明史

列傳第一百七十二 儒林三

列傳第一百七十二 儒林三

原文列傳第一百七十二 儒林三

◎儒林三

原文◎儒林三

孔希學(孔彥繩)、顏希惠、曾質粹、孔聞禮、孟希文、仲於陛、周冕、程接道、程克仁、張文運、邵繼祖、朱梴、朱墅

原文○孔希學(孔彥繩)顏希惠曾質粹孔聞禮孟希文仲於陛周冕程接道程克仁張文運邵繼祖朱梴朱墅

孔希學は、字あざなを士行といい、先聖(孔子)の五十六代目の孫である。代々曲阜に居住した。祖父の思晦は、字を明道といい、元に仕えて教諭となり、学問と行いがあった。仁宗の時、思晦が衍聖公を襲封し、卒して文肅と諡され、子の克堅が襲封した。

原文孔希學,字士行,先聖五十六代孫也,世居曲阜。祖思晦,字明道,仕元為教諭,有學行。仁宗時,以思晦襲封衍聖公,卒謚文肅,子克堅襲。

克堅は、字を璟夫という。至正六年、中書が衍聖公の官階が嘉議大夫に止まり、爵位と相応しくないと上言したので、通奉大夫に進め、銀印を賜った。十五年、その礼楽に明習している者として推薦され、同知太常禮儀院事に徴用されたが、子の希學に襲封させた。克堅は累遷して国子祭酒となった。二十二年、克堅は病を理由に辞して闕里に帰り、後に集賢学士・山東廉訪使に起用されたが、いずれも赴任しなかった。洪武元年三月、徐達が済寧を陥落させると、克堅は病と称し、希學を遣わして来謁させた。達は彼を京師に送った。希學が父が病で行けないと奏上すると、太祖は克堅に勅諭を下し、末尾に「病と称するは不可なり」と記した。ちょうど克堅も来朝し、淮安で使者に出会い、恐惶して行程を倍加して進み、謹身殿で謁見した。年齢を問われると、「臣は五十三歳でございます」と答えた。曰く、「汝の年は未だ老いておらず、病に侵されている。今、官職で煩わすことはしない。汝の家は先聖の後裔であり、子孫は学ばねばならぬ。汝の子は温厚である。学を進めさせよ。」克堅は頓首して謝した。即日に邸宅一区、馬一匹、米二十石を賜った。翌日また召見され、一族を訓戒激励するよう命じられた。そこで侍臣を顧みて言った。「先聖の後裔には、特に優れた礼遇を与え、禄で養うが、職事には任じないのである。」

原文克堅,字璟夫。至正六年,中書言衍聖公階止嘉議大夫,與爵不稱,乃進通奉大夫,予銀印。十五年有薦其明習禮樂者,征為同知太常禮儀院事,以子希學襲封。克堅累遷國子祭酒。二十二年,克堅謝病還闕里,後起集賢學士、山東廉訪使,皆不赴。洪武元年三月,徐達下濟寧,克堅稱疾,遣希學來見,達送之京師。希學奏父病不能行,太祖敕諭克堅,末言「稱疾則不可」。會克堅亦來朝,遇使者淮安,惶恐兼程進,見於謹身殿問以年,對曰:「臣年五十有三。」曰:「爾年未邁,而病嬰之。今不煩爾以官。爾家,先聖後,子孫不可不學。爾子溫厚,俾進學。」克堅頓首謝。即日賜宅一區,馬一匹,米二十石。明日復召見,命以訓厲族人。因顧侍臣曰:「先聖後,特優禮之,養以祿而不任以事也。」

十一月、希學に衍聖公を襲封するよう命じた。官属を設置し、掌書・典籍・司楽・知印・奏差・書写、各一人とした。孔・顔・孟三氏教授司を立て、教授・学録・学司各一人とした。尼山・洙泗の二書院を立て、各々山長一人を設けた。孔氏の子孫及び顔・孟の大宗の子孫の徭役ようえきを免除した。また、その一族の希大を曲阜の世襲知県とするよう命じた。そして衍聖公の官秩を二品に進め、官階を資善大夫とした。誥命を賜り、曰く、「古の聖人は、伏羲・神農から文王・武王に至るまで、天に法り民を治め、その明は日月と並び、徳化の盛んなるはこれに加えるものはなかった。しかし皆、時宜に随って制を設け、世によって因革があった。孔子に至っては、その位を得られなかったが、前聖の道を会得してこれを通じ、以て万世に教えを垂れ、帝王の師となった。その孫の子思は、またこれを伝述し名言して、その盛を極めることができた。国家を持つ者は、その統緒を求め、その爵号を尊ぶのは、まさにその徳を崇め功に報いるためである。歴代以来、襲封を受ける者の中には、その祖の跡を継ぐことができない者もあり、朕は甚だこれを憂う。天下を治め始めた当初、世襲者を訪ねて五十六代目の孫孔希學を得た。大宗を継ぐ者である。ここに典礼を行い、以て褒崇を致す。汝は世の儒者の領袖として、ますます聖道の用を当世に展開し、以て朕の至望に副わんことを。豈に偉ならずや。」希大の官階は承事郎とし、勅命を賜った。

原文十一月命希學襲封衍聖公。置官屬,曰掌書,曰典籍,曰司樂,曰知印,曰奏差,曰書寫,各一人。立孔、顏、孟三氏教授司,教授、學錄、學司各一人。立尼山、洙泗二書院,各設山長一人。復孔氏子孫及顏、孟大宗子孫徭役。又命其族人希大為曲阜世襲知縣。而進衍聖公秩二品,階資善大夫。賜之誥曰:「古之聖人,自羲、農至於文、武,法天治民,明並日月,德化之盛莫有加焉。然皆隨時制宜,世有因革。至於孔子,雖不得其位,會前聖之道而通之,以垂教萬世,為帝者師。其孫子思,又能傳述而名言之,以極其盛。有國家者,求其統緒,尊其爵號,蓋所以崇德報功也。歷代以來,膺襲封者或不能繩其祖武,朕甚閔焉。當臨馭之初,訪世襲者得五十六代孫孔希學,大宗是紹,爰行典禮,以致褒崇。爾其領袖世儒,益展聖道之用於當世,以副朕之至望,豈不偉歟!」希大階承事郎,賜之敕。

三年春、克堅が病気を理由に帰郷を願い出たので、中使を遣わして慰問した。病が重くなると、駅伝を給して家に帰らせ、白金と文綺を賜ったが、舟が邳州に停泊中に卒した。

原文三年春,克堅以疾告歸,遣中使慰問。疾篤,詔給驛還家,賜白金文綺,舟次邳州卒。

六年八月、希學が喪明けで入朝すると、役所に命じて食糧を供給させ、従者にも皆賜物を与え、さらに勅命で労い、襲衣と冠帯を賜った。九月に帰郷を辞すと、翰林官に命じて光禄寺で餞別し、白金と文綺を賜った。翌年二月、希學が言上した。「先聖の廟堂と廊廡が崩壊し、祭器・楽器・法服が整っていません。役所に命じて修繕させてください。先祖伝来の田地は、戦乱の後多く荒廃しているのに、租税は以前のまま徴収されています。減免を願います。」いずれも従った。これ以後、毎年入朝し、その班位は丞相に次ぎ、常に宴席と賜物が加えられた。

原文六年八月,希學服闋入朝,命所司致廩餼,從人皆有賜,復勞以敕,賜襲衣冠帶。九月辭歸,命翰林官餞於光祿寺,賚白金文綺。明年二月,希學言:「先聖廟堂廊廡圮壞,祭器、樂器、法服不備,乞命有司修治。先世田,兵後多蕪,而征賦如故,乞減免。」並從之。自是,每歲入朝,班亞丞相,皆加宴賚。

希學は読書を好み、隷書を善くし、文詞は爾雅であった。賓客が宴席に集まる度に、談笑し揮毫して、爛然たる文章を成した。大乱の後を承け、廟の様子や礼服・器物に力を尽くして修復し、旧観をことごとく取り戻した。十四年に卒した。守臣に命じて祭らせた。

原文希學好讀書,善隸法,文詞爾雅。每賓客宴集,談笑揮灑,爛然成章。承大亂之後,廟貌服物,畢力修舉,盡還舊觀。十四年卒。命守臣致祭。

子の訥は、字を言伯といい、十七年正月に襲封した。礼官に命じて教坊の楽を先導させて国子監まで送り届けさせ、学官が諸生二千余人を率いて成賢街で出迎えた。以後、毎年入覲する際には、符を与えて駅伝を利用させた。帝が丞相の官を廃止すると、文臣の班列の首位に立たせた。訥は性質恭謹で、宗族や親族に対し恩情をもって接した。建文二年に卒した。子の公鑒が襲封した。

原文子訥,字言伯,十七年正月襲封。命禮官以教坊樂導送至國學,學官率諸生二千餘人迎於成賢街。自後,每歲入覲,給符乘傳。帝既革丞相官,遂令班文臣首。訥性恭謹,處宗黨有恩。建文二年卒。子公鑒襲。

公鑒は、字を昭文といい、孝行があり、爵を嗣いで二年で卒した。成祖が即位すると、使者を遣わして祭らせた。

原文公鑒,字昭文,有孝行,嗣爵二年卒。成祖即位,遣使致祭。

子の彥縉は、字を朝紳といい、永楽八年に襲封した。まだ十歳であったので、国子監で学業に励ませ、しばらくして帰郷させた。十五年、闕里の文廟の修復が完成すると、御製の碑文を石に刻ませた。仁宗が即位すると、彥縉が来朝した。仁宗は侍臣に言った。「外国の貢使にも公館がある。衍聖公が民間の宿を借りるのは、儒を崇め道を重んずる意に適わない。」そこで東安門外に邸宅を賜った。宣徳四年、彥縉が使者を福建に遣わして書籍を購入させようとし、礼部に諮った。部臣がこれを上聞すると、購入させて与えるよう命じた。後に、闕里の雅楽及び楽舞生の冠服が破損していると奏上すると、役所に命じて修繕させた。景泰元年、帝が学(国子監)に臨幸した。彥縉は三氏の子孫を率いて儀礼を観覧し、彜倫堂に座を賜って講義を聴いた。学幸には必ず事前に衍聖公を召すことが、これより始まった。彥縉は幼くして孤児となったが、自立することができた。しかし一族と和睦しなかった。景泰六年、族祖の克昴らが彥縉と互いに訴えあったが、帝はこれを問わなかった。彥縉の子の承慶は、先に卒した。孫の弘緒は、字を以敬といい、わずか八歳で彥縉が卒した。妾の江が、弘緒が幼弱で、一族に侵害されていると訴えた。詔して礼部郎を遣わして喪を治めさせ、その族父の公恂に家事を処理させた。駅伝で弘緒を召し出して京師に至らせ襲封させ、玉帯と金印を賜い、教授一人を選んでその学問を教えさせた。英宗が復辟すると、入朝して祝賀した。便殿で朝見すると、その手を握り膝の上に置き、長く語り合った。弘緒はまだ十歳であったが、進退に儀礼があり、帝は大いに喜んだ。毎年、聖寿を祝賀に入朝した。帝はその賜第が狭小であると聞き、広大な邸宅と替えさせた。南城での花見、西苑での射芸の競技など、すべてこれに参与させた。

原文子彥縉,字朝紳,永樂八年襲,甫十歲,命肄業國學,久之遺歸。十五年修闕里文廟成,禦制碑文勒石。仁宗踐阼,彥縉來朝。仁宗語侍臣曰:「外蕃貢使皆有公館。衍聖公假館民間,非崇儒重道意。」遂賜宅東安門外。宣德四年,彥縉將遣使福建市書,咨禮部,部臣以聞,命市與之。已,奏闕里雅樂及樂舞生冠服敝壞,詔所司修治。景泰元年,帝幸學。彥縉率三氏子孫觀禮,賜坐彜倫堂聽講。幸學必先期召衍聖公,自此始。彥縉幼孤,能自立,然與族人不睦。景泰六年,族祖克句等與彥縉相訐,帝置不問。彥縉子承慶,先卒。孫弘緒,字以敬,甫八歲,而彥縉卒。妾江訴弘緒幼弱,為族人所侵。詔遣禮部郎為治喪,而命其族父公恂理家事。驛召弘緒至京襲封,賜玉帶金印,簡教授一人課其學。英宗復辟,入賀。朝見便殿,握其手,置膝上,語良久。弘緒才十歲,進止有儀,帝甚悅。每歲入賀聖壽。帝聞其賜第湫隘,以大第易之。凡南城賞花、西苑較射,皆與焉。

公恂は、字を宗文という。景泰五年に会試に合格した。母の病気を聞き、殿試には赴かなかった。帝が礼部に問うと、その事情を得て、使者を遣わして召した。日は既に正午に近く、試験の答案用紙を準備する時間がなかったので、翰林院に命じて筆記用具を与えさせた。及第すると、すぐに母の喪に服して帰郷した。天順初年、礼科給事中に任じられた。大学士李賢が言上した。「公恂は至聖(孔子)の後裔であり、賛善の司馬恂は、宋の大賢・温国公司馬光の後裔です。太子を輔導させるのが宜しいでしょう。」帝は喜び、同日に超擢して少詹事とし、東宮に侍して講読させた。入内して孝粛皇后に言った。「我は今日、聖賢の子孫を汝の子(太子)の傅(師)に得た。」孝粛皇后とは、憲宗の生母で、当時皇貴妃として寵愛を受けていた。そこで冠服を整えて拝謝し、宮中では盛事として伝えられたという。成化初年、時事について上言したことで漢陽知府に左遷されたが、着任前に父の喪に服した。喪明け後、元の官秩に戻り、南京詹事府に莅任した。久しくして卒した。

原文公恂,字宗文。景泰五年舉會試。聞母疾,不赴廷對。帝問禮部,得其故,遣使召之。日且午,不及備試卷,命翰林院給筆劄。登第,即丁母憂歸。天順初,授禮科給事中。大學士李賢言:「公恂,至聖後,贊善司馬恂,宋大賢溫國公光後,宜輔導太子。」帝喜,同日超拜少詹事,侍東宮講讀。入語孝肅皇后曰:「吾今日得聖賢子孫為汝子傅。」孝肅皇后者,憲宗生母,方以皇貴妃有寵,於是具冠服拜謝,宮中傳為盛事雲。成化初,以言事謫漢陽知府,未至,丁父憂。服闋,還故秩,蒞南京詹事府。久之卒。

弘緒は若くして貴重な身分であり、また舅の大学士李賢を恃んで、多くの過ちを犯した。成化五年に弾劾され、取り調べの上、爵位を剥奪されて庶人とされ、その弟の弘泰に襲封させた。弘泰が没すると、爵位は再び弘緒の子に帰した。

原文弘緒少貴,又恃婦翁大學士李賢,多過舉。成化五年被劾,按治,奪爵為庶人,令其弟弘泰襲。弘泰歿,爵仍歸弘緒子。

弘泰は字を以和という。既に爵を嗣ぎ、弘治十一年、山東按臣が弘緒が善に遷り行いを改めたと上言し、命じて冠帯を復させた。翌年六月、聖殿が災いに遭い、弘泰はちょうど朝中にあり、弘緒は子弟を率いて駆けつけて救い、素服で廟に哭し、蔬食百日を続けた。弘泰が帰還すると、また斎戒して哭し喪に服するが如くであった。弘泰は生後七月で孤となり、母に孝を奉じ、弘緒と友愛し、間隙ある言葉はなかった。十六年に卒し、弘緒の子聞韶が襲封した。

原文弘泰,字以和。既嗣爵,弘治十一年,山東按臣言弘緒遷善改行,命復冠帶。明年六月,聖殿災,弘泰方在朝,弘緒率子弟奔救,素服哭廟,蔬食百日。弘泰還,亦齋哭如居喪。弘泰生七月而孤,奉母孝,與弘緒友愛,無間言。十六年卒,弘緒子聞韶襲。

聞韶は字を知徳という。翌年、新廟が建立され、規制は旧に逾え、大学士李東陽を遣わして祭告し、御製の碑文を石に勒した。正徳三年、尼山・洙泗の二書院及び鄒県の子思子廟に各々祀事があることを以て、弟聞礼にこれを主たることを奏請した。帝は聞礼に『五経』博士を授け、子思子の祀事を主たせ、世々衍聖公の弟を以てこれに当たらせた。両書院には各々学録一人を設け、族の賢者を推薦してこれに充てた。六年、山東に盗賊が起こり、聞韶は巡撫趙璜と共に闕里に城を築き、曲阜県治を遷して廟を衛らんことを請うたが、果たして行われなかった。嘉靖二十五年、聞韶卒し、子貞幹が襲封した。

原文聞韶,字知德。明年,新廟建,規制逾舊,遣大學士李東陽祭告,禦制碑文勒石。正德三年以尼山、洙泗二書院及鄒縣子思子廟各有禮事,奏請弟聞禮主之。帝授聞禮《五經》博士,主子思子祀事,世以衍聖公弟為之。兩書院各設學錄一人,薦族之賢者充焉。六年,山東盜起,聞韶與巡撫趙璜請城闕里,遷曲阜縣治以衛廟,不果行。嘉靖二十五年,聞韶卒,子貞幹襲。

貞幹は字を用済という。三十五年に入朝した。卒し、子尚賢が襲封した。

原文貞幹,字用濟。三十五年入朝。卒,子尚賢襲。

尚賢は字を象之という。巡撫丁以忠が言うには、「尚賢は沖年なり、弘泰の例の如く、国子監に肄業すべし」と。これに従った。万暦九年、庶母郭氏が尚賢を訐った。帝はこれがために供奉女楽二十六戸を革め、三年に一朝することを命じた。十七年、尚賢はなお比歳入賀を請い、これを許された。尚賢は博識であった。天啓元年卒した。子蔭椿は先に卒し、嗣なく、従弟の子蔭植が襲封した。

原文尚賢,字象之。巡撫丁以忠言:「尚賢沖年,宜如弘泰例,國學肄業。」從之。萬歷九年,庶母郭氏訐尚賢。帝為革供奉女樂二十六戶,令三歲一朝。十七年,尚賢仍請比歲入賀,許之。尚賢博識。天啟元年卒。子蔭椿先卒,無嗣,從弟子蔭植襲。

蔭植は字を対寰という。祖父は貞寧、衍聖公貞幹の弟なり、仕えて『五経』博士となった。父は尚坦、国子監生、追封して衍聖公となった。蔭植は先に博士となり、尚賢が既に子を喪ったので、遂に嗣として育てられた。天啓四年、覃恩を以て太子太保を加えられた。崇禎元年、太子太傅を加えられた。

原文蔭植,字對寰。祖貞寧,衍聖公貞幹弟也,仕為《五經》博士。父尚坦,國學生,追封衍聖公。蔭植先為博士,尚賢既喪子,遂育為嗣。天啟四年以覃恩加太子太保。崇禎元年加太子太傅。

孔彦繩は字を朝武といい、衢州西安の人、先聖五十九代の孫なり。宋の建炎中、衍聖公端友が扈蹕して南渡し、因って衢州に家した。高宗は州学を以て家廟とし、田五頃を賜い、以て祭祀を奉ぜしめた。五伝して洙に至る。元の至元間、命じて曲阜に帰り襲封せしむ。洙は爵を曲阜の弟治に譲った。弘治十八年、衢州知府沈傑が奏言して言うには、「衢州の聖廟は、孔洙が爵を譲って以来、衣冠礼儀、猥りに氓庶と同じし。今、洙の六世の孫彦繩を訪い得たり、官を授け、以て祀事を主たせんことを請う」と。また言うには、「その先世の祭田は、洪武初、軽則に起科し、後重税に改征せり、請うらくは仍く軽に改め、以て祀費に供せしめん」と。帝これを可とした。正徳元年、彦繩に翰林院五経博士を授け、子孫世襲せしめ、併せてその祭田の税を減じた。

原文孔彥繩,字朝武,衢州西安人,先聖五十九代孫也。宋建炎中,衍聖公端友扈蹕南渡,因家衢州。高宗命以州學為家廟,賜田五頃,以奉祭祀。五傳至洙。元至元間,命歸曲阜襲封。洙讓爵曲阜之弟治。弘治十八年,衢州知府沈傑奏言:「衢州聖廟,自孔洙讓爵之後,衣冠禮儀,猥同氓庶。今訪得洙之六世孫彥繩,請授以官,俾主祀事。」又言:「其先世祭田,洪武初,輕則起科,後改征重稅,請仍改輕,以供祀費。」帝可之。正德元年授彥繩翰林院五經博士,子孫世襲,並減其祭田之稅。

彦繩卒し、子承美、字を永実、十四年に襲封した。卒し、子弘章、字を以達、嘉靖二十六年に襲封した。卒し、子聞音、字を知政、万暦五年に襲封した。卒し、子貞運、字を用行、四十三年に襲封した。時に曲阜にある者を孔氏の北宗とし、西安にある者を南宗という。

原文彥繩卒,子承美,字永實,十四年襲。卒,子弘章,字以達,嘉靖二十六年襲。卒,子聞音,字知政,萬歷五年襲。卒,子貞運,字用行,四十三年襲。時以在曲阜者為孔氏北宗,在西安者為南宗雲。

顔希恵は、復聖五十九代の孫なり。洪武初、顔子五十七代の孫池を以て宣徳府学教授とす。十五年、三氏学教授に改め、以て祀事を奉ぜしむ。池は字を徳裕という。子拳は字を克膺という。拳の子希仁は字を士元という。景泰三年、詔して顔・孟子孫の長にして賢なる者各一人を、京に至らしめて官とす。その年、希仁は巡按御史顧躭に弾劾された。詔して希仁を罷黜し、希恵を召して以て翰林院『五経』博士とす。間もなく、希恵が嫡子に非ざるを以て、仍く希仁の長子議を以てこれに当たらしむ。議は字を定伯といい、成化元年、京師に第を賜い、入覲し、馳駅を以て常とす。議卒し、子鋐、字を宗器、十八年に襲封した。卒し、子重徳、字を尚本、正徳二年に襲封した。卒し、子従祖、字を守嗣、襲封した。卒し、子なく、嘉靖四十一年、従祖の従父重礼の長子肇先を以て嗣とす。肇先は字を啓源という。卒し、子嗣慎、字を用修襲封した。卒し、長子尹宗は先に卒し、次子尹祚、字を永錫、万暦年間に襲封した。尹祚は人となり博学にして義を好み、尹宗の子伯貞既に長ずるに及び、遂にその職を以てこれを譲る。伯貞は字を叔節といい、二十七年に襲封した。卒し、子幼く、弟伯廉、字を叔清、三十四年に襲封した。卒し、子紹緒、崇禎十四年に襲封した。

原文顏希惠,復聖五十九代孫也。洪武初,以顏子五十七代孫池為宣德府學教授。十五年改三氏學教授,以奉祀事。池,字德裕。子拳,字克膺。拳子希仁,字士元。景泰三年詔以顏、孟子孫長而賢者各一人,至京官之。其年,希仁為巡按御史顧躭所劾。詔黜希仁,召希惠以為翰林院《五經》博士。未幾,以希惠非嫡子,仍以希仁長子議為之。議,字定伯,成化元年賜第京師,入覲,馳驛以為常。議卒,子鋐,字宗器,十八年襲。卒,子重德,字尚本,正德二年襲。卒,子從祖,字守嗣,襲。卒,無子,嘉靖四十一年以從祖從父重禮之長子肇先為嗣。肇先,字啟源。卒,子嗣慎,字用修襲。卒,長子尹宗先卒,次子尹祚,字永錫,萬歷年襲。尹祚為人博學好義,尹宗之子伯貞既長,遂以其職讓之。伯貞,字叔節,二十七年襲。卒,子幼,弟伯廉,字叔清,三十四年襲。卒,子紹緒,崇禎十四年襲。

曾質粋は字を好古といい、吉安永豊の人、宗聖五十九代の孫なり。その先、都郷侯據が新莽の乱を避け、家を豫章に徙し、子孫は撫・吉諸郡の間に散居す。成化初、山東守臣上言して言うには、「嘉祥県南武山西南、元寨山の東麓に、漁者ありて穴中に陥り、懸棺を得、碣に曾参の墓と曰う」と。詔して修築を加う。正徳年間、山東僉事銭鋐、嘉祥山中に曾子の後一人を訪い得たり、間もなくして没す。嘉靖十二年、学士顧鼎臣の言を以て、詔して嫡嗣を求む。ここにおいて江西撫按、質粋の名を以て聞えしめ、命じて嘉祥に回らしめ、衣巾を以て祭祀を奉ぜしむ。十八年、翰林院『五経』博士を授け、子孫世襲せしむ。三十九年卒す。子昊、未だ襲封せずして卒す。昊の子継祖は字を繩之といい、少にして目を病み、江西の族人袞その職を奪わんと謀る。給事中劉不息・御史劉光国に糾弾せられ、ここにおいて袞の官を罷め、而して継祖は仍く祀事を主たす。卒し、子承業、字を洪福、万暦五年に襲封した。卒し、子弘毅、字を泰東、崇禎元年に襲封した。卒し、子聞達、字を象輿、十四年に襲封した。

原文曾質粹,字好古,吉安永豐人,宗聖五十九代孫也。其先,都鄉侯據避新莽之亂,徙家豫章,子孫散居撫、吉諸郡間。成化初,山東守臣上言:「嘉祥縣南武山西南,元寨山之東麓,有漁者陷入穴中,得懸棺,碣曰曾參之墓。」詔加修築。正德間,山東僉事錢鋐訪得曾子之後一人於嘉祥山中,未幾而沒。嘉靖十二年,以學士顧鼎臣言,詔求嫡嗣。於是江西撫按以質粹名聞,命回嘉祥,以衣巾奉祀。十八年,授翰林院《五經》博士,子孫世襲。三十九年卒。子昊,未襲卒。昊子繼祖,字繩之,少病目,江西族人袞謀奪其職,為給事中劉不息、御史劉光國所糾,於是罷袞官,而繼祖仍主祀事。卒,子承業,字洪福,萬歷五年襲。卒,子弘毅,字泰東,崇禎元年襲。卒,子聞達,字象輿,十四年襲。

孔聞礼は字を知節といい、衍聖公聞韶の弟なり。正徳二年、詔して翰林院『五経』博士を授け、以て述聖の祀事を奉ぜしむ。この後より、世々衍聖公の弟を以てこれに当たらしむ。聞礼卒し、嘉靖二十五年、貞寧字を用致襲封した。卒し、万暦二十二年、蔭桂襲封した。卒し、天啓二年、蔭隆襲封した。卒し、八年、尚達襲封した。卒し、崇禎十年、蔭相襲封した。卒し、十四年、蔭錫襲封した。卒し、十六年、蔭鈺襲封した。

原文孔聞禮,字知節,衍聖公聞韶弟也。正德二年詔授翰林院《五經》博士,以奉述聖祀事。自後,世以衍聖公弟為之。聞禮卒,嘉靖二十五年,貞寧字用致襲。卒,萬歷二十二年,蔭桂襲。卒,天啟二年,蔭隆襲。卒,八年,尚達襲。卒,崇禎十年,蔭相襲。卒,十四年,蔭錫襲。卒,十六年,蔭鈺襲。

孟希文は字を士煥といい、亜聖五十六代の孫なり。洪武元年、詔して孟子五十四代の孫思諒を以て祭祀を奉ぜしめ、世々その家を復す。思諒は字を友道といい、子克仁は字を信夫という。克仁の子希文。景泰三年、希文に翰林院『五経』博士を授け、子孫世襲せしむ。卒し、子元、字を長伯、弘治二年に襲封した。卒し、子公棨幼く、嘉靖二年、元の弟亨の子公肇を以て襲封せしむ。公肇は字を先文といい、少にして学を好み、継母孔氏に事え、孝を以て聞こゆ。卒し、十二年、仍く公棨を以て襲封せしむ。公棨は字を橐文という。卒し、子彦璞、字を朝璽、隆慶元年に襲封した。卒し、子承光、万暦二十九年に襲封した。卒し、子弘譽、天啓三年に襲封した。卒し、子聞玉、崇禎二年に襲封した。

原文孟希文,字士煥,亞聖五十六代孫也。洪武元年詔以孟子五十四代孫思諒奉祀,世復其家。思諒,字友道,子克仁,字信夫。克仁子希文。景泰三年授希文翰林院《五經》博士,子孫世襲。卒,子元,字長伯,弘治二年襲。卒,子公棨幼,嘉靖二年以元弟亨之子公肇襲。公肇,字先文,少好學,事繼母孔氏,以孝聞。卒,十二年,仍以公棨襲。公棨,字橐文。卒,子彥璞,字朝璽,隆慶元年襲。卒,子承光,萬歷二十九年襲。卒,子弘譽,天啟三年襲。卒,子聞玉,崇禎二年襲。

仲於陛は、先賢仲子の六十二代孫である。万暦十五年、詔して仲子の五十九代孫呂を奉祀と為す。呂の子は銓。銓の子は則顯。則顯の子は於陛。崇禎十六年、衍聖公孔蔭植の言により、詔して於陛に翰林院五経博士を授け、子孫世襲とし、泗水県・済寧州の田六十余頃、廟戸三十一を賜い、以てその祭祀を奉ぜしむ。

原文仲於陛,先賢仲子六十二代孫也。萬歷十五年詔以仲子五十九代孫呂為奉祀。呂子銓。銓子則顯。則顯子於陛。崇禎十六年以衍聖公孔蔭植言,詔授於陛翰林院《五經》博士,子孫世襲,賜泗水縣、濟寧州田六十餘頃,廟戶三十一,以奉其祭祀焉。

周冕は、先賢元公周子の十二代孫である。その先祖は道州の人、熙寧中、周子は母を江州に葬り、子孫は因って廬山蓮花峰下に家す。景泰七年、冕に翰林院五経博士を授け、子孫世襲とし、郷里に還りて周子の祀事を奉ぜしむ。卒す、子繡麟襲ぐ。卒す、子道襲ぐ。卒す、子聯芳襲ぐ。卒す、子濟襲ぐ。卒す、従弟汝忠襲ぐ。卒す、子蓮應襲ぐ。

原文周冕,先賢元公周子十二代孫也。其先,道州人,熙寧中,周子葬母江州,子孫因家廬山蓮花峰下。景泰七年,授冕翰林院《五經》博士,子孫世襲,還鄉以奉周子祀事。卒,子繡麟襲。卒,子道襲。卒,子聯芳襲。卒,子濟襲。卒,從弟汝忠襲。卒,子蓮應襲。

程接道は、先賢正公程子の後裔である。宋の淳熙年間、純公程子の五世孫に江寧に居る者あり、嘗て金陵書院の祀事を主る。卒す、名を幼学とする者を以て之を承く。明初に伝を失う。崇禎三年、河南巡按李日宣、正公の後裔を以てその嗣と為すを請う、詔して之を許し、遂に接道を翰林院五経博士と為し、子孫世襲とす。十四年、土賊於大忠乱を作す、接道力めて拒ぎ、之に死す。

原文程接道,先賢正公程子後也。宋淳熙間,純公程子五世孫有居江寧者,嘗主金陵書院祀事。卒,以名幼學者承之。明初失傳。崇禎三年,河南巡按李日宣請以正公之後為之嗣,詔許之,遂以接道為翰林院《五經》博士,子孫世襲。十四年,土賊於大忠作亂,接道力拒,死之。

程克仁は、先賢正公程子の十七代孫なり、世に嵩県の六渾に居す。景泰六年、翰林院五経博士を授け、子孫世襲とし、以て程子の祀事を奉ぜしむ。卒す、子継祖襲ぐ。卒す、仲子世宥襲ぐ。卒す、子心伝襲ぐ。心伝は荘重にして寡言、郷党に称せらる。卒す、弟宗益襲ぐ。卒す、従子佳引襲ぐ。卒す、従弟佳祚襲ぐ。崇禎十四年、土賊於大忠に殺さる。

原文程克仁,先賢正公程子十七代孫也,世居嵩縣之六渾。景泰六年授翰林院《五經》博士,子孫世襲,以奉程子祀事。卒,子繼祖襲。卒,仲子世宥襲。卒,子心傳襲。心傳莊重寡言,為鄉黨所稱。卒,弟宗益襲。卒,從子佳引襲。卒,從弟佳祚襲。崇禎十四年為土賊於大忠所殺。

張文運は、郿の人、先賢明公張子の十四代孫なり。天啓二年、翰林院五経博士を授け、子孫世襲とし、以て張子の祀事を奉ぜしむ。崇禎三年卒す、子承引、父憂に因り未だ襲がず。六年卒す、子元祥、本朝康熙元年襲ぐ。

原文張文運,郿人,先賢明公張子十四代孫也。天啟二年授翰林院《五經》博士,子孫世襲,以奉張子祀事。崇禎三年卒,子承引,以父憂未襲。六年卒,子元祥,本朝康熙元年襲。

邵繼祖は、洛陽の人、先賢康節公邵子の二十七代孫なり。崇禎三年、河南巡按吳甡、繼祖を以て翰林院五経博士と為し、子孫世襲とし、以て邵子の祀事を奉ぜしむを請う。詔して之に従う。卒す、子養醇襲ぐ。

原文邵繼祖,洛陽人,先賢康節公邵子二十七代孫也。崇禎三年,河南巡按吳甡請以繼祖為翰林院《五經》博士,子孫世襲,以奉邵子祀事。詔從之。卒,子養醇襲。

朱梴は、字は孟齢、先賢文公朱子の九世孫なり、世に福建建安県の紫霞洲に居す。景泰六年、翰林院五経博士を授け、子孫世襲とし、以て朱子の祀事を奉ぜしむ。梴は人となり淳謹、言動に則あり。卒す、子燉、字は孔暉襲ぐ。燉は事に因り都に入る、中途に盗に遇う。未幾、道上に金を遺す者有り、燉之を守り、以て其人に還す、人其の廉介を称す。卒す、子塋、字は元厚襲ぐ。卒す、子鎏襲ぐ。卒す、子法、字は兆祖襲ぐ。法は人となり孝友なり。卒す、子楗、字は士啟襲ぐ。卒す、子瑩、字は惟玉襲ぐ。卒す、子之俊、字は喬之襲ぐ。

原文朱梴,字孟齡,先賢文公朱子九世孫也,世居福建建安縣之紫霞洲。景泰六年授翰林院《五經》博士,子孫世襲,以奉朱子祀事。梴為人淳謹,言動有則。卒,子燉,字孔暉襲。燉以事入都,中途遇盜。未幾,有遺金道上者,燉守之,以還其人,人稱其廉介。卒,子塋,字元厚襲。卒,子鎏襲。卒,子法,字兆祖襲。法為人孝友。卒,子楗,字士啟襲。卒,子瑩,字惟玉襲。卒,子之俊,字喬之襲。

朱墅は、先賢文公朱子の十一世孫なり。正徳年間、給事中戴銑・汪元錫、御史王完等相継いで言う、「朱子は、孔子を継ぐ者なり。孔子の後には曲阜・西安有り、朱子の後にも亦た建安・婺源有り。今建安の恩典已に隆し、婺源に在る者、闕里の例に依り、其の子孫一人を録し、量りて官を授け、俾く祠事を掌らしむるを請う。」詔して之を許す。嘉靖二年、墅に翰林院五経博士を授く。三十八年、本学訓導席端の言に因り、其の世襲を令す。墅卒す、子鎬襲ぐ。卒す、子德洪襲ぐ。卒す、子邦相襲ぐ。卒す、子煜襲ぐ。卒す、子坤襲ぐ。

原文朱墅,先賢文公朱子十一世孫也。正德間,給事中戴銑、汪元錫,御史王完等相繼言:「朱子,繼孔子者也。孔子之後有曲阜、西安,朱子之後亦有建安、婺源。今建安恩典已隆,在婺源者,請依闕里之例,錄其子孫一人,量授以官,俾掌祠事。」詔許之。嘉靖二年授墅翰林院《五經》博士。三十八年以本學訓導席端言,令其世襲。墅卒,子鎬襲。卒,子德洪襲。卒,子邦相襲。卒,子煜襲。卒,子坤襲。