明史

列傳第一百六十四 朱大典 張國維 張肯堂 曾櫻 朱繼祚 余煌 王瑞栴 路振飛 何楷 熊汝霖 錢肅樂 沈宸荃

○朱大典(附 王道焜等) 張國維 張肯堂(附 李向中・吳鐘巒・朱永佑等) 曾櫻 朱繼祚(附 湯芬等) 余煌(附 陳函輝) 王瑞柟 路振飛 何楷(附 林蘭友) 熊汝霖 錢肅樂(附 劉中藻・鄭遵謙) 沈宸荃(附 同邑の子 沈履祥)

朱大典、字は延之、金華の人である。家は代々貧賤であった。大典は初めて書を読み、人となりは豪邁であった。萬暦四十四年の進士に及第し、章邱知縣に任ぜられた。天啓二年、兵科給事中に抜擢された。宦官の王體乾・魏忠賢ら十二人及び乳母の客氏が、保護の功を仮り、錦衣衛の世襲を蔭されたが、大典は抗疏して力諫した。五年、福建副使として出向し、右參政に進み、憂により帰郷した。

崇禎三年、元の官に起用され、山東に赴任し、まもなく天津に転任した。五年四月、李九成・孔有德が萊州を包囲した。山東巡撫徐從治が砲撃を受けて死んだため、大典を右僉都御史に抜擢してこれを代え、詔して青州に駐屯させ、兵糧を調度させた。七月、登萊巡撫謝璉が再び賊に陥ち、総督劉宇烈が捕らえられた。そこで総督及び登萊巡撫を廃して設けず、専ら大典に任せ、主兵・客兵数万及び関外の精兵四千八百余人を督して合剿させた。総兵金國奇を将とし、副将の靳國臣・劉邦りゅうほう域、参将の祖大弼・祖寬・張韜、遊撃の柏永福及び元総兵の呉襄・襄の子の三桂らを率いさせ、宦官の高起潛を監護として軍餉を監督させ、德州に到着させた。賊は再び平度を犯し、副将の牟文綬・何維忠らがこれを救い、賊の首魁陳有時を殺したが、維忠もまた殺された。八月、巡按監軍御史の謝三賓が昌邑に至り、王洪・劉國柱を斬るよう請い、詔してこれを逮捕して処罰させた。兵部尚書の熊明遇もまた撫(懐柔)を主張して国を誤った罪に坐し、罷免された。三賓はさらに抗疏して、撫の事を口にすることは断じて言うなと請うた。

國奇らは昌邑に至り、三路に分かれた。國奇らの関外兵を前鋒とし、鄧玘の歩兵がこれに続き、中路の灰埠から進んだ。昌平総兵の陳洪範、副将の劉澤清・方登化は、南路の平度から進んだ。参将の王之富・王文緯らは北路の海廟から進んだ。遊撃の徐元亨らに檄を飛ばして萊陽の軍を率いて来会させ、牟文綬に新河を守らせた。諸軍は皆三日分の糧を携え、ことごとく新河の東岸に到着し、乱流して渡河した。祖寬が沙河に至ると、有德が迎え撃った。寬が先に進み、國臣がこれに続き、賊は大敗し、諸軍は勝に乗じて城下まで追撃した。賊は夜半に東へ逃げ、包囲はようやく解けた。守備兵は賊の誘いを疑い、大砲で拒んだ。起潛が宦官の使者を入れて諭させると、城中こぞって慶賀した。翌日、南路の兵がようやく到着した。國奇らはそこで賊を黄県で撃ち、首級一万三千を斬り、八百を捕虜とし、逃散し及び海に墜ちて死んだ者は数万に及んだ。

賊は登州に逃げ帰り、國臣らは長囲を築いてこれを守った。城は三面山に臨み、一面海に臨み、城壁は三十里余りに及び、東西ともに海に達していた。番を分けて戍守したため、賊は出ることができず、大砲を発射し、官軍は多く死傷した。李九成が出戦して互角であった。十一月、九成が奮戦したが、降伏者がその謀を漏らした。官軍が合撃し、陣中でその首を斬り、賊は昼夜を問わず泣いた。賊の首魁は五人、九成・有徳・有時・耿仲明・毛承祿であるが、ここに至ってその二人を殺した。帝は包囲を解いた功を嘉し、大典を右副都御史に進め、将吏はそれぞれ昇進・賞賜を受けた。この月、國奇が卒し、襄を以て代えた。攻囲すること既に久しく、賊は糧食が尽き、水城を頼みに逃げられるとして、降伏しなかった。王之富・祖寬がその水門外の護墻を奪うに及んで、賊は大いに恐れた。

六年二月中旬、有徳が先に逃げ、子女財帛を載せて海に出た。仲明は水城を副将の王秉忠に委ね、自らもまた単舸で逃げ、官軍はついに大城に入った。水城を攻めたが、未だ下らなかった。遊撃の劉良佐が城を轟く策を献じ、人を永福寺に匿わせ、城に穴を穿って火薬を置き、これを発すると、城は崩れ、官軍が入った。賊は蓬莱閣に退いて守り、大典が降伏を呼びかけると、ようやく甲を解き、千余人を捕虜とし、秉忠及び偽将七十五人を捕え、自縊し及び海に投身して死んだ者は数え切れず、賊はことごとく平定された。有徳らは旅順に逃げ、島帥の黄龍が邀撃し、その徒党の毛承祿・陳光福・蘇有功を生け捕りにし、李応元を斬った。ただ有徳・仲明のみが逃げ去った。そこで承禄らを朝廷に献上し、磔刑に処した。前日、有功が枷を脱して逃げ、帝は震怒し、監守官を斬り、刑部の郎官多くが罪を得た。まもなく捕らえられ、誅殺された。功績を論じ、大典を兵部右侍郎に進め、世襲の錦衣百戸を蔭し、巡撫は元の通りとした。

八年二月、流賊が鳳陽を陥とし、皇陵を毀ち、総督の楊一鵬が捕らえられた。詔して大典に漕運総督を兼ねて廬・鳳・淮・揚の四郡を巡撫させ、鎮を鳳陽に移した。当時、江北の州県は多く陥ちていた。翌年正月、賊が滁州を包囲し、連営百余里に及び、総兵の祖寬がこれを大破した。大典は総理の盧象昇と会して追襲し、再びこれを破った。急ぎ兵を返して鳳陽において賊の衆を遏え、賊はようやく退いた。十一年、賊は再び江北に入り、茶山に逃げ込もうと謀った。大典は安慶巡撫の史可法と兵を提げてこれを遏え、賊は西へ逃げた。大典は先に州県を失った罪に坐し、位階を貶されて職務を執った。この年四月、賊を平定する期限に遅れたため、再び三階を貶された。まもなく援剿及び転漕の功を論じ、その位階をことごとく回復した。

十三年、河南の賊が大挙して湖広に入った。大典は将を遣わして救援し、しばしば功があり、左侍郎に進んだ。翌年六月、大典に江北及び河南・湖広の軍務を総督させ、依然として鳳陽に鎮し、専ら流賊を討たせ、可法に代わって漕運を督させた。賊帥の袁時中が衆数万を率い、潁・亳の間に横行した。大典は総兵の劉良佐らを率いてこれを撃破し、それぞれ賞賜を受けた。大典には保障の功があったが、廉潔を保つことができず、しばしば給事中の方士亮・御史の鄭昆貞らに弾劾され、詔して官籍を削り、取り調べを待たせた。事が未だ終わらぬうちに、東陽の許都の事件が起こった。

許都は、諸生で、気概を持ち、県令の苛斂に憤って乱を起こし、金華を包囲した。大典の子の万化が健児を募ってこれを防ぎ、賊は平定されたが、募った者は解散しなかった。大典はこれを聞き、急ぎ馳せ帰った。知県の徐調元が都の兵籍を調べると万化の名があり、そこで大典が子をして賊と交わらせたと上言した。巡按御史の左光先が朝廷に上聞し、詔旨を得て逮捕処罰し、その家を没収して軍餉に充て、かつ督賦給事中の韓如愈にこれを督促させた。

やがて京師が陥落し、福王が立った。その誣を晴らす者があり、また大典もまた自ら馬士英・阮大鋮に取り入ったため、兵部左侍郎として召された。一月余りして、尚書に進み、上江の軍務を総督した。左良玉が兵を起こすと、黄得功の軍を監してこれを防がせた。福王が太平に奔ると、大典は大鋮とともに舟中で拝謁し、力を合わせて戦うことを誓った。得功が死に、王が捕らえられると、両人は杭州に逃げた。潞王もまた降伏したため、大典は郷里の郡に帰り、城を拠って固く守った。唐王がこれを聞き、そのまま東閣大学士を加え、浙東の督師とした。一年余りして、城は陥ち、一家ことごとく死んだ。

その時、浙江東西の郡県で前後して守りを失い、国事に殉じた者は、杭州では同知王道焜・錢塘知縣顧咸建・臨安知縣唐自綵、紹興では兵部主事高岱・葉汝𬝖、衢州では巡按王景亮・知府伍経正・推官鄧巖忠・江山知縣方召がいた。また、諸生や布衣で義に殉じた者では、会稽の潘集・周卜年、山陰の朱瑋、諸暨の傅日炯、鄞県の趙景麟、浦江の張君正、瑞安の鄒欽堯、永嘉の鄒之琦が、特に著名である。

王道焜は、字を昭平といい、錢塘の人である。天啓元年に郷試に合格した。崇禎の時、南平知縣となり、南雄同知に転じた。ちょうど光沢で賊が起こり、その地の父老が王道焜でなければ平定できないと述べた。巡撫・巡按が朝廷に請願し、詔によって邵武同知に改められ、光沢県の事務を管轄した。撫慰と討伐を併用し、境内を平定した。荘烈帝が格別に賢才を求め、天下の賢能な官吏を全て召し出そうとした時、巡撫・巡按が道焜の名を上奏した。ちょうど命令を待っていたところで都城が陥落し、微服で南方に帰還した。杭州が陥落すると、ついに首を吊って死んだ。

顧咸建は、字を漢石といい、昆山の人で、大学士顧鼎臣の曾孫である。崇禎十六年の進士。錢塘知縣に任じられた。任地に赴いたばかりで、京師陥落の報を聞き、人心が動揺した。咸建は奸宄を鎮め、警備を厳重にした。巡按御史彭遇颽が貪婪残虐で民変を引き起こしたが、咸建の調停と保護により、事態は収まり民衆は連座を免れた。南都が陥落すると、鎮江守将鄭彩らが兵を率いて福建に帰還し、道中で掠奪を行った。咸建が私財を出して歓待・慰労したので、彼らは威を収めて去った。まもなく、馬士英が兵を擁して到着した。ほどなく、大将方国安の兵も到着した。咸建は上官と謀り、事前に使者を遣わして賄賂を行い、兵が城内に入るのを防いだ。四郷は多くが略奪・暴行を受けたが、城中は乱されることがなかった。当時、監司や郡県の長官は皆逃亡していたが、咸建は妻子を散らして遣わし、独り官を守って去らなかった。潞王が降伏した後も、咸建は出頭しなかった。まもなく捕らえられ、死んだ。

唐自彩は、達州の人である。臨安知縣となった。杭州が陥落すると、自彩は甥の唐階と共に山中に逃れた。彼が魯王の詔勅を受け、密かに兵を集めて変事を図っているという風説があり、ついに捕らえられた。自彩は階豫に逃げるよう命じたが、従わず、遂に共に死んだ。

高岱は、字を魯瞻といい、会稽の人である。崇禎年間、武学生として順天郷試に合格し、魯王より職方主事に任じられた。紹興が陥落すると、すぐに絶食して死を求めた。子の高朗は父の意志が変わらないと知り、先に海中に躍り込んで死んだ。岱はこれを聞いて「我が子は果たして私に先んじることができたか!」と言い、それ以降は再び言葉を発せず、数日後に死去した。

葉汝𬝖は、字を衡生といい、高岱と同じ邑の人で、挙人から兵部主事となった。変事を聞くと、妻の王氏と共に桐塢の墓所に移り住み、共に水に入って死んだ。

王景亮は、字を武侯といい、呉江の人である。崇禎末年に進士に及第した。福王に仕えて中書舎人となった。唐王が立つと、御史に抜擢され、金華・衢州の二府を巡撫し、学政も兼ねた。伍経正は、安福の人である。貢生から西安知縣となり、唐王により格抜擢されて知府の事務を管轄した。鄧巖忠は、江陵の人である。郷挙から推官となった。衢州が陥落すると、経正は井戸に身を投じて死に、景亮と巖忠は共に自縊した。魯王が派遣した鎮将張鵬翼もまたそこで死んだ。

方召は、宣城の人である。江山県の事務を代理した。金華が屠殺されると、父老を集めて告げて言った。「兵がまもなく来る。私は義として去るべきではない。しかし、一人の故をもって、町全体が災いを受けるわけにはいかない。」そこで印を封じ、冠帯を整えて北を拝し、井戸に身を投じて死んだ。士民が彼を収葬し、祠を建てて祀った。

張国維は、字を玉笥といい、東陽の人である。天啓二年の進士。番禺知縣に任じられた。崇禎元年、刑科給事中に抜擢され、副都御史楊所修・御史田景新を弾劾して罷免させた。いずれも魏忠賢の党与であった。その後、時政について五事を上奏し、言うには、「陛下は治績を求めることがあまりに急であり、総括・査定があまりに厳格である。拙劣な者は過ちを避けるために小心となり、巧妙な者は迎合して容れられようとする。誰が手足を伸ばして、国家のために職務を営むことができようか。故に、治世の外観は精聡明瞭であるが、腹心と手足の情誼は実に薄く、これは英明な察しを収めるべきである。祖宗の朝では、閣臣には詔旨を封還して返上する者もあり、上疏や掲帖を繰り返し上奏して一事を争う者もいた。今は一旦詰責を受けると、俯首して暇もなく、一旦改擬を命じられると、詔旨に順って後れを恐れる。仮に処置が適切でなくとも、必ずや敢えて執奏することはない。これは迎合を戒めるべきである。召対は本来下情を通じさせるためのもので、それによって罪を得る者はなかった。今ではただ天子の言葉が伝えられるのみで、拝礼や応対の様子は見られない。臣の同官熊奮渭が還朝して十日、傍らに一言を加えただけで、譴責と左遷を蒙った。少しばかり軽い罰を加え、寛容の度量を示すことはできないのか。これは上下が融和すべきである。」その二条では、刑罰を公平にし、恩沢を広く施すことを請うた。帝は全てを用いることはできなかった。礼科都給事中に進んだ。京師で地震があり、弊政を厳しく諫めた。太常少卿に転じた。

七年、右僉都御史に抜擢され、応天・安慶など十府を巡撫した。その冬、流賊が桐城を犯し、官軍は全滅した。国維は壮年であったが、一晩で鬚髪が急に白くなった。翌年正月、副将許自強を率いて救援に赴き、遊撃潘可大・知縣陳爾銘らが桐城を守って陥落させなかった。賊はそこで潛山を攻め、知縣趙士彥は重傷を負って死亡した。太湖を攻め、知縣金応元・訓導扈永寧が殺害された。国維が到着し、桐城の包囲を解き、守備朱士胤を潛山に、把総張其威を太湖に向かわせた。士胤は戦死し、自強は宿松で賊と遭遇し、殺傷は互角であった。安慶の山民が石を投げつけて賊を攻撃し、賊は多くが死んだため、英山・霍山を越えて逃げ去った。九月、賊は再び宿松から潛山・太湖に入り、他の賊掃地王もまた宿松など三県を陥落させた。国維はそこで土着の民二千人を募って守備させ、軍事を監軍史可法に委ねた。翌年正月、賊が江浦を包囲したので、守備蔣若來・陳於王を遣わして撃退した。十二月、賊が分兵して懐寧を犯すと、可法及び左良玉・馬爌がこれを阻止した。再び江浦を犯すと、副将程龍及び若来・於王らが防ぎ守った。諸城は全て無事であった。また望江を包囲したので、兵を派遣して救援し、包囲も解かれた。

十年三月、国維は程龍らを率いて安慶に赴き、酆家店で賊を防いだが、程龍の軍数千は全滅した。賊は東進して和州・含山・定遠を陥落させ、六合を攻め落とし、知縣鄭同元は潰走し、賊はついに天長を攻めた。国維は賊の勢いが日増しに盛んになるのを見て、朝廷に請願し、安慶・池州・太平を割いて別に巡撫を設置し、史可法をこれに任じさせた。安慶が江南巡撫の管轄に属さないのは、これに始まる。議者は江浦・六合も併せて割き、国維に江南の防護に専念させるよう求めたが、許されなかった。

国維は人となり寛厚で、士大夫の心を得た。管轄する郡に災害や損傷があると、常に朝廷に命を請うた。太湖・繁昌の二城を築き、蘇州の九里石塘及び平望の内外塘・長洲から至和に至る塘を建設し、松江の捍海堤を修築し、鎮江及び江陰の漕渠を疏浚し、いずれも成果を上げた。工部右侍郎兼右僉都御史に転じ、河道を総理した。大旱魃の年には、漕運の水路が干上がったので、国維は諸水を疏浚して漕運を通じさせた。山東で飢饉が起こると、救済して生き返らせた窮民は数えきれなかった。

十四年夏、山東に盗賊が起こり、兵部右侍郎に改め、淮・徐・臨・通の四鎮の兵を監督し、漕運を護衛させた。大盗李青山は数万の徒党を率い、梁山泊を占拠し、その党を遣わして韓荘などの八閘を分拠し、運河の道を塞いだ。周延儒が召しに応じて北上する途中、青山が謁見し、徒党を率いて漕運を護衛するのであって、乱を起こすのではないと述べた。延儒は朝廷に言上すると約束し、官職を授けようとした。しかし青山はついに漕運の舟を遮断し、大いに焼き掠め、臨清に迫った。国維は配下の兵を合わせてこれを撃ち降し、朝廷に捕虜を献じ、市中で磔刑に処した。兵部尚書陳新甲が獄に下され、帝は国維を召してこれを代えさせた。そこで戦守の賞罰の規程を定め、厳格な世職授与、推挙昇進の斟酌、諮問上奏の慎重化など七事を列挙して上奏すると、帝はいずれも許可した。開封が陥落すると、河北が震動し、黄河防衛の数策を条陳すると、帝もこれを受け入れた。

十六年四月、我が大清兵が畿輔に入ると、国維は趙光抃に檄を飛ばして螺山で防がせたが、八総兵の軍は皆潰走した。言官が国維を誹謗したため、解任され、まもなく獄に下された。帝はその治河の功績を思い、釈放された。中左門で召し出されて応対し、元の官に復し、右僉都御史を兼ね、江南・浙江に急行して練兵や輸餉などの諸務を監督した。都を出て十日にして都城が陥落した。

福王が召して戎政の協理を命じた。まもなく山東での賊討伐の功績を叙勲し、太子太保を加えられ、錦衣衛僉事の蔭官を受けた。吏部尚書徐石麒が去職すると、衆議は国維に帰した。しかし馬士英は用いず、張捷を用いた。国維は省親を乞うて帰郷した。

南都が陥落し、一ヶ月余り後、潞王が杭州で監国したが、数日も経たずに出降した。閏六月、国維は台州で魯王に朝見し、王に監国を請うた。即日に紹興に移駐し、国維を少傅兼太子太傅・兵部尚書・武英殿大学士に進め、江上で督師させた。総兵官方国安も金華から到着した。馬士英は平素から国安と親しく、その軍中に身を潜め、入朝を請うた。国維はその十大罪を弾劾したため、ついに敢えて入朝しなかった。富陽・於潜を相次いで回復し、江沿いの要害に木城を築き、国安及び王之仁・鄭遵謙・熊汝霖・孫嘉績・錢肅樂らの諸営と連合し、持久の計を立てた。順治三年五月、国安らの諸軍は兵糧が尽きて潰走し、王は台州に逃れて海路を渡り、国維も東陽に戻って守った。六月、勢いが支えられないと悟り、絶命詞三章を作り、水に赴いて死んだ。享年五十二。

張肯堂、字は載寧、松江華亭の人。天啓五年の進士。浚県知県に任じられた。崇禎七年、御史に抜擢された。翌年春、賊が鳳陽を陥落させると、賊を滅ぼす五事を条上した。まもなく皇陵が震撼したため、上疏して輔臣が秦・越の如く他人事のように見るべきではないと責めたが、帝は問わなかった。福建に按察使出向し、たびたび寇を平定した功績で賞賜を受けた。還朝して言うには、「監司が競争に奔走し、意のままに就任させたい者には、留任させて長期在任させ、避けたい者には、地を易えて人材を借りる。今年は燕・秦、来年は閩・粵と、道路を往復するのに動いて数千里、期限は遅滞し、数ヶ月を超えることが多い。一度更迭するごとに、一度の擾害を加えることになる」。帝はその言を是とした。十二年十月、楊嗣昌が出て督師した。肯堂は上奏して言うには、「古来より乱を平定する方法は、初めは解散させ、勢いが成れば剪除するもので、専ら撫慰に任じた例はない。今、輔臣が新命を受けて出陣するに当たり、賊は必ずや旧来の手口を用い、偽って尾を振り憐れみを乞うであろう。そして失事した諸臣は、以前の敗局を覆い隠そうと望み、必ずや様々に惑わせ、再び撫慰の議論を進めるであろう。特に一令を発し、専ら剿除に務めるよう請う。招撫の説を進める者があれば、直ちに重典に処すべきである」。帝は偏執した私見であると責めた。

十四年四月に言うには、「流寇が城を陥れ邑を破り、往来縱横して、無人の境に入るが如きは、これは督師嗣昌が事を受ける以前にはなかったことである。目前の大計は、先ず嗣昌の権限を解くことにある」。上疏が入った時には既に嗣昌は死んでいた。十二月に再び言うには、「今、賊を討つに人無しとは言えず、巡撫の外に更に撫治がおり、総督の上にまた督師がいる。位号は異なれど、事権に別はない。今、楚は自ら捷報を報じ、豫は自ら敗北を報じ、甚だしきは南陽が失陥し、禍が親藩に及んだが、督師の職掌はどこにあるのか。試みに今、督師たる者は、中央に居て運営し、発蹤指示を以て功と為すのか、それとも賊を分けて処理し、焦頭爛額を以て事と為すのか。今、秦・保の二督たる者は、封疆を兼ね顧みて、互いに掎角の勢いを為すのか、それとも賊に遇えば追剿し、専ら出境の師を提げるのか。今、撫たる者は、一に督師の令に従い、進退はその指揮に惟るのか、それとも兼ねて賊勢の急なることを視て、戦守は利を択ぶことができるのか。凡そこれらの肯綮を、一切問わずに置き、中樞は冥々として決し、諸臣は瞶瞶として任ずる。地を失い師を喪うに至って、中樞は督撫を糾弾して自らを解し、督撫は又互いに委ねて過ちを謝し、そして疆土の事は問うべからざるとなる」。帝はその言を受け入れ、所管の部署に詳細な審議を下した。十五年、建言して譴責貶謫された諸臣を召還するよう請うたため、給事中陰潤・李清・劉昌、御史周一敬の官職が復された。肯堂は大理丞に転じ、まもなく右僉都御史に抜擢され、福建巡撫となった。

総兵鄭鴻逵が唐王聿鍵を擁して閩に入り、その兄の南安伯芝龍及び肯堂が推戴したため、太子少保・吏部尚書を加えられた。曾櫻が到着すると、言官が櫻に吏部を執掌させるよう請うたため、肯堂に都察院を執掌させた。肯堂は出て舟師を募り、海路から江南に至り、義旅を提唱し、そして王が仙霞から浙東に向かい、互いに声援し合うよう請うた。そこで少保を加えられ、敕印を与えられ、便宜を以て事に従事することとなった。芝龍は異心を抱き、密かにこれを阻んだため、出発できなかった。

順治三年、王が敗死すると、肯堂は海外を漂泊した。六年に舟山に至り、魯王に用いられて東閣大学士となった。八年、大清兵が天霧に乗じて螺頭門に集結した。定西侯張名振が王を奉じて海路を去り、肯堂に城守を託した。城中の兵六千、住民一万余りで、十余日間堅守した。城が破れると、肯堂は蟒玉を着て南面して坐り、四妾・一子の妻・一女孫に先に死なせ、そして従容として詩を賦し、自ら縊死した。

この時、共に死んだ者は、兵部尚書李向中・禮部尚書吳鍾巒・吏部侍郎朱永佑・安洋將軍劉世勛・左都督ととく張名揚である。また、通政使会稽の鄭遵儉、兵科給事中鄞県の董誌寧、兵部郎中江陰の朱養時、戶部主事福建の林瑛・蘇州の江用楫、禮部主事会稽の董元、兵部主事福建の朱萬年・長洲の顧珍・臨山衛の李開国、工部主事長洲の顧中堯、中書舍人蘇州の蘇兆人、工部所正鄞県の戴仲明、定西侯参謀順天の顧明楫、諸生福建の林世英、錦衣指揮王朝相、内官監太監劉朝。合わせて二十一人である。

李向中、鍾祥の人。崇禎十三年の進士。長興知県に任じられ、秀水に転じた。福王の時、車駕郎中を歴任し、蘇松兵備副使となった。唐王は尚宝卿に任じた。閩の事が敗れると、海浜に避けた。魯王が監国すると、右僉都御史に召され、海路に従い、兵部尚書に進み、舟山に至った。そしてこの時、城が破れると、大帥が向中を召したが、赴かなかった。兵を発して捕らえると、喪服を着て現れた。大帥が呵責して言うには、「招聘しても来ず、捕らえれば来るとは、どういうことか」。向中は従容として言うには、「前は官を辞したのであり、今は誅戮に就くだけである」。

吳鐘巒、字は巒稚、武進の人。崇禎七年の進士。長興知縣に任ぜられる。旱魃と水害のため、練餉の徴収が定額に達せず、紹興照磨に左遷された。一年余りして、桂林推官に移る。京師の変を聞き、涙を流して言う、「馬君常は必ずや節を守って死ぬであろう。」やがて世奇が果たして死んだ。福王が立つと、禮部主事に昇進した。南雄に着くと、南都が失陥したと聞き、転じて福建に赴き、国策を痛切に陳述した。魯王が兵を起こすと、鐘巒を禮部尚書とし、普陀山中を往来させた。大清の兵が寧波に至ると、鐘巒は慷慨として人に謂う、「昔、仲達は璫禍に死し、我は諸生として死すべからず。君常は賊難に死し、我は遠臣として従死すべからず。今こそその時である!」急ぎ海を渡り、昌國衛の孔廟に入り、薪を左廡の下に積み、孔子の木主を抱いて自ら焼死した。仲達とは、江陰の李應升、鐘巒の弟子で、魏忠賢に逆らい党禍に死した者である。

朱永佑、字は爰啟。崇禎七年の進士。刑部主事に任ぜられ、吏部に改められるが、罷免されて帰郷した。唐王に仕え、後に舟山に至る。城が陥落し捕らえられ、僧となることを願ったが、許されず、ついに刑に処せられた。名揚は名振の弟。城が陥落すると、母の範氏以下数十人が自焼した。

朝相は城の失守を聞き、王妃陳氏、貴嬪張氏、義陽王妃杜氏を護って井戸に入れ、巨石で覆い、その傍らで自刎した。開國母、瑛、明楫の妻はいずれも自尽した。

曾櫻、字は仲含、峽江の人。萬歷四十四年の進士。工部主事に任ぜられ、郎中を歴任した。天啓二年、常州知府に昇進した。諸御史で塩政、倉庫、江防、漕運および提学、屯田を巡察する者は、いずれも挙劾の権を握り、文書が日々届いた。櫻は南京都察院に牒して言う、「他方の守令は、一つの巡按に奔走するが、南畿だけは数人の巡按に奔走する。一切を戒め整え、鉤訪や贖罪金徴収などの陋習を廃するよう請う。」都御史熊明遇がこれに応じて規約を定めた。

櫻は身を廉潔に保ち、政治は愷悌公平で、強権を恐れなかった。屯田御史が糾弾すべき属吏の姓名を要求したが、櫻は応じなかった。御史が厳しい言葉で脅すと、答えて言う、「僚属は既に尽く、糾弾すべき者はなく、ただ知府が不行跡なのみ。」そこで自ら下考を記し、門を閉じて罪を待った。巡撫・巡按が急ぎ慰留したので、ようやく出て政務を執った。織造の中官李實が知府に属礼を行うよう迫ったが、櫻は従わなかった。実が「爾」「汝」をもって侮る檄文を送ると、櫻もまた「爾」「汝」で応え、ついに屈しなかった。無錫の高攀龍、江陰の繆昌期、李應升が逮捕されると、櫻は昌期・應升の資金を助け、攀龍の死後の事を経理し、文を作って祭り、その子と僮仆を獄から出した。宜興の毛士龍が魏忠賢に逆らって戍に遣られる罪に坐すると、櫻は士龍に逃げ去るようほのめかした。上官がその家人を捕らえようとしたが、櫻のおかげで免れた。武進の孫慎行が忠賢に逆らい、戍に当たったが、櫻はその行きを遅らせた。忠賢が敗れると、事は遂に解かれた。

崇禎元年、右參政として漳南の分守となる。九蓮山の賊が上杭を犯すと、櫻は壮士を募って撃退し、夜にその巣窟を襲い、殲滅すること殆んど尽くした。士民は櫻のために祠を建てた。母の喪で帰郷。喪が明けると、元の官に起用され、興化・泉州の二郡を分守した。按察使に進み、福寧を分巡した。先に、紅夷が興化・泉州を寇すと、櫻は巡撫鄒維璉に副総兵鄭芝龍を軍鋒に用いるよう請い、果たして勝利を奏した。劉香が広東を寇すと、総督熊文燦は芝龍を援けに得ようとしたが、維璉らは香と芝龍に旧交があるとして、派遣を疑った。櫻は百口を以て芝龍を保証したので、遂に香を討滅し、芝龍は櫻に大いに感謝した。

十年冬、帝は東廠の言を信じ、櫻が賄賂を行って官を昇らせようとしたとして、械して京に赴くよう命じた。御史葉初春はかつて櫻の属吏であり、その廉潔を知っていたので、他の上疏で微かに弁明した。詔問があり、詳細に櫻の賢明さを述べたが、しかし賄賂がどこから来たかは知らなかった。詔が福建に至ると、巡撫沈猶龍、巡按張肯堂が廠の檄文に奸人黄四臣の名があるのを確認した。芝龍が前に進み出て言う、「四臣は私が遣わした者である。私は櫻の恩に感じ、彼が転任するのを恐れ、都下で訊問させるよう命じた。四臣が妄言したため、この事が起こったのである。」猶龍・肯堂がこれを上奏し、櫻の冤罪を力説して弁明し、芝龍もまた上疏して罪を請うた。士民は櫻が貧しいのを見て、金を醵して旅装を整え、耆老数千人が京師まで随行し、登聞鼓を叩いて冤罪を訴えた。帝は獄に入れず、京邸で命を待つよう命じた。芝龍の都督の官銜を削り、櫻を元の官で海道巡視とさせた。

まもなく衡州・永州に賊が多いため、櫻を湖廣按察使に改め、湖南を分守させ、敕書を与えた。故事では、守道には敕書がなかったが、帝は特にこれを賜った。時に賊は既に十余の州県を破壊し、永州知府と推官はともに職務に堪えなかった。櫻は蘇州同知の晏日曙、帰徳推官の萬元吉の才能を推薦した。両人はちょうど事に坐して罷官していたが、櫻の言によってともに起用された。櫻は芝龍を調発して賊を剿討させ、賊は多く降伏し、一方は遂に安定した。山東右布政使に遷り、登州・萊州を分守した。

十四年春、右副都御史に擢られ、徐人龍に代わってその地を巡撫した。翌年、南京工部右侍郎に遷り、休暇を乞うて帰郷した。山東は初め兵乱に遭い、巡撫王永吉の管轄する済南・兗州・東昌の三府州県は尽く失陥したが、隠して上聞しなかった。兵が退くと、回復したと報告した。一方、櫻の管轄する青州・登州・萊州の三府では失った州県は僅かで、すべて実状を奏上した。罪を論ずるに及んで、永吉はかえって総督に擢られ、櫻は官を奪われ、刑部の獄に下された。十日と経たぬうちに京師が陥落し、賊が諸囚を釈放したので、櫻は遁れて帰還した。

その後、唐王が福州で称号した。芝龍が櫻を推薦して工部尚書兼東閣大学士に起用した。間もなく吏部を掌らせ、まもなく太子太保・吏部尚書・文淵閣大学士に進めた。王が延平に駐蹕すると、櫻に福州を留守させた。大清の兵が福州を破ると、櫻は家族を連れて海外の中左衛に避けた。五年を経て、その地が兵乱に遭い、遂に自縊して死んだ。

朱繼祚、莆田の人。萬歷四十七年の進士。庶吉士に改められ、編修に任ぜられる。天啓年間、『三朝要典』の編修に参与し、まもなく罷免されて去った。崇禎初年、官に復する。累進して禮部右侍郎となり、実録総裁を充てた。給事中葛樞が、繼祚はかつて『要典』を纂修し、清議に罪を得たので、国史を総裁すべからずと上言したが、聞き入れられなかった。繼祚はまもなく病を理由に辞去した。南京禮部尚書に起用されるが、また人言によって罷免された。福王の時に元の官に起用されたが、赴任しなかった。南都が失陥すると、唐王が召して東閣大学士とし、汀州まで従った。王が擒らえられると、繼祚は郷里に奔還した。魯王が監国すると、繼祚は兵を挙げて王に応じ、興化城を攻め取った。やがて大清の兵が至り、城は再び陥落した。繼祚および參政湯芬、給事中林嵋、知県都廷諫はともにこれに死した。

芬、字は方侯、嘉善の人。崇禎十六年の進士。福王の時、史可法の監紀推官となる。唐王は御史とした。まもなく監司として興泉道を分守した。城が陥落すると、緋衣を着て堂上に坐し、殺害された。嵋、字は小眉、繼祚の同郷人。進士より吳江知県となる。蘇州が失陥すると、帰って唐王に仕えた。この時に至り自縊して死んだ。廷諫、杭州の人、莆田知県であった。

王は監国二年正月に長垣に至り、翌年の正月に至るまで、連続して建寧・邵武・興化の三府、福寧一州、漳浦・海澄・連江・長楽等二十七県を攻略し、軍勢は大いに振るった。しかしこの時、得たものをまた失った。海澄を失い、知県洪有文はこれに殉じて死んだ。永福を失い、邑人で給事中の鄢正畿・御史の林逢経はともに水に投身して死んだ。長楽を失い、邑人で御史の王恩及は毒を服して死に、妻の李氏もともに死んだ。建寧を失い、守将の王祈は巷戦に勝てず、自ら焼死した。

余煌は、字を武貞といい、会稽の人である。天啓五年に進士第一となった。翰林修撰に任じられ、『三朝要典』の編修に参与した。崇禎の時、母の喪で帰郷した。喪が明けると、左中允に起用され、左諭徳・右庶子を歴任し、経筵講官を務めた。給事中の韓源が、礼部侍郎の呉士元・御史の華琪芳および余煌はいずれも『要典』の編修に関与したとして、排斥すべきであると弾劾したが、帝は取り上げなかった。余煌が上疏して弁明すると、帝はまた温かい言葉で慰諭した。戸部尚書の程国祥が京城の家屋賃借料を借り上げることを請うたが、余煌は反対して争い、休暇を請うて帰郷した。やがて父の喪に遭った。喪が明けたが、長く起用されなかった。魯王が紹興で監国すると、礼部右侍郎に起用され、さらに戸部尚書に起用されたが、いずれも就任しなかった。翌年、武将の横暴が甚だしいため、余煌を兵部尚書に拝し、ようやく受命した。当時、諸臣は高官を競って求め、請願や要求に飽くことがなかった。余煌は上言した。「今、国勢はますます危うく、朝政はますます乱れ、寸土も回復せず、戦うにも守るにも資するものがない。諸臣が祭祀を請うならば、先帝の祭祀がまだ整わぬことを思うべきである。葬儀を請うならば、先帝の陵墓がまだ営まれぬことを思うべきである。封爵を請うならば、先帝の宗廟がまだ享けられぬことを思うべきである。蔭官を請うならば、先帝の子孫がまだ保たれぬことを思うべきである。諡号を請うならば、先帝の光輝ある事績がまだ顕彰されぬことを思うべきである。」当時、名言とされた。大清兵が長江を渡ると、王は海路に逃れた。六月二日、余煌は水に赴いたが、舟人が救い起こした。二日後、再び深みに投身し、ついに死んだ。

陳函輝は、字を木叔といい、臨海の人である。崇禎七年の進士となった。靖江知県に任じられたが、御史の左光先に弾劾されて罷免された。北京が陥落すると、衆に誓って義兵を起こそうとした。ちょうど福王が立ったが、在野の者が王事に尽力することを許さなかったので、やめた。まもなく職方主事に起用され、江北で監軍した。事敗れて帰郷し、魯王に礼部右侍郎に抜擢された。王に従って海路を逃れたが、やがてはぐれ、雲峰山に哭き入り、絶命詞十章を作り、水に投身して死んだ。

王瑞柟は、字を聖木といい、永嘉の人である。天啓五年の進士となった。蘇州推官に任じられ、兌運を兼ねて管轄した。軍と民が交互に米を納める際、互いに軋轢を生じて争いが起こった。瑞柟は調停して適切に処理し、毎年余分な費用三万金を節減し、上官がこれを石碑に刻んで法令とした。貴人の弟が法を犯したので、法律に従って捕らえて尋問した。その者が当道者に讒言し、転任させようと議したので、ついに帰郷した。崇禎七年、河間推官に起用され、工部主事に遷り、兵部に転じ、職方員外郎となり、湖広兵備僉事に抜擢され、襄陽に駐屯した。十一年春、張献忠が谷城を占拠して降伏を請うと、総理の熊文燦がこれを許した。瑞柟は良策でないと考え、巡按の林銘球・総兵官の左良玉と謀り、献忠が来た時に捕らえようとした。文燦は固執して認めなかった。瑞柟は言った。「賊は計略で我々を愚弄している。我々は愚弄されてはならない。今、良玉及び諸将の賈一選・周仕鳳の兵はいずれも近境にいる。誠にこれらを合わせて撃てば、勝利せぬことを憂うるに足らぬ。」文燦は怒り、降伏工作を妨げるとして責めた。瑞柟は言った。「賊を打ち破らずに急いで降伏させれば、彼らは畏れるところがなくなる。必ず討伐する勢いを示してこそ、心を折らせて二心を抱かせぬようにできる。妨げるのではなく、実は成功させるのである。」文燦は従わなかった。瑞柟は従軍・帰農・解散の三策を列挙して上申したが、文燦も用いなかった。瑞柟は自ら檄文を作って献忠を諭したが、献忠は文燦が自分を庇っていると頼みにして、聞き入れなかった。翌年、献忠が叛くと、瑞柟はすでに先に喪に服して帰郷していた。献忠は壁に書を残し、己の叛乱は総理がそうさせたのだと述べた。上官の姓名と賄賂を取った月日を詳細に列挙し、末尾に題して言った。「我が金を受け取らぬ者は、王兵備ただ一人のみ。」これによって瑞柟の名声は大いに高まった。喪が明けたが、用いられる前に都城が陥落した。福王の時、太僕少卿となり、有司が民を虐げる様子を極力陳述したが、まもなく休暇を請うて帰郷した。唐王が福建に召し寄せ、元の官職に任じたが、まもなくまた帰郷した。福建の地がことごとく失われ、温州も守られなくなると、山中に避けた。出仕を勧めようとする者がいたので、家廟に拝辞し、落ち着いて室に入り自縊して死んだ。

路振飛は、字を見白といい、曲周の人である。天啓五年の進士となった。涇陽知県に任じられた。大官が魏忠賢に取り入り、涇陽に生祠を建てようとしたが、振飛は固執して従わなかった。邑人の張問達が宦官に逆らい、贓物十万を追徴される罪に坐した。振飛はわざと引き延ばし、宦官が失脚して事態が解決した。流賊が境内に入ると、撃退した。崇禎四年、召されて御史に任じられた。上疏して周延儒が卑汚で奸悪であり、邪悪な者と結託して正しい者を貶めていると弾劾し、速やかに斥けて宰相の道を清めるよう請うたが、詔旨により厳しく責められた。まもなく、時事の十大弊害を陳述した。すなわち、細事にこだわって政体を忘れること、廉恥を失って官紀を壊すこと、民はますます窮するのに租税はますます急であること、有事の時は急で無事の時は緩やかなこと、顕在する患いを知って潜在する憂いを忘れること、治める事を求めて治める人を欠くこと、外に対する責務を重くし内に対する責務を軽くすること、小さいことには厳しく大きいことには寛大なこと、臣下は日々怠け主上は日々疑うこと、詔旨はあっても奉行されないことである。上疏が入ると、詔して所管の官庁に付した。山東で兵が叛乱し、巡撫の余大成・孫元化を弾劾し、また延儒が曲げて庇う罪を論じたが、帝は問わなかった。やがて、吏部尚書の閔洪学が権勢に結びつき、私党を立て、吏部を管轄して以来、吏治が日々悪化していると弾劾し、洪学は自ら辞任した。廷推で南京吏部尚書の謝升を左都御史に推挙したが、振飛はその醜状を歴々と誹謗し、升はついに用いられなかった。六年、福建を巡按した。海賊の劉香がしばしば紅夷を誘い込んで侵犯したので、振飛は千金を懸けて将士を励まし、遊撃の鄭芝龍等を派遣して大破し、詔して銀幣を賜った。任期が満ちて、京卿として登用されることになった。初め、振飛が海賊の情勢を論じて、巡撫の鄒維璉は処理できないと述べ、言葉で彼を攻撃した。維璉が罷免され、命令が下ったばかりの時、数度にわたり勝利を奏上したので、振飛は力を尽くしてその功績を顕彰し、維璉は再び召し用いられた。

八年夏、帝が輔臣を選ぼうとした。振飛は言った。「枚卜の盛典において、縁故によってこっそり付き従う者がいれば、光輝あるものとならない。かつての周延儒・温体仁らのように公論がともに棄てた者を、宰相に就けて以後、民は窮し盗賊は起こり、己を辱める者は必ず天下を正すことができない。」当時、延儒はすでに斥けられていたが、体仁はちょうど首席の宰相にあり、これを恨んだ。やがて振飛は蘇州・松江を巡察し、輸布・収銀・白糧・収兌の四大患を除くよう請い、民の困窮はこれによって緩和された。ちょうど常熟の銭謙益・瞿式耜が奸民の張漢儒に告発された時、体仁は振飛が糾弾を怠ったと坐し、詔旨を擬して陳状を命じた。振飛は謙益に罪がないと申し立て、言葉で体仁を刺した。体仁は憤り、帝の怒りを煽り、河南按察司検校に左遷した。入朝して上林丞となり、しばしば転じて光禄少卿となった。

十六年秋、右僉都御史に抜擢され、漕運を総督し、淮・揚を巡撫した。翌年正月、流賊が山西を陥落させた。振飛は将軍金声桓ら十七人を遣わし、分かれて黄河を防備させ、徐・泗・宿遷から安東・沭陽に至った。また郷兵を団練し、牛酒で犒労し、両淮の間に数万の精兵を得た。福・周・潞・崇の四王が賊を避け、同日に淮に到着した。大将劉沢清・高傑らも守備地を棄てて南下した。振飛は皆これを迎え入れた。四月初め、北都陥落の報を聞き、福王が南京に立った。河南副使呂弼周が賊の節度使となり、振飛に代わって来た。進士武愫が賊の防禦使となり、徐・はいを招撫し、賊将董学礼が宿遷を占拠した。振飛は弼周・愫を撃ち捕らえ、学礼を敗走させた。弼周を法場に竿ざしにし、軍士に一人三矢ずつ射させ、その後磔刑に処した。愫を縛って市中を引き回し、八十鞭打ち、檻車で朝廷に献上し、誅殺させた。五月、馬士英は親しい田仰を用いようとし、振飛を罷免した。振飛もまた母の喪に遭い、帰る家もなく、蘇州に流寓した。まもなく功績を記録され、そのまま家で右副都御史を加えられた。

振飛が初めて漕運を督した時、鳳陽の皇陵に参拝した。望気者が言うには、高墻に天子の気があると。唐王聿鍵は罪によりちょうど守陵に閉じ込められており、宦官がこれを虐待していた。振飛は上疏して罪ある宗室を一律に寛大にするよう乞い、ついに許可を得た。順治二年、大軍が南京を破り、聿鍵は福州で自立し、左都御史に任じた。振飛を招致できる者に五つの官職を与え、二千金を賜うと募った。振飛は召しに応じ、途中で太子太保・吏部尚書兼文淵閣大学士に任じられた。到着すると大いに喜び、宴を共にし、夜更けに及び、燭を撤して送り帰らせ、玉帯を解いて賜い、一子を職方員外郎に任じた。また淮を守った功績を記録し、錦衣衛の世襲千戸の蔭位を与えた。王はしばしば廷臣の怠慢を責めたが、振飛は進言して言った、「陛下は臣下が因循を改めなければ必ず敗亡に至るとおっしゃいます。臣は陛下が性急さを改めなければ、必ずしも中興できるとは限らないと考えます。陛下には民を愛する心はあれど、民を愛する政治は見られず、言を聴く明はあれど、言を聴く効果は収まっていません。喜怒を軽々しく発し、号令をたびたび変えます。群臣が凡庸であるのを見て過度に督責し、書史を博覧して明備を求められます。凡そ陛下の長所とされるものは、皆臣の大いに憂えるところです」。その言葉は巧みに王の短所を突いていた。三年、大清兵が仙霞関に進軍し、聿鍵は汀州に逃れた。振飛は追いかけたが及ばなかった。汀州が陥落すると、海島に逃れて住み、翌年永明王の召しに応じて赴く途中で没した。

何楷、字は元子、漳州鎮海衛の人。天啓五年の進士。魏忠賢が政を乱した時、選に謁せずに帰った。崇禎の時、戸部主事に任じられ、員外郎に進み、刑科給事中に改めた。流賊が鳳陽を陥落させ、皇陵を破壊した。楷は巡撫楊一鵬・巡按呉振纓の罪を弾劾し、輔臣温体仁・王応熊を風刺して言った、「振纓は体仁の私的な者、一鵬は応熊の座主です。逆賊が皇陵を犯し、神人ともに憤っています。陛下は講義を止め殿を避け、臣民を感動させました。二輔臣はただ漫然とこれを見て、一鵬・振纓に罪を戴いて自ら贖わせようとしています。情面が重く、祖宗の陵寝が軽く、朋党が深く、天下の譏り刺すことを顧みません」。帝の意に逆らい、一階級降格して職務に当たった。また言った、「応熊・体仁が奏上して弁明し、自ら門生姻戚を引き合いに出しています。刑官がえこひいきするのは、実にこれによります。輔臣に宣諭を乞い、恩仇を分け隔てず、国事を弄ばないようにさせてください」。応熊が再び奏上して弁明した。楷は言った、「臣の上疏はまだ旨を奉っていないのに、応熊は前日に臣の上疏の言葉を拾い引用しています。必ず禁中の言葉を漏らした者がいます」。帝の心が動き、応熊に自ら陳述させ、応熊はついにこれによって去った。吏部尚書謝升は登州・萊州が要地であり、巡撫陳応元が病気を理由に辞任を願い出ているので、その去るのを許すべきだと述べた。そして労永嘉を推挙して応元の代わりとすると、今度は登萊巡撫はもとより余分な官であると言った。楷もまた上疏してこれを駁した。楷はまた、都御史高攀龍に官を贈り、左光斗ら諸臣に諡号を賜い、恵世揚を召還するよう請うた。上疏は多く聞き入れられた。工科都給事中に累進した。

十一年五月、帝は火星が逆行したため、減膳して反省した。兵部尚書楊嗣昌がちょうど和議を主張し、歴史上の事例を引き合いに出して進言した。楷と南京御史林蘭友が先後にその誤りを言った。楷は言った、「嗣昌は建武年間の塞外との和親の故事を引き、これによって互市の賞与の説を述べようとし、元和年間の田興の故事を引き、これによって招撫の説を述べようとし、太平興国年間の連年の兵敗の故事を引き、これによって用兵すべからざる説を述べようとしています。ただ巧みに附会するだけです。至って永平二年の馬皇后の故事に至っては、さらにどこを指摘しているのか分かりません」。帝は嗣昌をかばい、聞き入れなかった。一か月余りして、嗣昌が喪中にもかかわらず起用されて内閣に入った。楷はまたこれを弾劾し、帝の意に逆らい、二階級降格されて南京国子監丞となった。母の喪で帰郷した。喪が明けると、廷臣がこぞって推薦し、召されて京に入ったが、都城はすでに陥落していた。

福王は楷を戸部右侍郎に抜擢し、銭法を督理させ、工部右侍郎を兼ねるよう命じた。連続して上疏して辞任を請うたが、許されなかった。順治二年、南都が陥落し、楷は杭州に逃れた。唐王に従って福建に入り、戸部尚書に抜擢された。鄭芝龍・鴻逵兄弟が甚だ横暴で、郊天の時、病気と称して出なかった。楷は芝龍に人臣の礼がないと述べた。王はその剛直な節操を賞賛し、都察院事を掌らせるよう命じた。鴻逵が殿上で扇をあおいだ。楷がこれを叱って止めさせた。二人はますます怒った。楷は彼らに容れられないと悟り、連続して辞任を請うて去った。途中で賊に遭い、片耳を切り落とされた。これは芝龍が遣わした部将楊耿であった。漳州が陥落し、楷はついに憂鬱して没した。

楷は群書を博く綜覧し、寒暑を問わず怠らず、特に経学に深く通じていた。

林蘭友、字は翰荃、仙遊の人。崇禎四年の進士。臨桂知県に任じられた。南京御史に抜擢された。大学士張至発・薛国観、吏部尚書田惟嘉らを上疏して弾劾し、ついで嗣昌が忠孝ともに欠けていると論じた。浙江按察司照磨に左遷され、楷及び黄道周・劉同升・趙士春とともに「長安ちょうあん五諫」と称された。光禄署丞に転じた。京師陥落の時、髪を切って身を隠した。賊に捕らえられ、拷問掠奪を極めた。賊が敗れると、南に帰った。唐王に用いられて太僕少卿となり、僉都御史に転じた。事敗れると、家族を連れて海辺に逃れ、十余年後に没した。

熊汝霖、字は雨殷、余姚の人。崇禎四年の進士。同安知県に任じられた。戸科給事中に抜擢された。用将の失策を上疏して陳べ、言った、「偏裨から副将まで、歴任して功績があり、初めて節鉞を授けるべきです。今は足を戦陣に運ぶこともないのに、幕府がすでに首功を上申しています。胥吏が虎の軍を率い、紈褲の子が兵符を握っては、どうして敵愾心を奮い起こせましょうか。大将の選びについては、功績のある副将を召し、時々面と向かって賜うべきで、有能な者を選んで用いるべきです。廷臣の推挙選択に誤りがあれば、文吏の保挙連坐法を用いるべきです」。帝はその言を採用した。後に言った、「楊嗣昌はまだ罪に問われず、盧象升はまだ褒賞されず、忠義の気概を大いに挫いています。嗣昌のために策を練り餉を練り、中原の万姓を盗賊に駆り立てた者は、元給事中沈迅です。嗣昌のために運籌し、三千人を率いて襄陽に駐屯し、城が破れるとすぐに逃げた者は、監紀主事余爵です。嗣昌に援引され、襄藩陥落に遭い、重く陳新甲に賄賂し、鄖陽巡撫袁継咸に罪をなすりつけた者は、今解任されて代わりを待つ宋一鶴です。皆誤国の臣であり、罪に問うべきです」。返答がなかった。

京師が戒厳すると、汝霖は東直門の守備を分掌した。かつて召されて応対し、言上した。「将は戦いに任じず。敵は南北を往来し、ただその後に従うのみで、貴官に仕える奴隷の如く、弩を負って先導し、塵を望むも及ばず。何をもって将と名づけ、何をもって督師と名づけようか。」帝は深くこれを然りとした。後に、言上した。「有司が処分した者は、辺境の才を濫りに挙げてはならず、監司が処分した者は、巡撫に急に越えて登用してはならない。そうしてこそ封疆の重任が、よからぬ者の借りる途とならない。」また言上した。「戒厳以来、臣の上疏は凡そ二十に上る。援剿の機宜は、百も一つ行われず。而して臣が推し量った敵情は、不幸にも言い当たった。近ごろ外県の難民が紛紛と都に入るが、皆、兵を避けると言い、敵を避けるとは言わない。州が破られた時、敵はなお多く殺掠せず、官軍が続いて至って、初めて一人残らず殺した。朝廷は歳に数百万の金銭を費やして兵を養うが、豈に我が赤子を毒することを欲するものか。」帝はその中に「地下に泣きを飲む」との語があるのを憎み、福建按察司照磨に貶謫した。

福王が立つと、召還された。上疏して言上した。「臣が丹陽より来るに、浙兵が辺兵に撃たれ、民家を十余里にわたって焼いたことを知った。辺帥に言う者があった。四鎮は殺掠によって封爵を得た。我は何を憚ってそうしないことがあろうか、と。臣は四鎮が必ずや毅然として北征し、この恥を雪ぐと思ったが、今、淮・揚に恋々としているのは何故か。況して一鎮の兵糧は六十万にまで多くなり、勢い供給できぬ。仮に古の藩鎮の法に倣うとしても、大河以北に屯田を開き府を設けるべきであり、曾て奥{穴交}の内にありながら、急に藩籬と見做すべきではない。」間もなく、言上した。「臣が窃かに観るに、目前の大勢は、恢復が叶わぬは無論、偏安さえ未だ必ずしも叶わぬ。日々兵糧と戦守を討究すべきなのに、専ら恩怨と異同に在る。勲臣や方鎮は、舌鋒筆鍔を逞しゅうし、近ごろは匿名の帖をもって旧臣を追い、疏遠の宗人をもって宰輔を弾劾し、中外紛紛として、将に廠衛を復活せんとすと言う。廠衛は威を樹て利を牟り、小民の鶏犬も寧日無し。先帝はこの一節に止め、府怨を免れざりし。前事遠からず、後事の師なり。且つ先帝は宗藩を篤く念い給うたが、賊を聞いて先に逃げ、誰か社稷に死せし。先帝は武臣を隆重にし給うたが、叛降跋扈する者、肩背相踵く。先帝は勲臣を委任し給うたが、京営の鋭卒は徒らに賊の藉と為るのみ。先帝は内臣を倚任し給うたが、門を開き敵を延く、衆口喧伝す。先帝は文臣を次を超えて擢用し給うたが、辺才の督撫、誰か捍禦せし。超遷の宰執、賊庭に羅拝す。前日の失う所以を知れば、即ち今日の得る所以を知る。今に及んで為さずんば、将に何時を待たん。」疏が奏上されると、俸給を停められた。間もなく吏科右給事中に補任された。

初め、馬士英が阮大鋮を推薦すると、汝霖は争って不可とした。大鋮が起用されて兵部を佐けるに及んで、汝霖はまた言上した。「大鋮は兵を知るをもって用いるなら、用有る地に置くべきで、中朝に処すべからず。」聞き入れられなかった。一月余りして、奉使して陛辞するに当たり、言上した。「朝端の議論は日々新たに、宮府の揣摩は日々熟す。少宰・枢貳より悉く廷推を廃し、四品の監司が竟に詹尹に進む。蹊径は疊出し、謡諑は繁興す。一人未だ用いられざれば、便ち満朝を党人と目し、一官外遷すれば、輒ち当事を殺すべしと訾る。国恤を罔聞に置き、私図を逞しゅうして志を得る。黄白は庭に充ち、青紫は路を塞ぎ、六朝の佳麗、今時に復見す。独り他日税駕する何の地たるかを思わざるか。」返答がなかった。

間もなく、南京が陥落し、士英は杭州に逃げた。汝霖は主君を棄てたことを責めると、士英は応える言葉がなかった。杭州もまた陥落し、孫嘉績と共に兵を挙げた。魯王が監国すると、右僉都御史に抜擢され、督師として江を防ぎ、戦うこと屡々敗れた。海寧に入って兵一万を募り、兵部右侍郎に進んだ。唐王が閩中に立つと、劉中藻を遣わして詔を頒布したが、汝霖は檄を出して厳しくこれを拒絶した。順治三年、兵部尚書に進み、魯王に従って海を渡った。明年、本官のまま東閣大学士を兼ねた。又明年の春、鄭彩が汝霖を恨み、兵を遣わして密かにこれを害し、その幼子と共に海中に投げ込んだ。

錢肅樂、字は希聲、鄞県の人。臨江知府若賡の孫、寧国知府敬忠の兄の子である。崇禎十年に進士となり、太倉知州に授けられた。豪家の奴僕と狡い吏が奸を為し、兇徒が党を結んで人を殺し、その屍を焼いた。肅樂は痛く懲らしめ、皆手を束ねた。また朱と白の榜をもって善悪の人名を列記し、白榜の者を階下に械で繋ぎ、大杖を与えた。久しくして、杖を受ける者は日々少なくなった。かつて昆山・崇明の事を摂行し、両県の民は皆碑を立ててその徳を頌えた。刑部員外郎に遷り、間もなく内外の艱に服した。

順治二年、大兵が杭州を取ると、属郡は多く迎えて降った。閏六月、寧波の郷官が降伏を議すると、肅樂は兵を挙げることを建議した。諸生の華夏・董誌寧らが遮って拝し肅楽に首唱を求め、士民が集まった者は数万人、肅樂は乃ち牙を建てて事を行った。郡中の監司守令は皆逃げ、ただ一同知のみが府事を治めていた。肅樂は倉庫の籍を索取し、守具を繕い完うし、総兵王之仁と盟を締めて共に守った。魯王が台州に在ると聞き、挙人張煌言を遣わして表を奉り監国を請わせた。会して紹興・余姚もまた兵を挙げ、王は乃ち紹興に赴き監国の事を行った。肅樂を召して右僉都御史とし、銭塘を画して守らせた。間もなく右副都御史に進んだ。当時、之仁及び大将方国安は並びに封爵を加えられ、その兵糧は寧波・紹興・台州三郡の田賦を用いたが、継ぐことができず、常に食を欠いた。後に、兵部右侍郎を加えられた。明年五月、軍糧が尽き、悉く散り去った。魯王は航海し、肅樂もまた舟山に至った。唐王がこれを召したが、甫めて境に入るや、王は既に没した。遂に海壇山に隠れ、山薯を採って食とした。明年、魯王が長垣に駐ると、兵部尚書として召され、劉沂春・呉鐘巒らを推薦して用いた。明年、肅楽を東閣大学士に拝した。

唐王は既に歿したが、その将徐登華が富寧を守り、魯王は大学士劉中藻を遣わしてこれを攻めさせた。登華は降らんとしたが、疑って決せず、言った。「海上に豈に天子あらんや。舟中に豈に国公あらんや。」肅楽は書を致して言った。「将軍は独り南宋の末、二帝並びに舟中に在りしを聞かざるか。」登華は遂に降った。鄭彩が権柄を専らにし、連ねて熊汝霖・鄭遵謙を殺した。肅楽は憂憤して舟中に卒し、故相葉向高の曾孫進晟が福清の黄檗山に葬った。

劉中藻、福安の人。進士より行人に官す。賊が京師を陥落させると、発して、搒掠を受けた。賊が敗れて南還し、唐王に事えた。既に魯王に事え、福寧を攻めて降しこれを守り、移って福安に駐った。大清兵が城を破ると、冠帯して堂上に坐し、文を為って自ら祭り、金屑を吞んで死した。

鄭遵謙、会稽の人。諸生たり。潞王が杭州を以て大清に降ると、遵謙は衆を倡えて兵を挙げ、魯王に事え、浙・閩の間を崎嶇した。王に従って航海し、汝霖と並び彩に害された。

沈宸荃は慈谿の人である。崇禎十三年の進士。行人に任じられ、使命を奉じて帰郷した。福王が立つと、復命した。御史に抜擢され、五事を上疏して陳べたが、いずれも時弊を突くものであった。後に、群臣が正しきを醜とし邪に与することを論じ、王に臥薪嘗胆し、恥を雪ぎ仇を報いる計略を立てるよう請うた。まもなく詞臣の黄道周・劉同升・葛世俊・徐汧・呉偉業らを推薦した。また言うには、「山東・河南を経略する者は、王永吉・張縉彦である。永吉は機を失い、先帝は彼を総督に抜擢し、近畿に兵を擁しながら、国の危急を救わなかった。縉彦は部曹の官であったが、先帝は急遽抜擢して中樞を司らせたのに、率先して賊に従った。この二人に極刑を加えても過ぎない。陛下は法を曲げて用いられたが、永吉は観望して逗留し、縉彦は狼狽して南へ逃れた。死して何をもって先帝に対し、生きて何をもって陛下に対しようか。昌平巡撫の何謙は諸陵を失陥させたが、その罪もまた按問すべきである。都城が既に陥ちた後は、守土の臣は皆兵を磨ぎ馬に秣をやり、国仇を報ずべきであるのに、賊の塵埃も未だ揚がらぬうちに、先んじて去って民の望みと為っている。例えば河道総督の黄希憲・山東巡撫の丘祖德など、なお安らかに家園に臥すことを容れられようか」と。疏が入ると、何謙・丘祖德らは皆逮捕処罰を命じられたが、王永吉・張縉彦は罪に問われなかった。当時朝政は大いに乱れ、宸荃のみが正しきを保持したので、要人は多く彼を憎んだ。翌年、年例により出されて蘇松兵備僉事となった。赴任せず、南都が破られると、宸荃は邑中で兵を挙げた。魯王が監国すると、右僉都御史に抜擢された。やがて事敗れ、宸荃は家を棄てて王に従い海外に赴いた。王が長垣に駐ると、連続して抜擢されて大学士に至った。王に従って舟山に至り、また従って海を渡り廈門・金門に抵った。後に南日山に舟を艤したが、風に遭い、海に没した。

その邑の子である沈履祥はかつて知県を務め、監国時に御史として台州で督餉した。城が破られ、山中に避難したが、捕らえられて死んだ。

賛に曰く、甲申の後より、明の祚は既に終わり、一年を過ぎずして南都もまた覆り、情勢は固より為すべきこと無かりし。朱大典・張国維らは区々の義を抱き、徒らに海浜に名号を仮りて、旦夕を支えたるのみ。而して上は替わり下は陵がれ、事に統紀無く、偏安の効果を収めんと欲するも、何ぞ得べけんや。