明史

列傳第一百七十八 忠義二

王冕

王冕、字は服周、洛陽らくようの人。正徳十二年の進士。万安知県に任ぜられる。宸濠の乱に際し、長吏多くは奔竄す。冕は勇壮の士を募り、死士数千人を得て、王守仁に従い南昌を攻め復す。宸濠は安慶の包囲を解き、還って救援し、鄱陽湖に至り、両軍相対す。濠は金帛を尽く出して士卒を犒い、殊死の戦いを挑み、官軍不利なり。冕は密かに守仁に申し上げ、小艇に葦を満載し、建昌人の言葉を擬し、賊艦に近づき、風に乗じて火を挙げしむ。濠の兵大いに驚き、遂に潰敗し、焚死溺死する者数知れず。濠は舟を換え、宮人を挟んで遁走す。冕の部卒は漁舟を漕ぎ、追いかけてこれを捕らう。宸濠平定後、守仁は新建伯に封ぜられるも、冕は叙勲に及ばず、他事に坐して落職す。既にして前功を録し、兵部主事に擢てられ、山海関を巡視す。

嘉靖三年十二月、遼東の妖賊陸雄・李真ら乱を起こし、関内に突入す。侍吏冕を扶けて避けんとすれど、冕は肯わず、曰く「吾に親あり」と。急ぎ母の居所に趨り、兵を執りて衛る。賊至り、母傷つけられ、冕奮い前に進みてこれを救い、捕らえられる。刃を以て脅すも、大罵し、遂に害せらる。詔して光禄少卿を贈り、有司祠祀を設く。

龔諒

世宗の嗣位の歳、寧津に盗賊起こり、転掠して徳平に至る。知県龔諒、吏民を率いてこれを防ぎ、力尽き、殺さる。済南通判を贈り、その家を恤う。

陳聞詩

陳聞詩、字は廷訓、柘城の人。嘉靖中郷挙に挙げらる。親老いたるを以て、仕進を絶つ。親歿き、喪に居り哀毀す。三十二年秋、賊師尚詔、帰徳を陥とし、聞詩の名を聞き、劫いて帥とせんと欲す。既にして柘城を陥とし、これを擁し至り、百端に誘説すれども屈せず。その家の数人を引き出し斬りて曰く「従わざれば、汝が族を滅ぼさん」と。聞詩紿して曰く「必ず吾を行かしめんと欲せば、人を殺さず、火を放つことなかれ」と。賊諾し、擁して行く。聞詩遂に食わず、鹿邑に至り自経して死す。

董倫

董倫は帰徳の検校なり。尚詔帰徳に入るや、知府及び守衛官皆遁走す。倫は民兵を率いて巷戦し、捕らえられ、死に臨むもなお手ずから数賊を刃する。妻賈及び童僕皆これに従い死す。詔して聞詩に鳳陽同知を、倫に帰徳同知を贈り、並びに祠を死所に立てしむ。

王鈇

王鈇、字は徳威、順天の人。嘉靖二十九年の進士。常熟知県に授かる。沿海に大猾多く、亡命を匿い奸を為す。鈇はその罪を悉く赦す。倭患起こるや、鈇諸猾に語りて曰く「何を以て我に報いん」と。皆死力を尽くさんことを請う。ここにおいて耆長を立て、子弟を部署して数百人を得、防卒と合わせて訓練す。県はもと城無し。鈇士卒を率いてこれを城す。倭来たりて薄るも、数度これを防ぎ退く。既にして三丈浦より分かれて常熟・江陰を掠む。参政任環、鈇と指揮孔燾に命じ、官民兵三千を分統せしめ、その寨を破り、百五十余級を斬首し、二十七艘を焚き、余倭皆遁走す。また労県を掠め、尚湖より還り海に帰らんとす。鈇憤りて曰く「賊なお敢えて吾が地を渉らんとは!必ずこれを撃ち殺さん」と。

錢泮

時に邑人錢泮、字は鳴声、江西参政として里居す。倭がその父の柩を焼くを仇とし、力を尽くして鈇を賛勧す。ここにおいて小艇数十をもって倭を追跡す。倭これを隘中に夾撃し、独り耆長数人のみ従い、皆力闘して死す。鈇は泥沼に陥り、目を瞋って大呼し、腹に刃を受け死す。泮は数槍を受け、三賊を殺して死す。時に三十四年五月なり。詔して泮に光禄卿を、鈇に太僕少卿を贈り、並びに錦衣世百戸を蔭し、官を遣わして祭を諭し、祠を死所に立て、歳時祭祀を奉ぜしむ。

錢錞

錢錞、字は鳴叔、鐘祥の人。嘉靖二十九年の進士。江陰知縣に任ぜられる。初めて官に着いた時、倭寇は既に勢い盛んであった。三十三年、倭寇が侵入し、郷民が城に逃げ込もうとする者は万を数えたが、兵備道の王從古は受け入れなかった。錞は言う、「民が死ぬのを救わず、空城を守って何の意味があろうか」と。そこで門を開いて民を入れ、自らは斜橋で戦い、三度戦ってこれを退けた。明年六月、倭寇が蔡涇閘を占拠し、一部を分けて塘頭を犯す。錞は狼兵を率いて九里山で戦い、日暮れに雷雨が激しく起こり、伏兵が四方から現れ、狼兵は皆逃げ、錞は戦死した。

唐一岑

時に唐一岑は崇明縣の知縣であり、新城を築いて完成し、移住を議したが、千戸の高才・翟欽に阻まれた。倭寇が突入し、一岑は戦いながら罵り、ついに乱軍に殺された。詔して錞と一岑に光祿少卿を追贈し、錞には世襲の錦衣百戸を、岑には國子生の蔭官を与え、ともに祠を建てて祀らせた。

朱裒

朱裒、字は崇晉、鄖西の人。嘉靖年間に郷試に合格し、鞏縣教諭の事務を代行した。武功知縣に遷り、豪強を抑え、積弊を除き、関中では鉄漢と呼んだ。揚州同知に遷り、役人は民から一銭も取ることを敢えてしなかった。三十四年、倭寇が侵入し、沙河でこれを撃破し、その酋長を殲滅し、掠奪された牲畜を多く取り戻した。間もなく、再び大挙して来寇し、城の東門に迫った。兵を督して奮撃したが、兵は潰え、そこで死んだ。左參政を追贈し、一子に官職を与えた。

齊恩

明年、倭寇が無為州を犯し、同知の齊恩が舟師を率いて圌山北等港で倭寇を破り、百余級を斬首した。子の嵩、年十八、最もぎょう勇で、倭寇を追撃して安港に至り、伏兵が起こって包囲され、恩の家の二十余人がともに力戦して死に、ただ嵩ら三人だけが生き残った。恩に光祿丞を追贈し、一子に官職を与え、その家を厚く恤い、祠を建てて祀らせた。

孫鏜

孫鏜、莒州の人。呉・越で商売をしていた。倭寇が松江を擾乱した時、郡守に謁見して自ら資財を献じて軍を助けることを請うた。郡守が參政の翁大立に推薦し、一刀を与えて試すと、飛ぶが如く、士兵として登用された。倭寇を撃退し、參政の任環の包囲の中から救い出した。人を莒州に帰らせ、家財をかき集め、里の若者を全て召し集めて爪牙とし、呉中の地は鏜を長城の如く頼りにした。倭船が泖滸を渡ると、鏜は突出し、終日酣戦したが、援兵は来ず、石湖橋に戻り、半ば渡った時、伏兵が大いに起こり、鏜は落馬し、刃に中って死んだ。光祿丞を追贈し、一子に官職を与え、また祠を建てて祀らせた。

杜槐

杜槐、字は茂卿、茲溪の人。倜儻として任俠を好んだ。倭寇が来ると、縣はその父の文明を部長に任命し、郷勇を団結させるよう命じた。槐は父の老齢を気遣い、自らその任に当たり、数度倭寇を破った。副使の劉起安は槐に餘姚・慈溪・定海の守備を委ねた。定海の白沙で倭寇に遭遇し、一日に十三度戦い、三十余人を斬り、一酋長の首を獲たが、自身も数ヶ所槍傷を受け、落馬して死んだ。文明は倭寇を鳴鶴場で撃ち、酋長一人を斬り、倭寇は驚いて逃げ、杜將軍と呼んだ。間もなく、奉化の楓樹嶺まで追撃し、戦死した。文明に府經歷を追贈し、槐に光祿丞を追贈し、祠を建ててともに祀り、槐の子に國子生の蔭官を与えた。

黃釧

黃釧、字は珍夫、安溪の人。挙人より歴任して溫州同知となった。嘉靖三十四年、倭寇が侵入し、釧はこれを撃退した。倭寇が必ず再び来ると知り、日夜備えをした。また三年後、倭寇は果たして大挙して来た。釧は城を出て迎撃し、軍を三つに分け、釧は中軍を将し、他の二軍の将帥は皆紈袴の子弟で、左右から応援することを約束した。倭寇と遭遇すると、倭寇は兵を分けて二軍を襲い、精鋭の兵卒をもって中軍に当たらせた。釧は強弩と巨砲を発し、長く戦い、倭寇が支えきれなくなった時、二軍の将帥は敵を見て潰走した。倭寇は兵を合わせて釧を撃ち、釧は腹背に敵を受け、ついに捕らえられた。降伏を脅されたが屈せず、金で贖うことを責められると、釧は笑いながら罵って言う、「お前は黃大夫が金を愛さぬことを知らぬのか」と。倭寇は怒り、裸にして寸断にした。子は屍体を購い求め得ず、衣冠を整えて葬った。事が聞こえ、浙江參議を追贈し、一子に官職を与え、役所に祠を建てさせた。

陳見

この年、倭が福清を陥落させ、挙人陳見が衆を率いてこれを防ぎ、訓導鄔中涵とともに捕らえられ、大罵して死す。倭は勝ちに乗じて惠安を犯す。知縣番禺の林咸は五晝夜にわたり拒守し、倭は引き去る。既にして、また至る。咸は鴨山においてこれを撃ち、北に窮追し、伏兵に陥りて死す。泉州同知を追贈し、祠を賜い、一子に任官す。

奚世亮

興化が陥落した時、延平同知奚世亮が府事を代行し、一月余り守るも、城陥落し、力戦して死す。右參議を追贈し、子に蔭官し、葬儀を賜う。世亮、字は明仲、黃岡の人。

武暐

先に、三十一年、台州知事溧水の武暐が倭を釣魚嶺に追い、力戦して死す。上官はこれを上聞せず。その子尚寶が朝廷に訴え、乃ち太僕丞を追贈し、尚寶を國子生として蔭官す。

王德

王德、字は汝修、永嘉の人。嘉靖十七年の進士。戸科給事中を歴任す。定國公徐延德が無極諸縣の閑田を業とせんことを請い、且つ私置の莊田は災傷により賦を免ずべからずと言う。德は抗疏してこれを劾す。俺答が都城を囲むや、屡々軍國の便宜を陳べ、悉く報可と為る。時に城門尽く閉ざされ、避難者入るを得ず、號呼西内に徹す。德以て言い、民始めて入るを得。寇退き、山東に募兵を命ぜられ、得たる者悉く驍勇、諸道の最と為る。還朝し、李默が吏部を長ずるに会い、德の投刺倨なるを怒り、嶺南兵備僉事に出す。巡撫と事を争い、投劾して径ちに帰る。默また吏部に起り、前の憾みを用い、落職閑住と為す。德郷居し、倭乱により、母を奉じて城中に居し、貲を傾けて健兒を募り保障の計と為す。三十七年夏、倭梅頭より至り、大いに掠奪す。德族父はいとともに義兵を督してこれを撃ち、宵遁す。俄かに一舟突き来たりて犯す。沛及び族弟崇堯・崇修殲さる。亡何、倭また至り、大いに掠奪す。德憤怒し、所部を勒して追襲し龍灣に至り、軍敗れ、手ずから射殺すること数人、賊を罵りて死す。然れども倭是より自ら德の郷を越えて郡城を侵すことを敢えざるなり。事聞こえ、太僕少卿を追贈し、世蔭錦衣百戸と為し、祠を立てて湣忠と曰う。

叔沛

沛に太僕丞を追贈し、祠を立て、蔭官を与う。

汪一中

汪一中、字は正叔、歙の人。嘉靖二十三年の進士。開封推官より江西副使を歴任す。四十年、鄰境の賊入寇し、泰和に迫る。一中方に宴し、箸を投げ起ちて曰く、「賊鼓行して西し、我が不備を掩う。早く計らざれば、且つ唯類無からん。豈に飲酒の時ならんや」と。当路遂に討賊をこれに属す。先に、泰和巡檢劉芳力戦して死し、賊怒りて其の屍を磔く。一中至り、諸將吏を率いて祭りて曰く、「爾の職は関を抱くも、猶疆事に死す。吾方面に待罪す。賊を滅さずんば、何を以て生くべし」と。遂に師を誓い、陣を列ねてこれを鼓し、五人を俘え、首を斬りて以て徇す。旦日、陣を前に如くし、賊の至るに会い、左右軍皆潰え、賊悉く中軍に赴く。中軍も亦潰ゆ。一中馬を躍らせて賊鋒に当たり、二人を射殺し、一人を手刃す。而して左脅に槍を二中し、臂に刃を三中し、指揮王應鵬・千戸唐鼎とともに皆死す。妻程は井に投ず。家人これを出だす。喪至り、五日食わずして死す。一中に光祿卿を追贈し、祭葬を給し、忠湣と謚す。妻程も並びに制の如く贈恤す。

蘇夢昜

蘇夢昜、萬曆年間、雲南祿豐知縣と為る。三十五年十二月、武定賊鳳騰霄反し、雲南府城を囲み、転じて禄豐を寇す。夢昜民兵を率いて城を出で力戦し、賊退き去る。明年元旦、方に朝服して祝厘せんとす。賊意表に出でて襲い其の城を陥し、これを執り去り、屈せずして死す。光祿少卿を追贈し、有司祠を建て、一子を録す。

韋宗孝

禄豐の未だ陥ちざる時、賊先ず嵩明州を犯す。吏目韋宗孝出でて禦するも敗れ、合門これに死す。本州同知を追贈し、子を蔭して國學に入らしむ。

龍旌

龍旌は、趙州の人、歳貢生より嵩明州学正となる。賊が城に迫り、捕らえられ、賊を罵って死す。国子博士を贈られる。

張振德

張振徳は、字は季修、昆山の人。祖父の情、従祖父の意は、皆進士。情は福建副使、意は山東副使。振徳は選貢生より四川興文知県に任ぜられる。県はもと九絲蛮の地、万暦初年、始めて土塀数尺を築き、戸数千に満たず。永寧宣撫の奢崇明に異志あり、密かに奸人と結び、子女を掠めて売る。振徳は奸人を捕らえ、配流の刑に処し、掠められた者三百余人を招き還す。崇明は二千金を賄賂として贈るが、振徳は怒ってこれを退け、その文書を引き裂く。

天啓元年、ちょうど成都に赴き郷試の事に与かろうとした時、崇明の部将樊龍が巡撫徐可求を殺し、副使の駱日升・李継周等を殺す。重慶知府の章文炳・巴県知県の段高選は皆節を守って死に、賊はついに重慶を占拠す。時に振徳は長寧を兼ねて署理し、賊よりやや遠く、従者は長寧に走らんとす。振徳曰く「興文を守るは、正しきことなり」と。急ぎ城に入る。長寧主簿の徐大礼は振徳と親しく、騎兵を以て迎えに来るが、振徳はこれを退ける。郷兵を督いて戦うも、敵せず、退いて居民を集めて城を守る。ちょうど大風雨に会い、賊は土城を破って入る。振徳は妻の銭及び二人の娘に命じ、一剣を持たせて後堂に坐らせ、「汝らはここで死せよ、我は前堂で死す」と言う。乃ち二つの印を取って肘の後に結び付け、北に向かって拝し「臣、職を奉ずるに状なく、賊を殺す能わず、惟だ一死を以て志を明らかにす」と言う。妻と娘は先に剣に伏して死す。乃ち家人に命じて火を挙げさせ、火が盛んになるに及び自ら剣に伏す。一門の死者十二人。賊が火の所に至り、振徳の面が生きているが如く、左手に印を結び付け、右手に刀を握り、敵に赴かんとするが如く忿怒しているのを見て、皆驚愕し、羅列して拝して去る。事聞こえ、祭葬を賜い、光禄卿を贈られ、諡して烈湣とす。有司に祠を建てることを命じ、世蔭として錦衣千戸を授く。

劉希文

振徳の死後、興文教諭の劉希文が県事を代わって署理す。僅か半年、賊また城に迫り、死を誓って去らざる。妻の白も慷慨として共に死せんことを願う。城破れ、夫婦賊を罵り、共に死す。

徐大礼

大礼は長寧を守り、城もまた陥落す。大礼曰く「我、張公に背くべからず」と。一家四人、仰薬して死す。重慶同知を贈られ、世蔭として百戸を授く。

章文炳

文炳は、長泰の人。万暦四十一年進士。戸部郎中を歴任し、知府に遷り、治行廉潔、吏民これに愛せらる。賊は既に巡撫可求等を殺し、文炳も賊を罵って殺さる。後その賢を知り、屍を求めて殯し帰す。喪、江上に出づるに、岸を夾みて皆大いに哭す。太僕少卿を贈られ、再び太常卿を贈られ、世蔭として外衛副千戸を授く。

段高選

高選は、雲南剣川県の人。万暦四十七年進士。ちょうど演武場に在り、変を聞き、直ちに吏を遣わして印を官署に帰し、厲声を以て賊を叱す。賊の魁はその下に殺すなかれと戒むるも、高選は罵り声を絶たず、遂に害に遇う。父の汝元、母の劉、側室の徐及び一子一女、変を聞き、皆自尽す。僕は死を冒して主の屍を求め、また害せらる。初め尚宝卿を贈られ、世蔭として百戸を授く。崇禎元年、子の暄、振徳の例に援い、閽を叩き優恤を請う。光禄卿を贈られ、世蔭として錦衣千戸を授け、祠を建てて礼を奉ぜしむ。汝元等もまた旌表を得る。十五年、また諡を以て請う、諡して恭節を賜う。

左重、王碩輔、洪維翰、黄啓鳴、趙愷、馮鳳雛、蘇樸、袁一修、張志譽、宋応臯

時に先後殉難する者、灌県知県の左重は、壮士を率いて賊を成都に追い、力戦して馬蹶き、賊を罵って死す。南溪知県の王碩輔は、城陥落し自尽し、賊これを支解す。桐梓知県の洪維翰は、城陥落し、印を奪われ、屈せずして死す。典史の黄啓鳴もまた死す。郫県訓導の趙愷は、衆を率いて賊を撃ち、刺されて死す。遵義推官の馮鳳雛は、身を挺して賊を禦ぎ、創を受けて死す。遵義司獄の蘇樸・威遠經歷の袁一修は、義賊に汚されず、城より墜ちて死す。大足主簿の張志譽・典史の宋応臯は、兵を集めて奮戦し、力尽きて死す。所司その状を上る。重・碩輔・維翰に尚宝卿を贈り、世蔭として千戸を授く。啓鳴には重慶通判を、愷には重慶同知を贈り、俱に世蔭として試百戸を授く。崇禎十二年、重の子の廷臯、高選の例に援い恩を乞う。命ありてその請いの如くす。

崇明父子が永寧を占拠すると、貴陽同知の嘉興人王昌胤が永寧衛の事務を分掌していたが、難に殉じた。僉事を追贈され、祭礼を賜った。崇禎初年、その子の監生世駿が言上した。「賊が永寧を占拠した時、臣の父は血を刺して三通の啓を草し、印綬を上官に納め、翌年五月に再拝して自縊しました。賊はこれを恨み、その屍を焼きました。二人の孫、一人の孫娘、および僕婢十三人が同日に害されました。どうか張振德の例のごとく、手厚く恩恤の典を加えられますよう」。許可された。

董盡倫

董盡倫、字は明吾、合州の人。萬曆年中に郷挙に及第し、清水知県に任じられ、安定に転じ、いずれも善政があった。任期満了の際、安定の民が朝廷に赴き留任を奏請し、詔により鞏昌同知を加官され、なお県事を管掌した。久しくして、同知として甘州の軍糧を管理し、職を解かれて帰郷した。天啓初年、奢崇明が反乱を起こし、兵を率いて城に迫った。盡倫は知州の翁登彦とともに固守した。賊は使者を遣わして降伏を勧めたが、盡倫は大いに怒り、自ら賊の使者を斬り、その目玉を抉り出して食らい、たびたび賊の鋒を挫き、城は全きを得た。さらに兵を率いて銅梁を救援し功績があり、まもなく檄を受けて重慶を攻撃したが、孤軍深入し、伏兵が四方から起こり、ついに戦死した。光禄少卿を追贈され、世襲の百戸の蔭官を賜り、祠を建てて祀られた。まもなく蔭官を指揮僉事に改めた。崇禎初年、城を全うした功績を論じ、蔭官を錦衣千戸に改めた。

李忠臣、高光、胡縝、聶繩昌、吳長齢、胡一夔

この時、郷里に居た士大夫で節を守って死んだ者に、李忠臣がいる。永寧の人で、松潘参政の官にあった。家に居て、賊に陥落された。死士を募り、密かに総兵官楊愈懋と約し、大軍を以て城に迫らせ、自らは内応となった。事が洩れ、一家揃って害された。高光は瀘州の人で、かつて応天通判を務めた。城が陥落すると、髪を剃って僧となり、子の在昆とともに壮士を募り、賊百余りを殺した。賊は怒り、大葉坎まで追撃し、光は賊を罵って屈せず、家族十二人とともに死んだ。胡縝は永寧の挙人である。あらかじめ崇明が必ず反乱すると策し、当局に上書したが、受け入れられなかった。賊が起こり、捕らえられ、厳刑に処され獄中に繋がれた。弟の緯が家財を傾けて救い出し、そこで義兵を糾合し、密かに賊将の張令らと結び、その偽の宰相を捕らえた。隊列を整え、自ら一翼を担当し、たびたび首級を斬り、賊は大いに畏れた。やがて火薬で焼死した。聶繩昌は富順の挙人である。家財を投じて義勇を募り賊を防ぎ、戦死した。吳長齢は瀘州の監生である。兵を率いて瀘州を回復したが、まもなく伏兵に遭い、父子ともに戦死した。胡一夔は興文の人である。龍陽県丞に仕え、捕らえられ、屈せずに死んだ。皆、恩恤を与えられなかった。

龔萬祿 李世勛

龔萬祿は貴州の人である。書物を知らずとも、胆力と志があり、膂力は人に優れていた。劉綎に従って楊応龍を征伐し、先鋒として海龍囤に登り、守備を代行し、建武所に駐屯した。奢崇明が反乱すると、衆は萬祿を遊撃将軍に推し、兵事を主管させた。指揮の李世勛は、名位は萬祿より先であったが、やはりその指揮を受け、力を合わせて固守した。崇明が成都を犯そうと謀ったが、萬祿が背後を牽制するのを憚り、部将の張令を遣わして降伏を勧めた。令は萬祿と結び、崇明を欺いて降伏すると偽った。崇明は果たして他の将を遣わして守備させたが、萬祿はこれを脅して降伏させ、誘き出して数え切れぬほど殺した。さらに微服で叙州に走り、副使の徐如珂に説いて言った。「賊の精鋭騎兵は成都に集結し、旧巣に留まっている者は全て老弱です。誠に萬祿に一万人を貸し与えてその巣窟を衝かせれば、彼らは必ず還って救援し、成都の包囲はたちまち解けるでしょう」。如珂はその計略を奇としたが、用いることができなかった。まもなく、賊は全軍を挙げて建武を攻め、萬祿は十里外で邀撃したが、兵が少なく敗れて戻り、城はついに陥落した。世勛は衣冠を整え再拝し、家族を率いて自焼死した。萬祿は自ら二人の妾と二人の孫を斬り、自刎したが死に切れず、そこで槊を握って駆け出し、大声で叫んだ。「我は龔萬祿なり、我を追う者があるか!」賊は顔を見合わせて敢えて迫らなかった。叙州に走り、巡撫の朱燮元に援軍を乞い、そこで兵を以て建武を回復した。官軍が江門で敗れた時、賊が四方から攻め寄せ、萬祿は三日間力戦し、自ら数十人を斬り、子の崇学とともに死んだ。詔して都督ととく僉事を追贈し、祠を建て祭礼を賜い、世襲の百戸の蔭官を賜った。

翟英、韓応泰、郁聯若、張羽

この時、成都衛指揮の翟英が賊を龍泉駅で扼し、成都後衛指揮の韓応泰は成都救援に赴き、賊と草堂寺で遭遇し、小河所鎮撫の郁聯若は城西で賊と激戦し、茂州百戸の張羽は郫県を救援し、皆力戦して死んだ。

管良相

管良相は、烏撒衛指揮であり、人となり慷慨として奇節を負っていた。天啓初年、樊龍らが四川で反乱すると、巡撫の李枟が麾下に召し寄せ、軍事を籌謀させた。良相は安邦彦が必ず反乱すると策し、枟を補佐して固守の計を立てた。まもなく祖母の病気のため、帰省を乞い、泣いて枟に語った。「烏撒は孤城で、水西に近く、かつ安効良と仇敵の間柄です。水西に変事があれば、禍は必ずまず及ぶでしょう。良相には子がおりません。願わくは死をもって国に報いん。どうか長策を立て、この一方を保たれますよう」。一月余りして、邦彦は果たして反乱し、その城を包囲したが、良相は固守して陥落させなかった。久しくして、外援が至らず、城は陥落し、自縊死した。

李応期、朱運泰、蔣邦俊、王明重、丘述堯、金紹勛、簡登、劉臯、臯の子景、劉三畏

同官の李応期、朱運泰、蔣邦俊もまた害に遇った。この時、普定衛の王明重、威清衛の丘述堯、平壩衛の金紹勛、坎陽把総の簡登、龍里の故守備劉臯、臯の子の景がともに難に殉じ、また訓導の劉三畏は、賊が来ても避けず、兀坐して書斎の中にあり、殺害され、人々は「龍里の三劉」と称した。

徐朝綱

徐朝綱は、雲南晉寧の人。萬曆二十八年に郷挙に及第した。天啓元年、安順推官に任じられ、着任するとすぐに府事を代行した。翌年、安邦彦が反乱し、来攻して城を囲んだ。朝綱は兵民を督率して共に守った。士官の温如璋らが門を開いて迎え入れると、朝綱は奮い立って督戦したが、賊に捕らえられ、降伏を迫られたが屈しなかった。その印を要求されると、罵って言った。「死せる賊奴め、我が頭は断たれようとも、印は得られぬ!」賊は怒り、刀斧を交えて下し殺した。その妻はこれを聞き、楼に登って自縊した。長男の妻は急いで火を挙げて家屋を焼き、十歳の娘を連れて烈焰の中に躍り込んで死んだ。孫の応魁は十六歳で、矛を執って包囲を突破し城を出て祖父を探し求め、賊に遇って殺された。婢僕で従死した者は十一人であった。

五年正月、殉難した諸臣を恤み、朝綱を光禄少卿に贈り、子を国子監に入れる蔭を授けた。子の天鳳は進士に及第したばかりで、すぐに喪に服すため帰郷し、喪が明けると戸部主事に任じられた。上疏して言うには、「臣の家は一門、臣は忠に死し、妻は節に死し、嫁は姑に死し、孫は祖に死し、婢僕は主に死しました。これはこれまでにない節烈でございます。どうか張振德の例のように、さらに優れた恤みを加えられますよう。臣の母、臣の嫂も、ともに旌表されますように」。帝は深くこれを嘉し、再び光禄卿を贈り、蔭を改めて錦衣衛の世襲千戸とし、祭葬を賜い、祠を立て坊を建て、諸々の従死者を皆附祀させた。

同時に殉難した者は、

楊以成、

楊以成は、雲南路南の人である。万暦年間、貢生から貴陽通判に任じられ、畢節衛の事務を管轄した。任期が満ちて同知に進み、なおも畢節を治めた。安邦彦が貴陽を包囲すると、以成は蠟書を作って雲南巡撫沈儆炌に救援を求めた。書を発したが賊はすでに至り、戦ってこれを退けた。賊がますます多く来ると、以成は吏に印を持たせて間道より省城へ向かわせ、自らは吏民を督して守りを固めた。ちょうど援兵が到着し、賊が夜逃げしようとした時、衛の吏である阮世爵が内応し、城はついに陥落した。以成は慌てて首をくくろうとしたが、賊がこれを捕らえて連れ去った。そこで賊中の情況を述べた書を作り、竹筒の中に置き、弟の以恭をして雲南に赴かせて変事を告げさせたが、散納溪に至り、賊がその書を捜し出し、以成とともにこれを殺した。死者は家族十三人であった。按察僉事を贈られ、葬儀を賜った。

鄭鼎、

鄭鼎は、字を爾調といい、龍溪の人である。郷挙により広順知州となった。安邦彦が必ず反乱を起こすと策し、当局に上書して状況を述べた。州にはもとより城がなかったので、民を督して柵を立て土で固めた。まもなく邦彦は果たして反乱を起こし、攻めて来たので、鼎は死を誓って固く守った。ある者が賊の勢いが盛んであるから、定番に逃げるべきだと言った。鼎は言った、「私はこの土地を守る吏である。義として城と存亡を共にすべきだ」。賊が入ると、士官の金燦とともに堂上に端座し、ともに賊に殺された。婢僕で従死した者は六人であった。吏目の胡士統は捕らえられ、また屈せずに死んだ。巡撫李枟が朝廷に上奏し、僉事を贈り、祭を賜った。崇禎元年、以成の子で挙人の興南と、鼎の子で挙人の昆禎がともに朝綱の例に援けて、加恤を請い、ともに光禄卿を贈られ、世襲で錦衣千戸の蔭を受け、祭葬を賜い、役人が祠を立て坊を建て、以恭もまた附祀された。昆禎は後に進士に挙げられ、御史、尚宝卿を歴任した。

孫克恕、

時に孫克恕という者がいた。字は推之、馬平の人である。郷挙に挙げられ、貴州副使に至り、思石道を分巡した。賊を防ぎ戦死したところ、虎がその骸を守って去らず、蛮人は嗟嘆して異とした。事が聞こえ、太僕卿を贈られ、祭葬を賜った。

姫文胤、

姫文胤は、字を士昌といい、華州の人である。郷挙に挙げられた。天啓二年に滕県知県に任じられた。職務についてわずか三日目、白蓮賊の徐鴻儒が城に迫り、民の十中九は乱に従った。文胤は徒歩で叫び、吏卒を駆り立てて城壁に登らせたが、三百に満たず、賊を見るとすぐに逃げ、残った者はわずか数十人であった。どうして賊に従うのかと問うと、言うには、「禍は董二による」と。董二とは、もと延綏巡撫董国光の子で、郷里にいて貪暴であり、民は生活に困窮していたので、賊に従ったのである。文胤は城壁にもたれて諭して言った、「良民は董二の故に、やむを得ず賊に従ったのだ。私は二を捕らえて法に置き、汝らのために憤りを雪ごう。よろしいか」。文胤は身長が高く赤い顔で、鬚髯が戟のように逆立ち、賊はこれを見て神人のごとく驚き、皆歓呼して羅列して拝した。やがて西隅から矢が放たれ、二賊を斃した。これを見ると、延綏の沙柳の竿であった。賊は文胤が自分たちを欺いたと思い、大いに憤り、肉薄して城に登り、衆は悉く潰走した。文胤は緋衣を着て堂上に坐し、歯を噛みしめて賊を罵った。賊が前に進み、冠服を引き裂き、枷をはめて捕らえたが、罵って屈しなかった。三日後、密かに印を解き、小吏の魏顕照と家僮の李守務に渡し、北に向かって宮廷を拝し、ついに自縊した。賊は顕照を鞭打って印を求め、顕照は密かにその父に授け、守務とともに賊を罵り、ともに死んだ。事が聞こえ、太僕少卿を贈られ、祠を立てて祭祀し、一子を録用し、顕照と守務の家を優遇して恤んだ。董二は城を越えて逃げ去った。

孟承光、

時に賊が鄒県を陥落させ、博士の孟承光が捕らえられ、罵って屈せずに死んだ。尚宝少卿を贈られ、世襲で錦衣千戸の蔭を受けた。承光は、字を永観といい、亜聖(孟子)の子孫で、世襲の『五経』博士であった。

朱万年、

朱万年は、黎平の人である。万暦年間、郷挙に挙げられた。萊州知府を歴任し、恵みある政績があった。崇禎五年、叛将の李九成らが登州を陥落させ、衆を率いて来犯した。万年は吏民を率いて固く守った。時に山東巡撫徐従治と登萊巡撫謝璉がともに城中におり、包囲され、数ヶ月堅守したが、従治は砲撃を受けて死んだ。賊は偽って降伏を乞い、璉が万年を率いて受けに行き、捕らえられた。万年は言った、「私を捕らえても益はない。どうして精騎を私に従わせ、守備者を呼び出して降伏させようか」。賊は精騎五百を以て万年を擁して城下に至らせると、万年は大声で呼んで言った、「私は捕らえられた。誓って必ず死ぬ。賊の精鋭は尽くここにいる。急いで砲を撃て。私のことを思うな」。守将の楊禦蕃は忍びず、万年はまた足を踏み鳴らして大声で叫んだ。賊は怒ってこれを殺した。城上の人は万年がすでに死んだのを見て、ついに砲を発し、賊の死者は過半に及んだ。事が聞こえ、太常卿を贈られ、祭葬を賜い、役人が祠を建て、一子に官を授けた。

秦三輔、王協中、呉世揚、張国輔、張奇功、熊奮渭、陳所聞

初め、賊が新城を掠めた時、知県秦三輔と訓導王協中がこれを防ぎ、共に死した。黄県を陥落させた時、知県呉世揚は賊を罵って死し、県丞張国輔・参将張奇功・守備熊奮渭は皆力戦して死した。平度を陥落させた時、知州陳所聞は自縊して死した。三輔と世揚は光禄少卿を追贈され、所聞は太僕少卿を追贈され、共に祭葬を賜り、祠が建てられ、子に蔭官が与えられた。協中・国輔・奇功もまた差等に応じて贈恤された。三輔は三原の人。世揚は洛陽の人。所聞は畿輔の人。皆乙榜より起家した。

張瑤

張瑤は蓬莱の人。天啓五年の進士。開封府推官に任じられ、請託を絶ち、豪強を抑え、吏民は神の如く畏れた。崇禎四年に行取されて都に入り、吏科の宋鳴梧が力を尽くして宋玫を給事に援けようとし、瑤を抑えて府同知に任じた。瑤は怒り、上疏して玫の賄賂贈与の様子を摘発した。吏部尚書閔洪学は瑤が贈り物をして奔走競争したと弾劾し、鳴梧がさらに極論したため、河州判官に左遷され、赴任しなかった。翌年正月、李九成らが登州に迫ると、瑤は家族を率いて城壁に登り防戦守備した。城が陥落し、瑤はなお石を振るって奮撃した。賊が押し寄せて彼を捕らえると、大罵して屈せず、殺害された。妻と女四人は共に井戸に投身して死んだ。光禄少卿を追贈された。

王與夔・張儼然・張聯臺・蔣時行

先に、賊が新城を陥落させた時、挙人王與夔・張儼然がこれに死した。他の県を陥落させた時には、貢生張聯臺・蔣時行もまたこれに死した。皆定例に阻まれて、顕彰されなかった。礼部侍郎陳子壮が上言した。「挙人・貢生が難に死しても、恤典がないのは旧制である。しかし名が既に天府に登録されていながら、恩が流官にのみ後れるのは、九泉の下で怨み痛むことがないだろうか。近ごろ、武挙の李調が賊を防いで身を捐てたが、既に贈恤を蒙っている。武途がこのようであるのに、文儒がどうして独り遺漏されようか。乞う、量りに一官を贈り、永く定制と為さんことを。」これを許可した。そこで輿夔・儼然に宛平知県を、聯臺・時行に順天府教授を追贈した。その後地方で難に死した者、挙人李讓・呉之秀・賈煜・張慶雲、貢生張茂貞・張茂恂などは、皆前述の制の如く官を贈られた。

何天衢

何天衢は字を升宇といい、阿迷州の人。勇略があり、土酋普名声がこれを招いて頭目とし、三郷に駐屯させた。崇禎三年、名声が反逆し、三路の兵を出して昆明で会戦することを謀った。天衢に維摩羅平より入るよう命じ、砲手三百人を助けさせた。天衢は慨然として言った。「これ大丈夫の国に報いる秋なり、吾豈に逆賊のために用いられんや!」数十人の砲手を坑殺し、衆を率いて帰順し、維摩州同知代理の李嗣泌が城を開いてこれを迎え入れた。名声は既に弥勒を陥落させていたが、これを聞いて大いに懼れ、急いで両路の兵を撤収させた。巡撫王伉がその事績を上奏し、守備に任じられた。後、数度嗣泌と共に進剿して功があった。名声が死ぬと、妻の万氏が代わってその衆を率い、屡々天衢を攻撃した。天衢は屡々これを挫き、功績を記録されて参将に進んだ。十三年に副総兵に抜擢された。万氏が沙定洲を婿に迎えると、さらに南安の兵を加え、かつ黔国公の側近に厚く賄賂を贈り、天衢を誹謗させた。天衢が兵糧を請うても皆応じず、賊が全力でこれを攻撃し、食糧が尽き、挙家自焚して死んだ。

楊於陛

初め、名声の乱の時、楊於陛という者がいた。剣州の人。郷挙に挙げられた。武定府同知を歴任した。巡撫伉が監紀軍事を命じ、兵敗れて捕らえられ、これに死した。太僕少卿を追贈され、祠を建てて精忠と号した。