漢史の丞相黄霸、唐史の節度使韋丹は、皆『循吏伝』に入れられている。今、守令から超擢されて公卿となり勲徳ある者は、事績は皆別に現れる。故に、終に庶僚に止まり、政績の記すべき者を採り、『循吏伝』を作る。
陳灌、方克勤、呉履、廖欽等、高鬥南、余彦誠等、史誠祖、呉祥等、謝子襄、黄信中、夏升、貝秉彝、劉孟雍等、万観、葉宗人、王源、翟溥福、李信圭、孫浩等、張宗璉、李驥、王瑩等、李湘、趙豫、趙登等、曾泉、范衷、周済、范希正、劉綱、段堅、陳鋼、丁積、田鐸、唐侃、湯紹恩、徐九思、龐嵩、張淳、陳幼学
陳灌、字は子将、廬陵の人。元末、世乱れんとし、居所を囲んで場を築き樹を植え、人は測る能わず。後十年、盗賊蜂起す。灌は武勇を率いて林中に屯を結び、盗賊は敢えて入らず、一郷これにより全うす。太祖武昌を平らげ、灌は軍門に詣でて謁見す。語らいてこれを奇とし、湖広行省員外郎に抜擢し、累遷して大都督府經歷となる。大将軍徐達に従い北征す。尋いで泰州に城を築くことを命ぜられ、工竣り、寧国知府に除せらる。時に天下初めて定まり、民『詩』『書』を棄つること久し。灌は学舎を建て、師を延べ、俊秀の子弟を選び業を受けしむ。疾苦を訪問し、豪右の兼併を禁ず。戸帖を創めて以て民を稽うるに便ならしむ。帝これを取りて式と為し、天下に頒行す。石を伐ち堤を築き、水門を作りて蓄泄し、瀕江の田を護り、百姓皆頼む。盗麦舟の罪に坐する者あり、数十人を死に論ず。灌覆按して曰く、「舟自ら漂い至り、而して愚民哄いてこれを取る、謀劫に非ず」と。その首たる一人を坐せしめ、余は悉く死を減ず。灌は豊裁厳正なりしも、治を為すに寛恤なること此の如し。洪武四年召されて京に入り、病卒す。
克勤の治を為す、徳化を本とし、近名を喜ばず、嘗て曰く、「近名すれば必ず威を立て、威を立てれば必ず民を殃す、吾忍びず」と。自ら奉ずるに簡素、一の布袍十年易えず、日に再び肉を食さず。太祖法を用いること厳しく、士大夫多く謫せられ、済寧を過ぐる者、克勤輒ちこれを周恤す。永嘉侯朱亮祖嘗て舟師を率いて北平に赴く、水涸れ、役夫五千河を浚う。克勤止むること能わず、泣いて天に禱る。忽ち大雨、水深さ数尺、舟遂に達す、民神と為す。八年朝に入り、太祖その績を嘉し、宴を賜い、郡に還遣す。尋いで属吏程貢に誣せられ、江浦に謫役し、復た空印の事に連坐し、逮われて死す。
子に孝聞・孝孺あり。孝聞、十三歳にて母に喪い、蔬食して終制す。孝孺は自ら伝あり。
呉履、字は徳基、蘭渓の人。少くして聞人夢吉に業を受け、『春秋』諸史に通ず。李文忠浙東を鎮め、郡学正に聘す。久しくして朝に挙げられ、南康丞を授かる。南康の俗悍にして、丞は儒者なりと謂い、これを易しむ。数ヶ月居るに、奸伏を摘発すること老獄吏の如く、則ち皆大いに驚き、相率いで跡を斂む。履乃ち改めて寛大を崇め、民と休息す。知県周以中田野を巡視し、部民に詈らる。捕え得ず、怒り、その郷鄰を尽く縶す。履獄を閲して故を問い、直ちにこれを釈し、乃ち以中に白す。以中益々怒りて曰く、「丞我を慢ず」と。履曰く、「公に犯す者は一人のみ、その鄰何の罪ぞ。今縶する者衆く、而して捕え未だ已まず、急なれば且つ変あり、奈何」と。以中の意乃ち解く。邑に淫祠あり、毎に祀るに輒ち蛇戸より出で、民これを指して神と為す。履巫を縛してこれを責め、神像を江に沈め、淫祠遂に絶つ。丞と為ること六年、百姓これを愛す。
安化知県に遷る。大姓易氏険を保ちて自ら守る。江陰侯呉良将にこれを撃たんとし、履を召して事を計る。履曰く、「易氏は死を逃るるのみ、反に非ず、これを招けば当に来らん。来らざれば、誅するも未だ晩しからず」と。良これに従う、易氏果たして至る。良農にして故に兵と為る者を籍せんと欲し、民大いに恐る。履曰く、「世清し、民農に安んず。願いて兵と為る者を籍し、願わざれば、強うること勿れ」と請う。濰州知州に遷る。山東の兵常に牛羊を以て秋税に代う。履民と計りて曰く、「牛羊には死瘠の患あり、粟を輸するに若かず」と。他日、上官民に令して牛羊を陝西に送らしむ。他県の民多く家を破るも、濰の民独り完し。会うに州を県に改むるに及び、履を召し還す。濰の民皆涕泣して奔送す。履遂に骸骨を乞いて帰る。
是の時、河内丞廖欽並びに廉能を以て称せらる。居ること八年、呉江に調ぜられ、後事に坐して謫戍す。久しくして老病を以て放帰せらる。河内を道す。河内の民競い持って羊酒を為め寿し、且つこれに縑を遺す。須臾にして数百匹を裒む。欽固より辞するも得ず、一夕遁れ去る。
その他、興化県丞周舟は成績最上により、特に吏部主事に抜擢された。民衆が争って留任を乞うたので、彼を帰任させた。帰安県丞高彬・曹県主簿劉鬱・衡山主簿紀惟正・沾化県典史杜濩はいずれも事に坐して、管下の民が赦免を乞うたため、官職に復し、惟正はただちに陝西参議に抜擢された。その後、州県の副官で著名な者は、仁宗・宣宗の時には易州判官張友聞・寿州判官許敏・許州判官王通・霊璧県丞田誠・安平県丞耿福縁・嘉定県丞戴粛・大名県丞賀禎・昌邑県主簿劉整・襄垣県主簿喬育・貴池県典史黄金蘭・深沢県典史高聞であり、英宗・景帝の時には養利州判官汪浩・泰州判官王思旻・上海県丞張禎・呉江県丞王懋本・歴城県丞熊観・黔陽県主簿古初・雲南南安州琅井巡検李保である。ある者は超遷し、ある者は遷任し、いずれも管下の民の請願によるものであった。
高鬥南は字を拱極といい、陝西徽州の人である。容貌魁偉で、声は鐘のようであった。洪武年間に、薦挙により四川定遠知県に任じられた。才識は精敏で、多くの善政があった。二十九年、永州知府余彦誠、知県斉東鄭敏・儀真康彦民・岳池王佐・安粛範志遠・当塗孟廉、および県丞の懐寧蘇億・休寧甘鏞・当塗趙森とともに事に坐し、先後に召還された。その地の耆老たちは奔走して宮門に至り、善政を列挙して上奏した。太祖はこれを嘉し、襲衣と宝鈔を賜って帰任させ、さらに耆老たちに道中の費用を賜った。諸人は任に戻ると、政績はますます顕著となった。まもなく天下の廉吏数名を挙げたが、鬥南もその中にあり、その名を『彰善榜』・『聖政記』に掲げて奨励とした。九年で成績最上となり、雲南新興知州に抜擢されたが、新興の人々も定遠と変わらぬほど彼を愛した。数年を経て、衰老を理由に帰郷を乞うた。子の吏科給事中高恂を自らの代わりに推薦し、成祖はこれを許した。七十歳で没した。
高恂は字を士信といい、博学で詩文をよくした。新興に任官し、大軍に従って交趾を征し、協賛の功績があった。軍が帰還する際、任地で没した。
余彦誠は徳興の人である。初め安陸州知事となり、徴税の期限に遅れたため、逮捕されるところであったが、その父老たちが宮門に伏して留任を乞うた。太祖は宴を賜って嘉賞し、帰任させ、父老たちも宴に預かった。久しくして永州知府に抜擢され、終に河東塩運使となった。
鄭敏はたびたび事に坐して逮捕されたが、管下の民数千人が宮門を守って赦免を求めた。帝は宴を賜って労い、官職に復し、宝鈔百錠、衣三襲を賜った。数年を経て、考課満了で朝廷に入った。管下の民が再び京師に走り、再任を乞うたので、帝はその請いを容れた。そしてこの時、再び赦免を得たのである。
蘇億・孟廉・趙森の三人は釈放されて帰任した後、翌年また事があって逮捕されることとなった。県民がまた宮門に走り、彼らの廉潔勤勉を称えたので、帝もまた釈放した。
当時、太祖は重典をもって臣下を統制し、太守・県令は些細な過失でしばしば逮捕拘禁された。その賢さを聞くと、すぐに帰任させ、かつ賞賜を加え、それによって超擢される者もあった。二十九年、霊璧知県周栄・宜春知県沈昌・昌楽知県于子仁、新化県丞葉宗がともに事に坐して逮捕審問され、管下の民が宮門を叩いた。太祖は喜び、ただちに四人を知府に抜擢し、周栄は河南、沈昌は南安、于子仁は登州、葉宗は黄州とした。これによって長吏たちは競って励み、一時は多くの循良の治績があった。
周栄は字を国華といい、蓬莱の人である。初め霊璧県丞となり、連座して逮捕され刑部に下されたが、耆老たちが群れをなして宮門に赴き、その賢さを称えた。帝は宝鈔八十錠、綺羅の衣各一襲を賜った。礼部が周栄と耆老たちに宴を賜って帰任させた。まもなく、周栄を霊璧知県に抜擢した。河南知府となってからも名声があった。後に進言が上意に叶い、河南左布政使に抜擢された。
信中は、餘幹の人である。先に楽清県の知事を務めた。奸人が寡婦を騙して京師に至らせ、郷人の謀叛を誣告し、己は逃げ去った。有司がその婦を拘束して上聞すると、詔して行所司に会審させた。信中はその実情を察知し、力を尽くして誣告であると論駁し、全うされた者が甚だ多かった。盗賊が一家三人を殺害し、獄事が久しく決しなかった。信中は神に祈り、真の盗賊を得たので、遠近でこれを称えた。升は、塩城の人である。
時に龍渓知県南昌の劉孟雍・鄒県知県龍渓の硃瑤・建安知県昆山の張准・婺源知県建安の呉春・歙県知県江西楽平の石啓宗は、皆恵みと利益があり、民は概ね思い慕い忘れなかったという。
葉宗人は、字は宗行、松江華亭の人である。永楽年間、尚書夏原吉が東南で治水を行った。宗人は諸生として上疏し、範家港を浚って浦水を海に引き入れ、瀕海の民に堤を作ってその流れを阻むことを禁ずるよう請うた。帝は原吉の所に赴いて自ら尽力せしめた。工事が竣功すると、原吉がこれを推薦し、銭塘知県に授けられた。県は浙江省会であり、徭役が重く、豪強で有力な者は往々にして狡猾な吏と結び財を得て貧民を役していた。宗人は民に自ら甲乙を申告させ、冊に記し、順番に役を籤引きさせ、役は乃ち均等となった。嘗て政務を見ていると、蛇が階を昇り、訴えることがあるかのようであった。宗人は「爾に冤があるか、吾が爾のために理めよう」と言った。蛇は即ち出て行き、隷を遣ってその後を追わせると、餅屋の炉の下に入った。これを掘ると、僵屍を得た。餅屋の主人が殺して埋めたものである。又常に江中を行くと、死人が舟の舵に掛かっていた。推問すると、裏の無頼の子が沈めた者であった。遂に共に法に伏し、邑民は神の如く思った。按察使周新は、廉潔で剛直な吏であり、特に宗人を重んじた。一日、宗人の出たのを伺い、潜かにその室に入ると、厨房には銀魚の干物一包のみあった。新は嘆息し、少しばかり携えて去った。明日宗人を召して共に食事し、酔うまで飲み、儀仗を用いて導き帰らせた。時に「銭塘一葉清」と呼んだ。十五年、工匠を督いて北京の営造に赴き、途中で卒し、新は数日泣き悲しんだ。
英宗が践祚すると、廷臣十一人を選んで知府とし、宴と勅を賜い、駅伝で行かせた。源は潮州府を得た。城東に広済橋があり、年久しく半ば壊れていた。源は民から万金を集めてこれを再築した。その余りで亭を建て、先聖・四配・十哲の像を設けた。『藍田呂氏郷約』を刻し、民を選んで約正・約副・約士とし、その中で講習させ、時に僚属と共に率先して率いた。西湖の山の上に大石があり怪異があった。源はこれを穿つよう命じると、果たして石の髑髏を得、怪異は遂に止んだ。乃ちこれを琢って碑とし、大きく「潮州知府王源怪石を除く」と書した。時に一民を杖罰して死なせ、民の子が朝廷に訴え、併せて橋を築き亭を建てたことを源の罪とした。京師に逮えられ、罪は贖って徒刑に当たった。潮州の人が相率いて宮門を叩き、乃ちその官を復した。久しくして、休職を乞うた。潮州の人が奏上して留めんとしたが叶わず、祠を建てて祀った。
明興より洪・宣・正統の間に至るまで、民淳く俗富み、吏治め易し。而して其の時の長吏も亦多く長者の行いを励み、循良を以て称せらる。その秩満して奏留せらるる者、紀し勝えず、数人を挙げて略し篇に列す。
呉原、呉橋を知り、洪熙中、九載考績して部に赴く。県民闕に詣でて留まることを乞い、帝これに従う。
暢宣、泰安を知り、母憂を以て去る。民副使鄺埜に頌し、以て聞こえ、仁宗命じて服闋して還任せしむ。宣徳改元、宣服闋し、吏部以て請う。帝曰く、「民之を欲し、監司之を言う。固より当に従うべし。況んや先帝の命有るをや」と。遂に其の請の如くす。
郭完、会寧を知り、奸人のために訐せられて逮わさる。裏老闕に伏して冤を訟ぎ還ることを乞い、帝も亦これを許す。
徐士宗、貴溪を知り、宣徳六年三考俱に最たり。民闕に詣でて留まることを乞い、詔して二秩を増して還任せしむ。
張璟、平山を知り、秩満し、士民留まることを乞い、英宗命じて進秩して復任せしむ。景泰初、母憂去る。復た士民の請に従い、情を奪いて事を視す。
徐栄、槁城を知り、親喪官を去る。服闋し、部民新令を罷めて栄を還すことを乞い、英宗其の請の如くす。景泰初、秩満す。復た民の請に徇い、これを留む。
何澄は安福の知県となり、弾劾された。民衆が朝廷に赴いて留任を請うたので、英宗はそのまま任に留まるよう命じた。そこで寅陂を築き、管道を浚渫し、密湖を旧来の姿に戻して、大いに水利を興した。任期が満ちて昇任すべきところ、侍講の劉球が民衆に代わって請願したので、帝は再び留任させた。
田玉は桐郷の知県となり、父母の喪で離任した。英宗は部民と巡撫の周忱の要請により、彼を元の任に戻した。
その他、内丘の馬旭、桐廬の楊信、北流の李禧、洋県の王黼、保安の張庸、獲鹿の吳韞、扶風の宋端などは、皆宣宗の世に、九年の考課で最上と奏上され、民衆が留任を請願したため、即座に官位を加増されて留任させられた者である。当時、帝は循良の吏を重んじ、吏部尚書の蹇義は特に守令の選任を慎重に行い、考察は明らかで寛大であった。その風は英宗の代にまで及び、吏治は淳厚で、部民が奏上して留任を請えば大抵許可された。しかしその中にも奸計を弄する者がいた。永寧の税課大使劉迪は羊を屠り酒を設け、耆老を招いて留任を請願させた。宣宗は怒り、彼を吏部に下した。漢中の同知王聚もまた宴を張って属吏に保奏させ知府になろうとした。事が聞こえると、宣宗は属吏も共に罪に処した。以後、部民が奏上して留任を請う場合は、大抵所管の役所に下して実状を審査させた。
洪熙の時、賢者を求める詔勅があり、推薦されて御史となった。国を治め民を利する十事を陳べ、仁宗は嘉納した。宣徳五年に倉場を巡視した時、軍人の高祥が倉の粟を盗んだので、驥は捕らえて審問した。祥の父の妾が、祥は張貴らと共に盗みを働き、驥は貴らから賄賂を受けたので祥だけを罪にしたと言った。刑部侍郎の施礼はそこで驥を死罪と論じた。驥は上書して自ら弁明した。帝は「御史が盗賊を捕らえて、どうして賄賂を受け取ろうか」と言い、都察院と共に再審するよう命じたところ、驥は確かに冤罪であった。帝は礼を厳しく責め、驥を復職させた。その年十一月、廷臣二十五人を選んで郡守とし、詔勅を奉じて赴任させた。驥は河南知府に任じられ、肇慶には給事中の王瑩、瓊州には戸部郎中の徐鑒、汀州には礼部員外郎の許敬軒、寧波には刑部主事の鄭珞、撫州には大理寺正の王升が任じられ、後いずれも政績で著名となった。
河南の境内には盗賊が多かったので、驥は火甲の制度を設け、一戸が盗難に遭えば一甲が賠償するようにした。犯人は、その門に大きく「盗賊の家」と記した。また『勧教文』を作り、木鐸を振り鳴らして巡回させた。これ以来、人々は皆行いを改め、道に落ちているものを拾わなくなった。郡内に伊王府があり、王はしばしば私的な依頼をしたが、従わなかった。宦官や校卒が民衆を虐待したが、また驥に抑えられたので、甚だ恨んだ。冬至の時、驥に四更(午前二時頃)に往って陪位し礼を行わせた。驥が期日通りに往くと、遅刻したと誣告し、捕らえて枷をはめ、翌日になってようやく釈放した。驥が上奏して報告すると、帝は怒り、書を送って王を譴責し、府中の承奉、長史、典儀を悉く捕らえて法に照らして処置した。
驥は身を正しく厳格に保ち、平居の時も机や敷物は必ず正しくしていた。郡に臨むこと六年で死去し、享年七十であった。士人や民衆が弔問に赴き、皆声をあげて泣いた。
王瑩は、鄞の人で、挙人の出身である。肇慶に九年在任し、官位が二等進み、後に西安知府に転じた。
徐鑒は、宜興の人である。瓊州に四年在任して死去し、郡人は彼を九賢祠に祀った。
許敬軒は、天臺の人である。国子生の出身である。汀州を守り、特に参政の陳羽の貪暴を糾弾し、宣宗は羽を逮捕処罰させた。官のまま死去し、士民は争って葬儀の金を贈った。
鄭珞は、閩県の人である。進士の出身である。寧波を守り、父母の喪で離任した。ちょうど海賊が侵犯したので、民衆数千人が朝廷に赴いて留任を請い、詔勅で喪中を奪情して復任させた。中使の呂可烈の不行跡を弾劾したことがあり、帝は可烈を誅殺させた。久しくして、浙江参政に抜擢された。
王升は、龍渓の人である。進士の出身である。郡に九年在任し、部民の要請により官位を増して留任した。病気で帰郷した。
趙豫は字を定素といい、安粛の人である。燕王が兵を起こして保定を下すと、豫は諸生として賦を督し城を守った。永楽五年に泌陽主簿に任ぜられたが、未だ赴任せず、兵部主事に抜擢され、員外郎に進んだ。内艱(母の喪)により起復(官に復す)した。洪熙の時に郎中に進んだ。宣徳五年五月、廷臣九人を選抜して知府とし、豫は松江を得て、勅を奉じて赴いた。当時衛軍が恣に横暴であったが、豫はその特に甚だしい者を捕らえ、杖罰を加えて辺境に配流したので、衆は遂に平穏となった。一意に民を撫循し、民をして休息せしめた。良家の子で謹厚なる者を選んで吏とし、礼法を以て訓導した。徭役を均しくし費用を節減し、吏員を十の五減じた。巡撫周忱が何か建置する時は、必ず豫と議した。清軍御史李立が至ると、専ら軍を益すことに務め、姻戚同姓にまで勾及(連座)した。少し弁明すると、則ち酷刑を以て榜掠(鞭打ち)した。人情大いに擾い、冤を訴える者が一千一百餘人に至った。塩司が灶丁(製塩人)を勾追する時も、また他の戸に累及び、大いに民害となった。豫は皆上章して極論し、悉く蘇息を得た。詔有りて蘇州・松江の官田の重租を減ずると、豫の管轄する華亭・上海の二県は、十の二三を減じた。
正統の中、九載の考績(考課)に当たり、民五千餘人が状を列ねて留任を乞い、巡按御史がこれを聞上したので、命じて二秩を増して還任させた。十年の春、大計(官吏の大考査)を群吏に施行し、始めて卓異の典を挙行した。豫と寧国知府袁旭とが皆これに預かり、宴と襲衣を賜わり遣還された。在職十五年、清静なること一日の如しであった。郡を去る時、老幼が轅に攀じ、一履を留めて遺愛を識し、後に周忱祠に配享された。
豫が初めて到着した時、民俗が多く訴訟することを患い、訴訟する者が至ると、輒ち好言を以て諭して「明日来たれ」と言った。衆皆これを笑い、「松江太守明日来る」という謡があった。訴訟する者が一宿を過ぎて忿り漸く平らぎ、或いは勧め阻まれて、多く止まって訴訟しなかった。
始め豫と同しく郡を守った者は、蘇州の況鐘・常州の莫愚・吉水の陳本深・温州の何文淵・杭州の馬儀・西安の羅以禮・建昌の陳鼎であり、並びに皦皦として著名なる績を上げ、豫は特に愷悌(穏やかで思いやり深い)を以て称された。
是の時、列郡の長吏で恵政を以て著聞した者は、
湖州知府祥符の趙登は、秩満して当に遷るべきであったが、民が闕に詣でて留任を乞い、秩を増して再任し、宣徳より正統に至るまで、先後官に在ること十七年であった。登の同里の嶽璿がこれを継ぎ、また善政有り、民は趙・嶽と称した。淮安知府南昌の彭遠は誣られて当に罷免されるべきであったが、民が中官の舟を擁し、奏請することを乞うたので、宣帝は命じて復た留めしめた。正統六年に超擢して広東布政司となった。荊州知府大庾の劉永は父喪に遭い、軍民一万八千餘人が留任を乞うたので、英宗は命じて奪情(喪中を免除)して視事させた。鞏昌知府鄞県の戴浩は擅に辺儲三百七十石を発して饑を賑い、劾せられて罪を請うたが、景帝はこれを原(赦)した。徽州知府孫遇は秩満して当に遷るべきであったが、民が闕に詣でて留任を乞うたので、英宗は命じて秩を進めて視事させた。先後官に在ること十八年、遷って河南布政使となった。惟だ袁旭のみは寧国に在って督学御史程富に誣劾せられ、逮われて獄中に死した。而して寧国の人はこれを惜しみ、祠を立てて祀った。
曾泉は泰和の人である。永楽十八年の進士。庶起士に選ばれ、御史に改めた。宣徳初め、都御史邵玘が属僚を甄別し、泉は汜水典史に謫され、卒した。
周済は字を大亨といい、洛陽の人である。永楽の中、挙人を以て太学に入り、都察院に歴事した。都御史劉観が御史に推薦したが、固く辞した。宣徳の時、江西都司断事に授けられた。艱(親の喪)にて帰り、湖広に補された。正統初め、御史に擢げられた。大同鎮守中官が驕横を以て聞こえたので、勅して済をして往きてこれを廉(察)せしめた。済は服を変え薪を負ってその宅に入り、不法の状を尽く得て還り報じたので、帝大いにこれを嘉した。已にして、四川を巡按した。威州土官董敏・王允が相仇殺したので、詔して済をして官兵を督して進討せしめた。済曰く、「朝廷遠人を綏安するは、宜しく先ず撫して後に征すべし」と。馳檄してこれを諭し、遂に解けた。十一年に出でて安慶知府となり、歳比年登らず、民間子女を鬻いで衣食に充て、方舟して去る者相接した。済は漕糧を借りて以て賑い、而して子女を鬻ぐ者を禁じた。且つ上疏して租を免ずることを請うたので、詔してこれを許し、全活すること甚だ衆かった。又婚喪の制を訂し、侈費を禁じ、嫁葬の期を愆(過)たす者を罰し、風俗一変した。
饑民が聚まって富家の粟を掠めたので、富家が盗劫として告げた。済は下令して曰く、「民饑えたる故に此の如くなるなり、然れども穀を得たらば当に太守の数に報ずべし、太守当に爾に代わって償わん」と。掠む者遂に解散した。済が官に卒すと、民皆市を罷め巷に哭したという。
段堅の学問は、河東の薛瑄に私淑し、知を致してその実を践むことに務め、諂って名声を取ることをしなかった。ゆえに儒術をもって吏治を飾ることができたのである。
子の段炅は進士となり、翰林院検討となった。焦芳に諂い附き、劉瑾が敗れると、官を落とし、家の名声を墜とした。
丁積は、字を彥誠といい、寧都の人である。成化十四年の進士。新会知県に任じられ、着任するとすぐに同郷の陳献章に師事した。政治を行うにあたり、風俗教化を根本とし、民を愛することを主とした。宦官の梁芳は同郷の者で、その弟の梁長が郷里で横暴をふるい、民に倍以上の借金を返済させ、さらに丁積に訴え出た。丁積は借用証書を追い出して焼き捨て、さらに捕らえて獄に繋いだ。これにより権勢のある豪族は影を潜めた。洪武の礼制を申し立て、『朱子家礼』を参照し、耆老を選んで百姓を教え導かせた。良家の子弟で生業を廃した者を集めて廊下に置き、毎日小学の書を誦読させ、自ら解説を加え、風俗は大いに変わった。民が官に金を出して役務に供するものを均平銭といった。その後、役人が貪り、さらに甲首に金を出させて費用に充てるよう命じ、これを当月銭といい、貧しい者は子女を売るに至った。丁積はこれら一切を断ち切った。俗に巫覡や鬼神を信じるので、淫祠を徹底的に破壊した。その後、大旱魃が起こると、圭峰の頂上に壇を築いた。八日間、朝晩壇の下に伏して祈り、大雨が降り注いだ。しかし丁積は病を得て死去し、士民は道に集まって泣いた。ある老女が夜、非常に悲しげに泣いていた。誰かが尋ねると、彼女は言った。「来年は甲首の番になる。丁公が死なれたので、私は生きていくすべがないのだ」。
唐侃は、字を廷直といい、丹徒の人である。正徳八年に郷挙に挙げられ、永豊知県に任じられた。任地に妻子を連れず、ただ一、二人の童僕と粗食で暮らした。長くして、吏民は信服した。永豊の風俗は訴訟を好み、鬼神を尊び、特に俳優を好んだが、唐侃はこれを禁止した。武定知州に進んだ。ちょうど軍籍を整理することになり、発遣すべき者が一万二千人に及んだ。唐侃は言った。「武定の戸口は三万である。これは州の半分を空にするものだ」。強く反対した。また、州内の徒駭河を移すという議論があったが、唐侃はさらに、民の財を削って溝壑に埋めるべきではないと言った。両事とも中止となった。章聖皇太后が承天に葬られることになり、諸宦官が通過する州県の官吏を脅迫して金銭を強要し、供応が整わなければ死罪だと宣言したので、州県の官吏は多くが逃げ出した。唐侃は空の棺を傍らの部屋に置き、宦官が逼迫して急ぐと、すぐに棺のある所へ行き、それを指して言った。「私は一死を覚悟している。金銭は得られぬ」。諸宦官は皆、驚いて目を見開き、去っていった。やがて刑部主事に遷り、死去した。
初め、唐侃は若い頃に丁璣に学んだ。隣家の女が夜、彼のもとに走り寄ったが、拒絶して受け入れなかった。その父が罪に坐して捕らえられると、唐侃は代わりに囚われることを請うたが許されず、草を敷いて地面に寝た。一年余りして、父が赦免されて初めて止めた。その操行の貞潔は、天性のものであった。
湯紹恩は安嶽の人である。父の佐は弘治初年に進士となり、官は參政に至った。紹恩は嘉靖五年に進士に及第した。十四年、戸部郎中より徳安知府に遷り、まもなく紹興に移った。人となりは寛厚な長者であり、性質は倹素で、内側には粗末な布を着、外側には父の遺した古い袍を重ねて着た。着任早々、学宮を新たにし、社学を広く設けた。年、大旱となり、徒歩で烈日の中を祈禱すると、雨はただちに降った。刑罰を緩め、貧弱を恤れみ、節孝を旌表し、民情は大いに和んだ。山陰・会稽・蕭山の三邑の水は、三江口に匯して海に入るが、潮汐が毎日到来し、砂を擁き積もらせて丘陵のようになる。長雨に遇うと水は阻まれ、砂は急に泄れることができず、良田はことごとく大きな水浸しとなり、当事者はやむを得ず塘を決してこれを泄らした。塘を決すれば旱を憂い、毎年修築に苦しんだ。紹恩は水路をくまなく行き巡り、三江口に至り、両山が対峙しているのを見て喜んで言った、「この下には必ず石の根があるであろう、私はここに閘を建てようか」と。水に巧みな者を募って探らせると、果たして石脈が横たわって両山の間に互い、ここに工事を起こした。まず鉄石を投じ、次に籠に甃屑を盛って沈めた。工事が半ばにならないうちに、潮が沖蕩して成し遂げられず、怨讟が頻りに起こった。紹恩は動じず、海神に祈禱すると、潮が至らない日が幾日も続き、工事はついに竣工した。長さ五十餘尋を修め、閘を二十八箇所設け、列宿に応じた。内側に備閘を三つ設け、経漊・撞塘・平水と称し、大閘の潰れるのを防いだ。閘の外に石堤四百餘丈を築いて潮を扼し、初めて閘の患いとならなくなった。水則を石間に刻み、後人に水勢を相して時を以て啓閉させるようにした。これより、三邑の方数百里の間に水患がなくなった。士民はその徳を感じ、廟を閘の左に立て、歳時を問わず奉祀して絶えなかった。たびたび遷って山東右布政使となり、致仕して帰り、年九十七で卒した。
初め、紹恩が生まれたとき、峨嵋の僧がその門を過ぎて言った、「他日、地に紹と称するものがあるならば、この児の恩を承けるであろうか」と。そこで紹恩と名付け、字を汝承としたが、その後、果たして験があった。
徐九思は貴溪の人である。嘉靖年間、句容知縣に授けられた。初めて政務を視るときは、恂々として能わざるが如くであった。やがて吏が袖に空の牒を隠して印を窃む者がおり、九思はその奸を摘発し、法の如く論じた。郡吏が叩頭して請うたが、許さず、ここにおいて人人は惴恐した。治めるときは孤弱な者には務めて恩を加え、豪猾を禦ぐことには特に厳しかった。訴訟する者には、鞭打っても十を過ぎなかった。諸々の徴税については、予め期日を定め、期日を過ぎれば、里老にこれを逮捕させるだけで、隷人は敢えて郷落に至らなかった。県の東西の通衢七十里は、塵土が三尺積もり、雨雪のときは泥が股を没した。九思は公費を節約し、石で舗装したので、行旅の便となった。朝廷はたびたび中貴を遣わして三茅山で神に醮を修めさせたが、県民は供応に苦しんだ。九思は故牒を捜索し、塩引金が久しく府に貯えられているものがあり、これをもって費用に充てるよう請うたので、民は擾されることがなかった。凶年に穀物が暴騰した。巡撫が倉穀数百石を発し、平価で糶かせて官に代価を償わせようとした。九思は言った、「あの糴く者は皆、豪族である。貧民は平価でも糴くことができない」と。そこで時価でその半分を糶き、代価を官に返し、残りの穀で粥を煮て飢えた者に食わせた。穀が多ければ、力を称して分負して去らせ、山谷の遠い者には、傍らの富人の穀に就かせ、官がこれを償ったので、全活した者は甚だ多かった。嘗て言った、「たとえ天子が大恵を布かれても、どうして人人に租を蠲め復を賜ることができようか、ただ我々が緩急を酌むだけである」と。久しくして、応天府尹と合わず、巡撫に弾劾されたが、吏部尚書熊浹がその賢を知り、特にこれを留任させた。
早く王守仁の門に遊び、『五経』に淹通した。諸生を新泉書院に集め、相い講習した。歳時には単騎で県を行き、壺漿を自ら携えた。京府の佐貳でその職を挙げる者は稀であったが、嵩に至っては善政をもって特に聞こえた。府官は六年京察の例に在りながら、また外察に与る。嵩は体に非ずとし、疏を上めてこれを止めるよう請うたので、ついに永制となった。南京刑部員外郎に遷り、郎中に進んだ。『原刑』・『司刑』・『祥刑』・『明刑』の四篇を撰し、『刑曹志』と称し、時の議はこれを称えた。雲南曲靖知府に遷り、また政声があった。中察典に遭い、老いを理由に罷免されたが、年はわずか五十であった。再び湛若水に従って遊び、久しくして卒した。応天・曲靖ともに名宦として祠し、葛仙郷は専祠を立ててこれを祀った。
礼部主事に抜擢され、郎中を歴任し、病を理由に辞職した。建寧知府として起用され、浙江副使に進んだ。当時浙江には召募兵がおり、巡撫・巡按がこれを解散させることを議し、兵は皆騒然となった。淳は言う、「これらは驕悍な者どもで、留めれば用に立ち、淘汰すれば測り難い事態となる。老弱を淘汰し、壮勇を留める方が良い。そうすれば留まる者は乱を思わず、淘汰された者は乱を起こせない」と。これに従い、事は遂に定まった。官は終に陝西布政使に至った。
陳幼學は、字を志行といい、無錫の人である。万暦十七年の進士。確山知県に任じられた。政務は民に恵みを施すことに努め、荒年に備えて粟一万二千石を蓄え、荒れ地八百余頃を開墾し、貧民に牛五百余頭を与え、黄河の退いた土地百三十余頃を調査して民に賦課した。里の婦人で紡げない者には、紡車八百余輛を授けた。千二百余間の家屋を設け、貧民を分けて住まわせた。公舎八十間を建て、六曹の吏を住まわせ、そこで食宿させた。公費六百余両を節減し、正賦で徴収されないものの代わりとした。桑や楡などの樹木三万八千余株を植え、河渠百九十八道を開いた。
布政使劉渾成の弟燦成が妾を助けて妻を殺したが、法律通りに処断した。行太僕卿陳耀文の家人が法を犯したので、直ちに捕らえて処断した。汝寧知府邱度は幼學が禍を得ることを憂慮し、巡撫・巡按に言上して、繁劇な中牟に転任させた。秋の収穫時、飛蝗が天を覆った。幼學は蝗を捕らえ、千三百余石を得たので、災害とはならなかった。県の城はもと土城で、低くかつ崩れていた。飢民に粟を与え、修築させ、工事が完成しても、民は労役と知らなかった。県の南の荒地には茂った草が多く、根が深くて開墾し難かった。民に訴状を出す者には、必ず草十斤を納めさせた。間もなく草は尽き、肥沃な田数百頃を得て、全て民に与えた。大きな沢があり、水が溜まって、肥沃な土地二十余里を占めていた。幼學は河五十七、渠百三十九を開削し、全て小清河に引き入れ、民は大いに利益を得た。大庄などの里は水が多いので、堤防十三道を築いて防いだ。貧民に牛と種子を、貧しい婦人に紡具を与えた数は、確山の時より倍増した。五年を経て、政績は顕著であった。権貴に通じなかったため、考察拾遺に当たり、掌道御史が彼を斥けようとしたが、その子が争って言うには、「児は中州から来ましたが、皆中牟の治績は並ぶもの無しと言っています。今これを最下位とするのは、何故ですか」と。そこでやめた。
やがて刑部主事に転じた。宦官で御園の果物を採る者が、怒って園夫の母を殺し、その屍を河中に棄てた。幼學は詳細に上奏し、捕らえて法に置いた。嘉興の人袁黃が妄りに『四書』・『書経集注』を削除し、『刪正』と名付けて当時に刊行していた。幼學はその書を駁して正し、抗疏して論列した。上疏は留中されたが、版木は全て破棄された。員外郎として畿輔で刑獄を恤み、矜み疑うべき者三百余人を出した。郎中に進んだ。