明史

志第五 五行二

志第五 五行二(火 木)

『洪範』に曰く、「火は炎上を曰う」と。火が炎上せざれば、則ちその性を失う。前史は多く、恒燠・草異・火・木・羽蟲の孽・羊禍・火災・火異・赤眚赤祥を皆これ火に属せしむ。今これに従う。

▲恒燠

洪熙元年正月癸未、京師一冬雪降らず、詔を以て修省を諭す。正統九年冬、畿内外雪無し。十二年冬、陝西雪無し。景泰六年冬、雪無し。天順元年冬、宮中雪を祈る。是の年、直隸・山西・河南・山東皆雪無し。二年冬、百官に命じて雪を祈らしむ。六年冬、直隸・山東・河南皆雪無し。成化元年冬、雪無し。五年冬、燠や夏の如し。六年二月壬申、冬より春に至るまで、雨雪降らず、勅を以て群臣に諭し、親しく山川壇に詣でて請禱せしむ。十年二月、南京・山東奏す、冬春恒に燠やかにして、冰雪無し。十一年冬、雪無きを以て祈禱す。十五年冬、直隸・山東・河南・山西雪無し。十九年冬、京師・直隸雪無し。弘治九年冬、雪無し。十五年冬、雪無し。十八年冬、温や春の如く、雪無し。正徳元年冬、雪無し。永嘉、冬至より春に至り、麦穂・桃李実る。三年冬、雪無し。六年より九年に至るまで、連歳雪無し。十一年冬、雪無し。嘉靖十四年、冬深くして雪無く、官を遣わして諸神を遍く祭らしむ。十九年冬、雪無し。二十年十二月癸卯、神祇壇に於いて雪を禱る。二十四年十二月甲午、諸臣に命じて分かち宮廟に告げて雪を祈らしむ。三十二年冬、雪無し。三十三年十二月壬申、災異屡見するを以て、即ち雪を禱る日を始めとし、百官青衣にて事を弁ず。三十六年冬、雪無し。三十九年冬、雪無し。明年、又雪無し。帝躬ら禱らんとす、会に大風有り、命じて急ぎ雪を禱り兼ねて風変を禳わしむ。四十一年より四十五年冬に至るまで、雪を祈ること虚歳無し。隆慶元年冬、雪無し。四年冬、雪無し。万暦四年十二月己丑、礼部に命じて雪を祈らしむ。十六年・十七年・二十九年・三十七年・四十七年、亦之の如し。崇禎五年十二月癸酉、順天府に命じて雪を祈らしむ。六年・七年冬、雪無し。

▲草異

永楽十六年正月乙丑、同州・澄城・觔陽・朝邑に穀及び蕎麦を雨らす。正統八年十一月、殿上に荊棘生じ、高さ二尺。十四年、広州の獄の竹牀、年を逾えて忽ち青く葉を生ず。成化六年二月戊寅、湖広応山に粟を雨らす。弘治八年二月、枯竹花開き、実は麦米の如し。苦蕒蓮花を開く。六月甲子、黟県に豆を雨らし、味は食すべからず。九年、黄州の民家の瓜、斗の如く大にして、瓤皆赤血なり。万暦四十三年四月戊寅、石首に豆を雨らし、大小一ならず、色紅黒雑る。崇禎四年・五年、河南に草生じて人馬の形と為り、甲を被り矛を持ち馳駆戦闘する者の如きが然り。十三年、徐州の田中の白豆、多く人面を作り、眉目宛然たり。

▲羽蟲之孽

万暦二十五年二月壬午、嶽州の民家に鴨有り、絮を裹みて火を含み、屋上に飛び、竹椽茅茨の中に入る。火四起し、延焼すること数百家。四十三年四月壬午、双鶴火を銜み、掖県の海神廟殿に飛び集まる。明日、廟火す。崇禎六年、汝寧に鳥有り、鳩身猴足。鳳陽に悪鳥数万、兔頭・鶏身・鼠足、饌に供するに甚だ肥え、其の骨を犯せば立ちどころに死す。

▲羊禍

万暦三十八年四月、崞県の民家の羊羔を産み、一首・二眼・四耳・二尾・八足。三十九年四月、降夷部に羊羔を産み、人面羊身。

▲火災

洪武元年七月丁酉、京師火災し、永済倉に延焼す。三年二月己巳、大河衛火災し、広積庫に及ぶ。七月乙未、宝源局火災す。甲子、鳳台門軍営火災し、武徳衛軍器局に延焼す。四年十一月癸亥、京師の大軍倉災す。五年二月癸未、臨濠府火災す。壬辰より甲午に至るまで、京師火災し、龍驤等六衛の軍民廬舎を毀つ。七月丁卯、永清衛軍器庫火災す。十二月丙戌、京師定遠等衛火災し、軍器局の兵仗を焚く。十七年十二月己未、潮州火災し、官廨民居及び倉廩・兵仗・図籍焚蕩して遺す無し。二十一年二月戊辰、歴代帝王廟火災し、上元県治も亦災す。甲戌、天界・能仁二寺災す。二十九年二月辛丑、通州火災し、屋千九百余を燔く。三十年四月甲午、広南衛火災し、城楼及び衛治倉庫に延焼す。

建文二年八月癸巳、承天門災す。

永楽四年十二月辛亥、甌寧王の邸宅が火災に遭い、王は薨去した。十三年正月壬子、北京の午門が災害に遭った。十九年四月庚子、奉天殿・謹身殿・華蓋殿の三殿が災害に遭った。二十年閏十二月戊寅、乾清宮が災害に遭った。

宣徳三年三月己亥、東嶽泰山の廟が火災に遭った。六年八月、武昌が火災に遭い、延焼して楚王の宮殿に及び、譜系と勅符はすべて灰燼かいじんに帰した。甲辰、天津右衛の北城外で火災が発生し、飛び火が城内に入り、倉庫を焼いた。九年二月庚午、京城の東南楼が火災に遭った。

正統二年二月、西鎮の呉山廟が火災に遭った。三年八月辛酉、順天の貢院が火災に遭い、試験場の席舎の多くが焼け、期日を改めて再試験を行った。十二月乙亥、韓府の承運殿が災害に遭った。四年三月戊午、代府の寝殿が火災に遭った。七年正月、広昌の木廠が火災に遭い、松木八千八百余株を焼いた。戊午、南京の内府が火災に遭い、廊下の部屋六十余間を焼き、図籍・器用・守衛の衣甲はすべて失われた。三月辛未、趙城の媧皇寝廟が火災に遭った。十年正月庚寅、忠義前衛・後衛の二衛が災害に遭った。この時、太倉はたびたび火災が発生し、官を派遣して火龍及び太歳を祷祭し、災いを祓った。五月甲申、忠義後衛の倉が再び火災に遭った。癸巳、通州右衛の倉が火災に遭った。十一月丁酉、御花房が火災に遭った。十一年秋、武昌が火災に遭った。死者は数百人に及んだ。十二月乙未、周府が災害に遭った。十二年六月、南京の山川壇が災害に遭った。十三年二月癸酉、忠義前衛の倉が火災に遭った。十四年六月丙辰の夜、南京の謹身殿・奉天殿・華蓋殿の三殿が災害に遭った。

景泰二年六月丙子、青州の廃斉府が火災に遭った。三年八月戊寅、秦府が火災に遭った。五年春、南京が火災に遭い、数千家に延焼した。七年九月壬申、寧府が火災に遭い、八百余家に延焼した。

天順元年七月丙寅の夜、承天門が災害に遭った。二年五月戊子、器皿廠が火災に遭った。三年九月庚寅、粛州城中が火災に遭い、五千四百余家に延焼し、死者は六十余人に及んだ。四年八月己巳、光禄寺の大烹内門が火災に遭った。この年、楚府はたびたび火災が発生し、宮殿と家廟はすべて焼失した。五年三月丁卯、南京の朝天宮が災害に遭った。六年六月癸未、楚府が火災に遭った。七年正月丁酉、南京の西安門木廠が火災に遭い、皇牆に延焼した。二月戊辰、天下の挙人を会試した際、貢院で火災が発生し、御史の焦顕がその門を閉ざしたため、挙子九十余人が焼死した。

成化二年九月癸未、南京の御用監が火災に遭った。六年十一月己亥、江浦が火災に遭い、二百六十余家に延焼した。九年七月庚戌、東直門が災害に遭った。十一年四月壬辰の夜、乾清宮門が災害に遭った。十三年十一月壬辰、太倉の米麦が長年蒸れて湿り、自然発火して百余石を焼いた。十八年八月丙午、合州が火災に遭い、千五百余家に延焼した。乙卯、楚府で火災が三度発生した。十一月戊午、南京の国子監が火災に遭った。十二月乙卯、器皿廠が火災に遭った。壬辰、寧河王府が火災に遭った。以前より妖物が夜に現れ、あるいは神、あるいは王侯の姿をとり、時に火を挙げて焼こうとする様子を見せていたが、この夜に府第を焼き尽くし、冠服器用はすべて灰燼に帰した。二十年正月戊戌、欽天監が火災に遭った。二十二年六月、臨海県が災害に遭い、千七百余家に延焼した。

弘治元年三月庚寅、南京の内花園が火災に遭った。十一月丁丑の夜、南京の甲字庫が災害に遭った。二年四月乙未、南京の神楽観が火災に遭った。四年二月戊午、礼部の官舎が火災に遭った。六年四月甲寅、刑部の官舎が火災に遭った。辛酉の夜、南京の旧内が災害に遭った。八年三月戊子、鎮東等の堡で火星が斗の如く躍り出て、公館と倉庫を焼き、人馬多くが焼死した。十一年、春から夏にかけて、貴州で大火が発生した。官民の家屋千八百余所を焼き、死傷者は六千余人に及んだ。十月甲戌の夜、清寧宮が災害に遭った。十二年六月甲辰の夜、闕里の聖廟が災害に遭った。十二月、建陽県の書坊が火災に遭い、古今の書板はすべて灰燼に帰した。十三年二月乙酉、礼部の官舎が火災に遭った。七月甲寅、南城県の空中に火があり、分かれたり合わさったりし、流れる光が十余丈下に墜ち、かすかに音があり、軍民の家屋を焼いた。庚申、永寧衛の雁尾山から居庸関の石縦山にかけて、東西四十余里、南北七十余里にわたり、七昼夜にわたって延焼した。閏七月辛巳、福州の城楼が焼失した。八月己未、沈府が火災に遭った。十一月庚辰、寧河府が火災に遭った。十六年三月庚午、遼東の鉄嶺衛に火が斗の如く墜ちた。丙子、火災が発生し、家屋二千五百余間を焼き、死者は百余人に及んだ。四月戊午、寛河衛の倉が災害に遭い、米豆四万余石を焼いた。九月戊寅、広寧衛城が火災に遭い、三百余家を焼いた。十七年四月丁巳、淮安が火災に遭い、五百余家を焼いた。五月癸巳、正陽門内の西廊が火災に遭い、武功坊を焼いた。

正徳元年二月庚寅、鄖陽が火災に遭い、やぐら楼と官舎を焼き、百余家に延焼した。この年、寧夏左屯衛に赤い気が天にわたり、やがて火災が発生し、城楼・台・堡はすべて灰燼に帰した。六月庚寅、大同の平虜城が災害に遭い、藁百万余を焼いた。十一月己亥、臨海県庁が火災に遭い、数千家に延焼した。七年三月己未、嶧県に火が斗の如くあり、空から墜ち、大風がそれに随い、官民の家屋千余間を焼いた。火は城外に飛び火し、丘陵の樹木に延焼した。庚申、成山衛の秦皇廟が火災に遭い、屋宇はすべて焼失したが、像の設えは元のままだった。この月、文登の大桑樹が火災に遭い、樹木は焼けたが枝葉は損なわれなかった。五月癸酉から閏五月丙子にかけて、遼東の懿路城で火災が三度発生し、官民の家屋の半分を焼いた。九月壬午、玉山が火災に遭い、学舎及び民家三百余家を焼いた。八年六月辛酉、豊城県の西南で連続して火星が墜ち、盆や斗のようであった。やがて火災が発生し、七月の初めにようやく消え、二万余家を焼いた。七月戊子、火が竜泉県に墜ち、四千余家を焼いた。十月壬寅、饒州及び永豊・浮樑が火災に遭い、それぞれ五百余家を焼いた。浮樑の学舎が災害に遭った。庚申、臨江が火災に遭い、官舎を焼き、八百余家に延焼した。九年正月庚辰、乾清宮が火災に遭った。十一年八月丁丑、黔陽が火災に遭い、城楼と官衙を焼き、七百余家に延焼した。十二年正月甲辰、清寧宮の小房が火災に遭った。四月、裕陵の神宮監が火災に遭った。八月丁卯、南昌が火災に遭い、三百家を焼いた。九月壬午、建安が火災に遭い、二百五十余家を焼いた。十三年二月己卯、夷陵が火災に遭い、七百余家を焼いた。八月庚辰、献陵の明楼が災害に遭った。丁酉、延平が火災に遭い、五百余家を焼いた。十四年四月乙巳、淮安新城が火災に遭った。七月丙辰、泰寧が火災に遭い、五千余家を焼いた。十五年五月辛卯、静楽が火災に遭い、八百余家を焼いた。

嘉靖元年正月己未、清寧宮の後ろの三つの小宮殿が火災に遭った。楊廷和が廃礼の応報であると上言したが、回答はなかった。二月己丑、南京の針線廠が火災に遭った。己亥、通州の城楼が火災に遭った。二年五月丙子、栄府が火災に遭った。九月戊辰、秦府の宮殿が火災に遭った。四年三月壬午の夜、仁寿宮が火災に遭い、玉徳殿・安喜殿・景福殿などの諸殿がことごとく灰燼に帰した。五年三月乙酉、趙府の家廟が火災に遭った。六年三月丁亥、西庫が火災に遭った。八年十月癸未、大内の所房が火災に遭った。十年正月辛亥、大内の東側が火災に遭った。四月庚辰、兵部と工部の公廨が火災に遭い、文書典籍が焼失した。十三年六月甲子、南京の太廟が火災に遭い、前殿・後殿・東西廡・神厨庫が焼失した。十五年四月癸卯、山西平虜衛が火災に遭い、神機官庫の軍器がことごとく焼失した。十八年二月乙丑、趙州及び臨洺鎮の行宮がともに火災に遭った。丁卯、帝が衛輝に行幸した際、行宮が四更に火災に遭い、陸炳が帝を背負って脱出したが、後宮及び内侍で火中に斃れた者がいた。六月丁酉、皇城北の鼓楼が火災に遭った。二十年四月辛酉の夜、宗廟が火災に遭った。成祖・仁宗の二廟の神主が焼失した。二十五年五月壬申、盔甲廠が火災に遭った。二十六年十一月壬午、宮中で火災があり、楊爵を獄から釈放した。三十一年八月乙丑、南京の試院が火災に遭った。三十五年九月戊辰、杭州で大火があり、数千家に延焼した。三十六年四月丙申、奉天殿・華蓋殿・謹身殿の三殿、文楼・武楼の二楼、午門・奉天門がともに火災に遭った。三十七年正月、光禄寺が火災に遭った。三十八年正月癸未、前軍都督ととく府が火災に遭った。四十年十一月辛亥の夜、万寿宮が火災に遭った。四十四年三月己亥の夜、大明門内の西千歩廊が火災に遭った。

隆慶二年正月、浙江省城外で火災があり、家屋や舟艦数千が焼失した。三月乙亥、乾清宮と坤寧宮の両宮が一時にともに灰燼に帰した。五年二月壬子、南京の広恵二倉が火災に遭った。

万暦元年十一月己亥、慈寧宮の後ろの舎屋が火災に遭った。三年四月甲戌、工部の後廠が火災に遭った。五年十月丙申、禁中で火災があった。十一月癸未、宗人府が火災に遭った。十一年十二月庚午の夜、慈寧宮が火災に遭った。十二年二月己酉、無逸殿が火災に遭った。十二月癸卯朔、また火災に遭った。十五年五月甲子、司設監が火災に遭った。十八年三月辛酉、遼東の寨山児堡が火災に遭い、城堡と器械が焼失し、九十余人が負傷した。十九年十二月甲辰、万法宝殿が火災に遭った。二十一年六月十五日、太倉の公署の後楼で砲声があり、火薬と器械がともに灰燼に帰した。二十二年五月壬寅、天火が鉄嶺衛の千余家を焼いた。二十四年二月甲寅、潞府の門が火災に遭った。三月乙亥、坤寧宮で火災が発生し、乾清宮に延焼して、ともに灰燼に帰した。二十五年二月壬午、杭州で火災があり、官民の家屋千三百余間を焼いた。丙戌、馬湖の屏山が火災に遭い、八百余家に延焼し、二十四人が死亡した。三月癸卯、泗州で大火があり、民家四千余戸を焼いた。盱眙で火災があり、民家百六十余間を焼いた。漕糧二万石を撥出して救済した。六月戊寅、三殿が火災に遭った。火は帰極門から起こり、皇極殿などの殿、文昭閣・武成閣の二閣、周囲の廊房に延焼し、一時にともに灰燼に帰した。十二月甲寅、吏部文選司の官署が火災に遭った。二十七年十一月壬申、内府で火災があり、尚宝司・印綬監・工部の廊に延焼し、銀作局の山牆で止まった。二十八年三月、南陽で火災があり、唐府に延焼した。二十九年正月己巳、鉄嶺衛で火災があり、車輛と火薬がともに灰燼に帰した。八月己卯、大光明殿の東配殿が火災に遭った。三十年二月乙酉、魏国公の賜第が火災に遭った。十月丙申、孝陵が火災に遭った。十二月庚子、南海の普陀山寺が火災に遭った。三十一年九月戊寅、通州の漕運船が火災に遭った。三十三年二月乙丑、御馬監が火災に遭った。五月辛巳、洗白廠が火災に遭った。九月甲午、昭和殿が火災に遭った。丙申、官軍が盔甲廠で火薬を受け取ろうとしたところ、火薬が年を経て石のように凝固しており、斧で劈いたところ、火が突然発生し、声は雷の如く、刀槍・火箭が百歩外に迸射し、軍民の死者は数知れなかった。十一月丁卯、刑部の提牢庁が火災に遭った。三十五年二月乙卯、易州の神器庫が火災に遭った。四月丁酉、通州の西倉が火災に遭った。十月己卯、南京の行人司の官署が焼失した。三十七年正月庚子、慶府が火災に遭い、寝宮及び帑蔵を焼いた。三月丙戌、武昌で火災があり、二日を経てまた火災があり、合わせて二百六十余家を焼いた。六月、慶府が火災に遭った。十月戊午、朝日壇が火災に遭った。三十八年四月丁丑の夜、正陽門の箭楼が火災に遭った。三十九年四月戊子、怡神殿が火災に遭った。四十一年五月壬戌、しょく府が火災に遭い、門殿が灰燼に帰した。四十三年四月壬午、黄花鎮の柳溝で火災があり、数十里に延焼した。甲午、蜀府の殿庭が火災に遭った。遼東の長寧堡は二月から五月にかけて、火災が五度発生し、焼失した房屋・人畜は数え切れなかった。閏八月辛亥、通州の糧船が火災に遭った。九月丁丑、湖口の税廨が焼失した。四十四年十一月己巳、隆徳殿が火災に遭った。丁亥、南城の延喜宮が火災に遭った。四十五年正月壬午、東朝房が火災に遭い、公生門に延焼して焼失した。十一月丙戌、宣禧宮が火災に遭った。四十六年閏四月丁丑の夜、開原の殷家荘堡の台杆八つが同時に灰燼に帰した。甲申、暖閣廠の膳房が火災に遭った。九月壬子、茂陵が火災に遭った。四十七年四月癸酉、盔甲廠が火災に遭った。

泰昌元年十月丁卯、噦鸞宮が火災に遭った。

天啓元年閏二月丙戌、昭和殿が火災に遭った。三月甲辰、杭州で火災があり、六千余家に延焼した。八月戊子、また火災に遭い、城内城外に延焼して万余家を焼失した。二年五月丙申、旗纛廟の正殿が火災に遭い、火薬がことごとく焼失し、匠役の多くが死亡した。三年七月辛卯、南京大内の左傍宮が火災に遭った。六年五月戊申、王恭廠が火災に遭い、地中に霹靂の声が絶えず、火薬が自然発火し、煙塵が空を蔽い、白昼が暗くなり、凡そ四五里に及んだ。五月癸亥、朝天宮が火災に遭った。七月庚寅、登州の城楼が火災に遭った。七年十月庚子、寧遠の前屯で火災があり、男女二百余人が負傷した。

崇禎元年四月乙卯、左軍都督府が火災に遭った。五月乙亥、鷹坊司が火災に遭った。丁亥、丁字庫が火災に遭った。七月己卯、公安県で火災があり、文廟を焼失し、五千余家に延焼した。二年十一月庚子、火薬局が火災に遭った。三年三月戊戌、また火災に遭った。八月癸酉、頭道関が火災に遭い、火器が轟撃されて残らず焼失した。六年正月癸丑、済南の舜廟が火災に遭った。七年九月庚申、盔甲廠が火災に遭った。十一年四月戊戌、新火薬局が火災に遭った。負傷者は甚だ多かった。六月癸巳、安民廠が火災に遭い、城垣と廨舎が震動で破壊され、居民の死傷者は数え切れなかった。八月丁酉、火薬局がまた火災に遭った。

▲火異

成化二十一年正月甲申朔、火光が中天よりやや西にあり、下に墜ちて白気と化し、また曲折して上騰し、声は雷の如かった。

弘治三年三月庚午、儀隴の空に紅白の火焰あり、長さ三丈餘、縣治の東北より流れ、正東六十餘里に至りて墜つ、聲震えて雷の如し。八年三月辛卯、廣寧右衛の臺杆火す、高さ五寸、杆は故の如し。十年四月辛丑、阜平に火光あり、長さ八九尺、大さ轆軸の如く、聲あり、東南より西南に至りて墜つ。

正德元年三月戊申の夜、太原有りて火斗の如く大なり、寧化王の殿前に墜つ。廣寧の墩臺火發して旗杆を燒く、凡そ六。七月壬戌の夜、火光即墨の民家に墜ち、綠石と化す、圓く高さ尺餘。七年三月丁卯の夜、大風雷電あり、餘干の仙居寨に光箭の如くあり、旗竿上に墜ち、俄かに燭龍の如く、光四野を照らす。士卒其の旗を撼かすと、飛びて竿首に上る、既にして其の火四散し、槍首皆光あり星の如し。十二年五月己亥の夜、火都察院の獄に隕ち、旋轉すること久しくして始めて滅ぶ。十五年六月癸未の夜、台州に火三つ隕ち、大さ盤の如く、草木に觸れば皆焦る。

嘉靖五年七月甲申、火球三つあり、大さ五六尺、北より東に墜つ、其の光天を燭す。二十年七月丙戌、火球斗の如く、左軍都督府の中門東に隕ち、良久にして乃ち滅ぶ。

隆慶二年三月戊午、延綏の保寧堡城角の旗杆より火出で、灼灼として聲あり。

萬曆十四年、保定府民間の牆壁内より火出で、三日夜にして乃ち熄む。十五年二月、綏靖邊城の各堡、脊獸旗杆俱に火出づ。軍士杖を以て之を撲つと、杖も亦火を生じ、三更にして乃ち熄む。二十年三月、陝西の空中に火あり、大さ盆の如く、後三尾を生じ、西北に隕つ。二十一年二月庚辰夜分、大毛山の樓上各獸吻俱に火あり、雞卵の如く、赤色、即時に雨雪し、火上嗟嗟として聲あり。二十三年九月癸巳の夜、永寧に火光あり、形屋の如く大なり、西北に隕つ。永昌・鎮番・寧遠所見同じ。二十四年二月戊申の夜、鄠縣雷雨し、遍地火光す、十有餘里。二十五年二月癸亥、平涼の瓦獸口より火出で、水を灌いでも滅せず。八月甲申、肅・涼二州火光天に在り、形車輪の如く、尾三股に分かれ、長さ約三丈。

天啓六年五月壬寅朔、厚載門の火神廟より紅球滾き出で、前門城樓角に數千の螢火あり、併合して車輪の如し。

崇禎元年、西安に火あり、碾の如く、斗の如き者數十、色青く、焰高さ尺許、嘗て民居に入り、數日留まりて乃ち去る。羊豕を以て之を禳うも、害と爲さず、五月より七月に至りて止む。十三年六月壬申、鎮安火光斛の如く、西より地に墜ち、士木皆焦る。

▲赤眚赤祥

成化十三年二月甲午、浙江山陰涌泉血の如し。

正德元年正月乙酉の夜、崇明の空中に紅光あり、尾を曳きて虹の如く、東北より起こり西南に至りて沒す、聲雷の如し。辛丑、鳳陽紅光發し、日と色を同じくし、聲雷の如し。二年八月己亥、赤光寧夏に見え、長さ五丈。八年七月甲申、龍泉に赤彈二つあり、空より縣治に隕ち、形鵝卵の如く、躍りて民居に入り、相鬥すること久し。

嘉靖三十三年四月戊子、慈溪の民家血涌きて高さ尺餘。三十七年五月戊辰、東陽の民張思齊の家地裂くこと五六處、血線の如く出でて高さ尺許。血凝り、犬就きて之を食らうも、地を掘るも見る所なし。三十九年二月己未、竹溪の民家より血出づ。

隆慶六年閏二月癸酉、遼東赤風塵を揚げて天を蔽う。

萬曆六年七月丁丑、鬆門衛の金鐺の家血涌きて三尺、聲あり。十三年四月乙丑、虹の民王祿姚壘の家に投宿す、血地より出づるを見て、驚き走りて市に至るも、市も亦血を流す。鄉人器物を撃ちて之に噪き、乃ち止む。十九年六月庚戌、慈溪の茅家浦血八處に涌き、大さ盆の如く、高さ尺許。血船に濺げば、船即ち血を出し、人足に濺げば、足も亦血を出し、數刻にして乃ち絕ゆ。二十六年九月甲辰、蕭山の賈九經の家より血出で、高さ尺許。

天啓元年六月庚寅、肇慶の民王體積の中庭に血を噴き、趵突泉の如し。

崇禎七年二月戊午、海豐血を雨らす。八年八月戊寅、宣城の池中より血出づ。

『洪範』に曰く、「木は曲直と曰う」と。木が曲直せざれば、則ち其の性を失う。前史は多く恒雨・狂人・服妖・鶏禍・鼠孽・木氷・木妖・青眚青祥を皆これ木に属すとし、今これに従う。

▲恒雨

洪武十三年七月、海康に大雨あり、県治を壊す。二十三年十一月、山東二十九州県久雨、麦禾を傷つく。

建文元年三月乙卯の夜、燕王蘇家橋に営す、大雨、平地水三尺、王の臥榻に及ぶ。

永楽元年三月、京師に霪雨あり、城西南隅五十余丈を壊す。七月、建寧衛に霪雨あり城を壊す。二年七月、新安衛に霪雨あり城を壊す。八月、霪雨北京城五千余丈を壊す。六年七月、思明に霪雨あり城を壊す。七年九月、浙江衛所五、颶風驟雨、城を壊し、房舍を漂流す。八年七月、金郷衛颶風驟雨、城垣公廨を壊す。十二年九月、密雲後衛に霪雨あり城を壊す。二十年正月、信豊雨水城を壊し、瞿城衛もまた然り。二十一年二月、六安衛に霪雨あり城を壊す。是の歳、建昌守禦所、淮安・懐来等の衛、皆霪雨あり城を壊す。二十二年二月、寿州衛雨水城を壊す。三月、贛州・振武二衛雨水城を壊す。四月、霪雨密雲及び薊州城を壊す。是の歳、南・北畿、山東州県、霪雨麦禾を傷つくこと甚だ衆し。

洪熙元年夏、蘇・鬆・嘉・湖積雨稼を傷つく。閏七月、京師大雨、正陽・斉化・順成等の門城垣を壊す。

九月、久雨密雲中衛城を壊す。

宣徳元年五月、永嘉・楽清颶風急雨、公私の廨宇及び壇廟を壊す。

正統元年七月、順天・山東・河南・広東に霪雨あり稼を傷つく。四年夏、居庸関及び定州衛に霪雨あり城を壊す。五年二月、南京大風雨、北上門の脊を壊し、官民の舟を覆す。七年、済南・青・萊・淮・鳳・徐州、五月より六月に至るまで霪雨あり稼を傷つく。九年閏七月、野狐嶺等の処に霪雨あり城及び濠塹墩臺を壊す。十一年春、江西七府十六県に霪雨あり、田禾淹沒す。十二年六月、瑞金に霪雨あり、市水丈余、倉庫を漂い、溺死二百余人。十三年四月、雨水順天古北口の辺倉を壊す。五月より六月、鳳陽・徽州久雨稼を傷つく。九月、寧都大雨城郭廬舍を壊し、溺死甚だ衆し。

景泰三年、永平・兗州久雨禾を傷つく。大嵩等二十衛所久雨城を壊す。四年、南畿・河南・山東府十州一、五月より八月に至るまで霪雨あり稼を傷つく。五年、杭・嘉・湖大雨苗を傷つく、六旬止まず。七月、京師久雨、九門の城垣多く壊る。六年、北畿府五・河南府二久雨稼を傷つく、雲南大理諸府もまた然り。七年、両畿・江西・河南・浙江・山東・山西・湖広合わせて府三十、恒雨田を淹す。

天順元年、済・兗・青三府大雨月を閲し、禾尽く没す。四年、安慶・南陽雨、五月より七月に至るまで、禾苗を淹す。七年五月、淮・鳳・揚・徐大雨、二麦を腐らす。武昌・漢陽・荊州廬舍漂沒し、民皆山に依りて露宿す。

成化元年六月、畿東大雨、水山海関・永平・薊州・遵化の城堡を壊す。八月、通州大雨、城及び運倉を壊す。二年、定州積雨、城垣及び墩臺の垛口百七十三を壊す。八年七月、南京大風雨、天壇・地壇・孝陵の廟宇を壊す。鳳陽大雨、皇陵の牆垣を壊す。九年三月、南京大風雨、太廟・社稷壇の樹を抜く。十三年七月、京城大雨。十四年八月、鳳陽大雨、城内の民居千を数えるを没す。十七年七月乙酉、南京大風雨、社稷壇及び太廟の殿宇皆摧く。十八年、河南・懐慶諸府、夏秋霪雨三月、城垣千一百八十余丈を塌かし、公署・壇廟・民居三十一万四千間有奇を漂い、淹死一万一千八百余人。

弘治二年七月、京師に霪雨あり、直言を求む。三年七月、南京驟雨、午門西城壇を壊す。七年七月庚寅、南京大風雨、殿宇・城楼の獣吻を壊し、太廟・天壇・地壇・社稷壇及び孝陵の樹を抜く。五月より八月に至るまで、義州等の衛連雨稼を害す。八年五月、南京陰雨月を逾え、朝陽門北城の堵を壊す。九月、潮州諸府、颶風暴雨城垣廬舍を壊す。十年七月、安陸に霪雨あり、城郭廬舍殆んど尽く壊る。十一年七月、長安ちょうあん嶺暴風雨、城及び廬舍を壊す。十四年六月、義・錦・広寧に霪雨あり、城垣・墩堡・倉庫・橋梁を壊し、民多く圧死す。十五年六七月、南京大風雨、孝陵神宮監及び懿文陵の樹木・橋梁・牆垣多く摧拔するものあり。十六年五月、榆林大風雨、子城垣を毀ち、垣洞を其の南五十歩に移す。十八年三月、双山堡大雷雨城を壊す。六月より八月、京畿連雨。

正徳元年七月、鳳陽諸府大雨、平地水深さ丈五尺、居民五百余家を没す。二年七月、武平大風雨、城楼を毀つ。長泰・南靖大風雨三日夜、平地水深さ二丈、民居八百余家を漂う。十二年、蘇・鬆・常・鎮・嘉・湖大雨、麦禾を殺す。十三年、応天・蘇・鬆・常・鎮・揚大雨月を弥ぎ、室廬人畜を漂うこと算無し。十六年、京師久雨稼を傷つく。

嘉靖四年六月、登州大雨城を壊す。十六年、京師雨、夏より秋に至るまで絶えず、房屋傾倒し、軍民多く圧死す。二十五年八月、京師大雨、九門の城垣を壊す。三十三年六月、京師大雨、平地水数尺。四十五年九月、鄖陽大霪雨、平地水丈余。城垣廬舍を壊し、人民溺死算無し。

隆慶元年(一五六七年)六月、京師に淫雨あり、遼東は五月より七月に至るまで雨止まず、垣牆禾黍を損なう。

萬曆元年(一五七三年)七月、淫雨あり。十一年四月、承天に大雨水あり。十二年正月、喜峯口に大風雨あり、各墩臺を損なう。十五年五月より七月に至るまで、蘇州・松江諸府に淫雨あり、禾麦ともに傷つく。六月、京師に大雨あり。二十四年、杭州・嘉興・湖州に淫雨あり苗を傷つく。二十八年七月、興化・莆田・連江・福安に大雨数日夜に及び、城垣・橋樑・堤岸ともに崩壊す。二十九年春夏、蘇州・松江・嘉興・湖州に淫雨あり麦を傷つく。三十二年七月、京師に淫雨あり、城崩る。三十三年五月丙申、鳳陽に大風雨あり、皇陵正殿の御座を損ず。三十九年春、河南に大雨あり。夏、京師・広東に大雨あり。広西は積雨五箇月に及ぶ。四十二年、浙江に淫雨あり災いとなる。

天啓六年(一六二六年)閏六月、大雨連旬に及び、天寿山の神路、都城の橋樑を損なう。是の歳、遼東に淫雨あり、山海関内外の城垣を損ない、軍民の傷つく者甚だ衆し。七年、山東の州県二十有八、積雨ありて禾を傷つく。

崇禎五年(一六三二年)六月、大雨あり。八月、また雨あり、慶陵を衝き損ず。九月、順天二十七県に淫雨ありて稼を害す。十一年夏、雨十日に及び、南山の辺垣を崩壊す。十二年十二月、浙江に淫雨あり、阡陌巨浸となる。十三年四月より七月に至るまで、寧国・池州諸郡に淫雨あり、田の半ばは壑となる。十五年十月、黄州・蘄州・徳安諸郡県に淫雨あり。十六年二月戊辰、親しく社稷を祀るに、大風雨あり、僅かに礼を成して還る。

▲狂人

景泰三年(一四五二年)五月癸巳朔、明日太子を立てんとするを以て、香亭を奉天門に具す。一人外より竟に入り、紅棍を執りて香亭を撃ちて曰く「先づ東方甲乙木を打つ」と。嘉靖十八年(一五三九年)、駕将に南幸せんとす、軍人孫堂あり、御路の中橋より奉天門下に至り、金臺に登り、久しく坐す、守門の官役知る者なし。堂に升り大呼し、覚めて之を捕らうれば、乃ち病狂の者なり。

▲服妖

正徳元年(一五〇六年)、婦女多く珠を以て蓋頭を結び、之を瓔珞と謂う。十三年正月、車駕京に還り、朝臣に曳撒大帽鸞帯を用いしむ。給事中硃鳴陽言う、曳撒大帽は行役の用いる所、君に見ゆる服に非ず、と。皆服妖に近し。十五年十二月、帝宸濠を平げて京に還り、逆に従う者を俘とし、及び諸逆の首を竿に懸くるに、皆白幟を以て標し、数里皆白し。時に帝既にせず、見る者其の不祥なるを識る。崇禎の時、朝臣紗縠・竹籜を以て帯と為すを好み、其の便易を取る。論ずる者曰く、金銀は重くして貴く、紗籜は賤しくして軽し、賤将に貴に乗ぜんとす、と。時に北方の小民幘を制し、其の檐を低く側らせ、自ら眉目を掩い、名づけて「親を認めず」と曰う。其の後寇乱し民散じ、途に親戚に遇うも、泣きて敢えて言わざる有り、或いは臂を掉って之を去る者あり。

▲雞禍

弘治十四年(一五〇一年)、華容の民劉福の家に雞の雛三足あり。十七年六月、崇明の民顧孟文の家に雞雛を生み、猴頭にして人形、身長四寸、尾有り、活動して声無し。嘉靖四年(一五二五年)、長垣の民王憲の家に雞卵を抱き、内に人形を成し、耳目口鼻四肢皆備わる。萬曆二十二年(一五九四年)六月、靖辺営の軍家に雌雞雄に化す。崇禎九年(一六三六年)、淮安の民家に牝雞啼き躍り、雄に化す。十年、宣武門外の民家に白雞あり、喙距純かに赤く、重さ四十斤。或いは曰く、此れ皦なり、見ゆる所の処国亡ぶ、と。十四年、太倉衛指揮姜周輔の家に雞子を伏せ、両頭四翼八足。

▲鼠妖

萬曆四十四年(一六一六年)七月、常州・鎮江・淮安・揚州諸郡に、土鼠千万群を成し、夜尾を銜えて江を渡り、絡繹として絶えず、幾ばくか一月にして方に止む。四十五年五月、南京に鼠万余あり、尾を銜えて江を渡り、禾稼を食う。崇禎七年(一六三四年)、寧夏に鼠十余万あり、尾を銜えて苗を食う。十二年、黄州に鼠禾を食い、江を渡ること五六日絶えず。時に内殿の奏章房に鼠多く盗み食い、人と相触れて畏れず、亦た鼠妖なり。甲申(崇禎十七年)元旦の後に至り、鼠始めて屏跡す。又た秦州関山中に鼠鵪鶉に化する者数千を以て計う。十五年二月、群鼠江を渡り、昼夜絶えず。十月、榆林・定辺諸堡に鼠蝦蟆の腹中に生じ、一に数十を生じ、苗を食うこと割くが如し。

▲木冰

洪武四年(一三七一年)正月戊申、木冰あり。六年十二月乙丑、木冰を雨らす。十一年正月丁亥、木冰を雨らす。二十二年正月甲戌、木冰を雨らす。正統三年(一四三八年)十月丁丑暁、木介あり。天順七年(一四六三年)十月甲辰、木冰を雨らす。八年正月乙丑、木冰を雨らす。成化十六年(一四八〇年)正月辛卯暁、木冰を雨らす。二十三年十二月戊辰暁、木介あり。隆慶三年(一五六九年)十一月癸巳、木冰あり。萬曆十四年(一五八六年)冬、蘇州・松江に木冰あり。崇禎元年(一六二八年)十一月、陝西に木冰あり、樹枝尽く折る。其の後大河以北、歳に此の異有り。

▲木妖

弘治八年(1495年)、長沙で楓の木に李の実が生じ、黄連に黄瓜が生じた。九年(1496年)三月、長寧で楠の木に蓮の花が生じ、李の木に豆の莢が生じた。嘉靖三十七年(1558年)十月戊辰、泗水の砂の中から大杉の木が湧き出し、囲み一丈五尺、長さ六丈余りであった。隆慶五年(1571年)四月、杭州で栗の木に桃が生じた。萬曆十八年(1590年)五月丁卯、祖陵の大松の樹の孔から火を吐き、終日かかってようやく消えた。二十三年(1595年)十二月癸亥、皇陵の樹の頂上から火が出て、草木に延焼した。天啓六年(1626年)四月癸巳、白露が樹木に付着して垂れ綿のようになり、日中になっても散らなかった。十月辛酉、南京西華門の内に煙はあるが火はなかった。礼臣が視察に行くと、それは旧宮殿の材木が土中に埋もれて久しく、煙が自然に生じ、土石が皆焦げていたのである。水をかけると、三日してようやく消えた。崇禎六年(1633年)五月癸巳、霍山県に木製の甑が飛来して墜落したが、どこから来たのか分からなかった。七年(1634年)二月丁巳、太康の門の牡(鍵)が自ら開くことが三度あり、知県が邑の紳士を集めてその事を議していると、梁が落ちて死んだ。

▲青眚青祥

宣徳元年(1426年)八月辛巳、東南の天に青気があり、その形状は人が手を叉いて揖拝するようであった。