○呂大器 文安之 樊一蘅(附 范文光 詹天顏) 吳炳(附 侯偉時) 王錫袞 堵胤錫 嚴起恒 朱天麟(附 張孝起) 楊畏知 吳貞毓(附 高勣等)
呂大器
十四年、右僉都御史に擢てられ、甘肅を巡撫す。総兵官柴時華の不法を弾劾し、その職を解き、直ちに副将王世寵を遣わしてこれに代えしむ。時華、西部及び土魯番に兵を乞いて変を為さんとす。大器、世寵に命じて時華及び西部を討ち破らしむ。時華自ら焚死す。塞外の爾叠尼、黄台吉等、衆を擁して賞を乞い、粛州を犯さんと謀る。守臣これを拒ぎ走らす。大器、賞犒の名を仮り、飲馬泉に毒し、その衆を殺すこと算無し。また総兵官馬爌に命じ、副将世寵等を督して乱を為す群番を討たしめ、七百余級を斬首し、三十八族を撫して還る。またその余党を撃破す。西陲ほぼ定まる。
十五年六月、兵部添註右侍郎に擢る。大器は才を負い、性剛躁にして、事を避くるに善し。天下多故なるを見て、軍旅の任に当たるを懼れ、力辞し、且つ吏科に掲を投じ、己が酒色財を好むを言い、必ず用うべからずとす。帝、趣して京に入るを令すも、詭り疾を称して至らず。厳旨切責すれども亦至らず。所司に察して奏すを命ず。明年三月に至り、本官を以て右僉都御史を兼ね、保定・山東・河北軍務を総督すべしと命ず。時に畿輔は未だ厳を解かず、大器及び諸将和応薦・張汝行、馳せて順義の牛欄山を扼す。総督趙光抃、諸鎮の師を集めて螺山に大戦し、応薦陣没し、他の将も多く敗る。大器の部は事を失わず、俸一等を増す。
五月、保定の警息むを以て、総督官を罷め、特に関西・湖広・応天・安慶総督を設け、九江に駐し、大器これを任ず。湖北の地は既に失われ、武昌も亦陥ち、左良玉は九江に駐し、疾を称して進まず。侯恂の故を以て大器の己を図るを疑い、語は良玉伝に具す。大器、榻前に詣でて慰労し、疑い稍々釈る。而して張献忠、湖南を大いに躪り、兵を分かち袁州・吉安を陥す。大器急ぎ部将及び良玉の軍を遣わし連ねてこれを樟樹鎮に破り、峡江・永新の二郡皆復す。已にして建昌・撫州陥つ。良玉・大器和せず、兵私闘し、南昌の関廂を焚く。廷議、因って大器を南京兵部右侍郎に改め、袁継咸を以て代えしむ。
十七年四月、京師陥落の報至り、南京の大臣君を立てんと議す。大器は銭謙益・雷縯祚の言を主とし、潞王を立てんとす。議未だ定まらずして馬士英及び劉澤清等の諸将、福王を擁して至る。福王立つ。大器を吏部左侍郎に遷す。大器は異議に絀れ、自ら危うきを以て、乃ち上疏して士英を劾す。その兵を擁して朝に入り、政地に留まり、先皇の手定せる逆案を翻し、阮大鋮を中樞に躋さんと欲す。その子は銅臭を以て都督と為り、女弟の夫は未だ行陣を履行せずして総戎を授かり、姻婭の越其傑・田仰・楊文驄は先朝の罪人にして、尽く膴仕に登り、名器を乱す。「夫れ呉甡・鄭三俊、臣は一事も失わざるとは謂わざるも、端方諒直にして、終に海内正人の帰と為る。士英・大鋮、臣は一技も長ならざるとは謂わざるも、奸回邪慝にして、終に宗社無窮の禍と為る」。疏入り、和衷体国を以てこれに答う。
未だ幾ばくもせず、澤清朝に入り、大器・縯祚が異図を懐くを劾す。大器遂に休を乞いて去り、手書して監国告廟の文を内閣に送り、他無きを明らかにす。士英憾み未だ已まず、太常少卿李沾にこれを劾せしむ。遂に大器の籍を削り、復た法司に逮治せしむ。蜀地尽く失われ、蹤跡すべき無きを以て止む。大器既に去り、沾超擢して左都御史と為る。謙益も亦士英・大鋮に附し、礼部尚書と為るを得。独り縯祚は死を論ぜらる。
明年、唐王召して兵部尚書兼東閣大学士と為す。道梗え、久しくして至る。汀州失われ、広東に奔り、丁魁楚等と永明王を擁して監国し、原官を以て兵部事を兼掌せしむ。久しくして少傅に進み、西南諸軍を尽く督し、王応熊に代わり、剣を賜い、便宜に事を行わしむ。涪州に至り、将軍李占春と深く相結ぶ。他の将楊展・于大海・胡雲風・袁韜・武大定・譚弘・譚詣・譚文以下、皆大器の約束を受く。宗室朱容藩、自ら天下兵馬副元帥と称し、夔州に拠る。大器、占春・大海・雲風に檄して容藩を討ち殺さしむ。大器、思南に至り疾を得、都勻に次いで卒す。王、文肅と謚す。
文安之
福王の時、起して詹事と為す。唐王復た召して礼部尚書に拝す。安之方に兵戈の間を転側し、皆赴かず。永明王、瞿式耜の薦を以て、王錫袞と並び東閣大学士に拝せらるも、亦赴かず。順治七年六月、安之王に梧州に謁す。安之は操を敦雅にし、素より宦情淡く、国変に遭い、用世の意を絶つ。是に至り国勢愈々危うきを見て、慨然として起ちてこれを扶けんと思い、乃ち職に就く。時に厳起恒首輔と為り、王化澄・朱天麟これに次ぐ。起恒安之を譲りて自らその下に処る。
孫可望再び使を遣わし秦王の封を乞う。安之これを与えずして持す。その後桂林破られ、王南寧に奔る。大兵日々迫り、雲南又可望に拠られ、往くべからず。安之、川中の諸鎮兵尚ほ強きを念い、これを結び、共に王室を奨めんと欲し、乃ち自ら督師を請い、諸鎮に封爵を加う。王これに従い、安之に太子太保兼吏・兵二部尚書を加え、川・湖諸処の軍務を総督し、剣を賜い、便宜に事を行わしむ。諸将王光興・郝永忠・劉体仁・袁宗第・李来亨・王友進・塔天宝・馬雲翔・郝珍・李復栄・譚弘・譚詣・譚文・党守素等を公侯の爵に進め、即ち安之に勅印を賫して行かしむ。可望聞きてこれを悪み、又素より前の封議を阻みしを銜み、兵を遣わし都勻に伺い、安之を邀え止め、光興等の勅印を追い奪わしむ。数ヶ月留め、乃ち湖広に入るを令す。安之遠く客として他郷にあり、帰る所無く、復た貴州に赴き、将に王に安龍に謁せんとす。可望罪を坐して、これを畢節衛に戍らしむ。
先に、可望は六部・翰林等の官を設けようとしたが、人がその僭越を議することを慮り、範鑛・馬兆義・任僎・萬年策を吏・戸・礼・兵尚書とし、併せて行営の号を加えた。後にまた程源をもって年策に代えた。而して僎が最も寵愛され、方於宣と共にしばしば進位を勧めたので、可望は王が黔に入るのを待ってこれを議するよう命じた。王は久しく安龍に駐在し、可望は遂に自ら内閣六部等の官を設け、文安之を東閣大学士とした。安之はこれを用いず、久しくして川東に走り、劉体仁に依って居住した。
李赤心・高必正等は久しく広西の賓州・横州・南寧の間に竄匿していた。赤心が死ぬと、養子の来亨がその衆を代わりに率い、必正を主に推した。必正もまた死に、その衆は食糧が尽き、且つ大兵の逼迫を畏れ、衆を率いて川東に走り、川・湖の間に分かれて拠り、田を耕して自給した。川中の旧将王光興・譚弘等がこれに附き、衆はなお数十万であった。
順治十六年正月、王は永昌に奔った。安之は体仁・宗第・来亨等の十六営を率いて水路より重慶を襲撃した。時に譚弘・譚詣が譚文を殺し、諸将は服さなかった。安之は弘・詣を討たんとし、弘・詣は懼れ、率いる所部をもって大兵に降り、諸鎮は遂に散じた。時に王は既に緬甸に入り、地は尽く失われ、安之は間もなく鬱々として卒した。
樊一蘅
初め、乾が重慶を回復すると、賊将劉廷挙は走り、献忠に救いを求めた。献忠は養子劉文秀に命じて重慶を攻めさせ、水陸並進した。副将曾英は参政劉麟長と共に遵義より至り、部将於大海・李占春・張天相等と挟撃し、賊兵数万を破った。英の威名は大いに振るい、諸別将は皆これに属し、兵二十余万、一蘅の節制を奉じた。
楊展が既に叙州を回復すると、賊将馮双礼が来寇し、戦う毎に敗れ、孫可望が大衆を以てこれを援けた。江を隔てて一月持ちこたえたが、糧尽き、一蘅は退いて古藺州に屯し、展は退いて江津に屯した。賊は退いて朱化龍及び僉事蔡肱明を羊子嶺で遮断したが、化龍は番騎数百を率いて賊兵を沖き、賊は驚潰し、死者は山谷に満ちた。化龍は軍が孤であることを以て、旧地を守って還った。他の将はまた連ねて賊を摩泥・滴水で敗った。
一蘅は乃ち展・応試に命じて嘉定・邛州・眉州を取らせ、故総兵官賈連登及びその中軍楊維棟に資陽・簡州を取らせ、天錫・高明佐に瀘州を取らせ、占春・大海に忠州・涪州を守らせた。他の城邑を拠り征調を奉ずる者は、洪雅・雅州では曹勛及び監軍副使範文光、松潘・茂州では監軍僉事詹天顔、夔州・万県では譚弘・譚詣であった。一蘅は乃ち納溪に移駐し、中に在って調度し、督師応熊と瀘州で会し、諸路に檄を飛ばして期日を刻んで併進させた。献忠は頗る懼れ、境内の民を尽く屠り、金銀を江中に沈め、宮室を大いに焚き、火は連月して滅せず、成都を棄てて川北に走らんとした。
明年春、展は上川南の地を尽く取り、嘉定に屯し、勛等と相声援した。而して応熊及び王祥は遵義に在り、乾・英は重慶に在り、皆重兵を宿していた。賊勢は日々に蹙まり、惟だ保寧・順慶のみが賊将劉進忠の守るところであり、進忠は又数敗した。献忠は怒り、孫可望・劉文秀・王尚礼・狄三品・王復臣等を遣わして川南の郡県を攻めさせた。応熊・一蘅は急ぎ展・天錫・龍・応試及び顧存志・莫宗文・張登貴に命じて連営して犍為・叙州に在りてこれを防がせた。賊は連戦して利あらず、英・祥は間を乗じて成都に趨り、献忠は立って可望等を召還した。又、大清兵が蜀境に入り、劉進忠が降ったと聞き、大いに懼れた。七月、成都を棄てて順慶に走り、尋いで西充の鳳凰山に入った。十二月に至り、大清兵が奄至し、献忠を射殺し、賊の降る者及び敗死する者二三十万。可望等は残卒を率いて南に奔り、驟然として重慶に至った。英は不意に出で、戦いに敗れ、江に死した。賊は遂に綦江を陥とし、応熊は畢節衛に避けた。一月余りして、賊は遵義を陥とし、貴州に入った。大清兵は重慶に追い至り、巡撫乾は敗死し、遂に遵義に入った。糧餉の乏しきを以て、師を旋した。王祥等はまた保寧・順慶の二郡を取った。一蘅は再び江上に駐し、全蜀を収復する計を為し、乃ち善後事宜及び諸将の功状を永明王に列上した。一蘅を戸部・兵部二尚書に拝し、太子太傅を加え、祥・展・天錫等は爵を進められ差等があった。時に応熊は既に卒し、而して宗室朱容藩・故偏沅巡撫李乾德は共に総制として至り、楊喬然・江爾文は巡撫として至り、各自署置し、官は民より多かった。諸将袁韜は重慶を拠り、於大海は雲陽を拠り、李占春は涪州を拠り、譚詣は巫山を拠り、譚文は万県を拠り、譚弘は天字城を拠り、侯天錫は永寧を拠り、馬応試は蘆衛を拠り、王祥は遵義を拠り、楊展は嘉定を拠り、朱化龍・曹勛は仍って故地を拠った。摇・黄の諸家は夔州の夾江両岸を拠り、而して李自成の余孽李赤心等十三家も建始県に在った。一蘅の令は行われず、叙州一郡を保つのみであった。
順治五年、容藩は自ら楚世子を称し、行臺を夔州に建て、制を称して封拝した。時に喬然は既に総督に進み、而して範文光・詹天顔は川南・北を巡撫し、呂大器は大学士として督師に来たが、皆容藩を悪み、これを誅せんと謀った。六年春、容藩は遂に占春に敗れ、雲陽に走り死した。初め、展と祥は隙があり、展は子の璟新を遣わしてこれを攻めさせた。璟新は先に応試を襲撃して殺し、祥と戦って敗れ帰った。乾德は展の富を利し、韜・大定を説いて展を殺し、その財を分かたせた。一蘅は乾德を誚り、諸鎮もまた皆憤り、離心があった。
秋九月、孫可望が白文選を遣わして袁韜を攻撃し殺害し、その兵二十余万を降伏させ、遵義・重慶をことごとく得た。一蘅はますます孤立した。七年秋、可望はまた劉文秀を使わして武大定の軍を大いに破り、長駆して嘉定に至った。大定・韜はともに降伏し、乾德は水に投身して死んだ。文秀の軍はさらに東進し、譚弘・譚詣・譚文はことごとく降伏した。占春・大海は大清に降った。明年正月、文秀は雲南に帰還し、文選を留めて嘉定を守らせ、劉鎮国を留めて雅州を守らせた。三月、大清の軍が南征し、文選・鎮国は曹勛を擁して逃走し、文光・天顔・化龍は相次いで死んだ。一蘅はすでに職を辞し、山中に避難していた。九月に至り、また病にかかって死んだ。文武の将吏はことごとく亡んだ。
范文光
范文光は内江の人である。天啓初年、郷挙に及第した。崇禎年間、工部主事、南京戸部員外郎を歴任し、告帰した。十七年、張献忠が蜀を乱すと、文光は邛州の挙人劉道貞、蘆山の挙人程翔風、雅州の諸生傅元修・洪其仁らとともに義兵を挙げ、鎮国将軍朱平檙を奉じて蜀王とし、黎州参将曹勛を推して副総兵とし、諸将を統率させ、文光は副使として監軍となり、道貞らは官職を授けられた。勛は賊を雅州龍鸛山で破り、城下まで追撃したが、かえって敗れ、小関山に退いて守った。十一月、文光は参将黎神武を督いて雅州を攻撃したが、陥落させられなかった。明年九月、神武は雅州の土・漢兵を合わせて再び賊将艾能奇を雅州で撃ったが、敗北した。偽監司郝孟旋が錦州を守っていたが、文光・翔鳳は間使を遣わしてこれを招き、孟旋は雅州を守る賊を襲撃して殺し、城をもって帰順したので、文光らは入って居住した。献忠が死ぬと、文光は従前のように境域を保全した。永明王は右僉都御史に任じ、川南を巡撫させ、安綿道詹天顔を以て川北を巡撫させた。総督李乾德が楊展を殺害したので、文光はこれを憎み、山中に入って職務を執らなかった。大清の軍が嘉定を陥落させると、文光は詩一章を賦し、仰薬して死んだ。天顔は兵敗れて捕らえられ、また死んだ。天顔は龍巖の人で、選貢生から出仕した。
呉炳
呉炳は宜興の人である。万暦末年進士。蒲圻知県に任じられた。崇禎年間、江西提学副使を歴任した。江西の地がことごとく失われると、広東に流寓した。永明王は兵部右侍郎に抜擢し、桂林に従駕し、本官のまま東閣大学士を兼ね、引き続き部の事務を掌らせた。また武岡に従駕した。大軍が至ると、王は倉卒に靖州に奔り、炳に王太子を扈従させて城歩に走らせ、吏部主事侯偉時がこれに従った。到着すると、城はすでに大軍に占拠されており、捕らえられて衡州に送られた。炳は食を絶ち、湘山寺で自尽し、偉時もまた死んだ。
偉時は公安の人である。崇禎年間進士、吏部考功主事を歴任し、罷官した。この時、官に補されて数か月で、難に遭った。
王錫袞
欲楫が朝廷に帰還すると、錫袞は吏部尚書に転じた。李日宣が獄に下されると、ついに部の事務を掌った。帝の性格は純孝で、かつて秋の夜に聖母孝純太后を思い、ついに終身菜食しようとした。錫袞が疏を奉って諫めると、帝はその規諫の中に愛を寓したことを嘉し、官秩一等を進めた。まもなく部務を解かれ、講筵に直した。十六年、憂により帰郷した。
唐王が立つと、礼部尚書兼東閣大学士に拝された。永明王が立つと、前の任命を申し伝えた。いずれも赴任しなかった。土酋沙定洲が乱を起こし、会城に連行し、錫袞の疏を偽って永明王に上奏し、定洲は忠勇であるとして、黔国公に代わって雲南を鎮守するよう請うた。疏が発送された後、草稿を見せた。錫袞は大いに恨み、天に訴えて死を祈った。数日居住し、ついに卒去した。
堵胤錫
堵胤錫は字を仲緘といい、無錫の人である。崇禎十年進士。長沙知府を歴任した。山賊が安化・寧郷を掠奪し、官軍は数度敗れたが、胤錫は郷兵を督してこれを撃滅し、また醴陵の賊魁を殺し、ついに兵事に通じる名声を得た。十六年八月、賊が長沙を陥落させた。胤錫が朝覲から帰還すると、賊はすでに退去していた。明年六月、福王は湖広参政に任じ、武昌・黄州・漢陽を分守させた。左良玉が兵を挙げると、総督何騰蛟は長沙に奔り、湖北巡撫の事務を摂行させ、常徳に駐屯させた。唐王が立つと、右副都御史に拝し、実授して巡撫とした。
李自成が死ぬと、その衆は兄の子の錦を主に擁し、自成の妻高氏および高氏の弟一功を奉じて、急に澧州に至った。三十万の衆を擁し、降伏を乞うと申し出て、遠近大いに震動した。胤錫はこれを懐柔することを議し、騰蛟も馳檄を送った。そこで自らその営に入り、誠意をもって慰撫し、詔を称して高氏に命服を賜い、錦・一功に蟒玉金銀器を賜い、その軍を犒労すると、皆躍り上がって拝謝した。そこで軍中で宴を開き、忠孝の大義を数千言にわたって導いた。明日、高氏が出て拝礼し、錦に言うには、「堵公は天人である、汝は背いてはならない」と。別部の田見秀・劉汝魁らもまた来帰した。唐王は大いに喜び、胤錫に兵部右侍郎兼右僉都御史を加え、その軍を総制させ、手書を下して労をねぎらった。錦に御営前部左軍を、一功に右軍を授け、ともに龍虎将軍印を掛け、列侯に封じた。錦に赤心、一功に必正の名を賜い、他の部にも賞賜に差等があり、その営を忠貞と号した。高氏を貞義夫人に封じ、珠冠彩幣を賜い、官司に牌坊を建立させ、「淑賛中興」と題させた。胤錫はついに赤心らと深く結び、これに頼って自強した。しかし赤心の書疏はなお自成を先帝と称し、高氏を太后と称したという。
やがて袁宗第・劉体仁ら、先に騰蛟に帰順した諸営も、赤心と合流するよう導かれ、衆はますます盛んになった。胤錫は糧秣の継続が困難であるとして、江北に分散して食糧を得るよう命じた。明年正月、騰蛟が大挙し、諸軍に岳州に集合するよう期した。ただ赤心だけが先に到着し、他は逗留して、ついに進まなかった。永明王が立つと、胤錫を兵部尚書に進め、総制は従前の通りとした。
順治四年、永明王は赤心らに命じて荊州を攻撃させた。一月余りして、大清の兵が荊州を救援した。赤心らは大敗し、徒歩で蜀に入り、数日間食を得られなかった。そこで施州衛に散り入り、湖南で食を求める旨を声言した。時に王は武岡におり、劉承胤は赤心に併呑されることを恐れ、胤錫でなければ防げぬと謀り、胤錫を東閣大学士に加え、光化伯に封じ、剣を賜い、便宜を以て事に従うことを許した。胤錫は上疏して空の勅書を与えられ印を鋳造し、秦中で挙兵する者に頒賜することを請うたが、時にその専断を頗る議論した。承胤は騰蛟を殺そうとし、胤錫はその罪を弾劾した。
八月、大兵は武岡及び宝慶・常徳・辰・沅を破り、胤錫は永順土司に走った。やがて貴陽に赴き、遵義に至り、皮熊王祥に師を乞うた。また施州に入り、忠貞営の軍を請うた。時に楚の宗人朱容藩が偽って監国天下兵馬副元帥を称し、擅に夔州に居り、御史銭邦芑が檄を伝えてこれを討とうとした。五年正月、胤錫は容藩に会い、大義を以て責め、利害を諭してその党を散じた。
未だ幾ばくもせず、金声桓・李成棟が我が大清に叛き、江西・広東を以て永明王に附した。ここにおいて馬進忠・王進才・曹志建・李赤心・高必正らが間を乗じて常徳・桃源・澧州・臨武・藍山・道州・靖州・荊門・宜城の諸州県を取った。進忠・赤心・必正は皆公に封ぜられた。胤錫は進忠と不和があり、赤心・必正に命じて進忠の取った常徳を争わせた。進忠は廬舎を尽く焼き払って去った。赤心らは空城を棄てて東に引き、至る所の守将は皆営を焼き城を棄てて走り、湖南の既に回復した州県は一空となった。胤錫は乃ち赤心らを率いて湘潭に入り、騰蛟と会した。騰蛟は胤錫に江西に向かわせ、自らは進忠らを率いて長沙に向かった。六年正月、兵が長沙に逼った時、騰蛟は湘潭で捕らえられ、諸軍は遂に散った。赤心らは広西に走り、沿道衡・永・郴・桂を掠めた。胤錫は胡一青と衡州を守ったが、戦いに敗れて桂陽に走った。
初め、赤心らが広西に入った時、龍虎関の守将曹志建はその淫掠を憎み、併せて胤錫を憎んだ。胤錫はこれを知らなかった。或る者が志建に説き、胤錫が忠貞営を召して志建を図ろうとしていると。志建は夜に兵を発して胤錫を囲み、従卒千余人を殺した。胤錫及びその子は富川の瑶峒に逃げ入った。志建が激しく索めたので、瑶は密かに胤錫を監軍僉事何図復に送り、間関して梧州に達した。時に王は大臣厳起恒・劉湘客を遣わして忠貞営を安輯させた。梧州に至ると赤心らは既に賓・横二州に走っており、乃ち胤錫を載せて肇慶で王に謁した。志建は怒りを図復に遷し、誘い出して殺し、一家ことごとく尽くした。
胤錫が肇慶に至った時、馬吉翔及び李元胤・袁彭年らは皆権柄を専らにし、各々党を樹てていた。胤錫は乃ち吉翔に歓を結び、赤心らを激して東来させ、元胤と難くせようとした。瞿式耜に書を移し、元胤を離間せんと欲し、王に密勅ありと托言し、己と式耜に元胤を図らせた。王は頗る悦ばず。元胤の党丁時魁・金堡は又その師を喪い地を失ったことを論じ、乃ち兵馬を総統させ、移って梧州に駐屯させた。胤錫は赤心らを恃むに足らずとし、遥かに孫可望を結んで強援とせんと欲し、王命を矯って平遼王に封じた。胤錫はやがて潯州に至り、自ら恨んで発病し、十一月に卒した。王は胤錫を潯国公に贈り、文忠と諡した。
厳起恒
厳起恒は、浙江山陰の人である。崇禎四年の進士。広州知府を歴任し、衡永兵備副使に遷った。十六年、張献忠が湖南を躙ると、吏民は悉く逃げ竄した。起恒は独り永州を堅守した。賊もまた至らなかった。唐王の時、戸部右侍郎に抜擢され、湖南銭法を総督した。永明王が立つと、兼ねて湖南軍餉を督することを命じた。順治四年、王が武岡に駐ると、起恒を礼部尚書兼東閣大学士に拝し、仍って銭法を領させた。王が靖州に走ると、起恒は従い及ばず、万村に避難した。後に王が柳州に在るを知り、間道を以て往き従った。従って桂林に返り、又従って柳州・南寧に至った。李成棟が大清に叛き、広東を以て王に附した。起恒は王に従って肇慶に至り、王化澄・朱天麟と共に入直した。間もなく、化澄・天麟は相継いで罷免された。黄士俊が何吾騶に継いで首輔となり、起恒はその次となった。
時に朝政は成棟の子元胤に決し、都御史袁彭年、少詹事劉湘客、給事中丁時魁・金堡・蒙正発の五人がこれに附き、権を攬り党を植え、人はこれを五虎と目した。起恒はその間に居て、匡正する所あらしめ得なかった。然れども起恒は廉潔で、事に遇って持平し、文安侯馬吉翔・司礼中官龐天寿と共に患難を久しくし、忤う所無かった。而して五虎は起恒を憾み、競って邪党と誹謗した。王が梧州に在った時、尚書呉貞毓ら十四人が合疏して五虎を攻撃し、湘客らを獄に下し、之を死に置かんとした。起恒は顧みて王の舟に跪き力救し、貞毓らは併せてこれを憎み、乃ち化澄を召還することを請い、而して合して起恒を攻撃した。給事中雷徳復はその二十余の罪を弾劾し、厳嵩に比した。王は悦ばず、徳復の官を奪った。起恒は力求めて罷免を請い、王は挽留したが得ず、舟を放って遂に去った。
時に鄖国公高必正が入朝して王に覲した。貞毓はその力を藉りて起恒を傾けんと欲し、言う、「朝事は五虎に壊され、之を主る者は起恒なり。公入見して、君側の奸を除くことを請え、数言で決せん」。必正はこれを許諾した。起恒のために解する者あり、必正に謂う、「五虎は厳公を攻めしに、厳公は反って力めて五虎を救えり。此れ長者なり、奈何ぞ以て奸となすや」。必正は王に会い、乃ち力言して起恒は虚公にして任に堪え、手勅を請いて邀え共に還らんと。文安之が入朝すると、起恒は譲って首輔とした。桂林が破られ、王に従って南寧に奔った。
先に、孫可望が雲南に拠り、使を遣わして王に封ぜられることを乞うた。天麟は許すことを議し、起恒は不可を堅持した。後に胡執恭が詔を矯って秦王に封じ、可望はその偽りを知り、使を遣わして真の封を求めた。起恒は又不可を堅持し、可望は大いに怒った。ここに至り、可望は王の播遷を知り、その将賀九儀・張勝らに勁卒五千を率いさせ、王を迎えて南寧に至らしめ、直ちに起恒の舟に上り、怒目して臂を攘ぎ、王の封が「秦」であるか否かを問うた。起恒曰く、「君遠く主上を迎えし功甚だ偉なり、朝廷自ら隆恩有り。若し専ら此の事を問うは、是れ封を挟むなり、主上を迎うるに非ざるなり」。九儀怒り、格殺し、屍を江に投じた。遂に給事中劉堯珍・呉霖・張載述を殺し、兵部尚書楊鼎和を昆侖関で追殺した。皆封議を阻んだ故である。時は順治八年二月であった。起恒既に死し、屍は十余里流れ、沙渚の間に泊した。虎之を負って崖に登り、山麓に葬った。
朱天麟
順治四年、永明王は武岡に在り、礼部侍郎として召された。天麟は上疏して王自ら将となり、諸鎮を率いて事機を坐して失わざるを請うた。辞して至らず。明年、王は南寧に在り、礼部尚書に擢げられ、尋いで東閣大学士を拝す。天麟は親しく士兵を率いて江右を略するを請うたが、聴かれず、乃ち趨って王に謁す。時に李成棟が大清に反し、王に従って潯州に至る。而して潯帥陳邦傳が世々広西に居ることを黔国公の故事の如く請うたが、天麟は執って允さず。邦傳怒り、慶国公の印・尚方剣を天麟の舟中に擲ち、必ず得んことを要す。仍って執って允さず。已にして成棟が王を奉じて肇慶に駐す。天麟は機乗るべしと謂い、復た王に亟に親征の詔を頒ち、中原を規取するを勧む。王は優詔を以て之に答う。
是の時に当たり、朝臣各々党を樹つ。成棟に従って至る者は、曹曄・耿獻忠・洪天擢・潘曾緯・毛毓祥・李綺、自ら反正の功を誇り、気朝士を凌ぐ。広西より扈従して至る者は、天麟及び厳起恒・王化澄・晏清・呉貞毓・呉其雷・洪士彭・雷徳復・尹三聘・許兆進・張孝起、旧臣を恃み、曹・耿等が嘗て異姓に事えしを詆す。久しくして復た呉・楚の両党に分かる。呉を主とする者は、天麟・孝起・貞毓・李用楫・堵胤錫・王化澄・万翺・程源・郭之奇、皆内に馬吉翔と結び、外に陳邦傳と結ぶ。楚を主とする者は、袁彭年・丁時魁・蒙正發・劉湘客・金堡、皆外に瞿式耜と結び、内に李元胤と結ぶ。元胤は、恵国公成棟の子、錦衣指揮使となり、進んで南陽伯に封ぜられ、大権を握る。彭年等は之を心腹と倚り、勢甚だ張る。
彭年嘗て王の前に於いて事を論じ、語遜らず。王は君臣の義を以て責む。彭年勃然として曰く、「儻し向者恵国が五千の鉄騎を以て、鼓行して西せば、君臣の義安くにか在らんや」と。王色を変じ、大いに之を悪む。彭年等は吉翔・邦傳を攻めて去らんことを謀り、権を独り擅にせんとす。而して堡は言路に居り、鋒気有り、乃ち疏を上して八事を陳べ、慶国公邦傳の十たる斬るべきを劾し、文安侯吉翔・司礼中官龐天壽・大学士起恒・化澄も亦た与かる。起恒・化澄は去らんことを乞う。天麟は奏して之を留む。堡と給事中時魁等は復た相継いで起恒・吉翔・天壽を劾して已むこと無し。太后は天麟を召して面諭し、武岡の危難、吉翔の左右に頼る有り、令して諭を擬して厳に堡等を責めしむ。天麟は両解を為し、卒に嘗て言者を罪せず。而して彭年輩の怒止まず。王は群臣の水火甚だしきを知り、令して太廟に於いて盟せしむ。然れども党益々固くして解く能わず。
明年春、邦傳は堡が官臨清に在りて嘗て流賊に降り、其の職を受けしを訐り、且つ堡が己が為に監軍たるを請う。天麟因って諭を擬して堡を譏る。堡大いに憤る。時魁乃ち言官十六人を鼓して閣に詣り天麟を詆り、殿陛に登りて大いに嘩ぎ、官を棄て印を擲ちて出づ。王方に後殿に坐し、侍臣と事を論ずるに、大いに驚き、両手戦い交え、茶衣に傾く。急ぎ天麟の擬する所を取って還し而して罷む。天麟遂に位を辞す。王は慰留再三すれども、可からず。陛辞に、頭を叩きて泣く。王も亦た泣いて曰く、「卿去らば、余益々孤し」と。
初め、時魁等は擬する所は起恒の意に出づと謂い、署に入りて之を毆らんと欲す。是の日、起恒は入らず、而して天麟独り自ら承る。遂に怒りを天麟に移し、之を逐いて去らしむ。天麟は慶遠に移り居る。化澄は貪鄙にして物望無く、亦た時魁等に攻められ、冠服を砕きて辞して去る。王乃ち何吾騶・黄士俊を召して輔けしむ。未だ幾ばず、吾騶も亦た堡等に排されて去り、独り士俊・起恒在り。乃ち復た天麟を召すも、天麟至らず。堡等は既に三相を連逐し、益々横なり、毎に閣中に闌入し、閣臣に指意を授く。王已むを得ず、文華殿を正殿の旁に建て、閣臣をして侍坐して旨を擬せしめ、以て之を避く。堡は又た連ねて堵胤錫及び侍郎万翺・程源・郭之奇、尚書呉貞毓を劾す。貞毓等は之を排して去らんと欲すれども、元胤を援と為すを畏れ、発する敢えず。
七年春、王は梧州に赴く。元胤は肇慶に留まる。陳邦傳適び兵を遣わして入衛す。貞毓・之奇・翺・源乃ち諸の給事御史と合して彭年・湘客・時魁・堡・正發が朝政を把持し、上を罔きて私を行う罪を劾す。王は彭年が反正の功有りと謂い、議を免じ、堡等を獄に下す。堡は又た語を以て忌に触れ、時魁と並びて戍に謫せらる。湘客・正發は贖い配し臓を追う。王乃ち再び天麟を召す。天麟は疏を上して言う、「年来百爾構争し、尽く実事を壊す。昔宋高宗航海すと雖も、猶ほ退歩有り。今則何の地か退くべけん。奮然として自ら将となり、文武諸臣尽く甲冑を擐くべし。臣も亦た峒丁を抽き、土豪を択び、水手を募り、嶺北・湖南を経略し、六軍の倡たり。若し徒に票擬を責めて、以て政本を主持すと為さんは、今政本安くにか在らんや」と。
時に大兵益々逼る。孫可望は王の雲南に赴かんことを請う。初め、起恒は可望の封を持す。天麟及び化澄独り宜しく許すべしと謂う。及んで可望の使至るや、天麟は力を尽くして之に従わんことを請う。諸臣は起恒が殺されたる故を以て、皆不可とす。天麟乃ち命を受け左・右両江の土司を経略し、以て勤王の助と為す。兵未だ集まらず、大兵南寧に逼る。王は倉皇として出走す。天麟は病を扶けて之に従う。明年四月、広南に抵る。王は已に先に安龍に駐す。天麟は病劇しく、入覲する能わず、西阪村に卒す。
張孝起
張孝起は、呉江の人。郷に挙げられ、廉州推官を授かる。大兵至り、海濱に逼る。兵を挙げて恢復を謀る。戦い敗れて獲らる。妻妾俱に海に投じて死す。孝起は軍中に羈せらる。時に李成棟が大清に叛すに会い、孝起乃ち脱して去る。永明王は之を以て吏科給事中と為す。清真介直にして、流俗と伍せず。王梧州に至る。劉湘客・丁時魁・金堡・蒙正發は李元胤の援を失い、並びに職を辞す。王は報じて許し、孝起を以て時魁に代え、吏科の印を掌らしむ。俄かに廷臣と共に湘客等を排して去り、遂に其の党に疾まれる。高必正は湘客の郷人、之を尤も疾み、朝に怒罵す。王の為に解きて乃ち已む。久しくして、孝起を右僉都御史に擢げ、高・雷・廉・瓊の四府を巡撫せしむ。城破れ、走りて竜門島に避く。島破れ、執らる。食わずして七日にして死す。
楊畏知
楊畏知は宝鶏の人である。崇禎年間に、雲南副使を歴任し、金滄を分巡した。乙酉の秋、武定の土官吾必奎が反乱を起こし、禄豊・広通諸県及び楚雄府を相次いで陥落させた。畏知は兵を督して楚雄を回復し、その地に駐屯した。必奎は誅殺されたが、阿迷の土官沙定洲が続いて乱を起こし、雲南を占拠し、黔国公沐天波は楚雄に逃れた。巡撫呉兆元はこれを制することができず、鎮守雲南を奏請することを許諾した。定洲はそこで西進して天波を追い、畏知は天波に永昌へ逃れるよう説き、自らは楚雄で定洲を防いだ。定洲が到着すると、畏知はさらに彼を欺いて言った、「貴方が急ぐのは黔国公であろう、今はすでに西へ行った。貴方が永昌を平定して戻るまでには、朝廷の命令はすでに下っているはずであり、私は城を出て礼をもって会おう。今は順逆が分かれておらず、不義に屈することはできない。」定洲は天波を取り逃がすことを恐れ、盟約を結んで去った。兵を分けて大理・蒙化を陥落させた。畏知は隙を見て清野を行い城壁を修繕し、隣境の援兵を徴発すると、姚安・景東はいずれも呼応した。定洲はこれを聞き、永昌へは行かず、戻って楚雄を攻めたが、落とすことができなかった。畏知は賊の隙を窺い、たびたび出撃して、多くを殺傷した。賊はそこで引き上げ、石屏・寧州・習峨を攻めて、いずれも陥落させた。再び西進して楚雄を攻めたが、ついに落とすことができなかった。翌年、孫可望らが雲南に入ると、定洲は救援に戻り、大敗して阿迷に逃げ帰り、可望らはそこで会城を占拠した。
初め、唐王は畏知が賊に抵抗したと聞き、右僉都御史に進授し、雲南巡撫とし、巡撫呉兆元を総督とした。可望らが到着すると、畏知が同郷であるため、非常に重んじた。まもなく劉文秀とともに西略し、畏知は防戦して敗れ、水に投じて死なず、蹲って罵った。可望は馬から下りて慰めて言った、「公の名はかねてより聞いている。私は賊を討つために来たのであり、公が共に事を為し、明室を匡扶すれば、他意はない。」畏知は目をむいて彼を見て言った、「私を欺くのか。」可望は言った、「信じないなら、矢を折って誓おう。」畏知は言った、「本当ならば、私の三つの事に従え。一、偽りの西の年号を用いないこと、二、人を殺さないこと、三、家屋を焼かず、婦女を犯さないこと。」可望はすべて承諾した。そこで彼とともに楚雄に至り、大理諸郡を平定し、文秀を永昌に遣わして天波を迎え帰らせた。迤西八府が屠戮を免れたのは、畏知の力によるものである。
時に永明王はすでに肇慶で称号していたが、詔令は届かなかった。前御史臨安の任僎が可望を国主として尊び、干支で紀年し、興朝通宝銭を鋳造することを議した。畏知は非常に憤慨し、意見が合わないことがあると、手を打って罵った。可望はたびたび彼を殺そうとしたが、李定国・劉文秀が保護して免れた。可望は劉・李と同輩であったが、一朝にして自ら尊ぶと、二人はその下に立たなかった。肇慶に君主がおり、李錦・李成棟らがともに封爵を加えられていると聞き、朝命を得て王封を加えられれば、互いに牽制できると考え、使者を遣わして表を奉ることを議した。畏知ももとより主君を尊ぶことを主張していた。己丑の年、畏知及び永昌の故兵部郎中龔彜を肇慶に遣わして可望の表を進め、王封を請うたが、金堡らに阻まれた。畏知はそこで言った、「可望は権力を劉・李の上に出したいだけである。今、上公に進め、劉・李を侯爵に下げればよい。」そこで可望を景国公に封じ、名を朝宗と賜い、定国・文秀をともに列侯とすることを議した。大理卿趙昱を使者とし、畏知に兵部尚書を加え、彜に兵部侍郎を加え、同行させた。
時に堵胤錫はかつて空の勅書を賜り、便宜行事ができた。昱はそこで彼と謀り、命を偽って可望を平遼王に改封し、勅書を書き換えて赴いた。武康伯胡執恭なる者は、慶国公陳邦傳の中軍であり、泗城を守っていた。州は雲南と接しており、自ら可望と結びつこうとし、邦傳に言って、先に命を偽って可望を秦王に封じ、「その力を借りて李赤心を制することができる」と言った。邦傳はそこで金印を鋳造し「秦王之寶」とし、与えられた空の勅書に記入し、執恭に持たせて行かせた。可望は大いに喜び、郊外で出迎えた。まもなく畏知らが到着した。可望は驚いて受け入れず、言った、「私はすでに秦王に封じられている。」畏知は言った、「これは偽りである。」執恭もまた言った、「彼もまた偽りであり、封じられたのは実は景国公であり、勅書と印はもとよりある。」可望は怒り、勅使を辞退し、畏知及び執恭を獄に下し、使者を梧州に遣わして事情を問わせた。廷臣は初めて詔を偽ったことを知った。文安侯馬吉翔は可望を澄江王に封じることを請うたが、使者は「秦」でなければ復命できないと言った。大学士厳起恒は認めず、兵部侍郎楊鼎和がこれを助け、かつ献上された白金玉帯を退けることを請うた。時に鄖国公高必正らが入朝し、使者を召して言った、「本朝には異姓の王に封ずる例はない。我々は京師を破り、先帝を逼死させた滔天の大罪があり、恩赦を蒙っても、やはり公爵に止まっている。張氏が一隅を窃拠するのは、罪は確かに一等減じるが、上公に封ずれば足りる。どうして王爵を望むことができようか。今後は我々と心を同じくして国に報い、賊名を洗い流し、朝廷の弱さを欺いてはならない。我々両家の士馬は十分に対等である。」また可望に書を送り、言葉と道理は厳正であった。使者は唯々として退き、議はそこで止んだ。必正とは、李自成の妻の弟で、ともに京師を陥落させた者である。
可望は封を得られず、ますます怒った。その年の九月、自ら兵を率いて貴州に至った。十一月、大兵が広州・桂林を破り、王は南寧に逃れた。事態が急を告げ、編修劉襜を遣わして可望を冀王に封じたが、可望はやはり受け入れなかった。畏知は言った、「『秦』も『冀』も同じである。偽りがどうして真に及ぼうか。」可望は聞き入れなかった。定国らは可望に畏知を遣わして事を終わらせるよう勧め、可望はこれを許した。翌年二月、先に部将賀九儀・張勝・張明誌を南寧に遣わし、「秦」封を阻んだ者、起恒・鼎和及び給事中劉堯珍・呉霖・張載述を索めて殺させ、そこで真に可望を秦王に封じた。畏知はまもなく到着し、痛哭して自らを劾し、言葉は多く可望を侵した。そこで留めて東閣大学士とし、呉貞毓とともに政を補佐させた。可望はこれを聞いて怒り、人を遣わして貴陽に召し寄せ、面と向かって責め数えた。畏知は大いに憤り、頭上のかんざしを除いて可望を打ち、そこで殺害された。楚雄の人々は畏知の守城の功績により、祠を立てて祀った。
呉貞毓
呉貞毓は字を元声といい、宜興の人である。崇禎十六年の進士。唐王に仕えて吏部文選主事となった。事敗れ、永明王を擁立し、郎中に進んだ。王が全州に駐すると、太常少卿を加えられ、やはり選事を掌った。やがて吏部右侍郎に抜擢され、肇慶に従い、戸部尚書に拝された。広東・広西の会城が相次いで失陥し、王が潯州に移り、さらに南寧に移ると、貞毓はいずれも従った。貞毓は厳起恒とともに孫可望の秦王封を阻み、可望は起恒を殺したが、貞毓は使者として奉じていたため免れた。戻ると、東閣大学士に進み、起恒に代わった。可望は雲南から貴陽に移り、王を近くに移して、威を振るうために挟もうと議した。その将で塘報を掌る曹延生が貞毓を憎み、黔に移るべきでないと言った。
時に順治八年、大兵南征し、勢い日に迫る。王諸臣を召して議す。海濱に走りて李元胤に就かんと請う者有り、安南に入りて難を避けんと議する者有り、海を泛ぎて閩に抵り鄭成功に依らんと議する者有り。惟だ馬吉翔・龐天壽は可望と結び、堅く黔に赴かんことを主とす。貞毓は前に封議を阻みしが故に、且つ延生の言に入り、敢えて決せず。元胤疏を上りて出海を請う。王は可望に就くを欲せず、而して海濱遠しとし、再び廷議を下すも、終に決せず。亡何、開国公趙印選・衛国公胡一青殿後軍たり、戦いに敗れて奔還す。王の速に行かんことを請い、急ぎ水道より土司に走り、瀨湍に抵る。二将大兵益々近しと報じ、相距ること百里に止まる。上下色を失い、皆散去す。已にして、羅江土司に次ぎ、追騎の相距ること一舎に止まる。会に日晡れて引き去るに及び、乃ち稍く安んず。龍英に次ぎ、広南に抵り、歳已に暮れぬ。
可望兵を遣わして明年二月に王を迎え安隆所に入らしめ、安龍府と改め、王を奉じて之に居らしむ。宮室卑陋、服御粗悪、守護の将悖逆にして人臣の礼無く、王其の憂いに堪えず。吉翔戎政を掌り、天壽勇衛營を督し、可望に諂事し、禅代を謀る。貞毓の己に附かざるを悪み、其の党冷孟銋・呉象元・方祚亨をして交章して弾撃せしむ。且つ孟銋等に語りて曰く、「秦王天下を宰とす、我啓を具し、内外の事を尽くして戎政・勇衛の二司に付す。大権我に帰し、公等羽翼たり、貞毓何ぞ能く為さんや」と。吉翔遂に門生郭璘を遣わし主事胡士瑞を説きて秦王を擁戴せしむ。士瑞怒り、厲声して之を叱退す。他日、吉翔璘を遣わし郎中古其品に求めしむ『堯舜禅受図』を画きて以て可望に献ぜしめんとす。其品拒みて従わず。吉翔可望に譖し、杖殺して其品をす。而して可望果たして朝事を尽くして吉翔・天壽に委ぬ。ここにおいて士瑞と給事中徐極、員外郎林青陽・蔡縯、主事張鐫連章して其の奸謀を発す。王大いに怒る。両人太后に求救し、乃ち免る。
前御史任僎・中書方於宣、可望を勧めて内閣九卿科道官を設け、印交を改めて八疊と為し、其の旧を尽く易え、太廟を立て、朝儀を定め、国号を改めて「後明」と擬し、日夕位を簒せんことを謀る。王聞きて憂懼し、密かに中官張福祿・全為國に謂いて曰く、「晋王李定國已に広西を定め、軍声大いに振うと聞く。密かに一勅を下し、兵を統べて入衛せしめんと欲す。若等能く密かに図らんや」と。二人言う、徐極・林青陽・張鐫・蔡縯・胡士瑞曾て疏を以て吉翔・天壽を劾せり、宜しく謀に与るべしと。王即ち告げしむるを令す。五人諾し、引いて以て貞毓に告ぐ。貞毓曰く、「主上憂危、正に我輩の国に報ゆる秋なり。諸君の中誰か能く此の使者を充たん」と。青陽行かんことを請う。乃ち佯りて仮を乞い帰葬せんことを令し、而して員外郎蔣乾昌をして定国に予くる勅を撰せしめ、主事朱東旦之を書かしめ、福祿等持入して宝を用いしむ。青陽歳尽に間道より馳せて定国の所に至る。定国勅を接し感泣し、王を迎えんことを許す。
明年夏、青陽久しく未だ還らず、王将に使を択び往きて促さんとす。貞毓翰林孔目周官を以て対す。都督鄭胤元曰く、「吉翔晨夕側に在り、他事を仮りて之を外に出さば、庶幾く有らん」と。王乃ち吉翔をして使を奉じ先王及び王太后の陵を梧州・南寧に祭らしめ、而して周官を遣わし定国に詣らしむ。吉翔道に在り、微かに青陽の密勅の事を知り、人を遣わし定国の営に偵わしむ。主事劉議新なる者、道にて吉翔に遇い、其の必ず謀に預かる意し、両使の勅を賫する状を以て告ぐ。吉翔驚駭し、啓して可望に報ず。可望大いに怒り、並びに吉翔の謀に預かるを疑い、其の将鄭国を遣わし南寧に赴きて之を逮う。会に鐫・士瑞及び李元開は王の親試を以て、極・縯・東旦及び御史林鍾は久次のを以て、皆美官を予う。天壽及び吉翔の弟都督雄飛甚だ忌み、其の党郭璘と方に謀りて之を陥れんとす。而して鍾・縯・極・鐫・士瑞も亦た事の泄るるを知り、倉皇として吉翔・天壽の表裏奸を為すを劾す。王事の急なるを見、即ち廷臣を下して罪を議せしむ。天壽懼れ、雄飛と馳せて貴陽に至り、可望に告ぐ。
初め、青陽還りて南寧に至り、守将常榮に留められ、密かに親信劉吉を遣わし王に告ぐ。王喜び、青陽を給事中に改め、貞毓に諭して再び勅を撰せしめ、「屏翰親臣」の金印を鋳、吉をして還り付けて青陽にせしむ。廉州に至り、周官と青陽遇い、偕に高州に至りて定国に賜う。定国拝して命を受く。
而して是の時に鄭国已に吉翔を械して安龍に至り、諸臣と面質す。貞毓知らずと謝す。国怒り、因りて貞毓を挟み直ちに王の居ます文華殿に入り、王を迫脅し、主謀する者を索む。王懼れ、敢えて正言せず、必ず外人の勅宝を仮りて之を為すと謂う。国遂に努目して出で、天壽と朝房に至り、貞毓並びに胤元・鍾・縯・乾昌・元開・極・鐫・士瑞・東旦及び太僕少卿趙賡禹、御史周允吉・朱議篸、員外郎任鬥墟、主事易士佳を私室に械す。又宮に入りて福祿・為國を擒えて出づ。其の党冷孟銋・蒲纓・宋德亮・朱企鋘等王を迫りて速に主名を具せしむ。王悲憤して退く。翊日、国等厳刑を以て拷掠す。独り貞毓は大臣を以て免る。衆楚に勝えず、大いに二祖列宗を呼び、且つ大いに罵る。時に日已に暮れ、風雷忽ち震烈す。縯厲声して曰く、「今日縯等直ちに此の獄を承け、稍く臣子の国に報ゆる苦衷を見ん」と。ここより衆皆自ら承く。国又問うて曰く、「主上知るや否や」と。縯大声に曰く、「未だ奏明せず」と。乃ち復た収繫し、欺君誤国盗宝矯詔を以て罪と為し、可望に報ず。可望王の親裁を請う。王憤に勝えず、廷議を下す。吏部侍郎張佐辰及び纓・德亮・孟銋・企鋘・蔣御曦等国に謂いて曰く、「此の輩尽く当に処死すべし。儻し一人を留めば、将に後患と為らん」と。ここにおいて御曦筆を執り、佐辰旨を擬し、鐫・福祿・為國を以て首罪と為し、淩遲に処し、余を従罪と為し、斬る。王貞毓を大臣とし、可望に言いて罪を絞さんとす。吉翔福祿等を内侍とし、王后の情を知ると謂い、将に之を廃せんとし、主事蕭尹をして古の后を廃する事を歴陳せしむ。后泣きて王に訴う。乃ち已む。諸人刑に就く、神色変らず、各詩を賦し大いに罵りて死す。其の家人合せて瘞る安龍北関の馬場。已にして青陽逮い至り、亦た殺され、独り官走りて免る。時に順治十一年三月なり。
二載を居るに、定国竟に前勅を奉じて王を護り雲南に入る。乃ち貞毓に少師・太子太師・吏部尚書・中極殿大学士を贈り、祭を賜い、文忠と謚し、子に錦衣を蔭し、世千戸とし、余は贈恤差有り。已にして、廟を馬場に建て、碑を勒して大書に「十八先生成仁処」とし、以て其の忠を旌す。
李定国が既に永明王を奉じて雲南に居を定めると、直ちに馬吉翔とその家族を捕らえ、部将の靳統武に命じて収監させ、殺そうとした。吉翔は日々統武に媚び、定国の賓客が統武を訪ねると、吉翔はまた彼らに媚びた。そこで彼らは共に吉翔を定国に誉め、そっと冤罪を弁護した。定国が吉翔を召し出すと、吉翔は入って拝謁し、即座に叩頭して言うには、「殿下の再興の功績は、千古に二つとありません。吉翔は幸いにも御顔を拝することができ、死んでも不朽です。他の是々非々など、弁明するに足りません。」定国は大いに喜んだ。吉翔はそこで日々定国の賓客に諂い、彼らに定国を説いて自分を内閣に推薦させ、遂に定国の賓客と蟠り結び、朝廷内外の権力を掌握し尽くし、龐天寿もまた再び権勢を振るった。後に王に従ってミャンマーに入ると、天寿は先に死に、吉翔はミャンマー人に殺された。
高勣
高勣、字は無功、紹興の人。永明王に仕え、光禄少卿を歴任した。馬吉翔と龐天寿が謀って呉貞毓らを殺害し、李定国が王を奉じて雲南に至り、吉翔を捕らえて殺そうとした。既にして、吉翔の諂いに乗せられ、遂に死を免れ、かつ内閣に推薦され、朝廷内外の権力を掌握し尽くし、天寿もまた権勢を振るった。定国と劉文秀は時折二人の家を訪れた。定国は当時晋王に封ぜられ、文秀は蜀王であった。高勣は御史の鄔昌期とこれを憂い、共に上疏して言うには、二人は功高く望重い、権佞の門に往来すべきではなく、奸弊を生じ、再び秦王(孫可望)の轍を踏む恐れがあると。疏が上ると、二王は遂に朝参しなくなった。吉翔は王を怒らせ、各々一百五十回の杖刑に処し、除名するよう命じた。定国の賓客金維新が走って定国に告げて言うには、「高勣らは確かに罪がありますが、諫官を殺す名を取ることはできません。」定国は即座に文秀と共に入朝して救い、遂に官職を復した。
李定国が孫可望の軍を破ると、自ら他に憂い無しとし、武備をすっかり弛緩させた。高勣と郎官の金簡が進諫して言うには、「今、内難は除かれたが、外憂は正に大きい。我らを窺う者は刃を頓えて両虎の斃れるのを待ち、我らは漏れる船の中で酣歌し、燃える薪の上で熟寝し、安んじていられようか。二王は兵事に老練であるのに、どうして泄泄として死んだようであるのか。」定国の王の前での言葉は、頗る激しいものであった。王は二臣を杖刑に処して事を収めようとしたが、朝臣の多くが争って不可とし、時を移しても決することができなかった。そこに三路の敗報が届き、定国はようやく逡巡して謝罪し、二臣は免れることができた。金簡、字は萬蔵、高勣の同郷人である。後に王がミャンマーに入ると、二人は扈従して行き、共にそこで死んだ。
李如月という者がいた。東莞の人、御史を務めた。王が安龍に駐蹕していた時、孫可望が叛将陳邦伝父子を捕らえ、その皮を剥ぎ、屍を安龍に伝送した。如月は可望を弾劾し、旨を請うずに勲鎮を擅殺した罪は王莽・曹操と同じであるとし、かつ邦伝に悪謚を加えて不忠を懲らしめるよう請うた。王は可望が必ず怒ることを知り、その上疏を留中した。如月を召し入れて、謚は本来忠を褒めるもので、悪謚の理はないと諭した。小臣の妄言は制度を乱すものとして、四十回の杖刑、除名とし、可望の怒りを解こうとした。しかし可望は大いに怒り、人を王の所に遣わし、如月を朝門外に引き出し、押さえつけて跪かせた。如月は宮闕に向かって叩頭し、太祖高皇帝と大呼し、口を極めて罵った。その者は遂に彼の皮を剔ぎ、手足と首を断ち、皮の中に草を詰めて縫い合わせ、大通りに懸けた。
また任国璽という者がいた。行人を務めた。順治十五年、永明王が出奔しようとした時、国璽は独り死守を請うた。上奏が廷議に下されると、李定国らは言うには、「行人の議は正しい。しかし前途尚ほ寛かである。暫く移蹕し、捲土重来して、再び恢復を図るも未だ遅くはない。」と。そこで王に扈従してミャンマーに入った。ミャンマーの習俗では中秋の日に群蛮を大会し、黔国公沐天波に諸酋長と共に椎髻跣足させ、臣礼をもって拝謁させた。天波は已むなくこれに従い、帰って衆に泣いて告げて言うには、「私が屈辱に甘んじたのは、主上を驚かせ憂わせるのを恐れたからだ。そうでなければ彼らは無礼を働き、私の罪は更に大きくなる。」と。国璽は礼部侍郎の楊在と共に抗疏してこれを弾劾した。
当時龐天寿は既に死んでおり、李国泰が代わって司礼監印を掌り、吉翔はまた彼と表裏をなして奸を働いた。国璽は宋末の大臣の賢奸に関する事跡を一書に集め、王に進呈した。吉翔はこれを深く恨んだ。王が閲覧したのは一日だけで、国泰が即座に窃み去った。国璽は間もなく御史に進み、時事について三つの不可解を論じた上疏をし、中に禍い眉睫に迫り、険を出ることを思うべきだと述べた。吉翔は快く思わず、即座に国璽に出険の策を献じさせた。国璽は憤然として言うには、「時事ここに至るに、なお言官を抑えて言わせぬというのか!」と。
当時ミャンマーでは弟が兄を弑して自立し、文武諸臣を皆殺しにしようとし、人を遣わして言うには、「蛮俗は詛盟を貴ぶ。天朝の諸公と共に咒水を飲みたい。」と。吉翔と国泰は諸臣を招いて皆行かせた。到着すると兵で包囲し、諸臣に順番に外に出させ、出るや直ちに殺し、凡そ四十二人を殺した。国璽及び楊在、天波、吉翔、国泰、華亭侯王維恭、綏寧伯蒲纓、都督馬雄飛、吏部侍郎鄧士廉ら皆これに預かった。都督同知の鄧凱のみは足を傷めて行かず、免れることができた。時は順治十八年七月であった。これより由榔の左右に人はいなくなった。十二月に至り、ミャンマー人は遂に彼を国境の外に送り出した。事は国史に詳しい。
初め、由榔がミャンマーに走った時、昆明の諸生薛大観は嘆息して言うには、「背城の戦いを為さず、君臣社稷に同死せず、顧みて蛮邦に走って苟活せんとは、重ねて羞ずべきことではないか!」と。子の之翰を顧みて言うには、「我は七尺の躯を惜しまず、天下のために大義を明らかにする。汝は努めよ。」之翰は言うには、「大人は忠に死し、児は孝に死すべし。」大観は言うには、「汝には母がいる。」時にその母が丁度傍らにおり、之翰の妻を顧みて言うには、「彼ら父子は忠孝に死することができる。我ら二人独り節義に死することができぬというのか?」その侍女は幼子を抱いており、問うて言うには、「主人皆死なれるなら、私をどうなさいますか?」大観は言うには、「爾が死ねるなら、甚だ善い。」そこで五人は共に城北の黒龍潭に赴いて死んだ。翌日、諸屍は互いに牽き連なって水に浮かび、幼子は侍女の懐にあり、両手は堅く抱いたままの様であった。大観の次女は既に嫁いでおり、山中に兵を避け、数十里離れていたが、同じ日に火に赴いて死んだ。
那嵩という者がいた。沅江の土官である。代々知府を務めた。嵩が職を嗣ぎ、法に循って過ちがなかった。王がミャンマーに走る時、沅江を通り過ぎると、嵩は子の燾と共に迎え拝謁し、供奉は甚だ謹んで、宴席には皆金銀の器を用いた。宴が終わると、悉くこれを献じて言うには、「この行、上供するものが少ない。聊か不足を補うものです。」と。後に李定国が諸土司の兵を召集すると、嵩は即座に兵を起こしてこれに応じた。既にして城は破られ、楼に登って自ら焼死し、全家皆死に、その士民も多く巷戦して死んだ。
賛に曰く、明は神宗の後より、漸く微になり漸く滅び、再び振るうことができなかった。その由来を推し量れば、国是紛呶し、朝端水火の争い、寧ろ社稷の淪胥を坐視しながら、門戸の角立を破除することができなかった。故に桂林に至って播遷し、旦夕に支えられず、呉・楚の党を樹てて相い傾けるは、猶ほ南都の翻案の故態を仍うのである。顛覆の端緒は、自ら来るものがあり、当時の任事諸臣を責めること何ぞや。