明史

列傳第一百八十一 忠義五

◎忠義五

武大烈(徐日泰ら)、錢祚徵、盛以恒(高孝志ら)、顏日愉(艾毓初ら)、潘弘(劉振世ら)、陳抱(許宣ら)、劉振之(杜邦挙・費曾謀ら)、李乘雲(余爵ら)、關永傑(侯君擢ら)、張維世(姚若時ら)、王世琇(顏則孔ら)、許永禧(高鬥垣ら)、李貞佐(周卜歴ら)、魯世任(張信ら)、劉禋(陳顯元ら)、何燮(左相申ら)、趙興基(鄭元綬ら)

武大烈は臨潼の人。天啓七年の郷試に合格した。崇禎年間に永寧知縣に任ぜられた。奸人が萬安郡王を恃んで不法をほしいままにしていたので、大烈はこれを厳しく懲らしめた。十三年十二月、李自成が南陽より宜陽を陥とし、知縣唐啓泰が害され、ついで永寧を攻撃した。大烈は郷官で四川巡撫の張論と協力して防禦した。張論が没すると、その子で吏部郎中の張鼎延および従父で治中の張讃がこれを継いだ。獄囚が賊を引き入れる者がおり、都司の馬有義は城を棄てて逃走した。大烈・鼎延らは三日間固守したが、賊は夜半に城に登り、大烈を捕らえた。自成は同郷の縁で生かそうとしたが、大烈は屈せず、印を求めても与えなかったので、焼き灼いて殺した。鼎延は枯井に隠れて免れた。張讃およびその子で國學生の張祚延はこれに殉じて死んだ。主簿魏國輔・教諭任維清・守備王正己・百戸孫世英はいずれも屈せずに死んだ。萬安王朱采𨮫もまた害された。

賊は移って偃師を攻め、一日で陥落させた。知縣徐日泰は大いに罵り屈せず、賊に細切れにされて死んだ。啓泰は掖縣の人。日泰は金谿の人。ともに郷挙より出仕した。

翌年正月、賊は寶豐を陥とし、知縣朱由椷がこれに殉じて死んだ。密縣を陥とし、知縣朱敏汀および郷里に居た太僕卿魏持衡・挙人馬體健がこれに殉じて死んだ。由椷は益府鎮國將軍朱常澈の子、敏汀もまた宗室で、ともに貢生より出た。敏汀の妾張氏、一女一孫および奴僕数人ともに死に、由椷とともに僉事を追贈された。

この月、洛陽らくようを陥とし、郷官の來秉衡・劉芳奕・常克念・郭顯星・韓金聲・王明・楊萃・荀良翰らが節を守って死んだ。秉衡は天啓四年に郷挙に合格したが、未だ仕えなかった。城が陥ち、賊将劉宗敏に捕らえられ、服を替えるよう命じ、官にしようとしたが、応じなかった。南郊の民家に拘束され、その友を見て言うには、「賊は我に官を強いるが、我は義をもって辱めを受けることをせず、母老いて子幼きを恨み、死して瞑目せぬのみ」と。賊はこれを聞き、焼いた鉄鎖をその脛に加えたが、終に従わず、遂に殺され、その母劉氏・妾呉氏および幼子ともに殺された。芳奕は慷慨として智略を負い、秉衡と同年に郷挙に合格し、昌樂知縣となった。官を解かれて帰郷し、凶年で人相食う有様であったので、財を傾けてこれを救済した。賊が次第に迫ると、義士を集めて幹城社とし、有司を助けて防禦した。城が陥ちると、西城の戍楼で縊死した。克念は進士に合格し、平陽推官となり、名声があった。顯星は郷挙に合格し、翰林待詔となった。金聲・王明はいずれも進士。金聲は邯鄲知縣の官にあり、王明は行人の官にあった。楊萃・良翰はいずれも挙人。楊萃は辰州知府の官にあり、良翰は未だ仕えなかった。

錢祚徵は字を錫吉といい、掖縣の人。崇禎年間、郷挙より歴官して汝州知州となった。汝は流賊の往来する要路であり、土寇もまた山中に拠っていた。祚徵はまず土寇を除かんとし、壮士千人を募って訓練し、人を遣わして好言で招撫しつつ、夜半に間道を取って直ちにその巣窟を突き、寇は大敗した。そこで民千家に一大寨を立てさせ、急があれば鉦を鳴らして互いに救うようにし、寇の勢いは衰え、その首魁は遂に降った。十四年正月、李自成が急に来犯し、祚徵は城に乗り守り、身に流矢を中てたが、守りを一層固めた。一月余りして大風塵が起こり、砲が炸裂し楼が焼け、城は遂に陥ち、賊を罵って死んだ。汝の人々は廟を立ててこれを祀った。

盛以恒は潼関衛の人。崇禎十三年の挙人。商城知縣となった。職務について一月余りで、流賊が突如として至ったが、これを退けた。翌年、張獻忠が襄陽を陥とし、隣境は大いに恐れた。以恒は既に開封同知に転じ、出発せんとしたが、士民が懇願して留めたので、城壁に登り、郷官の楊所修・洪胤衡・馬剛中・段増輝とともに城を守った。二月中、賊が急に至り、ちょうど雨雪で、守る者は凍え飢えて戦えなかった。以恒は家の者を督いて賊十七人を射て馬から落とさせたので、賊は怒り、力を併せて攻め、矢が以恒の右額に中り、なおも創を包んで敵を防いだ。賊が北城に登り、家の者が巷戦して死に尽くすと、捕らえられ、賊を罵って屈せず、賊に八つ裂きにされた。孫覚および典史呂維顯・教諭曹維正はいずれも死んだ。

所修はもと魏忠賢の党であった。左副都御史を歴任し、逆案に入り、贖罪して徒となり民となったが、ここに至って賊を罵って死んだ。胤衡は萬暦年間の進士。陽和兵備副使を歴任し、北門を分守し、力戦して死んだ。剛中は字を九如という。崇禎七年の進士。大同知縣に任ぜられ、行取されて檢討を授けられたが、仮を乞うて帰郷した。賊が入り、大いに罵り、磔にされて死んだ。増輝は字を含素といい、諸生となり、学行をもって称された。朝廷が保挙の令を下すと、推薦されたが、吏となることを好まず、教授に擬せられたが、未だ選に謁せず帰郷した。変に遇い、賊を罵って死んだ。

賊は商城を陥とすと、即ち疾駆して信陽を犯した。城が陥ち、知州高孝志、訓導李逢旭・程所聞、郷里に居た静海知縣張映宿がこれに殉じて死んだ。光山を陥とすと、典史魏光遠もまたこれに殉じて死んだ。所司が贈官と撫恤を請うたが、未だ報せられなかった。

十五年七月、帝は詔を下して言うには、「近頃州県の有司は守備を設けず、賊が至れば即ち陥ち、鋒を衝き陣を陥し、持久して力尽きる者とは格別である。もし一概に天啓年間の例に援用し、優に贈蔭を与えるならば、どうして労臣を表彰し勧奨できようか。今より五品以下は、ただ監司を贈り、四品および方面の官は、初めて京卿を贈る。これを令とせよ」と。そこで以恒に副使を、孝志に参議を追贈し、維顯らには差等をもって贈恤した。天啓年間、州県長吏で殉難した者は、概ね京卿を追贈し、錦衣世職を蔭し、祭葬を賜り、有司が祠を建てた。崇禎初年、蔭を國子生に改め、これに出仕させたが、京卿の贈りは従前の通りであり、ここに至って初めて外僚への贈りを改めたという。

顏日愉は字を華陽といい、上虞の人。萬暦年間、郷挙に合格した。崇禎初年、葉縣知縣に任ぜられ、善政があり、上官に憎まれ、弾劾されて罷免された。部民が争って闕に赴き冤罪を訴えたので、叙用を得た。後に静寧知州となった。羅賊が乱を起こすと、馳せて固鎮五道の兵に合剿を請うた。そして先に敢死の士数人を率いてこれを招諭し、賊が備えを緩めたので、精卒を遣わしてその営を突かせ、賊は慌てて潰走し、数百級を斬った。黎明に五道の兵が続いて至り、再びこれを大破した。開封同知に転じた。流賊の勢いが正に盛んであったので、上官は南陽が要衝であるとして、日愉を推挙して知府とし、大いに守具を整え、人心はやや固まった。十四年五月、賊が突然至り、百余人が雨を冒して城に登った。日愉はこれを撃ち殺してほとんど尽くし、残りの賊は引き去り、城は全きを得た。日愉は手に一矢を中て、頭項に二刃を受け、城上で死んだ。事が聞こえ、太僕卿を追贈された。賊は志を得ず去り、ついで傍近の州県を掠め回った。その冬、再び南陽を囲み、これを攻め陥とし、参議艾毓初がここで死んだ。

艾毓初、字は孩如、米脂の人、戸部侍郎希淳の曾孫なり。崇禎四年進士。内郷知県を授かる。辺陲に生長し、戦事に習熟す。六年冬、流寇来たりて犯す。城外に「滾地龍」と名づくる大砲を埋め、城中にて線を燃やしてこれを発し、賊死すること算なく、遂に解き去る。内郷と領邑の淅川は深山邃谷多く、盗窟となり、民居は懍懍たり。毓初至り、守備を設け、民少しく安んずるを得たり。明年冬、唐王聿鍵上言す、「祖制、親王の封ぜられたる地には、有司早晚必ず謁見すべし。今、艾毓初等皆謁せず」と。帝怒り、悉く逮えて法司に下し、礼部に勅して典制を申さしむ。已にして王逮えられ、毓初官を補うことを得たり。屡遷して右参議に至り、南陽を分守し、日愉とともに賊を撃退して功あり。自成、宋献策の計を用い、南陽を取らんとして関中を図り、復た大衆を率いて来寇す。毓初、総兵官猛如虎等とともに堅守す。賊南門に攻め入る。時に総督楊文嶽の援軍至り、賊引き退く。文嶽去り、賊復たこれを攻む。食尽き援絶え、毓初城楼に詩を題し、遂に自縊す。南陽知県姚運熙、主簿門迎恩、訓導楊気開も亦たこれに死す。

明年十月、自成再び南陽を陥とす。知府丘懋素、賊を罵り屈せず、闔門害せらる。是の月、賊扶溝を過ぐ。衆議城守す。挙人劉恩澤、初め嘗て策を以て当事に干し、多く用いらる。県令騃にして事を解せず、恩澤痛哭して曰く、「吾不幸にして木偶人に従いて死せん」と。自ら楼壁に題して曰く、「千古の綱常事、男児肯て人に譲らんや」と。明日、城陥ち、楼より擲げ下されて死す。

潘弘、字は若稚、淮安山陽の人。貢生より起家す。崇禎十三年、舞陽知県となる。時に流賊猖披し、土寇も亦た間発す。弘数え討ちてこれを敗る。明年十一月、李自成・羅汝才既に南陽を陥とし、兵を放って所属州県を覆し、将に舞陽を攻めんとす。弘、士民を諭して共に拒がしむ。諸生、賊の城を屠らんことを慮り、委曲に禍を紓くべく請う。弘これを叱して去らしむ。賊城に薄き、砲を発してこれを撃ち、多く斃る。小校一人善く射、屡賊を却く。諸生潜かに人を遣わして降を約す。賊復た至る。弘、先聖に告ぐるの文を作り、自ら必ず死せんことを誓う。諸生潜かに門を開き、弘を縛りて献ず。賊印を索む。弘与えず。脅して降らしめんとす。怒罵して屈せず、乃ち支解す。子澄瀾痛憤大哭し、井に投じて死す。

時に鄧州・鎮平・内郷・沁陽・新野相継いで陥つ。鄧州知州劉振世、吏目李国璽、千戸余承蔭・李錫、諸生丁一統・張五美・王鐘・王子章・海寛・傅彦、皆節を抗して死す。鎮平知県成県の鐘其碩捕えられ、賊を罵りて死す。内郷知県南昌の龔新・新野知県四川の韓醇、並びに屈せずして死す。

泌陽凡そ再び陥つ。是の年五月、張献忠信陽を破り、左良玉の旗幟を獲、これを仮りて以て城に登る。知県雲南南寧の王士昌、印を懐き端坐し、縛せられ、謾罵して死す。臨昌の姚昌祚これに代わる。甫く数月、復た陥つ。昌祚手ずから数賊を斬り、力屈して死す。典史雷晋暹、捕卒を率いて戦死す。又武職の王衍範・銭継功・海成俱に難に死す。而して鄧州は十年春、張献忠に破られ、知州孫沢盛・同知薛応齢皆戦死し、是に至りて亦た再び陥つという。

陳豫抱、舞陽の人。母段早く寡なり、豫抱及びその弟豫養・豫懐を撫育し、皆諸生となり、田を力め学を好み、善く母の志を承く。崇禎十四年、流賊舞陽を陥とす。母先ず井に赴く。三子これに従う。豫抱の妻黄、その子黙通を携え、豫養の妻馬、子黙恒・黙言を携え、俱にこれに従う。三世九人、一時に節を尽くす。

時に郡邑の諸生死する者甚だ衆し。その著しき者を録す。内郷の許宣及び二弟寀・宮、慷慨にして義を好む。賊鄧州を陥とす。宣兄弟里中の壮士を結び、直ちにその城に入り、偽官を擒え、許家寨を堅守す。賊怒り、これを攻め破る。寀母の常に従い先ず井に投じて死す。宣・宮皆賊を詈りて殺さる。宮の妻鐘・寀の妻陳並びに自経す。その妹も亦た賊を罵りて殺さる。時に「許氏七烈」と称す。

賊の偃師を攻むるや、張毓粹二子を率いて有司を佐け固守す。城陥ち、大罵し、俱に殺さる。妻藺と三女・二孫悉く井に赴いて死す。賊武同芳の母を殺す。同芳血を噴き大罵し、支解されて死す。劉芳名・劉芳世・藺之粹・喬於昆・藺完馪・王光顕・喬国屏・王邦紀・藺相裔・張一鷺・張一鵬・牛一元皆節を抗して死す。芳名・完馪の妻皆張氏、邦紀の妻高と並びに従死す。一鷺・一鵬の父も亦た賊を罵りて死す。

唐県の許曰琮、早く父を喪う。母歿し、墓に廬して三年。城破れ、南山に遁居す。賊これを徴すれども出でず、死を以て脅す。その背に「誓って賊に従わず」と鐫り、遂に血を嘔いて死す。

劉振之、字は而強、慈谿の人。性剛方、学行を敦くし、郷人これを厳重す。崇禎初、郷に挙げられ、教諭より遷りて鄢陵知県となる。十四年十二月、李自成許州を陥とす。知州王応翼害せられ、都司張守正、郷官魏完真、諸生李文鵬・王応鵬皆死す。許より以南堅城無し。奸人素より賊に通じ、城小なれば宜しく速やかに降るべしと倡言す。振之怒りてこれを叱退す。典史杜邦挙曰く、「城存すれば与に存し、亡すれば与に亡すは、人臣の大義なり。公の言是なり」と。振之乃ち吏民と集まり共に守る。賊大いに至り、城陥つ。振之笏を秉り堂上に坐す。賊印を索む。与えず。雪中に縛し置くこと三日夜、罵声絶えず、乱刃交下して乃ち死す。初め、振之一小簡を書き、篋中に蔵す。毎歳元旦取りて視れば、輒ちその上に紙を加えて封ず。死するに及び、家人篋を発す。乃ち「財を貪らず、色を好まず、死を畏れず」の三語なり。その志を立つることかくの如し。光禄寺丞を贈らる。邦挙、富平の人。許屠られ、鄢陵の人恟懼す。守る者或いは遁走す。邦挙捕え得て、斬りて以て徇す。城陥つに及び、自成これを降らんと欲す。邦挙罵りて曰く、「朝廷の臣子、豈に賊の為に用いられんや」と。賊その舌を抉り、血を含みてこれを噴く。遂に害に遇う。

開封の属邑多く陥つ。殉難する者、費曾謀・魏令望・柴薦禋・楊一鵬・劉孔暉・王化行・姚文衡の属あり。

曾謀は鉛山の人、少師曾宏の末裔である。郷挙により通許の知県となり、わずか四十日にして賊が突然襲来した。曾謀は父老を集めて言った、「我が死せば、汝らは城を降して、屠戮を免れよ」と。北に向かって再拝し、印を抱いて井戸に投身して死んだ。令望は字を於野といい、武郷の人である。進士に挙げられ、商丘知県に任じられ、太康に転じた。賊が来寇し、固守して陥落させなかった。賊は怒り、攻め破り、その城を屠り、令望は一族を挙げて自焚した。薦禋は江山の挙人で、洧川の知県となり、城が陥落し、大罵して死んだ。一鵬は河津の人。崇禎九年の郷試に挙げられ、尉氏知県となり、わずか数ヶ月で政声が四方に広まった。城が破れ、賊を罵って死んだ。孔暉は邵陽の人。天啓元年の郷試に挙げられ、新鄭知県となり、固守したが支えきれず、遂に死んだ。士民は彼を子産祠に祀った。化行は商水知県となり、城が陥落し、殺害された。後任の文衡は着任数ヶ月で、賊が再び来寇し、印を持って井戸に赴き投身して死んだ。その小吏では、臨潁の千総賈蔭序、長葛の典史杜復春、郷居の者では長葛の挙人孟良屏、諸生張範孔ら、汜水の挙人張治載、馬德茂、皆死んだ。

李乗雲は高陽の人、郷挙に挙げられた。崇禎初年、浮山知県となった。流賊数万が来寇し、乗雲は自ら一矢を放ってその首魁を斃し、賊衆は遂に逃げ去った。累遷して山西僉事となった。十四年秋、才能により河南大梁道に転じ、禹州に駐屯した。十二月、李自成が相次いで鄢陵・陳留諸県を陥落させ、遂に禹州を寇した。乗雲は死を誓って固守し、賊は多く砲に斃れた。やがて十万の賊衆が城壁を攀じ登り、乗雲を捕らえて跪かせようとしたが、乗雲は怒って賊を叱り、賊は彼を掴んで杖で打ち、大罵して声が絶えなかった。樹に縛り付け、矢を集中して射かけても罵り続け、舌を断たれ、乱刃が交々に下って死んだ。光禄卿を追贈された。州には先に徽王府があり、嘉靖時、王載埨が罪を犯し、爵位が絶えたが、延津等の五郡王は皆難に遭った。

翌年、賊が開封を犯すと、監軍主事余爵、監軍僉事任棟が先後して戦死した。棟は永寿の人、貢生から萊州通判となった。崇禎四年、李九成らが叛き、棟は知府朱万年を補佐して共に守った。万年と巡撫謝璉が賊に誘い出されて捕らえられると、棟は同知寇化、掖県知県洪恩炤と共に大帥楊禦蕃を助けて力戦し防いだ。包囲が解け、功績により官位を進められ、累遷して保定監軍僉事となった。十四年、総督楊文岳に従って南征し、鳴臯鎮の勝利に功があった。まもなく総兵虎大威と共に賊を平峪で破り、再び鄧州で破った。翌年正月、開封の包囲を解くのに従った。まもなく郾城で戦い、大勝した。後に開封救援に従い、左良玉が朱仙鎮で大潰すると、賊が追撃してきたので、棟は力戦し、陣中に没した。余爵は禹州の人。崇禎元年の進士。撫寧・章丘の知県を歴任した。職方主事に遷り、罷免されて帰郷した。楊嗣昌が督師として出ると、爵を旧官のまま参謀軍事に請うた。嗣昌がしょくに入ると、張克儉と共に襄陽を守るよう命じられた。城が陥落し、爵は脱走し、督師丁啓睿に従って河南におり、賊を鄧州で破った。十五年、開封の包囲が切迫すると、左良玉軍を監軍して救援に向かい、戦いに敗れて捕らえられ、賊を罵って死んだ。甥の敦華も害に遇った。棟は太僕卿を、爵は太僕少卿を追贈された。

関永傑は字を人孟といい、鞏昌衛の人。世襲で百戸の官職にあった。永傑は読書を好み、忠義の事に遇うごとに、壁に書き記した。容貌は奇偉で、世間の人が描く壮繆侯(関羽)の像に似ていた。崇禎四年、会試で都に入り、同輩と壮繆祠に遊んだ。ある道士が前に出て言った、「昨夜、神が告げられた、『我が後人に登第する者あらん、後に且つ我が忠義を継がん、語るべし』と」と。永傑は愕然とし、ひどく自ら喜んだ。果たして登第し、開封推官に任じられ、強情で植え付けず阿らず、民は畏れ愛した。憂いで帰郷し、起用されて紹興に赴任した。兵部主事に遷り、督師楊嗣昌がその才能を推薦し、軍前に用いるよう請うたので、睢陳兵備僉事に抜擢され、陳州に駐屯した。陳はもと賊の衝要で、毎年蹂躙されていたが、永傑は日夜警戒の備えをした。十五年二月、李自成が数十万の衆を率いて来攻し、永傑は知州侯君擢、郷官崔泌之、挙人王受爵らと共に士民を率いて城壁を分かち守った。賊は使者を遣わして降伏を説いたが、その首を斬り、城上に懸けた。賊は怒り、攻め破り、永傑は数賊を格殺し、身に乱刃を受けて死んだ。

君擢は字を際明といい、成安の人、挙人から出仕した。城が包囲された時、士卒に先立ち、木石を運んで賊を撃ち、城濠を満たした。後に捕らえられ、罵り絶えずして死んだ。泌之は鹿邑の人。進士。雄県知県となり、清苑に転じ、多くの建樹があった。旧令の黄宗昌が御史となり、周延儒を弾劾したが、延儒は保定知府に命じて宗昌の罪を探らせた。知府は泌之に命じたが、泌之は言った、「人を殺して人に媚びることはできようか」と。知府は慚愧し且つ怒った。泌之が戸部主事に遷ると、知府は彼が三万の銭糧を横領したと言い、行くのを許さなかった。御史が巡察に来ると、泌之は直前に進んで知府と争った。御史が上聞し、獄に下って戍に遣られ、久しくして釈放されて帰った。この時、変乱に遭い、鉄杖で数賊を斃し、自剄して死んだ。守備張鷹揚は力戦して捕らえられ、屈しなかった。受爵も数賊を撃殺し、大罵した。共に死んだ。永傑に光禄卿を、君擢に右参議を、泌之に旧官を追贈した。受爵は宛平知県であった。

龔作梅という者がいた。十七歳で父母共に亡くなり、家に殯していた。賊が民家に火を放つと、作梅は棺の前に跪いて焼け死んだ。

張維世は太康の人。万暦四十四年の進士。平陽知府を歴任し、絳州の奸猾な者数十人を捕らえて処罰し、副使に遷った。累官して右僉都御史となり、陳新甲に代わって宣府巡撫となったが、着任わずか十日で、防備を失った罪に坐し、官籍を削られて戍に遣られ、後に釈放されて帰った。崇禎十五年二月、李自成が睢州を陥落させ、太康を犯した。維世は知県魏令望を補佐して力を尽くして拒み守った。城が陥落し、節を守って死んだ。

時に中州の縉紳で先後して死難する者甚だ衆し。十三年、登封の土寇李際遇、歳饑に因りて乱を倡え、旬日の間に衆数万。前鳳陽通判姚若時、魯荘に居り、執はれ、之を誘いて降らんとす、大罵して死す。族の諸生不顯も亦之に死す。若時の子諸生城、父の仇を報ぜんと思ひ、数たび兵を請ひて賊を討たんとす。賊之を路に於いて執へ、亦抗罵して死す。陜州の趙良棟、蓬莱教諭に仕へ、罷めて帰り、澠池に寓す。寇澠池を陥す、父子身を挺てて賊を罵り死し、子の婦と孫も亦井に赴きて以て殉ず。陜州の陥るるや、平定知州梁可棟大罵して死し、淮安同知萬大成井に投じて死す。商水陥り、臨汾知県張質賊に抗して死す。西平陥り、懐仁知県楊士英之に死し、子の婦王も亦死す。睢州陥り、太平知府杜時髦屈せずして死す。時髦、字は観生、崇禎七年の進士。息県陥り、賊前項城教諭王多福を召して官せんと欲す、堅く拒みて赴かず。賊之を逼る、繯に投じて死す。其の後国変に以て死する者有り、洛陽の阮泰、広霊を知り、職を解きて帰る。京師の陥るるを聞き、食はずして死し、妻朱氏之に従ふ。睢州の楊汝経、崇禎十年の進士。戸部主事を授けられ、井陘兵備僉事に擢ぐ。十七年、甘肅陥り、巡撫林日瑞殉難す、超拜して汝経を右僉都御史と為し、之に代はる。行きて林県に次ぐ、京師の陥るるを聞き、将に南京に赴かんとし、東明に至り、壮士百余騎を率ゐて還り林県の偽官を討つ。賊に遇ひ、戦ひ敗れて執へらる。偽官其の縛を解き、屡之を説きて降らんとす、従はず、之を獄に斃す。

王世琇、字は昆良、清苑の人。崇禎十年の進士。帰徳推官を授けられ、工部主事に遷る。十五年二月、李自成陳州を陥し、勝に乗じて帰徳を犯す。世琇将に行かんとす、僚属共に守るを邀ふ、慨然として曰く「久しく其の地に官し、難に臨みて之を去るは、誼に非ず」と。遂に同知顔則孔・経歴徐一源・商丘知県梁以樟・教諭夏世英・裏居の尚書周士樸等と衆を誓ひて堅く守る。賊攻囲すること七日、総督侯恂商丘に家す、其の子方夏家衆を率ゐて関を斬りて出で、守者を傷つく、衆遂に乱る。賊之に乗じて入る、世琇・則孔並びに遇害す。則孔の女之を聞き、即ち自縊す。一源北城を分守し、賊を殺すこと多し、城陥ち、巷戦し、賊を罵りて死す。以樟賊の刃に中り、久しくして復た蘇る、妻張及び子女仆従皆死す、以樟竟に免るることを獲たり。世英刀を把りて賊を罵り、明倫堂に於いて死し、妻石も亦自刎す。同じく死する者、尚書士樸、工部郎中沈試、主事朱国慶、中書侯忻、広西知府沈仔、威県知県張儒及び挙人徐作霖・呉伯胤・周士美等六人、官生沈佖・侯矣等三人、貢生侯恒・沈誠・周士貴等八人、国学生侯悰・沈倜等四人、諸生呉伯裔・張渭・劉伯愚等一百十余人。試は商丘の人、大学士鯉の孫。作霖・伯胤・伯裔・渭・伯愚は皆郡中の名士。則孔は忻州の人。一源は海塩の人。世英は祥符の人。士樸は自ら伝有り。賊既に帰徳を破り、尋で鹿邑を陥し、知県紀懋勛之に死す。虞城を陥し、県事を署く主簿孔亮之に死す。

許永禧、曲沃の人。郷挙に由りて上蔡知県と為り、恵政多し。性耿介、嚬笑仮る所無し。崇禎十五年春、李自成数騎を遣はして城下に抵り、降を脅す、永禧即ち吏民を督して城を守る。賊大呼して曰く「今日降さずんば、明日屠らん」と。衆懼る、永禧嘆じて曰く「賊勢披猖、弾丸の邑豈に能く守らんや、吾一死して職を尽すのみ」と。衆皆泣く。明日、賊果たして大いに至る、守者驚潰す。永禧袍笏を具へ、北面して再拝し、案に据り燭を秉りて端坐す。賊入る、遂に自剄す。

時に西平・遂平先後に皆陥る。西平知県高鬥垣、繁峙の人。崇禎十二年貢生に由りて官を授かる。人と為り孤鯁、清慎を以て名を得たり。城陥ち、執へられて屈せず死す。遂平知県劉英、貴州の貢生、衆を誓ひて死守す。城陥ち、賊を罵りて死す。

上蔡既に陥り、官篆なる者有り、汝寧通判を以て往きて県事を摂す。城中の民舎尽く毀つ、篆流亡を広く招く、衆観望して敢へて入らず。会に左良玉城南に駐す、兵士恣に淫掠す、衆始めて城に入り篆に依る。村民難に遭ひ来り訴ふ、篆即ち良玉の営に入り、大義を以て責め、之を奪ひ還す。悍卒弓刃を挟みて相向ふ、篆腹を坦げて之に当る、敢へて害せず、民家室を完くすることを獲る者甚だ衆し。是の年冬、汝寧陥り、賊党賀一龍地上蔡を掠む。訛伝に土寇剽掠すと、篆出でて之を禦ひ、陣に陥りて死す。篆は膠州の人、任子に起家す。

李貞佐、字は無欲、安邑の人。少く同里曹於汴の門に受業し、学行を以て著はし、後に郷に挙げらる。崇禎十四年除して郟県を知る。初め、李自成焚掠して郟に至り、土寇之を導き、前令邵可灼を害す。貞佐至る、則ち郷兵を練り、土寇の財を括りて餉に充て、時に出で郊に耕者を労ひ、月に士を課す。邑に姊妹二人賊に抗して死する者有り、其の冢を拝し、少牢を以て祀る。民王錫胤孝行有り、其の廬を造りて之を礼す。士民大いに悦ぶ。明年二月、自成復た来り寇す、貞佐衆を集めて死守す。汝州吏目顧王家、仁和の人、賊を撫するに功有り、当に遷るべし、汝人乞ひて留めて以て之を助けしむ。城陥ち、貞佐走りて其の母に拝して曰く「児不忠不孝、母を陷れて此に至る」と。微服して遁れんと勧むる者有り、可からず、賊之を執へ去り、大罵す。賊人の殺すを見れば、輒ち厲声して曰く「百姓を駆りて固く守る者は、我なり、妄りに殺すこと何為ぞ」と。賊其の舌を割き、支解して死せしむ、母喬も亦死す。友人王昱、相随ひて去らず、賊之を義とす。昱貞佐を収めて葬る南郊に。歳寒食、郷人邑を傾けて祭奠し、其の冢を広めて二畝余に至る。河南僉事を贈る。王家も亦大声して賊を叱し、賊乱刃を以て斫ち殺す。子国賊を誘ひて金を発せしむ墟墓の間、巨石を用ひて之を撃殺す、賊遂に郟人を尽く殺す。

郟に陳心学なる者有り、知県を授けらる、選を謁せずして帰る。其の友周卜歴郷挙に挙げられ、内黄を知り、父喪に以て裏に帰る。自成郟を陥し、両人を執へて官せんと欲す、心学従はずして殺さる。自成卜歴に謂ひて曰く「我が為に知県を執へ来たれ、汝の死に代はるべし」と。曰く「人を戕けて以て己を利するは、仁者の為さざる所なり」と。賊怒り、並びに之を殺す。

汝の轄する四邑並びに陥る。宝豊知県張人龍、遵化の人。城陥ち、屈せずして死す。妻年少、悍奴四人之を乱さんと欲す。妻酒を飲ませて之をして極めて歓ばしめ、潜かに婢を遣はして丞尉に告げ、奴を捕へ殺さしめ、乃ち櫬を扶けて裏に旋る。魯山知県楊呈芳、山海衛の人、恵政有り。練総詹思鸞進士宗麟祥等と謀りて軌を不す、呈芳之を捕へ斬る。城陥ち、死す。伊陽知県孔貞璞、曲阜の人。賊城に薄し、守禦堅きを以て、囲みを解きて去る。他日汝陽に事有り、道に賊に遇ひ、執へられ、亦屈せずして死す。

宝豊が陥落したとき、挙人の李得笥は短衣を着て群衆に混じり、捕らえられた。賊の謀主である牛金星は、もと挙人であり、賊に挙人を重用するよう勧め、賊の行く先々で挙人を捕らえると、すぐに官職を授けた。得笥は終始自分から名乗らず、賊は彼が挙人であることを知らず、使役しようとしたが、彼は従わず、賊が眠っている隙に刺そうとしたが、賊に気づかれ、殺された。ある者が賊に告げて、「これは挙人です」と言うと、賊は恐れ、その屍を棄てて去った。

当時、中州の挙人で節を尽くして死んだ者は、南陽の張鳳翷・王明物、洛陽の張民表、永城の夏雲醇、商城の余容善、光州の王者琯、光山の胡植、嵩県の王翼明であり、いずれも賊を罵って死んだ。

魯世任は、字を愧尹といい、垣曲の人である。性質は端正方正で、親に仕えて孝行であった。安邑の曹於汴に学び、また絳州の辛全と交わり、学問は日に日に聞こえるようになった。天啓末年に郷挙に及第した。崇禎十年に鄭州知州となり、天中書院を建て、士子を集めてその中で講義・学習させ、遠近から学ぶ者は千人に及んだ。十三年秋、給事中の範士髦が世任および臨城の諸生喬己百・内丘の太原通判喬中和を朝廷に推薦し、德行醇儒と称し、薛瑄・陳献章の後を継ぐに堪えるとした。乞うて召して平臺で試し、左右に置いて顧問に備えさせたが、返答がなかった。十五年、流賊が来犯し、世任は民兵を率いて河岸でこれを防ぎ、戦いに敗れて自剄して死んだ。士民は彼を書院に祀った。

その年(崇禎十五年)正月、賊は襄城を陥とし、知県の曹思正は殺され、訓導の張信は賊を罵って屈せずに死に、典史の趙鳳豸は賊に抵抗して死んだ。また西華を陥とし、知県の劉伯驂は印を懐にして井戸に投じて死んだ。翌年、汜水が陥ち、知県の周騰蛟もまたそこで死んだ。

伯驂は、河間の人である。歳貢生から官を得た。賊の報せが急になると、妻を遣わして母を帰らせた。城が包囲されると、降伏を勧める者がおり、すぐにこれを斬り、城壁に登って死守した。賊はその配下を十の覆いとして駆り立て、重ねて攻撃し、城はついに陥ち、節を守って抵抗して死んだ。

騰蛟は、香河の挙人である。邑は兵乱と凶作に見舞われたが、撫育と教化に術があり、その間に徭役を整理制定し、民は大いに便利とした。城は河畔に孤懸しており、県人の呉邦清らは城南に七つの砦を立てて互いに犄角の勢いとし、摩天砦が最も険しかった。土寇の李際遇は騰蛟が河北に行くのを窺い、急いでこれを占拠し、ついに県城を攻撃した。騰蛟はこれを聞き、上官に強く請願し、救兵が来て、ようやく去った。騰蛟は旧城が守り難いと考え、県治を摩天砦に移して賊の衝要を扼した。間もなく、賊が大挙して来襲し、十余日持ちこたえたが、勢いが支えきれなくなり、砦は河に臨んでおり、渡って逃れることができた。騰蛟は言った、「われどうして衆を捨てて独り生きることを忍ぼうか!」ついに自ら河に投身した。賊が退くと、人が河辺からその屍を獲たが、印は肘に懸かっていた。

河南は全部で八郡あり、三つは河北にあり、六年に蹂躙された後、賊は再び侵犯しなかった。その南の五郡十一州七十三県は、残破しないところはなく、再び破られ三たび破られたところもある。城郭は丘墟と化し、人民は百に一つも残っていない。朝廷もまた官を設けなくなった。間々に設けるところがあっても、その地に赴くことを敢えず、遠く他所に治所を仮置した。その遺民で僅かに存する者は、おおむね山砦を結んで自衛し、多い者は数千人、少ない者は数百人であった。最大の者は、洛陽では李際遇、汝寧では沈万登、南陽では劉洪起兄弟であり、それぞれ数万の衆を擁し、諸小砦はすべてこれに帰属した。あるいは賊に附き、あるいは朝命を受け、陰陽に観望した。ただ洪起はかつて副総兵の官に任じられ、頗る恭順であった。その後、諸人は互いに併呑し合い、中原の禍乱はここに極まった。十六年四月に至り、帝は特に詔を下して五郡の賦を三年間免除し、諸人にその罪を赦し、偽官を斬る者は官職を受け、賊徒を捕らえる者は金を賜い、城を回復し捕虜を献ずる者は格別に抜擢任用するよう諭したが、すでに事は為すべからざるに至っていた。

劉禋は、字を誠吾といい、中部の人である。祖父の劉仕は、刑部郎中となり、大礼を諫めて廷杖を受けた。後に李福達の獄を定めることに参与し、吏に下されて戍辺に遣わされた。穆宗の朝に太僕少卿に起用されたが、就任しなかった。父の劉爾完は、商丘・名山の知県を歴任し、学問と行いがあった。禋は性質孝行で、母は名山で没し、四千里の棺を扶け、剣閣・雲棧を過ぎるとき、肩で担った。父は少ししか眠らず、『史記しき』を聞くのを好んだので、禋は毎晩朗誦し、父が熟睡するのを待ってやめた。崇禎四年、賊が中部を陥とし、禋は父を背負って逃れて難を免れた。十四年に郷挙により登封知県に任じられた。土寇が乱を起こすと、禋は壮士を訓練し、守りながら戦い、寇は敢えて近づかなかった。十五年、李自成がその城を陥とし、禋は縛られた。自成は同郡の縁故で彼を降そうとしたが、禋は叱って言った、「どうして代々清白の吏が賊に降ることを肯うだろうか!」自成は彼を義とし、賊将を遣わして繰り返し説得させたが、禋の執する所はますます厳しく、ついに殺害された。僉事を追贈された。

陳顕元は、副榜により新安知県に任じられた。粗衣粗食で、徒歩で疾苦を諮問した。城堞が傾き崩れ、寇が来ても守れないため、士民を率いて闕門寨に入って守った。賊が檄文を送って降伏を促すと、すぐにその檄文を砕いた。来犯すると、一ヶ月余り死守したが、力尽きて陥落した。賊に会って怒罵した。賊は大いに寨中の人を殺したので、顕元は叱って言った、「寨を守ったのは、私である。百姓に何の罪があろうか、寧ろ私を殺せ!」賊は怒り、ついに四肢を切り裂いて殺した。

この時、河南は賊による被害が特に酷く、故に死事する者が特に多かった。その伝に隷属し詳らかでない者は、開封の陥落では、同知の蘇茂均、通判の彭士奇、大使の徐升・閻生白が皆これに死んだ。士奇は、高要の人で、郷挙による。河南の陥落では、先後の知府亢孟檜・王蔭長、通判の白守文、訓導の張道脈、霊宝知県の朱挺が、あるいは捕らえられて屈せず、あるいは城陥ちて自尽した。孟檜は臨汾の人、蔭長は呉橋の人で、ともに郷挙による。南陽の陥落では、葉県知県の張我翼が害され、新野の先後の知県陳公・丘茂表が皆これに死んだ。汝寧の陥落では、武臣では遊撃の朱崇祖、千戸の劉懋勛・楊紹祖・袁永基とその子の世蔭、百戸の葉栄蔭・張承徳・李衍寿・閻忠国が、皆力戦して死んだ。崇祖の妻の孫氏、永基の母の王氏もまたこれに死んだ。歳貢生の林景昜、国学生の趙得庚・楊道臨ら、諸生の趙重明・費明棟・楊応禎・李士諤らが、皆これに死んだ。巡按御史の蘇京が詔を奉じて記録して上奏したところ、凡そ二百四十九人であった。後に国変(明の滅亡)のため、諸々の記録は散佚した。およそ武職および州県の末秩、挙人・貢生・諸生で、遺漏された者は十の五六に及ぶ。

何燮は、字を中理といい、晋江の人である。郷挙に及第した。崇禎年間、亳州知州となった。州は八年以後、寇賊が交横し、さらに飢饉が加わり、民は死に流亡する者が半ばを超えた。燮は心を尽くして慰撫し、戦守の具を整えること甚だ完備した。間もなく、山東・河南の土寇が重なって来襲し、燮は盧家廟で戦い、賊の魁首二人を生け捕りにし、その腸を刳いて衆に示し、降伏する者数千人を慰撫した。十五年二月、李自成が河南を陥とし、居民は風の便りに逃げ散り、城は空で守れなかった。賊が来て、燮を捕らえて降そうとしたが、罵って屈せず、足を断たれ胸を剖かれて死に、首を市に懸けて三日間、耳鼻がなお動いた。賊はついに兵を放って四方に出撃し、霍丘・霊璧・盱眙は皆陥落した。

霍丘は、八年春に一度陥落したことがあり、この時再び陥落した。知県の左相申は兵を率いて巷戦し、力尽きてこれに死んだ。巡検の呉某は、戦って死んだ。霊璧知県の唐良鋭は、全州の挙人である。城が陥ち、抵抗して罵り死んだ。盱眙は、先に陥落しており、賊が来ると、士民は皆逃げ去り、ただ主簿の胡淵だけが去らなかった。県はもと城がなく、淵は戟を持って亀山寺に至り力闘し、数人を殺した。賊は驚いて逃げようとしたが、ちょうど馬が躓いて捕らえられ、奮って罵って死んだ。淵は永年の人で、貢生から出仕した。

趙興基は雲南太和の人である。崇禎初年、郷挙により廬州の通判となった。賀一龍・左金王ら五部が英山・霍山の二山を占拠し、夏に入り秋に出るのを常としていた。督師楊嗣昌は監軍僉事楊卓然を遣わしてこれを招いたが、侮辱を受けて帰った。十四年六月、賊は英山を襲撃して陥落させ、知県高在飖は賊に抗して死んだ。十二月、潜山を陥落させ、知県李胤嘉・典史沈所安はもとより苛酷で峻急であったため、奸民が賊を導いてこれを捕らえ、ともに屈せず死んだ。所安の子もまた死んだ。

十五年、張献忠は左良玉に敗れて走り、諸部と合流し、三月に舒城を攻撃した。一か月余りして城は陥落し、得勝州と改めてこれを占拠した。その徒党を遣わして傍らの邑を分掠し、遊騎は日に廬州城下に至った。興基は知府鄭履祥・経歴鄭元綬・合肥知県潘登貴・指揮同知趙之璞・郷居の参政程楷とともに門を分かって守った。監司蔡如蘅は貪婪で暴虐であり、民は従わず、賊の間諜が城中に満ちても知ることができなかった。五月、提学御史徐之垣が試士のために至ると、献忠はその徒を偽って諸生とし、儒冠を襲って入らせ、夜半に砲を挙げると、城中は大いに乱れた。之垣・如蘅および履祥・登貴はともに城を縋って逃走した。興基は時に水西門を守っており、変事を聞くと、刃を挺して戍楼を下りて戦い、数人を斬り、傷を受けて死んだ。元綬・楷はともに南薰門を守り、元綬は力闘して死に、楷は屈せず死んだ。之璞は東門を守り、巷戦して死んだ。

賊は勢いに乗じて連続して含山・巣県・廬江および無為・六安を陥落させ、また太湖を陥落させた。知県楊春芳・典史陳知訓・教諭沈鴻起・訓導婁懋履はともに死んだ。

廬州の城池は高く深かった。八年春、賊は百方力を尽くして攻撃したが、知府呉太樸は堅守して陥さなかった。後にたびたび侵犯したが、ついに志を得ず、この時に至って計略によってこれを得た。履祥・登貴は罪を恐れ、これを興基に委ねた。総督史可法はその冤罪を察して上聞し、守令の罪を治め、興基に河南僉事を追贈し、楷に光禄卿を追贈し、元綬にもまた贈恤を行った。

賊が舒城を攻撃したとき、県令はちょうど憂服で去っており、郷居の編修胡守恒と遊撃孔廷訓が民兵を督してともに守った。遊撃がその部を放任して淫掠させたため、士民はついに叛いて賊に降った。城が陥落しようとするとき、悍卒が守恒を殺した。事が上聞され、少詹事を追贈し、文節と諡された。