明史

列傳第一百七十九 忠義三

◎忠義三

潘宗顏(竇永澄等)、張銓、何廷魁(徐國全)、高邦佐(顧頤)、崔儒秀(陳輔堯、段展)、鄭國昌(張鳳奇、盧成功等)、党還醇(安上達、任光裕等)、李獻明(何天球、徐澤、武起潛)、張春、閻生斗(李師聖等)、王肇坤(王一桂、上官藎等)、孫士美(白慧元、李禎寧等)、喬若雯(李崇德等)、張秉文(宋學朱等)、彥胤紹(趙珽等)、吉孔嘉(王端冕等)、刑國璽(馮守禮等)、張振秀(劉源清等)、鄧藩錫(王維新等)、張焜芳

潘宗顏、字は士瓚、保安衛の人なり。詩賦に巧み、天文・兵法に通暁す。萬曆四十一年の進士に挙げられ、戸部郎中を歴任す。数度にわたり当路に上書して遼東の事を言うも、当路用いず。宗顏の兵を知るをもって、遼東の餉督を命ぜらる。まもなく開原兵備僉事に擢げらる。四十六年、馬林出師せんとす。宗顏、経略楊鎬に上書して曰く、「林は庸懦にして、一面を当つに堪えず。乞う、他の将に易え、林を以て後継と為し、然らずんば必ず敗る」と。鎬従わず。宗顏、林の軍を監し、三岔口より出で、稗子峪に営す。夜、杜松の敗北を聞き、林の軍遂に嘩す。旦に及び、大清の兵大いに至る。林甚だ恐れ、一戦にして敗れ、策馬して先ず奔る。宗顏は殿後し、奮呼して衝撃し、胆気ますます厲し。辰より午に至り、力支えず、遊撃の竇永澄・守備の江萬春・賛理通判の董爾礪等と皆死す。事聞こえ、祭葬を賜い、光祿卿を贈られ、再び大理卿を贈られ、錦衣世百戸を蔭し、節湣と謚され、祠を立てて奉祀す。永澄等も亦制の如く恤を賜う。

張銓、字は宇衡、沁水の人なり。萬曆三十二年の進士。保定推官を授かり、御史に擢げられ、陜西茶馬を巡視す。憂いにより帰り、起用されて江西を按ず。時に遼東総兵官張承蔭敗死し、経略楊鎬方に四道より出師を議す。銓馳せて奏して言う、「敵の山川の険易、我未だ悉く知ること能わず。懸軍深入して、抄絶無きを保つや。且つ突騎野戦は、敵の長とするところ、我の短とするところなり。短を以て長を撃ち、労を以て逸に赴き、客を以て主に当つは、計に非ず。昔、臚朐河の戦い、五将還らず、奈何ぞ軽々しく塞を出でん。今の計たる、四方の兵を徴する必ずしも須いず、但だ近くを調募し、要害に屯集して以て吾が圉を固め、北関を厚く撫して以て其の敵を樹え、間諜を多く行いて以て其の党を携え、然る後に隙を伺いて動くべし。若し賦を加え丁を選び、天下を騒擾せば、恐らくは識者の憂い遼東に在らず」と。因りて帑金を発し、大僚を補い、直言を宥し、儲講を開き、先ず自治の本と為すことを請う。又言う、「李如柏・杜松・劉綎は宿将を以て並び起り、宜しく鎬を責めて約束せしめ、以て一事権を一にすべし。唐の九節度相州の潰れ、明鑑と為すべし」と。又言う、「廷議将に承蔭を恤せんとす。夫れ承蔭は敵の誘いを知らず、軽く進み取って敗る、是れ無謀と謂うべし。猝かに敵と遇い、行列錯乱す、是れ無法と謂うべし。万餘の衆を率いて、死戦すること能わず、是れ無勇と謂うべし。臣以て恤すべからずと為す」と。又、鎬は大帥の才に非ずと論じ、力を熊廷弼を薦む。

四十八年夏、復た上疏して言う、「軍興以来、所司創議して賦を加え、畝に銀三厘を増す。未だ幾ばくもせずして七厘に至り、又未だ幾ばくもせずして九厘に至る。一身に譬うれば、遼東は肩背なり、天下は腹心なり。肩背に患い有れば、猶お腹心の血脈に藉りて滋灌す。若し腹心先ず潰れば、危亡立って待つべし。天下を竭して以て遼を救うも、遼必ずしも安からず、而して天下已に危し。今宜しく人心を聯ねて以て根本を固むべく、豈に朘削已む無くして、之を駆りて乱れしむべけんや。且つ陛下の内廷、金を積みて山の如し。有用の物を以て、無用の地に置くは、瓦礫糞土と何の異なるか。乃ち帑を発するの請いは、閽に叫びて応ぜず、加派の議は、朝に奏して夕に可とす。臣殊に其の解を得ず」と。銓の疏は皆軍国の安危に関わり、而して帝と当軸卒く省みず。綎・松敗る。時に銓に先見有りと謂う。

熹宗即位し、出でて遼東を按ず。経略袁応泰、降を納るるの令を下す。銓力爭うも、聴かず。曰く、「禍此より始まる」と。天啓元年三月、瀋陽破る。銓、遼東巡撫薛国用に令して河西の兵を帥い海州に駐め、薊遼総督文球に山海の兵を帥い広寧に駐めて、以て声援を壮んにすることを請う。疏甫に上るや、遼陽囲まれる。軍大いに潰く。銓と応泰、城を分かち守る。応泰、銓に令して河西に退き保ち、以て再挙を図らしむ。従わず。三日守り、城破れ、執られて屈せず、之を殺さんと欲す。頸を引いて刃を待つ。乃ち送りて署に帰らしむ。銓、衣冠して闕に向かいて拝し、又遥かに父母を拝し、遂に自経す。事聞こえ、大理卿を贈られ、再び兵部尚書を贈られ、忠烈と謚さる。其の子道浚に官し、錦衣指揮僉事と為す。

銓の父五典、官を歴て南京大理卿、時に侍養して家居す。詔して銓の贈らるる官を以て之に加う。及び卒し、太子太保を贈らる。初め、五典、海内将に乱るるを度り、居る所の竇莊を築きて堡と為し、堅きこと甚だし。崇禎四年、流賊至る。五典已に歿す。独り銓の妻霍氏在り。衆、避くることを請う。曰く、「賊を避けて出づれば、家保たず。出でて賊に遇えば、身更に保たず。死するは等しき耳。盍ぞ家に死せん」と。乃ち僮仆を率いて堅守す。賊、四晝夜環攻すも、克たずして去る。副使王肇生、其の堡を名づけて「夫人城」と曰う。郷人賊を避くる者多く頼りて以て免る。

道浚、既に錦衣に官し、忠臣の子を以て重んぜられ、屡び都指揮僉事を加えられ、衛所に僉書す。顧みて閹党の楊維垣等と相善くし、而して王永光の指を受け、錢龍錫・成基命等を攻め、公論の与せざる所と為る。尋いで賄を納るるの事敗れ、雁門に戍す。流賊起こる。山西巡撫宋統殷、道浚を檄して軍前に贊画せしむ。道浚の家は壮丁多く、能く賊を禦ぐ。

崇禎五年四月、賊沁水を犯す。寧武守備猛忠戦死す。道浚、遊撃張瓚を遣わして馳援せしむ。賊乃ち退く。八月、紫金梁・老回回・八金剛等、三万の衆を以て竇莊を囲み、道浚を執らんと謀りて以て巡撫を脅かす。道浚屡び賊を敗る。賊乃ち道浚に因りて撫を求めんと欲す。紫金梁見えんことを請い、胄を免じて前に進みて曰く、「我は王自用なり。誤って王佳胤に従いて此に至る」と。又一人跽みて辞を致して曰く、「我は宜川の廩生韓廷憲、佳胤に獲らるる所と為り、誓死して約束を奉ぜんことを請う」と。道浚、之を労いて遣わす。而して陰に使をして廷憲を啗いて賊を図らしむ。賊旧県に至り、約を守りて動かず。廷憲日々に紫金梁を惎て款に就かしむ。未だ決せず。官軍之を襲う。賊怒り、廷憲を尤む。遂に約を敗り、南に済源を突き、溫陽を陥す。

九月、廷憲は紫金梁が己を疑っていることを知り、これを殺して帰順しようと考え、道浚に沁河に伏兵を置いて待つよう約した。道浚は配下の劉偉を派遣してこれを補佐させた。その夜、賊は諸生蓋汝璋の楼を攻め、地面を一丈余り掘り下げたが、楼は崩れなかった。賊は怒り、必ず陥落させると誓った。夜明けになっても隙がなく、廷憲は事が露見しそうだと知り、劉偉と共に慌てて逃走した。賊はこれを追って河に至り、伏兵が立ち上がり、追手の滾山虎ら六人を殺した。これらは皆賊の腹心であった。賊は沁河に臨み、廷憲を求めた。竇莊は東側が河に面しており、道浚は密かに上流を渡り、賊の背後を回って大いに騒ぎ立てた。賊は驚いて逃げ去った。間もなく、官軍が賊を陵川で抑えたが、軍は潰え、道浚は九仙臺に拠って難を免れた。十二月、廷憲は紫金梁と乱世王の間に不和があることを知り、間者を放って書を送り、両者を離間させた。乱世王は果たして疑い、その弟の混世王を道浚のもとに遣わして降伏を請わせた。当時、統殷は賊を取り逃がした罪で罷免され、許鼎臣が代わって来ており、進討を主張していた。道浚は方便を用いて難くせをつけて言った、「紫金梁を斬って来れば、その時こそ願いを聞き入れよう」。混世王は不満そうに去り、賊の徒党は遂に分かれて諸郡県を掠奪した。

翌年三月、官軍は賊を追って陽城から北へ向かった。道浚は三纏凹に伏兵を設け、賊の頭目満天星らを捕らえた。巡撫鼎臣は道浚の功績を第一として上奏した。八月、賊は沁水を陥落させた。沁水は賊の衝要に当たり、往来が定時でなく、道浚は郷人に先立って五十四の堡を築いて守らせ、賊が五度侵犯しても皆撃退したが、この時に至って陥落したのである。道浚は家族・家来三百人を率いて馳せ赴き賊を撃ち、賊は退いて十五里移動した。道浚は散亡した者を収容し、賊の徒党を捕らえ、家の倉を傾けて兵糧を供給した。副使王肇生は状況を列記して道浚の功績を上申した。道浚は以前より清議に罪を得ていたため、軍功によって自らを洗い清めようと望んだが、上奏者は彼が軍を離れて功績を偽ったと弾劾した。巡按御史馮明玠がさらに弾劾し、沁城が既に失われた以上、功績とは言えないとし、彼を改めて海寧衛に戍らせた。

何廷魁、字は汝謙、山西威遠衛の人。万暦二十九年の進士。涇県知県に任じられ、寧晋に転じ、刑部主事に昇進し、帰徳・衛輝・河南の知府を歴任し、西寧副使となった。考課法に坐せられ、再び黎平知府となった。折しも遼東の事態が切迫し、副使に昇進し、遼陽を分巡した。袁応泰が降伏を受け入れると、廷魁は反対したが、聞き入れられなかった。瀋陽が陥落した時、同僚たちは妻子を帰郷させたが、廷魁は言った、「私は民の望みとなることを敢えてしない」。大清兵が濠を渡ると、廷魁は半渡の時に急撃するよう請うた。間もなく城に迫り、包囲がまだ完全でない時、また精鋭を尽くして出撃防禦するよう請うた。応泰は共に従わなかった。遼陽が陥落すると、廷魁は印を懐にし、その妾の高氏・金氏を率いて井戸に投身して死に、婢僕で従って死んだ者は六人であった。都司徐国全はこれを聞き、また官署で自縊した。事が聞こえ、光禄卿を追贈され、さらに大理卿を追贈され、祭葬を賜り、忠湣と諡され、世襲の錦衣百戸の蔭官が与えられた。国全も規定に従って追贈・撫恤された。

高邦佐、字は以道、襄陵の人。万暦二十三年の進士。寿光知県に任じられ、民に荒地開墾を教え、流亡者三千家を招集した。戸部主事・員外郎を歴任した。永平知府に昇進し、濼河を浚渫し、長堤を築いた。税使高淮を抑制し、彼が大きく横暴になることを許さなかった。天津兵備副使に昇進し、大盗董時耀を平定した。神木参政に転じ、たびたび套寇の沙計を破った。実母の喪に服して帰郷し、薊州道に補され、兵を調発して上官の意に逆らった罪で、弾劾を受けて帰郷した。天啓元年、遼陽が陥落すると、参政に起用され、広寧を分守した。母が八十余歳であったため、涙を流して忍びず去ろうとしなかったが、母が大義を説いて責めたため出発した。熊廷弼と王化貞が不和を生じ、邦佐は遼東の事態が必ず敗れると知り、累次帰郷を乞うた。ちょうど許可が下りた時、化貞は広寧を捨てて逃走した。人々は邦佐が既に休暇を請願しているのだから、関内に入れると言った。邦佐は叱って言った、「私が一日去らなければ、一日は封疆の臣である。どこへ行くというのか」。夜に母への決別の手紙を書き、馬を駆って右屯に赴き廷弼に謁見し、言った、「城中は乱れていても、敵はまだ知らない。急いで兵を率いて城に入り、一二人を斬れば、人心は自ずから定まる。公が行かれないなら、邦佐に兵を授けて難に赴かせてください」。廷弼は受け入れず、化貞と共に逃走した。邦佐は天を仰いで長嘆し、涙ながらに従者に言った、「経略も巡撫も逃げた。事は去った。松山は私の守る地、ここで死すべきである。汝は帰って太夫人に報告せよ」。そこで西に向かって宮廷を拝し、再び母を拝し、印綬を解いて官舎で自縊した。僕の高永は言った、「主君が死なれるのに、従者がいないわけにはいかない」。また傍らで自縊した。事が聞こえ、祭葬を賜り、光禄卿を追贈され、さらに太僕卿を追贈され、忠節と諡され、世襲の錦衣百戸の蔭官が与えられた。邦佐と張銓・何廷魁は皆山西の人であり、詔により宣武門外に祠を建て、三忠と扁額を掲げた。

同時の顧頤は、右参政として遼海道を分守していた。広寧の変乱の時、力尽きて自縊した。太僕少卿を追贈され、世襲の本衛副千戸の蔭官が与えられた。

崔儒秀、字は儆初、陜州の人。万暦二十六年の進士。戸部郎中を歴任し、開原兵備僉事に昇進した。当時開原は既に失われており、儒秀は壮士を募り、家族を連れて墓に別れを告げて出発した。経略袁応泰が兵馬・甲仗が頼りにならないと憂えると、儒秀は言った、「人が必ず死すべき心を持つことを恃むのです」。応泰は深くそれに同意した。遼陽が包囲されると、東城を分守し、矢が雨のように降り注いでも少しも退かなかった。折しも軍が潰え、儒秀は痛哭し、軍服を着て北に向かって拝礼し、自縊した。事が聞こえ、何廷魁と同様の恤典を賜り、湣忠という祠を賜り、陳輔堯・段展を配祀させた。

輔堯は揚州の人。万暦年間に郷試に合格した。永平同知を歴任し、糧秣を輸送して関外に出、自在知州の段展と共に瀋陽に駐屯した。天啓元年、日暈に異常があった。段展は応泰に牒を送り、天象が警告を示しているので予め防ぐべきだと述べた。一ヶ月余りして、瀋陽が陥落し、段展はそこで死んだ。輔堯はちょうど烙印を押すよう命じられており、側近は守土の責任はないからと、去るよう勧めた。輔堯は言った、「誰が封疆の臣でないというのか。どうして去ろうか」。宮廷を望んで拝礼し、刀を抜いて自刎し、段展と共に按察僉事を追贈された。輔堯が膠州の官にあった時、山繭を贈る者がいたが、受け取って公の倉庫に掛けておいた。段展は涇陽の挙人である。

鄭国昌、邠州の人。万暦三十五年の進士。山西参政を歴任した。崇禎元年、按察使として永平で兵を治め、山西右布政使に昇進したが、上官が上奏して留任させた。三年正月、大清兵が京師から東へ行軍し、先に人を文廟の天井裏に潜ませたが、主たる者は気づかなかった。初四日の黎明に城に登ると、守将を補佐する者がおり、国昌はその怪しいことに気づき、打ち殺した。間もなく、北楼から火災が発生し、城は遂に陥落した。国昌は城上で自縊し、中軍守備の程応琦がこれに従った。応琦の妻は駆けつけて国昌の妻に告げ、彼女と共に死んだ。

知府張鳳奇、推官盧成功、盧龍教諭趙允殖、副総兵焦延慶、東勝衛指揮張国翰、および在宅の中書舎人廖汝欽、武挙の唐之俊、諸生の韓洞原・周祚新・馮維京・胡起鳴・胡光奎・田種玉ら十数人も皆死んだ。国昌・鳳奇は一家ことごとく死んだ。事が聞こえ、国昌に太常卿を、鳳奇に光禄卿を追贈し、共に祭葬を賜り、一子に蔭官が与えられた。成功らにはそれぞれ差等をつけて追贈・撫恤された。鳳奇は陽曲の人、郷挙によって官途に就いた。

党還醇、字は子貞、三原の人。天啓五年の進士。休寧知県に任ぜられ、善政あり、父の憂いにより帰郷す。崇禎二年、喪明け、良郷に起官す。十二月、大清兵城に迫り、吏民を督して城に乗り拒守す。或いは言う、県は小にして兵無し、何ぞ避けて去らざる、と。還醇は毅然として曰く、「吾は土を守る吏なり、去って将に何くにか之かん!」救兵至らず、力屈して城破れ、教諭の安上達・訓導の李廷表・典史の史之棟・駅丞の楊其禮と並びに死す。事定まり、父老還醇の屍を求め、これを草間に得たり、赤身にて面縛し、体数槍に被り、群哭してこれを殮す。上達は、貴州安順の人。万暦末年郷挙に挙げられ、選を謁して教諭を得、至る日に闔門死難す。事聞こえ、還醇に光禄丞を贈り、祭葬を賜い、有司祠を建て、その一子を官す。之棟等もまた贈恤し、駅を給してその喪を帰す。已にして吏科上言す、「還醇は城亡びて与に亡び、之に死して貳せず、猶いはく土を守る責ありと曰うなり。上達・之棟等は、微員末秩たりとも、亦よく命を致して志を遂げ、死有りて隕ちず。宜しく格を破りて褒崇し、以て世を勧むべし。朝廷必ずや今日の虚名を惜しまず、将来の忠義を作すべし、乃ち僅かに国学教職・良郷主簿を贈るは、聖主の憂恤の典に謂う何ぞや!」帝その言に感じ、下部に下して更に議せしめ、乃ち上達・廷表に『五経』博士を贈り、之棟等及び千戸の蕭如龍・何秉忠、百戸の李蔭と並びに還醇祠に配祀す。武挙の陳蠡測・諸生の梅友松等十五人、烈婦の朱氏等十七人、並びに坊を建てて旌表す。順天府尹の劉宗周、上達の死難の正を得たるを以て、翰苑宮坊の贈りを請う、報いず。

是の時、列城死事を以て聞こゆる者、更に香河知県の任光裕・濼州知州の楊燫あり。光裕は贈恤還醇の如く、燫は光禄少卿を贈り、並びに一子を任ず。

李献明、字は思皇、寿光の人。崇禎元年の進士。保定推官に任ぜらる。明年十一月、大清兵遵化に臨み、巡撫の王元雅と推官の何天球・遵化知県の徐澤及び先任知県の武起潜等、城に憑りて拒守す。時に献明は官庫を察核するを以て城中に駐す。或いは謂う、この邑は君の轄する所に非ず、去るも罪無し、と。献明は正色して曰く、「王土に非ざるは莫し、安んぞ危きを見て難を避けんや。」東門を守るを請い、城破れて之に死す。

元雅は、太原の人。巡撫として数月にして即ち変に遇い、自縊死す。天球は永平推官として遵化の軍餉を理む。澤は、字は兌若、襄陽の人、献明の同年の進士。任に蒞ること七日、天球・起潜と並びに殉難す。

起潜は、字は用潜、進賢の人。天啓五年の進士。初め武清知県となり、諸生人のために訐わるる者あり、金を酒甕に納めて以て献ず。起潜は学官及び諸生の貧しき者数人を召し、甕を庭中に置き、これに謂いて曰く、「美酒は独り享くるべからず、諸生とこれを共にせん。」酒尽き、金見ゆ、その人惶恐して罪を請う、即ち金を以て貧しき者に分かち畀う。県を治むること一年、声有り、繁に調じて遵化に任ず。事に坐して劾せられ、官を解き代を候う、遂に難に及ぶ。

巡撫の方大任、畿輔諸臣の功罪を論じ、因って元雅に失城の罪有りとしつつも、一死の節概凛然たり、以て愆を蓋うに足ると言う。枢輔の孫承宗、殉難諸臣の恤みを請い、亦元雅を首とす。帝、献明・天球に光禄少卿を、澤に光禄丞を贈り、倶に一子を蔭す。元雅は大吏として城を失い、贈恤及ばず。

張春、字は泰宇、同州の人。万暦二十八年郷挙に挙げらる。歴て刑部主事、操行を励まし、兵を談ずるに善し。天啓二年、遼東西尽く失われ、廷議辺才を急にし、山東僉事、永平・燕建二路兵備道に擢でる。時に大軍山海関に屯し、永平は孔道たり、士馬絡繹し、関外の難民雲集す。春は運籌方有り、事就理にして民病まず。累ねて副吏・参政に転じ、仍って故官たり。七年、哈刺慎部長汪焼餅なる者、衆を擁して桃林口を窺う、春は守将を督して三人を擒えしむ。焼餅関を叩き罰を受けんことを願う、春等これを責め数えて、誓いて敢えて叛かず。

崇禎元年関内道に改む。兵部尚書の王在晋、浮言に惑わされ、春の嗜殺を劾し、一日に十二人を梟斬すとす。春は具に揭して弁じ、関内の民も亦冤を訟う。在晋復たその奄に通じ餉を克つを劾し、遂に籍を削ぎ、法司に下して治めしむ。督師の袁崇煥、春の廉恵を言う、聴かず。御史の李炳言う、「春は悪を疾むこと甚だ過ぎ、人のために中傷さる。夫れ殺の濫否は、一勘すれば即ち明らかなり、提問を免ぜんことを乞う。」従わず。明年、法司言う、春の劾せらるるは実無しと、乃ちこれを釈す。

三年正月、永平守を失い、春を起して永平兵備参議とす。春言う、「永平は五県一州を統ぶ、今郡城及び灤州・遷安並びに失われ、昌黎・楽亭・撫寧は又関内道の轄する所なり。臣跡を寄する所無く、当に何れの城に駐せん。臣は兵備を以て官と名づくも、而して実に一兵無く、空拳を操りて虎穴に入る、安んぞ事を済さんや。赴援の大将の中に於て、一人を勅して臣と同事せしめんことを乞い、臣も亦旧日の義勇を招きこれを率いて自ら効せん。臣の身は已にこの城に許し、少も規避せざるべし。但だ必ず実に封疆を済さんことを求め、この臣の区区の忠、以て聖明に報い臣職を尽くす所以なり。」因って兵事は預め泄らすべからざるを言い、陛見を賜わり面して方略を陳ぜんことを乞う、帝これを許す。既に対に入り、帝数たび善しと称し、春を参政に進む。已にして諸将に偕なって永平諸城を収復し、功を論じて太僕少卿を加え、仍って兵備事に蒞り、巡撫の缺を候って推用せらる。時に乙榜より起家する者多く節鉞を授かるも、春独り後命を需う、朝に援無きを以てなり。永平兵燹の余に当たり、閭閻困敝す、春は尽心して撫恤し、人益々これを懐く。

四年八月、大清兵大凌河新城を囲み、春を命じて総兵の呉襄・宋偉の軍を監し馳せ救わしむ。九月二十四日小凌河を渡る。三日を越えて長山に次し、城より十五里、大清兵二万騎を以て来たり逆戦す。両軍鋒を交え、火器競いて発し、声天地を震わす。春の営沖され、諸軍遂に敗れ、襄先ず敗れ、春復た潰衆を収めて営を立つ。時に風起こり、黒雲見ゆ、春は火を放つを命じ、風順い、火甚だ熾ん、天忽ち雨し風反り、士卒焚死すること甚だ衆し。少しくして雨霽れ、両軍復た鏖戦し、偉力支えず亦走る。春及び参将の張洪謨・楊華徴、遊撃の薛大湖等三十三人倶に執えられ、部卒死する者算無し。諸人我が太宗文皇帝に見え皆臣礼を行い、春独り植立して跪かず。晩に至り、使いを遣わして珍饌を賜う。春曰く、「忠臣は二君に事えず、礼なり。我若し生を貪らば、亦安んぞ我を用いん。」遂に食わず。三日を越え、復た酒饌を以てこれを賜う、春仍って食わず、守る者懇ろに勧め、太宗文皇帝の恩に感じ、始めて一食す。発するを令す、従わず。右廟に居り、故衣冠を服し、遂に臣節を失わずして死す。

初め、襄等の敗書聞こえ、春の志を守り屈せざるを以て、遥かに右副都御史に遷し、その家を恤う。春の妻の翟これを聞き、慟哭し、六日食わず、自縊死す。春未だ死せざる時、我が大清に議和の意有り、春これを朝に言う、朝中嘩然として春を詆す。誠意伯の劉孔昭遂に春の敵に降りて忠ならざるを劾し、その授かる所の憲職を削らんことを乞う。朝議従わざるも、而して有司その二子を系して獄に死せしむ。

閻生斗は、字を文瀾といい、汾西の人である。歳貢生より出て、保安知州を歴任した。大清の兵が保安に入ると、生斗は吏民を集めて堅く守った。城が陥落し、捕らえられて死んだ。判官の李師聖、吏目の王本立、訓導の張文魁も共に死に、時は崇禎七年七月であった。八月に霊丘に入ると、知県の蔣秉采は兵を募って堅く守り、力尽きて衆は潰え、首を吊って死に、一家門も殉じた。守備の於世奇、把総の陳彦武・馬如豸、典史の張標、教諭の路登甫は皆戦死した。事が聞こえ、生斗に太僕少卿を追贈し、その他は制に従って贈恤された。秉采は、字を衷白といい、全州の挙人である。

王肇坤は、字を亦資といい、蘭渓の人である。崇禎四年の進士。刑部主事に任じられ、御史に改めた。初め、流賊が鳳陽を破った時、兵驕将悍の弊を上疏し、督撫に重権を仮し、大将で軍令を犯す者は便宜に誅戮することを請うた。得旨して申飭されたのみであった。山海・居庸の二関を巡視に出た。九年七月、大清の兵が喜峰口に入ると、肇坤は衆を激して防禦に向かわせたが、敵わず、昌平に退いて守った。包囲され、守陵太監の王希忠、総兵官の巣丕昌、戸部主事の王一桂・趙悦、知州事を摂る保定通判の王禹佐と分かれて門を守った。降丁二千が内応し、城は遂に陥落し、肇坤は四本の矢と二つの刃を受けて死んだ。丕昌は出て降った。一桂・悦・禹佐・希忠及び判官の胡惟忠、吏目の郭永、学正の解懐亮、訓導の常時光、守備の咸貞吉は皆死んだ。禹佐の子も父に従って死んだ。

一桂は、黄岡の挙人で、昌平で糧餉を督め、南城が最も要衝であるため、自ら赴いてこれを扼した。やがて西城が陥落し、捕らえられて死んだ。妻妾子女及び家衆二十七人は悉く井戸に身を投げて死んだ。悦は公事で昌平に赴き、遂に難に遇った。間もなく、大清の兵が順義を攻めた。知県の上官藎は、字を忠赤といい、曲沃の人である。郷挙より起ち、廉潔で執念深く名声があり、在官三年、推薦の上奏文が十余り上った。遊撃の治国器、都指揮の蘇時雨らと共に拒んで守った。城が陥落し、藎は自縊した。国器・時雨及び訓導の陳所蘊も皆死んだ。やがて宝坻を破り、知県の趙国鼎、主簿の樊枢、典史の張六師、訓導の趙士秀は皆死んだ。国鼎は、山西楽平の人である。郷試で第一、崇禎七年の進士。定興を破り、教諭の灤州熊嘉誌が節に殉じて死んだ。安粛を破り、知県の臨清鄭延任が妻と共に殉じた。教諭の霊寿耿三麟もまた死んだ。事が聞こえ、肇坤に大理卿を追贈し、祭葬を賜い、一子に官を与えた。一桂・悦には共に太僕少卿を追贈し、子に蔭官と祭葬を賜い、その他は制に従って贈恤された。

孫士美は、青浦の人である。郷挙より舒城教諭に授けられた。崇禎八年春、賊が来て犯すと、県令は公事で出ており、士美が代わって七十余日守り、城は全うされた。明年、深州知州に抜擢された。十一年冬、大清の兵が至ると、力を尽くして三日守り、城が陥落し、角楼で自剄した。父の訥も自縊し、一家の死者は十三人であった。太僕少卿を追贈され、訥もまた旌表された。

この時、畿輔の諸郡は悉く兵禍に遭い、長吏は多く風を見て遁走し、四十有八の城を失った。任丘の白慧元、慶都の黄承宗、霊寿の馮登鰲、文安の王鑰、蠡県の王采、新河の崔賢、塩山の陳誌、故城の王九鼎は、皆殉難したと聞こえた。その他、青県の張文煥、興済の銭珍、慶雲の陳緘は、城が破られて殺された。教官で死難した者には劉廷訓・張純儒・唐一中がいる。郷官では喬若雯・李禎寧が最も著名である。そして城を棄てた者、呉橋知県の李綦隆ら十人は、皆死罪に処せられた。

白慧元は、青澗の人である。崇禎七年の進士。居官してよく蠹を祛き、吏民はこれを畏れた。九年に城を守った功により、俸を減じて行取を命じられた。時に大閹と隙があり、その罪を帝に摘発され、逮治されることになったが、未だ行かず、大兵が既に城下に抵ると、代官の李廉仲と共に守った。間もなく、廉仲は城を縋って遁走し、慧元は自ら甲冑を擐ぎ、防禦に力を尽くした。城が陥落すると、一門共に死に、僉事を追贈された。

郷官の李禎寧は、万暦三十八年の進士。山西按察使を歴任し、罷免されて帰り、慧元を助けて拒んで守った。城が破られ、家衆を率いて格闘し、身に数本の槊を受けながら死に、一門で従って死んだ者は数人であった。承宗は、何許の人か詳らかでない。馮登鰲は、膚施の挙人で、その従父の大緯は蠡県訓導であり、また死んだ。王鑰は、武功の挙人。王采は、沢州の人、進士。崔賢は、弋州の挙人。誌・九鼎もまた何許の人か詳らかでない。誌は自経死し、九鼎は城上で戦死し、各々贈恤に差等があった。

劉廷訓は、順天通州の人である。歳貢生で、呉橋訓導となった。崇禎十一年、大清の兵が畿内に入ると、知県の李綦隆は遁走しようとしたが、廷訓がこれを止め、共に守った。包囲が将に合わんとする時、綦隆は城を縋って逃げた。廷訓は急いで城上に趨り、守る者に語って曰く、「守って死ぬも、逃げて死ぬも同じ、いずれも死ぬならば、守って死に、忠義の鬼となるのはどうか」と。衆は泣いて諾し、乃ち堅く三昼夜拒んだ。廷訓は流れ矢に当たり、胸を束ねて力戦し、また六本の矢に当たって乃ち死んだ。一月余り過ぎ、その子が棺を開いて改めて殯すると、面は生きているが如かった。

張純儒は、新安の人で、臨城訓導となり、諸生を率いて共に城を守り、城が破られて死んだ。唐一中は、全州の人で、鉅鹿教諭となり、節を抗して死んだ。

喬若雯は、臨城の人である。万暦四十七年の進士。中書舎人に授けられ、礼部主事に遷った。崇禎元年春、廷臣が争って魏忠賢の党を撃つと、若雯もまた二度上疏して兵部侍郎の秦士文、御史の張訥・智鋌を弾劾し、その傾邪の状を備え列挙した。やがて言うには、「故輔の魏広微は、罪悪滔天、先帝をして桓・霊の名を冒さしめ、その罪は忠賢に下らない。その徒の陳九疇・張訥・智鋌はその鷹犬となり、専ら善類をぜいい、その罪は彪・虎に下らない。死者にはその官階を削り、生者にはこれを荒裔に投ずることを乞う」と。帝はその先帝を誹毀することを責め、九疇らを下して所司に行遣させた。若雯はやがて吏部に改められ、員外郎に遷った。袞州知府として出て、積弊を剔除し、豪猾は手を斂めた。病により帰り、士民は道を遮って泣いて送った。城が陥落すると、若雯は端坐して剣を按じて待ち、遂に殺された。

時に郷官の李崇徳・董祚・魏克家は共に城が亡びて殉難した。崇徳は、青県の人。祚は、隆平の人。克家は、高陽の人。皆挙人である。崇徳は戸部員外郎を歴任した。祚は未だ仕えず。克家は鄒平知県となり、善政があった。若雯に太常少卿を追贈し、その他は贈恤に差等があった。

張秉文、字は含之、桐城の人。祖父の淳は参政に任じ、事績は『循吏伝』に詳しい。秉文は万暦三十八年の進士に挙げられ、福建右参政を歴任し、海賊の李魁奇を平定した。崇禎年間に、広東按察使、右布政使を歴任し、山東に転じて左布政使となった。十一年の冬、大清の兵が畿輔より南下した。兵部尚書の楊嗣昌が山東巡撫の顔継祖に檄を飛ばして軍を德州に移させたため、済南は空虚となり、郷兵五百、萊州からの援兵七百がいるのみで、勢力が弱く守りきれなかった。巡按御史の宋学朱がちょうど章丘を巡察中、急報を聞いて馳せ戻り、秉文及び副使の周之訓・翁鴻業、参議の鄧謙、塩運使の唐世熊らと城守の議を定め、相次いで朝廷に急を告げた。嗣昌は応ずる術がなく、督師の中官高起潜は重兵を擁して臨清にありながら救援せず、大将の祖寛・倪寵らも傍観していた。大清兵は十六の州県を攻略し、ついに済南に迫った。秉文らはそれぞれの門を分かち死守し、昼夜甲冑を解かず、援兵はついに来なかった。翌年正月二日、城は陥落し、秉文は甲冑を着て巷戦し、すでに矢を受け、力尽きて戦死した。妻の方氏、妾の陳氏はともに大明湖に身を投じて死んだ。学朱、之訓、謙、世熊及び済南知府の茍好善、同知の陳虞胤、通判の熊烈献、歴城知県の韓承宣も皆死に、徳王の由枢は捕らえられた。秉文は太常寺卿を追贈され、之訓と謙は光禄卿、承宣は光禄少卿を追贈され、皆特別の祠が建てられ、その他は規定に従って贈官と撫恤がなされた。学朱は死んだが、屍体が見つからず、事実か疑わしいとして、単独で格付けされず贈官がなかったが、福王の時に大理卿を追贈された。鴻業と推官の陸燦は行方が分からず、贈官と撫恤も及ばなかった。

学朱、字は用晦、長洲の人。崇禎四年の進士。御史となり、かつて楊嗣昌・田維嘉を弾劾する上疏をしたことがあり、当時の論評はこれを壮とした。之訓は黄岡の人、進士。累進して浙江按察使となったが、事に坐して貶官され、推薦されたが抜擢されないうちに難に遭った。宮闕を望んで再拝し、妻の劉氏とともに死に、一家は殉死した。謙は孝感の人、進士。城上で戦い、叔父の有正とともに死に、母の莫氏は民間に隠れて食を絶ち死に、一族や従者で死者は四十余人に及んだ。世熊は灌陽の挙人、西門を分守し、殺された。好善は醴泉の人、進士。虞胤は詳細不明。烈献は黄陂の貢生、城が破れ、二人の子とともに死んだ。承宣は大学士の爌の孫、進士、妻妾とともに死んだ。劉大年という者がいた、江西広昌の人。兵部主事に任じ、南京に使いし、朝廷に戻る途中、歴城に立ち寄り、城が破れて節を守り死んだ。光禄少卿を追贈された。

当時、大清兵に破られた州県で、城を失った守令は皆死罪とされた。しかし臨邑の宋希堯、博平の張列宿、茌平の黄建極、武城の李承芳、丘県の高重光は、皆節を守って死んだことで贈官と撫恤を受けた。重光、字は秀恒、保定の人。貢生から柏郷訓導となり、下僕を率いて盗賊を撃退して城を全うし、そこで知県に抜擢された。大軍が至ると、吏民が彼を背負って逃げようとしたが、重光は承知せず、印を抱いて井戸に身を投じて死んだ。

その縉紳で殉難した者は、恩県の李応薦、天啓年間に御史を務めた。魏忠賢に附いて逆案に名を連ねた。この時、財を投じて兵士を募り、役所を助けて力を尽くして城を守ったが、城が破れ、身に数刃を受けて死んだ。歴城の劉化光は子の漢儀と先後に郷試に合格し、父子ともに城を守って力戦して死に、差等をつけて贈官と撫恤がなされた。

顔胤紹、字は賡明、曲阜の人、復聖(顔回)の六十五代孫である。崇禎四年の進士。鳳陽・江都・邯鄲の知県を歴任し、真定同知に転じ、城を守り賊を討って功があった。十五年、河間知府に抜擢された。連年の大飢饉で、死亡者が道に満ち、賊盗が充満していたが、よく慰撫した。閏十一月、大清兵が至り、参議の趙珽、同知の姚汝明、知県の陳三接らとともに堅守した。援兵は雲集したが、皆逗留した。胤紹は城が必ず破れると知り、あらかじめ一家の老幼を一室に集め、薪を周りに積み、自らは城上に往き戦守を指揮した。城が破れると、急いで官舎に帰り、火を放って室を焼き、衣冠を整えて北に向かって再拝し、火中に躍り込んでともに死んだ。

珽、字は秉珪、慈渓の人。崇禎元年の進士。南安・侯官二県の知県を務め、累進して河間兵備僉事となり、一家十四人皆難に遭った。

汝明は夏県の人。天啓初年に郷試に合格。性質は孝友であった。崇禎年間に大飢饉があり、倉を傾けて救済し、義塚を立てて野ざらしの骨を葬った。蠡県知県に任じられ、故郷でまた飢饉と聞き、子に書を送り、以前のように救済するよう命じた。後に河間で官に就き、妾の任氏とともに死んだ。

三接は文水の人。崇禎六年の郷試に合格し、河間知県となった。旱魃と飢饉で、人肉食が起こった。三接が着任すると、雨がすぐに降った。疑わしい訴訟事件で、数年決まらなかったものが、彼が着任するとすぐに決した。妻の武氏は賢く、三接は国境の多難を見て、彼女を帰そうとしたが、答えて「夫は忠に死に、妻は節に死ぬ、それが分だ」と言った。三接は巷戦して死に、武氏はそれに従った。

珽は太僕卿を追贈され、胤紹は光禄卿、汝明と三接はともに僉事を追贈された。

周而淳という者がいた、掖県の人。進士から兵科給事中に任じられ、同官六人とともに畿輔諸郡の城守の任を分督した。而淳が河間に着いたばかりで、城は包囲され、諸臣とともに死んだ。太常少卿を追贈された。

先に、大兵が州に入ると、兵備副使の趙輝は知州の丁師羲、郷里に住む参政の李時茪らとともに士民を督励して固く防いだ。援軍は来ず、城はついに破られた。輝は冠帯を整えて自尽し、子の琬もともに死んだ。師羲、時茪も皆死んだ。輝、字は黄如、河津の人、崇禎七年の進士、光禄卿を追贈された。師羲、字は象先、楚雄の人。選抜された貢生、参議を追贈された。時茪は進士、累進して参政となり、太常卿を追贈された。

吉孔嘉、洋県の人。幼い時に父の冤罪を巡按御史に訴えて釈放させ、孝で称された。崇禎三年の郷試に合格。寧津知県に任じられ、煩雑な苛政を免じ、賊を除き、県中がその徳を称えた。累進して順徳知府となった。十五年冬、大清兵が城に迫ると、郷官の知府傅梅、中書舎人の孟魯缽・張鳳鳴とともに兵を募り、力を尽くして防戦したが、力尽きて城は破れ、孔嘉は妻の張氏、長子の恵迪、次子の嫁の王氏とともに死んだ。太僕少卿を追贈され、妻子は皆表彰された。梅は刑臺の人。万暦十九年に郷試に合格。登封知県に任じられ、善政があった。刑部主事に転じ、張差の梃撃事件を処理したが、事績は別に見える。死後、太常少卿を追贈された。魯缽は工部主事である。

時に城を守り殉難した者として、王端冕がいる。字は服先、江陵の挙人。趙州知州となり、廉潔と仁恵をもって民心を得た。城が陥落し、捕らえられて死んだ。教諭の陳広心は元城の人で、乙榜から身を起こした。城が陥ちようとする時、衣冠を正して端座し、諸子が取り囲んで泣きながら避難を請うたが、厳しい声で「我が平生学んだところは何事か、児女のように恋々とするものか」と言い、遂に殺された。訓導の王一統は成安の人。家にあって多くの義行があり、明倫堂で節を守って死んだ。唐鉉は字を節玉といい、睢州の人。崇禎七年の進士。定州知州を歴任し、そこで死んだ。高維岱は昌邑の人。郷挙に挙げられ、永清県知県となり、職務についてわずか十余日で変事に遭い、一門そろって死んだ。典史の李時正、教諭の邸養性、郷官の劉維蕙も共に死んだ。清豊が陥落すると、教諭の曹一貞、訓導の董調元は皆死んだ。郷官の吏部郎中李其紀、黄州推官侶鶴挙、富陽知県杜鬥愚もまたそこで死んだ。また南楽の監生鄭献書、河間の襄陽知県賈太初、永年の山東副使申為憲は皆節を守って死んだ。鉉は右参議を追贈された。維岱は僉事を追贈され、その他は贈官と撫恤に差等があった。

邢国璽は長葛の人。崇禎七年の進士。濰県知県に授けられ、石城を改築し、民事に心を尽くした。時に帝は城郭を修め、民兵を練り、糗糧を儲え、戎器を備える四事をもって天下を課し、有司は概ねこれを具文と見なしたが、国璽のみは詔の如く奉行した。上官が交えて推薦し、戸部主事に遷った。運道が盗賊によって阻まれ、膠萊河を開く議論があったが、国璽はその利便を力説した。登萊兵備僉事に抜擢され、河道を経度した。十五年、畿輔が戒厳となり、部から檄を飛ばして山東の兵を徴発し入衛させた。国璽が監督して龍岡に至った時、突然大清兵に遭遇した。部卒が驚き恐れて逃げようとしたが、国璽が叱って止めさせ、自ら先頭に立って戦い、矢と刃が交錯する中、馬から落ちて死んだ。巡撫・巡按が奏上しなかったので、帝が厳しく責める旨を降し、ようやく詳しく上聞され、制に従って贈恤された。

時に大兵は山東を下り、海州・贛楡・沐陽・豊・はいに直抵し、列城の将吏は、或いは遁走し、或いは降伏した。その身を封疆に死なせた者に、馮守礼・張百新・張予卿・朱迥添・任万民らがいる。

守礼は猗氏の人で、郷挙に挙げられた。県令に疑わしい獄案があり、訴える者に「馮孝廉の名刺一枚を得れば、獄は即座に解かれる」と言われた。その人は金を持って告げたが、拒んで聞き入れなかった。平定州学正に選ばれ、諸生の兄弟が争って互いに訴え、金を贈ったが、守礼は厳しく退け、友悌を勧めて感化させ去らせた。歴任して萊蕪県知県となった。城が陥落し、二子の攄奇・拱奇と共に自殺した。

日新は浙江建徳の人。歳貢から訓導となり、斉東教諭に任じられた。海内に寇賊が起こるのを見て、諸生と文芸を講じ射を習い、土寇の安守夏を招いて降伏させた。斉東が包囲されると、守夏と共に城壁に登って守り、力尽きて子の光裔と共に死んだ。妻の方氏は自刎し、守夏もまた従って死んだ。予卿は陽信知県となり、城陥落に殉難した。迥添は瀋陽の宗室で、潞安に居住した。宗学貢生から鄒平知県となり、城を失い、節を全うして死んだ。万民は陽曲の諸生。郷郡が寇賊に襲われるのを見て、救時の八議、守城の十二策を草し、当事者に献じて、果たしてその用を得た。保挙によって武城知県に授けられ、在職三年、能吏の名声があり、遂に城に殉じて死んだ。

また文昌時は全州の挙人。臨淄県知県となり、廉潔と慎重さをもって民心を得た。大清兵が東下すると、城は包囲を受け、訓導の申周輔と共に守った。城が陥落し、挙家自焚し、周輔もまた殉難した。同時に、寿光知県の李耿は大興の人。崇禎年間の進士で、城上で自縊した。呉良能は遼東蓋州の人。郷挙に挙げられ、滕県知県となり、城が陥ちようとする時、家族を皆殺しにし、母に拝礼して出て、力戦して死んだ。呉汝宗は寧洋の人。東阿知県となり、城が失陥し、そこで死んだ。周啓元は黄岡の挙人で、高苑県知県となり、城が陥落し、朱衣を着て堂上に坐り、死んだ。

劉光先は里居不詳、豊県知県。大兵二千騎が西城外に営し、攻撃しなかった。夜、一人が営から逃げ出し、城上の者に「梯子を得れば即座に攻める」と言ったが、信じなかった。また逃げ出した者が「梯子が完成し、直ちに攻める」と言った。婦人もまた営から出て「皆甲冑を着ている」と言った。明け方に西南隅を急襲し、力を尽くして防禦していたが、すでに西北隅に登られ、光先はそこで殉じた。劉士璟もまた何許の人か知れないが、沐陽知県となり、強幹の名声があった。力を尽くして城を防ぎ、城が陥落して死んだ。山東僉事を追贈された。

張振秀は臨清の人。万暦三十八年の進士。肥郷・永平の知県を歴任し、兵部主事に遷った。泰昌元年に吏部に改め、四司を歴任し、文選員外郎に至り、乞仮して帰郷した。崇禎改元の時、起用されて験封郎中となり、考功・文選を歴任し、太常少卿に抜擢されたが、事に坐して落職帰郷した。崇禎十五年、大清兵が河間を包囲し、遠近震恐した。臨清総兵官劉源清が、榷関主事陳興言・同知路如瀛・判官徐応芳・吏目陳翔龍・在籍の兵部侍郎張宗衡・員外郎刑泰吉・臨汾知県尹任及び振秀らと力を合わせて備禦した。まもなく城は包囲され、数日間力戦したが、援軍は至らず、城が陥落し、共に死んだ。興言は南靖の人。如瀛は陵川の人。応芳は臨川の人。翔龍は蕭山の人。泰吉・任は皆進士。宗衡は独自に伝がある。源清は沢清の弟で、太子少保を追贈された。

その時、城陥落に殉難した者に、寿張の王大年・曹州の楚煙・滕県の劉弘緒ら数人がいる。大年は進士に挙げられ、御史を歴任し、太僕少卿を加えられたが、魏忠賢に附いて逆案に名を連ね、ここに至って節を尽くして死んだ。煙は進士に挙げられ、戸部主事を歴任し、解職帰郷した。城が失陥した時、力抗し、子の鳳苞が身をもってこれを庇い、皆殺された。妻の趙は柱に触れて死んだ。弘緒は車駕郎中を歴任し、変事に遭って死んだ。

鄧藩錫は字を晋伯といい、金壇の人。崇禎七年の進士。南京兵部主事を歴任した。十五年、袞州知府に遷り、任に着いたばかりで、すでに大清兵が塞内に入ったと聞き、急いで守備の具を整えた。まもなく四万騎が城下に迫り、藩錫は走って魯王に告げて言った。「郡には吏があり、国には王があり、これは舟を同じくするようなものです。列城が失陥するのは、皆貴家が金銭を惜しみ、貧者や飢えた者に城壁を守らせたからです。城郭は我が命であり、財賄は人の命です。我が彼に命を与えられないで、彼が我に命を与えることを望むことができましょうか。王が誠に積儲を散じて士気を鼓舞されれば、城はなお保つことができます。そうでなければ、大事が一度去れば、悔いても及ばないでしょう。」王は従うことができなかった。藩錫は監軍参議の王維新、同知の譚絲・曾文蔚、通判の閻鼎、推官の李昌期、滋陽知県の郝芳声、副将の丁文明、長史の俞起蛟及び里居の給事中範淑泰らと分かれて各門を死守した。十二月八日に至り、力及ばず、城が陥落し、維新はなお力戦し、二十一の創傷を受けて乃ち死んだ。藩錫は縛られても降らず、殺され、その妾は幼子を抱いて井戸に投身して死んだ。魯王の以派もまた殺された。

昌期は永年の人。芳声は忻州の人。共に進士から身を起こした。昌期はかつて監軍として土寇一万を破り、衆人はその才を推した。芳声は県を治めて名声があった。ここに至って皆死んだ。

起蛟は錢塘の人なり。貢生より歴任して魯府左長史に至り、憲王に相たり。及んで惠王立つ、世子を易えんと欲す、起蛟力諫して乃ち已む。世子嗣位す、歳凶に値い、王を勧めて振貸せしめ、自ら粟二千石を出して之を佐く。大盜李青山衆を率いて来犯す、淑泰と偕に出撃し、大いに其の衆を破る。及んで王難に被る、起蛟親属二十三人を率いて之に殉ず。文明も亦戦死す。

事聞こえ、維新を光祿卿に贈り、藩錫を太僕少卿に贈り、昌期を僉事に贈り、余は贈恤差あり。

樊吉人なる者有り、元城の人なり。進士より滋陽を知り、累擢して山東兵備僉事に至る。未だ行かずして変に遇い、自刎して死す。淑泰は自ら傳有り。

張焜芳は會稽の人なり。崇禎元年進士。歴任して南京戶科給事中に至る。十一年春、疏を上して黃道周・惠世揚・陳子壯・金光辰を薦め、而して舊撫文震孟の為に恤を請う。帝沽名市恩を以て、切に之を責む。又太僕少卿史涘を糾す、涘に訐せらるる所となり、遂に職を罷む、事は『薛國觀傳』に具す。十六年正月、焜芳北上し、臨清に抵る、大清兵に遇い、諸生馬之騆・之駉と俱に執らるる所となりて之に死す。其の妻妾之を聞き、井に赴きて死す。

時に又天津參將賀秉鉞なる者有り、泰寧左衛の人なり。崇禎四年武科一甲第三に第し、亦父の柩を扶けて臨清に至り、巷戦終日、矢盡き、執らるる所となりて死す。