明史

列傳第一百七十三 文苑一

列傳第一百七十三 文苑一

原文列傳第一百七十三 文苑一

明の初め、文学の士は元末の虞集・柳貫・黄溍・呉萊の後に承け、師友として講究し貫通し、学問に本原があった。宋濂・王禕・方孝孺は文をもって雄と為り、高啓・楊基・張羽・徐賁・劉基・袁凱は詩をもって著しかった。その他の勝国(元)の遺逸は、風流として標映し、指を屈して数うるに遑あらず、蓋し蔚然として盛りを称せられた。永楽・宣徳以来、作者は次々に興り、皆沖融として演迤し、鉤棘を事とせず、しかして気体は漸く弱まった。弘治・正徳の間、李東陽は宋・元に出で入り、唐代に溯流し、館閣に声を擅にした。しかるに李夢陽・何景明は復古を倡言し、文は西京(前漢)より、詩は中唐より以下、一切を吐棄し、觚を操り芸を談ずるの士は翕然としてこれを宗とした。明の詩文は、ここに一変した。嘉靖の時に至り、王慎中・唐順之の輩は、文は欧陽脩・曾鞏を宗とし、詩は初唐に倣った。李攀龍・王世貞の輩は、文は秦・漢を主とし、詩は盛唐を規とした。王・李の持論は、大率夢陽・景明と相倡和するものであった。帰有光は頗る後出し、司馬遷・欧陽脩を以て自ら任じ、力んで李・何・王・李を排し、而して徐渭・湯顕祖・袁宏道・鍾惺の属も、亦各々一時に争鳴し、ここに李・何・王・李を宗とする者は稍々衰えた。啓禎(天啓・崇禎)の時に至り、銭謙益・艾南英は北宋の矩矱を準じ、張溥・陳子龍は東漢の芳華を擷み、また一変した。明一代に、文士として卓卓として表見する者は、その源流は大抵この如し。今諸家の集を博く考へ、衆論を参酌し、その著者を録し、『文苑傳』を作る。

原文明初,文學之士承元季虞、柳、黃、呉之後,師友講貫,學有本原。宋濂、王禕、方孝孺以文雄,髙、楊、張、徐、劉基、袁凱以詩著。其他勝代遺逸 ,風流標映,不可指數,蓋蔚然稱盛已。永、宣以還,作者遞興,皆沖融演迤,不事鉤棘,而氣體漸弱。弘、正之間,李東陽出入宋、元,溯流唐代,擅聲館閣。而李夢陽、何景明倡言復古,文自西京、詩自中唐而下,一切吐棄,操觚談藝之士翕然宗之。明之詩文,於斯一變。迨嘉靖時,王愼中、唐順之輩,文宗歐、曾,詩仿初唐。李攀龍、王世貞輩,文主秦、漢,詩規盛唐。王、李之持論,大率與夢陽、景明相倡和也。歸有光頗後出,以司馬、歐陽自命,力排李、何、王、李,而徐渭、湯顯祖、袁宏道、鐘惺之屬,亦各爭鳴一時,於是宗李、何、王、李者稍衰。至啓、禎時,錢謙益、艾南英準北宋之矩矱,張溥、陳子龍擷東漢之芳華,又一變矣。有明一代,文士卓卓表見者,其源流大抵如此。今博考諸家之集,參以衆論,録其著者,作《文苑傳》。

楊維楨

原文楊維楨

楊維楨、字あざなは廉夫、山陰の人。母の李氏、夢に月の中より金銭が懐に墜ちて、維楨を生む。少時、日に数千言を記誦す。父の宏、鉄崖山中に楼を築き、楼を繞らして梅百株を植え、書数万巻を聚め、その梯を去り、楼上に誦読せしむること五年、因って自ら鉄崖と号す。元の泰定四年に進士となり、天台尹を署し、銭清場塩司令に改む。狷直として物に忤い、十年調ぜられず。遼・金・宋三史を修するに会い成る、維楨『正統弁』千余言を著す、総裁官の欧陽玄(元功)読みて嘆じて曰く「百年の後、公論はここに定まらん」と。将にこれを薦めんとすれども果たさず、建徳路総管府推官に転ず。江西儒学提挙に擢でられしも、未だ上らず、兵乱に会い、富春山に避地し、銭塘に徙る。張士誠累ねてこれを招くも、赴かず、その弟の士信を遣わしてこれを諮訪せしむ、因って五論を撰し、書を具えて士誠に復し、順逆成敗の説を反覆して告ぐ、士誠用いる能わず。また達識丞相に忤い、松江の上に徙居す、海内の薦紳大夫と東南の才俊の士、門を造り履を納るるに虚日無し。酒酣に以往、筆墨横飛す。或いは華陽巾を戴き、羽衣を披いて船屋上に坐し、鉄笛を吹き、『梅花弄』を作る。或いは侍児を呼びて『白雪』の辞を歌わしめ、自ら鳳琶を倚りてこれに和す。賓客皆蹁躚として舞い起ち、神仙中の人と為す。

原文楊維楨,字廉夫,山陰人。母李,夢月中金錢墜懷,而生維楨。少時,日記書數千言。父宏,築樓鐵崖山中,繞樓植梅百株,聚書數萬巻,去其梯,俾誦讀樓上者五年,因自號鐵崖。元泰定四年成進士,署天台尹,改錢淸塲鹽司令。狷直忤物,十年不調。會修遼、金、宋三史成,維楨著《正統辯》千余言,總裁官歐陽元功讀且嘆曰:「百年後,公論定於此矣。」將薦之而不果,轉建德路總管府推官。擢江西儒學提舉,未上,會兵亂,避地富春山,徙錢塘。張士誠累招之,不赴,遣其弟士信咨訪之,因撰五論,具書復士誠,反覆告以順逆成敗之説,士誠不能用也。又忤達識丞相,徙居松江之上,海内薦紳大夫與東南才俊之士,造門納履無虚日。酒酣以往,筆墨橫飛。或戴華陽巾,披羽衣坐船屋上,吹鐵笛,作《梅花弄》。或呼侍兒歌《白雪》之辭,自倚鳳琶和之。賓客皆蹁躚起舞,以爲神仙中人。

洪武二年、太祖諸儒を召して礼楽書を纂修せしむ、維楨を前朝の老文学として、翰林の詹同を遣わして幣を奉じて門に詣らしむ、維楨謝して曰く「豈に老婦将に木に就かんとし、而して再び嫁を理むる者あらんや」と。明年、復た有司を遣わして敦促せしむ、『老客婦謡』一章を賦して進御し、曰く「皇帝吾が能を竭くし、吾が能はざる所を強うせざれば則ち可なり、然らずんば則ち海に蹈みて死する有らんのみ」と。帝これを許し、安車を賜って闕廷に詣らしめ、百有十日留まり、纂する所の叙例定まり、即ち骸骨を乞う。帝その志を成し、仍って安車を給して山に還す。史館胄監の士、西門外に祖帳し、宋濂これに詩を贈りて曰く「君王の五色詔を受けず、白衣宣ぜられ白衣還る」と、蓋しこれを高しとす。家に抵りて卒す、年七十五。

原文洪武二年,太祖召諸儒纂禮樂書,以維楨前朝老文學,遣翰林詹同奉幣詣門,維楨謝曰:「豈有老婦將就木,而再理嫁者邪?」明年,復遣有司敦促,賦《老客婦謠》一章進御,曰:「皇帝竭吾之能,不強吾所不能則可,否則有蹈海死耳。」帝許之,賜安車詣闕廷,留百有一十日,所纂敘便例定,即乞骸骨。帝成其志,仍給安車還山。史館胄監之士祖帳西門外,宋濂贈之詩曰:「不受君王五色詔,白衣宣至白衣還」,蓋髙之也。抵家卒,年七十五。

維楨の詩名は一時に擅にし、鉄崖体と号し、永嘉の李孝光・茅山の張羽・錫山の倪瓚・昆山の顧瑛と詩文の友と為り、碧桃叟の釈臻・知帰叟の釈現・清容叟の釈信と方外の友と為る。張雨その古楽府は少陵・二李の間に出入りし、曠世の金石声有りと称す。宋濂その論撰は、商の敦・周の彝を睹るが如く、雲雷文を成し、而して寒芒横免すと称す。詩は震蕩陵厲し、鬼設神施し、尤も名家と号せらる。維楨松江に徙る時、華亭の陸居仁及び僑居の銭惟善と相倡和す。

原文維楨詩名擅一時,號鐵崖體,與永嘉李孝光、茅山張羽、錫山倪瓚、昆山顧瑛爲詩文友,碧桃叟釋臻、知歸叟釋現、淸容叟釋信爲方外友。張雨稱其古樂府出入少陵、二李間,有曠世金石聲。宋濂稱其論撰,如睹商敦、周彝,雲雷成文,而寒芒橫免。詩震蕩陵厲,鬼設神施,尤號名家云。維楨徙松江時,與華亭陸居仁及僑居錢惟善相倡和。

附 銭惟善

原文附 錢惟善

惟善、字は思復、銭塘の人。至正元年、省試『羅刹江賦』、時に鎖院三千人、惟善独り枚乗の『七発』に拠りて銭塘江を曲江と弁じ、ここより名を得、曲江居士と号す。副提挙に官す。張士誠呉を拠るに及び、遂に仕えず。

原文惟善,字思復,錢塘人。至正元年,省試《羅剎江賦》,時鎖院三千人,獨惟善據枚乘《七發》辨錢塘江爲曲江,由是得名,號曲江居士。官副提舉。張士誠據呉,遂不仕。

附 陸居仁

原文附 陸居仁

居仁、字は宅之、泰定三年の郷試に中り、隠居して教授し、自ら雲松野衲と号す。両人既に歿し、維楨とともに干山に同葬せられ、人はこれを三高士の墓と目す。

原文居仁,字宅之,中泰定三年鄕試,隱居教授,自號雲松野衲。兩人既歿,與維楨同葬干山,人目爲三髙士墓。

胡翰

原文胡翰

胡翰、字は仲申、金華の人。幼くして聡穎、常児に異なり。七歳の時、道に遺金を拾い、坐して守りその人を待ちてこれを還す。長じて蘭溪の呉師道・浦江の呉萊に従い古文を学び、復た同邑の許謙の門に登る。同郡の黄溍・柳貫は文章を以て天下に名有り、翰の文を見て、口を容れずして称す。元都に游び、公卿交わりてこれを誉む。武威の余闕・宣城の貢師泰と尤も善し。或いはこれを仕うるを勧むれども応ぜず。既に帰り、天下の大乱に遭い、南華山に避地し、書を著して自ら適す。文章は宋濂・王禕と相上下す。太祖金華を下す、召見し、許元等と中書省に会食せしむ。後に侍臣復た翰を薦むる者有り、金陵に召し至る。時に方に金華の民を籍して兵と為す、翰従容として進みて曰く「金華の人多くは儒を業とし、兵を習うこと鮮し、これを籍すは、徒に餉を糜すのみ」と。太祖即ちこれを罷む。衢州教授を授く。洪武初め、聘して『元史』を修めしむ、書成り、賚を受け帰る。北山の泉石を愛し、その下に卜築し、徜徉すること十数年にして終わる、年七十有五。著す所に『春秋集義』有り、文は『胡仲子集』と曰い、詩は『長山先生集』と曰う。

原文胡翰,字仲申,金華人。幼聰穎異常兒。七歳時,道拾遺金,坐守侍其人還之。長從蘭溪呉師道、浦江呉萊學古文,復登同邑許謙之門。同郡黃溍、柳貫以文章名天下,見翰文,稱之不容口。游元都,公卿交譽之。與武威余闕、宣城貢師泰尤善。或勸之仕,不應。既歸,遭天下大亂,避地南華山,著書自適。文章與宋濂、王禕相上下。太祖下金華,召見,命與許元等會食中書省。後侍臣復有薦翰者,召至金陵。時方籍金華民爲兵,翰從容進曰:「金華人多業儒,鮮習兵,籍之,徒糜餉耳。」太祖即罷之。授衢州教授。洪武初,聘修《元史》,書成,受賚歸。愛北山泉石,卜築其下,徜徉十數年而終,年七十有五。所著有《春秋集義》,文曰《胡仲子集》,詩曰《長山先生集》。

蘇伯衡

原文蘇伯衡

蘇伯衡、字は平仲、金華の人、宋の門下侍郎蘇轍の裔なり。父の友龍、許謙の門に受業し、蕭山令、行省都事に官す。明師浙東を下す、長子の閩に仕うるに坐し、滁州に謫徙せらる。李善長これを官せんと奏すれども、力めて辞して帰る。伯衡は警敏絶倫、群籍に博洽し、古文を為して声有り。元末郷に貢す。太祖礼賢館を置く、伯衡これに与る。歳丙午(至正二十六年)用いて国子学録と為し、学正に遷る。薦められ、召見せられ、翰林編修に擢でらる。力めて辞し、省覲を乞うて帰る。洪武十年、学士の宋濂致仕す、太祖誰か代わるべき者と問う、濂対えて曰く「伯衡、臣が郷人、学博く行修まり、文詞蔚贍として法有り」と。太祖即ちこれを征し、入見せしむ、復た疾を以て辞し、衣鈔を賜いて還る。二十一年聘して会試を主せしむ、事竣りて復た辞して還る。尋ち処州教授と為り、表牋の誤りに坐し、吏に下りて死す。二子の恬・怡、父を救い、並びに刑せらる。

原文蘇伯衡,字平仲,金華人,宋門下侍郎轍之裔也。父友龍,受業許謙之門,官蕭山令,行省都事。明師下浙東,坐長子仕閩,謫徙滁州。李善長奏官之,力辭歸。伯衡警敏絶倫,博洽群籍,爲古文有聲。元末貢於鄕。太祖置禮賢館,伯衡與焉。歳丙午用爲國子學録,遷學正。被薦,召見,擢翰林編修。力辭,乞省覲歸。洪武十年,學士宋濂致仕,太祖問誰可代者,濂對曰:「伯衡,臣鄕人,學博行修,文詞蔚贍有法。」太祖即征之,入見,復以疾辭,賜衣鈔而還。二十一年聘主會試,事竣復辭還。尋爲處州教授,坐表牋誤,下吏死。二子恬、怡,救父,並被刑。

王冕

原文王冕

王冕、字は元章、諸暨の人。幼くして貧しく、父は彼に牛を飼わせたが、密かに学舎に入り、諸生の書を誦するのを聴き、暮れて帰る。牛を失い、父は怒って彼を打ったが、しばらくしてまた同じことをした。母は言った、「児はかくも愚かである。何ぞその為すところに任せざる。」冕はこれにより去って僧寺に寄り、夜は仏の膝の上に坐し、長明燈の光に映して書を読んだ。会稽の韓性はこれを聞きて異とし、弟子として録し、遂に通儒と称された。性が卒すると、門人は冕を事えること性を事えるが如くした。屡々挙に応じても中らず、棄て去り、北に燕都に遊び、秘書卿泰不花の家に客となった。館職を以て薦めんとしたが、力辞して就かず。既に帰ると、毎に大言して天下乱れんとし、妻子を携えて九里山に隠れ、梅を千株植え、桃杏をその半ばとし、自ら梅花屋主と号した。梅を画くことを善くし、求める者は踵を接して至り、幅の長短を以て得る米の差とした。嘗て『周官』に倣い書を一巻著し、曰く、「これを持して明主に遇えば、伊尹・呂尚の事業も致し難からん。」太祖が婺州を下すと、物色して之を得、幕府に置き、諮議参軍を授けたが、一夕にして病卒した。

原文王冕,字元章,諸暨人。幼貧,父使牧牛,竊入學舍,聽諸生誦書,墓乃返,亡其牛,父怒撻之,已而復然。母曰:「兒痴如此,曷不聽其所爲。」冕因去依僧寺,夜坐佛膝上,映長明燈讀書。會稽韓性聞而異之,録爲弟子,遂稱通儒。性卒,門人事冕如事性。屢應舉不中,棄去,北游燕都,客秘書卿泰不花家,擬以館職薦,力辭不就。既歸,毎大言天下將亂,攜妻孥隱九里山,樹梅千株,桃杏半之,自號梅花屋主,善畫梅,求者踵至,以幅長短爲得米之差。嘗仿《周官》著書一巻,曰:「持此遇明主,伊、呂事業不難致也。」太祖下婺州,物色得之,置幕府,授諮議參軍,一夕病卒。

附 郭奎

原文附 郭奎

同時の郭奎・劉炳は皆早くより戎幕に参じ、詩を以て名を知られた。奎、字は子章、巣県の人。余闕に従い学び、経を治め、闕はしきりに之を称した。太祖が呉国公となると、来り帰順し、幕府に従事した。朱文正が南昌に大都督府を開くと、命じて奎をその軍事に参じさせた。文正が罪を得ると、奎は連座して誅された。

原文同時郭奎、劉炳皆早參戎幕,以詩名。奎,字子章,巣縣人。從余闕學,治經,闕亟稱之。太祖爲呉國公,來歸,從事幕府。朱文正開大都督府於南昌,命奎參其軍事,文正得罪,奎坐誅。

附 劉炳

原文附 劉炳

炳、字は彦昺、鄱陽の人。至正年中、浙に於いて軍に従った。太祖が淮南に起つと、書を献じて事を言い、用いられて中書典籤となった。洪武初年、大都督府に従事し、出て知県となった。二度の考課を経て、病を以て帰ることを告げ、久しくして卒した。

原文炳,字彦昺,鄱陽人。至正中,從軍於浙。太祖起淮南,獻書言事,用爲中書典簽。洪武初,從事大都督府,出爲知縣。閲兩考,以病告歸,久之卒。

戴良

原文戴良

戴良、字は叔能、浦江の人。経・史・百家及び医・卜・釈・老の説に通じた。古文を黄溍・柳貫・呉萊に学んだ。貫が卒すると、その家を経紀した。太祖が初めて金華を定めると、命じて胡翰等十二人と省中に会食せしめ、日に二人交代で経・史を講じ、治道を陳べさせた。明年、良を学正に用い、宋濂・葉儀の輩と諸生を訓えた。太祖が既に師を旋すと、良は忽ち官を棄てて逸去した。辛丑、元の順帝は推薦者の言を用い、良に江北行省儒学提挙を授けた。良は時事為すべからざるを見て、呉中に避地し、張士誠に依った。久しくして、士誠の敗れんとするを見て、家を携えて海を渡り、登州・萊州に至り、間道を行きて拡廓の軍に帰らんとしたが、道は阻まれ、昌楽に数年寓居した。洪武六年に始めて南還し、姓名を変え、四明山に隠れた。太祖が物色して之を得た。十五年に召されて京師に至り、文を以て試み、会同館に居らしめ、日に大官の膳を給し、官にしようとしたが、老病を以て固辞し、旨に忤った。明年四月に暴卒した。蓋し自裁したのであろう。元滅亡後、良と王逢のみが故主を忘れず、毎に歌詩に形し、故に遂にその死を全うせずという。良は世々金華の九霊山の下に居り、自ら九霊山人と号した。

原文戴良,字叔能,浦江人。通經、史百家暨醫、卜、釋、老之説。學古文於黃溍、柳貫、呉萊。貫卒,經紀其家。太祖初定金華,命與胡翰等十二人會食省中,日二人更番講經、史,陳治道。明年,用良爲學正,與宋濂、葉儀輩訓諸生。太祖既旋師,良忽棄官逸去。辛丑,元順帝用薦者言,授良江北行省儒學提舉。良見時事不可爲,避地呉中,依張士誠。久之,見士誠將敗,挈家泛海,抵登、萊,欲間行歸擴廓軍,道梗,寓昌樂數年。洪武六年始南還,變姓名,隱四明山。太祖物色得之。十五年召至京師,試以文,命居會同館,日給大官膳,欲官之,以老疾固辭,忤旨。明年四月暴卒,蓋自裁也。元亡後,惟良與王逢不忘故主,毎形於歌詩,故卒不獲其死雲。良世居金華九靈山下,自號九靈山人。

附 王逢

原文附 王逢

逢、字は原吉、江陰の人。至正年中、『河清頌』を作り、台臣が之を薦めたが、疾を称して辞した。張士誠が呉を拠えると、その弟士徳は逢の策を用い、北に元に降って明を拒んだ。太祖が士誠を滅ぼすと、辟いて用いようとしたが、堅く臥して起たず、上海の烏涇に隠れ、歌詠して自ら楽しんだ。洪武十五年に文学を以て征され、有司が敦迫して上道させた。時に子の掖が通事司令であり、父の年高きを以て、叩頭して泣いて請うたので、乃ち吏部に命じて符を以て之を止めさせた。また六年して卒し、年七十、『梧溪詩集』七巻有り。逢は自ら席帽山人と称した。

原文逢,字原吉,江陰人。至正中,作《河淸頌》,台臣薦之,稱疾辭。張士誠據呉,其弟士德用逢策,北降於元以拒明。太祖滅士誠,欲辟用之,堅臥不起,隱上海之烏涇,歌詠自適。洪武十五年以文學征,有司敦迫上道。時子掖爲通事司令,以父年髙,叩頭泣請,乃命吏部符止之。又六年卒,年七十,有《梧溪詩集》七巻。逢自稱席帽山人。

附 丁鶴年

原文附 丁鶴年

時にまた丁鶴年という者あり、回回の人。曾祖父の阿老丁と弟の烏馬児は皆代々商人であった。元の世祖が西域を征する時、軍に糧乏しく、老丁は策を杖って軍門に至り、全ての資財を献じた。功を論じ、京師に田宅を賜い、朝請に奉じた。烏馬児は累官して甘粛行省左丞となった。父の職馬禄丁は、世廕を以て武昌県達魯花赤となり、恵政有り、官を解き、留まって其の地に葬った。至正壬辰、武昌兵乱に遭い、鶴年年十八、母を奉じて鎮江に走った。母が歿すると、塩酪を口にせずこと五年。四明に避地した。方国珍が浙東を拠えると、最も色目人を忌み、鶴年は転徙逃匿し、童子の師となり、或いは僧舎に寄り、漿を売って自給した。海内大定するに及んで、牒を請うて武昌に還ろうとしたが、生母は既に道阻まれて先に死に、東村の廃宅中に瘞されていた。鶴年慟哭して行きて求め、母が夢に告げたので、乃ち血を齧んで骨に沁み、斂めて葬った。烏斯道が『丁孝子伝』を作った。鶴年は自ら家世元に仕えたことを以て、故国を忘れず、順帝が北遁した後、泣きを飲んで詩を賦し、情詞凄惻であった。晩年浮屠の法を学び、父の墓の傍らに廬居し、永楽年中に卒した。鶴年は学を好み聞に洽く、詩律に精しく、楚の昭王・庄王の二王皆礼敬した。正統年中、憲王がその遺文を刻して世に行った。

原文時又有丁鶴年者,回回人。曾祖阿老丁與弟烏馬兒皆世商。元世祖征西域,軍乏饟,老丁杖策軍門,盡以貲獻。論功,賜田宅京師,奉朝請。烏馬兒累官甘肅行省左丞。父職馬祿丁,以世廕爲武昌縣達魯花赤,有惠政,解官,留葬其地。至正壬辰,武昌被兵,鶴年年十八,奉母走鎭江。母歿,鹽酪不入口者五年。避地四明。方國珍據浙東,最忌色目人,鶴年轉徙逃匿,爲童子師,或寄僧舍,賣漿自給。及海内大定,牒請還武昌,而生母已道阻前死,瘞東邨廢宅中,鶴年慟哭行求,母告以夢,乃齧血沁骨,斂而葬焉。烏斯道爲作《丁孝子傳》。鶴年自以家世仕元,不忘故國,順帝北遁後,飲泣賦詩,情詞凄惻。晩學浮屠法,廬居父墓,以永樂中卒。鶴年好學洽聞,精詩律,楚昭、庄二王咸禮敬之。正統中,憲王刻其遺文行世。

危素

原文危素

危素、字は太僕、金渓の人、唐の撫州刺史全諷の後。少くして『五経』に通じ、呉澄・范梈の門に遊んだ。至正元年、大臣の推薦を用いて経筵検討を授けられた。宋・遼・金三史を修し及び『爾雅』を注し成り、金及び宮人を賜うたが、受けなかった。国子助教より翰林編修に遷る。后妃等の伝を纂修するに当たり、事逸れて拠る所無く、素は餳餅を買って宦寺に饋り、叩いて実情を得、乃ち之を書に筆し、遂に全史となした。太常博士・兵部員外郎・監察御史・工部侍郎に遷り、大司農丞・礼部尚書に転じた。

原文危素,字太僕,金溪人,唐撫州刺史全諷之後。少通《五經》,游呉澄、范梈門。至正元年用大臣薦授經筵檢討。修宋、遼、金三史及注《爾雅》成,賜金及宮人,不受。由國子助教遷翰林編修。纂后妃等傳,事逸無據,素買餳餅饋宦寺,叩之得實,乃筆諸書,卒爲全史。遷太常博士、兵部員外郎、監察御史、工部侍郎,轉大司農丞、禮部尚書。

時に乱将に亟まんとし、素は毎に得失を抗論した。十八年、中書省事に参じ、平章定住を専任して西方の兵を総べさせ、帝師を迎えて軍事を悩ますこと無くし、普顔不花を用いて参政とし、江南を経略させ、兵農宣撫使司を立てて畿内を安んじ、賢なる守令を任じて流竄の民を撫することを請うた。且つ曰く、「今日の事は、宜しく臥薪嘗胆し、力を図りて中興すべし。」尋いで御史台治書侍御史に進む。二十年、参知政事を拝し、俄かに翰林学士承旨を除かれ、出でて嶺北行省左丞となる。事を言うも報いられず、官を棄てて房山に居した。素は人となり侃直にして、数たび建白有り、敢えて事を任じた。上都の宮殿火災の時、勅して大安・睿思の二閣を重建せんとしたが、素は諫めて之を止めさせた。親しく南郊を祀り、北郊を築き、以て合祭の失を斥けることを請うた。因って進講して民間の疾苦を陳べ、詔して銭粟を発して河南・永平の民を振恤せしめた。淮南に兵乱有り、素は往きて廉問し、便宜を仮りて楮幣を発し、維揚・京口の飢を振恤した。房山に居すること四年。明師将に燕に抵らんとする時、淮王帖木児不花監国、起して承旨とすること故の如くせんとした。素が甫く至るや師入りし、乃ち其の居る報恩寺に趨り、井に入らんとした。寺僧の大梓が力めて引き起こし、曰く、「国史は公に非ざれば知る莫し。公死せば、是れ国史を死するなり。」素は遂に止まった。兵が史庫に迫り、往きて鎮撫の呉勉の輩に告げて之を出させ、『元実録』は失うこと無く得た。

原文時亂將亟,素毎抗論得失。十八年參中書省事,請專任平章定住總西方兵,毋迎帝師悞軍事,用普顏不花爲參政,經略江南,立兵農宣撫使司以安畿内,任賢守令以撫流竄之民。且曰:「今日之事,宜臥薪嘗膽,力圖中興。」尋進御史台治書侍御史。二十年拜參知政事,俄除翰林學士承旨,出爲嶺北行省左丞。言事不報,棄官居房山。素爲人侃直,數有建白,敢任事。上都宮殿火,敕重建大安、睿思二閣,素諫止之。請親祀南郊,筑北郊,以斥合祭之失。因進講陳民間疾苦,詔爲發錢粟振河南、永平民。淮南兵亂,素往廉問,假便宜發楮幣,振維揚、京口飢。居房山者四年。明師將抵燕,淮王帖木兒不花監國,起爲承旨如故。素甫至而師入,乃趨所居報恩寺,入井。寺僧大梓力挽起之,曰:「國史非公莫知。公死,是死國史也。」素遂止。兵迫史庫,往告鎭撫呉勉輩出之,《元實録》得無失。

洪武二年に翰林侍講学士を授けられ、しばしば元の興亡の原因について問われ、また詔を奉じて『皇陵碑』の文を撰することとなり、いずれも帝の意に適った。まもなく、朝参を欠いた罪で弾劾され罷免された。一年後に元の官に復し、弘文館学士を兼ね、小庫を賜り、朝謁を免ぜられた。かつて諸学士とともに賜宴に与り、たびたび内官に命じて酒を勧めさせ、帝は御製の詩一章を作って恩寵を示し、それぞれ詩を進めるよう命じた。危素の詩は最も遅く出来上がったが、帝はひとりこれを覧めて善しとし、「素は老成にして、先に憂うるの意あり」と言った。時に素はすでに七十余歳であった。御史王著らが素を亡国の臣と論じ、侍従に列すべきでないと上奏したため、詔して和州に謫居させ、余闕の廟を守らせた。一年余りして卒した。

原文洪武二年授翰林侍講學士,數訪以元興亡之故,且詔撰《皇陵碑》文,皆稱旨。頃之,坐失朝,被劾罷。居一歳,復故官,兼弘文館學士,賜小庫,免朝謁。嘗偕諸學士賜宴,屢遣内官勸之酒,御制詩一章,以示恩寵,命各以詩進,素詩最後成,帝獨覽而善之曰:「素老成,有先憂之意。」時素已七十余矣。御史王著等論素亡國之臣,不宜列侍從,詔謫居和州,守余闕廟,歳余卒。

先に、至元の間に西僧の嗣古妙高が宋の会稽の諸陵を毀たんとした。夏人の楊輦真珈が江南総摂となり、徽宗以下の諸陵を悉く掘り起こし、金宝を奪い取り、帝后の遺骨を集めて杭州の故宮に埋め、その上に浮屠を築き、鎮南と名付けて厭勝を示した。また理宗の頭蓋骨を截って飲器とした。真珈が敗れると、その資産はすべて官に没収され、頭蓋骨も宣政院に入り、いわゆる帝師なる者に賜わった。危素が翰林に在った時、宴席で帝に拝謁し、始末を詳しく述べた。帝は長く嘆息し、北平の守将に命じて西僧の汝納の所から頭蓋骨を購得させ、役人に命じて高坐寺の西北に仮葬させた。その翌年、紹興から永穆陵の図が献上されてきたので、ついに故陵に改葬するよう勅し、実に危素がこれを発端としたのである。

原文先是,至元間,西僧嗣古妙髙欲毀宋會稽諸陵。夏人楊輦眞珈爲江南總攝,悉掘徽宗以下諸陵,攫取金寶,裒帝後遺骨,瘞於杭之故宮,築浮屠其上,名曰鎭南,以示厭勝,又截理宗顱骨爲飲器。眞珈敗,其資皆籍於官,顱骨亦入宣政院,以賜所謂帝師者。素在翰林時,宴見,備言始末。帝嘆息良久,命北平守將購得顱骨於西僧汝納所,諭有司厝於髙坐寺西北。其明年,紹興以永穆陵圖來獻,遂敕葬故陵,實自素髮之雲。

張以寧

原文張以寧

張以寧、字は志道、古田の人。父は一清、元の福建・江西行省参知政事。以寧は八歳の時、ある者が伯父を県に訴えて獄に繋がれたので、以寧は県に赴いて理を伸べた。県令はこれを異とし、『琴堂詩』を賦せよと命じると、たちまち作り上げた。伯父は釈放され、以寧はこれによって名を知られた。泰定年中、『春秋』をもって進士に挙げられ、黄岩判官から六合尹に進んだが、事に坐して免官され、江淮に滞留すること十年。順帝が召し出して国子助教とし、累進して翰林侍読学士・知制誥に至った。朝中の宿儒虞集・欧陽玄・掲傒斯・黄溍らが相次いで物故したので、以寧は俊才あり、博学強記で時に名を擅にし、人々は小張学士と呼んだ。

原文張以寧,字志道,古田人。父一淸,元福建、江西行省參知政事。以寧年八歳,或訟其伯父於縣繫獄,以寧詣縣伸理,尹異之,命賦《琴堂詩》,立就,伯父得釋,以寧用是知名。泰定中,以《春秋》舉進士,由黃岩判官進六合尹,坐事免官,滯留江、淮者十年。順帝征爲國子助教,累至翰林侍讀學士,知制誥。在朝宿儒虞集、歐陽元、掲傒斯、黃溍之屬相繼物故,以寧有俊才,博學強記,擅名於時,人呼小張學士。

明軍が元の都を取ると、危素らとともにみな京に赴き、奏対が帝の意に適い、再び侍講学士を授けられ、特に寵遇を受けた。帝がかつて鐘山に登った時、以寧は朱升・秦裕伯らとともに擁翠亭に扈従し、筆札を与えられて詩を賦した。洪武二年秋、安南に奉使し、その主陳日煃を国王に封じるため、帝は御製の詩一章を作って遣わした。境に着いたばかりで日煃が卒したので、国人は印詔をその世子に授けるよう乞うたが、以寧は聞き入れず、洱江のほとりに留まり住み、世子に命じて朝廷に哀を告げ、かつ襲爵を請うさせた。命令を得てから、後の使者林唐臣が到着するのを待って、はじめて境に入り事を行った。事が竣うと、世子に三年の喪に服することを教え、その国人に中国に倣って頓首稽首の礼を行わせた。天子はこれを聞いて嘉し、璽書を賜い、陸賈・馬援に比し、さらに御製の詩八章を賜った。帰還の途中で卒し、詔して役人にその柩を帰らせ、所在の地で祭らせた。

原文明師取元都,與危素等皆赴京,奏對稱旨,復授侍講學士,特被寵遇。帝嘗登鐘山,以寧與硃升、秦裕伯等扈從擁翠亭,給筆札賦詩。洪武二年秋,奉使安南,封其主陳日煃爲國王,御制詩一章遣之。甫抵境,而日煃卒,國人乞以印詔授其世子,以寧不聽,留居洱江上,諭世子告哀於朝,且請襲爵。既得令,俟後使者林唐臣至,然後入境將事。事竣,教世子服三年喪,令其國人效中國行頓首稽首禮。天子聞而嘉之,賜璽書,比諸陸賈、馬援,再賜御制詩八章。及還,道卒,詔有司歸其柩,所在致祭。

以寧は人となり清潔で、財産を営まず、奉使の往還に、寝具のほかに他に物はなかった。もと『春秋』によって高第を得たので、学ぶところ特に『春秋』に専らし、自得するところ多く、『胡伝弁疑』を撰して最も弁博であった。ただ『春王正月考』は未完成で、安南に寓居すること半年余りを経て、ようやく完成した。元の故官で京に来た者の中では、危素と以寧の名が特に重かった。素は史に長じ、以寧は経に長じた。素の宋・元史稿はともに伝わらず、以寧の『春秋』学は遂に行われた。

原文以寧爲人潔淸,不營財産,奉使往還,補被外無他物。本以《春秋》致髙第,故所學尤專《春秋》,多所自得,撰《胡傳辨疑》最辨博,惟《春王正月考》未就,寓安南逾半歳,始卒業。元故官來京者,素及以寧名尤重。素長於史,以寧長於經。素宋、元史藁倶失傳,而以寧《春秋》學遂行。

附 石光霽

原文附 石光霽

門人の石光霽、字は仲濂、泰州の人。読書は五行ともに下る。洪武十三年に明経で挙げられ、国子学正に授けられ、博士に進み、『春秋鈎玄』を作り、以寧の学を伝えることができた。

原文門人石光霽,字仲濂,泰州人。讀書五行倶下。洪武十三年以明經舉,授國子學正,進博士,作《春秋鉤玄》,能傳以寧之學。

附 秦裕伯

原文附 秦裕伯

裕伯、字は景容、大名の人。元に仕え、累官して福建行省郎中に至った。世の乱に遭い、官を棄てて揚州に客居した。久しくして、また上海に避地した。母の喪に居て礼を尽くした。張士誠が姑蘇を占拠し、人を遣わして招いたが、拒んで受け入れなかった。呉元年、太祖が中書省に命じて檄を発して起した。裕伯は使者に対し、「元の禄を食むこと二十余年にしてこれを背くは、忠ならず。母の喪未だ終わらず、哀を忘れて出るは、孝ならず」と言った。そこで中書省に上書して固く辞した。洪武元年に再び征召されたが、病と称して出なかった。帝は手書を以て諭して言った、「海浜の民は闘いを好む。裕伯は智謀の士にしてこの地に居り、堅く守って起たずんば、後悔あるを恐れる」。裕伯は書を拝し、涕泗横流れ、已むを得ず使者とともに朝に入った。侍読学士を授けられたが、固く辞したが許されなかった。張以寧らとともに扈従し、鐘山の擁翠亭に登り、筆札を与えられて詩を賦し、甚だ寵待を受けた。二年に待制に改め、まもなく治書侍御史となった。三年に始めて詔して科を設けて士を取るに当たり、裕伯と御史中丞劉基を京畿主考官とした。裕伯は博弁にして論説を善くし、占奏ことごとく帝の意に適い、帝はしばしばこれを称えた。出て隴州の知事となり、官に卒した。

原文裕伯,字景容,大名人。仕元,累官至福建行省郎中。遭世亂,棄官,客揚州。久之,復避地上海。居母喪盡禮。張士誠據姑蘇,遣人招之,拒不納。呉元年,太祖命中書省檄起之。裕伯對使者曰:「食元祿二十餘年而背之,不忠也。母喪未終,忘哀而出,不孝也。」乃上中書省固辭。洪武元年復征,稱病不出。帝乃手書諭之曰:「海濱民好斗,裕伯智謀之士而居此地,堅守不起,恐有後悔。」裕伯拜書,涕泗橫流,不得已,偕使者入朝。授侍讀學士,固辭,不允。與張以寧等扈從,登鐘山擁翠亭,給筆札賦詩,甚見寵待。二年改待制,旋爲治書侍御史。三年始詔設科取士,以裕伯與御史中丞劉基爲京畿主考官。裕伯博辨善論説,占奏悉當帝意,帝數稱之。出知隴州,卒於官。

趙壎

原文趙壎

趙壎、字は伯友、新喩の人。学を好み、文を属することを工みとした。元の至正年中に郷里で挙げられ、上猶の教諭となった。洪武二年、太祖が詔して『元史』を修めさせ、左丞相李善長を監修官とし、前起居注の宋濂・漳州府通判の王禕を総裁官とし、山林の遺逸の士汪克寛・胡翰・宋僖・陶凱・陳基・曾魯・高啓・趙汸・張文海・徐尊生・黄篪・傅恕・王錡・傅著・謝徽を征して纂修官とし、壎もこれに与った。この年の二月、天界寺に局を開き、元の『経世大典』諸書を取って参考に資した。八月に完成し、諸儒はみな賜を与えられて帰された。しかし順帝一朝の史はまだ備わっていなかったので、儒士の欧陽祐らを北平に遣わして遺事を採らせた。翌年二月に還朝し、重ねて史局を開き、依然として宋濂・王禕を総裁とし、四方の文学士朱右・貝瓊・朱廉・王彝・張孟兼・高遜志・李懋・李汶・張宣・張簡・杜寅・殷弼・兪寅及び壎を征して纂修官とした。先後して纂修した者は三十人、両局ともに与った者は、壎ただ一人のみであった。六月を閲して書は成り、諸儒は多く官を授けられたが、ただ壎と朱右・朱廉は受けずに帰った。

原文趙壎,字伯友,新喩人,好學,工屬文。元至正中舉於鄕,爲上猶教諭。洪武二年,太祖詔修《元史》,命左丞相李善長爲監修官,前起居注宋濂、漳州府通判王禕爲總裁官,征山林遺逸之士汪克寬、胡翰、宋僖、陶凱、陳基、曾魯、髙啓、趙汸、張文海、徐尊生、黃篪、傅恕、王錡、傅著、謝徽爲纂修官,而壎與焉。以是年二月,開局天界寺,取元《經世大典》諸書,用資參考。至八月成,諸儒並賜齎遣歸。而順帝一朝史猶未備,乃命儒士歐陽祐等往北平採遺事。明年二月還朝,重開史局,仍以宋濂、王禕爲總裁,征四方文學士硃右、貝瓊、硃廉、王彝、張孟兼、髙遜志、李懋、李汶、張宣、張簡、杜寅、殷弼、兪寅及壎爲纂修官。先後纂修三十人,兩局並與者,壎一人而已。閲六月,書成,諸儒多授官,惟壎及硃右、硃廉不受歸。

まもなく召されて日暦を修め、翰林編修を授けられた。高麗が使者を遣わして朝貢し、賜宴が行われ、楽が奏されると、使者は国喪を理由に辞した。趙壎が進み出て言った、「小国の喪は、大国の礼を廃せず」。太祖は大いに悦び、命じて宋濂とともに史館に同職とし、濂は兄事した。かつて詔を奉じて『甘露頌』を撰し、太祖は善しと称えた。出て靖江王府長史となり、卒した。

原文尋召修日暦,授翰林編修。髙麗遣使朝貢,賜宴,樂作,使者以國喪辭。〓熏進曰:「小國之喪,不廢大國之禮。」太祖甚悅,命與宋濂同職史館,濂兄事之。嘗奉詔撰《甘露頌》,太祖稱善。出爲靖江王府長史,卒。

初め壎とともに纂修した者汪克寛・陶凱・曾魯・高啓・趙汸・貝瓊・高遜志にはともに伝がある。今、宋僖以下で考うべき者を、篇に附して著す。

原文始與壎同纂修者汪克寬、陶凱、曾魯、髙啓、趙汸、貝瓊、髙遜志並有傳,今自宋僖以下可考者,附著於篇。

附 宋僖

原文附 宋僖

宋僖、字は無逸、餘姚の人。元の繁昌教諭となり、乱に遭って帰郷した。史事が竣り、福建郷試を典することを命ぜられた。

原文宋僖,字無逸,餘姚人。元繁昌教諭,遭亂歸。史事竣,命典福建鄕試。

附 陳基

原文附 陳基

陳基、字は敬初、臨海の人。若くして兄の聚と共に義烏の黄溍に師事し、溍に従って京師に遊び、経筵檢討を授けられた。嘗て人のために諫章を草し、順帝の后を並立する失を力陳したため、順帝は罪せんとしたが、避けて郷里に帰った。後に母を奉じて呉に入り、太尉張士誠の軍事に参じた。士誠が王を称せんとした時、基は独り諫めて止めさせようとしたので、士誠は殺そうとしたが果たさず。呉が平定されると、召されて『元史』を修め、金を賜わって帰った。洪武三年冬に卒した。初め、士誠が太祖と相持した時、基はその幕府にあり、書檄は多く指斥していたが、呉が亡びた後、呉の臣は多く誅せられたが、基は独り免れた。世に伝わる『夷白集』には、その指斥の文が猶備列されているという。

原文陳基,字敬初,臨海人。少與兄聚受業於義烏黃溍,從溍游京師,授經筵檢討。嘗爲人草諫章,力陳順帝並後之失,順帝欲罪之,引避歸里。已,奉母入呉,參太尉張士誠軍事。士誠稱王,基獨諫止,欲殺之,不果。呉平,召修《元史》,賜金而還。洪武三年冬卒。初,士誠與太祖相持,基在其幕府,書檄多指斥,及呉亡,呉臣多見誅,基獨免。世所傳《夷白集》,其指斥之文猶備列云。

附 張文海

原文附 張文海

張文海、鄞の人、同里の傅恕と共に史館に入った。

原文張文海,鄞人,與同里傅恕並入史館。

附 徐尊生

原文附 徐尊生

徐尊生、字は大年、淳安の人。『元史』が成り、賜わって帰り、再び日暦を同修した。後に宋濂の推薦により翰林應奉に授けられ、文字を草し制を為すこと、悉く旨に称した。尋いで老疾を以て辞して還った。

原文徐尊生,字大年,淳安人。《元史》成,受賜歸,復同修日暦。後以宋濂薦授翰林應奉,文字草制,悉稱旨。尋以老疾辭還。

附 傅恕

原文附 傅恕

傅恕、字は如心、鄞の人。学は経史に通じ、同郡の烏斯道、鄭眞と共に皆文名があった。洪武二年、闕に詣でて治道十二策を陳べ、曰く、朝廷を正す、守令を重んず、外蕃を馭す、祿秩を増す、民田を均す、法役を更む、異端を黜す、服制を易す、学校を興す、選挙を愼む、榷塩を罷む、榷茶を停む。太祖嘉納し、遂に命じて『元史』を修めしめた。事竣り、博野知縣に授けられ、後に累に坐して死した。

原文傅恕,字如心,鄞人。學通經史,與同郡烏斯道、鄭眞皆有文名。洪武二年詣闕陳治道十二策,曰:正朝廷、重守令、馭外蕃、增祿秩、均民田、更法役、黜異端、易服制、興學校、愼選舉、罷榷鹽、停榷茶。太祖嘉納之,遂命修《元史》。事竣,授博野知縣,後坐累死。

附 斯道

原文附 斯道

斯道、字は繼善、慈溪の人、兄の本良と共に学行有り。洪武中、斯道は推薦を受けて石龍知縣に授けられ、永新に転じ、事に坐して定遠に謫役せられ、放還されて卒した。斯道は古文に巧み、兼ねて書法に精しかった。子の緝も亦た詩文に善かった。洪武四年、郷試第一に挙げられ、臨淮教諭に授けられた。入見し、宴を賜わり、詩を賦して旨に称し、広信教授に除され、自ら榮陽外史と号した。

原文斯道,字繼善,慈溪人,與兄本良倶有學行。洪武中,斯道被薦授石龍知縣,調永新,坐事謫役定遠,放還,卒。斯道工古文,兼精書法。子緝,亦善詩文。洪武四年舉鄕試第一,授臨淮教諭。入見,賜之宴,賦詩稱旨,除廣信教授,自號榮陽外史。

附 傅著

原文附 傅著

傅著、字は則明、長洲の人。史成り、帰って常熟教諭となった。魏観が郷飲酒礼を行った時、長洲教諭周敏は其の父南老に侍し、著は其の父玉に侍し、皆降りて北面して立ち、礼を観る者は以て盛事と為した。歴官して知府となり、卒した。

原文傅著,字則明,長洲人。史成,歸爲常熟教諭。魏觀行鄕飲酒禮,長洲教諭周敏侍其父南老,著侍其父玉,皆降而北面立,觀禮者以爲盛事焉。歴官知府,卒。

附 宋僖

原文附 宋僖

謝徽、字は元懿、長洲の人。史成り、翰林國史院編修に授けられた。尋いで吏部郎中に擢げられたが、力辞して拝せず、帰った。再び起用されて國子助教となり、卒した。徽は博学で詩文に巧み、同邑の髙啓と齊名した。弟の恭、字は元功、亦た詩を能くした。

原文謝徽,字元懿,長洲人。史成,授翰林國史院編修。尋擢吏部郎中,力辭不拜,歸。復起國子助教,卒。徽博學工詩文,與同邑髙啓齊名。弟恭,字元功,亦能詩。

附 朱右

原文附 朱右

朱右、字は伯賢、臨海の人。『元史』が完成すると、辞して帰郷した。後に、日暦・宝訓の編修に徴用され、翰林編修に任ぜられた。晋府右長史に転じた。洪武九年、在官のまま死去した。

原文朱右,字伯賢,臨海人。史成,辭歸。已,征修日暦、寶訓,授翰林編修。遷晉府右長史。九年卒官。

附 朱廉

原文附 朱廉

朱廉、字は伯清、義烏の人。幼少より勉学に励み、黄溍に従って古文を学んだ。知府王宗顯が郡学の教官に招聘した。李文忠が厳州を鎮守した時、釣台書院の山長に招かれた。洪武初年、『元史』が完成すると、官を受けずに帰郷した。まもなく日暦編修に徴用され、翰林編修に任ぜられた。八年、中都に供奉し、詩十章を進呈したところ、太祖はこれを善しとし、六章を和して賜った。やがて楚王の経書講義を授けられ、楚府右長史に転じた。久しくして、病を理由に辞職して帰郷した。朱廉は程子・朱子の学を好み、かつて『朱子語類』を取ってその精義を摘出し、『理学纂言』と名付けた。

原文朱廉,字伯淸,義烏人。幼力學,從黃溍學古文。知府王宗顯辟教郡學。李文忠鎭嚴州,延爲釣台書院山長。洪武初,《元史》成,不受官歸。尋征修日暦,除翰林編修。八年扈駕中都,進詩十章,太祖稱善,爲和六章賜之。已而授楚王經,遷楚府右長史。久之,辭疾歸。廉好程、硃之學,嘗取《硃子語類》,摘其精義,名曰《理學纂言》。

附 王彝

原文附 王彝

王彝、字は常宗、その先祖は蜀の人で、父が昆山教授となったため、嘉定に居を定めた。幼くして孤貧となり、天台山中で読書し、王貞文に師事して、蘭溪の金履祥の学統を得、学問に端緒を得た。かつて論を著して楊維楨を激しく誹謗し、文妖と目した。『元史』が完成すると、銀幣を賜って帰郷した。また、推薦により翰林に入ったが、母が老齢のため帰郷を乞うた。知府魏観の事件に連座し、高啓とともに誅殺された。

原文王彝,字常宗,其先蜀人,父爲昆山教授,遂卜居嘉定。少孤貧,讀書天台山中,師事王貞文,得蘭溪金履祥之傳,學有端緒。嘗著論力詆楊維楨,目爲文妖。《元史》成,賜銀幣還。又以薦入翰林,母老乞歸。坐知府魏觀事,與髙啓倶被殺。

附 張孟兼

原文附 張孟兼

張孟兼、浦江の人、名は丁、字をもって行われる。『元史』が完成すると、国子学録に任ぜられ、礼部主事・太常司丞を歴任した。劉基がかつて太祖に言上したことがある。「今、天下の文章は、宋濂が第一、次は臣の基、さらに次は孟兼である。」太祖はうなずいた。孟兼は性傲岸で、かつて連座して輸作(労役)に貶謫されたことがある。後に復官すると、太祖は孟兼を見て宋濂に言った。「卿の門人か。」宋濂が答えて言う。「門人ではなく、同郷の者です。その文章には才があり、臣の劉基がかつて称賛しました。」太祖は孟兼をじっと見て言った。「生まれつき骨相が薄い。官途は、ゆっくりと進むがよい。」間もなく、山西僉事に任用された。廉潔で剛直、悪を憎み、奸猾を糾弾摘発し、互いに引き合いをさせ、毎事数十人を株連させた。吏民は張僉事が巡察に来ると聞けば、凛然として胆を落とした。その名声は朝廷に聞こえ、山東副使に抜擢された。布政使の呉印という者は、僧であったが、太祖が急に重用し、寵愛が甚だしかった。孟兼は彼を軽んじた。呉印が孟兼に謁見した時、中門から入ったので、孟兼は門番の兵卒を杖罰した。後に、また別の事で彼と対立した。太祖は先に呉印の言を聞き入れ、孟兼を捕らえて笞刑に処した。孟兼は憤慨し、呉印のために上奏文を書いた者を捕らえ、罪に論じようとした。呉印が再び上書して状況を訴えると、太祖は激怒して言った。「小僧めが朕に抗するか!」枷をはめて闕下に連行し、棄市(市中で斬首)を命じた。

原文張孟兼,浦江人,名丁,以字行。史成,授國子學録,歴禮部主事、太常司丞。劉基嘗爲太祖言:「今天下文章,宋濂第一,其次即臣基,又次即孟兼。」太祖頷之。孟兼性傲,嘗坐累謫輸作。已,復官,太祖顧孟兼謂濂曰:「卿門人邪?」濂對:「非門人,乃邑子也。其爲文有才,臣劉基嘗稱之。」太祖熟視孟兼曰:「生骨相薄,仕宦,徐徐乃可耳。」未幾,用爲山西僉事。廉勁疾惡,糾摘奸猾,令相牽引,毎事輒株連數十人。吏民聞張僉事行部,凜然墮膽。聲聞於朝,擢山東副使。布政使呉印者,僧也,太祖驟貴之,寵眷甚,孟兼易之。印謁孟兼,由中門入,孟兼杖守門卒。已,又以他事與相拄。太祖先入印言,逮笞孟兼。孟兼憤,捕爲印書奏者,欲論以罪。印覆上書言狀,太祖大怒曰:「豎儒與我抗邪!」械至闕下,命棄市。

附 李汶

原文附 李汶

李汶、字は宗茂、当塗の人。博学多才で、『元史』が完成すると、巴東知県に任ぜられ、南和に移った。晩年に郷里に帰り、経学をもって後進を教えた。

原文李汶,字宗茂,當塗人。博學多才,史成,除巴東知縣,移南和。晩年歸里,以經學訓後進。

附 張宣

原文附 張宣

張宣、字は藻重、江陰の人。洪武初年、礼制考証のため徴用された。まもなく『元史』編修に参与し、太祖が自らその名を書いて殿廷に召し出して対面させ、即日に翰林編修に任じ、小秀才と呼んだ。詔を奉じて帰郷して婚姻したが、年は既に三十であった。六年、事件に連座して濠梁に流謫され、途中で死去した。

原文張宣,字藻重,江陰人。洪武初,以考禮征。尋預修《元史》,太祖親書其名,召對殿廷,即日授翰林編修,呼爲小秀才。奉詔歸娶,年已三十矣。六年坐事謫徙濠梁,道卒。

附 張簡

原文附 張簡

張簡、字は仲簡、呉県の人。初め張雨に師事して道士となり、鴻山に隠居した。元末の兵乱の際、母が老齢のため帰養し、儒服に戻った。洪武三年、推薦されて『元史』を編修した。元末当時、浙東・浙西の士大夫は文墨を尊び、毎年必ず詩社を結び、一二の文章の大家を招聘して主宰させ、四方の名士がことごとく集まり、宴賞は日夜を尽くし、詩の勝者には厚い贈り物があった。臨川の饒介は元の淮南行省参政で、詩に豪放で、自ら醉樵と号し、かつて諸名士を大いに集めて『醉樵歌』を賦させた。張簡の詩が第一で、黄金一餅を贈られ、高啓が次で、白金三斤を得、楊基がさらに次で、なおも一鎰を贈られた。

原文張簡,字仲簡,呉縣人。初師張雨爲道士,隱居鴻山。元季兵亂,以母老歸養,遂返儒服。洪武三年,薦修《元史》。當元季,浙東、西士大夫以文墨相尚,毎歳必聯詩社,聘一二文章鉅公主之,四方名士畢至,宴賞窮日夜,詩勝者輒有厚贈。臨川饒介爲元淮南行省參政,豪於詩,自號醉樵,嘗大集諸名士賦《醉樵歌》。簡詩第一,贈黃金一餅;髙啓次之,得白金三斤;楊基又次之,猶贈一鎰。

附 杜寅

原文附 杜寅

杜寅、字は彦正、呉県の人。史書が完成し、岐寧衛知事の官に任ぜられた。洪武八年、番賊が降伏した後に再び叛き、寅は経歴の熊鼎とともに害された。

原文杜寅,字彦正,呉縣人。史成,官岐寧衞知事。洪武八年,番賊既降復叛,寅與經歴熊鼎倶被害。

徐一夔

原文徐一夔

徐一夔、字は大章、天台の人。文に巧みで、義烏の王禕と親善であった。洪武二年八月、詔して礼書の編纂を命じ、一夔及び儒士の梁寅・劉於・曾魯・周子諒・胡行簡・劉宗弼・董彝・蔡深・滕公琰がともにこれに参与した。翌年書が完成し、『元史』の続修を行おうとしたところ、王禕がちょうど総裁官となっており、一夔を推薦した。一夔が書を送って言うには、

原文徐一夔,字大章,天台人。工文,與義烏王禕善。洪武二年八月詔纂修禮書,一夔及儒士梁寅、劉於、曾魯、周子諒、胡行簡、劉宗弼、董彝、蔡深、滕公琰並與焉。明年書成,將續修《元史》,禕方爲總裁官,以一夔薦。一夔遺書曰:

近ごろ県令が伝令して、朝廷が『元史』の続修のために自分を召し出そうとしており、かつあなたが私の事を物語をよく記すと評し、当路に推薦したと云う。私心ひそかに怪しむのは、あなたがどうして才能なく病の多い人間に倦まず勧めるのかということである。私は平素あなたが私を知っていると思っていたが、今自ら省みて、ついにあなたの期待に副うことができない。なぜか。

原文邇者縣令傳命,言朝廷以續修《元史》見征,且雲執事謂僕善敘事,薦之當路,私心竊怪執事何惓惓於不材多病之人也。僕素謂執事知我,今自審終不能副執事之望,何也?

近世史を論ずるものは、日暦に過ぐるものはない。日暦とは、史の根柢である。唐の長寿年間に、史官の姚璹が時政記の撰修を奏請し、元和年間に、韋執誼がまた日暦の撰修を奏請した。日暦は事を日につなぎ、日を月につなぎ、月を時につなぎ、時を年につなぐ。なお『春秋』の遺意がある。起居注の説に至っても、また専ら甲子を例として起こす。およそ事を記す方法はこれを越えるものはない。

原文近世論史者,莫過於日暦,日暦者,史之根柢也。自唐長壽中,史官姚璹奏請撰時政記,元和中,韋執誼又奏撰日暦。日暦以事系日,以日系月,以月系時,以時系年,猶有《春秋》遺意。至於起居注之説,亦專以甲子起例,蓋紀事之法無逾此也。

かつて宋は史事を極めて重んじ、日暦の修纂には、諸司が必ず関白した。例えば詔誥は三省が必ず記し、兵機・辺務は枢密院が必ず報告し、百官の進退、刑賞の予奪、台諫の論列、給事中・中書舎人の封駁、経筵の論答、臣僚の転対、侍従の直前啓事、中外の封書・投函による上奏、下は銭穀・甲兵・獄訟・造作に至るまで、政体に関わるものはすべて、日を追って記録した。なお、それが吏の文書から出たものであることを憂え、あるいは誤りや失漏があるのを恐れた。故に欧陽修が宰相に監修させ、歳末に修撰官の日々記録した事を点検し、職を失うものがあればこれを罰するよう奏請した。このようにすれば、日暦は誤りや失漏に至らず、後日に会要の修纂はこれにより取り、実録の修纂はこれにより取り、百年の後に紀・志・列伝はこれにより取る。これが宋の史が精確である所以である。

原文往宋極重史事,日暦之修,諸司必關白。如詔誥則三省必書,兵機邊務則樞司必報,百官之進退,刑賞之予奪,台諫之論列,給舍之繳駁,經筵之論答,臣僚之轉對,侍從之直前啓事,中外之囊封匭奏,下至錢穀、甲兵、獄訟、造作,凡有關政體者,無不隨日以録。猶患其出於吏牘,或有訛失。故歐陽修奏請宰相監修者,於歳終檢點修撰官日所録事,有失職者罰之。如此,則日暦不至訛失,他時會要之修取於此,實録之修取於此,百年之後紀、志、列傳取於此,此宋氏之史所以爲精確也。

元朝はそうではなかった。日暦を置かず、起居注を置かず、ただ中書省に時政科を置き、一文學掾を遣わしてこれを掌らせ、事を史館に付した。一帝が崩ずると、国史院が付されたものに拠って実録を修するのみであった。その史事に対する態度は、まことに甚だ疎略であった。幸い天暦年間に虞集が六典の法にならい、『経世大典』を纂し、一代の典章文物がおおよそ備わった。

原文元朝則不然,不置日暦,不置起居注,獨中書置時政科,遣一文學掾掌之,以事付史館。及一帝崩,則國史院據所付修實録而已。其於史事,固甚疎略。幸而天歴間虞集仿六典法,纂《經世大典》,一代典章文物粗備。

このため以前の史局では、十三朝の実録があり、またこの書があって参稽することができ、かつ一時の纂修諸公、胡仲申・陶中立・趙伯友・趙子常・徐大年らは皆史才・史學があり、速やかに書を成した。順帝三十六年の事に至っては、実録として拠るべきものがなく、また参稽すべき書もなく、ただ採訪に憑ってこれを足し成すのみである。ひそかに恐れるのは、事必ずしも核実せず、言必ずしも順当でなく、首尾必ずしも貫通しないであろうということである。かつての数公は、あるいは官を受け、あるいは山に還り、またそれぞれ散り去った。今、才能なく病の多い私のような者に後を継がせようとする。私がたとえあなたの期待に副おうと望んでも、どうしてできようか。謹んで状を左右に奉り、憐れみ察することを乞う。

原文是以前局之史,既有十三朝實録,又有此書可以參稽,而一時纂修諸公,如胡仲申、陶中立、趙伯友、趙子常、徐大年輩皆有史才史學,{廠堇}而成書。至若順帝三十六年之事,既無實録可據,又無參稽之書,惟憑採訪以足成之,竊恐事未必核也,言未必馴也,首尾未必穿貫也。而向之數公,或受官,或還山,復各散去。乃欲以不材多病如僕者承之於後,僕雖欲仰副執事之望,曷以哉!謹奉狀左右,乞賜矜察。

一夔はついに赴かなかった。間もなく、推薦により杭州教授を代行した。召されて『大明日暦』の修纂に当たり、書が完成すると、翰林院の官に任じようとしたが、足疾を理由に辞し、文綺を賜って帰還させた。

原文一夔遂不至。未幾,用薦署杭州教授。召修《大明日暦》,書成,將授翰林院官,以足疾辭,賜文綺遣還。

趙撝謙

原文趙撝謙

趙撝謙、名は古則、名を改めて謙とす、余姚の人。幼くして孤貧となり、山寺に寄食し、硃右・謝肅・徐一夔らと文字の交わりを結んだ。天台の鄭四表は『易』に通じたので、これに従って『易』を受けた。定海の樂良・鄞の鄭眞は『春秋』に明るく、山陰の趙俶は『詩』を説くことに長じ、迮雨は楽府に優れ、広陵の張昱は歌詩に巧みで、無為の呉志淳・華亭の硃芾は草書・篆隸に巧みであった。撝謙はことごとくこれらと友となった。『六経』・百家の学を博く究め、特に六書に精しく、『六書本義』を作り、また『聲音文字通』を作った。当時、考古先生と目された。洪武十二年、詞臣に命じて『正韻』を修めさせた。撝謙は二十八歳で招聘に応じて京師に入り、中都国子監典簿に任ぜられた。久しくして、推薦により召されて瓊山県学教諭となった。二十八年、番禺で卒した。その後、門人の柴欽、字は広敬、庶吉士として『永楽大典』の修纂に参与し、進言してその師の撰した『聲音文字通』を採録すべきとし、ついに命を受けて駅伝を馳せ、その家に赴いてこれを取った。

原文趙撝謙,名古則,更名謙,余姚人。幼孤貧,寄食山寺,與硃右、謝肅、徐一夔輩定文字交。天台鄭四表善《易》,則從之受《易》。定海樂良、鄞鄭眞明《春秋》,山陰趙俶長於説《詩》,迮雨善樂府,廣陵張昱工歌詩,無爲呉志淳、華亭硃芾工草書篆隸,捴謙悉與爲友。博究《六經》、百氏之學,尤精六書,作《六書本義》,復作《聲音文字通》,時目爲考古先生。洪武十二年命詞臣修《正韻》,捴謙年二十有八,應聘入京師,授中都國子監典簿。久之,以薦召爲瓊山縣學教諭。二十八年,卒於番禺。其後,門人柴欽,字廣敬,以庶吉士與修《永樂大典》,進言其師所撰《聲音文字通》當採録,遂奉命馳傳,即其家取之。

附 樂良

原文附 樂良

樂良、字は季本。迮雨、字は士霖。趙俶、字は本初。洪武年間、国子監博士の官にあった。年老いて帰郷を乞い、翰林待制を加えられた。

原文樂良,字季本。迮雨,字士霖。趙俶,字本初。洪武中,官國子監博士。以年老乞歸,加翰林待制。

附 張昱

原文附 張昱

張昱、字は光弼、廬陵の人。元に仕え、江浙行省左・右司員外郎、行樞密院判官となった。西湖の寿安坊に留まり住み、貧しくて屋根を葺くことができず、酒席で瞿佑に自作の詩を誦して笑い、「我が死して骨を湖上に埋め、詩人張員外の墓と題すれば足りる」と言った。太祖が召し出して京に至らせ、その老いを憐れみ、「閑かにすべし」と言い、厚く賜物を与えて帰還させた。そこで自ら可閒老人と号した。八十三歳で卒した。

原文張昱,字光弼,廬陵人。仕元,爲江浙行省左、右司員外郎,行樞密院判官。留居西湖壽安坊,貧無以葺廬,酒間爲瞿佑誦所作詩,笑曰:「我死埋骨湖上,題曰詩人張員外墓足矣。」太祖征至京,憫其老,曰「可閒矣」,厚賜遣還,乃自號可閒老人。年八十三卒。

附 呉志淳

原文附 呉志淳

呉志淳は、字を主一といい、元末に靖安・都昌の二県の知事を務めた。待制翰林に任ぜられようとしたが、権勢ある者に阻まれ、鄞に避兵した。

原文呉志淳,字主一,元末知靖安、都昌二縣。奏除待制翰林,爲權幸所阻,避兵於鄞。

附 朱芾

原文附 朱芾

朱芾は、字を孟辨といい、洪武初年に編修の官となり、後に中書舎人に改任された。

原文朱芾,字孟辨,洪武初,官編修,改中書舍人。

陶宗儀

原文陶宗儀

陶宗儀は、字を九成といい、黄岩の人である。父の煜は、元の福建・江西行枢密院都事であった。宗儀は若くして役人試験を受けたが、一度落第するとすぐに捨て去り、古学に努め、あらゆる書物を渉猟した。浙東・浙西に出遊し、張翥・李孝光・杜本に師事した。詩文を作ると、いずれも程合いがあり、特に字学に心を砕き、母方の叔父趙雍の篆法を習った。浙の帥泰不華や南台御史の醜驢が行人に推挙し、また教官に辟召したが、いずれも就任しなかった。張士誠が呉を占拠すると、軍諮に任命したが、これも赴任しなかった。洪武四年に天下の儒士を徴する詔があり、六年に役所に人材を推挙させたが、いずれも宗儀に及んだが、病気を理由に赴任しなかった。晩年、役所から教官として招聘されたが、彼の志ではなかった。二十九年に諸生を率いて礼部の試験に赴き、『大誥』を読み、鈔を賜わって帰り、久しくして卒した。著書に『輟耕録』三十巻があり、また『説郛』・『書史会要』・『四書備遺』を編纂し、ともに世に伝わった。

原文陶宗儀,字九成,黃岩人。父煜,元福建、江西行樞密院都事。宗儀少試有司,一不中即棄去,務古學,無所不窺。出遊浙東、西,師事張翥、李孝光、杜本。爲詩文,咸有程度,尤刻志字學,習舅氏趙雍篆法。浙帥泰不華、南台御史醜驢舉爲行人,又辟爲教官,皆不就。張士誠據呉,署爲軍諮,亦不赴。洪武四年詔征天下儒士,六年命有司舉人才,皆及宗儀,引疾不赴。晩歳,有司聘爲教官,非其志也。二十九年率諸生赴禮部試,讀《大誥》,賜鈔歸,久之卒。所著有《輟耕録》三十巻,又葺《説郛》、《書史會要》、《四書備遺》,並傳於世。

附 顧德輝

原文附 顧德輝

顧徳輝は、字を仲瑛といい、崑山の人である。家は代々裕福で、財を軽んじて客を結び、豪放で自らを喜んだ。三十歳にして初めて節を折って読書に励み、古書・名画・彝鼎・秘玩を購い、茜涇の西に別荘を築き、玉山佳処と称し、朝夕客とともに酒を置き詩を賦した。四方の文学士である河東の張翥・会稽の楊維楨・天台の柯九思・永嘉の李孝光、方外の士である張雨・於彦・成琦・元璞らが、みなその家に寄寓した。園池亭榭の壮麗さ、図書の豊富さ、および食客や声伎は、ともに一時に冠絶した。そして徳輝の才情は妙麗で、諸名士とほぼ匹敵した。かつて茂才に挙げられ、会稽教諭に任ぜられ、行省の属官に辟召されたが、いずれも就任しなかった。張士誠が呉を占拠し、強いて官に就かせようとしたので、去って嘉興の合渓に隠れた。まもなく子の元臣が元の水軍副都万戸となったため、徳輝は武略将軍・飛騎尉・銭塘県男に封ぜられた。母の喪で綽渓に帰ると、士誠が再び辟召したので、ついに髪を断ち墓側に廬して、自ら金粟道人と号した。呉が平定されると、父子ともに濠梁に移された。洪武二年に卒した。士誠が呉を占拠したとき、かなり知名の士を収召し、東南の士で呉に避兵した者はこれに依った。

原文顧德輝,字仲瑛,崑山人。家世素封,輕財結客,豪宕自喜。年三十,始折節讀書,購古書、名畫、彝鼎、秘玩,築別業於茜涇西,曰玉山佳處,晨夕與客置酒賦詩其中。四方文學士河東張翥、會稽楊維楨、天台柯九思、永嘉李孝光,方外士張雨、於彦、成琦、元璞輩,咸主其家。園池亭榭之盛,圖史之富暨餼館聲伎,並冠絶一時。而德輝才情妙麗,與諸名士亦略相當。嘗舉茂才,授會稽教諭,辟行省屬官,皆不就。張士誠據呉,欲強以官,去隱於嘉興之合溪。尋以子元臣爲元水軍副都萬戸,封德輝武略將軍、飛騎尉、錢塘縣男。母喪歸綽溪,士誠再辟之,遂斷髮廬墓,自號金粟道人。及呉平,父子並徙濠梁。洪武二年卒。士誠之據呉也,頗收召知名士,東南士避兵於呉者依焉。

附 孫作

原文附 孫作

孫作は、字を大雅といい、江陰の人である。文章は醇正典雅で、動くごとに拠り所があった。かつて十二篇の書を著し、『東家子』と号し、宋濂が『東家子伝』を作った。元末、家族を連れて呉に避兵し、他の物はすべて捨て、ただ書物を二つの籠に載せただけだった。士誠が禄を与えたが、すぐに母の病気を理由に辞去し、松江に客寓し、人々が田を買い家を築いて住まわせた。洪武六年に『大明日暦』の編修を招聘され、翰林編修を授けられたが、太平府教授に改めるよう願い出た。国子助教に召され、まもなく中都に分教し、一年余りして国子監に戻り、司業に抜擢されたが、帰郷して家で卒した。

原文孫作,字大雅,江陰人。爲文醇正典雅,動有據依。嘗著書十二篇,號《東家子》,宋濂爲作《東家子傳》。元季,挈家避兵於呉,盡棄他物,獨載書兩簏。士誠廩祿之,旋以母病謝去,客松江,衆爲買田築室居焉。洪武六年聘修《大明日暦》,授翰林編修,乞改太平府教授。召爲國子助教,尋分教中都,逾年還國學,抉授司業,歸卒於家。

附 張憲

原文附 張憲

元末の文人は最も盛んで、詞学で知名な者には、さらに張憲・周砥・高明・藍仁らがいた。

原文元末文人最盛,其以詞學知名者,又有張憲、周砥、髙明、藍仁之屬。

張憲は、字を思廉といい、山陰の人である。楊維楨に詩を学び、最もその称賛を受けた。才気に任せて放縦で、かつて京師に走り、天下の事を恣に語り、人々はその狂気に驚いた。帰って富春山に入り、僧侶に混じって自らを放った。ある日、高所に登って親しい者を呼び、「禍が至った、急いで去れ」と言った。三日後に賊が来て、五百家が死んだ。後に張士誠に仕え、枢密院都事となった。呉が平定されると、姓名を変え、杭州の報国寺に寄食して没した。

原文張憲,字思廉,山陰人。學詩於楊維楨,最爲所許。負才不羈,嘗走京師,恣言天下事,衆駭其狂。還入富春山,混緇流以自放。一日,升髙呼所親,語曰:「禍至矣,亟去!」三日而寇至,死者五百家。後仕張士誠,爲樞密院都事。呉平,變姓名,寄食杭州報國寺以歿。

附 周砥

原文附 周砥

周砥は、字を履道といい、呉の人で、無錫に寓居した。博学で文詞に巧みで、宜興の馬治と親しく、乱に遭って馬治の家に客寓した。馬治が舟車を整え、陽羡の山渓の勝景をことごとく窮めた。その郷には富人が多く、馬治と親しい者はみな酒を設けて周砥を招いた。周砥は内心これを厭い、ある日馬治に別れの手紙を送り、夜半に遁去し、会稽に遊び、兵乱で没した。馬治は、字を孝常といい、やはり詩ができた。洪武時に内丘知県となり、建昌知府で終わった。

原文周砥,字履道,呉人,僑無錫。博學工文詞,與宜興馬治善,遭亂客治家,治爲具舟車,盡窮陽羡山溪之勝。其鄕多富人,與治善者咸置酒招砥。砥心厭之,一日貽書別治,夜半遁去,游會稽,歿於兵。治,字孝常,亦能詩。洪武時爲内丘知縣,終建昌知府。

附 高明

原文附 髙明

高明、字は則誠、永嘉の人。至正五年の進士、処州録事に授けられ、行省掾に辟せられる。方国珍叛くや、省臣は明が海浜の事に諳んずるを以て、自ら従うに択び、事を論じて合わず。及び国珍撫に就くや、幕下に留置せんと欲す、即日官を解き、旅寓して鄞の櫟社に寓す。太祖その名を聞き、之を召す、老疾を以て辞し、還りて家に卒す。

原文髙明,字則誠,永嘉人。至正五年進士,授處州録事,辟行省掾。方國珍叛,省臣以明諳海濱事,擇以自從,與論事不合。及國珍就撫,欲留置幕下,即日解官,旅寓鄞之櫟社。太祖聞其名,召之,以老疾辭,還卒於家。

附 藍仁

原文附 藍仁

藍仁、字は靜之。弟の智、字は明之、崇安の人。元の時、淸江の杜本武夷に隠れ、古学を崇尚す、仁兄弟倶に往きて之に師事し、四明の任士林の詩法を授けられ、乃ち科挙を謝し、一意に詩を爲す。後に武夷書院山長に辟せられ、邵武尉に遷るも、赴かず。内附の後、例に徙って濠梁に移され、数月にして放帰し、卒す。智は、洪武十年に薦挙され、起家して広西僉事となり、廉の声著し。

原文藍仁,字靜之。弟智,字明之,崇安人。元時,淸江杜本隱武夷,崇尚古學,仁兄弟倶往師之,授以四明任士林詩法,遂謝科舉,一意爲詩。後辟武夷書院山長,遷邵武尉,不赴。内附後,例徙濠梁,數月放歸,卒。智,洪武十年被薦,起家廣西僉事,著廉聲。

袁凱

原文袁凱

袁凱、字は景文、松江華亭の人。元末府吏と爲り、博学にして才弁あり、議論飆発し、往々座人を屈す。洪武三年に薦挙され御史に授けらる。武臣功を恃み驕恣し、罪を得る者漸く衆し、凱上言す「諸将は兵事に習うも、君臣の礼に悉からざるを恐る。都督府に通経学古の士を延べ、諸武臣をして都堂に赴かしめて講を聴かしめ、庶くは族を保ち身を全うするの道を得んことを請う」と。帝は臺省に勅し名士を延べて午門に直らしめ、諸将の爲に書を説かしむ。後に帝囚を慮るを畢え、凱を命じて皇太子に送り覆訊せしむ、矜減する所多し。凱還りて報ず、帝問う「朕と太子と孰れか是なる」と。凱頓首して言う「陛下は法の正、東宮は心の慈」と。帝は凱の老猾にして両端を持つを以て、之を悪む。凱懼れ、狂を佯い免れ、告帰し、久しくして寿を以て終わる。凱は詩に工にして、盛名あり。性詼諧、自ら海叟と号す。背に烏巾を戴き、倒に黒牛に騎り、九峰の間に遊行し、好事者遂に図を繪す。初め、楊維楨の座に在り、客の賦する所の『白燕詩』を出だす、凱微笑し、別に一篇を作りて以て献ず。維楨大いに驚賞し、遍く座客に示す、人遂に袁白燕と呼ぶ。

原文袁凱,字景文,松江華亭人。元末爲府吏,博學有才辨,議論飆發,往往屈座人。洪武三年薦授御史。武臣恃功驕恣,得罪者漸衆,凱上言:「諸將習兵事,恐未悉君臣禮。請於都督府延通經學古之士,令諸武臣赴都堂聽講,庶得保族全身之道。」帝敕臺省延名士直午門,爲諸將説書。後帝慮囚畢,命凱送皇太子覆訊,多所矜減。凱還報,帝問「朕與太子孰是?」凱頓首言:「陛下法之正,東宮心之慈。」帝以凱老猾持兩端,惡之。凱懼,佯狂免,告歸,久之以壽終。凱工詩,有盛名。性詼諧,自號海叟。背戴烏巾,倒騎黑牛,遊行九峰間,好事者至繪爲圖。初,在楊維楨座,客出所賦《白燕詩》,凱微笑,別作一篇以獻。維楨大驚賞,遍示座客,人遂呼袁白燕雲。

高啓

原文髙啓

高啓、字は季迪、長洲の人。博学にして詩に工む。張士誠呉に據る、啓は外家に依り、呉淞江の青丘に居す。洪武初め、薦挙され、同県の謝徽と偕に召されて『元史』を修め、翰林院国史編修官に授けられ、覆命して諸王を教授す。三年秋、帝闕楼に御す、啓・徽倶に入り対し、啓を戸部右侍郎に擢げ、徽を吏部郎中とす。啓自ら陳べて年少にして重任に敢て当たらずとし、徽も亦固く辞す、乃ち許さる。已にして、並びに白金を賜い放還す。啓嘗て詩を賦し、諷刺する所有り、帝之を嗛みて未だ発せず。及び帰り、青丘に居し、書を授けて自ら給す。知府魏観其の家を郡中に移し、旦夕延見し、甚だ歓ぶ。観府治を改修するを以て、譴を獲る。帝啓の作る所の上梁文を見、因りて怒を発し、市に腰斬す、年三十九。明初、呉下詩人多し、啓と楊基・張羽・徐賁と四傑と称し、以て唐の王・楊・盧・駱に配す。

原文髙啓,字季迪,長洲人。博學工詩。張士誠據呉,啓依外家,居呉淞江之靑丘。洪武初,被薦,偕同縣謝徽召修《元史》,授翰林院國史編修官,覆命教授諸王。三年秋,帝御闕樓,啓、徽倶入對,擢啓戸部右侍郎,徽吏部郎中。啓自陳年少不敢當重任,徽亦固辭,乃見許。已,並賜白金放還。啓嘗賦詩,有所諷刺,帝嗛之未發也。及歸,居靑丘,授書自給。知府魏觀爲移其家郡中,旦夕延見,甚歡。觀以改修府治,獲譴。帝見啓所作上梁文,因發怒,腰斬於市,年三十有九。明初,呉下多詩人,啓與楊基、張羽、徐賁稱四傑,以配唐王、楊、盧、駱云。

附 楊基

原文附 楊基

基、字は孟載、其の先は蜀の嘉州の人、祖呉中に宦し、基を生み、遂に家す。九歳にして『六経』を背誦し、長ずるに及び書十万余言を著し、名づけて『論鑒』と曰う。乱に遭い、呉の赤山に隠る。張士誠辟して丞相府記室と爲す、未幾辞去し、饒介の所に客す。明師平江を下す、基は饒氏の客を以て臨濠に安置され、旋ち河南に徙る。洪武二年放帰す。尋ち起ちて滎陽知県と爲り、鐘離に謫居す。薦挙されて江西行省幕官と爲るも、省臣の罪を得るを以て、落職す。六年官を起し、湖広に奉使す。召還され、兵部員外郎に授けられ、山西副使に遷る。按察使に進み、讒せられて官を奪われ、謫せられて輸作し、竟に工所に卒す。初め、会稽の楊維楨呉中に客し、詩を以て自ら豪とす。基座上に於て『鉄笛歌』を賦す、維楨驚喜し、倶に東し、従游する者に語りて曰く「吾呉に在りて、又た一鉄を得たり。若曹之に就きて学べ。老鉄の学に優れり」と。

原文基,字孟載,其先蜀嘉州人,祖宦呉中,生基,遂家焉。九歳背誦《六經》,及長著書十萬余言,名曰《論鑒》。遭亂,隱呉之赤山。張士誠辟爲丞相府記室,未幾辭去,客饒介所。明師下平江,基以饒氏客安置臨濠,旋徙河南。洪武二年放歸。尋起爲滎陽知縣,謫居鐘離。被薦爲江西行省幕官,以省臣得罪,落職。六年起官,奉使湖廣。召還,授兵部員外郎,遷山西副使。進按察使,被讒奪官,謫輸作,竟卒於工所。初,會稽楊維楨客呉中,以詩自豪。基於座上賦《鐵笛歌》,維楨驚喜,與倶東,語從游者曰:「吾在呉,又得一鐵矣。若曹就之學。優於老鐵學也。」

附 張羽

原文附 張羽

張羽、字は來儀、後に字を以て行る、本潯陽の人。父に従い江浙に宦し、兵に阻まれて帰ることを獲ず、友の徐賁と約し、呉興に卜居す。郷薦を領し、安定書院山長と爲り、再び呉に徙る。洪武四年征されて京師に至るも、応対旨に称せず、放還さる。再征されて太常司丞に授けらる。太祖其の文を重んじ、十六年自ら滁陽王の事を述べ、羽を命じて廟碑を撰せしむ。尋ち事に坐して嶺南に竄せられ、半道に至らず、召還さる。羽自ら免れざるを知り、龍江に投じて死す。羽の文章は精潔にして法あり、尤も詩に長じ、画を作るに小米に師す。

原文張羽,字來儀,後以字行,本潯陽人。從父宦江浙,兵阻不獲歸,與友徐賁約,卜居呉興。領鄕薦,爲安定書院山長,再徙於呉。洪武四年征至京師,應對不稱旨,放還。再征授太常司丞。太祖重其文,十六年自述滁陽王事,命羽撰廟碑。尋坐事竄嶺南,未半道,召還。羽自知不免,投龍江以死。羽文章精潔有法,尤長於詩,作畫師小米。

附 徐賁

原文附 徐賁

徐賁、字は幼文、其の先は蜀の人、常州に徙り、再び平江に徙る。詩に工み、山水を善く画く。張士誠辟して属と爲すも、已に謝去す。呉平らぎ、謫せられて臨濠に徙る。洪武七年薦挙されて京に至る。九年春、晋・冀に奉使し、廉訪する所有り。還るに及び、其の橐を検するに、惟だ紀行詩数首のみ、太祖悦び、給事中に授く。御史に改め、広東を巡按す。又た刑部主事に改め、広西参議に遷る。政績卓異を以て、河南左布政使に擢げらる。大軍洮・岷を征し、其の境を道す、犒労時ならざるに坐し、獄に下りて瘐死す。

原文徐賁,字幼文,其先蜀人,徙常州,再徙平江。工詩,善畫山水。張士誠辟爲屬,已謝去。呉平,謫徙臨濠。洪武七年被薦至京。九年春,奉使晉、冀,有所廉訪。暨還,檢其橐,惟紀行詩數首,太祖悅,授給事中。改御史,巡按廣東。又改刑部主事,遷廣西參議。以政績卓異,擢河南左布政使。大軍征洮、岷,道其境,坐犒勞不時,下獄瘐死。

王行

原文王行

王行、字は止仲、呉県の人。幼時に父に従い薬売りの徐翁の家に寄寓し、徐媼は稗官小説を聴くことを好み、行は日に数冊を記し、媼のためにこれを誦した。媼は喜び、翁に言い、『論語』を授けると、翌日には悉く暗誦した。翁は大いにこれを異とし、家にある書を全て読ませ、遂に経史百家の言を淹く貫通した。未だ弱冠に至らず、辞去し、斉門で徒を授け、名士は皆これと交わった。富人沈萬三がこれを家塾に招き、文が成る毎に白金鎰を計って酬いたが、行は輒ちこれを麾き去って曰く、「富にして守るべきものならば、然臍の惨は及ばなかったであろう」と。洪武初め、有司がこれを学校の師として招いた。已にして辞去し、石湖に隠れた。その二子が京に役せられ、行はこれを見舞いに行き、涼国公藍玉が家に館した。数たび太祖にこれを薦め、召見を得た。後に玉が誅せられ、行父子もまた連座して死した。

原文王行,字止仲,呉縣人。幼隨父依賣藥徐翁家,徐媼好聽稗官小説,行日記數本,爲媼誦之。媼喜,言於翁,授以《論語》,明日悉成誦。翁大異之,俾盡讀家所有書,遂淹貫經史百家言。未弱冠,謝去,授徒齊門,名士咸與交。富人沈萬三延之家塾,毎文成,酬白金鎰計,行輒麾去曰:「使富而可守,則然臍之慘不及矣。」洪武初,有司延爲學校師。已,謝去,隱於石湖。其二子役於京,行往視之,涼國公藍玉館於家,數薦之太祖,得召見。後玉誅,行父子亦坐死。

初め呉中で兵を用いるに当たり、所在多く砲石を列べて自らを固め、行は知る者に私語して曰く、「兵法に柔よく剛を制すとある。もし大竹を地に植え、その端に布を繫ぎ、砲石至れば、布これに随いて低昂すれば、人は害すること能わず、而して砲石用いるところ無からん」と。後に常遇春が平江を取るに、果たしてその法の如くであった。行もまた自ら兵を知ることを負い、以て禍に及んだという。

原文始呉中用兵,所在多列砲石自固,行私語所知曰:「兵法柔能制剛,若植大竹於地,系布其端,砲石至,布隨之低昂,則人不能害,而砲石無所用矣。」後常遇春取平江,果如其法。行亦自負知兵,以及於禍雲。

初め、高啓が北郭に家し、行と隣り合い、徐賁、高遜志、唐肅、宋克、余堯臣、張羽、呂敏、陳則は皆近くに居を卜し、北郭十友と号し、また十才子と称した。啓、賁、遜志、羽は自ら伝有り。

原文初,髙啓家北郭,與行比鄰,徐賁、髙遜志、唐肅、宋克、余堯臣、張羽、呂敏、陳則皆卜居相近,號北郭十友,又稱十才子。啓、賁、遜志、羽自有傳。

附 唐肅

原文附 唐肅

唐肅、字は処敬、越州山陰の人。経史に通じ、兼ねて陰陽、医卜、書数を習う。少時に上虞の謝肅と斉名し、会稽二肅と称された。至正壬寅に郷試に挙げられた。張士誠の時、杭州黄岡書院の山長となり、嘉興路儒学正に遷った。士誠敗れ、例に赴京した。尋いで父喪に遭い還る。洪武三年、薦めにより召されて礼楽書を修め、応奉翰林文字に擢げられた。その秋、科挙行われ、分考官となり、免じて帰る。六年、濠梁に佃として謫せられ、卒した。子の之淳、字は愚士、宋濂が亟にこれを称した。建文二年、方孝孺の薦めにより用いられ、翰林侍読に擢げられ、孝孺と共に修書事を領し、官に卒した。

原文唐肅,字處敬,越州山陰人。通經史,兼習陰陽、醫卜、書數。少與上虞謝肅齊名,稱會稽二肅。至正壬寅舉鄕試。張士誠時,爲杭州黃岡書院山長,遷嘉興路儒學正。士誠敗,例赴京。尋以父喪還。洪武三年用薦召修禮樂書,擢應奉翰林文字。其秋,科舉行,爲分考官,免歸。六年謫佃濠梁,卒。子之淳,字愚士,宋濂亟稱之。建文二年,用方孝孺薦,擢翰林侍讀,與孝孺共領修書事,卒於官。

附 謝肅

原文附 謝肅

謝肅、官は福建僉事に至り、事に坐して死す。

原文謝肅,官至福建僉事,坐事死。

附 宋克

原文附 宋克

宋克、字は仲温、長洲の人。躯幹偉く、書史に博く渉る。少時は任侠をなし、剣を学び馬を走らすを好み、家は素より饒かで、客を結び飲み博す。壮に迨うと、酒徒を謝し、兵法を学ぶが、周流して遇う所無く、益々気を以て自ら豪とした。張士誠がこれを羅致せんと欲したが、就かず。性抗直にして、人と議論するに必ず勝つを期し、古を援き今を切る、人これを難ずる能わず。門を杜して翰を染め、日に十紙を費やし、遂に善書を以て天下に名を知られた。時に宋広有り、字は昌裔、また草書に善く、二宋と称された。洪武初め、克は鳳翔同知に任じ、卒した。

原文宋克,字仲温,長洲人。偉軀幹,博渉書史。少任俠,好學劍走馬,家素饒,結客飲博。迨壯,謝酒徒,學兵法,周流無所遇,益以氣自豪。張士誠欲羅致之,不就。性抗直,與人議論期必勝,援古切今,人莫能難也。杜門染翰,日費十紙,遂以善書名天下。時有宋廣,字昌裔,亦善草書,稱二宋。洪武初,克任鳳翔同知,卒。

附 余堯臣

原文附 余堯臣

堯臣、字は唐卿、永嘉の人。呉に入り、士誠の客となる。城破れ、例に濠梁に徙る。洪武二年放還され、新鄭丞を授かる。

原文堯臣,字唐卿,永嘉人。入呉,爲士誠客。城破,例徙濠梁。洪武二年放還,授新鄭丞。

附 呂敏

原文附 呂敏

呂敏、字は志学、無錫の人。元の時は道士となり、洪武初め、無錫教諭に官す。十三年に人才に挙げられるが、その官の終わる所を知らず。

原文呂敏,字志學,無錫人。元時爲道士,洪武初,官無錫教諭。十三年舉人才,不知其官所終。

附 陳則

原文附 陳則

陳則、字は文度、崑山の人。洪武六年秀才に挙げられ、応天府治中を授かる。俄かに戸部侍郎に擢げられ、戸口を閲実することを以て、出でて大同府同知となり、進んで知府となる。

原文陳則,字文度,崑山人。洪武六年舉秀才,授應天府治中。俄擢戸部侍郎,以閲實戸口,出爲大同府同知,進知府。

孫蕡

原文孫蕡

孫蕡、字は仲衍、広東順徳の人である。性質は機敏で、書物で読まぬものはなかった。詩文は筆を執ればたちまち出来上がり、詞采は爛然としていた。節概を重んじ、交遊を妄りにしなかった。何真が嶺南を拠点とし、府を開いて士人を招いたとき、王佐・趙介・李徳・黄哲とともに礼遇を受け、五先生と称された。廖永忠が南征したとき、孫蕡は何真のために降表を草し、永忠は彼を招いて教事を掌らせた。洪武三年に初めて科挙が行われ、孫蕡はこれに選ばれ、工部織染局使に任じられ、虹県主簿に転じた。兵火の後、孫蕡は労来安輯に努め、民の多くが旧業に復した。一年在任して、召されて翰林典籍となり、『洪武正韻』の編修に参与した。九年に四川に遣わされて祭祀を監した。久しく居て、出て平原主簿となった。連座して捕らえられ、京師の望都門の城垣を築かせられた。孫蕡が粤の声で歌吟したところ、主管者がこれを奏上した。召見され、歌った詩を誦するよう命じられ、その言葉はすべて忠愛に満ちていたので、釈放された。十五年、起用されて蘇州経歴となり、また連座して遼東に戍せられた。後に、藍玉の党与を大いに処罰する事件があり、孫蕡はかつて藍玉のために画に題したことがあったため、ついに死罪と論ぜられた。刑に臨み、詩を作り長く歌って逝った。時に門下の黎貞もまた遼東に戍せられており、孫蕡の屍体はようやく収斂することができた。黎貞、字は彦晦、新会の人である。詩文に巧みで、かつて本邑の訓導となり、事に坐して誣えられ、遼陽に十八年戍せられ、従って遊ぶ者が甚だ多かった。放還されて卒した。孫蕡の著したものに、『通鑑前編綱目』・『孝経集善』・『理学訓蒙』および『西菴集』・『和陶集』があり、多くは散佚して伝わらない。番禺の趙純は、彼が天人性命の理を究極し、一時の儒宗であったと称えている。

原文孫蕡,字仲衍,廣東順德人。性警敏,書無所不窺。詩文援筆立就,词采爛然。負節概,不妄交游。何眞據嶺南,開府辟士,與王佐、趙介、李德、黃哲並受禮遇,稱五先生。廖永忠南征,蕡爲眞草降表,永忠辟典教事。洪武三年始行科舉,蕡與其選,授工部織染局使,遷虹縣主簿。兵燹後,蕡勞徠安輯,民多復業。居一年,召爲翰林典籍,與修《洪武正韻》。九年遣監祀四川。居久之,出爲平原主簿。坐累逮系,俾築京師望都門城垣。蕡謳唫爲粵聲,主者以奏。召見,命誦所歌詩,語皆忠愛,乃釋之。十五年起爲蘇州經歴,復坐累戍遼東。已,大治藍玉黨,蕡嘗爲玉題畫,遂論死。臨刑,作詩長謳而逝。時門生黎貞亦戍遼東,蕡屍乃得收斂。貞,字彦晦,新會人。工詩文,嘗爲本邑訓導,以事被誣,戍遼陽十八年,從游者甚衆。放還卒。蕡所著,有《通鑑前編綱目》、《孝經集善》、《理學訓蒙》及《西菴集》、《和陶集》,多佚不傳。番禺趙純稱其究極天人性命之理,爲一時儒宗云。

附 王佐

原文附 王佐

王佐、字は彦挙、もとは河東の人であったが、元末に父の官に従って南雄に至り、乱に遭って帰ることができず、ついに南海に籍を置いた。孫蕡と詩社を結んだ。構辞の敏捷さは王佐は孫蕡に及ばなかったが、句意の沈着さは孫蕡も王佐に及ばなかった。何真は王佐を使って書記を掌らせ、謀議ぼうぎに参与させた。何真が朝廷に帰順すると、王佐もまた郷里に帰った。洪武六年に推薦され、征召されて給事中となった。太祖が宋濂に黄馬を賜り、さらに歌を作り、侍臣に和するよう命じたところ、王佐はたちまちに成した。性質として枢要の職を好まず、告帰しようとした。当時、告帰する者の多くが重い譴責を受けたので、ある人がこれを止めて言った、「君は少し我慢なさい、ひとり身の危険を慮らぬのか」。王佐はそこで二年間躊躇し、ついに骸骨を乞うて帰った。

原文王佐,字彦舉,先河東人,元末侍父官南雄,經亂不能歸,遂占籍南海。與蕡結詩社。構辭敏捷,佐不如蕡,句意沉著,蕡亦不如佐。何眞使佐掌書記,參謀議。眞歸朝,佐亦還里。洪武六年被薦,征爲給事中。太祖賜宋濂黃馬,復爲歌,命侍臣屬和,佐立成。性不樂樞要,將告歸。時告者多獲重譴,或尼之曰:「君少忍,獨不虞性命邪?」佐乃遲徊二年,卒乞骸歸。

附 趙介

原文附 趙介

趙介、字は伯貞、番禺の人である。六籍および釈・老の書に博通した。気性は豪邁で、仕進の志はなかった。行くときは囊を自ら携え、景物に遇えば、詩を賦してその中に投じ、日ごと西樵の泉石の間を往来した。有司が累次推薦したが、すべて辞退した。洪武二十二年、連座して捕らえられ京に赴き、南昌の舟中で卒した。四人の子、潔・絢・繹・純、皆詩文を善くし、篆隸に巧みであった。趙絢は隠居して出ず、父の風があった。趙純は御史に仕えた。

原文趙介,字伯貞,番禺人。博通六籍及釋、老書。氣豪邁,無仕進意。行以囊自隨,遇景,賦詩投其中,日往來西樵泉石間。有司累薦,皆辭免。洪武二十二年坐累逮赴京,卒於南昌舟次。四子,潔、絢、繹、純,皆善詩文,工篆隸。絢,隱居不出,有父風。純,仕御史。

附 李徳

原文附 李德

李徳、字は仲修、番禺の人である。洪武三年に明経で推薦され洛陽典史に任じられ、南陽・西安二府の幕官を歴任し、ともにその職務をよく勤めた。年老いて衰えたことを理由に漢陽教諭への改任を乞い、任期が満ちて、義寧に転じた。義寧は粤西にあり、甚だ荒廃鄙陋であったが、李徳がこれを振興し、文教は次第に興った。官を解いて帰り卒した。李徳は初め詩を作ることを好んだが、晩年は洛学・閩学を究め、誠意を古の聖哲の心要であると説いた。故に嶺南人が理学を称えるときは、必ず李仲修と言ったという。黄哲もまた番禺の人である。州郡に仕え、治行をもって称された。

原文李德,字仲修,番禺人。洪武三年以明經薦授洛陽典史,歴南陽、西安二府幕官,並能其職。以年衰乞改漢陽教諭,秩滿,調義寧。義寧在粵西,荒陋甚,德爲振舉,文教漸興,解官歸卒。德初好爲詩,晩究洛、閩之學,謂誠意爲古聖喆心要,故嶺南人稱理學,必曰李仲修雲。黃哲,亦番禺人。歴仕州郡,以治行稱。

王蒙

原文王蒙

王蒙、字は叔明、湖州の人、趙孟頫の甥である。文に敏で、規矩度数を尚ばなかった。山水画に巧みで、兼ねて人物を善くした。若い時に宮詞を賦したところ、仁和の兪友仁がこれを見て、「これは唐人の佳句である」と言い、ついに妹を妻とさせた。元末に理問の官にあったが、乱に遇い、黄鶴山に隠居し、自ら黄鶴山樵と称した。洪武初年、泰安州知州事となった。王蒙はかつて胡惟庸の私邸に謁し、会稽の郭伝や僧知聡とともに画を観た。惟庸が誅殺されると、王蒙は事に坐して捕らえられ、獄中で病死した。

原文王蒙,字叔明,湖州人,趙孟頫之甥也。敏於文,不尚榘度。工畫山水,兼善人物。少時賦宮詞,仁和兪友仁見之,曰「此唐人佳句也」,遂以妹妻焉。元末官理問,遇亂,隱居黃鶴山,自稱黃鶴山樵。洪武初,知泰安州事。蒙嘗謁胡惟庸於私第,與會稽郭傳、僧知聰觀畫。惟庸伏法,蒙坐事被逮,瘐死獄中。

附 郭伝

原文附 郭傳

郭伝、一名は正伝、字は文遠。洪武七年、帝が武楼に臨み、学士宋濂に座を賜り、言った、「天下が既に定まった今、朕は宿学の士に意を注ごうとしている。卿はその人を知っているか」。答えて言った、「会稽に郭伝という者がおります。学問に淵源があり、その文は雄贍新麗、その議論は『六経』に根拠を置く、異才でございます」。やがて宋濂がその文を持って進上すると、帝は謹身殿で召見し、翰林応奉に任じ、起居注を直らせた。兵部主事に遷り、再び考功監丞に遷り、監令に進み、出て湖広布政司参政を署した。

原文郭傳,一名正傳,字文遠。洪武七年,帝御武樓,賜學士宋濂坐,謂曰:「天下既定,朕方垂意宿學之士,卿知其人乎?」對曰:「會稽有郭傳者,學有淵源,其文雄贍新麗,其議論根據《六經》,異才也。」既而濂持其文以進,帝召見於謹身殿,授翰林應奉,直起居注。遷兵部主事,再遷考功監丞,進監令,出署湖廣布政司參政。