◎儒林二
○陳獻章(李承箕・張詡)・婁諒(夏尚樸)・賀欽・陳茂烈・湛若水(蔣信等)・鄒守益(子善等)・錢德洪(徐愛等)・王畿(王艮等)・歐陽德(族人瑜)・羅洪先(程文德)・吳悌(子仁度)・何廷仁(劉邦采・魏良政等)・王時槐・許孚遠・尤時熙(張後覺等)・鄧以贊(張元以下忭)・孟化鯉(孟秋)・來知德・鄧元錫(劉元卿・章潢)
献章の学は、静を主とする。学者を教えるに、ただ端坐して心を澄ませ、静中に端倪を養い出すことを命じた。ある者が著述を勧めても、答えなかった。かつて自ら言うには、「私は二十七歳の時、初めて呉聘君(與弼)に従って学び、古の聖賢の書について講じないものはなかったが、しかし入る処を知らなかった。白沙に帰ってからは、専ら力を用いる方法を求め、またついに得るところがなかった。ここにおいて繁を捨てて約を求め、久しく静坐した後、わが心の体が隠然として現れるのを見、日用の応酬はわが欲するままに従い、馬が轡を御するようになった」と。その学は洒然として独得するところがあり、論者は鳶飛魚躍の楽しみがあると言い、蘭溪の姜麟に至っては「生きている孟子」とまで言った。
張詡、字は廷実、南海の人で、また献章に師事した。成化二十年に進士に挙げられ、戸部主事を授けられた。まもなく父母の喪に服し、たびたび推薦されたが起用されなかった。正徳年間、召されて南京通政司参議となったが、一度孝陵に謁しただけで告帰した。献章はその学は自然を宗とし、己を忘れることを大とし、無欲を至とすると言った。卒年六十歳。
婁諒、字は克貞、上饒の人である。若くして絶学を志した。呉與弼が臨川にいると聞き、往ってこれに従った。ある日、與弼が畑を耕している時、諒を呼んで見に行かせ、学者は細務に親しまねばならないと言った。諒はもともと豪邁であったが、これによって節を折り、掃除のようなことでも必ず自ら行った。景泰四年に郷試に挙げられた。天順末年、選ばれて成都訓導となった。まもなく告帰し、門を閉じて著書し、『日録』四十巻・『三禮訂訛』四十巻を成した。『周礼』は皆天子の礼であり、国礼であると言い、『儀礼』は皆公卿大夫士庶人の礼であり、家礼であると言った。『礼記』を二経の伝とし、各篇に分けて附し、『冠礼』に『冠義』を附するの類とした。各篇に附し得ないものは、各一経の後に附し、一経に附し得ないものは、二経の後に総べて附した。諸儒が附会したものは、程子の論によってこれを退けた。『春秋本意』十二篇を著し、三伝の事実を採らず、「是非は必ず三伝を待って後明らかになるならば、これは『春秋』を棄てた書とするものだ」と言った。その学は放心を収めることを居敬の門とし、何を思い何を慮ることもなく、忘れず助けずを居敬の要旨とした。しかし当時、胡居仁はその陸子(九淵)に近いことをかなり譏り、後には羅欽順もその禅学に似ていると言った。
子の忱、字は誠善、父の学を伝えた。娘は寧王宸濠の妃となり、賢い評判があり、かつて王に反すなと勧めた。王は聞き入れず、ついに反した。諒の子孫は皆捕らえられ、遺文は遂に散逸した。
門人の夏尚樸、字は敦夫、広信永豊の人である。正徳初年、会試に赴いて京に至った。劉瑾が政を乱すのを見て、慨然として嘆いて言うには、「時事がこのようであるのに、まだ進んで仕えることができようか」と。試験を受けずに帰った。六年に進士となり、南京礼部主事を授けられた。凶年に際し、救荒に関する数事を条上した。再び遷って惠州知府となり、弾劾の上書を投じて帰った。嘉靖初年、起用されて山東提学副使となった。抜擢されて南京太僕少卿となり、魏校・湛若水らと日々講習し合った。言官が大学士桂萼を弾劾し、言葉が尚樸に連なった。吏部尚書の方献夫がその私心なきことを弁明し、まもなく病気を理由に帰った。早年、諒に師事し、主敬の学を伝え、常に「才(心)を提起すれば、これすなわち天理である。才を放下すれば、これすなわち人欲である」と言った。魏校は大いにこれを称えた。著すところに『中庸語』・『東巖文集』がある。王守仁も若い時、かつて諒に学業を受けた。
陳茂烈は、字を時周といい、莆田の人である。十八歳の時、『省克録』を作り、顔回の己に克つこと、曾子の日に省みることは、学ぶべき法であると言った。弘治八年に進士に挙げられた。広東に使いとして赴き、陳献章の門で学業を受け、献章は主静の学を語った。退いて張詡と論難し、『静思録』を作った。まもなく吉安府推官に任じられ、考績で淮河を渡る時、寒さに綿入れの衣がなく、凍えて危うく死にかけた。入朝して監察御史となると、袍服は質素で粗末、疲れた馬に乗り、人々は見て敬った。母が老齢のため終養を請うた。母を養う以外には、一つの帷帳も整えなかった。畑を耕し水を汲むことを、自ら操作した。太守がその労苦を聞き、二人の卒を送って助けさせたが、三日で返還させた。吏部はその貧しさゆえに、晋江教諭の禄を与えたが、受けなかった。また月米を給するよう上奏すると、上書して言った。「臣は元来貧しく、食事はもとより倹約粗食である。故に臣の母は臣の家に自ら安んじておられ、臣もまた自らその貧しさを免れることができるのであり、人に及ぼす清廉や己の孝を尽くすものではありません。古人が雇われて働き米を背負ったのも、皆親のためでした。臣の貧しさはまだそこまで至っておりません。しかし臣の母は臣を苦労して育てられ、今年八十六歳、来る日多くありません。臣は自ら心力を尽くしたいと願いますが、なお及ばないことを恐れ、上って官帑を煩わせるのは、心ひそかに安んじません。」奏上されたが許されなかった。母が卒すると、茂烈もまた卒した。
茂烈が諸生であった時、韓文が莆田の人物について林俊に問うと、「從吾(彭時の字)である」と言った。また問うと、「時周である」と言い、かつ「時周と語ると、重い病がたちまち去る」と言った。そのように重んじられていたのである。
若水は生平、至る所で必ず書院を建てて献章を祀った。九十歳になっても、なお南京に遊んだ。江西を過ぎる時、安福の鄒守益は、守仁の弟子であるが、同志に戒めて言った。「甘泉先生(湛若水)が来られる。我々は老を憲(手本)として乞言(教えを請う)すべきであり、慎んで軽々しく論弁してはならない。」若水は初め守仁と共に講学したが、後それぞれ宗旨を立て、守仁は致良知を宗旨とし、若水は随処に天理を体験することを宗旨とした。守仁は若水の学問を外に求めるものと言い、若水もまた守仁の格物の説が信じがたい四点があると言った。また言うには、「陽明(王守仁)と私が言う心は同じではない。陽明の所謂る心は、方寸(心臓)を指して言う。私の所謂る心は、万物を体して遺すことなきものである。故に私の説を外とするのである。」一時の学者は遂に王・湛の学に分かれた。
湛氏の門人で最も著名な者は、永豊の呂懷・徳安の何遷・婺源の洪垣・帰安の唐樞である。呂懷は変化気質を説き、何遷は知止を説き、唐樞は求真心を説き、おおよそ王・湛両家の間に出入りしながら、別に一義をなした。洪垣は両家の調停を主とし、互いにその失を救った。皆師説を守り尽くさなかったのである。呂懷は字を汝徳といい、南京太僕少卿となった。何遷は字を益之といい、南京刑部侍郎となった。洪垣は字を峻之といい、温州府知府となった。唐樞は刑部主事となり、李福達の事を疏論して罷免され帰郷し、独自の伝がある。
蔣信は、字を卿実といい、常徳の人である。十四歳の時、喪に服して憔悴した。同郡の冀元亨と親しく、王守仁が龍場に謫された時、その地を通り、冀元亨と共に師事した。嘉靖初年、貢挙されて京師に入り、また湛若水に師事した。若水が南祭酒となると、門下の士は多く分教した。十一年に至り進士に挙げられ、累官して四川水利僉事となった。播州土官の賄賂を退け、妖道士を法に処した。貴州提学副使に転じた。書院を二つ建て、多くの俊秀の士をその中に廩した。龍場にはもと守仁の祠があり、祠田を設けた。職守を擅に離れた罪に坐し、除名された。蔣信は初め守仁に従って遊学した時、良知の教えは受けなかった。後に若水に従って遊学したのが最も長く、学問は湛氏から得たところが多い。蔣信は践履が篤実で、虚談を事としなかった。湖南の学者はその教えを宗とし、正学先生と称した。七十九歳で卒した。時に宜興の周沖は、字を道通といい、また王・湛の門に遊学した。挙人から高安訓導に任じられ、唐府紀善に至った。かつて言うには、「湛氏の体認天理は、即ち王氏の致良知である」と。蔣信と共に師説を集めて『新泉問辨録』とした。両家の門人は互いに非笑しあったが、周沖はその旨を疏通したのである。
鄒守益は、字を謙之といい、安福の人である。父の賢は、字を恢才といい、弘治九年の進士となった。南京大理評事に任じられ、しばしば条奏を上書し、福建僉事を歴任し、武平の賊の首領黄友勝を捕らえて殺した。家にあっては孝友をもって称された。
陛下は本生の恩を隆盛にしようと、しばしば群臣を下して会議させられたが、群臣は礼に拠って正論を述べ、詰責を受けるに至り、巷間では孝長子と称されている。昔、曾元は父が病臥し、寝台の敷物を替えるのを憚ったが、それは愛の極みであった。しかし曾子はこれを責めて「姑息」と言った。魯公が天子の礼楽を受けて周公を祀ったのは、尊崇の極みであった。しかし孔子はこれを悲しんで「周公其れ衰えんか」と言った。臣は願わくば、陛下が姑息をもって献帝に仕え、後世にその衰えを嘆かせることがないように。かつ群臣は経書を引き古を証し、陛下が専ら正統に意を用いられるよう望んだ。これらは皆、陛下への忠謀であるのに、察することなく督過し、逆らいかつ侮慢であるとおっしゃる。臣が歴史上を見るに、冷褒・段猶の徒は、当時は忠愛と称されたが、後世では邪媚として斥けられている。師丹・司馬光の徒は、当時は欺慢と称されたが、後世では正直として仰がれている。後世が今を見るのは、今が古を見るのと同じである。陛下が過ちを改めることを惜しまず、群臣の忠愛を察し、信じて用い、国を去った者を再び召し還し、奸人が国是を動揺させ、宮闈を離間することを許さないよう望む。
昔、先帝が南巡された時、群臣が相次いで上章して諫阻したが、先帝は赫然として怒られた。これは欺慢として罪とすべきではなかったか。陛下が藩邸におられた時これを聞かれ、必ずこれを以て先帝への尽忠とされたであろう。今、大統を継がれて、ただ群臣が陛下に尽忠することをお許しにならないのか。
帝は大いに怒り、詔獄に下して拷掠し、広德州判官に左遷した。(守益は)淫祠を廃し、復初書院を建て、学者と共にそこで講授した。やがて南京礼部郎中に転じ、州人は生祠を立てて祀った。守仁の訃報を聞き、位牌を設けて哭し、心喪に服し、日々呂柟・湛若水・錢德洪・王畿・薛侃らと論学した。考満して都に入ったが、すぐに病を理由に帰郷した。久しくして、推薦により南京吏部郎中として起用され、召されて司経局洗馬となった。守益は太子が幼く、まだ出閣できていないとして、霍韜と共に『聖功図』を上呈し、神堯(堯)の茅茨土階から、帝の西苑における耕稼蠶桑に至るまで、合わせて十三の図とした。帝はこれを誹謗とみなし、危うく罪を得るところであったが、霍韜が帝に知られていたおかげで事なきを得た。翌年、太常少卿兼侍読学士に転じ、出て南京翰林院を掌ったが、夏言が遠ざけようとしたのである。御史毛愷が東宮に侍するよう留任を請うたが、左遷された。まもなく南京祭酒に改めた。九廟の災害があり、守益は上下交修の道を陳べ、「殷の中宗・高宗は、妖を祥に反らせ、国を享くること長久であった」と言った。帝は大いに怒り、職を奪って帰郷させた。
守益の天資は純粋であった。守仁はかつて言った、「有にして無の如く、実にして虚の如く、犯されても報いず、謙之(守益)はこれに近い」。郷里に居て、日々講学に事とし、四方から遊学する者が踵を接して至り、学者は東廓先生と称した。家に居ること二十余年で卒去した。隆慶初年、南京礼部右侍郎を追贈され、諡は文莊。
子の善は、嘉靖三十五年の進士となった。刑部員外郎として湖広で恤刑を行い、哀れんで釈放する者が甚だ多かった。山東提学僉事に抜擢され、時に諸生と講学した。万暦初年、累官して広東右布政使となり、病を理由に辞任して帰郷した。久しくして、推薦により家にあって太常卿を授かり、致仕した。子に德涵・德溥がいる。德涵は、字を汝海といい、隆慶五年の進士となった。刑部員外郎を歴任した。張居正が講学を禁じていたが、德涵は平然とこれを守った。御史傅応禎・劉臺が相次いで居正を論劾したが、二人とも德涵の同郷であり、党と疑われ、河南僉事に出された。御史が風旨を奉じてこれを弾劾し、官位を下げられて帰郷した。善は父の教えを服習し、実践して怠ることがなく、その家学を称えられた。しかし德涵は耿定理に遊学したが、定理は答えなかった。発憤して深く思索し、自ら得るところがあると悟り、ここにおいて専ら悟りを宗旨とし、祖父・父から伝えられたものに対して、初めて一変させたのである。德溥は、万暦十一年の進士より出た。司経局洗馬を歴任した。善の従子德泳は、万暦十四年の進士となった。御史に任官した。給事中李献可が太子の予備教育を請うたが、庶民に斥けられた。德泳は同官と共にこれを救おうとしたが、またも官籍を削られた。家に居ること三十年、言官が相次いで推薦した。光宗が立つと、尚宝少卿として起用され、太常卿を歴任した。魏忠賢が権力を握ると、致仕を願い出て帰郷した。所司が忠賢のために生祠を建てようとしたが、德泳がその募金簿を塗り潰したので、やめた。
錢德洪は、名は寬、字は德洪といい、後に字をもって行われ、字を洪甫と改めた。余姚の人である。王守仁が尚書を辞して郷里に帰った時、德洪は数十人と共に学んだ。四方の士が踵を接して至り、德洪と王畿が先にその大旨を疏通し、その後守仁に卒業した。嘉靖五年に会試に合格したが、直ちに帰郷した。七年冬、畿と共に廷試に赴こうとしたが、守仁の訃報を聞き、喪に奔って貴溪に至った。喪服について議すると、德洪は「私には親がおりますので、麻衣布绖を敢えて加えることはできません」と言い、畿は「私は親がいません」と言って斬衰を服した。喪が帰ると、德洪と畿は墓場に小屋を築き、心喪を終えた。十一年にようやく進士となった。累官して刑部郎中となった。郭勛が詔獄に下され、刑部に移送されて罪を定めることになったが、德洪は獄詞に拠って死罪と論じた。廷臣は不軌の罪に坐そうとし、德洪は刑名に習熟していないと言った。しかし帝は元より勛を死なせたくなかったので、言官の上疏により、德洪を詔獄に下した。所司がその罪状を上奏した時には、既に獄を出ていた。帝は「初め朕は刑官に勛を枷鎖するなと命じたのに、德洪は故意にこれに違反した。勛が勅書を受け取らなかったのと何が違うのか」と言い、再び獄に下した。御史楊爵・都督趙卿もまた囚われていたが、德洪は彼らと『易経』を講じて止まなかった。久しくして、庶民に斥けられた。德洪は既に廃された後、四方を周遊し、良知学を講じた。当時、士大夫は概ね講学を務めて名声を高めようとしたが、德洪と畿は守仁の高弟として、特に人々の宗とされた。德洪の徹悟は畿に及ばず、畿の持循も德洪に及ばなかったが、しかし畿はついに禅に入り、德洪はなお儒者の矩矱を失わなかったという。
穆宗が立つと、官に復し、朝列大夫に進階し、致仕した。神宗が嗣位すると、さらに一階を進められた。七十九歳で卒去した。学者は緒山先生と称した。
初め、守仁がその郷里で道を倡えた時、隣境から遊学する者が甚だ多く、德洪と畿がその首となった。その最初に受業した者には、余姚の徐愛、山陰の蔡宗袞・朱節および応良・盧可久・応典・董涷の類がいる。
朱節、字は守中。正徳八年の進士。御史となり、山東を巡按す。大盗顔神鎮に起こり、州県十数に蔓る。戎馬の間に馳駆し、労して卒す。光禄少卿を贈られる。
応良、字は原忠、仙居の人。正徳六年の進士。官は編修。守仁吏部に在りし時、良学ぶ。親老して帰養し、山中に講学すること将に十年。嘉靖初、任に還り、闕に伏して大礼を争い、廷杖を受く。張璁翰林を外官に黜す、良は山西副使を得、病を謝して帰り、卒す。
盧可久、字は一松。程粹、字は養之。皆な永康の諸生。同邑の応典とともに、皆な守仁に師事す。粹の子正誼、順天府尹を歴任す。
応典、字は天彜。進士。官は兵部主事。家に居て母を養い、栄利を希わず。通籍三十年、在官は止まること一考。
可久は東陽の杜惟熙に伝え、惟熙は同邑の陳時芳・陳正道に伝う。惟熙は己に克つことを要とし、嘗て言う、「学者一息も昧まずんば、則ち万古皆な通ず。一刻も少しく寬ぐあらば、即ち終朝欠く」と。卒す年八十余。時芳は博覧多聞にして、而して実践に帰す。歳貢して仕えず。正道は建安の訓導となり、年八十余、猶ほ徒歩にて五峰の講会に赴く。其の門人呂一龍、永康の人、言動苟もせず、学者皆な之を宗とす。
董澐、字は子寿、海寧の人。年六十八、会稽に遊び、瓢笠と詩巻を肩にして守仁に謁し、遂に弟子たることを請う。子の谷、官は知県、亦た守仁に受業す。
艮、字は汝止。初め名は銀、王守仁之が為に名を更む。七歳郷塾に書を受け、貧しくして学を竟うる能わず。父は竈丁、冬の晨寒を犯し、官に役す。艮哭して曰く、「人子として、父をして此に至らしむ、人と為るを得んや」と。出でて父の役に代わり、入りて定省するに、惟だ謹みたり。艮書を読み、止まる所《孝経》《論語》《大学》、口に任せて談説し、理解に中る。客艮の言を聞き、詫びて言う、「何ぞ王中丞の語に類する」と。艮乃ち守仁を江西に謁し、守仁と久しく弁じ、大いに服し、拝して弟子と為る。明日之に悔ゆるを告げ、復た賓位に就きて自如たり。已にして心折れ、卒に弟子と称す。守仁に従って里に帰り、嘆じて曰く、「吾が師絶学を倡明す、何ぞ風の廣からざる」と。家に還り、小車を制して北上し、過ぐる所人士を招要し、守仁の道を告ぐ、人聚り観る者千百。京師に抵る、同門生駭異し、其の車を匿し、趣して返らしむ。守仁之を聞き、悦ばず。艮往きて謁す、見るを拒み、長跪して過ちを謝して乃ち已む。王氏の弟子天下に遍く、率ね皆な爵位有り気勢有り。艮布衣を以て其の間に抗し、声名反って諸弟子の上に出づ。然れども艮本より狂士、往々師説を駕して之に上り、持論益々高遠にして、二氏に出入す。
艮は林春・徐樾に伝え、樾は顔鈞に伝え、鈞は羅汝芳・梁汝元に伝え、汝芳は楊起元・周汝登・蔡悉に伝う。
徐樾、字は子直、貴渓の人。進士に挙げらる。官を歴て雲南左布政使に至る。元江の土酋那鑒反し、詐りて降る。樾之を信じ、其の城下に抵りて死す。詔して光禄寺卿を贈り、祭葬を賜い、一子に官を任ず。
楊起元・周汝登、皆な万暦五年の進士。起元は帰善の人。庶吉士に選ばる。適に汝芳参政として入賀す、遂に之に学ぶ。張居正方に講学を悪む、汝芳劾せられ罷むるも、而起元は自如たり。累ねて吏部左侍郎に至る。拾遺に被劾すれども、帝問わず。未幾卒す。天啓初、文懿を追謚す。汝登は嵊の人。初め南京工部主事となり、税を榷するも額に如かず、謫せられて両淮塩運判官と為り、累官して南京尚宝卿に至る。起元は清修誇節なり、然れども其の学は禅を諱まず。汝登は更に儒釈を合して之を会通せんと欲し、《聖学宗伝》を輯し、先儒の語類禅なるものを尽く采りて以て入る。蓋し万暦の世、士大夫の講学する者、多く此に類す。
蔡悉は字を士備といい、合肥の人である。嘉靖三十八年の進士。常徳推官に任ぜられる。城外に六つの堤防を築き水害を防いだ。抜擢されて南京吏部主事となり、累進して南京尚宝卿に至り、国子監を兼ねて管轄した。かつて東宮の冊立を請願し、また鉱税の弊害を極論した。学問と行いを備え、官職への情欲は淡泊であった。五十年仕官し、家で過ごした期間が半分を超えた。清廉な操守と明らかな節義を持ち、淮西の人々は彼を宗仰した。
この時、徳は徐階・聶豹・程文徳とともに、古学を修めた者として高位にあった。ここにおいて四方の名士を霊済宮に集め、良知の学を論じた。赴いた者は五千人に及んだ。都城における講学の会は、この時が最も盛んであった。徳は器量が温かく純粋で、学問は実践を務め、空虚な議論を尊ばなかった。晩年に帝に知られ、重用されようとしたが、徳は急に卒した。太子少保を追贈され、文莊と諡された。
同族の欧陽瑜は字を汝重といい、やはり王守仁に学んだ。守仁は彼を教えて言った、「常に謙虚で自ら是とすることなかれ」。瑜は終身これを実践した。郷試に合格したが、会試に赴かず、言った、「老いた親がいる。三公の位と換えられない」。母が死ぬと、墓の傍らに廬を結んだ。虎が廬の周りを吼え回ったが、動じなかった。四川参議を歴任し、赴任する所々で清廉で恵みある名声があった。年近く九十で卒した。
羅洪先は字を達夫といい、吉水の人である。父の羅循は進士。兵部武選郎中を歴任した。武職の考選が行われた時、指揮二十余人がかつて劉瑾の門下であったが、羅循は彼らの管事を罷免した。瑾は怒って尚書の王敞を罵り、敞は恐れて部に帰り、上奏文を急いで変えさせようとした。羅循はわざと遅らせ、数日後に瑾が失脚すると、敞は羅循に謝罪した。羅循は鎮江・淮安二府の知府、徐州兵備副使を歴任し、いずれも名声があった。
十八年、宮僚を選び、召されて春坊左賛善に任ぜられた。翌年の冬、司諫の唐順之・校書の趙時春とともに上疏し、来年の正月朝賀の後、皇太子が文華殿に出御し、群臣の朝賀を受けるよう請うた。当時、帝はたびたび病気を称して朝に出ず、儲君の臨朝することを忌み嫌っていたので、洪先らの上疏を見て、大いに怒って言った、「これは朕が必ず起きられないと見込んでいるのだ」。手詔を下して百余言にわたり厳しく責め、ついに三人の名を削除した。
洪先は帰郷し、ますます王守仁の学を探求した。淡泊を甘んじ、寒暑を鍛え、馬を駆り強弓を引き、地図を考究し歴史を観察し、天文・地誌・礼楽・典章・河渠・辺塞・戦陣攻守から、下は陰陽・算数に至るまで、精しく究めなかったものはなかった。人才・吏事・国計・民情に至っては、悉く心を留めて諮問訪問した。言うには、「もしその任に当たるならば、皆わが事である」。郷里の田賦には多くの積弊があり、役所に均すよう請うたところ、役所はすぐに彼に委任した。洪先は心を込めて体察し、弊害はたちまち除かれた。凶年の時、郡邑に文書を送り、数十石の粟を得て、友人を率いて自ら救済に当たった。流賊が吉安に入ると、主事者は処置に窮した。洪先が戦守の策を図ると、賊は退去した。平素より唐順之と親しくしていた。順之が召しに応じ、彼を引き出そうとしたが、厳嵩が同郷の縁故で、辺境の才を仮りて起用しようとしたが、いずれも力辞した。
初め、帰省を告げて儀真を過ぎた時、同年の進士で主事の項喬が分司を務めていた。ある富人が死罪に坐し、万金を使って助命工作を求めたが、洪先は拒絶して聞き入れなかった。項喬がほのめかすと、厳しい声で言った、「君は志士は溝壑に在るを忘れず、と聞かないのか」。長江が増水して家屋を損壊すると、巡撫の馬森が建て直そうとしたが、固辞して許さなかった。隆慶初年に卒し、光禄少卿を追贈され、文莊と諡された。
悌は王守仁の学を奉じたが、清廉で節操が固く、自らを省みて得るところが多かった。万暦年間、子の仁度が恩恤を請うた。吏部尚書孫丕揚は言った、「悌は理学の名臣であり、常例に従うべきではない」。そこで黄孔昭の例を用い、礼部尚書を追贈し、文荘と諡した。郷人が祠堂を建て、陸九淵・呉澄・呉与弼・陳九川とともに祀り、五賢祠と称し、学者は疏山先生と称した。
仁度、字は継疏。万暦十七年の進士。中書舎人に任じられた。三王並封の議が起こると、上疏して抗論した。長くして吏部主事に抜擢され、考功郎中を歴任した。稽勲郎中趙邦清が弾劾され、同官の鄧光祚らが言路を唆したと疑い、憤激して力強く弁明した。上奏文が考功に下ると、仁度は趙邦清の処罰を少し寛大にしようとしたので、給事中梁有年が仁度が徒党を組んで結託していると弾劾した。当時、鄧光祚は病気を理由に去り、仁度が代わって文選となったので、御史康丕揚がまた仁度が鄧光祚を排斥して代わったと弾劾し、詔により南京に改任させられた。趙邦清が論難されて以来、言路の攻撃が止まず、都御史温純は非常に憤り、国是を定めて衆疑を解くよう請うとともに、仁度のことを深く惜しんだ。仁度はまもなく南京刑部郎中に補され、太僕少卿に抜擢され、右僉都御史に進み、山西巡撫となった。廉潔を磨き、慈愛に務め、魏允貞と並び称された。四年在任し、病気で帰郷した。熹宗の初め、大理寺卿に起用され、兵部右侍郎に進んだが、また病気を理由に去った。再び工部左侍郎に起用された。天啓五年、魏忠賢は仁度が趙南星・楊漣らと親しいとして、強いて致仕させ、まもなく死去した。仁度は名父の子として、自ら奮励し、鄒元標がしきりに称賛した。
守仁の門下で、従遊する者は常に数百人、浙東・江西が特に多く、師説を推し広めるのに優れていたのは黄弘綱・何廷仁及び銭徳洪・王畿と称された。当時の人の言葉に、「江に何・黄あり、浙に銭・王あり」と言う。しかし守仁の学は、山陰・泰州に伝わったものは、弊害が極まりなく、ただ江西では多く実践に務め、安福では劉邦采、新建では魏良政兄弟が最も著名であるという。
劉邦采、字は君亮。族子の劉曉が守仁に師事し、帰って劉邦采に話したので、従兄の劉文敏及び弟・甥九人とともに守仁の私邸に謁見し、師事した。父の喪に服し、粗食をとり墓の傍らに廬した。喪が明けても、再び科挙に応じなかった。提学副使趙淵が試験に赴くよう檄を飛ばし、御史儲良才が常服のまま入闈し、衣を解いて検査しないことを許したので、ようやく試験を受け、合格した。長くして寿寧教諭に任じられ、嘉興府同知に抜擢されたが、官を棄てて帰郷した。邦采は識見が高明で、力を用いることが果敢鋭敏であった。守仁が良知を提唱して学の的としたが、時が経つにつれて弊害が生じ、揣摩をもって妙悟とし、放縦恣意をもって自然とする者がいたので、邦采は常に極言して排斥した。
劉文敏、字は宜充。父の喪が明けると、科挙を断念した。かつて言った、「学者は本心の明らかさに従い、常に己の過ちを見て、切磋琢磨し、気質を融和させ、外からの誘惑を絶ち、倫理・事物の実に徴して、一つとして心に満足しないことがなく、その後で聖門の正学となるのであり、苦労して努めなければ入ることはできない。高遠な議論や空虚な悟りを誇り、末を飾って本を離れるのは、徳の賊ではないか」。劉曉、字は伯光。郷試に合格し、後に新寧知県となり、善政があった。
王時槐、字は子植、安福の人。嘉靖二十六年の進士。南京兵部主事を授かる。礼部郎中・福建僉事を歴任。累官して太僕少卿となり、光祿少卿に降格。隆慶末、出でて陜西參政となる。張居正が国政を執るに及び、京察により罷免されて帰郷す。萬歷中、南贛巡撫張嶽が疏を上し彼を推薦す。吏部言う、「六年毎の京察は、祖制なり。若し執政が何らかの排除を行わんとし、時期を定めずに一挙に行うは、閏察と謂う。時槐は閏察の中にあり、群情服せず。時槐を召し還すを請う。且つ永く閏察を停止すべし」と。詔して可とす。久しくして陸光祖が銓衡を掌り、貴州參政に起用し、間もなく南京鴻臚卿に抜擢し、太常に進むも、皆赴任せず。
時槐は同県の劉文敏に師事し、官に就いて後は、四方の学者に広く質し、自ら終に得る所無しと謂う。五十歳、官を罷め、身を反して実証に努め、始めて造化生生の機は、念慮の起滅に随わざるを悟る。学者が真の機を識らんと欲すれば、慎独より入るべし。其の性を論じて曰く、「孟子の性善の説は、決して易うべからず。性の中に本より仁義無くんば、則ち惻隠羞悪は更に何よりか生ぜん。且つ人、事に応じ物に接するに、是の如くすれば則ち安んじ、是の如くせざれば則ち安んぜず。善に非ずして何ぞや」と。又曰く、「居敬・窮理、二者は一つも廃すべからず。要するに、居敬の二字以て之を尽くす。其の居敬の精明了悟より言うを、窮理と謂い、即ち考索討論も亦た居敬中の一事なり。敬は該らざる所無く、敬の外に更に余事無し」と。八十四歳にして卒す。
廬陵の陳嘉謨、字は世顯、時槐と同年の進士。給事中となり、厳嵩に附かず、外任に出される。湖廣參政を歴任し、休職を乞うて帰郷し、専ら学に力を用う。凡そ其の門に及ぶ者に告げて曰く、「塘南在り、往きて之に師事すべし」と。塘南は時槐の別号なり。八十三歳にして卒す。
孚遠は良知を篤く信じ、而して良知を援いて仏に入らんとする者を憎む。建昌を知り、郡人羅汝芳と講学するも合わず。官南京に及び、汝芳の門人礼部侍郎楊起元・尚寶司卿周汝登と並びに講席を主る。汝登は無善無悪を宗とす。孚遠は『九諦』を作りて之を難じ、言う、「文成(王守仁)の宗旨は、原より聖門と異ならず。性に善無からざるを以て、故に知に良からざる無し。良知は即ち未発の中なり。立論至って明析なり。『無善無悪心之体』の一語は、蓋し其の未発の時、廓然寂然なる者を指して之を言う。止だ一つの静字を形容するに得、下の三語に合して始めて病無し。今心意知物を以て、俱に善悪言う可き無しと為すは、文成の正伝に非ざるなり」と。彼此の論益々齟齬す。而して孚遠が福建を巡撫するに、巡按御史陳子貞と相得ず。子貞は南畿の督学たり、遂に密かに同列を諷して遺漏を拾い之を劾せしむ。孚遠に遊ぶ者、馮従吾・劉宗周・丁元薦、皆名儒と為る。
東昌知府羅汝芳、提學副使鄒善は皆王守仁の学を宗とし、後覚と志を同じくした。鄒善は願学書院を建て、六郡の士人に師事させた。羅汝芳も見泰書院を建て、時に討論を交わした。なお交友が広くないことを以て、北は京師に走り、南は江左に遊び、親賢講学を事とし、門弟子は日に日に増えた。その地に吏たりし者及び茌平を経由する者は、皆その廬を訪ねて学業を問うた。巡撫李世達は二度山居に赴いたが、病で礼を為すことができず、席を近づけて激談し、蔬食に飽きて去った。平生詩を作らず、禅を談ぜず、著述に事とせず、行いは遠近に信じられ、学者は弘山先生と称した。年七十六、万暦六年に卒す。
その門人、孟秋、趙維新が最も著名である。孟秋は別に伝がある。趙維新もまた茌平の人、年二十にして後覚の良知の学を講ずるを聞き、遂に師事した。その問答の語を次第にし、『弘山教言』と為す。性純孝、喪に居り五味を口に入れず、柴毀骨立し、杖にして後起つ。郷人その孝行を挙げんと欲したが、力辞した。配偶に喪あり、五十年再び娶らず。嘗て垣を築くに金一篋を得たが、工人これを持ち去り、維新は問わなかった。家貧しく、或いは日を並べて食すも、超然自得した。また歳貢生として長山訓導となり、年九十二、疾なくして終わる。
鄧以贊、字は汝德、新建の人。張元忭、字は子藎、紹興山陰の人。二人は皆生まれながら異質を持ち、また書を好んだ。以贊は幼くして父が人と学を論ずるを見ると、輒ち衣を牽いてこれに従い、時に語を出せば夙儒の類であった。父はその勤学を憐れみ、嘗て斗室に閉じ込めた。元忭は元来羸弱で、母は過労を戒めたので、燈を幕中に隠し、母の寝るを俟って誦じ始めた。十余歳の時気節を以て自ら負い、楊継盛の死を聞き、文を為して遙かに誄し、慷慨して泣下した。父天復は雲南副使に官し、武定の賊鳳継祖を撃って功有り。已にして賊は還って武定を襲い、官軍敗績し、巡撫呂光洵が討ち滅ぼした。隆慶初に至り、議者が前の失亡の状を追理し、天復を逮えて雲南に赴き対簿させた。元忭は丁度下第して帰り、万里を護行し、髪は尽く白くなった。已にして復た馳せて闕下に詣で冤を白くし、当事これを憐れみ、天復は削籍して帰るを得た。
元忭は嘗て抗疏して御史胡涍を救い、又請うて『列女伝』を両宮に進講し、『二南』の化を修めんとす、皆省みられず。万暦十年楚府に使いして還り、家に過ぎて母を省み、既に行きて心動き、輒ち馳せて帰り、僅かに五日にして母卒す。元忭は二親の疾に奉じ、湯薬は口に嘗めざれば進まず、喪に居り毀瘠し、古礼を用い、郷人多く化された。服闋し、故官に起き、左諭徳に進み、経筵に直る。先ず、元忭は帝の登極の恩を以て、父の官を復するを請い、詔して冠帯を与うるを許す。ここに至り復た前の請いを申すも、格されて従わず。元忭は泣いて曰く、「吾れ父母を見るに下ること無し。」遂に悒悒として疾を得て卒す。天啓初、文恭を追謚す。
以贊、元忭は未だ第せざる時より即ち王畿に従い遊び、良知の学を伝うるも、然れども皆孝行に篤く、躬行実践した。以贊は品端しく志潔く、元忭は矩矱儼然として、禅寂に流入する弊無し。元忭の子汝霖は江西参議。汝懋は御史。
孟化鯉、字は叔龍、河南新安の人。孟秋、字は子成、茌平の人。化鯉は年十六、慨然として聖賢を以て自ら期す。秋は児時に『詩』を受け、『桑中』諸篇に至り、輒ち棄て去り竟に読まず。化鯉は万暦八年の進士に挙げられる。戸部主事を授かり、時の宰相招致せんと欲すも、辞して往かず。河西務で税を榷し、諸生と講学し、河西人はこれを尸祝した。南畿・山東大饑し、命を受けて往きて振恤し、全活多し。吏部に改め、文選郎中を歴任し、尚書孫鑨の黜陟を佐け、名声甚だ高し。時に内閣権重く、毎に銓除には必ず先ず内閣に白すが、化鯉は独り然らず、中官の請托もまた応ぜず、以て故に多く悦ばず。都給事中張棟先ず建言を以て削籍せられ、化鯉奏してこれを起す、旨に忤い、堂官の俸を奪い、化鯉及び員外郎項復弘、主事姜仲軾を雑職に謫す。閣臣疏を上げて救う、命じて原品を以て外に調ず。頃くして、言官復た交章して救う、帝益々怒り、言官の俸を奪い、化鯉等を斥けて民と為す。既に帰り、川上に書院を築き、学者と講習して輟まず、四方より遊ぶ者恒に数百人。久しくして卒す。
秋は隆慶五年の進士に挙げられる。昌黎知県となり、善政有り。大理評事に遷り、去るの日、老稚道に載り泣き留まる。職方員外郎として山海関を督視す。関政久しく弛み、奸人出入自ら擅にす、秋これを厳しく禁ず。流言に中り、万暦九年の京察に坐して貶せられ、帰途妻孥と共に一牛車を駕し、道傍の観者皆嘆息す。許孚遠嘗て張秋に過ぎ、その廬に造り、茅屋数椽、書史その中に狼藉するを見て、嘆じて曰く、「孟我疆の風味は、大江以南未だ有らざるなり。」我疆とは、秋の別号なり。後ち官に起き刑部主事となり、尚宝丞少卿を歴任し、卒す。秋既に歿し、廷臣謚を請う者章数十上る。天啓初、清憲を賜謚す。
化鯉は貢挙により太学に入り、即ち秋と道義を相勖ます。後ち吏部郎となり、秋は尚宝に官し、比舍に居り、飲食起居共にせざる無し。時人「二孟」と称す。化鯉の学は洛陽の尤時熙に得、秋は邑人張後覚に受業す。時熙の師は劉魁と曰い、後覚は則ち顔鑰、徐樾の弟子なり。
来知徳、字は矣鮮、梁山の人である。幼少より至行あり、有司に挙げられて孝童と為る。嘉靖三十一年、郷挙に挙げらる。二親相次いで歿し、廬墓六年、酒を飲まず葷を茹まず。服喪終わり、禄養に及ばざるを傷み、終身麻衣蔬食、有司に会わざるを誓う。その学は致知を本とし、倫を尽くすを要とす。著す所に『省覚録』『省事録』『理学弁疑』『心学晦明解』諸書あり、而して『周易集注』一篇は用功特に篤し。自ら言う、学は『易』より邃きは莫しと。初め、釜山に廬を結び、之を学ぶこと六年にして得る所無し。後に遠く求渓山中に客たり、覃思すること数年、始めて『易』の象を悟る。又数年にして始めて文王の『序卦』、孔子の『雑卦』の意を悟る。又数年にして始めて卦変の非を悟る。蓋し二十九年にして後に書成る。万暦三十年、総督王象乾・巡撫郭子章、詞を合せて論薦し、特授して翰林待詔と為す。知徳力辞し、詔して授くる所の官を以て致仕せしめ、有司月に米三石を給し、其の身の終わるまでとす。
鄧元錫、字は汝極、南城の人である。十五にして父に喪し、水漿口に入れず。十七にして社倉法を行い、其の郷人に恵む。已に諸生と為り、邑人羅汝芳の門に遊び、又吉安に走り、諸先達に学ぶ。嘉靖三十四年、郷挙に挙げらる。復た鄒守益・劉邦采・劉陽諸宿儒に従い論学す。後に復た会試せず、門を杜み著述すること三十年を踰え、『五経』皆成書あり、閎深博奥、学者潜谷先生と称す。
休寧の範淶、南城を知る時、元錫を重んず。後に南昌知府と為り、万暦十六年入覲し、元錫及び劉元卿・章潢を朝に薦む。南京祭酒趙用賢も亦征聘を請い、呉与弼・陳献章の故事の如くす。旨を得て、有司起送して部試せしむ。元錫固辞す。明年、御史王道顯復た元錫・元卿を以て並びに薦め、且つ祖宗の征辟の故事に倣い、部試に拘わらざるを請う。詔して有司に病を問わしめ、痊え可くば起送して部に赴かしむ。竟に行われず。二十一年、巡按御史秦大夔復た二人を並びに薦め、詔して翰林待詔を以て之を征す。有司敦遣して上道せしむ。甫く家を離れて卒す。郷人私謚して文統先生とす。
元錫の学は、淵源王守仁にあり、其の説を尽く宗とせず。時に心学盛行し、学は唯だ覚無きを謂い、一覚すれば即ち余蘊無し、九容・九思・四教・六藝皆桎梏なりとす。元錫力排す、故に生平群書を博極し、而して要は『六経』に帰す。著す所の『五経繹』『函史上下編』『皇明書』並びに世に行わる。
潢、字は本清、南昌の人である。父に喪し居り、哀毀血溢す。此洗堂を構え、同誌を聯ねて講学す。群書百二十七巻を輯め、曰く『図書編』。又『周易象義』『時経原体』『書経原始』『春秋窃義』『礼記札言』『論語約言』諸書を著す。従遊する者甚だ衆し。数たび薦めらる。吏部侍郎楊時喬の請いに従い、遥授して順天訓導と為し、陳献章・来知徳の故事の如くす。有司月に米三石を給し其の家を贍う。万暦三十六年に卒す。年八十二。其の郷人潢を称して、少より老に迄り、口に非礼の言無く、身に非礼の行無く、交わりに非礼の友無く、目に非礼の書無し、乃ち私謚して文徳先生とす。呉与弼の後より、元錫・元卿・潢並びに薦辟を蒙り、号して「江右四君子」とす。