明史

列傳第一百七十五 文苑三

文徵明(蔡羽らを附す)

文徵明は長洲の人、初め名は璧、字をもって行なわれ、改めて字を徵仲とし、別号を衡山といった。父の林は温州知府。叔父の森は右僉都御史。林が卒すると、吏民が千金を醵金して賻とした。徵明は十六歳で、これを悉く退けた。吏民は旧来の却金亭を修復し、前守の何文淵に配し、その事を記した。

徵明は幼くして聡明でなく、やや長ずると、穎異にして挺発した。文を呉寛に学び、書を李応禎に学び、画を沈周に学んだ。皆父の友人である。また祝允明・唐寅・徐禎卿らと切磋琢磨し、名声は日増しに著しくなった。その人となりは温和にして廉直であった。巡撫の俞諫が金を与えようとし、彼の着ている藍衫を指して、「破れていることこのようか」と言った。徵明はわざと理解しないふりをして、「雨に遭って破れただけです」と言った。諫はついに金を贈る話を口にできなかった。寧王宸濠はその名を慕い、書状と礼幣を贈って招聘したが、病を理由に辞して赴かなかった。

正徳末、巡撫の李充嗣が彼を推薦し、ちょうど徵明も歳貢生として吏部の試験に赴いたので、奏上して翰林院待詔に任じた。世宗が即位すると、『武宗実録』の編修に預かり、経筵に侍し、歳時の頒賜は諸詞臣と同列であった。しかしこの時は専ら科目(科挙)が重んじられ、徵明は意に満たず、連年帰郷を乞うた。

先に、林が温州知府の時、諸生の中に張璁を見出した。璁が既に勢いを得ると、徵明に付くようほのめかしたが、辞して就かなかった。楊一清が召されて政務を輔けると、徵明の謁見は特に遅かった。一清は急いで言った、「君はお前の父上が私と友人であったことを知らないのか」。徵明は厳しい顔色で言った、「先君が不肖を見棄てて三十余年、もし一言でも及ぶことがあれば、忘れはしませんが、実のところ相公が先君と友人であったとは知りません」。一清は恥じ入る色があり、まもなく璁と謀り、徵明の官を転じようとした。徵明は帰郷を乞うことますます強く、ついに致仕を許された。四方から詩文書画を請う者が道に接踵したが、富貴の人は容易に一片の紙も得られず、特に王府や宦官には与えようとせず、「これは法で禁じられています」と言った。周王・徽王らが宝玩を贈っても、封を開けずに返した。外国の使者が呉門を通ると、その里を望んで恭しく拝礼し、会えないことを恨みとした。文筆は天下に遍く、門下の士で贋作する者が多かったが、徵明も禁じなかった。嘉靖三十八年に卒し、年九十であった。長子の彭は字を寿承といい、国子博士。次子の嘉は字を休承といい、和州学正。ともに詩ができ、書画篆刻に巧みで、その家を継いだ。彭の孫の震孟は、独自に伝がある。

呉中では呉寛・王鏊が文章をもって館閣の領袖となり、一時の名士沈周・祝允明らと並び馳せ、文風は極めて盛んであった。徵明および蔡羽・黄省曾・袁袠・皇甫沖兄弟はやや後に出た。そして徵明は風雅を主導すること数十年、彼と交遊した者に王寵・陸師道・陳道復・王穀祥・彭年・周天球・銭穀の類があり、これも皆詞翰をもって世に名を知られた。

蔡羽は字を九逵といい、国子生から南京翰林院孔目に任じられた。自ら林屋山人と号し、『林屋』『南館』の二集がある。自負心が非常に高かった。文法は先秦・両漢に学んだ。ある者がその詩は李賀に似ていると言うと、羽は言った、「わが詩は魏・晋の上に出ることを求める。今になって李賀とされるのか」。そのように屈服を肯んじなかった。

黄省曾は字を勉之という。郷試に挙げられた。王守仁・湛若水に従って遊学し、また李夢陽に詩を学んだ。著作に『五嶽山人集』がある。子の姫水は字を淳父といい、文名があり、祝允明に書を学んだ。

袁袠は字を永之といい、七歳で詩が作れた。嘉靖五年の進士に挙げられ、庶吉士に改められた。張璁が彼を憎み、刑部主事として出され、累遷して広西提学僉事となった。両広では韓雍以来、監司が督府に謁見する時、大抵庭で跪いたが、袠だけは長揖した。まもなく、病を理由に帰郷した。子の尊尼は字を魯望といい、やはり山東提学副使に官し、文名があった。

王寵は字を履吉といい、別号を雅宜といった。若くして蔡羽に学び、林屋に三年住み、その後石湖で読書した。諸生から貢挙されて国子監に入ったが、わずか四十歳で卒した。行楷は晋の法を得て、書物で読まないものはなかった。

陸師道は字を子伝という。進士から工部主事に任じられ、礼部に改められたが、母を養うため帰郷を請うた。帰郷して徵明の門に遊学し、弟子と称した。家に居ること十四年、ようやく再び起用され、累官して尚宝少卿となった。詩文に優れ、小楷・古篆・絵事に巧みであった。人は徵明の四絶(詩文書画)は趙孟頫に劣らないと言い、師道はそれを併せ伝え、その風尚もやや相似ていた。平素はみだりに交遊せず、長吏もその面を識る者は稀であった。女は卿子と字し、趙宦光に嫁ぎ、夫婦ともに当時に聞こえた。

陳道復は名を淳といい、字をもって行なわれた。祖父の璚は副都御史。淳は徵明に師事し、文行をもって著しく、書画に巧みで、自ら白陽山人と号した。

王穀祥は字を禄之という。進士から庶吉士に改められ、歴官して吏部員外郎となった。尚書の汪鋐に逆らい、真定通判に左遷されて帰郷した。師道とともに清望があった。

彭年、字は孔嘉、その人もまた長者である。周天球、字は公瑕。銭穀、字は叔寶。天球は書を以て、穀は画を以て、皆、徴明に継ぎて表々たる呉中の者である。その後、華亭の何良俊もまた歳貢生として国学に入る。当路その名を知り、蔡羽の例を用い、特に南京翰林院孔目を授けられる。良俊、字は元朗。少より篤学、二十年楼を下りず、弟の良傅と共に俊才を負う。良傅は進士に挙げられ、官は南京礼部郎中となり、而して良俊はなお場屋に滞り、上海の張之象、同里の徐献忠・董宜陽と善くし、並びに名声有り。官に南京に及び、趙貞吉・王維楨相継いで院事を掌り、相得て甚だ歓ぶ。良俊久しく居りて、慨然として嘆いて曰く、「吾れ清森閣を海上に有し、蔵書四万巻、名画百籤、古法帖彝鼎数十種を蔵す。此れを棄てて居らず、而して僕僕として牛馬の走たるをや」と。遂に疾を移して帰る。海上倭に中り、復た金陵に数年居り、更に宅を買いて呉閶に居る。年七十にして始めて故里に返る。

徐献忠、字は伯臣。嘉靖中、郷に挙げられ、官は奉化知県。著書数百巻。卒年七十七、王世貞私諡して貞憲と曰う。

董宜陽、字は子元。

張之象、字は月鹿。祖父は萱、湖広参議。父は鳴謙、順天通判。之象は諸生より国学に入り、浙江按察司知事を授けられ、吏隠を以て自ら命ず。帰りて益々撰著に務む。晩年秀林山に居り、稀に城市に入る。卒年八十一。

黄佐(附 欧大任 黎民表)

黄佐、字は才伯、香山の人。祖父は瑜、長楽知県、学行を以て聞こゆ。正徳中、佐は郷試第一に挙げられる。世宗嗣位し、始めて進士となり、庶吉士に選ばれる。嘉靖初、編修を授けられ、初政の要務を陳べ、又新政を修挙するを請う。疏は皆留中す。尋いで省親して帰り、便道王守仁を謁し、知行合一の旨を論じ、数相い辨難す。守仁も亦その直諒を称す。朝に還り、会に諸翰林を出して外僚と為すに及び、江西僉事を除く。旋って広西学校を督するを改め、母の病を聞き、疾を引いて乞休し、報を俟たず竟に去る。巡撫林富に下り逮問す。富言う、佐誠に罪有りと。第に親の為に過を受くるは、情に於いて原うべしと。乃ち致仕を令す。家居すること九年、宮僚を簡び、編修を以て司諫を兼ねるを命じ、尋いで侍読に進み、南京翰林院を掌る。右諭徳として召され、南京国子祭酒に擢でられる。母憂に服を除き、少詹事を起す。大学士夏言を謁し、河套の事を論じて合わず。会に吏部左侍郎欠け、所司礼部右侍郎崔桐及び佐を推す。給事中徐霈・御史艾樸言う、「桐と左侍郎許成名は競進し、詬詈するに至り、而して佐及び同官王用賓も亦争って覬望し、惟だ或いは之に先んずるを恐る。宜しく皆用いざるを止むべし」と。言中より之を主り、遂に皆賜罷す。

佐の学は程・朱を宗とし、惟だ理気の説に至りては、独り一論を堅持す。平生撰述二百六十余巻に至る。著す所の『楽典』は、自ら造化の秘を泄すと謂う。年七十七卒す。穆宗詔して礼部右侍郎を贈り、諡して文裕と曰う。

佐の弟子多くは行業を以て自ら飭むるも、而して梁有誉・欧大任・黎民表の詩名最も著しと云う。欧大任、字は楨伯、順徳の人。歳貢生より歴官して南京工部郎中、年八十にして終わる。黎民表、字は惟敬、従化の人、御史貫の子なり。郷試に挙げられ、久しく第せず、翰林孔目を授けられ、吏部司務に遷る。執政その能文なるを知り、制敕房中書として用い、内閣に供事し、官を加えて参議に至る。

柯維騏

柯維騏、字は奇純、莆田の人。高祖こうそは潜、翰林学士。父は英、徽州知府。維騏は嘉靖二年進士に挙げられ、南京戸部主事を授けられるも、未だ赴かず、輒ち疾を引いて帰る。張孚敬用事し、新制を創め、京朝官病満三年の者、概ね罷免す。維騏も亦罷中に在り。是より賓客を謝し、専心読書す。久しくして、門人日進み、先後四百余人、維騏引掖して倦まず。近世の学者径易を楽しみて積累を憚り、窃かに二氏の説を以て其の固陋を文るを慨き、左右二銘を作り、学者に務めて実を訓む。心術を辨じ、趨向を端うするを以て実志と為し、敬畏を存し、操履を密にするを以て実功と為し、而其の極みは則ち人物を宰理し、天地に成能するを以て実用と為し、講義二巻を作る。『宋史』と『遼』『金』二『史』は、旧く三書に分かる。維騏乃ち之を合して一と為し、遼・金を以て之に附し、而して二王を本紀に列す。褒貶去取、義例厳整、二十年を閲て始めて成り、之を名づけて『宋史新編』と曰う。又『史記しき考要』『続莆陽文献志』及び所作の詩文集を著し、並びに世に行わる。

維騏登第五十年、未だ嘗て一日官に服せず。中更倭乱に遭い、故廬焚燬し、家甚だ困すも、終に妄りに取らず。世味に嗜む所無く、惟だ読書を嗜む。撫按監司時に論薦有るも、復た起たず。隆慶初、廷臣復た薦す。所司維騏の年高きを以て、但だ承徳郎を授けて致仕す。卒年七十有八。孫茂竹、海陽知県。茂竹の子昶、副都御史、山西を巡撫す。

王慎中(附 屠応埈 等)

王慎中、字は道思、晋江の人。四歳にして詩を誦す能く、十八歳嘉靖五年進士に挙げられ、戸部主事を授けられ、尋いで礼部祠祭司に改む。時に四方の名士唐順之・陳束・李開先・趙時春・任瀚・熊過・屠応埈・華察・陸銓・江以達・曾忭の輩、咸に部曹に在り。慎中之と講習し、学大いに進む。十二年、詔して部郎を簡びて翰林と為す。衆首めて慎中を擬す。大学士張孚敬一見せんと欲すも、辞して赴かず。乃ち稍々吏部に移り、考功員外郎と為り、験封郎中に進む。忌む者之を孚敬に讒す。因って真人張衍慶の封を請う疏を覆議し、常州通判に謫せらる。稍々戸部主事・礼部員外郎に遷り、並びに南京に在り。久しくして、山東提学僉事に擢でられ、江西参議に改め、河南参政に進む。侍郎王杲命を奉じて荒を振う。其の事を慎中に委ぬ。朝に還り、慎中を薦めて重用す可しとす。会に二十年大計、吏部慎中を注して不及とす。而して大学士夏言先に嘗て礼部尚書と為り、慎中其の属吏なり。相い忤う。遂に内批して不謹とし、其の職を落とす。

慎中の文を為す、初め秦・漢を主とし、東京以下取る可き無しと謂う。已に欧・曾の作文の法を悟り、乃ち旧作を尽く焚き、一意師仿し、尤だ曾鞏に力を得たり。順之初め服せず、久しくして亦変じて之に従う。壮年廃棄せられ、益々古文に力を肆し、演迤詳贍、卓然として家を成し、順之と斉名し、天下之を王・唐と称し、又晋江・毘陵と曰う。家居し、業を問う者踵を至らす。年五十一にして終わる。李攀龍・王世貞後起し、力を排すも、卒く之を掩う能わず。攀龍は、慎中の山東を提学せし時に賞抜せし者なり。慎中初め号して遵岩居士、後に南江と号す。

屠應埈は、字を文升といい、平湖の人で、刑部尚書屠勛の子である。嘉靖五年の進士に挙げられた。郎中から翰林に改められ、官は右諭徳に至った。

華察は、字を子潛といい、無錫の人である。屠應埈と同年の進士である。累進して侍講学士となり、南京翰林院を掌った。

陸銓は、字を選之といい、鄞の人である。嘉靖二年の進士である。弟の編修陸釴と共に大礼の議で争い、共に詔獄に繋がれ、杖罰を受けた。後に官は広西布政使に至った。陸釴は終に山東提学副使となり、兄弟共に文才に優れた。

江以達は、字を子順といい、貴渓の人である。嘉靖五年の進士である。累進して福建提学僉事に至った。

高叔嗣(蔡汝楠を附す)

高叔嗣は、字を子業といい、祥符の人である。十六歳の時、『申情賦』をほぼ一万言に作し、見る者を驚かせた。十八歳で郷挙され、嘉靖二年の進士に及第した。工部主事に授けられ、吏部に改めた。稽勲郎中を歴任した。出て山西左参政となり、疑わしい獄訟十二件を裁断し、人々は神の如しと称した。湖広按察使に遷り、官に在るまま卒した。年三十七であった。

叔嗣は若くして同郷の李夢陽に知遇を得た。吏部に在った時、三原の馬理、武城の王道と同署し、文芸を以て互いに切磋した。その詩は清新婉約であり、李夢陽に知られてはいたが、その説を宗としなかった。陳束がその『蘇門集』に序を付け、韋応物の沖澹を有し、張九齢の沈雄を兼ね、王維・孟浩然の清適を体し、高適・岑参の悲壮を具えると評した。王世貞は言う、「子業の詩は、高山で琴を鼓くが如く、沈思が忽ち往き、木の葉は尽く落ち、石の気は自ら青し。また衛玠が愁いを語るが如く、憔瘁して婉篤、人の心を折らしむ」と。そして蔡汝楠に至っては、本朝第一と推されたという。兄の仲嗣は知府に官し、また才名があった。

汝楠は、字を子木という。幼い時父に従って南京に在り、祭酒湛若水の講学を聴いて、直ちに解悟するところがあった。十八歳で嘉靖十一年の進士となり、行人に授けられた。王慎中、唐順之及び高叔嗣らに従って詩を学んだ。間もなく刑部員外郎に進み、南京刑部に移った。皇甫涍兄弟と親しくし、尚書顧璘は忘年の友として引き立てた。朝廷の議で帰徳州を府に改めることとなり、汝楠を抜擢してその知府の事を知らせた。母の喪に服して帰郷し、諸生を石鼓書院に集め、経を説いた。民を治めて恵政があり、去った後、士民は祠を建てて祀った。江西左・右布政使を歴任し、右副都御史に抜擢され、河南を巡撫した。召されて兵部右侍郎となり、諸大僚に従って西宮で祝釐に参じたが、世宗はその容貌の醜さを望見し、南京工部右侍郎に改めた。間もなく卒した。

汝楠は初め詩を好み、重名があった。中年に経学を好み、江西に官した時、鄒守一、羅洪先と交遊し、学問は益々進んだが、詩はこれによって巧みでなくなった。

陳束(任瀚、熊過、李開先を附す)

陳束は、字を約之といい、鄞の人である。生まれつき聡明で比類なく、古書を読むことを好んだ。会稽の侍郎董玘が翰林に官していた時、陳束の才を聞き、召して見た。陳束は垂髪のまま前に進み、試みに詞賦を作らせると即座に出来上がったので、遂に娘を娶らせ、京に連れて行き、文名は益々高まった。嘉靖八年の廷対で、世宗は自ら羅洪先、程文徳、楊名を一甲とし、唐順之及び陳束、任瀚を二甲に置き、皆その巻子に手批を加えた。間もなく、庶吉士を考選し、胡経ら二十人を得たが、陳束及び順之、瀚はかつて御批を奉じたことがあるとして、胡経らの首位に列せしめた。座主の張璁、霍韜は、これ以前の館選が悉く他の官曹に改められたことを理由に嫌疑を引き、また改めることを議し、遂に前の命令を止めさせ、陳束は礼部主事に授けられた。当時「嘉靖八才子」の称があり、陳束及び王慎中、唐順之、趙時春、熊過、任瀚、李開先、呂高を指した。四郊の改築に際し、都御史汪鋐が近郊の住民の墳墓の移転を請うたが、陳束は上疏して諫め、聞き入れられなかった。員外郎に遷り、編修に改めた。

陳束は張璁、霍韜の門下から出たが、親しく附こうとはしなかった。歳時の賀寿には、門を望んで名刺を投じるだけで、常に馬を馳せて通り過ぎた。彼らに憎まれ、出て湖広僉事となった。辰州、沅州を分巡し、治績に名声があった。稍々遷って福建参議となり、河南提学副使に改めた。陳束は元来嘔血の病を患っており、科試の期日が近づいた折、八郡の士子を試験し、三月で終えたが、病が増して劇しくなり、遂に起き上がれず、年わずか三十三であった。妻の董氏も詩ができ、陳束が卒して間もなくまた卒し、陳束は遂に後嗣がなかった。

嘉靖初年、詩を称える者は多く何景明、李夢陽を宗としたが、陳束と唐順之の輩はこれを厭い、矯正した。陳束は早世し、かつ草稿多く散逸し、今伝わる『後岡集』は、僅かに十の一二であるという。

任瀚は、字を少海といい、南充の人である。嘉靖八年の進士である。庶吉士に改められたが、上京せず、吏部主事に授けられた。屡々遷って考功郎中となった。十八年、宮僚を選び、左春坊左司直兼翰林院検討に改めた。翌年、上疏して病を理由に辞職を請い、城外に出て旅立ちの用意をした。再び上疏したが、返答がなく、また自ら引き返した。給事中周来が任瀚の挙動が勝手気儘で、官守を蔑視すると弾劾した。帝は自ら陳述させると、任瀚の言葉が掌詹事霍韜を冒した。帝は怒り、民に勒した。久しくして赦令に遇い、官に復して致仕した。世宗の朝を通じて、朝廷内外から屡々推薦されたが、再び用いられなかった。神宗が位を嗣ぐと、四川巡撫劉思潔、曾省吾が先後に上疏して推薦したが、優れた旨を以て報聞されただけであった。任瀚は若くして用世の志を抱き、百家や仏道二氏の書を、探求しなかったものはなかった。廃された後、益々『六経』に反求し、聖学を闡明した。晩年はまた『易』に潜心し、深く得るところがあった。文もまた高簡であった。九十三歳で卒した。

熊過は、字を叔仁といい、富順の人である。任瀚と同年の進士である。累進して祠祭郎中となり、事に坐して位階を貶められ、また除名されて民とされた。

李開先は字を伯華といい、章丘の人である。嘉靖八年の進士に及第した。官は太常少卿に至った。性来、書物を蓄えることを好み、李氏の蔵書の名は天下に聞こえた。

呂高は字を山甫といい、丹徒の人である。これまた嘉靖八年の進士に及第した。歴任して山東提学副使となった。郷試の録文は、従来多くは学使者の手によるものであったが、巡按御史葉経が唐順之の文章を求めた。呂高は心に恨みを抱き、京師の友人に手紙を寄せて葉経の誤りを述べた。厳嵩は葉経を憎んでいたので、遂に彼を死に至らしめた。後に大計(官吏の考査)が行われた時、諸御史は葉経の禍は呂高に起因すると言い、かくて彼を斥けて帰郷させた。八子の中では、名声が最も低かった。

田汝成(子に田藝蘅あり)

田汝成は字を叔禾といい、銭塘の人である。嘉靖五年の進士に及第した。南京刑部主事に任じられ、まもなく召されて礼部に改めた。十年十二月、上疏して言うには、「陛下は青宮(皇太子の宮)が久しく空位であることを以て、天に祈り醮(道教の祭儀)を建て、さらに広く放生の仁を施され、上林苑に禁じられている蹄や羽を持つものはすべて、放ち解かれることを得ました。しかしながら、獄中の徒が久しく縄目に繋がれ、衣冠の士が窮荒の地に流され、父子は長く離れ、魂魄は永遠に失われているのは、これらはひとり陛下の赤子ではないのでしょうか。どうか広く皇仁を施し、すべてに寛宥を加えられますよう」。帝の意に逆らい、厳しく責められ、俸給を二月間停止された。たびたび昇進して祠祭郎中、広東僉事となり、左遷されて滁州知州となった。再び抜擢されて貴州僉事となり、改めて広西右参議に任じられ、右江を分守した。龍州の土酋趙楷、憑祥州の土酋李寰はいずれも主君をしいして自立したが、副使翁萬達と密かに謀ってこれを誅殺した。努灘の賊侯公丁が乱を起こし、断藤峡の群賊はこれと相応じた。汝成はまた萬達とともに策を設けて公丁を誘い捕らえ、進軍して峡の賊を討ち、これを大破した。また萬達とともに善後の七事を建策し、一方はここに平定され、銀幣の賜り物があった。福建提学副使に転じた。大比(郷試)の年に当たり、あらかじめ諸生の甲乙を定めた。及んで榜が発せられると、すべて定めた通りであった。

汝成は博学で古文をよくし、特に叙述に長じていた。西南に歴任し、先朝の遺事に通暁し、『炎徼紀聞』を撰した。帰田して後は、湖山に遊び、浙西の諸名勝を極め、『西湖遊覧志』を撰し、ともに当時に称された。その他の論著も多く、当時その博洽を推された。子の藝蘅は字を子暐という。十歳の時、父に従って採石を過ぎ、詩を賦して警句があった。性、放誕にして羈絆されず、酒を嗜み任侠を好んだ。歳貢生として徽州訓導となったが、罷免されて帰った。詩を作るに才調があり、人に称された。

皇甫涍(弟に皇甫沖、皇甫汸、皇甫濂あり)

皇甫涍は字を子安といい、長洲の人である。父の皇甫録は弘治九年の進士であった。重慶知府を務めた。四子を生み、沖、涍、汸、濂である。沖と汸はともに嘉靖七年の郷試に合格し、翌年、汸が進士に及第した。さらに三年後、涍が進士に及第した。さらに十三年後、濂もまた進士に及第した。しかし沖はまだ挙人のままであった。兄弟ともに好学で詩をよくし、「皇甫四傑」と称された。

沖は字を子浚といい、騎射に優れ、兵談を好んだ。南北の内訌に遇い、『幾策』、『兵統』、『枕戈雑言』の三書を撰し、凡そ数十万言に及んだ。涍は初め工部主事に任じられ、礼部に改めた。儀制員外郎、主客郎中を歴任した。儀制に在った時、夏言が尚書であり、連続して上疏して皇太子の冊立を請うたが、いずれも涍が起草したので、夏言は深く涍の才を知った。宮僚を選ぶに及んで、遂に春坊司直兼翰林検討に任用した。言事者が涍の改官に私心があると論じ、左遷されて広平通判となり、酌量して南京刑部主事に移り、員外郎に進み、浙江僉事に転じた。大計(京官の考査)が行われ、南京の曹司の事を以て論ぜられて罷免され、鬱々として病を発して卒した。涍は沈静で交わりを好まず、自ら高俊を負い、少しでも意に当たらぬことがあると、終日相対しても一言も発しなかった。官に在っては廉隅を砥いだが、しかし頗る操切で、多く物に逆らい、故にたびたび讒謗されたという。

汸は字を子循といい、七歳で詩を作ることができた。工部主事の官にあり、名は公卿の間に動き、沾々として自ら喜び、このために貶秩されて黄州推官となった。たびたび昇進して南京稽勲郎中となり、再び貶謫されて開州同知となり、酌量して処州府同知に移った。雲南僉事に抜擢されたが、計典(考査)によって論ぜられて罷免された。汸は温和で、声色に近づき、遊興を好んだ。兄弟の中で最も長寿で、八十歳にして卒した。

濂は字を子約といい、初め工部主事に任じられ、母の喪が終わり、元の官に起用され、惜薪廠を管掌した。商人が偽って数を増して利を貪ったので、濂はその罪を問いただした。商人の娘が尚書文明の妾であったので、文明は濂を召して厳しく責めた。濂は抗言して言うには、「公は邦政を掌り、奸人の紀を干すことを許し、さらに郎官の法守を奪おうとするのか」。文明は顔色を改めて謝した。大計によって、左遷されて河南布政司理問となり、終わりは興化同知であった。

濂兄弟は黄魯曾、黄省曾と中表兄弟であり、文藻もまた相似ていた。その後、里人の張鳳翼、張燕翼、張献翼ともに才名を負った。呉人の言葉に、「前には四皇あり、後には三張あり」という。鳳翼と燕翼は挙人に終わった。しかし献翼は太学生となり、名声は日増しに高くなったが、年老いて、甚だしく狂い、仇家に殺された。

茅坤(子に茅維あり)

茅坤は字を順甫といい、帰安の人である。嘉靖十七年の進士に及第した。歴任して青陽、丹徒二県の知県となった。母の喪に服し、喪が明けて、礼部主事に遷り、吏部稽勲司に移ったが、連座して左遷され、広平通判となった。たびたび昇進して広西兵備僉事となり、府江道を管轄した。坤は風雅に兵談を好んだ。瑤賊が鬼子などの砦を占拠し、陽朔県令を殺害した。朝議は大征を論じたが、総督応檟が坤に問うた。坤は言うには、「大征は兵十万なければならず、兵糧もそれに相応します。今、急には集めることができず、賊はすでに険阻を占めて備えています。策としては、雕剿(精鋭による奇襲)に如くはありません。条理立てて侵入し、その首魁を殲滅すれば、他の部は必ず恐れ、自らの保全を謀ります。これが便宜の計です」。檟はこれを善しとし、すべて兵事を坤に委ねた。連続して十七の砦を破り、官位を二等進めた。民は祠を立てて彼を祀った。大名兵備副使に転じたが、総督楊博は奇才と嘆賞し、特に朝廷に推薦した。忌む者の中傷を受け、先任時の貪污の状を追及されて論ぜられ、官職を剥奪されて帰郷した。時に倭寇の事が急を告げており、胡宗憲が彼を幕中に招き、兵事を籌謀させ、上奏して福建副使に任じようとした。吏部がこれを留保したので、遂に止んだ。家人が郷里で横暴を働き、巡按龐尚鵬に弾劾され、ここに冠帯を褫奪された。坤は既に廃された後、心計を以て生計を営み、家は大いに興った。九十歳で、万暦二十九年に卒した。

坤は古文をよくし、最も唐順之に心服した。順之は唐・宋の諸大家の文章を喜び、著した『文編』では、唐・宋の人で韓愈、柳宗元、欧陽脩、三蘇(蘇洵・蘇軾・蘇轍)、曾鞏、王安石の八家以外は採らなかった。故に坤は『八大家文鈔』を選んだ。その書は海内に盛行し、郷里の小生で茅鹿門を知らぬ者はなかった。鹿門は、坤の別号である。末子の維は字を孝若といい、詩を作ることができ、同郡の臧懋循、呉稼竳、呉夢陽とともに四子と称された。かつて闕に詣でて上書し、召見を得んことを希い、当世の大事を陳べたが、報いられなかった。

謝榛(附に盧柟あり)

謝榛、字は茂秦、臨清の人。片目が不自由であった。十六歳の時、楽府の商調を作り、少年たちが競ってこれを歌った。後に心を改めて書を読み、歌詩を作ることに専念した。西に彰徳に遊び、趙康王に賓客として礼遇された。京師に入り、盧柟を獄から救い出した。

李攀龍・王世貞らが詩社を結んだ時、榛が長となり、攀龍がこれに次いだ。攀龍の名声が大いに盛んになると、榛が生涯を論じて激しく責めたため、攀龍は書を送って絶交した。世貞らは攀龍を支持し、力を合わせて榛を排擠し、七子の列からその名を削った。しかし榛の交遊は日増しに広がり、秦・晋の諸王が争って招き寄せ、大河の南北は皆謝榛先生と称した。趙康王が卒すると、榛は帰郷した。万暦元年の冬、再び彰徳に遊び、王の曾孫である穆王も賓客として礼遇した。酒宴が終わり音楽が止むと、王は寵愛する賈姫に命じて琵琶を独奏させたが、それは榛の作った竹枝詞であった。榛が傾聴していると、王は姫に命じて出て拝礼させた。その光華は人を射るばかりで、地に座り、ついに十章を奏した。榛は言った、「これは山人の里言に過ぎません。改めて作って、房中の奏楽に備えさせてください」。翌朝、新詞十四闋を献上すると、姫は全てこれを譜に合わせた。翌年の元旦、便殿で伎楽を奏し、酒宴が終わり客を送ると、盛大な礼をもって姫を榛に帰した。榛が燕・趙の間を遊歴し、大名に至った時、客が百章の寿詩を賦するよう請うた。八十余首を成し、筆を投じて逝去した。

七子が社を結んだ初め、唐代の諸家を論じて、それぞれ重んじる所があった。榛は言った、「李・杜ら十四家の最も優れたものを取り、熟読してその神気を会得し、歌詠してその声調を求め、玩味してその精華を集める。この三つの要を得れば、浩然として渾淪たる境地に至り、必ずしも謫仙をでかけたり少陵を画いたりする必要はない」。諸人は心の中でその言葉を師とし、その後合力して榛を排斥したが、詩を称える指要は、実に榛から発したのである。

盧柟、字は少楩、浚県の人。家は元来裕福で、財を納めて国子監生となった。博聞強記で、筆を下せば数千言に及んだ。人となりは放縦で、酒を飲んでは座を罵るのを好んだ。常に宴席を設けて邑令を招いたが、日が暮れても来ないので、柟は大いに怒り、宴席を片付け炬燵を消して寝てしまった。邑令が到着した時、柟はすでに大いに酔っており、賓主の礼を尽くさなかった。折しも柟の雇い夫が鞭打たれ、ある日壁の下敷きになって死んだので、邑令はすぐに柟を捕らえ、死罪と論じ、獄に繋ぎ、その家を破った。里の者が獄卒となり、柟を恨んで数百回鞭打ち、土嚢で圧殺しようと謀ったが、他の獄卒に救われた。柟は獄中にあって、ますます携えてきた書を読み、『幽鞫』・『放招』の二賦を作り、その詞旨は沈鬱であった。

謝榛が京師に入り、諸貴人に会い、涙ながらにその冤状を訴えて言った、「生きている一人の盧柟を救えずして、どうして千古の哀沅や湘を弔うことができようか」。平湖の陸光祖が浚県令に転任した時、榛の言葉によってその獄を平反した。柟が出獄すると、走って榛を訪ねた。榛はちょうど趙康王のもとに客としており、王はすぐに柟を召し出して会い、上賓として礼遇した。諸宗人は王の縁故で争って柟を客としたが、柟は酒が酣になると相変わらず座を罵った。光祖が南京礼部郎となった時、柟は彼を訪ね、呉会を遍歴したが何も遇わず、帰ってますます落魄して酒を嗜み、病三日で卒した。柟の騒賦は最も王世貞に称賛され、詩もその人となりと同じく豪放であった。

李攀龍(付 梁有譽 等)

李攀龍、字は於鱗、歴城の人。九歳で孤児となり、家は貧しく、自ら学問に奮励した。やや長じて諸生となり、友人許邦才・殷士儋と詩歌を学んだ。後に、訓詁学にますます厭き、日に古書を読み、里人は皆これを狂生と見なした。嘉靖二十三年の進士に挙げられ、刑部主事に授けられた。員外郎・郎中を歴任し、やがて順徳知府に遷り、善政があった。上官が相次いで推薦し、陝西提学副使に抜擢された。同郷の殷学が巡撫となり、文を作るよう檄を下したが、攀龍は不満げに言った、「文は檄で招き寄せられるものか」。拒んで応じなかった。折しもその地が数度地震し、攀龍は心悸を覚え、母を思い帰郷を願い、病を理由に辞任した。故事によれば、外官が病を理由に辞任すると再び起用されないが、吏部はその才能を重んじ、何景明の先例に倣い、特に予告帰郷を許した。予告とは、例によって再起が可能である。

攀龍は帰郷すると、白雪楼を築き、名声は日増しに高まった。賓客が門を訪れても、概ね謝絶して会わず、大官が来ても同様で、これによって簡傲の評判を得た。ただ旧交の殷・許らだけは絶えず往来した。当時徐中行も家居しており、座客が常に満ちていたが、二人はこれを聞いて互いに意気投合した。帰田すること十年近く、隆慶に改元すると、推薦されて浙江副使に起用され、参政に改められ、河南按察使に抜擢された。攀龍はこの時から高ぶった態度を和らげ、賓客も少しずつ進み出た。間もなく母の喪に服すため帰郷し、哀傷のあまり病を得た。病が少し小康したある日、心痛を起こして卒した。

攀龍が初めて刑部に官した時、濮州の李先芳・臨清の謝榛・孝豊の呉維岳らと詩社を倡えた。王世貞が初めて官を授かった時、先芳が彼を社に引き入れ、遂に攀龍と交わりを定めた。翌年、先芳は外吏に出た。さらに二年後、宗臣・梁有誉が入り、これが五子となった。間もなく、徐中行・呉国倫も加わり、七子と改称した。諸人は多く少年で、才高く気鋭く、互いに標榜し、当世に人無しと見なし、七才子の名は天下に広まった。先芳・維岳を排斥して加えず、やがて榛も排斥され、攀龍がその首領となった。その持論は、文は西京(前漢)から、詩は天宝以降は、全て観るに足りず、本朝ではただ李夢陽を推すというものであった。諸子は一致してこれに和し、そうでないものは宋学として誹謗した。攀龍の才思は勁鷙で、名声が最も高かったが、ただ心の中で世貞を重んじ、天下もまた王・李と並称した。また李夢陽・何景明と並んで何・李・王・李と称された。その詩は、声調で勝ることを務め、擬作した楽府は、古い数字を変えて己が作とすることがあり、文は聱牙戟口で、読者は終篇に至ることができないほどであった。これを好む者は一代の宗匠と推したが、世から抉摘されることも多かった。自ら滄溟と号した。

梁有誉・宗臣・徐中行・呉国倫は、皆嘉靖二十九年の進士である。有誉は刑部主事に任じられ、三年在任し、母を思って帰郷を願い出て、門を閉ざして書を読んだ。大官が来ても、辞して会わなかった。卒年三十六。

宗臣、字は子相、揚州興化の人。刑部主事から考功に転じ、病を理由に辞任して帰郷し、百花洲に室を築き、その中で読書した。元の官に起用され、文選に移った。稽勛員外郎に進み、厳嵩に憎まれて、福建参議に出された。倭寇が城に迫ると、臣は西門を守り、郷里の避難民一万人を受け入れた。賊が迫っているという者がいたが、言った、「私がいる。賊を憂うることはない」。主事者と共にこれを撃退した。間もなく提学副使に遷り、官のまま卒した。士民は皆哭した。

徐中行、字は子輿、長興の人。姿容美しく、酒をよく飲んだ。刑部主事から員外郎・郎中を歴任し、やがて汀州知府に遷った。広東の賊蕭五が来寇した時、これを防ぎ、功績があった。賊が逃げるだろうと策し、武平令徐甫宰に命じて邀撃させ、功績を甫宰に譲ったので、甫宰は優れた抜擢を得た。間もなく父の喪に服して帰郷し、汝寧に補され、大計に坐して、長蘆塩運判官に貶された。湖広僉事として赴任し、湖盗柯彩鳳を掩捕し、その蓄積を得て、飢民一万余人を救った。累官して江西左布政使となり、万暦六年に官のまま卒した。中行は客好きで、賢愚貴賚を問わず、倦まず応じたので、その死に際し、多くの人が哀しんだ。

呉國倫、字は明卿、興国の人。中書舎人より兵科給事中に抜擢される。楊継盛が死ぬと、衆を率いて葬儀の金品を贈り、厳嵩に逆らい、他の事を口実に江西按察司知事に左遷される。酌量の上で南康推官に移り、帰徳に転じ、二年在任して辞職する。厳嵩が失脚すると、建寧同知に起用され、累進して河南左参政に至るが、大計(官吏考査)で罷免されて帰郷する。國倫は才気が奔放で、客を好み財を軽んじた。帰田後は名声が甚だ高く、名声を求める士人は、東は太倉に走らずば西は興国に走った。万暦の時、世貞が既に没した後も、國倫はなお健在で、七子の中で最も長寿であった。

王世貞(汪道昆・胡応麟・弟世懋を附す)

王世貞、字は元美、太倉の人、右都御史王忬の子である。生まれつき異稟があり、書物は一度目を通せば終生忘れなかった。十九歳で嘉靖二十六年の進士に挙げられる。刑部主事を授かる。世貞は詩と古文を好み、京師に官し、王宗沐・李先芳・呉維岳らの詩社に入り、また李攀龍・宗臣・梁有誉・徐中行・呉國倫らと唱和し、何景明・李夢陽を継承し、名声は日増しに盛んとなる。累進して員外郎・郎中となる。

閻姓の奸人が法を犯し、錦衣都督ととく陸炳の家に匿われていたが、世貞が捜索してこれを捕らえた。陸炳が厳嵩を介して請うたが、許さなかった。楊継盛が獄に下ると、時に湯薬を進めた。その妻が夫の冤罪を訴えるため、代わって上書を草した。死んだ後、また棺を整えて葬った。厳嵩は大いに恨んだ。吏部が二度提学に擬したが皆用いられず、青州兵備副使に任じられた。父の王忬が濼河で事を失い、厳嵩がこれを陥れ、死罪と論じられ獄に繋がれた。世貞は官を解いて駆けつけ、弟の世懋と共に日に厳嵩の門に這いつくばり、涙を流して助命を求めた。厳嵩はひそかに王忬の罪状を握りながら、時に偽りの言葉で二人を慰めた。二人はまた日に囚人の服を着て道端に跪き、貴人の輿を遮り、額を叩いて救いを乞うた。諸貴人は厳嵩を恐れて敢えて言わず、王忬はついに西市で処刑された。兄弟は哀哭して絶えんばかりで、喪を執り行って帰郷し、粗食三年、内室に入らなかった。喪が明けた後も、なお冠帯を退け、粗末な履き物と葛の頭巾で、宴会に赴かなかった。隆慶元年八月、兄弟は闕下に伏して父の冤罪を訴え、厳嵩に害されたと述べ、大学士徐階がこれを助け、王忬の官位が回復された。世貞は出仕する意思がなく、詔が直言を求めるに会い、上疏して祖宗の法を守り、殿名を正し、恩義を慶び、禁例を寛げ、典章を修め、徳意を推し、爵賞を明らかにし、兵を練り実を挙げるの八事を陳べ、詔に応えた。間もなく、吏部が言官の推薦を用い、副使として大名に臨むことを命じた。浙江右参政に転じ、山西按察使となる。母の喪で帰郷し、喪が明けると、湖広に補され、まもなく広西右布政使に改められ、入朝して太僕卿となる。

万暦二年九月、右副都御史として鄖陽を撫治し、数度にわたり屯田・戍守・兵食の事柄について条奏し、いずれも大計に切実であった。奸僧が偽って楽平王の次子を称し、高皇帝(朱元璋)の御影と金牒を奉じて、天下を行游していた。世貞は言う「宗藩は城を出ることを得ず、このように欺くのは、必ず偽りである」と。捕らえて訊問すると、罪を認めた。張居正が国政を執り、世貞が同年の進士であることから、意図して引き入れようとしたが、世貞は甚だ親しみ附かず。管轄下の荊州で地震があり、京房の占いを引き、臣下の道が太だ盛んで地の維(秩序)が安らかでないとし、もって居正を諷した。張居正の妻の弟が江陵県令を辱めたが、世貞は上奏して論じ少しも寛大にしなかった。居正は積もって堪えられず、南京大理卿に転じた際、給事中楊節に弾劾され、即座に旨を得てこれを罷免した。後に応天府尹に起用されたが、また弾劾されて罷免された。張居正が没すると、南京刑部右侍郎に起用されたが、病気を理由に辞して赴任しなかった。久しくして、親交のあった王錫爵が政権を執ると、南京兵部右侍郎に起用された。先に、世貞が副都御史及び大理卿・応天府尹と侍郎であった時、官品はいずれも正三品であった。世貞は前の俸給を通算し、考満(考査満了)の恩典で子に官職を授かる資格を得た。南京刑部尚書に抜擢されるに及んで、御史黄仁栄が世貞は先に弾劾されたので、俸給を計上すべきでないと述べ、故事に拠って力争した。世貞はそこで三度上疏して病気を理由に帰郷した。二十一年に家で卒した。

世貞は初め李攀龍と共に文壇の盟主として親しく交わり、攀龍が没すると、独り二十年にわたり権柄を執った。才が最も高く、地位と声望が最も顕著で、名声と気概が海内を覆った。一時、士大夫及び山人・詞客・衲子(僧侶)・羽流(道士)は、奔走してその門下に至らぬ者はなかった。一言褒め賞せられれば、声価は急に上がった。その持論は、文は必ず西漢、詩は必ず盛唐、大暦以後の書は読むなというものであったが、文飾が甚だ過ぎた。晚年、攻撃する者が次第に起こり、世貞はかえって次第に平淡の域に至った。病が重くなった時、劉鳳が見舞いに往くと、蘇子瞻(蘇軾)の文集を手にし、諷詠して措かぬのを見た。

世貞は自ら鳳洲と号し、また弇州山人と号した。その交遊した者は、おおむねその文集に見え、それぞれ標目が付けられている。前五子というのは、李攀龍・徐中行・梁有誉・呉國倫・宗臣である。後五子は則ち南昌の余曰徳・蒲圻の魏裳・歙の汪道昆・銅梁の張佳胤・新蔡の張九一である。広五子は則ち昆山の俞允文・浚の盧柟・濮州の李先芳・孝豊の呉維岳・順徳の欧大任である。続五子は則ち陽曲の王道行・東明の石星・従化の黎民表・南昌の硃多火煃・常熟の趙用賢である。末五子は則ち京山の李維楨・鄞の屠隆・南楽の魏允中・蘭渓の胡応麟であり、趙用賢がまたこれに加わる。その取捨は、頗る好悪によって高下を付けた。

余曰徳、字は徳甫、張佳胤、字は肖甫、張九一、字は助甫、世貞の詩に所謂「吾党に三甫あり」である。魏裳、字は順甫、余曰徳と共に嘉靖二十九年の進士。曰徳は終に福建副使、裳は終に済南知府。九一は嘉靖三十二年の進士、終に巡撫寧夏僉都御史。佳胤は独自に伝がある。

汪道昆、字は伯玉、世貞の同年の進士。大学士張居正もまたその同年の進士であり、父の七十の寿に、道昆の文章がその意に当たり、居正が亟にこれを称えた。世貞が『芸苑卮言』に筆して曰く「文繁にして法ある者は于鱗(李攀龍)、簡にして法ある者は伯玉」と。道昆はこれによって名声が大いに上がった。晚年に兵部左侍郎に至り、世貞もまたかつて兵部の次官(右侍郎)であったので、天下は「両司馬」と称した。世貞は頗る快からず、かつて道昆を賞揚したのは心に違う論であったと悔いたという。

胡応麟、幼くして詩を作ることができた。万暦四年に郷試に挙げられるが、長く及第せず、山中に室を築き、書物四万余巻を集め、自ら編次し、多くの著述を行った。詩を携えて世貞に謁し、世貞は喜んで激賞し、帰ってますます自負した。著した『詩藪』二十巻は、おおむね世貞の『卮言』を律令として奉じ、その説を敷衍し、詩家に世貞があるのは、集大成の尼父(孔子)であるという。その諂い褒めることこのようであった。

世貞の弟世懋、字は敬美。嘉靖三十八年に進士となるが、直ちに父の喪に遭う。父の冤罪が晴れて、初めて南京礼部主事に選ばれる。陝西・福建提学副使を歴任し、再び転じて太常少卿となり、世貞より三年先に卒した。学を好み、詩文に巧みで、名声はその兄に次いだ。世貞は力を尽くして推挙し、己に勝ると考え、攀龍・道昆らはこれによって「少美」と称した。

世貞の子士騏、字は冏伯、郷試で第一に挙げられ、万暦十七年の進士に登り、終に吏部員外郎となり、また文を能くした。

帰有光(子の子慕、胡友信を附す)

帰有光、字は熙甫、昆山の人。九歳にして文を綴ることができ、弱冠にして『五経』『三史』等の書をことごとく通暁し、同郷の魏校に師事した。嘉靖十九年に郷試に合格し、八度春官(礼部試)に上ったが及第しなかった。嘉定の安亭江のほとりに移り住み、書を読み道を談じた。学徒は常に数百人に及び、震川先生と称された。四十四年になってようやく進士となり、長興知県に任じられた。古の教化を用いて治めた。訴訟を聴くたびに、婦人や児童を案前に引き寄せ、刺刺と吳語で話し、裁決を終えて帰らせ、判決文を作成しなかった。上級官庁の命令が不便なものは、しばしば棚上げにして施行しなかった。裁断を下すべき事があれば、ひたすら己の考えのままに行った。上級官吏は多くこれを憎み、順徳通判に転じ、専ら馬政を管轄させた。明代において、進士が県令となり卒(通判)に遷る者はなく、名目は昇進であるが、実は重く抑圧したのである。隆慶四年、大学士高拱・趙貞吉は平素より有光を知り、引き立てて南京太僕丞とし、内閣に留めて制敕房を掌らせ、『世宗実録』を編修させたが、官に在ったまま死去した。

有光が古文を作るのは、経術を本とし、『太史公書』を好み、その神理を得た。時に王世貞が文壇の盟主であったが、有光は力を尽くしてこれと対立し排斥し、妄庸の巨子と目した。世貞は大いに恨んだが、その後も心の中で有光に折れ、そのために賛して言うには、「千載に公あり、韓・歐陽を継ぐ。余豈に趨きを異にせん、久しくして自ら傷む」と。その推重するところこのようであった。

有光の末子の子慕、字は季思。萬曆十九年の郷試に合格したが、二度放逐されると、ただちに江村に隠居し、無錫の高攀龍と最も親しくした。その死に際し、巡按御史祁彪佳が朝廷に請い、翰林待詔を追贈された。

有光の制挙義(科挙の答案)は、経術に湛深で、卓然として大家を成した。後、徳清の胡友信がこれと齊名し、世に帰・胡と並び称された。

友信、字は成之、隆慶二年の進士。順徳知県に任じられた。年貢の賦課は概ね奸胥が請け負って納め、少しばかりその収入で長吏に餌を与え、これを月銭と称していた。友信は民と約し、一年を三つの期限とし、多寡ともにすべて自ら納めさせ、余分を取らず、里巷に無駄な出費がなく、公の賦税は充足した。海賊がひそかに起こり、官軍が討伐に向かうと、民間は騒然とした。管轄内の烏洲・大洲は、賊の巣窟であり、諸悪少が賊の耳目となっていた。友信はことごとくこれを捕捉し、その首魁を捕らえて誅し、残党は解散した。郷ごとに四応社を立て、一郷に警報があれば、三郷が鼓を打ってこれを救援し、救援しない者は賊と同罪とし、賊は敢えて起こらなかった。凶作の年が続き、民は飢えて死んでも敢えて悪事を働く者はなかった。

初め、友信は民が法を軽んじることを慮り、厳格に臨んだが、後に命令が行きわたり禁止が守られるようになると、さらに寛大となり、あるいは十日間に一人も笞打つことがなかった。その県を治めること家の如く、弊害を修め廃れたことを興し、学校や城壁はすべて新たにした。県内の子弟を督励し教化を興し起こした。官に在ったまま死去すると、士民は祠を立てて奉祀した。

友信は経史に博通し、学問に根柢があった。明代の挙子業(科挙の学)で最も名を擅にした者は、前には王鏊・唐順之、後には震川・思泉である。思泉は、友信の別号である。