明史

列傳第一百七十六 文苑四 李維楨、徐渭、屠隆、王穉登、瞿九思、唐時升、焦竑、黃輝、陳仁錫、董其昌、袁宏道、王惟儉、曹學佺、王志堅、艾南英、張溥

◎文苑四

李維楨

李維楨、字は本寧、京山の人。父の裕は福建布政使であった。維楨は隆慶二年の進士に挙げられ、庶吉士より編修を授かった。萬暦の時、『穆宗実録』が完成し、修撰に進んだ。陝西右参議として出向し、提学副使に遷った。外官として浮沈すること、ほぼ三十年。天啓初め、布政使として家に居り、年七十余りであった。時に朝廷で耆旧を登用する議があり、召されて南京太僕卿となり、直ちに太常に改められたが、赴任しなかった。諫官に言があると聞き、辞して就かなかった。時に丁度『神宗実録』を修しており、給事中薛大中が特に上疏してこれを推薦したが、用いられるに及ばなかった。四年四月、太常卿董其昌がまたこれを推薦し、乃ち召されて礼部右侍郎となり、僅か三ヶ月で尚書に進み、共に南京に在った。維楨は史事に縁って起用されたが、館中の諸臣はその以前輩として己を圧することを憚り、館に入ることを許さず、ただその官を超遷したのみであった。維楨もまた年老いて衰えたため、明年正月力んで骸骨を乞いて去った。又明年、家に卒す。年八十。崇禎の時、太子太保を贈られた。

維楨は弱冠で朝廷に登り、博聞強記、同館の許国と斉名した。館中これがために語って曰く、「記せずば、老許に問え。為せずば、小李に問え」と。維楨の人となり、楽易闊達、賓客雑進す。その文章は弘肆にして才気あり、海内の請求する者虚日無く、能く屈曲してその望む所に副う。碑版の文は四裔を照耀す。門下の士は富人大賈を招き、金銭を受取って代わりに請乞し、これもまた応じて倦まず、重名を負うこと四十年に垂んとした。然れども文は多く率意応酬のもの多く、品格高からず。

邑人に郝敬あり。

邑人郝敬、字は仲輿。父の承健は郷挙され、官は肅寧知県。敬は幼く神童と称され、性跅弛、嘗て人を殺して獄に繋がれた。維楨はその父の執友なり、援け出してこれを家に館した。始めて節を折りて書を読み、萬暦十七年の進士に挙げられた。歴任して縉雲・永嘉二県の知県となり、並びに能声有り。徴されて礼科給事中を授かり、乞い仮して帰養した。久しくして戸科を補い、数度論奏有り。

山東税監陳增は貪横にして、益都知県呉宗堯に奏せられたが、帝は罪とせず。敬上言して曰く、「開采罷めざれば、則ち陛下の明旨は臣民を愚弄する虚文に過ぎず。先ず停止を乞い、然る後に宗堯の奏する所を以て撫按に下し勘核せしめ、増の不法の罪を正すべし」と。聴かれず。頃にして、山東巡撫尹応元もまた極めて増の罪を論じ、帝怒り、応元を切責し、宗堯を斥けて民と為した。敬再び上言して曰く、「陛下陳増を処する一事、甚だ衆心を失う」と。帝怒り、俸を奪うこと一年。帝は中官高寀を遣わして京口に税を榷せしめ、暨祿をして儀真に税を榷せしめた。敬また力諫す。宗堯が増を劾した時、増は甚だ怒り、その贓私を誣訐し、詞は青州一府の官僚に連なり、傍ら商民呉時奉等を引き、皆籍没せんことを請うた。帝は輒ちこれを可とした。敬また力を尽くして増を詆し、速やかにその奏を寝めんことを乞うたが、これも納れられず。事に坐し、江陰県知県に謫せられた。貪汚にして不検、物論皆これを与せず、遂に劾を投じて帰り、門を杜して書を著した。崇禎十二年卒す。

徐渭

徐渭、字は文長、山陰の人。十余歳で揚雄の『解嘲』に倣い『釈毀』を作り、長じて同里の季本に師事した。諸生として、盛名有り。総督胡宗憲が幕府に招致し、歙の余寅・鄞の沈明臣と共に書記を掌った。宗憲が白鹿を得て、将にこれを朝廷に献ぜんとし、渭に表を草せしめ、並びに他の客の草したものを善き学士に寄せ、その尤なるものを選んで上らしめた。学士が渭の表を進めると、世宗大いに悦び、益々宗憲を寵異し、宗憲はこれによって益々渭を重んじた。宗憲嘗て将吏を爛柯山に宴し、酒酣に楽作るや、明臣が『鐃歌』十章を作り、中に云う「狭巷短兵相接する処、人を殺すこと草の如くして声を聞かず」。宗憲起ち、その須を捋って曰く、「何ものぞ沈生、雄快なること乃ち爾るか」と。即ち命じて石に刻ませ、寵礼は渭と埒った。督府の勢は厳重にして、将吏敢えて仰視する者無し。渭は角巾布衣、長揖して縦談す。幕中に急用有れば、夜深く戟門を開いて待つ。渭或いは酔って至らずとも、宗憲は顧みてこれを善しとした。寅・明臣も亦頗る崖岸を負い、侃直を以て礼せられた。

渭は兵を知り、奇計を好み、宗憲が徐海を擒え、王直を誘うに、皆その謀に預かった。宗憲の勢を藉り、頗る横なり。宗憲が獄に下るに及んで、渭は禍を懼れ、遂に発狂し、巨錐を引いて耳を剚ち、深さ数寸、又椎を以て腎嚢を砕き、皆死なず。已にして、又継妻を撃殺し、死を論ぜられ獄に繋がれたが、裏人張元忭が力救して免れた。乃ち金陵に遊び、宣・遼に抵り、諸辺の厄塞を縦観し、李成梁の諸子と善し。京師に入り、元忭を主とした。元忭は礼法を以て導いたが、渭は従う能わず、久しくして怒って去った。後、元忭卒すや、白衣を以て往き弔い、棺を撫て慟哭し、姓名を告げずして去った。

渭は天才超軼、詩文は絶えて倫輩に出ず。草書を善くし、花草竹石を写すに工なり。嘗て自ら言う、「吾が書は第一、詩はこれに次ぎ、文はこれに次ぎ、画は又これに次ぐ」と。嘉靖の時に当たり、王・李が七子社を倡え、謝榛は布衣を以て擯かれた。渭はその軒冕を以て韋布を圧するを憤り、誓って二人の党に入らず。後二十年、公安の袁宏道が越中に遊び、渭の残帙を得て祭酒陶望齢に示すと、相与に激賞し、その集を刻して世に行った。

寅、字は仲房。明臣、字は嘉則。皆詩名有り。

屠隆

屠隆は、字を長卿といい、明臣(沈明臣)の同郷の人である。生まれつき異才があり、かつて明臣に詩を学び、筆を下ろせば数千言がたちどころに出来上がった。同族の大山(屠大山)や同郷の張時徹がちょうど高官であったので、互いに推挙して名声を高め、名声が大いに上がった。万暦五年の進士に挙げられ、潁上知県に任じられ、政務の多い青浦県に転任した。当時、名士を招いて酒を飲み詩を賦し、九峰や三泖を遊覧し、仙令(俗務を超えた名県令)を自任したが、しかし吏事(行政事務)をおろそかにせず、士民は皆彼を愛戴した。礼部主事に昇進した。

西寧侯宋世恩は兄として屠隆に仕え、宴遊を大いに楽しんだ。刑部主事の俞顕卿は、険悪な人物で、かつて屠隆に誹謗されたことがあり、心に恨みを抱いていた。屠隆と世恩が淫らで放縦であると告発し、その言葉は礼部尚書陳経邦にまで及んだ。屠隆らは上疏して自らを弁明し、並べて顕卿が私怨を抱いて誣告した様子を列挙した。担当官庁は結局両者を免職とし、世恩の俸給を半年停止した。屠隆は帰郷する途中、青浦に立ち寄ると、父老たちが田千畝を集め、移住を請うた。屠隆は許さず、三日間歓飲して感謝して去った。

帰郷後はますます詩と酒に情を傾け、賓客を好み、文を売って生計を立てた。詩文は概ね気の向くままに、一揮して数枚の紙を費やした。かつて戯れに二人を向かい合わせに座らせ、二つの題を引かせ、それぞれ百韻の詩を賦させたが、咄嗟の間に二篇とも完成した。また人と囲碁を打ちながら、口で詩文を誦し、人に書かせたが、書くのが誦するのに追いつかなかった。

息子の妻沈氏は、修撰沈懋学の娘で、屠隆の娘瑶瑟とともに詩ができた。屠隆が何か作ると、二人はすぐにそれに和した。両家の兄弟が彼女たちの詩を合わせて刻し、『留香草』と題した。

王穉登

王穉登は、字を伯谷といい、長洲の人である。四歳で対句ができ、六歳で擘窠大字をよくし、十歳で詩を作ることができ、成長するにつれてますます才気が発揮され盛名があった。嘉靖の末、京師に遊学し、大学士袁煒の家に客分となった。袁煒が諸吉士に紫牡丹の詩を試させたが、気に入らなかった。穉登に作らせると、警句があった。袁煒は諸吉士を呼び集めて言った。「君たちの職は文章にあるのに、王秀才の一句も得られないのか?」朝廷に推薦しようとしたが、果たせなかった。隆慶の初め、再び京師に遊び、徐階が国政を執っていたが、袁煒に対してかなり遺恨を修めていた。ある者が穉登に袁公の客であると名乗らないよう勧めたが、従わず、『燕市』『客越』二つの詩集を刻し、その事柄を詳しく書いた。

呉中では文徴明の後、風雅の主導権は定まらなかった。穉登はかつて徴明の門に及び、その流風を遠く受け継ぎ、詞翰(詩文)の席の主となって三十余年を過ごした。嘉靖・隆慶・万暦の間、布衣や山人で詩の名がある者は十数人おり、俞允文・王叔承・沈明臣らが特に世に称せられたが、名声の華やかさでは穉登が最もあった。申時行が元老として郷里に居たが、特に彼を推重した。王世貞は同郷として親しくしたが、しかしあまり推挙しなかった。世貞が没すると、その次男の士骕が事件に連座して獄に繋がれたが、穉登は身を挺して救援し、人々はこれをもってその風義を重んじた。万暦年間、詔して国史を修めることとなり、大学士趙志臯らが穉登とその同郷の魏学礼・江都の陸弼・黄岡の王一鳴を推薦した。詔して徴用されたが、上京しないうちに史局が廃止された。七十余歳で没した。子の留は、字を亦房といい、これも詩の名があった。

附 俞允文

俞允文は、字を仲蔚といい、昆山の人である。その父は進士に挙げられ、大理評事の官にあった。允文は十五歳で『馬鞍山賦』を作り、援引と根拠が該博であった。四十歳に満たないうちに、諸生(生員)の身分を辞去し、詩文と書法に専念した。王世貞と親善であったが、李攀龍の詩は好まず、その持論はこのように安易に同調しなかった。

附 王叔承

王叔承は、字を承父といい、呉江の人である。幼くして孤となり、経生の学業に励んだが、古を好むためにそれを辞した。貧しく、妻の家に婿入りしたが、舅に追い出され、一銭も与えられなかったので、妻を連れて帰り母に仕え、ますます貧しくなった。都に入り、大学士李春芳のところに客分となった。性来酒を嗜み、春芳が何か撰述する時、彼を探すと、しばしば酒楼に寝ており、欠伸をして応じようとしなかった。長い時を経て、ようやく辞して帰郷した。太倉の王錫爵は、その布衣時代からの交わりである。錫爵が再び召された時、ちょうど三王並封の議論があり、叔承は数千言の書簡を送り、大義を引いて去就をもって力強く争うべきであり、両端に依違して君主の恩に背き、衆望を裏切るべきではないと述べた。錫爵はその書を得て嘆服した。その詩は、極めて世貞兄弟に称許された。万暦年間に没した。

瞿九思

瞿九思は、字を睿夫といい、黄梅の人である。父の瞿晟は、嘉靖三十二年の進士である。広平知府を歴任した。三百里の長渠を開鑿し、水を引いて四つの閘門を設け、数十万畝の田を得た。官の任上で没した。九思は十歳で父に従って吉安に赴任し、羅洪先に師事した。十五歳で『定志論』を作った。後に同郷の耿定向に従って遊学し、学問がますます進んだ。万暦元年の郷試に合格した。二年後、県令の張維翰が規定に違反して過酷な賦課を行い、民衆が集まって彼を殴打したが、維翰は九思が騒乱を主導したと決めつけた。巡按御史の向程は維翰が変乱を激化させたと弾劾した。吏部尚書の張瀚は御史の議は正しくないと言い、九思はついに辺境への長流に処せられた。子の瞿甲は、十三歳で、数千言の書簡を作り、歴々と公卿を非難し、父の冤罪を訴えた。甲の弟の瞿罕もまた、宮門に伏して上書し、赦免を求めた。屠隆が『訟瞿生書』を作り、内外に遍く告げ、馮夢禎もまた楚中の当局に白状し、張居正がもとより九思の才能を認めていたので、ようやく釈放されて帰郷できた。三十七年、巡撫・巡按の上疏推薦により、翰林待詔に任じられたが、力辞して受けなかった。詔して役所に歳米六十石を与え、その身の終わりまでとさせた。そこで『楽章』及び『万暦武功録』を撰し、瞿罕を遣わして宮廷に献上させた。七十一歳で没した。九思の学問は極めて奥深く博く、その文章は雅馴ではなかったが、当時の古を嗜み志篤い士も彼に匹敵する者は稀であった。甲は、字を釈之といい、十九歳で郷試に合格したが、早世した。罕は、字を曰有といい、七歳で文ができた。父の冤罪を訴えた時、往復とも徒歩で、寒さと飢えを避けず、天下に双孝と称された。崇禎の時、辟挙されて知州となった。

唐時升

唐時升は、字を叔達といい、嘉定の人である。父の欽訓は、帰有光と親善であり、故に時升は早くから有光の門に登った。三十歳に満たないうちに、挙子の業(科挙の学)を辞し、古学に専念した。王世貞が南都(南京)に官した時、邸宅に招き、疑義を弁晰した。時升は自ら帰氏の門を出た者として、再び王氏の弟子と称することを肯んじなかった。王錫爵が国政を執った時、その子の王衡が時升を都に招き入れたが、ちょうど辺境で戦争があり、逆にその情況の虚実、将帥の勝敗を推測し、一つとして外れることがなかった。家は貧しかったが、施しを好み、園を灌ぎ野菜を植え、蕭然として自得していた。詩は筆を援れば成り、加筆訂正せず、文章は有光の伝統を得た。同郷の婁堅・程嘉燧とともに「練川三老」と称された。崇禎九年に没し、八十六歳であった。

里人に婁堅あり。

婁堅は字を子柔という。幼くして学を好み、その師友は皆帰有光の門下より出づ。堅は学に師承あり、経に明らかにして行い修まり、郷里にて大師と推される。国学に貢せられしも、仕えずして帰る。書法に巧み、詩もまた清新なり。四明の謝三賓が県事を知るや、時升・堅・嘉燧及び李流芳の詩を合わせて刻し、『嘉定四先生集』と曰う。

附に李流芳あり。

流芳は字を長蘅といい、万暦三十四年に郷挙せらる。詩に巧み書に善く、特に絵事に精し。天啓初め、会試に北上し、近郊にて警報を聞き、詩を賦して返り、進取の意を絶つ。

里人に程嘉燧あり。

程嘉燧は字を孟陽といい、休寧の人、嘉定に僑居す。詩に巧み画に善し。通州の顧養謙と善し。友人其れに詣るを勧むるや、乃ち江を渡り古寺に寓り、酒人と歓飲すること三日夜、『詠古』五章を賦し、養謙に見えずして返る。崇禎中、常熟の錢謙益が侍郎を以て罷め帰り、耦耕堂を築き、嘉燧を邀えて其の中に読書せしむ。十年を閲て休寧に返り、遂に卒す。年七十九。謙益最も其の詩を重んじ、松圓詩老と称す。

焦竑

焦竑は字を弱侯といい、江寧の人。諸生たりし時、盛名あり。督学御史耿定向に従い学び、復た羅汝芳に質疑す。嘉靖四十三年の郷試に挙げられ、下第して還る。定向十四郡の名士を選び崇正書院に読書せしめ、竑を以て其の長と為す。及び定向が里居するや、復た往きて之に従う。万暦十七年、始めて殿試第一人を以て翰林修撰に官し、益々国朝の典章を討習す。二十二年、大学士陳於陛国史を修むるを建議し、竑に専ら之を領せしめんと欲す。竑遜謝し、乃ち先ず『経籍志』を撰す。其他は率いて撰する所無く、館も竟に罷む。翰林にて小内侍に書を教うる者、衆は具文と視るも、竑独り曰く「此の曹他日帝の左右に在り、安んぞ之を忽せんや」と。古の奄人の善悪を取り、時に与に論説す。

皇長子出閣するに、竑は講官と為る。故事に、講官進講して問う者稀なり。竑講畢りて徐に曰く「博学審問、功用維均、敷陳或いは未だ尽さず、惟だ殿下明問を賜わんことを」と。皇長子善しと称すれど、然れども質難する所無し。一日、竑復た進みて曰く「殿下言を発し易からず、誤りを諱むるを得るか。解すれば則ち誤り有り、問うて復た何の誤りかあらん。古人は下問を恥じず、願わくは以て法と為さん」と。皇長子復た善しと称すれど、亦た竟に問う所無し。竑乃ち同列と謀り先ず其の端を啓く。適た『舜典』を講ずるに、竑「衆に稽え、己を捨てて人に従う」を挙げて問う。皇長子曰く「稽は考なり。衆思を考集し、然る後己の短を捨て、人の長に従う」と。又た一日、「上帝衷を降し、恒性有ること若し」を挙ぐ。皇長子曰く「此れ他無し、即ち天命之を性と謂うなり」と。時に方に十三歳、答問滞ること無く、竑も亦た誠を竭くして啓迪す。嘗て講次に、群鳥飛び鳴く。皇長子仰ぎ視る。竑講を輟めて肅立す。皇長子容を斂めて聴き、乃ち復た初めの如く講ず。竑嘗て古の儲君の事、法戒と為すべき者を采りて『養正図説』と為し、進めんと擬す。同官の郭正域輩其の相聞かざるを悪み、誉を賈うと目す。竑遂に止む。竑既に重名を負い、性復た疏直にして、時事不可なる有れば、輒ち言論に形す。政府も亦た之を悪み、張位特に甚だし。二十五年順天郷試を主とし、挙子曹蕃等九人の文に多く険誕の語有り。竑劾せられ、福寧州同知に謫せらる。歳余りして大計し、復た秩を鐫らる。竑遂に出でず。

竑は群書に博極し、経史より稗官・雑説に至るまで、淹貫せざる無し。古文を善くし、典正馴雅、卓然として名家なり。集の名を『淡園』とす。竑の自ら号する所なり。講学は汝芳を宗とし、定向兄弟及び李贄を善しとす。時に頗る禅学を以て之を譏る。万暦四十八年卒す。年八十。熹宗の時、先朝の講読の恩を以て、官を復し、諭徳を贈り、祭を賜い子を蔭す。福王の時、文端と追謚す。子潤生は『忠義伝』に見ゆ。

黄輝

黄輝は字を平倩といい、一字を昭素とす。南充の人。竑の同年の進士。幼くして穎異、父の子元は湖広に官す。御史疑獄を訊するに属す。輝律を検するに老吏の如し。御史聞きて之を異とし、負いて至らしめ、銭穀の集を授く。一覧して輒ち記す。稍く長じて、群書に博極す。年十五郷試第一に挙げらる。久しくして進士となり、庶吉士に改む。館課の文字多くは沿襲熟爛し、翰林体と目せらる。及び李攀龍・王世貞の学行するや、則ち又た改めて之に従う。輝は古に学ぶを刻意し、一に韓・歐を師とし、館閣の文稍く変ず。時に同館中、詩文は陶望齢を推し、書画は董其昌を推す。輝の詩及び書は之と名を斉しくす。徴事に至りては、輝十に八九を得。竑は閎雅を以て名有りと雖も、亦た自ら遜りて如かずとす。

編修より右中允に遷り、皇長子講官を充つ。時に帝鄭貴妃を寵し、皇后・長子を疎んず。長子の生母王恭妃殆うし。輝は内豎より其の状を徴知し、同里の給事中王德完に謂いて曰く「此れ国家の大事、旦夕に測るべからず。史冊に之を書せば、朝廷人無しと謂い、吾輩万世の僇と為らん」と。德完奮然とし、輝に属して草を具え上る。獄に下り、廷杖に瀕死す。輝は橐饘に周旋し、険阻を避けず。人或いは之を危ぶむ。輝曰く「吾人を禍に陷る。坐視すべきか」と。輝は雅く禅学を好み、方外と多く交わり、言者に論ぜらる。時に已に庶子として司経局を掌る。遂に告げて帰るを請う。已にして故官を起し、少詹事兼侍読学士に擢げられ、官に卒す。

陳仁錫

陳仁錫は字を明卿といい、長洲の人。父の允堅は進士。歴て諸曁・崇徳二県を知る。仁錫年十九、万暦二十五年の郷試に挙げらる。武進の錢一本の『易』に善きを聞き、往きて之に師事し、其の指要を得る。久しく第せず。益々経史の学に究心し、論著多し。天啓二年、殿試第三人を以て翰林編修を授かる。時に第一は文震孟、亦た老成の宿学なり。海内咸く人を得て慶ぶ。明年内艱に丁り、墓次の廬す。服闋し、故官を起し、尋いで経筵に直り、誥敕を典す。魏忠賢辺功を冒し、旨を矯りて上公の爵を錫い、世券を与う。仁錫当に草を視るべし。持して不可とす。其の党威を以て之を劫すも、毅然として曰く「世自ら草を視る者有り。何ぞ必ずしも我ならんや」と。忠賢之を聞きて怒る。数日を経ず、里人の孫文豸が『歩天歌』を誦するを以て捕えらる。妖言を坐し鍛錬して獄を成し、詞仁錫及び震孟に連なり、罪測るべからざらんとす。密かに救う者有りて、籍を削がれて帰るを得。崇禎改元し、召して故官に復す。旋って右中允に進み、国子司業事を署し、再び経筵に直る。神・光二朝の実録を預修するを以て、右諭徳に進み、仮を乞いて帰る。三年を越え、即ち家より南京国子祭酒を起す。甫く命を拝し、疾を得て卒す。福王の時、詹事を贈り、文莊と謚す。仁錫は経済を講求し、天下の事に志有り。性学を好み、書を著すを喜ぶ。一時館閣中博洽なる者其の儔鮮しと云う。

董其昌

董其昌、字は玄宰、松江府華亭県の人。万暦十七年の進士に挙げられ、庶吉士に改められた。礼部侍郎田一俊が教習として在官中に卒したので、其昌は暇を請い、数千里を走り、その喪を護って帰葬した。編修に遷任された。皇長子が出閣すると、講官を充てられ、事に因って啓沃し、皇長子は毎回目を留めて彼に属した。執政の意に失して坐し、出されて湖広副使となり、病を移して帰った。故官に起用され、湖広学政を督し、請託に徇わず、勢家に怨まれ、生儒数百人を唆して騒ぎ立てさせ、その公署を毀たせた。其昌は直ちに疏を拝して去ることを求め、帝は許さず、所司に按治させたが、其昌はついに事を謝して帰った。山東副使・登萊兵備・河南参政に起用されたが、いずれも赴任しなかった。

光宗が立つと、「旧講官の董先生はどこにいるか」と問うた。そこで召して太常少卿とし、国子司業の事を掌らせた。天啓二年に本寺卿に擢げられ、侍読学士を兼ねた。時に『神宗実録』を修し、南方に往って先朝の章疏及び遺事を采輯せよと命じ、其昌は広く捜索し博く徴し、三百本を録成した。また留中の疏で国本・藩封・人才・風俗・河渠・食貨・吏治・辺防に切なるものを采り、別に四十巻とした。史賛の例に倣い、毎篇に筆断を系した。書成って表を進め、詔して褒美し、史館に宣付した。明年の秋、礼部右侍郎に擢げられ、詹事府事を協理し、尋いで左侍郎に転じた。五年正月に南京礼部尚書を拝した。時に政は奄豎に在り、党禍酷烈であった。其昌は深く自ら引遠し、一年を逾えて告を請い帰った。崇禎四年に故官に起用され、詹事府事を掌った。三年居り、屡疏して休を乞い、詔して太子太保を加えて致仕させた。また二年して卒し、年八十三。太子太傅を贈られた。福王の時、文敏と諡された。

其昌は天才俊逸、少にして重名を負った。初め、華亭では沈度・沈粲以後、南安知府張弼・詹事陸深・布政莫如忠及びその子是龍が皆善書を以て称せられた。其昌は後出して諸家を超越し、始め宋の米芾を宗とし、後自ら一家を成し、名は外国に聞こえた。その画は宋・元諸家の長を集め、己の意を行して、瀟灑生動、人力の及ぶ所ではなかった。四方の金石の刻は、その制作手書を得て、二絶と為した。造請虚日無く、尺素短劄は人間に流布し、争って購い宝とした。品題に精しく、収蔵家は片語隻字を得て以て重しとした。性は和易で、禅理に通じ、蕭閑吐納、終日俗語無し。人はこれを米芾・趙孟頫に擬した。同時に善書を以て名有る者は、臨邑の邢侗・順天の米萬鐘・晉江の張瑞図で、時人は刑・張・米・董と言い、また南董・北米と言った。然し三人は其昌に遠く及ばなかった。

附 莫如忠

莫如忠、字は子良。嘉靖十七年の進士。累官して浙江布政使。潔修自ら好む。夏言が死ぬと、その喪を経紀した。草書を善くし、詩文は体要有り。

如忠の子 是龍

是龍、字は雲卿、後に字を行い、更に字を廷韓とす。十歳にして文を能くし、長じて書を善くす。皇甫汸・王世貞の輩が亟に之を称した。貢生を以て終わる。

附 邢侗

邢侗、字は子願。万暦二年の進士。終わりに陜西行太僕卿。家資鉅万、古犁丘に来禽館を築き、産を減らして客に奉じ、遂に中落を致した。妹慈静は、兄の書を倣うを善くす。

附 米萬鐘

米萬鐘、字は友石。万暦二十三年の進士。歴官して江西按察使。天啓五年、魏忠賢の党倪文煥が之を劾し、遂に籍を削がれた。崇禎初め、太僕少卿に起用され、官に卒した。張瑞図は、官は大学士に至り、逆案中の人なり。

袁宏道

袁宏道、字は中郎、公安県の人。兄宗道・弟中道と並びに才名有り、時に「三袁」と称された。宗道、字は伯修。万暦十四年会試第一。庶吉士を授けられ、編修に進み、右庶子の官に卒した。泰昌の時、光宗講官を追録し、礼部右侍郎を贈られた。

宏道は年十六で諸生となり、即ち城南に社を結び、その長となった。閑に詩歌古文を為し、里中に声有り。万暦二十年の進士に挙げられた。帰家し、帷を下ろして書を読み、詩文は妙悟を主とした。呉県知県に選ばれ、聴断敏決、公庭に事鮮し。士大夫と詩文を談説し、風雅を以て自ら命じた。已にして官を解して去った。順天教授に起用され、国子助教・礼部主事を歴て、病を謝して帰った。久しくして故官に起用された。尋いで清望を以て吏部験封主事に擢げられ、文選に改まる。尋いで考功員外郎に移り、歳終に群吏を考察する法を立て、「外官は三歳に一察し、京官は六歳、武官は五歳なり、此の曹安んぞ独り免かるを得んや」と言上した。疏上り、報可され、遂に定制と為った。稽勲郎中に遷り、後に病を謝して帰り、数月にして卒した。

中道は字を小修という。十余歳にして『黄山』『雪』の二賦を作り、五千余言に及んだ。長じてますます豪邁となり、二人の兄に従い京師に宦遊し、四方の名士と多く交わり、足跡は天下の半ばに及んだ。万暦三十一年に初めて郷試に挙げられ、さらに十四年を経て進士となった。徽州教授より、国子博士・南京礼部主事を歴任した。天啓四年に南京吏部郎中に進み、官にて卒した。

先に、王世貞・李攀龍の学が盛行し、袁氏兄弟のみが心の中でこれを非とした。宗道は館中にあり、同館の黄輝とともにその説を力排した。唐では白楽天を好み、宋では蘇軾を好み、その書斎を「白蘇」と名付けた。宏道に至り、ますます清新軽俊をもって矯め、学者多く王・李を捨ててこれに従い、「公安体」と称した。しかし戯謔嘲笑、時に俚語を交え、空疎な者がこれを便利とした。その後、王・李の風潮は次第に衰え、鍾惺・譚元春の説が大いに盛んとなった。鍾・譚とは、鍾惺と譚元春である。

附 鍾惺

惺は字を伯敬といい、竟陵の人である。万暦三十八年の進士。行人に授けられ、やがて工部主事に遷り、まもなく南京礼部に改め、郎中に進んだ。福建提学僉事に擢てられ、父の憂いにより帰り、家にて卒した。惺は容貌陋く、羸弱で衣を支えられず、人となり厳冷で、俗客と接することを好まず、これにより人事を謝絶した。官を南都にて、秦淮の水閣を借りて史書を読み、常に丙夜に及び、見るところあれば直ちにこれを筆記し、『史懷』と名付けた。晩年は禅に逃れて卒した。

宏道が王・李の詩の弊を矯め、清真を提唱して以来、惺はさらにその弊を矯め、幽深孤峭に変じた。同里の譚元春とともに唐人の詩を評選して『唐詩帰』とし、また隋以前の詩を評選して『古詩帰』とした。鍾・譚の名は天下に満ち、これを竟陵体と称した。しかし両人の学は甚だ富まず、その識解多く僻んでおり、大いに通人より譏られた。

附 譚元春

元春は字を友夏といい、名輩は惺より後れ、『詩帰』の故をもって、これと斉名した。天啓七年に至り初めて郷試の第一に挙げられたが、惺は既に前に卒していた。

王惟儉

王惟儉は字を損仲といい、祥符の人である。万暦二十三年の進士。濰県知県に授けられ、兵部職方主事に遷った。三十年春、遼東総兵官馬林が税使高淮に忤い捕らえられると、兵部尚書田楽らがこれを救った。帝は怒り、職方が代わる者を推挙せず、官署を空にして逐ったことを責め、惟儉もまた官籍を削られて帰った。家に居ること二十年、光宗が立つと、光禄丞に起用された。三たび遷って大理少卿となった。

天啓三年八月に右僉都御史に擢てられ、山東を巡撫した。徐鴻儒の乱に当たり、民多く逃亡し、遼人が避難して来る者も多く行き場を失ったため、惟儉は意を加えて綏撫した。五年三月に南京兵部右侍郎に擢てられたが、赴任せず。工部右侍郎として召されると、魏忠賢の党である御史田景新がこれを弾劾し、落職して閑住させられた。

惟儉は資質聡敏で学を嗜んだ。初めに廃された時、経史百家に力を尽くした。『宋史』の繁蕪を苦にし、自ら手を下して刪定し、一書とした。書画古玩を好んだ。万暦・天啓の間、世に称される博物君子は、惟儉と董其昌が並び、嘉興の李日華はこれに次いだ。

附 李日華

日華は字を君実といい、嘉興の人である。万暦二十年の進士。官は太僕少卿に至った。恬淡和易で、物と忤わなかった。惟儉は口に微詞多く、道学を抨撃することを好み、人は堪えられなかった。かつて時輩と宴集し、『漢書かんじょ』の一事を求めると、本末を具に悉くし、その腹を指して笑い、「名の下に虚士あらんや」と言った。その自ら喜ぶ様はこのようであった。

曹学佺

曹学佺は字を能始といい、侯官の人である。弱冠にして万暦二十三年の進士に挙げられ、戸部主事に授けられた。察典に中り、南京添註大理左寺正に調ぜられた。冗散の職に七年居り、学に力を尽くした。累遷して南京戸部郎中、四川右参政・按察使となった。しょく王府が火災で焼失し、修復費用を七十万金と見積もると、学佺は『宗藩条例』を以てこれを退けた。再び察典に中り、調任が議された。天啓二年に広西右参議として起用された。初め、梃撃の獄が起こると、劉廷元らは瘋癲を主張した。学佺は『野史紀略』を著し、事の本末を直書した。六年秋、学佺が陜西副使に遷り、未だ赴任せず、廷元が魏忠賢に附いて大いに寵幸を受けると、学佺が私に野史を撰し、国章を淆乱したと弾劾し、遂に官籍を削り、刻版を毀たせた。巡按御史王政新は、かつて学佺を推薦したため、また閑住を命ぜられた。広西の大吏は学佺が必ず重禍を得ると揣り、留め置いて待った。後に、忠賢に彼を殺す意がないと知り、釈放されて帰還した。崇禎初年、広西副使に起用されたが、力辞して就かなかった。

二十年間家に居り、著書は居所の石倉園にあり、『石倉十二代詩選』を撰し、世に盛行す。嘗て「二氏(仏・道)には蔵(大蔵経・道蔵)有り、吾が儒は何ぞ独り無からん」と謂い、儒蔵を修めて鼎立せんと欲す。四庫の書を采擷し、類に因り分輯す、十有餘年、功未だ竣わらず、両京相継いで覆る。唐王閩中に立ち、起用して太常卿を授く。尋いで礼部右侍郎兼侍講学士に遷り、尚書に進み、太子太保を加う。事敗るるに及び、山中に走り入り、繯に投じて死す、年七十四。詩文甚だ富み、総名して『石倉集』と曰う。万暦中、閩中の文風頗る盛んにして、学牷これを倡え、晚年更に殉節を以て著る。

附 曾異撰

其の同邑後起の者、曾異撰、字は弗人、晋江の人、侯官に家す。父は諸生たり、早く卒す。母張氏、遺腹を以て生む。家甚だ寠しく、紡績して晨夕を給す。異撰孤童より起り、母に事えて至孝なり。歳饑うれば、薯葉を采り糠を雑えて之を食い、母妻嘗て畚鋤を負い乾草して爨を給す。然れども性甚だ介なり、長吏其の貧しきを知り、地と為さんと欲すも、屑かず。呉興の潘曾纮学政を督め、其の母の節行を上り、朝に旌せらる。曾纮南・贛を巡撫するに及び、王惟儉の撰する所の『宋史』を得、異撰及び新建の徐世溥を招き更定せしむ、未だ成らずして罷む。異撰久しく諸生たり、経世の学に究心し、為す所の詩、奇気有り。崇禎十二年郷試に挙げらる、年四十有九、再び会試に赴き還り、遂に卒す。

王志堅

王志堅、字は弱生、昆山の人。父臨亨、進士。杭州知府。志堅万暦三十八年の進士に挙げられ、南京兵部主事を授かり、員外郎・郎中に遷る。暇日に同舎の郎を要して読史社と為し、『読史商語』を撰す。貴州提学僉事に遷るも、赴かず、侍養を乞いて帰る。天啓二年起用されて浙江驛伝を督め、母の喪に奔り帰る。崇禎四年復た僉事を以て湖広学政を督め、礼部学政第一と推す。六年官に卒す。

志堅少くして李流芳と同学し、詩文を為し、唐・宋の名家に法る。通籍の後、呉門古南園に卜居し、門を杜ぎ掃を却け、志を肆にし書を読み、先ず経、後に史、先ず史、後に子・集。其の経を読むは、先ず箋疏にして後に辨論。史を読むは、先ず證據にして後に發明。子を読むは、則ち唐・宋而後は子無しと謂い、當に說家の經史に裨益有る者を取って之を補うべしとす。集を読むは、則ち秦・漢以後の古文を五編と定め、唐・宋の碑誌を考核し、史傳を援け、雜說を捃え、以て其の事の同異・文の純駁を參核す。其の内典に於いても、亦深く性相の宗を辨す。詩を作ること甚だ富み、自選して止むること七十餘首。

志堅弟 志長

弟志長、字は平仲、郷に挙げられ、亦經學に深し。

艾南英

艾南英、字は千子、東郷の人。七歳にして『竹林七賢論』を作る。長じて諸生と為り、學びて窺わざる所無し。万暦末、場屋の文腐爛す、南英深く之を疾み、同郡の章世純・羅萬藻・陳際泰と以て斯文を興起するを任と為し、乃ち四人の作る所を刻して之を行い世に伝う。世人翕然として之に帰し、章・羅・陳・艾と称す。天啓四年、南英始めて郷に挙げらる。座主檢討丁乾學・給事中郝土膏策を發して魏忠賢を詆す、南英の對策にも亦譏刺の語有り。忠賢怒り、考官の籍を削り、南英も亦三科を停む。

莊烈帝即位し、詔して会試を許す。久しくして、卒に第せず、而して文日有名なり。氣を負いて物に陵ぎ、人多く其の口を憚る。始め王・李の學大いに行わり、天下古文を談ずる者悉く之を宗とす、後鍾・譚出でて一變す。是に至りて錢謙益詞林に重名を負い、痛く相糾駁す。南英之に和し、王・李を排詆して餘力を遺さず。両京相継いで覆り、江西の郡縣盡く失う、南英乃ち閩に入る。唐王召見し、十可憂の疏を陳べ、兵部主事を授け、尋いで御史に改む。明年八月延平に卒す。

同郡 章世純

章世純、字は大力、臨川の人。博聞強記。天啓元年郷試に挙げらる。崇禎中、累官して柳州知府と為り、年已に七十、京師の變を聞き、悲憤し、疾いに遘いて卒す。

同郡 羅萬藻

羅萬藻、字は文止、世純同縣の人。天啓七年郷に挙げらる。崇禎中保舉法を行い、祭酒倪元璐萬藻を以て詔に應ぜしむ、辭して就かず。福王時に上杭知縣と為る。唐王閩に立ち、禮部主事に擢ぐ。南英卒す、哭して之を殯し、數月居りて亦卒す。

同郡の陳際泰。

陳際泰、字は大士、これも臨川の人、父は流寓して汀州武平に住み、その地で生まれた。家は貧しく、師に従うことができず、また書物もなく、時には隣家の子供の書物を取って、人を避けて密かに誦読した。従兄の家で『書経』を得たが、四隅はすでに磨滅し、かつ句読もなく、自ら意識して区別し、ついにその義を通じた。十歳の時、母方の実家の薬籠の中に『詩経』を見つけ、取って疾走した。父はこれを見て怒り、田へ行くよう督めたが、則ち携えて田舎へ行き、高い丘に踞って詠じ、ついに終身忘れなかった。久しくして、臨川に戻り、艾南英らと時文をもって天下に名を知られた。その文章を為すこと、甚だ敏速で、一日に二三十首もでき、先後作るところ万首に至り、経生の挙業の富は、際泰に及ぶ者無かった。崇禎三年に郷試に合格した。また四年後に進士となり、年齢は六十八歳であった。また三年後に行人に任じられた。四年間在職し、故相蔡國用の喪を護って南行し、途中で卒した。

張溥。

張溥、字は天如、太倉の人。伯父の輔之は、南京工部尚書であった。溥は幼くして学を嗜んだ。読む書物は必ず手で書き写し、写し終わると朗誦一遍し、即ちこれを焼き、また書き写し、このようにすること六七回にして初めて止めた。右手の筆を握る所、指の掌に繭ができた。冬の日には手が皸れ、日に数回湯で洗った。後に読書の斎を「七録」と名付けたのは、これによるのである。同里の張采と共に学び、斉しく名を知られ、「婁東の二張」と号された。

崇禎元年に選貢生として都に入り、張采は丁度進士となったばかりで、二人の名声は都下に響き渡った。やがて張采は臨川に官を得た。溥は帰郷し、郡中の名士を集めて互いに古学を復興し、その文社を復社と名付けた。四年に進士となり、庶吉士に改められた。親の葬儀のために帰郷を乞うて帰り、読書は経生の如く、寒暑の間も無かった。四方の名声を求める者は争ってその門に走り、皆復社を名乗った。溥もまた身を傾けて交際し、交遊は日に広がり、声気は朝廷の高官に通じた。その品題する甲乙は、よく栄辱を為し得た。諸々奔走して附麗する者は、すぐに自ら誇って曰く、「我は東林を嗣ぐ者なり」と。執政の大僚はこれによって彼らを憎んだ。里人の陸文声という者、財を輸じて監生となり、復社に入ることを求めたが許されず、張采もまたかつて事あって彼を鞭打った。文声は朝廷に赴いて言上した、「風俗の弊は、皆士子に源を発す。溥・采が主盟となり、復社を倡え、天下を乱す」と。温體仁が丁度国政を執っていたので、所管の役所に下した。遷延すること久しく、提学御史倪元珙・兵備参議馮元揚・太倉知州周仲連が復社に罪無きを言上した。三人は皆貶斥され、厳旨をもって窮究すること止まなかった。閩人の周之夔という者、かつて蘇州推官を為し、事に坐して罷免され去ったが、溥がこれを為したと疑い、甚だ恨んだ。文声が溥を告発したと聞き、遂に朝廷に伏して言上し、溥らが官吏考課を把持し、己が罷職は実に彼らの為すところであるとし、因みに復社の恣横な様子に及んだ。上奏文が下され、巡撫張国維らが之夔の去官は溥の事に預からずと上言したが、これもまた詔旨により譴責された。

十四年に至り、溥は既に卒していたが、事は猶未だ終わらなかった。刑部侍郎蔡奕琛が薛國観に与して獄に繋がれ、溥の卒を知らず、溥が遠くから朝権を握り、己の罪は溥によるものだと告発し、因みに張采が党を結んで政を乱すと述べた。詔して溥・采に回奏を責め、張采が上言した、「復社は臣の事に非ず、然れども臣と溥は平生相淬礪し、死して網羅を避け、義を負いて全きを図るも、誼は此に出ず。溥が日夜経を解き文を論じ、心を矢って報いんとしたるを思い、曾て一日も官に服せず、忠を懐いて地に入る。即ち今厳綸の下に、泣血して自ら明らかにすることも得ず、まことに足るべく哀悼す」と。この時、體仁は既に前に罷免され、継ぐ者張至發・薛國観は皆東林を喜ばず、故に所管の役所は敢えて復奏しなかった。ここに至り、至發・國観もまた相次いで罷免され、周延儒が国政を執ったが、溥の座主であり、その再相を得たのは、溥の力によるものであったから、故に張采の上疏が上がり、事は即ち解かれた。

翌年、御史劉熙祚・給事中姜埰が相次いで上章し、溥が行いを砥ぎ博聞で、纂述する経史は聖学に功有り、宜しく備えて乙夜の観に取るべしと述べた。帝が経筵に臨み、二人について問うと、延儒が対えて曰く、「読書好しき秀才なり」と。帝曰く、「溥は既に卒し、張采は小臣なり、言官何ぞこれを薦むるや」と。延儒曰く、「二人は読書を好み、よく文章を為し、言官が挙子たりし時にその文を読み、またその用いられざるを惜しむ故なり」と。帝曰く、「亦た偏り免れず」と。延儒言う、「誠に聖諭の如し、溥と黄道周は皆偏り有り、善く読書するが故に、これを惜しむ者衆し」と。帝は之を頷き、遂に詔して溥の遺書を徴し、而して道周もまた官に復した。有司が先後して三千余巻を録上すると、帝は悉く留めて閲覧した。

溥の詩文は敏捷であった。四方より徴索する者に対し、草稿を起こさず、客に対し毫を揮い、俄頃に立ちどころに成し、以って名を一時に高くした。卒した時、年僅か四十であった。

同里の張采。

張采、字は受先、張溥と親善であった。溥の性質は寛大で、広く交わり博く愛した。張采は特に厳毅で、可否を甄別するを喜び、人に過ち有れば、嘗て面と向かってこれを叱った。臨川県知事として、強きを摧き弱きを扶け、名声大いに起こった。病を理由に帰郷すると、士民は道に満ちて泣いて送った。知州の劉士鬥・錢肅樂は彼を重んじ、奸蠹について張采に諮ると、片紙の返報で、皆法に置かれた。福王の時、礼部主事に起用され、員外郎に進み、休暇を乞うて去った。南都が失陥すると、平素より張采を恨んでいた奸人が、群をなして彼を撃ち殺し、また大錐を用いて乱れ刺した。やがて蘇生し、隣邑に避難し、また三年後に卒した。