明の初め、文学の士は元末の虞集・柳貫・黄溍・呉萊の後に承け、師友として講究し貫通し、学問に本原があった。宋濂・王禕・方孝孺は文をもって雄と為り、高啓・楊基・張羽・徐賁・劉基・袁凱は詩をもって著しかった。その他の勝国(元)の遺逸は、風流として標映し、指を屈して数うるに遑あらず、蓋し蔚然として盛りを称せられた。永楽・宣徳以来、作者は次々に興り、皆沖融として演迤し、鉤棘を事とせず、しかして気体は漸く弱まった。弘治・正徳の間、李東陽は宋・元に出で入り、唐代に溯流し、館閣に声を擅にした。しかるに李夢陽・何景明は復古を倡言し、文は西京(前漢)より、詩は中唐より以下、一切を吐棄し、觚を操り芸を談ずるの士は翕然としてこれを宗とした。明の詩文は、ここに一変した。嘉靖の時に至り、王慎中・唐順之の輩は、文は欧陽脩・曾鞏を宗とし、詩は初唐に倣った。李攀龍・王世貞の輩は、文は秦・漢を主とし、詩は盛唐を規とした。王・李の持論は、大率夢陽・景明と相倡和するものであった。帰有光は頗る後出し、司馬遷・欧陽脩を以て自ら任じ、力んで李・何・王・李を排し、而して徐渭・湯顕祖・袁宏道・鍾惺の属も、亦各々一時に争鳴し、ここに李・何・王・李を宗とする者は稍々衰えた。啓禎(天啓・崇禎)の時に至り、銭謙益・艾南英は北宋の矩矱を準じ、張溥・陳子龍は東漢の芳華を擷み、また一変した。明一代に、文士として卓卓として表見する者は、その源流は大抵この如し。今諸家の集を博く考へ、衆論を参酌し、その著者を録し、『文苑傳』を作る。
楊維楨
楊維楨、字は廉夫、山陰の人。母の李氏、夢に月の中より金銭が懐に墜ちて、維楨を生む。少時、日に数千言を記誦す。父の宏、鉄崖山中に楼を築き、楼を繞らして梅百株を植え、書数万巻を聚め、その梯を去り、楼上に誦読せしむること五年、因って自ら鉄崖と号す。元の泰定四年に進士となり、天台尹を署し、銭清場塩司令に改む。狷直として物に忤い、十年調ぜられず。遼・金・宋三史を修するに会い成る、維楨『正統弁』千余言を著す、総裁官の欧陽玄(元功)読みて嘆じて曰く「百年の後、公論はここに定まらん」と。将にこれを薦めんとすれども果たさず、建徳路総管府推官に転ず。江西儒学提挙に擢でられしも、未だ上らず、兵乱に会い、富春山に避地し、銭塘に徙る。張士誠累ねてこれを招くも、赴かず、その弟の士信を遣わしてこれを諮訪せしむ、因って五論を撰し、書を具えて士誠に復し、順逆成敗の説を反覆して告ぐ、士誠用いる能わず。また達識丞相に忤い、松江の上に徙居す、海内の薦紳大夫と東南の才俊の士、門を造り履を納るるに虚日無し。酒酣に以往、筆墨横飛す。或いは華陽巾を戴き、羽衣を披いて船屋上に坐し、鉄笛を吹き、『梅花弄』を作る。或いは侍児を呼びて『白雪』の辞を歌わしめ、自ら鳳琶を倚りてこれに和す。賓客皆蹁躚として舞い起ち、神仙中の人と為す。
維楨の詩名は一時に擅にし、鉄崖体と号し、永嘉の李孝光・茅山の張羽・錫山の倪瓚・昆山の顧瑛と詩文の友と為り、碧桃叟の釈臻・知帰叟の釈現・清容叟の釈信と方外の友と為る。張雨その古楽府は少陵・二李の間に出入りし、曠世の金石声有りと称す。宋濂その論撰は、商の敦・周の彝を睹るが如く、雲雷文を成し、而して寒芒横免すと称す。詩は震蕩陵厲し、鬼設神施し、尤も名家と号せらる。維楨松江に徙る時、華亭の陸居仁及び僑居の銭惟善と相倡和す。
附 銭惟善
附 陸居仁
胡翰
胡翰、字は仲申、金華の人。幼くして聡穎、常児に異なり。七歳の時、道に遺金を拾い、坐して守りその人を待ちてこれを還す。長じて蘭溪の呉師道・浦江の呉萊に従い古文を学び、復た同邑の許謙の門に登る。同郡の黄溍・柳貫は文章を以て天下に名有り、翰の文を見て、口を容れずして称す。元都に游び、公卿交わりてこれを誉む。武威の余闕・宣城の貢師泰と尤も善し。或いはこれを仕うるを勧むれども応ぜず。既に帰り、天下の大乱に遭い、南華山に避地し、書を著して自ら適す。文章は宋濂・王禕と相上下す。太祖金華を下す、召見し、許元等と中書省に会食せしむ。後に侍臣復た翰を薦むる者有り、金陵に召し至る。時に方に金華の民を籍して兵と為す、翰従容として進みて曰く「金華の人多くは儒を業とし、兵を習うこと鮮し、これを籍すは、徒に餉を糜すのみ」と。太祖即ちこれを罷む。衢州教授を授く。洪武初め、聘して『元史』を修めしむ、書成り、賚を受け帰る。北山の泉石を愛し、その下に卜築し、徜徉すること十数年にして終わる、年七十有五。著す所に『春秋集義』有り、文は『胡仲子集』と曰い、詩は『長山先生集』と曰う。
蘇伯衡
蘇伯衡、字は平仲、金華の人、宋の門下侍郎蘇轍の裔なり。父の友龍、許謙の門に受業し、蕭山令、行省都事に官す。明師浙東を下す、長子の閩に仕うるに坐し、滁州に謫徙せらる。李善長これを官せんと奏すれども、力めて辞して帰る。伯衡は警敏絶倫、群籍に博洽し、古文を為して声有り。元末郷に貢す。太祖礼賢館を置く、伯衡これに与る。歳丙午(至正二十六年)用いて国子学録と為し、学正に遷る。薦められ、召見せられ、翰林編修に擢でらる。力めて辞し、省覲を乞うて帰る。洪武十年、学士の宋濂致仕す、太祖誰か代わるべき者と問う、濂対えて曰く「伯衡、臣が郷人、学博く行修まり、文詞蔚贍として法有り」と。太祖即ちこれを征し、入見せしむ、復た疾を以て辞し、衣鈔を賜いて還る。二十一年聘して会試を主せしむ、事竣りて復た辞して還る。尋ち処州教授と為り、表牋の誤りに坐し、吏に下りて死す。二子の恬・怡、父を救い、並びに刑せらる。
王冕
王冕、字は元章、諸暨の人。幼くして貧しく、父は彼に牛を飼わせたが、密かに学舎に入り、諸生の書を誦するのを聴き、暮れて帰る。牛を失い、父は怒って彼を打ったが、しばらくしてまた同じことをした。母は言った、「児はかくも愚かである。何ぞその為すところに任せざる。」冕はこれにより去って僧寺に寄り、夜は仏の膝の上に坐し、長明燈の光に映して書を読んだ。会稽の韓性はこれを聞きて異とし、弟子として録し、遂に通儒と称された。性が卒すると、門人は冕を事えること性を事えるが如くした。屡々挙に応じても中らず、棄て去り、北に燕都に遊び、秘書卿泰不花の家に客となった。館職を以て薦めんとしたが、力辞して就かず。既に帰ると、毎に大言して天下乱れんとし、妻子を携えて九里山に隠れ、梅を千株植え、桃杏をその半ばとし、自ら梅花屋主と号した。梅を画くことを善くし、求める者は踵を接して至り、幅の長短を以て得る米の差とした。嘗て『周官』に倣い書を一巻著し、曰く、「これを持して明主に遇えば、伊尹・呂尚の事業も致し難からん。」太祖が婺州を下すと、物色して之を得、幕府に置き、諮議参軍を授けたが、一夕にして病卒した。
附 郭奎
同時の郭奎・劉炳は皆早くより戎幕に参じ、詩を以て名を知られた。奎、字は子章、巣県の人。余闕に従い学び、経を治め、闕はしきりに之を称した。太祖が呉国公となると、来り帰順し、幕府に従事した。朱文正が南昌に大都督府を開くと、命じて奎をその軍事に参じさせた。文正が罪を得ると、奎は連座して誅された。
附 劉炳
炳、字は彦昺、鄱陽の人。至正年中、浙に於いて軍に従った。太祖が淮南に起つと、書を献じて事を言い、用いられて中書典籤となった。洪武初年、大都督府に従事し、出て知県となった。二度の考課を経て、病を以て帰ることを告げ、久しくして卒した。
戴良
戴良、字は叔能、浦江の人。経・史・百家及び医・卜・釈・老の説に通じた。古文を黄溍・柳貫・呉萊に学んだ。貫が卒すると、その家を経紀した。太祖が初めて金華を定めると、命じて胡翰等十二人と省中に会食せしめ、日に二人交代で経・史を講じ、治道を陳べさせた。明年、良を学正に用い、宋濂・葉儀の輩と諸生を訓えた。太祖が既に師を旋すと、良は忽ち官を棄てて逸去した。辛丑、元の順帝は推薦者の言を用い、良に江北行省儒学提挙を授けた。良は時事為すべからざるを見て、呉中に避地し、張士誠に依った。久しくして、士誠の敗れんとするを見て、家を携えて海を渡り、登州・萊州に至り、間道を行きて拡廓の軍に帰らんとしたが、道は阻まれ、昌楽に数年寓居した。洪武六年に始めて南還し、姓名を変え、四明山に隠れた。太祖が物色して之を得た。十五年に召されて京師に至り、文を以て試み、会同館に居らしめ、日に大官の膳を給し、官にしようとしたが、老病を以て固辞し、旨に忤った。明年四月に暴卒した。蓋し自裁したのであろう。元滅亡後、良と王逢のみが故主を忘れず、毎に歌詩に形し、故に遂にその死を全うせずという。良は世々金華の九霊山の下に居り、自ら九霊山人と号した。
附 王逢
逢、字は原吉、江陰の人。至正年中、『河清頌』を作り、台臣が之を薦めたが、疾を称して辞した。張士誠が呉を拠えると、その弟士徳は逢の策を用い、北に元に降って明を拒んだ。太祖が士誠を滅ぼすと、辟いて用いようとしたが、堅く臥して起たず、上海の烏涇に隠れ、歌詠して自ら楽しんだ。洪武十五年に文学を以て征され、有司が敦迫して上道させた。時に子の掖が通事司令であり、父の年高きを以て、叩頭して泣いて請うたので、乃ち吏部に命じて符を以て之を止めさせた。また六年して卒し、年七十、『梧溪詩集』七巻有り。逢は自ら席帽山人と称した。
附 丁鶴年
時にまた丁鶴年という者あり、回回の人。曾祖父の阿老丁と弟の烏馬児は皆代々商人であった。元の世祖が西域を征する時、軍に糧乏しく、老丁は策を杖って軍門に至り、全ての資財を献じた。功を論じ、京師に田宅を賜い、朝請に奉じた。烏馬児は累官して甘粛行省左丞となった。父の職馬禄丁は、世廕を以て武昌県達魯花赤となり、恵政有り、官を解き、留まって其の地に葬った。至正壬辰、武昌兵乱に遭い、鶴年年十八、母を奉じて鎮江に走った。母が歿すると、塩酪を口にせずこと五年。四明に避地した。方国珍が浙東を拠えると、最も色目人を忌み、鶴年は転徙逃匿し、童子の師となり、或いは僧舎に寄り、漿を売って自給した。海内大定するに及んで、牒を請うて武昌に還ろうとしたが、生母は既に道阻まれて先に死に、東村の廃宅中に瘞されていた。鶴年慟哭して行きて求め、母が夢に告げたので、乃ち血を齧んで骨に沁み、斂めて葬った。烏斯道が『丁孝子伝』を作った。鶴年は自ら家世元に仕えたことを以て、故国を忘れず、順帝が北遁した後、泣きを飲んで詩を賦し、情詞凄惻であった。晩年浮屠の法を学び、父の墓の傍らに廬居し、永楽年中に卒した。鶴年は学を好み聞に洽く、詩律に精しく、楚の昭王・庄王の二王皆礼敬した。正統年中、憲王がその遺文を刻して世に行った。
危素
時に乱将に亟まんとし、素は毎に得失を抗論した。十八年、中書省事に参じ、平章定住を専任して西方の兵を総べさせ、帝師を迎えて軍事を悩ますこと無くし、普顔不花を用いて参政とし、江南を経略させ、兵農宣撫使司を立てて畿内を安んじ、賢なる守令を任じて流竄の民を撫することを請うた。且つ曰く、「今日の事は、宜しく臥薪嘗胆し、力を図りて中興すべし。」尋いで御史台治書侍御史に進む。二十年、参知政事を拝し、俄かに翰林学士承旨を除かれ、出でて嶺北行省左丞となる。事を言うも報いられず、官を棄てて房山に居した。素は人となり侃直にして、数たび建白有り、敢えて事を任じた。上都の宮殿火災の時、勅して大安・睿思の二閣を重建せんとしたが、素は諫めて之を止めさせた。親しく南郊を祀り、北郊を築き、以て合祭の失を斥けることを請うた。因って進講して民間の疾苦を陳べ、詔して銭粟を発して河南・永平の民を振恤せしめた。淮南に兵乱有り、素は往きて廉問し、便宜を仮りて楮幣を発し、維揚・京口の飢を振恤した。房山に居すること四年。明師将に燕に抵らんとする時、淮王帖木児不花監国、起して承旨とすること故の如くせんとした。素が甫く至るや師入りし、乃ち其の居る報恩寺に趨り、井に入らんとした。寺僧の大梓が力めて引き起こし、曰く、「国史は公に非ざれば知る莫し。公死せば、是れ国史を死するなり。」素は遂に止まった。兵が史庫に迫り、往きて鎮撫の呉勉の輩に告げて之を出させ、『元実録』は失うこと無く得た。
先に、至元の間に西僧の嗣古妙高が宋の会稽の諸陵を毀たんとした。夏人の楊輦真珈が江南総摂となり、徽宗以下の諸陵を悉く掘り起こし、金宝を奪い取り、帝后の遺骨を集めて杭州の故宮に埋め、その上に浮屠を築き、鎮南と名付けて厭勝を示した。また理宗の頭蓋骨を截って飲器とした。真珈が敗れると、その資産はすべて官に没収され、頭蓋骨も宣政院に入り、いわゆる帝師なる者に賜わった。危素が翰林に在った時、宴席で帝に拝謁し、始末を詳しく述べた。帝は長く嘆息し、北平の守将に命じて西僧の汝納の所から頭蓋骨を購得させ、役人に命じて高坐寺の西北に仮葬させた。その翌年、紹興から永穆陵の図が献上されてきたので、ついに故陵に改葬するよう勅し、実に危素がこれを発端としたのである。
張以寧
張以寧、字は志道、古田の人。父は一清、元の福建・江西行省参知政事。以寧は八歳の時、ある者が伯父を県に訴えて獄に繋がれたので、以寧は県に赴いて理を伸べた。県令はこれを異とし、『琴堂詩』を賦せよと命じると、たちまち作り上げた。伯父は釈放され、以寧はこれによって名を知られた。泰定年中、『春秋』をもって進士に挙げられ、黄岩判官から六合尹に進んだが、事に坐して免官され、江淮に滞留すること十年。順帝が召し出して国子助教とし、累進して翰林侍読学士・知制誥に至った。朝中の宿儒虞集・欧陽玄・掲傒斯・黄溍らが相次いで物故したので、以寧は俊才あり、博学強記で時に名を擅にし、人々は小張学士と呼んだ。
以寧は人となり清潔で、財産を営まず、奉使の往還に、寝具のほかに他に物はなかった。もと『春秋』によって高第を得たので、学ぶところ特に『春秋』に専らし、自得するところ多く、『胡伝弁疑』を撰して最も弁博であった。ただ『春王正月考』は未完成で、安南に寓居すること半年余りを経て、ようやく完成した。元の故官で京に来た者の中では、危素と以寧の名が特に重かった。素は史に長じ、以寧は経に長じた。素の宋・元史稿はともに伝わらず、以寧の『春秋』学は遂に行われた。
附 石光霽
附 秦裕伯
趙壎
まもなく召されて日暦を修め、翰林編修を授けられた。高麗が使者を遣わして朝貢し、賜宴が行われ、楽が奏されると、使者は国喪を理由に辞した。趙壎が進み出て言った、「小国の喪は、大国の礼を廃せず」。太祖は大いに悦び、命じて宋濂とともに史館に同職とし、濂は兄事した。かつて詔を奉じて『甘露頌』を撰し、太祖は善しと称えた。出て靖江王府長史となり、卒した。
初め壎とともに纂修した者汪克寛・陶凱・曾魯・高啓・趙汸・貝瓊・高遜志にはともに伝がある。今、宋僖以下で考うべき者を、篇に附して著す。
附 宋僖
宋僖、字は無逸、餘姚の人。元の繁昌教諭となり、乱に遭って帰郷した。史事が竣り、福建郷試を典することを命ぜられた。
附 陳基
附 張文海
張文海、鄞の人、同里の傅恕と共に史館に入った。
附 徐尊生
徐尊生、字は大年、淳安の人。『元史』が成り、賜わって帰り、再び日暦を同修した。後に宋濂の推薦により翰林應奉に授けられ、文字を草し制を為すこと、悉く旨に称した。尋いで老疾を以て辞して還った。
附 傅恕
附 斯道
附 傅著
傅著、字は則明、長洲の人。史成り、帰って常熟教諭となった。魏観が郷飲酒礼を行った時、長洲教諭周敏は其の父南老に侍し、著は其の父玉に侍し、皆降りて北面して立ち、礼を観る者は以て盛事と為した。歴官して知府となり、卒した。
附 宋僖
謝徽、字は元懿、長洲の人。史成り、翰林國史院編修に授けられた。尋いで吏部郎中に擢げられたが、力辞して拝せず、帰った。再び起用されて國子助教となり、卒した。徽は博学で詩文に巧み、同邑の髙啓と齊名した。弟の恭、字は元功、亦た詩を能くした。
附 朱右
朱右、字は伯賢、臨海の人。『元史』が完成すると、辞して帰郷した。後に、日暦・宝訓の編修に徴用され、翰林編修に任ぜられた。晋府右長史に転じた。洪武九年、在官のまま死去した。
附 朱廉
朱廉、字は伯清、義烏の人。幼少より勉学に励み、黄溍に従って古文を学んだ。知府王宗顯が郡学の教官に招聘した。李文忠が厳州を鎮守した時、釣台書院の山長に招かれた。洪武初年、『元史』が完成すると、官を受けずに帰郷した。まもなく日暦編修に徴用され、翰林編修に任ぜられた。八年、中都に供奉し、詩十章を進呈したところ、太祖はこれを善しとし、六章を和して賜った。やがて楚王の経書講義を授けられ、楚府右長史に転じた。久しくして、病を理由に辞職して帰郷した。朱廉は程子・朱子の学を好み、かつて『朱子語類』を取ってその精義を摘出し、『理学纂言』と名付けた。
附 王彝
王彝、字は常宗、その先祖は蜀の人で、父が昆山教授となったため、嘉定に居を定めた。幼くして孤貧となり、天台山中で読書し、王貞文に師事して、蘭溪の金履祥の学統を得、学問に端緒を得た。かつて論を著して楊維楨を激しく誹謗し、文妖と目した。『元史』が完成すると、銀幣を賜って帰郷した。また、推薦により翰林に入ったが、母が老齢のため帰郷を乞うた。知府魏観の事件に連座し、高啓とともに誅殺された。
附 張孟兼
附 李汶
李汶、字は宗茂、当塗の人。博学多才で、『元史』が完成すると、巴東知県に任ぜられ、南和に移った。晩年に郷里に帰り、経学をもって後進を教えた。
附 張宣
張宣、字は藻重、江陰の人。洪武初年、礼制考証のため徴用された。まもなく『元史』編修に参与し、太祖が自らその名を書いて殿廷に召し出して対面させ、即日に翰林編修に任じ、小秀才と呼んだ。詔を奉じて帰郷して婚姻したが、年は既に三十であった。六年、事件に連座して濠梁に流謫され、途中で死去した。
附 張簡
附 杜寅
杜寅、字は彦正、呉県の人。史書が完成し、岐寧衛知事の官に任ぜられた。洪武八年、番賊が降伏した後に再び叛き、寅は経歴の熊鼎とともに害された。
徐一夔
近ごろ県令が伝令して、朝廷が『元史』の続修のために自分を召し出そうとしており、かつあなたが私の事を物語をよく記すと評し、当路に推薦したと云う。私心ひそかに怪しむのは、あなたがどうして才能なく病の多い人間に倦まず勧めるのかということである。私は平素あなたが私を知っていると思っていたが、今自ら省みて、ついにあなたの期待に副うことができない。なぜか。
近世史を論ずるものは、日暦に過ぐるものはない。日暦とは、史の根柢である。唐の長寿年間に、史官の姚璹が時政記の撰修を奏請し、元和年間に、韋執誼がまた日暦の撰修を奏請した。日暦は事を日につなぎ、日を月につなぎ、月を時につなぎ、時を年につなぐ。なお『春秋』の遺意がある。起居注の説に至っても、また専ら甲子を例として起こす。およそ事を記す方法はこれを越えるものはない。
かつて宋は史事を極めて重んじ、日暦の修纂には、諸司が必ず関白した。例えば詔誥は三省が必ず記し、兵機・辺務は枢密院が必ず報告し、百官の進退、刑賞の予奪、台諫の論列、給事中・中書舎人の封駁、経筵の論答、臣僚の転対、侍従の直前啓事、中外の封書・投函による上奏、下は銭穀・甲兵・獄訟・造作に至るまで、政体に関わるものはすべて、日を追って記録した。なお、それが吏の文書から出たものであることを憂え、あるいは誤りや失漏があるのを恐れた。故に欧陽修が宰相に監修させ、歳末に修撰官の日々記録した事を点検し、職を失うものがあればこれを罰するよう奏請した。このようにすれば、日暦は誤りや失漏に至らず、後日に会要の修纂はこれにより取り、実録の修纂はこれにより取り、百年の後に紀・志・列伝はこれにより取る。これが宋の史が精確である所以である。
元朝はそうではなかった。日暦を置かず、起居注を置かず、ただ中書省に時政科を置き、一文學掾を遣わしてこれを掌らせ、事を史館に付した。一帝が崩ずると、国史院が付されたものに拠って実録を修するのみであった。その史事に対する態度は、まことに甚だ疎略であった。幸い天暦年間に虞集が六典の法にならい、『経世大典』を纂し、一代の典章文物がおおよそ備わった。
このため以前の史局では、十三朝の実録があり、またこの書があって参稽することができ、かつ一時の纂修諸公、胡仲申・陶中立・趙伯友・趙子常・徐大年らは皆史才・史學があり、速やかに書を成した。順帝三十六年の事に至っては、実録として拠るべきものがなく、また参稽すべき書もなく、ただ採訪に憑ってこれを足し成すのみである。ひそかに恐れるのは、事必ずしも核実せず、言必ずしも順当でなく、首尾必ずしも貫通しないであろうということである。かつての数公は、あるいは官を受け、あるいは山に還り、またそれぞれ散り去った。今、才能なく病の多い私のような者に後を継がせようとする。私がたとえあなたの期待に副おうと望んでも、どうしてできようか。謹んで状を左右に奉り、憐れみ察することを乞う。
一夔はついに赴かなかった。間もなく、推薦により杭州教授を代行した。召されて『大明日暦』の修纂に当たり、書が完成すると、翰林院の官に任じようとしたが、足疾を理由に辞し、文綺を賜って帰還させた。
趙撝謙
附 樂良
樂良、字は季本。迮雨、字は士霖。趙俶、字は本初。洪武年間、国子監博士の官にあった。年老いて帰郷を乞い、翰林待制を加えられた。
附 張昱
張昱、字は光弼、廬陵の人。元に仕え、江浙行省左・右司員外郎、行樞密院判官となった。西湖の寿安坊に留まり住み、貧しくて屋根を葺くことができず、酒席で瞿佑に自作の詩を誦して笑い、「我が死して骨を湖上に埋め、詩人張員外の墓と題すれば足りる」と言った。太祖が召し出して京に至らせ、その老いを憐れみ、「閑かにすべし」と言い、厚く賜物を与えて帰還させた。そこで自ら可閒老人と号した。八十三歳で卒した。
附 呉志淳
呉志淳は、字を主一といい、元末に靖安・都昌の二県の知事を務めた。待制翰林に任ぜられようとしたが、権勢ある者に阻まれ、鄞に避兵した。
附 朱芾
朱芾は、字を孟辨といい、洪武初年に編修の官となり、後に中書舎人に改任された。
陶宗儀
陶宗儀は、字を九成といい、黄岩の人である。父の煜は、元の福建・江西行枢密院都事であった。宗儀は若くして役人試験を受けたが、一度落第するとすぐに捨て去り、古学に努め、あらゆる書物を渉猟した。浙東・浙西に出遊し、張翥・李孝光・杜本に師事した。詩文を作ると、いずれも程合いがあり、特に字学に心を砕き、母方の叔父趙雍の篆法を習った。浙の帥泰不華や南台御史の醜驢が行人に推挙し、また教官に辟召したが、いずれも就任しなかった。張士誠が呉を占拠すると、軍諮に任命したが、これも赴任しなかった。洪武四年に天下の儒士を徴する詔があり、六年に役所に人材を推挙させたが、いずれも宗儀に及んだが、病気を理由に赴任しなかった。晩年、役所から教官として招聘されたが、彼の志ではなかった。二十九年に諸生を率いて礼部の試験に赴き、『大誥』を読み、鈔を賜わって帰り、久しくして卒した。著書に『輟耕録』三十巻があり、また『説郛』・『書史会要』・『四書備遺』を編纂し、ともに世に伝わった。
附 顧德輝
附 孫作
孫作は、字を大雅といい、江陰の人である。文章は醇正典雅で、動くごとに拠り所があった。かつて十二篇の書を著し、『東家子』と号し、宋濂が『東家子伝』を作った。元末、家族を連れて呉に避兵し、他の物はすべて捨て、ただ書物を二つの籠に載せただけだった。士誠が禄を与えたが、すぐに母の病気を理由に辞去し、松江に客寓し、人々が田を買い家を築いて住まわせた。洪武六年に『大明日暦』の編修を招聘され、翰林編修を授けられたが、太平府教授に改めるよう願い出た。国子助教に召され、まもなく中都に分教し、一年余りして国子監に戻り、司業に抜擢されたが、帰郷して家で卒した。
附 張憲
元末の文人は最も盛んで、詞学で知名な者には、さらに張憲・周砥・高明・藍仁らがいた。
張憲は、字を思廉といい、山陰の人である。楊維楨に詩を学び、最もその称賛を受けた。才気に任せて放縦で、かつて京師に走り、天下の事を恣に語り、人々はその狂気に驚いた。帰って富春山に入り、僧侶に混じって自らを放った。ある日、高所に登って親しい者を呼び、「禍が至った、急いで去れ」と言った。三日後に賊が来て、五百家が死んだ。後に張士誠に仕え、枢密院都事となった。呉が平定されると、姓名を変え、杭州の報国寺に寄食して没した。
附 周砥
周砥は、字を履道といい、呉の人で、無錫に寓居した。博学で文詞に巧みで、宜興の馬治と親しく、乱に遭って馬治の家に客寓した。馬治が舟車を整え、陽羡の山渓の勝景をことごとく窮めた。その郷には富人が多く、馬治と親しい者はみな酒を設けて周砥を招いた。周砥は内心これを厭い、ある日馬治に別れの手紙を送り、夜半に遁去し、会稽に遊び、兵乱で没した。馬治は、字を孝常といい、やはり詩ができた。洪武時に内丘知県となり、建昌知府で終わった。
附 高明
高明、字は則誠、永嘉の人。至正五年の進士、処州録事に授けられ、行省掾に辟せられる。方国珍叛くや、省臣は明が海浜の事に諳んずるを以て、自ら従うに択び、事を論じて合わず。及び国珍撫に就くや、幕下に留置せんと欲す、即日官を解き、旅寓して鄞の櫟社に寓す。太祖その名を聞き、之を召す、老疾を以て辞し、還りて家に卒す。
附 藍仁
藍仁、字は靜之。弟の智、字は明之、崇安の人。元の時、淸江の杜本武夷に隠れ、古学を崇尚す、仁兄弟倶に往きて之に師事し、四明の任士林の詩法を授けられ、乃ち科挙を謝し、一意に詩を爲す。後に武夷書院山長に辟せられ、邵武尉に遷るも、赴かず。内附の後、例に徙って濠梁に移され、数月にして放帰し、卒す。智は、洪武十年に薦挙され、起家して広西僉事となり、廉の声著し。
袁凱
高啓
附 楊基
附 張羽
張羽、字は來儀、後に字を以て行る、本潯陽の人。父に従い江浙に宦し、兵に阻まれて帰ることを獲ず、友の徐賁と約し、呉興に卜居す。郷薦を領し、安定書院山長と爲り、再び呉に徙る。洪武四年征されて京師に至るも、応対旨に称せず、放還さる。再征されて太常司丞に授けらる。太祖其の文を重んじ、十六年自ら滁陽王の事を述べ、羽を命じて廟碑を撰せしむ。尋ち事に坐して嶺南に竄せられ、半道に至らず、召還さる。羽自ら免れざるを知り、龍江に投じて死す。羽の文章は精潔にして法あり、尤も詩に長じ、画を作るに小米に師す。
附 徐賁
徐賁、字は幼文、其の先は蜀の人、常州に徙り、再び平江に徙る。詩に工み、山水を善く画く。張士誠辟して属と爲すも、已に謝去す。呉平らぎ、謫せられて臨濠に徙る。洪武七年薦挙されて京に至る。九年春、晋・冀に奉使し、廉訪する所有り。還るに及び、其の橐を検するに、惟だ紀行詩数首のみ、太祖悦び、給事中に授く。御史に改め、広東を巡按す。又た刑部主事に改め、広西参議に遷る。政績卓異を以て、河南左布政使に擢げらる。大軍洮・岷を征し、其の境を道す、犒労時ならざるに坐し、獄に下りて瘐死す。
王行
王行、字は止仲、呉県の人。幼時に父に従い薬売りの徐翁の家に寄寓し、徐媼は稗官小説を聴くことを好み、行は日に数冊を記し、媼のためにこれを誦した。媼は喜び、翁に言い、『論語』を授けると、翌日には悉く暗誦した。翁は大いにこれを異とし、家にある書を全て読ませ、遂に経史百家の言を淹く貫通した。未だ弱冠に至らず、辞去し、斉門で徒を授け、名士は皆これと交わった。富人沈萬三がこれを家塾に招き、文が成る毎に白金鎰を計って酬いたが、行は輒ちこれを麾き去って曰く、「富にして守るべきものならば、然臍の惨は及ばなかったであろう」と。洪武初め、有司がこれを学校の師として招いた。已にして辞去し、石湖に隠れた。その二子が京に役せられ、行はこれを見舞いに行き、涼国公藍玉が家に館した。数たび太祖にこれを薦め、召見を得た。後に玉が誅せられ、行父子もまた連座して死した。
初め呉中で兵を用いるに当たり、所在多く砲石を列べて自らを固め、行は知る者に私語して曰く、「兵法に柔よく剛を制すとある。もし大竹を地に植え、その端に布を繫ぎ、砲石至れば、布これに随いて低昂すれば、人は害すること能わず、而して砲石用いるところ無からん」と。後に常遇春が平江を取るに、果たしてその法の如くであった。行もまた自ら兵を知ることを負い、以て禍に及んだという。
初め、高啓が北郭に家し、行と隣り合い、徐賁、高遜志、唐肅、宋克、余堯臣、張羽、呂敏、陳則は皆近くに居を卜し、北郭十友と号し、また十才子と称した。啓、賁、遜志、羽は自ら伝有り。
附 唐肅
附 謝肅
謝肅、官は福建僉事に至り、事に坐して死す。
附 宋克
宋克、字は仲温、長洲の人。躯幹偉く、書史に博く渉る。少時は任侠をなし、剣を学び馬を走らすを好み、家は素より饒かで、客を結び飲み博す。壮に迨うと、酒徒を謝し、兵法を学ぶが、周流して遇う所無く、益々気を以て自ら豪とした。張士誠がこれを羅致せんと欲したが、就かず。性抗直にして、人と議論するに必ず勝つを期し、古を援き今を切る、人これを難ずる能わず。門を杜して翰を染め、日に十紙を費やし、遂に善書を以て天下に名を知られた。時に宋広有り、字は昌裔、また草書に善く、二宋と称された。洪武初め、克は鳳翔同知に任じ、卒した。
附 余堯臣
附 呂敏
附 陳則
陳則、字は文度、崑山の人。洪武六年秀才に挙げられ、応天府治中を授かる。俄かに戸部侍郎に擢げられ、戸口を閲実することを以て、出でて大同府同知となり、進んで知府となる。
孫蕡
附 王佐
附 趙介
附 李徳
王蒙
王蒙、字は叔明、湖州の人、趙孟頫の甥である。文に敏で、規矩度数を尚ばなかった。山水画に巧みで、兼ねて人物を善くした。若い時に宮詞を賦したところ、仁和の兪友仁がこれを見て、「これは唐人の佳句である」と言い、ついに妹を妻とさせた。元末に理問の官にあったが、乱に遇い、黄鶴山に隠居し、自ら黄鶴山樵と称した。洪武初年、泰安州知州事となった。王蒙はかつて胡惟庸の私邸に謁し、会稽の郭伝や僧知聡とともに画を観た。惟庸が誅殺されると、王蒙は事に坐して捕らえられ、獄中で病死した。
附 郭伝
郭伝、一名は正伝、字は文遠。洪武七年、帝が武楼に臨み、学士宋濂に座を賜り、言った、「天下が既に定まった今、朕は宿学の士に意を注ごうとしている。卿はその人を知っているか」。答えて言った、「会稽に郭伝という者がおります。学問に淵源があり、その文は雄贍新麗、その議論は『六経』に根拠を置く、異才でございます」。やがて宋濂がその文を持って進上すると、帝は謹身殿で召見し、翰林応奉に任じ、起居注を直らせた。兵部主事に遷り、再び考功監丞に遷り、監令に進み、出て湖広布政司参政を署した。