明史

列傳第一百七十四 文苑二

林鴻(鄭定らを附す)

林鴻は字を子羽といい、福清の人である。洪武の初め、人材として推薦され、将楽県の訓導に任じられ、礼部精膳司員外郎を歴任した。性格は放達で、仕官に向かず、四十歳に満たずして自ら免職して帰った。閩中で詩に優れた者を十才子と称し、林鴻がその首座となった。十才子とは、閩の鄭定、侯官の王褒・唐泰、長楽の高棅・王恭・陳亮、永福の王偁及び林鴻の弟子である周玄・黄玄であり、当時の人はこれらを二玄と見做した。

林鴻が詩を論ずる大要は、漢・魏の詩は骨気は雄渾であるが、精華が足りない。晋は玄虚を祖述し、宋は条暢を尚び、斉・梁以下はただ春華を務めるのみで、秋実が少ない。ただ唐代の作者は大成したと言える。しかし貞観の頃はなお旧習の陋を尚び、神龍の頃から次第に常調を変え、開元・天宝の間に声律が大いに備わり、学ぶ者はこれを楷式とすべきである、というものであった。閩人が詩を言う者は、おおむね林鴻に本づく。

晋府引礼舎人の浦源は、字を長源といい、無錫の人である。林鴻の名を慕い、嶺を越えて彼を訪ねた。その門に至ると、二玄がその作を誦することを請うたところ、「我が家の詩である」と言った。林鴻は彼を招き入れて詩社に加えた。

鄭定は字を孟宣といい、かつて陳友定の記室を務めた。友定が敗れると、海を渡って交趾・広州の間を亡命した。久しくして、長楽に帰り住んだ。洪武年間に、征召されて延平府の訓導に任じられ、国子助教を歴任した。

王褒は字を中美といい、林鴻の兄の娘婿である。長沙の学官となり、永豊知県に遷った。永楽年間に、召されて入り、『大典』の編修に預かり、漢府紀善に抜擢された。

唐泰は字を亨仲という。洪武二十七年の進士である。陝西副使を歴任した。

高棅は字を彦恢といい、名を廷礼と改め、別号を漫士といった。永楽の初め、布衣の身分で召されて翰林院に入り、待詔となり、典籍に遷った。性格は酒を好み、書画に巧みで、特に詩に専念した。その選んだ『唐詩品匯』・『唐詩正声』は、明の世の終わりまで、館閣において宗とされた。

王恭は字を安中といい、七岩山に隠居し、自ら皆山樵者と称した。永楽の初め、儒士として推薦されて起用され、翰林院の待詔となり、六十余歳で、『大典』の編修に参与した。書が完成すると、翰林院典籍を授けられた。

陳亮は字を景明という。自ら元朝の儒生であったことを以て、明朝が興って累次詔があっても出仕せず、『陳摶伝』を作って志を表した。滄洲の中に草屋を結び、三山の耆彦と九老会を為し、生涯仕官しなかった。

王偁は字を孟易攵という。父の王翰は元に仕え、節を守って死に、王偁は九歳の時、父の友人である呉海が養育し教えた。洪武年間に郷薦を受け、国学に入り、母を養うことを陳情した。母が没すると、墓の傍に廬を結んで六年を過ごした。永楽の初め、推薦によって翰林検討に任じられ、『大典』の編修に参与した。学は博く才は雄であり、最も解縉に重んじられた。自ら同輩の者なしと負い、ただ同官の王洪を推譲した。

王洪は字を希范といい、銭塘の人である。八歳で文を作ることができ、十八歳で進士となり、吏科給事中に任じられた。翰林検討に改め、王偁らとともに『大典』の編修に参与した。修撰・侍講を歴任した。帝が仏曲を塞外に頒布するに当たり、王洪に文を作ることを命じたが、逡巡して詔に応じなかった。同列に排撃され、再び進用されることなく、官のまま卒した。一方、王偁は後に連座して交趾に謫され、さらに解縉の事に連座して、獄中に繋がれて死んだ。

黄玄は字を玄之といい、将楽の人である。林鴻が官を棄てて帰ったと聞き、妻子を携えて閩県に住み、歳貢によって泉州の訓導の官に就いた。

周玄、字は微之、閩県の人。永楽年間、文学をもって徴用され、礼部員外郎を授けられた。かつて書物千巻を抱えて高棅の家に滞在し、十年間読書し、辞去する際にその書物をすべて棄てて言うには、「我が腹笥の中に在り」と。同時の趙迪・林敏・陳仲宏・鄭関・林伯璟・張友謙もまた詩の才能で名を知られ、皆、林鴻の弟子である。

王紱(付記 夏昶)

王紱、字は孟端、無錫の人。博学で、詩歌をよくし、書に巧み、山水竹石を描けば、一時に妙絶した。洪武年間、連座して朔州に戍辺した。永楽初年、推薦により、書の巧みさをもって文淵閣に供事した。久しくして、中書舎人に任じられた。

王紱は仕官する前、呉の人韓奕と友となり、九龍山に隠居し、そこで自ら九龍山人と号した。書法においては、動もすれば古人を以て自ら期した。画は軽々しく描かず、遊覧の折、酒酣に筆を握り、長廊の白壁に淋漓と揮洒した。金銭を投じて一片の紙を購おうとする者がいれば、すぐに袖を払って立ち去り、あるいは門を閉めて受け入れず、たとえ豪貴の人であっても顧みなかった。諫める者がいると、王紱は言うには、「丈夫は処する所を審らかにすべきであり、軽い事柄でこのようであるならば、重い事柄ではどうするつもりか」と。京師において、月下に簫を吹く声を聞き、乗興に『石竹図』を描き、翌朝その人を訪ねて贈ったところ、それは商人であった。客は赤い毛氈を贈り、もう一枝を描いて対にしてもらいたいと請うた。王紱は前の画を求め裂き、贈り物を返した。ある日退朝の際、黔国公沐晟が後ろからその字を呼んだが、王紱は応じなかった。同僚が彼に言うには、「これは黔国公です」と。王紱は言うには、「聞こえないのではない、必ずや私に画を求めようとするのだろう」と。沐晟が走り寄ると、果たして画を請うたので、王紱は頷いただけであった。数年を経て、沐晟が再び手紙を寄こすと、王紱は初めて画を描いた。その後言うには、「我が画を直接黔公に贈ることはできない。黔公の客に平仲微という者がいる、我が友である、友の故をもって彼に与える、黔公が彼に求めさせるならばよいのだ」と。その高潔で俗を絶する様はこのようであった。

昆山の夏昶もまた竹石を描くのが巧みで、王紱に次いだ。竹一枝を描けば、白金一錠の値打ちがあったが、人々は多く贈答によってそれを得た。夏昶、字は仲昭、永楽十三年の進士、庶吉士に改められ、太常寺卿を歴任した。夏昶と上元の張益は、同じく進士に及第し、同じく文名があり、同じく竹を描くのが巧みであった。その後、夏昶が張益の『石渠閣賦』を見て、自ら及ばないと言い、遂に賦を作らなくなった。張益が夏昶の描いた竹石を見て、遂に竹を描かなくなった。張益は土木の変で死んだ。

仲微、名は顕、銭塘の人。かつて滕県の知事を務め、流罪となって雲南に戍辺した。その詩は頗る豪放で自ら喜び、雲南の詩人で平・居・陳・郭と称されるうち、平顕はその一人である。

沈度(弟 粲 付記 滕用亨 等)

沈度、字は民則。弟の沈粲、字は民望。松江府華亭県の人。兄弟ともに書をよくし、沈度は婉麗で勝り、沈粲は遒逸で勝った。沈度は経史に広く渉猟し、文章を作るに浮靡を絶ち去った。洪武年間、文学に挙げられたが、就かなかった。連座して雲南に流罪となり、岷王が礼幣を備えて招聘したが、数度諫言を進め、間もなく辞去した。都督ととくの瞿能と共に京師に入った。成祖が即位した初め、詔して能書の者を選抜して翰林に入れ、俸禄を給し、沈度は呉県の滕用亨・長楽の陳登とともに選ばれた。この時、解縉・胡広・梁潜・王璉は皆書をよくしたが、沈度が最も帝に賞せられ、名声は朝士の右に出た。日々便殿に侍し、凡そ金版玉冊、朝廷に用い、秘府に蔵し、属国に頒つものは、必ず彼に書かせた。遂に翰林典籍より抜擢して検討とし、修撰を歴任し、侍講学士に遷った。沈粲は翰林待詔より中書舎人に遷り、侍読に抜擢され、大理少卿に進階した。兄弟ともに織金の衣を賜り、姓名を象牙の笏に刻み、金で塗った。父母にはその官に准じて贈官し、駅伝を馳せて帰郷し、墓前に告げた。

昆山の夏昺、字は孟晹、その弟の夏昶とともに書画の巧みさで知られ、同じく中書舎人に任官し、当時、大小中書と号され、一方、沈度・沈粲は大小学士と号された。

沈度の性質は篤実で、謙虚に人に接し、取るもの与えるものに厳格であった。ある訓導がその友人を介して書を求め、上に姓名を記すことを請うた。沈度は沈思して言うには、「かつて役人を告発した者ではないか?」と。急いで断った。その友人が固く請うたが、終に姓名を書こうとしなかった。内廷で顧問に備える際は、必ず正しいことを以て答えた。沈粲は兄に仕えることに篤く、自分に賜物があれば、すぐにその兄に帰した。

滕用亨、初名は権、字は用衡。篆書・隷書に精通した。推薦された時は七十歳であったが、召見され、大書して麟・鳳・亀・龍の四字を進め、また『貞符詩』三篇を献上した。翰林待詔を授けられ、『永楽大典』の編修に参与した。滕用亨は古物鑑定に巧みで、かつて帝に侍して画巻を観たが、未だ終わらぬうち、衆人は趙伯駒の筆と目したが、滕用亨は言うには、「これは王詵の筆です」と。巻尾に至り、果たしてその通りであった。

陳登、字は思孝。初め羅田県丞に仕え、蘭溪県丞に改められ、さらに浮梁県丞に改められた。選抜されて翰林に入り、なお県丞の俸禄を与えられ、十年を経て初めて中書舎人を授けられた。陳登は六書の本原について、広く考証し詳細に究め、力を用いること甚だ勤勉であった。周・秦以来の残碑断碣は、必ず窮くまで探し求め拓本を取り、審らかに度り弁別定めた。その伝を受けた者は、太常卿南城の程南雲である。

聶大年

聶大年、字は寿卿、臨川の人。父の聶同文は、洪武年間、翰林侍書・中書舎人を務めた。燕王が京師に入ると、迎え謁したが、道中で渇死し、死後五月にして聶大年が生まれ、母の胡氏が養育した。成長すると、博学で、詩・古文をよくした。葉盛はその詩を称賛し、三十年間の絶唱であると言った。書は欧陽詢の法を得た。宣徳末年、推薦されて仁和訓導を授けられた。母が亡くなると、帰郷して葬り、哀感は行路の人をも動かした。里人がその母子の賢行を列挙して役所に上申すると、詔してその門を表彰した。喪が明けると、常州に分教し、仁和教諭に遷った。景泰六年に推薦されて翰林に入ったが、間もなく病を得て卒した。

初め、尚書の王直が詩を送って銭塘の戴文進に画を求め、自ら序して昔戴文進と交わり、かつて戯れに詩一聯を作ったが、今に至る十年にして初めて成就したと記した。聶大年はその後に題して言うには、「公は戴文進の画を愛し、十年忘れず。もしこの心をもって天下の賢者に接するならば、天下にどうして再び遺賢があろうか」と。王直はその言葉を聞き、怒らずとも推薦しなかった。聶大年が病篤くなった時、詩を作って王直に贈り、「鏡中の白髪孰か我を憐れまん、湖上の青山誰をか待たん」の句があった。王直は言うには、「これは我にその墓誌を書かせようとするのだ」と。遂にその墓誌を書いた。

劉溥(附 蘇平 等)

劉溥は、字を原博といい、長洲の人である。祖父の彦、父の士賓は、ともに医術によって官を得た。溥は八歳で『溝水詩』を賦し、当時は聖童と目された。成長して祖父に従い両京に遊学し、経史を研究し天文・暦数にも通じた。宣徳の時、文学をもって徴用された。溥が医術に長じているという者がおり、惠民局副使に任じられ、太医院吏目に転じた。医をもって自ら名乗ることを恥じ、日々吟詠を事とした。その詩は初め西昆体を学び、後にさらに奇抜奔放となり、湯胤勣・蘇平・蘇正・沈愚・王淮・晏鐸・鄒亮・蔣忠・王貞慶とともに「景泰十才子」と号し、溥がその主盟であった。

胤勣は、東甌王湯和の曾孫であり、別に伝がある。蘇平は、字を秉衡といい、弟の正は字を秉貞といい、海寧の人である。兄弟ともに布衣のまま終わった。沈愚は、字を通理といい、昆山の人で、医業を営みその身を終えた。王淮は、字を柏源といい、慈渓の人である。晏鐸は、字を振之といい、富順の人である。庶吉士より御史に任じられ、両畿・山東を歴任して按察し、赴任する所々で名声があった。言事に坐して上高典史に左遷されたが、隣境で賊が起こり官兵が討伐できなかった時、鐸がこれを捕らえて滅ぼし、掠奪したものを民に返還した。鄒亮は、字を克明といい、長洲の人である。況鐘の推薦により、吏部司務に抜擢され、御史に転じた。蔣忠は、字を主忠といい、儀真の人で、句容に移り住んだ。王貞慶は、字を善甫といい、駙馬都尉王寧の子である。節を折り士を好み、詩名があり、当時は金粟公子と称された。

張弼

張弼は、字を汝弼といい、松江府華亭県の人である。成化二年に進士となり、兵部主事に任じられ、員外郎に進んだ。南安知府に転じ、その地は両広の要衝に当たり、奸人が山谷に集まって悪事を働いていたが、ことごとく捕らえて滅ぼした。淫祠百余区を破壊し、社学を建立した。病を理由に帰郷すると、士民が祠を立てた。弼は幼少より聡明で抜きん出て、詩文をよくし、草書に巧みで、奇怪偉岸かつ跌宕自在、一世を震撼させた。自ら東海と号した。張東海の名は、外国にまで流布した。詩を作るに当たっては、手のままに筆を縦にし、多くは草稿を作らず、仮に作ったとしても、書のためであるから、すぐに人に持ち去られた。李東陽・謝鐸と親しくした。かつて自ら言うには、「我が平生、書は詩に及ばず、詩は文に及ばない」と。東陽は戯れて言った、「英雄が人を欺くのはいつもこのようであり、信ずるに足らぬ」と。鐸はその好学倦まず、詩文が一家を成すことを称えた。子の弘至は、別に伝がある。

張泰(陸釴 陸容)

張泰は、字を亨父といい、太倉の人である。陸釴は、字を鼎儀といい、昆山の人である。陸容は、字を文量といい、これも太倉の人である。三人は若くして名声を等しくし、「婁東三鳳」と号された。泰は天順八年に進士に挙げられ、庶吉士に選ばれ、検討に任じられ、修撰に転じた。人となりは恬淡として自らを守り、詩名は李東陽に次いだ。弘治年間、文芸界では皆、李懐麓・張滄洲と称し、東陽に『懐麓堂集』があり、泰に『滄洲集』があったのである。釴は泰と同年の進士で、殿試第二であった。編修に任じられ、修撰・諭徳を歴任した。孝宗が即位すると、東宮講読の功労により、太常少卿兼侍読に進み、病気を得て帰郷した。泰・釴はいずれも早世した。容は、成化年間に進士となった。南京主事に任じられ、兵部職方郎中に進んだ。西番が獅子を献上し、大臣を派遣して迎えるよう奏請したが、容が諫めて止めさせた。浙江参政に転じ、罷免されて帰郷した。

程敏政

程敏政は、字を克勤といい、休寧の人で、南京兵部尚書程信の子である。十歳で父に従い四川に任官し、巡撫羅綺が神童として推薦した。英宗が召して試み、これを喜び、詔して翰林院で読書させ、食料を支給した。学士李賢・彭時はいずれもこれを愛重し、賢は娘を娶らせた。成化二年に進士及第し、編修に任じられ、左諭徳を歴任し、東宮で講義を担当した。翰林の中では、学問の該博は敏政が称され、文章の古雅は李東陽が称され、性行の真純は陳音が称され、それぞれ一時の冠であった。孝宗が位を継ぐと、東宮官僚の恩典により少詹事兼侍講学士に抜擢され、経筵に侍した。

敏政は名臣の子であり、才高く文学を恃みとし、常に同輩を見下し、甚だ人に憎まれた。弘治元年冬、御史王嵩らが雨害を理由に敏政を弾劾し、これにより致仕を命じられた。五年に官に復帰し、まもなく太常卿兼侍読学士に改め、院事を掌った。礼部右侍郎に進み、専ら内閣誥敕の作成を司った。十二年、李東陽とともに会試を主考し、挙人徐経・唐寅が事前に文章を作成し、それが試験問題と合致した。給事中華昶が敏政が問題を売ったと弾劾し、当時はまだ合格者を発表しておらず、詔して敏政に答案を閲巻させず、その採録した者を東陽に会同考官とともに再校させた。二人の答案はいずれも採録された者の中にはなく、東陽がこれを上奏したが、言う者はなおやまなかった。敏政・昶・経・寅はともに獄に下され、経がかつて敏政に面会の礼を持参したこと、寅がかつて敏政に文章を請うたことにより、吏に降格され、敏政は致仕を命じられ、昶は言事が事実に合わないとして南京太僕主簿に左遷された。敏政は獄を出て憤慨し、癰を発して卒した。後に礼部尚書を追贈された。あるいは言うには、敏政の獄は、傅瀚がその地位を奪おうとして、昶に上奏させたのだと。事は秘密であり、明らかにすることはできなかった。

羅玘

羅玘は、字を景鳴といい、南城の人である。博学で、古文を好み、奇抜深奥を務めた。四十歳で諸生のまま困窮し、粟を納めて国子監に入った。丘浚が祭酒であった時、南人は北監に留めてはならないと議した。玘が固く請いやまず、浚は罵って言った、「お前はいくつか字を識るだけで、かくも強情であるのか!」と。玘は仰ぎ向かって答えて言った、「ただ中秘書(宮中の蔵書)を未だ読まぬだけです」と。浚は暫くこれを留め、他日に文で試すと、大いに驚き異とした。成化末、京闈郷試で第一となった。翌年進士に挙げられ、庶吉士に選ばれ、編修に任じられた。ますます古文に力を注ぎ、文章を作る毎に、あるいは高い木に登り、あるいは一室に閉じこもって座り、目を閉じてひそかに推敲し、容貌は憔悴した。これより文はますます奇抜となり、玘もまたひどく自負した。

特に節義を尊んだ。台諫官が劉遜を救ってことごとく獄に下された時、玘は優遇して包容すべきであり、国家の体面を全うすべきであると上言した。宦官李広が死に、一つの帳簿を遺し、大臣で賄賂を贈って交際した者を詳細に記していた。帝は怒り、言官に指名して弾劾上奏するよう命じた。玘は上疏して言った、「大臣は百官の模範である。今このような有様では、確かに重い刑罰に処すべきである。しかし天下及び四方の外夷も皆これを仰ぎ見ている。一旦その悪を指名して暴露すれば、遠方の者に朝廷を侮る心を起こさせよう。言官は帳簿の記録を見ておらず、臆測に基づいて論じているのであり、どうして玉石を弁別できようか。一度攻撃され指摘されれば、かつて終身の汚点となる。臣は密勅を下して密かに諭し、病気を理由に引退させるか、あるいは他の事柄を理由に斥けることを請う。そうすれば朝廷の恥とならず、また官途も清まるであろう」と。李夢陽が獄に下された時、玘は言った、「寿寧侯は肺腑の親(外戚)として託されている。これを保全する方法があるべきである。夢陽を保全しなければ、侯の累いとなるであろう」と。帝は深くこれを容れた。任期が満ちて、侍読に進んだ。

正徳初年、南京太常少卿に転じた。劉瑾が政を乱し、李東陽はその間に依違していた。玘は、東陽が挙げた士であったが、書を送って大義を以て責め、かつ門生の籍を削ることを請うた。まもなく本寺卿に進み、南京吏部右侍郎に抜擢された。事に遇しては厳格謹直であり、僚属は畏れ憚った。畿輔で盗賊が横行し、皇太子が未だ立てられていないことを、玘は上疏して激切に論じ、かつ執政者を侵害した。七年冬、考績のために都に赴き、そこで病気を理由に致仕して帰郷した。寧王宸濠はその名声を慕い、使者を遣わして贈り物をしたが、玘は深山に避けた。叛乱が起こった時、玘はすでに病気であったが、馳せて書を守臣に送り賊を討つことを約し、事が挙がらないうちに卒した。嘉靖初年、諡を文肅と賜り、学者は圭峰先生と称した。

儲巏

儲巏は、字を靜夫といい、泰州の人である。九歳にして文を作ることができた。母が病に臥せると、股を切り取って治療したが、ついに起き上がることはなかった。家は貧しく、力を尽くして墓域を営んだ。朝には墓で泣き、夜には読書を怠らなかった。成化十九年に郷試に、翌年には会試に、いずれも第一となった。南京考功主事に任じられた。孝宗が帝位を継ぐと、上疏して以前に直言して貶謫された者たち、主事の張吉・王純、中書舎人の丁璣、進士の李文祥を推薦し、張吉らは皆採用された。久しくして郎中に進んだ。吏部尚書の耿裕はその賢さを知り、北部に転じさせ、官吏の善悪を考査注記するにあたり、一切は至公を貫いた。かつて一人の官の実績を審査した際、耿裕がその評を改めようとすると、儲巏は厳しい顔色で言った、「貴公の執るところ、どうして王介甫と異なろうか」。群僚が皆側にいたので、耿裕は大いに恥じ、ゆるゆると言った、「郎中の言うことは正しい。しかし、私でなければこれを容れる者はできまい」。太僕少卿に抜擢され、史官に命じて言動を記録させ、古代の左右史のごとくすべきことを請うたが、当時は採用されなかった。本寺卿に進んだ。武宗が即位すると、塞上に警報があり、辺境防禦に関する五事を条陳し、また馬政が民を苦しめている四事を陳述し、多くが議を経て施行された。正徳二年に左僉都御史に改められ、南京糧儲を総督した。召されて戸部右侍郎となり、まもなく左侍郎に転じ、倉場を監督し、赴任先では宿弊をことごとく改めた。劉瑾が権力を握り、しばしば大臣を陵辱したが、儲巏だけは敬い、先生と呼んだ。儲巏はその行いを憤り、五年の春、病を理由に辞職を求めた。詔して駅伝を利用することを許し、役人に病が癒えたら報告するよう命じた。その秋、劉瑾が失脚すると、元の官職で召されたが、辞して赴任しなかった。後に南京戸部左侍郎として起用され、そのまま吏部に改められ、官のまま逝去した。

儲巏は体つきが清らかで痩せており、衣を支えきれないかのようであった。行いは淳厚で清らかな修養を積み、孤高に自らを守った。詩文に巧みであった。知名の士を推挙引き立てることを好み、非類を遠ざけ、憎まずとも厳然としていた。進士の顧璘がかつて尚書の邵寶に謁見したとき、邵寶は言った、「そなたが身を立てるには、柴墟を手本とすべきである」。柴墟とは、儲巏の別号である。嘉靖の初め、諡を文懿と賜った。

李夢陽(康海・王九思・王維楨を附す)

李夢陽は、字を獻吉といい、慶陽の人である。父の李正は、周王府教授の官にあり、開封に移り住んだ。母が太陽が懐に落ちる夢を見て生まれたので、名を夢陽とした。弘治六年に陝西郷試で第一となり、翌年進士に及第し、戸部主事に任じられた。郎中に遷り、関税を徴収するにあたり、権勢家を阻み、罪に陥れられて獄に下されたが、釈放された。

十八年、詔に応じて上書し、二病・三害・六漸を陳べ、合わせて五千余言に及び、得失を極論した。末尾に言う、「寿寧侯張鶴齡が無頼を招き入れ、利を貪り民を害し、その勢いは翼を生やした虎のようである」。張鶴齢が上奏して弁明し、上疏中の「陛下が張氏を厚遇される」との言葉を摘み出し、李夢陽が母后(張皇后)を張氏と誹謗したと誣告し、罪は斬に当たるとした。当時皇后は寵愛されており、その母の金夫人が帝に泣き訴えたので、帝はやむなく李夢陽を錦衣衛の獄に繋いだ。まもなく赦免して出獄させたが、俸給を奪った。金夫人が訴えをやめなかったが、帝は聞き入れず、張鶴齢を閑所に呼び、厳しく責めたので、張鶴齢は冠を脱いで叩頭してようやく許された。側近たちは帝が李夢陽をかばっていると知り、重罪にせず、杖刑を与えて金夫人の憤りを晴らすよう請うた。帝はまた許さず、尚書の劉大夏に言った、「あの連中は杖で李夢陽を打ち殺そうとしているのだ。私はどうして直臣を殺して側近の心を快くさせようか」。ある日、李夢陽が道で寿寧侯に会い、罵り、馬鞭で打ち、歯を二本折り落としたが、寿寧侯は敢えて争わなかった。

孝宗が崩じ、武宗が立つと、劉瑾ら八虎が権力を握り、尚書の韓文が同僚と語り合って泣いた。李夢陽が進み出て言った、「貴公は大臣である。どうして泣くのか」。韓文が言った、「どうしたものか」。李夢陽が言った、「近ごろ言官が宦官どもを弾劾し、閣臣がその上奏文を強く支持している。貴公が誠意をもって諸大臣を率いて宮門に伏して争えば、閣臣も必ず応じるであろう。あの連中を追い払うのは容易である」。韓文が言った、「よかろう」。李夢陽に草稿を書かせるよう頼んだ。会話が漏れたため、韓文らは皆追放された。劉瑾は李夢陽を深く恨み、偽りの詔を下して山西布政司經歷に左遷し、致仕を強制した。その後劉瑾はまた別の事を摘まえて李夢陽を獄に下し、殺そうとしたが、康海が劉瑾を説得したので、免れた。劉瑾が誅殺されると、元の官に復帰し、江西提学副使に遷った。法令では、副使は総督に属するが、李夢陽はこれに反抗し、総督の陳金は彼を憎んだ。監司は五日ごとに巡按御史に会揖するが、李夢陽はまた揖に行かず、かつ諸生に上官に謁見するなと命じ、たとえ謁見しても長揖するだけで跪くことを禁じた。御史の江萬実も李夢陽を憎んだ。淮王府の校官が諸生と争い、李夢陽が校官を鞭打った。王は怒り、これを上奏したので、御史に下して審理させた。李夢陽は江萬実が王に加担するのを恐れ、江萬実を告発した。詔して総督の陳金に審査を行わせ、陳金は布政使の鄭岳に審査を命じた。李夢陽は偽って江萬実が陳金を弾劾する上疏を作り、陳金を激怒させようとし、また鄭岳の子の鄭涷が賄賂を通じた事をでっち上げた。寧王の宸濠は李夢陽を慕っており、かつて『陽春書院記』の執筆を請うたことがあり、また鄭岳を憎んでいたので、李夢陽を助けて鄭岳を弾劾した。江萬実はまた李夢陽の短所と、偽の上奏文を作った事を奏上した。参政の呉廷挙もまた李夢陽と不和があり、上疏してその職権侵害を論じ、命令を待たずに勝手に去った。詔して大理卿の燕忠を派遣して審問させ、李夢陽を召喚し、広信の獄に拘禁した。諸生一万余りが冤罪を訴えたが、聞き入れられなかった。李夢陽が同僚を陵ぎ上官を挟制したと弾劾され、ついに冠帯のまま閑住を命じられて去った。鄭岳もまた官職を剥奪され、澐に流罪となり、呉廷挙の俸給も奪われた。

李夢陽は既に家に居り、ますます放縦で気概に任せ、園池を造り、賓客を招き、日々に侠少を率いて繁台や晉丘の間で狩猟にふけり、自ら空同子と号し、名声は海内に響き渡った。宸濠が反乱を起こして誅殺されると、御史の周宣が李夢陽が逆賊に与したと弾劾し、逮捕された。大学士の楊廷和と尚書の林俊が力強く救い、以前に『書院記』を作った罪により、官籍を削除された。まもなく逝去した。子の李枝は進士である。

李夢陽の才思は雄大で強く、卓然として復古を自ら任じた。弘治の時、宰相の李東陽が文壇を主宰し、天下はこぞって彼を宗としたが、李夢陽だけはその萎弱さを嘲笑した。文は必ず秦漢、詩は必ず盛唐であるべきと唱え、これに非ざる者は論じなかった。何景明・徐禎卿・邊貢・朱應登・顧璘・陳沂・鄭善夫・康海・王九思らとともに十才子と号し、また何景明・徐禎卿・邊貢・康海・王九思・王廷相とともに七才子と号し、皆一世を卑しんだが、李夢陽は特に甚だしかった。呉の人黄省曾や越の人周祚が、千里の書を送り、弟子となることを願った。嘉靖朝に至り、李攀龍・王世貞が出ると、また彼らを宗と仰いだ。天下は李夢陽・何景明・王世貞・李攀龍を四大家と推し、その文体を争って模倣しない者はなかった。華州の王維楨は、七言律詩は杜甫以後、頓挫倒插の法を善く用いた者は、李夢陽ただ一人であると考えた。しかし後に李夢陽の詩文を嘲笑する者は、その模擬剽窃は司馬遷や杜甫の似姿を得たが、その真髄を失っていると言った。

康海は、字を德涵といい、武功の人である。弘治十五年、殿試で第一となり、修撰に任じられた。李夢陽らと唱和し、先達たちを誹謗議論したので、妬む者が多かった。正徳の初め、劉瑾が政を乱した。康海が同郷であり、その才能を慕って、招き寄せようとしたが、康海は行こうとしなかった。折しも李夢陽が獄に下され、紙片に書いて康海を招いた、「対山、我を救え」。対山とは、康海の別号である。康海はそこで劉瑾に謁見し、劉瑾は大いに喜び、履を逆さまにして迎えた。康海はそこで巧みな言葉を設けて説得し、劉瑾の怒りが解け、翌日李夢陽を釈放させた。一年余りして、劉瑾が失脚すると、康海はその与党に連座し、官職を剥奪された。

王九思は、字を敬夫といい、鄠県の人である。弘治九年の進士。庶吉士より検討に任じられた。まもなく吏部に転じ、郎中に至り、また劉瑾の与党として寿州同知に左遷された。再び弾劾を受け、致仕を強制された。

康海と王九思は同郷で、同官であり、ともに劉瑾の党として罷免された。しばしば沜東の鄠・杜の間に集い、声伎を伴って酣飲し、楽曲を作り、自らを俳優に比して、その鬱屈を託した。九思はかつて多額の金を費やして楽工から琵琶を学んだ。康海の琵琶の弾き方は特に優れていた。後人が伝え相い倣い、大雅の道は衰微した。

王維楨、字は允寧。嘉靖十四年の進士。庶吉士に抜擢され、累進して南京国子監祭酒となった。家にいた時、大地震があり、圧死した。維楨は背が高く色白で、自ら経世の才を負い、文墨の職にありながら、少しも世に効することができず、酒に任せて罵り、人々は多く彼を畏れて遠ざかった。文章では司馬遷を好み、詩では杜甫を好み、その意は李夢陽がこの二人を兼ねているとした。終身にわたり服膺し模範としたのは、李夢陽であった。

何景明

何景明、字は仲默、信陽の人。八歳で詩や古文を作ることができた。弘治十一年に郷試に合格し、年わずか十五歳、宗藩や貴人が争って人を遣わして見物させ、行く先々で人垣ができて見物した。十五歳で進士に及第し、中書舎人に任じられた。李夢陽らと詩古文を提唱し、夢陽が最も雄渾で、景明はやや後出で、互いに拮抗した。正徳に改元し、劉瑾が権力を握ると、吏部尚書許進に上書し、政務を執るに屈しないよう勧め、言葉は極めて激烈であった。やがて病を理由に辞職して帰郷した。一年余りして、劉瑾が告暇中の者すべてを免官すると、景明も連座して罷免された。劉瑾が誅殺されると、李東陽の推薦により、元の官位に復し、内閣制敕房に直った。李夢陽が投獄されると、誰も彼のために弁護しようとしなかったが、景明は吏部尚書楊一清に上書して救った。九年、乾清宮が火災に遭うと、上疏して義子を養うべきでないこと、辺境の軍を留めるべきでないこと、番僧を寵愛すべきでないこと、宦官を任用すべきでないことを述べた。留中された。しばらくして、吏部員外郎に進み、引き続き制敕房に直った。銭寧が親交を結ぼうとし、古画を持って題を請うたが、景明は「これは名筆である、人の手を汚すな」と言い、一年余り預かったが、結局投げ返した。まもなく陝西提学副使に抜擢された。廖鵬の弟で太監の廖鑾が関中に鎮しており、横暴極まりなく、その参随たちは三司に会っても下馬しなかったが、景明は捕らえて鞭打った。諸生を教えるには、専ら経術と世務に重きを置いた。正学書院に優秀な者を選び、自ら経書を講義し、諸家の訓詁を用いず、士人は初めて経学があることを知った。嘉靖初年、病気を理由に辞職して帰郷し、まもなく死去した。三十九歳であった。

景明の志操は耿介で、節義を尊び、栄利を軽蔑し、夢陽とともに国士の風があった。二人が詩文を作るにあたり、初めは互いに得るところ多く喜び合ったが、名声が成った後は、互いに誹謗し合った。夢陽は模倣を主とし、景明は創造を主とし、それぞれ堅固な陣営を築いて譲らず、二人の交遊もまた左右に分かれて味方した。論者は、景明の才は本来夢陽に劣るが、その詩は秀逸で穏当であり、夢陽よりかえって勝っていると見なした。しかし天下が詩文を語る時は必ず何・李と並称し、また辺貢・徐禎卿とともに四傑と称された。その持論は、「詩は陶淵明に溺れ、謝霊運が力を振るってこれを救ったが、古詩の法は謝霊運によって亡びた。文は隋代に靡き、韓愈が力を振るってこれを救ったが、古文の法は韓愈によって亡びた」というものであった。銭謙益が『列朝詩集』を撰し、これを激しく誹謗した。

徐禎卿(楊循吉 祝允明 唐寅 桑悅)

徐禎卿、字は昌穀、呉県の人。資質は特に聡明で、家に一冊の書も蓄えなかったが、通じないものはなかった。諸生であった時から、すでに詩歌に巧みで、同郷の唐寅と親しく、唐寅が沈周や楊循吉に話したため、これによって有名になった。弘治十八年の進士に合格した。孝宗が中使を遣わして禎卿と華亭の陸深の名を問うと、陸深は館選に選ばれたが、禎卿は容貌が劣るとして選ばれなかった。大理左寺副に任じられ、囚人を逃がした罪で連座し、国子監博士に左遷された。禎卿は若い頃、祝允明・唐寅・文徴明と並び称され、「呉中四才子」と号された。読書は白居易・劉禹錫を好んだ。進士に及第した後、李夢陽・何景明と交遊し、若い頃の作品を悔い、漢・魏・盛唐の風格に向かうよう改めたが、古い習いがまだ残っており、夢陽は彼が守旧で未だ化けていないと批評した。死去した。二十三歳であった。禎卿は体は痩せていたが精神は清らかで、詩は鍛錬され精妙で警策、呉中の詩人の首位を占め、年は永くはなかったが、名声は士林に満ちた。子の伯虯は挙人で、やはり詩ができた。

楊循吉、字は君謙、呉県の人。成化二十年の進士。礼部主事に任じられた。病弱で、読書を好み、読んで得意になると、手足が跳ね上がって自ら禁じえず、これによって「顛主事」の名を得た。一年のうちに、たびたび病気を理由に出仕しなかった。弘治初年、教職への転任を奏請したが、許されなかった。そこで致仕を請うて帰郷した。年わずか三十一歳であった。支硎山のふもとに庵を結び、経史を講読し、傍ら内典や稗官にも通じた。父母が没すると、財産を傾けて葬儀を行い、墓の傍らで苫の上に寝た。性は偏狭で、人の短所をあげつらうのを好み、また学問で人を窮地に追い込むことを好み、相手が顔を赤らめても顧みなかった。清寧宮の火災の際、直言を求める詔が下ると、馳せ参じて上疏し、建文帝の尊号を復するよう請うたが、採用されなかった。武宗が南都に駐蹕した時、召し出されて『打虎曲』を賦することを命じられ、帝の意に適い、武人の服装に改め、毎日御前に侍って楽府や小令を作った。帝は彼を優俳として遇し、官職を授けなかった。循吉はこれを恥じ、九ヶ月経って辞職して帰郷した。その後また召し出されて京に至ったが、ちょうど帝が崩御したので、帰還した。嘉靖年間、『九廟頌』および『華陽求嗣斎儀』を献上したが、報告を受けただけであった。晚年は落寞とし、ますます偏屈で自らを潔く保った。尚書顧璘が呉を通過した時、礼銭を持って面会し、膝を交えて論文し、大いに喜んだ。しばらくして郡守が顧璘を招くと、顧璘が行こうとしたところ、循吉は突然顔色を変え、彼を追い出し、礼銭を投げ返した。翌日、顧璘が謝りに行ったが、門を閉めて受け入れなかった。死去した。八十九歳であった。その詩文は、自ら『松籌堂集』と定め、他の著作もまた十余種、ほぼ千巻に及んだ。

祝允明、字は希哲、長洲の人。祖父の祝顕は、正統四年の進士。内侍が勅旨を伝えて能文の者四人を試験すると、祝顕もその中に含まれ、掖門に入って、小宦官を教えさせようとしていることを知ると、試験を受けずに出て行った。給事中から山西参政を歴任し、いずれも名声があった。允明は弘治五年に郷試に合格したが、長く進士に及第せず、広東興寧知県に任じられた。盗賊の首魁三十余人を捕らえて処刑し、県内は無事となった。やがて応天府通判に昇進したが、病気を理由に辞職して帰郷した。嘉靖五年に死去した。

允明は生まれつき枝指(余分な指)があったので、自ら枝山と号し、また枝指生とも号した。五歳で径尺の大字を書き、九歳で詩を作り、やや成長すると、群書を博覧し、文章には奇気があり、宴席で速筆し、思考は泉の如く涌いた。特に書法に巧みで、名声は海内に轟いた。酒色と六博を好み、新しい歌曲を得意とし、文章や書を求める者が後を絶たず、多くは妓女に賄賂を贈って手に入れた。礼法を重んじる士を嫌い、また生計にも関心がなく、収入があると、すぐに客を呼んで豪飲し、使い果たすか、あるいは分け与えて持って行かせ、一銭も残さなかった。晩年はますます困窮し、外出するたびに、借金の取り立て人が後を追い、允明はますます自ら喜んだ。著書に詩文集六十巻、その他の雑著百余巻がある。子の祝続は、正徳年間の進士で、官は広西左布政使に至った。

唐寅、字は伯虎、また子畏と称す。性質聡明にして、里の狂生張霊と共に酒を縱飲し、諸生の業に従わず。祝允明これを諫め、乃ち戸を閉ざして一年を過ごす。弘治十一年郷試に挙げられて第一となり、座主梁儲その文を奇とし、朝に還りて学士程敏政に示すと、敏政もまたこれを奇とした。未だ幾ばくもせず、敏政が会試の総裁となると、江陰の富人徐経がその家僮を賄して、試題を得る。事露れ、言者敏政を弾劾し、言葉寅に連なり、詔獄に下され、吏に貶謫せらる。寅は恥じて就かず、家に帰り益々放浪す。寧王宸濠厚く幣を以てこれを聘す、寅はその異志あるを察し、狂を装い酒に酔わせ、その醜穂を露わす。宸濠堪え難く、放還す。桃花塢に室を築き、客と日々に其中で飲み遊び、年五十四にして卒す。

寅の詩文は、初め才情を尚び、晚年は頽然自ら放縦し、後人我を知るは此に在らずと謂い、論者これを傷む。呉中では枝山(祝允明)の輩より放誕不羈を以て世に指目せられ、文才軽艶にして、流輩を傾動せしめ、伝説する者これを増益し附麗して、往々にして名教の外に出づ。

時に常熟に桑悦という者あり、字は民懌、特に怪妄にして、亦た才を以て呉中に名あり。書は目を通すや、直ちに焼き棄てて曰く、「已に吾が腹中に在り」と。敢えて大言を為し、孟子を以て自らに況う。或る人翰林の文章を問うと、曰く、「虚しく人無し、天下を挙げて惟だ悦のみ、其次は祝允明、又次は羅玘なり」と。諸生たりし時、監司に謁見し、「江南の才子」と称す。監司大いに駭き、これを延いて校書せしめ、予め刊落して以て悦を試みるに、文義の属さざる所を、筆を索めてこれを補う。年十九にして成化元年郷試に挙げられ、春官を試みるも、策答の語雅訓ならず、斥けらる。三たび試みて副榜を得、年二十余りなるに、年籍誤って二を六と為し、遂に泰和訓導に除せらる。学士丘浚その文を重んじ、学使者に属して善く遇わしむ。使者至りて問う、「悦迎えず、恙あるか」と。長吏皆これを銜み、曰く、「恙無し、才名を自負して謁せざるのみ」と。使者吏を遣わして召すも至らず、益々両度使いを以てこれを促す。悦怒りて曰く、「始め吾は天下に耳無き者無しと謂えども、乃ち今之あり。若と期す、三日後に来たれ、瀆すれば則ち来らず」と。使者恚み、悦を収めんと欲すも、浚の故に縁り、果たさず。三日して来見し、長揖して使者に礼す。使者怒るも、悦は帽を脱ぎ竟に去る。使者階を下りて謝し、乃ち已む。長沙通判に遷り、柳州に調す。外艱に遭い帰り、遂に出ず。家に居て益々狂誕、郷人その文を重んぜざるは莫きも、その行いを駭く。初め、悦京師に在りて、高麗使臣が本朝の『両都賦』を市うを見て、之無きを恥じ、遂にこれを賦す。長沙に居り、『庸言』を著し、自ら天人の際を窮究せりと為す。著書は、頗る世に行わる。

辺貢

辺貢、字は廷実、歴城の人。祖父は寧、応天治中。父は節、代州知州。貢は年二十にして郷挙され、弘治九年進士に及第す。太常博士に除され、兵科給事中に擢でる。孝宗崩ずると、疏を上りて中官張瑜、太醫劉文泰・高廷和の用藥の謬りを弾劾し、又た中官苗逵、保国公硃暉、都御史史琳の用兵の失を弾劾す。太常丞に改められ、衛輝知府に遷り、荊州に改め、並びにその官に能くす。陝西・河南提学副使を歴任し、母憂に服し家に居る。嘉靖改元、推薦に用いられ、南京太常少卿に起用され、三たび遷りて太常卿となり、四夷館を督し、刑部右侍郎に擢でられ、戸部尚書を拝し、並びに南京に在り。貢は早くより才名を負い、風姿美しく、交わる所悉く海内の名士なり。久しく留都に官し、優閑として事無く、江山を遊覧し、毫を揮い浮白し、夜を日に継ぐ。都御史その酒を縱にし職を廢するを弾劾し、遂に罷められ帰る。

顧璘<弟 瑮 附 陳沂 等>

顧璘、字は華玉、上元の人。弘治九年進士。広平知縣に授けられ、南京吏部主事に擢でられ、郎中に晉す。正徳四年出でて開封知府となり、数たび鎮守太監廖堂・王宏に忤い、錦衣獄に逮われ下され、全州知州に謫せらる。秩満ち、台州知府に遷る。浙江左布政使、山西・湖広巡撫、右副都御史を歴任し、至る所に声あり。吏部右侍郎に遷り、工部に改む。顕陵の工事を董り畢わり、南京刑部尚書に遷る。罷められ帰り、年七十余りにして卒す。

璘は少より才名を負い、何・李と相上下す。己を虚しくして士を好み、及ばざるを恐るるが如し。浙に在りて、孫太初一元を慕い見るを得ず。道衣幅巾し、舟を湖上に放ち、月下に小舟の断橋に泊まるを見る、一僧・一鶴・一童子茗を煮ゆ、笑いて曰く、「此れ必ずや太初なり」と。舟を移してこれに就き、遂に往還して間無し。湖広を巡撫する時、王廷陳の才を愛し、これを見んと欲すも、廷陳肯わず。廷陳の狎遊するを偵い、疾くこれを掩う、廷陳避くるを得ず、遂に交わりを定む。既に帰り、息園を構え、大いに幸舎を治めて客を居らしめ、客常に満つ。

従弟の瑮、字は英玉、河南副使より帰り、園の側の一小楼に居り、教授して自ら給す。璘は時時客と豪飲し、伎楽雑作す。瑮を呼ぶも、瑮は終に赴かず、その孤介此の如し。

初め、璘は同里の陳沂・王韋と共に、「金陵三俊」と号す。その後宝応の朱応登継いで起り、四大家と称す。璘の詩は、矩矱を唐人に取り、風調を以て勝る。韋は婉麗にして致多く、頗る纖弱を失う。沂は韋と調を同じくす。応登は才思泉涌の如く、筆を落とせば千言。然れども璘・応登は李夢陽を羽翼し、韋・沂は則ち頗る異論を保持す。三人の者は、仕宦皆な璘に及ばず。

陳沂、字は魯南。正徳中進士。庶吉士より編修・侍講を歴任し、出でて江西参議となり、量移して山東参政となる。張孚敬・桂萼に附せざるを以て、行太僕卿に改められて致仕す。

王韋、字は欽佩。父は徽、成化時給事中、直諫して声あり。韋は弘治中進士に挙げられ、庶吉士より太僕少卿に歴官す。子の逢元、亦た詩を能くす。

朱応登、字は升之。弘治中進士、雲南提学副使を歴任し、参政に遷る。才を恃み物に傲り、飛語に中り、罷められ帰る。子の日籓、嘉靖間進士、終わりに九江知府。文章を能くし、家を世ぐ。

南都は洪・永の初めより、風雅未だ暢かならず。徐霖・陳鐸・金琮・謝璿の輩、正徳時に芸を談じ、稍稍振い起る。璘が詞壇に王たりしより、士大夫風に希い塵に附し、その道大いに彰る。許谷、陳鳳、璿の子少南、金大車・大輿・金鑾、盛時泰、陳芹の属、並びにこれに従い遊ぶ。谷等は皆な裡人、鑾は僑居の客なり。儀真の蔣山卿・江都の趙鶴も亦た璘と遙かに相応和す。末造に沿い及び、風流未だ歇まずと云う。

鄭善夫<附 殷雲霄 方豪 等>

鄭善夫は、字を継之といい、閩県の人である。弘治十八年の進士となった。相次いで父母の喪に遭い、正徳六年になって初めて戸部主事となり、滸墅で税を徴収し、清廉な節操で知られた。当時劉瑾は誅殺されていたが、寵臣が権力を握っていた。善夫はこれを憤慨し、告帰して、金鰲峰の下に草堂を築き、遅清亭と名付け、その中で読書し、「天下が清まるのを待つ」と言った。交遊は少なく、日が暮れても炊事をせず、欣として自得した。礼部主事に起用され、員外郎に進んだ。武宗が南巡しようとした時、同僚と共に強く諫め、朝廷で杖罰を受け、五日間跪かされた。善夫はさらに上疏の草稿を作り、懐中に置き、その僕に言い付けて、「自分が死んだらこれを上奏せよ」と言った。幸い死なず、嘆いて言った、「時事がこのようであるのに、まだ厚かましく官列に就いていられようか」。帰郷を乞うたが許されず、翌年強く請願して、ようやく帰ることができた。嘉靖元年、推薦により南京刑部郎中に起用されたが、着任せず、吏部に改められた。建寧に到着した時、途中で武夷・九曲を遊覧し、風雪で食糧が尽き、病を得て卒した。年三十九。善夫は行誼に篤く、七人の弟妹の婚嫁を整え、財産を全て彼らに譲り、母方の親族二十二人を葬った。交際した者は全て名士であり、孫一元・殷雲霄・方豪と特に親しくした。詩を作るに当たり、杜甫を力強く模倣した。

雲霄は、字を近夫といい、寿張の人で、善夫と同年の進士である。蓄艾堂を作り、数千巻の書を集め、作者を自任した。正徳年間、南京給事中に任官した。武宗が妊娠した女子馬姫を宮中に納れた時、雲霄は同官と共に上疏して諫め、李園・呂不韋の故事を引いて諷したが、回答がなかった。官のまま卒した。年三十七。同郷の穆孔暉は雲霄の峻厳で直な性格を畏れ、「殷子は不善を恥じること、穢れを負うに等しい」と言った。

方豪は、字を思道といい、開化の人である。正徳三年の進士となった。崑山知県に任じられ、刑部主事に遷った。武宗の南巡を諫め、宮門の下で五日間跪き、また杖罰を受けた。湖広副使を歴任し、罷免されて帰郷した。一元については、『隠逸伝』に見える。

閩中の詩文は、林鴻・高棅の後、百年余りを経て、善夫がこれを継いだ。万暦の中頃に至り、曹学佺・徐〓勃らが相次いで起こり、謝肇淛・鄧原岳がこれに和し、風雅が再び振るった。

学佺については後伝に詳しい。〓勃は、字を興公といい、閩県の人である。兄の熥は万暦年間の挙人である。〓勃は布衣のまま終わった。博聞多識で、草書・隷書に優れた。鰲峰書舎に書物を蓄積すること数万巻に及んだ。

肇淛は、字を在杭という。万暦三十年の進士となった。工部郎中に任官し、張秋で河川を視察し、『北河紀略』を作り、河流の源流から河口までの詳細と歴代の治河の利害を詳しく記載した。広西右布政使で終わった。原岳は、字を汝高といい、これも閩県の人で、肇淛と同年の進士であり、湖広副使で終わった。

陸深付記:王圻

陸深は、字を子淵といい、上海の人である。弘治十八年の進士となり、二甲の第一であった。庶吉士に選ばれ、編修を授かった。劉瑾は翰林官が自分より高ぶるのを憎み、皆外官に改めたが、深は南京主事となった。劉瑾が誅殺されると、復職し、国子司業・祭酒を歴任し、経筵講官を充てられた。講官が進講の章を撰述するのに、閣臣が改竄すべきでないと上奏した。輔臣に逆らい、延平同知に左遷された。山西提学副使に昇進し、浙江に改められた。累官して四川左布政使となった。松州・茂州などの諸番が乱を起こした時、深は兵糧の調達を主管し、功績があり、金幣を賜った。嘉靖十六年、太常卿兼侍読学士として召された。世宗が南巡した時、深は行在の翰林院の印を掌り、御筆で侍読の二字を削られ、詹事府詹事に進み、致仕した。卒し、文裕と諡された。深は若い頃徐禎卿と切磋琢磨し、文章で有名であった。書に巧みで、李邕・趙孟頫を模倣した。鑑識と博雅に優れ、詞臣の首位であった。しかしやや傲慢で、人々はこれをもって彼を軽んじた。

同郷に王圻という者がいた。字は元翰である。嘉靖四十四年の進士となった。清江知県に任じられ、万安に転じた。御史に抜擢されたが、時の宰相に逆らい、福建按察僉事として出され、邛州判官に左遷された。進賢・曹県の知県を二度務め、開州知州に遷った。陝西布政参議を歴任し、父母の養育を乞うて帰郷し、淞江のほとりに屋敷を築き、梅を万本植え、梅花源と称した。著書を事とし、齢八十を超えても、なお帷帳の中で灯火をかざし、夜更けまで筆を止めなかった。撰した『続文献通考』などの書が世に行われた。

初め、圻は奏議によって趙貞吉に推挙された。張居正は貞吉と仲が悪く、圻にそそのかして彼を攻撃させようとしたが、応じなかった。高拱は圻の座主であったが、当時ちょうど徐階との遺恨を修復しようとしており、また圻が同郷人をひいきして自分を助けないのを、私情によるものと考え、憤りを禁じ得ず、ついに些細なことをあげつらった。

王廷陳

王廷陳は、字を穉欽といい、黄岡の人である。父の済は吏部郎中であった。廷陳は聡明で人に抜きん出ており、幼い頃から遊ぶのが好きで、父が鞭打つと、大声で叫んで言った、「大人はどうして天下の名士を虐待するのか」。正徳十二年進士となり、庶吉士に選ばれ、ますます才能を恃んで放恣になった。故事によれば、二人の学士が館師となり、体裁が厳重であったが、廷陳は彼らが食事を終えて退くのを待ち、一人で木の梢に上り、大声で叫び呼んだ。二人の学士はどうすることもできず、聞こえないふりをした。武宗が南巡の詔を下した時、同館の舒芬ら七人と共に上疏して諫めようとしたが、館師の石珤が強く制止した。廷陳は『烏母謡』を賦し、壁に大きく書いて諷刺したので、珤や執政者たちは皆快く思わなかった。やがて上疏がなされると、帝は怒り、五日間跪かせ、朝廷で杖罰を加えた。当時すでに吏科給事中に改められていたが、裕州知州として出された。廷陳は吏務に慣れず、また失職して不満を持ち、公文書が机に積み上がっても、漫然と省みなかった。夏の日には裸足で堂に坐り、飛ぶ鳥が庭の木に集まるのを見ると、すぐに訴訟者を止め、弾丸を取ってそれを撃った。上官が巡察に来ても出迎えなかった。やがて布政使陳鳳梧と巡按御史喻茂堅が先後に到着したが、廷陳は鳳梧が座主であったので、特に出迎えた。鳳梧が好意的に言った、「君が私を待つのは確かに良いが、御史が来るのだから、彼を待つのは倍慎重にすべきだ」。廷陳は承諾した。茂堅が到着すると、彼が平素驕慢なのを恨み、意図的に制裁しようとし、些細な過失で州の吏を鞭打った。廷陳が跪いて請うたが、茂堅はわざとますます厳しくした。廷陳は大声で罵って言った、「陳公が私を誤らせた」。真っ直ぐに堂に上り茂堅に組み付き、全ての吏卒を呼び出し、その門を鎖し、供給を絶ち、かつ上奏しようとした。茂堅は大いに窮し、鳳梧が和解させ、夜のうちに馳せ去った。まもなく上疏して彼を弾劾したが、ちょうど裕州の事件に関わる者が逃げ出し、廷陳の不法な事を上奏したので、捕らえられ獄に繋がれ、官籍を削られて帰郷した。世宗が即位すると、以前直諫して左遷された者は皆復官したが、ただ廷陳だけは官吏の評議にかかわったため、与からなかった。

隠居して二十余年、酒を嗜み娯楽に耽り、ますます自ら放縦になった。士大夫が訪問しても、多くは髪をぼさぼさにし裸足で、賓主の礼を整えなかった。時に紅紫の窄袖の衫を着て、牛に騎り馬に跨り、田野で嘯歌した。嘉靖十八年、『承天大志』を編修する詔があり、巡撫顧璘が廷陳と顔木・王格を推薦した。書が完成したが、帝の意に適わず、銀幣を賜っただけであった。廷陳は才が高く、詩文は当世に重んじられ、一時の才士で彼を超える者はほとんどいなかった。木は応山の人で、亳州知州に任官した。格は京山の人で、河南僉事に任官した。

李濂

李濂、字は川父、祥符の人なり。正徳八年の郷試に第一を挙げ、明年進士に成る。沔陽知州を授かり、稍く寧波同知に遷り、山西僉事に擢でる。嘉靖五年、大計により免じて帰る、年纔かに三十八なり。濂、少くより俊才を負い、時に俠少年に従い連騎して城を出で、獣を搏ち雉を射、酒酣に悲歌し、慨然として信陵君・侯生の為人を慕う。一日『理情賦』を作る、友人左國璣之を持ちて李夢陽に示す、夢陽大いに嗟賞し、之を吹台に訪う、濂此より河・雒の間に声馳す。既に罷めて帰り、益々学に力を肆い、遂に古文を以て時に名有り。初め夢陽に知られ、後附和に屑かず。里居四十餘年、著述甚だ富めり。