明史

列傳第一百六十九 循吏

【列傳第一百六十九 循吏】

明の太祖は元末の吏治の弛緩と民生の困窮を戒め、貪吏を厳しく律し、峻厳な法典に処した。府州県の吏が来朝し、階上で辞する際に諭して曰く、「天下は新たに定まり、百姓の財力は共に困窮している。鳥の初飛び、木の初植えの如く、その羽を抜かず、その根を揺るがすな。然れども、廉なる者のみが己を律して人を愛し、貪なる者は必ず人を削って己を肥やす。汝ら戒めよ」と。洪武五年、有司に考課の詔を下し、学校・農桑などの実政を第一とした。日照知県馬亮は督運に巧みであったが、農を課し士を興す効果が無く、直ちに罷免を命じた。一時、守令は法を畏れ、己を清くして民を愛し、上意に応え、吏治は煥然として大いに変わった。下って仁宗・宣宗の代には、民を撫で循し休息せしめ、民人は安楽し、吏治が澄明であったこと百余年。英宗・武宗の際、内外に変故多かったが、民心に土崩瓦解の憂いが無かったのも、また吏に貪残少なかった故に、禍乱が容易に鎮まったからである。嘉靖・隆慶以後、資格は既に甲科を重んじ、県令は多く廉卓をもって徴用され、階段を登って台省に取られたが、龔遂・黄の治は、あるいは見られなかった。神宗末年、徴発頻繁、鉱税四方に出で、海内騒然として煩費し、郡県はその職を修め挙げることができなかった。而して廟堂の考課は、一切虚文をもって事に従い、再び循良の選に意を加えなかった。吏治は既に日に苟且となり、民生はこれにより益々逼迫した。仁宗・宣宗の盛時は、遥かに追い及ぶべからず、而して太祖の法は蔑ろの如しであった。内を重んじ外を軽んじ、実政を修めず、上に在る者が意を加えざるが故なりと言わざるべけんや。

漢史の丞相黄霸、唐史の節度使韋丹は、皆『循吏伝』に入れられている。今、守令から超擢されて公卿となり勲徳ある者は、事績は皆別に現れる。故に、終に庶僚に止まり、政績の記すべき者を採り、『循吏伝』を作る。

陳灌、方克勤、呉履、廖欽等、高鬥南、余彦誠等、史誠祖、呉祥等、謝子襄、黄信中、夏升、貝秉彝、劉孟雍等、万観、葉宗人、王源、翟溥福、李信圭、孫浩等、張宗璉、李驥、王瑩等、李湘、趙、趙登等、曾泉、范衷、周済、范希正、劉綱、段堅、陳鋼、丁積、田鐸、唐侃、湯紹恩、徐九思、龐嵩、張淳、陳幼学

陳灌、字は子将、廬陵の人。元末、世乱れんとし、居所を囲んで場を築き樹を植え、人は測る能わず。後十年、盗賊蜂起す。灌は武勇を率いて林中に屯を結び、盗賊は敢えて入らず、一郷これにより全うす。太祖武昌を平らげ、灌は軍門に詣でて謁見す。語らいてこれを奇とし、湖広行省員外郎に抜擢し、累遷して大都督ととく府經歷となる。大将軍徐達に従い北征す。尋いで泰州に城を築くことを命ぜられ、工竣り、寧国知府に除せらる。時に天下初めて定まり、民『詩』『書』を棄つること久し。灌は学舎を建て、師を延べ、俊秀の子弟を選び業を受けしむ。疾苦を訪問し、豪右の兼併を禁ず。戸帖を創めて以て民を稽うるに便ならしむ。帝これを取りて式と為し、天下に頒行す。石を伐ち堤を築き、水門を作りて蓄泄し、瀕江の田を護り、百姓皆頼む。盗麦舟の罪に坐する者あり、数十人を死に論ず。灌覆按して曰く、「舟自ら漂い至り、而して愚民哄いてこれを取る、謀劫に非ず」と。その首たる一人を坐せしめ、余は悉く死を減ず。灌は豊裁厳正なりしも、治を為すに寛恤なること此の如し。洪武四年召されて京に入り、病卒す。

方克勤、字は去矜、寧海の人。元末、台州に盗賊起こり、呉江同知金剛奴、行省の命を奉じ、水兵を募りてこれを防ぐ。克勤献策すれども納れられず、山中に逃る。洪武二年県訓導に辟せらるも、母老いて辞し帰る。四年征せられて京師に至り、吏部の試第二、特授して済寧知府と為す。時に始めて民に荒を墾くことを詔し、三歳を閲して乃ち税す。吏の徴率は期を俟たず、民詔旨信ぜられずと謂い、輒ち棄て去り、田復た荒る。克勤は民と約し、税は期の如くす。田を区画して九等と為し、差等を以て徴発し、吏奸を為すこと得ず、野日に辟く。又社学数百区を立て、孔子の廟堂を葺き、教化興起す。盛夏、守将民夫を督して城を築く。克勤曰く、「民方に耕耘に暇あらず、奈何ぞ重ねて之を畚鍤に困らしむる」と。中書省に請い、役を罷むるを得たり。先ず久旱あり、遂に大いに澍う。済寧の人これを歌いて曰く、「孰か我が役を罷むる、使君の力。孰か我が黍を活かす、使君の雨。使君去ること勿れ、我が民の父母」と。事を視ること三年、戸口数倍に増え、一郡饒足す。

克勤の治を為す、徳化を本とし、近名を喜ばず、嘗て曰く、「近名すれば必ず威を立て、威を立てれば必ず民を殃す、吾忍びず」と。自ら奉ずるに簡素、一の布袍十年易えず、日に再び肉を食さず。太祖法を用いること厳しく、士大夫多く謫せられ、済寧を過ぐる者、克勤輒ちこれを周恤す。永嘉侯朱亮祖嘗て舟師を率いて北平に赴く、水涸れ、役夫五千河を浚う。克勤止むること能わず、泣いて天に禱る。忽ち大雨、水深さ数尺、舟遂に達す、民神と為す。八年朝に入り、太祖その績を嘉し、宴を賜い、郡に還遣す。尋いで属吏程貢に誣せられ、江浦に謫役し、復た空印の事に連坐し、逮われて死す。

子に孝聞・孝孺あり。孝聞、十三歳にて母に喪い、蔬食して終制す。孝孺は自ら伝あり。

呉履、字は徳基、蘭渓の人。少くして聞人夢吉に業を受け、『春秋』諸史に通ず。李文忠浙東を鎮め、郡学正に聘す。久しくして朝に挙げられ、南康丞を授かる。南康の俗悍にして、丞は儒者なりと謂い、これを易しむ。数ヶ月居るに、奸伏を摘発すること老獄吏の如く、則ち皆大いに驚き、相率いで跡を斂む。履乃ち改めて寛大を崇め、民と休息す。知県周以中田野を巡視し、部民に詈らる。捕え得ず、怒り、その郷鄰を尽く縶す。履獄を閲して故を問い、直ちにこれを釈し、乃ち以中に白す。以中益々怒りて曰く、「丞我を慢ず」と。履曰く、「公に犯す者は一人のみ、その鄰何の罪ぞ。今縶する者衆く、而して捕え未だ已まず、急なれば且つ変あり、奈何」と。以中の意乃ち解く。邑に淫祠あり、毎に祀るに輒ち蛇戸より出で、民これを指して神と為す。履巫を縛してこれを責め、神像を江に沈め、淫祠遂に絶つ。丞と為ること六年、百姓これを愛す。

安化知県に遷る。大姓易氏険を保ちて自ら守る。江陰侯呉良将にこれを撃たんとし、履を召して事を計る。履曰く、「易氏は死を逃るるのみ、反に非ず、これを招けば当に来らん。来らざれば、誅するも未だ晩しからず」と。良これに従う、易氏果たして至る。良農にして故に兵と為る者を籍せんと欲し、民大いに恐る。履曰く、「世清し、民農に安んず。願いて兵と為る者を籍し、願わざれば、強うること勿れ」と請う。濰州知州に遷る。山東の兵常に牛羊を以て秋税に代う。履民と計りて曰く、「牛羊には死瘠の患あり、粟を輸するに若かず」と。他日、上官民に令して牛羊を陝西に送らしむ。他県の民多く家を破るも、濰の民独り完し。会うに州を県に改むるに及び、履を召し還す。濰の民皆涕泣して奔送す。履遂に骸骨を乞いて帰る。

是の時、河内丞廖欽並びに廉能を以て称せらる。居ること八年、呉江に調ぜられ、後事に坐して謫戍す。久しくして老病を以て放帰せらる。河内を道す。河内の民競い持って羊酒を為め寿し、且つこれに縑を遺す。須臾にして数百匹を裒む。欽固より辞するも得ず、一夕遁れ去る。

その他、興化県丞周舟は成績最上により、特に吏部主事に抜擢された。民衆が争って留任を乞うたので、彼を帰任させた。帰安県丞高彬・曹県主簿劉鬱・衡山主簿紀惟正・沾化県典史杜濩はいずれも事に坐して、管下の民が赦免を乞うたため、官職に復し、惟正はただちに陝西参議に抜擢された。その後、州県の副官で著名な者は、仁宗・宣宗の時には易州判官張友聞・寿州判官許敏・許州判官王通・霊璧県丞田誠・安平県丞耿福縁・嘉定県丞戴粛・大名県丞賀禎・昌邑県主簿劉整・襄垣県主簿喬育・貴池県典史黄金蘭・深沢県典史高聞であり、英宗・景帝の時には養利州判官汪浩・泰州判官王思旻・上海県丞張禎・呉江県丞王懋本・歴城県丞熊観・黔陽県主簿古初・雲南南安州琅井巡検李保である。ある者は超遷し、ある者は遷任し、いずれも管下の民の請願によるものであった。

高鬥南は字を拱極といい、陝西徽州の人である。容貌魁偉で、声は鐘のようであった。洪武年間に、薦挙により四川定遠知県に任じられた。才識は精敏で、多くの善政があった。二十九年、永州知府余彦誠、知県斉東鄭敏・儀真康彦民・岳池王佐・安粛範志遠・当塗孟廉、および県丞の懐寧蘇億・休寧甘鏞・当塗趙森とともに事に坐し、先後に召還された。その地の耆老たちは奔走して宮門に至り、善政を列挙して上奏した。太祖はこれを嘉し、襲衣と宝鈔を賜って帰任させ、さらに耆老たちに道中の費用を賜った。諸人は任に戻ると、政績はますます顕著となった。まもなく天下の廉吏数名を挙げたが、鬥南もその中にあり、その名を『彰善榜』・『聖政記』に掲げて奨励とした。九年で成績最上となり、雲南新興知州に抜擢されたが、新興の人々も定遠と変わらぬほど彼を愛した。数年を経て、衰老を理由に帰郷を乞うた。子の吏科給事中高恂を自らの代わりに推薦し、成祖はこれを許した。七十歳で没した。

高恂は字を士信といい、博学で詩文をよくした。新興に任官し、大軍に従って交趾を征し、協賛の功績があった。軍が帰還する際、任地で没した。

余彦誠は徳興の人である。初め安陸州知事となり、徴税の期限に遅れたため、逮捕されるところであったが、その父老たちが宮門に伏して留任を乞うた。太祖は宴を賜って嘉賞し、帰任させ、父老たちも宴に預かった。久しくして永州知府に抜擢され、終に河東塩運使となった。

鄭敏はたびたび事に坐して逮捕されたが、管下の民数千人が宮門を守って赦免を求めた。帝は宴を賜って労い、官職に復し、宝鈔百錠、衣三襲を賜った。数年を経て、考課満了で朝廷に入った。管下の民が再び京師に走り、再任を乞うたので、帝はその請いを容れた。そしてこの時、再び赦免を得たのである。

康彦民は泰和の人である。洪武二十七年の進士であった。先に青田知県となり、儀真に転じ、後に巴陵・天台を歴任し、いずれも著名な政績を挙げた。永楽初年に罷免されて帰郷した。洪熙元年、御史が巡按して天台に至った。県民二百余人が彦民は廉潔公正で有能であると述べ、彼を天台に戻して民衆の望みを慰めてほしいと乞うた。御史がこれを上奏すると、宣宗は歎じて言った、「彦民が天台を去って二十余年になるのに、民がなお彼を思うとは、善政があったことがわかる」と。そこで江寧県丞に任用した。

蘇億・孟廉・趙森の三人は釈放されて帰任した後、翌年また事があって逮捕されることとなった。県民がまた宮門に走り、彼らの廉潔勤勉を称えたので、帝もまた釈放した。

当時、太祖は重典をもって臣下を統制し、太守・県令は些細な過失でしばしば逮捕拘禁された。その賢さを聞くと、すぐに帰任させ、かつ賞賜を加え、それによって超擢される者もあった。二十九年、霊璧知県周栄・宜春知県沈昌・昌楽知県于子仁、新化県丞葉宗がともに事に坐して逮捕審問され、管下の民が宮門を叩いた。太祖は喜び、ただちに四人を知府に抜擢し、周栄は河南、沈昌は南安、于子仁は登州、葉宗は黄州とした。これによって長吏たちは競って励み、一時は多くの循良の治績があった。

周栄は字を国華といい、蓬莱の人である。初め霊璧県丞となり、連座して逮捕され刑部に下されたが、耆老たちが群れをなして宮門に赴き、その賢さを称えた。帝は宝鈔八十錠、綺羅の衣各一襲を賜った。礼部が周栄と耆老たちに宴を賜って帰任させた。まもなく、周栄を霊璧知県に抜擢した。河南知府となってからも名声があった。後に進言が上意に叶い、河南左布政使に抜擢された。

史誠祖は解州の人である。洪武末年に、宮門に至り塩法の利害を上奏した。太祖はこれを採用し、汶上知県に任じた。治績は廉平で寛大簡略であった。永楽七年、成祖が北巡した際、御史を派遣して郡県の長吏の賢否を考核させた。帰還して報告し、誠祖の治績が第一であると言った。璽書を賜って労い、言った、「太守・県令は上意を承けて教化を宣べ、もって民衆を安んじ利するものである。朕は天下を統御し、日夜賢者を求めて共に治理を図っている。しばしば民間に下問すると、皆、酷吏の苛急を苦しみ、朕の心に副う者は実に少ないと言う。汝は敦厚老成で、職務に謹んで励み、身を修め志を励まし、ひたすら廉潔公正である。賦税を公平にし、徭役を均等にし、政務は清廉で訴訟は簡素、民心は悦んで敬愛し、境内は安泰と称えられている。古の良吏に比べても、何ら劣るところはない。特に汝を済寧知州に抜擢するが、なお汶上県の事務を管轄せよ。ますますその職務に励み、終わりを慎むこと始めのごとくして、永遠に嘉誉を保つように、謹め」。また内醸一尊、織金紗衣一襲、宝鈔千貫を賜った。御史はまた、貪吏で民を虐げる者は易州同知張騰に及ぶ者なしと報告したので、ついに召還して獄に下した。誠祖は表彰を得てから、ますます治政に勤勉となった。耕地は増加し、戸口は繁栄して、さらに十四里の編戸を増やした。成祖が汶上を通った時、その民数百家を膠州に移そうとしたが、誠祖が上奏してこれを免じた。たびたび転任すべきところであったが、つねに民衆が上奏して留任させた。二十九年を経て、ついに任地で没した。士民は哀哭し、遺体を留めて城南に葬り、毎年祭祀を捧げた。

この時、県令には久任の者が多かった。蠡県の呉祥は、永楽年間に嵩県知事となり、宣徳年間に至るまで、三十二年を経て任地で没した。臨汾の李信は、永楽年間に国子生から遵化知県に任じられ、宣徳年間に至るまで、二十七年を経て初めて無為知州に抜擢された。年老いて赴任を望まず、ついに帰郷を乞うた。涓県の房岩は、宣徳年間に鄒県知県となり、正統年間に至るまで、二十余年を経て任地で没したが、官吏民衆は皆彼を愛戴した。また吉水知県武進の銭本忠は廉潔の名声があり、過失で罷免された。父老たちが奔走し、号泣して留任を乞い、郡人の胡広が力を尽くして保証したため、任に復することができた。民衆は本忠が再び来ると聞き、町を空にして迎え拝した。永楽年間に任地で没すると、民衆は哀慕し、遺体を留めて吉水に葬り、争って土を背負って墳墓を築いた。その民衆を得た様は誠祖のようであった。

謝子襄は名を袞といい、字をもって行われた。新淦の人である。建文年間に、薦挙により青田知県に任じられた。永楽七年、銭塘知県黄信中・開化知県夏升とともに九年の考課が最上で、転任すべきところであった。その管下の民が相率いて上官に訴え、再任を乞うたので、上官がこれを上奏した。帝はこれを嘉し、ただちに子襄を処州知府に、信中を杭州知府に、夏升を衢州知府に抜擢し、彼らに元の県を治めさせた。子襄が処州を治めると、名声と治績はますます顕著となった。郡内に虎の害があった。また旱魃と蝗害があった。神に祈ると、大雨が二日降り、蝗はことごとく死に、虎もまた去っていった。官鈔を盗んだ者がいた。子襄が城隍神に檄を飛ばすと、盗賊がちょうど密室で鈔を調べていたところ、突然疾風が巻き起こって市中に堕ち、盗賊はただちに罪を認めた。民が市場で牛を売り、屠殺しようとした。牛が逃げて子襄の前に来て、うつむいて訴えるかのようであったので、俸給を出して買い戻し、持ち主に返した。反乱兵の呉米が山谷に拠って乱を起こし、朝廷が兵を発して討とうとしたので、郡中が騒然となった。子襄は軍が城中から出るのを力説して止め、自ら計略をもって不意に捕らえ、その首魁を捕え、残りはことごとく解散させた。人となりは廉潔謹直で、三十年官職を歴任したが、家族を連れて従えることはなかった。二十二年に没した。

信中は、餘幹の人である。先に楽清県の知事を務めた。奸人が寡婦を騙して京師に至らせ、郷人の謀叛を誣告し、己は逃げ去った。有司がその婦を拘束して上聞すると、詔して行所司に会審させた。信中はその実情を察知し、力を尽くして誣告であると論駁し、全うされた者が甚だ多かった。盗賊が一家三人を殺害し、獄事が久しく決しなかった。信中は神に祈り、真の盗賊を得たので、遠近でこれを称えた。升は、塩城の人である。

貝秉彝は、名を恒といい、字をもって行われる。上虞の人である。永楽二年の進士。邵陽知県に授けられ、憂服で去り、東阿に補せられた。獄事の決断に優れ、礼義をもって民を導くことができた。大凶作の年、平糴備荒の議を上奏した。帝はこれに従い、郡県に下して東阿の方式のごとくせしめた。邑の西南に大きな湖沼があり、水が溜まって田畑の害となっていた。秉彝は高低を視察し、渠を穿ち、大清河に引き入れ、干上がらせて、沃土数百頃を得、民はその利益を享けた。特に総合的な計画に長け、凡そ廃鉄・敗皮・朽索・故紙を悉く貯蔵した。暇を見て工匠に膠を煮させ、杵を鋳造させ、紙を搗かせ、索を絞らせて庫に貯えた。成祖が北巡するに当たり、有司に席殿の建設を命じた。秉彝は貯蔵したものを出して用を賄い、工事は速やかに竣功した。帝が召そうとしたところ、東阿の耆老百余りが闕に詣でて自ら願い出て、貝令を留めんことを願い、帝はこれを許した。九年の考満で都に入り、詔して一階を進められ、なお東阿に還った。嘗て累に坐し、京師で役を罰せられた。民は競ってその役を代わり、三度罰せられ三度代わり、乃ち官に復した。秉彝は吏として明察にして仁恕であった。平素酒を好んだが、官に就いてからは遂に止めた。宣徳元年、官にて卒した。

時に龍渓知県南昌の劉孟雍・鄒県知県龍渓の硃瑤・建安知県昆山の張准・婺源知県建安の呉春・歙県知県江西楽平の石啓宗は、皆恵みと利益があり、民は概ね思い慕い忘れなかったという。

萬観は、字は経訓、南昌の人である。弱冠にして永楽十九年の進士となった。帝は若いとし、帰って学業に励ませた。間もなく召されて御史とし、改めて厳州知府とした。府の東境七里瀧に、漁舟数百艇あり、時に旅人を掠奪した。観は十舟を一甲に編成し、区域を定めて巡警させた。一月も経たぬうちに、盗賊は跡を絶った。乃ち学校を励まし、農桑を勧め、織造を減ずるよう奏上し、銀をもって絲税に代え、民は皆これを便利とした。九年の考績で、治行は海内第一であった。既に憂服で去り、服喪が終わろうとする時、厳州の民が予め上章して再び観を得て守とせんことを願い、金・衢の民も上章してこれを乞うた。朝廷はこれを異とし、平陽府に補し、政績は益々盛んになった。堯祠の棟上に芝が生じ、士民は皆使君の徳化によるものと言った。観は「太守は職務を奉ずるを知るのみ、芝は吾が事にあらず」と言った。考満して、山東布政使に抜擢され、官にて卒した。

葉宗人は、字は宗行、松江華亭の人である。永楽年間、尚書夏原吉が東南で治水を行った。宗人は諸生として上疏し、範家港を浚って浦水を海に引き入れ、瀕海の民に堤を作ってその流れを阻むことを禁ずるよう請うた。帝は原吉の所に赴いて自ら尽力せしめた。工事が竣功すると、原吉がこれを推薦し、銭塘知県に授けられた。県は浙江省会であり、徭役が重く、豪強で有力な者は往々にして狡猾な吏と結び財を得て貧民を役していた。宗人は民に自ら甲乙を申告させ、冊に記し、順番に役を籤引きさせ、役は乃ち均等となった。嘗て政務を見ていると、蛇が階を昇り、訴えることがあるかのようであった。宗人は「爾に冤があるか、吾が爾のために理めよう」と言った。蛇は即ち出て行き、隷を遣ってその後を追わせると、餅屋の炉の下に入った。これを掘ると、僵屍を得た。餅屋の主人が殺して埋めたものである。又常に江中を行くと、死人が舟の舵に掛かっていた。推問すると、裏の無頼の子が沈めた者であった。遂に共に法に伏し、邑民は神の如く思った。按察使周新は、廉潔で剛直な吏であり、特に宗人を重んじた。一日、宗人の出たのを伺い、潜かにその室に入ると、厨房には銀魚の干物一包のみあった。新は嘆息し、少しばかり携えて去った。明日宗人を召して共に食事し、酔うまで飲み、儀仗を用いて導き帰らせた。時に「銭塘一葉清」と呼んだ。十五年、工匠を督いて北京の営造に赴き、途中で卒し、新は数日泣き悲しんだ。

王源は、字は啓澤、龍岩の人である。永楽二年に進士に擢げられ、庶起士に授けられた。深沢知県に改めた。学舎を修築し、長堤を築き、民に時を失わず嫁娶するよう勧め、財を争う習俗を改めた。数度上書して事を論じ、詔により都に征召され、又時政の得失を論じ、旨に忤い吏に下された。赦に会い官に復し、逋負の免除を奏上した。凶作の年には、即ち粟を発して救済し、これに坐して逮えられた。民は争って先を争って納め、贖って還ることができた。春坊司直郎に召され、諸王の講読に侍った。衛府紀善に遷り、松江同知に移り、積逋数十万石の免除を奏上した。母老いて養うことを乞い帰り、服喪が終わり、刑部郎中に除せられた。

英宗が践祚すると、廷臣十一人を選んで知府とし、宴と勅を賜い、駅伝で行かせた。源は潮州府を得た。城東に広済橋があり、年久しく半ば壊れていた。源は民から万金を集めてこれを再築した。その余りで亭を建て、先聖・四配・十哲の像を設けた。『藍田呂氏郷約』を刻し、民を選んで約正・約副・約士とし、その中で講習させ、時に僚属と共に率先して率いた。西湖の山の上に大石があり怪異があった。源はこれを穿つよう命じると、果たして石の髑髏を得、怪異は遂に止んだ。乃ちこれを琢って碑とし、大きく「潮州知府王源怪石を除く」と書した。時に一民を杖罰して死なせ、民の子が朝廷に訴え、併せて橋を築き亭を建てたことを源の罪とした。京師に逮えられ、罪は贖って徒刑に当たった。潮州の人が相率いて宮門を叩き、乃ちその官を復した。久しくして、休職を乞うた。潮州の人が奏上して留めんとしたが叶わず、祠を建てて祀った。

翟溥福は、字は本徳、東莞の人である。永楽二年の進士。青陽知県に除せられた。九華山の虎が害をなした。溥福が山神に檄を飛ばすと、虎は即ち滅んだ。久しくして、新淦に移り、刑部主事に遷り、員外郎に進み、尚書魏源に器重された。正統元年七月、詔して廷臣で郡守に堪える者を挙げよとし、源が溥福を応じたので、乃ち南康知府に擢げられた。

先に凶作の年、民が勝手に富家の粟を発し、及び漂流した官木を収取した者を、前の太守は悉く盗と坐し、死に当たる者百余りであった。溥福は実情を調べ、杖罰して遣わした。地は鄱陽湖に臨み、舟が風濤に遇って泊まる所がなかったので、石堤百余丈を築き、往来する者を便利にした。廬山の白鹿書院が廃れていたので、溥福は衆を倡えて興復し、師を招いてその子弟を訓え、朔望には自ら赴いて講授した。考績で部に赴き、年老いを以て帰ることを乞うた。侍郎趙新は嘗て江西を巡撫し、大声で「翟君はこの邦第一の賢守である、どうしてその去るを聴くことができようか」と言い、数日にわたり懇請し、乃ちこれを許した。郡を辞する日、父老は争って金帛を贈ったが、悉く受け取らなかった。衆は舟を引き留めて涕泣し、因って祠を湖堤に建てて祀り、又白鹿書院の三賢祠に配享した。三賢とは、唐の李渤、宋の周敦頤・硃熹である。

李信圭、字は君信、泰和の人。洪熙の時に賢良に挙げられ、清河知県に任じられた。県は瘠せて要衝にあり、官船が日に相連なり、役夫は動かすに千計をもってした。前任の令は沐陽の五百人を得て助けと為すことを請うたが、然し家を去ること遠く、衣食に艱しい。信圭はその助役を免じ、代わりに清河の浮征三分の二を輸することを請い、両邑これを便とした。俗は塚を発き火を放つを好み、信圭は教戒十三箇条を設け、里民に牌に書かしめ、月の朔望にこれを戒めた。且つその民の勤惰善悪を書して聞かしめ、俗これが為に変じた。宣徳三年に上疏して言う、「本邑は地広く人稀にして、地は沖要に当たり、使節絡繈し、日に民を発して舟を挽かす。丁壮既に尽き、役は老稚に及び、農桑を妨げ廃す。前年兵部に令有り、公事急なる者は舟に五人を与え、緩やかなる者は然らずと。今この令行われず、役夫限り無く、一舟に四五十人に至る者有り。凶威の加うる所、誰か敢えて詰問せん。或いは快風に遇えば、歩いて追い及ばず、則ち官舫の人役その齎す所の衣糧を没し、寒餒を受けしむ。乞う前令を申明し、此の憚人を哀れみたまわんことを」と。これに従う。八年春、また言う、「江・淮より京師に達するに、沿河の郡県悉く軍民に舟を挽かしむ。若し衛軍無ければ則ち民夫尽く有司より出で、州県歳に二三千人を発し、昼夜以て俟つ。而上官又雑泛差役を分別せず、一体に派し及ぶ。土田荒蕪に致し、民蓄積無し。稍や歉歳に遇えば、輒ち老稚相携え、道に縁りて食を乞い、実に憫傷す可し。儀真より通州に抵るまで、その雑徭を尽く免じ、農田に尽力するを得しめ、兼ねて夫役を供せしめんことを請う」と。帝もまたこれに従う。是より、他郡も亦その沢を蒙る。

正統元年、侍郎章敞の薦を用い、蘄州知州に擢げられる。清河の民闕に詣でて留まることを乞い、命じて知州をもって県事を治めしむ。民に湖田数百頃有り、淮安衛卒に奪われ、民代わりに租を輸すること六十年。信圭これを奏し、詔して民に還す。饑民食を攘みて人一牛を奪い、御史死を論ずること八人。信圭これを奏し、六人を免ず。天久しく雨し、淮水大いに溢れ、廃屋畜産甚だ衆くを没す。信圭振貸を請い、並びに歳辨の物件及び軍匠厨役・浚河の人夫を停むるを奏し、報じて可とす。南北往来の道に死して葬らざる者、信圭三大塚を為てこれを瘞す。十一年冬、尚書金濂の薦にて処州知府に擢げられる。その清河に在ること已に二十二年なり。処州方に旱に苦しみ、信圭至れば輒ち雨す。未幾、官に卒す。清河の民祠を立ててこれを祀る。

明興より洪・宣・正統の間に至るまで、民淳く俗富み、吏治め易し。而して其の時の長吏も亦多く長者の行いを励み、循良を以て称せらる。その秩満して奏留せらるる者、紀し勝えず、数人を挙げて略し篇に列す。

孫浩、永楽中邵陽を知り、喪に遭い官を去る。洪熙元年、陝西按察使浩の前政を頌し、令して威寧を補わしむることを請う。宣宗嘉歎し、即ち命じて起復せしむ。久しきのち、超擢して辰州知府と為る。

薛慎、長清を知り、親喪を以て去る。洪熙元年、長清の民慎の服闋するを知り、相率いて京師に詣でて再任を乞う。吏部尚書蹇義以て聞こえ、長清別に知県を除すること已に久し、即ち民の言の如くせば、又当に更易すべしと言う。帝曰く、「国家守令を置くは、但だ其の民心を得んことを欲するのみ。苟も民心得ずんば、屡く易うると雖も何の害かあらん」と。遂にこれを還す。

呉原、呉橋を知り、洪熙中、九載考績して部に赴く。県民闕に詣でて留まることを乞い、帝これに従う。

陳哲、博野を知り、旧官を以て還職し、解けて去る。宣徳元年、部民巡按御史に懇訴し、哲を還すことを乞う。御史以て聞こえ、報じて可とす。

暢宣、泰安を知り、母憂を以て去る。民副使鄺埜に頌し、以て聞こえ、仁宗命じて服闋して還任せしむ。宣徳改元、宣服闋し、吏部以て請う。帝曰く、「民之を欲し、監司之を言う。固より当に従うべし。況んや先帝の命有るをや」と。遂に其の請の如くす。

劉伯吉、碭山を知り、親喪を以て去る。服除け、碭山の民闕下に守り、再任を求む。吏部新令已に碭山に在ること二年なりと言う。帝曰く、「新しき者旧に勝てば、則ち民復た思わず。今久しくして又思う、其の新しき者に賢るを知るべし」と。遂にこれを易う。

孔公朝、永楽時に甯陽を知り、坐して同僚と飲酒し忿争し、並びに戍に遣わさる。部民屡く閽を叩きて還ることを乞うも、皆許さず。宣徳二年詔して賢を求め、公朝を薦むる者有り、甯陽の人これを聞き、又相率いて閽を叩きて公朝を乞う。帝尚書蹇義を顧みて曰く、「公朝甯陽を去ること已に二十余載、民奏乞已まず。此れ良吏に非ずや?即ち之を与うべし」と。

郭完、会寧を知り、奸人のために訐せられて逮わさる。裏老闕に伏して冤を訟ぎ還ることを乞い、帝も亦これを許す。

徐士宗、貴溪を知り、宣徳六年三考俱に最たり。民闕に詣でて留まることを乞い、詔して二秩を増して還任せしむ。

郭南、常熟を知り、正統十二年老を以て致仕す。父老還任を乞い、英宗これを許す。

張璟、平山を知り、秩満し、士民留まることを乞い、英宗命じて進秩して復任せしむ。景泰初、母憂去る。復た士民の請に従い、情を奪いて事を視す。

徐栄、槁城を知り、親喪官を去る。服闋し、部民新令を罷めて栄を還すことを乞い、英宗其の請の如くす。景泰初、秩満す。復た民の請に徇い、これを留む。

何澄は安福の知県となり、弾劾された。民衆が朝廷に赴いて留任を請うたので、英宗はそのまま任に留まるよう命じた。そこで寅陂を築き、管道を浚渫し、密湖を旧来の姿に戻して、大いに水利を興した。任期が満ちて昇任すべきところ、侍講の劉球が民衆に代わって請願したので、帝は再び留任させた。

田玉は桐郷の知県となり、父母の喪で離任した。英宗は部民と巡撫の周忱の要請により、彼を元の任に戻した。

その他、内丘の馬旭、桐廬の楊信、北流の李禧、洋県の王黼、保安の張庸、獲鹿の吳韞、扶風の宋端などは、皆宣宗の世に、九年の考課で最上と奏上され、民衆が留任を請願したため、即座に官位を加増されて留任させられた者である。当時、帝は循良の吏を重んじ、吏部尚書の蹇義は特に守令の選任を慎重に行い、考察は明らかで寛大であった。その風は英宗の代にまで及び、吏治は淳厚で、部民が奏上して留任を請えば大抵許可された。しかしその中にも奸計を弄する者がいた。永寧の税課大使劉迪は羊を屠り酒を設け、耆老を招いて留任を請願させた。宣宗は怒り、彼を吏部に下した。漢中の同知王聚もまた宴を張って属吏に保奏させ知府になろうとした。事が聞こえると、宣宗は属吏も共に罪に処した。以後、部民が奏上して留任を請う場合は、大抵所管の役所に下して実状を審査させた。

張宗璉は、字を重器といい、吉水の人である。永楽二年の進士となった。庶吉士に改められ、刑部主事に任じられ、広東で囚徒の記録を取った。仁宗が即位すると、左中允に抜擢された。ちょうど詔勅で朝臣に知る者を推挙させた時、礼部郎中の況鐘が宗璉の名を上奏した。帝が少傅の楊士奇に「人々は皆地方官を推挙するのに、鐘は京官を推挙するのは何故か」と問うと、答えて「宗璉は賢者です。臣と侍読学士の王直が推挙しようとしたところ、思いがけず鐘に先を越されたのです」と言った。帝は喜び、「鐘が宗璉を知ることができるのも、また賢者である」と言った。これによって鐘を知り、宗璉を南京大理丞に抜擢した。宣徳元年、詔勅で吏部侍郎の黄宗載ら十五人を各省に派遣して軍籍を整理させることとなり、宗璉は福建へ行った。翌年、奏事が旨に逆らい、常州同知に左遷された。朝廷が御史の李立を江南の軍籍整理に派遣し、宗璉に随行を命じた。立は狡猾な軍人の言葉を受け、多くの平民を捕らえて軍籍に充てたので、宗璉はしばしば争った。立が怒ると、宗璉はすぐに地に臥して杖罰を請い、「どうか百姓に代わって死なせてください」と言い、多くの連座を免れさせた。初め、宗璉が広東に使した時は、廉潔で寛大を務めた。この時、立の暴横を見て、心に積もる不平があり、背中にできた癰が悪化して死去した。常州の民で白衣で葬儀に送った者は千余人に上り、君山に祠堂を建てた。宗璉が郡に臨んだ時は妻子を連れず、病が重くなって医者を呼んだ時も部屋に灯燭がなかった。童子が外から油一盂を取り入れたが、宗璉はすぐに退けた。その清廉峻烈な様はこのようなものであった。

李驥は、字を尚德といい、郯城の人である。洪武二十六年の郷試に合格した。国子監に入り、三年在学して、戸科給事中に任じられた。当時、関所や市場で商人旅人を検査し、袋や篋にまで手を入れたので、驥はこれを止めるよう上奏した。まもなく事に連座して免官された。建文の時、推薦されて新郷知県に起用され、流亡の民を招き、農具を与えたので、復業する者が数千人に上った。母の喪で官を去る時、民衆が相次いで留任を奏請することが四度もあったが、許されなかった。永楽初年、喪が明けて、東安知県に転じた。民を苦しめる事があれば、すぐに朝廷に奏上して罷免させた。寡婦の子が狼に噛み殺された事件があり、驥に訴え出た。驥は城隍神に祈り、深く自らを咎め責めた。翌朝、狼がその場所で死んでいた。侍郎の李昶らが交わって推薦し、刑部郎中に抜擢された。十数事を奏上して陳べ、多くは採用された。連座して、保安での役務に左遷された。

洪熙の時、賢者を求める詔勅があり、推薦されて御史となった。国を治め民を利する十事を陳べ、仁宗は嘉納した。宣徳五年に倉場を巡視した時、軍人の高祥が倉の粟を盗んだので、驥は捕らえて審問した。祥の父の妾が、祥は張貴らと共に盗みを働き、驥は貴らから賄賂を受けたので祥だけを罪にしたと言った。刑部侍郎の施礼はそこで驥を死罪と論じた。驥は上書して自ら弁明した。帝は「御史が盗賊を捕らえて、どうして賄賂を受け取ろうか」と言い、都察院と共に再審するよう命じたところ、驥は確かに冤罪であった。帝は礼を厳しく責め、驥を復職させた。その年十一月、廷臣二十五人を選んで郡守とし、詔勅を奉じて赴任させた。驥は河南知府に任じられ、肇慶には給事中の王瑩、瓊州には戸部郎中の徐鑒、汀州には礼部員外郎の許敬軒、寧波には刑部主事の鄭珞、撫州には大理寺正の王升が任じられ、後いずれも政績で著名となった。

河南の境内には盗賊が多かったので、驥は火甲の制度を設け、一戸が盗難に遭えば一甲が賠償するようにした。犯人は、その門に大きく「盗賊の家」と記した。また『勧教文』を作り、木鐸を振り鳴らして巡回させた。これ以来、人々は皆行いを改め、道に落ちているものを拾わなくなった。郡内に伊王府があり、王はしばしば私的な依頼をしたが、従わなかった。宦官や校卒が民衆を虐待したが、また驥に抑えられたので、甚だ恨んだ。冬至の時、驥に四更(午前二時頃)に往って陪位し礼を行わせた。驥が期日通りに往くと、遅刻したと誣告し、捕らえて枷をはめ、翌日になってようやく釈放した。驥が上奏して報告すると、帝は怒り、書を送って王を譴責し、府中の承奉、長史、典儀を悉く捕らえて法に照らして処置した。

驥は身を正しく厳格に保ち、平居の時も机や敷物は必ず正しくしていた。郡に臨むこと六年で死去し、享年七十であった。士人や民衆が弔問に赴き、皆声をあげて泣いた。

王瑩は、鄞の人で、挙人の出身である。肇慶に九年在任し、官位が二等進み、後に西安知府に転じた。

徐鑒は、宜興の人である。瓊州に四年在任して死去し、郡人は彼を九賢祠に祀った。

許敬軒は、天臺の人である。国子生の出身である。汀州を守り、特に参政の陳羽の貪暴を糾弾し、宣宗は羽を逮捕処罰させた。官のまま死去し、士民は争って葬儀の金を贈った。

鄭珞は、閩県の人である。進士の出身である。寧波を守り、父母の喪で離任した。ちょうど海賊が侵犯したので、民衆数千人が朝廷に赴いて留任を請い、詔勅で喪中を奪情して復任させた。中使の呂可烈の不行跡を弾劾したことがあり、帝は可烈を誅殺させた。久しくして、浙江参政に抜擢された。

王升は、龍渓の人である。進士の出身である。郡に九年在任し、部民の要請により官位を増して留任した。病気で帰郷した。

李湘は、字を永懐といい、泰和の人である。永楽年間、国子生から都察院で刑務を扱った。才能により東平知州に抜擢され、常禄の外には一切受け取らず、吏民を訓誡するのは家族のようであった。城東に大村壩があり、源は岱嶽に発し、雨が降ると水害となって民を苦しめたので、丁夫を発して堤防を築くよう上奏した。州とその管轄する五県は、荒地が多かったので、力を尽くして民に開墾を督励し、公私共に豊かになった。ちょうど前任の官が復任することになり、解任されようとした。民衆が群れをなして朝廷に請願したので、帝はその願いを聞き入れた。成祖の晩年はしばしば北征し、山東の長官に命じて民に糧秣の輸送を監督させたが、道が遠く多くが死亡した。ただ東平の人々だけは行き場を失わなかった。奸人が李湘が民財を苛斂したと誣告し、布政司に告発した。県民千三百人が走って巡按御史と布政司・按察司の両司に訴え出て、力強くその冤罪を弁明した。耆老七十人がさらに奔走して宮門の下に伏し、奸人の誣陷の状況を明らかにした。布政司が李湘を拘引して都に連行すると、また耆老九十人が李湘に随行して冤罪を訴えた。通政司がこれを報告し、刑部に下して審査させたところ、李湘を復職させ、奸人を法に照らして処罰した。州に臨むこと十余年、正統初年に至り、詔勅で大臣に郡守を推挙させた時、尚書の胡蒞が李湘を推挙したので、懐慶知府に抜擢された。東平の民は老幼を扶け連れ、数十里にわたって泣いて見送った。懐慶には軍衛があり、平素から勢威を頼んで民を虐げていた。李湘は時宜に応じて制裁し、皆敢えて犯す者はなかった。三年在任して死去した。

趙豫は字を定素といい、安粛の人である。燕王が兵を起こして保定を下すと、豫は諸生として賦を督し城を守った。永楽五年に泌陽主簿に任ぜられたが、未だ赴任せず、兵部主事に抜擢され、員外郎に進んだ。内艱(母の喪)により起復(官に復す)した。洪熙の時に郎中に進んだ。宣徳五年五月、廷臣九人を選抜して知府とし、豫は松江を得て、勅を奉じて赴いた。当時衛軍が恣に横暴であったが、豫はその特に甚だしい者を捕らえ、杖罰を加えて辺境に配流したので、衆は遂に平穏となった。一意に民を撫循し、民をして休息せしめた。良家の子で謹厚なる者を選んで吏とし、礼法を以て訓導した。徭役を均しくし費用を節減し、吏員を十の五減じた。巡撫周忱が何か建置する時は、必ず豫と議した。清軍御史李立が至ると、専ら軍を益すことに務め、姻戚同姓にまで勾及(連座)した。少し弁明すると、則ち酷刑を以て榜掠(鞭打ち)した。人情大いに擾い、冤を訴える者が一千一百餘人に至った。塩司が灶丁(製塩人)を勾追する時も、また他の戸に累及び、大いに民害となった。豫は皆上章して極論し、悉く蘇息を得た。詔有りて蘇州・松江の官田の重租を減ずると、豫の管轄する華亭・上海の二県は、十の二三を減じた。

正統の中、九載の考績(考課)に当たり、民五千餘人が状を列ねて留任を乞い、巡按御史がこれを聞上したので、命じて二秩を増して還任させた。十年の春、大計(官吏の大考査)を群吏に施行し、始めて卓異の典を挙行した。豫と寧国知府袁旭とが皆これに預かり、宴と襲衣を賜わり遣還された。在職十五年、清静なること一日の如しであった。郡を去る時、老幼が轅に攀じ、一履を留めて遺愛を識し、後に周忱祠に配享された。

豫が初めて到着した時、民俗が多く訴訟することを患い、訴訟する者が至ると、輒ち好言を以て諭して「明日来たれ」と言った。衆皆これを笑い、「松江太守明日来る」という謡があった。訴訟する者が一宿を過ぎて忿り漸く平らぎ、或いは勧め阻まれて、多く止まって訴訟しなかった。

始め豫と同しく郡を守った者は、蘇州の況鐘・常州の莫愚・吉水の陳本深・温州の何文淵・杭州の馬儀・西安の羅以禮・建昌の陳鼎であり、並びに皦皦として著名なる績を上げ、豫は特に愷悌(穏やかで思いやり深い)を以て称された。

是の時、列郡の長吏で恵政を以て著聞した者は、

湖州知府祥符の趙登は、秩満して当に遷るべきであったが、民が闕に詣でて留任を乞い、秩を増して再任し、宣徳より正統に至るまで、先後官に在ること十七年であった。登の同里の嶽璿がこれを継ぎ、また善政有り、民は趙・嶽と称した。淮安知府南昌の彭遠は誣られて当に罷免されるべきであったが、民が中官の舟を擁し、奏請することを乞うたので、宣帝は命じて復た留めしめた。正統六年に超擢して広東布政司となった。荊州知府大庾の劉永は父喪に遭い、軍民一万八千餘人が留任を乞うたので、英宗は命じて奪情(喪中を免除)して視事させた。鞏昌知府鄞県の戴浩は擅に辺儲三百七十石を発して饑を賑い、劾せられて罪を請うたが、景帝はこれを原(赦)した。徽州知府孫遇は秩満して当に遷るべきであったが、民が闕に詣でて留任を乞うたので、英宗は命じて秩を進めて視事させた。先後官に在ること十八年、遷って河南布政使となった。惟だ袁旭のみは寧国に在って督学御史程富に誣劾せられ、逮われて獄中に死した。而して寧国の人はこれを惜しみ、祠を立てて祀った。

曾泉は泰和の人である。永楽十八年の進士。庶起士に選ばれ、御史に改めた。宣徳初め、都御史邵玘が属僚を甄別し、泉は汜水典史に謫され、卒した。

正統四年、河南参政孫原貞が上言して言う、「泉は操行廉潔、官に服して勤敏、降黜せられたる故を以て偷惰の心有らず。躬ら民を督して荒土を開き、穀麦を収め、材木を伐り、営繕を備え、商賈を通じ、逋責を完うし、官に儲積有り、民に科擾無し。舟楫を造り、棺槨を置き、民の器用を膽(整)う。百姓の婚喪に給せざる者は、皆泉に資した。死するの日、老幼巷に哭す。臣が行部して汜水に至るに、泉の没すること既に三年なり、民その恵を懐い、言うこと輒ち流涕し、古の循吏と雖も、何を以てかこれに加えん。若し海内に泉等数十人を得て郡邑を分治せしめば、朝廷の恩沢をして滂流せしめ、物咸にその所を得しむべし。異代に在ると雖も、猶お詔を下して褒美すべし。而るに奨録未だ及ばず、官階未だ復せず、泉をして終に貶謫の名を蒙らしめ、当世に顕れしめざるは、良に矜恤すべし。請う、泉の爵を追復し、既往を褒めて方来を風せん」と。帝これに従う。

範衷は字を恭肅といい、豊城の人である。永楽十九年の進士。寿昌知県に除された。荒田二千六百畝を開き、水利三百四十有六区を興した。正統五年、三考(九年の考課)して最を報じ、当に遷るべきであったが、邑人が徳を頌して留任を乞い、御史がこれを聞上したので、朝廷はこれを許した。尋いで外艱(父の喪)にて去り、服闋(喪明け)して、汝州知州に起用された。吏部尚書王直が天下の廉吏数人を察挙したが、衷が第一であった。性至孝にして、父の墓に廬し、瓜が連枝を生じ、白兔三匹有りて、暮側に馴擾した。郷人その行を高しとせざる者無し。

周済は字を大亨といい、洛陽らくようの人である。永楽の中、挙人を以て太学に入り、都察院に歴事した。都御史劉観が御史に推薦したが、固く辞した。宣徳の時、江西都司断事に授けられた。艱(親の喪)にて帰り、湖広に補された。正統初め、御史に擢げられた。大同鎮守中官が驕横を以て聞こえたので、勅して済をして往きてこれを廉(察)せしめた。済は服を変え薪を負ってその宅に入り、不法の状を尽く得て還り報じたので、帝大いにこれを嘉した。已にして、四川を巡按した。威州土官董敏・王允が相仇殺したので、詔して済をして官兵を督して進討せしめた。済曰く、「朝廷遠人を綏安するは、宜しく先ず撫して後に征すべし」と。馳檄してこれを諭し、遂に解けた。十一年に出でて安慶知府となり、歳比年登らず、民間子女を鬻いで衣食に充て、方舟して去る者相接した。済は漕糧を借りて以て賑い、而して子女を鬻ぐ者を禁じた。且つ上疏して租を免ずることを請うたので、詔してこれを許し、全活すること甚だ衆かった。又婚喪の制を訂し、侈費を禁じ、嫁葬の期を愆(過)たす者を罰し、風俗一変した。

饑民が聚まって富家の粟を掠めたので、富家が盗劫として告げた。済は下令して曰く、「民饑えたる故に此の如くなるなり、然れども穀を得たらば当に太守の数に報ずべし、太守当に爾に代わって償わん」と。掠む者遂に解散した。済が官に卒すと、民皆市を罷め巷に哭したという。

範希正は字を以貞といい、呉県の人である。宣徳三年に賢良方正に挙げられ、曹県知県に授けられた。奸吏が賄を受けし有り、希正はその罪を按じ、械して京師に送った。吏反って希正を他事に誣う、坐して逮われた。曹の民八百餘人が京に詣でて通政司に白し、希正廉能にして、横に奸吏に誣枉せられたりと言う。侍郎許廓が公事にて曹を過ぐるに、曹の父老二百餘人が道を遮り稽顙し、泣いて朝廷我が賢令を奪うと言う。事並びに聞こえ、帝乃ち希正を釈して県に還らしめた。正統十年、山東饑えた。惟だ曹のみは希正が先に粟を積みしを以て、患い無きを得た。大理寺丞張驥が山東を賑い、これを聞く。因りて曹県を州に升し、而して希正を以て知州とすことを請う、これに従う。時に州民官馬を負いて償う能わず、多く逃竄した。希正は公費を節して代わりに九十餘匹を償い、逃ぐる者皆復業した。吉水の人が曹の富民がその兄を殺せりと誣う、連坐すること甚だ衆かった。希正密かに吉水に移文し、その人の姓名を按ずるに皆妄り、事白きを得た。曹を治めること二十三年、知州を歴任し、再考して乃ち致仕した。

この時、潞州知州の咸寧人燕雲、徐州知州の楊秘、全州知州の錢塘人周健、霸州知州の張需、定州知州の王約は、皆大いに名声と治績を著した。楊秘と周健は官位を進めてその職に当たり、王約は詔を賜って表彰された。張需は太監王振に逆らい辺境に流され、人々は特に惜しんだ。そして民に最も長く慕われた者は、希正と寧州知州の劉綱に及ぶ者はいなかった。劉綱は字を之紀といい、禹州の人である。建文二年の進士。府谷知県からこの職に遷った。州に莅ること三十四年、仁宗がかつて酒食を賜い、人々はこれを栄誉とした。正統年間、老齢を理由に辞職しようと請うて去るとき、民はこれを見送り、涙を流して道に満ちた。その死後、寧州の民は彼を狄仁傑の祠に祀った。その孫が、すなわち大学士の劉宇である。

段堅は、字を可大といい、蘭州の人である。早くから書を学び、聖賢の道を志した。郷挙に挙げられ、国子監に入った。景泰元年、上書して四方の監軍を全て召還し、天下の仏寺・道観を廃するよう請うた。上疏は奏上されたが、行われなかった。五年に進士となり、福山知県に任じられた。小学の書を刊行して公布し、士民に講読誦習させた。風俗はもともと鄙陋であったが、ここに至って一変し、村落に絃歌誦読の声が聞かれるようになった。成化初年、勅書を賜って表彰され、超擢されて萊州知府となった。一年で、教化が大いに行き渡った。憂い(父母の喪)により去り、喪服を除くと、改めて南陽知府に任じられた。州県の学官を召集し、古人の学問の要旨を詳しく告げて、互いに勧誘させるようにした。志学書院を創設し、優れた民を集めて『五経』の要義および濂溪・洛陽の諸儒の遺書を講説した。節義祠を建て、古今の烈女を祀った。訴訟・徭役・賦税は、必ず公平を期した。数年居ると、大いに治まり、病気を理由に辞職して去った。士民で号泣して見送る者は、境界を越えても絶えなかった。その死を聞くと、祠を立て、春秋に祀った。

段堅の学問は、河東の薛瑄に私淑し、知を致してその実を践むことに務め、諂って名声を取ることをしなかった。ゆえに儒術をもって吏治を飾ることができたのである。

子の段炅は進士となり、翰林院検討となった。焦芳に諂い附き、劉瑾が敗れると、官を落とし、家の名声を墜とした。

陳鋼は、字を堅遠といい、応天府の人である。成化元年の郷試に挙げられ、黔陽知県に任じられた。楚の風俗で、喪に服するとき鼓を打ち歌舞を好む。陳鋼は古い哀悼の詞を歌うよう教え、民俗は次第に変わった。県城は沅水と湘水の合流点に当たり、たびたび決壊して家屋を損なった。陳鋼は人を募って石を採り堤防を千余丈にわたって築き、水害がなくなった。南山崖の官道数里は、道幅が非常に狭く、通行人が多く崖から落ちて死んだ。陳鋼は薪を積んで山を焼き、酢をかけて、道幅を一丈余りに広げ、通行人に便利をもたらした。陳鋼が病むと、民は争って神に祈り、自分の寿命を減らして陳鋼の寿命を増やそうと願った。長沙府通判に遷り、吉王府第の監修を務めた。工事が完成すると、王は金帛を賜ったが、受け取らなかった。代わりに王の旧殿の材木を請うて嶽麓書院を修復し、王はこれを許した。弘治元年、母の喪に服して帰郷した。死去すると、黔陽と長沙の両地で祠に祀られた。子の陳沂は侍講の官に至り、『文苑伝』に見える。

丁積は、字を彥誠といい、寧都の人である。成化十四年の進士。新会知県に任じられ、着任するとすぐに同郷の陳献章に師事した。政治を行うにあたり、風俗教化を根本とし、民を愛することを主とした。宦官の梁芳は同郷の者で、その弟の梁長が郷里で横暴をふるい、民に倍以上の借金を返済させ、さらに丁積に訴え出た。丁積は借用証書を追い出して焼き捨て、さらに捕らえて獄に繋いだ。これにより権勢のある豪族は影を潜めた。洪武の礼制を申し立て、『朱子家礼』を参照し、耆老を選んで百姓を教え導かせた。良家の子弟で生業を廃した者を集めて廊下に置き、毎日小学の書を誦読させ、自ら解説を加え、風俗は大いに変わった。民が官に金を出して役務に供するものを均平銭といった。その後、役人が貪り、さらに甲首に金を出させて費用に充てるよう命じ、これを当月銭といい、貧しい者は子女を売るに至った。丁積はこれら一切を断ち切った。俗に巫覡や鬼神を信じるので、淫祠を徹底的に破壊した。その後、大旱魃が起こると、圭峰の頂上に壇を築いた。八日間、朝晩壇の下に伏して祈り、大雨が降り注いだ。しかし丁積は病を得て死去し、士民は道に集まって泣いた。ある老女が夜、非常に悲しげに泣いていた。誰かが尋ねると、彼女は言った。「来年は甲首の番になる。丁公が死なれたので、私は生きていくすべがないのだ」。

田鐸は、字を振之といい、陽城の人である。成化十四年の進士。戸部主事に任じられ、員外郎、郎中に遷った。弘治二年、詔を奉じて四川を救済したが、誤って詔勅中の文言を遺漏した罪に坐し、蓬州知州に左遷された。州の東南に八十二頃の江洲があったが、豪族に占拠されていた。田鐸はこれを全て民に返還した。大小二十四の橋を架け、また三溪山を開鑿して通行人の便を図った。御史が巡察で蓬州に至ると、訴訟が全くなく静まり返っていたので驚いた。やがて、この州には冤罪の民がいないことを知り、ため息をついて去った。朝廷に推薦され、広東僉事に抜擢された。四川参議に遷ったが赴任せず、老病を理由に帰郷を願い出た。正徳年間、劉瑾が詔を偽り、田鐸が広東の塩法を管理した際、帳簿が明らかでないと言い、広東に逮捕送致しようとした。出発しないうちに劉瑾が誅殺され、ある者が田鐸に行かないよう勧めたが、田鐸は聞き入れず、行く途中の九江で死去した。八十二歳であった。

唐侃は、字を廷直といい、丹徒の人である。正徳八年に郷挙に挙げられ、永豊知県に任じられた。任地に妻子を連れず、ただ一、二人の童僕と粗食で暮らした。長くして、吏民は信服した。永豊の風俗は訴訟を好み、鬼神を尊び、特に俳優を好んだが、唐侃はこれを禁止した。武定知州に進んだ。ちょうど軍籍を整理することになり、発遣すべき者が一万二千人に及んだ。唐侃は言った。「武定の戸口は三万である。これは州の半分を空にするものだ」。強く反対した。また、州内の徒駭河を移すという議論があったが、唐侃はさらに、民の財を削って溝壑に埋めるべきではないと言った。両事とも中止となった。章聖皇太后が承天に葬られることになり、諸宦官が通過する州県の官吏を脅迫して金銭を強要し、供応が整わなければ死罪だと宣言したので、州県の官吏は多くが逃げ出した。唐侃は空の棺を傍らの部屋に置き、宦官が逼迫して急ぐと、すぐに棺のある所へ行き、それを指して言った。「私は一死を覚悟している。金銭は得られぬ」。諸宦官は皆、驚いて目を見開き、去っていった。やがて刑部主事に遷り、死去した。

初め、唐侃は若い頃に丁璣に学んだ。隣家の女が夜、彼のもとに走り寄ったが、拒絶して受け入れなかった。その父が罪に坐して捕らえられると、唐侃は代わりに囚われることを請うたが許されず、草を敷いて地面に寝た。一年余りして、父が赦免されて初めて止めた。その操行の貞潔は、天性のものであった。

湯紹恩は安嶽の人である。父の佐は弘治初年に進士となり、官は參政に至った。紹恩は嘉靖五年に進士に及第した。十四年、戸部郎中より徳安知府に遷り、まもなく紹興に移った。人となりは寛厚な長者であり、性質は倹素で、内側には粗末な布を着、外側には父の遺した古い袍を重ねて着た。着任早々、学宮を新たにし、社学を広く設けた。年、大旱となり、徒歩で烈日の中を祈禱すると、雨はただちに降った。刑罰を緩め、貧弱を恤れみ、節孝を旌表し、民情は大いに和んだ。山陰・会稽・蕭山の三邑の水は、三江口に匯して海に入るが、潮汐が毎日到来し、砂を擁き積もらせて丘陵のようになる。長雨に遇うと水は阻まれ、砂は急に泄れることができず、良田はことごとく大きな水浸しとなり、当事者はやむを得ず塘を決してこれを泄らした。塘を決すれば旱を憂い、毎年修築に苦しんだ。紹恩は水路をくまなく行き巡り、三江口に至り、両山が対峙しているのを見て喜んで言った、「この下には必ず石の根があるであろう、私はここに閘を建てようか」と。水に巧みな者を募って探らせると、果たして石脈が横たわって両山の間に互い、ここに工事を起こした。まず鉄石を投じ、次に籠に甃屑を盛って沈めた。工事が半ばにならないうちに、潮が沖蕩して成し遂げられず、怨讟が頻りに起こった。紹恩は動じず、海神に祈禱すると、潮が至らない日が幾日も続き、工事はついに竣工した。長さ五十餘尋を修め、閘を二十八箇所設け、列宿に応じた。内側に備閘を三つ設け、経漊・撞塘・平水と称し、大閘の潰れるのを防いだ。閘の外に石堤四百餘丈を築いて潮を扼し、初めて閘の患いとならなくなった。水則を石間に刻み、後人に水勢を相して時を以て啓閉させるようにした。これより、三邑の方数百里の間に水患がなくなった。士民はその徳を感じ、廟を閘の左に立て、歳時を問わず奉祀して絶えなかった。たびたび遷って山東右布政使となり、致仕して帰り、年九十七で卒した。

初め、紹恩が生まれたとき、峨嵋の僧がその門を過ぎて言った、「他日、地に紹と称するものがあるならば、この児の恩を承けるであろうか」と。そこで紹恩と名付け、字を汝承としたが、その後、果たして験があった。

徐九思は貴溪の人である。嘉靖年間、句容知縣に授けられた。初めて政務を視るときは、恂々として能わざるが如くであった。やがて吏が袖に空の牒を隠して印を窃む者がおり、九思はその奸を摘発し、法の如く論じた。郡吏が叩頭して請うたが、許さず、ここにおいて人人は惴恐した。治めるときは孤弱な者には務めて恩を加え、豪猾を禦ぐことには特に厳しかった。訴訟する者には、鞭打っても十を過ぎなかった。諸々の徴税については、予め期日を定め、期日を過ぎれば、里老にこれを逮捕させるだけで、隷人は敢えて郷落に至らなかった。県の東西の通衢七十里は、塵土が三尺積もり、雨雪のときは泥が股を没した。九思は公費を節約し、石で舗装したので、行旅の便となった。朝廷はたびたび中貴を遣わして三茅山で神に醮を修めさせたが、県民は供応に苦しんだ。九思は故牒を捜索し、塩引金が久しく府に貯えられているものがあり、これをもって費用に充てるよう請うたので、民は擾されることがなかった。凶年に穀物が暴騰した。巡撫が倉穀数百石を発し、平価で糶かせて官に代価を償わせようとした。九思は言った、「あの糴く者は皆、豪族である。貧民は平価でも糴くことができない」と。そこで時価でその半分を糶き、代価を官に返し、残りの穀で粥を煮て飢えた者に食わせた。穀が多ければ、力を称して分負して去らせ、山谷の遠い者には、傍らの富人の穀に就かせ、官がこれを償ったので、全活した者は甚だ多かった。嘗て言った、「たとえ天子が大恵を布かれても、どうして人人に租を蠲め復を賜ることができようか、ただ我々が緩急を酌むだけである」と。久しくして、応天府尹と合わず、巡撫に弾劾されたが、吏部尚書熊浹がその賢を知り、特にこれを留任させた。

九年を積み、工部主事に遷り、郎中を歴任し、張秋河道を治めた。漕河と塩河は近いが相接せず、漕水が溢れると氾濫して田の患いとなった。九思は沙湾に減水橋を築くことを議し、二水を通わせ、漕水が溢れれば泄れて海に入る所があり、田を侵さず、少なければ限りがあって涸れるに至らないようにした。工事が成ると、ここに永利となった。時に工部尚書趙文華が東南を視師し、河上を通った。九思は出迎えず、一吏を遣わして牒を齎して謁させたので、文華は嫚罵して去った。たまたま高州知府に遷るところであった。文華が帰り、旧怨を修め、吏部尚書吳鵬と謀を合せてこれを陥れたので、ついに九思を老いを理由に致仕させた。句容の民は茅山に祠を建てた。九思は家居すること二十二年、年八十五、疾を抱え、手を抗げて「茅山が我を迎える」と言い、ここに卒した。子の貞明は、自ら傳がある。

龐嵩は字を振卿といい、南海の人である。嘉靖十三年に郷挙された。羅浮山で講業し、従遊する者は雲集した。二十三年に応天通判を歴任し、治中に進み、先後合わせて八年に及んだ。府は尹を欠き、たびたびその事を摂行した。着任早々、凶年に遇い、上官が督して振恤するよう命じた。公粟が尽きると、巨室富家からこれを貸し、全活した者は六万七千餘人に及んだ。ここに積逋を蠲め、徴徭を緩め、勤労して徠し、復業した者はまた十万餘人に及んだ。留都の民は役の重さに苦しんだので、力を尽くして調剤し、凡そ優免戸や寄居客戶・詭称官戸・寄莊戸・女戸・神帛堂匠戸などに、悉く出役させるようにし、民の困窮は大いに蘇った。江寧県の葛仙・永豊の二郷は、頻りに水患に遭い、居民はわずか七戸を残すのみであった。嵩は堤を治め防を築き、田三千六百畝を得て、惠民荘を四つ立て、貧民を召してこれを佃わせ、流移した者は尽く復した。たびたび冤獄を剖き、戚畹の王湧・挙人の趙君寵が良人の妻を占め、人を殺したが、嵩はこれを法に置いた。

早く王守仁の門に遊び、『五経』に淹通した。諸生を新泉書院に集め、相い講習した。歳時には単騎で県を行き、壺漿を自ら携えた。京府の佐貳でその職を挙げる者は稀であったが、嵩に至っては善政をもって特に聞こえた。府官は六年京察の例に在りながら、また外察に与る。嵩は体に非ずとし、疏を上めてこれを止めるよう請うたので、ついに永制となった。南京刑部員外郎に遷り、郎中に進んだ。『原刑』・『司刑』・『祥刑』・『明刑』の四篇を撰し、『刑曹志』と称し、時の議はこれを称えた。雲南曲靖知府に遷り、また政声があった。中察典に遭い、老いを理由に罷免されたが、年はわずか五十であった。再び湛若水に従って遊び、久しくして卒した。応天・曲靖ともに名宦として祠し、葛仙郷は専祠を立ててこれを祀った。

張淳は字を希古といい、桐城の人である。隆慶二年に進士となり、永康知縣に授けられた。吏民は平素より多く奸黠で、連続して七人の令を告罷させた。淳が着任すると、日夜案牘を閲した。訴訟する者は数千人に及んだが、剖決は流れる如くで、吏民は大いに驚き、服し、訴訟は次第に減った。凡そ控訴に赴く者には、淳は即ち審期を示し、両造は期日に至り、片のうちに分析して留滞することがなかった。郷民は飯一包を裹めば訴訟を終えることができたので、ここに「張一包」と呼び、その敏断が包拯の如きを謂ったのである。巨盗の盧十八が庫金を剽窃し、十餘年捕えられず、御史が淳にこれを属した。淳は期を刻んで三月の内に必ず盗を捕えるとし、御史に月に数十の檄を下すよう請うた。檄が累々と下ると、淳は陽に笑って言った、「盗は久しく遁れた、どこから捕えようか」と。寝て行わなかった。ある吏の婦が十八と通じており、吏は頗る耳目となっていたが、淳の言を聞いて十八に告げたので、十八は自ら安んじた。淳はここに他の役人に命じて詐って吏が金を負っていると告げさせ、吏を獄に繋いだ。密かに吏を召して盗と通じた死罪を責め、またこれを教えて婦を代わりに繋がせ、己は出て資を営んで償わせるよう請わせた。十八はこれを聞き、急いで婦を見に行き、ここに酔わせてこれを擒えた。御史に報じたときは、僅か両月であった。

民に些細な恨みがあれば、すぐに人命を争う訴訟を起こした。淳は事実無根と見れば直ちに罪に処し、これより誣告の訴えは無くなった。永の民は貧しく、女児が生まれても多くは育てなかった。淳は諭し戒めること万端に及び、貧しくて力の無い者には俸給を割いて多少与え、全うして生かすこと数知れず。旱魃の年、公然と掠奪が行われたので、掠奪する者は死罪と命じた。五斗の米を奪った者がいたが、淳は死罪の囚人を装って杖殺し、その罪状を掲示して「これが米を奪った者である」とし、衆は皆畏れ服した。久しくして、治績第一として召しに応じて永を去ることとなり、車に乗ろうとした時、配下を顧みて言うには、「ある盗賊が既に来て、ここから数里の所にいる。我がために縛って来い」と。言う通りに跡を追うと、盗賊は正に河で足を洗っており、縛り連れて来ると、盗賊は罪を認めた。永の人はこの事を驚き、神が告げたのだと言った。淳は言う、「この盗賊は捕らえようと急げば逃げるが、今は我が去るのを聞いて帰っただけである。道理をもって推し量ったまでで、何の神があろうか」と。

礼部主事に抜擢され、郎中を歴任し、病を理由に辞職した。建寧知府として起用され、浙江副使に進んだ。当時浙江には召募兵がおり、巡撫・巡按がこれを解散させることを議し、兵は皆騒然となった。淳は言う、「これらは驕悍な者どもで、留めれば用に立ち、淘汰すれば測り難い事態となる。老弱を淘汰し、壮勇を留める方が良い。そうすれば留まる者は乱を思わず、淘汰された者は乱を起こせない」と。これに従い、事は遂に定まった。官は終に陝西布政使に至った。

陳幼學は、字を志行といい、無錫の人である。万暦十七年の進士。確山知県に任じられた。政務は民に恵みを施すことに努め、荒年に備えて粟一万二千石を蓄え、荒れ地八百余頃を開墾し、貧民に牛五百余頭を与え、黄河の退いた土地百三十余頃を調査して民に賦課した。里の婦人で紡げない者には、紡車八百余輛を授けた。千二百余間の家屋を設け、貧民を分けて住まわせた。公舎八十間を建て、六曹の吏を住まわせ、そこで食宿させた。公費六百余両を節減し、正賦で徴収されないものの代わりとした。桑や楡などの樹木三万八千余株を植え、河渠百九十八道を開いた。

布政使劉渾成の弟燦成が妾を助けて妻を殺したが、法律通りに処断した。行太僕卿陳耀文の家人が法を犯したので、直ちに捕らえて処断した。汝寧知府邱度は幼學が禍を得ることを憂慮し、巡撫・巡按に言上して、繁劇な中牟に転任させた。秋の収穫時、飛蝗が天を覆った。幼學は蝗を捕らえ、千三百余石を得たので、災害とはならなかった。県の城はもと土城で、低くかつ崩れていた。飢民に粟を与え、修築させ、工事が完成しても、民は労役と知らなかった。県の南の荒地には茂った草が多く、根が深くて開墾し難かった。民に訴状を出す者には、必ず草十斤を納めさせた。間もなく草は尽き、肥沃な田数百頃を得て、全て民に与えた。大きな沢があり、水が溜まって、肥沃な土地二十余里を占めていた。幼學は河五十七、渠百三十九を開削し、全て小清河に引き入れ、民は大いに利益を得た。大庄などの里は水が多いので、堤防十三道を築いて防いだ。貧民に牛と種子を、貧しい婦人に紡具を与えた数は、確山の時より倍増した。五年を経て、政績は顕著であった。権貴に通じなかったため、考察拾遺に当たり、掌道御史が彼を斥けようとしたが、その子が争って言うには、「児は中州から来ましたが、皆中牟の治績は並ぶもの無しと言っています。今これを最下位とするのは、何故ですか」と。そこでやめた。

やがて刑部主事に転じた。宦官で御園の果物を採る者が、怒って園夫の母を殺し、その屍を河中に棄てた。幼學は詳細に上奏し、捕らえて法に置いた。嘉興の人袁黃が妄りに『四書』・『書経集注』を削除し、『刪正』と名付けて当時に刊行していた。幼學はその書を駁して正し、抗疏して論列した。上疏は留中されたが、版木は全て破棄された。員外郎として畿輔で刑獄を恤み、矜み疑うべき者三百余人を出した。郎中に進んだ。

湖州知府に転じ、着任早々、豪悪な奴隷を捕らえて殺した。施敏という者は士族の子、楊升という者は人の奴隷で、郡中で横暴であった。幼學は敏を捕らえて獄に置いた。敏は貴人に賄賂して巡撫に檄を発させ親しく審問させようとしたが、幼學は渡さず、直ちに杖殺した。敏の獄中の供述に故尚書潘季馴の子廷圭が連座したので、幼學は御史にこれを言上し、上疏して弾劾させ、獄に下した。他の奸豪もまた数十人を論じて殺し、ただ楊升だけは禍を恐れて行いを慎んだので、放置した。やがて、自分が去れば楊升は必ず再び暴れると考え、遂に捕らえて死罪に処し、一郡は大いに治まった。長雨が連月に及び、稲は全て枯死した。幼學は大いに救荒の政を挙行し、飢民三十四万有余を生かした。御史が彼を推薦しようとし、その治績を徴したところ、推官閻世科が三十六事を列挙して上申し、御史がこれを上聞した。詔して按察副使を加えられ、引き続き郡の事務を管掌した。久しくして、副使として九江兵備を督した。幼學の年は既に七十で、その母が尚存していたので、終養を以て帰郷した。母が没すると、再び出仕しなかった。天啓三年に南京光禄少卿に起用され、太常少卿に改められたが、いずれも赴任しなかった。翌年没し、八十四歳であった。中牟と湖州に並び祠を建てて祀られた。