明史

列傳第一百七十一 儒林二

◎儒林二

○陳獻章(李承箕・張詡)・婁諒(夏尚樸)・賀欽・陳茂烈・湛若水(蔣信等)・鄒守益(子善等)・錢德洪(徐愛等)・王畿(王艮等)・歐陽德(族人瑜)・羅洪先(程文德)・吳悌(子仁度)・何廷仁(劉邦りゅうほう采・魏良政等)・王時槐・許孚遠・尤時熙(張後覺等)・鄧以贊(張元以下忭)・孟化鯉(孟秋)・來知德・鄧元錫(劉元卿・章潢)

陳獻章、字は公甫、新會の人である。正統十二年の郷試に挙げられ、再び礼部に上ったが、及第しなかった。呉與弼に従って講学した。半年ばかり住んで帰り、日夜を分かたず読書に努めた。陽春臺を築き、その中に静坐し、数年戸外に足跡を残さなかった。久しくして、また太学に遊学した。祭酒の邢讓が楊時の『此日不再得』の詩に和する一篇を試みさせたところ、驚いて言うには、「龜山(楊時)に及ばない」と。朝廷に言い広め、真の儒者が再び現れたと認めた。これによって名声は京師に震動した。給事中の賀欽がその議論を聞き、即日に上疏して官を辞し、弟子の礼を執って献章に師事した。献章は帰った後、四方より来て学ぶ者が日々増えた。広東布政使の彭韶・総督の朱英が相次いで推薦した。召されて京に至り、吏部で試験を受けるよう命じられた。たびたび病気を理由に辞し赴かず、上疏して終身の孝養を乞い、翰林院検討を授けられて帰った。南安に至ると、知府の張弼がその官を拝したことを疑い、與弼と異なるのではないかと問うた。答えて言うには、「呉先生は布衣の身で石亨に推薦されたため、官職を受けずに秘書を閲覧することを求め、主上を開悟させることを望んだのである。時の宰相は悟らず、先に官職を受けさせてから書を観るよう命じたので、先生の意に大いに背き、遂に去ることを決めたのである。献章は国子生として選を待つ身であり、どうして偽りの言葉で虚誉を釣ろうなどとしようか」と。これ以後たびたび推薦されたが、ついに起用されなかった。

献章の学は、静を主とする。学者を教えるに、ただ端坐して心を澄ませ、静中に端倪を養い出すことを命じた。ある者が著述を勧めても、答えなかった。かつて自ら言うには、「私は二十七歳の時、初めて呉聘君(與弼)に従って学び、古の聖賢の書について講じないものはなかったが、しかし入る処を知らなかった。白沙に帰ってからは、専ら力を用いる方法を求め、またついに得るところがなかった。ここにおいて繁を捨てて約を求め、久しく静坐した後、わが心の体が隠然として現れるのを見、日用の応酬はわが欲するままに従い、馬が轡を御するようになった」と。その学は洒然として独得するところがあり、論者は鳶飛魚躍の楽しみがあると言い、蘭溪の姜麟に至っては「生きている孟子」とまで言った。

献章は儀表が立派で背が高く、右頬に七つの黒子があった。母は二十四歳で節を守り、献章はこれに事えて至孝であった。母が何かを思うと、たちまち心が動き、すぐに帰った。弘治十三年に卒し、七十三歳であった。万暦初年、孔廟に従祀され、文恭と追謚された。

門人の李承箕、字は世卿、嘉魚の人である。成化二十二年に郷試に挙げられた。献章に師事しに行き、献章は日々彼と山水に登り跋渉し、投壺や詩を賦し、古今の事を縦横に論じたが、ただ道に関する一言もなかった。久しくして、承箕は悟るところがあり、辞して帰り、黄公山に隠居し、再び仕えなかった。兄の進士承芳とともに、皆好学で、嘉魚の二李と称された。卒年五十四歳。

張詡、字は廷実、南海の人で、また献章に師事した。成化二十年に進士に挙げられ、戸部主事を授けられた。まもなく父母の喪に服し、たびたび推薦されたが起用されなかった。正徳年間、召されて南京通政司参議となったが、一度孝陵に謁しただけで告帰した。献章はその学は自然を宗とし、己を忘れることを大とし、無欲を至とすると言った。卒年六十歳。

婁諒、字は克貞、上饒の人である。若くして絶学を志した。呉與弼が臨川にいると聞き、往ってこれに従った。ある日、與弼が畑を耕している時、諒を呼んで見に行かせ、学者は細務に親しまねばならないと言った。諒はもともと豪邁であったが、これによって節を折り、掃除のようなことでも必ず自ら行った。景泰四年に郷試に挙げられた。天順末年、選ばれて成都訓導となった。まもなく告帰し、門を閉じて著書し、『日録』四十巻・『三禮訂訛』四十巻を成した。『周礼』は皆天子の礼であり、国礼であると言い、『儀礼』は皆公卿大夫士庶人の礼であり、家礼であると言った。『礼記』を二経の伝とし、各篇に分けて附し、『冠礼』に『冠義』を附するの類とした。各篇に附し得ないものは、各一経の後に附し、一経に附し得ないものは、二経の後に総べて附した。諸儒が附会したものは、程子の論によってこれを退けた。『春秋本意』十二篇を著し、三伝の事実を採らず、「是非は必ず三伝を待って後明らかになるならば、これは『春秋』を棄てた書とするものだ」と言った。その学は放心を収めることを居敬の門とし、何を思い何を慮ることもなく、忘れず助けずを居敬の要旨とした。しかし当時、胡居仁はその陸子(九淵)に近いことをかなり譏り、後には羅欽順もその禅学に似ていると言った。

子の忱、字は誠善、父の学を伝えた。娘は寧王宸濠の妃となり、賢い評判があり、かつて王に反すなと勧めた。王は聞き入れず、ついに反した。諒の子孫は皆捕らえられ、遺文は遂に散逸した。

門人の夏尚樸、字は敦夫、広信永豊の人である。正徳初年、会試に赴いて京に至った。劉瑾が政を乱すのを見て、慨然として嘆いて言うには、「時事がこのようであるのに、まだ進んで仕えることができようか」と。試験を受けずに帰った。六年に進士となり、南京礼部主事を授けられた。凶年に際し、救荒に関する数事を条上した。再び遷って惠州知府となり、弾劾の上書を投じて帰った。嘉靖初年、起用されて山東提学副使となった。抜擢されて南京太僕少卿となり、魏校・湛若水らと日々講習し合った。言官が大学士桂萼を弾劾し、言葉が尚樸に連なった。吏部尚書の方献夫がその私心なきことを弁明し、まもなく病気を理由に帰った。早年、諒に師事し、主敬の学を伝え、常に「才(心)を提起すれば、これすなわち天理である。才を放下すれば、これすなわち人欲である」と言った。魏校は大いにこれを称えた。著すところに『中庸語』・『東巖文集』がある。王守仁も若い時、かつて諒に学業を受けた。

賀欽、字は克恭、義州衛の人である。若くして好学で、『近思録』を読んで悟るところがあった。成化二年に進士として戸科給事中を授けられた。後に陳献章に師事した。帰った後、その像を描いてこれに事えた。

弘治元年に改元し、閣臣の推薦により、起用されて陝西参議となった。檄文が届く前に母が死去したので、上疏して懇ろに辞任を請い、かつ四事を陳述した。第一に、今日の要務は経筵に先んずるものはなく、真の儒者を広く訪ねて啓発補佐に資すべきであると述べた。第二に、検討陳献章は学術が醇正で、大賢と称すべきであり、非常の礼をもって起用し、あるいは大政に参与させ、あるいは経筵を担当させて君徳を養うべきであると推薦した。第三に、内官の職掌は『祖訓』に記載されており、洒掃を備え、啓閉を司るに過ぎない。近ごろの王振・曹吉祥・汪直らのように、機宜に参与し、政令を干渉し、権勢を招き寵愛を受け、功を邀え釁を啓いた者、あるいは左道を引き入れ、淫巧を進めて主上の心を蕩かす者がいる。国を誤り民を殃するもの、これより甚だしいものはない。将来を慎んで整え、内にあっては政事に干与させず、外にあっては地方を鎮守させ兵権を掌握させてはならない。第四に、礼楽を興して天下を化導すべきである。「陛下が基を継がれた当初、朱子の喪葬の礼を行われたが、頽敗した習俗は依然として改まらない。正礼を申明し、教坊の俗楽を革去して、治化を広められたい。」疏は凡そ数万言に及んだ。奏上されると、聞き届けられた。正徳四年、劉瑾が遼東の田地を収奪すると、東人は震恐し、義州の守はまた貪欲で横暴であったため、民が変を起こし、衆を集めて劫掠した。互いに戒め合って言うには、「賀黄門を驚かすな」と。賀欽はこれを聞くと、急ぎ禍福を諭し、自らその責を負ったので、乱は遂に平定した。賀欽の学問は広く渉猟することを務めず、専ら『四書』・『六経』・『小学』を読み、反身実践を期した。学問は高遠を求める必要はなく、主敬によって放心を収めるに在るのみであると言った。七十四歳で卒した。子の士諮は郷貢士となり、かつて十二事を陳べて王政を論じたが、回答はなかった。終身仕官しなかった。

陳茂烈は、字を時周といい、莆田の人である。十八歳の時、『省克録』を作り、顔回の己に克つこと、曾子の日に省みることは、学ぶべき法であると言った。弘治八年に進士に挙げられた。広東に使いとして赴き、陳献章の門で学業を受け、献章は主静の学を語った。退いて張詡と論難し、『静思録』を作った。まもなく吉安府推官に任じられ、考績で淮河を渡る時、寒さに綿入れの衣がなく、凍えて危うく死にかけた。入朝して監察御史となると、袍服は質素で粗末、疲れた馬に乗り、人々は見て敬った。母が老齢のため終養を請うた。母を養う以外には、一つの帷帳も整えなかった。畑を耕し水を汲むことを、自ら操作した。太守がその労苦を聞き、二人の卒を送って助けさせたが、三日で返還させた。吏部はその貧しさゆえに、晋江教諭の禄を与えたが、受けなかった。また月米を給するよう上奏すると、上書して言った。「臣は元来貧しく、食事はもとより倹約粗食である。故に臣の母は臣の家に自ら安んじておられ、臣もまた自らその貧しさを免れることができるのであり、人に及ぼす清廉や己の孝を尽くすものではありません。古人が雇われて働き米を背負ったのも、皆親のためでした。臣の貧しさはまだそこまで至っておりません。しかし臣の母は臣を苦労して育てられ、今年八十六歳、来る日多くありません。臣は自ら心力を尽くしたいと願いますが、なお及ばないことを恐れ、上って官帑を煩わせるのは、心ひそかに安んじません。」奏上されたが許されなかった。母が卒すると、茂烈もまた卒した。

茂烈が諸生であった時、韓文が莆田の人物について林俊に問うと、「從吾(彭時の字)である」と言った。また問うと、「時周である」と言い、かつ「時周と語ると、重い病がたちまち去る」と言った。そのように重んじられていたのである。

湛若水は、字を元明といい、増城の人である。弘治五年に郷試に合格し、陳献章に従って遊学し、仕進を楽しまなかった。母の命により出仕し、南京国子監に入った。十八年の会試で、学士張元禎・楊廷和が考官となり、その答案を撫でて言うには、「白沙(陳献章)の門徒でなければこのようなものは書けない」と。第二に置いた。進士を賜り、庶吉士に選ばれ、翰林院編修に任じられた。時に王守仁が吏部で講学し、若水はこれと応和した。まもなく母の喪に服し、墓側に廬して三年を過ごした。西樵に講舎を築き、学びに来る士子には、先ず礼を習わせ、それから講義を聴かせた。嘉靖初年、入朝し、経筵講学の疏を上し、聖学は仁を求めることを要とすると述べた。既にしてまた上疏して言った。「陛下の初政は、次第に終わりを保てなくなっている。左右の近侍が声色異教を争って主上の心を蠱惑している。大臣の林俊・孫交らは法を守ることができず、多く自ら去っている。寒心に堪えません。急ぎ賢に親しみ奸を遠ざけ、理を窮め学を講じ、太平の業を隆盛にされるよう請います。」また日講を停止すべきでないと上疏し、聞き届けられた。翌年侍読に進み、また上疏して言った。「一二年の間、天変地震、山崩川湧、人饑えて相食むことが、殆ど月を虚しくしない。聖人は屯否の時だからといって賢の訓えを顧みず、明医は深く錮った病だからといって元気の薬剤を廃さない。広く先王の道を修明する者を求めて、日に文華殿に侍らせ、聖学を補うべきです。」既にして、南京国子監祭酒に転じ、『心性図説』を作って士子を教えた。礼部侍郎に拝された。『大学衍義補』にならい、『格物通』を作り、朝廷に上った。歴任して南京吏部・礼部・兵部の三部尚書となった。南京は奢侈を尚ぶ傾向にあったので、喪葬の制を定めて頒行した。老齢となり、致仕を請うた。九十五歳で卒した。

若水は生平、至る所で必ず書院を建てて献章を祀った。九十歳になっても、なお南京に遊んだ。江西を過ぎる時、安福の鄒守益は、守仁の弟子であるが、同志に戒めて言った。「甘泉先生(湛若水)が来られる。我々は老を憲(手本)として乞言(教えを請う)すべきであり、慎んで軽々しく論弁してはならない。」若水は初め守仁と共に講学したが、後それぞれ宗旨を立て、守仁は致良知を宗旨とし、若水は随処に天理を体験することを宗旨とした。守仁は若水の学問を外に求めるものと言い、若水もまた守仁の格物の説が信じがたい四点があると言った。また言うには、「陽明(王守仁)と私が言う心は同じではない。陽明の所謂る心は、方寸(心臓)を指して言う。私の所謂る心は、万物を体して遺すことなきものである。故に私の説を外とするのである。」一時の学者は遂に王・湛の学に分かれた。

湛氏の門人で最も著名な者は、永豊の呂懷・徳安の何遷・婺源の洪垣・帰安の唐樞である。呂懷は変化気質を説き、何遷は知止を説き、唐樞は求真心を説き、おおよそ王・湛両家の間に出入りしながら、別に一義をなした。洪垣は両家の調停を主とし、互いにその失を救った。皆師説を守り尽くさなかったのである。呂懷は字を汝徳といい、南京太僕少卿となった。何遷は字を益之といい、南京刑部侍郎となった。洪垣は字を峻之といい、温州府知府となった。唐樞は刑部主事となり、李福達の事を疏論して罷免され帰郷し、独自の伝がある。

蔣信は、字を卿実といい、常徳の人である。十四歳の時、喪に服して憔悴した。同郡の冀元亨と親しく、王守仁が龍場に謫された時、その地を通り、冀元亨と共に師事した。嘉靖初年、貢挙されて京師に入り、また湛若水に師事した。若水が南祭酒となると、門下の士は多く分教した。十一年に至り進士に挙げられ、累官して四川水利僉事となった。播州土官の賄賂を退け、妖道士を法に処した。貴州提学副使に転じた。書院を二つ建て、多くの俊秀の士をその中に廩した。龍場にはもと守仁の祠があり、祠田を設けた。職守を擅に離れた罪に坐し、除名された。蔣信は初め守仁に従って遊学した時、良知の教えは受けなかった。後に若水に従って遊学したのが最も長く、学問は湛氏から得たところが多い。蔣信は践履が篤実で、虚談を事としなかった。湖南の学者はその教えを宗とし、正学先生と称した。七十九歳で卒した。時に宜興の周沖は、字を道通といい、また王・湛の門に遊学した。挙人から高安訓導に任じられ、唐府紀善に至った。かつて言うには、「湛氏の体認天理は、即ち王氏の致良知である」と。蔣信と共に師説を集めて『新泉問辨録』とした。両家の門人は互いに非笑しあったが、周沖はその旨を疏通したのである。

鄒守益は、字を謙之といい、安福の人である。父の賢は、字を恢才といい、弘治九年の進士となった。南京大理評事に任じられ、しばしば条奏を上書し、福建僉事を歴任し、武平の賊の首領黄友勝を捕らえて殺した。家にあっては孝友をもって称された。

守益は正徳六年の会試で第一となり、王守仁の門下に出た。廷対で第三位となり、翰林院編修に任じられた。一年余りして帰郷を願い出、守仁を訪ね、贛州で講学した。宸濠が反乱を起こすと、守仁の軍事に参与した。世宗が即位してから、初めて官に赴いた。嘉靖三年二月、帝は興献帝の本生の称を除こうとした。守益が上疏して諫めたが、帝の意に逆らい、責められた。一月余りして、再び上疏して言うには、

陛下は本生の恩を隆盛にしようと、しばしば群臣を下して会議させられたが、群臣は礼に拠って正論を述べ、詰責を受けるに至り、巷間では孝長子と称されている。昔、曾元は父が病臥し、寝台の敷物を替えるのを憚ったが、それは愛の極みであった。しかし曾子はこれを責めて「姑息」と言った。魯公が天子の礼楽を受けて周公を祀ったのは、尊崇の極みであった。しかし孔子はこれを悲しんで「周公其れ衰えんか」と言った。臣は願わくば、陛下が姑息をもって献帝に仕え、後世にその衰えを嘆かせることがないように。かつ群臣は経書を引き古を証し、陛下が専ら正統に意を用いられるよう望んだ。これらは皆、陛下への忠謀であるのに、察することなく督過し、逆らいかつ侮慢であるとおっしゃる。臣が歴史上を見るに、冷褒・段猶の徒は、当時は忠愛と称されたが、後世では邪媚として斥けられている。師丹・司馬光の徒は、当時は欺慢と称されたが、後世では正直として仰がれている。後世が今を見るのは、今が古を見るのと同じである。陛下が過ちを改めることを惜しまず、群臣の忠愛を察し、信じて用い、国を去った者を再び召し還し、奸人が国是を動揺させ、宮闈を離間することを許さないよう望む。

昔、先帝が南巡された時、群臣が相次いで上章して諫阻したが、先帝は赫然として怒られた。これは欺慢として罪とすべきではなかったか。陛下が藩邸におられた時これを聞かれ、必ずこれを以て先帝への尽忠とされたであろう。今、大統を継がれて、ただ群臣が陛下に尽忠することをお許しにならないのか。

帝は大いに怒り、詔獄に下して拷掠し、広德州判官に左遷した。(守益は)淫祠を廃し、復初書院を建て、学者と共にそこで講授した。やがて南京礼部郎中に転じ、州人は生祠を立てて祀った。守仁の訃報を聞き、位牌を設けて哭し、心喪に服し、日々呂柟・湛若水・錢德洪・王畿・薛侃らと論学した。考満して都に入ったが、すぐに病を理由に帰郷した。久しくして、推薦により南京吏部郎中として起用され、召されて司経局洗馬となった。守益は太子が幼く、まだ出閣できていないとして、霍韜と共に『聖功図』を上呈し、神堯(堯)の茅茨土階から、帝の西苑における耕稼蠶桑に至るまで、合わせて十三の図とした。帝はこれを誹謗とみなし、危うく罪を得るところであったが、霍韜が帝に知られていたおかげで事なきを得た。翌年、太常少卿兼侍読学士に転じ、出て南京翰林院を掌ったが、夏言が遠ざけようとしたのである。御史毛愷が東宮に侍するよう留任を請うたが、左遷された。まもなく南京祭酒に改めた。九廟の災害があり、守益は上下交修の道を陳べ、「殷の中宗・高宗は、妖を祥に反らせ、国を享くること長久であった」と言った。帝は大いに怒り、職を奪って帰郷させた。

守益の天資は純粋であった。守仁はかつて言った、「有にして無の如く、実にして虚の如く、犯されても報いず、謙之(守益)はこれに近い」。郷里に居て、日々講学に事とし、四方から遊学する者が踵を接して至り、学者は東廓先生と称した。家に居ること二十余年で卒去した。隆慶初年、南京礼部右侍郎を追贈され、諡は文莊。

先に、守仁が山東の郷試を主考した時、堂邑の穆孔暉が第一となり、後に侍講学士に至り、卒去して礼部右侍郎を追贈され、諡は文簡となった。孔暉は端正で学を好み、初めは守仁の説を宗としようとしなかったが、久しくして篤く信じるようになり、自ら王氏の学と称し、次第に仏教に浸透していった。しかし守益は戒懼慎独においては、まことに兢兢としていた。

子の善は、嘉靖三十五年の進士となった。刑部員外郎として湖広で恤刑を行い、哀れんで釈放する者が甚だ多かった。山東提学僉事に抜擢され、時に諸生と講学した。万暦初年、累官して広東右布政使となり、病を理由に辞任して帰郷した。久しくして、推薦により家にあって太常卿を授かり、致仕した。子に德涵・德溥がいる。德涵は、字を汝海といい、隆慶五年の進士となった。刑部員外郎を歴任した。張居正が講学を禁じていたが、德涵は平然とこれを守った。御史傅応禎・劉臺が相次いで居正を論劾したが、二人とも德涵の同郷であり、党と疑われ、河南僉事に出された。御史が風旨を奉じてこれを弾劾し、官位を下げられて帰郷した。善は父の教えを服習し、実践して怠ることがなく、その家学を称えられた。しかし德涵は耿定理に遊学したが、定理は答えなかった。発憤して深く思索し、自ら得るところがあると悟り、ここにおいて専ら悟りを宗旨とし、祖父・父から伝えられたものに対して、初めて一変させたのである。德溥は、万暦十一年の進士より出た。司経局洗馬を歴任した。善の従子德泳は、万暦十四年の進士となった。御史に任官した。給事中李献可が太子の予備教育を請うたが、庶民に斥けられた。德泳は同官と共にこれを救おうとしたが、またも官籍を削られた。家に居ること三十年、言官が相次いで推薦した。光宗が立つと、尚宝少卿として起用され、太常卿を歴任した。魏忠賢が権力を握ると、致仕を願い出て帰郷した。所司が忠賢のために生祠を建てようとしたが、德泳がその募金簿を塗り潰したので、やめた。

錢德洪は、名は寬、字は德洪といい、後に字をもって行われ、字を洪甫と改めた。余姚の人である。王守仁が尚書を辞して郷里に帰った時、德洪は数十人と共に学んだ。四方の士が踵を接して至り、德洪と王畿が先にその大旨を疏通し、その後守仁に卒業した。嘉靖五年に会試に合格したが、直ちに帰郷した。七年冬、畿と共に廷試に赴こうとしたが、守仁の訃報を聞き、喪に奔って貴溪に至った。喪服について議すると、德洪は「私には親がおりますので、麻衣布绖を敢えて加えることはできません」と言い、畿は「私は親がいません」と言って斬衰を服した。喪が帰ると、德洪と畿は墓場に小屋を築き、心喪を終えた。十一年にようやく進士となった。累官して刑部郎中となった。郭勛が詔獄に下され、刑部に移送されて罪を定めることになったが、德洪は獄詞に拠って死罪と論じた。廷臣は不軌の罪に坐そうとし、德洪は刑名に習熟していないと言った。しかし帝は元より勛を死なせたくなかったので、言官の上疏により、德洪を詔獄に下した。所司がその罪状を上奏した時には、既に獄を出ていた。帝は「初め朕は刑官に勛を枷鎖するなと命じたのに、德洪は故意にこれに違反した。勛が勅書を受け取らなかったのと何が違うのか」と言い、再び獄に下した。御史楊爵・都督ととく趙卿もまた囚われていたが、德洪は彼らと『易経』を講じて止まなかった。久しくして、庶民に斥けられた。德洪は既に廃された後、四方を周遊し、良知学を講じた。当時、士大夫は概ね講学を務めて名声を高めようとしたが、德洪と畿は守仁の高弟として、特に人々の宗とされた。德洪の徹悟は畿に及ばず、畿の持循も德洪に及ばなかったが、しかし畿はついに禅に入り、德洪はなお儒者の矩矱を失わなかったという。

穆宗が立つと、官に復し、朝列大夫に進階し、致仕した。神宗が嗣位すると、さらに一階を進められた。七十九歳で卒去した。学者は緒山先生と称した。

初め、守仁がその郷里で道を倡えた時、隣境から遊学する者が甚だ多く、德洪と畿がその首となった。その最初に受業した者には、余姚の徐愛、山陰の蔡宗袞・朱節および応良・盧可久・応典・董涷の類がいる。

徐愛、字は曰仁、守仁の女弟の夫なり。正徳三年の進士。官は南京工部郎中に至る。良知の説、学者初め多く未だ信ぜず、愛これを疏通弁析し、その指要を暢にす。守仁言う、「徐生の温恭、蔡生の沈潜、朱生の明敏、皆我の及ばざる所なり」と。愛卒す、年三十一、守仁これを哭して慟す。一日講畢りて、嘆じて曰く、「安んぞ曰仁を起して九泉に斯の言を聞かしめんや」と。門人を率いて其の墓所に詣り、酒を酹ぎて之に告ぐ。

蔡宗袞、字は希淵。正徳十二年の進士。官は四川提学僉事に至る。

朱節、字は守中。正徳八年の進士。御史となり、山東を巡按す。大盗顔神鎮に起こり、州県十数に蔓る。戎馬の間に馳駆し、労して卒す。光禄少卿を贈られる。

応良、字は原忠、仙居の人。正徳六年の進士。官は編修。守仁吏部に在りし時、良学ぶ。親老して帰養し、山中に講学すること将に十年。嘉靖初、任に還り、闕に伏して大礼を争い、廷杖を受く。張璁翰林を外官に黜す、良は山西副使を得、病を謝して帰り、卒す。

盧可久、字は一松。程粹、字は養之。皆な永康の諸生。同邑の応典とともに、皆な守仁に師事す。粹の子正誼、順天府尹を歴任す。

応典、字は天彜。進士。官は兵部主事。家に居て母を養い、栄利を希わず。通籍三十年、在官は止まること一考。

可久は東陽の杜惟熙に伝え、惟熙は同邑の陳時芳・陳正道に伝う。惟熙は己に克つことを要とし、嘗て言う、「学者一息も昧まずんば、則ち万古皆な通ず。一刻も少しく寬ぐあらば、即ち終朝欠く」と。卒す年八十余。時芳は博覧多聞にして、而して実践に帰す。歳貢して仕えず。正道は建安の訓導となり、年八十余、猶ほ徒歩にて五峰の講会に赴く。其の門人呂一龍、永康の人、言動苟もせず、学者皆な之を宗とす。

董澐、字は子寿、海寧の人。年六十八、会稽に遊び、瓢笠と詩巻を肩にして守仁に謁し、遂に弟子たることを請う。子の谷、官は知県、亦た守仁に受業す。

王畿、字は汝中、山陰の人。弱冠に郷挙せられ、跌宕自ら喜ぶ。後に王守仁に受業し、其の言を聞きて底滞無く、守仁大いに喜ぶ。嘉靖五年進士に挙げられ、銭徳洪とともに廷対に就かずして帰る。守仁思・田を征するに当たり、畿・徳洪を留めて書院を主らしむ。已にして守仁の喪に奔り、葬事を経紀し、心喪を三年持す。久しくして、徳洪とともに進士に第せらる。南京兵部主事を授けられ、郎中に進む。給事中戚賢等、畿を薦む。夏言、畿を偽学と斥け、賢の職を奪う、畿乃ち病を謝して帰る。畿嘗て云う、「学は当に知を致し性を見るのみ、事に応ずるに小過有りとて足れりと累しむるに足らず」と。故に在官免れず幹請し、不謹を以て斥けらる。畿既に廢せられ、益々講学に務め、足跡東南に遍く、呉・楚・閩・越皆な講舎有り、年八十余にして肯て已まず。談説を善くし、能く人を動かし、至る所聴者雲集す。毎に講ずるに、禅機を雑え、亦た自ら諱まず。学者龍渓先生と称す。其の後、士の浮誕逞わざる者、率ね自ら龍渓の弟子と名乗る。而して泰州の王艮も亦た守仁に受業し、門徒の盛んなること、畿と相埒し、学者心斎先生と称す。陽明学派、龍渓・心斎を以て其の宗を得たりとす。

艮、字は汝止。初め名は銀、王守仁之が為に名を更む。七歳郷塾に書を受け、貧しくして学を竟うる能わず。父は竈丁、冬の晨寒を犯し、官に役す。艮哭して曰く、「人子として、父をして此に至らしむ、人と為るを得んや」と。出でて父の役に代わり、入りて定省するに、惟だ謹みたり。艮書を読み、止まる所《孝経》《論語》《大学》、口に任せて談説し、理解に中る。客艮の言を聞き、詫びて言う、「何ぞ王中丞の語に類する」と。艮乃ち守仁を江西に謁し、守仁と久しく弁じ、大いに服し、拝して弟子と為る。明日之に悔ゆるを告げ、復た賓位に就きて自如たり。已にして心折れ、卒に弟子と称す。守仁に従って里に帰り、嘆じて曰く、「吾が師絶学を倡明す、何ぞ風の廣からざる」と。家に還り、小車を制して北上し、過ぐる所人士を招要し、守仁の道を告ぐ、人聚り観る者千百。京師に抵る、同門生駭異し、其の車を匿し、趣して返らしむ。守仁之を聞き、悦ばず。艮往きて謁す、見るを拒み、長跪して過ちを謝して乃ち已む。王氏の弟子天下に遍く、率ね皆な爵位有り気勢有り。艮布衣を以て其の間に抗し、声名反って諸弟子の上に出づ。然れども艮本より狂士、往々師説を駕して之に上り、持論益々高遠にして、二氏に出入す。

艮は林春・徐樾に伝え、樾は顔鈞に伝え、鈞は羅汝芳・梁汝元に伝え、汝芳は楊起元・周汝登・蔡悉に伝う。

徐樾、字は子直、貴渓の人。進士に挙げらる。官を歴て雲南左布政使に至る。元江の土酋那鑒反し、詐りて降る。樾之を信じ、其の城下に抵りて死す。詔して光禄寺卿を贈り、祭葬を賜い、一子に官を任ず。

林春、字は子仁、泰州の人。良知の学を聞き、日々朱墨の筆を以て臧否を識し自ら考へ、動くに繩検有り、尺寸も逾えず。嘉靖十一年会試第一、戸部主事を除かれ、吏部に調ず。縉紳士京師に講学する者数十人、聰明解悟談説を善くする者は王畿を推し、志行敦実なる者は春及び羅洪先を推す。文選郎中に進み、官に卒す、年四十四。其の篋を発くれば、僅かに白金四両、僚友棺を斂めて其の喪を帰す。

羅汝芳、字は維德、南城の人。嘉靖三十二年進士。太湖知県を除く。諸生を召して学を論じ、公事多く講座に決す。刑部主事に遷り、寧国知府を歴任す。民兄弟産を争う、汝芳之に対し泣き、民も亦た泣き、訟乃ち已む。開元会を創め、罪囚も亦た令して講を聴かしむ。入覲し、徐階を勧めて四方の計吏を聚めて講学せしむ。階遂に霊済宮に大会し、聴者数千人。父艱に遭い、服闋し、起補して東昌に任じ、移って雲南屯田副使、参政に進み、永昌を分守す。事に坐して言官に論ぜられ罷む。初め、汝芳永新の顔鈞に従い講学し、後ち鈞南京の獄に繋がれ当に死すべし、汝芳獄中に供養し、産を鬻ぎて之を救い、減じて戍と為るを得たり。汝芳既に官を罷め、鈞も亦た赦されて帰る。汝芳之に事え、飲食必ず躬より進め、人以て難しと為す。鈞詭怪猖狂、其の学は釈氏に帰す、故に汝芳の学も亦た釈に近し。

楊起元・周汝登、皆な万暦五年の進士。起元は帰善の人。庶吉士に選ばる。適に汝芳参政として入賀す、遂に之に学ぶ。張居正方に講学を悪む、汝芳劾せられ罷むるも、而起元は自如たり。累ねて吏部左侍郎に至る。拾遺に被劾すれども、帝問わず。未幾卒す。天啓初、文懿を追謚す。汝登は嵊の人。初め南京工部主事となり、税を榷するも額に如かず、謫せられて両淮塩運判官と為り、累官して南京尚宝卿に至る。起元は清修誇節なり、然れども其の学は禅を諱まず。汝登は更に儒釈を合して之を会通せんと欲し、《聖学宗伝》を輯し、先儒の語類禅なるものを尽く采りて以て入る。蓋し万暦の世、士大夫の講学する者、多く此に類す。

蔡悉は字を士備といい、合肥の人である。嘉靖三十八年の進士。常徳推官に任ぜられる。城外に六つの堤防を築き水害を防いだ。抜擢されて南京吏部主事となり、累進して南京尚宝卿に至り、国子監を兼ねて管轄した。かつて東宮の冊立を請願し、また鉱税の弊害を極論した。学問と行いを備え、官職への情欲は淡泊であった。五十年仕官し、家で過ごした期間が半分を超えた。清廉な操守と明らかな節義を持ち、淮西の人々は彼を宗仰した。

欧陽徳は字を崇一といい、泰和の人である。弱冠で郷試に合格した。贛州に赴き、王守仁に師事して学んだ。会試に応じないことが二度あった。嘉靖二年、策問が陰に王守仁を誹謗したので、徳は魏良弼らとともに師の教えを曲げずに述べ、ついに進士に及第した。六安州知州に任ぜられ、龍津書院を建て、生徒を集めて学問を論じた。召されて刑部員外郎となる。六年、詔して朝士で学行ある者を翰林に選ぶと、徳は編修に改められた。南京国子司業に転じ、講亭を作り、諸生と四方の学者を進めてその中で道を論じた。まもなく南京尚宝卿に改められる。召されて太僕少卿となる。父母への奉養に便利なため、また南京鴻臚卿に改められた。父の喪に服し、喪が明けたが、母を養うために留まり、鄒守益・聶豹・羅洪先と日々講学した。推薦により元の官職に起用される。累進して吏部左侍郎兼学士となり、詹事府を管掌した。母の喪で帰郷し、喪が明けないうちに、礼部尚書に任用された。喪が終わって官に赴き、無逸殿に直することを命ぜられた。当時、皇太子の地位は長く空位で、帝は陶仲文の「二龍相見せず」の説に惑わされ、儲君を立てることを忌み嫌ったが、徳は懇請した。ちょうど詔があり、二王が邸を出て同日に婚礼を行うこととなった。徳は裕王が皇太子たるべき身分であるから外に出るべきでないとし、上疏して言った、「かつて太祖は父として子に婚礼を行い、諸王は皆禁中に居た。宣宗・孝宗は兄として弟に婚礼を行い、初めて外邸に出た。今の事は太祖と同じであるから、当初の制度に従うことを請う」。帝は許さなかった。徳はまた言った、「『会典』の醮詞によれば、主器(太子)であれば『宗を承く』といい、分藩(親王)であれば『家を承く』という。今の裕王はどちらに従うべきか」。帝は喜ばず、「既に王礼と言う以上、当然典制がある。もしその言う通りなら、どうして冊立を遂に行わないのか」と言った。徳はすぐに冊立の儀礼を具申した。帝はますます不愉快であったが、終にその誠意を諒とし、婚礼も結局同日には行われなかった。裕王の母である康妃杜氏が薨じると、徳は成化朝の紀淑妃の故事を用いるよう請うたが、聞き入れられなかった。徳は事に遇って侃々と論じ、諸宗藩を裁制するのに特に確固たる態度を持った。利害に直面すると、衆人は顔色を変えて見合わせたが、徳は意気自若としていた。

この時、徳は徐階・聶豹・程文徳とともに、古学を修めた者として高位にあった。ここにおいて四方の名士を霊済宮に集め、良知の学を論じた。赴いた者は五千人に及んだ。都城における講学の会は、この時が最も盛んであった。徳は器量が温かく純粋で、学問は実践を務め、空虚な議論を尊ばなかった。晩年に帝に知られ、重用されようとしたが、徳は急に卒した。太子少保を追贈され、文莊と諡された。

同族の欧陽瑜は字を汝重といい、やはり王守仁に学んだ。守仁は彼を教えて言った、「常に謙虚で自ら是とすることなかれ」。瑜は終身これを実践した。郷試に合格したが、会試に赴かず、言った、「老いた親がいる。三公の位と換えられない」。母が死ぬと、墓の傍らに廬を結んだ。虎が廬の周りを吼え回ったが、動じなかった。四川参議を歴任し、赴任する所々で清廉で恵みある名声があった。年近く九十で卒した。

羅洪先は字を達夫といい、吉水の人である。父の羅循は進士。兵部武選郎中を歴任した。武職の考選が行われた時、指揮二十余人がかつて劉瑾の門下であったが、羅循は彼らの管事を罷免した。瑾は怒って尚書の王敞を罵り、敞は恐れて部に帰り、上奏文を急いで変えさせようとした。羅循はわざと遅らせ、数日後に瑾が失脚すると、敞は羅循に謝罪した。羅循は鎮江・淮安二府の知府、徐州兵備副使を歴任し、いずれも名声があった。

洪先は幼い頃より羅倫の為人に憧れた。十五歳の時、王守仁の『伝習録』を読んでこれを好み、往って師事しようとしたが、羅循が許さなかったので止めた。そこで同郷の李中に師事し、その学を伝えた。嘉靖八年、進士の第一(状元)に挙げられ、修撰に任ぜられたが、すぐに帰省を請うた。舅の太僕卿曾直は喜んで言った、「我が婿が大名を成したのは幸いだ」。洪先は言った、「儒者の事業にはこれより大いなるものがある。これは三年に一人のことで、どうして喜ぶに足りようか」。洪先は親に仕えて孝行であった。父が客人を迎える時、洪先は礼服で酒を勧め、席を払い、机を授けるなど非常に恭しかった。二年居て、帰省が期限を過ぎた者を弾劾する詔があり、ようやく官に赴いた。まもなく父の喪に遭い、喪服を着て粗食し、寝室に入らないこと三年。続いて母の喪にも遭い、同じようにした。

十八年、宮僚を選び、召されて春坊左賛善に任ぜられた。翌年の冬、司諫の唐順之・校書の趙時春とともに上疏し、来年の正月朝賀の後、皇太子が文華殿に出御し、群臣の朝賀を受けるよう請うた。当時、帝はたびたび病気を称して朝に出ず、儲君の臨朝することを忌み嫌っていたので、洪先らの上疏を見て、大いに怒って言った、「これは朕が必ず起きられないと見込んでいるのだ」。手詔を下して百余言にわたり厳しく責め、ついに三人の名を削除した。

洪先は帰郷し、ますます王守仁の学を探求した。淡泊を甘んじ、寒暑を鍛え、馬を駆り強弓を引き、地図を考究し歴史を観察し、天文・地誌・礼楽・典章・河渠・辺塞・戦陣攻守から、下は陰陽・算数に至るまで、精しく究めなかったものはなかった。人才・吏事・国計・民情に至っては、悉く心を留めて諮問訪問した。言うには、「もしその任に当たるならば、皆わが事である」。郷里の田賦には多くの積弊があり、役所に均すよう請うたところ、役所はすぐに彼に委任した。洪先は心を込めて体察し、弊害はたちまち除かれた。凶年の時、郡邑に文書を送り、数十石の粟を得て、友人を率いて自ら救済に当たった。流賊が吉安に入ると、主事者は処置に窮した。洪先が戦守の策を図ると、賊は退去した。平素より唐順之と親しくしていた。順之が召しに応じ、彼を引き出そうとしたが、厳嵩が同郷の縁故で、辺境の才を仮りて起用しようとしたが、いずれも力辞した。

洪先は良知学を宗としたが、かつて王守仁の門に及んだことはなく、常に『易大伝』の「寂然として動かず」、周子(周敦頤)の「欲無きを以て故に静かなり」の主旨を挙げて学人に告げた。また言った、「儒者の学は経世にあり、無欲を本とする。ただ無欲にして、後に出て経世すれば、識は精しく力は巨大である」。当時、王畿は良知は自然のもので、毫厘の力も借りないと言った。洪先はこれを非難して言った、「世に現成の良知などあるものか」。王畿と交誼はあったが、持論は終始合わなかった。山中に石洞があり、旧くは虎の巣であったが、茅を葺いて住み、石蓮と名付けた。客を断り、一つの榻に黙坐し、三年戸を出なかった。

初め、帰省を告げて儀真を過ぎた時、同年の進士で主事の項喬が分司を務めていた。ある富人が死罪に坐し、万金を使って助命工作を求めたが、洪先は拒絶して聞き入れなかった。項喬がほのめかすと、厳しい声で言った、「君は志士は溝壑に在るを忘れず、と聞かないのか」。長江が増水して家屋を損壊すると、巡撫の馬森が建て直そうとしたが、固辞して許さなかった。隆慶初年に卒し、光禄少卿を追贈され、文莊と諡された。

程文德、字は舜敷、永康の人。初め章懋に師事し、後に王守仁に従って交遊した。洪先の榜の進士第二に登第し、翰林院編修に任じられた。同年の楊名が汪鋐を弾劾した事件に連座し、詔獄に下され、信宜典史に左遷された。汪鋐が罷免されると、酌量して安福知県に移り、兵部員外郎に昇進した。父の喪に服し、墓の傍らに廬を結び、喪が明けるまで内室に入らなかった。兵部郎中に起用され、広東提学副使に抜擢されたが、赴任せず、南京国子監祭酒に改められた。母の喪に服し、喪が明けて、礼部右侍郎に起用された。俺答が京師を侵犯したとき、宣武門の守備を分担し、寇を避ける郷民をことごとく収容した。吏部に転じて左侍郎となった。後に、詹事府を掌るよう改められた。三十三年、西苑に供奉した。撰した青詞は、しばしば規諫諷刺を含んでいたので、帝はこれを恨んだ。南京吏部尚書を推挙した際、帝は文徳が自分から遠ざかろうとしていると疑い、南京工部右侍郎に転任させよと命じた。文徳は上疏して辞し、帝に安静平和の福を享受されるよう勧めた。帝はこれを誹謗とみなし、その官籍を削除した。帰郷後、門徒を集めて講学した。死去したとき、貧しくて葬儀を営めなかった。万暦年間、礼部尚書を追贈され、文恭と諡された。

呉悌、字は思誠、金渓の人。嘉靖十一年の進士。楽安知県に任じられ、繁劇の地である宣城に転じ、御史に召し出された。十六年、応天府が郷試の録を進呈したが、考官の評語に姓名を書き忘れ、諸生の答策は多く時政を諷刺していた。帝は怒り、考官の諭徳江汝璧・洗馬欧陽衢を詔獄に捕らえて官を貶し、府尹孫懋らを南京の法司に下したが、まもなく職に復し、挙子の会試を停止した。悌が挙子のために寛大な処置を求めたため、詔獄に下され、出て両淮塩政を巡察した。海嘯が起こり、通州・泰州の民家が流されたので、悌は先に漕糧を発して救済し、後に奏聞した。まもなく病気を理由に帰郷し、朝に戻り、河南を巡察した。伊王典楧が驕慢横暴であったが、悌を恐れ、書を送って友と称した。悌は答えて言った、「殿下は天子の親藩であられ、悌が敢えて友とすべきではありません。悌は天子の憲臣であり、殿下が友とすべきではありません」。王はますます彼を恐れた。夏言・厳嵩が国政を執ったが、悌とは同郷であった。かつて夏言に謁見したとき、人々は言が新たに宮袍を着ているのを見て、競って前に出て誉めたが、悌は退いて立って進まなかった。言がその理由を問うと、ゆっくりと答えた、「談話が少し落ち着いたら、政務についてお伺いしたいと思います」。言は顔色を改めた。厳嵩が政権を専断すると、悌はこれを憎み、病気を理由に家に居ることほぼ二十年に及んだ。厳嵩が失脚すると、元の官に起用され、一年のうちに累進して南京大理寺卿に至った。当時、呉嶽・胡松・毛愷はいずれも老練な俊英として卿貳となり、悌とともに「南都四君子」と称された。隆慶元年、そのまま刑部侍郎に昇進した。翌年に死去した。

悌は王守仁の学を奉じたが、清廉で節操が固く、自らを省みて得るところが多かった。万暦年間、子の仁度が恩恤を請うた。吏部尚書孫丕揚は言った、「悌は理学の名臣であり、常例に従うべきではない」。そこで黄孔昭の例を用い、礼部尚書を追贈し、文荘と諡した。郷人が祠堂を建て、陸九淵・呉澄・呉与弼・陳九川とともに祀り、五賢祠と称し、学者は疏山先生と称した。

仁度、字は継疏。万暦十七年の進士。中書舎人に任じられた。三王並封の議が起こると、上疏して抗論した。長くして吏部主事に抜擢され、考功郎中を歴任した。稽勲郎中趙邦清が弾劾され、同官の鄧光祚らが言路を唆したと疑い、憤激して力強く弁明した。上奏文が考功に下ると、仁度は趙邦清の処罰を少し寛大にしようとしたので、給事中梁有年が仁度が徒党を組んで結託していると弾劾した。当時、鄧光祚は病気を理由に去り、仁度が代わって文選となったので、御史康丕揚がまた仁度が鄧光祚を排斥して代わったと弾劾し、詔により南京に改任させられた。趙邦清が論難されて以来、言路の攻撃が止まず、都御史温純は非常に憤り、国是を定めて衆疑を解くよう請うとともに、仁度のことを深く惜しんだ。仁度はまもなく南京刑部郎中に補され、太僕少卿に抜擢され、右僉都御史に進み、山西巡撫となった。廉潔を磨き、慈愛に務め、魏允貞と並び称された。四年在任し、病気で帰郷した。熹宗の初め、大理寺卿に起用され、兵部右侍郎に進んだが、また病気を理由に去った。再び工部左侍郎に起用された。天啓五年、魏忠賢は仁度が趙南星・楊漣らと親しいとして、強いて致仕させ、まもなく死去した。仁度は名父の子として、自ら奮励し、鄒元標がしきりに称賛した。

何廷仁、初名は秦、字をもって行い、後に字を性之と改めた。黄弘綱、字は正之。ともに雩都の人。廷仁は温和で篤厚、人と接するとき誠意が満ち溢れていた。一方、弘綱は近づきがたく、人に対して作り笑いをしたことがなかった。しかし二人の志操行いは等しかった。廷仁は初め陳献章に憧れたが、後に黄弘綱から王守仁の学を聞いた。守仁が桶岡を征討したとき、軍門に詣でて謁見し、師事した。嘉靖元年に郷試に合格し、また守仁に従って浙東に赴いた。廷仁の立論は平実を尊び、守仁の没後、過度に高遠な議論をする者がいると、いつも言った、「これは我が師の言葉ではない」。新会知県に任じられ、まず陳献章の祠で釈菜の礼を行い、その後政務に就いた。政治は簡易を尊び、士民に愛された。南京工部主事に遷り、儀真に分司して蕪湖の税を管掌したが、一銭も私しなかった。任期が満ちると、すぐに致仕した。弘綱は郷挙により刑部主事となった。

守仁の門下で、従遊する者は常に数百人、浙東・江西が特に多く、師説を推し広めるのに優れていたのは黄弘綱・何廷仁及び銭徳洪・王畿と称された。当時の人の言葉に、「江に何・黄あり、浙に銭・王あり」と言う。しかし守仁の学は、山陰・泰州に伝わったものは、弊害が極まりなく、ただ江西では多く実践に務め、安福では劉邦采、新建では魏良政兄弟が最も著名であるという。

劉邦采、字は君亮。族子の劉曉が守仁に師事し、帰って劉邦采に話したので、従兄の劉文敏及び弟・甥九人とともに守仁の私邸に謁見し、師事した。父の喪に服し、粗食をとり墓の傍らに廬した。喪が明けても、再び科挙に応じなかった。提学副使趙淵が試験に赴くよう檄を飛ばし、御史儲良才が常服のまま入闈し、衣を解いて検査しないことを許したので、ようやく試験を受け、合格した。長くして寿寧教諭に任じられ、嘉興府同知に抜擢されたが、官を棄てて帰郷した。邦采は識見が高明で、力を用いることが果敢鋭敏であった。守仁が良知を提唱して学の的としたが、時が経つにつれて弊害が生じ、揣摩をもって妙悟とし、放縦恣意をもって自然とする者がいたので、邦采は常に極言して排斥した。

劉文敏、字は宜充。父の喪が明けると、科挙を断念した。かつて言った、「学者は本心の明らかさに従い、常に己の過ちを見て、切磋琢磨し、気質を融和させ、外からの誘惑を絶ち、倫理・事物の実に徴して、一つとして心に満足しないことがなく、その後で聖門の正学となるのであり、苦労して努めなければ入ることはできない。高遠な議論や空虚な悟りを誇り、末を飾って本を離れるのは、徳の賊ではないか」。劉曉、字は伯光。郷試に合格し、後に新寧知県となり、善政があった。

魏良政、字は師伊。守仁が江西を巡撫したとき、兄の良弼、弟の良器・良貴とともに学んだ。提学副使邵鋭・巡按御史唐龍の持論は守仁と異なり、諸生に謁見に行かないよう戒めたが、良政兄弟だけは顧みず、深く守仁に認められた。良政は特に専心努力し、孝友で質朴、私居にも怠惰な様子がなく、かつて言った、「人を咎めなければ、どのような人とも処せられないことがあろうか。事に煩わされなければ、どのような事でも為せないことがあろうか」。郷試で第一に挙げられたが、卒去した。良弼はかつて言った、「私は師伊の夢を見ると、いつも背中に汗をかく」と、兄がこれほど弟を畏れたのである。良器、字は師顔。性質は抜きん出て人に優れ、良知を宗としながらも、実践は平実に務めた。良弼は、別に伝がある。良貴は、右副都御史に官した。

王時槐、字は子植、安福の人。嘉靖二十六年の進士。南京兵部主事を授かる。礼部郎中・福建僉事を歴任。累官して太僕少卿となり、光祿少卿に降格。隆慶末、出でて陜西參政となる。張居正が国政を執るに及び、京察により罷免されて帰郷す。萬歷中、南贛巡撫張嶽が疏を上し彼を推薦す。吏部言う、「六年毎の京察は、祖制なり。若し執政が何らかの排除を行わんとし、時期を定めずに一挙に行うは、閏察と謂う。時槐は閏察の中にあり、群情服せず。時槐を召し還すを請う。且つ永く閏察を停止すべし」と。詔して可とす。久しくして陸光祖が銓衡を掌り、貴州參政に起用し、間もなく南京鴻臚卿に抜擢し、太常に進むも、皆赴任せず。

時槐は同県の劉文敏に師事し、官に就いて後は、四方の学者に広く質し、自ら終に得る所無しと謂う。五十歳、官を罷め、身を反して実証に努め、始めて造化生生の機は、念慮の起滅に随わざるを悟る。学者が真の機を識らんと欲すれば、慎独より入るべし。其の性を論じて曰く、「孟子の性善の説は、決して易うべからず。性の中に本より仁義無くんば、則ち惻隠羞悪は更に何よりか生ぜん。且つ人、事に応じ物に接するに、是の如くすれば則ち安んじ、是の如くせざれば則ち安んぜず。善に非ずして何ぞや」と。又曰く、「居敬・窮理、二者は一つも廃すべからず。要するに、居敬の二字以て之を尽くす。其の居敬の精明了悟より言うを、窮理と謂い、即ち考索討論も亦た居敬中の一事なり。敬は該らざる所無く、敬の外に更に余事無し」と。八十四歳にして卒す。

廬陵の陳嘉謨、字は世顯、時槐と同年の進士。給事中となり、厳嵩に附かず、外任に出される。湖廣參政を歴任し、休職を乞うて帰郷し、専ら学に力を用う。凡そ其の門に及ぶ者に告げて曰く、「塘南在り、往きて之に師事すべし」と。塘南は時槐の別号なり。八十三歳にして卒す。

許孚遠、字は孟中、徳清の人、同郡の唐樞に学を受く。嘉靖四十一年進士に成り、南京工部主事を授かり、就いて吏部に改む。已にして、北部に調ず。尚書楊博は孚遠の講学を憎み、時に京朝官の大計有り、浙人を罷黜すること幾半ば、博の郷里山西は一人も無し。孚遠後に言有り、博悦ばず、孚遠遂に疾を移して去る。隆慶初、高拱が推薦して考功主事に起用し、出でて広東僉事となり、大盗李茂・許俊美を招き、倭党七十余人を擒えて降す。功を録し、銀幣を賜う。間もなく福建に移る。神宗即位し、拱政を罷め、張居正は拱の党を逐わんと議し、復た京官の大計を行う。王篆が考功たり、孚遠が拱の党なりと誣う。両淮塩運司判官に貶せらる。兵部郎中を歴任し、出でて建昌府知府となり、暇有れば輒ち諸生を集めて講学し、貢士鄧元錫・劉元卿を引いて友とす。尋いで給事中鄒元標の推薦により、陜西提学副使に擢てられ、貢士王之士を敬礼し、当路に書を移し、元卿・元錫と並びて之を推薦す。後三人並びに征を得るは、孚遠の倡による。応天府丞に遷り、李材の冤を訟えたるに坐し、二秩を貶せられ、広東僉事より再び遷り右通政となる。二十年、右僉都御史に擢てられ、福建を巡撫す。倭朝鮮を陥し、封貢を議す。孚遠は日本に勅諭し、平秀吉を擒斬すべしと請うも、従わず。呂宋国の酋長の子、商人が其の父を襲殺せしを訟う。孚遠以て聞こえしめ、詔して罪人を戮し、厚く其の使を犒う。福州饑饉有り、民官府を掠む。孚遠は首謀者を擒え、乱稍々定まる。而して給事中耿隨龍・御史甘士價等、孚遠を斥くべしと劾すも、帝問わず。管轄地に僧田多し、孚遠は其の六分を官に収む。又民を募り海壇の地八万三千有余を墾き、城を築き営舎を建て、兵を聚めて守らしめ、因りて南日・彭湖及び浙中の陳銭・金塘・玉環・南麂諸島に推行するを請う。皆報可す。三年居り、入りて南京大理卿となり、就いて兵部右侍郎に遷り、左に改め、北部に調ず。甫く半道にして、論ぜらる。休職を乞い、疏屡上し、乃ち許さる。又数年、家に卒す。南京工部尚書を贈られ、後謚して恭簡とす。

孚遠は良知を篤く信じ、而して良知を援いて仏に入らんとする者を憎む。建昌を知り、郡人羅汝芳と講学するも合わず。官南京に及び、汝芳の門人礼部侍郎楊起元・尚寶司卿周汝登と並びに講席を主る。汝登は無善無悪を宗とす。孚遠は『九諦』を作りて之を難じ、言う、「文成(王守仁)の宗旨は、原より聖門と異ならず。性に善無からざるを以て、故に知に良からざる無し。良知は即ち未発の中なり。立論至って明析なり。『無善無悪心之体』の一語は、蓋し其の未発の時、廓然寂然なる者を指して之を言う。止だ一つの静字を形容するに得、下の三語に合して始めて病無し。今心意知物を以て、俱に善悪言う可き無しと為すは、文成の正伝に非ざるなり」と。彼此の論益々齟齬す。而して孚遠が福建を巡撫するに、巡按御史陳子貞と相得ず。子貞は南畿の督学たり、遂に密かに同列を諷して遺漏を拾い之を劾せしむ。孚遠に遊ぶ者、馮従吾・劉宗周・丁元薦、皆名儒と為る。

尤時熙、字は季美、洛陽らくようの人。生まれながら警敏にして群を抜き、弱冠にして嘉靖元年の郷試に挙げらる。時に王守仁の『伝習録』始めて出づ。士大夫多く力を以て之を排す。時熙一見して嘆じて曰く、「道是れに在らずや。向吾が詞章に志を役すは、末なり」と。已にして疾を以て稍々養生家に従事す。元氏教諭を授かり、父喪除き、章丘に改官し、一に致良知を以て教えと為し、両邑の士も亦た新建の学を知る。入りて国子博士と為り、徐階が祭酒たり、六館の士に命じて咸く之に取法せしむ。居常に守仁に師事するを得ざるを恨みと為す。郎中劉魁が守仁の伝を得たりと聞き、遂に之に師事す。魁は直言により詔獄に錮せらる。則ち疑う所を書き、時時に獄中より質問す。尋いで戸部主事として滸墅に税を榷し、課足れば而して止め、一銭も私せず。母老いしを思い、終養を乞うて帰り、遂に出でず。日に修己淑人を事と為し、足未だ嘗て公府に渉らず。斎中に守仁の位を設け、晨興すれば必ず香を焚きて粛拝し、来学する者にも亦た展謁せしむ。晚年、学者の虚見に憑りて躬行を忽にするを病み、甚だしきは且つ縄墨を越えて自ら恣にするを以て、故に其の論議は日用に切にして、空虚隠怪の談を為さず。萬歷八年に卒す。年七十有八。学者西川先生と称す。其の門人、孟化鯉最も著しく、自ら伝有り。

張後覚、字は誌仁、茌平の人。父文祥、郷挙により官し広昌知県となる。後覚は生まれながら異質有り、親に事え孝行し、喪に居りて哀毀し、三年内に禦せず。早歳、県教諭顔鑰より良知の説を聞き、遂に精思力践し、同志と偕に講習す。已にして貴溪の徐樾が王守仁の再伝弟子として来たり參政と為る。後覚は同志を率いて往きて之に師事し、学益々聞こえ有り。久しくして、歳貢生として華陰訓導を授かる。時に地大いに震い、人多く傾圧死す。上官県事を署するを命ず。災を救い傷を扶け、人胥く悦服す。致仕して帰るに及び、士民道に泣送す。

東昌知府羅汝芳、提學副使鄒善は皆王守仁の学を宗とし、後覚と志を同じくした。鄒善は願学書院を建て、六郡の士人に師事させた。羅汝芳も見泰書院を建て、時に討論を交わした。なお交友が広くないことを以て、北は京師に走り、南は江左に遊び、親賢講学を事とし、門弟子は日に日に増えた。その地に吏たりし者及び茌平を経由する者は、皆その廬を訪ねて学業を問うた。巡撫李世達は二度山居に赴いたが、病で礼を為すことができず、席を近づけて激談し、蔬食に飽きて去った。平生詩を作らず、禅を談ぜず、著述に事とせず、行いは遠近に信じられ、学者は弘山先生と称した。年七十六、万暦六年に卒す。

その門人、孟秋、趙維新が最も著名である。孟秋は別に伝がある。趙維新もまた茌平の人、年二十にして後覚の良知の学を講ずるを聞き、遂に師事した。その問答の語を次第にし、『弘山教言』と為す。性純孝、喪に居り五味を口に入れず、柴毀骨立し、杖にして後起つ。郷人その孝行を挙げんと欲したが、力辞した。配偶に喪あり、五十年再び娶らず。嘗て垣を築くに金一篋を得たが、工人これを持ち去り、維新は問わなかった。家貧しく、或いは日を並べて食すも、超然自得した。また歳貢生として長山訓導となり、年九十二、疾なくして終わる。

鄧以贊、字は汝德、新建の人。張元忭、字は子藎、紹興山陰の人。二人は皆生まれながら異質を持ち、また書を好んだ。以贊は幼くして父が人と学を論ずるを見ると、輒ち衣を牽いてこれに従い、時に語を出せば夙儒の類であった。父はその勤学を憐れみ、嘗て斗室に閉じ込めた。元忭は元来羸弱で、母は過労を戒めたので、燈を幕中に隠し、母の寝るを俟って誦じ始めた。十余歳の時気節を以て自ら負い、楊継盛の死を聞き、文を為して遙かに誄し、慷慨して泣下した。父天復は雲南副使に官し、武定の賊鳳継祖を撃って功有り。已にして賊は還って武定を襲い、官軍敗績し、巡撫呂光洵が討ち滅ぼした。隆慶初に至り、議者が前の失亡の状を追理し、天復を逮えて雲南に赴き対簿させた。元忭は丁度下第して帰り、万里を護行し、髪は尽く白くなった。已にして復た馳せて闕下に詣で冤を白くし、当事これを憐れみ、天復は削籍して帰るを得た。

隆慶五年、以贊は会試第一に挙げられ、廷試第三、編修を授かり、元忭は廷試第一、修撰を授かった。万暦初、座主張居正が国政を枋ね、以贊は時に匡諫有り、居正は善しとせず、疾を移して帰った。久しくして原官に補され、旋って引退した。詔して中允を起し、中途に至り復た母を念い返る。再び南京祭酒を起し、就いて礼部右侍郎に擢げられ、復た就いて吏部に転じ、再び疏を上して儲君を立てんことを請い、且つ力んで三王並封の非を斥け、中に言う、「中宮は元子を鐘愛し、その春宮を早く正さんことを願うは、臣民よりも切なり。陛下は中宮を厚くして冊立を緩むるは、殆ど中宮の心を諒とせざるなり。況んや信は国の大宝なり、建儲一事、屡更移を示さんとすれば、将に詔令をして天下に信ぜしめざらんとす、宗廟を重んじ、社稷を安んずる所以に非ざるなり。」廷臣の諫むる者多きに会し、事遂に寝す。尋ねて吏部右侍郎に召すも、力辞して拝さず。以贊は登第して二十余年、在官僅かに一考を満たす。母の憂いに居り、喪に勝えずして卒し、礼部尚書を贈られ、文潔と謚される。

元忭は嘗て抗疏して御史胡涍を救い、又請うて『列女伝』を両宮に進講し、『二南』の化を修めんとす、皆省みられず。万暦十年楚府に使いして還り、家に過ぎて母を省み、既に行きて心動き、輒ち馳せて帰り、僅かに五日にして母卒す。元忭は二親の疾に奉じ、湯薬は口に嘗めざれば進まず、喪に居り毀瘠し、古礼を用い、郷人多く化された。服闋し、故官に起き、左諭徳に進み、経筵に直る。先ず、元忭は帝の登極の恩を以て、父の官を復するを請い、詔して冠帯を与うるを許す。ここに至り復た前の請いを申すも、格されて従わず。元忭は泣いて曰く、「吾れ父母を見るに下ること無し。」遂に悒悒として疾を得て卒す。天啓初、文恭を追謚す。

以贊、元忭は未だ第せざる時より即ち王畿に従い遊び、良知の学を伝うるも、然れども皆孝行に篤く、躬行実践した。以贊は品端しく志潔く、元忭は矩矱儼然として、禅寂に流入する弊無し。元忭の子汝霖は江西参議。汝懋は御史。

孟化鯉、字は叔龍、河南新安の人。孟秋、字は子成、茌平の人。化鯉は年十六、慨然として聖賢を以て自ら期す。秋は児時に『詩』を受け、『桑中』諸篇に至り、輒ち棄て去り竟に読まず。化鯉は万暦八年の進士に挙げられる。戸部主事を授かり、時の宰相招致せんと欲すも、辞して往かず。河西務で税を榷し、諸生と講学し、河西人はこれを尸祝した。南畿・山東大饑し、命を受けて往きて振恤し、全活多し。吏部に改め、文選郎中を歴任し、尚書孫鑨の黜陟を佐け、名声甚だ高し。時に内閣権重く、毎に銓除には必ず先ず内閣に白すが、化鯉は独り然らず、中官の請托もまた応ぜず、以て故に多く悦ばず。都給事中張棟先ず建言を以て削籍せられ、化鯉奏してこれを起す、旨に忤い、堂官の俸を奪い、化鯉及び員外郎項復弘、主事姜仲軾を雑職に謫す。閣臣疏を上げて救う、命じて原品を以て外に調ず。頃くして、言官復た交章して救う、帝益々怒り、言官の俸を奪い、化鯉等を斥けて民と為す。既に帰り、川上に書院を築き、学者と講習して輟まず、四方より遊ぶ者恒に数百人。久しくして卒す。

秋は隆慶五年の進士に挙げられる。昌黎知県となり、善政有り。大理評事に遷り、去るの日、老稚道に載り泣き留まる。職方員外郎として山海関を督視す。関政久しく弛み、奸人出入自ら擅にす、秋これを厳しく禁ず。流言に中り、万暦九年の京察に坐して貶せられ、帰途妻孥と共に一牛車を駕し、道傍の観者皆嘆息す。許孚遠嘗て張秋に過ぎ、その廬に造り、茅屋数椽、書史その中に狼藉するを見て、嘆じて曰く、「孟我疆の風味は、大江以南未だ有らざるなり。」我疆とは、秋の別号なり。後ち官に起き刑部主事となり、尚宝丞少卿を歴任し、卒す。秋既に歿し、廷臣謚を請う者章数十上る。天啓初、清憲を賜謚す。

化鯉は貢挙により太学に入り、即ち秋と道義を相勖ます。後ち吏部郎となり、秋は尚宝に官し、比舍に居り、飲食起居共にせざる無し。時人「二孟」と称す。化鯉の学は洛陽の尤時熙に得、秋は邑人張後覚に受業す。時熙の師は劉魁と曰い、後覚は則ち顔鑰、徐樾の弟子なり。

来知徳、字は矣鮮、梁山の人である。幼少より至行あり、有司に挙げられて孝童と為る。嘉靖三十一年、郷挙に挙げらる。二親相次いで歿し、廬墓六年、酒を飲まず葷を茹まず。服喪終わり、禄養に及ばざるを傷み、終身麻衣蔬食、有司に会わざるを誓う。その学は致知を本とし、倫を尽くすを要とす。著す所に『省覚録』『省事録』『理学弁疑』『心学晦明解』諸書あり、而して『周易集注』一篇は用功特に篤し。自ら言う、学は『易』より邃きは莫しと。初め、釜山に廬を結び、之を学ぶこと六年にして得る所無し。後に遠く求渓山中に客たり、覃思すること数年、始めて『易』の象を悟る。又数年にして始めて文王の『序卦』、孔子の『雑卦』の意を悟る。又数年にして始めて卦変の非を悟る。蓋し二十九年にして後に書成る。万暦三十年、総督王象乾・巡撫郭子章、詞を合せて論薦し、特授して翰林待詔と為す。知徳力辞し、詔して授くる所の官を以て致仕せしめ、有司月に米三石を給し、其の身の終わるまでとす。

鄧元錫、字は汝極、南城の人である。十五にして父に喪し、水漿口に入れず。十七にして社倉法を行い、其の郷人に恵む。已に諸生と為り、邑人羅汝芳の門に遊び、又吉安に走り、諸先達に学ぶ。嘉靖三十四年、郷挙に挙げらる。復た鄒守益・劉邦采・劉陽諸宿儒に従い論学す。後に復た会試せず、門を杜み著述すること三十年を踰え、『五経』皆成書あり、閎深博奥、学者潜谷先生と称す。

休寧の範淶、南城を知る時、元錫を重んず。後に南昌知府と為り、万暦十六年入覲し、元錫及び劉元卿・章潢を朝に薦む。南京祭酒趙用賢も亦征聘を請い、呉与弼・陳献章の故事の如くす。旨を得て、有司起送して部試せしむ。元錫固辞す。明年、御史王道顯復た元錫・元卿を以て並びに薦め、且つ祖宗の征辟の故事に倣い、部試に拘わらざるを請う。詔して有司に病を問わしめ、痊え可くば起送して部に赴かしむ。竟に行われず。二十一年、巡按御史秦大夔復た二人を並びに薦め、詔して翰林待詔を以て之を征す。有司敦遣して上道せしむ。甫く家を離れて卒す。郷人私謚して文統先生とす。

元錫の学は、淵源王守仁にあり、其の説を尽く宗とせず。時に心学盛行し、学は唯だ覚無きを謂い、一覚すれば即ち余蘊無し、九容・九思・四教・六藝皆桎梏なりとす。元錫力排す、故に生平群書を博極し、而して要は『六経』に帰す。著す所の『五経繹』『函史上下編』『皇明書』並びに世に行わる。

元卿、字は調父、安福の人である。隆慶四年の郷試に挙げらる。明年会試、対策に時弊を極めて陳べ、主者録するを敢えず。張居正聞きて大いに怒り、所司に下して申飭せしめ、且つ人をして密かに之を詗わしむ。其の人反って情を以て告ぐ、乃ち免るるを得。既に帰り、同邑の劉陽に師事す。王守仁の弟子なり。万暦二年、会試に第せず、遂に科名を絶意し、務めて道を求むるを事とす。既に累薦せらるるに及び、乃ち召されて国子博士と為る。礼部主事に擢てられ、疏を上して早朝勤政を請い、又鄒守益・王艮を文廟に従祀し、外蕃朝貢の旧儀を厘正するを請う。尋いで疾を引いて帰り、力を撰述に肆し、『山居草』『還山続草』『諸儒学案』『賢弈編』『思問編』『礼律類要』『大学新編』諸書あり。

潢、字は本清、南昌の人である。父に喪し居り、哀毀血溢す。此洗堂を構え、同誌を聯ねて講学す。群書百二十七巻を輯め、曰く『図書編』。又『周易象義』『時経原体』『書経原始』『春秋窃義』『礼記札言』『論語約言』諸書を著す。従遊する者甚だ衆し。数たび薦めらる。吏部侍郎楊時喬の請いに従い、遥授して順天訓導と為し、陳献章・来知徳の故事の如くす。有司月に米三石を給し其の家を贍う。万暦三十六年に卒す。年八十二。其の郷人潢を称して、少より老に迄り、口に非礼の言無く、身に非礼の行無く、交わりに非礼の友無く、目に非礼の書無し、乃ち私謚して文徳先生とす。呉与弼の後より、元錫・元卿・潢並びに薦辟を蒙り、号して「江右四君子」とす。