明史

列傳第一百六十八 何騰蛟 瞿式耜

○何騰蛟(章曠 傅作霖)瞿式耜(汪皞等)

何騰蛟

何騰蛟、字は雲從、貴州黎平衛の人なり。天啓元年、郷試に挙げらる。崇禎年間、南陽知縣を授かる。地は四方に通じ、賊その間に出沒し、數たび挫かれて去る。已にして、巡撫陳必謙に從い賊を安臯山に破り、首四百餘級を斬り、又土寇を討平し、益々知名となる。兵部主事に遷り、員外郎に進み、出でて懷來兵備僉事となり、口北道に調ぜらる。才諝精敏にして、在る所稱せらる。母憂に遭い、巡撫劉永祚其の賢を薦め、奪情して事に任ぜんことを乞う。騰蛟は不可とし、固く辭して歸る。服除け、起きて淮徐兵備僉事となる。土寇を討平し、部内宴然たり。

十六年冬、右僉都御史を拝し、王聚奎に代わり湖廣を巡撫す。時に湖北の地は盡く失われ、武昌を止むるのみ。左良玉の大軍を屯し、軍甚だ橫暴なり。騰蛟は良玉と交歡し、相安ずるを得たり。明年春、將惠登相・毛憲文を遣わし、德安・隨州を復す。

五月、福王立つ。詔至り、良玉は漢陽に駐す。其の部下に異議有り、開讀せんと欲せず。騰蛟曰く「社稷の安危、此の一舉に繫る。倘し詔を奉ぜずんば、吾は以て死を之に殉せん」と。良玉の所に抵るに、而して良玉は既に正紀盧鼎の言を聽き、禮の如く開讀す。正紀とは、良玉の置く所の官名なり。八月、福王命じて騰蛟に兵部右侍郎を加え、兼ねて湖南を撫し、李乾德に代わらしむ。尋いで故官を以て湖廣・四川・雲南・貴州・廣西の軍務を總督し、總督楊鶚を召し還す。明年三月、南京に北來太子の事有り、中外以て真と為し、朝臣皆偽りと曰う。騰蛟力言して殺すべからずとし、國に當たる者と大いに忤る。

間も無く、良玉兵を挙げて反し、騰蛟を邀えて偕に行かんとす。肯わざれば、則ち城中の人を盡く殺して以て之を劫かんとす。士民爭って其の署中に匿わる。騰蛟は大門に坐して之を入るるに縱す。良玉は垣を破り火を挙ぐ。避難する者悉く焚き死す。騰蛟急ぎ印を解きて家人に付し、速やかに走らしめ、將に自ら剄せんとす。良玉の部將に擁せられ去る。良玉は與に同舟せんと欲す。從わず、乃ち之を別舟に置き、副將四人を以て之を守らしむ。舟、漢陽門に次ぐ。乘間に跌ちて江水に入る。四人誅を懼れ、亦水に赴く。騰蛟は十餘里漂う。漁舟之を救い起す。則ち漢前將軍關壯繆侯の廟前なり。印を懷ける家人も亦至り、相視て大いに驚く。漁舟を覓むるに、忽ち見えず。遠近騰蛟の忠誠神佑を得たりと謂い、益々心を歸す。

騰蛟乃ち寧州より瀏陽に轉じ、長沙に抵る。諸の屬吏堵胤錫・傅上瑞・嚴起恒・章曠・周大啓・吳晉錫等を集め、痛哭して盟誓す。士馬・舟艦・糗糧を分ち、各其の一を任ず。胤錫に湖北巡撫を攝らしめ、上瑞に湖南巡撫を攝らしめ、曠を總督監軍と為し、大啓に學政を提督せしむ。起恒は故に衡永道、即ち二郡の軍食を督め、晉錫は長沙推官を以て郴桂道事を攝る。即ち曠を遣わし、副將黃朝宣・張先璧・劉承胤の兵を調ず。朝宣は燕子窩より、先璧は漵浦より、承胤は武岡より、先後に至り、兵勢稍々振るう。而して是の時良玉は既に死す。

順治二年五月、大兵南都を下す。唐王聿鍵、福州に自立す。王、南陽に居る時、素より騰蛟の賢を知り、委任益々至る。李自成、九宮山に斃る。其の將劉體仁・郝搖旗等、眾主無きを以て、騰蛟に歸するを議す。率いること四五萬人、驟かに湘陰に入り、長沙を距ること百餘里。城中の人其の歸を求むるを知らず、甚だ懼る。朝宣は即ち兵を引いて燕子窩に還る。上瑞は騰蛟に出でて避くるを請う。騰蛟曰く「左に死するも、賊に死するも、一なり。何ぞ避くんや」と。長沙知府周二南、往きて之を偵らんことを請う。千人を以て行を護る。賊其の敵を迎うるを謂い、之を射殺す。從行する者盡く死す。城中益々懼れ、士女悉く竄る。騰蛟と曠謀り、部將萬大鵬等二人を遣わし往きて撫す。賊、止むる所二騎なるを見、迎え入れて演武場に至らしめ、之に酒を飲ます。二人一言も交わさず、與に痛飲す。飲み畢り、賊來意を問う。答えて言う「督師、湘陰の褊小なるを以て、大軍を容るるに足らず。請う即ち長沙に移らん」と。因りて騰蛟の手書を致し之を召して曰く「公等朝に歸らば、誓って永く富貴を保たん」と。搖旗等大いに喜び、大鵬と共に長沙に至る。騰蛟誠を開きて撫慰し、宴飲盡く歡しみ、從官に牛酒を犒う。先璧に卒三萬を以て馳射せしむ。旌旗天を蔽う。搖旗等大いに悅び、其の黨袁宗第・藺養成・王進才・牛有勇を招き皆來歸す。驟かに兵十餘萬を増し、聲威大いに震う。

未だ幾も無く、自成の將李錦・高必正、眾數十萬を擁して常德に逼る。騰蛟、胤錫をして之を撫降せしめ、之を荊州に置く。錦は自成の從子、後名を赤心と賜う。必正は則ち自成の妻高氏の弟なり。高氏錦に語りて曰く「汝願わくは無賴の賊と為らんか、將た大將と為らんか」と。錦曰く「何を謂うぞ」と。曰く「賊と為るは論ずる無し。既に身を國に許せば、民を愛し、主將の節制を受け、死有りて二無く、吾が願う所なり」と。錦曰く「諾」と。騰蛟、錦の跋扈を慮り、他日其の營を過ぎ、高氏を見んことを請う。再拜し、禮を執すること恭し。高氏悅び、其の子に戒めて何公を忘るる毋かれとす。錦是より異志無し。

自成天下を亂ること二十年、帝都を陷し、廟社を覆す。其の眾數十萬悉く騰蛟に歸す。而して騰蛟上疏し、但だ元兇已に除かれたるを言い、稍々神人の憤を泄らす。宜しく郊廟に告謝すべしとし、卒に己の功を言わず。唐王大いに喜び、立たずして東閣大學士兼兵部尚書を拝し、定興伯を封じ、仍た師を督む。而して自成の死未だ實ならざるを疑う。騰蛟、自成の死定まるを言い、身首已に糜爛せりとす。敢えて功に居らず、因りて固く封爵を辭す。允さず、江西及び南都を規取せしむ。

是の時に當たり、降卒既に眾し。騰蛟舊軍を以て之に參ぜんと欲し、乃ち朝宣・先璧を題授して總兵官と為し、承胤・赤心・郝永忠・宗第・進才及び董英・馬進忠・馬士秀・曹誌建・王允成・盧鼎と並びに湖南・北に開鎮せしむ。時に所謂十三鎮これなり。永忠は即ち搖旗、英は騰蛟の中軍、誌建は則ち故巡按劉熙祚の中軍、餘は皆良玉の舊將なり。

騰蛟銳意東下し、表を拜して師を出す。明年正月、監軍御史李膺品と先ず湘陰に赴き、期して岳州に大會せんとす。先璧逗遛し、諸營も亦觀望す。獨り赤心湖北より至るも、大兵に敗れられて還る。諸鎮の兵遂に罷む。騰蛟の威望此れより損ず。時に諸將皆驕り且つ貪殘にして、朝宣尤も甚だしく、人を劫かえて其の皮を剝ぐ。永忠之に效い、民を殺すこと虛日無し。騰蛟制する能わず。故總督楊鶚なる者、餉を克して軍心を失う。是に至り復た夤緣して偏沅總督と為る。騰蛟以て言と為す。乃ち鶚を召し還す。

王はたびたび関を出ることを議したが、鄭氏に阻まれた。騰蛟はしばしば贛に行幸するよう請い、協力して江西を取ろうとした。王は使者を遣わして兵を徴し、騰蛟は永忠の精騎五千を発して往かせた。永忠は進もうとせず、五月になってようやく郴州に着いた。ちょうど大兵が汀州を破り、聿鍵が捕らえられて死に、贛州もまた失われた。騰蛟は王の死を聞き、大いに慟哭し、兵を励まして境を保つこと平時の如くであった。やがて、永明王が立ったと聞き、ようやく自ら安んじた。王はまもなく騰蛟を武英殿大学士とし、太子太保を加えた。王進才はもと益陽を守っていたが、大兵が次第に逼るのを聞き、長沙に還った。

四年の春、進才は餉が乏しいと声高に言い、大いに掠奪し、湘陰にも及んだ。ちょうど大兵が長沙に至り、進才は湖北に走った。騰蛟は守ることができず、単騎で衡州に走り、長沙・湘陰ともに失われた。盧鼎は時に衡州を守っていたが、先璧の兵が突如として至り、大いに掠奪した。鼎は抗することができず、永州に走った。先璧はそこで騰蛟を挟んで祁陽に走り、また間道を走って辰州に至った。騰蛟は脱して還り、永州に走った。ようやく到着すると、鼎の部将がまた大いに掠奪した。鼎は道州に走り、騰蛟は侍郎厳起恒とともに白牙市に走り、大兵はついに衡州・永州を下した。初め、騰蛟は十三鎮を建てて長沙を衛らせたが、この時にはみな自ら盗賊となった。大兵が衡州に入ると、守将黄朝宣は降った。その罪を数え上げ、四肢を切り裂いて殺し、遠近大いに快とした。大清は一知府をもって永州を守らせていたが、副将周金湯が城中の虚に乗じ、夜に鼓噪して登城し、知府は出走し、金湯はついに永州に入った。

六月、騰蛟は白牙にいた。王は密かに中使を遣わして劉承胤の罪を告げ、武岡に入ってこれを除くよう命じた。騰蛟はそこで走って王に謁し、王及び太后ともに召し出して会見した。承胤は小校から、騰蛟の推薦によって大将に至ったが、すでに次第に傲慢になっていた。騰蛟が長沙でその兵を徴発すると、承胤は大いに怒り、「先に朝宣・先璧の軍を調発した時は、いずれも章曠が親しく行った。今はむしろ箠を折って我を使うのか」と言った。そこで黎平に馳せ至り、騰蛟の子を捕らえ、餉数万を求めた。子は走って騰蛟に訴え、騰蛟は曠を行かせると、承胤はようやく衆を率いて至った。騰蛟は王に請うて、定蛮伯に封ぜられ、かつ姻戚となることを得たので、承胤はますます驕った。この時には安国公に爵し、勲は上柱国、尚方剣を賜わり、ますます坐大した。騰蛟が己の上に出るのを忌み、その権を奪おうとし、戸部尚書として用い、専ら餉務を領するよう請うたが、王は許さなかった。王は騰蛟を召して承胤を図らせたが、騰蛟に兵がなく、雲南の援将趙印選・胡一青の兵をこれに隷属させるよう命じた。朝辞するに及んで、銀幣を賜わり、廷臣に命じて郊外で餞別させた。承胤は千騎を伏せて騰蛟を襲わせたが、印選の卒が力戦し、これをことごとく殲滅したので、騰蛟はようやく還って白牙に駐した。

八月、大兵が武岡を破り、承胤は降った。王は靖州に走り、また柳州に走った。時に常徳・宝慶はすでに失われ、永州もまた再び失われた。王は桂林に返らんとしたが、城中には焦璉の軍のみがあり、騰蛟は印選・一青を率いて入り助けとなった。すると南安侯郝永忠が突然衆万余を擁して至り、璉の兵と闘おうとしたが、ちょうど宜章伯盧鼎の兵もまた至り、騰蛟が調停したので、桂林は安んじた。そこで璉・永忠・鼎・印選・一青を遣わして、興安・霊川・永寧・義寧諸州県を分かって扼させた。十一月、大兵が全州に逼り、騰蛟は五将を督して合戦して防いだ。

五年正月、王は桂林に居り、騰蛟に太師を加え、侯に爵を進め、子孫世襲とさせた。二月、大兵が全州を破り、興安に至った。永忠の兵は大いに潰え、桂林に奔り、王を西に逼り、兵を放って大いに掠奪した。騰蛟は永福から至った。大兵は桂林に変あるを知り、直ちに北門に抵った。騰蛟は璉・一青らを督して三門に分かって拒み守らせたので、大兵はようやく全州に還った。ちょうど金声桓・李成棟が大清に叛き、兵を率いて帰附した。湖南に在った大兵はひとまず退き、騰蛟はついに全州を取った。また保昌侯曹志建・宜章侯盧鼎・新興侯焦璉・新寧侯趙印選を遣わして永州を攻めさせ、城を囲むこと三月、大小三十六戦、十一月朔日にこれを克った。まもなく、監軍御史余鯤起・職方主事李甲春が宝慶を取り、諸将もまた衡州を取り、馬進忠が常徳を取り、失った地の多くが回復した。

騰蛟は進兵して長沙を取ることを議した。ちょうど督師堵胤錫が進忠を憎み、忠貞営の李赤心の軍を夔州から招き寄せ、進忠に常徳を譲ってこれに与えるよう命じた。進忠は大いに怒り、住民をことごとく駆り出して城を出させ、廬舎を焼き、武岡に走った。宝慶の守将王進才もまた城を棄てて走り、他の守将もみな潰走した。赤心らの至るところはみな空城で、まもなく棄てて走り、東に向かって長沙に趨った。騰蛟は時に衡州に駐し、大いに驚いた。六年正月、進忠に檄を飛ばして益陽より長沙に出で、諸将のすべて会するを期し、みずから忠貞営に詣で、赤心を邀えて衡州に入らんとした。部下の卒六千人、忠貞営の掩襲を恐れ、護衛せず、ただ吏卒三十人を携えて往った。将に至らんとする時、その軍がすでに東に行ったと聞き、すなわちその後に尾いて湘潭に至った。湘潭は空城であり、赤心は守らずして去ったので、騰蛟はようやく入ってこれに居った。大兵は騰蛟が空城に入ったと知り、将徐勇を遣わして軍を率いて入らせた。勇は騰蛟の旧部将であり、その卒を率いて羅拝し、騰蛟を勧めて降るよう説いた。騰蛟は大いに叱したので、勇はすなわちこれを擁して去った。食を絶つこと七日、ようやくこれを殺した。永明王はこれを聞き哀悼し、祭を賜わること九度、中湘王を贈り、諡して文烈とし、その子文瑞を僉都御史に官した。

附 章曠

章曠、字は於野、松江華亭の人。崇禎十年の進士。沔陽知州に授けられた。十六年三月、賊将郝揺旗その城を陥とし、同知馬飆これに死す。曠は走って免れ、九江にて総督袁継咸に謁し、監紀に署せられた。諸将方国安・毛憲文・馬進忠・王允成らに従い漢陽を復す。武昌巡按御史黄澍、漢陽推官を署せしめ兼ねて府事を摂せしめ、承徳巡撫王揚基、分巡道事を署せしめしむ。明年四月、憲文、恵登相とともに徳安を復し、揚基、曠に檄して往き守らしむ。城は空しく人なく、衛官十数人印を賫して賊将白旺に送る。曠これを収めて斬り、日夕警備す。三月居り、代わる者李藻至り、巡撫何騰蛟、曠に檄して荊西道事を署せしむ。曠去り、藻将士の心を失い、城また陥つ。給事中熊汝霖・御史遊有倫、曠の沔陽にて城を失える罪を劾し、黄州にて訊を候わしむ。騰蛟の推薦を用い、罪を戴きて功を立てしむ。

福王南京に立ち、左良玉闕を犯さんとす。騰蛟長沙に至り、曠を以て監軍とす。副将黄朝宣なる者は、故巡撫宋一鶴の部将、燕子窩に駐し、騰蛟曠に命じてこれを召し来らしむ。副将張先璧、精騎三千を漵浦に屯し、また曠に属してこれを召し、親軍として留め、もって朝宣をして茶陵を戍らしむ。また曠に命じて劉承胤の兵を武岡にて調う。ちょうど李自成死に、その下劉体仁・郝揺旗・袁宗第・藺養成・王進才・牛有勇の六大部、各数万の兵を擁して至る。騰蛟曠と計り、その衆を尽く撫し、軍容大いに壮なり。左良玉死に、その将馬進忠・王允成帰する所なく、突如岳州に至る。偏沅巡撫傅上瑞大いに懼る。曠曰く、「これ主なき兵なり、撫すべし」と。その営に入り、進忠と握手し、白水を指して誓いを為す。進忠ら皆これに従う。進忠すなわち賊中の渠魁混十万なり。時に南京すでに破れ、大兵湖南に逼り、諸将皆畏怯す。曠独り力を尽くして防ぐ。唐王これを擢して右僉都御史と為し、軍務を提督し、湖北を恢剿せしむ。

曠は智略を有し、行軍に鋒鏑を避けず。身を以て湘陰・平江の衝を扼し、湖南はこれに恃んで無恐であった。嘗て岳州に戦い、後軍の継がざるを以て還る。已にして、又大いに大荊驛に戦う。永明王、兵部右侍郎を加う。長沙守将王進才と狼兵将覃遇春と哄き、大いに掠めて去る。騰蛟は衡州に奔り、曠も亦宝慶に走り、長沙遂に失わる。騰蛟は祁陽に駐し、曠来たり会す。騰蛟は兵事を曠に属し、而して武岡に王を謁す。曠は永州に移駐し、諸大将の兵を擁し、警を聞けば輒ち走るを見て、抑郁して卒す。

傅作霖

傅作霖は武陵の人。郷挙より唐王に仕え、大学士蘇観生、職方主事に奏し、その軍を監紀す。観生歿し、何騰蛟に倚り長沙にあり、監軍御史に改む。永明王全州に在り、超えて兵部左侍郎に拝し、部事を掌り、尋いで尚書に進み、武岡に従う。時に劉承胤政を擅にし、作霖これと相善し、故に驟遷す。及び大兵武岡に逼り、承胤迎降を議す。作霖勃然としてこれを責む。承胤使を遣わして款を納れ、大兵城に入る。作霖冠帯して堂上に坐す。承胤力を尽くしてこれを降らしめんと勧むも、従わず、遂に殺さる。妾鄭は殊色有り、執らる。これを橋を過ぎしむるに、躍りて水中に入り死す。

蕭曠という者有り、武昌の諸生、承胤の坐営参将となる。騰蛟、総兵官に題し、黎平参将事を管せしむ。及び承胤降るや、降将陳友龍に曠を招かしむるも、曠従わず。已にして城破れ、これに死す。

傅上瑞は初め武昌推官たり。賊城を囲み、遁走す。久しくして、騰蛟これを薦めて長沙僉事と為し、又偏沅巡撫事を摂せしむ。騰蛟を勧めて十三鎮を設けしめ、遂に湖南の大害と為る。唐王の時、騰蛟の薦を用い、右僉都御史に擢げ、実に偏沅巡撫を授く。性反覆にして、騰蛟を棄つること遺物の如し。武岡破れ、大兵沅州に逼る。上瑞出でて降る。逾年、劉承胤と並び誅死せらる。

瞿式耜

瞿式耜は字を起田と曰い、常熟の人。礼部侍郎景淳の孫、湖広参議汝説の子なり。万暦四十四年進士に挙げらる。吉安永豊知県を授かり、恵政有り。天啓元年江陵に調ず。永豊の民留まるを乞い、命ありて再任す。憂いを以て帰る。崇禎元年、戸科給事中に擢げらる。疏を上りて言う、李国〓普は宜しく内閣に留むべく、王永光は宜しく銓を典とすべく、曹於汴は宜しく憲を秉すべく、鄭三俊・畢懋良は宜しく版曹を総べく、李邦華は宜しく戎政を主とすべしと。帝多く其の言を采る。俄かに朝政の不平を陳べ、王之寀の恤を請い、孫慎行の冤を訟ぎ、楊鎬・王化貞の誅を速にし、楊漣・左光鬥の結毒の謗を白くし、故相魏広微・顧秉謙・馮銓・黄立極の罪を追論す。因りて言う、奪情建祠の朱童蒙は寛むべからず、積愆久廃の湯賓尹は用うべからずと。帝も亦これを納る。又極めて来宗道・楊景辰の逆に附するは政府に居るべからざるを論じ、二人旋ち罷め去る。御史袁弘勛、大学士劉鴻訓を劾す。逆党徐大化実にこれを主る。川貴総督張鶴鳴は先に已に廃せられ、其の復用は魏忠賢に由る。式耜並びに疏を上りて論ず。已にして、楊漣・魏大中・周順昌を頌めて清中の清、忠中の忠と為し、三人遂に謚を賜わる。未だ幾ばくもせず、時務七事を陳ぶ。言う、「起廃は核せざるべからず、升遷は漸ならざるべからず、会推は慎しまざるべからず。謚典は宜しく厳にし、刑章は宜しく飭い、人を論ずるは宜しく審にし、珰に附する者は宜しく区別すべし」と。又極めて館選奔競の弊を論じ、臨軒親試を請う。末に言う、「古に左右史有り、天子の言動を記す。今召対時に勤めば、宜しく史官をして入侍記録せしめ、朝野に昭示すべし」と。事多く議行せらる。時に将に逆案を定めんとす。尽く紅本を発し、其の情罪の軽重を定むるを請う。又言う、宣府巡撫徐良彦は逆奄に附せず、崔呈秀の誣劾に為りて戍に遣わさる。亟に登用すべしと。良彦遂に起用を得る。

式耜は矯矯として名を立て、建白する所多く帝意に当たれども、然れども権豪を搏撃し、大臣多く其の口を畏る。十月詔して閣臣を会推せしむ。礼部侍郎銭謙益は同官周延儒の方言事にて眷を蒙るを以て、並び推さるれば則ち己絀るるを慮り、これを沮まんと謀る。式耜は謙益の門人なり。当事者に言いて、延儒を擯き推さず、而して謙益を第二に列す。温体仁遂に難を発し、延儒これを助く。謙益官を奪われ閑住し、式耜坐して貶謫せらる。式耜嘗て貴寧参政胡平表の賊を殺す功を頌め、優擢を請う。其の後平表は貴州布政使と為り、不謹に坐して罷む。式耜再び二秩を貶せられ、遂に家に廃す。久しくして、常熟の奸民張漢儒、体仁の指を希い、謙益・式耜の貪肆不法を訐る。体仁これを主り、法司に下して逮治す。巡撫張国維・巡按路振飛、交章を上りて其の冤を白くすも、聴かず。両人の獄に就くに比すれば、則ち体仁已に位を去り、獄稍く解く。謙益は坐して籍を削られ、式耜は徒を贖う。言官疏を上りて薦むるも、納れず。

十七年、福王南京に立つ。八月式耜を起して応天府丞と為す。已にして、右僉都御史に擢げ、方震孺に代わり広西を巡撫す。明年夏、甫く梧州に抵るや、南京の破るるを聞く。靖江王亨嘉号を僭せんと謀り、式耜を召す。往くを拒みて、而して檄を思恩参将陳邦伝に飛ばし防を助けしむ。狼兵を止め、亨嘉の調に応ぜしめず。亨嘉梧に至り、式耜を劫い、これを桂林に幽し、人を遣わして其の勅印を取らしむ。初め、式耜は桂端王の子安仁王を立てんと議す。及び唐王監国す。式耜は倫序当に立つべからずと以為い、表を奉りて進を勧めず。至るに是に亨嘉に幽せられ、乃ち使を遣わして王を賀し、因りて援を乞う。王喜ぶ。而して亨嘉は丁魁楚に攻められ、勢窘し、乃ち式耜を釈す。式耜は中軍官焦璉と邦伝を召し共に亨嘉を執り、乱遂に定まる。唐王、式耜を兵部右侍郎に擢げ、戎政を協理せしめ、晏日曙を以て来たり代わらしむ。式耜は朝に入らず、退きて広東に居る。

順治三年九月、大兵汀州を破る。式耜は魁楚等と議し永明王由榔を立て、乃ち王を梧州に迎え、十月十日を以て肇慶に監国す。式耜を吏部右侍郎・東閣大学士に進め、兼ねて吏部事を掌らしむ。未だ幾ばくもせず、贛州敗報至る。司礼王坤、王を迫りて梧州に赴かしむ。式耜力争すも得ず。十一月朔、蘇観生、唐王聿〓を広州に立つ。式耜乃ち魁楚等と議を定め王を迎えて肇慶に還らしめ、総督林佳鼎を遣わし観生の兵を禦がしむるも、敗歿す。式耜は峡口に師を視る。十二月望、大兵広州を破る。王坤、王を趣して西走せしむ。式耜王に趨り赴くも、王は已に梧を越えて西す。

四年正月、大軍が肇慶を破り梧州に迫ると、巡撫曹曄は迎えて降った。王は湖広の何騰蛟のもとに走って依ろうとしたが、丁魁楚・呂大器・王化澄は皆王を見捨てて去り、瞿式耜と呉炳・呉貞毓らだけが従った。そこで平楽を経て桂林に至った。二月、大軍が平楽を襲い、兵を分けて桂林に向かう。王は全州に走ろうとしたが、式耜は桂林の形勢を極力陳べて留まるよう請うたが、許されなかった。自ら留守を請うと、許された。文淵閣大学士に進み、兵部尚書を兼ね、剣を賜り、便宜を以て事に従うことを許された。平楽・潯州が相次いで破られ、桂林は甚だ危うくなった。総督侍郎朱盛濃は霊川に走り、巡按御史辜延泰は融県に走り、布政使朱盛𤂂・副使楊垂雲・桂林知府王惠卿以下は皆遁走し、ただ式耜と通判鄭国藩・県丞李世栄及び都司林応昌・李当瑞・沈煌が在城した。王は兵部右侍郎丁元曄に盛濃の代わりを、御史魯可藻に延泰の代わりを命じた。赴任せぬうちに大軍は三月に桂林に迫り、騎兵数十を以て文昌門に突入し、城楼に登って式耜の公署を見下ろした。式耜は急ぎ援将焦璉に拒戦を命じた。

初め、永明王が賊に捕らえられた時、璉は衆を率いて城を攀じ登り、械を破ってこれを出した。王は病んで歩けず、璉は王を背負って行った。王はこれにより璉に恩を感じ、靖江王を破った功により参将に任じた。この時、三月にわたって戦い守り、璉の功が最も多く、元曄・可藻も力を尽くした。式耜は身を矢石の中に立たせ、士卒と苦楽を共にした。雨が続いて城が崩れ、吏士は人色なく、式耜は悠然と城守を督し、故に人に叛く志はなかった。援兵が糧餉を求めて騒ぎ、式耜は庫を調べても足らず、妻の邵が簪珥を捐げてこれを補った。やがて璉の兵で主客が和せず、騒いで去り、城が幾度か危うく破られそうになった。時に陳邦彦らが広州を攻めたので、大軍は兵を引いて東に向かい、桂林は全きを得た。璉もまた陽朔及び平楽を回復し、陳邦伝もまた潯州から梧州を回復した。王は捷報を聞き、式耜を臨桂伯に、璉を新興伯に封じ、元曄らはそれぞれ進秩した。

式耜は初め王に全州に戻るよう請うたが、聞き入れられなかった。後に桂林に還るよう請うた。王はすでにこれを許したが、武岡が破られたため、王は靖州を経て柳州に走り、式耜は再び桂林に還るよう請うた。十一月、大軍が湖南から全州に迫ると、式耜は騰蛟と共にこれを退けた。後に梧州が再び破られ、王は象州におり、南寧に走ろうとした。大臣の力諫により、十二月に桂林に還った。

五年二月、南安侯郝永忠が桂林に駐屯し、城外の団練兵を憎んで水東十八村を尽く破り、殺戮数知れず、式耜と難を構えた。式耜が力を尽くして調停すると、永忠は興安に駐屯した。大軍の前鋒が霊川に至り、永忠は敗戦して桂林に奔り、王に即夜西走を請うた。式耜が力諫したが聞き入れられなかった。左右は皆速やかに車駕を進めるよう請い、式耜がまた諫めた。王は「卿はただ朕に社稷のために死なせたいだけであろう」と言った。式耜は涙を流して衣を濡らした。王が出発すると、永忠は直ちに大掠し、太常卿黄太元を捶殺した。式耜の家も掠奪され、家人が騰蛟の令箭を偽造して、ようやく城を出た。日中、趙印選ら諸営が霊川から到着し、また大掠し、城内城外は洗いざらいのようになった。永忠は柳州に走り、印選らは永寧に走った。翌日、式耜は城中の余燼を鎮め、遠近を安撫した。焦璉及び諸鎮の周金・湯兆佐・胡一青らが各々率いる所部が到着し、騰蛟の軍もまた至った。三月、大軍は桂林に変事あるを知り、襲来して北門に抵った。騰蛟が諸将を督して拒戦し、城は全きを得た。時に王は南寧に駐蹕し、式耜は使者を遣わして三宮の起居を慰めた。王は初めて式耜が無事であることを知り、涙を流した。

閏三月、広東の李成棟・江西の金声桓が皆大清に叛き、地を拠って帰順したので、式耜は王に桂林に還るよう請うた。王は成棟の請いに従い、広州に赴こうとした。式耜は成棟が王を挟んで専権を振るうことを、劉承胤の事の如く慮り、力諫したので、肇慶に駐蹕した。十一月、永州・宝慶・衡州が共に回復した。式耜は機会乗ずべきとし、王に桂林に還り楚に出る計を図るよう請うたが、容れられなかった。慶国公陳邦伝が潯州を守り、自ら広西を世守すると称し、黔国公の例の如くせんとした。式耜は特に上疏してこれを弾劾し、時に朝廷内外に争う者多かったので、邦伝は止めた。広西巡撫魯可藻が自ら巡撫両広と署銜したが、式耜もまた上疏してこれを駁した。式耜は外に在りながら、政に欠けることがあれば必ず疏を以て諫めた。嘗て「臣は主上と患難を共にし、休戚を同じくし、他の臣とは異なります。一切の大政は、自ら聞き与かるべきです」と言った。王はこれを褒めて容れた。而してこの時成棟の子元胤が朝政を専らにし、式耜を敬うを知り、袁彭年・丁時魁・金堡らは争って相倚り附いた。六年正月、時魁らが朱天麟を逐い、何吾騶が首輔となることを欲せず、式耜を召して入直させ、文淵閣の印をこれに与えたが、式耜は終に入らなかった。未だ幾ばくもせず、騰蛟・声桓・成棟が相次いで敗死し、国勢は大いに危うくなった。朝士はまさに党を植えて相争い、式耜はこれを禁じることができなかった。

七年正月、南雄が破られた。王は懼れて梧州に走った。諸大臣が時魁らを弾劾して獄に下し、式耜は七度上疏して論救した。胡執恭が孫可望を擅封したことについて、式耜は上疏してこれを斬るよう請うた。皆容れられなかった。九月、全州が破られた。開国公趙印選が桂林に居り、衛国公胡一青が榕江を守り、寧遠伯王永祚と共に皆懼れて出兵せず、大軍は遂に厳関に入った。十月、一青・永祚が桂林に入って糧餉を分け取り、榕江には戍兵なく、大軍はますます深く侵入した。十一月五日、式耜は印選に出撃を檄したが、肯じて行かず、再びこれを促すと、家眷を尽くして逃げ去った。一青及び武陵侯楊国棟・綏寧伯蒲纓・寧武伯馬養麟もまた逃げ去った。永祚は迎えて降り、城中に一兵もいなかった。式耜は端坐して府中にあり、家人もまた散った。部将戚良勛が式耜に上馬して速やかに走るよう請うたが、式耜は堅く聞かず、叱って退けた。やがて総督張同敞が至り、共に死ぬことを誓い、乃ち相対して酒を飲み、一老兵が侍った。中軍徐高を召して勅印を付し、馳せて王に送ることを託した。この夕、両人は燭を秉り危坐した。黎明、数騎が至った。式耜は「吾ら両人は死を待つこと久しい」と言い、遂にこれと共に行き、至ると地に踞坐した。降るよう諭されたが聞かず、民舎に幽閉された。両人は日々詩を賦して唱和し、百余首を得た。閏十一月十七日、刑に就かんとする時、天は大いに雷電し、空中に三度震撃し、遠近これを異と称し、遂に同敞と共に死んだ。同敞は大学士張居正の曾孫、事は『居正伝』に見える。

時に桂林で殉難した者に光禄少卿汪皞が水に投じて死んだ。平楽が破られた時、守将鎮西将軍朱旻如は自剄した。

周震

周震という者あり、中書舎人に官し、全州に住み、慷慨として気節を尚び、武岡が失われ全州が危うくなると、震は文武の将吏を邀えて神前に盟し、誓って死守した。城守の事儀を条陳し、これを留守瞿式耜に上った。式耜は直ちに題して御史とし、全州軍を監させた。未だ幾ばくもせず、郝永忠・盧鼎が全州から撤兵して桂林に還った。全州を守る諸将は城を挙げて降ることを議し、震は力諫して不可としたが、衆は怒ってこれを殺し、全州は遂に失われた。

賛に曰く、何騰蛟・瞿式耜は崎嶇たる危難の中にあって、介然として艱貞を以て自ら守る。その施設経画は、未だ一たびその効を見るに至らずと雖も、要はまた時勢の然らしむる所なり。その鞠躬盡瘁の操りに於いては、少しも虧損する所なく、固より是を以て訾議すべきに非ず。夫れ節義は必ず窮して後に見る、二人の如く力を竭くして死に致し、二心あること無きは、所謂百折して回らざる者なり。明代二百七十余年養士の報いは、其れ斯れに在るか。其れ斯れに在るか。