明史

列傳第一百七十七 忠義一

列傳第一百七十七 忠義一

原文列傳第一百七十七 忠義一

◎忠義一

原文◎忠義一

古より忠臣義士、国に身を捐て、節義は一時に輝き、名は百世に垂る。歴代以来、極めて表章を備え、尚お已む。明の太祖は江左に創業し、まず余闕・福壽を褒めて、忠義の気を起こさしむ。従龍の将士に至りては、或いは功未だ成らずして身死する者あり、豫章・康郎山の両廟及び溪籠山の功臣廟に祀る諸人の如き、爵を公侯に贈り、血食俎豆し、太廟に侑享し、子孫を恤錄す。精忠を褒厲し、義烈を激揚する所以のもの、意遠きに至る。建文の変、群臣膏鼎鑊を憚らず、姻族を赤くして、成祖の威稜に抗す。『表忠』一録は伝疑より出づと雖も、亦た以て人心天性の泯びざるを知るに足れり。仁宣以降、重熙累洽、二百餘載を垂る。中間、交阯の征、土木の変、宸濠の叛、及び神・熹の両朝、辺陲多故、身を沈め難に殉ずる者、未だ易く僕数を更えず。而して司勛褒恤の典、悉く優厚に従ふ。或いは所司奏を失ひ、後人自ら陳請を得。故に節烈の績、咸く時に顯暴するを得たり。迨ふに莊烈の朝、運陽九に丁り、時に内外諸臣、或いは首を封疆に隕し、或いは命を闕下に致し、死に蹈ること帰るが如き者尤も衆し。今、明一代の死義死事の臣を就き、博く旁に採り搜し、左の如く匯次す。同死者は、各事に因り附見す。其の事実繁多及び国家興亡の繫る所、或いは他傳に連属し、本末始めて著はるるもの、並びに直諫死忠、疏草人口に傳誦するものは、概ね前帙に具ふ。若し忠を勝国に抒き、命を興朝に抗するは、前史に稽へば、例を得て並び書く。我が太祖・太宗、忠厚を以て基を開き、名教を扶植し、張銓の義を守るを獎し、張春を釋して礼を加ふ。洪量天地に同じく、大義日月に懸る。国史の載する所、丹青の若く煥たり。諸臣の志を遂げ仁を成す、斯れ忝かざる無きなり。故に備へて列す。

原文從古忠臣義士,為國捐生,節炳一時,名垂百世,歷代以來,備極表章,尚已。明太祖創業江左,首褒余闕、福壽,以作忠義之氣。至從龍將士,或功未就而身亡,若豫章、康郎山兩廟及溪籠山功臣廟所祀諸人,爵贈公侯,血食俎豆,侑享太廟,恤錄子孫,所以褒厲精忠,激揚義烈,意至遠也。建文之變,群臣不憚膏鼎鑊,赤姻族,以抗成祖之威棱,雖《表忠》一錄出自傳疑,亦足以知人心天性之不泯矣。仁宣以降,重熙累洽,垂二百餘載,中間如交阯之征,土木之變,宸濠之叛,以暨神、熹兩朝,邊陲多故,沈身殉難者,未易更仆數。而司勛褒恤之典,悉從優厚。或所司失奏,後人得自陳請。故節烈之績,鹹得顯暴於時。迨莊烈之朝,運丁陽九,時則內外諸臣,或隕首封疆,或致命闕下,蹈死如歸者尤眾。今就有明一代死義死事之臣,博采旁搜,匯次如左。同死者,各因事附見。其事實繁多及國家興亡所系,或連屬他傳,本末始著,與夫直諫死忠,疏草傳誦人口,概具前帙。至若抒忠勝國,抗命興朝,稽諸前史,例得並書。我太祖、太宗忠厚開基,扶植名教,獎張銓之守義,釋張春而加禮,洪量同天地,大義懸日月,國史所載,煥若丹青。諸臣之遂誌成仁,斯為無忝,故備列焉。

○花雲(朱文遜・許瑗等) 王愷 孫炎(王道同・朱文剛) 牟魯(裴源・朱顯忠・王均諒等) 王綱(子彦達) 王禕(呉雲) 熊鼎 易紹宗 琴彭(陳汝石等) 皇甫斌(子弼・呉貴等) 張瑛(熊尚初等) 王禎 萬琛(王祐) 周憲(子幹) 楊忠(李睿等) 呉景(王源・馮傑・孫璽等) 霍恩(段豸・張汝舟等) 孫燧 許逵 黄宏(馬思聰) 宋以方さき(萬木・鄭山・趙楠等)

原文○花雲(朱文遜許瑗等)王愷孫炎(王道同朱文剛)牟魯(裴源朱顯忠王均諒等)王綱(子彥達)王祎(吳雲)熊鼎易紹宗琴彭(陳汝石等)皇甫斌(子弼吳貴等)張瑛(熊尚初等)王禎萬琛(王祐)周憲(子幹)楊忠(李睿等)吳景(王源馮傑孫璽等)霍恩(段豸張汝舟等)孫燧許逵黃宏(馬思聰)宋以方(萬木鄭山趙楠等)

花雲は、懐遠の人。容貌偉岸にして黒く、驍ぎょう勇絶倫。至正十三年癸巳、剣を杖きて太祖に臨濠に謁す。其の才を奇とし、兵を将いて地を略せしむ。至る所輒ち克つ。懐遠を破り、其の帥を擒ふ。全椒を攻め、之を抜く。繆家寨を襲ひ、群寇散走す。太祖滁州を取らんとし、数騎を率ひて前行し、雲従ふ。猝かに賊数千に遇ふ。雲鈹を挙げて太祖を翼け、剣を抜き馬を躍らせて陣を沖ぎ進む。賊驚きて曰く、「此の黒将軍勇甚だし、其の鋒に当るべからず」と。兵至りて、遂に滁州を克つ。甲午、和州を取るに従ひ、卒三百を獲、功を以て管勾を授く。乙未、太祖江を渡り、雲先づ済る。太平を克つに及び、忠勇を以て左右を宿衛す。集慶を下すに従ひ、卒三千を獲、総管に擢ぐ。鎮江・丹陽・丹徒・金壇を徇ひ、皆之を克つ。馬馱沙を過ぐるに、劇盗数百道を遮り戦を索ふ。雲且つ行き且つ鬥ふこと三日夜、皆之を擒殺し、前部先鋒を授く。常州を抜くに従ひ、牛塘営を守る。太祖行樞密院を太平に立て、雲を院判に擢ぐ。丁酉常熟を克ち、卒萬餘を獲。寧国に趨るを命ず。兵山沢の中に陷ること八日、群盗相結び道を梗む。雲矛を操り鼓噪して出入し、首を斬ること千百計、身に一矢も中らず。還りて太平に駐る。庚子閏五月、陳友諒舟師を以て来寇す。雲と元帥朱文遜・知府許瑗・院判王鼎、陣を結び迎戦す。文遜戦死す。賊三日攻めて入るを得ず、巨舟を以て漲に乗じ、舟尾に縁り堞を攀ぢて上る。城陷り、賊雲を縛す。雲奮身大呼し、縛盡く裂け、起きて守者の刀を奪ひ、五六人を殺し、罵して曰く、「賊吾が主の敵に非ず、何ぞ降るを趣かざる」と。賊怒り、其の首を碎き、諸檣に縛し叢りて之を射る。賊を罵して少も變ぜず、死に至るまで聲猶ほ壯なり。年三十九。瑗・鼎も亦た抗罵して死す。太祖即ち呉王の位に即き、雲を追封して東丘郡侯とし、瑗を高陽郡侯とし、鼎を太原郡侯とし、忠臣祠を立て、並び之を祀る。

原文花雲,懷遠人。貌偉而黑,驍勇絕倫。至正十三年癸巳,杖劍謁太祖於臨濠。奇其才,俾將兵略地,所至輒克。破懷遠,擒其帥。攻全椒,拔之。襲繆家寨,群寇散走。太祖將取滁州,率數騎前行,雲從。猝遇賊數千,雲舉鈹翼太祖,拔劍躍馬沖陣而進。賊驚曰:「此黑將軍勇甚,不可當其鋒。」兵至,遂克滁州。甲午從取和州,獲卒三百,以功授管勾。乙未,太祖渡江,雲先濟。既克太平,以忠勇宿衛左右。從下集慶,獲卒三千,擢總管。徇鎮江、丹陽、丹徒、金壇,皆克之。過馬馱沙,劇盜數百遮道索戰。雲且行且鬥三日夜,皆擒殺之,授前部先鋒。從拔常州,守牛塘營。太祖立行樞密院於太平,擢雲院判。丁酉克常熟,獲卒萬餘。命趨寧國,兵陷山澤中八日,群盜相結梗道。雲操矛鼓噪出入,斬首千百計,身不中一矢。還駐太平。庚子閏五月,陳友諒以舟師來寇。雲與元帥朱文遜、知府許瑗、院判王鼎結陣迎戰,文遜戰死。賊攻三日不得入,以巨舟乘漲,緣舟尾攀堞而上。城陷,賊縛雲。雲奮身大呼,縛盡裂,起奪守者刀,殺五六人,罵曰:「賊非吾主敵,盍趣降!」賊怒,碎其首,縛諸檣叢射之,罵賊不少變,至死聲猶壯,年三十有九。瑗、鼎亦抗罵死。太祖即吳王位,追封雲東丘郡侯,瑗高陽郡侯,鼎太原郡侯,立忠臣祠,並祀之。

方に戦急なるや、雲の妻郜、家廟に祭り、三歳の児を挈き、泣きて家人に語りて曰く、「城破れれば、吾が夫必ず死せん。吾れ義独り存るべからず。然れども花氏をして後無からしむべからず。若等善く之を撫せよ」と。雲執はるるや、郜水に赴きて死す。侍兒孫、瘞ひ畢り、児を抱きて行く。掠はれて九江に至る。孫夜漁家に投じ、簪珥を脱ぎて属め之を養はしむ。漢兵敗るるに及び、孫復た児を竊み走り江を渡る。僨軍に遇ひ舟を奪はれて江中に棄てらる。断木に浮き葦洲に入り、蓮実を采りて児に哺ひ、七日死せず。夜半、老父雷老有りて之を挈きて行く。年を踰へて太祖の所に達す。孫児を抱きて拝泣す。太祖も亦た泣き、児を膝上に置きて曰く、「将種なり」と。雷老に衣を賜ふ。忽ち見えず。児に名を煒と賜ひ、累官して水軍衛指揮僉事に至る。其の五世孫、遼の復州衛指揮と為り、世宗に請ひて、郜を貞烈夫人と贈り、孫を安人とし、祠を立てて祭を致す。

原文方戰急,雲妻郜祭家廟,挈三歲兒,泣語家人曰:「城破,吾夫必死,吾義不獨存,然不可使花氏無後,若等善撫之。」雲被執,郜赴水死。侍兒孫瘞畢,抱兒行,被掠至九江。孫夜投漁家,脫簪珥屬養之。及漢兵敗,孫復竊兒走渡江,遇僨軍奪舟棄江中,浮斷木入葦洲,采蓮實哺兒,七日不死。夜半,有老父雷老挈之行,逾年達太祖所。孫抱兒拜泣,太祖亦泣,置兒膝上,曰:「將種也。」賜雷老衣,忽不見。賜兒名煒,累官水軍衛指揮僉事。其五世孫為遼復州衛指揮,請於世宗,贈郜貞烈夫人,孫安人,立祠致祭。

文遜は、太祖の養子なり。嘗て元帥秦友諒とともに無為州を攻克す。瑗は、字あざなは栗夫、楽平の人。元末、両たび郷試第一に挙る。太祖婺州に駐まるや、瑗謁して曰く、「足下天下を定めんと欲せば、英雄を延攬せずんば、成功に難し」と。太祖喜び、幕中に置き、軍事に参ず。已にして太平を守るを命ず。鼎は、儀征の人。初め趙忠の養子と為る。忠総管と為り、太平を克ち、行樞密院判を授かり、池州を鎮む。趙普勝来寇す。忠陣歿す。鼎職を嗣ぎ、故姓に復し、太平に駐る。是に至り、三人皆之に死す。

原文文遜者,太祖養子也。嘗與元帥秦友諒攻克無為州。瑗,字栗夫,樂平人。元末,兩舉鄉第一。太祖駐婺州,瑗謁曰:「足下欲定天下,非延攬英雄,難以成功。」太祖喜,置幕中,參軍事。已,命守太平。鼎,儀征人。初為趙忠養子。忠為總管,克太平,授行樞密院判,鎮池州。趙普勝來寇,忠陣歿。鼎嗣職,復故姓,駐太平。至是,三人皆死之。

時に劉齊と云ふ者有り、江西行省参政を以て吉安を守る。守将李明道門を開きて友諒の兵を納れ、参政曾萬中・陳海を殺し、齊及び知府宋叔華を執り、脅して降らしむ。皆屈せず。又た臨安を破り、同知趙天麟を執る。亦た屈せず。並びに友諒の所に送る。友諒方に洪都を攻め、三人を殺して城下に徇す。及び無為州を陷るるに、知州董曾を執る。曾抗罵して屈せず、之を江に沈む。

原文時有劉齊者,以江西行省參政守吉安。守將李明道開門納友諒兵,殺參政曾萬中、陳海,執齊及知府宋叔華,脅之降,皆不屈。又破臨安,執同知趙天麟,亦不屈,並送友諒所。友諒方攻洪都,殺三人徇城下。及陷無為州,執知州董曾,曾抗罵不屈,沈之江。

王愷は字を用和といい、当塗の人である。経史に通じ、元の府吏となった。太祖が太平を攻め落とすと召されて掾となり、京口を下すのに従い、新たに帰附した民を撫定した。中書省が建てられると、都事に用いられた。杭州の苗軍数万が降伏し、厳州の境で命令を待っていた。愷は馳せ往って諭し、その帥とともに至った。太祖が衢州を克つと、軍民の事を総制するよう命じた。愷は城を増築し濠を浚い、遊撃軍を置き、丁壮を籍に取り、一万余人を得た。常遇春が金華に兵を屯すと、部将が民を擾したので、愷はこれを械にかけて市で鞭打った。遇春が愷を責めると、愷は「民は国の本なり。一部将を鞭打って民が安んずるは、将軍の喜んで聞くところなり」と言った。遇春はそこで愷に謝した。時に飢饉と疫病が相次ぎ、愷は倉の粟を出し、恵済局を修復して、全活すること数知れず。学校が毀損し、衢州にある孔子の家廟とともに、これを新たにした。博士弟子員を設けると、士はこぞって喜び服した。開化の馬宣・江山の楊明がともに乱を起こしたが、先後して討ちこれを擒らえた。左司郎中に遷り、胡大海を補佐して省事を治めた。苗軍が乱を起こし、大海を害した。その帥は多く愷に恩義を感じ、彼を擁して西へ行こうとした。愷は厳しい顔色で「吾は土を守る者、議すべきは死すべきのみ。寧ろ賊に従わんや」と言い、遂にその子の行とともに殺された。年四十六。

原文王愷,字用和,當塗人。通經史,為元府吏。太祖拔太平,召為掾。從下京口,撫定新附民。及建中書省,用為都事。杭州苗軍數萬降,待命嚴州境。愷馳諭之,偕其帥至。太祖克衢州,命總制軍民事。愷增城浚濠,置遊擊軍,籍丁壯,得萬餘人。常遇春屯兵金華,部將擾民,愷械而撻諸市。遇春讓愷,愷曰:「民者國之本,撻一部將而民安,將軍所樂聞也。」乃謝愷。時饑疫相仍,愷出倉粟,修惠濟局,全活無算。學校毀,與孔子家廟之在衢者,並新之。設博士弟子員,士翕然悅服。開化馬宣、江山楊明並為亂,先後討擒之。遷左司郎中,佐胡大海治省事。苗軍作亂,害大海。其帥多德愷,欲擁之而西。愷正色曰:「吾守士,議當死,寧從賊邪!」遂並其子行殺之。年四十六。

愷は謀断に優れ、かつて事を上申して聞き入れられず、退いて戸外に立ち、暮れになっても去らなかった。太祖が出てきて怪しんで問うと、愷は初めの通り諫言し、ついにその議に従った。後に奉直大夫・飛騎尉を追贈され、当塗県男を追封された。

原文愷善謀斷,嘗白事,未聽,卻立戶外,抵暮不去。太祖出,怪問之,愷諫如初,卒從其議。後贈奉直大夫、飛騎尉,追封當塗縣男。

孫炎は字を伯融といい、句容の人である。顔色は鉄の如く、一足が不自由であった。談弁は風を生じ、大いに経世済民の才を自負した。丁復・夏煜と交わり、詩名があった。太祖が集慶を下すと召見され、賢豪を招いて大業を成すよう請うた。時に行中書省が建てられると、首掾に用いられた。浙東征伐に従い、池州同知を授けられ、華陽知府に進み、行省都事に抜擢された。処州を克つと総制を授かった。太祖が劉基・章溢・葉琛らを招くよう命じたが、基は出なかった。炎は使者を再び往かせると、基は宝剣を贈った。炎は詩を作り、剣は天子に献ずべきもので、命に従わぬ者を斬るものであり、人臣として私すべきではないとして、封をして返した。基に数千言の書を送ると、基は初めて会見に赴き、建康に送られた。時に城外は皆賊であり、城を守る兵は一人もいなかった。苗軍が乱を起こし、院判耿再成を殺し、炎及び知府王道同・元帥朱文剛を捕らえ、空室に幽閉し、降伏を脅したが、屈しなかった。賊帥の賀仁德が雁を焼き酒を酌んで炎に食べさせると、炎は飲みながら罵った。賊は怒り、刀を抜いて衣を脱げと叱った。炎は「これは紫綺の裘、主上の賜わりしもの、吾はこれを服して死すべし」と言い、遂に道同・文剛とともに害された。時に年四十。丹陽県男を追贈され、再成の祠に像を建てた。

原文孫炎,字伯融,句容人。面鐵色,跛一足。談辨風生,雅負經濟。與丁復、夏煜遊,有詩名。太祖下集慶,召見,請招賢豪成大業。時方建行中書省,用為首掾。從征浙東,授池州同知,進華陽知府,擢行省都事。克處州,授總制。太祖命招劉基、章溢、葉琛等,基不出。炎使再往,基遺以寶劍。炎作詩,以為劍當獻天子,斬不順命者,人臣不敢私,封還之。遺基書數千言,基始就見,送之建康。時城外皆賊,城守無一兵。苗軍作亂,殺院判耿再成,執炎及知府王道同、元帥朱文剛,幽空室,脅降,不屈。賊帥賀仁德燖雁鬥酒啖炎,炎且飲且罵。賊怒,拔刀叱解衣,炎曰:「此紫綺裘,主上所賜,吾當服以死。」遂與道同、文剛皆見害,時年四十。追贈丹陽縣男,建像再成祠。

道同は、中書省宣使より処州におり、太原郡侯を追贈された。

原文道同,由中書省宣使在處州,贈太原郡侯。

文剛は、太祖の養子で、小字を柴舍といった。変が起こり、再成と兵を集めて賊を殺そうとしたが、及ばず、遂に難に遭った。鎮国将軍を追贈され、功臣廟に附祭された。

原文文剛,太祖養子,小字柴舍。變起,欲與再成聚兵殺賊,不及,遂被難。贈鎮國將軍,附祭功臣廟。

牟魯は烏程の人で、莒州同知となった。洪武三年秋、青州の民孫古樸が乱を起こし、州城を襲い、魯を捕らえて降伏させようとした。魯は「国家は海内を混一し、民は皆楽業す。汝らが過ちを悔い自ら新たにせば、禍を転じて福と為すべし。然らずんば、官軍旦夕に至り、種を遺さざるべし。我は土を守る臣、義は唯一死のみ」と言った。賊は害することを敢えず、城南に擁し行った。魯は大罵し、遂に殺された。賊が破られると、詔してその家を恤った。

原文牟魯,烏程人,為莒州同知。洪武三年秋,青州民孫古樸為亂,襲州城,執魯欲降之。魯曰:「國家混一海字,民皆樂業。若等悔過自新,可轉禍為福。不然,官軍旦夕至,無遺種矣。我守土臣,義唯一死。」賊不敢害,擁至城南。魯大罵,遂殺之。賊破,詔恤其家。

また白謙・裴源・朱顯忠・王均諒・王名善・黄裏・顧師勝・陳敬・呉得・井孚の類があった。

原文又有白謙、裴源、朱顯忠、王均諒、王名善、黃裏、顧師勝、陳敬、吳得、井孚之屬。

謙は婺源知州であった。信州の盗賊蕭明が来寇し、謙は力及ばず防禦できず、印を懐いて北門を出、水に赴いて死んだ。

原文謙,婺源知州。信州盜蕭明來寇,謙力不能禦,懷印出北門,赴水死。

源は肇慶府經歷であった。公事で新興に赴き、山賊陳勇卿に遇い、捕らえられ、跪くことを強制された。源は大罵して「我は命官、賊に跪かんや」と言い、遂に殺された。洪武三年に官二等を追贈された。

原文源,肇慶府經歷。以公事赴新興,遇山賊陳勇卿,被執,勒令跪。源大罵曰:「我命官,乃跪賊邪!」遂被殺。洪武三年贈官二等。

顯忠は如臯の人である。張士誠の将となり、来降した。指揮僉事として鄧愈に従い河州を下し、吐番に至った。傅友德に従い文州を克ち、遂にこれを守った。洪武四年、蜀の将丁世珍が番を召し数万で来攻した。食尽き援なく、或いは走って避けるよう勧めたが、顯忠は叱って聞かなかった。攻撃は益々急となり、創を包んで力戦したが、城は破られ、乱兵に殺された。均諒は時に千戸であり、捕らえられて屈せず、磔にされて死んだ。事が聞こえ、贈恤に差等があった。

原文顯忠,如臯人。為張士誠將,來降。以指揮僉事從鄧愈下河州,抵吐番。從傅友德克文州,遂留守之。洪武四年,蜀將丁世珍召番數萬來攻。食盡無援,或勸走避,顯忠叱不聽。攻益急,裹創力戰,城破,為亂兵所殺。均諒時為千戶,被執不屈,磔死。事聞,贈恤有差。

名善は義烏の人で、高州通判であった。海寇の何均善がかつて誅戮され、洪武四年にその党の羅子仁が衆を率いて潜かに城に入り、名善を捕らえ、屈せず死んだ。

原文名善,義烏人,高州通判。有海寇何均善曾被戮,洪武四年,其黨羅子仁率眾潛入城,執名善,不屈死。

裏は雲内州同知であった。洪武五年秋、蒙古兵が突如として城に入った。裏は兵を率いて戦い、これに死した。

原文裏,雲內州同知。洪武五年秋,蒙古兵突入城。裏率兵蒼戰,死之。

師勝は興化の人で、峨眉知県であった。洪武十三年に民兵を率いて賊の彭普貴を討ち、戦死した。詔して褒恤した。

原文師勝,興化人,峨眉知縣。洪武十三年率民兵討賊彭普貴,戰死。詔褒恤。

敬は増城の人である。洪武十四年に賢良に挙げられ、曲靖府經歷となり、剣川州の事を署理した。隣の寇が来攻し、敬はこれを防禦した。官兵が寡なく、退かんとしたが、敬は目を瞋らして大呼し、力戦して死んだ。命じてその家を恤った。

原文敬,增城人。洪武十四年舉賢良,為曲靖府經歷,署劍川州事。鄰寇來攻,敬禦之。官兵寡,欲退,敬瞋目大呼,力戰死。命恤其家。

得は全椒の人で、龍裏守禦所千戸であった。洪武三十年、古州上婆洞の蛮が乱を起こし、得は鎮守将の井孚とともに城を守った。賊が門を焼き急攻し、二人は門を開いて奮撃したが、得は毒弩に中たって死に、孚は戦死した。得に指揮僉事を、孚に正千戸を追贈し、子孫世襲させた。

原文得,全椒人,龍裏守禦所千戶。洪武三十年,古州上婆洞蠻作亂,得與鎮守將井孚守城。賊燒門急攻,二人開門奮擊,得中毒弩死,孚戰死。贈得指揮僉事,孚正千戶,子孫世襲。

王綱、字は性常、余姚の人。文武の才あり。劉基と親しくし、常に語りて曰く、「老夫は山林を楽しむ、異時に志を得ば、世縁を以て我を累わす勿れ」と。洪武四年、基の推薦によりて京師に征召され、年七十、歯髪神色は少壮の如し。太祖これを異とし、治道を以て策問し、兵部郎に抜擢す。潮民靖まらず、広東参議を除し、兵糧を督し、嘆いて曰く、「吾が命は此に尽きん」と。書を以て家人に訣別し、子の彦達を携えて行き、単舸にて往きて諭す。潮民叩頭して服罪す。還りて増城に至り、海寇曹真に遇い、舟を遮り羅拝し、願わくは帥と為らんとす。綱、禍福を以て諭すも従わず、則ち奮いて罵る。賊之を舁ぎ去り、壇を為りて綱を坐らせ、日に拝請す。綱罵声絶えず、遂に害に遇う。彦達年十六、賊を罵りて死を求め、併せて殺さんとす。其の酋曰く、「父は忠、子は孝、之を殺すは不祥なり」と。之に食を与うるも顧みず、羊革を綴りて父の屍を裹みて出でしむ。御史郭純以て聞く、詔して廟を死所に立てしむ。彦達蔭にて官を得、父を痛み、終身仕えず。

原文王綱,字性常,余姚人。有文武才。善劉基,常語曰:「老夫樂山林,異時得誌,勿以世緣累我。」洪武四年以基薦征至京師,年七十,齒發神色如少壯。太祖異之,策以治道,擢兵部郎。潮民弗靖,除廣東參議,督兵餉,嘆曰:「吾命盡此矣。」以書訣家人,攜子彥達行,單舸往諭,潮民叩首服罪。還抵增城,遇海寇曹真,截舟羅拜,願得為帥。綱諭以禍福,不從,則奮罵。賊舁之去,為壇坐綱,日拜請。綱罵不絕聲,遂遇害。彥達年十六,罵賊求死,欲並殺之。其酋曰:「父忠子孝,殺之不詳。」與之食,不顧,令綴羊革裹父屍而出。御史郭純以聞,詔立廟死所。彥達以蔭得官,痛父,終身不仕。

王禕、字は子充、義烏の人。幼くして敏慧、長ずるに及び、身長く岳の如く立ち、屹然として偉度あり。柳貫・黄溍に師事し、遂に文章を以て世に名を知らしむ。元政の衰敝を睹て、書七八千言を為りて時宰に上る。危素・張起巖並びに推薦すも、報いず。青巖山に隠れ、著書し、名日盛んなり。太祖婺州を取る、召見し、用いて中書省掾史と為す。江西を征し、禕頌を献ず。太祖喜びて曰く、「江南に二儒あり、卿と宋濂のみ。学問の博さは、卿は濂に如かず。才思の雄は、濂は卿に如かず」と。太祖礼賢館を創し、李文忠禕及び許元・王天錫を薦め、召して館中に置く。旋って江南儒学提挙司校理を授け、累遷して侍礼郎、起居注を掌る。南康府事を同知し、恵政多く、金帯を賜いて之を寵す。太祖即位せんとす、召還し、礼を議す。事に坐して旨に忤い、出でて漳州府通判と為る。

原文王祎,字子充,義烏人。幼敏慧,及長,身長嶽立,屹有偉度。師柳貫、黃溍,遂以文章名世。睹元政衰敝,為書七八千言上時宰。危素、張起巖並薦,不報。隱青巖山,著書,名日盛。太祖取婺州,召見,用為中書省掾史。征江西,祎獻頌。太祖喜曰:「江南有二儒,卿與宋濂耳。學問之博,卿不如濂。才思之雄,濂不如卿。」太祖創禮賢館,李文忠薦祎及許元、王天錫,召置館中。旋授江南儒學提舉司校理,累遷侍禮郎,掌起居註。同知南康府事,多惠政,賜金帶寵之。太祖將即位,召還,議禮。坐事忤旨,出為漳州府通判。

洪武元年八月、上疏して言う、「天に祈りて命を永くするの要は、忠厚を以て心を存し、寛大を以て政を為し、天道に法り、人心に順うに在り。雷霆霜雪は、暫くす可くして常にす可からず。浙西既に平らぎ、科斂は当に減ず可し」と。太祖嘉納す、然れども尽く従う能わず。明年『元史』を修し、命じて禕と濂を総裁と為す。禕史事に擅長し、煩を裁き穢を剔ぎ、力を任じて筆削す。書成り、翰林待制に擢げ、制誥を同知し国史院編修官を兼ぬ。詔を奉じて大本堂の教えに預かり、経明らかに理達し、善く開導す。殿廷に召対せしむれば、必ず坐を賜い、従容として宴語す。未だ久しからず、吐蕃に奉使す、未だ至らざるに、召還さる。

原文洪武元年八月,上疏言:「祈天永命之要,在忠厚以存心,寬大以為政,法天道,順人心。雷霆霜雪,可暫不可常。浙西既平,科斂當減。」太祖嘉納之,然不能盡從也。明年修《元史》,命祎與濂為總裁。祎史事擅長,裁煩剔穢,力任筆削。書成,擢翰林待制,同知制誥兼國史院編修官。奉詔預教大本堂,經明理達,善開導。召對殿廷,必賜坐,從容宴語。未久,奉使吐蕃,未至,召還。

五年正月、雲南を招諭するを議し、命じて禕に詔を齎して往かしむ。至れば則ち梁王を諭し、亟に版図を奉じて職方に帰すべく、然らずば天討旦夕に至らんと。王聴かず、別室に館す。他日、又諭して曰く、「朝廷雲南百万の生霊を以て、鋒刃に殲されるを欲せず。若し険遠を恃み、明命に抗わば、龍驤鹢艫、会戦昆明にて、悔ゆるも及ばざらん」と。梁王駭服し、即ち館を改む。会に元脱脱を遣わして餉を征し、危言を以て王を脅し、必ず禕を殺さんとす。王已むを得ず禕を出だして之に見えしむ。脱脱禕を屈せんと欲す。禕叱して曰く、「天既に汝が元の命を訖え、我が朝実に之に代わる。汝爝火の余燼、敢えて日月と明を争わんや。且つ我と汝皆使なり、豈に汝が為に屈せんや」と。或る人脱脱に勧めて曰く、「王公素より重名を負う、害す可からず」と。脱脱臂を攘ぎて曰く、「今孔聖と雖も、義にて存するを得ず」と。禕顧みて王に曰く、「汝我を殺せば、天兵継ぎて至らん、汝の禍踵を旋らすに及ばず」と。遂に害に遇う、時に十二月二十四日なり。梁王使を遣わして祭を致し、衣冠を具えて之を斂む。建文中、禕の子紳禕の事を訟う、詔して翰林学士を贈り、諡して文節と曰う。正統中、諡を改めて忠文とす。成化中、命じて祠を建てて之を祀らしむ。

原文五年正月議招諭雲南,命祎賫詔往。至則諭梁王,亟宜奉版圖歸職方,不然天討旦夕至。王不聽,館別室。他日,又諭曰:「朝廷以雲南百萬生靈,不欲殲於鋒刃。若恃險遠,抗明命,龍驤鹢艫,會戰昆明,悔無及矣。」梁王駭服,即為改館。會元遣脫脫征餉,脅王以危言,必欲殺祎。王不得已出祎見之,脫脫欲屈祎,祎叱曰:「天既訖汝元命,我朝實代之。汝爝火余燼,敢與日月爭明邪!且我與汝皆使也,豈為汝屈!」或勸脫脫曰:「王公素負重名,不可害。」脫脫攘臂曰:「今雖孔聖,義不得存。」祎顧王曰:「汝殺我,天兵繼至,汝禍不旋踵矣。」遂遇害,時十二月二十四日也。梁王遣使致祭,具衣冠斂之。建文中,祎子紳訟祎事,詔贈翰林學士,謚文節。正統中,改謚忠文。成化中,命建祠祀之。

紳、字は仲繕。禕の死する時、年十三、兄の綬に鞠く、母兄に事えて孝友を尽くす。長じて博学、宋濂に受業す。濂之を器として曰く、「吾が友亡びず」と。蜀献王紳を聘い、客礼を以て待つ。紳王に啓して雲南に往き父の遺骸を求め、獲ざれば即ち死所に致祭し、『滇南慟哭記』を述べて以て帰る。建文帝の時、推薦を用いて召し国子博士と為し、『太祖実録』を修するに預かり、『大明鐃歌鼓吹曲』十二章を献ず。方孝孺と友善し、官に卒す。

原文紳,字仲繕。祎死時,年十三,鞠於兄綬,事母兄盡孝友。長博學,受業宋濂。濂器之曰:「吾友不亡矣。」蜀獻王聘紳,待以客禮。紳啟王往雲南求父遺骸,不獲即死所致祭,述《滇南慟哭記》以歸。建文帝時,用薦召為國子博士,預修《太祖實錄》,獻《大明鐃歌鼓吹曲》十二章。與方孝孺友善,卒官。

子の稌、字は叔豊。方孝孺に師事す。孝孺難に遭う、其の友鄭珣らと潜かに遺骸を収め、禍幾くんば測る可からず、是より仕進を絶意す。初め、紳父の亡きを痛み、食に兼味せず。稌之を守りて変えず、喪に居り、酒を飲まず、肉を食わざること三年、門人私に諡して孝荘先生と曰う。

原文子稌,字叔豐。師方孝孺。孝孺被難,與其友鄭珣輩潛收遣骸,禍幾不測,自是絕意仕進。初,紳痛父亡,食不兼味。稌守之不變,居喪,不飲酒,不食肉者三年,門人私謚曰孝莊先生。

子の汶、字は允達。成化十四年進士。中書舎人を授かる。病を謝して帰り、斉山の下に読書す。弘治初、言者交々に推薦し、検討陳献章と同召す、未だ京に抵らずして卒す。

原文子汶,字允達。成化十四年進士。授中書舍人。謝病歸,讀書齊山下。弘治初,言者交薦,與檢討陳獻章同召,未抵京卒。

禕雲南に死して三年、死事する者又た呉雲有り。雲、宜興の人。元の翰林待制、太祖に仕え、湖広行省参政と為る。洪武八年九月、太祖議して再び使を遣わし梁王を招諭せんとし、雲を召して至らしめ、之に語りて曰く、「今天下一家、独り雲南正朔を奉ぜず、我が使臣を殺す、卿能く我が為に陸賈たらんや」と。雲頓首して行くを請う。時に梁王鉄知院ら二十余人を遣わして漠北に使せしむ、大将軍の獲る所と為り、京師に送る。太祖之を釈し、令して雲と偕に行かしむ。既に境に入る、鉄知院ら謀りて曰く、「吾輩使を奉じて執えられ、罪且つ死せん」と。乃ち雲を誘い、令して詐りて元の使と為り、制書を改制し、共に梁王を紿かんとす。雲誓死して従わず、鉄知院ら遂に雲を殺す。梁王其の事を聞き、雲の骨を収め、蜀の給孤寺に送りて之を殯す。

原文祎死雲南之三年,死事者又有吳雲。雲,宜興人。元翰林待制,仕太祖,為湖廣行省參政。洪武八年九月,太祖議再遣使招諭梁王,召雲至,語之曰:「今天下一家,獨雲南未奉正朔,殺我使臣,卿能為我作陸賈乎?」雲頓首請行。時梁王遣鐵知院輩二十餘人使漠北,為大將軍所獲,送京師,太祖釋之,令與雲偕行。既入境,鐵知院等謀曰:「吾輩奉使被執,罪且死。」乃誘雲,令詐為元使,改制書,共紿梁王。雲誓死不從,鐵知院等遂殺雲。梁王聞其事,收雲骨,送蜀給孤寺殯之。

雲の子黻、朝廷に雲の事を上る。詔して伝を馳せて返葬せしめ、黻を以て国子生と為す。弘治四年五月、雲に刑部尚書を贈り、諡して忠節と曰い、禕と並び祠し、祠の額を改めて二忠と曰う。

原文雲子黻,上雲事於朝。詔馳傳返葬,以黻為國子生。弘治四年五月贈雲刑部尚書,謚忠節,與祎並祠,改祠額曰二忠。

熊鼎、字は伯潁、臨川の人。元末郷に挙げられ、龍渓書院に長ず。江西寇乱し、鼎郷兵を結びて自ら守る。陳友諒屡々之を脅すも応ぜず。鄧愈江西を鎮め、数え延見し、其の才を奇とし、之を薦む。太祖之に官せんと欲すも、親老を以て辞し、乃ち愈の幕府に留めて軍事を賛せしむ。母喪除き、京師に召し至り、徳清県丞を授く。松江の民銭鶴臯反す、隣郡大いに驚く、鼎静を以て之を鎮む。

原文熊鼎,字伯潁,臨川人。元末舉於鄉,長龍溪書院。江西寇亂,鼎結鄉兵自守。陳友諒屢脅之,不應。鄧愈鎮江西,數延見,奇其才,薦之。太祖欲官之,以親老辭,乃留愈幕府贊軍事。母喪除,召至京師,授德清縣丞。松江民錢鶴臯反,鄰郡大驚,鼎鎮之以靜。

呉元年礼儀を議するを召し、中書考功博士を除す。起居注に遷り、詔を承けて故事にて戒めとする可きものを捜括し、新宮の壁間に書す。舎人耿忠広信に使して還り、郡県官の違法の状を奏す。帝御史を遣わして之を廉せしむ。而して時に已に赦書を頒ち、丞相李善長再諫すも納れず。鼎給事中尹正と偕に進みて曰く、「朝廷四方に大信を布く、復た細故を以て御史を煩わし、信を失い、且つ威を褻す」と。帝默然として久しくして、乃ち御史を遣わさず。

原文吳元年召議禮儀,除中書考功博士。遷起居註,承詔搜括故事可懲戒者,書新宮壁間。舍人耿忠使廣信還,奏郡縣官違法狀,帝遣御史廉之。而時已頒赦書,丞相李善長再諫不納,鼎偕給事中尹正進曰:「朝廷布大信於四方,復以細故煩御史,失信,且褻威。」帝默然久之,乃不遣物史。

洪武元年に改元し、新たに浙江按察司を設置し、熊鼎を僉事とし、臺州・温州を分轄させた。臺州・温州は方国珍が窃拠して以来、偽官や強将二百人が甚だしく暴横であった。鼎は彼らをことごとく江・淮の間に移し、民は初めて安堵した。平陽知州の梅鎰が贓罪に坐し、弁明が止まず、民数百人が皆、知州に罪なしと訴えた。鼎がこれを聴こうとすると、吏が鼎に申し出た、「知州を釈放すれば、故に出るは如何に」。鼎は嘆いて言った、「法は罪を誅するためのもの、我どうして譴責を畏れて、無罪の人を誅しようか」。鎰を釈放し、実情を上聞し、返答はその上奏の通りであった。寧海の民陳徳仲が黎異を支解し、異の妻がたびたび訴えたが、正しい裁きを得られなかった。鼎がある日文書を閲覧していると、青蛙が机の上に立っていた。鼎は言った、「蛙は黎異ではないか。もし異ならば、動くな」。蛙は果たして動かなかった。そこで徳仲を逮捕し、取り調べて事実を確かめ、直ちにその罪を正した。この秋、山東が初めて平定され、按察司を設置し、再び鼎を僉事とした。鼎が到着すると、不職の有司数十名を罷免するよう上奏し、管轄区域は厳粛に清められた。鼎は官吏の利弊を調査しようと、郡県それぞれに二つの記録簿を置かせ、日々に治めた訴訟・獄事・銭穀のことを書き記させ、一つは郡県に留め、一つは憲府に上らせ、順次取り替え、記録簿に照らして査考したので、隠す者はいなかった。まもなく副使に進み、晋王府右傅に転じた。連座して左遷され、再び王府参軍を授かり、召されて刑部主事となった。

原文洪武改元,新設浙江按察司,以鼎為僉事,分部臺、溫。臺、溫自方氏竊據,偽官捍將二百人,暴橫甚。鼎盡遷之江、淮間,民始安。平陽知州梅鎰坐贓,辨不已,民數百鹹訴知州無罪。鼎將聽之,吏白鼎:「釋知州,如故出何?」鼎嘆曰:「法以誅罪,吾敢畏譴,誅無罪人乎!」釋鎰,以情聞,報如其奏。寧海民陳德仲支解黎異,異妻屢訴不得直。鼎一日覽牒,有青蛙立案上,鼎曰:「蛙非黎異乎?果異,止勿動。」蛙果勿動,乃逮德仲,鞫實,立正其罪。是秋,山東初定,設按察司,復以鼎為僉事。鼎至,奏罷不職有司數十輩,列部肅清。鼎欲稽官吏利弊,乃令郡縣各置二歷,日書所治訟獄錢粟事,一留郡縣,一上憲府,遞更易,按歷鉤考之,莫敢隱者。尋進副使,徙晉王府右傅。坐累左遷,復授王府參軍,召為刑部主事。

八年、西部の朶児只班が部落を率いて内附し、熊鼎を岐寧衛経歴に改めた。到着後、賊が偽って降ったことを知り、密かに上疏してこれを論じた。帝は使者を遣わして慰労し、裘帽を賜い、また中使の趙成を遣わして鼎を召した。鼎が既に出発した後、賊は果たして叛き、鼎を脅して北還させようとした。鼎は大義を以て責め、罵ったので、遂に成及び知事の杜寅とともに殺害された。帝は聞き、悼み惜しみ、黄羊川に葬ることを命じ、祠を立て、その食んでいた俸給をその家に給した。

原文八年,西部朵兒只班率部落內附,改鼎岐寧衛經歷。既至,知寇偽降,密疏論之。帝遣使慰勞,賜裘帽,復遣中使趙成召鼎。鼎既行,寇果叛,脅鼎北還。鼎責以大義,罵之,遂與成及知事杜寅俱被殺。帝聞,悼惜,命葬之黃羊川,立祠,以所食俸給其家。

易紹宗は、攸県の人である。洪武の時、軍に従って功があり、象山県銭倉所の千戸を授かった。建文三年、倭が上陸して掠奪した。紹宗は壁に大書して曰く、「将を設くるは敵を禦ぐため、軍を設くるは民を衛るため。敵を縱すは忠ならず。民を棄つるは仁ならず。忠ならず仁ならず、何を以て臣たらんや。臣として職を尽くさず、何を以て人たらんや」。書き終えると、妻の李に命じて牲酒を整え生贄を捧げさせ、訣別して出陣し、密かに遊兵に間道から賊の舟を焼かせた。賊は驚いて救い、紹宗は格闘し、海岸まで追撃し、泥沼に陥り、手ずから数十賊を斬り、遂に害された。その妻が孤児を連れて朝廷に奏上し、葬祭を賜い、碑を刻んでこれを顕彰した。

原文易紹宗,攸人。洪武時,從軍有功,授象山縣錢倉所千戶。建文三年,倭登岸剽掠。紹宗大書於壁曰:「設將禦敵,設軍衛民。縱敵不忠。棄民不仁。不忠不仁,何以為臣!為臣不職,何以為人!」書畢,命妻李具牲酒生奠之,訣而出,密令遊兵間道焚賊舟。賊驚救,紹宗格戰,追至海岸,陷淖中,手刃數十賊,遂被害。其妻攜孤奏於朝,賜葬祭,勒碑旌之。

琴彭は、交阯の人である。永楽年間、乂安知府として茶籠州の事務を署理し、善政があった。宣徳元年、黎利が反し、衆を率いてその城を包囲した。彭は七月にわたって拒み守り、糧尽き兵疲れ、諸将に援ける者なく、巡按御史が飛章を以て救援を請うた。宣宗は馳せて勅を下し、栄昌伯陳智等を責めて曰く、「茶籠を守る彭は孤城に困しめられ、死を誓って二心なし、汝ら援けずば、将に何を以て責を逃れんや。急ぎ兵を発して囲みを解け、国憲を犯すことなかれ」。勅が未だ至らぬうちに城は陥ち、彭はこれに死した。詔して交阯左布政使を追贈し、一子を京師に送り官とした。

原文琴彭,交阯人。永樂中,以乂安知府署茶籠州事,有善政。宣德元年,黎利反,率眾圍其城。彭拒守七月,糧盡卒疲,諸將無援者,巡按御史飛章請救。宣宗馳敕責榮昌伯陳智等曰:「茶籠守彭被困孤城,矢死無貳,若等不援,將何以逃責!急發兵解圍,無幹國憲。」敕未至而城陷,彭死之。詔贈交阯左布政使,送一子京師官之。

時に交阯の人陳汝石・朱多蒲・陶季容・陳汀もまた皆、忠節をもって顕著であった。汝石は初め陳氏の小校であり、大軍が南征すると、率先して帰附し、功を積んで都指揮僉事に至った。永楽十七年、四忙の士官車綿子等が叛いた。汝石は方政に従ってこれを討ち、賊陣に深く入り、流れ矢に中って馬から墜ち、千戸の朱多蒲とともに死んだ。多蒲もまた交阯の人である。事が聞こえ、行人が遣わされて祭を賜い、その家に賻を与え、官が冢を設けた。

原文時交阯人陳汝石、朱多蒲、陶季容、陳汀亦皆以忠節著。汝石初為陳氏小校,大軍南征,率先歸附,積功至都指揮僉事。永樂十七年,四忙士官車綿子等叛。汝石從方政討之,深入賊陣,中流矢墜馬,與千戶朱多蒲皆死。多蒲,亦交阯人。事聞,遣行人賜祭,賻其家,官為置冢。

皇甫斌は、寿州の人である。先に興州右屯衛指揮同知となり、才能により遼海衛に転じた。忠勇にして智略あり、警報に遇えば、常に士卒に先んじた。宣徳五年十月、兵を率いて寇を防ぎ、密城東峪に至り、旦より晡に至るまで力戦し、矢尽き援絶え、子の弼が身をもって父を衛い、ともに戦死した。千戸の呉貴、百戸の呉襄・毛観もまた驍勇で、出れば必ず先鋒を衝き、この時に至って皆死んだ。斌等は死んだが、殺傷は過当で、寇もまた引き退いた。事が聞こえ、詔して有司に褒賞と撫恤を行わせた。

原文皇甫斌,壽州人。先為興州右屯衛指揮同知,以才調遼海衛。忠勇有智略,遇警,輒身先士卒。宣德五年十月勒兵禦寇,至密城東峪,自旦及晡力戰,矢盡援絕,子弼以身衛父,俱戰死。千戶吳貴,百戶吳襄、毛觀並驍勇,出必沖鋒,至是皆死。斌等雖死,殺傷過當,寇亦引退。事聞,詔有司褒恤。

張瑛は、字を彦華といい、浙江建徳の人である。永楽年間、郷挙に挙げられ、刑部員外郎を歴任した。正統の時、建寧知府に抜擢された。鄧茂七が乱を起こし、賊二千余が城に迫って砦を結び、四方に出て掠奪した。瑛は建安典史の鄭烈を率いて都指揮徐信の軍と会し、三路に分かれてこれを襲い、五百余の首を斬り、遂にその砦を抜いた。右参議に進み、引き続き知府の事務を管轄した。烈もまた主簿に遷った。茂七が誅された後、その党の林拾得等が転じて城下を掠め、瑛は従父の敬とこれを防いだ。賊は敗れ、勝に乗じて北を逐うたが、伏兵の中に陥り、敬は死に、瑛は捕らえられ、大罵して屈せず死んだ。詔して福建按察使を追贈し、祭を賜い、その子に官を与えた。弘治年間、建寧知府の劉玙が朝廷に請い、祠を立てて祭を行った。

原文張瑛,字彥華,浙江建德人。永樂中,舉於鄉,歷刑部員外郎。正統時,擢建寧知府。鄧茂七作亂,賊二千餘迫城結砦,四出剽掠。瑛率建安典史鄭烈會都指揮徐信軍,分三路襲之,斬首五百餘,遂拔其砦。進右參議,仍知府事。烈亦遷主簿。茂七既誅,其黨林拾得等轉掠城下,瑛與從父敬禦之。賊敗,乘勝逐北,陷伏中,敬死,瑛被執,大罵不屈死。詔贈福建按察使,賜祭,官其子。弘治中,建寧知府劉玙請於朝,立祠致祭。

時に泉州守の熊尚初もまた賊を拒いで捕らえられ死んだ。尚初は、南昌の人である。初め吏となり、才能により都察院都事に抜擢され、進んで経歴となった。正統年間、都御史陳鎰の推薦により、泉州知府に抜擢された。盗賊が起こり、上官が檄を飛ばして尚初に監軍を命じ、十日と経たずに賊数百を降した。やがて賊が城下に迫り、守将は防ごうとしなかった。尚初は憤り、民兵数百を率い、晋江主簿の史孟常・陰陽訓術の楊仕弘と分統し、古陵坡で拒んだ。兵敗れ、皆害に遇った。郡人はこれを哀しみ、忠臣廟に配享した。

原文時泉州守熊尚初亦以拒賊被執死。尚初,南昌人。初為吏,以才擢都察院都事,進經歷。正統中,用都御史陳鎰薦,擢泉州知府。盜起,上官檄尚初監軍,不旬日降賊數百。已而賊逼城下,守將不敢禦。尚初憤,提民兵數百,與晉江主簿史孟常、陰陽訓術楊仕弘分統之,拒於古陵坡。兵敗,皆遇害。郡人哀之,為配享忠臣廟。

王禎は、字を維禎といい、吉水の人である。祖父の省は、建文の難に死し、自ら伝がある。成化初め、禎は国子生より夔州通判を授かった。二年、荊・襄の石和尚が流れ劫掠して巫山に至り、盗賊を督する同知の王某は怯えて救わなかった。禎は面と向かってこれを数え、直ちに代わってその部の民兵を率い、昼夜行軍した。到着すると城は既に陥ち、賊は山中に集まっていた。禎はその首魁を撃殺し、残りは尽く逃げ、そこで県を行き巡り傷残を撫で、潰散を招き、久しくしてようやく帰還した。わずか三日後、賊が再び大昌を劫掠した。禎は同知に行くよう促したが、応じなかった。指揮の曹能・柴成は同知と結託し、禎を煽って言った、「公は国のために力を出し、再び行くことを肯んじるか」。禎は直ちに行くことを請い、二人は偽って左右を助けると約した。禎が馬に乗ると、二人を挟んでともに行き、水を挟んで陣を布いた。渡り終えると、二人は賊を見るや即ち逃げた。禎は半日にわたって包囲され、誤って泥沼に入り、賊は捕らえて降らせようとしたが、禎は大罵した。賊は怒り、その喉と右腕を断って死なせた。従行した奉節典史及び部卒六百余人は皆死んだ。

原文王禎,字維禎,吉水人。祖省,死建文難,自有傳。成化初,禎由國子生授夔州通判。二年,荊、襄石和尚流劫至巫山,督盜同知王某者怯不救。禎面數之,即代勒所部民兵,晝夜行。至則城已陷,賊方聚山中。禎擊殺其魁,余盡遁,乃行縣撫傷殘,招潰散,久乃得還。甫三日,賊復劫大昌。禎趣同知行,不應。指揮曹能、柴成與同知比,激禎曰:「公為國出力,肯復行乎?」禎即請往,兩人偽許相左右。禎上馬,挾二人與俱,夾水陣。既渡,兩人見賊即走。禎被圍半日,誤入淖中,賊執欲降之,禎大罵。賊怒,斷其喉及右臂而死。從行者奉節典史及部卒六百餘人皆死。

死んだ場所から府まで三百余里、乗っていた馬が駆け戻り、血が淋漓とし、毛は尽く赤かった。衆は初めて禎の敗れたことを知り、屍を捜しに行くと、顔は生きているようであった。子の広が馬を売って帰りの資金としようとしたが、王同知は馬を得て代価を払わなかった。棺が既に出発すると、馬は夜半に哀鳴した。同知が起きてこれを見ると、馬は急に前に進んで首筋を噛み、その胸を突き、翌日血を吐いて死んだ。人はこれを義馬と称した。事が聞こえ、禎に僉事を追贈し、一子を録用した。

原文自死所至府三百餘裏,所乘馬奔歸,血淋漓,毛盡赤。眾始知禎敗,往覓屍,面如生。子廣鬻馬為歸貲,王同知得馬不償直。櫬既行,馬夜半哀鳴。同知起視之,馬驟前嚙項,搗其胸,翼日嘔血死,人稱為義馬。事聞,贈禎僉事,錄一子。

万琛は、字を廷献といい、宣城の人である。慷慨として気節を負い、郷挙に挙げられた。弘治年間、瑞金県知事となった。十八年正月、大盗が大挙して至り、県人は騒然として逃げ惑った。琛に急ぎ去るよう勧める者があったが、琛はこれを斥け、民兵数十人を率いて敵を迎え撃ち、賊二十余人を殺した。相持すること翌日に至り、力尽きて捕らえられ、罵り絶えず、賊が槍を集めて刺し、乃ち死んだ。光禄少卿を追贈し、祭葬を賜い、蔭官を与えた。

原文萬琛,字廷獻,宣城人。慷慨負氣節,舉於鄉。弘治中,知瑞金縣。十八年正月,劇盜大至,縣人洶洶逃竄。有勸琛急去者,琛斥之,率民兵數十人迎敵,殺賊二十餘人。相持至明日,力屈被執,罵不絕口,賊攢刺之,乃死。贈光祿少卿,賜祭葬,予蔭。

時に王祐という者がおり、広昌知県となり、賊が至ると、民は尽く逃げ、援兵もまた至らなかった。祐は刀を抜いて自らその腹を切り、「城ありて守れず、何を以て生きんや」と言った。左右が駆け寄ってその刀を奪った。後、援兵が集まり、賊はやや退いた。七日を過ぎて再び突如として至り、祐は慌てて敵に赴き、これに死した。

原文時有王祐者,為廣昌知縣,賊至,民盡逃,援兵又不至。祐拔刀自刲其腹曰:「有城不能守,何生為!」左右奔奪其刀。後援兵集,賊稍退。越七日復突至,祐倉皇赴敵,死之。

周憲は安陸の人である。弘治六年に進士となり、刑部主事に任ぜられ、員外郎に進んだ。十七年、事に坐して詔獄に下され、袞州通判に左遷された。正徳初年、元の官に復し、江西副使を歴任した。華林・馬脳の賊が盛んになっていた時、総督陳金が周憲に檄を飛ばしてこれを討伐させ、馬脳砦及び仙女・雞公嶺などの諸寨を平定し、前後して千余人を斬獲した。華林の賊が窮すると、間者を遣わして飢えて困窮している様子を偽って言わせた。周憲はこれを信じ、檄を移して会師して挟撃しようとした。他の将の多くは傍観していたが、周憲は北門を攻め、三度戦って賊は少し退いたので、子の幹と共に先登してこれを追い詰めた。賊が雨のように木石を落とすと、軍は潰え、周憲は槍を受け、幹が前に出て救おうと力戦して崖から落ちて死んだ。周憲は重傷を負って捕らえられ、罵りを絶やさず、賊は彼を八つ裂きにした。事が朝廷に伝わると、按察使を追贈され、祭葬を賜り、節湣と諡され、一子に蔭が与えられ、幹の家門には孝烈と顕彰された。嘉靖二年、江西巡撫盛応期が黄宏・馬思聰と共に顕彰するよう請うたので、詔により礼忠烈祠に附祀された。後に給事中李鐸の言に従い、役所に命じて毎年その家に米二石、帛二匹を給することとなった。

原文周憲,安陸人。弘治六年進士。除刑部主事,進員外郎。十七年坐事下詔獄,謫袞州通判。正德初,復故官,歷江西副使。華林、馬腦賊方熾,總督陳金檄憲剿之,平馬腦砦及仙女、雞公嶺諸寨,先後斬獲千餘人。華林賊窘,遣諜者詭言饑困狀。憲信之,移檄會師夾擊。他將多觀望,憲攻北門,三戰,賊稍卻,與子幹先登逼之。賊下木石如雨,軍潰,憲中槍,幹前救,力戰墮崖死。憲創重被執,罵不絕口,賊支解之。事始聞,贈按察使,予祭葬,謚節湣,蔭一子,旌幹門曰孝烈。嘉靖二年,江西巡撫盛應期請與黃宏、馬思聰並旌,詔附禮忠烈祠。後從給事中李鐸言,命有司歲給其家米二石,帛二匹。

楊忠は寧夏の人である。代々中衛指揮の官にあり、功により都指揮僉事に進み、廉潔で節操があり、謀略と勇気を備えていた。正徳五年、安化王寘鐇が反乱を起こし、その党の丁広が巡撫安惟学を殺そうとした時、楊忠は傍らにいて罵って言った、「賊の犬め、上を犯そうとするか!」。丁広は怒って彼を殺したが、死ぬまで罵りはますます激しかった。楊忠の同官の李睿は変事を聞き、馳せて寛鐇の所へ行った。門は閉ざされて入れず、大声で罵ったので、賊に殺された。百戸の張欽は逆に従わず、雷福堡へ走ったが、やはり殺された。皆、官を追贈され蔭が与えられ、忠と睿の家には忠烈の門、欽の家には忠節の門と顕彰された。

原文楊忠,寧夏人。世官中衛指揮,以功進都指揮僉事,廉介有謀勇。正德五年,安化王寘鐇反,其黨丁廣將殺巡撫安惟學,忠在側,罵曰:「賊狗敢犯上邪!」廣怒,殺之,迄死罵益厲。忠同官李睿聞變,馳至寘鐇所。門閉不得入,大罵,為賊所殺。百戶張欽不從逆,走至雷福堡,亦被殺。皆贈官予蔭,表忠、睿曰忠烈之門,欽曰忠節之門。

呉景は南陵の人である。弘治九年の進士。正徳年間、四川僉事を歴任し、江津を守った。重慶の人曹弼が播州へ亡命し、徒党を糾合して川南を寇し、大盗藍廷瑞と合流しようと謀った。六年正月、江津に迫った。御史の俞緇は逃げ去り、呉景と都指揮の龐鳳に防禦を命じた。龐鳳は呉景を誘って共に逃げようとしたが、呉景は承知せず、典史の張俊を率いて迎撃し、自ら三賊を殺し、矢が顔面に当たった。急いで兵を収めて守りに入ろうとしたが、城は既に陥落し、大声で叫んだ、「私を殺せ、士民を殺すな!」。賊は彼に跪くよう強いたが、屈せず、遂に殺され、張俊も死んだ。巡撫の林俊がその事績を上奏すると、詔により副使を追贈され、祭葬を賜り、江津に祠が立てられ、世襲の蔭が与えられた。

原文吳景,南陵人。弘治九年進士。正德中,歷官四川僉事,守江津。重慶人曹弼亡命播州,糾眾寇川南,謀與大盜藍廷瑞合。六年正月逼江津。御史俞緇遁去,屬景及都指揮龐鳳禦之。鳳邀景俱走,景不可,率典史張俊迎擊,手殺三賊,矢被面。急收兵入保,城已陷,大呼曰:「寧殺我,毋殺士民!」賊強之跪,不屈,遂被殺,俊亦死。巡撫林俊上其事,詔贈景副使,賜祭葬,立祠江津,予世蔭。

その月、僉事の王源が川北を巡察中、藍廷瑞・鄢本恕らが通州・巴州から営山まで掠奪していると聞き、王源は典史の鄧俊を率いて防禦したが、共に殺された。副使を追贈され、その子に蔭が与えられた。王源は五台の人で、弘治十二年の進士である。

原文是月,僉事王源行部川北,會藍廷瑞、鄢本恕等掠通、巴至營山,源率典史鄧俊禦之,皆被殺。贈源副使,蔭其子。源,五臺人,弘治十二年進士。

翌年正月、賊の麻六児が川東に迫ろうとした。副使の馮傑が蒼渓で追撃し、多くの捕虜と斬首を得た。日暮れに鉄山関へ陣を移したところ、賊が夜に乗じて突撃し、馮傑はそこで戦死した。按察使を追贈され、祭葬を賜り、恪湣と諡され、世襲で百戸の蔭が与えられた。

原文明年正月,賊麻六兒將逼川東。副使馮傑追擊於蒼溪,俘斬頗眾。日晡,移營鐵山關,賊乘夜沖突,傑死之。贈按察使,賜祭葬,謚恪湣,世蔭百戶。

この時、略陽知県の孫璽・剣州判官の羅明・梁山主簿の時植も皆、賊のために死んだ。

原文是時,略陽知縣孫璽、劍州判官羅明、梁山主簿時植亦皆死於賊。

孫璽は字を廷信といい、代州の人である。郷挙に挙げられ、扶風県知事となった。都御史の藍章は略陽が漢中の要地で、以前は城がなかったため、孫璽に檄を飛ばして城を築かせた。工事が未完成のうちに賊が来襲し、県令の厳順は逃げようとした。孫璽は刀を抜いて机を斬りつけて言った、「逃げようとする者はこれを見よ!」。そして僚属を率いて堅く守り、数日後に城は陥落し、孫璽は捕らえられ、大声で罵って屈せず、賊は彼を切り刻んで殺した。厳順は逃げ去り、孫璽も共に逃げたと誣告し、江に落ちて死んだとし、他人の死体で葬儀を行った。孫璽の子が開いて見ると、父の遺体ではなかったので、朝廷に訴えた。調査の結果、節を守って死んだ状況が明らかになり、光禄少卿を追贈され、祭礼と蔭が与えられ、厳順は罪に問われた。

原文璽,字廷信,代州人。舉於鄉,知扶風縣。都御史藍章以略陽漢中要地,舊無城,檄璽往城之。工未畢,賊至,縣令嚴順欲去,璽拔刀斫坐幾曰:「欲去者視此!」乃率僚屬堅守,數日城陷,璽被執,大罵不屈,賊臠殺之。順逃去,誣璽俱逃,滋於江,以他人屍斂。璽子啟視,非是,訟於朝。勘得死節狀,贈光祿少卿,賜祭予蔭,抵順罪。

羅明は吏から身を起こした。鄢本恕がその城に迫ると、子の介と共に防ぎ守った。城が陥落し、父子共に賊を罵って死んだ。

原文明,以吏起家。鄢本恕逼其城,與子介拒守。城陷,父子皆罵賊死。

時植は字を良材といい、通許の人である。国子監生から官を受け、当時は県の事務を代行していた。賊の方四らが土地を掠奪しに来たが、時植はこれを撃退し、数十の首級を斬獲した。一ヶ月後に再び来襲し、数日間防ぎ戦ったが、城は陥落し、降伏を勧められたが屈せず、印を取るよう脅されたが与えず、大声で罵って殺された。妻の賈は変事を聞くや即座に自縊し、九歳の娘は火の中に飛び込んで死んだ。羅明と時植は共に規定に従って追贈と撫恤を受け、時植の妻と娘は貞烈と顕彰された。

原文植,字良材,通許人。由國子生授官,時攝縣事。賊方四等略地,植拒卻之,斬獲數十級。逾月復至,相拒數日,城陷,說之降,不屈。脅取其印,不予,大罵被殺。妻賈聞變即自縊,女九歲,赴火死。明、植皆贈恤如制,而表植妻女為貞烈。

その時、死を冒して賊を殺した士民には、趙趣・徐敬之・雷応通・袁璋らがいた。

原文其時,士民冒死殺賊者,有趙趣、徐敬之、雷應通、袁璋之屬。

趙趣は梁山の諸生である。賊が城を攻めると、友人黄甲・李鳳・何璟・蕭鋭・徐宣・楊茂寛・趙采と共に死を誓って防ぎ守った。城が陥落し、皆死んだ。都御史の林俊はその義を称え、祠を立てて祀った。徐敬之も梁山の人である。衆に推されて部長となり、賊を防いで陣に陥って死んだ。

原文趣,梁山諸生。賊攻城,同友人黃甲、李鳳、何璟、蕭銳、徐宣、楊茂寬、趙采誓死拒守。城陷,皆死。都物史林俊嘉其義,立祠祀之。敬之,亦梁山人。眾推為部長,以拒賊陷陣死。

雷応通は嘉州の人である。賊が百丈関を沖した時、父子七人が義を唱えて死戦した。捕らえられ、皆慷慨として殺された。

原文應通,嘉州人。賊沖百丈關,父子七人倡義死戰。被執,俱慷慨就殺。

袁璋は江南の人である。平素から勇侠で知られていた。巡撫の林俊に委ねられて賊を討伐し、その地で功を立てた。後に捕らえられると、その子の袁襲が身を挺して救おうとし、連続して七賊を殺したが、やはり捕らえられ、共に死んだ。袁襲が死んで三日後も、両目はまだ父を睨みつけていた。林俊はその家門に父子忠節と顕彰した。総制の彭沢が城隍廟に石碑を刻ませ、忠孝祠に祀った。

原文璋,江南人。素以勇俠聞。巡撫林俊委剿賊所在有功。後為所執,其子襲挺身救之,連殺七賊,亦被執,俱死。襲死三日,兩目猶瞠視其父。林俊表其門曰父子忠節。總制彭澤為勒石城隍廟,祀於忠孝祠。

霍恩は字を天錫といい、易州の人である。弘治十五年の進士。正徳年間、上蔡県知事を歴任した。六年、賊が四方で起こり、中原の郡邑は多くが破壊された。畿内では棗強知県の段豸・大城知県の張汝舟、河南では霍恩及び典史の梁逵、西平知県の王佐・主簿の李銓、葉県知県の唐天恩、永城知県の王鼎、裕州同知の郁采・都指揮の詹済・郷官の任賢、固始県丞の曾基、夏邑県丞の安宣、息県主簿の刑祥、睢寧主簿の金声・丘紳、西華教諭の孔環、山東では萊蕪知県の熊驂、萊州衛指揮僉事の蔡顕、南畿では霊譬主簿の蒋賢が皆、節を守って死に、特に霍恩・王佐・郁采・孔環の死は甚だ烈しかった。

原文霍恩,字天錫,易州人。弘治十五年進士。正德中,歷知上蔡縣。六年,賊四起,中原郡邑多殘破。畿內則棗強知縣段豸、大城知縣張汝舟,河南則恩及典史梁逵,西平知縣王佐、主簿李銓,葉縣知縣唐天恩,永城知縣王鼎,裕州同知郁采、都指揮詹濟、鄉官任賢,固始丞曾基,夏邑丞安宣,息縣主簿刑祥,睢寧主簿金聲、丘紳,西華教諭孔環,山東則萊蕪知縣熊驂,萊州衛指揮僉事蔡顯,南畿則靈譬主簿蔣賢,皆抗節死,而恩、佐、采、環死尤烈。

霍恩は梁逵と共に守り、賊が来襲した時、妻の劉に言った、「万一危急の事態があれば、お前はどうするか」。劉は共に死ぬことを願い、そこで役所の後ろに台を築き、約束して言った、「私が城から下りるのを見たら、即ち賊が入ったのだ」。城が陥落すると、霍恩は刀を抜いて城を下りた。劉は台上でそれを見ると、即座に縊りかけたが、絶命せず、簪で心臓を刺して死んだ。霍恩は捕らえられ、賊は跪くよう脅した。罵って言った、「この膝が賊のために屈するものか!」。賊は人を殺して彼を脅したが、罵りはますます激しくなった。賊は刀でその口を抉り、八つ裂きにした。梁逵は自縊して死んだ。

原文恩與梁逵共守,當賊至時,語妻劉曰:「脫有急,汝若何?」劉願同死,乃築臺廨後,約曰:「見我下城,即賊入矣。」及城陷,恩拔刀下城,劉臺上見之,即縊,未絕,以簪刺心死。恩被執,賊脅之跪。罵曰:「吾此膝肯為賊屈乎!」賊日殺人以懾之,罵益厲。賊以刀抉其口,支解之。逵自經死。

豸は字を世高といい、澤洲の人である。進士より起家し、正徳年間に兵科都給事中に任ぜられ、棗強令に左遷された。賊が至ると、連戦してこれを退けた。城が陥落した際、四本の矢と一筋の槍を受け、目を瞋らせて大呼し、賊を殺して死に、賊はその城を屠った。汝舟は大城に官した時、主簿李銓と共に迎撃し、共に殺された。

原文豸,字世高,澤洲人。起家進士。正德中,授兵科都給事中,謫棗強令。賊至,連戰卻之。及城陷,中四矢一槍,瞋目大呼,殺賊而死,賊屠其城。汝舟官大城時,與主簿李銓迎戰,皆被殺。

佐は字を汝弼という。潞州の挙人で、西平令に任ぜられた。自ら数十人の賊を殺し、矢でその渠帥きょすいを斃した。賊は憤り、三日間急攻し、佐は力尽きて捕らえられ、罵声を絶やさなかった。賊は彼を竿に吊るし、殺して肢解した。天恩は葉県を知り、賊が至ると、父の政ら七人と共に死んだ。鼎は永城を知り、城が陥落すると、印を肘に結び付け、端座して賊を待ち、屈せずに死んだ。

原文佐,字汝弼。潞州舉人,授西平令。手殺賊數十人,矢斃其渠帥。賊忿,急攻三日,佐力屈被執,罵不絕口。賊懸諸竿,殺而支解之。天恩知葉縣,賊至,與父政等七人俱死。鼎知永城,城陷,系印於肘,端坐待賊,不屈死。

采は字を亮之といい、浙江山陰の人、進士である。主事より教諭に左遷され、裕州同知に遷った。済、賢と共に堅く守り、多くを斬獲したが、城陥落で捕らえられた。采は罵りを止めず、賊はその頬を砕いて殺した。済もまた屈せずに死んだ。賢はかつて御史であり、郷里に居た時、邑の子弟三千人を招いて防ぎ守り、賊を罵って死に、一家で死んだ者は十三人であった。基は固始丞であり、捕らえられ、馬を馭せと言われて従わず、害された。宣は初め夏邑丞に任ぜられた。賊の楊虎がその境に迫ると、行くなと勧める者もあったが、宣は兼行して進んだ。着任して七日目に賊が大挙して至り、防ぎ守って功があった。城が陥落し、死んだ。祥は既に致仕していたが、城が陥落し、賊を罵って死んだ。声、紳と義士の朱用之は迎撃して死んだ。

原文采,字亮之,浙江山陰人,進士。由主事謫教諭,遷裕州同知。與濟、賢共堅守,斬獲多,城陷被執。采罵不輟,賊碎其輔頰而死。濟亦不屈死。賢嘗為御史,方里居,招邑子三千人拒守,罵賊死,一家死者十三人。基為固始丞,被執,使馭馬不從,被害。宣,初授夏邑丞。賊楊虎逼其境,或勸毋往,宣兼程進。抵任七日,賊大至,拒守有功。城陷,死之。祥已致仕,城陷,罵賊死。聲、紳與義士朱用之迎戰死。

環は南宮の人である。歳貢生より来安知県に任ぜられたが、劉瑾の党に陥れられ、西華教諭に左遷された。捕らえられ、賊が「我を王と呼べば、即ち汝を釈放する」と言うと、厲声で「我は汝を万段に砕くことを恨むのみで、どうして汝に媚びて生き延びようか」と言い、遂に殺された。驂は賊に捕らえられ、主簿韓塘と共に屈せずに死んだ。顯は三人の子、湛、英、順と共に盗賊を防ぎ力戦して死んだ。

原文環,南宮人。由歲貢生授來安知縣,為劉瑾黨所陷,左遷西華教諭。被執,賊曰:「呼我王,即釋汝。」厲聲曰:「我恨不得碎汝萬段,肯媚汝求活耶!」遂被殺。驂為賊所執,與主簿韓塘俱不屈死。顯與三子湛、英、順俱禦盜力戰死。

諸人の死節の事が聞こえ、皆官を贈られ祭を賜り、蔭官を許され、祠が建てられるなど、制に従って処遇された。恩の妻劉は宜人を贈られ、忠節坊が建てられて顕彰された。天恩、鼎、基、宣、祥らの人々の郷里は考証できない。

原文諸人死節事聞,皆贈官賜祭予蔭立祠如制。恩妻劉贈宜人,建忠節坊旌之。天恩、鼎、基、宣、祥諸人,裏貫無考。

時に鄭宝という者がおり、郁林州同知として北流県の事務を代行していた。妖賊李通宝が北流を犯すと、宝は子の宗珪と出戦し、共に死んだ。

原文時有鄭寶,為郁林州同知,署北流縣事。妖賊李通寶犯北流,寶與子宗珪出戰,皆死。

王振という者は、福建黄崎鎮の巡検であった。海寇が大挙して至ると、三人の子、臣、朝、実を率いて終日迎撃した。伏兵が現れ、振は殺され、屍は僵立していた。三子がこれを救おうとし、臣は重傷を負い、朝、実は共に死んだ。これもまた差等をつけて恤典が与えられた。

原文王振者,為福建黃崎鎮巡檢。海寇大至,率三子臣、朝、實迎戰競日。伏兵起,振被殺,屍僵立。三子救之,臣重傷,朝、實皆死。亦予恤有差。

孫燧は字を徳成といい、余姚の人である。弘治六年の進士。刑部主事を歴任し、再び郎中に遷った。正徳年間、河南右布政使を歴任した。寧王宸濠に逆謀があり、宦官や寵臣と結び、日夜朝廷の内情を探り、変事を待ち望んだ。また群吏を劫持し、厚く餌を与えて、己が用いるところとした。巡撫王哲が己に附かないのを憎み、毒を盛り、病気にかからせ、一年余りで死なせた。董傑が哲の後を代わったが、僅か八月でまた死んだ。これより、その地に官する者は慄慄として、去ることを得るのを幸いとした。傑の後を代わった任漢、俞諫は皆一年余りで罷免されて帰った。燧は才節をもって治績の名声が高く、廷臣は彼を推挙して代わらせた。

原文孫燧,字德成,余姚人。弘治六年進士。歷刑部主事,再遷郎中。正德中,歷河南右布政使。寧王宸濠有逆謀,結中官幸臣,日夜诇中朝事,幸有變。又劫持群吏,厚餌之,使為己用。惡巡撫王哲不附己,毒之,得疾,逾年死。董傑代哲,僅八月亦死。自是,官其地者惴惴,以得去為幸。代傑者任漢、俞諫,皆歲餘罷歸。燧以才節著治聲,廷臣推之代。

十年十月、右副都御史に抜擢され、江西を巡撫した。燧は命を聞いて嘆き、「これは生死を以てこれに当たらねばならぬ」と言った。妻子を郷里に帰し、独り二人の僮僕を連れて行った。時に宸濠の逆状は既に大いに露わになり、南昌の人々は洶洶として、宸濠が旦夕に天子となるだろうと言った。燧の左右は悉く宸濠の耳目であり、燧は防察を密にし、左右は窺うことができず、独り時に宸濠に大義を陳説したが、ついに悔い改めなかった。密かに副使許逵の忠勇を察知し、大事を託すことができると考え、彼と謀った。先に、副使胡世寧が宸濠の逆謀を暴いたが、宦官や寵臣が彼のために地歩を築き、世寧は罪を得て去った。燧は朝廷に公言しても益がないと考え、他寇を防ぐことを託して予め備えをした。先ず進賢を城し、次いで南康、瑞州を城した。建昌県に盗賊が多いのを憂い、その地を割き、別に安義県を置き、以て漸次これを鎮めた。そして饒州、撫州の二州の兵備を復するよう請うたが、復することができず、則ち湖東分巡に兼ねてこれを管理させるよう勅を請うた。九江は湖の要衝に当たり、最も要害であるため、兵備道の権限を重くし、南康、寧州、武寧、瑞昌及び湖広の興国、通城を兼ねて管轄させ、以て制御を便ならしめるよう請うた。広信の横峰、青山などの窯は、地険しく人悍であるため、通判を設けて弋陽に駐在させ、兼ねて傍ら五県の兵を督させるよう請うた。また宸濠が兵器を奪うことを恐れ、賊を討つことを仮託して、全てを他の場所に運び出した。宸濠は燧が己を図っていると聞き、人を遣わして朝中の寵臣に賄賂を贈り燧を去らせようとし、また燧に棗、梨、姜、芥を贈って意を示したが、燧は笑ってこれを退けた。逵は燧に先に手を打って後で報告するよう勧めたが、燧は「どうして賊に名分を与えようか、暫く待とう」と言った。

原文十年十月擢右副都御史,巡撫江西。燧聞命嘆曰:「是當死生以之矣。」遣妻子還鄉,獨攜二僮以行。時宸濠逆狀已大露,南昌人洶洶,謂宸濠旦暮得天子。燧左右悉宸濠耳目,燧防察密,左右不得窺,獨時時為宸濠陳說大義,卒不悛。陰察副使許逵忠勇,可屬大事,與之謀。先是,副使胡世寧暴宸濠逆謀,中官幸臣為之地,世寧得罪去。燧念訟言於朝無益,乃托禦他寇預為備。先城進賢,次城南康、瑞州。患建昌縣多盜,割其地,別置安義縣,以漸弭之。而請復饒、撫二州兵備,不得復,則請敕湖東分巡兼理之。九江當湖沖,最要害,請重兵備道權,兼攝南康、寧州、武寧、瑞昌及湖廣興國、通城,以便控制。廣信橫峰、青山諸窯,地險人悍,則請設通判駐弋陽,兼督旁五縣兵。又恐宸濠劫兵器,假討賊,盡出之他所。宸濠間燧圖己,使人賂朝中幸臣去燧,而遣燧棗梨姜芥以示意,燧笑卻之。逵勸燧先發後聞,燧曰:「奈何予賊以名,且需之。」

十三年、江西は大水に見舞われ、宸濠が平素から蓄えていた賊の淩十一、呉十三、閔念四らが鄱陽湖に出没した。燧は逵と謀ってこれを捕らえようとした。三賊は沙井に逃げ、燧は江の外から掩捕しようとしたが、夜大風雨で渡ることができなかった。三賊は逃げて宸濠の祖墓の間に隠れた。そこで密かに上疏してその状況を報告し、かつ宸濠は必ず反逆すると言った。章は七度上ったが、宸濠に遮られて獄に留められ、届かなかった。宸濠は甚だ憤り、宴席で燧に毒を盛ったが、死ななかった。燧は致仕を乞うたが、また許されず、憂懼甚だしかった。

原文十三年,江西大水,宸濠素所蓄賊淩十一、吳十三、閔念四等出沒鄱陽湖,燧與逵謀捕之。三賊遁沙井,燧自江外掩捕,夜大風雨,不克濟。三賊走匿宸濠祖墓間,於是密疏白其狀,且言宸濠必反。章七上,輒為宸濠遮獄,不得達。宸濠恚甚,因宴毒燧,不死。燧乞致仕,又不許,憂懼甚。

翌年、宸濠は鎮巡官を脅してその孝行を奏上させた。燧と巡按御史林潮はこれによって少しでもその謀りごとを緩められることを期待し、乃ち共に朝廷に奏上した。朝廷の議論では燧らを責める旨を降すところであったが、ちょうど御史蕭淮が宸濠の不軌の状をことごとく発覚させ、詔により重臣が宣諭することとなり、宸濠はこれを聞き、遂に決意して反逆した。

原文明年,宸濠脅鎮巡官奏其孝行,燧與巡按御史林潮冀藉是少緩其謀,乃共奏於朝。朝議方降旨責燧等,會御史蕭淮盡發宸濠不軌狀,詔重臣宣諭,宸濠聞,遂決計反。

六月乙亥、宸濠の誕生日に、鎮巡三司を宴した。翌日、燧及び諸大吏が入って謝すると、宸濠は左右に伏兵を置き、大声で言った。「孝宗は李広に誤られ、民間の子を抱き、我が祖宗は血食を絶たれて十四年になる。今太后に詔があり、我に兵を起こして賊を討てと命じている。汝らもこれを知っているか。」衆は顔を見合わせ驚き呆然とした。燧は真っ直ぐ前に進み出て言った。「どうしてこのような言葉があるのか。詔を出して我に見せよ。」宸濠は言った。「多くを言うな。我は南京へ行く。汝は車駕に扈従せよ。」燧は大怒して言った。「汝は速やかに死ぬのみだ。天に二日無し。我がどうして汝に従って逆賊となろうか。」宸濠は怒って燧を叱りつけ、燧はますます怒り、急いで立ち上がったが、出ることができなかった。宸濠は内殿に入り、戎服に着替えて出て来て、兵を指揮して燧を縛らせた。逵は奮い立って言った。「汝らどうして天子の大臣を辱しめようとするのか。」因みに身をもって燧を翼蔽しようとしたので、賊は逵も共に縛った。二人は縛られながらも罵り、口を絶やさず、賊は燧を撃ち、左腕を折り、逵と共に引きずり出した。逵は燧に言った。「私が公に先に手を打つよう勧めたのは、今日あることを知っていたからです。」燧と逵は共に惠民門外で害された。巡按御史王金、布政使梁宸以下は、皆稽首して万歳を呼んだ。

原文六月乙亥,宸濠生日,宴鎮巡三司。明日,燧及諸大吏入謝,宸濠伏兵左右,大言曰:「孝宗為李廣所誤,抱民間子,我祖宗不血食者十四年。今太后有詔,令我起兵討賊,亦知之乎?」眾相顧愕眙,燧直前曰:「安得此言!請出詔示我。」宸濠曰:「毋多言,我往南京,汝當扈駕。」燧大怒曰:「汝速死耳。天無二日,吾豈從汝為逆哉!」宸濠怒叱燧,燧益怒,急起,不得出。宸濠入內殿,易戎服出,麾兵縛燧。逵奮曰:「汝曹安得辱天子大臣!」因以身翼蔽燧,賊並縛逵。二人且縛且罵,不絕口,賊擊燧,折左臂,與逵同曳出。逵謂燧曰:「我勸公先發者,知有今日故也。」燧、逵同遇害惠民門外。巡按御史王金、布政使梁宸以下,鹹稽首呼萬歲。

宸濠は遂に兵を起こし、偽って三賊を将軍に任命し、まず婁伯を遣わして進賢を巡行させたが、知県劉源清に斬られた。窯賊を招いたが、賊は守吏を恐れて敢えて発しなかった。城中で大いに兵器を捜索したが得られず、賊は多く白梃を持った。伍文定が義兵を起こし、文天祥祠に二人の木主を設け、吏民を率いてこれを哭した。南贛巡撫王守仁と共に賊を平定した。諸々の逃亡した賊は安義に走ったが、皆捕らえられ、逃れた者はいなかった。人々はここにおいてますます燧の功績を思った。

原文宸濠遂發兵,偽署三賊為將軍,首遣婁伯徇進賢,為知縣劉源清所斬。招窯賊,賊畏守吏,不敢發。大索兵器於城中,不得,賊多持白梃。伍文定起義兵,設兩人木主於文天祥祠,率吏民哭之。南贛巡撫王守仁與共平賊。諸逋賊走安義,皆見獲,無脫者。人於是益思燧功。

孫燧は生まれつき異質で、両目がきらきらと輝き、夜には光を放った。死んだ日、天は突然陰惨となり、烈風が驟然として起こること数日に及び、城中の民は大いに恐れた。人々は走って両人の屍を収めようとしたが、屍は未だ変色せず、黒雲がそれを蔽い、蝿や蚋も近づく者はなかった。翌年、守臣がその事を朝廷に上奏したが、返答はなかった。世宗が即位すると、礼部尚書を追贈し、諡して忠烈とし、許逵とともに南昌に祀り、祠に旌忠の名を賜り、それぞれ一子に蔭官を与えた。孫燧の子孫堪は父の訃報を聞き、二人の弟墀・升を率いて赴き、宸濠が既に捕らえられたのに合わせて、柩を扶けて帰った。兄弟は墓側に廬を結び粗食して三年を過ごし、一茎に九つの花を付ける芝が数本、墓の上に生えた。喪が明けた後、父が難に死したことを悼み、さらに墨色の喪服を着て三年を過ごし、世に三孝子と称された。

原文燧生有異質,兩目爍爍,夜有光。死之日,天忽陰慘,烈風驟起凡數日,城中民大恐。走收兩人屍,屍未變,黑雲蔽之,蠅蚋無近者。明年,守臣上其事於朝,未報。世宗即位,贈禮部尚書,謚忠烈,與逵並祀南昌,賜祠名旌忠,各蔭一子。燧子堪聞父訃,率兩弟墀、升赴之,會宸濠已擒,扶柩歸。兄弟廬墓蔬食三年,有芝一莖九葩者數本產墓上。服除,以父死難,更墨衰三年,世稱三孝子。

孫堪は、字を誌健という。諸生となり、文才に優れ、騎射を善くした。既に錦衣衛の蔭官を得た後、武会試に第一で合格し、指揮同知を署任された。強弩を用いることに長け、数千人の弩卒を訓練して辺備に備えた。都督僉事を歴任した。母楊氏に至孝で、母は九十余歳で、京師で没した。孫堪も七十歳であり、喪を護って帰る途中、道において、哀毀のあまり卒去した。巡按御史趙炳然が孫堪の孝行を上奏し、表彰を受けた。孫堪の子孫鈺もまた武会試に合格し、都督同知の官に至った。孫鈺の子如津は、都督僉事となった。

原文堪,字誌健。為諸生,能文,善騎射。既蔭錦衣,中武會試第一,擢署指揮同知。善用強弩,教弩卒數千人以備邊。歷都督僉事。事母楊至孝,母年九十餘,歿京師。堪年亦七十,護喪歸,在道,以毀卒。巡按御史趙炳然上堪孝行,得旌。堪子鈺,亦舉武會試,官都督同知。鈺子如津,都督僉事。

孫墀は、字を仲泉といい、選貢生として尚宝卿の官を歴任した。孫升は、尚書の官に至った。孫墀の孫如遊は、大学士となった。孫如遊の孫嘉績は、僉事となった。孫升の子、孫鑨・孫鑛はともに尚書、孫鋌は侍郎、孫錝は太僕卿となった。孫鑨の子、孫如法は主事、孫如洵は参政となった。いずれも文章と行誼をもって家を継いだ。孫升・孫鑨・孫鑛・孫如遊・孫如法・孫嘉績の事績は、それぞれ別に記載されている。

原文墀,字仲泉,以選貢生歷官尚寶卿。升,官尚書。墀孫如遊,大學士。如遊孫嘉績,僉事。升子,鑨、鑛皆尚書,鋌侍郎,錝太僕卿。鑨子,如法主事,如洵參政。並以文章行誼世其家。升、鑨、鑛、如遊、如法、嘉績,事皆別見。

許逵は、字を汝登といい、固始の人である。正徳三年の進士となった。背が高く口が大きく、猿のような腕に燕のような顎を持ち、沈静にして謀略があった。楽陵知県に任じられた。六年春、流賊の劉七らが城邑を屠り、長吏を殺害した。諸州県は概ね城を閉ざして守り、あるいは城を棄てて逃げ、あるいは賊に秣や粟、弓馬を贈って攻めないよう乞うた。許逵が官に就くと、慨然として戦守の計を立てた。県には初め城がなく、民を督して版築させ、一月を過ぎずして城は完成した。民に屋外に塀を築かせ、塀の高さは軒を越え、圭形の小穴を開け、やっと人が通れる大きさとした。各家で壮健な者一人を選び刀を持たせて穴の内側で待機させ、残りは全て隊伍に入れ、毎日旗を視て号令とし、違反者は軍法で処断した。また死士を募って路地に伏せさせ、城門は大きく開け放った。賊が果たして来ると、旗が挙がり伏兵が現れ、穴の中の人々も皆出てきたので、賊は大いに驚き逃げ、斬り捕らえること漏れなく行った。後に数度侵犯したが、数度撃退し、遂に互いに戒めて近づかなくなった。事が聞こえ、官位を二等進めた。

原文許逵,字汝登,固始人。正德三年進士。長身巨口,猿臂燕頷,沈靜有謀略。授樂陵知縣。六年春,流賊劉七等屠城邑,殺長吏。諸州縣率閉城守,或棄城遁,或遺之芻,粟弓馬乞賊毋攻。逵之官,慨然為戰守計。縣初無城,督民版築,不逾月,城成。令民屋外築墻,墻高過檐,啟圭竇,才容人。家選一壯者執刃伺竇內,餘皆入隊伍,日視旗為號,違者軍法從事。又募死士伏巷中,洞開城門。賊果至,旗舉伏發,竇中人皆出,賊大驚竄,斬獲無遺。後數犯,數卻之,遂相戒不敢近。事聞,進秩二等。

当時、賊に抗した知県としては、益都では牛鸞、郯城では唐龍、汶上では左経、浚では陳滯がおり、これらも賊が少ない時に当たった。しかし許逵は屡々大賊を防ぎ功績があったため、遂に牛鸞とともに超擢されて兵備僉事となった。許逵は武定州に駐屯したが、州城は崩れ堀は埋まり、牛馬さえ防げなかった。許逵は城を築き池を穿ち、楼櫓を設け、巡卒を置いた。翌年五月、賊の楊寡婦が千騎をもって濰県を犯すと、指揮の喬剛がこれを防ぎ、賊は少し退いた。許逵は高苑でこれを追撃して破り、指揮の張勛に命じて滄州で邀撃させ、前後して二百七十余人を俘斬した。間もなく、賊の別部が徳平を掠めると、許逵はこれを殲滅し、名声が大いに上がった。十二年、江西副使に遷った。当時、宸濠の党与が暴横を極め、許逵は法によって痛く縛った。かつて孫燧に言ったことがある。「寧王が暴を敢えてなすのは、権臣を恃んでいるからである。権臣がこれを左右するのは、重賄を貪るからである。重賄は盗賊の巣から生じる。今ただ盗賊を断ち切れば賄賂は止み、賄賂が止めば党与は孤立する。」孫燧は深くこれを然りとし、何事にも密議を交わした。宸濠が孫燧を縛った時、許逵はこれに争った。宸濠は平素より許逵を忌んでおり、許副使は何と言ったかと問うと、許逵は言った。「副使はただ赤心のみである。」宸濠は怒って言った。「我が汝を殺せぬというのか。」許逵は罵って言った。「汝は我を殺せるが、天子は汝を殺せる。汝は反賊、万段に磔にしてやる、後悔しても及ばぬぞ!」宸濠は大いに怒り、ともに縛り、引きずり出してその首を斬ろうとしたが、微動だにしなかった。賊の衆は共に押さえつけて跪かせようとしたが、ついにできず、遂に死んだ。三十六歳であった。

原文時知縣能抗賊者,益都則牛鸞,郯城則唐龍,汶上則左經,浚則陳滯,亦所當賊少。而逵屢禦大賊有功,遂與鸞俱超擢兵備僉事。逵駐武定州,州城圮濠平,不能限牛馬。逵築城鑿池,設樓櫓,置巡卒。明年五月,賊楊寡婦以千騎犯濰縣,指揮喬剛禦之,賊少卻。逵追敗之高苑,令指揮張勛邀之滄州,先後俘斬二百七十餘餘人。未幾,賊別部掠德平,逵盡殲之,鹹名大著。十二年遷江西副使。時宸濠黨暴橫,逵以法痛繩之。嘗言於孫燧曰:「寧王敢為暴者,恃權臣也。權臣左右之者,貪重賄也。重賄由於盜藪,今惟翦盜則賄息,賄息則黨孤。」燧深然之,每事輒與密議。及宸濠縛燧,逵爭之。宸濠素忌逵,問許副使何言,逵曰:「副使惟赤心耳。」宸濠怒曰:「我不能殺汝邪?」逵罵曰:「汝能殺我,天子能殺汝。汝反賊,萬段磔汝,汝悔何及!」宸濠大怒,並縛之,曳出斫其頸,屹不動。賊眾共推抑令跪,卒不能,遂死,年三十六。

初め、許逵は文天祥の文集を友人である給事中の張漢卿に贈ったが、手紙は添えなかった。張漢卿は人に言った。「寧邸は必ず反するであろう。汝登は文天祥となるのか。」許逵の父は家に居て、江西に変事があり、都御史と副使が殺されたと聞くと、すぐに位牌を設け、衣服を替えて哭した。人が怪しんでその故を問うと、父は言った。「副使は、必ずや我が子であろう。」世宗が即位すると、左副都御史を追贈し、諡して忠節とし、一子に蔭官を与えた。また山東での賊平定の功績を記録し、さらに一子に蔭官を与えた。嘉靖元年、詔して許逵の死事が特に烈しいとして、改めて礼部尚書を追贈し、蔭官を指揮僉事に進めた。

原文初,逵以文天祥集貽其友給事中張漢卿而無書。漢卿語人曰:「寧邸必反,汝登其為文山乎?」逵父家居,聞江西有變,殺都御史及副使,即為位,易服哭。人怪問故。父曰:「副使,必吾兒也。」世宗即位,贈左副都御史,謚忠節,蔭一子。又錄山東平賊功,復蔭一子。嘉靖元年詔逵死事尤烈,改贈逵禮部尚書,進蔭指揮僉事。

長子の許玚は、学を好み器識があった。父を葬った後、日夜号泣し、六年を経てようやく蔭官に就いた。人がこれを促すと、許玚は言った。「我が父が死んだので、玚はそれによって官を得るのだ。」痛哭して顔を上げて見ることができなかった。許玚の子許䢿は、親に孝事した。隆慶中に郷試に合格し、数度礼部試を受けたが及第しなかった。ある試験官が許玚と姻戚関係にあり、許䢿の才を慕い、取り込みたいと思った。許䢿は言った。「このようなことをして、どうして先忠節(許逵)の地下に顔向けできようか。」許氏の子孫は孫氏のように貴顕ではないが、またその家を伝えることができた。

原文長子玚,好學有器識。既葬父,日夜號泣,六年而後就蔭。人或趣之,玚曰:「吾父死,玚乃因得官。」痛哭不能仰視。玚子䢿,事親孝。隆慶中舉於鄉,數試禮部不第。有試官與玚婚姻,慕䢿才,欲收羅之。䢿曰:「若此,何以見先忠節地下?」許氏子孫不如孫氏貴顯,亦能傳其家。

黄宏は、字を徳裕といい、鄞の人である。弘治十五年の進士となった。万安県知県となった。民は訴訟を好み、訴訟があれば神に祈ったので、黄宏はその祠を壊して言った。「県令がいるのに、何を祈るのか。」訴訟する者が来ると、いつも片言で屈服させた。累遷して江西左参議となり、湖西・嶺北の二道を巡察した。王守仁が横水・桶岡の賊を討った時、黄宏は兵糧を主管して功績があった。賊の閔念四が既に降伏した後、再び宸濠の勢力を恃んで、九江の上下を掠めた。黄宏は兵を発してこれを捕らえようとし、賊は逃げて宸濠の祖墓の中に隠れたが、その輜重しちょうを全て得て帰った。宸濠の逆節はますます露わになり、士大夫はこれを憂えたが、黄宏は厳しい顔色で言った。「国家に不幸にもこれ(叛逆)がある。我々は土地を守る者、死ぬのみである。」大義を堅持して宸濠の党に従わない者がいると、黄宏はいつも密かにこれを支持した。宸濠が反すると、黄宏は捕らえられ、憤怒して、手枷で柱に向かって首を打ちつけ、その夕方に卒去した。賊はその義を感じて棺を用意して葬った。子の黄紹文が駆けつけ、その棺を求め得たが、偽りの命令で葬られたのは父の志ではないとして、急いで取り替え、扶けて帰った。

原文黃宏,字德裕,鄞人。弘治十五年進士。知萬安縣。民好訟,訟輒禱於神,宏毀其祠曰:「令在,何禱也。」訟者至,輒片言折之。累遷江西左參議,按湖西、嶺北二道。王守仁討橫水、桶岡賊,宏主餉有功。賊閔念四既降,復恃宸濠勢,剽九江上下。宏發兵捕之,走匿宸濠祖墓中,盡得其輜重以歸。宸濠逆節益露,士大夫以為憂,宏正色曰:「國家不幸有此,我輩守士,死而已。」有持大義不從宸濠黨者,宏每陰左右之。宸濠反,宏被執,憤怒,以手梏向柱擊項,是夕卒,賊義而棺斂之。子紹文奔赴,求得其棺,以偽命治斂,非父誌,亟易之,扶歸。

当時、主事の馬思聰もまた節を守って死んだ。馬思聰は、字を懋聞といい、莆田の人である。弘治末に進士に挙げられ、象山知県となり、二十六の水路を復旧し、万頃の田を灌漑した。累遷して南京戸部主事となり、江西で糧食を監督し、安仁に駐在した。宸濠の反乱に遭遇し、捕らえられて獄に繋がれ、屈服せず、絶食して六日目に死んだ。

原文時主事馬思聰亦抗節死。思聰,字懋聞,莆田人。弘治末舉進士,為象山知縣,復二十六渠,溉田萬頃。累遷南京戶部主事,督糧江西,駐安仁。值宸濠反,被執繫獄,不屈,絕食六日死。

世宗が立つと、黄宏に太常少卿を、馬思聰に光禄少卿を追贈し、ともに旌忠祠に配享した。当時、黄宏と馬思聰の死節が真実ではないとする者がいた。給事中の毛玉が江西の逆党を調査し、再び黄宏・馬思聰および承奉の周儀を表彰するよう請うた。また黄宏の子黄紹武が朝廷に訴えた。巡按御史の穆相が二人の死節の状況を詳細に列挙して上奏したため、遂に異議はなくなった。

原文世宗立,贈宏太常少卿,思聰光祿少卿,並配享旌忠祠。時有謂宏、思聰死節非真者。給事中毛玉勘江西逆黨,復請表章宏、思聰及承奉周儀,而宏子紹武訴於朝。巡按御史穆相列上二人死節狀甚悉,遂無異議。

宋以方は、字を義卿といい、靖州の人である。弘治十八年(1505年)に進士となり、戸部郎中を歴任した。正徳十年(1515年)、瑞州知府に遷る。当時、華林の大盗賊が平定されたばかりで、戦乱の傷跡はまだ癒えておらず、以方は心を尽くして民を養い慈しんだので、官吏や民衆に愛された。宸濠(朱宸濠)の謀反の企てが芽生えると、瑞州はもともと城郭がなかったため、以方は城を築き守備の具を整え、三千の兵を募り、日夜訓練した。宸濠は彼を深く忌み嫌い、徴発や要求をしても応じなかったので、ついに鎮守(官)に迫って弾劾させ、南昌の獄に繋いだ。翌日、宸濠が反乱を起こし、以方を牢から出して、降伏を脅し迫ったが、従わなかったので、舟の中に械して繋いだ。安慶に至り、宸濠軍が敗北したとき、宸濠がその地の名を尋ねると、舟子が「黄石磯」と答えた。江西人の発音では「王失機」(王が機会を失う)となる。宸濠はこれを不吉だとして、以方を斬って江に祀った。後に賊が平定されると、その子の崇学が遺骸を求めたが見つからず、衣冠を収めて帰葬した。嘉靖六年(1527年)、巡撫の陳洪謨がこの事績を上奏し、詔により光禄卿を追贈され、一子に蔭官が与えられ、瑞州に祠が立てられた。

原文宋以方,字義卿,靖州人。弘治十八年進士。歷戶部郎中。正德十年遷瑞州知府。時華林大盜甫平,瘡痍未復,以方悉心撫字,吏民愛之。宸濠逆謀萌,而瑞故無城郭,以方築城繕守具,募兵三千,日夕訓練。宸濠深忌之,有征索又不應,遂迫鎮守劾系南昌獄。明日,宸濠反,出以方,脅之降,不可,械舟中。至安慶,兵敗,問地何名,舟子雲「黃石磯」,江西人音,則「王失機」也。宸濠以為不祥,斬以方祭江。後賊平,其子崇學求遺骸不得,斂衣冠歸葬。嘉靖六年,巡撫陳洪謨上其事,詔贈光祿卿,蔭一子,立祠瑞州。

方に宸濠が変事を謀ろうとしたとき、江西の士民で害を受けた者は数えきれないほどであった。初めに宦官や校尉を四方に遣わし、民の田畑や家屋を没収し、豪強で従わない者を捕らえて縛った。万木と鄭山という者がおり、ともに新建の人で、郷人を集めて砦を結び自らを固守した。賊党の謝重一が馬を走らせて村に入ると、二人は彼を捕らえ、葦を積み上げて張睢陽廟の前で、人と馬を縛り、生きたまま焼き殺したので、宸濠の党も敢えて犯すことができなかった。二人が江のほとりで酒を飲んでいると、盗賊の凌十一に脅迫され、宸濠のもとに連行され、焼き鏝を当てられ、椎で打たれたが、ともに賊を罵って死んだ。

原文方宸濠之謀為變也,江西士民受害者不可勝紀。初遣閹校四出,籍民田廬,收縛豪強不附者。有萬木、鄭山,俱新建人,集鄉人結砦自固。賊黨謝重一馳入村,二人執之,積葦張睢陽廟前,縛人馬,生焚之,濠黨不敢犯。二人飲江上,為盜淩十一所逼,趣見宸濠,烙而椎之,皆罵賊死。

趙楠は、南昌の諸生(生員)である。兄の趙模は、かつて穀物を捐じて救済を助けたことがあった。宸濠が趙模を捕らえて金を要求したので、趙楠が代わりに行き、脅迫されたが屈せず、打ちすえられて死んだ。同邑の辜増は脅迫に遭い、節を守って従わず、一家百口が皆死んだ。諸生の劉世倫、儒士の陳経官、義士の李広源も皆、捕らえられて脅迫されたが屈せず、死んだ。

原文趙楠,南昌諸生。兄模,嘗捐粟佐振。宸濠捕模索金,楠代往,脅之,不屈,被掠死。同邑辜增見迫,抗節不從,一家百口皆死。諸生劉世倫、儒士陳經官、義士李廣源,皆被掠,不屈死。

葉景恩という者は、任侠で知られ、一族で呉城に住んでいた。宸濠が乱を起こそうとしたとき、景恩を捕らえ、降伏を脅し迫ったが従わず、獄中で死んだ。宸濠の兵が呉城を通りかかると、景恩の弟の景允が三百人を率いて賊を迎え撃った。賊は兵を分けて景允の家を焼き略奪し、その一族の葉景集、葉景修ら四十九人も皆死んだ。

原文葉景恩者,以俠聞,族居吳城。宸濠將作難,捕景恩,脅降之,不從,死獄中。宸濠兵過吳城,景恩弟景允以三百人邀擊賊。賊分兵焚劫景允家,其族景集、景修等四十九人皆死。

また閻順という者がおり、寧王府の典宝副であった。宸濠が反乱を起こそうとしたとき、閻順は典膳正の陳宣、内使の劉良とともに、諫言して不可であると微かに言ったが、典宝正の塗欽に讒訴され、三人は誅殺を恐れ、密かに京師に赴いて変事を上告した。群小(奸臣たち)が宸濠を庇い、三人を獄に下し、鞭打ち拷問をことごとく加えた。宸濠は三人が都に赴いたと聞き、事が漏れることを憂慮し、その罪を誣奏し、かつ群小に必ず殺すよう嗾けたが、ちょうど三人がすでに孝陵への戍衛に遣わされていたので、難を免れた。世宗が即位すると、官職に復した。

原文又有閻順者,為寧府典寶副。宸濠將反,順與典膳正陳宣、內使劉良微言不可,為典寶正塗欽所譖,三人懼誅,潛詣京師上變。群小庇宸濠,下之獄,搒掠備至。宸濠聞三人赴都,慮事泄,誣奏其罪,且嗾群小必殺之,會已遣戍孝陵,乃免。世宗立,復官。