○朱大典(附 王道焜等) 張國維 張肯堂(附 李向中・吳鐘巒・朱永佑等) 曾櫻 朱繼祚(附 湯芬等) 余煌(附 陳函輝) 王瑞柟 路振飛 何楷(附 林蘭友) 熊汝霖 錢肅樂(附 劉中藻・鄭遵謙) 沈宸荃(附 同邑の子 沈履祥)
國奇らは昌邑に至り、三路に分かれた。國奇らの関外兵を前鋒とし、鄧玘の歩兵がこれに続き、中路の灰埠から進んだ。昌平総兵の陳洪範、副将の劉澤清・方登化は、南路の平度から進んだ。参将の王之富・王文緯らは北路の海廟から進んだ。遊撃の徐元亨らに檄を飛ばして萊陽の軍を率いて来会させ、牟文綬に新河を守らせた。諸軍は皆三日分の糧を携え、ことごとく新河の東岸に到着し、乱流して渡河した。祖寬が沙河に至ると、有德が迎え撃った。寬が先に進み、國臣がこれに続き、賊は大敗し、諸軍は勝に乗じて城下まで追撃した。賊は夜半に東へ逃げ、包囲はようやく解けた。守備兵は賊の誘いを疑い、大砲で拒んだ。起潛が宦官の使者を入れて諭させると、城中こぞって慶賀した。翌日、南路の兵がようやく到着した。國奇らはそこで賊を黄県で撃ち、首級一万三千を斬り、八百を捕虜とし、逃散し及び海に墜ちて死んだ者は数万に及んだ。
賊は登州に逃げ帰り、國臣らは長囲を築いてこれを守った。城は三面山に臨み、一面海に臨み、城壁は三十里余りに及び、東西ともに海に達していた。番を分けて戍守したため、賊は出ることができず、大砲を発射し、官軍は多く死傷した。李九成が出戦して互角であった。十一月、九成が奮戦したが、降伏者がその謀を漏らした。官軍が合撃し、陣中でその首を斬り、賊は昼夜を問わず泣いた。賊の首魁は五人、九成・有徳・有時・耿仲明・毛承祿であるが、ここに至ってその二人を殺した。帝は包囲を解いた功を嘉し、大典を右副都御史に進め、将吏はそれぞれ昇進・賞賜を受けた。この月、國奇が卒し、襄を以て代えた。攻囲すること既に久しく、賊は糧食が尽き、水城を頼みに逃げられるとして、降伏しなかった。王之富・祖寬がその水門外の護墻を奪うに及んで、賊は大いに恐れた。
六年二月中旬、有徳が先に逃げ、子女財帛を載せて海に出た。仲明は水城を副将の王秉忠に委ね、自らもまた単舸で逃げ、官軍はついに大城に入った。水城を攻めたが、未だ下らなかった。遊撃の劉良佐が城を轟く策を献じ、人を永福寺に匿わせ、城に穴を穿って火薬を置き、これを発すると、城は崩れ、官軍が入った。賊は蓬莱閣に退いて守り、大典が降伏を呼びかけると、ようやく甲を解き、千余人を捕虜とし、秉忠及び偽将七十五人を捕え、自縊し及び海に投身して死んだ者は数え切れず、賊はことごとく平定された。有徳らは旅順に逃げ、島帥の黄龍が邀撃し、その徒党の毛承祿・陳光福・蘇有功を生け捕りにし、李応元を斬った。ただ有徳・仲明のみが逃げ去った。そこで承禄らを朝廷に献上し、磔刑に処した。前日、有功が枷を脱して逃げ、帝は震怒し、監守官を斬り、刑部の郎官多くが罪を得た。まもなく捕らえられ、誅殺された。功績を論じ、大典を兵部右侍郎に進め、世襲の錦衣百戸を蔭し、巡撫は元の通りとした。
八年二月、流賊が鳳陽を陥とし、皇陵を毀ち、総督の楊一鵬が捕らえられた。詔して大典に漕運総督を兼ねて廬・鳳・淮・揚の四郡を巡撫させ、鎮を鳳陽に移した。当時、江北の州県は多く陥ちていた。翌年正月、賊が滁州を包囲し、連営百余里に及び、総兵の祖寬がこれを大破した。大典は総理の盧象昇と会して追襲し、再びこれを破った。急ぎ兵を返して鳳陽において賊の衆を遏え、賊はようやく退いた。十一年、賊は再び江北に入り、茶山に逃げ込もうと謀った。大典は安慶巡撫の史可法と兵を提げてこれを遏え、賊は西へ逃げた。大典は先に州県を失った罪に坐し、位階を貶されて職務を執った。この年四月、賊を平定する期限に遅れたため、再び三階を貶された。まもなく援剿及び転漕の功を論じ、その位階をことごとく回復した。
許都は、諸生で、気概を持ち、県令の苛斂に憤って乱を起こし、金華を包囲した。大典の子の万化が健児を募ってこれを防ぎ、賊は平定されたが、募った者は解散しなかった。大典はこれを聞き、急ぎ馳せ帰った。知県の徐調元が都の兵籍を調べると万化の名があり、そこで大典が子をして賊と交わらせたと上言した。巡按御史の左光先が朝廷に上聞し、詔旨を得て逮捕処罰し、その家を没収して軍餉に充て、かつ督賦給事中の韓如愈にこれを督促させた。
やがて京師が陥落し、福王が立った。その誣を晴らす者があり、また大典もまた自ら馬士英・阮大鋮に取り入ったため、兵部左侍郎として召された。一月余りして、尚書に進み、上江の軍務を総督した。左良玉が兵を起こすと、黄得功の軍を監してこれを防がせた。福王が太平に奔ると、大典は大鋮とともに舟中で拝謁し、力を合わせて戦うことを誓った。得功が死に、王が捕らえられると、両人は杭州に逃げた。潞王もまた降伏したため、大典は郷里の郡に帰り、城を拠って固く守った。唐王がこれを聞き、そのまま東閣大学士を加え、浙東の督師とした。一年余りして、城は陥ち、一家ことごとく死んだ。
その時、浙江東西の郡県で前後して守りを失い、国事に殉じた者は、杭州では同知王道焜・錢塘知縣顧咸建・臨安知縣唐自綵、紹興では兵部主事高岱・葉汝𬝖、衢州では巡按王景亮・知府伍経正・推官鄧巖忠・江山知縣方召がいた。また、諸生や布衣で義に殉じた者では、会稽の潘集・周卜年、山陰の朱瑋、諸暨の傅日炯、鄞県の趙景麟、浦江の張君正、瑞安の鄒欽堯、永嘉の鄒之琦が、特に著名である。
顧咸建は、字を漢石といい、昆山の人で、大学士顧鼎臣の曾孫である。崇禎十六年の進士。錢塘知縣に任じられた。任地に赴いたばかりで、京師陥落の報を聞き、人心が動揺した。咸建は奸宄を鎮め、警備を厳重にした。巡按御史彭遇颽が貪婪残虐で民変を引き起こしたが、咸建の調停と保護により、事態は収まり民衆は連座を免れた。南都が陥落すると、鎮江守将鄭彩らが兵を率いて福建に帰還し、道中で掠奪を行った。咸建が私財を出して歓待・慰労したので、彼らは威を収めて去った。まもなく、馬士英が兵を擁して到着した。ほどなく、大将方国安の兵も到着した。咸建は上官と謀り、事前に使者を遣わして賄賂を行い、兵が城内に入るのを防いだ。四郷は多くが略奪・暴行を受けたが、城中は乱されることがなかった。当時、監司や郡県の長官は皆逃亡していたが、咸建は妻子を散らして遣わし、独り官を守って去らなかった。潞王が降伏した後も、咸建は出頭しなかった。まもなく捕らえられ、死んだ。
唐自彩は、達州の人である。臨安知縣となった。杭州が陥落すると、自彩は甥の唐階豫と共に山中に逃れた。彼が魯王の詔勅を受け、密かに兵を集めて変事を図っているという風説があり、ついに捕らえられた。自彩は階豫に逃げるよう命じたが、従わず、遂に共に死んだ。
高岱は、字を魯瞻といい、会稽の人である。崇禎年間、武学生として順天郷試に合格し、魯王より職方主事に任じられた。紹興が陥落すると、すぐに絶食して死を求めた。子の高朗は父の意志が変わらないと知り、先に海中に躍り込んで死んだ。岱はこれを聞いて「我が子は果たして私に先んじることができたか!」と言い、それ以降は再び言葉を発せず、数日後に死去した。
葉汝𬝖は、字を衡生といい、高岱と同じ邑の人で、挙人から兵部主事となった。変事を聞くと、妻の王氏と共に桐塢の墓所に移り住み、共に水に入って死んだ。
王景亮は、字を武侯といい、呉江の人である。崇禎末年に進士に及第した。福王に仕えて中書舎人となった。唐王が立つと、御史に抜擢され、金華・衢州の二府を巡撫し、学政も兼ねた。伍経正は、安福の人である。貢生から西安知縣となり、唐王により格抜擢されて知府の事務を管轄した。鄧巖忠は、江陵の人である。郷挙から推官となった。衢州が陥落すると、経正は井戸に身を投じて死に、景亮と巖忠は共に自縊した。魯王が派遣した鎮将張鵬翼もまたそこで死んだ。
方召は、宣城の人である。江山県の事務を代理した。金華が屠殺されると、父老を集めて告げて言った。「兵がまもなく来る。私は義として去るべきではない。しかし、一人の故をもって、町全体が災いを受けるわけにはいかない。」そこで印を封じ、冠帯を整えて北を拝し、井戸に身を投じて死んだ。士民が彼を収葬し、祠を建てて祀った。
七年、右僉都御史に抜擢され、応天・安慶など十府を巡撫した。その冬、流賊が桐城を犯し、官軍は全滅した。国維は壮年であったが、一晩で鬚髪が急に白くなった。翌年正月、副将許自強を率いて救援に赴き、遊撃潘可大・知縣陳爾銘らが桐城を守って陥落させなかった。賊はそこで潛山を攻め、知縣趙士彥は重傷を負って死亡した。太湖を攻め、知縣金応元・訓導扈永寧が殺害された。国維が到着し、桐城の包囲を解き、守備朱士胤を潛山に、把総張其威を太湖に向かわせた。士胤は戦死し、自強は宿松で賊と遭遇し、殺傷は互角であった。安慶の山民が石を投げつけて賊を攻撃し、賊は多くが死んだため、英山・霍山を越えて逃げ去った。九月、賊は再び宿松から潛山・太湖に入り、他の賊掃地王もまた宿松など三県を陥落させた。国維はそこで土着の民二千人を募って守備させ、軍事を監軍史可法に委ねた。翌年正月、賊が江浦を包囲したので、守備蔣若來・陳於王を遣わして撃退した。十二月、賊が分兵して懐寧を犯すと、可法及び左良玉・馬爌がこれを阻止した。再び江浦を犯すと、副将程龍及び若来・於王らが防ぎ守った。諸城は全て無事であった。また望江を包囲したので、兵を派遣して救援し、包囲も解かれた。
十年三月、国維は程龍らを率いて安慶に赴き、酆家店で賊を防いだが、程龍の軍数千は全滅した。賊は東進して和州・含山・定遠を陥落させ、六合を攻め落とし、知縣鄭同元は潰走し、賊はついに天長を攻めた。国維は賊の勢いが日増しに盛んになるのを見て、朝廷に請願し、安慶・池州・太平を割いて別に巡撫を設置し、史可法をこれに任じさせた。安慶が江南巡撫の管轄に属さないのは、これに始まる。議者は江浦・六合も併せて割き、国維に江南の防護に専念させるよう求めたが、許されなかった。
国維は人となり寛厚で、士大夫の心を得た。管轄する郡に災害や損傷があると、常に朝廷に命を請うた。太湖・繁昌の二城を築き、蘇州の九里石塘及び平望の内外塘・長洲から至和に至る塘を建設し、松江の捍海堤を修築し、鎮江及び江陰の漕渠を疏浚し、いずれも成果を上げた。工部右侍郎兼右僉都御史に転じ、河道を総理した。大旱魃の年には、漕運の水路が干上がったので、国維は諸水を疏浚して漕運を通じさせた。山東で飢饉が起こると、救済して生き返らせた窮民は数えきれなかった。
十四年夏、山東に盗賊が起こり、兵部右侍郎に改め、淮・徐・臨・通の四鎮の兵を監督し、漕運を護衛させた。大盗李青山は数万の徒党を率い、梁山泊を占拠し、その党を遣わして韓荘などの八閘を分拠し、運河の道を塞いだ。周延儒が召しに応じて北上する途中、青山が謁見し、徒党を率いて漕運を護衛するのであって、乱を起こすのではないと述べた。延儒は朝廷に言上すると約束し、官職を授けようとした。しかし青山はついに漕運の舟を遮断し、大いに焼き掠め、臨清に迫った。国維は配下の兵を合わせてこれを撃ち降し、朝廷に捕虜を献じ、市中で磔刑に処した。兵部尚書陳新甲が獄に下され、帝は国維を召してこれを代えさせた。そこで戦守の賞罰の規程を定め、厳格な世職授与、推挙昇進の斟酌、諮問上奏の慎重化など七事を列挙して上奏すると、帝はいずれも許可した。開封が陥落すると、河北が震動し、黄河防衛の数策を条陳すると、帝もこれを受け入れた。
十六年四月、我が大清兵が畿輔に入ると、国維は趙光抃に檄を飛ばして螺山で防がせたが、八総兵の軍は皆潰走した。言官が国維を誹謗したため、解任され、まもなく獄に下された。帝はその治河の功績を思い、釈放された。中左門で召し出されて応対し、元の官に復し、右僉都御史を兼ね、江南・浙江に急行して練兵や輸餉などの諸務を監督した。都を出て十日にして都城が陥落した。
福王が召して戎政の協理を命じた。まもなく山東での賊討伐の功績を叙勲し、太子太保を加えられ、錦衣衛僉事の蔭官を受けた。吏部尚書徐石麒が去職すると、衆議は国維に帰した。しかし馬士英は用いず、張捷を用いた。国維は省親を乞うて帰郷した。
十四年四月に言うには、「流寇が城を陥れ邑を破り、往来縱横して、無人の境に入るが如きは、これは督師嗣昌が事を受ける以前にはなかったことである。目前の大計は、先ず嗣昌の権限を解くことにある」。上疏が入った時には既に嗣昌は死んでいた。十二月に再び言うには、「今、賊を討つに人無しとは言えず、巡撫の外に更に撫治がおり、総督の上にまた督師がいる。位号は異なれど、事権に別はない。今、楚は自ら捷報を報じ、豫は自ら敗北を報じ、甚だしきは南陽が失陥し、禍が親藩に及んだが、督師の職掌はどこにあるのか。試みに今、督師たる者は、中央に居て運営し、発蹤指示を以て功と為すのか、それとも賊を分けて処理し、焦頭爛額を以て事と為すのか。今、秦・保の二督たる者は、封疆を兼ね顧みて、互いに掎角の勢いを為すのか、それとも賊に遇えば追剿し、専ら出境の師を提げるのか。今、撫たる者は、一に督師の令に従い、進退はその指揮に惟るのか、それとも兼ねて賊勢の急なることを視て、戦守は利を択ぶことができるのか。凡そこれらの肯綮を、一切問わずに置き、中樞は冥々として決し、諸臣は瞶瞶として任ずる。地を失い師を喪うに至って、中樞は督撫を糾弾して自らを解し、督撫は又互いに委ねて過ちを謝し、そして疆土の事は問うべからざるとなる」。帝はその言を受け入れ、所管の部署に詳細な審議を下した。十五年、建言して譴責貶謫された諸臣を召還するよう請うたため、給事中陰潤・李清・劉昌、御史周一敬の官職が復された。肯堂は大理丞に転じ、まもなく右僉都御史に抜擢され、福建巡撫となった。
総兵鄭鴻逵が唐王聿鍵を擁して閩に入り、その兄の南安伯芝龍及び肯堂が推戴したため、太子少保・吏部尚書を加えられた。曾櫻が到着すると、言官が櫻に吏部を執掌させるよう請うたため、肯堂に都察院を執掌させた。肯堂は出て舟師を募り、海路から江南に至り、義旅を提唱し、そして王が仙霞から浙東に向かい、互いに声援し合うよう請うた。そこで少保を加えられ、敕印を与えられ、便宜を以て事に従事することとなった。芝龍は異心を抱き、密かにこれを阻んだため、出発できなかった。
この時、共に死んだ者は、兵部尚書李向中・禮部尚書吳鍾巒・吏部侍郎朱永佑・安洋將軍劉世勛・左都督張名揚である。また、通政使会稽の鄭遵儉、兵科給事中鄞県の董誌寧、兵部郎中江陰の朱養時、戶部主事福建の林瑛・蘇州の江用楫、禮部主事会稽の董元、兵部主事福建の朱萬年・長洲の顧珍・臨山衛の李開国、工部主事長洲の顧中堯、中書舍人蘇州の蘇兆人、工部所正鄞県の戴仲明、定西侯参謀順天の顧明楫、諸生福建の林世英、錦衣指揮王朝相、内官監太監劉朝。合わせて二十一人である。
吳鐘巒、字は巒稚、武進の人。崇禎七年の進士。長興知縣に任ぜられる。旱魃と水害のため、練餉の徴収が定額に達せず、紹興照磨に左遷された。一年余りして、桂林推官に移る。京師の変を聞き、涙を流して言う、「馬君常は必ずや節を守って死ぬであろう。」やがて世奇が果たして死んだ。福王が立つと、禮部主事に昇進した。南雄に着くと、南都が失陥したと聞き、転じて福建に赴き、国策を痛切に陳述した。魯王が兵を起こすと、鐘巒を禮部尚書とし、普陀山中を往来させた。大清の兵が寧波に至ると、鐘巒は慷慨として人に謂う、「昔、仲達は璫禍に死し、我は諸生として死すべからず。君常は賊難に死し、我は遠臣として従死すべからず。今こそその時である!」急ぎ海を渡り、昌國衛の孔廟に入り、薪を左廡の下に積み、孔子の木主を抱いて自ら焼死した。仲達とは、江陰の李應升、鐘巒の弟子で、魏忠賢に逆らい党禍に死した者である。
朱永佑、字は爰啟。崇禎七年の進士。刑部主事に任ぜられ、吏部に改められるが、罷免されて帰郷した。唐王に仕え、後に舟山に至る。城が陥落し捕らえられ、僧となることを願ったが、許されず、ついに刑に処せられた。名揚は名振の弟。城が陥落すると、母の範氏以下数十人が自焼した。
朝相は城の失守を聞き、王妃陳氏、貴嬪張氏、義陽王妃杜氏を護って井戸に入れ、巨石で覆い、その傍らで自刎した。開國母、瑛、明楫の妻はいずれも自尽した。
櫻は身を廉潔に保ち、政治は愷悌公平で、強権を恐れなかった。屯田御史が糾弾すべき属吏の姓名を要求したが、櫻は応じなかった。御史が厳しい言葉で脅すと、答えて言う、「僚属は既に尽く、糾弾すべき者はなく、ただ知府が不行跡なのみ。」そこで自ら下考を記し、門を閉じて罪を待った。巡撫・巡按が急ぎ慰留したので、ようやく出て政務を執った。織造の中官李實が知府に属礼を行うよう迫ったが、櫻は従わなかった。実が「爾」「汝」をもって侮る檄文を送ると、櫻もまた「爾」「汝」で応え、ついに屈しなかった。無錫の高攀龍、江陰の繆昌期、李應升が逮捕されると、櫻は昌期・應升の資金を助け、攀龍の死後の事を経理し、文を作って祭り、その子と僮仆を獄から出した。宜興の毛士龍が魏忠賢に逆らって戍に遣られる罪に坐すると、櫻は士龍に逃げ去るようほのめかした。上官がその家人を捕らえようとしたが、櫻のおかげで免れた。武進の孫慎行が忠賢に逆らい、戍に当たったが、櫻はその行きを遅らせた。忠賢が敗れると、事は遂に解かれた。
十年冬、帝は東廠の言を信じ、櫻が賄賂を行って官を昇らせようとしたとして、械して京に赴くよう命じた。御史葉初春はかつて櫻の属吏であり、その廉潔を知っていたので、他の上疏で微かに弁明した。詔問があり、詳細に櫻の賢明さを述べたが、しかし賄賂がどこから来たかは知らなかった。詔が福建に至ると、巡撫沈猶龍、巡按張肯堂が廠の檄文に奸人黄四臣の名があるのを確認した。芝龍が前に進み出て言う、「四臣は私が遣わした者である。私は櫻の恩に感じ、彼が転任するのを恐れ、都下で訊問させるよう命じた。四臣が妄言したため、この事が起こったのである。」猶龍・肯堂がこれを上奏し、櫻の冤罪を力説して弁明し、芝龍もまた上疏して罪を請うた。士民は櫻が貧しいのを見て、金を醵して旅装を整え、耆老数千人が京師まで随行し、登聞鼓を叩いて冤罪を訴えた。帝は獄に入れず、京邸で命を待つよう命じた。芝龍の都督の官銜を削り、櫻を元の官で海道巡視とさせた。
まもなく衡州・永州に賊が多いため、櫻を湖廣按察使に改め、湖南を分守させ、敕書を与えた。故事では、守道には敕書がなかったが、帝は特にこれを賜った。時に賊は既に十余の州県を破壊し、永州知府と推官はともに職務に堪えなかった。櫻は蘇州同知の晏日曙、帰徳推官の萬元吉の才能を推薦した。両人はちょうど事に坐して罷官していたが、櫻の言によってともに起用された。櫻は芝龍を調発して賊を剿討させ、賊は多く降伏し、一方は遂に安定した。山東右布政使に遷り、登州・萊州を分守した。
十四年春、右副都御史に擢られ、徐人龍に代わってその地を巡撫した。翌年、南京工部右侍郎に遷り、休暇を乞うて帰郷した。山東は初め兵乱に遭い、巡撫王永吉の管轄する済南・兗州・東昌の三府州県は尽く失陥したが、隠して上聞しなかった。兵が退くと、回復したと報告した。一方、櫻の管轄する青州・登州・萊州の三府では失った州県は僅かで、すべて実状を奏上した。罪を論ずるに及んで、永吉はかえって総督に擢られ、櫻は官を奪われ、刑部の獄に下された。十日と経たぬうちに京師が陥落し、賊が諸囚を釈放したので、櫻は遁れて帰還した。
その後、唐王が福州で称号した。芝龍が櫻を推薦して工部尚書兼東閣大学士に起用した。間もなく吏部を掌らせ、まもなく太子太保・吏部尚書・文淵閣大学士に進めた。王が延平に駐蹕すると、櫻に福州を留守させた。大清の兵が福州を破ると、櫻は家族を連れて海外の中左衛に避けた。五年を経て、その地が兵乱に遭い、遂に自縊して死んだ。
朱繼祚、莆田の人。萬歷四十七年の進士。庶吉士に改められ、編修に任ぜられる。天啓年間、『三朝要典』の編修に参与し、まもなく罷免されて去った。崇禎初年、官に復する。累進して禮部右侍郎となり、実録総裁を充てた。給事中葛樞が、繼祚はかつて『要典』を纂修し、清議に罪を得たので、国史を総裁すべからずと上言したが、聞き入れられなかった。繼祚はまもなく病を理由に辞去した。南京禮部尚書に起用されるが、また人言によって罷免された。福王の時に元の官に起用されたが、赴任しなかった。南都が失陥すると、唐王が召して東閣大学士とし、汀州まで従った。王が擒らえられると、繼祚は郷里に奔還した。魯王が監国すると、繼祚は兵を挙げて王に応じ、興化城を攻め取った。やがて大清の兵が至り、城は再び陥落した。繼祚および參政湯芬、給事中林嵋、知県都廷諫はともにこれに死した。
芬、字は方侯、嘉善の人。崇禎十六年の進士。福王の時、史可法の監紀推官となる。唐王は御史とした。まもなく監司として興泉道を分守した。城が陥落すると、緋衣を着て堂上に坐し、殺害された。嵋、字は小眉、繼祚の同郷人。進士より吳江知県となる。蘇州が失陥すると、帰って唐王に仕えた。この時に至り自縊して死んだ。廷諫、杭州の人、莆田知県であった。
陳函輝は、字を木叔といい、臨海の人である。崇禎七年の進士となった。靖江知県に任じられたが、御史の左光先に弾劾されて罷免された。北京が陥落すると、衆に誓って義兵を起こそうとした。ちょうど福王が立ったが、在野の者が王事に尽力することを許さなかったので、やめた。まもなく職方主事に起用され、江北で監軍した。事敗れて帰郷し、魯王に礼部右侍郎に抜擢された。王に従って海路を逃れたが、やがてはぐれ、雲峰山に哭き入り、絶命詞十章を作り、水に投身して死んだ。
王瑞柟は、字を聖木といい、永嘉の人である。天啓五年の進士となった。蘇州推官に任じられ、兌運を兼ねて管轄した。軍と民が交互に米を納める際、互いに軋轢を生じて争いが起こった。瑞柟は調停して適切に処理し、毎年余分な費用三万金を節減し、上官がこれを石碑に刻んで法令とした。貴人の弟が法を犯したので、法律に従って捕らえて尋問した。その者が当道者に讒言し、転任させようと議したので、ついに帰郷した。崇禎七年、河間推官に起用され、工部主事に遷り、兵部に転じ、職方員外郎となり、湖広兵備僉事に抜擢され、襄陽に駐屯した。十一年春、張献忠が谷城を占拠して降伏を請うと、総理の熊文燦がこれを許した。瑞柟は良策でないと考え、巡按の林銘球・総兵官の左良玉と謀り、献忠が来た時に捕らえようとした。文燦は固執して認めなかった。瑞柟は言った。「賊は計略で我々を愚弄している。我々は愚弄されてはならない。今、良玉及び諸将の賈一選・周仕鳳の兵はいずれも近境にいる。誠にこれらを合わせて撃てば、勝利せぬことを憂うるに足らぬ。」文燦は怒り、降伏工作を妨げるとして責めた。瑞柟は言った。「賊を打ち破らずに急いで降伏させれば、彼らは畏れるところがなくなる。必ず討伐する勢いを示してこそ、心を折らせて二心を抱かせぬようにできる。妨げるのではなく、実は成功させるのである。」文燦は従わなかった。瑞柟は従軍・帰農・解散の三策を列挙して上申したが、文燦も用いなかった。瑞柟は自ら檄文を作って献忠を諭したが、献忠は文燦が自分を庇っていると頼みにして、聞き入れなかった。翌年、献忠が叛くと、瑞柟はすでに先に喪に服して帰郷していた。献忠は壁に書を残し、己の叛乱は総理がそうさせたのだと述べた。上官の姓名と賄賂を取った月日を詳細に列挙し、末尾に題して言った。「我が金を受け取らぬ者は、王兵備ただ一人のみ。」これによって瑞柟の名声は大いに高まった。喪が明けたが、用いられる前に都城が陥落した。福王の時、太僕少卿となり、有司が民を虐げる様子を極力陳述したが、まもなく休暇を請うて帰郷した。唐王が福建に召し寄せ、元の官職に任じたが、まもなくまた帰郷した。福建の地がことごとく失われ、温州も守られなくなると、山中に避けた。出仕を勧めようとする者がいたので、家廟に拝辞し、落ち着いて室に入り自縊して死んだ。
路振飛は、字を見白といい、曲周の人である。天啓五年の進士となった。涇陽知県に任じられた。大官が魏忠賢に取り入り、涇陽に生祠を建てようとしたが、振飛は固執して従わなかった。邑人の張問達が宦官に逆らい、贓物十万を追徴される罪に坐した。振飛はわざと引き延ばし、宦官が失脚して事態が解決した。流賊が境内に入ると、撃退した。崇禎四年、召されて御史に任じられた。上疏して周延儒が卑汚で奸悪であり、邪悪な者と結託して正しい者を貶めていると弾劾し、速やかに斥けて宰相の道を清めるよう請うたが、詔旨により厳しく責められた。まもなく、時事の十大弊害を陳述した。すなわち、細事にこだわって政体を忘れること、廉恥を失って官紀を壊すこと、民はますます窮するのに租税はますます急であること、有事の時は急で無事の時は緩やかなこと、顕在する患いを知って潜在する憂いを忘れること、治める事を求めて治める人を欠くこと、外に対する責務を重くし内に対する責務を軽くすること、小さいことには厳しく大きいことには寛大なこと、臣下は日々怠け主上は日々疑うこと、詔旨はあっても奉行されないことである。上疏が入ると、詔して所管の官庁に付した。山東で兵が叛乱し、巡撫の余大成・孫元化を弾劾し、また延儒が曲げて庇う罪を論じたが、帝は問わなかった。やがて、吏部尚書の閔洪学が権勢に結びつき、私党を立て、吏部を管轄して以来、吏治が日々悪化していると弾劾し、洪学は自ら辞任した。廷推で南京吏部尚書の謝升を左都御史に推挙したが、振飛はその醜状を歴々と誹謗し、升はついに用いられなかった。六年、福建を巡按した。海賊の劉香がしばしば紅夷を誘い込んで侵犯したので、振飛は千金を懸けて将士を励まし、遊撃の鄭芝龍等を派遣して大破し、詔して銀幣を賜った。任期が満ちて、京卿として登用されることになった。初め、振飛が海賊の情勢を論じて、巡撫の鄒維璉は処理できないと述べ、言葉で彼を攻撃した。維璉が罷免され、命令が下ったばかりの時、数度にわたり勝利を奏上したので、振飛は力を尽くしてその功績を顕彰し、維璉は再び召し用いられた。
八年夏、帝が輔臣を選ぼうとした。振飛は言った。「枚卜の盛典において、縁故によってこっそり付き従う者がいれば、光輝あるものとならない。かつての周延儒・温体仁らのように公論がともに棄てた者を、宰相に就けて以後、民は窮し盗賊は起こり、己を辱める者は必ず天下を正すことができない。」当時、延儒はすでに斥けられていたが、体仁はちょうど首席の宰相にあり、これを恨んだ。やがて振飛は蘇州・松江を巡察し、輸布・収銀・白糧・収兌の四大患を除くよう請い、民の困窮はこれによって緩和された。ちょうど常熟の銭謙益・瞿式耜が奸民の張漢儒に告発された時、体仁は振飛が糾弾を怠ったと坐し、詔旨を擬して陳状を命じた。振飛は謙益に罪がないと申し立て、言葉で体仁を刺した。体仁は憤り、帝の怒りを煽り、河南按察司検校に左遷した。入朝して上林丞となり、しばしば転じて光禄少卿となった。
十六年秋、右僉都御史に抜擢され、漕運を総督し、淮・揚を巡撫した。翌年正月、流賊が山西を陥落させた。振飛は将軍金声桓ら十七人を遣わし、分かれて黄河を防備させ、徐・泗・宿遷から安東・沭陽に至った。また郷兵を団練し、牛酒で犒労し、両淮の間に数万の精兵を得た。福・周・潞・崇の四王が賊を避け、同日に淮に到着した。大将劉沢清・高傑らも守備地を棄てて南下した。振飛は皆これを迎え入れた。四月初め、北都陥落の報を聞き、福王が南京に立った。河南副使呂弼周が賊の節度使となり、振飛に代わって来た。進士武愫が賊の防禦使となり、徐・沛を招撫し、賊将董学礼が宿遷を占拠した。振飛は弼周・愫を撃ち捕らえ、学礼を敗走させた。弼周を法場に竿ざしにし、軍士に一人三矢ずつ射させ、その後磔刑に処した。愫を縛って市中を引き回し、八十鞭打ち、檻車で朝廷に献上し、誅殺させた。五月、馬士英は親しい田仰を用いようとし、振飛を罷免した。振飛もまた母の喪に遭い、帰る家もなく、蘇州に流寓した。まもなく功績を記録され、そのまま家で右副都御史を加えられた。
何楷、字は元子、漳州鎮海衛の人。天啓五年の進士。魏忠賢が政を乱した時、選に謁せずに帰った。崇禎の時、戸部主事に任じられ、員外郎に進み、刑科給事中に改めた。流賊が鳳陽を陥落させ、皇陵を破壊した。楷は巡撫楊一鵬・巡按呉振纓の罪を弾劾し、輔臣温体仁・王応熊を風刺して言った、「振纓は体仁の私的な者、一鵬は応熊の座主です。逆賊が皇陵を犯し、神人ともに憤っています。陛下は講義を止め殿を避け、臣民を感動させました。二輔臣はただ漫然とこれを見て、一鵬・振纓に罪を戴いて自ら贖わせようとしています。情面が重く、祖宗の陵寝が軽く、朋党が深く、天下の譏り刺すことを顧みません」。帝の意に逆らい、一階級降格して職務に当たった。また言った、「応熊・体仁が奏上して弁明し、自ら門生姻戚を引き合いに出しています。刑官がえこひいきするのは、実にこれによります。輔臣に宣諭を乞い、恩仇を分け隔てず、国事を弄ばないようにさせてください」。応熊が再び奏上して弁明した。楷は言った、「臣の上疏はまだ旨を奉っていないのに、応熊は前日に臣の上疏の言葉を拾い引用しています。必ず禁中の言葉を漏らした者がいます」。帝の心が動き、応熊に自ら陳述させ、応熊はついにこれによって去った。吏部尚書謝升は登州・萊州が要地であり、巡撫陳応元が病気を理由に辞任を願い出ているので、その去るのを許すべきだと述べた。そして労永嘉を推挙して応元の代わりとすると、今度は登萊巡撫はもとより余分な官であると言った。楷もまた上疏してこれを駁した。楷はまた、都御史高攀龍に官を贈り、左光斗ら諸臣に諡号を賜い、恵世揚を召還するよう請うた。上疏は多く聞き入れられた。工科都給事中に累進した。
楷は群書を博く綜覧し、寒暑を問わず怠らず、特に経学に深く通じていた。
林蘭友、字は翰荃、仙遊の人。崇禎四年の進士。臨桂知県に任じられた。南京御史に抜擢された。大学士張至発・薛国観、吏部尚書田惟嘉らを上疏して弾劾し、ついで嗣昌が忠孝ともに欠けていると論じた。浙江按察司照磨に左遷され、楷及び黄道周・劉同升・趙士春とともに「長安五諫」と称された。光禄署丞に転じた。京師陥落の時、髪を切って身を隠した。賊に捕らえられ、拷問掠奪を極めた。賊が敗れると、南に帰った。唐王に用いられて太僕少卿となり、僉都御史に転じた。事敗れると、家族を連れて海辺に逃れ、十余年後に没した。
熊汝霖、字は雨殷、余姚の人。崇禎四年の進士。同安知県に任じられた。戸科給事中に抜擢された。用将の失策を上疏して陳べ、言った、「偏裨から副将まで、歴任して功績があり、初めて節鉞を授けるべきです。今は足を戦陣に運ぶこともないのに、幕府がすでに首功を上申しています。胥吏が虎の軍を率い、紈褲の子が兵符を握っては、どうして敵愾心を奮い起こせましょうか。大将の選びについては、功績のある副将を召し、時々面と向かって賜うべきで、有能な者を選んで用いるべきです。廷臣の推挙選択に誤りがあれば、文吏の保挙連坐法を用いるべきです」。帝はその言を採用した。後に言った、「楊嗣昌はまだ罪に問われず、盧象升はまだ褒賞されず、忠義の気概を大いに挫いています。嗣昌のために策を練り餉を練り、中原の万姓を盗賊に駆り立てた者は、元給事中沈迅です。嗣昌のために運籌し、三千人を率いて襄陽に駐屯し、城が破れるとすぐに逃げた者は、監紀主事余爵です。嗣昌に援引され、襄藩陥落に遭い、重く陳新甲に賄賂し、鄖陽巡撫袁継咸に罪をなすりつけた者は、今解任されて代わりを待つ宋一鶴です。皆誤国の臣であり、罪に問うべきです」。返答がなかった。
京師が戒厳すると、汝霖は東直門の守備を分掌した。かつて召されて応対し、言上した。「将は戦いに任じず。敵は南北を往来し、ただその後に従うのみで、貴官に仕える奴隷の如く、弩を負って先導し、塵を望むも及ばず。何をもって将と名づけ、何をもって督師と名づけようか。」帝は深くこれを然りとした。後に、言上した。「有司が処分した者は、辺境の才を濫りに挙げてはならず、監司が処分した者は、巡撫に急に越えて登用してはならない。そうしてこそ封疆の重任が、よからぬ者の借りる途とならない。」また言上した。「戒厳以来、臣の上疏は凡そ二十に上る。援剿の機宜は、百も一つ行われず。而して臣が推し量った敵情は、不幸にも言い当たった。近ごろ外県の難民が紛紛と都に入るが、皆、兵を避けると言い、敵を避けるとは言わない。霸州が破られた時、敵はなお多く殺掠せず、官軍が続いて至って、初めて一人残らず殺した。朝廷は歳に数百万の金銭を費やして兵を養うが、豈に我が赤子を毒することを欲するものか。」帝はその中に「地下に泣きを飲む」との語があるのを憎み、福建按察司照磨に貶謫した。
福王が立つと、召還された。上疏して言上した。「臣が丹陽より来るに、浙兵が辺兵に撃たれ、民家を十余里にわたって焼いたことを知った。辺帥に言う者があった。四鎮は殺掠によって封爵を得た。我は何を憚ってそうしないことがあろうか、と。臣は四鎮が必ずや毅然として北征し、この恥を雪ぐと思ったが、今、淮・揚に恋々としているのは何故か。況して一鎮の兵糧は六十万にまで多くなり、勢い供給できぬ。仮に古の藩鎮の法に倣うとしても、大河以北に屯田を開き府を設けるべきであり、曾て奥{穴交}の内にありながら、急に藩籬と見做すべきではない。」間もなく、言上した。「臣が窃かに観るに、目前の大勢は、恢復が叶わぬは無論、偏安さえ未だ必ずしも叶わぬ。日々兵糧と戦守を討究すべきなのに、専ら恩怨と異同に在る。勲臣や方鎮は、舌鋒筆鍔を逞しゅうし、近ごろは匿名の帖をもって旧臣を追い、疏遠の宗人をもって宰輔を弾劾し、中外紛紛として、将に廠衛を復活せんとすと言う。廠衛は威を樹て利を牟り、小民の鶏犬も寧日無し。先帝はこの一節に止め、府怨を免れざりし。前事遠からず、後事の師なり。且つ先帝は宗藩を篤く念い給うたが、賊を聞いて先に逃げ、誰か社稷に死せし。先帝は武臣を隆重にし給うたが、叛降跋扈する者、肩背相踵く。先帝は勲臣を委任し給うたが、京営の鋭卒は徒らに賊の藉と為るのみ。先帝は内臣を倚任し給うたが、門を開き敵を延く、衆口喧伝す。先帝は文臣を次を超えて擢用し給うたが、辺才の督撫、誰か捍禦せし。超遷の宰執、賊庭に羅拝す。前日の失う所以を知れば、即ち今日の得る所以を知る。今に及んで為さずんば、将に何時を待たん。」疏が奏上されると、俸給を停められた。間もなく吏科右給事中に補任された。
初め、馬士英が阮大鋮を推薦すると、汝霖は争って不可とした。大鋮が起用されて兵部を佐けるに及んで、汝霖はまた言上した。「大鋮は兵を知るをもって用いるなら、用有る地に置くべきで、中朝に処すべからず。」聞き入れられなかった。一月余りして、奉使して陛辞するに当たり、言上した。「朝端の議論は日々新たに、宮府の揣摩は日々熟す。少宰・枢貳より悉く廷推を廃し、四品の監司が竟に詹尹に進む。蹊径は疊出し、謡諑は繁興す。一人未だ用いられざれば、便ち満朝を党人と目し、一官外遷すれば、輒ち当事を殺すべしと訾る。国恤を罔聞に置き、私図を逞しゅうして志を得る。黄白は庭に充ち、青紫は路を塞ぎ、六朝の佳麗、今時に復見す。独り他日税駕する何の地たるかを思わざるか。」返答がなかった。
錢肅樂、字は希聲、鄞県の人。臨江知府若賡の孫、寧国知府敬忠の兄の子である。崇禎十年に進士となり、太倉知州に授けられた。豪家の奴僕と狡い吏が奸を為し、兇徒が党を結んで人を殺し、その屍を焼いた。肅樂は痛く懲らしめ、皆手を束ねた。また朱と白の榜をもって善悪の人名を列記し、白榜の者を階下に械で繋ぎ、大杖を与えた。久しくして、杖を受ける者は日々少なくなった。かつて昆山・崇明の事を摂行し、両県の民は皆碑を立ててその徳を頌えた。刑部員外郎に遷り、間もなく内外の艱に服した。
唐王は既に歿したが、その将徐登華が富寧を守り、魯王は大学士劉中藻を遣わしてこれを攻めさせた。登華は降らんとしたが、疑って決せず、言った。「海上に豈に天子あらんや。舟中に豈に国公あらんや。」肅楽は書を致して言った。「将軍は独り南宋の末、二帝並びに舟中に在りしを聞かざるか。」登華は遂に降った。鄭彩が権柄を専らにし、連ねて熊汝霖・鄭遵謙を殺した。肅楽は憂憤して舟中に卒し、故相葉向高の曾孫進晟が福清の黄檗山に葬った。
劉中藻、福安の人。進士より行人に官す。賊が京師を陥落させると、発して、搒掠を受けた。賊が敗れて南還し、唐王に事えた。既に魯王に事え、福寧を攻めて降しこれを守り、移って福安に駐った。大清兵が城を破ると、冠帯して堂上に坐し、文を為って自ら祭り、金屑を吞んで死した。
鄭遵謙、会稽の人。諸生たり。潞王が杭州を以て大清に降ると、遵謙は衆を倡えて兵を挙げ、魯王に事え、浙・閩の間を崎嶇した。王に従って航海し、汝霖と並び彩に害された。
その邑の子である沈履祥はかつて知県を務め、監国時に御史として台州で督餉した。城が破られ、山中に避難したが、捕らえられて死んだ。
賛に曰く、甲申の後より、明の祚は既に終わり、一年を過ぎずして南都もまた覆り、情勢は固より為すべきこと無かりし。朱大典・張国維らは区々の義を抱き、徒らに海浜に名号を仮りて、旦夕を支えたるのみ。而して上は替わり下は陵がれ、事に統紀無く、偏安の効果を収めんと欲するも、何ぞ得べけんや。