◎忠義四
○張允登(郭景嵩・郭應響)・張光奎(楊於楷等)・李中正(馬足輕等)・方國儒(王紹正・常存畏・劉定國)・何承光(高日臨等)・龐瑜(董三謨等)・尹夢鰲(趙士寬等)・盧謙(張有俊等)・龔元祥(子炳衡・姚允恭)・王信・史記言(李君賜等)・梁誌仁(單思仁等)・王國訓(胡爾純等)・黎弘業(馬如蛟等)・張紹登(張國勛等)・王燾・魏時光・蔣佳徵(吳暢春等)・徐尚卿(王時化等)・阮之鈿・郝景春(子鳴鑾等)・張克儉(鄺曰廣等)・徐世淳(子肇梁・余塙等)
張允登は漢州の人。万暦三十八年の進士。咸寧・咸陽の知県を歴任し、善政があった。進士となったのは湯賓尹の門下によるが、賓尹は彼を善しとせず、東林党は賓尹の故を以て彼を憎んだ。卓異に挙げられ、刑部主事を得、累進して河西兵備副使となる。鄜州・延長は毎年凶作で、盗賊が頻発したが、允登は慰撫に万全を尽くし、士民はその恩徳を慕った。崇禎四年閏十一月、糧秣を監督して甘泉に至った時、降伏した兵卒が密かに流賊と通じ、知県郭永固を殺し、糧秣を奪った。允登は力戦して防いだが、敵わずに死んだ。鄜州の人は喪服を着てその遺骸を迎え、哭聲は十里に響き、三日間市を閉じた。
張光奎は澤州の人。山東右参政に至る。崇禎五年、流賊が山西を蹂躙した時、監司王肇生が便宜を以て徽州の人吳開先を将に任じ、賊を撃たせ、澤州城西で戦った。賊は敗れて去り、沁水から転じて陽城を掠奪した。開先は勇を恃んで沁水を渡り、北留墩下で戦い、数百人を撃斬したが、弾薬が尽きて援軍もなく、全軍が覆没した。賊は再び澤州を犯し、光奎は郷里に居たが、兄の守備張光璽・千総劉自安らと共に衆を率いて八日間固守した。援兵は至らず、城は陥落し、共に死んだ。澤は大州であり、遠近これに震動した。事が聞こえ、光奎に光禄卿を追贈し、光璽らには差等を以て贈官と撫恤を行った。
この年、紫金梁らが遼州を寇し、郷里に居た行人楊於楷は主事張友程と共に、知州信陽の李呈章を補佐して拒み守ったが、力尽きて城は陥落し、於楷は捕らえられ、賊を罵って死んだ。呈章・友程及び挙人趙一亨・侯標も共に死んだ。翌年六月、賊が和順を陥落させ、郷里に居た昌平副使楽済衆は傷を負い、屈せず、井戸に投身して死んだ。於楷に光禄少卿を、済衆に太僕少卿を追贈した。徐明揚という者あり、浮梁の人、選抜貢生から平順知県となった。六年四月、賊が来犯し、策を設けて守り防いだが、城が破られ、屈せずに死んだ。
賊はこの冬に初めて河南に入り、これより後、屡々名城を陥落させ、将吏を数え切れぬほど殺し、郷官・挙人・貢生多く難に遭った。そのうち、宜陽の馬足輕、霊宝の許煇、新安の劉君培・馬山・李登英、偃師の裴君合、陜州の張我正・張我徳、孟津の孫挺生、嵩県の傅世済・李佩玉、上蔡の劉時寵らは、先後して布衣の身で節を守って抗い、顕著であった。
足輕は性質孝友であった。弟が妻の言葉に惑わされ、財産分与を迫ったので、彼は痩せた土地を自らに取った。万暦末、大凶作の年、粟六百石を出して救済し、千余りの借用証書を焼いた。崇禎六年冬、流賊が黄河を渡って南に来たので、家族を連れて石龍崖に避難した。三人の娘は皆殊色であったが、賊に汚されることを慮り、悉く崖に投身して死んだ。足輕は捕らえられ、声を厲して大いに罵った。賊は怒り、三人の息子もろとも殺した。家族の者は皆害に遭い、次子の馬駿一人だけが残り、後に郷試に合格した。許煇は県の陰陽官であったが、賊に掠め取られ、大罵して殺された。
君培は義行があり、息子と従孫を連れて避難したが、道中で賊に遭い、従孫を殺そうとした。君培は言った、「私はまだ男子がいる。この子は遺孤である。どうか彼を赦して私を殺してくれ。」賊はその言葉に従い、二人の子は免れた。
馬山は性質剛直であった。土賊の於大中が新安を陥落させ、馬山を捕らえ、米を背負わせた。叱って言った、「私は天朝の百姓である。賊のために米を背負うことができようか!」大罵して死んだ。登英もまた賊を罵って死んだ。
君合は幼くして孤となり、母は苦節を守り、孝養を謹んでいた。賊が来ると、衆を集めて沙岸寨を守った。十昼夜攻囲されたが陥落せず、降伏を説かれたが、大罵して従わなかった。寨が破られ、磔に処せられた。
我正は平素豪侠であり、衆を集めて郷里を守り、一方の頼みとされた。十四年、衆を率いて賊を防ぎ、三人を斬首した。やがて賊が大挙して来ると、衆は悉く逃げ、彼は奮臂して独り戦った。賊はその勇を愛し、生け捕りにしようとしたが、罵りながら自刎して死んだ。我徳は賊が来たと知り、妻子が辱めを受けることを恐れ、一家二十七人を駆り立てて楼に登り、自ら火を放った。
挺生は星術に精通し、十五年後に賊の禍があると予言し、茅を編んで河の渚に住んだ。賊がその跡を追って彼を見つけ、妻の梁氏に言うには、「これこそ一匹夫が義に殉ずる時である」と。夫婦は向かい合って泣き、賊を罵って死んだ。世済は兄の世舟と共に土賊に捕らえられ、殺されようとした。兄弟は抱き合って泣き、賊が一人を釈放しようと議すると、世済は即座に賊の刀を奪って自殺し、世舟は助かった。
佩玉は、御史興元の孫である。崇禎末年に、中州はことごとく荒廃し、佩玉は遺民を結集して郷里を守り、隣接する寨と犄角の勢いをなし、しばしば賊の後を尾行してその輜重を奪った。賊は彼を恐れ、その境を出ることができなかった。後に賊が大挙して別の寨を包囲すると、佩玉は救援に向かい、力戦して死んだ。郷里の人々は集まって彼を哭した。
時寵には孝行があった。賊が城を陥落させると、その父の宗祀は年老いて逃げられないとして、速やかに避難するよう命じ、自殺した。時寵は慟哭し、一子と三女を刺し殺し、夫婦共に自剄した。その妹が里帰り中で、これに従って死に、一家で死者は八人となった。
賊が竹谿を陥落させると、訓導の王紹正がこれに殉死した。谷城の挙人常存畏は会試のために上京中、道中で賊に遭遇し、首領となるよう脅迫されたが、罵りを絶やさずに死んだ。他の賊が興山を犯すと、知県の劉定国は堅く守った。城が陥落しようとする時、吏に印を持たせて上官に送らせ、賊を罵って死んだ。
何承光は、貴州鎮遠の人である。万暦四十年に郷試に合格した。崇禎年間、夔州同知を歴任した。七年二月、賊が荊州から夔門に入り、夔州を犯した。副使の周士登は涪州におり、城中は倉卒にして備えがなく、通判・推官・知県は悉く逃亡した。承光が府事を代行し、吏民を率いて固守したが、力尽きて城は陥落した。承光は冠帯を整えて端坐し、賊が入って彼を殺し、屍を江に投げ捨てた。事が聞こえ、承光に夔州知府を追贈した。
賊が陝西で起こり、転じて山西・畿輔・河南・北は湖広・四川に至るまで寇し、陥落させた州県は数十に及び、大郡を破ったことはなかったが、この時より天下は震動した。
他の賊の一部は漢中から大寧を犯し、知県の高日臨は勢力が弱く守れないと見て、指を嚙み血で文書を書き上官に援軍を乞い、衆を率いて北門で防禦した。兵敗れて捕らえられ、大罵して屈せず、賊はその体を砕いて焼いた。訓導の高錫とその妻女、巡検の陳国俊とその妻は、皆遇害した。日臨、字は儼若、鄱陽の恩貢生である。
賊が夔州を陥落させると、他の賊は即ち翌日に巫山を陥落させ、通江巡検の郭纘化は陣没し、通江指揮の王永年は力戦して死んだ。四月に至り、守備の郭震辰・指揮の田實が賊を百丈関で撃ったが、兵敗れて捕らえられ、賊を罵って死んだ。
龐瑜、字は堅白、公安の人である。家は貧しく、自ら耕して生計を立てた。夏に水を引いて田を灌漑する時も、書を手に牛の後について、朗誦を止めなかった。歳貢生から京山訓導に任じられた。崇禎七年に陝西崇信知県に抜擢された。県には城がなく、兵乱と飢饉で貧民は百余戸しかいなかった。瑜は賊が必ず来ると知り、監司の陸夢龍に言ったが、兵がないとして断られた。瑜は士民を集めて土塀を築いて守り、涙を流して職に殉ずることを誓った。閏八月に大雨が降り、土塀はことごとく崩れた。賊が不意に到来し、瑜は急いで印を解き家人に持たせて上官に送らせ、端坐して堂上で待った。賊が来て、掴んで跪かせようとした。瑜は罵って言うには、「賊奴め、官長を辱しめようとは!」と。賊が刀を抜いて脅すと、罵りはますます激しくなった。賊は城中を掠奪しても何もなく、野外に連行し、心臓を抉り体を裂いて去った。固原知州を追贈した。
この時賊はことごとく秦中に向かい、長吏で城に殉じる者が多かった。
山陽が陥落し、知県の董三謨(黎平の挙人)およびその父の嗣成・弟の三元が共にこれに殉死し、妻の李氏も子女を連れて共に死んだ。光禄丞を追贈し、祠を立て、嗣成・三元と共に祀り、妻女には牌坊を建てて表彰した。
吉永祚は、輝県の人である。鳳県主簿となり、辞職して帰ろうとしていた。ちょうど賊が到来し、知県は城を捨てて逃亡したので、永祚は義を唱えて防禦を主張した。城が陥落し、北面して再拝して言うには、「臣は小吏ながら、かつて朝廷より禄を食んだ者、辞職したからといって責務を逃れることはできません」と。大罵してこれに殉死した。子の士樞・士模も共に死んだ。教諭の李之蔚・郷官の魏炳も屈せずに死んだ。永祚に漢中衛経歴を追贈し、その他は差等を設けて贈恤した。
婁琇は涇州を知った。閏八月、城が陥落して死に、太僕少卿を追贈した。
蒲来挙は甘泉を知った。賊が来て犯すと、守備の孫守法らは兵を擁しながら救援しなかった。城が破れ、来挙は手ずから一賊を斬り、六賊に傷を負わせてから死んだ。光禄少卿を追贈した。
呂鳴世は福建の人。恩貢生より麟遊知縣となった。兵火の後、民を撫でて恩有り。城陥ち、賊は害を加ふるに忍びず、自ら絶食六日にして卒す。宋緒湯といふ者有り、耀州の諸生、獲らるるを被り、大罵して死す。
尹夢鰲は雲南太和の人。萬暦の時、郷に挙げらる。崇禎中、潁州を知る。八年正月、方に上官に謁す鳳陽に於て、流賊の大いに至るを聞き、直ちに馳せ還る。賊已に城下に抵る。乃ち通判趙士寬と偕に民を率ひて固く守る。城北に高樓有りて城中を覘ふ。諸生劉廷傳、先づ之を據らんことを請ふ。夢鰲以爲然り。然れども廷傳の統ぶる所は皆市人、用ふべからず。賊遂に樓を據りて以て攻め、且つ城を鑿ち、數丈を頹す。城上の人皆走る。之を止むるも可からず。夢鰲大刀を把り、獨り城壞の處に當たり、賊十餘人を殺し、身數刃を被る。賊衆畢く登る。遂に城下の烏龍潭に投じて死す。弟・姪七人皆之に死す。
廷傳は故に布政使九光の從子、任俠好義、亦た賊を罵りて死す。九光の子廷石、西城を分守す。賊刃に中りて未だ絶えず、口に友人に方略を授け、令して牘を繕りて當事に上らしむ。旋にして卒す。
士寬は字は汝良、掖縣の人。門蔭より鳳陽通判となり、潁州に駐す。正旦を以て郡城に詣る。警を聞き、一日夜三百里を馳せて州に返る。城陥つ。家衆を率ひて巷戰す。力竭き、亦た烏龍潭に投じて死す。妻李、三女を携へ樓に登りて自焚す。僕王丹も亦た賊を罵りて死す。郷官尚書張鶴鳴・弟副使鶴勝・子大同、中書舍人田之穎、知縣劉道遠、光祿署正李生白、訓導丁嘉遇、舉人郭三傑、諸生韓光祿等、皆之に死す。
光祖は進士獻策の父なり。執はるるを被り、賊捽ひて跪かしむ。叱して曰く「吾が生平讀書、忠義を知るのみ」と。遂に大罵す。賊之を殺し、其の屍を碎く。妻武、一妹・一女並びに獻策の妻李と偕に井に赴きて死す。妾李方に娠有り。賊腹を剖き胎を剔ぎて死す。次子定策・孫日曦、賊を罵りて死す。獨り獻策獲りて存す。時に難を被る者、共に一百三人。城中の婦人、節に死する者三十七人、烈女八人。潁州の忠烈、獨り盛んなりと稱す。
潁州衛は河南に隷す。流賊至る。指揮李從師・王廷俊、千戶孫升・田三震、百戶羅元慶・田得民・王之麟俱に城に乘じて戰死す。賊既に潁州を陷し、其の民を屠る。其の別部即ち是の月を以て壽州より鳳陽を犯す。
鳳陽は故に城無し。中都留守朱國相、指揮袁瑞徵・呂承蔭・郭希聖・張鵬翼・周時望・李郁・嶽光祚、千戶陳弘祖・陳其忠・金龍化等を率ひ、兵三千を以て賊を上窯山に逆らふ。多く斬獲有り。俄に賊數萬至る。矢集ること猬の如し。遂に敗る。國相自刎して死す。餘は皆陣沒す。賊遂に皇陵を犯し、大肆に焚掠す。
知府顏容暄、囚服を着て獄に匿る。囚を釋して之を獲る。容暄大罵す。賊杖殺す。血石階に浸み、宛ら其の像の如し。之を滌ふも滅せず。士民乃ち石を取て冢を立て、祠を建て奉祀す。
推官萬文英、臥病す。賊之を索む。子元亨、年十六、泣きて父に語りて曰く「兒復た親に事ふることを得ず」と。門を出て呼びて曰く「若官を索むるは何爲ぞ。我即ち官なり」と。賊之を縶く。顧みて其の師萬師尹も亦た縶かるるを見る。賊に紿ひて曰く「若の得んと欲する者は官爾。何ぞ此の賤隸を縶くや」と。賊遂に之を釋す。元亨乃ち極口に大罵す。賊怒り、脛を斷ちて死す。文英免るることを獲る。
容暄は漳浦の人。文英は南昌の人。皆進士。一時に同じく死する者、千戶陳永齡・百戶盛可學等四十一人、諸生六十六人。舉人蔣思宸、變を聞き、繯に投じて死す。
後、給事中林正亨其の狀を錄して上る。夢鰲に光祿少卿を贈り、士寬に光祿丞を贈る。餘は贈恤差有り。
龔元祥は字は子禎、長洲の人。郷に挙げらる。崇禎四年、霍山教諭となる。廉隅を厲め、名教を以て自ら任とす。訓導姚允恭と友善なり。八年、賊鳳陽を陷す。元祥縣令と偕に守禦す。賊掩ひ至る。令逸去す。元祥士民を督して固く守る。或る之を避くるを勸む。元祥曰く「祿を食みて難を避くるは不忠。危に臨みて城を棄つるは不義。吾が平日講說する者は何を謂ふや。倘し不測あらば、死するのみ」と。賊城を陷すに及び、元祥衣冠を整へて危坐す。賊至る。侃侃として大義を以て諭す。賊之を屈せんと欲す。厲聲して曰く「死するは即ち死す。賊輩何ぞ敢て我を辱しめんや」と。賊怒り、之を執へ去る。罵りて口を絶たず。遂に害に遇ふ。子炳衡號呼して賊を罵る。賊又之を殺す。五日を閱す。允恭其の屍を斂む。即ち自縊す。適に令至り、解きて免る。越日、賊復た入る。允恭卒に之に死す。事聞こゆ。元祥に國子助教を贈り、祠を建てて忠孝と曰ふ。其の子を以て配す。允恭も亦た旌せらる。
史記言は字を司直といい、当塗の人である。崇禎年間に挙人となり、長沙知県から陜州知州に転じた。陜州は賊の要衝に当たり、記言は私財を出して兵士を募り、少室の僧を招いて訓練させた。八年冬十一月、流賊が陜州を侵犯し、記言はこれを防ぎ、数十級を斬り、二十余人を生け捕りにした。老回回は憤り、数万人を率いて城を攻めたが、陜州を落とせず、雪の夜に乗じて襲撃してきた。しかし訓練した兵士は他郡に派遣されており、城はついに陥落した。記言は火を放って自ら焼死しようとしたが、二人の僧が彼を支えて出て言った、「ここで死んでは、どうして自らの潔白を明らかにできようか」。そこで女墻を越えて下りた。賊は追いかけて彼を捕らえ、降伏を命じたが、記言は叱りつけて言った、「死ぬ知州はあれど、降る知州はない」。こうして殺害された。指揮の李君賜は数賊を殺して死んだ。訓導の王誠心、在郷の教諭張敏行・姚良弼、指揮の楊道泰・阮我疆、鎮撫の陳三元もまた屈せずに死んだ。この月、賊は盧氏を陥落させ、知県の白楹は自刎した。十年九月に澠池を陥落させ、知県の李邁林はこれに殉じた。記言は光禄少卿を追贈され、その他もそれぞれ贈官と恩恤を受けた。
梁誌仁は南京の人で、保定侯梁銘の子孫である。万暦末年に郷試に合格した。崇禎六年に衡陽知県に任じられ、羅田に転任した。賊が湖広を大いにかき乱すと、誌仁は日夜警戒と守備に当たった。羅汝才は側近に言った、「羅田の城は小さくて陥しやすいが、梁君は長者である。私は兵を加えるに忍びない。彼が去るのを待って、取ることにしよう」。ちょうど郷里の豪族江猶龍が賊と通じたので、誌仁は彼を捕らえて獄に下した。猶龍は必ず死ぬと知り、密かに汝才の別将を導いて攻撃させた。八年二月、賊は突然城を攻めた。誌仁は急いで典史の単思仁、教諭の呉鳳来、訓導の盧大受とともに民を督励して守りを固めた。城が陥落すると、誌仁は長矛を取って巷戦し、六賊を殺した。力尽きて捕らえられ、跪かせられたが、罵って言った、「私は天子の命を受けた官である。賊の輩に膝を屈するものか」。賊は怒り、その四肢を砕き、焼き殺した。妻の唐は辱めを受けようとし、大声で罵り、賊の刀を奪おうとしたが果たせず、口で賊の手を噛んだので、殺害された。思仁らもまた屈せずに死んだ。汝才は英山におり、これを聞くと、羅田に駆けつけ、その別将を斬って言った、「どうして勝手に長者を害したのか」。錦繡でその夫婦の屍を包んで葬った。鳳来は福建の挙人である。大受は宝慶の貢生である。詔して誌仁に蘄州知州を追贈し、思仁に羅田主簿、鳳来に国子助教、大受に学録を追贈し、子に蔭官を与え、それぞれ祭葬の礼を賜った。
この時、大将の曹文詔・艾万年らがともに戦死し、賊の勢力はますます盛んとなり、関中の諸州県はことごとく破壊された。八月、賊は永寿を陥落させ、知県の薄匡宇を殺した。まもなく咸陽を陥落させ、知県の趙躋昌を殺した。
この時、長吏で死を遂げたことを朝廷に報告された者は、隴州知州の胡爾純は自縊して死に、延長知県の万代芳は教諭の譚恩、駅丞の羅文魁と協力して城を守ったが、城が陥落し皆死んだ。代芳の妻劉と妾梁はこれに従って死んだ。爾純は山東の人で、光禄少卿を追贈された。代芳は光禄丞を追贈され、妻妾には牌坊を建てて表彰された。恩らにも祭礼を賜った。
孫仲嗣という者がいた。膚施の人で、貢生から階州学正となった。当局はその才能を知り、城の守備を委任した。賊が大挙して来ると、力を尽くして死守した。城が破れると、妻子十余人とともに死んだ。国子博士を追贈された。また楊呈秀という者がいた。華陰の人で、進士から順慶知府にまで昇進したが、大計で罷免されて帰郷した。賊が城を攻めると、役所を助けて賊を防ぎ、死んだ。規定に従って贈官と恩恤を賜った。
黎弘業は字を孟拡といい、順徳の人である。挙人から和州知州となった。崇禎八年、流賊が和州を侵犯したが、撃退した。十二月に再び来襲すると、郷官の馬如蛟とともに決死の士を募り、城壁に登って守りを固めた。城が陥落しようとした時、弘業は印を肘に結びつけ、母に跪いて告げた、「息子は不肖で、微官に執着して母上をお苦しめしました。どうしたらよいでしょう」。母の李氏は泣きながら諭して言った、「私のことは気にしないでよい。事ここに至っては、死ぬだけである」。こうして自縊した。妻の楊、妾の李、および四人の娘もこれに続いた。弘業は北面して慟哭し再拝し、自刎したが死にきれず、首の血に濡らして大きく書き記した、「臣として忠を尽くし、子として孝を尽くす。一死を惜しむことなかれ」。賊が入ってくると、数刃に傷つけられて死んだ。太僕少卿を追贈され、一子に官職が与えられた。判官の銭大用は妻妾と息子の嫁とともに死んだ。吏目の景一高は傷ついて死んだ。学正の康正諫は祁門の人で、挙人である。妻の汪、息子の嫁の章とともに水に入って死に、国子監丞を追贈された。訓導の趙世選は屈せずに死に、国子学録を追贈された。
張紹登は字を振夫といい、南城の人である。崇禎年間の挙人で、応城県知県となった。九年、賊が侵犯してくると、訓導の張国勛、郷官の饒可久とともに全力でこれを防いだ。国勛は言った、「賊に一撃を加えなければ、城は守りにくい」。壮士を率いて出撃し、一日一夜力戦して、斬獲は非常に多かった。賊が去ると、県の侍郎王瑊の子の王権が一族や同党と恨みを結び、恨みを持つ者が密かに賊を導いて再び攻撃させた。国勛は紹登を助けて力守し、上官に援軍を求めた。副将の鄧祖禹が救援に来て、西南を守り、国勛は東北を守り、紹登は往来して策応した。ちょうど賊が矢文を射て王権を要求し、権は恐れて北関を斬って出て行き、賊は隙に乗じて南城に登った。紹登は役所に戻り、堂上に端座し、賊が来ると、拳を奮ってこれを撃った。大勢の賊が来ると、殺害された。賊の首領はその忠義を嘆き、冠帯で屍を覆い、堂の側に埋めた。
国勛は黄陂の歳貢生である。賊が入城すると、朝服を着て北面して拝礼し、走って先聖(孔子)の神主を捧げ、拱手して立って待った。賊は文廟を焼き、国勛を烈火の中に投げ込んだ。祖禹もまた屈せずに死んだ。
可久は幼くして孤となり、母に孝事し、郷挙に挙げられた。大興県の知県となる。崇禎初め、『三朝要典』の改訂を上疏して請うたが、時に宦官が権を擅にし、光祿典簿に貶謫された。応天府推官・刑部主事に遷り、知府を歴任し、丁艱して帰郷した。賊が侵入すると、妻の程氏に語って曰く、「臣は忠に死し、婦は節に死す、分なり」と。ここにおいて妻と女は相対して自経した。可久は捕らえられ、賊が拝むことを強いるも、曰く「頭は断たれども、膝は屈せず」と。遂に害に遇う。瑊は賊に支解された。
事聞こえ、紹登に尚宝少卿を贈り、国勛に国子学正を贈った。
王燾は、字は浚仲、昆山の人である。少くして孤貧、九歳で人の後を継いだ。族人のその産を謀る者あり、燾は挙げてこれを譲り、嗣祖母と母を迎え養うこと謹みて慎んだ。万暦末、郷挙に挙げられ、教諭より随州知州を歴任した。州は群盗の焚掠を経て、戸千に満たず。燾は民兵を訓練し、守具を繕った。土寇の李良喬が乱を為すや、これを殲滅した。十年正月、大賊が奄至した。燾は守り且つ戦い、三百余人を撃斬した。賊の攻め益々力あり、二十余日相持した。天、大風雪、守る者多く散ず。燾は必ず敗るるを知り、署に入り、冠帯を整えて自経した。賊はその署を焚くも、火燭は燾の死せる所に及ばず、屍は直立して仆れず、賊は望見して駭走した。已にして州印を求め、燾の立つ尺土の下に得たり。事聞こえ、太常少卿を贈られた。福王の時、謚して烈湣を賜い、双忠祠を建て、同邑の蔡懋徳と並び祀らせた。
魏時光という者あり、南昌の人である。双刀を舞うことを善くす。崇禎九年夏、広済典史となる。邑は残破に遭い、長吏は排兵三百人を設け、その教練を委ねた。その冬、賊は蘄州河口を占拠し、時光を憚って渡河せず。時光は益々死士を募り、夜にその営を襲い、手ずから数賊を殺し、賊は敢えて逼らず。俄かに賊大いに至り、部卒皆散ず。時光は単騎で高坡に拠り、また数人を殺した。賊これを環繞し、靷断たれて捕らえられ、屈せずして死す。その兄が上官に陳するも、奏せず。兄は憤発して病死し、友人がこれを収殮し、哭して哀しみ尽くし、曰く「弟は国の為に死し、兄は弟の為に死す、吾れ独りこれを表暴せざるべけんや」と。牘を具えて力陳し、乃ち奏聞された。広済主簿を贈り、恤典を賜う。
蒋佳徴は、灌陽の人である。天啓四年、郷挙に挙げられた。崇禎中、盱眙県の知県となり、名声あり。県は故より城なく、佳徴は賊必ず至るを知り、民を訓練して兵となす。十年秋、賊果たして来犯し、要害に伏兵を設け、自ら兵を率いて誘い、賊を殲滅すること甚だ衆し。賊怒り、環攻す。力戦して死す。母これを聞き、また繯に投じて死す。兵部議して奉訓大夫・尚宝少卿を贈る。未だ幾ばくもせず、巡按御史が佳徴の子は忠、母は義なりと言い、宜しく謚と蔭を賜い、以て倫常を植うべしとす。乃ち表忠祠を建て、母を並び奉祀せしむ。
時に江北に死難した者に、呉暢春あり。崇禎八年、潜山天堂寨の巡検となり、郷兵を練りて賊を防ぐ。明年冬、賊至り、夜に燎を設け、大いに驚いて去る。年を踰え、賊再び至る。暢春は死守し、力屈し、天を仰ぎ嘆いて曰く「吾れ死する所を得たり」と。手ずから数賊を刃し、捕らえられて屈せず死す。迪功郎・安慶府経歴を贈り、子に所鎮撫を蔭す。
また王寅あり、銭塘の人である。膂力人に絶え、武郷試に挙げられ、父の播州征討の功により千戸となる。崇禎中、撫標守備に擢げられる。歩卒の脆弱なるを見て、詫びて曰く「曩に戚将軍が浙兵を練り、天下に聞こえしが、今かくの如きか」と。督いてこれを教え、卒始めて用いるべし。十年、龍江都司に遷り、泗州に調赴して祖陵を護る。賊来たり犯す。寅曰く「賊衆く我寡し、その未だ集まらざるに及び、破るべし」と。甲を巻きて疾趨し、盱眙に至り、その先鋒一人を斬る。午より申に至るまで戦い、賊来ること益々衆く、守備の陳正亨と共に陣に陥りて死す。鎮国将軍・都指揮僉事を贈る。正亨には昭勇将軍・指揮使を贈る。並びに一子に官す。
阮之鈿は、字は実甫、桐城の諸生である。崇禎中、詔を下して人材を保挙せしめ、同郡の諭徳劉若宰が之鈿を応じ、谷城知県に授く。十一年正月、之鈿未だ至らざるに、張献忠が襲ってその城を陥とし、拠って撫を求む。総理の熊文燦これを許し、その衆数万を四郊に処す。居民洶洶として竄らんと欲す。之鈿至り、心を尽くして調剤し、民稍々安んず。乃ち上疏して言う「献忠は邑城に虎踞し、その謀測るべからず。要求する所の地は、実に兵糧取道の咽喉、秦・蜀交会の脈絡、今皆その占拠する所と為る。奸民は甘心して效用し、善良は悉く迫脅せらる。臣は土を守り民を牧するの官、至りて守るべき土なく、牧すべき民なし。庫蔵殫虚し、民産奪われ、征すべき賦なし。名は県令と雖も、実に贅員のみ。乃ち廟堂の上は専ら撫議を主とし、臣愚妄かに謂う、撫剿の二策は合言すべく、未だ分言すべからず、国威を損じ、而して士気を挫くに致す」と。時に用いる能わず。賊衆漸く野外に出でて行劫し、之鈿これを執りてその営将に告ぐ。稍々法に置く。再び告ぐるに及び、皆応ぜず、曰く「官司餉を与えざるのみ、餉を得れば自ら止まん」と。ここにより村民徙亡すること殆んど尽き、遂に阛阓に及びて掠む。稍々拒めば、輒ち挺刃相向い、日に死者あり、一城大いに囂る。監軍僉事の張大経、文燦の令を奉じて来たり鎮撫すも、また禁ずる能わず。
明年、献忠の反形漸く露わに成る。之鈿往きてこれを説きて曰く「将軍始めの為す所甚だ悖り、今幸いに王臣と為るを得たり。軍に従いて功を立て、竹帛に名を垂るべし。且つ劉将軍国能を見ざるか。天子手詔を以て宮に進み、厚く金帛を賫す。これ赤誠の効なり。将軍若し天朝に異論あるを疑わば、之鈿百口を以て保せんと請う。何の嫌何の疑いかあって、復た他の志を懐かん」と。献忠は素より之鈿を銜み、遂に悪言を極めてこれを罵る。之鈿は憂憤して病を成し、数語を壁に題し、自ら死を誓い、遂に事を視ず。五月に至り、献忠果たして反し、庫を劫い囚を縱し、その城を毀つ。之鈿は薬を仰いで未だ絶えず、献忠は使いを遣わして印を索むも、堅く与えず、賊遂にこれを殺す。旋って火を縱ち公署を焚く。骸骨は燼と為る。而して大経は賊に劫き去られ、死す能わず。迨うて瑪瑙山に戦敗し、賊将の曹威等と偕に出でて降る。士論これを醜しむ。之鈿には後に尚宝少卿を贈る。
郝景春、字は和滿、江都の人。郷挙に挙げられ、鹽城教諭を署理し、事に坐して罷免され帰郷した。陞進して陜西苑馬寺萬安監錄事となり、量移して黃州照磨に転じ、黃安縣の事を攝行した。わずか三日にして、群賊が急に至り、八日八夜堅守して、ようやく去った。
崇禎十一年、房縣知縣に抜擢された。羅汝才が九營の衆を率いて熊文燦に降伏を請うと、文燦はこれを受けた。汝才が躊躇していると、景春は単騎でその営に入り、汝才及びその徒黨の白貴・黑雲祥と共に歃血して盟した。汝才は軍門に詣でて降り、諸營を竹谿・保康・上津に分置し、自らは貴・雲祥と共に房縣の野に居した。この時、鄖陽の諸屬邑は城郭が廃墟と化していたが、房縣のみは景春の撫循に頼り、かろうじて守りを保っていた。大衆が雑居するに及んで、居民は日々おののいた。景春は主簿の朱邦聞・守備の楊道選と共に守備の具を整え、諸營を安輯した。
翌年五月、張獻忠が谷城で反旗を翻し、汝才に同反を約した。景春の子の鳴鑾は諸生で、萬夫に匹敵する力があり、父に言うには「我が城は賊の衝に当たり、弱卒はわずか二百に過ぎぬ。城を以てどう守ろうか」と。そこで甲を擐いて汝才に詣でて言うには「香火の盟を思わぬのか。乱に従うことなかれ」と。汝才は偽って承諾した。鳴鑾はその偽りを悟り、帰って道選と共に兵を授けて城壁に登ると、献忠の遣わした前鋒が既に至っており、その将の上天龍を撃ち斬った。使者を城から縋り下ろして文燦に援を乞うこと、十四度往復したが、返答はなかった。
やがて賊が大挙して至り、献忠の兵は白幟を掲げ、汝才の兵は赤幟を掲げたが、やがて二つの幟が相雑じ、城を巡って力攻めした。貴・雲祥は馬を馳せて呼んで言うには「城を我らに譲れば、害はないと保証する」と。献忠もまた張大経の檄文を持って降伏を諭したが、景春は大罵してこれを破り捨てた。鳴鸞は守りながら戦い、五日を閲し、賊は多く死んだ。そこで板を背負って城を穴攻めし、城が崩れんとした時、鳴鑾は熱油を注いだ。また献忠の左足を撃ち傷つけ、その愛馬を殺した。そこで間者を賊の陣営に入れ、密かに献忠の寝所の帳を識し、襲ってこれを生け捕らんとした。指揮の張三錫が北門を開いて汝才を迎え入れたため、道選は巷戦して死んだ。大経は汝才に景春を説いて降伏させようとしたが、怒って答えなかった。庫蔵の蓄えはどこにあるかと問うと、叱って言うには「庫蔵に物があれば、城はお前たちに陥とされようか」と。賊は怒り、一典史・一守備を殺して脅したが、ついに屈せず、鳴鑾と共に殺害された。僕の陳宜も殉死した。邦聞及びその家人も皆屈せず死んだ。事が聞こえ、景春に尚寶少卿を追贈し、祠を建てて祀り、道選等にも贈恤した。後に帝が輔臣の賀逢聖を召見し、その死事の様を詳しく述べたので、太僕少卿に改めて追贈した。三錫は後に官軍に捕らえられ、磔刑に処せられた。
十四年二月、右僉都御史に抜擢され、河南巡撫となった。任命が聞こえぬうちに、献忠が督府の軍符を偽って人を使い、襄陽城に誑い入らせた。克儉は見分けがつかず、夜半、賊が内から起こり、襄王府を焼いた。克儉は慌てて駆けつけて救おうとしたが、賊に捕らえられ、大罵して死んだ。推官の鄺曰廣・縣事を攝る李大覺・遊撃の黎民安もここに死んだ。
曰廣は番禺の人。崇禎十年の進士。官に在って節操を守った。檄を受けて荊州で軍儲を核査し、任に還ったばかりで難が起こり、刃に中たって死に、妻子女も皆害に遇った。大覺、字は覺之、金谿の人。郷挙により谷城を知り、兼ねて襄陽縣を署理した。変を聞くと、印を肘に結び付け、堂上で縊死した。民安は大覺の同縣人。城中に火が起こると、配下の千余人を率いて搏戦し、矢尽きて縛られ、抗罵して死んだ。ただ知府の夏邑の人王承曾のみが遁れて免れた。
初め、献忠が瑪瑙山で敗れた時、その妻の敖氏・高氏が捕らえられ、他の将が山を捜索して、またその軍師の潘獨鰲を捕らえ、皆襄陽の獄に繋がれた。承曾は年少で軽佻であり、毎晩賊中の情形を問うと称して、献忠の二妻と笑語した。獄吏も多く賊の金を受け取り、禁防は全く弛み、獨鰲等は桎梏を脱して恣に飲んだ。嗣昌が移牒して戒めたが、承曾は笑って言うには「これが飛んで来られようか」と。この時、獨鰲は果たして獄中から起こり、承曾は衆を率いて門を奪って逃走した。事が聞こえ、逮捕して処罰するよう命じられた。当時河南も大乱しており、長く逮捕されず、その終わりを知らない。
徐世淳、字は中明、秀水の人。父の必達、字は德夫、萬歷二十年の進士。溧水縣知縣となり、石臼湖の堤を築き、齊泰の姻戚子孫の軍籍二十六家を除くよう奏上した。累遷して吏部考功郎中となり、吏科給事中の儲純臣と共に察事を領した。純臣が贓吏の賄賂を受け、大計の日に当たり、必達は状を進めて純臣の罷免を請い、面と向かって揖して退かせ、一座は大いに驚いた。光祿丞に遷り、白糧の利弊について十一事を陳べ、悉く允行された。少卿に進み、巡漕御史の孫居相が船の損壊を修繕せず、民船を雇って運漕を済ませようと請うたが、必達は争ってこれを止めた。天啓初め、右僉都御史として操江軍を督した。白蓮賊が徐州を窺おうとしたので、必達は鋭卒を募り山東兵と会してこれを撃破した。兵部右侍郎に遷り、拾遺により罷免され帰郷し、卒した。
翌年三月、張献忠が襄陽より来寇し、世淳は南城の譙楼に寝食し、昼夜を分かたず固守し、巡撫宋一鶴に急を告ぐ。一鶴は兵を遣わして来援せしむるも、監司として承天を守る者に邀え去らる。一月余り守り、援絶え力尽き、賊は南城を急攻し、潜かに兵をして北城を陥して以て入らしむ。世淳は子肇梁に命じて印を廨後に埋めしめ、馬を駆って巷戦す。矢は頤を貫き、耳鼻横たわって断たれ、馬より墜ち、乱刃に斫たれて死す。肇梁は奔赴し、且つ哭き且つ罵る。賊将これを殺さんとす。州人を呼びて印を埋めたる処を告げ、乃ち死す。世淳の妾趙・王及び臧獲十八人皆死す。後に太僕少卿を贈られ、祠を建て、肇梁を以て祔せしむ。
随州は自ら十年正月陥ち、是に及びて再び陥ち、七月に至りて復た陥つ。判官余塙ここに死す。三たび陥ちたる後、城中幾くも孑遺無し。