明史

志第四 五行一

志第四 五行一(水)

史書の志に五行を記すことは『漢書かんじょ』に始まり、五行の伝説とその占いの応験を詳しく記録する。後代の史書を作る者はこれに因った。『洪範』を考察すると、まず五行を叙述し、それが天地万物の外にあるものがないからである。そして人道に合わせれば五事があり、天道を考察すれば庶徴がある。天と人が感応し、類によって応じることは、固より理の無きものと謂うべからず。しかし伝説は条分縷析し、ある異変をある事柄の応験とし、更に傍らに引き曲げて証拠とし、その説を伸ばす。故に父子師弟といえども、矛盾のないところはなく、果たして疇(九疇)を叙述する意に適うであろうか。もし天人の応が影響よりも速やかなるを知れば、一言一動皆戒め慎むところあらん。これをもって戒めを垂れる意は、善からざるにあらず。然れども天道は遠く、人道は近し。事を逐って比べれば、必ず験あるものと験なきものあり。験なきに至れば、徴無きものと見て怠る。前賢のこの論は悉く詳しい。孔子が『春秋』を作り、異変を記して説を書かず。かの劉向・董仲舒ら諸儒の学は、術数・禨祥に頗る近く、本より述ぶるに足らず。班固がこの志を創立し、その学の本原を詳しくせざるを得なかった。そして歴代の史書は、往々にして前人に数多く見える説を取り、簡端に備え列ねる。義法に揆るに、処すべき所を知らず。故に洪武以来を考次し、略ねて旧史の五行の例に依り、その祥異を著し、事応及び旧説の前に見えるものは、併せて削り載せず。

『洪範』に曰く、「水は潤下を曰う」。水が潤下せざれば、則ちその性を失う。前史は多く、恒寒・恒陰・雪霜・氷雹・雷震・魚孽・蝗蝻・豕禍・龍蛇の孽・馬異・人痾・疾疫・鼓妖・隕石・水潦・水変・黒眚黒祥を皆水に属すとし、今これに従う。

▲恒寒

景泰四年冬十一月戊辰より明年孟春に至るまで、山東・河南・浙江・直隸・淮・徐に大雪数尺、淮東の海氷四十余里、人畜凍死すること万計。五年正月、江南諸府大雪連四旬、蘇・常に凍餓死者算無し。この春、羅山大寒、竹樹魚蚌皆死す。衡州雨雪連綿、人を傷つくること甚だ多く、牛畜凍死すること三万六千蹄。成化十三年四月壬戌、開原大雨雪、畜多く凍死す。十六年七八月、越巂雨雪交作、寒気冬の若し。弘治六年十一月、鄖陽大雪、十二月壬戌の夜に至り、雷電大いに作し、明日また震い、後五日雪止み、平地三尺余、人畜多く凍死す。正徳元年四月、雲南武定隕霜して麦を殺し、寒きこと冬の如し。万暦五年六月、蘇・鬆連雨、寒きこと冬の如し、稼を傷つく。四十六年四月辛亥、陝西大雨雪、橐駝凍死すること二千蹄。

▲恒陰

洪武十八年二月、久しく陰る。正統五年七月戊午・己未及び癸亥、暁刻陰沈、四方濃霧人を辨ぜず。八年、邳・海二州陰霧月を彌ぎ、夏麦多く損ず。景泰六年正月癸酉、陰霧四塞し、既にして霜と成り木に附き、凡そ五日。八年正月甲子、陰晦大霧、咫尺人物を辨ぜず。成化四年三月、昏霧天を蔽い、星日を見ずすること累晝夜。九年三月甲午、四月丁卯、山東暗黒夜の如し。二十年五月丙申、番禺天晦し、良久にして乃ち復す。二十三年十二月辛卯、大霧人を辨ぜず。弘治十五年十一月、景東晝晦すること七日。十六年四月辛亥、甘肅昏霧天を障い、咫尺人物を辨ぜず。十八年秋、広昌大雨霧凡そ両月、民病み且つ死する者相継ぐ。正徳十年四月、鉅野陰霧六日、穀を殺す。十四年三月戊午、陰晦す。嘉靖元年正月丁卯、日午、昏霧四塞す。三年、江北昏霧、その気薬の如し。天啓六年六月丙戌、霧重きこと雨の如し。閏六月己未、之の如し。

▲雨雪隕霜

洪武十四年五月丁未、建德雪。六月己卯、杭州晴日雪を飛ばす。二十六年四月丙申、榆社隕霜して麦を損ず。景泰四年、鳳陽八衛二三月雨雪止まず、麦を傷つく。天順四年三月乙酉、大雪、月を越えて乃ち止む。成化二年四月乙巳、宣府隕霜して青苗を殺す。十九年三月辛酉、陝西隕霜。弘治六年十月、南京雨雪旬を連ぬ。八年四月庚申、榆社・陵川・襄垣・長子・沁源隕霜して麦豆桑を殺す。辛酉、慶陽諸府県衛所三十五、隕霜して麦豆禾苗を殺す。九年四月辛巳、榆次隕霜して禾を殺す。この月、武郷も亦た隕霜す。十七年二月壬寅、鄖陽・均州雨雪雹、雪片大なるもの六寸。六月癸亥、雨雪す。正徳八年四月乙巳、文登・萊陽隕霜して稼を殺す。丙辰、穀を殺す。十三年三月壬戌、遼東隕霜、禾苗皆死す。嘉靖二年三月甲子、郯城隕霜して麦を殺す。辛未、禾を殺す。二十二年四月己亥、固原隕霜して麦を殺す。隆慶六年三月丁亥、南宮隕霜して麦を殺す。万暦二十四年四月己亥、林県雪。二十六年十一月辛亥、彰德隕霜、草を殺さず。三十八年四月壬寅、貴州暴雪、形土磚の如く、民居片瓦存するもの無し。四十四年正月、紅黄黒三色の雪を雨ふり、屋上に多く巨人の跡あり。崇禎六年正月辛亥、大雪、深さ二丈余。十一年五月戊寅、喜峯口雪三尺。十三年四月、会寧隕霜して稼を殺す。十六年四月、鄢陵隕霜して麦を殺す。

▲氷雹

洪武二年六月庚寅、慶陽大雨雹、禾苗を傷つく。三年五月丙辰、蔚州大雨雹、田苗を傷つく。五年五月癸丑夜、中都皇城萬歳山雨氷雹、大さ弾丸の如し。七年八月甲午、平涼、延安綏徳・米脂雨雹。九月甲子、鞏昌雨雹。八年四月、臨洮・平涼・河州雹麦を傷つく。十四年七月己酉、臨洮大雨雹、稼を傷つく。十八年二月、雨雹す。

永楽七年秋、保定・浙東雨雹。十二年四月、河南一州八県雨雹、麦を殺す。

正統三年、西・延・平・慶・臨・鞏六府及び秦・河・岷・金四州、夏より秋に逮るまで、大雨雹。四年五月壬戌、京師大雨雹。五年四月丁酉、平涼諸府大雨雹、人畜田禾を傷つく。六月壬申より丙子に至るまで、山西行都司及び蔚州連日雨雹、その深さ尺余、稼を傷つく。八月庚辰、保定大雨雹、深さ尺余、稼を傷つく。

景泰五年(1454年)六月庚寅、易州大方等社に甚だ大なる雨雹あり、稼穡を傷つけること百二十五里、人馬多く撃死す。六年閏六月乙巳、束鹿に雨雹あり、鶏子の如く、鳥雀狐兔を撃死すること算なし。

天順元年(1457年)六月己亥、雨雹あり、鶏卵の如く大なり、地に至りて時を経て化せず、奉天門東の吻牌摧毀す。八年五月丁巳、雨雹あり。

成化元年(1465年)四月庚寅、雨雹あり、卵の如く大なり、禾稼を損ず。五月辛酉、また大雨雹あり。五年閏二月癸未、瓊山に雨雹あり、斗の如く大なり。八年七月丙午、隴州に雨雹あり、鵝卵の如く大なり、あるいは鶏子の如し、中に牛の如きもの五あり、長さ七八寸、厚さ三四寸、六日にして乃ち消ゆ。九年五月丁巳、雨雹あり、拳の如し。十三年春、湖広に大雨氷雹あり、牛死すること算なし。十九年六月乙亥、潞州に雨雹あり、大なるものは碗の如し。二十年二月丙子、清遠に雨雹あり、拳の如く大なり。丙戌、大雷電あり、また雨雹す。二十一年三月己丑夜、番禺・南海に風雷大いに作し、飛雹交下し、民居万余を壊し、死者千余人。二十二年三月甲寅、南陽に雨雹あり、鵝卵の如く大なり。

弘治元年(1488年)三月壬申夜、融県に雨雹あり、城楼垣及び軍民屋舎を壊し、死者四人。二年三月戊寅、賓州に雨雹あり、鶏子の如く、牧豎三人を撃殺し、廬舎禾稼を壊す。庚辰、貴州安莊衛に大雷あり、雨雪雹し、麦苗を壊す。四月辛卯、洮州衛に雨氷雹あり、水三丈涌く。四年三月癸卯、裕・汝二州に雨雹あり、大なるものは牆杵の如く、積み厚さ二三尺、屋宇禾稼を壊す。四月己酉、洮州衛に雨雹及び氷塊あり。水高三四丈、城郭を漫し、房舎を漂し、田苗人畜多く淹死す。五年四月乙丑、莒・沂二州、安丘・郯城二県に雨雹あり、酒杯の如く大なり、人畜禾稼を傷つく。六年八月己巳、長子に雨雹あり、大なるものは拳の如く、禾稼を傷つけ、人に撃死する者あり。辛未、雨雹あり、弾丸の如く大なり、平地に壅積す。八年二月壬申、永嘉に暴風雨あり、雨雹し、鶏卵の如く大なるもの、弾丸の如く小なるもの、地に積むこと尺余、白霧四起し、屋を毀ち黍を殺し、禽鳥多く死す。三月己亥、桐城に雨雹あり、深さ五尺、二麦を殺す。己酉、淮・鳳州県に暴風雨雹あり、麦を殺す。四月乙亥、常州・泗・邳に雨雹あり、深さ五寸、麦及び菜を殺す。丙子、沂州に雨雹あり、大なるものは盤の如く、小なるものは碗の如く、人畜多く撃死す。六月乙卯、雨雹あり。七月乙酉、洮州衛に雨氷雹あり、禾を殺す。暴水至り、人畜多く溺死する者あり。丙戌、甘粛西寧に大雨雹あり、禾及び畜を殺す。九年五月丙辰、雨雹あり。十年二月己卯、江西新城に雨氷雹あり、民に凍死する者あり。三月丁卯、北通州に雨氷あり、深さ一尺。十三年八月戊子、雨雹あり。丙午、また雨雹あり。九月壬戌、また雨雹あり。十四年四月丁酉、徐州・清河・桃源・宿遷に雨氷雹あり、平地五寸、夏麦尽く爛る。五月乙亥、登・萊二府に雨雹あり禾を殺す。七月辛卯、雨雹あり。

正徳元年(1506年)六月戊辰、宣府馬営堡に大雨雹あり、深さ二尺、禾稼尽く傷つく。三年四月辛未、涇州に雨雹あり、鶏卵の如く大なり、廬舎菽麦を壊す。四年五月甲午、費県に大雨雹あり、深さ一尺、麦谷を壊す。八年十月戊戌、平陽・太原・沁・汾諸属邑に大雨雹あり、平地水深さ丈余、人畜廬舎を沖毀す。十一年六月甲戌、宣府に大雨雹あり、禾稼尽く死す。九月丙申、貴州に大雨雹あり。十二年五月己亥、安粛に大雨雹あり、平地水深さ三尺、禾を傷つけ、民に撃死する者あり。十三年四月壬午、衡州に疾風迅雷あり、雨雹し、鵝子の如く大なり、棱利は刀の如く、屋を碎き、樹木を断つこと剪の如し。

嘉靖元年(1522年)四月甲申、雲南左衛各属に雨雹あり、鶏子の如く大なり、禾苗房屋傷つけられる者算なし。五月己未、蓬渓に雨雹あり、鵝子の如く大なり、傷つくこともまた之の如し。二年五月丁丑、大同前衛に雨雹あり。四年四月丁未、大同衛に雨雹あり。五月戊子、固安に雨雹あり。五年五月甲辰、満城に雨雹あり。六月丁巳、大同県に雨氷雹あり、俱に鶏子の如く大なり。丁卯、万全都司及び宣府皆雨雹あり、大なるものは甌の如く、深さ尺余。七月癸未、南豊に雨雹あり、碗の如く大なり、形は人面の如し。遂昌に雨雹あり、頃刻にして二尺、麻豆を大いに殺す。六年六月癸丑、鎮番衛に大雨雹あり、殺傷三十余人。十四年三月辛巳、漢中に雨雹隕霜あり麦を殺す。四月庚子、開封・彰徳に雨雹あり麦を殺す。十八年五月壬辰、慶都・安粛・河間に雨氷雹あり、拳の如く大なり、平地五寸、人に死傷する者あり。二十八年三月庚寅、臨清に大氷雹あり、房舎禾苗を損ず。六月丁卯、延川に雨雹あり、斗の如く、廬舎を壊し、人畜を傷つく。三十四年五月庚子、鳳陽に大氷雹あり、民田舎を壊す。三十六年三月癸未、沂州に雨雹あり、盂の如く大なるもの、鶏卵の如く小なるもの、平地尺余、径八十里、人畜傷損算なし。四十三年閏二月甲申、雨雹あり。四月庚寅、また雨雹あり。

隆慶元年(1567年)七月辛巳、紫荊関に雨雹あり、稼穡を殺すこと七十里。三年三月辛未、平渓衛に雨雹あり。平地水三尺涌き、廬舎を漂没す。四月己丑、鄖陽県に雨雹あり。平地水深さ二尺。五月癸丑、延綏口北馬営堡に雨雹あり、稼穡を殺すこと七十里。四年四月辛酉、宣府・大同に雨雹あり、厚さ三尺余、卵の如く大なり、禾苗尽く傷つく。五年四月戊午、大雨雹あり。六年八月乙丑、祁・定二州に大雨雹あり、禾菽を傷損し、三人を撃斃す。

萬曆元年五月辛巳、雹が降る。四年四月丙午、博興に大雹が降り、拳の如く卵の如く、翌日もまた同じく、男女五十余人を撃ち死にし、牛馬数知れず、禾麦は尽く毀される。兗州も相次いで禾を損ず。五月乙巳、定襄に雹が降り、大なるものは卵の如く、禾苗は尽く損ず。九年八月庚子、遼東等衛に雹が降り、鶏卵の如く、禾は尽く傷つく。十一年閏二月丁卯、泰州・宝応に雹が降り鶏子の如く、飛鳥を殺すこと数知れず。五月庚子、大雹が降る。十三年五月乙酉、宛平に大雹が降り、人畜を傷つくること千計。十五年五月癸巳、喜峯口に大雹が降り、棗栗の如く、積もること尺余、田禾瓜果は尽く傷つく。十九年四月壬子、雹が降る。二十一年二月庚寅、貴陽府に大雹が降る。十月丙戌、武進・江陰に大氷雹が降り、五穀を傷つく。二十三年五月乙酉、臨邑に雹が降り、尽く男女鳥獣の形をなす。二十五年八月壬戌、風雹あり。二十八年六月、山東に大風雹あり、人畜を撃ち死にし、禾苗を傷つく。河南もまた氷雹が降り、禾麦を傷つく。三十年四月己未、大雹が降る。三十一年五月戊寅、鳳陽皇陵に雹が降る。七月丁丑、大雹が降る。三十四年七月丙戌、また大雹が降る。平地の水深さ三尺。三十六年五月戊子、雹が降る。四十一年七月丁卯、宣府に大雹が降り、禾稼を殺す。四十六年三月庚辰、長泰・同安に大雹が降り、斗の如く拳の如く、城郭廬舎を撃ち傷つけ、圧死者二百二十余人。十月壬午、雲南に雹が降る。

天啓二年四月壬辰、大雹が降る。

崇禎三年九月辛丑、大雹が降る。四年五月、襄垣に雹が降り、大なるものは伏せる牛の如く丈に盈ち、小なるものは拳の如く、人畜を斃すこと甚だ衆し。六月丙申、大雹が降る。七年四月壬戌、常州・鎮江に雹が降り、麦を傷つく。八年七月己酉、臨県に大氷雹三日、積もること二尺余、大なるものは鵞卵の如く、稼を傷つく。十年四月乙亥、大雹が降る。閏四月癸丑、武郷・沁源に大雹が降り、最大のものは象の如く、次は牛の如し。十一年六月甲寅、宣府乾石河山場に雹が降り、馬四十八匹を撃ち殺す。九月、順天に雹が降る。十二年八月、白水・同官・雒南・隴西諸邑、千里にわたり雹が降り、半日にしてやむ、田禾を損傷す。十六年六月丁丑、乾州に雹が降り、大なるものは牛の如く、小なるものは斗の如く、牆屋を毀傷し、人畜を撃ち斃す。

▲雷震

洪武六年十一月戊申、雷電交作す。十三年五月甲午、雷謹身殿を震う。六月丙寅、雷奉天門を震う。十月甲戌、雷電す。十二月己巳、広州に大風雨雷電あり。十八年二月甲午、雷電雨雪あり。二十一年五月辛丑、雷玄武門の獣吻を震う。六月癸卯、暴風、雷洪武門の獣吻を震う。

宣徳九年六月甲子、雷大祀壇外西門の獣吻を震う。

正統八年五月戊寅、雷奉天殿の鴟吻を震う。七月辛未、雷南京西角門楼の獣吻を震う。この日、大同の巡警軍が沙溝に至り、風雷驟然として至り、膚を裂き指を断つ者二百余人。九年正月辛亥朔、雷電大雨あり。閏七月壬寅、雷奉先殿の鴟吻を震う。十一年十二月壬寅、大雨雷電あり、翼日にしてやむ。十四年六月丙辰、南京に風雨雷電あり、謹身殿災う。

景泰三年六月庚寅、雷宮庭の中門を撃ち、人を傷つく。

天順二年六月己卯、雷大祀殿の鴟吻を震う。四年六月癸丑、雷薊州の倉廒四を毀つ。

成化三年六月戊申、雷南京午門正楼を震う。五年二月乙卯、また山川壇具服殿の獣吻を震う。八年四月辛未、初めて雷す。十二年十一月癸亥、南京に大雷雨あり。十三年二月甲戌、安慶に大雪あり、既にして雷電交作す。十一月辛未冬至、杭州に大雷雨あり。戊寅、荊門州に大雷電雨雪あり。十七年七月己亥、雷郊壇承天門の脊獣を震う。十一月丁酉、江南に大雷雨雪あり。

弘治元年五月丙子、辰刻、南京震雷洪武門の獣吻を壊す。巳刻、孝陵の御道樹を壊す。六月己酉、また鷹揚衛の倉楼、聚宝門の旗杆を壊す。二年四月庚子、また神楽観祖師殿を毀つ。三年七月壬子、また午門西城牆を壊す。六年閏五月丁未、薊州に大風雷あり、木を抜き禾を偃し、牛馬に震死者あり。十二月壬戌、南京に雷雨あり、孝陵の樹を抜く。七年六月癸酉、同じ。七月丙辰、福州に雷城楼を毀つ。八年十二月丙子、長沙に大雷電雨雪あり。丁丑、南昌・彭水ともに大雷電あり、雨雪雹あり、大木折る。十年四月、雷宣府西横嶺の南山を震い、三十余丈傾く。七月乙卯、雷吉王府端礼門の獣吻を撃つ。十二年四月丙午、雷楚府承運殿を震う。十四年閏七月庚辰、福州に大風雷あり、教場の旗杆・城楼・大樹を撃ち壊す。

正徳元年五月壬辰、雷青州衣甲庫の獣吻を震い、火庫中より起こる。六月辛酉、雷西中門の柱脊を撃ち、暴風郊壇の松柏を折り、大祀殿及び斎宮の獣瓦多く堕ち落つる者あり。丙子、南京に暴風雨あり、雷孝陵白土岡の樹を震う。十二月己巳朔、南通州に雷再び震う。四年十二月壬寅、杭州に大雨雷電あり、二日を越えてまた作す。五年六月丙申、雷万全衛柴溝堡を震い、墩軍四人を斃す。七年五月戊辰、雷余干万春寨の旗杆を震い、状は刀劈の如し。閏五月丁亥、雷成都衛門及び教場の旗杆を震う。十年閏四月甲申、薊州賺狗崖・東墩及び新開嶺関に雷火あり、三十余人を震傷す。十二年八月癸亥、南京に歴代帝王を祭るに、雷雨大いに作し、斎房の吏を震死す。十二月庚辰、瑞州に大雷電あり。十六年八月、雷奉天門を撃つ。

嘉靖二年五月丁丑、雷観象台を撃つ。四年七月己丑、雷南京長安ちょうあん左門の獣吻を撃つ。五年四月戊寅、雷阜城門城楼南角の獣吻及び北九鋪の旗杆を撃つ。十年六月丁巳、雷徳勝門を撃ち、民屋の柱を破り、斃する者四人。癸亥、雷午門角楼及び西華門城楼の柱を撃つ。十五年六月甲申、雷南京西上門の獣吻を撃ち、男女十余人を震死す。十六年五月戊戌、雷謹身殿の鴟吻を震う。二十八年六月丁酉朔、雷奉先殿左吻及び東室門の槅を震う。三十三年四月乙亥、初めて雷す。三十八年六月丙寅、雷奉先殿門外南西二牆を撃つ。

隆慶元年八月、大暑に雷鳴が轟く。翌日、大寒となり、厳冬の如し。この夜、雷鳴が夜明けまで続く。四年六月辛酉、雷が圜丘広利門の鴟吻を撃つ。

萬曆三年六月己卯、雷が建極殿の鴟吻を撃つ。壬辰、雷が端門の鴟尾を撃つ。六年七月壬子、雷が南京承天門の左檐を撃つ。十三年七月戊子、雷が郊壇広利門を震わせ、榜題の「利」の字及び斎宮北門の獣吻を傷つける。十六年八月壬午、雷が南京旧西安門の鐘鼓楼の獣頭を震わせる。十九年五月甲戌、太平路・喜峯路ともに雷撃を受け、墩台が折れ、官軍を傷つける。二十一年四月戊戌、雷が孝陵の大木を震わせる。二十二年六月己酉、雷雨、西華門に災いあり。七月壬辰、雷が祈谷壇東天門の左吻を撃つ。二十四年二月己酉の夜、酃県に大雷雨あり、火光十余里に遍し。二十五年七月庚寅朔、雷が黄花鎮の台垣及び火器を毀つ。三十二年五月癸酉、雷が長陵楼を毀ち、また薊鎮鬆棚路の墩台を毀つ。三十三年五月庚子、大雷電、南郊の望灯高杆を撃ち毀す。三十七年八月甲寅、雷が西城上の旗杆を劈く。

泰昌元年十月己未、雷が淮安城楼を毀つ。

崇禎六年十二月丁亥、大風雪、雷電あり。九年正月甲戌、雷が孝陵の樹木を毀つ。十年四月乙亥、薊州に雷火起こり、東山二十余里を焚く。十二年七月、雷が密雲城の鋪楼を撃ち破り、貯蔵していた砲木ことごとく砕ける。十月乙未立冬、雷電大いに作る。十四年四月癸丑、雷火薊州西北より起こり、趙家谷に燃え移り、二十余里に延びる。六月丙午、雷が宣府西門の城楼を震わせる。十五年四月癸卯、雷が南京孝陵の樹木を震わせ、火が樹木より出る。十六年五月癸巳朔、雷鳴が一晩中止まず。翌日、太廟の神主が横倒しとなり、諸々の銅器は火に焼かれて熔け、灰となる。六月丙戌、雷が奉先殿の鴟吻を震わせ、槅扇ことごとく裂け、銅鐶ことごとく毀つ。

▲魚の妖異

嘉靖四十一年二月乙亥、德州九龍廟に魚が雨の如く降り、大なるものは数寸。崇禎十年三月、錢塘江の木鏚が魚に化け、頭尾未だ変じざるものあり。

▲蝗と蝻

洪武五年六月、済南属県及び青・萊二府に蝗害。七月、徐州・大同に蝗害。六年七月、北平・河南・山西・山東に蝗害。七年二月、平陽・太原・汾州・歴城・汲県に蝗害。六月、懐慶・真定・保定・河間・順徳・山東・山西に蝗害。八年夏、北平・真定・大名・彰徳諸府の属県に蝗害。建文四年夏、京師に飛蝗天を蔽い、十余日止まず。永楽元年夏、山東・山西・河南に蝗害。三年五月、延安・済南に蝗害。十四年七月、畿内・河南・山東に蝗害。宣徳四年六月、順天州県に蝗害。九年七月、両畿・山西・山東・河南に蝗蝻地を覆うこと尺余、禾稼を傷つく。十年四月、両京・山東・河南に蝗蝻禾稼を傷つく。正統二年四月、北畿・山東・河南に蝗害。五年夏、順天・河間・真定・順徳・広平・応天・鳳陽・淮安・開封・彰徳・兗州に蝗害。六年夏、順天・保定・真定・河間・順徳・広平・大名・淮安・鳳陽に蝗害。秋、彰徳・衛輝・開封・南陽・懐慶・太原・済南・東昌・青・萊・兗・登諸府及び遼東広寧前・中屯二衛に蝗害。七年五月、順天・広平・大名・河間・鳳陽・開封・懐慶・河南に蝗害。八年夏、両畿に蝗害。十二年夏、保定・淮安・済南・開封・河南・彰徳に蝗害。秋、永平・鳳陽に蝗害。十三年七月、飛蝗天を蔽う。十四年夏、順天・永平・済南・青州に蝗害。景泰五年六月、寧国・安慶・池州に蝗害。七年五月、畿内に蝗蝻延蔓す。六月、淮安・揚州・鳳陽大旱蝗。九月、応天及び太平七府に蝗害。天順元年七月、済南・杭州・嘉興に蝗害。二年四月、済南・兗州・青州に蝗害。成化三年七月、開封・彰徳・衛輝に蝗害。九年六月、河間に蝗害。七月、真定に蝗害。八月、山東旱蝗。十九年五月、河南に蝗害。二十二年三月、平陽に蝗害。四月、河南に蝗害。七月、順天に蝗害。弘治三年、北畿に蝗害。四年夏、淮安・揚州に蝗害。六年六月、飛蝗東南より西北に向かい、三日間日を掩う。七年三月、両畿に蝗害。嘉靖三年六月、順天・保定・河間・徐州に蝗害。隆慶三年閏六月、山東旱蝗。萬曆十五年七月、江北に蝗害。十九年夏、順徳・広平・大名に蝗害。三十七年九月、北畿・徐州・山東に蝗害。四十三年七月、山東旱蝗。四十四年四月、再び蝗害。七月、常州・鎮江・淮安・揚州・河南に蝗害。九月、江寧・広徳に蝗蝻大いに起こり、禾黍竹樹ことごとく尽きる。四十五年、北畿旱蝗。四十六年、畿南四府また蝗害。四十七年八月、済南・東昌・登州に蝗害。天啓元年七月、順天に蝗害。五年六月、済南に飛蝗天を蔽い、田禾ことごとく尽きる。六年十月、開封旱蝗。崇禎八年七月、河南に蝗害。十年六月、山東・河南に蝗害。十一年六月、両京・山東・河南大旱蝗。十三年五月、両京・山東・河南・山西・陝西大旱蝗。十四年六月、両京・山東・河南・浙江大旱蝗。

▲豕の禍

嘉靖七年、杭州の民家に豕あり、肉膜の間に文字生ず。萬曆二十三年春、三河の民家に八頭の豕生まれ、一頭は人形に類し、手足ともに備わり、額上一目あり。三十八年四月、燕河路営に豕生まれ、一身に二頭、六蹄二尾あり。六月、大同後衛に豕生まれ、両頭四眼四耳あり。四十七年六月、黄県に豕生まれ、双頭四耳、一身八足あり。七月、寧遠に豕生まれ、身白く毛無く、長鼻象嘴あり。天啓三年七月、辰州玩平溪に豕生まれ、猪身人足、一目あり。四年三月、神木に豕生まれ、額に一鼻多く逆生し、目深く皮肉に蔵れ、合すれば見えず。四月、榆林に豕生まれ、一首二身、二尾八足あり。六月、霍州に豕生まれ、二身二眼、象鼻、四耳四乳あり。崇禎元年三月、石泉に豕生まれ、象に類し、鼻下一目甚だ大きく、身に毛無く、皮肉ともに白し。六年二月、建昌に豕生まれ、二身一首、八蹄二尾あり。十五年七月、聊城に豕生まれ、一首二尾七蹄あり。

▲龍蛇の妖異

成化五年(1469年)六月、黄河が杏花営で決壊し、河に卵が浮かんだ。人の頭ほどもあり、下部は尖り上部は丸く、質は青白く、これは龍の卵であった。弘治九年(1496年)六月庚辰、宣府鎮南口墩で驟雨のうちに火が起こり、龍が刀の鞘の中から立ち上がった。十八年(1505年)五月辛卯、正午に旋風が大いに起こり、雲が三殿を覆い隠し、あたかも人が龍に乗って雲に入るかのようであった。正徳七年(1512年)六月丁卯の夜、招遠に赤い龍が空中に懸かり、光は火のようで、旋回しながら上昇し、天鼓がそれに従って鳴った。十二年(1517年)六月癸亥、山陽で黒い龍が見え、一匹の龍が水を吸い上げ、その音は数里に聞こえ、舟と舟の女を空中に引き上げてから落とした。十三年(1518年)五月癸丑、常熟県俞野村で迅雷震電があり、白龍一匹、黒龍二匹が雲に乗って並んで降り、口から火を吐き、目は炬火のようで、三百余戸の民家を撤去し、二十余隻の舟を空中に吸い上げた。舟人は地面に墜落し、多くは恐怖のあまり死んだ。この夜は紅雨が注ぐように降り、五日してやんだ。十四年(1519年)四月、鄱陽湖で蛟龍が闘った。嘉靖四十年(1561年)五月癸酉、青浦県佘山で九匹の蛟が並び起こり、水を涌き上がらせて河となった。万暦十四年(1586年)七月戊申、舒城で大雷雨があり、百五十八匹の蛟が起こり、その跡は斧で劈かれたようで、山は崩れ田は陥没し、溺死した民は数え切れなかった。この年、建昌の民が山で薪を採っていると、巨大な蛇に出会った。一角あり、六本の足は鶏の距のようで、噛みつかず驚かず、ある者はこれを肥遺(伝説の怪蛇)の生き残りだと言った。十八年(1590年)七月、猗氏で大水があり、二匹の龍が村で闘い、遺された卵を得たが、まもなく失われた。十九年(1591年)六月己未、公安で大水があり、牛ほどの巨大な蛇がいた。頭は赤く体は黒く、長さ二丈余りで、行くところの堤は決壊した。三十一年(1603年)五月戊戌、歴城で大雨があり、二匹の龍が水中で闘い、山石は皆飛び、平地の水は十丈の高さになった。四十五年(1617年)八月、安丘県青河村で青と白の二匹の龍が闘った。

▲馬の異変

永楽十八年(1420年)九月、諸城が龍馬を献上した。民の牝馬が海浜で放牧されていたが、ある日雲霧が晦冥となり、何か蜿蜒たるものが馬と交わった。産まれた駒は、龍の文様を備え、その色は青蒼で、これを龍馬と言った。宣徳七年(1432年)五月、忻州の民武煥の家の馬が一頭の駒を産んだ。鹿の耳に牛の尾、玉の面に瓊の蹄、肉の文様が体を覆うこと鱗のようであった。七月、滄州で官馬を飼っていたが、一度に二頭の駒を産んだ。州はこれを祥瑞と考え、朝廷に献上した。宣宗は言った、「物の道理の常である。何を異とすることがあろうか」。

成化十七年(1481年)六月、興済で馬が二頭の駒を産んだ。弘治元年(1488年)二月、景寧県屏風山に異物が群れをなした。羊ほども大きく、白馬のような形状で、数は万を数えた。首尾相連なり、迤邐として騰空して去った。嘉靖四十二年(1563年)四月、海塩に海馬が万数おり、岸を二十余里行った。そのうち一匹が最も巨大で、楼閣のように高かった。

▲人の怪異

前史は多く一産三男の事を記しているが、近年は多くあり、詳しく述べ尽くせない。そのやや異なるものを記す。洪武二十四年(1391年)八月、河南龍門の婦人司牡丹が死んで三年、袁馬頭の屍を借りて復生した。宣徳元年(1426年)十一月、行在錦衣衛校尉こうい綦榮の妻皮氏が一度に四子を産んだ。天順四年(1460年)四月、揚州の民婦が一度に五男を産んだ。成化十三年(1477年)二月、南京鷹揚衛の軍士陳僧兒の妻硃氏が一度に三男一女を産んだ。十七年(1481年)六月、宿州の民張珍の妻王氏が臍下右側が裂け、一子を生んだ。二十年(1484年)十二月、徐州の婦人が肋下に瘤ができ、久しくして次第に大きくなり、児が瘤から出た。二十一年(1485年)、嘉善の民鄒亮の妻が初乳で三子を生み、再乳で四子を生み、三乳で六子を生んだ。弘治十一年(1498年)六月、騰驤左衛百戸黄盛の妻宜氏が一度に三男一女を産んだ。十六年(1503年)五月、応山の民張本華の妻崔氏に髭が生え、長さ三寸になった。この時、鄭陽の商人の妻に髭が三筋生え、およそ百余本あった。嘉靖二年(1523年)六月、曲靖衛の舍人胡晟の妻が一男を生んだが、両頭四手三足であった。四年(1525年)、横涇の農夫孔方の協下から肉塊が産まれ、剖いて見ると、一人の児が宛然としていた。五年(1526年)、江南の民婦が妖を生んだ。六つの目と四つの面、角があり、手足は各一節、独りの爪で、鬼のような声であった。十一年(1532年)、当塗の民婦が一度に三男一女を産んだ。十二年(1533年)、貴州安衛の軍士李華の妻が男児を生んだが、両頭四手四足であった。二十七年(1548年)七月、大同右衛参将馬継の舍人馬録の娘、年十七で男子に化した。隆慶二年(1568年)十二月、静楽の男子李良雨が婦人に化した。五年(1571年)二月、唐山の民婦が児を生んだが、左脇から出た。万暦十年(1582年)、淅川の人が狼に化した。十八年(1590年)、南宿州の民婦が一度に七子を産み、膚と髪は紅・白・黒・青それぞれの色であった。三十七年(1609年)六月、繁峙の民李宜の妻牛氏が一度に二女を産んだが、頭面相連なり、手足はそれぞれ分かれていた。四十六年(1618年)、広寧衛の民婦が一匹の猴を産んだ。二つの角と四つの歯があった。この時、大同の民婦が一度に四男を産んだ。崇禎八年(1635年)夏、鎮江の民婦が一子を産んだが、頂上に二つの首を載せ、臀に一つの首が付いており、母と共に斃れた。十五年(1642年)十一月、曹県の民婦が児を産んだが、両頭で、頂上に眼があり、手が膝を過ぎていた。

▲疾疫

永楽六年(1408年)正月、江西建昌・撫州、福建建寧・邵武は去年から今月に至るまで、疫病で死んだ者は七万八千四百余人であった。八年(1410年)、登州寧海諸州県は正月から六月まで、疫病で死んだ者は六千余人であった。邵武は連年大疫があり、この年(1410年)の冬に至り、死に絶えた家は一万二千戸であった。九年(1411年)七月、河南・陝西で疫病が流行した。十一年(1413年)六月、湖州三県で疫病が流行した。七月、寧波五県で疫病が流行した。正統九年(1444年)冬、紹興・寧波・台州で瘟疫が大いに起こり、翌年までに、死者は三万余人であった。景泰四年(1453年)冬、建昌・武昌・漢陽で疫病が流行した。六年(1455年)四月、西安・平涼で疫病が流行した。七年(1456年)五月、桂林で疫病により死んだ者は二万余人であった。天順五年(1461年)四月、陝西で疫病が流行した。成化十一年(1475年)八月、福建で大疫が起こり、江西に延び、死者は数え切れなかった。正徳元年(1506年)六月、湖広平溪・清涼・鎮遠・偏橋の四衛で大疫が起こり、死者は甚だ多かった。靖州諸処は七月から十二月まで大疫が起こり、建寧・邵武は八月から始まり同様に大疫が起こった。十二年(1517年)十月、泉州で大疫が起こった。嘉靖元年(1522年)二月、陝西で大疫が起こった。二年(1523年)七月、南京で大疫が起こり、軍民の死者は甚だ多かった。四年(1525年)九月、山東で疫病により死んだ者は四千百二十八人であった。三十三年(1554年)四月、都城内外で大疫が起こった。四十四年(1565年)正月、京師は飢饉かつ疫病であった。万暦十年(1582年)四月、京師で疫病が流行した。十五年(1587年)五月、また疫病が流行した。十六年(1588年)五月、山東・陝西・山西・浙江は皆大旱かつ疫病であった。崇禎十六年(1643年)、京師で大疫が起こり、二月から九月まで続いた。明年の春、北畿・山東で疫病が流行した。

▲鼓妖

洪武五年八月己酉、徐溝の西北の空中に雷の如き声あり。十一年、瑞昌に鐘の如き大声あり、天より下り、形なし。天順六年九月乙巳の夜、天に雲なく、西北方に雷の如き声あり。七年二月晦の夜、空中に声あり。大学士李賢奏す、形なくして声あるを鼓妖と謂い、上民を恤れざれば則ち此の異有りと。成化十三年正月甲子、代州雲なくして雷鳴す。十四年八月戊戌、早朝、東班の官若し甲兵の声有るを聞く者、辟易して列を成さず、久しくして始めて定まる。弘治六年六月丁卯、石州の呉城驛に雲なくして震ふこと再びす。十七年六月甲申、江西の廬山鳴くこと雷の如し。嘉靖二十九年二月甲子、隆慶州の張山営堡山鳴く。万暦十二年十二月己未、蕭県山鳴くこと驚濤澎湃の如く、竟夜止まず。二十八年八月戊戌、西北方に雷の如き声あり。天啓七年八月丁巳、荘烈帝即位の時、朝時に、空中に天鼓の如き声あり、殿西より発す。崇禎十二年十二月乙未、蕭県山鳴く。是の月、西山大いに鳴くこと雷の如く、風濤の如し。十三年二月壬子、浙江省城門夜に鳴く。十六年冬、建極殿の鴟吻の中に声あり、鵓鳩に似て、「苦苦」と曰ひ、其の声漸く大となり、復た犬吠の声を為し、三日夜止まず。明年三月辛丑、孝陵夜に哭聲あり、亦た鼓妖なり。

▲隕石

成化六年六月壬申、陽信に雷声嘯くが如く、隕石一、三つに碎け、外黒く内青し。十四年六月辛亥、臨晋に天鳴き、隕石県の東南三十里に落ち、地に三尺入り、升の如く大にして色黒し。二十三年五月壬寅、束鹿の空中響くこと雷の如く、青気地に墜つ。之を掘りて黒石二を得、一は碗の如く、一は鶏卵の如し。弘治三年三月、慶陽に石を雨ふること無數、大小一ならず、大なるものは鵝卵の如く、小なるものは芡実の如し。四年十月丁巳、光山に紅光電の如く有り、西南より東北に往き、声鼓の如く、久しくして地に入り、石と化す、斗の如く大なり。十年二月丙申、修武に黒気地に入り、石と化し、状羊首の如し。十二年五月戊寅、朔州に声有り、迅雷の如く、白気騰上し、大石三つ隕つ。正徳元年八月壬戌、夜に火光有り即墨に落ち、緑石と化し、円く高さ尺餘。九年五月己卯、濱州に声有り石を隕す。十三年正月己未、鄰水に隕石一。嘉靖十二年五月丁未、祁県に声有り鼓の如く、火流地に墜ちて石と為る。四十二年三月癸卯、懷慶に隕石す。隆慶二年三月己未、保定新城に黒石二つ隕つ。万暦三年五月癸亥、二流星晝に景州城北に隕ち、黒石と化す。十七年九月戊午、萬載に黒煙騰起し、隕石演武廳の畔に落つ。十九年四月辛酉、遵化に隕石二つ。四十四年正月丁丑、易州及び紫荊関に光有り石崩裂す。崇禎九年九月丁未、太康に隕石す。

▲水潦

洪武元年六月戊辰、江西永新州大風雨、蛟出で、江水城に入り、高さ八尺、人多く溺死す。事聞こえ、使いをして之を賑はす。三年六月、溧水県江溢れ、民居を漂はす。四年七月、南寧府江溢れ、城垣を壊す。衢州府龍遊県大雨、水民廬を漂はし、男女溺死す。五年八月、嵊県、義烏、餘杭の山谷水涌き、人民溺死する者衆し。六年二月、崇明縣潮の為に没せらる。七月、嘉定府龍遊縣の洋、雅二江漲き、翼日に南溪県江漲き、俱に公廨民居を漂はす。七年八月、高密県の膠河溢れ、禾を傷つく。八年七月、淮安、北平、河南、山東大水。十二月、直隷蘇州、湖州、嘉興、松江、常州、太平、寧国、浙江杭州俱に水有り。九年、江南、湖北大水。七月、湖広、山東大水。十年六月、永平の灤、漆二水民廬舍を没す。七月、北平八府大水、城垣を壊す。十一年七月、蘇、鬆、揚、臺四府海溢れ、人多く溺死す。十月丙辰、河蘭陽に決す。十二年五月、青田の山水県治を没す。十三年十一月、崇明潮沙岸を決し、人畜多く溺死す。十四年八月庚辰、河原武に決す。十五年二月壬子、河南河決す。三月庚午、河朝邑に決す。七月、河滎澤、陽武に溢る。是の歳、北平大水。十七年八月丙寅、河開封に決し、横流すること数十里。是の歳、河南、北平俱に水有り。十八年八月、河南又水有り。是の年、江浦、大名水有り。二十三年正月庚寅、河帰徳に決す。七月癸巳、河開封に決し、民居を漂没す。又海門県の風潮官民廬舍を壊し、漂溺する者衆し。是の歳、襄陽、沔陽、安陽水有り。二十四年十月、北平、河間二府水有り。二十五年正月、河陽武に決し、開封州県十一俱に水有り。二十六年十一月、青、兗、済寧三府水有り。二十七年三月、寧陽の汶河決す。二十八年八月、德州大水、城垣を壊す。三十年八月丁亥、河開封に決し、三面皆水、倉庫を犯す。

永楽元年五月、章丘の漯河が堤防を決壊し、農作物を損なう。南海・番禺で潮が溢れる。八月、安丘県の紅河が決壊する。二年六月、蘇州・松江・嘉興・湖州の四府がともに水害に見舞われる。七月、湖広・江西で水害が起こる。九月、黄河が開封で決壊し、城壁を破壊する。三年三月、温県で水が堤防を四十余丈決壊させる。済水・澇水の二水が溢れる。八月、杭州の属県の多くで水害が起こり、男女四百余人が水に沈む。七年五月、安陸州で長江が溢れ、渲馬灘の圩岸を千六百余丈決壊させる。六月、寿州で水が城壁を決壊させる。この年、泰興の長江岸が三千九百余丈にわたり江中に陥没する。渾河が固安で決壊する。八年五月、平度州で濰水及び浮糠河が決壊し、百十三箇所を浸水させる。七月、平陽県で潮が溢れ、家屋を流す。八月庚申、黄河が開封で溢れる。十二月戊戌、黄河が汴梁で決壊し、城壁を破壊する。九年正月、高郵の甓社湖など九つの湖及び天長の諸水が暴漲する。六月、揚州の属州県五箇所で長江の潮が四日間にわたり漲り、人畜を多く流す。七月、海寧で潮が溢れ、多くが溺死・水没する。八月、漳水・衛水の二水が堤防を決壊し田畑を水没させる。九月、雷州で颶風と暴雨があり、遂溪・海康を水没させ、田禾八百余頃を損ない、千六百余人が溺死する。この年、湖広・河南で水害が起こる。十年七月、廬溝水が漲り、橋及び堤岸を破壊し、人畜が溺死する。保定県で五十四箇所の河岸が決壊する。十一月、呉橋・東光・興済・交河・天津で堤防が決壊し農作物を損なう。十二月、安州で水が直亭などの河口八十九箇所を決壊させる。十二年十月、臨晋で涑河が逆流し、姚暹渠の堰を決壊させ、硝池に流入し、民田を水没させ、塩池にまで及ぼうとする。崇明で潮が急激に押し寄せ、五千八百余家の家屋を流す。十三年六月、北畿・河南・山東で水が溢れ、家屋を破壊し、田禾を水没させ、臨清が特に甚だしい。滏水・漳水の二水が磁州の民家を流す。十四年夏、南昌諸府で長江が漲り、民家を破壊する。七月、開封の十四州県で河が堤岸を決壊する。永平で灤河・漆河の二河が溢れ、民田の農作物を損なう。福寧・延平・邵武・広信・饒州・衢州・金華の七府で、いずれも溪水が暴漲し、城壁や家屋を破壊し、人畜の溺死者が甚だ多い。遼東で遼河・代子河の水が溢れ、城壁や屯堡を水没させる。十八年夏秋、仁和・海寧で潮が湧き上がり、千五百余丈の堤防が海中に陥没する。二十年五月、広東諸府で潮が溢れ、家屋を流し、倉庫の食糧を損ない、三百六十余人が溺死する。夏秋、湖広沔陽で長江が漲り、河南北部及び鳳陽で河が溢れる。二十一年五月、峨眉で溪水が漲り、百三十人が溺死する。八月、瓊州府で潮が溢れ、多くが溺死・水没する。二十二年七月、黄岩で潮が溢れ、八百人が溺死する。九月庚辰、黄河が開封で溢れる。

洪熙元年六月、驟雨により白河が溢れ、河西務・白浮・宋家などの口の堤岸を沖決する。臨漳で漳河・滏河の二河が二十四箇所の堤岸を決壊する。真定で滹沱河が大いに溢れ、三州五県の田を水没させる。七月、容城で白溝河が漲り、禾稼を損なう。渾河が廬溝橋東の狼窩口で決壊し、順天・河間・保定・灤州がともに水害に見舞われる。

宣徳元年六七月、長江水が大いに漲り、襄陽・谷城・均州・鄖県で、長江沿いの民家の半数が水没・流失する。黄河・汝水の二水が溢れ、開封十州県及び南陽汝州・河南嵩県を水没させる。三年五月、邵陽・武岡・湘郷で七昼夜にわたり暴風雨があり、山水が急激に漲り、平地の水嵩が六尺に達する。永寧衛で大水が起こり、四百丈の城壁を破壊する。六月、渾河の水が溢れ、廬溝河の堤防を百余丈決壊させる。七月、北畿七府がともに水害に見舞われる。五年七月、南陽で山水が泛漲し、堤岸を沖決し、人畜や家屋を漂流させる。六年六月、渾河が溢れ、徐家などの口を決壊させ、順天・保定・真定・河間の二十九州県がともに水害に見舞われる。黄河が開封で決壊し、八県を水没させる。七年六月、太原で河・汾水がともに溢れ、農作物を損なう。八年六月、江西の長江沿い八府で長江が漲り、民田を水没・流失させ、溺死した男女は数え切れない。九年正月、沁郷で沁水が漲り、馬曲灣を決壊させ、獲嘉・新郷を経て、平地が河となる。五月、寧海県で潮が堤防を決壊させ、百七十余頃の土地が移動する。六月、渾河が東岸を決壊し、狼河口から小屯廠に至り、順天・順徳・河間がともに水害に見舞われる。七月、遼東で大水が起こる。

正統元年閏六月、順天・真定・保定・済南・開封・彰徳の六府はいずれも大水。二年、鳳陽・淮安・揚州の諸府、徐・和・滁の諸州、河南開封、四五月に河・淮が氾濫し、居民の禾稼を漂没。九月、河が陽武・原武・滎沢で決壊。湖広沿江の六県が大水で江堤が決壊。三年、陽武で河が決壊、武陟で沁が決壊、広平・順徳で漳が決壊、通州で白河が溢流。四年五月、京師が大水、官舎民居三千三百九十区を破壊。順天・真定・保定の三府州県及び開封・衛輝・彰徳の三府はいずれも大水。七月、滹沱・沁・漳の三水がいずれも決壊、饒陽・献県・衛輝・彰徳の堤岸を破壊。八月、白溝・渾河の二水が溢流、保定安州の堤防を決壊。蘇・常・鎮の三府はいずれも決壊、饒陽・献県・衛輝・彰徳の堤岸を破壊。九月、滹沱が再び深州で決壊、百余里を水没。五年五月から七月、江西で江が溢流、河南で河が溢流。八月、潮が蕭山の海塘を決壊。六年五月、泗州で水が丈余溢流、廬舎を漂没。七月、白河が武清・漷県の堤防二十二箇所を決壊。八月、寧夏が長雨、水が氾濫、屯堡墩台を甚だ多く破壊。八年六月、渾河が固安で決壊。八月、台州・松門・海門で海潮が氾濫、城郭・官亭・民舎・軍器を破壊。九年七月、揚子江沙洲で潮水が溢漲、高さ丈五六尺、男女千余人を溺死。閏七月、北畿七府及び応天・済南・岳州・嘉興・湖州・台州がいずれも大水。河南の山水が衛河に流入、衛輝・開封・懐慶・彰徳の民舎を没し、衛所城を破壊。十年三月、洪洞で汾水の堤防が決壊、普潤駅を移設してその害を遠ざく。夏、福建が大水、延平府衛城を破壊、三県の田禾民舎を没し、人畜漂流算無し。河南の州県多く大水。七月、延安衛が大水、護城河の堤防を破壊。九月、広東の衛所多く大水。十月、河が山東金龍口の陽谷堤を決壊。十一年六月、渾河が固安で溢流。両畿・浙江・河南がいずれも連月大雨水。この年、太原・兗州・武昌もまたいずれも大水。十二年春、贛州・臨江が大水。五月、吉安で江が漲り田を水没。十三年六月、大名で河が決壊、三百余里を水没、廬舎二万区を破壊、死者千余人。河南・済南・青・兗・東昌もまたいずれも河が決壊。七月、寧夏が大水。河が漢・唐の二つの堤防を決壊。河南の八樹口が決壊、曹・濮の二州に漫延、東昌に至り、沙湾等の堤防を破壊。十四年四月、吉安・南昌臨江がいずれも水害、壇廟廨舎を破壊。

景泰元年七月、応天が大水、民廬を没す。三年六月、河が沙湾白馬頭で七十余丈決壊。八月、徐州・済寧の間、平地水高一丈、民居尽く倒壊。南畿・河南・山東・陝西・吉安・袁州がいずれも大水。四年春夏、河が連続して沙湾で決壊。五年六月、揚州で潮が高郵・宝応の堤岸を決壊。七月、蘇・鬆・淮・揚・廬・鳳の六府が大水。八月、東・兗・済の三府が大水、河が漲り田を水没。六年六月、開封・保定がいずれも大水。閏六月、順天が大水、灤河が氾濫、城垣民舎を破壊、河間・永平の水害特に甚だし。武昌諸府で江が溢流し禾稼を損傷。七年六月、河が開封で決壊、河南・彰徳の田廬を水没。この年、畿内・山東がいずれも水害。

天順元年夏、淮安・徐州・懐慶・衛輝がいずれも大水、河が決壊。三年六月、谷城・景陵で襄水が涌き氾濫し禾稼を損傷。四年夏、湖北で江が漲り、麦禾を水没。北畿及び開封・汝寧が大水。七月、淮水が決壊、軍民の田廬を没す。五年七月、河が開封の土城を決壊、磚城を築いてこれを防ぐ。三日を経て、磚城もまた潰決、水深丈余。周王の後宮及び官民が筏に乗じて避難、城中の死者算無し。襄城で水が城門を決壊、溺死者甚だ衆し。崇明・嘉定・崑山・上海で海潮が沖決、溺死一万二千五百余人。浙江もまた大水。六年七月、淮安が大水、潮が溢流、塩丁千三百余人を溺死。七年七月、密雲で山水が驟漲、軍器・文巻・房屋をいずれも没す。

成化三年六月、江夏で水が江口の堤岸を決壊、漢陽に至り、長さ八百五十丈余。五年、湖広が大水。山西で汾水が禾稼を損傷。六年六月、北畿が大水。七年閏九月、山東及び浙江の杭・嘉・湖・紹の四府がいずれも海溢、田宅人畜を水没し算無し。九年六月、畿南五府及び懐慶がいずれも大水。八月、山東が大水。十一年五月、湖広が水害。十二年八月、浙江が風潮による大水。淮・鳳・揚・徐もまたいずれも大水。十三年二月甲戌、安慶が大雪。翌日大雨、江水が暴漲。閏二月、河南が大水。九月、淮水が溢流、淮安州県の官舎民屋を破壊、人畜を甚だ多く水没。十四年四月、襄陽で江が溢流、城郭を破壊。五月、陝州が大水、人多く淹死。七月、北畿・山東が水害。九月、河が開封の護城堤を五十丈決壊。十八年七月、昌平が大水、居庸関の水門四十九を決壊、城垣・鋪楼・墩台一百二。八月、衛・漳・滹沱が並び溢流、清平より天津に至る。

弘治二年五月、河が開封の黄沙岡より紅船湾に至るまで、凡そ六箇所で決壊、沁河に入る。経過する州県多く災害、省城特に甚だし。七月、順・永・河・保の四府州県が大水。八月、盧溝河の堤防が破損。四年八月、蘇・鬆・浙江が水害。五年夏秋、南畿・浙江・山東が水害。七年七月、蘇・常・鎮の三府で潮が溢流、平地水五尺、沿江のもの一丈、民多く溺死。九年六月、山陰・蕭山で山崩れ水涌き、三百余人を溺死。十四年五月、貴池で水漲り、蛟が出没、二百六十余人を淹死、傍邑十二はいずれも大水。七月、廉州及び霊山で海漲り、百五十余人を淹死。閏七月、瓊山で颶風潮溢、平地水高七尺。八月、安・寧・池・太の四府が大水、蛟が出没、房屋を漂流。十五年七月、南京で江水が氾濫、湖水が城内に五尺余流入。十七年六月、廬山で平地水丈余、星子・徳安の民を溺死させ、及び廬舎を甚だ多く漂没。

正徳元年(1506年)六月、陝西徽州において河川が氾濫し、住民と家畜が流され溺死した。二年六月、固原において河川が増水し、平地の水深が四尺に達し、人畜が溺死した。三年九月、延綏・慶陽で大水害が発生した。五年九月、安慶・寧国・太平の三府で大水害が発生し、二万三千余人が溺死した。十一月、蘇州・松江・常州の三府で水害が発生した。六年六月、汜水が急激に増水し、百七十六人が溺死し、城壁が百七十余りの区画で破壊された。十二年、順天・河間・保定・真定で大水害が発生した。鳳陽・淮安・蘇州・松江・常州・鎮江・嘉興・湖州の諸府はいずれも大水害に見舞われた。荊州・襄陽では長江が大増水した。十五年五月、江西で大水害が発生した。十六年七月、遼陽湯跕堡において大水が城を決壊させた。

嘉靖元年(1522年)七月、南京で暴風雨が発生し、長江の水が湧き上がり氾濫し、郊社・陵寢・宮闕・城垣の吻脊欄楯がことごとく破損した。一万余株の樹木が倒れ、長江の船は多くが漂流・沈没した。廬州・鳳陽・淮安・揚州の四府で同日に大風雨と雹が発生し、河川の水が氾濫し、溺死した人畜は数え切れなかった。二年七月、揚州・徐州で再び大水害が発生した。夏から秋にかけて、山東の州県はいずれも大水害に見舞われた。八月、蘇州・松江・常州・鎮江の四府で大水害が発生し、開封も同様であった。五年六月、陝西五郎壩において水が三丈余りに達し、官舎を押し流して決壊させた。徐州・はい県で河川が氾濫し、豊県の城を破壊した。六年秋、湖広で水害が発生した。十六年秋、両畿・山東・河南・陝西・浙江がそれぞれ水害を受け、湖広が特に甚大であった。二十六年七月丙辰、曹県で黄河が決壊し、城と池が流され、溺死者が甚だ多かった。二十七年正月、汧陽で大水が城を水没させた。

隆慶元年(1567年)夏、京師で大水害が発生した。六月、新河鮎魚口で運搬船数百艘が沈没した。この年、襄陽・鄖陽で水害が発生した。二年七月、台州で颶風が発生し、海潮が大いに増水し、天台山の諸水を伴って城内に入り、三日間に三万余りが溺死し、十五万畝の田が水没し、五万区の家屋が破壊された。三年閏六月、真定・保定・淮安・済南・浙江・江南がいずれも大水害に見舞われた。七月壬午、黄河が沛県で決壊し、考城・虞城・曹県・単県・豊県・沛県から徐州に至るまで、田畑と家屋の損害は数え切れなかった。九月、淮水が氾濫し、清河から通済閘および淮安城西に至る三十里が泥で埋まり、二つの堤防が決壊して海に流れ込んだ。莒州・沂州・郯城の水もまた邳州に氾濫し、人民の溺死者が甚だ多かった。四年七月、沙河・薛河・汶河・泗河の諸水が急激に氾濫し、仲家浅などの漕運堤防を決壊させた。八月、陝西で大水害が発生し、黄河が邳州で決壊した。五年四月、再び邳州で決壊し、曲頭集から王家口に至る新堤の多くが破損した。この年、山東・河南で大水害が発生した。

万暦元年(1573年)七月、荊州・承天で大水害が発生した。二年六月、福建永定で大水害が発生し、七百余人が溺死した。この年、海塩で海が大いに氾濫し、死者は数千人に及んだ。八月庚午、淮安・揚州・徐州で河川が氾濫し、農作物に被害を与えた。三年四月、淮安・徐州で大水害が発生した。五月、淮水が大決壊した。六月、杭州・嘉興・寧波・紹興の四府で海が数丈も湧き上がり、戦船・家屋・人畜の損害は数え切れなかった。八月、淮安・揚州・鳳陽・徐州の四府州で大水害が発生し、黄河が高郵・碭山および邵家口・曹家莊で決壊した。九月、蘇州・松江・常州・鎮江の四府がいずれも水害に見舞われた。四年正月、高郵清水堤が決壊した。九月、黄河が豊県・沛県・曹県・単県で決壊した。十一月、淮河と黄河が共に氾濫した。五年閏八月、徐州で黄河が泥で埋まり、淮河が南に流路を変え、高郵・宝応の諸湖の堤防を決壊させた。六年六月、清河で水が氾濫した。七年五月、蘇州・松江・鳳陽・徐州で大水害が発生した。八月、再び水害が発生した。この年、浙江で大水害が発生した。九年五月、従化・増城・龍門で渓谷の水が氾濫し、田畑の作物がことごとく水没し、男女の溺死者は数え切れなかった。七月、福安で洪水が城を越え、家屋がほとんど流され尽くした。八月、泰興・海門・如皋で大水害が発生し、塘圩坡埂がことごとく決壊し、溺死者が甚だ多かった。十年正月、淮安・揚州で海が増水し、豊利などの塩場三十か所を浸水させ、二千六百余人が溺死した。七月、蘇州・松江の六州県で潮が氾濫し、十万頃の田畑を損壊し、二万人が溺死した。十一年四月、承天で長江の水が急激に増水し、民家と人畜が流され溺死した数は数え切れなかった。金州で河川が氾濫し城を水没させた。十四年夏、江南・浙江・江西・湖広・広東・福建・雲南・遼東で大水害が発生した。十五年五月、浙江で大水害が発生した。七月、開封および陝州・霊宝で黄河が決壊した。この年、杭州・嘉興・湖州・応天・太平の五府で江湖が氾濫し、平地の水深が一丈余りに達した。七月末、颶風が大いに吹き荒れ、数百里にわたり一面が湖のようになった。十六年八月、黄河が東光魏家口で決壊した。十七年六月、浙江で海が沸き立ち、杭州・嘉興・寧波・紹興・台州の属県の官舎が多く倒壊し、官民の船および戦船が粉砕され、圧死・溺死者は三百余人に及んだ。十九年六月、蘇州・松江で大水害が発生し、数万人が溺死した。七月、寧波・紹興・蘇州・松江・常州の五府の沿海で潮が氾濫し、農作物に被害を与え人を溺れさせた。九月、泗州で大水害が発生し、州庁舎は三尺浸水した。淮水は城よりも高く、祖陵が浸水した。十月、揚州で湖と淮河が増水氾濫し、邵伯堤が五十余丈決壊し、高郵の南北の水門はいずれも押し流された。二十年夏秋、真定・順徳・広平・大名の四府で水害が発生した。二十一年五月、邳州・高郵・宝応で大水害が発生し湖の堤防が決壊した。二十二年七月、鳳陽・廬州で大水害が発生した。二十三年四月、泗水が祖陵を浸水させた。二十四年秋、杭州・嘉興・湖州の三府で大水害が発生した。二十九年八月、沔陽で大水が城内に入った。三十年六月、京師で大水害が発生した。三十一年五月、成安・永年・肥郷・安州・深沢において、漳河・滏陽河・沙河・燕河が共に氾濫し、堤防を決壊させて横流した。祁州・静海では城壁と家屋がほとんど倒壊した。六月、泰安で大水害が発生し、八百余人が水没した。八月、泉州諸府で海水が急激に増水し、一万余人が溺死した。三十二年六月、昌平で大水害が発生し、各陵の橋と道を破壊した。七月、永平・真定・保定の三府がいずれも水害に見舞われ、男女の水没者は数え切れなかった。八月、黄河が蘇家荘で決壊し、豊県・沛県を水没させ、黄河の水が逆流して済寧・魚台・単県を灌漑した。三十五年六月、黄州で蛟竜が起こり、武昌・承天・鄖陽・岳州・常徳で大水害が発生し、家屋が流され溺死した。徽州・寧国・太平・厳州の四府で山水が大いに湧き上がり、人口が甚だ多く流された。閏六月、京師で大水害が発生し、長安街の水深は五尺に達した。三十七年九月、福建・江西で大水害が発生した。四十一年六月、通恵河が決壊した。七月、京師で大水害が発生した。南畿・江西・河南がいずれも大水害に見舞われた。八月、山東・広西・湖広がいずれも大水害に見舞われた。九月、遼東で大水害が発生した。四十二年、浙江・江西・両広がいずれも水害に見舞われた。四十四年七月、江西・広東で水害が発生した。四十六年八月、潮州六県で海の颶風が大いに吹き荒れ、一万二千三百余人が溺死し、三万戸の民家が破壊された。

天啓三年(1623年)、睢寧で黄河が決壊した。六年秋、黄河が匙頭湾で決壊し、駱馬湖に逆流して入り、新安鎮から邳州・宿遷に至るまで、民家がことごとく水没した。この年、順天・永平の二府で大水害が発生し、辺境の城壁の多くが崩壊した。

崇禎元年七月壬午、杭州・嘉興・紹興の三府に海嘯が起こり、民家数万軒を損壊し、数万人が溺死した。海寧・蕭山は特に甚だしかった。三年、山東は大水に見舞われた。四年六月、また大水が起こった。五年六月壬申、黄河が孟津口で決壊し、数百里にわたって横溢した。七年五月、邛州・眉州などの州県が大水に見舞われ、城壁・家屋・田畑・人畜の損害は数え切れなかった。十年八月、敘州が大水に見舞われ、民衆で州庁の堂や高い丘に登った者は難を免れたが、残りはことごとく水没した。十三年五月、浙江は大水に見舞われた。十四年七月、福州で暴風と高潮が氾濫し、多くの者が漂流・溺死した。十五年六月、汴水が決壊した。九月壬午、黄河が開封の硃家寨で決壊した。癸未、城壁が崩壊し、数十万の士民が溺死した。

▲水変

洪武五年、河南の黄河が枯渇し、人が歩いて渡ることができた。天順二年十二月癸未、武強の苦井が甘泉に変わった。弘治十四年八月丙辰、融県の河水が黄河のように赤く濁った。十月丙辰、馬湖の底渓江水が白く澄んで鏡のようになり、翌日には米のとぎ汁のように濁り、両岸の砂石に付着したものは土粉のようになり、十七日目になってようやく澄んだ。丁巳、敘州の東南二河が雪のように白く、濃い汁のようになった状態が三日間続いた。十五年九月丙戌、濮州の井戸が溢れ、砂土が水とともに噴出した。正徳十年七月、文安の水が突然立ち上がり、その日は大変寒く、氷柱となって固まった。高さ・周囲ともに五丈あり、中は空洞で側面に穴があった。数日後に賊が来襲したが、民衆はその穴の中に避難し、生き延びた者が多かった。隆慶六年五月、南畿の龍目井が酒に変わった。萬曆二十二年四月、南京の正陽門の水が三日間赤くなった。二十五年八月甲申、蒲州の池塘に風もないのに波が湧き立ち、三四尺も溢れた。臨淄の濠水が突然増水し、南北から向かい合って激突するかのようになった。また夏荘の大湾では潮が突然起こり、集まったり散ったりして一定せず、集まると丈余の高さになり、開けると底が見えた。楽安の小清河が逆流した。臨清の磚板二閘では、風もないのに大波が立った。三十年閏二月戊午、河州蓮花寨の黄河が枯渇した。四十六年四月、宣武門・正陽門の外の水が三里にわたって血のように赤くなり、一月後にようやく止んだ。四十七年四月、宣武門の響閘から東御河にかけて、水が再び赤くなった。崇禎十年、寧遠衛の井戸が鳴り沸騰し、三日後に止んだ。河南の汝水が変色し、深黒くて味が悪く、飲んだ者は多く病気になった。十三年、華陰の渭水が赤くなった。十四年、山西の潞水が北へ流れ、七昼夜にわたり潮が湧くような勢いだった。十五年、達州の井戸が鳴り、濠水が血に変わった。十六年、松江では五月から七月まで雨が降らず、河水はことごとく枯渇したが、泖水が突然数尺増水した。

▲黒眚・黒祥

洪武十年正月丁酉、金華・処州で墨汁のような雨が降った。十四年正月、黒気が天を横切った。十一月壬午、黒気が天を横切ることが再びあった。二十一年二月乙卯、黒気が天を横切った。宣徳元年二月戊子、北方に黒気が東西に天を横切った。八月辛巳、楽安の城中に死灰のような黒気があった。正統元年九月辛亥、未の刻(午後2時頃)、黒気が天を横切って、西南から東北へかかった。二年八月甲申、北方に黒気が東西に天を横切った。十四年十一月己丑、晡時(午後4時頃)、西方に黒気が地から生じた。景泰元年二月壬寅、黒気が南北に天を横切った。十月辛未、西南に煙火のような黒気があり、南北に天を横切った。二年四月庚辰、煙のような黒気があり、地を擦るようにして立ち上った。天順五年七月己亥朔、東方に黒気があり、たちまち天を覆った。成化七年四月丙辰、漆のように黒い砂が降った。八年三月庚子、黒気が西北から起こり、臨清・德州は昼間でも暗くなった。十二年七月庚戌、京師に黒眚が現れた。民間では男女が屋外に寝泊まりし、金色の目に長い尾を持つ犬や狸のような形をしたものが、黒気を背負って窓から入り、密室に直行し、到着すると人は昏迷した。城全体が驚き騒ぎ、刃を手に灯りを掲げ、銅鑼や太鼓を鳴らして追い払おうとしたが、捕らえることはできなかった。帝が常朝の際、奉天門の侍衛がそれを見て騒ぎ出した。帝が立ち上がろうとすると、懐恩が帝の衣を押さえ、しばらくしてようやく落ち着いた。弘治五年二月己巳、北方に黒気が東西に天を横切った。六年八月壬申、南京に黒気があり、東西百余丈にわたった。十四年四月辛未、応州で黒風が大いに起こった。十六年二月庚子、宜良で黒気が空を覆い、咫尺の間でも人の形が判別できなかった。正徳七年六月壬戌、黒眚が順徳・河間および涿に現れた。大きいものは犬のようで、小さいものは猫のようであり、夜に出て人を傷つけ、死に至らしめる者もあった。まもなく京師にも現れ、形は赤黒く、風のように走る音があり、住民は夜通し刁斗を持って警戒し合い、一ヶ月余りでようやく収まった。後にまた封丘にも現れた。十二年閏十二月丁丑の夜、瑞州に赤い気が白く変わり、曲尺のような形をし、内外に二つの黒気があって、長い間相闘っていた。八年十月癸巳、杭州に黒い雨が降った。三十七年三月、衡州に黒眚が現れた。隆慶二年四月、天から黒豆が降った。六年四月、杭州に黒霧が立ち込め、車輪のようにうねるものがあり、目つきは電光のようで、雹がそれに伴った。萬曆二十四年十二月辛卯、同安で黒い毛が生えた。二十五年二月癸亥、湖州で黒い雨が黄砂を交えて降った。崇禎十年、山東で黒い雨が降り、新郷でも同様であった。十一年、京師に黒眚が現れ、狸のような形をして民家に入り祟りをなしたが、半年でようやく止んだ。十三年正月丁卯、黒気が空一面に広がる状態が三日間続いた。