◎文苑四
李維楨
維楨は弱冠で朝廷に登り、博聞強記、同館の許国と斉名した。館中これがために語って曰く、「記せずば、老許に問え。為せずば、小李に問え」と。維楨の人となり、楽易闊達、賓客雑進す。その文章は弘肆にして才気あり、海内の請求する者虚日無く、能く屈曲してその望む所に副う。碑版の文は四裔を照耀す。門下の士は富人大賈を招き、金銭を受取って代わりに請乞し、これもまた応じて倦まず、重名を負うこと四十年に垂んとした。然れども文は多く率意応酬のもの多く、品格高からず。
邑人に郝敬あり。
邑人郝敬、字は仲輿。父の承健は郷挙され、官は肅寧知県。敬は幼く神童と称され、性跅弛、嘗て人を殺して獄に繋がれた。維楨はその父の執友なり、援け出してこれを家に館した。始めて節を折りて書を読み、萬暦十七年の進士に挙げられた。歴任して縉雲・永嘉二県の知県となり、並びに能声有り。徴されて礼科給事中を授かり、乞い仮して帰養した。久しくして戸科を補い、数度論奏有り。
徐渭
徐渭、字は文長、山陰の人。十余歳で揚雄の『解嘲』に倣い『釈毀』を作り、長じて同里の季本に師事した。諸生として、盛名有り。総督胡宗憲が幕府に招致し、歙の余寅・鄞の沈明臣と共に書記を掌った。宗憲が白鹿を得て、将にこれを朝廷に献ぜんとし、渭に表を草せしめ、並びに他の客の草したものを善き学士に寄せ、その尤なるものを選んで上らしめた。学士が渭の表を進めると、世宗大いに悦び、益々宗憲を寵異し、宗憲はこれによって益々渭を重んじた。宗憲嘗て将吏を爛柯山に宴し、酒酣に楽作るや、明臣が『鐃歌』十章を作り、中に云う「狭巷短兵相接する処、人を殺すこと草の如くして声を聞かず」。宗憲起ち、その須を捋って曰く、「何ものぞ沈生、雄快なること乃ち爾るか」と。即ち命じて石に刻ませ、寵礼は渭と埒った。督府の勢は厳重にして、将吏敢えて仰視する者無し。渭は角巾布衣、長揖して縦談す。幕中に急用有れば、夜深く戟門を開いて待つ。渭或いは酔って至らずとも、宗憲は顧みてこれを善しとした。寅・明臣も亦頗る崖岸を負い、侃直を以て礼せられた。
渭は兵を知り、奇計を好み、宗憲が徐海を擒え、王直を誘うに、皆その謀に預かった。宗憲の勢を藉り、頗る横なり。宗憲が獄に下るに及んで、渭は禍を懼れ、遂に発狂し、巨錐を引いて耳を剚ち、深さ数寸、又椎を以て腎嚢を砕き、皆死なず。已にして、又継妻を撃殺し、死を論ぜられ獄に繋がれたが、裏人張元忭が力救して免れた。乃ち金陵に遊び、宣・遼に抵り、諸辺の厄塞を縦観し、李成梁の諸子と善し。京師に入り、元忭を主とした。元忭は礼法を以て導いたが、渭は従う能わず、久しくして怒って去った。後、元忭卒すや、白衣を以て往き弔い、棺を撫て慟哭し、姓名を告げずして去った。
寅、字は仲房。明臣、字は嘉則。皆詩名有り。
屠隆
屠隆は、字を長卿といい、明臣(沈明臣)の同郷の人である。生まれつき異才があり、かつて明臣に詩を学び、筆を下ろせば数千言がたちどころに出来上がった。同族の大山(屠大山)や同郷の張時徹がちょうど高官であったので、互いに推挙して名声を高め、名声が大いに上がった。万暦五年の進士に挙げられ、潁上知県に任じられ、政務の多い青浦県に転任した。当時、名士を招いて酒を飲み詩を賦し、九峰や三泖を遊覧し、仙令(俗務を超えた名県令)を自任したが、しかし吏事(行政事務)をおろそかにせず、士民は皆彼を愛戴した。礼部主事に昇進した。
西寧侯宋世恩は兄として屠隆に仕え、宴遊を大いに楽しんだ。刑部主事の俞顕卿は、険悪な人物で、かつて屠隆に誹謗されたことがあり、心に恨みを抱いていた。屠隆と世恩が淫らで放縦であると告発し、その言葉は礼部尚書陳経邦にまで及んだ。屠隆らは上疏して自らを弁明し、並べて顕卿が私怨を抱いて誣告した様子を列挙した。担当官庁は結局両者を免職とし、世恩の俸給を半年停止した。屠隆は帰郷する途中、青浦に立ち寄ると、父老たちが田千畝を集め、移住を請うた。屠隆は許さず、三日間歓飲して感謝して去った。
帰郷後はますます詩と酒に情を傾け、賓客を好み、文を売って生計を立てた。詩文は概ね気の向くままに、一揮して数枚の紙を費やした。かつて戯れに二人を向かい合わせに座らせ、二つの題を引かせ、それぞれ百韻の詩を賦させたが、咄嗟の間に二篇とも完成した。また人と囲碁を打ちながら、口で詩文を誦し、人に書かせたが、書くのが誦するのに追いつかなかった。
息子の妻沈氏は、修撰沈懋学の娘で、屠隆の娘瑶瑟とともに詩ができた。屠隆が何か作ると、二人はすぐにそれに和した。両家の兄弟が彼女たちの詩を合わせて刻し、『留香草』と題した。
王穉登
王穉登は、字を伯谷といい、長洲の人である。四歳で対句ができ、六歳で擘窠大字をよくし、十歳で詩を作ることができ、成長するにつれてますます才気が発揮され盛名があった。嘉靖の末、京師に遊学し、大学士袁煒の家に客分となった。袁煒が諸吉士に紫牡丹の詩を試させたが、気に入らなかった。穉登に作らせると、警句があった。袁煒は諸吉士を呼び集めて言った。「君たちの職は文章にあるのに、王秀才の一句も得られないのか?」朝廷に推薦しようとしたが、果たせなかった。隆慶の初め、再び京師に遊び、徐階が国政を執っていたが、袁煒に対してかなり遺恨を修めていた。ある者が穉登に袁公の客であると名乗らないよう勧めたが、従わず、『燕市』『客越』二つの詩集を刻し、その事柄を詳しく書いた。
呉中では文徴明の後、風雅の主導権は定まらなかった。穉登はかつて徴明の門に及び、その流風を遠く受け継ぎ、詞翰(詩文)の席の主となって三十余年を過ごした。嘉靖・隆慶・万暦の間、布衣や山人で詩の名がある者は十数人おり、俞允文・王叔承・沈明臣らが特に世に称せられたが、名声の華やかさでは穉登が最もあった。申時行が元老として郷里に居たが、特に彼を推重した。王世貞は同郷として親しくしたが、しかしあまり推挙しなかった。世貞が没すると、その次男の士骕が事件に連座して獄に繋がれたが、穉登は身を挺して救援し、人々はこれをもってその風義を重んじた。万暦年間、詔して国史を修めることとなり、大学士趙志臯らが穉登とその同郷の魏学礼・江都の陸弼・黄岡の王一鳴を推薦した。詔して徴用されたが、上京しないうちに史局が廃止された。七十余歳で没した。子の留は、字を亦房といい、これも詩の名があった。
附 俞允文
俞允文は、字を仲蔚といい、昆山の人である。その父は進士に挙げられ、大理評事の官にあった。允文は十五歳で『馬鞍山賦』を作り、援引と根拠が該博であった。四十歳に満たないうちに、諸生(生員)の身分を辞去し、詩文と書法に専念した。王世貞と親善であったが、李攀龍の詩は好まず、その持論はこのように安易に同調しなかった。
附 王叔承
王叔承は、字を承父といい、呉江の人である。幼くして孤となり、経生の学業に励んだが、古を好むためにそれを辞した。貧しく、妻の家に婿入りしたが、舅に追い出され、一銭も与えられなかったので、妻を連れて帰り母に仕え、ますます貧しくなった。都に入り、大学士李春芳のところに客分となった。性来酒を嗜み、春芳が何か撰述する時、彼を探すと、しばしば酒楼に寝ており、欠伸をして応じようとしなかった。長い時を経て、ようやく辞して帰郷した。太倉の王錫爵は、その布衣時代からの交わりである。錫爵が再び召された時、ちょうど三王並封の議論があり、叔承は数千言の書簡を送り、大義を引いて去就をもって力強く争うべきであり、両端に依違して君主の恩に背き、衆望を裏切るべきではないと述べた。錫爵はその書を得て嘆服した。その詩は、極めて世貞兄弟に称許された。万暦年間に没した。
瞿九思
唐時升
唐時升は、字を叔達といい、嘉定の人である。父の欽訓は、帰有光と親善であり、故に時升は早くから有光の門に登った。三十歳に満たないうちに、挙子の業(科挙の学)を辞し、古学に専念した。王世貞が南都(南京)に官した時、邸宅に招き、疑義を弁晰した。時升は自ら帰氏の門を出た者として、再び王氏の弟子と称することを肯んじなかった。王錫爵が国政を執った時、その子の王衡が時升を都に招き入れたが、ちょうど辺境で戦争があり、逆にその情況の虚実、将帥の勝敗を推測し、一つとして外れることがなかった。家は貧しかったが、施しを好み、園を灌ぎ野菜を植え、蕭然として自得していた。詩は筆を援れば成り、加筆訂正せず、文章は有光の伝統を得た。同郷の婁堅・程嘉燧とともに「練川三老」と称された。崇禎九年に没し、八十六歳であった。
里人に婁堅あり。
婁堅は字を子柔という。幼くして学を好み、その師友は皆帰有光の門下より出づ。堅は学に師承あり、経に明らかにして行い修まり、郷里にて大師と推される。国学に貢せられしも、仕えずして帰る。書法に巧み、詩もまた清新なり。四明の謝三賓が県事を知るや、時升・堅・嘉燧及び李流芳の詩を合わせて刻し、『嘉定四先生集』と曰う。
附に李流芳あり。
流芳は字を長蘅といい、万暦三十四年に郷挙せらる。詩に巧み書に善く、特に絵事に精し。天啓初め、会試に北上し、近郊にて警報を聞き、詩を賦して返り、進取の意を絶つ。
里人に程嘉燧あり。
程嘉燧は字を孟陽といい、休寧の人、嘉定に僑居す。詩に巧み画に善し。通州の顧養謙と善し。友人其れに詣るを勧むるや、乃ち江を渡り古寺に寓り、酒人と歓飲すること三日夜、『詠古』五章を賦し、養謙に見えずして返る。崇禎中、常熟の錢謙益が侍郎を以て罷め帰り、耦耕堂を築き、嘉燧を邀えて其の中に読書せしむ。十年を閲て休寧に返り、遂に卒す。年七十九。謙益最も其の詩を重んじ、松圓詩老と称す。
焦竑
皇長子出閣するに、竑は講官と為る。故事に、講官進講して問う者稀なり。竑講畢りて徐に曰く「博学審問、功用維均、敷陳或いは未だ尽さず、惟だ殿下明問を賜わんことを」と。皇長子善しと称すれど、然れども質難する所無し。一日、竑復た進みて曰く「殿下言を発し易からず、誤りを諱むるを得るか。解すれば則ち誤り有り、問うて復た何の誤りかあらん。古人は下問を恥じず、願わくは以て法と為さん」と。皇長子復た善しと称すれど、亦た竟に問う所無し。竑乃ち同列と謀り先ず其の端を啓く。適た『舜典』を講ずるに、竑「衆に稽え、己を捨てて人に従う」を挙げて問う。皇長子曰く「稽は考なり。衆思を考集し、然る後己の短を捨て、人の長に従う」と。又た一日、「上帝衷を降し、恒性有ること若し」を挙ぐ。皇長子曰く「此れ他無し、即ち天命之を性と謂うなり」と。時に方に十三歳、答問滞ること無く、竑も亦た誠を竭くして啓迪す。嘗て講次に、群鳥飛び鳴く。皇長子仰ぎ視る。竑講を輟めて肅立す。皇長子容を斂めて聴き、乃ち復た初めの如く講ず。竑嘗て古の儲君の事、法戒と為すべき者を采りて『養正図説』と為し、進めんと擬す。同官の郭正域輩其の相聞かざるを悪み、誉を賈うと目す。竑遂に止む。竑既に重名を負い、性復た疏直にして、時事不可なる有れば、輒ち言論に形す。政府も亦た之を悪み、張位特に甚だし。二十五年順天郷試を主とし、挙子曹蕃等九人の文に多く険誕の語有り。竑劾せられ、福寧州同知に謫せらる。歳余りして大計し、復た秩を鐫らる。竑遂に出でず。
竑は群書に博極し、経史より稗官・雑説に至るまで、淹貫せざる無し。古文を善くし、典正馴雅、卓然として名家なり。集の名を『淡園』とす。竑の自ら号する所なり。講学は汝芳を宗とし、定向兄弟及び李贄を善しとす。時に頗る禅学を以て之を譏る。万暦四十八年卒す。年八十。熹宗の時、先朝の講読の恩を以て、官を復し、諭徳を贈り、祭を賜い子を蔭す。福王の時、文端と追謚す。子潤生は『忠義伝』に見ゆ。
黄輝
編修より右中允に遷り、皇長子講官を充つ。時に帝鄭貴妃を寵し、皇后・長子を疎んず。長子の生母王恭妃殆うし。輝は内豎より其の状を徴知し、同里の給事中王德完に謂いて曰く「此れ国家の大事、旦夕に測るべからず。史冊に之を書せば、朝廷人無しと謂い、吾輩万世の僇と為らん」と。德完奮然とし、輝に属して草を具え上る。獄に下り、廷杖に瀕死す。輝は橐饘に周旋し、険阻を避けず。人或いは之を危ぶむ。輝曰く「吾人を禍に陷る。坐視すべきか」と。輝は雅く禅学を好み、方外と多く交わり、言者に論ぜらる。時に已に庶子として司経局を掌る。遂に告げて帰るを請う。已にして故官を起し、少詹事兼侍読学士に擢げられ、官に卒す。
陳仁錫
董其昌
董其昌、字は玄宰、松江府華亭県の人。万暦十七年の進士に挙げられ、庶吉士に改められた。礼部侍郎田一俊が教習として在官中に卒したので、其昌は暇を請い、数千里を走り、その喪を護って帰葬した。編修に遷任された。皇長子が出閣すると、講官を充てられ、事に因って啓沃し、皇長子は毎回目を留めて彼に属した。執政の意に失して坐し、出されて湖広副使となり、病を移して帰った。故官に起用され、湖広学政を督し、請託に徇わず、勢家に怨まれ、生儒数百人を唆して騒ぎ立てさせ、その公署を毀たせた。其昌は直ちに疏を拝して去ることを求め、帝は許さず、所司に按治させたが、其昌はついに事を謝して帰った。山東副使・登萊兵備・河南参政に起用されたが、いずれも赴任しなかった。
其昌は天才俊逸、少にして重名を負った。初め、華亭では沈度・沈粲以後、南安知府張弼・詹事陸深・布政莫如忠及びその子是龍が皆善書を以て称せられた。其昌は後出して諸家を超越し、始め宋の米芾を宗とし、後自ら一家を成し、名は外国に聞こえた。その画は宋・元諸家の長を集め、己の意を行して、瀟灑生動、人力の及ぶ所ではなかった。四方の金石の刻は、その制作手書を得て、二絶と為した。造請虚日無く、尺素短劄は人間に流布し、争って購い宝とした。品題に精しく、収蔵家は片語隻字を得て以て重しとした。性は和易で、禅理に通じ、蕭閑吐納、終日俗語無し。人はこれを米芾・趙孟頫に擬した。同時に善書を以て名有る者は、臨邑の邢侗・順天の米萬鐘・晉江の張瑞図で、時人は刑・張・米・董と言い、また南董・北米と言った。然し三人は其昌に遠く及ばなかった。
附 莫如忠
莫如忠、字は子良。嘉靖十七年の進士。累官して浙江布政使。潔修自ら好む。夏言が死ぬと、その喪を経紀した。草書を善くし、詩文は体要有り。
如忠の子 是龍
是龍、字は雲卿、後に字を行い、更に字を廷韓とす。十歳にして文を能くし、長じて書を善くす。皇甫汸・王世貞の輩が亟に之を称した。貢生を以て終わる。
附 邢侗
附 米萬鐘
袁宏道
宏道は年十六で諸生となり、即ち城南に社を結び、その長となった。閑に詩歌古文を為し、里中に声有り。万暦二十年の進士に挙げられた。帰家し、帷を下ろして書を読み、詩文は妙悟を主とした。呉県知県に選ばれ、聴断敏決、公庭に事鮮し。士大夫と詩文を談説し、風雅を以て自ら命じた。已にして官を解して去った。順天教授に起用され、国子助教・礼部主事を歴て、病を謝して帰った。久しくして故官に起用された。尋いで清望を以て吏部験封主事に擢げられ、文選に改まる。尋いで考功員外郎に移り、歳終に群吏を考察する法を立て、「外官は三歳に一察し、京官は六歳、武官は五歳なり、此の曹安んぞ独り免かるを得んや」と言上した。疏上り、報可され、遂に定制と為った。稽勲郎中に遷り、後に病を謝して帰り、数月にして卒した。
中道は字を小修という。十余歳にして『黄山』『雪』の二賦を作り、五千余言に及んだ。長じてますます豪邁となり、二人の兄に従い京師に宦遊し、四方の名士と多く交わり、足跡は天下の半ばに及んだ。万暦三十一年に初めて郷試に挙げられ、さらに十四年を経て進士となった。徽州教授より、国子博士・南京礼部主事を歴任した。天啓四年に南京吏部郎中に進み、官にて卒した。
先に、王世貞・李攀龍の学が盛行し、袁氏兄弟のみが心の中でこれを非とした。宗道は館中にあり、同館の黄輝とともにその説を力排した。唐では白楽天を好み、宋では蘇軾を好み、その書斎を「白蘇」と名付けた。宏道に至り、ますます清新軽俊をもって矯め、学者多く王・李を捨ててこれに従い、「公安体」と称した。しかし戯謔嘲笑、時に俚語を交え、空疎な者がこれを便利とした。その後、王・李の風潮は次第に衰え、鍾惺・譚元春の説が大いに盛んとなった。鍾・譚とは、鍾惺と譚元春である。
附 鍾惺
惺は字を伯敬といい、竟陵の人である。万暦三十八年の進士。行人に授けられ、やがて工部主事に遷り、まもなく南京礼部に改め、郎中に進んだ。福建提学僉事に擢てられ、父の憂いにより帰り、家にて卒した。惺は容貌陋く、羸弱で衣を支えられず、人となり厳冷で、俗客と接することを好まず、これにより人事を謝絶した。官を南都にて、秦淮の水閣を借りて史書を読み、常に丙夜に及び、見るところあれば直ちにこれを筆記し、『史懷』と名付けた。晩年は禅に逃れて卒した。
宏道が王・李の詩の弊を矯め、清真を提唱して以来、惺はさらにその弊を矯め、幽深孤峭に変じた。同里の譚元春とともに唐人の詩を評選して『唐詩帰』とし、また隋以前の詩を評選して『古詩帰』とした。鍾・譚の名は天下に満ち、これを竟陵体と称した。しかし両人の学は甚だ富まず、その識解多く僻んでおり、大いに通人より譏られた。
附 譚元春
王惟儉
惟儉は資質聡敏で学を嗜んだ。初めに廃された時、経史百家に力を尽くした。『宋史』の繁蕪を苦にし、自ら手を下して刪定し、一書とした。書画古玩を好んだ。万暦・天啓の間、世に称される博物君子は、惟儉と董其昌が並び、嘉興の李日華はこれに次いだ。
附 李日華
日華は字を君実といい、嘉興の人である。万暦二十年の進士。官は太僕少卿に至った。恬淡和易で、物と忤わなかった。惟儉は口に微詞多く、道学を抨撃することを好み、人は堪えられなかった。かつて時輩と宴集し、『漢書』の一事を求めると、本末を具に悉くし、その腹を指して笑い、「名の下に虚士あらんや」と言った。その自ら喜ぶ様はこのようであった。
曹学佺
二十年間家に居り、著書は居所の石倉園にあり、『石倉十二代詩選』を撰し、世に盛行す。嘗て「二氏(仏・道)には蔵(大蔵経・道蔵)有り、吾が儒は何ぞ独り無からん」と謂い、儒蔵を修めて鼎立せんと欲す。四庫の書を采擷し、類に因り分輯す、十有餘年、功未だ竣わらず、両京相継いで覆る。唐王閩中に立ち、起用して太常卿を授く。尋いで礼部右侍郎兼侍講学士に遷り、尚書に進み、太子太保を加う。事敗るるに及び、山中に走り入り、繯に投じて死す、年七十四。詩文甚だ富み、総名して『石倉集』と曰う。万暦中、閩中の文風頗る盛んにして、学牷これを倡え、晚年更に殉節を以て著る。
附 曾異撰
王志堅
志堅少くして李流芳と同学し、詩文を為し、唐・宋の名家に法る。通籍の後、呉門古南園に卜居し、門を杜ぎ掃を却け、志を肆にし書を読み、先ず経、後に史、先ず史、後に子・集。其の経を読むは、先ず箋疏にして後に辨論。史を読むは、先ず證據にして後に發明。子を読むは、則ち唐・宋而後は子無しと謂い、當に說家の經史に裨益有る者を取って之を補うべしとす。集を読むは、則ち秦・漢以後の古文を五編と定め、唐・宋の碑誌を考核し、史傳を援け、雜說を捃え、以て其の事の同異・文の純駁を參核す。其の内典に於いても、亦深く性相の宗を辨す。詩を作ること甚だ富み、自選して止むること七十餘首。
志堅弟 志長
弟志長、字は平仲、郷に挙げられ、亦經學に深し。
艾南英
艾南英、字は千子、東郷の人。七歳にして『竹林七賢論』を作る。長じて諸生と為り、學びて窺わざる所無し。万暦末、場屋の文腐爛す、南英深く之を疾み、同郡の章世純・羅萬藻・陳際泰と以て斯文を興起するを任と為し、乃ち四人の作る所を刻して之を行い世に伝う。世人翕然として之に帰し、章・羅・陳・艾と称す。天啓四年、南英始めて郷に挙げらる。座主檢討丁乾學・給事中郝土膏策を發して魏忠賢を詆す、南英の對策にも亦譏刺の語有り。忠賢怒り、考官の籍を削り、南英も亦三科を停む。
莊烈帝即位し、詔して会試を許す。久しくして、卒に第せず、而して文日有名なり。氣を負いて物に陵ぎ、人多く其の口を憚る。始め王・李の學大いに行わり、天下古文を談ずる者悉く之を宗とす、後鍾・譚出でて一變す。是に至りて錢謙益詞林に重名を負い、痛く相糾駁す。南英之に和し、王・李を排詆して餘力を遺さず。両京相継いで覆り、江西の郡縣盡く失う、南英乃ち閩に入る。唐王召見し、十可憂の疏を陳べ、兵部主事を授け、尋いで御史に改む。明年八月延平に卒す。
同郡 章世純
同郡 羅萬藻
羅萬藻、字は文止、世純同縣の人。天啓七年郷に挙げらる。崇禎中保舉法を行い、祭酒倪元璐萬藻を以て詔に應ぜしむ、辭して就かず。福王時に上杭知縣と為る。唐王閩に立ち、禮部主事に擢ぐ。南英卒す、哭して之を殯し、數月居りて亦卒す。
同郡の陳際泰。
張溥。
張溥、字は天如、太倉の人。伯父の輔之は、南京工部尚書であった。溥は幼くして学を嗜んだ。読む書物は必ず手で書き写し、写し終わると朗誦一遍し、即ちこれを焼き、また書き写し、このようにすること六七回にして初めて止めた。右手の筆を握る所、指の掌に繭ができた。冬の日には手が皸れ、日に数回湯で洗った。後に読書の斎を「七録」と名付けたのは、これによるのである。同里の張采と共に学び、斉しく名を知られ、「婁東の二張」と号された。
十四年に至り、溥は既に卒していたが、事は猶未だ終わらなかった。刑部侍郎蔡奕琛が薛國観に与して獄に繋がれ、溥の卒を知らず、溥が遠くから朝権を握り、己の罪は溥によるものだと告発し、因みに張采が党を結んで政を乱すと述べた。詔して溥・采に回奏を責め、張采が上言した、「復社は臣の事に非ず、然れども臣と溥は平生相淬礪し、死して網羅を避け、義を負いて全きを図るも、誼は此に出ず。溥が日夜経を解き文を論じ、心を矢って報いんとしたるを思い、曾て一日も官に服せず、忠を懐いて地に入る。即ち今厳綸の下に、泣血して自ら明らかにすることも得ず、まことに足るべく哀悼す」と。この時、體仁は既に前に罷免され、継ぐ者張至發・薛國観は皆東林を喜ばず、故に所管の役所は敢えて復奏しなかった。ここに至り、至發・國観もまた相次いで罷免され、周延儒が国政を執ったが、溥の座主であり、その再相を得たのは、溥の力によるものであったから、故に張采の上疏が上がり、事は即ち解かれた。
翌年、御史劉熙祚・給事中姜埰が相次いで上章し、溥が行いを砥ぎ博聞で、纂述する経史は聖学に功有り、宜しく備えて乙夜の観に取るべしと述べた。帝が経筵に臨み、二人について問うと、延儒が対えて曰く、「読書好しき秀才なり」と。帝曰く、「溥は既に卒し、張采は小臣なり、言官何ぞこれを薦むるや」と。延儒曰く、「二人は読書を好み、よく文章を為し、言官が挙子たりし時にその文を読み、またその用いられざるを惜しむ故なり」と。帝曰く、「亦た偏り免れず」と。延儒言う、「誠に聖諭の如し、溥と黄道周は皆偏り有り、善く読書するが故に、これを惜しむ者衆し」と。帝は之を頷き、遂に詔して溥の遺書を徴し、而して道周もまた官に復した。有司が先後して三千余巻を録上すると、帝は悉く留めて閲覧した。
溥の詩文は敏捷であった。四方より徴索する者に対し、草稿を起こさず、客に対し毫を揮い、俄頃に立ちどころに成し、以って名を一時に高くした。卒した時、年僅か四十であった。
同里の張采。