明史

列傳第一百八十二 忠義六

◎忠義六

○夏統春(薛聞禮等)陳美(郭裕等)諶吉臣(張國勛等)盧學古(朱士完等)陳萬策(李開先)許文岐(李新等)郭以重(嶽璧郭金城)崔文榮(朱士鼎)徐學顏(李毓英等)馮雲路(熊明睿易道暹傅可知)蔡道憲(周二南等)張鵬翼(歐陽顯宇等)劉熙祚王孫蘭程良籌(程道壽)黃世清楊暄(朱一統等)唐時明(薛應玢唐夢鯤)段復興(靳聖居等)簡仁瑞(何相劉等)司五教(張鳳翮)都任(王家錄等)祝萬齡(王徵等)陳璸(周鳳岐)王徵俊(宋之俊等)丁泰運(尚大倫等)

夏統春、字は元夫、桐城の人。諸生となり、慷慨にして才志有り。保挙により黄陂の丞に任ぜられ、嘗て県事を摂り、廉能の声著し。十五年、賊黄陂を犯す。統春は既に麻陽の知県に遷るも、未だ赴かず、乃ち衆を督して拒ぎ守り、凡そ十五昼夜、賊忽ち解きて去る。統春、賊必ず再び至らんことを度り、而して衆已に甚だ疲れ、家に休む。五日を閲て、賊果たして突如として至り、城遂に陥つ。統春巷戦し、力竭きて執はれ、之を屈せんと欲す。統春賊の魁を指して大罵し、賊怒り、其の右手を断つ。復た左手を以て賊を指して罵り、賊又た之を断つ。罵り已まず、乃ち其の舌を割き、目怒りて視れば、眥裂けんと欲し、賊又た其の目を剜る。猶ほ頭を以て賊に触れ、遂に之を支解す。

薛聞禮なる者有り、武進の人。府吏より官し黄陂の典史となる。歳凶作にて、民漕粟を逋る。聞礼使を奉じて漢口を過ぎ、知る所に貸して千金を得、以て民の逋を代ふ。十六年、張献忠黄陂を陥し、聞礼の才を愛し、挟みて俱に去らんとす、暮れ即ち亡び帰る。会に賊の設く所の偽官、士民に殺死せられ、聞礼曰く「禍大なり」と、士民をして遠く避けしめ、而して己独り留まり以て之に当たる。俄に賊至り、将に城を屠らんとす。聞礼身を挺して曰く、「偽官を殺せる者は、我なり」と。賊之を生かさんと欲すも、詈り止まず、乃ち殺さる。

是の時に当たり、賊中原に延蔓し、名城を覆すこと勝げて数ふべからず。其の小吏を以て難に死する者、何宗孔・賈儒秀・張達・郝瑞日諸人有り。宗孔は、紫陽の典史。十一年五月、流賊再び其の城を陥し、之に死す。儒秀は、商南の典史、城陥ち、節を抗して死す。達は、興山の典史。十四年二月、張献忠しょくより来たりて攻め、都司徐日耀戦歿し、達縛はれ、賊を罵り屈せずして死す。瑞日は、陝西の人、固始の巡検となる。羅山賊の為に陥ち、上官瑞日に県事を摂らしむ。単騎二童を携へて往く、至れば則ち僧寺に止まり、将に流移を招きて守禦の計と為さんとす。月を踰へず、賊偽官を遣わし至り、土寇万朝勛之と合す。瑞日を誘ひ執へ、之を説きて降らしめんとすも、従はず、家に拘ふ。一日、朝勛酒を置き群賊を宴し、酔臥す、瑞日潜かに其の室に入り、之を殺す。将に鳳陽に奔らんとす、雨阻み、復た縶はるるを見る。賊其の勇を愛し、之を留めんと欲すも、叱して曰く、「我れ小吏と雖も、亦た朝廷の臣子なり、肯て賊の為に用せられんや」と。遂に害せられ、二仆も亦た死す。

朱耀なる者有り、固始の人。父允義・兄炳・思成と並びに勇力を以て聞こゆ。八年、賊来たりて犯す、耀父子力戦して之を却く。明年、賊復た至る。耀出でて戦ひ、手ずから数十人を馘り、之を追ふ、伏中に陥ち、大罵して死す。允義曰く、「我必ず子の仇を報ぜん」と。炳思成に謂ひて曰く、「我二人必ず弟の仇を報ぜん」と。三人衆を率ひ奮撃し、賊解きて去り、城全きを得。

陳美、字は在中、新建の人。崇禎の時、郷挙より宜城県の知県となる。兵燹の余、民生凋瘵す。及び張献忠谷城を据ふるに及び、人情益々懼る。美安輯備至なり。襄陽陥ち、賊兵来たりて犯す。美守備劉相国と偕に迎撃し、賊中伏して敗れ去る。巡按御史其の功を上す、叙録を得る。撫治都御史王永祚六等を以て所部の有司を課し、美上上に居る。朝に薦す、未だ擢用に及ばず。十五年冬、李自成襄陽を犯すに長駆し、左良玉先づ奔り、永祚及び知府以下俱に遁る。賊城に入り、郷官羅平・知州蔡思繩・福州通判宋大勛節に殉ず。賊兵を分かち宜城・棗陽・谷城・光化・均州を寇す。美宜城を守り、固く八昼夜を拒ぐ。城陥ち、抗罵已まず、賊の為に磔死す。訓導陽城の田世福も亦た之に死す。

棗陽の知県郭裕、清江の挙人。甫く視事す、張献忠至る。左良玉近邑に屯す、裕単騎邀へて与に共に禦がんとす、賊却き去る。是に至り、賊将劉福来たりて攻む、裕炮石を発し、撃傷多し。賊憤り、攻め益々力め、城陥つ。身数槊を受け、大罵す。賊之を支解し、闔門害に遇ふ。

光化の知県万敬宗、南昌の人、貢生、官に到りて死を以て自ら誓ふ。賊城に薄れば、遂に自尽す。賊之を義とし、引き去り、城全きを得。郷官韓応龍、挙人、歴て長蘆の塩運使、偽職を受けず、自縊死す。谷城の知県周建中も亦た節に殉ず。均州の知州胡承熙熱せられて屈せず、其の子爾英と俱に死す。承熙能声有り、永祚属吏を課し、亦た上上に列し、刑部員外郎に遷る、未だ行かず、難に遇ふ。賊鄖陽を犯し、同知劉璇之に死す。保康陥ち、知県万惟壇妻李氏と俱に之を列す。璇は、永年の人。惟壇は、曹県の人。俱に貢生。

諶吉臣、字は仲貞、南昌の人。父応華、万暦の時、参将として朝鮮を援け、戦歿す。吉臣挙人より雲夢の知県となる。崇禎十五年十二月、李自成襄陽を陥し、其の党賀一龍徳安を陥す。吉臣急ぎ孥を帰し、身誓ひて死し去らじ。明年正月、雲夢陥ち、執はれ、累日食はず。賊兵を以て臨む、吉臣速やかなる死を乞ふ。賊之を壮とし、官を授けんとすも、屈せず。馬に駆り上らしむれば、曰く、「我れ封疆を失守し、当に此に死すべし、更に安くにか往かん」と。乃ち殺さる。福王の時、太僕寺丞を贈る。

賊兵を分かち旁邑を犯し、応城陥ち、訓導張国勛之に死す。国勛は、黄陂の人。城将に陥たんとす、文廟に詣で先師の木主を抱きて大哭し、賊に執はれ、大罵屈せず、支解死す。妻子十余人皆節に殉ず。

袁啓観なる者は、雲夢の諸生なり。賊城を据ふ、啓観寨を立て自ら守る。賊執ひ去り、題を出だして之を試む。啓観曰く、「汝既に文を知る、亦た乱臣賊子は、人々得て之を誅すべきを知るや」と。賊怒り、之を殺す。

安陸城陥ち、知県分水の濮有容一門十九人皆死す。郷民寨を結び自保す、賊将白旺数十寨を連破す、諸生廖応元守り益々堅し。奸人執へて旺に送る、旺問ふ、「汝何を為さんと欲するや」と。声を厲めて曰く、「賊を殺さんと欲するのみ」と。賊怒り、射殺す。応山の挙人劉申錫死士百人を養ひ、城陥ち、恢復を謀る。兵敗れ、旺に殺さる、百人皆戦死す。沔陽陥ち、同知馬飈之に死す。

盧學古は夏県の人である。挙人に及第し、承天府同知を歴任し、荊門州の事務を代行した。崇禎十五年十二月、李自成が荊門を寇すと、學古は死を誓って守備した。學正の黄州張郊芳、訓導の黄岡程之奇もまた諸生と大成殿で盟を結び、城の守備を補佐した。賊は四日間包囲攻撃し、援軍なく、城は陥落した。學古は賊を罵り口を絶たず、腹を剖いて死んだ。郊芳、之奇もまた屈服せずに死んだ。

朱士完という者がいた。潛江の挙人である。郷試の掲示の夜、墓門に墨の旗が落ち、白粉で「乱世忠臣」の四字が書かれている夢を見た。この時、賊が承天を破り、長駆して潛江を陥落させた。士完は捕らえられ、檻送されて襄陽へ向かい、道すがら泗港で、指を嚙んで血で自らの節を尽くした場所を書き記し、ついに自縊した。賊が通過した所は焼き払われたが、士完が壁に題したものだけは残った。

彭大翮という者は、竟陵の青山の人である。賊が承天に迫ると、大翮は自ら著した『平賊権略』を出して当局に上呈したが、用いられなかった。そこで自ら一旅を集めて郷里を守り、賊を邀撃して過分に斬った。賊は怒り、雨の夜に襲撃した。大翮は嘆息して言った、「わが子孫はすでに陣没し尽くした、われ何のために生きようか」と。水に赴いて死んだ。

賊はすでに荊門を陥落させると、ついに荊州に向かった。巡撫陳睿謨は急いで江を渡って城に入り、恵王常潤を奉じて南へ奔り、監司以下は皆逃げ、士民はついに門を開いて賊を迎えた。訓導撖君錫は衣冠を正し端座して明倫堂にいた。賊が至り、屈服させようとすると、罵詈して死んだ。君錫は字を賓王といい、絳県の人である。賊は大いに縉紳を捜索し、故相張居正の子で尚宝丞の允修は食を絶って死んだ。戸部員外郎李友蘭は屈服せずに死んだ。諸生王維藩は妻朱氏と二人の娘を率いて難を避けたが、賊に掠められた。維藩は妻女に井戸に赴かせて死なせ、ついに殺された。諸生王図南は捕らえられ、抗って罵り死んだ。

夷陵の李雲は、郷挙によって潁川州知州となり、州人は祠を建てて祀った。職を辞して帰郷した。流賊が盛んになると、窓に「名義至重、鬼神難欺」の二語を大書して自ら戒めた。城が陥落すると、屈服せず、江陵に連行され、絶食して死んだ。呂調元という者は、帰州の千戸である。城が陥落し、士民は悉く帰附したが、調元は独り部卒を率いて格闘し、重囲の中に陥った。降伏を招くと、大罵し、乱刀の下に死んだ。

陳萬策は江陵の人である。天啓年間、同邑の李開先と前後に郷挙に及第し、ともに時名があった。崇禎十六年正月、李自成が襄陽を占拠し、偽官を設置した。その吏政府侍郎の石首喻上猷は、先に御史となり、賊に降り、両人の賢を挙げて用いるに足ると推薦した。自成は使者を遣わし書幣を整えて征召した。萬策は龍灣市に隠れ、賊の使者が至ると、嘆いて言った、「われは名に誤られ、すでに奮身して賊を滅ぼすことができず、なお頂踵を惜しむべきか」と。夜に自縊した。賊の使者が開先の家に至ると、開先は瞋目して大罵し、頭を壁に打ちつけて死んだ。福王の時、ともに優恤を命じられた。

許文岐は字を我西といい、仁和の人である。祖父の子良は、貴州巡撫右僉都御史。父の聯樞は、広西左参政。文岐は崇禎七年の進士。南京職方郎中を歴任した。賊が江北を大いに擾乱すると、尚書範景文を補佐して軍備を整え、景文は大いに頼りにした。黄州知府に遷り、賊の前鋒一隻虎を射殺し、大纛を奪って還った。獄に重囚七人がおり、帰省を許し、期日を定めて獄に就くようにすると、皆約束通りに至ったので、上官に請うてこれを赦した。十三年、下江防道副使に遷り、蘄州に駐屯した。賊魁の賀一龍、藺養成らが蘄・黄の間に集結し、文岐は防備を厳重にした。賊党の張雄飛が南渡しようとした時、遊撃楊富に命じてその舟を焼かせ、賊は退いた。巡撫宋一鶴がその功績を上奏した。副将張一龍は兵を統御するのに優れ、文岐はこれを重んじた。かつて共に帳中に宿った時、軍中で夜に騒ぎ声がした。文岐は「これは奸人が夜に乗じて逃げようとしているだけだ」と言い、堅く臥して出なかった。夜明けに、叛兵百余人が門を奪って逃走し、一龍が追捕して悉く斬り、一軍は粛然とした。楊富はすでに久しく蘄を鎮守していたが、一鶴がまた参将毛顕文を派遣して至ると、互いに相容れず、兵民が騒然とした。文岐は二将を会わせ、杯酒をもってこれを解き、初めて憂いがなくなった。十五年、左良玉の潰兵が南下して大いに掠奪した。文岐は馬に乗って江口に立ち迎え、兵は敢えて犯す者はなかった。時に警報は日に日に急を告げ、人に固き志がなく、ちょうど督糧参政に抜擢されて行くべき時であったが、文岐は嘆いて言った、「われは天子のために孤城を守ること二年、分として封疆に死すべきであり、たとえ危急であっても、どうしてこれを棄てられようか」と。妻に母を奉じて帰らせ、楊富、顕文に出て近郊に屯するよう檄を飛ばし、固守の計を立てた。まもなく、荊王府の将校郝承忠がひそかに張献忠と通じた。翌年、大挙して兵を率いて攻めて来ると、文岐は砲を発して賊を多く斃した。夜半に近づき、雪が一尺も積もり、賊が西門を破って入ると、文岐は巷戦した。雪はますます激しく、砲が発射できず、ついに捕らえられた。献忠はその名を聞き、殺さず、後営に拘禁した。時に挙人奚鼎鉉ら数十人が同じく拘束され、文岐は密かに言った、「賊の老営は多く烏合の衆であり、この数万の卒は皆掠められた良民である。もし大義を告げ、同心協力すれば、賊は殲滅できる」と。そこでひそかに結び合い、四月に挙事することを期し、柳の輪を合図とした。謀が漏れ、献忠がこれを捜索すると、果たして柳の輪を得、文岐を縛って斬った。死の間際、人に言った、「われが死ななかったのは、賊を滅ぼす志があったからだ。今事成らず、天なり」と。笑みを含んで死んだ。時に文岐が賊中に陥ってからすでに七十余日であった。事が聞こえ、太僕卿を追贈された。

賊はすでに蘄州を陥落させると、ついにその民を屠った。郷官の陝西僉事李新は挙家捕らえられ、賊は屈服させようとした。新は叱って言った、「われ昔秦中に官した時、お前らはまさに賤役であった。今日どうして賤役に膝を屈しようか」と。賊は怒り、新は父の屍を抱いて刃に就いた。その時、属吏で節を死守した者は、ただ麻城教諭の定遠蕭頌聖、蘄水訓導の施州童天申のみであった。

郭以重は黄州の人である。代々衛指揮を務めた。崇禎十六年、城が陥落すると、他の所から来て難に赴いた。その妻が止めようとすると、叱って言った、「朝廷がわが家に十三代の金紫を与えた、一死をもって換えられないことがあろうか。まず汝を殺す」と。妻はついに敢えて言わなかった。至ると、賊に会い脅して連れ去ろうとしたが、堅く従わなかった。刃を露わにして脅すと、ついに賊に好んで言った、「汝に従うのは難しくないが、ただ小児を抱いているのはわが妻である。汝がわがためにこれを殺せば、わが累いとならない」と。賊はその言う通りにした。以重は即座に賊の刀を奪い撃って一賊を斬り、群賊が押し寄せると、ついに水に赴いて死んだ。

先に、蘄州が破られ、指揮の嶽璧は屋から地面に堕ちたが、死ななかった。賊が城上に連行し、降伏させようとした。厲声で言った、「われは世臣なり、城亡ぶればこれに亡ぶ、どうして賊に降らんや」と。賊が刃を向けると、地に倒れた。気が絶えんとする時、瞋目して言った、「われ死して鬼となり、必ず汝らを滅ぼす」と。時に大雪、血が丈余流れ、目尻は閉じなかった。

同時に、郭金城は羅田の守将となり、賊が城に迫ると、配下の五百人を率いて戦い、百余の首級を斬り、英山まで追撃した。賊が大いに集結し、三日間包囲され、突囲して出られず、捕らえられた。脅して降伏させようとしたが従わず、殺された。

崔文榮は海寧衛の人である。代々指揮僉事を務め、武会試に合格し、南安守備に任じられた。崇禎年間、臨州・藍山の賊が蜂起し、桂陽に迫り、桂王が危急を告げた。文榮は配下を率いて会剿し、賊四万人を退けた。功績により、武昌参将に抜擢された。十六年四月、張献忠が漢陽を侵犯すると、文榮は長江を渡って襲撃し、六百の首級を斬った。やがて城は陥落し、武昌は震撼した。巡撫宋一鶴が既に死に、承天新任巡撫王聚奎は未だ到着せず、武昌は元来重兵を駐留させず、城は空虚であった。或る者は江上の兵を撤収して守備に充てることを議したが、文榮は言った、「城を守るは長江を守るに如かず、団風・煤炭・鴨蛋の諸洲は浅く馬の腹に及ばず、これを飛び渡らせて、孤城を坐して守るは良策ではない。」と。当局は従わなかった。賊は果たして団風から長江を渡り、武昌県を陥落させた。県には人がおらず、賊は樊口に出て営を張り、文榮は洪山寺に軍を置いてこれを扼した。その後、兵を収めて城内に入り、他の将に守備を代行させた。賊の全軍は鴨蛋洲からことごとく渡河し、洪山に到達し、守将もまた城内に退いた。文榮は武勝門が賊の衝要に当たると考え、故相賀逢聖とともに協力して守備し、賊はこれを攻めたが陥とせず。

監軍参政王揚基は時に既に右僉都御史に抜擢され、承天・徳安の二郡を巡撫していたが、命令を聞かず、まだ武昌に駐留していた。情勢の急迫を見て、推官傅上瑞とともに漢陽に用事があると偽り、城門を開いて遁走し、人心はますます騒然とした。先に、楚王が資金を出して兵を募集したが、応募する者は概ね蘄州・黄州の潰走兵卒や賊の間諜であり、この時に至って文昌・保安の二門を開いて賊を迎え入れた。文榮はちょうど戦闘から戻り、城門を閉じるに及ばず、馬を躍らせて大声で叫び、三人を殺した。賊が槊を集めて刺すと、胸を貫かれて死んだ。朱士鼎という者がおり、武進士から出仕し、巡江都司となった。城陥落時に捕らえられ、賊はその勇敢さを喜び、大いに用いようとした。戟手して大声で罵ると、賊はその右手を断った。そこで左手に血を染めて賊に振りかけ、賊はまたそれを断ったが、死ななかった。賊が退いた後、人に命じて筆を腕に縛り付けさせ、楷書を書くことができた。旧来の兵卒を招集し、平素通り訓練した。

徐学顔は字を君復といい、永康の人である。母が病に臥せると、天に祈り、自らの身をもって代わることを請うた。夜、神人が薬を授ける夢を見、朝になってその形色を覚え、広くこれを探し求め、荊瀝を得て、病はたちまち癒えた。父は中城兵馬指揮であったが、権力者に逆らい官吏に下された。学顔は三度上疏して冤罪を訴えたが、担当官がこれを止めて上奏せず、諸公卿に遍く叩頭しても雪ぐ者はなく、重い刑に処せられようとした。学顔は刑部で号泣して争ったが、叶わず、ついに腕を嚙んで血を庭に飛ばすに至り、ようやく釈放されて帰った。住んでいた大邸宅を弟に譲り、義を尚び財を疏かにし、一族や郷党はその徳を慕った。崇禎三年に東宮が立てられると、詔して孝友廉潔・博物洽聞で俗を励まし風を維くべき者を推挙せよとあり、役所は学顔を応じさせたが、沙汰止みとなった。十二年、恩貢生として楚府左長史に任じられ、義を引いて匡め補佐し、王は大いにこれを敬った。十五年冬、諸司の長官及び武昌知府・江夏知県がともに朝覲のため出立し、学顔が江夏の事務を代行し、守備の具を修繕した。楚府が新たに兵を募集すると、ただちに学顔にこれを将帥させた。翌年五月晦日、新軍が内叛し、城は陥落した。学顔は格闘し、左腕を断たれ、大声で罵って屈せず、賊によって支解され、一家二十余人が殉死した。通判固安の李毓英もまた一家を挙げて自縊した。

武昌知県鄒逢吉は殺害された。ともに死んだ者は、武昌衛経歴汪文熙・巡検戴良瑄及び僧官一人で、いずれも賊を罵って屈せず、腰斬に処せられた。賊は武昌を陥落させた後、兵を分けて属邑を陥落させ、ここにおいて嘉魚知県霍山の王良鑒・蒲圻知県臨川の曾栻はともに節を守って抗い死んだ。事が聞こえ、学顔は僉事を追贈され、毓英らは差等を設けて追贈・撫恤された。

馮雲路は字を漸卿といい、黄岡の人である。学問を好み行いを励まし、三十歳にして諸生を棄て、賀逢聖に従って講学し、ついに武昌に寓居し、数百巻の書を著した。崇禎三年、巡按御史林鳴球がその賢を推薦し、併せて著した書を上ったが、用いられなかった。賊が長江を渡らんとするに及んで、雲路は逢聖に書を送り、「内にあっては寧湖を止水とし、外にあっては漢江を汨羅となす。」と言った。寧湖とは、雲路が経を講じた場所である。城が陥落すると、筏に乗って寧湖に入った。賊が使者を派遣して招聘すると、遠くから応えて言った、「我が平生、ただ忠孝の書を読み、未だ賊に降る書を読んだことはない。」と。そこで湖に身を投じて死んだ。従遊の諸生汪延陛もまたここで死んだ。

その同邑の熊⿱雨川は字を渭公といい、やはり武昌に移り住んだ。邵子の『皇極書』を喜び、よく未来の事を言った。十六年元旦、著した『性理格言』・『図書懸象』・『大易参』などの書をすべて末弟に託し、「よくこれを蔵せよ。」と言った。城が破られる前日、雲路に書を送り、「明日、必ず我を某の樹下に尋ねよ。」と言った。期日に樹の傍らを行くと、賊が追い至り、荷池に躍り入って死んだ。

諸生の明睿という者がおり、江夏の人である。城が破られても、賊はただその門に入らなかった。睿は慨然として言った、「父母の郷国が覆りながら、どうして生き長らえて苟且に生きることができようか。」と。家人に言った、「速やかに我に従って井戸に入れ、さもなくば速やかに去れ。」と。ここにおいて妻と二子・二女及び諸婢が順次井戸に身を投げた。睿は笑って言った、「我は今、曠然として累い無し。」と。悠々として諸門に榜を掲げ、井戸に赴いて死んだ。当時の人はこれを明井と号した。

先に、賊が黄岡を陥落させた時、諸生の易道暹という者がおり、字を曦侯といった。学問を好み気節を尚び、深山の中に住み、積んだ書が家に満ちていた。賊の気勢が次第に迫ると、道暹は積んだ書を惜しみ、また自ら著した書が多いため、棄てるに忍びず、逡巡して行かなかった。賊が至ると、子の為瑚が急いで母を奉じて青峰巖に走り、道暹は幼子の為璉を連れ、書物を担って行った。賊に遇い、欺いて言った、「私は書賈である。」と。賊は笑って言った、「お前は易曦侯だ、どうして私を欺くのか。」と。道暹は言った、「お前が既に私を知っているなら、一言聞くがよい、慎んで人を殺し廬舎を焼くな。」と。賊は言った、「お前の身さえ保てないのに、なお他人のために言うのか。」と。道暹は厳しい色で賊を叱り、賊は怒ってこれを殺した。為璉が代わりを請うと、賊は併せてこれを殺した。間もなく、為瑚もまた殺された。

時に黄陂の諸生傅可知もまた賊を叱って死んだ。可知は幼くして父を喪い、棺の下に臥すること三年であった。六十歳で母を喪い、粥を啜ること三年であった。黄陂が陥落し、捕らえられると、可知の年は既に八十を超えていた。賊はその老いを憐れんで殺さず、馬を養わせようとしたが、叱って言った、「私は数十年士であり、どうして賊に使役されようか。」と。首を延べて刃に就き、賊はこれを殺した。

蔡道憲は字を元白といい、晋江の人である。崇禎十年の進士。長沙推官となった。当地には賊が多く、豪民で賊と通じる者を察知し、その罪を把ってこれを任用した。賊が富家を劫いて財を分けている最中に、収捕する者が既に至った。富家を召して失った物を返還させると、皆愕然としてどこから来たのか知らなかった。悪少年が戸を閉めて賊となることを謀ると、戸を開けると、捕卒が既にその門に坐しており、驚いて逃げ去った。吉王府の宗人がほしいままに奸を行うと、道憲は先にこれを処置してから王に啓上した。王が召して責めると、抗然として声を張り上げて言った、「今、四海鼎沸し、寇盗日々に増す。王が民を愛さず、一旦鋌んで走り険に赴けば、ただこの輩とともに富貴を保つことができようか。」と。王は悟り、謝罪してこれを遣わした。

十六年五月、張献忠が武昌を陥落させると、長沙は大いに震駭した。承天巡撫の王揚基は配下の千人を率いて、岳州から長沙へ奔った。道憲は岳州に戻って駐屯するよう請い、言うには「岳州と長沙は唇歯の関係にある。力を合わせて岳州を守れば長沙は保たれ、衡州・永州も憂いなし」と。揚基は「岳州は我が管轄ではない」と言った。道憲は「北を棄てて南を守っても、なお楚の地を失わない。もし南北ともに棄てれば、管轄すべき地はどこにあるのか」と言った。揚基は言葉に詰まり、岳州へ赴いた。賊が蒲圻に入ると、すぐに逃げ去った。湖広巡撫の王聚奎は遠く袁州に駐屯し、賊を恐れて進もうとしなかった。道憲もまた岳州への移動を請うた。聚奎はやむなく岳州に至ったが、数日で長沙へ移った。道憲は「賊は岳州から遠く、城を修繕して守ることができる。彼らが岳州を犯せば、なお長沙の援けを恐れる。もし岳州を棄てれば、長沙はどうして独りで全うできようか」と言った。聚奎は従わなかった。賊は果たして八月に岳州を陥落させ、直ちに長沙を犯した。先に、巡按御史の劉熙祚が道憲に兵を募らせ、壮丁五千を得て訓練し、皆用いることができた。この時、道憲は自らこれを率い、総兵官の尹先民らとともに羅塘河を扼した。聚奎は賊が迫ったと聞き、大いに恐れ、兵を撤して城に戻った。道憲は「長沙から六十里のところに険しい地があり、柵を設けて守ることができる。賊にここを越えさせてはならない」と言ったが、またも従わなかった。

その時、知府の堵胤錫は入朝して未だ帰らず、通判の周二南が攸県の事務を代行し、城中の文武官はわずかであった。賊が城に迫ると、士民は皆逃げ散った。聚奎は出戦すると偽り、急いで配下を率いて逃げた。道憲は独りで守りを拒んだ。賊は城を巡って呼びかけた、「軍中では久しく蔡推官の名を知っている。速やかに降れ、自ら苦しむな」と。道憲は守備兵に命じてこれを射殺させた。三日後、先民が出戦して敗れ戻った。賊が門を奪って入ると、先民は降った。道憲は捕らえられ、賊は官位で餌を与えたが、歯を噛みしめて大いに罵った。縄を解き、上座に招いたが、罵りは変わらなかった。賊は「お前が降らなければ、百姓を皆殺しにする」と言った。道憲は大声で泣き、「速やかに私を殺し、我が民を害することなかれ」と言った。賊はついに奪い得ないと知り、磔刑に処した。その心血はまっすぐに賊の顔に飛び散った。健卒の林国俊ら九人は付き従って去らず、賊もまた道憲に降るよう説くよう命じた。国俊は「我が主君が死を恐れて去ったなら、今日まで至らなかっただろう」と言った。賊は「お前の主君が降らなければ、お前たちも生きられない」と言った。国俊は「我々が死を恐れて去ったなら、今日まで至らなかっただろう」と言った。賊は彼らを皆殺しにした。四人の兵卒は奮然として「主君の屍を葬ってから死にたい」と言った。賊が許したので、衣を解いて道憲の骸を包み、南郊の醴陵坡に葬り、自ら刎頸した。道憲が死んだ時は二十九歳であった。太僕少卿を追贈され、忠烈と諡された。

二南は字を汝為といい、雲南の人である。選貢によって長沙通判となり、職務に尽くし、道憲と深く気が合った。岳州知府に抜擢されたが、士民が固く留めたので、新しい官位のまま長沙に戻り、後にはこれも死んだ。

邑中の挙人馮一第は湘郷に走り、他処に援軍を求めようとした。賊はその母と兄を捕らえて招いた。一第は帰って縛につき、賊が斬ろうとした時、一人の老僧が地に伏して泣きながら赦免を請うた。賊はその両手を切り落として営中に置き、一晩で死んだ。母と兄は免れた。賊が東安を陥落させると、挙人の唐徳明は仰薬して死んだ。耒陽を犯すと、諸生の謝如珂は戦いを拒んで死んだ。

張鵬翼は西充の人である。崇禎年間に、選貢生から衡陽知県に任じられた。十六年八月、張献忠が衡州に迫ると、巡撫の王聚奎・李乾徳および監司以下は皆逃げ、士民は皆奔り散った。鵬翼は独り空城を守ったが、賊が至ると即座に陥落した。脅して降伏させようとしたが、髯を逆立てて罵ったので、賊は縛って江に投げ込んだ。妻子は水に赴いて死んだ。

賊が岳州へ向かった時、巴陵教諭の桂陽人欧陽顕宇が県事を代行しており、そこで死んだ。臨湘へ向かった時、知県の莆田人林不息は抗い罵って屈せず、両手を断たれて殺された。湘陰が陥落すると、知県の大埔人楊開は家族十七人を率いて水に投じて死んだ。その丞の頼万耀が醴陵県事を代行し、城が破られてもこれに死んだ。長沙府照磨の莫可及は宜興の人で、寧郷県事を代行し、城に殉じて死んだ。二人の子の若鼎・若鈺は慟哭して駆けつけたが、害に遇った。衡州が陥落した後、属県の衡山も失陥し、知県の富順人董我前・教諭の分宜人彭允中は皆節を尽くした。府教授の永明人蒋道亨が武陵県事を代行し、印を抱えて賊を罵り、殺された。その他の文武将吏は、降らなければ逃げた。長沙の史可鏡は給事中に任官していたが、丁憂で帰郷し、賊に降り、賊に用いられて湖広巡撫となった。賊が湖広を棄てて四川に入ると、李乾徳が再び長沙に戻り、可鏡を捕らえ、鞭打ちを加え、械で南都に送って法に伏させた。

乾徳もまた鵬翼と同じ郷里の人である。崇禎四年の進士。十六年に右僉都御史に歴任し鄖陽を撫治したが、赴任せず、湖南に改任された。その時武昌は既に陥落し、乾徳は岳州を守った。献忠が急攻すると、乾徳は城を棄てて長沙に走り、岳州は遂に陥落した。転じて衡州・永州に移り、賊が至るたびに先に避け、長沙・衡州・永州は皆陥落した。献忠が四川に入ると、ようやく長沙に戻ったが、地を失った罪で、督師の王応熊の軍前に赴き自ら効力を尽くすよう謫された。永明王が立つと、兵部侍郎に抜擢され、川南を巡撫した。乾徳が蜀に入ると、その郷里は既に陥落し、父もまた難に遭っていた。そこで諸将の袁韜を説いて仏図関を攻めさせ、重慶を回復した。韜と武大定は久しく重慶に駐屯し、食糧が尽きた。乾徳は嘉定守将の楊展を説き、大定と兄弟の契りを結ばせ、食糧を供給させた。後に展を憎むようになり、韜をそそのかして展を殺させ、嘉定を占拠した。蜀人は皆乾徳を正しからずとした。ちょうど劉文秀が雲南から至り、韜を擒らえ、嘉定を陥落させると、乾徳は家人とその弟の御史升徳を駆り立て、共に水に赴いて死んだ。

劉熙祚は字を仲緝といい、武進の人である。父の純仁は泉州推官であった。熙祚は天啓四年に郷試に合格した。崇禎年間に、興寧知県となった。奸民が断腸草を食べて、人を脅して財物を奪うことがあった。熙祚は罪を贖う者には必ず草を用いるよう命じ、それで死んだ者は問わないとした。草は次第に少なくなり、弊害も止んだ。考課で最上となり、御史に徴用された。十五年冬、湖南を巡按した。李自成が荊州・襄陽諸郡を陥落させ、張献忠がまた蘄州・黄州を破り、江に臨んで渡ろうとした。熙祚は翌年二月に岳州に到着し、諸将に檄を飛ばして江岸を分防させ、偏沅・鄖陽の二巡撫に形勢を連絡させた。ちょうど賊の馬守応が澧州を占拠し、常徳を窺い、土寇の甘明揚らがこれを助けた。熙祚は常徳に馳せつけ、明揚を撃ち斬った。五月に長沙に戻った。

武昌及び岳州が相次いで陥落すると、急ぎ総兵尹先民・副将何一徳に命じて一万人を率いて羅塘河を守らせ、要害を扼させた。しかし巡撫王聚奎は長沙の守備を撤収し、賊は長駆して到着した。聚奎は潰走した将軍孔全彬・黄朝宣・張先璧らを率いて湘潭に走り、長沙は守れなかった。恵王が避難して長沙に至り、吉王と共に逃亡を謀り、熙祚はこれに奉じて衡州に奔った。衡州は桂王の封地である。聚奎の兵が到着し、大いに焼き掠め、王及び吉・恵二王は皆舟に乗って乱を避けた。熙祚は単騎で永州に赴き、城守の計を立てた。間もなく、聚奎はまた祁陽に走り、衡州は遂に陥落した。永州の士民はこれを聞き、空城で逃げた。三王が永州に至り、聚奎も続いて到着し、一日過ぎて全彬らも到着し、庫の金を奪って去った。熙祚は部将を遣わして三王を護衛して広西に走らせ、自らは永州に戻って防戦した。賊の騎兵が追撃してこれを捕らえ、献忠は桂王の宮殿に踞り、跪くよう叱りつけたが、屈しなかった。賊は群れをなしてこれを毆り、殿墄から端礼門まで引きずり、皮膚はことごとく裂けた。降将尹先民に命じて説得させたが、終に変わらず、殺害された。事が聞こえ、太常少卿を追贈され、忠毅と諡された。弟の永祚、字は叔遠、選抜貢生から累進して興化同知となり、賊の曾旺を捕らえた。後に副使として興化府事を知った。大清兵が城に入ると、仰薬して死んだ。弟の綿祚、字は季延。崇禎四年の進士。吉安永豊知県となった。隣境の九蓮山は、福建・広東の境界にあり、賊がその中に巣くっていた。綿祚は会剿を請うた。賊は怒り、衆を率いて攻撃した。綿祚は出撃し、三戦三勝した。賊がますます大挙して来ると、綿祚は黄牛峒に伏兵し、これを大破した。積労で病を得、告帰を請うて帰郷し卒した。兄弟三人は共に王事に死した。

王聚奎は既に永州を失い、後に賊が退いたのを窺い、密かに武昌に戻ったが、後任の何騰蛟に弾劾され、縁故で免罪となった。

王孫蘭、字は畹仲、無錫の人。崇禎四年の進士。累進して成都知府となった。蜀の宗人が民を虐げ、民が集結し、内江王の邸宅を焼こうとした。孫蘭が慰撫して諭すと、ようやく解散した。父の喪に服し、喪明けして起官し紹興に赴き、凶荒対策を整えた。広東副使に転じ、南雄・韶州二府を分巡した。連州の瑶賊が乱を起こすと、馳せて討伐し、三戦皆勝利した。十六年、張献忠が湖南で大乱を起こし、湖南の郴州宜章は韶州と接壤していた。孫蘭は督府に援軍を乞うたが、応じず、最後に七百人が到着したが、一晩でまた引き揚げさせられた。賊が衡州を陥落させ、屠戮をほしいままにすると、韶州が管轄する楽昌・乳源・仁化は逃亡して一空となった。連州の守将が先に城を占拠して叛き、韶州の士民はこれを聞き、空城で逃げ、賊が設置した偽官の檄文が将に到らんとした。孫蘭は天を仰いで嘆いて言う、「封疆を失えば死すべきであり、賊が城を陥せばまた死すべきである。我はどうして先に死なないのか」と。遂に自縊した。既に死んだ後、賊は結局来なかった。朝廷はその忠を哀れみ、贈恤を与えた。

程良籌、字は持卿、孝感の人、工部尚書程註の子である。天啓五年の進士。当時、程註は太常少卿で、魏忠賢に附かなかった。御史王士英が、彼が趙南星・李三才の私党であると弾劾し、忠賢は遂に詔を偽って良籌も共に除名し、永久に叙録しないとした。未だ出仕せずに除名されたのは、これ以前にはなかった。崇禎元年に起官し、文選員外郎を歴任し、選事を掌った。麻城の李長庚が尚書となり、同郷の故をもって、甚だこれを頼りにした。正郎が久しく欠員で推補されず、同列は多くこれを忌み、朝論もまたこれを軽んじた。長庚は推挙の失当により削籍され、良籌もまた吏に下されて戍に遣られ、久しくしてようやく釈放されて帰郷した。

十六年、李自成が承天を犯し、孝感もまた陥落した。良籌は白雲山が険峻であるのを頼りに、同邑の参政夏時亨と共に堡塁を築き集まって守った。賊は使者を遣わして降伏を説かせたが、良籌はその書状を破り捨てた。賊は怒り、長囲を設けて攻撃し、四十余日相持したが、解いて去った。当時、漢陽・武昌もまた張献忠によって陥落し、四面皆賊であり、ただ白雲だけが孤処していたので、賊は甚だこれを患った。既にして、武昌が官軍によって回復されると、良籌は遠近の諸寨を呼び集め、犄角の勢いで進軍した。その冬、遂に孝感・雲夢を回復した。十二月、進んで徳安に迫ったが、兵は敗れ、退いて白蓮寨を守った。寨の中の者は元より賊と通じており、内応し、良籌は遂に捕らえられた。降伏を説かれたが、屈せず、密室に拘禁された。明年正月、左良玉が将を遣わして徳安を攻撃した。賊は恐れ、良籌を擁して外兵を止めさせようとしたが、従わなかった。賊は城を棄てて去り、良籌を脅して同行させようとしたが、また従わず、遂に殺害された。太常少卿を追贈された。程道寿という者は、良籌の里人で、かつて来安知県となった。賊が孝感を陥落させ、掌旅を置いて守らせた。道寿は里中の壮士と結び、掌旅を撃ち殺した。賊が再び来ると、杖打ちし、獄に繋ぎ、書状を書かせて良籌を招かせようとした。道寿は言う、「我は白雲を助けて汝らを滅ぼすことができないのに、どうして汝らを助けようか」と。遂に殺害された。

黄世清、字は澄海、滕県の人。父は中色、吏部員外郎。世清は崇禎七年の進士に登第し、戸部主事に除され、滸墅関を専売し、清操があった。員外郎を歴任し、累進して右参議となり、商州・雒南を分守し、商州に駐屯した。城は屡々兵乱に遭い、四野は蕭然として、民は皆城中に入って保った。しかし客兵の過ぎる所は淫掠し、民は兵を賊よりも苦しんだ。世清は兵がみだりに城に入ることを禁ずる令を下した。間もなく、関中の兵がその地を経過し、二卒が門を叩いたので、これをさらし首にした。督撫は兵を発するに当たり、黄参議の令を犯すなと戒めた。李自成が荊州・襄陽を蹂躙し、遠近震動した。世清には一子が幼く、友人に養育を託し、身をもって殉ずることを誓った。十六年十月、自成が孫伝庭の軍を破り、長駆して関中に入り、右営十万人を派遣して南陽から商州を犯させた。世清は城に拠って守り、奸民が賊に投じ、城下に来て降伏を説いた。世清は偽ってこれと語り、砲を発してこれを斃し、その首を城上に懸けて言う、「二心を懐く者はこれを見よ」と。士民は皆死力を尽くし、砲矢が尽きると、石に継ぎ、石が尽きると、婦人が街の敷石を掘って継いだ。城が陥落し、世清は堂上に坐し、その僕朱化鳳に去るよう手を振ったが、化鳳は共に死ぬことを願った。賊が世清を引きずり下ろすと、化鳳は叱って言う、「奴才、無礼であるなかれ」と。賊がその頬を打つと、化鳳の声色はますます厳しかった。賊帥袁宗第の営に連行されると、世清は直立し、賊がこれを屈させようとすると、化鳳は言う、「我が主は堂堂たる憲司である。どうして賊に拝しようか」と。賊は先ずこれを殺し、世清に防御の札を授けた。罵って受けず、一家十三人と共に皆遇害した。光禄卿を追贈された。

楊暄、高平の人。崇禎十三年の進士。渭南知県に授けられた。凶年が大きく、力を尽くして救済し、民は少し安んじた。十六年冬、李自成が潼関に入り、兵備僉事楊王休が降伏した。教授許嗣復が上南門を分守し、城が破れると、棒を持って戦い、賊を罵って死に、妻女は掠められて皆自殺した。賊は遂に渭南に到達した。暄は既に兵部主事に抜擢されていたが、未だ赴任せず、訓導蔡其城と共に守った。挙人王命誥が門を開いて賊を迎えると、暄は縛られ、印を要求されたが与えず、罵って死んだ。其城もまたこれに死した。

賊は遂に西安を陥落させ、咸陽知県趙躋昌は被害を受けた。属邑は風に望んで降伏した。蒲城知県朱一統のみが拒守を謀り、言う、「我が家は七世衣冠である。どうして賊に臣下たりえようか」と。或る者が言うには、他州県の甲榜の者は皆既に降伏したと。一統は言う、「この事はどうして資格を論じようか」と。体が肥満していたので、家人に井戸の口を広げて待つよう命じた。衙兵が叛き、印を奪って急ぎ降伏を迎えさせようとした。一統は瞋目して叱って言う、「我が一日死なざれば、印を得ることはできない」と。日暮れ、左右は尽く散り、従容として井戸に赴いて死んだ。県丞沁源の姚啓崇もまたこれに死した。一統は平定の人で、乙榜から起家した。

朱迥滼という者がいた。沈府の宗室であり、宗貢生から白水知県となった。吏事に明るく習熟し、下僚は欺くことができなかった。賊が密かに城に入ると、なおも弓を手にして賊を射、学官の魏歳史・劉進とともに難に遭った。

唐時明は字を爾極といい、固始の人である。郷挙に挙げられた。崇禎年間、長垣教諭となった。子路の墓の祀田が豪家に奪われたが、時明はその旧に復した。国子学正から累進して鳳翔知府に至った。十六年十月、李自成が潼関に入ったと聞き、急ぎ戦守の備えを整えた。やがて潰兵が大いに掠奪し、西に入る者は固い意志がなかった。そして自成が西安を占拠すると、兵を分けて来寇し、典史の董尚質が門を開いて賊を迎え、時明は捕らえられた。偽相の牛金星が言うには、「我が主は賢を求めて渇のごとし、君が西京に至れば、次を超えて抜擢任用しよう」と。時明は叱って言った、「我は天朝の命吏である、どうして賊に臣としようか」と。金星は尚質に説いて降伏させようとしたが、厲声でこれを責めた。賊は縛して西安に送るよう命じ、時明は妻子を友人に託し、興平に至り、隙をみて自縊した。鳳翔が陥落すると、属城は叛いて降った。隴州同知の薛応玢は、武進の人である。時に州事を摂り、兵を率いて城を守った。城が陥落し、賊を罵って死んだ。宝鶏知県の唐夢鯤は、番禺の挙人である。歴任して仙居・天臺・富川・分水の四県の知県となった。富川においては、瑤族を撫育した功績があった。累に坐し、池州経歴に貶謫され、貴池県事を摂った。左良玉が兵を擁して下ると、郷民が城に奔り入ったが、守る者は拒んだので、夢鯤はことごとくこれを納れるよう命じた。そして宝鶏に改任となった時、賊はすでに潼関を過ぎており、星のごとく馳せて任に着いた。賊が県に迫り、守れないと知ると、自ら縊死した。

段復興は字を仲方といい、陽谷の人である。崇禎七年の進士。右参議を歴任し、慶陽を分守した。十六年十月、李自成が西安を占拠し、檄を伝えて降伏を諭した。復興はその檄を裂き、衆を集めて守った。一月余りして、賊が城に迫り、数重に包囲したが、砲石を発して賊を濠に満たして殺した。久しくして、勢い支えられなくなった。母に拝辞し、妻妾子女を楼に集め、その上に薪を置き、また城に乗って督戦した。城が陥落すると、急いで帰ってその楼に火を放ち、母もまた火に赴いて死んだ。そこで鉄鞭を持って北門に走り、数賊を撃殺し、遂に自刎した。士民は西河坪に葬り、祠を立てて祀った。同時に死難した者は、慶陽推官の靳聖居・安化知県の袁継登である。聖居は字を淑孔といい、長垣の人である。崇禎元年の進士。歴任して済源・萊陽の二県の知県となった。たびたび貶謫され復起し、慶陽に蒞任した時、すでに刑部主事を授けられていたが、行かず、賊に遇い、復興を補佐して死守した。城が破れて捕らえられ、罵り絶えずして死んだ。継登は南畿の人である。選貢から起家し、任に蒞って一年も満たずに変に遭い、賊に会って速やかな死を求め、賊がこれを殺した。

その寧州を陥落させた時、知州の董琬がこれに死んだ。宗室の朱新鍱という者は、貢生から中部知県を授けられた。自成が人を遣わして檄を持たせ招降すると、新鍱はこれを砕いた。嘆いて言った、「城は小さく兵がなく、空しく士民に禍を受けさせるのみ、計らうべきはただ自ら靖めることのみである」と。妻妾子女にことごとく縊死させ、乃ち縄を投じて死んだ。

簡仁瑞は字を季麟といい、栄県の人である。挙人から安西官同知を歴任し、平涼知府に遷った。十六年冬、賊が関に入ると、諸王及び監司以下の官は遁走を謀った。仁瑞は韓王に謁して言った、「長安ちょうあんには重兵があり、訛言は信ずるに足りません。殿下が軽々しく三百年の宗社を棄て、どこへ行こうとされるのですか。たとえ賊が境を圧しても、延・寧・甘・涼の諸軍が十分に相援け、必ず支えられないとしても、社稷とともに死ぬことも、二祖列宗を辱しめないでしょう」と。王は従わなかった。その夜、その護衛の卒が騒ぎ、王及び諸郡王・宗室を挟んで関を斬って出奔し、仁瑞を行かせようと脅した。仁瑞は言った、「私は平涼の守である、私が去れば、誰と守るのか」と。衆は遂に去った。仁瑞は乃ち四関の居民を撤して城に入れ、土石で門を塞ぎ死守の計を立てた。間もなく、賊の檄が至ると、乃ちかつて生かした死囚数人を召し、これに言った、「私はかつて汝らを生かした、汝らもまた我に報いるものがあるか」と。皆答えて言った、「命のままに」と。即ち幼子を託し、衛って出るよう命じた。翌日、賊が城下に抵ると、士民数人が降書を草し、僉名して印を署することを乞うた。仁瑞は怒って叱責し、衣冠を正し、堂上で自縊した。平涼が陥落すると、属城はことごとく降った。華亭教諭の鄒という姓の者は、曾子が武城に居た義を引き合いに出し、避けて去ろうとした。訓導の何相劉がこれを止めて言った、「我らは臣として委質した、どうして賓師をもって自ら待つことができようか」と。乃ち諸生を率いてともに守り、城が陥落すると、教諭とともに殉難した。

司五教は字を敬先といい、内黄の人である。篤学で志行があった。崇禎年間、歳貢として内丘訓導となった。十一年、邑が兵に遭い、長吏を補佐して拒守し功績があった。城固知県に遷り、山寇を剿滅した。十六年冬、賊が関中を占拠すると、郡県は風靡し、五教は士民を激して固守させた。ある諸生が内応を謀ったので、捕らえて斬り、その首を竿に掲げて城上に示した。間もなく、偽帥の田見秀が兵を擁して至り、五教は戦いながら守った。賊は兵を尽くして四日間攻め、城が陥落し、捕らえられると、厲声で賊を罵った。賊がその冠帯を除くと、すぐに自ら取って冠し、罵ることますます激しく、乃ち磔にされた。

郷官の張鳳翮は字を健沖という。天啓五年の進士。崇禎年間に御史となり、四川巡撫の王維章の貪劣を極論し、また給事中の章正宸を召還するよう請うたが、納れられなかった。出て雲南を按察し、還朝して言った、「陛下が均輸を議し再び一年徴収すれば、民力はすでに竭き、賊を討つ諸臣は泄泄沓沓として、ただ数百万の金銭を糜費するのみです」と。帝はその言を納れ、兵部に勅して飛騎で熊文燦を勒して進兵させたが、張献忠はすでに叛いていた。十五年、浙江右参政に遷ったが、任に就かず罷免された。賊が城を陥落させ、仕えるよう脅したが、屈せず死んだ。

都任は字を弘若といい、祥符の人である。万暦四十一年の進士。南京兵部主事を授かり、郎中に進み、累遷して四川右参政となった。天啓五年の大計で、左遷して江西僉事となり、また累遷して陝西左布政使となった。崇禎五年にまた山東右参政に貶謫された。再び遷って山西按察使となった。任の性格は剛厳で、多く物に忤い、たびたび貶謫・転任したが、終に変わらなかった。月朔に、同僚が晋王に朝したが、任は『会典』に拠って争い、赴かなかった。巡按御史の張孫振が提学僉事の袁継咸を誣劾したので、任はたびたび継咸を慰問し、その行に贐を贈った。孫振は怒り、また大計をもって中傷し、貶秩して帰った。後にまた起用され、右布政使兼副使を歴任し、榆林兵備を飭めた。

十六年九月、巡撫の崔源之が罷免されて去り、代わりの張鳳翼は未だ至らず、総兵官の王定が孫伝庭に従って出関し、大敗して奔還し、遠近震恐した。李自成は遂に西安を占拠し、その将の李過に精卒数万を以て三辺を徇わしめ、延安・綏徳が相次いで陥落した。定は懼れ、河套の寇を討つと詭言し、率いる所の部を以て遁去し、榆林はますます空虚となった。任は急ぎ軍民を集め、慷慨流涕し、大義を諭し、督餉員外郎の王家録・副将の恵顕等と城守を議した。城中には多くの廃将がいたが、任は尤世威が兵事に通じているとして、これを主帥に推し、諸将の王世欽等数十人を率いて誓死して守った。賊が使者を遣わして招降すると、任は斬って徇に示した。賊の大衆が群がって至り、十一月の望、城は包囲され、二十七日に至り、城は陥落したが、任はなお巷戦し、力支えられず、捕らえられた。降伏させようとしたが、大罵して屈せず、遂に殺された。世威等は皆死に、詳しくは世威伝に見える。

家錄は黄岡の人で、郷挙に挙げられた。時に既に関南兵備僉事に抜擢されていたが、赴任せず、任と共に協守した。包囲が切迫すると、男子は皆城壁に登り、家錄は婦人に命じて水を運ばせ城に注がせた。水の厚さは数寸に及び、賊は攻められなかった。城が陥落すると、家錄は自ら剣で頸を切って死んだ。

一時に同じく死んだ者は、郷里に住む戸部主事張雲鶚、知州彭卿・柳芳、湖広監紀趙彬で、皆屈せず死んだ。指揮崔重観は自ら焼死し、傅佑は妻杜氏と共に自縊死した。中軍劉光祐は賊を罵って死んだ。材官李耀は弓射に優れ、矢が尽きると自刎死した。同営の李光裕は家人を死に赴かせ、自らも自刎死した。張天叙は蓄えを焼き、自縊死した。指揮黄廷政は弟の千戸廷用・百戸廷弼と奮力して賊を殺し、共に死んだ。千戸賀世魁は妻柳氏と共に自縊死した。参将馬鳴節は妻子を室中に集め、自ら焼死した。郷里に住み戦死した者は、山海副総兵楊明・定辺副総兵張発・孤山副総兵王永祚・西安参将李応孝である。在官のまま事に殉死した者は、遊撃傅徳・潘国臣・李国奇・晏維新・陳二典・劉芳馨・文侯国、都司郭遇吉、中軍楊正韡・柳永年・馬応挙、旗鼓文経国、守備尤勉・恵漸・賀大雷・楊以偉、指揮李文焜・文燦である。また副将常懐・李登龍、遊撃孫貴・尤養鯤、守備白慎衡・李宗叙も、郷土を守って難に遭った。諸生では陳義昌・沈浚・沈演・白拱極・白含章が賊を罵って死に、張連元・連捷・李可柱・胡一奎・李蔭祥は自縊死した。一城の中、婦女で義に殉じた者は数千人、井戸の中は屍で満ち、賊は遂にその城を屠った。

榆林は天下の雄鎮であり、兵は最も精鋭で、将材は最も多い。しかしその地は最も瘠せ、兵糧も最も乏しく、士卒は常に飽くことを知らなかった。それなのに義を慕い忠に殉じ、志少しも挫けず、一人として身を屈して賊の庭に降る者はなく、その忠烈はまた天下で最も甚だしかった。事が聞こえると、天子は嘆き悼み、大いに褒賞と恤みを行おうとしたが、国が亡びて果たせなかった。

祝萬齢は咸寧の人である。父は世喬。至行があり、父が遠遊して帰らなかったので、十五歳で即ち独り身で訪ね求め、死に瀕しながら数千里を経て、遂に父を得た。後に選貢により南康通判となり、清廉で慎み深いことで知られた。萬齢は郷人馮従吾に師事し、万暦四十四年の進士に挙げられた。累官して保定知府となった。天啓六年、魏忠賢が天下の書院を悉く破壊すると、萬齢は憤った。逆党の李魯生が遂に萬齢を弾劾し、天変・地震・物怪・人妖は全て書院破壊によるものだという訛言を唱えたとし、聖人を非とし天を誣いること実に甚だしいと述べた。萬齢は遂に落職した。崇禎初年、推薦により起用されて黄州知府となり、諸生を定恵書院に集め、正学で導いた。三年在任し、河南副使に遷り、磁州で監軍した。輝県の北と山西陵川の南に、水峪という村があり、回賊が数十年間窃かに拠り、大いに民の患いとなっていた。萬齢は山西監司の王肇生と合兵して撃ち、六度戦ってその巣窟三百余を焼き、賊は遂に平定された。功を録され、右参政を加えられた。流賊が山西から河北に入り、新郷を掠めた。萬齢はこれを邀撃し、賊は陵川に走った。後に、再び大挙して至り、事を失った罪で、官籍を削られ帰郷した。湯開遠がその冤罪を訴えたが、受け入れられなかった。久しくして、廷臣が交々推薦したが、用いられる前に西安が陥落した。萬齢は深衣に大帯をし、急ぎ関中書院に至り、先聖を哭拝し、縄に首をかけて死んだ。僉事涇陽の王徴・太常寺卿耀州の宋師襄・懐慶通判咸寧の竇光儀・儀封知県長安の徐方敬・芮城知県咸寧の徐芳声・挙人宗室の朱誼巉及び席増光は皆郷里に住み、城が破れ、共に節を守って死んだ。

陳璸は漳浦の人である。天啓五年の進士。慈谿知県に任じられた。崇禎十年に袁州推官となり、楚賊を防ぎ功があった。累遷して右参議となり、湖南を分守し、八排賊を討ち平らげた。十六年、張献忠が長沙を陥落させ、参政周鳳岐を澧州に包囲した。璸は兵を督して救援に向かったが、軍は敗れ、捕らえられた。降伏させようとしたが、屈せず、手を断たれ肝を割かれて死んだ。鳳岐は永康の人。万暦末年進士。工部郎中を歴任し、節慎庫を掌り、宦官に逆らい、落職して帰郷した。崇禎初年、元の官に起用され、四川副使に進んだ。苗人が境界を争ったので、碑を立て疆を画してこれを定めた。右参政に改め、澧州を分守した。賊が来犯し、援軍が敗没し、城は遂に陥落した。賊の将帥は自らその縄を解き、降伏を説いたが、怒罵して死んだ。

王徴俊は字を夢卜といい、陽城の人である。天啓五年の進士。韓城知県に任じられた。崇禎初年、流賊が来犯したが、防ぎ退けた。大計の罪に坐し、帰徳照磨に左遷された。巡按御史李日宣が朝廷に推薦し、給事中呂黄鐘が天下に欠くべからざる人を用いるよう請い、徴俊にも言及したので、量移して滕県知県となった。累官して右参政となり、寧前を分守したが、喪に服して帰郷した。十七年二月、賊が陽城を陥落させ、捕らえられたが屈せず、獄に繋がれた。士民が争ってその徳を称えたので、賊は遂に釈放した。家に着くと北面して再拝し、縄に首をかけて卒した。

その時、士大夫で家に居て節を尽くした者は、霊石の宋之俊・翼城の史可観・陽曲の朱慎鏤である。之俊は進士に挙げられ、登萊監軍副使を歴任し、巡按謝三賓に逆らい、互いに朝廷で告発し合い、落職して帰郷した。三賓も官位を降格された。変事に遭うと、之俊は刑を受けて死んだ。妻の喬は賊を罵り階に撞きつけて死んだ。娘は屍を収め終えると、簪を抜いて喉を刺して死んだ。可観は太常少卿史学遷の子である。官は中書舎人で、鴻臚少卿を加えられた。城が陥落すると、自縊死した。慎鏤は晋府の宗室で、霊丘郡王府の事を摂った。賊が太原を陥落させると、冠帯して家廟を祀り、家人を廟中に駆り入れ、焼き、自らも火中に投身して死んだ。

丁泰運は字を孟尚といい、沢州の人である。崇禎十三年の進士。武陟知県に任じられ、河内に転じ、廉直の名声があった。十七年二月、賊将劉方亮が蒲阪から黄河を渡った。巡按御史蘇京は太行道を塞ぐと偽って言い、先に逃げ去り、陝西巡撫李化熙と共に寧郭駅に到着した。間もなく兵変が起こり、化熙は傷つけられて逃走した。兵が京を捕らえ、婦人の服を着せ、花を挿して歩かせ、少しでも違えば、すぐに鞭打って笑い楽しんだ。叛将陳永福が賊を引き連れて到着すると、京は即ち迎えて降伏した。賊は遂に懐慶に迫り、監司以下は皆逃げ散った。泰運だけが南城を守ったが、力及ばず、捕らえられた。賊は方亮の前に連行し、跪かせようとしたが屈せず、焼いた鉄鎖で炙っても従わなかったので、遂に害に遇った。

賊は懐慶を陥落させると、間もなく彰徳を陥落させた。安陽の人尚大倫は字を崇雅という。進士より歴官して刑部郎中となった。国学生の白夢謙が黄道周を救って獄に繋がれた時、大倫は寛大に処するよう議したが、尚書の意に逆らい、遂に罷免されて帰郷した。城が陥落すると、節を守って死んだ。参将榆林の王栄はその子の師易で、皆死んだ。また王橓徴という者がおり、郷挙より歴官して蒲州知州となったが、豪族に逆らい、職を辞して帰郷した。賊に捕らえられ、李自成に伝送されたが、道中憤恨して食を絶ち死んだ。