王冕
龔諒
世宗の嗣位の歳、寧津に盗賊起こり、転掠して徳平に至る。知県龔諒、吏民を率いてこれを防ぎ、力尽き、殺さる。済南通判を贈り、その家を恤う。
陳聞詩
董倫
董倫は帰徳の検校なり。尚詔帰徳に入るや、知府及び守衛官皆遁走す。倫は民兵を率いて巷戦し、捕らえられ、死に臨むもなお手ずから数賊を刃する。妻賈及び童僕皆これに従い死す。詔して聞詩に鳳陽同知を、倫に帰徳同知を贈り、並びに祠を死所に立てしむ。
王鈇
王鈇、字は徳威、順天の人。嘉靖二十九年の進士。常熟知県に授かる。沿海に大猾多く、亡命を匿い奸を為す。鈇はその罪を悉く赦す。倭患起こるや、鈇諸猾に語りて曰く「何を以て我に報いん」と。皆死力を尽くさんことを請う。ここにおいて耆長を立て、子弟を部署して数百人を得、防卒と合わせて訓練す。県はもと城無し。鈇士卒を率いてこれを城す。倭来たりて薄るも、数度これを防ぎ退く。既にして三丈浦より分かれて常熟・江陰を掠む。参政任環、鈇と指揮孔燾に命じ、官民兵三千を分統せしめ、その寨を破り、百五十余級を斬首し、二十七艘を焚き、余倭皆遁走す。また労県を掠め、尚湖より還り海に帰らんとす。鈇憤りて曰く「賊なお敢えて吾が地を渉らんとは!必ずこれを撃ち殺さん」と。
錢泮
時に邑人錢泮、字は鳴声、江西参政として里居す。倭がその父の柩を焼くを仇とし、力を尽くして鈇を賛勧す。ここにおいて小艇数十をもって倭を追跡す。倭これを隘中に夾撃し、独り耆長数人のみ従い、皆力闘して死す。鈇は泥沼に陥り、目を瞋って大呼し、腹に刃を受け死す。泮は数槍を受け、三賊を殺して死す。時に三十四年五月なり。詔して泮に光禄卿を、鈇に太僕少卿を贈り、並びに錦衣世百戸を蔭し、官を遣わして祭を諭し、祠を死所に立て、歳時祭祀を奉ぜしむ。
錢錞
唐一岑
時に唐一岑は崇明縣の知縣であり、新城を築いて完成し、移住を議したが、千戸の高才・翟欽に阻まれた。倭寇が突入し、一岑は戦いながら罵り、ついに乱軍に殺された。詔して錞と一岑に光祿少卿を追贈し、錞には世襲の錦衣百戸を、岑には國子生の蔭官を与え、ともに祠を建てて祀らせた。
朱裒
朱裒、字は崇晉、鄖西の人。嘉靖年間に郷試に合格し、鞏縣教諭の事務を代行した。武功知縣に遷り、豪強を抑え、積弊を除き、関中では鉄漢と呼んだ。揚州同知に遷り、役人は民から一銭も取ることを敢えてしなかった。三十四年、倭寇が侵入し、沙河でこれを撃破し、その酋長を殲滅し、掠奪された牲畜を多く取り戻した。間もなく、再び大挙して来寇し、城の東門に迫った。兵を督して奮撃したが、兵は潰え、そこで死んだ。左參政を追贈し、一子に官職を与えた。
齊恩
明年、倭寇が無為州を犯し、同知の齊恩が舟師を率いて圌山北等港で倭寇を破り、百余級を斬首した。子の嵩、年十八、最も驍勇で、倭寇を追撃して安港に至り、伏兵が起こって包囲され、恩の家の二十余人がともに力戦して死に、ただ嵩ら三人だけが生き残った。恩に光祿丞を追贈し、一子に官職を与え、その家を厚く恤い、祠を建てて祀らせた。
孫鏜
孫鏜、莒州の人。呉・越で商売をしていた。倭寇が松江を擾乱した時、郡守に謁見して自ら資財を献じて軍を助けることを請うた。郡守が參政の翁大立に推薦し、一刀を与えて試すと、飛ぶが如く、士兵として登用された。倭寇を撃退し、參政の任環の包囲の中から救い出した。人を莒州に帰らせ、家財をかき集め、里の若者を全て召し集めて爪牙とし、呉中の地は鏜を長城の如く頼りにした。倭船が泖滸を渡ると、鏜は突出し、終日酣戦したが、援兵は来ず、石湖橋に戻り、半ば渡った時、伏兵が大いに起こり、鏜は落馬し、刃に中って死んだ。光祿丞を追贈し、一子に官職を与え、また祠を建てて祀らせた。
杜槐
杜槐、字は茂卿、茲溪の人。倜儻として任俠を好んだ。倭寇が来ると、縣はその父の文明を部長に任命し、郷勇を団結させるよう命じた。槐は父の老齢を気遣い、自らその任に当たり、数度倭寇を破った。副使の劉起安は槐に餘姚・慈溪・定海の守備を委ねた。定海の白沙で倭寇に遭遇し、一日に十三度戦い、三十余人を斬り、一酋長の首を獲たが、自身も数ヶ所槍傷を受け、落馬して死んだ。文明は倭寇を鳴鶴場で撃ち、酋長一人を斬り、倭寇は驚いて逃げ、杜將軍と呼んだ。間もなく、奉化の楓樹嶺まで追撃し、戦死した。文明に府經歷を追贈し、槐に光祿丞を追贈し、祠を建ててともに祀り、槐の子に國子生の蔭官を与えた。
黃釧
陳見
この年、倭が福清を陥落させ、挙人陳見が衆を率いてこれを防ぎ、訓導鄔中涵とともに捕らえられ、大罵して死す。倭は勝ちに乗じて惠安を犯す。知縣番禺の林咸は五晝夜にわたり拒守し、倭は引き去る。既にして、また至る。咸は鴨山においてこれを撃ち、北に窮追し、伏兵に陥りて死す。泉州同知を追贈し、祠を賜い、一子に任官す。
奚世亮
興化が陥落した時、延平同知奚世亮が府事を代行し、一月余り守るも、城陥落し、力戦して死す。右參議を追贈し、子に蔭官し、葬儀を賜う。世亮、字は明仲、黃岡の人。
武暐
先に、三十一年、台州知事溧水の武暐が倭を釣魚嶺に追い、力戦して死す。上官はこれを上聞せず。その子尚寶が朝廷に訴え、乃ち太僕丞を追贈し、尚寶を國子生として蔭官す。
王德
王德、字は汝修、永嘉の人。嘉靖十七年の進士。戸科給事中を歴任す。定國公徐延德が無極諸縣の閑田を業とせんことを請い、且つ私置の莊田は災傷により賦を免ずべからずと言う。德は抗疏してこれを劾す。俺答が都城を囲むや、屡々軍國の便宜を陳べ、悉く報可と為る。時に城門尽く閉ざされ、避難者入るを得ず、號呼西内に徹す。德以て言い、民始めて入るを得。寇退き、山東に募兵を命ぜられ、得たる者悉く驍勇、諸道の最と為る。還朝し、李默が吏部を長ずるに会い、德の投刺倨なるを怒り、嶺南兵備僉事に出す。巡撫と事を争い、投劾して径ちに帰る。默また吏部に起り、前の憾みを用い、落職閑住と為す。德郷居し、倭乱により、母を奉じて城中に居し、貲を傾けて健兒を募り保障の計と為す。三十七年夏、倭梅頭より至り、大いに掠奪す。德族父沛とともに義兵を督してこれを撃ち、宵遁す。俄かに一舟突き来たりて犯す。沛及び族弟崇堯・崇修殲さる。亡何、倭また至り、大いに掠奪す。德憤怒し、所部を勒して追襲し龍灣に至り、軍敗れ、手ずから射殺すること数人、賊を罵りて死す。然れども倭是より自ら德の郷を越えて郡城を侵すことを敢えざるなり。事聞こえ、太僕少卿を追贈し、世蔭錦衣百戸と為し、祠を立てて湣忠と曰う。
叔沛
沛に太僕丞を追贈し、祠を立て、蔭官を与う。
汪一中
蘇夢昜
蘇夢昜、萬曆年間、雲南祿豐知縣と為る。三十五年十二月、武定賊鳳騰霄反し、雲南府城を囲み、転じて禄豐を寇す。夢昜民兵を率いて城を出で力戦し、賊退き去る。明年元旦、方に朝服して祝厘せんとす。賊意表に出でて襲い其の城を陥し、これを執り去り、屈せずして死す。光祿少卿を追贈し、有司祠を建て、一子を録す。
韋宗孝
禄豐の未だ陥ちざる時、賊先ず嵩明州を犯す。吏目韋宗孝出でて禦するも敗れ、合門これに死す。本州同知を追贈し、子を蔭して國學に入らしむ。
龍旌
龍旌は、趙州の人、歳貢生より嵩明州学正となる。賊が城に迫り、捕らえられ、賊を罵って死す。国子博士を贈られる。
張振德
張振徳は、字は季修、昆山の人。祖父の情、従祖父の意は、皆進士。情は福建副使、意は山東副使。振徳は選貢生より四川興文知県に任ぜられる。県はもと九絲蛮の地、万暦初年、始めて土塀数尺を築き、戸数千に満たず。永寧宣撫の奢崇明に異志あり、密かに奸人と結び、子女を掠めて売る。振徳は奸人を捕らえ、配流の刑に処し、掠められた者三百余人を招き還す。崇明は二千金を賄賂として贈るが、振徳は怒ってこれを退け、その文書を引き裂く。
劉希文
振徳の死後、興文教諭の劉希文が県事を代わって署理す。僅か半年、賊また城に迫り、死を誓って去らざる。妻の白も慷慨として共に死せんことを願う。城破れ、夫婦賊を罵り、共に死す。
徐大礼
大礼は長寧を守り、城もまた陥落す。大礼曰く「我、張公に背くべからず」と。一家四人、仰薬して死す。重慶同知を贈られ、世蔭として百戸を授く。
章文炳
文炳は、長泰の人。万暦四十一年進士。戸部郎中を歴任し、知府に遷り、治行廉潔、吏民これに愛せらる。賊は既に巡撫可求等を殺し、文炳も賊を罵って殺さる。後その賢を知り、屍を求めて殯し帰す。喪、江上に出づるに、岸を夾みて皆大いに哭す。太僕少卿を贈られ、再び太常卿を贈られ、世蔭として外衛副千戸を授く。
段高選
左重、王碩輔、洪維翰、黄啓鳴、趙愷、馮鳳雛、蘇樸、袁一修、張志譽、宋応臯
崇明父子が永寧を占拠すると、貴陽同知の嘉興人王昌胤が永寧衛の事務を分掌していたが、難に殉じた。僉事を追贈され、祭礼を賜った。崇禎初年、その子の監生世駿が言上した。「賊が永寧を占拠した時、臣の父は血を刺して三通の啓を草し、印綬を上官に納め、翌年五月に再拝して自縊しました。賊はこれを恨み、その屍を焼きました。二人の孫、一人の孫娘、および僕婢十三人が同日に害されました。どうか張振德の例のごとく、手厚く恩恤の典を加えられますよう」。許可された。
董盡倫
董盡倫、字は明吾、合州の人。萬曆年中に郷挙に及第し、清水知県に任じられ、安定に転じ、いずれも善政があった。任期満了の際、安定の民が朝廷に赴き留任を奏請し、詔により鞏昌同知を加官され、なお県事を管掌した。久しくして、同知として甘州の軍糧を管理し、職を解かれて帰郷した。天啓初年、奢崇明が反乱を起こし、兵を率いて城に迫った。盡倫は知州の翁登彦とともに固守した。賊は使者を遣わして降伏を勧めたが、盡倫は大いに怒り、自ら賊の使者を斬り、その目玉を抉り出して食らい、たびたび賊の鋒を挫き、城は全きを得た。さらに兵を率いて銅梁を救援し功績があり、まもなく檄を受けて重慶を攻撃したが、孤軍深入し、伏兵が四方から起こり、ついに戦死した。光禄少卿を追贈され、世襲の百戸の蔭官を賜り、祠を建てて祀られた。まもなく蔭官を指揮僉事に改めた。崇禎初年、城を全うした功績を論じ、蔭官を錦衣千戸に改めた。
李忠臣、高光、胡縝、聶繩昌、吳長齢、胡一夔
この時、郷里に居た士大夫で節を守って死んだ者に、李忠臣がいる。永寧の人で、松潘参政の官にあった。家に居て、賊に陥落された。死士を募り、密かに総兵官楊愈懋と約し、大軍を以て城に迫らせ、自らは内応となった。事が洩れ、一家揃って害された。高光は瀘州の人で、かつて応天通判を務めた。城が陥落すると、髪を剃って僧となり、子の在昆とともに壮士を募り、賊百余りを殺した。賊は怒り、大葉坎まで追撃し、光は賊を罵って屈せず、家族十二人とともに死んだ。胡縝は永寧の挙人である。あらかじめ崇明が必ず反乱すると策し、当局に上書したが、受け入れられなかった。賊が起こり、捕らえられ、厳刑に処され獄中に繋がれた。弟の緯が家財を傾けて救い出し、そこで義兵を糾合し、密かに賊将の張令らと結び、その偽の宰相を捕らえた。隊列を整え、自ら一翼を担当し、たびたび首級を斬り、賊は大いに畏れた。やがて火薬で焼死した。聶繩昌は富順の挙人である。家財を投じて義勇を募り賊を防ぎ、戦死した。吳長齢は瀘州の監生である。兵を率いて瀘州を回復したが、まもなく伏兵に遭い、父子ともに戦死した。胡一夔は興文の人である。龍陽県丞に仕え、捕らえられ、屈せずに死んだ。皆、恩恤を与えられなかった。
龔萬祿 李世勛
龔萬祿は貴州の人である。書物を知らずとも、胆力と志があり、膂力は人に優れていた。劉綎に従って楊応龍を征伐し、先鋒として海龍囤に登り、守備を代行し、建武所に駐屯した。奢崇明が反乱すると、衆は萬祿を遊撃将軍に推し、兵事を主管させた。指揮の李世勛は、名位は萬祿より先であったが、やはりその指揮を受け、力を合わせて固守した。崇明が成都を犯そうと謀ったが、萬祿が背後を牽制するのを憚り、部将の張令を遣わして降伏を勧めた。令は萬祿と結び、崇明を欺いて降伏すると偽った。崇明は果たして他の将を遣わして守備させたが、萬祿はこれを脅して降伏させ、誘き出して数え切れぬほど殺した。さらに微服で叙州に走り、副使の徐如珂に説いて言った。「賊の精鋭騎兵は成都に集結し、旧巣に留まっている者は全て老弱です。誠に萬祿に一万人を貸し与えてその巣窟を衝かせれば、彼らは必ず還って救援し、成都の包囲はたちまち解けるでしょう」。如珂はその計略を奇としたが、用いることができなかった。まもなく、賊は全軍を挙げて建武を攻め、萬祿は十里外で邀撃したが、兵が少なく敗れて戻り、城はついに陥落した。世勛は衣冠を整え再拝し、家族を率いて自焼死した。萬祿は自ら二人の妾と二人の孫を斬り、自刎したが死に切れず、そこで槊を握って駆け出し、大声で叫んだ。「我は龔萬祿なり、我を追う者があるか!」賊は顔を見合わせて敢えて迫らなかった。叙州に走り、巡撫の朱燮元に援軍を乞い、そこで兵を以て建武を回復した。官軍が江門で敗れた時、賊が四方から攻め寄せ、萬祿は三日間力戦し、自ら数十人を斬り、子の崇学とともに死んだ。詔して都督僉事を追贈し、祠を建て祭礼を賜い、世襲の百戸の蔭官を賜った。
翟英、韓応泰、郁聯若、張羽
この時、成都衛指揮の翟英が賊を龍泉駅で扼し、成都後衛指揮の韓応泰は成都救援に赴き、賊と草堂寺で遭遇し、小河所鎮撫の郁聯若は城西で賊と激戦し、茂州百戸の張羽は郫県を救援し、皆力戦して死んだ。
管良相
管良相は、烏撒衛指揮であり、人となり慷慨として奇節を負っていた。天啓初年、樊龍らが四川で反乱すると、巡撫の李枟が麾下に召し寄せ、軍事を籌謀させた。良相は安邦彦が必ず反乱すると策し、枟を補佐して固守の計を立てた。まもなく祖母の病気のため、帰省を乞い、泣いて枟に語った。「烏撒は孤城で、水西に近く、かつ安効良と仇敵の間柄です。水西に変事があれば、禍は必ずまず及ぶでしょう。良相には子がおりません。願わくは死をもって国に報いん。どうか長策を立て、この一方を保たれますよう」。一月余りして、邦彦は果たして反乱し、その城を包囲したが、良相は固守して陥落させなかった。久しくして、外援が至らず、城は陥落し、自縊死した。
李応期、朱運泰、蔣邦俊、王明重、丘述堯、金紹勛、簡登、劉臯、臯の子景、劉三畏
同官の李応期、朱運泰、蔣邦俊もまた害に遇った。この時、普定衛の王明重、威清衛の丘述堯、平壩衛の金紹勛、坎陽把総の簡登、龍里の故守備劉臯、臯の子の景がともに難に殉じ、また訓導の劉三畏は、賊が来ても避けず、兀坐して書斎の中にあり、殺害され、人々は「龍里の三劉」と称した。
徐朝綱
五年正月、殉難した諸臣を恤み、朝綱を光禄少卿に贈り、子を国子監に入れる蔭を授けた。子の天鳳は進士に及第したばかりで、すぐに喪に服すため帰郷し、喪が明けると戸部主事に任じられた。上疏して言うには、「臣の家は一門、臣は忠に死し、妻は節に死し、嫁は姑に死し、孫は祖に死し、婢僕は主に死しました。これはこれまでにない節烈でございます。どうか張振德の例のように、さらに優れた恤みを加えられますよう。臣の母、臣の嫂も、ともに旌表されますように」。帝は深くこれを嘉し、再び光禄卿を贈り、蔭を改めて錦衣衛の世襲千戸とし、祭葬を賜い、祠を立て坊を建て、諸々の従死者を皆附祀させた。
同時に殉難した者は、
楊以成、
楊以成は、雲南路南の人である。万暦年間、貢生から貴陽通判に任じられ、畢節衛の事務を管轄した。任期が満ちて同知に進み、なおも畢節を治めた。安邦彦が貴陽を包囲すると、以成は蠟書を作って雲南巡撫沈儆炌に救援を求めた。書を発したが賊はすでに至り、戦ってこれを退けた。賊がますます多く来ると、以成は吏に印を持たせて間道より省城へ向かわせ、自らは吏民を督して守りを固めた。ちょうど援兵が到着し、賊が夜逃げしようとした時、衛の吏である阮世爵が内応し、城はついに陥落した。以成は慌てて首をくくろうとしたが、賊がこれを捕らえて連れ去った。そこで賊中の情況を述べた書を作り、竹筒の中に置き、弟の以恭をして雲南に赴かせて変事を告げさせたが、散納溪に至り、賊がその書を捜し出し、以成とともにこれを殺した。死者は家族十三人であった。按察僉事を贈られ、葬儀を賜った。
鄭鼎、
孫克恕、
時に孫克恕という者がいた。字は推之、馬平の人である。郷挙に挙げられ、貴州副使に至り、思石道を分巡した。賊を防ぎ戦死したところ、虎がその骸を守って去らず、蛮人は嗟嘆して異とした。事が聞こえ、太僕卿を贈られ、祭葬を賜った。
姫文胤、
孟承光、
時に賊が鄒県を陥落させ、博士の孟承光が捕らえられ、罵って屈せずに死んだ。尚宝少卿を贈られ、世襲で錦衣千戸の蔭を受けた。承光は、字を永観といい、亜聖(孟子)の子孫で、世襲の『五経』博士であった。
朱万年、
朱万年は、黎平の人である。万暦年間、郷挙に挙げられた。萊州知府を歴任し、恵みある政績があった。崇禎五年、叛将の李九成らが登州を陥落させ、衆を率いて来犯した。万年は吏民を率いて固く守った。時に山東巡撫徐従治と登萊巡撫謝璉がともに城中におり、包囲され、数ヶ月堅守したが、従治は砲撃を受けて死んだ。賊は偽って降伏を乞い、璉が万年を率いて受けに行き、捕らえられた。万年は言った、「私を捕らえても益はない。どうして精騎を私に従わせ、守備者を呼び出して降伏させようか」。賊は精騎五百を以て万年を擁して城下に至らせると、万年は大声で呼んで言った、「私は捕らえられた。誓って必ず死ぬ。賊の精鋭は尽くここにいる。急いで砲を撃て。私のことを思うな」。守将の楊禦蕃は忍びず、万年はまた足を踏み鳴らして大声で叫んだ。賊は怒ってこれを殺した。城上の人は万年がすでに死んだのを見て、ついに砲を発し、賊の死者は過半に及んだ。事が聞こえ、太常卿を贈られ、祭葬を賜い、役人が祠を建て、一子に官を授けた。
秦三輔、王協中、呉世揚、張国輔、張奇功、熊奮渭、陳所聞
初め、賊が新城を掠めた時、知県秦三輔と訓導王協中がこれを防ぎ、共に死した。黄県を陥落させた時、知県呉世揚は賊を罵って死し、県丞張国輔・参将張奇功・守備熊奮渭は皆力戦して死した。平度を陥落させた時、知州陳所聞は自縊して死した。三輔と世揚は光禄少卿を追贈され、所聞は太僕少卿を追贈され、共に祭葬を賜り、祠が建てられ、子に蔭官が与えられた。協中・国輔・奇功もまた差等に応じて贈恤された。三輔は三原の人。世揚は洛陽の人。所聞は畿輔の人。皆乙榜より起家した。
張瑤
張瑤は蓬莱の人。天啓五年の進士。開封府推官に任じられ、請託を絶ち、豪強を抑え、吏民は神の如く畏れた。崇禎四年に行取されて都に入り、吏科の宋鳴梧が力を尽くして宋玫を給事に援けようとし、瑤を抑えて府同知に任じた。瑤は怒り、上疏して玫の賄賂贈与の様子を摘発した。吏部尚書閔洪学は瑤が贈り物をして奔走競争したと弾劾し、鳴梧がさらに極論したため、河州判官に左遷され、赴任しなかった。翌年正月、李九成らが登州に迫ると、瑤は家族を率いて城壁に登り防戦守備した。城が陥落し、瑤はなお石を振るって奮撃した。賊が押し寄せて彼を捕らえると、大罵して屈せず、殺害された。妻と女四人は共に井戸に投身して死んだ。光禄少卿を追贈された。
王與夔・張儼然・張聯臺・蔣時行
先に、賊が新城を陥落させた時、挙人王與夔・張儼然がこれに死した。他の県を陥落させた時には、貢生張聯臺・蔣時行もまたこれに死した。皆定例に阻まれて、顕彰されなかった。礼部侍郎陳子壮が上言した。「挙人・貢生が難に死しても、恤典がないのは旧制である。しかし名が既に天府に登録されていながら、恩が流官にのみ後れるのは、九泉の下で怨み痛むことがないだろうか。近ごろ、武挙の李調が賊を防いで身を捐てたが、既に贈恤を蒙っている。武途がこのようであるのに、文儒がどうして独り遺漏されようか。乞う、量りに一官を贈り、永く定制と為さんことを。」これを許可した。そこで輿夔・儼然に宛平知県を、聯臺・時行に順天府教授を追贈した。その後地方で難に死した者、挙人李讓・呉之秀・賈煜・張慶雲、貢生張茂貞・張茂恂などは、皆前述の制の如く官を贈られた。
何天衢
楊於陛
初め、名声の乱の時、楊於陛という者がいた。剣州の人。郷挙に挙げられた。武定府同知を歴任した。巡撫伉が監紀軍事を命じ、兵敗れて捕らえられ、これに死した。太僕少卿を追贈され、祠を建てて精忠と号した。