◎忠義一
古より忠臣義士、国に身を捐て、節義は一時に輝き、名は百世に垂る。歴代以来、極めて表章を備え、尚お已む。明の太祖は江左に創業し、まず余闕・福壽を褒めて、忠義の気を起こさしむ。従龍の将士に至りては、或いは功未だ成らずして身死する者あり、豫章・康郎山の両廟及び溪籠山の功臣廟に祀る諸人の如き、爵を公侯に贈り、血食俎豆し、太廟に侑享し、子孫を恤錄す。精忠を褒厲し、義烈を激揚する所以のもの、意遠きに至る。建文の変、群臣膏鼎鑊を憚らず、姻族を赤くして、成祖の威稜に抗す。『表忠』一録は伝疑より出づと雖も、亦た以て人心天性の泯びざるを知るに足れり。仁宣以降、重熙累洽、二百餘載を垂る。中間、交阯の征、土木の変、宸濠の叛、及び神・熹の両朝、辺陲多故、身を沈め難に殉ずる者、未だ易く僕数を更えず。而して司勛褒恤の典、悉く優厚に従ふ。或いは所司奏を失ひ、後人自ら陳請を得。故に節烈の績、咸く時に顯暴するを得たり。迨ふに莊烈の朝、運陽九に丁り、時に内外諸臣、或いは首を封疆に隕し、或いは命を闕下に致し、死に蹈ること帰るが如き者尤も衆し。今、明一代の死義死事の臣を就き、博く旁に採り搜し、左の如く匯次す。同死者は、各事に因り附見す。其の事実繁多及び国家興亡の繫る所、或いは他傳に連属し、本末始めて著はるるもの、並びに直諫死忠、疏草人口に傳誦するものは、概ね前帙に具ふ。若し忠を勝国に抒き、命を興朝に抗するは、前史に稽へば、例を得て並び書く。我が太祖・太宗、忠厚を以て基を開き、名教を扶植し、張銓の義を守るを獎し、張春を釋して礼を加ふ。洪量天地に同じく、大義日月に懸る。国史の載する所、丹青の若く煥たり。諸臣の志を遂げ仁を成す、斯れ忝かざる無きなり。故に備へて列す。
○花雲(朱文遜・許瑗等) 王愷 孫炎(王道同・朱文剛) 牟魯(裴源・朱顯忠・王均諒等) 王綱(子彦達) 王禕(呉雲) 熊鼎 易紹宗 琴彭(陳汝石等) 皇甫斌(子弼・呉貴等) 張瑛(熊尚初等) 王禎 萬琛(王祐) 周憲(子幹) 楊忠(李睿等) 呉景(王源・馮傑・孫璽等) 霍恩(段豸・張汝舟等) 孫燧 許逵 黄宏(馬思聰) 宋以方(萬木・鄭山・趙楠等)
方に戦急なるや、雲の妻郜、家廟に祭り、三歳の児を挈き、泣きて家人に語りて曰く、「城破れれば、吾が夫必ず死せん。吾れ義独り存るべからず。然れども花氏をして後無からしむべからず。若等善く之を撫せよ」と。雲執はるるや、郜水に赴きて死す。侍兒孫、瘞ひ畢り、児を抱きて行く。掠はれて九江に至る。孫夜漁家に投じ、簪珥を脱ぎて属め之を養はしむ。漢兵敗るるに及び、孫復た児を竊み走り江を渡る。僨軍に遇ひ舟を奪はれて江中に棄てらる。断木に浮き葦洲に入り、蓮実を采りて児に哺ひ、七日死せず。夜半、老父雷老有りて之を挈きて行く。年を踰へて太祖の所に達す。孫児を抱きて拝泣す。太祖も亦た泣き、児を膝上に置きて曰く、「将種なり」と。雷老に衣を賜ふ。忽ち見えず。児に名を煒と賜ひ、累官して水軍衛指揮僉事に至る。其の五世孫、遼の復州衛指揮と為り、世宗に請ひて、郜を貞烈夫人と贈り、孫を安人とし、祠を立てて祭を致す。
時に劉齊と云ふ者有り、江西行省参政を以て吉安を守る。守将李明道門を開きて友諒の兵を納れ、参政曾萬中・陳海を殺し、齊及び知府宋叔華を執り、脅して降らしむ。皆屈せず。又た臨安を破り、同知趙天麟を執る。亦た屈せず。並びに友諒の所に送る。友諒方に洪都を攻め、三人を殺して城下に徇す。及び無為州を陷るるに、知州董曾を執る。曾抗罵して屈せず、之を江に沈む。
王愷は字を用和といい、当塗の人である。経史に通じ、元の府吏となった。太祖が太平を攻め落とすと召されて掾となり、京口を下すのに従い、新たに帰附した民を撫定した。中書省が建てられると、都事に用いられた。杭州の苗軍数万が降伏し、厳州の境で命令を待っていた。愷は馳せ往って諭し、その帥とともに至った。太祖が衢州を克つと、軍民の事を総制するよう命じた。愷は城を増築し濠を浚い、遊撃軍を置き、丁壮を籍に取り、一万余人を得た。常遇春が金華に兵を屯すと、部将が民を擾したので、愷はこれを械にかけて市で鞭打った。遇春が愷を責めると、愷は「民は国の本なり。一部将を鞭打って民が安んずるは、将軍の喜んで聞くところなり」と言った。遇春はそこで愷に謝した。時に飢饉と疫病が相次ぎ、愷は倉の粟を出し、恵済局を修復して、全活すること数知れず。学校が毀損し、衢州にある孔子の家廟とともに、これを新たにした。博士弟子員を設けると、士はこぞって喜び服した。開化の馬宣・江山の楊明がともに乱を起こしたが、先後して討ちこれを擒らえた。左司郎中に遷り、胡大海を補佐して省事を治めた。苗軍が乱を起こし、大海を害した。その帥は多く愷に恩義を感じ、彼を擁して西へ行こうとした。愷は厳しい顔色で「吾は土を守る者、議すべきは死すべきのみ。寧ろ賊に従わんや」と言い、遂にその子の行とともに殺された。年四十六。
愷は謀断に優れ、かつて事を上申して聞き入れられず、退いて戸外に立ち、暮れになっても去らなかった。太祖が出てきて怪しんで問うと、愷は初めの通り諫言し、ついにその議に従った。後に奉直大夫・飛騎尉を追贈され、当塗県男を追封された。
孫炎は字を伯融といい、句容の人である。顔色は鉄の如く、一足が不自由であった。談弁は風を生じ、大いに経世済民の才を自負した。丁復・夏煜と交わり、詩名があった。太祖が集慶を下すと召見され、賢豪を招いて大業を成すよう請うた。時に行中書省が建てられると、首掾に用いられた。浙東征伐に従い、池州同知を授けられ、華陽知府に進み、行省都事に抜擢された。処州を克つと総制を授かった。太祖が劉基・章溢・葉琛らを招くよう命じたが、基は出なかった。炎は使者を再び往かせると、基は宝剣を贈った。炎は詩を作り、剣は天子に献ずべきもので、命に従わぬ者を斬るものであり、人臣として私すべきではないとして、封をして返した。基に数千言の書を送ると、基は初めて会見に赴き、建康に送られた。時に城外は皆賊であり、城を守る兵は一人もいなかった。苗軍が乱を起こし、院判耿再成を殺し、炎及び知府王道同・元帥朱文剛を捕らえ、空室に幽閉し、降伏を脅したが、屈しなかった。賊帥の賀仁德が雁を焼き酒を酌んで炎に食べさせると、炎は飲みながら罵った。賊は怒り、刀を抜いて衣を脱げと叱った。炎は「これは紫綺の裘、主上の賜わりしもの、吾はこれを服して死すべし」と言い、遂に道同・文剛とともに害された。時に年四十。丹陽県男を追贈され、再成の祠に像を建てた。
道同は、中書省宣使より処州におり、太原郡侯を追贈された。
文剛は、太祖の養子で、小字を柴舍といった。変が起こり、再成と兵を集めて賊を殺そうとしたが、及ばず、遂に難に遭った。鎮国将軍を追贈され、功臣廟に附祭された。
また白謙・裴源・朱顯忠・王均諒・王名善・黄裏・顧師勝・陳敬・呉得・井孚の類があった。
謙は婺源知州であった。信州の盗賊蕭明が来寇し、謙は力及ばず防禦できず、印を懐いて北門を出、水に赴いて死んだ。
顯忠は如臯の人である。張士誠の将となり、来降した。指揮僉事として鄧愈に従い河州を下し、吐番に至った。傅友德に従い文州を克ち、遂にこれを守った。洪武四年、蜀の将丁世珍が番を召し数万で来攻した。食尽き援なく、或いは走って避けるよう勧めたが、顯忠は叱って聞かなかった。攻撃は益々急となり、創を包んで力戦したが、城は破られ、乱兵に殺された。均諒は時に千戸であり、捕らえられて屈せず、磔にされて死んだ。事が聞こえ、贈恤に差等があった。
名善は義烏の人で、高州通判であった。海寇の何均善がかつて誅戮され、洪武四年にその党の羅子仁が衆を率いて潜かに城に入り、名善を捕らえ、屈せず死んだ。
裏は雲内州同知であった。洪武五年秋、蒙古兵が突如として城に入った。裏は兵を率いて戦い、これに死した。
敬は増城の人である。洪武十四年に賢良に挙げられ、曲靖府經歷となり、剣川州の事を署理した。隣の寇が来攻し、敬はこれを防禦した。官兵が寡なく、退かんとしたが、敬は目を瞋らして大呼し、力戦して死んだ。命じてその家を恤った。
得は全椒の人で、龍裏守禦所千戸であった。洪武三十年、古州上婆洞の蛮が乱を起こし、得は鎮守将の井孚とともに城を守った。賊が門を焼き急攻し、二人は門を開いて奮撃したが、得は毒弩に中たって死に、孚は戦死した。得に指揮僉事を、孚に正千戸を追贈し、子孫世襲させた。
王綱、字は性常、余姚の人。文武の才あり。劉基と親しくし、常に語りて曰く、「老夫は山林を楽しむ、異時に志を得ば、世縁を以て我を累わす勿れ」と。洪武四年、基の推薦によりて京師に征召され、年七十、歯髪神色は少壮の如し。太祖これを異とし、治道を以て策問し、兵部郎に抜擢す。潮民靖まらず、広東参議を除し、兵糧を督し、嘆いて曰く、「吾が命は此に尽きん」と。書を以て家人に訣別し、子の彦達を携えて行き、単舸にて往きて諭す。潮民叩頭して服罪す。還りて増城に至り、海寇曹真に遇い、舟を遮り羅拝し、願わくは帥と為らんとす。綱、禍福を以て諭すも従わず、則ち奮いて罵る。賊之を舁ぎ去り、壇を為りて綱を坐らせ、日に拝請す。綱罵声絶えず、遂に害に遇う。彦達年十六、賊を罵りて死を求め、併せて殺さんとす。其の酋曰く、「父は忠、子は孝、之を殺すは不祥なり」と。之に食を与うるも顧みず、羊革を綴りて父の屍を裹みて出でしむ。御史郭純以て聞く、詔して廟を死所に立てしむ。彦達蔭にて官を得、父を痛み、終身仕えず。
王禕、字は子充、義烏の人。幼くして敏慧、長ずるに及び、身長く岳の如く立ち、屹然として偉度あり。柳貫・黄溍に師事し、遂に文章を以て世に名を知らしむ。元政の衰敝を睹て、書七八千言を為りて時宰に上る。危素・張起巖並びに推薦すも、報いず。青巖山に隠れ、著書し、名日盛んなり。太祖婺州を取る、召見し、用いて中書省掾史と為す。江西を征し、禕頌を献ず。太祖喜びて曰く、「江南に二儒あり、卿と宋濂のみ。学問の博さは、卿は濂に如かず。才思の雄は、濂は卿に如かず」と。太祖礼賢館を創し、李文忠禕及び許元・王天錫を薦め、召して館中に置く。旋って江南儒学提挙司校理を授け、累遷して侍礼郎、起居注を掌る。南康府事を同知し、恵政多く、金帯を賜いて之を寵す。太祖即位せんとす、召還し、礼を議す。事に坐して旨に忤い、出でて漳州府通判と為る。
五年正月、雲南を招諭するを議し、命じて禕に詔を齎して往かしむ。至れば則ち梁王を諭し、亟に版図を奉じて職方に帰すべく、然らずば天討旦夕に至らんと。王聴かず、別室に館す。他日、又諭して曰く、「朝廷雲南百万の生霊を以て、鋒刃に殲されるを欲せず。若し険遠を恃み、明命に抗わば、龍驤鹢艫、会戦昆明にて、悔ゆるも及ばざらん」と。梁王駭服し、即ち館を改む。会に元脱脱を遣わして餉を征し、危言を以て王を脅し、必ず禕を殺さんとす。王已むを得ず禕を出だして之に見えしむ。脱脱禕を屈せんと欲す。禕叱して曰く、「天既に汝が元の命を訖え、我が朝実に之に代わる。汝爝火の余燼、敢えて日月と明を争わんや。且つ我と汝皆使なり、豈に汝が為に屈せんや」と。或る人脱脱に勧めて曰く、「王公素より重名を負う、害す可からず」と。脱脱臂を攘ぎて曰く、「今孔聖と雖も、義にて存するを得ず」と。禕顧みて王に曰く、「汝我を殺せば、天兵継ぎて至らん、汝の禍踵を旋らすに及ばず」と。遂に害に遇う、時に十二月二十四日なり。梁王使を遣わして祭を致し、衣冠を具えて之を斂む。建文中、禕の子紳禕の事を訟う、詔して翰林学士を贈り、諡して文節と曰う。正統中、諡を改めて忠文とす。成化中、命じて祠を建てて之を祀らしむ。
紳、字は仲繕。禕の死する時、年十三、兄の綬に鞠く、母兄に事えて孝友を尽くす。長じて博学、宋濂に受業す。濂之を器として曰く、「吾が友亡びず」と。蜀献王紳を聘い、客礼を以て待つ。紳王に啓して雲南に往き父の遺骸を求め、獲ざれば即ち死所に致祭し、『滇南慟哭記』を述べて以て帰る。建文帝の時、推薦を用いて召し国子博士と為し、『太祖実録』を修するに預かり、『大明鐃歌鼓吹曲』十二章を献ず。方孝孺と友善し、官に卒す。
子の汶、字は允達。成化十四年進士。中書舎人を授かる。病を謝して帰り、斉山の下に読書す。弘治初、言者交々に推薦し、検討陳献章と同召す、未だ京に抵らずして卒す。
雲の子黻、朝廷に雲の事を上る。詔して伝を馳せて返葬せしめ、黻を以て国子生と為す。弘治四年五月、雲に刑部尚書を贈り、諡して忠節と曰い、禕と並び祠し、祠の額を改めて二忠と曰う。
熊鼎、字は伯潁、臨川の人。元末郷に挙げられ、龍渓書院に長ず。江西寇乱し、鼎郷兵を結びて自ら守る。陳友諒屡々之を脅すも応ぜず。鄧愈江西を鎮め、数え延見し、其の才を奇とし、之を薦む。太祖之に官せんと欲すも、親老を以て辞し、乃ち愈の幕府に留めて軍事を賛せしむ。母喪除き、京師に召し至り、徳清県丞を授く。松江の民銭鶴臯反す、隣郡大いに驚く、鼎静を以て之を鎮む。
八年、西部の朶児只班が部落を率いて内附し、熊鼎を岐寧衛経歴に改めた。到着後、賊が偽って降ったことを知り、密かに上疏してこれを論じた。帝は使者を遣わして慰労し、裘帽を賜い、また中使の趙成を遣わして鼎を召した。鼎が既に出発した後、賊は果たして叛き、鼎を脅して北還させようとした。鼎は大義を以て責め、罵ったので、遂に成及び知事の杜寅とともに殺害された。帝は聞き、悼み惜しみ、黄羊川に葬ることを命じ、祠を立て、その食んでいた俸給をその家に給した。
時に交阯の人陳汝石・朱多蒲・陶季容・陳汀もまた皆、忠節をもって顕著であった。汝石は初め陳氏の小校であり、大軍が南征すると、率先して帰附し、功を積んで都指揮僉事に至った。永楽十七年、四忙の士官車綿子等が叛いた。汝石は方政に従ってこれを討ち、賊陣に深く入り、流れ矢に中って馬から墜ち、千戸の朱多蒲とともに死んだ。多蒲もまた交阯の人である。事が聞こえ、行人が遣わされて祭を賜い、その家に賻を与え、官が冢を設けた。
皇甫斌は、寿州の人である。先に興州右屯衛指揮同知となり、才能により遼海衛に転じた。忠勇にして智略あり、警報に遇えば、常に士卒に先んじた。宣徳五年十月、兵を率いて寇を防ぎ、密城東峪に至り、旦より晡に至るまで力戦し、矢尽き援絶え、子の弼が身をもって父を衛い、ともに戦死した。千戸の呉貴、百戸の呉襄・毛観もまた驍勇で、出れば必ず先鋒を衝き、この時に至って皆死んだ。斌等は死んだが、殺傷は過当で、寇もまた引き退いた。事が聞こえ、詔して有司に褒賞と撫恤を行わせた。
張瑛は、字を彦華といい、浙江建徳の人である。永楽年間、郷挙に挙げられ、刑部員外郎を歴任した。正統の時、建寧知府に抜擢された。鄧茂七が乱を起こし、賊二千余が城に迫って砦を結び、四方に出て掠奪した。瑛は建安典史の鄭烈を率いて都指揮徐信の軍と会し、三路に分かれてこれを襲い、五百余の首を斬り、遂にその砦を抜いた。右参議に進み、引き続き知府の事務を管轄した。烈もまた主簿に遷った。茂七が誅された後、その党の林拾得等が転じて城下を掠め、瑛は従父の敬とこれを防いだ。賊は敗れ、勝に乗じて北を逐うたが、伏兵の中に陥り、敬は死に、瑛は捕らえられ、大罵して屈せず死んだ。詔して福建按察使を追贈し、祭を賜い、その子に官を与えた。弘治年間、建寧知府の劉玙が朝廷に請い、祠を立てて祭を行った。
時に泉州守の熊尚初もまた賊を拒いで捕らえられ死んだ。尚初は、南昌の人である。初め吏となり、才能により都察院都事に抜擢され、進んで経歴となった。正統年間、都御史陳鎰の推薦により、泉州知府に抜擢された。盗賊が起こり、上官が檄を飛ばして尚初に監軍を命じ、十日と経たずに賊数百を降した。やがて賊が城下に迫り、守将は防ごうとしなかった。尚初は憤り、民兵数百を率い、晋江主簿の史孟常・陰陽訓術の楊仕弘と分統し、古陵坡で拒んだ。兵敗れ、皆害に遇った。郡人はこれを哀しみ、忠臣廟に配享した。
死んだ場所から府まで三百余里、乗っていた馬が駆け戻り、血が淋漓とし、毛は尽く赤かった。衆は初めて禎の敗れたことを知り、屍を捜しに行くと、顔は生きているようであった。子の広が馬を売って帰りの資金としようとしたが、王同知は馬を得て代価を払わなかった。棺が既に出発すると、馬は夜半に哀鳴した。同知が起きてこれを見ると、馬は急に前に進んで首筋を噛み、その胸を突き、翌日血を吐いて死んだ。人はこれを義馬と称した。事が聞こえ、禎に僉事を追贈し、一子を録用した。
万琛は、字を廷献といい、宣城の人である。慷慨として気節を負い、郷挙に挙げられた。弘治年間、瑞金県知事となった。十八年正月、大盗が大挙して至り、県人は騒然として逃げ惑った。琛に急ぎ去るよう勧める者があったが、琛はこれを斥け、民兵数十人を率いて敵を迎え撃ち、賊二十余人を殺した。相持すること翌日に至り、力尽きて捕らえられ、罵り絶えず、賊が槍を集めて刺し、乃ち死んだ。光禄少卿を追贈し、祭葬を賜い、蔭官を与えた。
時に王祐という者がおり、広昌知県となり、賊が至ると、民は尽く逃げ、援兵もまた至らなかった。祐は刀を抜いて自らその腹を切り、「城ありて守れず、何を以て生きんや」と言った。左右が駆け寄ってその刀を奪った。後、援兵が集まり、賊はやや退いた。七日を過ぎて再び突如として至り、祐は慌てて敵に赴き、これに死した。
楊忠は寧夏の人である。代々中衛指揮の官にあり、功により都指揮僉事に進み、廉潔で節操があり、謀略と勇気を備えていた。正徳五年、安化王寘鐇が反乱を起こし、その党の丁広が巡撫安惟学を殺そうとした時、楊忠は傍らにいて罵って言った、「賊の犬め、上を犯そうとするか!」。丁広は怒って彼を殺したが、死ぬまで罵りはますます激しかった。楊忠の同官の李睿は変事を聞き、馳せて寛鐇の所へ行った。門は閉ざされて入れず、大声で罵ったので、賊に殺された。百戸の張欽は逆に従わず、雷福堡へ走ったが、やはり殺された。皆、官を追贈され蔭が与えられ、忠と睿の家には忠烈の門、欽の家には忠節の門と顕彰された。
呉景は南陵の人である。弘治九年の進士。正徳年間、四川僉事を歴任し、江津を守った。重慶の人曹弼が播州へ亡命し、徒党を糾合して川南を寇し、大盗藍廷瑞と合流しようと謀った。六年正月、江津に迫った。御史の俞緇は逃げ去り、呉景と都指揮の龐鳳に防禦を命じた。龐鳳は呉景を誘って共に逃げようとしたが、呉景は承知せず、典史の張俊を率いて迎撃し、自ら三賊を殺し、矢が顔面に当たった。急いで兵を収めて守りに入ろうとしたが、城は既に陥落し、大声で叫んだ、「私を殺せ、士民を殺すな!」。賊は彼に跪くよう強いたが、屈せず、遂に殺され、張俊も死んだ。巡撫の林俊がその事績を上奏すると、詔により副使を追贈され、祭葬を賜り、江津に祠が立てられ、世襲の蔭が与えられた。
翌年正月、賊の麻六児が川東に迫ろうとした。副使の馮傑が蒼渓で追撃し、多くの捕虜と斬首を得た。日暮れに鉄山関へ陣を移したところ、賊が夜に乗じて突撃し、馮傑はそこで戦死した。按察使を追贈され、祭葬を賜り、恪湣と諡され、世襲で百戸の蔭が与えられた。
この時、略陽知県の孫璽・剣州判官の羅明・梁山主簿の時植も皆、賊のために死んだ。
孫璽は字を廷信といい、代州の人である。郷挙に挙げられ、扶風県知事となった。都御史の藍章は略陽が漢中の要地で、以前は城がなかったため、孫璽に檄を飛ばして城を築かせた。工事が未完成のうちに賊が来襲し、県令の厳順は逃げようとした。孫璽は刀を抜いて机を斬りつけて言った、「逃げようとする者はこれを見よ!」。そして僚属を率いて堅く守り、数日後に城は陥落し、孫璽は捕らえられ、大声で罵って屈せず、賊は彼を切り刻んで殺した。厳順は逃げ去り、孫璽も共に逃げたと誣告し、江に落ちて死んだとし、他人の死体で葬儀を行った。孫璽の子が開いて見ると、父の遺体ではなかったので、朝廷に訴えた。調査の結果、節を守って死んだ状況が明らかになり、光禄少卿を追贈され、祭礼と蔭が与えられ、厳順は罪に問われた。
羅明は吏から身を起こした。鄢本恕がその城に迫ると、子の介と共に防ぎ守った。城が陥落し、父子共に賊を罵って死んだ。
時植は字を良材といい、通許の人である。国子監生から官を受け、当時は県の事務を代行していた。賊の方四らが土地を掠奪しに来たが、時植はこれを撃退し、数十の首級を斬獲した。一ヶ月後に再び来襲し、数日間防ぎ戦ったが、城は陥落し、降伏を勧められたが屈せず、印を取るよう脅されたが与えず、大声で罵って殺された。妻の賈は変事を聞くや即座に自縊し、九歳の娘は火の中に飛び込んで死んだ。羅明と時植は共に規定に従って追贈と撫恤を受け、時植の妻と娘は貞烈と顕彰された。
その時、死を冒して賊を殺した士民には、趙趣・徐敬之・雷応通・袁璋らがいた。
趙趣は梁山の諸生である。賊が城を攻めると、友人黄甲・李鳳・何璟・蕭鋭・徐宣・楊茂寛・趙采と共に死を誓って防ぎ守った。城が陥落し、皆死んだ。都御史の林俊はその義を称え、祠を立てて祀った。徐敬之も梁山の人である。衆に推されて部長となり、賊を防いで陣に陥って死んだ。
雷応通は嘉州の人である。賊が百丈関を沖した時、父子七人が義を唱えて死戦した。捕らえられ、皆慷慨として殺された。
袁璋は江南の人である。平素から勇侠で知られていた。巡撫の林俊に委ねられて賊を討伐し、その地で功を立てた。後に捕らえられると、その子の袁襲が身を挺して救おうとし、連続して七賊を殺したが、やはり捕らえられ、共に死んだ。袁襲が死んで三日後も、両目はまだ父を睨みつけていた。林俊はその家門に父子忠節と顕彰した。総制の彭沢が城隍廟に石碑を刻ませ、忠孝祠に祀った。
霍恩は字を天錫といい、易州の人である。弘治十五年の進士。正徳年間、上蔡県知事を歴任した。六年、賊が四方で起こり、中原の郡邑は多くが破壊された。畿内では棗強知県の段豸・大城知県の張汝舟、河南では霍恩及び典史の梁逵、西平知県の王佐・主簿の李銓、葉県知県の唐天恩、永城知県の王鼎、裕州同知の郁采・都指揮の詹済・郷官の任賢、固始県丞の曾基、夏邑県丞の安宣、息県主簿の刑祥、睢寧主簿の金声・丘紳、西華教諭の孔環、山東では萊蕪知県の熊驂、萊州衛指揮僉事の蔡顕、南畿では霊譬主簿の蒋賢が皆、節を守って死に、特に霍恩・王佐・郁采・孔環の死は甚だ烈しかった。
霍恩は梁逵と共に守り、賊が来襲した時、妻の劉に言った、「万一危急の事態があれば、お前はどうするか」。劉は共に死ぬことを願い、そこで役所の後ろに台を築き、約束して言った、「私が城から下りるのを見たら、即ち賊が入ったのだ」。城が陥落すると、霍恩は刀を抜いて城を下りた。劉は台上でそれを見ると、即座に縊りかけたが、絶命せず、簪で心臓を刺して死んだ。霍恩は捕らえられ、賊は跪くよう脅した。罵って言った、「この膝が賊のために屈するものか!」。賊は人を殺して彼を脅したが、罵りはますます激しくなった。賊は刀でその口を抉り、八つ裂きにした。梁逵は自縊して死んだ。
豸は字を世高といい、澤洲の人である。進士より起家し、正徳年間に兵科都給事中に任ぜられ、棗強令に左遷された。賊が至ると、連戦してこれを退けた。城が陥落した際、四本の矢と一筋の槍を受け、目を瞋らせて大呼し、賊を殺して死に、賊はその城を屠った。汝舟は大城に官した時、主簿李銓と共に迎撃し、共に殺された。
佐は字を汝弼という。潞州の挙人で、西平令に任ぜられた。自ら数十人の賊を殺し、矢でその渠帥を斃した。賊は憤り、三日間急攻し、佐は力尽きて捕らえられ、罵声を絶やさなかった。賊は彼を竿に吊るし、殺して肢解した。天恩は葉県を知り、賊が至ると、父の政ら七人と共に死んだ。鼎は永城を知り、城が陥落すると、印を肘に結び付け、端座して賊を待ち、屈せずに死んだ。
采は字を亮之といい、浙江山陰の人、進士である。主事より教諭に左遷され、裕州同知に遷った。済、賢と共に堅く守り、多くを斬獲したが、城陥落で捕らえられた。采は罵りを止めず、賊はその頬を砕いて殺した。済もまた屈せずに死んだ。賢はかつて御史であり、郷里に居た時、邑の子弟三千人を招いて防ぎ守り、賊を罵って死に、一家で死んだ者は十三人であった。基は固始丞であり、捕らえられ、馬を馭せと言われて従わず、害された。宣は初め夏邑丞に任ぜられた。賊の楊虎がその境に迫ると、行くなと勧める者もあったが、宣は兼行して進んだ。着任して七日目に賊が大挙して至り、防ぎ守って功があった。城が陥落し、死んだ。祥は既に致仕していたが、城が陥落し、賊を罵って死んだ。声、紳と義士の朱用之は迎撃して死んだ。
環は南宮の人である。歳貢生より来安知県に任ぜられたが、劉瑾の党に陥れられ、西華教諭に左遷された。捕らえられ、賊が「我を王と呼べば、即ち汝を釈放する」と言うと、厲声で「我は汝を万段に砕くことを恨むのみで、どうして汝に媚びて生き延びようか」と言い、遂に殺された。驂は賊に捕らえられ、主簿韓塘と共に屈せずに死んだ。顯は三人の子、湛、英、順と共に盗賊を防ぎ力戦して死んだ。
諸人の死節の事が聞こえ、皆官を贈られ祭を賜り、蔭官を許され、祠が建てられるなど、制に従って処遇された。恩の妻劉は宜人を贈られ、忠節坊が建てられて顕彰された。天恩、鼎、基、宣、祥らの人々の郷里は考証できない。
時に鄭宝という者がおり、郁林州同知として北流県の事務を代行していた。妖賊李通宝が北流を犯すと、宝は子の宗珪と出戦し、共に死んだ。
王振という者は、福建黄崎鎮の巡検であった。海寇が大挙して至ると、三人の子、臣、朝、実を率いて終日迎撃した。伏兵が現れ、振は殺され、屍は僵立していた。三子がこれを救おうとし、臣は重傷を負い、朝、実は共に死んだ。これもまた差等をつけて恤典が与えられた。
孫燧は字を徳成といい、余姚の人である。弘治六年の進士。刑部主事を歴任し、再び郎中に遷った。正徳年間、河南右布政使を歴任した。寧王宸濠に逆謀があり、宦官や寵臣と結び、日夜朝廷の内情を探り、変事を待ち望んだ。また群吏を劫持し、厚く餌を与えて、己が用いるところとした。巡撫王哲が己に附かないのを憎み、毒を盛り、病気にかからせ、一年余りで死なせた。董傑が哲の後を代わったが、僅か八月でまた死んだ。これより、その地に官する者は慄慄として、去ることを得るのを幸いとした。傑の後を代わった任漢、俞諫は皆一年余りで罷免されて帰った。燧は才節をもって治績の名声が高く、廷臣は彼を推挙して代わらせた。
十年十月、右副都御史に抜擢され、江西を巡撫した。燧は命を聞いて嘆き、「これは生死を以てこれに当たらねばならぬ」と言った。妻子を郷里に帰し、独り二人の僮僕を連れて行った。時に宸濠の逆状は既に大いに露わになり、南昌の人々は洶洶として、宸濠が旦夕に天子となるだろうと言った。燧の左右は悉く宸濠の耳目であり、燧は防察を密にし、左右は窺うことができず、独り時に宸濠に大義を陳説したが、ついに悔い改めなかった。密かに副使許逵の忠勇を察知し、大事を託すことができると考え、彼と謀った。先に、副使胡世寧が宸濠の逆謀を暴いたが、宦官や寵臣が彼のために地歩を築き、世寧は罪を得て去った。燧は朝廷に公言しても益がないと考え、他寇を防ぐことを託して予め備えをした。先ず進賢を城し、次いで南康、瑞州を城した。建昌県に盗賊が多いのを憂い、その地を割き、別に安義県を置き、以て漸次これを鎮めた。そして饒州、撫州の二州の兵備を復するよう請うたが、復することができず、則ち湖東分巡に兼ねてこれを管理させるよう勅を請うた。九江は湖の要衝に当たり、最も要害であるため、兵備道の権限を重くし、南康、寧州、武寧、瑞昌及び湖広の興国、通城を兼ねて管轄させ、以て制御を便ならしめるよう請うた。広信の横峰、青山などの窯は、地険しく人悍であるため、通判を設けて弋陽に駐在させ、兼ねて傍ら五県の兵を督させるよう請うた。また宸濠が兵器を奪うことを恐れ、賊を討つことを仮託して、全てを他の場所に運び出した。宸濠は燧が己を図っていると聞き、人を遣わして朝中の寵臣に賄賂を贈り燧を去らせようとし、また燧に棗、梨、姜、芥を贈って意を示したが、燧は笑ってこれを退けた。逵は燧に先に手を打って後で報告するよう勧めたが、燧は「どうして賊に名分を与えようか、暫く待とう」と言った。
翌年、宸濠は鎮巡官を脅してその孝行を奏上させた。燧と巡按御史林潮はこれによって少しでもその謀りごとを緩められることを期待し、乃ち共に朝廷に奏上した。朝廷の議論では燧らを責める旨を降すところであったが、ちょうど御史蕭淮が宸濠の不軌の状をことごとく発覚させ、詔により重臣が宣諭することとなり、宸濠はこれを聞き、遂に決意して反逆した。
六月乙亥、宸濠の誕生日に、鎮巡三司を宴した。翌日、燧及び諸大吏が入って謝すると、宸濠は左右に伏兵を置き、大声で言った。「孝宗は李広に誤られ、民間の子を抱き、我が祖宗は血食を絶たれて十四年になる。今太后に詔があり、我に兵を起こして賊を討てと命じている。汝らもこれを知っているか。」衆は顔を見合わせ驚き呆然とした。燧は真っ直ぐ前に進み出て言った。「どうしてこのような言葉があるのか。詔を出して我に見せよ。」宸濠は言った。「多くを言うな。我は南京へ行く。汝は車駕に扈従せよ。」燧は大怒して言った。「汝は速やかに死ぬのみだ。天に二日無し。我がどうして汝に従って逆賊となろうか。」宸濠は怒って燧を叱りつけ、燧はますます怒り、急いで立ち上がったが、出ることができなかった。宸濠は内殿に入り、戎服に着替えて出て来て、兵を指揮して燧を縛らせた。逵は奮い立って言った。「汝らどうして天子の大臣を辱しめようとするのか。」因みに身をもって燧を翼蔽しようとしたので、賊は逵も共に縛った。二人は縛られながらも罵り、口を絶やさず、賊は燧を撃ち、左腕を折り、逵と共に引きずり出した。逵は燧に言った。「私が公に先に手を打つよう勧めたのは、今日あることを知っていたからです。」燧と逵は共に惠民門外で害された。巡按御史王金、布政使梁宸以下は、皆稽首して万歳を呼んだ。
宸濠は遂に兵を起こし、偽って三賊を将軍に任命し、まず婁伯を遣わして進賢を巡行させたが、知県劉源清に斬られた。窯賊を招いたが、賊は守吏を恐れて敢えて発しなかった。城中で大いに兵器を捜索したが得られず、賊は多く白梃を持った。伍文定が義兵を起こし、文天祥祠に二人の木主を設け、吏民を率いてこれを哭した。南贛巡撫王守仁と共に賊を平定した。諸々の逃亡した賊は安義に走ったが、皆捕らえられ、逃れた者はいなかった。人々はここにおいてますます燧の功績を思った。
孫墀は、字を仲泉といい、選貢生として尚宝卿の官を歴任した。孫升は、尚書の官に至った。孫墀の孫如遊は、大学士となった。孫如遊の孫嘉績は、僉事となった。孫升の子、孫鑨・孫鑛はともに尚書、孫鋌は侍郎、孫錝は太僕卿となった。孫鑨の子、孫如法は主事、孫如洵は参政となった。いずれも文章と行誼をもって家を継いだ。孫升・孫鑨・孫鑛・孫如遊・孫如法・孫嘉績の事績は、それぞれ別に記載されている。
長子の許玚は、学を好み器識があった。父を葬った後、日夜号泣し、六年を経てようやく蔭官に就いた。人がこれを促すと、許玚は言った。「我が父が死んだので、玚はそれによって官を得るのだ。」痛哭して顔を上げて見ることができなかった。許玚の子許䢿は、親に孝事した。隆慶中に郷試に合格し、数度礼部試を受けたが及第しなかった。ある試験官が許玚と姻戚関係にあり、許䢿の才を慕い、取り込みたいと思った。許䢿は言った。「このようなことをして、どうして先忠節(許逵)の地下に顔向けできようか。」許氏の子孫は孫氏のように貴顕ではないが、またその家を伝えることができた。
黄宏は、字を徳裕といい、鄞の人である。弘治十五年の進士となった。万安県知県となった。民は訴訟を好み、訴訟があれば神に祈ったので、黄宏はその祠を壊して言った。「県令がいるのに、何を祈るのか。」訴訟する者が来ると、いつも片言で屈服させた。累遷して江西左参議となり、湖西・嶺北の二道を巡察した。王守仁が横水・桶岡の賊を討った時、黄宏は兵糧を主管して功績があった。賊の閔念四が既に降伏した後、再び宸濠の勢力を恃んで、九江の上下を掠めた。黄宏は兵を発してこれを捕らえようとし、賊は逃げて宸濠の祖墓の中に隠れたが、その輜重を全て得て帰った。宸濠の逆節はますます露わになり、士大夫はこれを憂えたが、黄宏は厳しい顔色で言った。「国家に不幸にもこれ(叛逆)がある。我々は土地を守る者、死ぬのみである。」大義を堅持して宸濠の党に従わない者がいると、黄宏はいつも密かにこれを支持した。宸濠が反すると、黄宏は捕らえられ、憤怒して、手枷で柱に向かって首を打ちつけ、その夕方に卒去した。賊はその義を感じて棺を用意して葬った。子の黄紹文が駆けつけ、その棺を求め得たが、偽りの命令で葬られたのは父の志ではないとして、急いで取り替え、扶けて帰った。
当時、主事の馬思聰もまた節を守って死んだ。馬思聰は、字を懋聞といい、莆田の人である。弘治末に進士に挙げられ、象山知県となり、二十六の水路を復旧し、万頃の田を灌漑した。累遷して南京戸部主事となり、江西で糧食を監督し、安仁に駐在した。宸濠の反乱に遭遇し、捕らえられて獄に繋がれ、屈服せず、絶食して六日目に死んだ。
世宗が立つと、黄宏に太常少卿を、馬思聰に光禄少卿を追贈し、ともに旌忠祠に配享した。当時、黄宏と馬思聰の死節が真実ではないとする者がいた。給事中の毛玉が江西の逆党を調査し、再び黄宏・馬思聰および承奉の周儀を表彰するよう請うた。また黄宏の子黄紹武が朝廷に訴えた。巡按御史の穆相が二人の死節の状況を詳細に列挙して上奏したため、遂に異議はなくなった。
宋以方は、字を義卿といい、靖州の人である。弘治十八年(1505年)に進士となり、戸部郎中を歴任した。正徳十年(1515年)、瑞州知府に遷る。当時、華林の大盗賊が平定されたばかりで、戦乱の傷跡はまだ癒えておらず、以方は心を尽くして民を養い慈しんだので、官吏や民衆に愛された。宸濠(朱宸濠)の謀反の企てが芽生えると、瑞州はもともと城郭がなかったため、以方は城を築き守備の具を整え、三千の兵を募り、日夜訓練した。宸濠は彼を深く忌み嫌い、徴発や要求をしても応じなかったので、ついに鎮守(官)に迫って弾劾させ、南昌の獄に繋いだ。翌日、宸濠が反乱を起こし、以方を牢から出して、降伏を脅し迫ったが、従わなかったので、舟の中に械して繋いだ。安慶に至り、宸濠軍が敗北したとき、宸濠がその地の名を尋ねると、舟子が「黄石磯」と答えた。江西人の発音では「王失機」(王が機会を失う)となる。宸濠はこれを不吉だとして、以方を斬って江に祀った。後に賊が平定されると、その子の崇学が遺骸を求めたが見つからず、衣冠を収めて帰葬した。嘉靖六年(1527年)、巡撫の陳洪謨がこの事績を上奏し、詔により光禄卿を追贈され、一子に蔭官が与えられ、瑞州に祠が立てられた。
趙楠は、南昌の諸生(生員)である。兄の趙模は、かつて穀物を捐じて救済を助けたことがあった。宸濠が趙模を捕らえて金を要求したので、趙楠が代わりに行き、脅迫されたが屈せず、打ちすえられて死んだ。同邑の辜増は脅迫に遭い、節を守って従わず、一家百口が皆死んだ。諸生の劉世倫、儒士の陳経官、義士の李広源も皆、捕らえられて脅迫されたが屈せず、死んだ。
葉景恩という者は、任侠で知られ、一族で呉城に住んでいた。宸濠が乱を起こそうとしたとき、景恩を捕らえ、降伏を脅し迫ったが従わず、獄中で死んだ。宸濠の兵が呉城を通りかかると、景恩の弟の景允が三百人を率いて賊を迎え撃った。賊は兵を分けて景允の家を焼き略奪し、その一族の葉景集、葉景修ら四十九人も皆死んだ。
また閻順という者がおり、寧王府の典宝副であった。宸濠が反乱を起こそうとしたとき、閻順は典膳正の陳宣、内使の劉良とともに、諫言して不可であると微かに言ったが、典宝正の塗欽に讒訴され、三人は誅殺を恐れ、密かに京師に赴いて変事を上告した。群小(奸臣たち)が宸濠を庇い、三人を獄に下し、鞭打ち拷問をことごとく加えた。宸濠は三人が都に赴いたと聞き、事が漏れることを憂慮し、その罪を誣奏し、かつ群小に必ず殺すよう嗾けたが、ちょうど三人がすでに孝陵への戍衛に遣わされていたので、難を免れた。世宗が即位すると、官職に復した。