賫、江西楽安の曹希和、安福の孝婦王三重の妻謝氏、孝感の施文星、福建の李躍龍、甌寧の陳栄、晋江の丘応賓、浦城の呉昂、禹城の給事中楊士衡、泰安の范希賢、曹県の王治寧、曲阜の孔弘伝、德州の紀紹堯、聞喜の張学孔、陳州の郭一肖、虞城の呂桂芳、淅川の何大縉、華州の孫繩祖、梁山の李資孝がおり、また王錫光は邑里が詳らかでない。

崇禎年間には、応天の王之卿、故城の李華先、仁和の沈尚志、江西の王之範、福建の呉宗烜、山東の朱文龍、忻州の趙裕心、稷山の挙人史宗禹、淳化の高起鳳、雲南の趙文宿がいた。また王宅中・任万庫・武世捷・孔維章・浦某・褚咸・孫良輔らがおり、邑里は詳らかでない。皆、孝行によりその門を旌表された。

同居して敦睦を重んじた者としては、洪武年間に龍游の夏文昭が四世同居した。成化年間には、覇州の秦貴、建徳の何永敬、蒲圻の李玘、句容の戴睿、饒陽の耿寛が、いずれも七世同居し、石首の王宗義は五世同爨、宿遷の張賓は八世同爨、安東の蘇勒、潞城の韓錦・李昇、永州の唐汝賢、豊城の劉志清は、いずれも六世同居した。弘治年間には、密雲の李琚、合肥の鄭元、陵川の徐梁、安東の朱勇が五世同居し、慶都の黄鐘、定辺衛の韓鵬は六世同居、孝感の程昂は七世同居、泰州の王玉は八世同爨した。正徳年間には、山陽の丁震が五世同居した。嘉靖年間には、石偉が十一世同居し、遂安の毛彦恭が六世同居した。万暦年間には、蕭梅が七世同居し、滁州の盧守一、長治の仇大が六世同居し、先後二十三人の節烈貞女を得、太平の楊乙六が累世同居した。天啓年間には、南城の呉煥が八世同居した。皆、義門として旌表された。

財産を輸送して官を助け、救済した者としては、正統年間に千戸胡文郁、訓術李昺、訓科劉文勝、吉安の胡有初・謝子寛、浮梁の范孔孫、榆次の於敏、邳州の鞏得海・岑仲暉・高興・葉旺・高宗泰、沭陽の葛禎、清河の王仲英、山陽の鮑越、懐遠の廖冠平・張簡、石州の張雷、淮安の梁辟・李成・俞勝・徐成、潞州の李廷玉、羅山の王必通、溧陽の陸旺、余干の舒彦祥、温州の李倫・鄒有真、四安の何仕能・王清がいた。景泰年間には、江陰の陳安常がいた。天順年間には、潮陽の郭吾、太原の栗仲仁、代州の李斌がいた。弘治年間には、帰善の呉宗益・宗義及び宗義の子璋がいた。隆慶年間には、永寧の王潔・胥瓚がいた。万暦年間には、少卿呉炯、浙江の董欽ら、臨清の張氏、江西の胡士琇・丁果・婁世潔・黎金球、山西の孫光勛・高自修、亳州の李文明、順義の楊惟孝がいた。天啓年間には南城の呉煥がいた。崇禎年間には席本楨らがいた。皆、義門として旌表され、あるいは璽書を賜って褒労された。

孝義一

鄭濂(王澄)徐允譲(石永寿)銭瑛(曾鼎)姚玭丘鐸(李茂)崔敏(劉鎬顧琇)周琬(虞宗済等)伍洪(劉文煥)朱煦(危貞昉)劉謹李徳成沈徳四謝定住(包実夫蘇奎章)権謹趙紳(向化陸尚質)麹祥

鄭濂は字を仲徳といい、浦江の人である。その家は累世同居し、ほぼ三百年に及んだ。七世の祖綺は『宋史』孝義伝に載せられている。六伝して文嗣に至り、義門として旌表され、『元史』孝友伝に載せられた。弟の文融は字を太和といい、部使者余闕が表して東浙第一家とした。鄭氏の家法は、代々一人が家政を主宰する。文融が卒すると、嗣子の欽がこれを継ぎ、かつて血を刺して本生父の病を癒した。欽が卒すると、弟の鉅が継いだ。鉅が卒すると、弟の銘が家政を主宰すべきであったが、兄の子渭が宗子であるため、長く譲り合い、ようやく事を受けた。銘は呉萊に師事した。銘が卒すると、弟の鉉が継いだ。父の喪に際し、慟哭すること三日、髪と鬚がことごとく白くなった。元末に兵乱が起こると、大将が数度その境に入ったが、互いに戒めて義門を犯さなかった。枢密判官阿魯灰の軍が民財を奪ったとき、鉉は利害をもってこれを説き、引き去らせた。明の兵が婺州に臨むと、鉉は家族を連れて避難したが、右丞李文忠がその家に鍵をかけ、兵を遣わして護送して帰した。至正年間に卒し、渭が継いだ。渭が卒すると、弟の濂が継いだ。

濂は太祖に知遇を得、兄弟はこれにより顕れた。濂は賦長として京師に詣で、太祖が治家長久の道を問うた。これに対し、「謹んで祖訓を守り、婦人の言を聴かざることなり」と答えた。帝は善しとし、果物を賜うた。濂は拝して賜物を受け、懐に収めて帰り、家人に分け与えた。帝はこれを聞いて嘉嘆し、官に任じようとしたが、老齢を理由に辞した。当時、富室は多く罪によって宗族が傾いたが、鄭氏の数千の者はただ独り全うした。ちょうど胡惟庸が罪により誅せられたとき、鄭氏が交通したと訴える者がおり、吏がこれを捕らえた。兄弟六人は争って行こうとし、濂の弟湜がついに往った。当時、濂は京師におり、迎えて言うには、「吾は長に居り、罪に当たるべきなり」と。湜は言うには、「兄は年老いておられる。吾自ら往って弁明しよう」と。二人は争って獄に入った。太祖は召見して言うには、「このような人がいるのに、どうして人に従って逆を為すことがあろうか」と。これを赦し、直ちに湜を左参議に抜擢し、知る者を挙げるよう命じた。湜は同郡の王応ら五人を挙げ、皆参議に任じられた。湜は字を仲持といい、官に在って政声があった。南靖の民が乱を為し、詿誤した者が数百家に及んだとき、湜は諸将に言上し、ことごとく釈放させた。一年ほどして、入覲し、京にて卒した。

十九年、濂は事に坐して捕らえられるべきところ、従弟の洧が言うには、「吾が家は義門と称せられ、先世には兄が弟に代わって死した者がある。吾どうして兄に代わって死せざることがあろうか」と。吏に詣でて自ら誣服し、市で斬られた。洧は字を仲宗といい、宋濂に師事し、学行があり、郷人はこれを哀しみ、私謚して貞義処士とした。

濂が卒すると、弟の渶が継いだ。二十六年、東宮に官が欠けたとき、廷臣に孝弟敦行の者を挙げるよう命じると、衆は鄭氏を以て答えた。太祖は言うには、「その里の王氏もまた鄭氏の家法に倣う」と。そこで両家の子弟で年三十以上の者を徴し、ことごとく京に赴かせ、濂の弟済と王懃を春坊左・右庶子に抜擢した。後にまた濂の弟沂を徴し、白衣より礼部尚書に抜擢したが、一年余りで致仕した。永楽元年に入朝し、留めて故官とした。間もなく、また辞して去った。濂の従子の幹は御史に官し、棠は検討に官した。他に官を得た者また数人あり、鄭氏はますます顕れた。済・棠はともに宋濂に学び、文行があった。

初めに、鄭渶は嘗て元に仕えて浙江行省宣使となり、数年家政を主った。建文帝はその門を表彰し、渶は朝謝し、御書「孝義家」の三字を賜わった。燕兵既に入り、建文帝が其の家に匿われていると告げる者があり、人を遣わして索めさせた。渶の家の廳事の中に、十大櫃を列ね、五つは経史を貯え、五つは兵器を貯えて不虞に備えていた。使者至り、発く所は皆経史であり、其の半ばを置いて啓かず、乃ち禍を免れた。人は至行の感ずる所と為す。成化十年、有司が鄭永朝の世に敦く行義を為すと奏し、復た孝義の門を以て旌した。

鄭文融より渶に至るまで、皆篤行を以て著しい。文融は『家範』三巻を著し、凡そ五十八則、子の欽は七十則を増し、従子の鉉は又九十二則を増し、濂の弟の濤と従弟の泳・澳・湜に至り、兄の濂・源に白きて、共に相い損益し、定めて一百六十八則と為し、刊行す。

王澄は、字は徳輝、亦た浦江の人である。歳凶にして、粟を出して人に貸し、其の息を取らず。産を鬻ぐ者有れば、必ず直を増して以て之を足す。義門鄭氏の風を慕い、将に終らんとし、子孫を集めて誨えて曰く、「汝曹能く合食同居して鄭氏の如くせば、吾死して目瞑かん」と。子孫咸く拝して教を受く。澄は三子、子覚・子麟・子偉を生み、克く父の志を承く。子覚は応を生み、即ち鄭湜の挙げて擢ち参議と為す者なり。子偉は懃を生み、即ち鄭済と並び擢たれて庶子と為す者なり。義門王氏の名は、遂に鄭氏に埒し。

又た王燾有り、蘄水の人、七世同居し、一家二百余口、人に間言無し。洪武九年十一月、詔して孝義の門と為して旌す。

徐允譲は、浙江山陰の人。元末、賊起こり、父の安を奉じて走り山谷の間に避く。賊に遇い、安の頸を斫らんと欲す。允譲大いに呼びて曰く、「寧ろ我を殺せ、我が父を殺す勿れ」と。賊遂に安を捨てて允譲を殺す。将に其の妻の潘を辱めんとす。潘紿えて曰く、「吾が夫已に死せり、汝に従わば必ずなり。若し能く吾が夫を焚かば、則ち憾無からん」と。賊之を許す。潘薪を聚めて夫を焚き、烈焰の中に投じて死す。賊驚嘆して去り、安全きを得る。洪武十六年、夫婦並びに旌す。

同時に石永寿有り、新昌の人。老父を負いて賊を避く。賊其の父を執り将に之を殺さんとす。号泣して代わることを請う。賊永寿を殺して去る。

錢瑛は、字は可大、吉水の人。生まれて八月にして孤と為り、年十三にして能く秋試に応ず。長ずるに及び、元季の乱に値い、祖の本和及び母を奉じて難を避け、五六年を歴る。賊に遇い、本和を縛る。瑛奔り救い、並びに之を縛る。本和哀訴して其の孫を貰わんとす。瑛泣きて代わることを請うて已まず。賊憐れみて両つながら釈す。時に瑛の母も亦た執わる。瑛の妻の張従ひて莽の中に伏して窺い見、即ち趨り出で、賊に謂ひて曰く、「姑老いり、請う我を縛れ」と。賊之に従ふ。既に縛に就き、袖中の鞋を姑に擲ちて訣して曰く、「婦此を用ふる無し」と。且つ行き且つ睨みて姑を視る。稍く遠ければ即ち賊を罵りて肯て行かず。賊之を急に持す。罵ること益ます厲し。賊怒り、刃を攢えて刺し殺す。是の定まりて、有司瑛の賢を知り、凡そ三たび薦す。並びに親老を以て辞す。子の遂誌進士に成り、官は山東僉事。

同時に曾鼎有り、字は元友、泰和の人。祖の懐可・父の思立、並びに学行有り。元末、鼎母を奉じて賊を避く。母執わる。鼎跪きて泣きて代わることを請う。賊怒り、将に母を殺さんとす。鼎号呼して身を以て翼蔽し、頂肩及び足を傷つけ、母を控えて捨てず。賊魁継ぎて至り、之を憫み、其の母子を携へて営に入り療治し、愈ゆるを得る。行省其の賢を聞き、辟して濂谿書院山長と為す。洪武三年、知県の郝思譲辟して教を設け学ばしむ。鼎好学して詩を能くし、兼ねて八分及び邵子の数学に工なり。

姚玭は、松江の人。元至正中、苗帥楊完者の兵境に入る。比に母を奉じて野に避く。河に阻まれて渡ること得ず。母泣きて曰く、「兵至らば、吾誓って辱を受けず」と。遂に水に沈む。玭急ぎ水に投じて之を救い、母を負いて出づ。已にして、数たび盗に遇い、矢に中る。玭佯いて死して屍の間に伏して以て免る。母を奉じて湖・淮を過ぐ。後、母疾有りて魚を食らわんと思ふ。暮夜従ひて得る無し。家に一烏を養ふ。忽ち飛び去りて魚を攫みて以て帰る。洪武初、行省其の賢を聞き、之を辟く。親老を以て就かず。

丘鐸は、字は文振、祥符の人。元末、父は湖広儒学提挙と為る。兵乱に値う。鐸父母を奉じて播遷し、薬を売りて甘旨を供す。母卒す。哀慟幾くんか絶せんとす。鳴鳳山に葬り、廬を墓側に結び、朝夕上食すること生時の如し。寒夜月黒く、悲風蕭瑟たる当たり、鐸輒ち墓を繞りて号して曰く、「児斯に在り!児斯に在り!」と。山深くして虎多し。鐸の哭聲を聞きて避けて去る。時に真の孝子と称す。鐸初めに寇を慶元に避く。祖父母に従ひて故郷に居る者八人、貧しくして自ら存すること能はず。鐸悉く迎へ養ふ。姑有り、年十八、夫亡して節を守る。鐸之を養ひて終身す。

後に李茂有り、澄城の諸生なり。母悪瘡を患ふ。茂日ごとに膿血を吮い、夜は則ち天に叩きて代わることを祈る。卒するに及び、廬を墓の旁らに結び、朝夕悲泣す。天大雨す。其の墓を沖すを懼れ、墓に伏して哭き、雨止みて乃ち已む。父卒す。墓に廬すること之の如し。成化二年旌す。二子、表・森、森は国子生と為る。茂卒す。兄弟同じく墓に廬す。弘治五年旌す。表の子の俊も亦た国子生、表卒す。俊方に弱冠、墓に廬して喪を終ふ。母卒す。亦た初めの如し。正徳四年旌す。

崔敏は、字は好学、襄陵の人。生まれて四十日、其の父元に仕えて綿竹尹と為り、父子隔絶すること三十年。敏は母兄に依りて以て居る。元季寇乱し、母及び兄俱に相失す。乱定まり、陜に入りて母を尋ぬるも得ず。陜より川に入り、綿竹に抵り、父の冢を求むるも、知る者無し。復た陜に還り、諸の親故に訪ふ。始めて父の殯の在る所を知り、乃ち攢を啓きて骸を負ひて帰る。時に崔孝子と称す。

同時に劉鎬有り、江西龍泉の人。父の允中、洪武五年の挙人、官は憑祥巡検、任に卒す。鎬は道遠く家貧しくして、柩を返すこと能はず。居常り悲泣す。父の友之を憐れみ、広西監司に言ひて、聘して臨桂訓導と為す。尋いで公事を仮りて憑祥に赴くも、葬る処を知る莫し。鎬昼夜環哭す。一蒼頭故より其の父に従ひ、已に転じて交址に入る。忽ち暮れに至る。若し之に憑く者有るが如し。因りて冢の在る所を得る。血を刺して之を験するに良く是なり。乃ち負ひ帰りて葬る。

顧琇有り、字は季粟、呉県の人。洪武初、父鳳翔に充軍し、母随行し、琇を留めて丘墓を守らしむ。六年を越え、母歿す。琇奔赴し、母の骨を負ひて数千里を行く。寝れば則ち之を屋梁に懸け、渉れば則ち之を頂に戴く。父釈帰りて卒す。水漿口に入ること五日、喪に勝えずして死す。

周琬は、江寧の人。洪武時、父は滁州牧と為り、罪に坐して死を論ぜらる。琬年十六、閽を叩きて代わることを請う。帝人に教えを受けたるかと疑ひ、命じて之を斬らしむ。琬顔色変ぜず。帝之を異とし、命じて父の死を宥し、辺に戍す。琬復た請ひて曰く、「戍と斬とは、均しく死なる爾。父死せば、子安んぞ生を以て為さん、顧みて死に就きて以て父の戍を贖わん」と。帝復た怒り、命じて縛して市曹に赴かしむ。琬の色甚だ喜ぶ。帝其の誠を察し、即ち之を赦し、親しく御屏に題して「孝子周琬」と曰ふ。尋いで兵科給事中を授く。

同じ時に子が父に代わって死んだ者として、さらに虞宗済・胡剛・陳圭がいる。宗済は字を思訓といい、常熟の人である。父と兄がともに罪を得て、役人が捕らえて処罰しようとした。宗済は兄に言った、「事は徭役に関わり、国法は厳しい。行けば必ず死ぬ。父は年老いている。兄は嫡子であり、まだ後継ぎがない。私は幸いにも子を産んでいる。私が代わって死ぬことができる。」そこで身を挺して役人のもとに行き、父と兄は関与していないと申し立てた。役人は疑って訊問したが、すべて自分が引き受けた。洪武四年、ついに市中で斬られ、二十二歳であった。剛は浙江新昌の人である。洪武初年、父が泗上しじょうに役務で流罪となり、逃亡の罪で死刑に当たった。詔により駙馬都尉梅殷が監刑した。剛はちょうど省みに走って行く途中で、河岸に立って渡しを待っていた。これを聞くと、すぐに衣を脱ぎ、泳いで渡り、哀号して泣きながら代わりを請うた。殷はこれを哀れみ、上奏して聞かせた。詔してその父を赦し、同時に同罪の者八十二人をも赦した。圭は黄巖の人である。父が仇人に告発されて死刑に当たった。圭は宮廷に赴き上疏して言った、「臣は子として父を諫めることができず、不義に陥らせた。罪は死に当たる。父を許して自新させてください。」帝は大いに喜んで言った、「今日このような孝子があるとは思わなかった。その父を赦すのがよい。四方の朝覲官が到着したら、これを告げ知らせ、天下を風化し励ますべきである。」刑部尚書開済が上奏して言った、「罪には定まった刑罰があり、法を曲げて僥倖の道を開くべきではありません。」そこで圭が代わることを許し、その父を雲南に戍らせた。

十七年、左都御史詹徽が上奏して言った、「太平府の民に妊婦を殴打して死なせた者がおり、罪は絞刑に当たる。その子が代わりを請うている。」上疏が大理卿鄒俊に下って議させた。俊は言った、「子が父に代わって死ぬのは、心情は確かに賞賛すべきである。しかし、死んだ婦人は二人の命を宿しており、その冤罪はどうして晴らされようか。犯人は二つの死に当たる条項に触れ、法律をどうして免じられようか。法を犯した父を生かしておくより、罪のない子を全うさせる方がよい。」詔してその議に従った。

伍洪は字を伯宏といい、安福の人である。洪武四年の進士。績谿の主簿に任じられ、上元知県に抜擢された。父の喪に服し、喪が明けたが、母が老いているため再び仕官しなかった。財産を諸弟に分け与え、自分だけは隠居して母を養った。異母弟が罪を得て逃亡し、使者が捕らえられず、その母を捕らえた。洪は泣いて訴えて代わりを請うた。母は言った、「お前が行けば必ず死ぬ。私が自分で引き受ける方がましだ。」洪は言った、「子がいるのに母を煩わせるなどあるものか。」遂に行き、ついに市中で死んだ。

当時、劉文煥という者がいた。広済の人である。兄の文煇と共に糧食を運搬して期限に遅れ、死刑に当たった。兄が長として罪に当たった。文煥は役人のもとに赴き代わりを請い、頭を叩きつけて血を流した。担当官がその状況を上奏した。命じて赦そうとしたが、兄はすでに死んでいた。太祖は特に「義民」の二字を書いてこれを褒めた。

当時、京師に兄が法に坐し、二人の弟がそれぞれ自らを縛って代わりを請うた者がいた。太祖は使者を遣わして理由を問うた。同じ言葉で答えて言った、「臣らは幼くして父を失い、兄がいなければ今日に至ることはありませんでした。兄が死ぬべきとき、弟たちがどうして命を惜しみましょうか。」帝は表向きそれを許し、行刑者に戒めて言った、「難色を示す者がいたら殺せ。そうでなければ奏上して知らせよ。」二人とも首を伸べて刃に就いた。帝は大いに嘆き驚き、その兄をも赦そうとした。左都御史詹徽が認めず、ついにその兄を殺した。

朱煦は仙居の人である。父の季用は福州知府であった。洪武十八年、詔して天下の長年にわたり民の害となった官吏をことごとく捕らえ、京師に赴かせて城を築かせた。季用は官にあったのはわずか五か月であったが、やはり捕らえられ、病で耐えられず、煦に言った、「私は一死を覚悟している。お前はただ私の骨を収めて帰って葬ってくれ。」煦は恐れおののき、一刻も離れようとしなかった。当時、冤罪を訴える命令は厳しく、訴えて極辺に戍らされた者が三人、極刑に当たった者が四人いた。煦は奮い立って言った、「訴えようが訴えまいが、死は同じだ。万一、父が訴えによって赦免されるならば、たとえ殺されても恨みはない。」すぐに訴状を整えて宮廷に叩頭した。太祖はその志を哀れみ、季用を赦し、その官職を復した。

危貞昉という者がいた。字は孟陽、臨海の諸生である。父の孝先は洪武四年の進士。陵川県丞に任官し、法に坐して江浦に労役に服した。貞昉は宮廷に赴き上疏して言った、「臣の父が吏議に掛かって労役に服していますが、体力は衰えに向かい、労苦に耐えられません。しかも祖母は九十歳を超えており、霜露の病に染まり、臣の父に終生の恨みを残すことを恐れます。臣は犬馬の齢、ちょうど壮年です。父に代わって労役に服し、父をして帰養させたいと思います。死んでも朽ちません。」詔してこれに従った。貞昉は労役に耐えきれず、七か月を経て病死した。

劉謹は浙江山陰の人である。洪武年中、父が法に坐して雲南に戍らされた。謹は六歳の時、家人に「雲南はどこにあるのか」と尋ねた。家人が西南の方角を指すと、朝夕その方に向かって拝んだ。十四歳の時、はっと気づいて言った、「雲南は万里の遠方であっても、天下に父のいない子があろうか。」奮い立って行き、六か月を経てその地に到着した。旅宿で父に会い、互いに抱き合って号泣した。やがて父が瘋痹を患った。謹は役人に告げて身代わりを請うた。法令では、辺境に戍る者は必ず十六歳以上で、嫡長男のみが代わりを許された。当時、謹はまだ成年に達しておらず、伯兄は先に死んでいた。そこで家に帰って兄の子を連れて行った。兄の子も弱く自立できなかったので、再び帰ってその財産をすべて売り払い兄の子に与え、ようやくその父を奉じて帰還することができ、終生孝養を尽くした。

李德成は浹水の人である。幼くして父を喪った。元末、十二歳の時、母に従って賊を避けて河辺に至った。賊の騎兵が迫り、母は河に投身して死んだ。徳成が成長し、王氏を妻に娶った。土をこねて父母の像を作り、妻と共に朝夕これに仕えた。厳冬の時、大雪が降り、水は堅く凍って河底にまで及んだ。徳成が夢に母が言うのを見た、「私は水の下におり、寒くて出られない。」目覚めて大いに慟哭し、朝に妻と共に裸足で三百里を行き、河辺に到着した。水の上に臥すること七日、水は果たして数十丈融けた。恍惚としてその母を見るようであったが、他の場所は堅く凍ったままだった。長い時を経て、ようやく帰った。洪武十九年、孝廉に挙げられ、累進して尚宝丞となった。二十七年、孝子として表彰された。建文中、燕兵が済南に迫った。徳成は行って兵を返すよう諭したが、燕兵は退かなかった。徳成は帰り、命令を辱めたとして役人に下されたが、やがて釈放された。永楽初年に官職を復し、累進して陝西布政使となった。

沈徳四は直隷華亭の人である。祖母が病気になり、腿の肉を切り取って治療したところ治った。その後、祖父が病気になり、また肝臓を切り取ってスープを作って進めたところ、これも治った。洪武二十六年に表彰された。まもなく太常賛礼郎に任じられた。上元の姚金玉・昌平の王徳児もまた肝臓を切り取って母の病気を治し、徳四とともに表彰された。

二十七年九月に至り、山東の守臣が言上した、「日照の民、江伯児は、母が病気になり、脇腹の肉を切り取って治療したが、治らなかった。岱嶽の神に祈り、母の病気が癒えたら、子を殺して祀ると願った。すでに果たして癒え、ついに三歳の子を殺した。」帝は大いに怒って言った、「父子の天倫は最も重い。《礼》に父は長子の喪に三年服すとある。今、小民が無知で、倫理を滅ぼし道理を害している。早急に罪を治めるべきである。」そこで伯児を捕らえ、百回杖打ち、海南に戍らせた。これにより、表彰の事例を議するよう命じた。

礼臣が議して言った、「人子が親に仕えるには、平居にはその敬いを尽くし、養うにはその楽しみを尽くし、病気になれば医薬と祈禱を尽くす。この切迫した心情は、人子のなすべきことである。臥氷・割股に至っては、上古には聞かない。もし父母にただ一人の子しかおらず、あるいは肝臓を切って命を失い、あるいは氷に臥して死に至り、父母を頼る者なくし、宗祀を永遠に絶やしてしまうならば、かえって不孝の大なるものとなる。すべて愚昧な者どもが、奇異を尚び、愚俗を驚かせ、表彰を希い、里の徭役を避けようとするからである。股を切ることをやめず、ついには肝臓を切り、肝臓を切ることをやめず、ついには子を殺すに至る。道に背き生を傷つけること、これより甚だしいものはない。今後、父母が病気になり、治療が功を奏さず、やむを得ず臥氷・割股する者は、そのなすに任せるが、表彰の例には含めない。」制して言った、「よろしい。」

永楽年間、江陰衛の兵卒徐仏保らもまた股を切って旌表された。掖県の張信、金吾右衛総旗の張法保は李徳成の故事を援用し、ともに尚宝丞に抜擢された。英宗・景帝の時代以降は、股を切る者も定例に阻まれ、上聞に達せず、旌表される者は、おおむね墓側に廬る者であった。

謝定住は、大同広昌の人である。十二歳の時、家の牛が逃げた。母が幼子を抱いて追いかけ、定住は母の後ろに従った。虎が躍り出て母を噛もうとしたので、定住は奮って前に出てこれを撃ち、虎は逃げ去った。弟を取って抱き、母を支えて歩いた。虎が再び追いかけて母の首を噛もうとしたので、定住は再びこれを撃ち、虎はまた去った。数歩行くと、虎が戻ってきて母の足を噛んだ。定住は再び石を取って撃つと、虎はようやく捨てて去り、母子三人ともに無事であった。永楽十二年、帝は召見して嘉奨し、米十石・鈔二百錠を賜い、その門を旌表した。

これより先、洪武年間に包実夫という者がいた。進賢の人である。数十里外で教え子をとっていたが、途中で虎に遭い、衣を銜えて林の中に引きずり込まれ、放して蹲った。実夫は拝して請うて言った、「私が食われるのは天命ですが、父母が養いを失うのはどうしましょうか」。虎はただちに捨てて去った。後世の人々はその地を拜虎岡と名付けた。その後、嘉靖年間、筠連の諸生蘇奎章が父に従って山に入り、突然虎に遭遇した。奎章は慌てて泣きながら告げ、父を捨てて自分を食うことを願うと、虎は尾を曳いてゆっくり去った。後に岷府教授となった。

権謹は、字を仲常といい、徐州の人である。十歳で父を喪い、すでに哀毀し、母に仕えて至孝であった。永楽四年に推薦されて楽安知県に任じられ、光禄署丞に遷り、省侍のために帰郷した。母は九十歳で亡くなり、墓側に廬って三年、泉が湧き白鳥が馴れる異事を招いた。役人がこれを上聞すると、仁宗は駅伝を馳せて闕に赴かせ、その事状を出させ、侍臣に命じて大廷で朗誦させ、百官に示し、ただちに文華殿大学士に拝した。謹が辞すると、帝は言った、「朕が卿を抜擢するのは、天下の子たる者を風化させるためであり、他のことは卿の責ではない」。まもなく皇太子に扈従して南京で監国した。宣宗が位を嗣ぐと、病気を理由に帰郷を請い、通政司右参議に改め、白金と文綺を賜って致仕した。子の倫は、永楽年間に郷試に挙げられた。親を養うこと二十年、親が終わるまで仕官しなかった。倫の子の宇は、父母が卒すると、ともに墓側に廬った。成化十二年にも旌表された。

趙紳は、字を以行といい、諸曁の人である。父の秩は、永楽年間に高郵州学正となり、考満して京に赴く途中、武城県で水に堕ちた。紳は身を奮って下りて救おうとしたが、河流が湍悍で、ともに出ることができなかった。翌日、屍が水上に浮かび、紳は両手で父の腕を抱いて離さなかった。宣徳五年にその門を旌表した。

向化という者がいた。静海衛の人である。父の上が衛指揮で、海に堕ちて死んだ。化は号泣して屍を求めたが得られず、自らも海に投じた。突然父の屍が浮かび出て、衣服はすべて脱げていた。天はちょうど晴れていたが、雷雨が驟然として起こった。やがて止むと、化の首は父の衣を頂き、ある場所に浮かび着いた。人々は異として収めて葬った。

陸尚質という者は、山陰の人である。父が江を渡って風に遭い、舟が漂って海に入ろうとした。尚質は崖からこれを見て、ただちに濤の中に躍り込み、舟を岸に近づけようとした。父の舟は救われたが、尚質はついに溺死した。里人はその場所を陸郎渡と呼んだ。

麹祥は、字を景德といい、永平の人である。永楽年間、父の亮が金山衛百戸であった。祥は十四歳の時、倭に掠められた。国王はこれが中国人であると知り、召して左右に侍らせ、元貴と改名させ、ついにその国に仕え、妻子もあったが、心は一日も中国を忘れたことはなく、たびたび国王を諷して入貢させた。宣徳年間、使臣とともに来朝し、上疏して言った、「臣は夙に俘掠に遭い、釁を抱いて痛心し、流離困頓し、艱苦万状でした。今生きて中国に還ることができたのは、どうして人の力によるものでありましょうか。伏して帰って侍養することを賜わりたく、至願に勝えません」。天子はちょうど遠人を懐柔していたので、その請いに従わず、ただ駅伝を与えて暫く帰ることを許し、なお本国に還らせた。祥が家に着くと、ただ母だけがおり、識別できず、言った、「もし我が子ならば、耳の裏に赤い痣がある」。これを験するとその通りで、抱き合って痛哭した。まもなく別れて去り、日本に至り、帝の意を啓上した。国王はこれを允諾し、なお入貢することを命じた。祥はそこで再び以前の請いを申し上げ、詔によって職を襲い帰養することを許された。母子が相失うこと二十年、さらに華夷の隔たりがあったのに、ついにその初志を遂げることができ、聞く者をして異ならしめた。