明史

列傳第一百七十 儒林一

列傳第一百七十 儒林一

原文列傳第一百七十 儒林一

◎儒林一

原文◎儒林一

そもそも司馬遷・班固が『儒林』を創述し、漢の興隆に際して諸儒が経学・芸術を修明した由来、朝廷が学官の道を広く励ました様子を著し、一代の政治と表裏を成した。後世の史書はその体制を沿襲し、遺経を抱いて相授受する士は、他に事業がなくとも、おおよそ類次して篇とした。『宋史』は『道学』と『儒林』を二つに分け、伊・洛の淵源を明らかにし、上は洙・泗を承け、儒宗の統緒はこれ以上に正しいものはないことを示した。世道人心に関わることは甚だ大きく、ゆえに典籍は繁雑であっても、廃することはできない。

原文粵自司馬遷、班固創述《儒林》,著漢興諸儒修明經藝之由,朝廷廣厲學官之路,與一代政治相表裏。後史沿其體制,士之抱遺經以相授受者,雖無他事業,率類次為篇。《宋史》判《道學》、《儒林》為二,以明伊、雒淵源,上承洙、泗,儒宗統緒,莫正於是。所關於世道人心者甚巨,是以載籍雖繁,莫可廢也。

明の太祖は布衣より起こり天下を定め、干戈が騒然としている時にも、至る所で耆儒を征召し、道徳を講論し、治術を修明し、教化を興起させ、煥然として一代の宏規を成した。天稟の英姿とはいえ、諸儒の功績は無助ではなかった。制科で士を取るには、一に経義を先とし、碩学を網羅した。後世は承平を継ぎ、文教は特に盛んで、文学をもって登用された大臣は、林立して朝右にあった。英宗の世には、河東の薛瑄が醇儒として機政に預かったが、用いられることは究められなかったものの、その清修篤学は海内で宗とされた。呉与弼は名儒として推薦され、天子は幣を修めて聘する殊礼をとり、前席して延見し、その風采を想望したが、誉れは実を上回り、誹謗が叢生した。ここより甲科を積重んじ、儒風は少し衰えた。白沙(陳献章)以後、曠典は欠如した。

原文明太祖起布衣,定天下,當幹戈搶攘之時,所至征召耆儒,講論道德,修明治術,興起教化,煥乎成一代之宏規。雖天亶英姿,而諸儒之功不為無助也。制科取士,一以經義為先,網羅碩學。嗣世承平,文教特盛,大臣以文學登用者,林立朝右。而英宗之世,河東薛瑄以醇儒預機政,雖弗究於用,其清修篤學,海內宗焉。吳與弼以名儒被薦,天子修幣聘之殊禮,前席延見,想望風采,而譽隆於實,詬誶叢滋。自是積重甲科,儒風少替。白沙而後,曠典缺如。

そもそも明初の諸儒は、皆朱子門人の支流余裔であり、師承は自ずからあり、矩矱は秩序立っていた。曹端・胡居仁は践履を篤くし、繩墨を謹み、儒先の正伝を守り、敢えて改錯しなかった。学術の分かれることは、陳献章・王守仁より始まった。献章を宗とするものを江門の学と称し、孤行独詣で、その伝は遠く及ばなかった。守仁を宗とするものを姚江の学と称し、別に宗旨を立て、顕かに朱子に背馳し、門徒は天下に遍く、流伝は百年を逾え、その教は大いに行き、その弊は甚だしくなった。嘉靖・隆慶以後、程・朱を篤信し、異説に遷らない者は、再び幾人もいなくなった。要するに、明代の諸儒は、伊・洛の緒言を衍べ、性命の奥旨を探り、錙銖の差があれば、たちまち岐趨を開き、謬りを襲い訛りを承けて、指帰はますます遠ざかった。至って、経訓の専門的な授受の源流については、二百七十余年の間、これをもって名家と聞こえた者はない。経学は漢・唐の精専には及ばず、性理は宋・元の糟粕を襲い、論者は科挙が盛んで儒術が微であると言うが、おそらくその通りであろう。

原文原夫明初諸儒,皆朱子門人之支流余裔,師承有自,矩矱秩然。曹端、胡居仁篤踐履,謹繩墨,守儒先之正傳,無敢改錯。學術之分,則自陳獻章、王守仁始。宗獻章者曰江門之學,孤行獨詣,其傳不遠。宗守仁者曰姚江之學,別立宗旨,顯與朱子背馳,門徒遍天下,流傳逾百年,其教大行,其弊滋甚。嘉、隆而後,篤信程、朱,不遷異說者,無復幾人矣。要之,有明諸儒,衍伊、雒之緒言,探性命之奧旨,錙銖或爽,遂啟岐趨,襲謬承訛,指歸彌遠。至專門經訓授受源流,則二百七十餘年間,未聞以此名家者。經學非漢、唐之精專,性理襲宋、元之糟粕,論者謂科舉盛而儒術微,殆其然乎。

今、その人を差別し、前史の例に準じて、『儒林傳』を作る。事功が見え、正傳に列せられる者は、ここには再び及ばない。先聖・先賢の後裔は、明代にしきりに表章され、衍聖公は列爵上公として、国と終始を共にした。その他の簪纓逢掖の士も、奕葉として恩を承け、これも儒林の盛事である。その原始を考へ、別に自ら篇を為し、諸末簡に附し、以て一代の故実を備える。

原文今差別其人,準前史例,作《儒林傳》。有事功可見,列於正傳者,茲不復及。其先聖、先賢後裔,明代亟為表章,衍聖列爵上公,與國終始。其他簪纓逢掖,奕葉承恩,亦儒林盛事也。考其原始,別自為篇,附諸末簡,以備一代之故云。

範祖幹(葉儀等)、謝応芳、汪克寛、梁寅、趙汸、陳謨、薛瑄(閻禹錫、周蕙等)、胡居仁(余祐)、蔡清(陳琛、林希元等)、羅欽順、曹端、呉与弼(胡九韶等)、陳真晟、呂柟(呂潜等)、邵宝(王問)、楊廉、劉観(孫鼎、李中)、馬理、魏校(王応電、王敬臣)、周瑛、潘府、崔銑、何瑭、唐伯元、黄淳耀(弟淵耀)

原文○範祖幹(葉儀等)謝應芳汪克寬梁寅趙汸陳謨薛瑄(閻禹錫周蕙等)胡居仁(余祐)蔡清(陳琛林希元等)羅欽順曹端吳與弼(胡九韶等)陳真晟呂柟(呂潛等)邵寶(王問)楊廉劉觀(孫鼎李中)馬理魏校(王應電王敬臣)周瑛潘府崔銑何瑭唐伯元黃淳耀(弟淵耀)

範祖幹、字あざなは景先、金華の人。同邑の許謙に従って遊学し、その指要を得た。その学は誠意を主とし、慎独持守の功を厳しくした。太祖が婺州を下すと、葉儀と共に召された。祖幹は『大学』を持って進み、太祖が治道は何を先とするかと問うと、対して「この書に出でず」と答えた。太祖がその義を剖陳せよと命じると、祖幹は帝王の道は、修身斉家より治国平天下に至るまで、必ず上下四旁、均斉方正にして、万物をして各々その所を得せしめ、然る後に治を言うことができると述べた。太祖は「聖人の道は、万世の法たる所以である。吾が起兵以来、号令賞罰に一として平らかでなければ、何をもって衆を服せしめようか。武は禍乱を定め、文は太平を致す、悉くこの道である」と言い、深く礼貌を加え、二人を諮議に命じたが、祖幹は親老を理由に辞して帰った。李文忠が処州を守ると、特に敬礼を加え、常に師と称した。祖幹は親に事うこと孝で、父母は共に八十余歳で亡くなった。家貧にして葬ることができず、郷里が共に営弁し、悲哀すること三年一日の如くであった。有司がこれを聞き、命じてその居所に「純孝坊」と表し、学者は純孝先生と称した。

原文範祖幹,字景先,金華人。從同邑許謙遊,得其指要。其學以誠意為主,而嚴以慎獨持守之功。太祖下婺州,與葉儀並召。祖幹持《大學》以進,太祖問治道何先,對曰:「不出是書。」太祖令剖陳其義,祖幹謂帝王之道,自修身齊家以至治國平天下,必上下四旁,均齊方正,使萬物各得其所,而後可以言治。太祖曰:「聖人之道,所以為萬世法。吾自起兵以來,號令賞罰,一有不平,何以服眾。夫武定禍亂,文致太平,悉是道也。」深加禮貌,命二人為諮議,祖幹以親老辭歸。李文忠守處州,特加敬禮,恒稱之為師。祖幹事親孝,父母皆八十餘而終。家貧不能葬,鄉里共為營辦,悲哀三年如一日。有司以聞,命表其所居曰純孝坊,學者稱為純孝先生。

葉儀、字は景翰、金華の人。許謙に師事し、謙はこれを誨えて「学者は必ず五性人倫を本とし、心術を開明し、気質を変化することを先とすべし」と言った。儀は朝夕惕厲し、奥旨を研究した。已にして徒を授け講学し、士は争ってこれに趨った。その学者に語るところは「聖賢の言行は、『六経』『四書』に尽き、その微詞奥義は、則ち近代先儒の説に備わっている。その言によってその心を求め、涵泳従容し、久しく自ら得るのであって、先に己意を立てて妄りに是非を有してはならない」というものであった。太祖が婺州を克つと、召見され、諮議に授けられたが、老病を理由に辞した。已にして知府王宗顕が儀と宋濂を『五経』師として聘したが、久しからずしてまた辞して帰り、隠居して親を養った。著す所に『南陽雑槁』がある。呉沈はその理明識精、一介苟もせずと称し、安貧楽道、守死して変わらなかった。

原文葉儀,字景翰,金華人。受業於許謙,謙誨之曰:「學者必以五性人倫為本,以開明心術、變化氣質為先。」儀朝夕惕厲,研究奧旨。已而授徒講學,士爭趨之。其語學者曰:「聖賢言行,盡於《六經》、《四書》,其微詞奧義,則近代先儒之說備矣。由其言以求其心,涵泳從容,久自得之,不可先立己意,而妄有是非也。」太祖克婺州,召見,授為諮議,以老病辭。已而知府王宗顯聘儀及宋濂為《五經》師,非久亦辭歸,隱居養親。所著有《南陽雜槁》。吳沈稱其理明識精,一介不茍。安貧樂道,守死不變。

門人の何寿朋、字は徳齢、また金華の人。経を窮め志を守り、妄りに人に干ることはなかった。洪武初年、孝廉に挙げられたが、二親共に老いていることを理由に辞した。父が歿すると、居る所の宅を捨てて地を易えて葬った。学者はその自号により因り、帰全先生と称した。

原文門人何壽朋,字德齡,亦金華人。窮經守誌,不妄幹人。洪武初,舉孝廉,以二親俱老辭。父歿,舍所居宅易地以葬。學者因其自號,稱曰歸全先生。

同邑の汪与立、字は師道、祖幹の門人。その德行は寿朋と齊名し、文学は優れていた。隠居して教授し、高寿を以て終わった。

原文同邑汪與立,字師道,祖幹門人。其德行與壽朋齊名而文學為優。隱居教授,以高壽終。

謝応芳、字は子蘭、武進の人。幼より志を篤くして好学し、性理に潜心し、道義名節を以て自ら励ました。元の至正初年、白鶴渓の上に隠れた。小室を構え、顔に「亀巣」と題し、因って号とした。郡が郷校子弟の教えを辟くと、先ず質を後れ文とし、諸生は皆循循として雅飭であった。異端が世を惑わすことを疾み、嘗て聖賢の格言・古今の明鑑を輯めて『弁惑編』とした。三衢書院の山長に挙げられた者があったが、就かなかった。天下に兵が起こると、地を避けて呉中に至り、呉人は争って延致して弟子の師とした。久しくして江南が底定すると、始めて帰り来たり、年は七十を逾えていた。芳茂山に徙居し、一室蕭然として晏如であった。有司が郡誌を修めることを征すると、強いて起きてこれに赴いた。年益々高く、学行益々劭であった。達官縉紳で郡を過ぐる者は、必ずその廬を訪れ、応芳は布衣韋帯でこれと抗礼した。議論は必ず世教に関わり、民隠に切って、善を導く志は衰えなかった。詩文は雅麗蘊藉であるが、自得する所は、理学が深かった。卒年九十七。

原文謝應芳,字子蘭,武進人也。自幼篤誌好學,潛心性理,以道義名節自勵。元至正初,隱白鶴溪上。構小室,顏曰「龜巢」,因以為號。郡辟教鄉校子弟,先質後文,諸生皆循循雅飭。疾異端惑世,嘗輯聖賢格言、古今明鑒為《辨惑編》。有舉為三衢書院山長者,不就。及天下兵起,避地吳中,吳人爭延致為弟子師。久之,江南底定,始來歸,年逾七十矣。徙居芳茂山,一室蕭然,晏如也。有司征修郡誌,強起赴之。年益高,學行益劭。達官縉紳過郡者,必訪於其廬,應芳布衣韋帶與之抗禮。議論必關世教,切民隱,而導善之誌不衰。詩文雅麗蘊藉,而所自得者,理學為深。卒年九十七。

汪克寛、字は徳一、祁門の人。祖父の華は、双峰の饒魯に師事し、勉斎黄氏の伝統を得た。克寛は十歳の時、父が双峰問答の書を授けると、たちまち悟るところがあった。そこで『四書』を取り、自ら句読を定め、昼夜誦習し、専心勤勉なことは普通の子供とは異なっていた。後に父に従って浮梁に赴き、呉仲迂に学問を問い、志はますます篤くなった。元の泰定年間、郷試に応じて挙げられ、選に中った。会試では答策が剛直であるとして罷免され、慨然として科挙の業を棄て、経学に尽力した。『春秋』については胡安国を主とし、広く諸説を考証し、集めて一書とし、名づけて『春秋経伝附録纂疏』といった。『易』には『程朱伝義音考』がある。『詩』には『集伝音義会通』がある。『礼』には『礼経補逸』がある。『綱目』には『凡例考異』がある。四方の学士で、経書を携えて門下に来る者は非常に多かった。至正年間、蘄・黄の兵が至り、家屋財産はことごとく焼掠に遭った。簞瓢しばしば空しきも、怡然として自得していた。洪武初年、招聘されて京師に至り、『元史』の編纂に参与した。書が完成し官を授けようとしたが、老病を理由に固辞した。銀幣を賜り、駅伝を給されて帰った。五年冬に卒し、年六十九であった。

原文汪克寬,字德一,祁門人。祖華,受業雙峰饒魯,得勉齋黃氏之傳。克寬十歲時,父授以雙峰問答之書,輒有悟。乃取《四書》,自定句讀,晝夜誦習,專勤異凡兒。後從父之浮梁,問業於吳仲迂,誌益篤。元泰定中,舉應鄉試,中選。會試以答策伉直見黜,慨然棄科舉業,盡力於經學。《春秋》則以胡安國為主,而博考眾說,會萃成書,名之曰《春秋經傳附錄纂疏》。《易》則有《程朱傳義音考》。《詩》有《集傳音義會通》。《禮》有《禮經補逸》。《綱目》有《凡例考異》。四方學士,執經門下者甚眾。至正間,蘄、黃兵至,室廬貲財盡遭焚掠。簞瓢屢空,怡然自得。洪武初,聘至京師,同修《元史》。書成將授官,固辭老疾。賜銀幣,給驛還。五年冬卒,年六十有九。

梁寅、字は孟敬、新喻の人。代々農を業とし、家は貧しく、自ら学問に励み、『五経』・諸子百家に通暁した。累次挙げられたが及第せず、ついに棄て去った。集慶路儒学訓導に召し出されたが、二年在任し、親が老いたことを理由に辞して帰った。翌年、天下に兵乱が起こり、隠居して教授した。太祖が四方を平定し、天下の名儒を徴して礼楽を修述させた。寅は徴に応じたが、年は六十余りであった。当時、礼・律・制度を分けて三局とし、寅は礼局におり、議論は精審で、諸儒は皆推服した。書が完成し、金幣を賜り、官を授けようとしたが、老病を理由に辞し、帰った。石門山に庵を結び、四方の士多く学びに従い、梁五経と称され、また石門先生とも称された。隣県の者が初めて官に就き、寅を訪れて教えを請うた。寅は言った、「清・慎・勤、これ官に居る三字の符なり。」その人が天徳王道の要を問うと、寅は微笑して言った、「言忠信、行篤敬、これ天徳なり。財を傷けず、民を害せず、これ王道なり。」その人は退いて言った、「梁子の言うところは、平平たるのみ。」後に不品行で失敗し、人に語って言った、「私は再び石門先生にお目にかかれない。」寅は卒し、年八十二であった。

原文梁寅,字孟敬,新喻人。世業農,家貧,自力於學,淹貫《五經》、百氏。累舉不第,遂棄去。辟集慶路儒學訓導,居二歲,以親老辭歸。明年,天下兵起,遂隱居教授。太祖定四方,征天下名儒修述禮樂。寅就征,年六十餘矣。時以禮、律、制度,分為三局,寅在禮局中,討論精審,諸儒皆推服。書成,賜金幣,將授官,以老病辭,還。結廬石門山,四方士多從學,稱為梁五經,又稱石門先生。鄰邑子初入官,詣寅請教。寅曰:「清、慎、勤,居官三字符也。」其人問天德王道之要,寅微笑曰:「言忠信,行篤敬,天德也。不傷財,不害民,王道也。」其人退曰:「梁子所言,平平耳。」後以不檢敗,語人曰:「吾不敢再見石門先生。」寅卒,年八十二。

趙汸、字は子常、休寧の人。生まれつき資質卓絶であった。初めて外傅に就き、朱子の『四書』を読み、多くの疑難があり、そこで朱子の書をことごとく取り読んだ。九江の黄沢に学行があると聞き、往いてその門に遊んだ。沢の学問は、精思自悟を主としていた。その人を教えるには、引いて発せしめない。汸は再三門を登り、ようやく『六経』の疑義千余条を得て帰った。後に、再び往き、二年留まり、口授で六十四卦の大義と『春秋』を学ぶ要を得た。後にまた臨川の虞集に従って遊び、呉澄の学問を聞くことを得た。そこで東山精舎を築き、その中で読書著述した。鶏が初めて鳴くとすぐに起き、心を澄ませて黙坐した。これによって造詣は精深となり、諸経に通貫せざるはなく、特に『春秋』に深かった。初め黄沢から聞いたところをもって、『春秋師説』三巻とし、さらにこれを広めて『春秋集伝』十五巻とした。『礼記』経解に「属辞比事は『春秋』の教えなり」という語があるのにより、さらに『春秋属辞』八篇を著した。また『春秋』を学ぶ者は、必ず『左伝』の事実を考証することを先とすべきで、杜預・陳傅良はこれに得るところがあったが、それぞれ蔽いがあると考え、さらに『左氏補註』十巻を著した。当時、天下に兵乱が起こり、汸は干戈の間を転々とし、顛沛はい流離したが、進修の功を懈らさなかった。太祖が天下を定めた後、詔して『元史』を修めさせ、汸を徴してその事に参与させた。書が完成し、辞して帰った。まもなく卒し、年五十一であった。学者は東山先生と称した。

原文趙汸,字子常,休寧人。生而姿稟卓絕。初就外傅,讀朱子《四書》,多所疑難,乃盡取朱子書讀之。聞九江黃澤有學行,往從之遊。澤之學,以精思自悟為主。其教人,引而不發。汸一再登門,乃得《六經》疑義千餘條以歸。已,復往,留二歲,得口授六十四卦大義與學《春秋》之要。後復從臨川虞集遊,獲聞吳澄之學。乃築東山精舍,讀書著述其中。雞初鳴輒起,澄心默坐。由是造詣精深,諸經無不通貫,而尤邃於《春秋》。初以聞於黃澤者,為《春秋師說》三卷,復廣之為《春秋集傳》十五卷。因《禮記》經解有「屬辭比事《春秋》教」之語,乃復著《春秋屬辭》八篇。又以為學《春秋》者,必考《左傳》事實為先,杜預、陳傅良有得於此,而各有所蔽,乃復著《左氏補註》十卷。當是時,天下兵起,汸轉側幹戈間,顛沛流離,而進修之功不懈。太祖既定天下,詔修《元史》,征汸預其事。書成,辭歸。未幾卒,年五十有一。學者稱東山先生。

陳謨、字は一徳、泰和の人。幼くして詩文ができ、経学に深く、旁ら子史百家に及び、流れを渉り源を探り、純駁を辨析し、犁然として至当を要した。隠居して仕官を求めず、経世の務に心を究めた。かつて言った、「学は必ず本を敦くすべし、性に加うるは莫く、倫に重きは莫く、気質を変化することに先んずるは莫し。礼楽・刑政・銭穀・甲兵・度数などの詳しきも、また講習せざるべからず。」一時、経生・学子多くその門に遊んだ。親に事えて孝で、弟に友であった。郷人で不善を行う者は、聞かせようとしなかった。洪武初年、徴されて京師に詣で、座を賜って学を議した。学士宋濂・待制王祎が留めて国学の師とすべく請うたが、謨は病を理由に辞して帰った。たびたび招聘に応じて江・浙の考試官となり、著書教授して終わった。

原文陳謨,字一德,泰和人。幼能詩文,邃於經學,旁及子史百家,涉流探源,辨析純駁,犁然要於至當。隱居不求仕,而究心經世之務。嘗謂:「學必敦本,莫加於性,莫重於倫,莫先於變化氣質。若禮樂、刑政、錢穀、甲兵、度數之詳,亦不可不講習。」一時經生學子多從之遊。事親孝,友於其弟。鄉人有為不善者,不敢使聞。洪武初,征詣京師,賜坐議學。學士宋濂、待制王祎請留為國學師,謨引疾辭歸。屢應聘為江、浙考試官,著書教授以終。

薛瑄、字は徳温、河津の人。父の貞は、洪武初年に郷薦に挙げられ、元氏の教諭となった。母の斉は、紫衣の人が謁見する夢を見、やがて瑄を生んだ。性質穎敏で、塾に就くや、『詩』・『書』を授けると、たちまち誦し、日に千百言を記した。貞が滎陽に改任した時、瑄は従って行った。時に年十二、自作の詩賦を監司に呈すと、監司はこれを奇とした。やがて高密の魏希文・海寧の範汝舟が理学に深いと聞き、貞はともに礼を尽くして瑄の師とした。これによって自作の詩賦をことごとく焼き、洛・閩の淵源に心を究め、寝食を忘れるに至った。後に貞がまた鄢陵に改官した。瑄は鄢陵の学生に補され、ついに河南郷試で第一に挙げられ、時は永楽十八年であった。明年、進士に及第した。親を省問するため帰った。父の喪に服し、ことごとく古礼に従った。宣徳年間に服喪が終わり、抜擢されて御史に授けられた。三楊が国政を執り、会いたがったが、謝絶して行かなかった。湖広銀場を監察するため出向し、日に性理の諸書を探求し、学問はますます進んだ。継母の喪により帰った。

原文薛瑄,字德溫,河津人。父貞,洪武初領鄉薦,為元氏教諭。母齊,夢一紫衣人謁見,已而生瑄。性穎敏,甫就塾,授之《詩》、《書》,輒成誦,日記千百言。及貞改任滎陽,瑄侍行。時年十二,以所作詩賦呈監司,監司奇之。既而聞高密魏希文、海寧範汝舟深於理學,貞乃並禮為瑄師。由是盡焚所作詩賦,究心洛、閩淵源,至忘寢食。後貞復改官鄢陵。瑄補鄢陵學生,遂舉河南鄉試第一,時永樂十有八年也。明年成進士。以省親歸。居父喪,悉遵古禮。宣德中服除,擢授御史。三楊當國,欲見之,謝不往。出監湖廣銀場,日探性理諸書,學益進。以繼母憂歸。

正統初年に朝廷に戻り、尚書郭琎が挙げて山東提学僉事とした。まず白鹿洞学規を掲げ、学者に示した。諸生を引見し、親しく講授した。才ある者はその寛大さを喜び、才なき者はその厳しさを畏れ、皆薛夫子と呼んだ。王振が三楊に言った、「我が郷里で誰が京卿となれるか。」瑄を以て答え、召して大理左少卿とした。三楊は瑄を用いることが振の意によるものと考え、瑄に一度往って会うよう欲し、李賢がこれを伝えた。瑄は正色して言った、「爵は公朝に拝し、恩は私室に謝す、我はこれを為さず。」その後、東閣で議事する時、公卿は振を見ると多く趨拝したが、瑄のみ屹立していた。振が趨って揖すると、瑄もまた礼を加えず、これより瑄を恨んだ。

原文正統初還朝,尚書郭琎舉為山東提學僉事。首揭白鹿洞學規,開示學者。延見諸生,親為講授。才者樂其寬,而不才者憚其嚴,皆呼為薛夫子。王振語三楊:「吾鄉誰可為京卿者?」以瑄對,召為大理左少卿。三楊以用瑄出振意,欲瑄一往見,李賢語之。瑄正色曰:「拜爵公朝,謝恩私室,吾不為也。」其後議事東閣,公卿見振多趨拜,瑄獨屹立。振趨揖之,瑄亦無加禮,自是銜瑄。

ある指揮が死に、妾に色があった。振の甥の山がこれを娶ろうとしたが、指揮の妻が肯わなかった。妾はそこで妻が夫を毒殺したと告発し、都察院に下して訊問させると、すでに誣服していた。瑄および同官がその冤罪を弁じたが、三度退けられた。都御史の王文が振の意を受けて、瑄および左・右少卿の賀祖嗣・顧惟敬らが故意に人罪を出したと誣告し、振はまた言官に諷して瑄らが賄賂を受けたと弾劾させ、ともに獄に下した。瑄を死罪と論じ、祖嗣らは末減して差があった。獄に繋がれて処決を待つ間、瑄は『易』を読んで自若としていた。子三人、一人の子に代わって死なせ、二人の子を充軍させようと願ったが、許されなかった。刑が執行されようとした時、振の下僕がかまどの下で突然泣いた。理由を問うと、泣きはますます悲しく、「今日薛夫子が刑に処せられると聞きました」と言った。振は大いに感動した。ちょうど刑科が三度覆奏する時で、兵部侍郎の王偉もまた救済を申し立てたため、ついに免れた。

原文指揮某死,妾有色,振從子山欲納之,指揮妻不肯。妾遂訐妻毒殺夫,下都察院訊,已誣服。瑄及同官辨其冤,三卻之。都御史王文承振旨,誣瑄及左、右少卿賀祖嗣、顧惟敬等故出人罪,振復諷言官劾瑄等受賄,並下獄。論瑄死,祖嗣等末減有差。繫獄待決,瑄讀《易》自如。子三人,願一子代死,二子充軍,不允。及當行刑,振蒼頭忽泣於爨下。問故,泣益悲,曰:「聞今日薛夫子將刑也。」振大感動。會刑科三覆奏,兵部侍郎王偉亦申救,乃免。

景帝が位を継ぐと、給事中程信の推薦により、大理寺丞に起用された。也先が侵入した際、北門を分守して功績があった。まもなく貴州の軍糧を監督するために出向し、事が終わるとすぐに休職を願い出たが、学士江淵が奏上して留任させた。景泰二年、南京大理寺卿に推挙された。富豪が人を殺したが、裁判が長く決着せず、薛瑄はこれを捕らえて法に照らして処した。召されて北京の大理寺に改任された。蘇州で大飢饉が起こり、貧民が富豪の粟を奪い、その家屋を焼き、海を渡って罪を逃れた。王文が閣臣として視察に出向き、反逆の罪に問い、死刑に当たる者二百余人としたが、薛瑄は力説してその冤罪を弁明した。王文は憤って言った、「この老人は相変わらず頑固だ。」しかし結局、死刑を減刑することができた。たびたび老齢を理由に辞任を願い出たが、許されなかった。英宗が復位すると、礼部右侍郎兼翰林院学士に任じられ、内閣に入り機務に参与した。王文、于謙が獄に下され、群臣に評議が下された時、石亨らは彼らを極刑に処そうとした。薛瑄は帝に強く意見し、二日後に王文、于謙が死んだが、刑は一等減じられた。帝はたびたび薛瑄に会い、その陳述することはすべて君主の徳に関する事柄であった。やがて、石亨、曹吉祥が政を乱すのを見て、上疏して骸骨を乞うた。帝は薛瑄を重んじていたが、少し老いを嫌い、ついに帰郷を許した。

原文景帝嗣位,用給事中程信薦,起大理寺丞。也先入犯,分守北門有功。尋出督貴州軍餉,事竣,即乞休,學士江淵奏留之。景泰二年,推南京大理寺卿。富豪殺人,獄久不決,瑄執置之法。召改北寺。蘇州大饑,貧民掠富豪粟,火其居,蹈海避罪。王文以閣臣出視,坐以叛,當死者二百餘人,瑄力辨其誣。文恚曰:「此老倔強猶昔。」然卒得減死。屢疏告老,不許。英宗復辟,拜禮部右侍郎兼翰林院學士,入閣預機務。王文、於謙下獄,下群臣議,石亨等將置之極刑。瑄力言於帝,後二日文、謙死,獲減一等。帝數見瑄,所陳皆關君德事。已,見石亨、曹吉祥亂政,疏乞骸骨。帝心重瑄,微嫌其老,乃許之歸。

薛瑄の学問は一貫して程子、朱子に基づき、己を修め人を教えるには、本性を回復することを主とし、充実した修養は深遠緻密で、言行はすべて模範とすべきものであった。かつて言った、「朱子以来、この道はすでに大いに明らかであり、著作を煩わす必要はなく、ただ実践すべきである。」著書に『読書録』二十巻があり、平易で簡潔切実、すべて自らの得たところを述べ、学者はこれを尊んだ。天順八年六月に卒去、七十二歳。礼部尚書を追贈され、諡は文清。弘治年間、給事中張九功が文廟への従祀を請うたが、詔して郷里で祀らせた。のち、給事中楊廉が『読書録』を国子監に頒布し、六館で誦習させることを請うた。また祠堂の名称を請うと、詔して「正学」と名付けた。隆慶六年、廷臣の請いを許し、先聖廟庭に従祀された。

原文瑄學一本程、朱,其修已教人,以復性為主,充養邃密,言動鹹可法。嘗曰:「自考亭以還,斯道已大明,無煩著作,直須躬行耳。」有《讀書錄》二十卷,平易簡切,皆自言其所得,學者宗之。天順八年六月卒,年七十有二。贈禮部尚書,謚文清。弘治中,給事中張九功請從祀文廟,詔祀於鄉。已,給事中楊廉請頒《讀書錄》於國學,俾六館誦習。且請祠名,詔名「正學」。隆慶六年,允廷臣請,從祀先聖廟庭。

その弟子の閻禹錫、字は子與、洛陽の人。父の閻端は河南郷試で第一となり、教諭となったが、死去した。禹錫が九歳の時、父を哭してほとんど命を絶つほどであった。成長して広く群書に渉猟し、正統九年の郷薦に合格し、昌黎訓導に任じられた。母の喪で帰郷し、墓のそばに廬を結んで三年過ごし、詔により孝行を表彰され、その里門に標榜された。河津の薛瑄が濂学、洛学を講じていると聞き、公車(科挙受験)をやめて、往きてその教えを受けた。長くして帰ろうとする時、薛瑄は裏門まで送り、告げて言った、「学問の要は、敬を保持し理を窮めることだけである。」禹錫は帰ってその大旨を得て、ますます実践に努めた。

原文其弟子閻禹錫,字子與,洛陽人。父端,舉河南鄉試第一,為教諭,卒。禹錫方九歲,哭父幾滅性。長博涉群書,領正統九年鄉薦,除昌黎訓導。以母喪歸,廬墓三年,詔以孝行旌其閭。聞河津薛瑄講濂、洛之學,遂罷公車,往受業。久之,將歸,瑄送至裏門,告之曰:「為學之要,居敬窮理而已。」禹錫歸,得其大指,益務力行。

天順初め、大学士李賢が推薦して国子学正となった。監規を厳しくして奔走競争を防ぎ、武学を復興して防備を講じることを請うと、帝はすべて従った。まもなく監丞に昇進したが、権勢ある者に逆らい、左遷されて徽州府経歴となった。諸生が宮門に伏して留任を請うたが、許されなかった。再び転任して南京国子監丞となり、京衛武学を管掌し、四度同考官を務め、超擢されて監察御史となった。畿内の学政を監督し、周子の『太極図』、『通書』を取り上げて士子に講解し、一時多くの士人が学問に志すようになった。成化十二年に卒去、五十一歳。

原文天順初,大學士李賢薦為國子學正。請嚴監規以塞奔競,復武學以講備禦,帝皆從之。尋升監丞,忤貴幸,左遷徽州府經歷。諸生伏闕乞留,不允。再遷至南京國子監丞,掌京衛武學,四為同考官,超拜監察御史。督畿內學,取周子《太極圖》、《通書》為士子講解,一時多士皆知響學。成化十二年卒,年五十一。

周蕙、字は廷芳、泰州の人。臨洮衛の兵卒となり、蘭州に駐屯した。二十歳の時、人が『大学』の首章を講ずるのを聞き、はっと感動し、そこで読書を始めた。州人の段堅は薛瑄の門人で、当時郷里で講学していた。周蕙はそれを聞きに行った。議論を交わすと、段堅は大いに敬服した。聖学を教えられ、周蕙は『五経』を研究した。また安邑の李昶に師事した。李昶も薛瑄の門人で、挙人から清水教諭となった。学政官はその賢を嘆賞し、李昶を自分の後任に推薦したが、命令が下る前に死去した。周蕙は長く彼に従い、学問はますます深遠となった。恭順侯呉瑾が陝西を鎮守し、子の師として招聘しようとしたが、固辞して赴かなかった。ある人が尋ねると、周蕙は言った、「私は軍人である、召し使役されるのはよい。しかし師とみなすならば、師はどうして召し寄せられようか。」呉瑾は自ら二人の子をその家に送り、周蕙は初めて礼を受け取った。後に泰州の小泉に戻って住み、幅巾に深衣、行動は必ず礼に従った。州人は多く感化され、小泉先生と称した。父が久しく江南に遊んで帰らないため、揚子江を渡って父を探しに行き、舟が転覆して溺死した。周蕙の門人で著名な者は、薛敬之、李錦、王爵、夏尚樸である。

原文周蕙,字廷芳,泰州人。為臨洮衛卒,戍蘭州。年二十,聽人講《大學》首章,惕然感動,遂讀書。州人段堅,薛瑄門人也,時方講學於裏。蕙往聽之。與辨析,堅大服。誨以聖學,蕙乃研究《五經》。又從學安邑李昶。昶,亦瑄門人也,由舉人官清水教諭。學使者嘆其賢,薦昶代己,命未下而卒。蕙從之久,學益邃。恭順侯吳瑾鎮陜西,欲聘為子師,固辭不赴。或問之,蕙曰:「吾軍士也,召役則可。若以為師,師豈可召哉?」瑾躬送二子於其家,蕙始納贄焉。後還居泰州之小泉,幅巾深衣,動必由禮。州人多化之,稱為小泉先生。以父久遊江南不返,渡揚子江求父,舟覆溺死。蕙門人著者,薛敬之、李錦、王爵、夏尚樸。

薛敬之、字は顯思、渭南の人。五歳で読書を好み、群童の遊戯に加わらなかった。成長して周蕙に師事し、鶏鳴に門の開くのを待ち、すぐに掃除をし座席を設け、跪いて教えを請うた。かつて人に語って言った、「周先生は孝悌を躬行し、学は伊学、洛学に近く、私は師と仰ぐ。陝州の陳雲逵は忠信で狷介、何事も必ず敬を持って行い、私は友とする。」憲宗の初め、歳貢生として国子監に入り、同舎の陳献章とともに盛名があった。ちょうど父母が相次いで亡くなり、号哭して大雪の中を徒歩し、足の病を患った。母が韭を好んだため、終生韭を食べなかった。成化末、応州知州に選抜され、考課の成績は天下第一であった。弘治九年に金華同知に転じた。二年在任し、致仕し、七十四歳で卒去した。著書に『道学基統』、『洙泗言学録』、『爾雅便音』、『思庵埜録』などがある。思庵とは、敬之の自号である。その門人で呂柟が最も著名で、別に伝がある。

原文敬之,字顯思,渭南人。五歲好讀書,不逐群兒戲。長從蕙遊,雞鳴候門啟,輒灑掃設座,跪而請教。嘗語人曰:「周先生躬行孝弟,學近伊、洛,吾以為師。陜州陳雲逵忠信狷介,事必持敬,吾以為友。」憲宗初,以歲貢生入國學,與同舍陳獻章並有盛名。會父母相繼歿,號哭徒行大雪中,遂成足疾。母嗜韭,終身不食韭。成化末,選應州知州,課績為天下第一。弘治九年遷金華同知。居二年,致仕,卒年七十四。所著有《道學基統》、《洙泗言學錄》、《爾雅便音》、《思庵埜錄》諸書。思庵者,敬之自號也。其門人呂柟最著,自有傳。

李錦、字は名中、鹹寧の人。天順六年の郷試に合格した。国子監に入り、祭酒邢讓に認められた。邢讓が事に坐して官吏に下された時、李錦は衆を率いて上奏文を抗してその無罪を弁明した。幼くして父を亡くし、母に仕えて和やかな顔色で養い、喪に服して礼を尽くし、仏教の法事を行わなかった。巡撫余子俊が子の師として招こうとしたが、李錦は喪服(斉衰)の身で公門に入らないとして、固辞した。住まいは風雨を凌ぐのみで、布衣に粗食、義によって妄りに取らなかった。成化年間に松江同知に選ばれ、任中に卒去した。

原文錦,字名中,鹹寧人。舉天順六年鄉試。入國學,為祭酒邢讓所知。讓坐事下吏,錦率眾抗章白其非辜。幼喪父,事母色養,執喪盡禮,不作浮屠法。巡撫余子俊欲延為子師,錦以齊衰不入公門,固辭。所居僅蔽風雨,布衣糲食,義不妄取。成化中選松江同知,卒官。

王爵、字は錫之、泰州の人。弘治初め、国子監生から保安州判官に任じられ、公平妥当な評判があった。その門人を教えるには、誠と敬を根本とすることを務めた。

原文爵,字錫之,泰州人。弘治初,由國學生授保安州判官,有平允聲。其教門人也,務以誠敬為本。

胡居仁、字は叔心、余幹の人。呉与弼が崇仁で講学していると聞き、往きてその教えを受け、仕官の意を絶った。その学問は忠信を主とすることから始め、放逸した心を求めることを要とし、操守して失わず、敬より大きなものはないとして、それゆえに敬をもってその書斎の名とした。端正厳重で、妻子に対しても厳かな賓客に対するようであった。手に一冊の帳面を置き、得失を詳しく記し、自らを考課した。ぼろ着に粗食、安らかであった。山中に室を築き、四方から学びに来る者が多く、皆に告げて言った、「学問は己のためであり、人に知られようと求めてはならない。」治世について語ると、言った、「ただ王道のみが万物をしてそれぞれその所を得させることができる。」著書に『居業録』があり、修辞立誠の意味を取ったものである。しばしば言った、「我が道に似ているものは禅学に如くはない。後の学者は、心を保持することを誤認して多く禅に流れ、あるいは思慮を屏絶して静を求めようとする。聖賢はただ戒慎恐懼するだけで、自ずから邪な思いはなく、静を求めなくても静でないことはないのである。故に卑しい者は功利に溺れ、高い者は空虚に走り、その患いには二つある。一つは所見が真でないこと、一つは功夫が間断することである。」かつて『進学箴』を作って言った、「誠敬が既に立てば、本心は自ずから存する。力行すること久しければ、全体ことごとく仁となる。これを挙げて措けば、家は斉い国は治まり、聖人の能事は畢わる。」

原文胡居仁,字叔心,余幹人。聞吳與弼講學崇仁,往從之遊,絕意仕進。其學以主忠信為先,以求放心為要,操而勿失,莫大乎敬,因以敬名其齋。端莊凝重,對妻子如嚴賓。手置一冊,詳書得失,用自程考。鶉衣簞食,晏如也。築室山中,四方來學者甚眾,皆告之曰:「學以為己,勿求人知。」語治世,則曰:「惟王道能使萬物各得其所。」所著有《居業錄》,蓋取修辭立誠之義。每言:「與吾道相似莫如禪學。後之學者,誤認存心多流於禪,或欲屏絕思慮以求靜。不知聖賢惟戒慎恐懼,自無邪思,不求靜未嘗不靜也。故卑者溺於功利,高者騖於空虛,其患有二:一在所見不真,一在功夫間斷。」嘗作《進學箴》曰:「誠敬既立,本心自存。力行既久,全體皆仁。舉而措之,家齊國治,聖人能事畢矣。」

居仁の性質品行は淳朴篤実であり、喪に服しては骨立つまで痩せ、杖なしには起つことができず、三年間寝室に入らなかった。人と語る時は、終日利禄に及ばない。羅倫・張元禎と親しく交わり、しばしば弋陽の亀峰で会合した。かつて言うには、陳献章の学は禅の悟りに近く、莊昶の詩はただ豪放曠達に止まる、この風潮が一旦成れば、害は小さからずと。また儒者の著述が繁雑冗長であることを病み、朱子が『参同契』『陰符経』に注を施したのは、いずれも作らなくても良かったと言った。督学の李齢・鐘成が相次いで白鹿書院の主管に招聘した。饒城に立ち寄った時、淮王が『易伝』の講義を請い、賓師の礼をもって遇した。この頃、呉与弼が学問で世に名を知られ、朝廷に知遇されていたが、学者の中には非難の言葉がある者もいた。居仁はひそかに修養し自らを守り、布衣のままで一生を終え、人々は薛瑄の後、純粋にして一貫して正道を出た者は、居仁ただ一人であると考えた。五十一歳で没した。万暦十三年に孔廟に従祀され、さらに文敬と追謚された。その弟子で余祐が最も著名である。

原文居仁性行淳篤,居喪骨立,非杖不能起,三年不入寢門。與人語,終日不及利祿。與羅倫、張元禎友善,數會於弋陽龜峰。嘗言,陳獻章學近禪悟,莊昶詩止豪曠,此風既成,為害不細。又病儒者撰述繁蕪,謂朱子註《參同契》、《陰符經》,皆不作可也。督學李齡、鐘成相繼聘主白鹿書院。過饒城,淮王請講《易傳》,待以賓師之禮。是時吳與弼以學名於世,受知朝廷,然學者或有間言。居仁暗修自守,布衣終其身,人以為薛瑄之後,粹然一出於正,居仁一人而已。卒年五十一。萬歷十三年從祀孔廟,復追謚文敬。其弟子余祐最著。

余祐は字を子積といい、鄱陽の人である。十九歳の時、居仁に師事し、居仁は娘を彼に嫁がせた。弘治十二年に進士に挙げられた。南京刑部員外郎となり、事があって劉瑾に逆らい、官職を剥奪された。劉瑾が誅殺されると、福州知府として起用された。鎮守太監が物品を買い求めても代金を支払わず、民衆が群れをなして余祐に訴え出た。余祐は涙を流して慰め帰らせ、まさに上奏して朝廷に知らせようとしていると言った。鎮守は恐れて、少しは収まったが、非常に恨み、使いを京に遣わしてその仲間に告げさせた。「余祐を除かねば、鎮守は思い通りにならぬ」と。しかし余祐は元来清廉で、罪状を探し集めても結局何も得られなかった。間もなく山東副使に転じた。父の喪に服し、喪が明けて、徐州兵備副使に補任された。宦官の王敬が御用の物品を運んで都に入る際、多く商船を便乗させ、知州の樊準・指揮の王良と口論した。王良がその禁制品を発見すると、王敬は恐れて余祐のもとに赴き和解を求めたが、余祐は聞き入れなかった。王敬は樊準らが自分を殴打したと誣告して上奏し、ついに余祐も共に逮捕され、南寧府同知に左遷された。やがて韶州知府に昇進したが、辞表を提出して去った。嘉靖初年、雲南布政使を歴任し、太僕寺卿として召されたが、赴任せず、吏部右侍郎に改任されたが、余祐は既に先に死去していた。余祐の学問は、師説を墨守し、獄中で『性書』三巻を著した。その言によれば、程子・朱子が人を教えるのは、専ら誠と敬をもって入らせることにある。学者が真にその不誠不敬なるものを去れば、古人に至らぬことを憂うるに足りない、と。当時、王守仁が『朱子晚年定論』を著し、その学は終に存養に帰するとした。余祐は言う。「朱子が心学を論じたのは凡そ三変あり、存斎記に言うところは、若き日の見解であり、延平に会ってその誤りを悟った。後に南軒から五峰の学を聞き、その言はまた一変した。最後に已発未発の論を改定して、その後は体用偏ることなく、動静ともに力を致し、これがその終身の定見である。どうして少年時代の未定の見解を捉えて、かえってそれを晚年の説と言えようか」と。その弁が世に出ると、王守仁の門人らは反論できなかった。

原文祐字子積,鄱陽人。年十九,師事居仁,居仁以女妻之。弘治十二年舉進士。為南京刑部員外郎,以事忤劉瑾,落職。瑾誅,起為福州知府。鎮守太監市物不予直,民群訴於祐。涕泣慰遣之,雲將列狀上聞。鎮守懼,稍戢,然恚甚,遣人入京告其黨曰:「不去余祐,鎮守不得自遂也。」然祐素廉,摭拾竟無所得。未幾,遷山東副使。父憂,服闋,補徐州兵備副使。中官王敬運進禦物入都,多挾商船,與知州樊準、指揮王良詬。良發其違禁物,敬懼,詣祐求解,祐不聽。敬誣奏準等毆己,遂並逮祐,謫為南寧府同知。稍遷韶州知府,投劾去。嘉靖初,歷雲南布政使,以太僕寺卿召,未行,改吏部右侍郎,祐已先卒。祐之學,墨守師說,在獄中作《性書》三卷。其言程、朱教人,專以誠敬入。學者誠能去其不誠不敬者,不患不至古人。時王守仁作《朱子晚年定論》,謂其學終歸於存養。祐謂:「朱子論心學凡三變,存齋記所言,乃少時所見,及見延平,而悟其失。後聞五峰之學於南軒,而其言又一變。最後改定已發未發之論,然後體用不偏,動靜交致其力,此其終身定見也。安得執少年未定之見,而反謂之晚年哉?」其辨出,守仁之徒不能難也。

蔡清は字を介夫といい、晉江の人である。若くして侯官に赴き、林比に従って『易経』を学び、その要諦をことごとく会得した。成化十三年に郷試で第一に挙げられた。二十年に進士となり、すぐに仮帰郷を願い出て講学した。後に、選を受けて礼部祠祭主事となった。王恕が吏部尚書となり、蔡清を重んじ、稽勲主事に転任させ、常に時事について意見を求めた。蔡清はそこで二通の上書をした。一つは綱紀を振るうことを請い、一つは劉大夏ら三十余人を推薦した。王恕は皆採用した。間もなく母の喪に服して帰郷し、喪が明けると、再び祠祭員外郎に任じられた。親の近くで養うことを願い出て、南京文選郎中に改任された。ある日、胸騒ぎがして、急いで仮帰郷して父を養うことを願い出た。帰郷してわずか二か月で父が死去し、これ以後は家に住んで弟子を教え、出仕しなかった。正徳に改元すると、家から直接江西提学副使に起用された。寧王宸濠は驕慢で勝手放題であり、朔望の日には、諸司はまず寧王に朝拝し、翌日に文廟に謁するのが慣例であった。蔡清はそれを認めず、まず文廟を先にして後に寧王とした。寧王の誕生日に、諸司に朝服で祝賀するよう命じた。蔡清は「礼に非ず」と言い、蔽膝を外して入ったので、寧王は次第に不愉快に思った。折しも寧王が護衛の復活を求めた時、蔡清が後日批判する言葉があった。寧王は詔旨を誹謗したと誣告しようとしたので、蔡清は致仕を願い出た。寧王は偽って引き留め、さらに娘を蔡清の子に嫁がせようとしたが、蔡清はついに強く辞して去った。劉瑾は天下が自分を非難していることを知り、蔡京が楊時を召した故事を用いて、蔡清を南京国子監祭酒に起用した。命令が下ったばかりで蔡清は既に死去しており、時は正徳三年、五十六歳であった。

原文蔡清,字介夫,晉江人。少走侯官,從林比學《易》,盡得其肯綮。舉成化十三年鄉試第一。二十年成進士,即乞假歸講學。已,謁選,得禮部祠祭主事。王恕長吏部,重清,調為稽勛主事,恒訪以時事。清乃上二劄:一請振紀綱,一薦劉大夏等三十餘人。恕皆納用。尋以母憂歸,服闋,復除祠祭員外郎。乞便養,改南京文選郎中。一日心動,急乞假養父,歸甫兩月而父卒,自是家居授徒不出。正德改元,即家起江西提學副使。寧王宸濠驕恣,遇朔望,諸司先朝王,次日謁文廟。清不可,先廟而後王。王生辰,令諸司以朝服賀。清曰「非禮也」,去蔽膝而入,王積不悅。會王求復護衛,清有後言。王欲誣以詆毀詔旨,清遂乞休。王佯挽留,且許以女妻其子,競力辭去。劉瑾知天下議己,用蔡京召楊時故事,起清南京國子祭酒。命甫下而清已卒,時正德三年也,年五十六。

蔡清の学問は、初めは静を主とし、後には虚を主とした。故に虚を以って斎の名とした。平生、身を整え行いを磨き、貧しいながらも喜んで施しを行い、一族や郷党の頼りとなった。『易経』に精通して名を知られた。嘉靖八年、その子で推官の蔡存遠が、蔡清の著した『易経蒙引』『四書蒙引』を朝廷に献上し、詔によって刊行公布された。万暦年間に文莊と追謚され、礼部右侍郎を追贈された。その門人陳琛・王宣・易時中・林同・趙逮・蔡烈はいずれも有名であり、陳琛が最も著名である。

原文清之學,初主靜,後主虛,故以虛名齋。平生飭躬砥行,貧而樂施,為族黨依賴。以善《易》名。嘉靖八年,其子推官存遠以所著《易經》、《四書蒙引》進於朝,詔為刊布。萬歷中追謚文莊,贈禮部右侍郎。其門人陳琛、王宣、易時中、林同、趙逮、蔡烈並有名,而陳琛最著。

陳琛は字を思献といい、晉江の人である。門を閉ざして独学した。蔡清がその文章を見て異才と認め、「私はこの人を友とすることができれば十分だ」と言った。陳琛は友人を介して蔡清に会いに行くと、蔡清は言った。「私が発憤して沈潜し辛苦してようやく得たものを、人に語っても常に理解されない。あなたは既にことごとく会得している。今、全てあなたに託そう」。蔡清の没後十年、陳琛は進士に挙げられ、刑部主事に任じられ、南京戸部に転じ、そのまま考功主事に昇進したが、終身親を養うことを願い出て帰郷した。嘉靖七年、その恬退ぶりを推薦する者がおり、詔によって召し出されたが、陳琛は辞退した。一年後、家から直接貴州僉事に起用され、すぐに江西に改任されたが、いずれも学校を監督する職で、共に辞退して赴任しなかった。家に住み、一室を掃き清めては、その中に横たわり、地方長官もその面と会うことができなかった。

原文琛,字思獻,晉江人,杜門獨學。清見其文異之,曰:「吾得友此人足矣。」琛因介友人見清,清曰:「吾所發憤沈潛辛苦而僅得者,以語人常不解。子已盡得之,今且盡以付子矣。」清歿十年,琛舉進士,授刑部主事,改南京戶部,就擢考功主事,乞終養歸。嘉靖七年,有薦其恬退者,詔征之,琛辭。居一年,即家起貴州僉事,旋改江西,皆督學校,並辭不赴。家居,卻掃一室,偃臥其中,長吏莫得見其面。

同郡の林希元は字を懋貞といい、陳琛と同年の進士である。雲南僉事を歴任し、考査で不謹慎の罪に坐して罷免され帰郷した。その著した『存疑』等の書は、陳琛の著した『易経通典』『四書浅説』と共に、科挙の学問として尊重された。

原文同郡林希元,字懋貞,與琛同年進士。歷官雲南僉事,坐考察不謹罷歸。所著《存疑》等書,與琛所著《易經通典》、《四書淺說》,並為舉業所宗。

王宣は晉江の人である。弘治年間に郷試に挙げられ、一度会試を受けたが及第せず、親が老いて養う必要があるため、再び赴かなかった。かつて言うには、「学者が朱子と陸象山を混同して一つにするのは、真の理解ではない」と。人となりは磊落豪邁で、一世を見下ろすようであった。

原文王宣,晉江人。弘治中舉於鄉,一赴會試不第,以親老須養,不再赴。嘗曰:「學者混朱、陸為一,便非真知。」為人廓落豪邁,俯視一世。

易時中は字を嘉会といい、これも晉江の人である。郷試に挙げられ、東流教諭に任じられ、夏津知県に転じ、善政を施した。やがて順天府推官に昇進した。胡守中の事件を処理する際、権力者の意に沿わず、他の事で罪に陥れようとしたので、ついに親を養うことを理由に帰郷した。道すがら夏津を通ると、老若が争って果物や干し肉を献上した。別れの際、声を上げて泣く者もいた。母が九十一歳で亡くなった時、易時中は七十歳であり、喪に過ぎて衰弱し、死去した。

原文易時中,字嘉會,亦晉江人。舉於鄉,授東流教諭,遷夏津知縣,有惠政。稍遷順天府推官。以治胡守中獄失要人意,將中以他事,遂以終養歸。道出夏津,老稚爭獻果脯。將別,有哭失聲者。母年九十一而終,時中七十矣,毀不勝喪而卒。

趙逮は字を子重といい、東平の人である。弘治年間に郷試に挙げられ、蔡清に『易経』を学んだ。蔡氏の『易』学はもともと閩南にのみ行われていたが、これにより北方の斉・魯にも広まった。母の喪に服して衰弱し、後に会試に及第せず、ついに志を高くして出仕しなかった。平生、濂溪・洛陽の諸子の学を好み、明代では特に薛瑄の『読書録』を好んだ。

原文趙逮,字子重,東平人。弘治中舉鄉試,受《易》於清。蔡氏《易》止行於閩南,及是北行齊、魯矣。居母喪毀瘠,後會試不第,遂抗誌不出。生平好濂、洛諸子之學,於明獨好薛氏《讀書錄》。

蔡烈は字を文繼といい、龍渓の人である。父の蔡昊は瓊州知府であった。蔡烈は弱冠で諸生となり、蔡清及び莆田の陳茂烈に知遇を得た。鶴鳴山の白雲洞に隠居し、再び試験を受けなかった。嘉靖十二年に隠逸を推挙する詔が下ると、知府の陸金が蔡烈を推挙したが、母が老いていることを理由に辞退した。巡按の李元陽が郡県に命じて書院を建てようとしたが、これも固く辞退した。突然、山が三日間鳴動し、蔡烈はついに死去した。主簿の詹道がかつて心について論じることを請うと、蔡烈は言った。「事について論ずべきである。孔門が仁を求めるのは、未だ事の外に出たことはない。堯・舜の道は、孝弟のみ。夫子の道は、忠恕のみ」。学士の豊熙が鎮海に流刑となった時、蔡烈に会い、嘆じて言った。「先生は語らずとも躬行する。私は既に心酔した」。

原文蔡烈,字文繼,龍溪人。父昊,瓊州知府。烈弱冠為諸生,受知於清及莆田陳茂烈。隱居鶴鳴山之白雲洞,不復應試。嘉靖十二年詔舉遣佚,知府陸金以烈應,以母老辭。巡按李元陽檄郡邑建書院,亦固辭。忽山鳴三日,烈遂卒。主簿詹道嘗請論心,烈曰:「宜論事。孔門求仁,未嘗出事外也。堯、舜之道,孝弟而已。夫子之道,忠恕而已。」學士豐熙戍鎮海,見烈,嘆曰:「先生不言躬行,熙已心醉矣。」

羅欽順、字は允升、泰和の人である。弘治六年に進士及第し、編修に任ぜられた。南京国子監司業に遷り、祭酒の章懋とともに実行をもって士を教えた。まもなく、親を奉じて帰郷し、ついに終養を乞うた。劉瑾が怒り、職を奪って民とした。劉瑾が誅せられると、官に復し、南京太常少卿に遷り、さらに南京吏部右侍郎に遷り、入朝して吏部左侍郎となった。世宗が即位すると、尚書事を摂ることを命ぜられた。久任・超遷について上疏し、法は疏通すべきであると述べたが、回答はなかった。大礼の議が起こると、欽順は大礼を慎み以て聖孝を全うすべきことを請うたが、回答はなかった。南京吏部尚書に遷り、省親して帰郷を乞うた。礼部尚書に改められたが、ちょうど喪に服していたため拝命に及ばなかった。再び礼部尚書に起用されたが、辞退した。また吏部尚書に改められ、詔を下して敦促されたが、再び辞退した。致仕を許され、有司より禄米が給された。時に張璁・桂萼が議礼により急に貴顕となり、政を執り党を樹て、正人を屏逐した。欽順は彼らと同列となることを恥じたので、たびたび詔があっても起ち上がらなかった。郷里に居ること二十余年、足を城市に入れず、ひたすら格物致知の学に潜心した。王守仁が心学を以て教えを立てると、才知の士は翕然としてこれを師とした。欽順は守仁に書を送り、おおよそ次のように述べた。「聖門の教えを設けるには、文と行とを兼ね備え、文に博く学ぶことは、明らかな訓戒がある。もし学が外に求めることを資とせず、ただ内を観て省みるべきであるというならば、『正心誠意』の四字で何が尽くせないというのか、必ずや入門の際に、格物の工夫を加える必要があろうか。」守仁は書を得て、また書をもって報い、おおよそ次のように述べた。「理に内外はなく、性に内外はない、故に学に内外はない。講習討論は、未だ内でないことはない。反観内省は、未だ外を遺すことはない。」二千余言を反復した。欽順は再び書を以て弁じて言った。「貴殿は云う、『格物とは、その心の物を格するのであり、その意の物を格するのであり、その知の物を格するのである。正心とは、その物の心を正すのである。誠意とは、その物の意を誠にするのである。致知とは、その物の知を致すのである。』と。『大学』ができて以来、このような議論はなかった。その心の物を格し、その意の物を格し、その知の物を格するという、およそ物と為すこと三つ。その物の心を正し、その物の意を誠にし、その物の知を致すという、その物と為すことは、一つだけである。三つについて論ずれば、程子の格物の訓に推し及ぼせば、なお通ずることができる。貴殿の格物の訓に推し及ぼせば、通ずることができない。一つの物について論ずれば、いわゆる物とは、果たして何の物か。もし必ずや意の用であると為すならば、たとえ極めて安排の巧みを尽くしても、ついに通ずる日はないであろう。また貴殿の学を論じた書に云う、『吾が心の良知、これすなわちいわゆる天理である。吾が心の良知の天理を事物に致せば、則ち事事物物皆その理を得るのである。吾が心の良知を致すことは、致知である。事事物物各々その理を得ることは、格物である。』と。よくよくお言葉の通りであるならば、『大学』は『格物は致知に在り』と云うべきであり、『致知は格物に在り』と云うべきではなく、また『物格にして後に知至る』とも云うべきではない。」書が届く前に、守仁は既に没していた。

原文羅欽順,字允升,泰和人。弘治六年進士及第,授編修。遷南京國子監司業,與祭酒章懋以實行教士。未幾,奉親歸,因乞終養。劉瑾怒,奪職為民。瑾誅,復官,遷南京太常少卿,再遷南京吏部右侍郎,入為吏部左侍郎。世宗即位,命攝尚書事。上疏言久任、超遷,法當疏通,不報。大禮議起,欽順請慎大禮以全聖孝,不報。遷南京吏部尚書,省親乞歸。改禮部尚書,會居憂未及拜。再起禮部尚書,辭。又改吏部尚書,下詔敦促,再辭。許致仕,有司給祿米。時張總、桂萼以議禮驟貴,秉政樹黨,屏逐正人。欽順恥與同列,故屢詔不起。裏居二十餘年,足不入城市,潛心格物致知之學。王守仁以心學立教,才知之士翕然師之。欽順致書守仁,略曰:「聖門設教,文行兼資,博學於文,厥有明訓。如謂學不資於外求,但當反觀內省,則『正心誠意』四字亦何所不盡,必於入門之際,加以格物工夫哉?」守仁得書,亦以書報,大略謂:「理無內外,性無內外,故學無內外。講習討論,未嘗非內也。反觀內省,未嘗遺外也。」反復二千餘言。欽順再以書辨曰:「執事云:『格物者,格其心之物也,格其意之物也,格其知之物也。正心者,正其物之心也。誠意者,誠其物之意也。致知者,致其物之知也。』自有《大學》以來,未有此論。夫謂格其心之物,格其意之物,格其知之物,凡為物也三。謂正其物之心,誠其物之意,致其物之知,其為物也,一而已矣。就三而論,以程子格物之訓推之,猶可通也。以執事格物之訓推之,不可通也。就一物而論,則所謂物,果何物耶?如必以為意之用,雖極安排之巧,終無可通之日也。又執事論學書有云:『吾心之良知,即所謂天理。致吾心良知之天理於事物,則事事物物皆得其理矣。致吾心之良知者,致知也。事事物物各得其理者,格物也。」審如所言,則《大學》當云『格物在致知』,不當云『致知在格物』,與『物格而後知至』矣。」書未及達,守仁已歿。

欽順が学を為すに当たり、専ら窮理・存心・知性に力を注いだ。初めは釈氏より入ったが、その非を悟るや、力を尽くしてこれを排し、言った。「釈氏の明心見性と、吾が儒の尽心知性とは、相似て実は同じではない。釈氏の学は、おおよそ心に見る有りて、性に見る無し。今人の明心の説は、禅学に混じりて、千里毫厘の謬り有ることを知らない。道の明らかでないのは、これによるであろう、欽順はこれを憂う。」『困知記』を著し、自ら整庵と号した。八十三歳で卒し、太子太保を贈られ、文莊と諡された。

原文欽順為學,專力於窮理、存心、知性。初由釋氏入,既悟其非,乃力排之,謂:「釋氏之明心見性,與吾儒之盡心知性,相似而實不同。釋氏之學,大抵有見於心,無見於性。今人明心之說,混於禪學,而不知有千里毫厘之謬。道之不明,將由於此,欽順有憂焉。」為著《困知記》,自號整庵。年八十三卒,贈太子太保,謚文莊。

曹端、字は正夫、澠池の人である。永楽六年の挙人。五歳で『河図』『洛書』を見て、即ち地に画いて父に質した。成長すると、心性の理に専心した。その学は躬行実践に務め、静存を要とした。宋儒の『太極図』『通書』『西銘』を読み、嘆じて言った。「道はここに在り。」志を篤く研究し、座下の足の着く処、両方の磚が皆穿っていた。父母に事えること至孝であり、父は初め釈氏を好んだが、端は『夜行燭』一書を為してこれを進め、言った。「仏氏は空を以て性と為すが、天命の性ではない。老氏は虚を以て道と為すが、率性の道ではない。」父は欣然としてこれに従った。続いて二親の喪に遭い、五味を口にしなかった。葬った後、墓側に廬して六年を過ごした。

原文曹端,字正夫,澠池人。永樂六年舉人。五歲見《河圖》、《洛書》,即畫地以質之父。及長,專心性理。其學務躬行實踐,而以靜存為要。讀宋儒《太極圖》、《通書》、《西銘》,嘆曰:「道在是矣。」篤誌研究,坐下著足處,兩磚皆穿。事父母至孝,父初好釋氏,端為《夜行燭》一書進之,謂:「佛氏以空為性,非天命之性。老氏以虛為道,非率性之道。」父欣然從之。繼遭二親喪,五味不入口。既葬,廬墓六年。

端は初め謝応芳の『弁惑編』を読み、篤くこれを好み、一切の浮屠・巫覡・風水・時日の説を屏いて用いなかった。邑宰に上書し、淫祠百余を毀ち、裏社・裏穀壇を設けて、民に祈報させた。凶年には救済を勧め、多くを存活させた。霍州学正となり、聖学を修明した。諸生はその教えに服従し、郡人皆化され、争訟を恥じた。知府の郭晟が為政について問うと、端は言った。「公廉であらんか。公であれば民は敢えて謾うせず、廉であれば吏は敢えて欺かず。」晟は拝して受けた。艱難に遭い帰郷すると、澠池・霍の諸生多く墓次に就いて学を受けた。喪が明けると、蒲州学正に改められた。霍・蒲の両邑各々上章して争い、霍の奏請が先に許された。先後霍に十六年在職し、宣徳九年に官で卒し、五十九歳であった。諸生は心喪三年を服し、霍人は市を罷め巷に哭き、童子も皆涙を流した。貧しくて帰葬できず、遂に霍に留めて葬った。二子の瑜・琛もまた端の墓を守り、相継いで死に、墓側に葬られたが、後に澠池に改葬された。

原文端初讀謝應芳《辨惑編》,篤好之,一切浮屠、巫覡、風水、時日之說屏不用。上書邑宰,毀淫祠百餘,為設裏社、裏谷壇,使民祈報。年荒勸振,存活甚眾。為霍州學正,修明聖學。諸生服從其教,郡人皆化之,恥爭訟。知府郭晟問為政,端曰:「其公廉乎。公則民不敢謾,廉則吏不敢欺。」晟拜受。遭艱歸,澠池、霍諸生多就墓次受學。服闋,改蒲州學正。霍、蒲兩邑各上章爭之,霍奏先得請。先後在霍十六載,宣德九年卒官,年五十九。諸生服心喪三年,霍人罷市巷哭,童子皆流涕。貧不能歸葬,遂留葬霍。二子瑜、琛,亦戶端墓,相繼死,葬墓側,後改葬澠池。

端は嘗て言った。「学が聖人の道に至らんと欲すれば、須らく太極の上に根脚を立てねばならない。」また言った。「人と為るには、須らく志士勇士忘れざるの上から参取すべきである。」また言った。「孔・顔の楽しみは仁である、孔子は仁に安んじて楽しみその中に在り、顔淵は仁に違わずしてその楽しみを改めず、程子は人に自得せしめる。」また言った。「天下に性外の物無く、而して性は至らざる所無し。性は即ち理なり、理の別名を太極と曰い、至誠と曰い、至善と曰い、大徳と曰い、大中と曰う、名は同じからずとて道は則ち一つである。」初め、伊・洛の諸儒は、明道・伊川の後、劉絢・李籲らは身をもって二程の門に及び、河南の許衡・洛陽の姚枢に至っては蘇門で道を講じ、北方の学者は翕然としてこれを宗とした。明が興って三十余年に及び、端が崤・澠の間に起き、絶学を倡明し、論者は明初理学の冠と推した。著書に『孝経述解』『四書詳説』『周易乾坤二卦解義』『太極図説通書』『西銘』釈文・『性理文集』『儒学宗統譜』『存疑録』等の諸書がある。

原文端嘗言:「學欲至乎聖人之道,須從太極上立根腳。」又曰:「為人須從誌士勇士不忘上參取。」又曰:「孔、顏之樂仁也,孔子安仁而樂在其中,顏淵不違仁而不改其樂,程子令人自得之。」又曰:「天下無性外之物,而性無不在焉。性即理也,理之別名曰太極,曰至誠,曰至善,曰大德,曰大中,名不同而道則一。」初,伊、洛諸儒,自明道、伊川後,劉絢、李𥸤輩身及二程之門,至河南許衡、洛陽姚樞講道蘇門,北方之學者翕然宗之。洎明興三十餘載,而端起崤、澠間,倡明絕學,論者推為明初理學之冠。所著有《孝經述解》、《四書詳說》、《周易乾坤二卦解義》、《太極圖說通書》《西銘》釋文、《性理文集》、《儒學宗統譜》、《存疑錄》諸書。

霍州の李徳は端と同時に、またその郷で講学した。端に会うと、退いて諸生に語って言った。「学びて厭わず、教えて倦まず、これ曹子の盛徳である。古今を知り、事変に達するに至っては、末学はまれにこれに及ぶものがある。古く云う『経師を得るは易く、人師を得るは難し』と、諸生は人師を得たのである。」遂に席を避けて去った。端もまたその行誼を高く評価し、諸生に命じて招致し、正学を講明させた。初め、端は『川月交映図』を作って太極に擬え、学者は月川先生と称した。没すると、私諡して静修とした。正徳年中、尚書の彭沢・河南巡撫の李楨が孔子廟庭への従祀を請うたが、果たせなかった。

原文霍州李德與端同時,亦講學於其鄉。及見端,退語諸生曰:「學不厭,教不倦,曹子之盛德也。至其知古今,達事變,末學鮮或及之。古雲『得經師易,得人師難』,諸生得人師矣。」遂避席去。端亦高其行誼,命諸生延致之,講明正學。初,端作《川月交映圖》擬太極,學者稱月川先生。及歿,私謚靜修。正德中,尚書彭澤、河南巡撫李楨請從祀孔子廟庭,不果。

吳與弼、字は子傳、崇仁の人。父の溥は、建文の時に國子司業となり、永樂年間に翰林修撰となった。與弼は十九歳の時、『伊洛淵源圖』を見て慨然として慕い、挙子の業を罷めて、『四子』『五經』及び洛閩諸錄をことごとく読み、数年間樓を下りなかった。中年に家はますます貧しく、自ら耕作に従い、義に合わぬものは一介も取らなかった。四方より学び来る者には、己を約して少ないものを分け、飲食を供し教誨して倦まなかった。正統十一年、山西僉事何自學が朝廷に推薦し、文學の高職を授くることを請うた。後に御史塗謙・撫州知府王宇がまたこれを推薦したが、いずれも出仕しなかった。かつて嘆じて言うには、「宦官・釈氏を除かずして天下の治平を欲するは、難きかな」と。景泰七年、御史陳述がまた禮聘して與弼を、經筵に侍らしめ、あるいは成均に用いて胄子を教育すべきことを請うた。詔して江西巡撫韓雍に禮を備えて敦遣せしめたが、ついに至らなかった。天順元年、石亨は賢者を引き立てて己の重みとせんと欲し、大學士李賢と謀り、疏を草してこれを推薦することを囑した。帝はそこで賢に命じて敕を草し束帛を加え、行人曹隆を遣わし、璽書を賜い禮幣を賫し、與弼を征して闕に赴かしめた。到着すると、帝は賢に問うて言うには、「與弼は何の官に任ずべきか」と。対えて言うには、「宮僚とし、太子の講學に侍らせるのが宜しい」と。そこで左春坊左諭德を授けたが、與弼は疏を上って辭した。賢は召し問うて賜わること、かつ館次に供具することを請うた。そこで文華殿に召見し、顧みて語って言うには、「處士の義高きを聞き、特に征聘を行う。何ぞ職を辭するのか」と。対えて言うには、「臣は草茅の賤士、もとより高行なし。陛下虚聲を垂聽し、また不幸にして狗馬の疾あり。束帛門を造り、臣は異數を被るを慚じ、京師に匍匐す。今年すでに六十八、実に官たる能わず」と。帝は言うには、「宮僚は優閑なり、必ずしも辭するに及ばず」と。文綺酒牢を賜い、中使を遣わして館次に送らしめた。顧みて賢に謂うには、「この老は迂闊の者にあらず、務めて就職せしめよ」と。時に帝の眷遇は甚だ厚かったが、與弼はますます力強く辭した。また疏を上って稱するには、「學術荒陋、苟くも冒昧に祿に徇えば、必ずや官を曠らすべし」と。詔して許さず。そこで白衣をもって邸舍に就き、秘閣の書を假読することを請うた。帝は言うには、「秘書を觀んと欲すれば、勉めて職を受くべし」と。賢に命じて意を諭させた。與弼は京師に二月留まり、疾篤を以て請うた。賢は曲從して放還し、始終恩禮を以て曠舉を光らすことを請うた。帝はこれを然とし、敕を賜って慰勞し、銀幣を賫し、また行人を遣わして送還せしめ、有司に命じて月に米二石を給せしめた。與弼は歸り、表を上って謝し、聖志を崇め聖學を廣むる等十事を陳べた。成化五年に卒す、年七十九。

原文吳與弼,字子傳,崇仁人。父溥,建文時為國子司業,永樂中為翰林修撰。與弼年十九,見《伊洛淵源圖》,慨然響慕,遂罷舉子業,盡讀《四子》、《五經》、洛閩諸錄,不下樓者數年。中歲家益貧,躬親耕稼,非其義,一介不取。四方來學者,約己分少,飲食、教誨不倦。正統十一年,山西僉事何自學薦於朝,請授以文學高職。後御史塗謙、撫州知府王宇復薦之,俱不出。嘗嘆曰:「宦官、釋氏不除,而欲天下治平,難矣。」景泰七年,御史陳述又請禮聘與弼,俾侍經筵,或用之成均,教育胄子。詔江西巡撫韓雍備禮敦遣,竟不至。天順元年,石亨欲引賢者為己重,謀於大學士李賢,屬草疏薦之。帝乃命賢草敕加束帛,遣行人曹隆,賜璽書,賫禮幣,征與弼赴闕。比至,帝問賢曰:「與弼宜何官?」對曰:「宜以宮僚,侍太子講學。」遂授左春坊左諭德,與弼疏辭。賢請賜召問,且與館次供具。於是召見文華殿,顧語曰:「聞處士義高,特行征聘,奚辭職為?」對曰:「臣草茅賤士,本無高行,陛下垂聽虛聲,又不幸有狗馬疾。束帛造門,臣慚被異數,匍匐京師,今年且六十八矣,實不能官也。」帝曰:「宮僚優閑,不必辭。」賜文綺酒牢,遣中使送館次。顧謂賢曰:「此老非迂闊者,務令就職。」時帝眷遇良厚,而與弼辭益力。又疏稱:「學術荒陋,茍冒昧徇祿,必且曠官。」詔不許。乃請以白衣就邸舍,假讀秘閣書。帝曰:「欲觀秘書,勉受職耳。」命賢為諭意。與弼留京師二月,以疾篤請。賢請曲從放還,始終恩禮,以光曠舉。帝然之,賜敕慰勞,賫銀幣,復遣行人送還,命有司月給米二石。與弼歸,上表謝,陳崇聖誌、廣聖學等十事。成化五年卒,年七十九。

與弼が初めて京に至ると、賢はこれを上座に推し、賓師の禮をもってこれに事えた。編修尹直が至ると、側に坐らせた。直は大いに慍り、出でてすぐに與弼を謗った。及び與弼が歸ると、知府張貴が謁見を得られず、大いに恚った。人を募ってその弟に代わって牒を投じて與弼を訟え、すぐに吏を遣わしてこれを攝し、大いに侮慢を加えて、ようやく遣還した。與弼は弟の意にあらざるを諒とし、友愛は初めの如くであった。編修張元楨はその始末を知らず、書を遣わして誚讓し、「上は素王に告げ、名を正して罪を討つ、豈に先生の久しく虚名を竊むを容れんや」との語があった。直は後にその事を『瑣綴錄』に筆した。また與弼が亨の族譜に跋し、自ら門下士と稱したと言い、士大夫はこれをもって與弼を訾った。後に顧允成がこれを論じて言うには、「これは好事者の為すところなり」と。與弼の門人は後みな從祀されたが、與弼はついに果たさなかった。著すところの『日錄』は、ことごとく自ら生平の得るところを言う。

原文與弼始至京,賢推之上座,以賓師禮事之。編修尹直至,令坐於側。直大慍,出即謗與弼。及與弼歸,知府張貴謁見不得,大恚。募人代其弟投牒訟與弼,立遣吏攝之,大加侮慢,始遣還。與弼諒非弟意,友愛如初。編修張元楨不知其始末,遣書誚讓,有「上告素王,正名討罪,豈容先生久竊虛名」語。直後筆其事於《瑣綴錄》。又言與弼跋亨族譜,自稱門下士,士大夫用此訾與弼。後顧允成論之曰:「此好事者為之也。」與弼門人後皆從祀,而與弼竟不果。所著《日錄》,悉自言生平所得。

その門人最も著しい者は胡居仁・陳獻章・婁諒と言い、次は胡九韶・謝復・鄭伉である。胡九韶、字は鳳儀、少くして與弼に從い学んだ。諸生で学び来る者は、與弼は先ず九韶に見えしめた。及ぶに與弼の歿するに及び、門人は多く轉じてこれを師とした。家貧しく、子を課して力耕せしめ、僅かに衣食を給う。成化年間に卒す。謝復、字は一陽、祁門の人。與弼の道を倡うるを聞き、科挙の業を棄ててこれに從い遊んだ。身体力行し、務めて自得を求めた。家に居て孝友、喪祭冠婚、悉く古禮に遵う。或いは学を問うと、曰く、「知行並進すべし、然らずんば記誦詁訓に落つ」と。晩年西山の麓に室を卜し、学者は西山先生と稱した。弘治末年卒す、年六十五。鄭伉、字は孔明、常山の人。諸生となり、有司に試みられ、偶わず、すなわち棄て去り、與弼に師事した。辭して歸り、日々諸儒の論議を究め、一切朱子に折衷した。親に事えて孝。義學を設け、社倉を立て、以て族黨を恵んだ。著すところの『易義發明』『讀史管見』『觀物余論』『蛙鳴集』は、多く火に燼けた。

原文其門人最著者曰胡居仁、陳獻章、婁諒,次曰胡九韶、謝復、鄭伉。胡九韶,字鳳儀,少從與弼學。諸生來學者,與弼令先見九韶。及與弼歿,門人多轉師之。家貧,課子力耕,僅給衣食。成化中卒。謝復,字一陽,祁門人。聞與弼倡道,棄科舉業從之遊。身體力行,務求自得。居家孝友,喪祭冠婚,悉遵古禮。或問學,曰:「知行並進,否則落記誦詁訓矣。」晚卜室西山之麓,學者稱西山先生。弘治末年卒,年六十五。鄭伉,字孔明,常山人。為諸生,試有司,不偶,即棄去,師與弼。辭歸,日究諸儒論議,一切折衷於朱子。事親孝。設義學,立社倉,以惠族黨。所著《易義發明》、《讀史管見》、《觀物余論》、《蛙鳴集》,多燼於火。

陳真晟、字は晦德、漳州鎮海衛の人。初め挙業を治めて郷試に赴くが、有司の防察過ぎて厳しく、士を待つ禮なきを聞き、これを恥じて棄て去り、ここより聖賢の學に志篤くした。『大學或問』を読み、朱子の重ねて敬を主とすること言うを見て、「敬」が『大學』の始基たるを知った。また程子の主一の説を得て、専心克治し、嘆じて言うには、「『大學』は誠意を鐵門關とし、主一の二字は、乃ちその玉鑰匙なり」と。天順二年、闕に詣でて『程朱正學纂要』を上った。その書はまず程氏の學制を取り、次に朱子の論説を採り、次に二圖を作り、一には聖人の心が天地と同運することを著し、一には學者の心が天の運を法とすることを著し、終わりに明師を立て、皇儲を輔け、教本を隆くする数事を言い、以て圖説の意を畢うした。書が奏上されると、禮部に下して議せしめたが、侍郎鄒幹がその事を寢かした。真晟は歸り、臨川の吳與弼が方に講學していると聞き、就いて問わんと欲した。南昌を過ぎるに、張元禎がこれを止めて宿らせ、語り、大いに推服して言うには、「斯の道は程・朱以来、惟だ先生その真を得たり。康齋の如きは、見るべからず、また見る必ずしも要せず」と。そこで閩に歸り、潛思靜坐し、自ら漳南布衣と號した。成化十年に卒す、年六十四。真晟の學は師承なく、獨り遺經の中に得るところあり。自ら僻處海濱に在り、出でて當世の學者を訪求すれども、與弼と相證することはなかったが、要するにその學は頗るこれに近し。

原文陳真晟,字晦德,漳州鎮海衛人。初治舉赴鄉試,聞有司防察過嚴,無待士禮,恥之棄去,由是篤誌聖賢之學。讀《大學或問》,見朱子重言主敬,知「敬」為《大學》始基。又得程子主一之說,專心克治,嘆曰:「《大學》,誠意為鐵門關,主一二字,乃其玉鑰匙也。」天順二年詣闕上《程朱正學纂要》。其書首取程氏學制,次采朱子論說,次作二圖,一著聖人心與天地同運,一著學者之心法天之運,終言立明師、輔皇儲、隆教本數事,以畢圖說之意。書奏,下禮部議,侍郎鄒幹寢其事。真晟歸,聞臨川吳與弼方講學,欲就問之。過南昌,張元禎止之宿,與語,大推服曰:「斯道自程、朱以來,惟先生得其真。如康齋者,不可見,亦不必見也。」遂歸閩,潛思靜坐,自號漳南布衣。卒於成化十年,年六十四。真晟學無師承,獨得於遺經之中。自以僻處海濱,出而訪求當世學者,雖未與與弼相證,要其學頗似近之。

呂柟、字は仲木、高陵の人、別号は涇野、学者は涇野先生と称す。正徳三年に進士第一に登第し、修撰を授かる。劉瑾は柟が同郷なるを以て招かんとすれども、謝して往かず。また西夏の事に因り、疏を上して帝に宮に入り政事に親しみ、禍の本を潜かに消すを請う。瑾はその直なるを悪み、殺さんと欲し、疾を引いて去る。瑾誅せられ、薦に以て官に復す。乾清宮災に遭い、詔に応じて六事を陳ぶ。その言、義子を除き、番僧を遣わし、鎮守太監を取り回すは、特に人の敢えて言わざる所なり。是の年秋、父の病に因り帰る。都御史盛応期、御史朱節・熊相・曹珪累疏して薦す。時に世宗位を嗣ぎ、まず柟を召す。上疏して勤学を勧めて新政の助けと為さんとし、略に曰く、「己に克ち慎みて独りを慎み、上は天心に対し、賢に親しみ讒を遠ざけ、下は民志を通じ、庶幾くは太平の業致す可し」と。大礼の議起こり、張・桂と忤る。十三事を以て自ら陳ぶ。中に大礼未だ定まらず、諂言日に進むを以て、引きて己が罪と為す。上怒り、詔獄に下し、解州判官に謫し、州事を摂行す。煢独を恤い、丁役を減じ、農桑を勧め、水利を興し、堤を築きて塩池を護り、『呂氏郷約』及び『文公家礼』を行い、子夏の後を求め、司馬温公の祠を建つ。四方の学者日々至り、御史の為に解梁書院を辟きて之を居らしむ。三年、御史盧煥等累薦し、南京宗人府経歴に昇り、歴官して尚宝司卿に至る。呉・楚・閩・越の士従う者百余人。南京太僕寺少卿に晋ず。太廟災に遭い、罷黜を乞うも、允さず。国子監祭酒に選ばれ、南京礼部右侍郎に晋じ、吏部事を署す。帝将に躬ら顕陵を祀らんとす。累疏して止むるを勧むるも、報いず。天変に値い、遂に致仕を乞うて帰る。年六十四にして卒す。高陵の人市を罷むること三日。解梁及び四方の学者之を聞き、皆位を設け、心喪を持つ。訃聞き、上朝を輟むること一日、祭葬を賜う。

原文呂柟,字仲木,高陵人,別號涇野,學者稱涇野先生。正德三年登進士第一,授修撰。劉瑾以柟同鄉欲致之,謝不往。又因西夏事,疏請帝入宮親政事,潛消禍本。瑾惡其直,欲殺之,引疾去。瑾誅,以薦復官。乾清宮災,應詔陳六事,其言除義子,遣番僧,取回鎮守太監,尤人所不敢言。是年秋,以父病歸。都御史盛應期,御史朱節、熊相、曹珪累疏薦。適世宗嗣位,首召柟。上疏勸勤學以為新政之助,略曰:「克己慎獨,上對天心;親賢遠讒,下通民誌,庶太平之業可致。」大禮議興,與張、桂忤。以十三事自陳,中以大禮未定,諂言日進,引為己罪。上怒,下詔獄,謫解州判官,攝行州事。恤煢獨,減丁役,勸農桑,興水利,築堤護鹽池,行《呂氏鄉約》及《文公家禮》,求子夏後,建司馬溫公祠。四方學者日至,御史為辟解梁書院以居之。三年,御史盧煥等累薦,升南京宗人府經歷,歷官尚寶司卿。吳、楚、閩、越士從者百餘人。晉南京太僕寺少卿。太廟災,乞罷黜,不允。選國子監祭酒,晉南京禮部右侍郎,署吏部事。帝將躬祀顯陵,累疏勸止,不報。值天變,遂乞致仕歸。年六十四卒,高陵人為罷市者三日。解梁及四方學者聞之,皆設位,持心喪。訃聞,上輟朝一日,賜祭葬。

柟は渭南の薛敬之に受業し、河東の薛瑄の伝を接ぎ、学は窮理実践を主とす。官南都に在り、湛若水・鄒守益と共に講席を主とす。仕えること三十余年、家に長物無く、終身未だ嘗て惰容有ること無し。時に天下学を言う者は、王守仁に帰せざれば則ち湛若水に帰す。独り程・朱を守りて変ぜざる者は、惟だ柟と羅欽順のみと云う。著する所に『四書因問』・『易説翼』・『書説要』・『詩説序』・『春秋説志』・『礼問内外篇』・『史約』・『小学釈』・『寒暑経図解』・『史館献納』・『宋四子抄釈』・『南省奏槁』・『涇野詩文集』有り。万暦・崇禎の間、李禎・趙錦・周子義・王士性・蔣徳璟先後に請いて孔廟に従祀せしむ。部に下り議すも、未だ行わるるに及ばず。柟の弟子、涇陽の呂潜、字は時見、郷に挙げらる。工部司務に官す。張節、字は介夫。鹹寧の李挺、字は正五。皆学行有り。

原文柟受業渭南薛敬之,接河東薛瑄之傳,學以窮理實踐為主。官南都,與湛若水、鄒守益共主講席。仕三十餘年,家無長物,終身未嘗有惰容。時天下言學者,不歸王守仁,則歸湛若水,獨守程、朱不變者,惟柟與羅欽順雲。所著有《四書因問》、《易說翼》、《書說要》、《詩說序》、《春秋說志》、《禮問內外篇》、《史約》、《小學釋》、《寒暑經圖解》、《史館獻納》、《宋四子抄釋》、《南省奏槁》、《涇野詩文集》。萬歷、崇禎間,李禎、趙錦、周子義、王士性、蔣德璟先後請從祀孔廟,下部議,未及行。柟弟子涇陽呂潛,字時見,舉於鄉。官工部司務。張節,字介夫。鹹寧李挺,字正五。皆有學行。

潜の里人郭郛、字は維藩、挙人より官し馬湖知府に至る。藍田の王之士、字は欲立。挙人より趙用賢の薦に由り、国子博士を授かる。両人柟の門に及ばずと雖も、亦秦士の篤学なる者なり。

原文潛裏人郭郛,字維藩,由舉人官馬湖知府。藍田王之士,字欲立。由舉人以趙用賢薦,授國子博士。兩人不及柟門,亦秦士之篤學者也。

邵宝、字は国賢、無錫の人。年十九、江浦の庄昶に学ぶ。成化二十年進士に挙げられ、許州知州を授かる。月朔、諸生を学宮に会し、義利公私の弁を講明す。潁考叔の祠墓を正す。魏文帝の廟を改めて漢の湣帝を祠る。献と称せずして湣と称すは、昭烈の謚する所に従うなり。巫言う、龍骨地中に出でて禍福を為すと。宝骨を取り、庭に毀ち、巫を杖ちて之を遣わす。躬ら農桑を課し、朱子の社倉に倣い、積散の法を立て、計口澆田の法を行い、以て凶荒に備う。

原文邵寶,字國賢,無錫人。年十九,學於江浦莊昶。成化二十年舉進士,授許州知州。月朔,會諸生於學宮,講明義利公私之辨。正潁考叔祠墓。改魏文帝廟以祠漢湣帝,不稱獻而稱湣,從昭烈所謚也。巫言龍骨出地中為禍福,寶取骨,毀於庭,杖巫而遣之。躬課農桑,仿朱子社倉,立積散法,行計口澆田法,以備兇荒。

弘治七年入りて戸部員外郎と為り、郎中を歴て、江西提学副使に遷る。釈菜して周元公の祠に詣る。白鹿書院の学舎を修し、学者を処す。其の教え、致知力行を本とす。江西の俗、陰陽家の言を好み、数十年父母を葬らざる者有り。宝下令す、士親を葬らざる者は試みに与るを得ずと。ここに於いて相率いて葬りを挙ぐること、千を以て計る。寧王宸濠詩文を索むも、峻しく之を却く。後宸濠敗るるに及び、有司校勘すれども、独り宝の跡無し。浙江按察使に遷り、再び右布政使に遷る。鎮守太監と処州の銀礦を勘す。宝曰く、「費多くして獲少なく、民を労し財を傷み、他変を生ずるを慮う」と。卒に之が事を奏して寢す。湖広布政使に進む。

原文弘治七年入為戶部員外郎,歷郎中,遷江西提學副使。釋菜周元公祠。修白鹿書院學舍,處學者。其教,以致知力行為本。江西俗好陰陽家言,有數十年不葬父母者。寶下令,士不葬親者不得與試,於是相率舉葬,以千計。寧王宸濠索詩文,峻卻之。後宸濠敗,有司校勘,獨無寶跡。遷浙江按察使,再遷右布政使。與鎮守太監勘處州銀礦,寶曰:「費多獲少,勞民傷財,慮生他變。」卒奏寢其事。進湖廣布政使。

正徳四年右副都御史に擢げられ、漕運を総督す。劉瑾政を擅にす。宝京に至り、絶えて与に通ぜず。瑾漕帥平江伯陳熊を怒り、宝をして之を劾せしめんと欲し、校尉数輩を遣わして宝を左順門に要し、危言を以て之を恐れて曰く、「行きて汝を逮えん」と。張彩・曹元内より出で、宝に語りて曰く、「君第に平江を劾せよ、後患無からん」と。宝曰く、「平江功臣の後、漕を督すること未だ久しからず、大過無し。劾する所を知らず」と。二人黙然として出づ。三日を越え、給事中熊を劾し並びに宝に及び、致仕を勒して去らしむ。瑾誅せられ、起きて貴州を巡撫し、尋いで戸部右侍郎に遷り、左侍郎に進む。命を兼ね左僉都御史と為り、糧運を処置す。及び通州城濠を会勘して帰り、奏して旨に称す。尋いで疏を上して終養を請いて帰る。御史唐鳳儀・葉忠之を用いて留都に便養せしむるを請う。乃ち拝して南京礼部尚書と為し、再び疏を上して辞免す。世宗即位し、前官を起し、復た母老を以て懇ろに辞す。之を許し、命じて有司に礼を以て存問せしむ。久しくして卒す。太子太保を贈り、謚して文莊と曰う。

原文正德四年擢右副都御史,總督漕運。劉瑾擅政,寶至京,絕不與通。瑾怒漕帥平江伯陳熊,欲使寶劾之,遣校尉數輩要寶左順門,危言恐之曰:「行逮汝。」張彩、曹元自內出,語寶曰:「郡第劾平江,無後患矣。」寶曰:「平江功臣後,督漕未久,無大過,不知所劾。」二人默然出。越三日,給事中劾熊並及寶,勒致仕去。瑾誅,起巡撫貴州,尋遷戶部右侍郎,進左侍郎。命兼左僉都御史,處置糧運。及會勘通州城濠歸,奏稱旨。尋疏請終養歸,御史唐鳳儀、葉忠請用之留都便養,乃拜南京禮部尚書,再疏辭免。世宗即位,起前官,復以母老懇辭。許之,命有司以禮存問。久之卒,贈太子太保,謚文莊。

宝三歳にして孤と為り、母過氏に事えて至孝なり。甫く十歳、母疾有り、文を為して天に告げ、願わくは己が算を減じて母の年を延べんとす。及び終養して帰り、疾を得、左手仁ならずと雖も、猶朝夕親の側に侍して懈かず。学は洛・閩を的とし、嘗て曰く、「吾真の士大夫と為らんと願い、仮の道学と為るを願わず」と。南畿に挙げられ、李東陽に知らる。詩文を為すに、典重和雅、東陽を宗とす。元より経術を本とし、粹然として一に正より出づるに至りては、則ち其の自得する所なり。群籍を博綜し、得る有れば則ち之を簡に書き、程子の「今日一物を格し、明日一物を格す」の義を取り、之を名づけて日格子と曰う。著する所『学史』・簡端二録、巡撫呉廷挙朝に上る。外に『定性書説』・『漕政挙要』諸集若干巻有り。学者二泉先生と称す。

原文寶三歲而孤,事母過氏至孝。甫十歲,母疾,為文告天,願減己算延母年。及終養歸,得疾,左手不仁,猶朝夕侍親側不懈。學以洛、閩為的,嘗曰:「吾願為真士大夫,不願為假道學。」舉南畿,受知於李東陽。為詩文,典重和雅,以東陽為宗。至於原本經術,粹然一出於正,則其所自得也。博綜群籍,有得則書之簡,取程子「今日格一物,明日格一物」之義,名之曰日格子。所著《學史》、簡端二錄,巡撫吳廷舉上於朝,外《定性書說》、《漕政舉要》諸集若干卷。學者稱二泉先生。

其の門人、同邑の王問、字は子裕、学行を以て称さる。嘉靖十七年進士に成る。戸部主事を授かり、徐州倉を監し、羨耗を十二三減ず。父老を以て、便養を乞い、南京職方に改め、車駕郎中・広東僉事に遷る。行くこと半道に過ぎず、養を乞うて帰る。父卒し、遂に復た仕えず。室を湖上に築き、書を読みて三十年、城市に履かず、数たび薦められて起たず。詩文書画に工み、清修雅尚、士大夫皆之を慕う。卒年八十、門人私に謚して文静先生と曰う。

原文其門人,同邑王問,字子裕,以學行稱。嘉靖十七年成進士。授戶部主事,監徐州倉,減羨耗十二三。以父老,乞便養,改南京職方,遷車駕郎中、廣東僉事。行未半道,乞養歸。父卒,遂不復仕。築室湖上,讀書三十年,不履城市,數被薦不起。工詩文書畫,清修雅尚,士大夫皆慕之。卒年八十,門人私謚曰文靜先生。

子鑒、字は汝明。嘉靖末年進士。累官して吏部稽勲郎中に至る。父老を思い、病を謝して帰り、奉養して側を離れず。父歿すること久しく、尚宝卿に進み、南京鴻臚卿に改め、年を引いて乞休す。太僕卿に進み、致仕す。鑒亦画に善くし、言う者其の父に勝ると有り、遂に終身復た作さず。

原文子鑒,字汝明。嘉靖末年進士。累官吏部稽勛郎中。念父老,謝病歸,奉養不離側。父歿久之,進尚寶卿,改南京鴻臚卿,引年乞休。進太僕卿,致仕。鑒亦善畫,有言勝其父者,遂終身不復作。

楊廉、字は方震、豊城の人。父の崇は永州知府であり、呉与弼の門人胡九韶に師事した。廉は家学を継承し、早くから文才と品行で称された。成化末年に進士に挙げられ、庶吉士に改められた。弘治三年、南京戸科給事中に任じられた。翌年、京師で地震があり、権勢を振るう大臣を弾劾した。五年、災異を理由に六事を上奏した。一、経筵が停廃されている時は、日ごとに講官を交替で待機させ質問に応じさせるべきこと。二、言事により左遷・貶謫された官を召還任用するにあたり、台諫官に限らず、また即位以後の者に限るべきでないこと。三、両浙・三呉の水害を治め、額外の織造を停止すること。四、山林に退いて恬淡な諸臣を召還すること。五、法司の条例を削除すること。六、災異があれば大臣を策免すること。末尾に、重大な政事に際しては大臣を召して面議させ、給事中・御史を随行させて駁正させるべきと述べた。帝はこれをかなり採用した。吏部尚書王恕が讒言を受けると、廉は讒邪を斥けるよう請い、惑わされぬよう求めた。母の喪に服し、喪が明けると、刑科に起用された。薛瑄を祀ることを請い、その『読書録』を国学に収蔵するよう求めた。翌年三月、下旬に経筵を開くと詔があった。廉は言上した。「故事によれば、経筵は一月に三度行われる。もし月の終わりに始めて月の初めに罷めるならば、進講はどれだけあるというのか。かつ経筵が開かれた後は日講が継ぐものである。今、経筵を一日遅らせれば、すなわち一旬の日講を廃することになる。」と。報告は聞き入れられた。父が老齢のため身近で養いたいと思い、再び南京兵科に改められた。宦官の李広が死に、廷臣が賄賂を通じた名簿が発見された。言官が賄賂を贈った者を弾劾すると、帝は追及しようとしたが中止した。廉は同官を率いて強く争ったが、結局採用されなかった。その後、祀典を明らかにするよう請い、宋儒の周(敦頤)・程(顥・頤)・張(載)・朱(熹)の従祀の位は、漢・唐の諸儒の上に置くべきであるとした。闕里の廟(孔子廟)は、木主を改めて立てるべきであるとした。大成(孔子)は本来の楽名であり、諡法に合わないとした。いずれも実現しなかった。南京光禄少卿に遷った。正徳初年、そのまま太僕に改められ、順天府尹を歴任した。当時、京軍がしばしば出征し、車両の費用はしばしば数千金に及んだため、廉は大興の遞運所の余剰銀でこれを供給するよう請うた。夏税一万五千石の免除を奏請し、州県が巧みに民財を取ることを憂慮して、歳辦簿を設置し、役人が奸計を用いられないようにした。乾清宮が火災に遭うと、時政の欠失を極力陳述したが、上疏は中留めされた。翌年、南京礼部右侍郎に抜擢された。南巡を諫める上疏をしたが、返答はなかった。帝が南京に駐蹕すると、百官に戎服で朝見するよう命じた。廉はこれに反対し、通常の儀礼を用いるよう乞い、さらに太廟謁見を請うた。いずれも許された。世宗が即位すると、そのまま尚書に遷った。

原文楊廉,字方震,豐城人。父崇,永州知府,受業吳與弼門人胡九韶。廉承家學,早以文行稱。舉成化末年進士,改庶吉士。弘治三年,授南京戶科給事中。明年,京師地震,劾用事大臣。五年以災異上六事。一,經筵停罷時,宜日令講官更直待問。二,召用言事遷謫官,不當限臺諫及登極以後。三,治兩浙、三吳水患,停額外織造。四,召林下恬退諸臣。五,刪法司條例。六,災異策免大臣。末言,遇大政,宜召大臣面議,給事、御史隨入駁正。帝頗納之。吏部尚書王恕被讒,廉請斥讒邪,無為所惑。母喪,服闋,起任刑科。請祀薛瑄,取《讀書錄》貯國學。明年三月有詔以下旬禦經筵。廉言:「故事,經筵一月三舉,茍以月終起以月初罷,則進講有幾?且經筵啟而後日講繼之,今遲一日之經筵,即輟一旬之日講也。」報聞。以父老欲便養,復改南京兵科。中貴李廣死,得廷臣通賄籍。言官劾賄者,帝欲究而中止。廉率同官力爭,竟不納。已,請申明祀典,謂宋儒周、程、張、朱從祀之位,宜居漢、唐諸儒上。闕里廟,當更立木主。大成本樂名,不合謚法。皆不果行。遷南京光祿少卿。正德初,就改太僕,歷順天府尹。時京軍數出,車費動數千金,廉請大興遞運所余銀供之。奏免夏稅萬五千石,慮州縣巧取民財,置歲辦簿,吏無能為奸。乾清宮災,極陳時政缺失,疏留中。明年擢南京禮部右侍郎。上疏諫南巡,不報。帝駐南京,命百官戎服朝見。廉不可,乞用常儀,更請謁見太廟,俱報許。世宗即位,就遷尚書。

廉は羅欽順と親しく、居敬窮理の学を修め、文章は必ず『六経』を根拠とし、礼楽・銭穀から星暦・算数に至るまで、その本末をことごとく理解していた。学者は月湖先生と称した。かつて帝王の道は『大学』に最も切実であるとして、給事中であった時から上言し、進講はまず『大学衍義』をすべきとし、この時に至ってまず『大学衍義節略』を進呈した。帝は優れた詔でこれに答えた。大礼について上疏し、程頤・朱熹の言葉を引用して証とし、かつ言った。「今、異議を唱える者は概ね欧陽修に依拠している。しかし修は『考』の一字について、濮王に加えようとはしたが、仁宗に対してこれを絶とうとは忍ばなかった。今まさに孝廟(弘治帝)に対してこれを絶とうとしている。これはまた修が忍んで言わなかったところである。」と。報告は聞き入れられた。八度上疏して休職を乞い、嘉靖二年に至り、勅書を賜り、駅馬を馳せ、人夫と禄米を規定通りに給された。家に居して二年で卒去した。七十四歳。太子少保を追贈され、文恪と諡された。

原文廉與羅欽順善,為居敬窮理之學,文必根《六經》,自禮樂、錢穀至星歷、算數,具識其本末。學者稱月湖先生。嘗以帝王之道莫切於《大學》,自為給事即上言,進講宜先《大學衍義》,至是首進《大學衍義節略》。帝優詔答之。疏論大禮,引程頤、朱熹言為證,且言:「今異議者率祖歐陽修。然修於考之一字,雖欲加之於濮王,未忍絕之於仁宗。今乃欲絕之於孝廟,此又修所不忍言者。」報聞。八疏乞休,至嘉靖二年,賜敕、馳驛,給夫廩如制。家居二年卒,年七十四。贈太子少保,謚文恪。

劉観、字は崇観、吉水の人。正統四年に進士となった。まだ若かったが、突然病気を理由に帰郷を告げた。まもなく母の喪に服し、喪が明けると、ついに出仕しなかった。門を閉ざして読書し、聖賢の学を求めた。四方から道を問いに来る者が多く、座席がしばしば足りなかった。県令の劉成が虎丘山に書院を築き、「養中」と名付けた。平素は、脱粟の飯を食べ、洗いざらしの衣服を着て、超然と自得していた。毎日、一室に端座し、怠ける様子はなかった。ある者が仕官を勧めても応じなかった。また『勤』『儉』『恭』『恕』の四つの『箴』を作って家を教え、『呂氏郷約』を取り上げてこれを顕彰し、郷里を教えた。冠婚喪祭はすべて『朱子家礼』の通りに行った。一族に孤児や寡婦で自立できない者がいればこれを救済した。ある者が著述を請うと、「朱子及び呉文正(澄)の言葉を尊信すれば十分である。また何を言うことがあろうか。」と言った。呉与弼はその隣郡の人であったが、彼を極めて推重した。

原文劉觀,字崇觀,吉水人。正統四年成進士。方年少,忽引疾告歸。尋丁內艱,服除,終不出。杜門讀書,求聖賢之學。四方來問道者,坐席嘗不給。縣令劉成為築書院於虎丘山,名曰「養中」。平居,飯脫粟,服浣衣,翛然自得。每日端坐一室,無懈容。或勸之仕,不應。又作《勤》、《儉》、《恭》、《恕》四《箴》,以教其家,取《呂氏鄉約》表著之,以教其鄉。冠婚喪祭,悉如《朱子家禮》。族有孤嫠不能自存者周之。或請著述,曰:「朱子及吳文正之言,尊信之足矣。復何言。」吳與弼,其鄰郡人也,極推重之。

観の前に孫鼎がいた。廬陵の人。永楽年間に松江府教授となり、孝弟をもって教えを立てた。後に南畿で督学し、人は貞孝先生と称した。また李中がいた。吉水の人、副都御史に官し、谷平先生と号し、観の後である。これが吉水の三先生である。

原文觀前有孫鼎,廬陵人。永樂中為松江府教授,以孝弟立教。後督學南畿,人稱為貞孝先生。又有李中,吉水人,官副都御史,號谷平先生,在觀後。是為吉水三先生。

馬理、字は伯循、三原の人。同郷の尚書王恕が家に居し、講学著書していた。理はそのもとに遊学し、その指導を受けた。楊一清が学政を督め、理と呂柟・康海の文章を見て、大いにこれを奇とし、「康生の文章、馬生・呂生の経学は、皆天下の士である。」と言った。郷試に合格し、国子監に入り、呂柟及び林慮の馬卿、榆次の寇天叙、安陽の崔銑・張士隆、同県の秦偉とともに、日々学問に切磋琢磨し、名声は都下に震うた。高麗の使者がこれを慕い、その文章を書き写して去った。連続して父母の喪に遭い、試験に参加しなかった。安南の使者が来て、主事の黄清に問うて言った。「関中の馬理先生はどこにおられるのか。なぜ仕官されないのか。」と。外国からこのように重んじられた。

原文馬理,字伯循,三原人。同里尚書王恕家居,講學著書。理從之遊,得其指授。楊一清督學政,見理與呂柟、康海文,大奇之,曰:「康生之文章,馬生、呂生之經學,皆天下士也。」登鄉薦,入國學,與柟及林慮馬鄉,榆次寇天敘,安陽崔銑、張士隆,同縣秦偉,日切劘於學,名震都下。高麗使者慕之,錄其文以去。連遭艱,不預試。安南使者至,問主事黃清曰:「關中馬理先生安在,何不仕也?」其為外裔所重如此。

正徳九年に進士に挙げられた。一清が吏部尚書となると、すぐに理を稽勲主事に抜擢した。文選に転じたが、休暇を請い帰郷した。考功主事に起用され、郎中張衍瑞らとともに南巡を諫めた。詔により宮門に跪かせられ、杖罰を受け俸給を奪われた。まもなく、再び休暇を請い帰郷した。生徒を教授し、従って遊学する者が多かった。嘉靖初年、稽勲員外郎に起用され、郎中余寛らとともに宮門に伏して大礼を争った。詔獄に下され、再び杖罰を受け俸給を奪われた。たびたび転任して考功郎中となった。元戸部郎中の莊繹という者がいた。正徳年間に劉瑾に先導されて天下の庫蔵を検査した。瑾が敗れると、官職を失った。この時に至り上奏して弁明し復職を求めた。権力者は理に依頼したが、理は強くこれに反対し、その事を止めさせた。五年、地方官の大計(考課)が行われた。大学士賈詠・吏部尚書廖幻は私怨から広東副使魏校・河南副使蕭鳴鳳・陝西副使唐龍を罷めようとした。理は強く争って言った。「三人は学政を督め、名声は天下に著しい。必ず三人を去らせようとするならば、まず理を去らせてください。」と。そこで止んだ。翌年、京官の大計が行われ、張璁・桂萼の党である吏部郎中彭沢を罷免したが、璁・萼はついに勅旨を取り付けてこれを留任させた。理は南京通政参議に抜擢されたが、急いで去ることを請うた。三年間家に居し、光禄卿に起用されたが、まもなく休暇を請い帰郷した。十年を経て、再び南京光禄卿に起用され、まもなく老齢を理由に致仕した。三十四年、陝西で地震があり、理は妻とともに死んだ。

原文正德九年舉進士。一清為吏部尚書,即擢理稽勛主事。調文選,請告歸。起考功主事,偕郎中張衍瑞等諫南巡。詔跪闕門,予杖奪俸。未幾,復告歸。教授生徒,從遊者眾。嘉靖初,起稽勛員外郎,與郎中余寬等伏闕爭大禮。下詔獄,再予杖奪俸。屢遷考功郎中。故戶部郎中莊繹者,正德時首導劉瑾核天下庫藏。瑾敗,落職。至是奏辨求復,當路者屬理,理力持不可,寢其事。五年大計外吏,大學士賈詠、吏部尚書廖幻以私憾欲去廣東副使魏校、河南副使蕭鳴鳳、陜西副使唐龍。理力爭曰:「三人督學政,名著天下,必欲去三人,請先去理。」乃止。明年大計京官,黜張總、桂萼黨吏部郎中彭澤,總、萼竟取旨留之。理擢南京通政參議,請急去。居三年,起光祿卿,未幾告歸。閱十年,復起南京光祿卿,尋引年致仕。三十四年,陜西地震,理與妻皆死。

理は学問と行いが純粋で篤実であり、喪に服する際は古礼及び司馬光の『書儀』・朱熹の『家礼』を斟酌して用い、呂柟とともに関中の学者の宗とされた。穆宗が立つと、右副都御史を追贈された。天啓初年、忠憲と追諡された。

原文理學行純篤,居喪取古禮及司馬光《書儀》、朱熹《家禮》折衷用之,與呂柟並為關中學者所宗。穆宗立,贈右副都御史。天啟初,追謚忠憲。

魏校、字は子才、昆山の人。その先祖は本来李姓で、蘇州葑門の莊渠に居住したため、自ら「莊渠」と号した。弘治十八年に進士となった。南京刑部郎中を歴任した。守備太監劉郎が劉瑾の勢威を藉りて甚だしく横暴で、自ら判決文を作って法司に送ることもあったが、敢えて抗う者はいなかった。校は己の意のままに行動し、何にも従わなかった。兵部郎中に改められ、病気を理由に辞職して帰郷した。嘉靖初年、広東提学副使に起用された。父母の喪に服し、喪が明けると、江西兵備副使に補された。累進して国子祭酒、太常卿となり、まもなく致仕した。

原文魏校,字子才,昆山人。其先本李姓,居蘇州葑門之莊渠,因自號「莊渠」。弘治十八年成進士。歷南京刑部郎中。守備太監劉郎藉劉瑾勢張甚,或自判狀送法司,莫敢抗者。校直行己意,無所徇。改兵部郎中,移疾歸。嘉靖初,起為廣東提學副使。丁憂,服闋,補江西兵備副使。累遷國子祭酒,太常卿,尋致仕。

校は胡居仁の私淑を受け、主敬の学を修め、諸儒の説を貫通し、その選択と執持は特に精妙であった。かつて余祐と性について論じ、おおよそ次のように述べた。「天地は陰陽五行の本体であるから、理は備わらないものはない。人物の性は皆天地より出るが、人はその全きを得、物はその偏りを得るのである。」また言った。「古の聖賢が性を論ずるには二つある。一つは、性と情とを対にして言うもので、これは性の本来の意味であり、直ちにこの理を指して言うものである。もう一つは、性と習とを対にして言うもので、ただ生という字の意味を取るだけで、性がそう名付けられる所以のものではなく、天の生じたものを性といい、人のなすところを習というのである。先儒は『性相近』という一句によって、性は気質を兼ねて言うものだとしたが、人の性の上に下に一物を添えることはできないことを知らず、気質に着目すれば、もはや性とは言えなくなる。荀子が性悪を論じ、楊子が性善悪混を論じ、韓子が性三品を論じたが、諸説が乱れているので、必ず聖人によって裁断しなければならない。もし夫子の『性相近』という一言が、まさに性がそう名付けられる所以を論じたものだとすれば、前後の説は皆聖人に背かず、孟子が性善を説いたのは、かえって偏った論となってしまう。孟子はそれを明らかに見ていたから、言葉は直截であったが、性が何物であるかを言わなかったので、荀子・楊子・韓子ら諸儒がその説をもって乱すことができたのである。伊川が一言で断じて『性は即ち理なり』と言ったので、諸説は皆攻撃しなくても自ら破れるのである。」著書に『大学指帰』、『六書精蘊』がある。没し、恭簡と諡された。唐順之・王応電・王敬臣は皆その弟子である。順之は別に伝がある。

原文校私淑胡居仁主敬之學,而貫通諸儒之說,擇執尤精。嘗與余祐論性,略曰:「天地者,陰陽五行之本體也,故理無不具。人物之性,皆出於天地,然而人得其全,物得其偏。」又曰:「古聖賢論性有二:其一,性與情對言,此是性之本義,直指此理而言。其一,性與習對言,但取生字為義,非性之所以得名,蓋曰天所生為性,人所為曰習耳。先儒因『性相近』一語,遂謂性兼氣質而言,不知人性上下不可添一物,才著氣質,便不得謂之性矣。荀子論性惡,楊子論性善惡混,韓子論性有三品,眾言淆亂,必折之聖。若謂夫子『性相近』一言,正論性之所以得名,則前後說皆不謬於聖人,而孟子道性善,反為一偏之論矣。孟子見之分明,故言之直捷,但未言性為何物,故荀、楊、韓諸儒得以其說亂之。伊川一言以斷之,曰『性,即理也』,則諸說皆不攻自破矣。」所著有《大學指歸》、《六書精蘊》。卒,謚恭簡。唐順之、王應電、王敬臣,皆其弟子也。順之,自有傳。

王応電は字を昭明といい、昆山の人である。校に師事し、篤く『周礼』を好み、『周礼』は宋以後、胡宏・季本がそれぞれ著書を著し、その瑕疵を指摘すること数十万言に及んだという。一方、余寿翁・呉澄は『冬官』は亡びたのではなく、五官の中に雑然と現れており、それを改めて序列を定めるべきだと考えた。近世では何喬新・陳鳳梧・舒芬もまたそれぞれ己の意によって改定を加えた。しかしこれらは皆、諸儒の『周礼』に過ぎない。十余年を深く研究し、まず聖人の心を求め、この礼の源を遡り、次に天象の文を考証し、官を設けた本来の意を推し、五官の離合の故を推し、綱維統体の極致を見た。顕在するものによって微細を探り、細部によって大義を引き出し、『周礼伝詁』数十巻を成した。百世の後、周に継いで治めるものは、必ずここから出ると考えた。嘉靖年間、家が兵火で焼かれ、江西泰和に流寓した。その書を携えて羅洪先に正しさを求めると、洪先は大いに敬服した。翰林の陳昌積は師礼をもって彼に仕えた。胡松が江西を巡撫した時、その書を刊行して世に広めた。

原文王應電,字昭明,昆山人。受業於校,篤好《周禮》,謂《周禮》自宋以後,胡宏、季本各著書,指摘其瑕釁至數十萬言。而余壽翁、吳澄則以為《冬官》未嘗亡,雜見於五官中,而更次之。近世何喬新、陳鳳梧、舒芬亦各以己意更定。然此皆諸儒之《周禮》也。覃研十數載,先求聖人之心,溯斯禮之源;次考天象之文,原設官之意,推五官離合之故,見綱維統體之極。因顯以探微,因細而繹大,成《周禮傳詁》數十卷。以為百世繼周而治,必出於此。嘉靖中,家毀於兵燹,流寓江西泰和。以其書就正羅洪先,洪先大服。翰林陳昌積以師禮事之。胡松撫江西,刊行於世。

応電はまた字学を研究し精究し、『説文』に載せられている中で特に誤謬が甚だしいものを訂正し、『経伝正訛』と名付けた。また『同文備考』、『書法指要』、『六義音切貫珠図』、『六義相関図』を著した。泰和で没した。昌積がその喪をとりしきり、昆山に帰葬した。

原文應電又研精字學,據《說文》所載為訛謬甚者,為之訂正,名曰《經傳正訛》。又著《同文備考》、《書法指要》、《六義音切貫珠圖》、《六義相關圖》。卒於泰和。昌積為經紀其喪,歸之昆山。

時に李如玉という者がいた。同安の儒生で、やはり『周礼』に精通し、『会要』十五巻を著した。嘉靖八年、宮廷に赴いてこれを献上し、詔勅により嘉賞され、冠帯を賜った。

原文時有李如玉者,同安儒生,亦精於《周禮》,為《會要》十五卷。嘉靖八年詣闕上之,得旨嘉獎,賜冠帶。

王敬臣は字を以道といい、長洲の人で、江西参議王庭の子である。十九歳で諸生となり、校に師事した。性、至孝にして、父が背中に癰を患うと、自ら吸い舐めた。老いて眩暈の病を得ると、寝床の下に臥し、夜も衣を解かず、微かに咳払いの声を聞けば、即ち躍り起きて安否を問うた。継母に仕えることは父に仕える如くであり、妻が母の歓心を失うと、十三年間寝室に入らなかった。初め、校より黙して成す旨を受けて、議論は著述に如かず、著述は躬行に如かずと常に言い、普段は口を閉ざして語らなかった。耿定向に会ってから、聖賢には独りで成す学はないと教えられ、それ以来多くを誘導し扶助し、弟子として従遊する者は四百余人に及んだ。その学は慎独を先とし、親長との間・衽席の間を慎独の根本と指摘し、特に門戸を標榜して立てることを戒めとした。郷人は彼を少湖先生と尊んだ。万暦年間、廷臣の推薦により、国子博士に徴召されたが、辞して赴任しなかった。詔により授けられた官をもって致仕した。二十一年、巡按御史甘士价が再び推薦した。吏部は敬臣が高齢であることを理由に、役人が時折優礼を加えるよう請うたところ、詔で許可された。八十五歳で没した。

原文王敬臣,字以道,長洲人,江西參議庭子也。十九為諸生,受業於校。性至孝,父疽發背,親自吮舐。老得瞀眩疾,則臥於榻下,夜不解衣,微聞謦咳聲,即躍起問安。事繼母如事父,妻失母歡,不入室者十三載。初,受校默成之旨,嘗言議論不如著述,著述不如躬行,故居常杜口不談。自見耿定向,語以聖賢無獨成之學,由是多所誘掖,弟子從遊者至四百餘人。其學,以慎獨為先,而指親長之際、衽席之間為慎獨之本,尤以標立門戶為戒。鄉人尊為少湖先生。萬歷中,以廷臣薦,征授國子博士,辭不行。詔以所授官致仕。二十一年,巡按御史甘士價復薦。吏部以敬臣年高,請有司時加優禮,詔可。年八十五而終。

周瑛は字を梁石といい、莆田の人である。成化五年の進士。広德州知州となり、善政で知られ、勅書を賜って表彰された。南京礼部郎中に遷り、撫州知府として出向し、鎮遠知府に転じた。任期満了で、帰郷して父母を省みた。弘治初年、吏部尚書王恕が瑛を四川参政として起用し、久しくして右布政使に進み、いずれも善政を挙げ、特に清廉な節操を励んだ。給事中・御史が相次いで上奏して推薦し、大臣も多く瑛を知っていたが、瑛は母の喪で帰郷した。喪が明けると、すぐに老齢を理由に致仕を請うた。孝宗はこれを嘉し、詔で一階進級させた。正徳年間に没し、八十七歳であった。瑛は初め陳献章と交わり、献章の学は静を主とした。瑛はこれを認めず、学は居敬を主とすべきであり、敬すれば心が存し、それによって理を窮めることができると説いた。『六経』の奥義から天地万物の広大に至るまで、窮めないものはない。積み重ねが多くなれば、通貫することができ、道の一本についても自ずから得られるのであり、いわゆる万殊に求めて後に一本を得るというものである。学者は翠渠先生と称した。子の大謨は進士に登第したが、任官せずに没した。

原文周瑛,字梁石,莆田人。成化五年進士。知廣德州,以善政聞,賜敕旌異。遷南京禮部郎中,出為撫州知府,調知鎮遠。秩滿,省親歸。弘治初,吏部尚書王恕起瑛四川參政,久之,進右布政使,鹹有善績,尤勵清節。給事、御史交章薦,大臣亦多知瑛,而瑛以母喪歸。服除,遂引年乞致仁。孝宗嘉之,詔進一階。正德中卒,年八十七。瑛始與陳獻章友,獻章之學主於靜。瑛不然之,謂學當以居敬為主,敬則心存,然後可以窮理。自《六經》之奧,以及天地萬物之廣,皆不可不窮。積累既多,則能通貫,而於道之一本,亦自得之矣,所謂求諸萬殊而後一本可得也。學者稱翠渠先生。子大謨,登進士,未仕卒。

潘府は字を孔修といい、上虞の人である。成化末年の進士。憲宗の崩御に際会し、孝宗が即位してわずか二十日目に、礼官が衰服を着て西角門に出御し政務を視るよう請い、翌日には衰服を脱ぎ素服に替え、翼善冠・麻衣腰绖とするよう求めた。帝は許さず、二十七日後にこれを行うよう命じた。百日に至り、帝は大行皇帝が未だ葬られていないとして、麻衣衰绖を従来通りとした。府はこれにより上疏して三年の喪を行うよう請い、おおよそ次のように述べた。「子が父のため、臣が君のためには、皆斬衰三年であり、仁の極み、義の尽きる所である。漢文帝は遺詔で喪を短くし、ただ天下の臣民の便を図ろうとしたが、景帝は遂に自らこれを行い、千古の綱常を一度墜ちて振るわなくさせた。晋武帝は行おうとしてできず、魏孝文帝は行ったが尽くさず、宋孝宗は復古に鋭意し、易月の外に、なお通喪を執ったが、これを下に推し及ぼすことができず、聖王の達孝とは言い難い。先帝は忽然と四海を棄てられ、臣民は哀しみを抱き、陛下は衷心より悲しみ、麻衣で朝政を視、百日を経ても改められなかった。群議を排し、聖心より断じ、三代の旧制の如く喪に服すること三年とされたい。礼官に命じて典籍を参考させ、喪が礼を廃せず、朝政が政を廃さぬようにし、これを彜典として定め、子孫に伝えれば、何と偉大なことであろうか。」上疏が入ると、衰绖を着て罪を待った。詔により輔臣が礼官と会して詳議したが、皆既成の制度を堅持し、採用されなかった。

原文潘府,字孔修,上虞人。成化末進士。值憲宗崩,孝宗踐阼甫二十日,禮官請衰服御西角門視事,明日釋衰易素,翼善冠、麻衣腰绖。帝不許,命俟二十七日後行之。至百日,帝以大行未葬,麻衣衰绖如故。府因上疏請行三年喪,略言:「子為父,臣為君,皆斬衰三年,仁之至,義之盡也。漢文帝遺詔短喪,止欲便天下臣民,景帝遂自行之,使千古綱常一墜不振。晉武帝欲行而不能,魏孝文行之而不盡,宋孝宗銳誌復古,易月之外,猶執通喪,然不能推之於下,未足為聖王達孝也。先帝奄棄四海,臣庶銜哀,陛下惻恒由衷,麻衣視朝,百日未改。望排群議,斷自聖心,執喪三年一如三代舊制。詔禮官參考載籍,使喪不廢禮,朝不廢政,勒為彜典,傳之子孫,豈不偉哉。」疏入,衰绖待罪。詔輔臣會禮官詳議,並持成制,寢不行。

謁選して長楽知県を得、民に『朱子家礼』を行わしむ。躬ら郊野に行き、労苦を問い疾苦を慰む。田夫野老みな府が親しく己を遇するを謂い、就いて筆札を求めしむれば、府は輒ち欣然として之を与う。南京兵部主事に遷り、軍民の利病七事を陳ぶ。父喪除き、刑部に補す。旱蝗・星変に値い、北寇深く入り、孔廟災ありしに、内を修め外を攘うを疏請して、以て天戒を謹む。又救時の十要を上る。便養を以て南を乞い、南京兵部に改め、武選員外郎に遷る。尚書馬文升其の賢を知り、超えて広東提学副使に拝す。雲南にて七日間昼晦し、楚の婦人の須三寸に長し、災を弭ぐ三術を上る。母老を以て休を乞い、命を待たずして輒ち帰る。已にして吏部尚書楊一清及び巡按御史呉華屡に其の学行を薦むるも、終に起たず。嘉靖改元し、言官交えて薦む、太僕少卿に起ち、太常に改め、致仕す。既に帰り、屏居して南山にあり、布衣蔬食、惟だ経伝を発明するを事とす。時に王守仁其の郷に講学し、相去ること百里に満たず、頗る異同あり。嘗て曰く、「居官の本に三あり、奉養を薄くするは廉の本なり、声色を遠ざくるは勤の本なり、讒私を去るは明の本なり」と。又曰く、「賢を薦むるは惟だ後るるを恐れ、功を論ずるは惟だ先んずるを恐るべし」と。年七十三にして卒す。故事に、四品は止めて祭を予う。世宗府の孝行を重んじ、特詔して葬を予う。

原文謁選,得長樂知縣,教民行《朱子家禮》。躬行郊野,勞問疾苦,田夫野老鹹謂府親己,就求筆劄,府輒欣然與之。遷南京兵部主事,陳軍民利病七事。父喪除,補刑部。值旱蝗、星變,北寇深入,孔廟災,疏請內修外攘,以謹天戒。又上救時十要。以便養乞南,改南京兵部,遷武選員外郎。尚書馬文升知其賢,超拜廣東提學副使。雲南晝晦七日,楚婦人須長三寸,上弭災三術。以母老乞休,不待命輒歸。已而吏部尚書楊一清及巡按御史吳華屢薦其學行,終不起。嘉靖改元,言官交薦,起太僕少卿,改太常,致仕。既歸,屏居南山,布衣蔬食,惟以發明經傳為事。時王守仁講學其鄉,相去不百里,頗有異同。嘗曰:「居官之本有三:薄奉養,廉之本也;遠聲色,勤之本也;去讒私,明之本也。」又曰:「薦賢當惟恐後,論功當惟恐先。」年七十三卒。故事,四品止予祭。世宗重府孝行,特詔予葬。

崔銑、字は子鐘、安陽の人。父は升、官は参政。銑は弘治十八年の進士に挙げられ、庶吉士に選ばれ、編修を授かる。『孝宗実録』の編修に預かり、同官と共に太監劉瑾に謁すに、独り長揖して拝せず、是より瑾に忤う。書成りて、出でて南京吏部主事となる。瑾敗れ、召されて故官に復し、経筵講官を充て、侍読に進む。疾を引いて帰り、後渠書屋を作り、其中に読書講学す。世宗即位し、擢て南京国子監祭酒と為す。嘉靖三年大礼を集議し、久しく決せず。大学士蒋冕・尚書汪俊俱に執議を以て去位し、其他擯斥され杖戍せらるる者相望み、而して張総・桂萼等驟に貴顕用事す。銑上疏して去を求め、且つ総・萼等を劾して曰く、「臣議者を究観するに、其の文は則ち欧陽修の唾余、其の情は則ち意響を承望し、勝を求めて已むこと無し。悍なる者は危法を以て激怒し、柔なる者は甘言を以て動聴す。元功碩徳有るに非ずして、遽に官を以て之を賞するは、得毋や僥倖の徒をして踵を接して至らしむるか。臣聞く、天子は四海の歓心を得て以て其の親に事うと、未だ僅かに一二人の心を得る者のみを聞かず。之を賞するは、適自ら其の私昵を章すのみ。夫れ道を守るを忠と為し、忠なれば則ち旨に逆う。旨を希うを邪と為し、邪なれば則ち道に畔く。今忠なる者は日に疏く、而して邪なる者は日に富む。一邪邦を乱す、況んや富ましむることを得んや」と。帝之を覧みて悦ばず、銑に致仕を令す。十五年を閲し、薦を用いて少詹事兼侍読学士に起ち、擢て南京礼部右侍郎と為す。未幾疾発し、復た致仕す。卒し、礼部尚書を贈られ、文敏と謚す。

原文崔銑,字子鐘,安陽人。父升,官參政。銑舉弘治十八年進士,選庶吉士,授編修。預修《孝宗實錄》,與同官見太監劉瑾,獨長揖不拜,由是忤瑾。書成,出為南京吏部主事。瑾敗,召復故官,充經筵講官,進侍讀。引疾歸,作後渠書屋,讀書講學其中。世宗即位,擢南京國子監祭酒。嘉靖三年集議大禮,久不決。大學士蔣冕、尚書汪俊俱以執議去位,其他擯斥杖戍者相望,而張總、桂萼等驟貴顯用事。銑上疏求去,且劾總、萼等曰:「臣究觀議者,其文則歐陽修之唾余,其情則承望意響,求勝無已。悍者危法以激怒,柔者甘言以動聽。非有元功碩德,而遽以官賞之,得毋使僥幸之徒踵接至與?臣聞天子得四海歡心以事其親,未聞僅得一二人之心者也。賞之,適自章其私昵而已。夫守道為忠,忠則逆旨;希旨為邪,邪則畔道。今忠者日疏,而邪者日富。一邪亂邦,況可使富哉!」帝覽之不悅,令銑致仕。閱十五年,用薦起少詹事兼侍讀學士,擢南京禮部右侍郎。未幾疾作,復致仕。卒,贈禮部尚書,謚文敏。

銑は少壮にして軽俊、酒を好み、数斗を尽くしても乱れず。中歳に自ら学に厲し、言動皆則有り。嘗て曰く、「学は心を治むるに在り、功は動を慎むに在り」と。又曰く、「孟子の所謂良知良能は、心の用なり。親を愛し長を敬するは、性の本なり。若し良能を去りて独り良知を挈くは、是れ覇儒なり」と。又嘗て『政議』十篇を作り、其の『序』に曰く、「三代而上は、井田封建、其の民固く、故に道行い易く、三代而下は、阡陌郡県、其の民散じ、故に道成り難し。況んや沿いて下趨して今日に至るをや。然れども人心異なること無く、主の者に係るのみ」と。凡そ篇中に論説する所は、悉く此の意に倣う。世に其の書多し、故に載せず。

原文銑少輕俊,好飲酒,盡數鬥不亂。中歲自厲於學,言動皆有則。嘗曰:「學在治心,功在慎動。」又曰:「孟子所謂良知良能者,心之用也。愛親敬長,性之本也。若去良能,而獨挈良知,是霸儒也。」又嘗作《政議》十篇,其《序》曰:「三代而上,並田封建,其民固,故道易行,三代而下,阡陌郡縣,其民散,故道難成。況沿而下趨至今日乎。然人心弗異,系乎主之者而已。」凡篇中所論說,悉仿此意。世多有其書,故不載。

何瑭、字は粹夫、武陟の人。年七歳にして、家に仏像有るを見て、抗言して之を去るを請う。十九にして許衡・薛瑄の遺書を読み、輒ち欣然として寝食を忘る。弘治十五年進士に成り、庶吉士に選ばる。閣試『克己復礼為仁論』に曰く有り、「仁者は、人なり。礼は則ち人の元気のみ、則ち風寒暑湿に侵さるる所なり。人能く邪気に勝たるる為す所無くんば、則ち元復し、元復して而して其の人成る」と。宿学皆推服す。劉瑾政を窃む、一日翰林に川扇を贈る、入りて拝見する者有り。瑭時に官は修撰、独り長揖す。瑾怒り、以て贈らざりき。贈を受くる者復た拝謝す、瑭正色して曰く、「何ぞ仆仆たるや」と。瑾大いに怒り、其の姓名を詰む。瑭直ちに応えて曰く、「修撰何瑭なり」と。必ずや瑾に容れられざるを知り、乃ち累疏して致仕す。後瑾誅され、官に復す。経筵にて忌諱いみなに触れ、開州同知に謫せらる。黄陵岡の堤を修して成り、擢て東昌府同知と為り、帰を乞う。嘉靖初め、山西提学副使に起つも、父憂に以て赴かず。服闋し、提学浙江に起つ。本を敦くし実を尚び、士気丕変す。未幾、晋て南京太常少卿と為る。湛若水等と古太学の法を修明し、学者翕然として之を宗とす。工・戸・礼三部侍郎を歴え、晋て南京右都御史と為るも、未幾致仕す。

原文何瑭,字粹夫,武陟人。年七歲,見家有佛像,抗言請去之。十九讀許衡、薛瑄遺書,輒欣然忘寢食。弘治十五年成進士,選庶吉士。閣試《克己復禮為仁論》,有曰:「仁者,人也。禮則人之元氣而已,則見侵於風寒暑濕者也。人能無為邪氣所勝,則元所復,元年復而其人成矣。」宿學鹹推服焉。劉瑾竊政,一日贈翰林川扇,有入而拜見者。瑭時官修撰,獨長揖。瑾怒,不以贈。受贈者復拜謝,瑭正色曰:「何仆仆也!」瑾大怒,詰其姓名。瑭直應曰:「修撰何瑭。」知必不為瑾所容,乃累疏致仕。後瑾誅,復官。以經筵觸忌諱,謫開州同知。修黃陵岡堤成,擢東昌府同知,乞歸。嘉靖初,起山西提學副使,以父憂不赴。服闋,起提學浙江。敦本尚實,士氣丕變。未幾,晉南京太常少卿。與湛若水等修明古太學之法,學者翕然宗之。歷工、戶、禮三部侍郎,晉南京右都御史,未幾致仕。

是の時、王守仁道学を以て時に名有り、瑭独り黙如たり。嘗て陸九淵・楊簡の学は、禅宗に流入し、仁義を充塞すと言う。後学未だ遊・夏の十一を得ずして、議論即ち顔・曾に過ぐ、此れ吾が道の大害なり。裏居すること十余年、子姓に孝弟忠信を教え、一介必ず厳し。両たび親喪に執り、皆哀毀す。後文定と謚さる。著す所の『陰陽律呂』・『儒学管見』・『柏斎集』十二巻は、皆世に行わる。

原文是時,王守仁以道學名於時,瑭獨默如。嘗言陸九淵、楊簡之學,流入禪宗,充塞仁義。後學未得遊、夏十一,而議論即過顏、曾,此吾道大害也。裏居十餘年,教子姓以孝弟忠信,一介必嚴。兩執親喪,皆哀毀。後謚文定。所著《陰陽律呂》、《儒學管見》、《柏齋集》十二卷,皆行於世。

唐伯元、字は仁卿、澄海の人。万暦二年の進士。万年・泰和二県を知り歴任し、並びに恵政有り、民之を生祠す。南京戸部主事に遷り、郎中に進む。伯元は永豊の呂懷に受業し、践履篤実にして、深く王守仁の新説を疾む。守仁の文廟に従祀するに及び、上疏して之を争う。因りて陸九淵を黜け、有若及び周・程・張・朱の五子を十哲の列に躋げ、羅欽順・章懋・呂柟・魏校・呂懷・蔡清・羅洪先・王艮を郷に祀るを請う。疏方に下部せられ、旋ち南京給事中鐘宇淳に駁さるるに為り、伯元は海州判官に謫せらる。屡遷して尚宝司丞と為る。吏部尚書楊巍は雅に守仁の学を喜ばず、心に伯元の前疏を善くし、用いて吏部員外郎と為す。考功・文選郎中を歴え、尚書孫丕揚を佐けて吏治を澄清し、苞苴其の門に及ばず。秩満し、太常少卿に推さるるも、命を得ず。時に吏部推補の諸疏は皆留中す、伯元言く、「賢愚同滞し、朝野咨嗟す、臣の擬議当たらずより致す所に由る、賜いて罷斥せんことを乞う」と。帝悦ばず、特に其の去を允し、而して諸疏は仍留して下さず。居ること二年、吏部諸郎を甄別し、帝伯元の名を識り、命じて南京他部に改めしむるも、而して伯元は已に前に卒す。伯元清苦淡薄、人の堪えざる所なるも、之を甘んじて自如し、嶺海の士大夫の儀表と為る。

原文唐伯元,字仁卿,澄海人。萬歷二年進士。歷知萬年、泰和二縣,並有惠政,民生祠之。遷南京戶部主事,進郎中。伯元受業永豐呂懷,踐履篤實,而深疾王守仁新說。及守仁從祀文廟,上疏爭之。因請黜陸九淵,而躋有若及周、程、張、朱五子於十哲之列,祀羅欽順、章懋、呂柟、魏校、呂懷、蔡清、羅洪先、王艮於鄉。疏方下部,旋為南京給事中鐘宇淳所駁,伯元謫海州判官。屢遷尚寶司丞。吏部尚書楊巍雅不喜守仁學,心善伯元前疏,用為吏部員外郎。歷考功、文選郎中,佐尚書孫丕揚澄清吏治,苞苴不及其門。秩滿,推太常少卿,未得命。時吏部推補諸疏皆留中,伯元言:「賢愚同滯,朝野咨嗟,由臣擬議不當所致,乞賜罷斥。」帝不懌,特允其去,而諸疏仍留不下。居二年,甄別吏部諸郎,帝識伯元名,命改南京他部,而伯元已前卒。伯元清苦淡薄,人所不堪,甘之自如,為嶺海士大夫儀表。

黄淳耀、字は蘊生、嘉定の人。諸生たる時、科挙の文章の浮靡淫麗を深く疾み、乃ち原本『六経』とし、一たび出づるに典雅を以てす。名士は声利に争い務むるも、独り淡漠として自ら甘んじ、征逐に事とせず。崇禎十六年進士となる。帰りて益々経籍を研鑽し、緼袍糲食、蕭然として一室にあり。京師陥ち、福王南都に立つ。諸進士悉く官を授かるも、淳耀独り選に赴かず。南都亡び、嘉定亦破るるに及び、愾然として太息し、弟淵耀とともに僧舎に入り、将に自尽せんとす。僧曰く、「公は未だ官に服せず、死すべきなし」と。淳耀曰く、「城亡ぶれば与に亡ぶ、豈に出処を以て心を貳すべけんや」と。乃ち筆を索いて書して曰く、「弘光元年七月二十四日、進士黄淳耀城西の僧舎に於いて自裁す。嗚呼!進みては王朝に力を宣べず、退きては身を潔くして自ら隠れず、書を読んで益少なく、道を学んで成ること無し。耿耿として寐ず、此の心のみ」と。遂に淵耀と相対して縊死す。年四十有一。

原文黃淳耀,字蘊生,嘉定人。為諸生時,深疾科舉文浮靡淫麗,乃原本《六經》,一出以典雅。名士爭務聲利,獨淡漠自甘,不事征逐。崇禎十六年成進士。歸益研經籍,缊袍糲食,蕭然一室。京師陷,福王立南都,諸進士悉授官,淳耀獨不赴選。及南都亡,嘉定亦破。愾然太息,偕弟淵耀入僧舍,將自盡。僧曰:「公未服官,可無死。」淳耀曰:「城亡與亡,豈以出處貳心。」乃索筆書曰:「弘光元年七月二十四日,進士黃淳耀自裁於城西僧舍。嗚呼!進不能宣力王朝,退不能潔身自隱,讀書寡益,學道無成,耿耿不寐,此心而已。」遂與淵耀相對縊死,年四十有一。

淳耀は弱冠にして即ち『自監録』『知過録』を著し、聖賢の学を志す。後に日録と為し、昼の為す所は、夜必ずこれを書す。凡そ言語の得失、念慮の純雑、備識せざる無く、用いて自ら省み改む。晩年にして充養和粹、造詣益々深し。作る所の詩古文は、悉く先正に軌を同じくし、卓然として名家と為る。『陶庵集』十五巻あり。其の門人私かに謚して貞文と曰う。淵耀、字は偉恭、諸生、学を好み行いを敦くすること其の兄の如し。

原文淳耀弱冠即著《自監錄》、《知過錄》,有誌聖賢之學。後為日曆,晝之所為,夜必書之。凡語言得失,念慮純雜,無不備識,用自省改。晚而充養和粹,造詣益深。所作詩古文,悉軌先正,卓然名家。有《陶庵集》十五卷。其門人私謚之曰貞文。淵耀,字偉恭,諸生,好學敦行如其兄。