明史

列傳第一百六十五 袁継咸 金声 丘祖徳 沈猶龍 陳子龍 侯峒曾 楊文驄 陳潜夫 沈廷揚 林汝翥 鄭為虹

列傳第一百六十五 袁継咸 金声 丘祖徳 沈猶龍 陳子龍 侯峒曾 楊文驄 陳潜夫 沈廷揚 林汝翥 鄭為虹

原文列傳第一百六十五 袁繼咸 金聲 丘祖德 沈猶龍 陳子龍 侯峒曾 楊文驄 陳潛夫 沈廷揚 林汝翥 鄭為虹

○袁継咸(張亮)金声(江天一)丘祖徳(温璜 呉応箕 尹民興等)沈猶龍(李待問 章簡)陳子龍(夏允彜 徐孚遠)侯峒曾(閻応元等 朱集璜等)楊文驄(孫臨等)陳潜夫(陸培)沈廷揚 林汝翥(林垐)鄭為虹(黄大鵬 王士和 胡上琛 熊緯)

原文○袁繼咸(張亮)金聲(江天一)丘祖德(溫璜吳應箕尹民興等)沈猶龍(李待問章簡)陳子龍(夏允彜徐孚遠)侯峒曾(閻應元等朱集璜等)楊文驄(孫臨等)陳潛夫(陸培)沈廷揚林汝翥(林垐)鄭為虹(黃大鵬王士和胡上琛熊緯)

袁継咸

原文袁繼咸

袁継咸、字あざなは季通、宜春の人。天啓五年の進士。行人に授かる。崇禎三年の冬、御史に抜擢され、会試を監臨したが、挟帯した挙子を容認した罪に坐し、南京行人司副に左遷され、主客員外郎に転じた。七年の春、山西提学僉事に抜擢された。赴任せず、戸部・工部二部を総理する宦官張彜憲が朝覲官に冊を携行させる上奏をした。継咸は上疏してこれを論じ、「この命令が行われれば、上は藩臬より、下は守令に至るまで、みな順次参謁し、息をひそめて頭を垂れ、中官の座前に跪拝することとなり、天下を率いて恥知らずの行いをすることとなり、大いに不便である」と言った。彜憲は大いに怒り、継咸と互いに上奏して非難し合った。帝は聞き入れず、継咸は単身で任地に赴いた。久しくして、巡撫呉甡がその廉潔と才能を推薦した。ところが巡按御史張孫振は請託に応じられなかったため、上疏して継咸を誣告し、賍私の事を訴えた。帝は怒り、継咸を逮捕し、甡に返答を求めた。甡は継咸を賢人とし、孫振を斥けた。諸生は都に随行し、宮門に伏して冤罪を訴え、継咸もまた孫振の請託の状況とその賍賄の数事を列挙して上奏した。詔して孫振を逮捕し、流罪に処せられ、継咸は官職を回復した。十年、湖広参議に任じられ、武昌を分守した。兵を率いて江賊の巣窟である興国・大冶の山中を討ち、賊首の呂瘦子を捕らえ、その徒党十余人を降伏させた。詔して僉事を兼任させ、武昌・黄州を分巡した。賊の老回回・革裏眼等の七大部を黄陂・黄安で撃退し、黄岡城を六千余丈築いた。

原文袁繼咸,字季通,宜春人。天啟五年進士。授行人。崇禎三年冬,擢御史,監臨會試,坐縱懷挾舉子,謫南京行人司副,遷主客員外郎。七年春,擢山西提學僉事。未行,總理戶、工二部中官張彜憲有朝覲官賫冊之奏。繼咸疏論之,謂:「此令行,上自藩臬,下至守令,莫不次第參謁,屏息低眉,跪拜於中官之座,率天下為無恥事,大不便。」彜憲大恚,與繼咸互訐奏。帝不聽,乃孑身赴任。久之,巡撫吳甡薦其廉能。而巡按御史張孫振以請屬不應,疏誣繼咸臟私事。帝怒,逮繼咸,責甡回奏。甡賢繼咸,斥孫振。諸生隨至都,伏闕訴冤,繼咸亦列上孫振請屬狀及其贓賄數事。詔逮孫振,坐謫戍;繼咸得復官。十年,除湖廣參議,分守武昌。以兵搗江賊巢興國、大冶山中,擒賊首呂瘦子,降其黨十餘人。詔兼僉事,分巡武昌、黃州。擊退賊老回回、革裏眼等七大部黃陂、黃安,築黃岡城六千餘丈。

十二年、淮陽に移り、宦官楊顕名に逆らい、二階降格の上で転任させるよう上奏された。督師楊嗣昌はその兵事に通じていることを認め、参軍事に引き入れた。翌年四月、右僉都御史に抜擢され、鄖陽を撫治した。一年も経たぬうちに、襄陽が陥落し、逮捕され、貴州に流された。十五年、廷臣が相次いで推薦し、元の官職に起用され、河北の屯政を総理することとなった。赴任せず、賊が江西に迫った。廷議で重臣を設けて江西・湖広・応天・安慶の軍務を総督させ、九江に駐屯させることとなり、継咸を兵部右侍郎兼右僉都御史に抜擢して派遣した。賊は既に武昌を陥落させており、左良玉が兵を擁して東下していた。継咸は蕪湖で良玉に会い、忠義をもって激励した。良玉は直ちに引き返し、武昌を回復した。廷議で呂大器が代わりに来ることとなり、継咸は依然として屯政を監督した。大器と良玉は不協和であり、長沙・袁州がともに陥落したため、依然として継咸を推挙して代わらせた。鎮に着いたばかりで京師が陥落した。

原文十二年,移淮陽,忤中官楊顯名,奏鐫二秩調用。督師楊嗣昌以其知兵,引參軍事。明年四月擢右僉都御史,撫治鄖陽。未一年,襄陽陷,被逮,戍貴州。十五年,廷臣交薦,起故官,總理河北屯政。未赴,賊逼江西。廷議設重臣總督江西、湖廣、應天、安慶軍務,駐九江。擢繼咸兵部右侍郎兼右僉都御史以行。賊已陷武昌,左良玉擁兵東下。繼咸遇良玉於蕪湖,激以忠義。良玉即還,恢復武昌。廷議呂大器來代,繼咸仍督屯政。大器、良玉不協,長沙、袁州俱陷,仍推繼咸代之。甫抵鎮而京師陷。

福王が南都に即位し、詔を武昌に頒布したが、良玉は詔を拝礼しなかった。継咸は書を送り、継承順序が正しいことを言うと、良玉はようやく詔を拝受した。継咸が朝廷に入ると、高傑が新たに興平伯に封ぜられていた。継咸は言った、「爵位を封ずるのは功績を勧めるためである。功なくして封ずれば、功ある者は勧められない。跋扈する者を封ずれば、跋扈する者はますます多くなる」。王は言った、「事は既に行われた。どうしようか」。継咸は言った、「馬士英が傑を引き連れて江を渡ったのであれば、彼に行かせて鎮撫させるべきです」。王は言った、「彼は行きたがらず、輔臣史可法が行くことを願っている」。継咸は言った、「陛下が位を嗣がれたのは、もとより恩沢をもって人心を収めるためですが、特に紀綱をもって衆志を粛正されるべきです。どうか精神を振るい起こし、法紀を明らかにされてください。冬春の間、淮上は必ずしも事なきを得ません。臣は駑鈍ではありますが、六龍を奉じて澶淵の挙を行いたいと願います」。王は難色を示した。そこで寝所の前に赴き密奏して言った、「左良玉に異心はありませんが、その配下には降将が多く、孝子順孫ではありません。陛下が大宝に登られたばかりで、人心は危疑に満ちており、不慮の事態を考えないわけにはいきません。臣は星のごとく馳せ戻って鎮守します」。許された。そこで内閣に赴き、可法が傑を封ずるのは不当であると責め、士英はこれを恨んだ。まもなく治世を致し国を守る大計を陳べ、宋の高宗が黄潜善・汪伯彦を用いた故事を引き、言葉は再び士英を侵害した。ちょうど湖広巡按御史黄澍が士英の十大罪を弾劾上奏し、士英は詔を擬して逮捕処罰しようとした。澍は良玉と謀り、ひそかに将士をそそのかして大いに騒がせ、南京に下って糧秣を要求し、澍を保釈救済させようとした。継咸は江漕の十万石、軍餉十三万金を留保してこれに与え、かつ澍のために申し立て、良玉が澍を頼りにしていることを言上した。士英はやむを得ず、澍の逮捕を免じた。継咸は既に士英と不和となり、上奏したことはすべて留保された。

原文福王立南都,頒詔武昌,良玉不拜詔。繼咸致書言倫序正,良玉乃拜受詔。繼咸入朝,高傑新封興平伯。繼咸曰:「封爵以勸有功。無功而封,有功者不勸。跋扈而封,跋扈愈多。」王曰:「事已行,奈何?」繼咸曰:「馬士英引傑渡江,宜令往輯。」王曰:「彼不欲往,輔臣史可法願往。」繼咸曰:「陛下嗣位,固以恩澤收人心,尤宜以紀綱肅眾志。乞振精神,申法紀。冬春間,淮上未必無事。臣雖駑,願奉六龍為澶淵之舉。」王有難色。因詣榻前密奏曰:「左良玉雖無異圖,然所部多降將,非孝子順孫。陛下初登大寶,人心危疑,意外不可不慮,臣當星馳回鎮。」許之。因赴閣責可法不當封傑,士英嗛之。俄陳致治守邦大計,引宋高宗用黃潛善、汪伯彥事,語復侵士英。會湖廣巡按御史黃澍劾奏士英十大罪,士英擬旨逮治。澍與良玉謀,陰諷將士大嘩,欲下南京索餉,保救澍。繼咸為留江漕十萬石、餉十三萬金給之,且代澍申理,以良玉依仗澍為言。士英不得已,免逮澍。繼咸既與士英隙,所奏悉停寢。

翌年正月、継咸は言った、「元朔は、人臣が手を拝して杯を挙げる日であるが、陛下が胆を嘗め薪に臥す時である。大いなる恥辱が未だ雪がれぬことを思い、周の宣王が未央宮で夜を問うたことを手本とし、近ごろの長夜の飲み、角〓の戯れを戒めとすべきである。土木の工事を省み、浮淫の費用を節約せよ。臣工に戒め諭し、私闘を後にし公仇を急ぐべし。臣は常に嘆くこと三十年、ただ三案の葛藤をもって血戦するのみで止まなかった。『要典』一書は、既に先帝によって焼却されたのであれば、どうして再びその説を理めねばならないのか。書が未だ進上されていなければ、留保すべきである。既に進上されていれば、破棄すべきである。王者が代々興るに至っては、古より異同も多い。陳平・周勃が漢の文帝を迎え立てたが、朱虚侯の過ちを窮めて治めたとは聞かない。房玄齢・杜如晦が秦王府で決策したが、魏徴の非を力究したとは聞かない。固よりその君が豁達大度であったが、またその大臣が公忠善謀であり、その美を輔佐したからである。どうか再び寛大の詔を下し、獄中の疑わしい囚人を解き放ち、草野の株連の案件を断ち切られたい」。王は詔を下し、その言葉を認めた。

原文明年正月,繼咸言:「元朔者,人臣拜手稱觴之日,陛下嘗膽臥薪之時。念大恥未雪,宜以周宣之未央問夜為可法,以晚近長夜之飲、角〓之戲為可戒。省土木之功,節浮淫之費。戒諭臣工,後私鬥而急公仇。臣每嘆三十年來,徒以三案葛藤血戰不已。若《要典》一書,已經先帝焚毀,何必復理其說。書茍未進,宜寢之;即已進,宜毀之。至王者代興,從古亦多異同。平、勃迎立漢文,不聞窮治朱虛之過;房、杜決策秦邸,不聞力究魏徵之非。固其君豁達大度,亦其大臣公忠善謀,翊贊其美。請再下寬大之詔,解圜扉疑入之囚,斷草野株連之案。」王降旨俞其言。

群小は皆継咸を喜ばず、その軍餉六万を削減した。軍中に怨言があり、継咸は上疏して争ったが叶わなかった。また江上の兵が寡少であり、鄭鴻逵の戦艦が戻らないため、新たに建造することを議し、九江僉事葉士彦に檄を飛ばし、江流で材木を買い占めさせた。士彦の家は蕪湖にあり、諸商人と親しく、その檄を封じて返送した。継咸は命令が行われないため、上疏して士彦を弾劾した。士彦の同年の御史黄耳鼎もまた継咸を弾劾し、継咸に腹心の将校がいて左良玉をそそのかし、他の宗室を立てさせようとしたが、良玉は従わなかったなどと言った。良玉はかつて監国の詔を拝礼しなかったが、これを聞いてますます疑懼し、上疏して継咸と不和でないことを明らかにし、耳鼎は指使を受けて言っているとし、『要典』は再び焼くべきであると言った。江東の人々はこれによって継咸と良玉が唱和し、朝廷を脅迫していると口々に言うようになった。ちょうど都下にまた偽太子の事件があり、良玉が争ったが叶わず、遂に士英らと不和となった。継咸は上疏して言った、「太子の真偽は、臣が推し量れることではない。真であれば良玉の言葉を行うことを望み、偽であれば慌てずに審理処置し、東宮の旧臣を多く召して弁識させ、中外の疑いを解くべきである」。上疏が届かぬうちに、良玉は既に反乱を起こした。

原文群小皆不喜繼咸,汰其軍餉六萬,軍中有怨言,繼咸疏爭不得。又以江上兵寡,鄭鴻逵戰艦不還,議更造,檄九江僉事葉士彥於江流截買材木。士彥家蕪湖,與諸商昵,封還其檄。繼咸以令不行,疏劾士彥。士彥同年御史黃耳鼎亦劾繼咸,言繼咸有心腹將校勸左良玉立他宗,良玉不從云。良玉嘗不拜監國詔,聞之益疑懼,上疏明與繼咸無隙,耳鼎受指使而言,《要典》宜再焚。江東人乃由是交口言繼咸、良玉倡和,脅制朝廷矣。會都下又有偽太子之事,良玉爭不得,遂與士英輩有隙。繼咸疏言:「太子真偽,非臣所能懸揣。真則望行良玉言,偽則不妨從容審處,多召東宮舊臣辨識,以解中外之疑。」疏未達,良玉已反。

初めに、継咸は李自成の軍が敗れて南下したと聞き、部将の郝効忠・陳麟・鄧林奇に九江を守らせ、自らは副将の汪碩画・李士元等を率いて袁州を救援し、賊が岳州・長沙から江西の境に入るのを防ごうとした。既に舟に登った後、良玉の反乱を聞き、再び九江に戻った。良玉の舟は北岸にあり、継咸に書を送り、手を握って一別し、皇太子のために死にたいと願った。九江の士民は泣いて継咸に赴くよう請い、一方の難を和らげようとした。継咸は舟中で良玉と会い、良玉は太子が獄に下された事について語り、大声で泣いた。翌日、舟は南岸に移り、良玉は袖から皇太子の密諭を取り出し、諸将を脅して盟約させた。継咸は厳しい顔色で言った、「密諭はどこから来たのか。先帝の旧徳は忘れるべからず、今上の新恩もまた背くべからず、密諭はどこから来たのか。」良玉は顔色を変え、しばらくしてようやく言った、「私は城を破らぬと約束し、檄文を上疏に改め、軍を駐めて旨を待とう。」継咸は帰り、諸将を城楼に集めて涙を流して言った、「兵をもって諫めるのは正しくない。晋陽の甲は『春秋』が憎むところ、乱に同ずることはできようか。」そこでともに防ぎ守ることを約した。しかし効忠及び部将の張世勲等は既に出て良玉と合流し、城に入って殺戮略奪した。継咸はこれを聞き、自決しようとした。黄澍が役所に入り拝礼して泣きながら言った、「寧南に異なる図りはありません。公が死をもって事を激成させれば、大事は去ります。」副将の李士春も密かに継咸に忍従するよう申し上げ、前途に至れば、王文成の事を図ることができると述べた。継咸はこれを然りとし、遂に出て良玉を責めた。良玉は既に病が重く、夜に城中の火災を見て、大声で泣いて言った、「私は臨侯に背いた。」臨侯は継咸の別号である。血を数升吐き、遂に死んだ。その子の夢庚は喪を発せず秘し、諸将に推されて帥となり、舟を東に移した。朝廷では皆、継咸と良玉がともに反したと疑った。そして南都は既に陥落し、諸鎮は多く降伏した。継咸は夢庚に軍を返すよう勧めたが、聞き入れなかった。林奇・碩画・士元に不忠の事をなすなと伝えさせた。林奇・碩画・士元は皖の湖中に避け、人を遣わして密かに継咸を迎えようとした。継咸は既に効忠に欺かれてその軍に赴いていた。湖口に至らんとした時、夢庚・効忠が我が大清に降り、遂に継咸を捕らえて北へ連れ去り、内院に宿泊させた。翌年三月に至り、終に屈せず、乃ちこれを殺した。

原文初,繼咸聞李自成兵敗南下,命部將郝效忠、陳麟、鄧林奇守九江,自統副將汪碩畫、李士元等援袁州,防賊由岳州、長沙入江西境。既已登舟,聞良玉反,復還九江。良玉舟在北岸,貽書繼咸,願握手一別,為皇太子死。九江士民泣請繼咸往,紓一方難。繼咸會良玉於舟中,良玉語及太子下獄事,大哭。次日,舟移南岸,良玉袖出皇太子密諭,劫諸將盟。繼咸正色曰:「密諭何從來?先帝舊德不可忘,今上新恩亦不可負,密諭何從來?」良玉色變,良久乃曰:「吾約不破城,改檄為疏,駐軍侯旨。」繼咸歸,集諸將於城樓而灑泣曰:「兵諫非正。晉陽之甲,《春秋》惡之,可同亂乎?」遂約與俱拒守。而效忠及部將張世勛等則已出與良玉合兵,入城殺掠。繼咸聞之,欲自盡。黃澍入署拜泣曰:「寧南無異圖。公以死激成之,大事去矣。」副將李士春亦密白繼咸隱忍,至前途,王文成之事可圖也。繼咸以為然,遂出責良玉。良玉已疾篤,夜望見城中火起,大哭曰:「予負臨侯!」臨侯,繼咸別號也。嘔血數升,遂死。其子夢庚秘不發喪,諸將推為帥,移舟東。中朝皆疑繼咸、良玉同反。而南都時已破,諸鎮多納款。繼咸勸夢庚旋師,不聽。遣人語林奇、碩畫、士元毋為不忠事,林奇、碩畫、士元避皖湖中,遣人陰逆繼咸。繼咸已為效忠紿赴其軍。將及湖口,而夢庚、效忠降於我大清,遂執繼咸北去,館內院。至明年三月,終不屈,乃殺之。

張亮

原文張亮

張亮という者がいた。四川の人である。郷試に合格した。崇禎の時、榆林兵備参議を歴任し、推薦により安廬兵備に改められ、禁軍を監督して賊を討ち、頻りに功績があった。十七年、右僉都御史に抜擢され、その地を巡撫した。福王が即位すると、亮は李自成の軍が敗れて西へ奔ったと聞き、賊の勢いに乗ずべきと上奏し、職を解いて賊の向かうところを監視し、兵を督して進討することを請い、従われた。まもなく召されて京に入り議事し、再び任地に遣り返された。翌年四月、左夢庚が安慶を陥とし、亮は捕らえられた。夢庚が北行するに及び、亮を挟んでともにし、隙を見て河に赴き死んだ。

原文有張亮者,四川人。舉於鄉。崇禎時,歷榆林兵備參議,用薦改安廬兵備,監禁軍討賊,頻有功。十七年擢右僉都御史,巡撫其地。福王既立,亮聞李自成兵敗西奔,奏言賊勢可乘,請解職視賊所向,督兵進討,從之。尋召入京議事,復遣還任。明年四月,左夢庚陷安慶,亮被執。夢庚北行,挾亮與俱,乘間赴河死。

金聲

原文金聲

金聲、字は正希、休寧の人である。学問を好み、科挙の学に優れ、名声は一時に傾いた。崇禎元年に進士となり、庶吉士に授けられた。翌年十一月、大清兵が都城に迫ると、聲は慷慨として急務を面陳することを請い、帝は即時に平臺で召対した。退いて疏を具して言った、「臣は書生で素より忠義を誓い、聖明に遭遇し、日夜陛下のために天下の事を憂え念じています。今兵が京畿に迫り、君父のために急ぎ用いざるを得ません。そもそも通州・昌平は都城の左右の翼であり、重兵をもって守るべきです。そして天津は漕運の船の集まる所、特に急ぎ防ぐべきです。今天下の草沢の雄で、国家に用いられようとする者は少なくありません、格を破って用いるに在るのみです。臣の知る申甫に将才があります。臣は聖天子の威霊に頼り、敢戦の士を練り、国家のために強敵を防ぎたいと願います、惟うに陛下は直ちに裁許を賜わりますように。」

原文金聲字正希,休寧人。好學,工舉子業,名傾一時。崇禎元年成進士,授庶吉士。明年十一月,大清兵逼都城,聲慷慨乞面陳急務,帝即召對平臺。退具疏言:「臣書生素矢忠義,遭遇聖明,日夜為陛下憂念天下事。今兵逼京畿,不得不急為君父用。夫通州、昌平,都城左右翼,宜戍以重兵。而天津漕艘所聚,尤宜亟防。今天下草澤之雄,欲效用國家者不少,在破格用之耳。臣所知申甫有將才。臣願仗聖天子威靈,與練敢戰士,為國家捍強敵,惟陛下立賜裁許。」

申甫は僧侶であり、兵事を談ずることを好み、ちょうど私的に戦車と火器を製作していた。帝は聲の言を入れ、その車を取って入覧し、都司僉書を授けた。即日に召見し、奏対が旨にかなったので、副総兵に超擢し、新軍を募り、便宜を以て事に従うことを勅した。聲を御史に改め、その軍に参与させた。甫は慌てて数千人を募ったが、皆市井の遊手の徒であり、必要な軍装や兵器もまた時に応じて給されなかった。而してこの時大清兵は郊圻に久しく在り、勢い速戦すべきであり、急ぎ出営して柳林に至った。総理の満桂は諸軍を節制したが、甫はその下に立つことを肯んじなかった。桂の兵卒が民間を掠奪すると、甫の軍がこれを捕らえ、桂はすぐに索め取った。聲は両軍の不和を上聞し、帝は即時に聲に調停保護を命じた。間もなく、桂が戦死し、甫は柳林・大井で連敗し、乃ち車営を結んで盧溝橋に至った。大清兵はその背後を回り出し、車を防ぐ者は惶懼して転ずることができず、殲戮すること殆んど尽き、甫もまた陣没した。聲はこれを痛く傷み、甫は任を受けた日浅く、直ちに前進して沖鋒し、遺骸には矢や刃が殆んど遍く及び、血を喋えて力戦しなければここに至らなかったと述べた。帝もまたこれを傷み、恤典を与えることを命じた。

原文申甫者,僧也,好談兵,方私制戰車火器。帝納聲言,取其車入覽,授都司僉書。即日召見,奏對稱旨,超擢副總兵,敕募新軍,便宜從事。改聲御史,參其軍。甫倉猝募數千人,皆市井遊手,所需軍裝戎器又不時給。而是時大清兵在郊圻久,勢當速戰,急出營柳林。總理滿桂節制諸軍,甫不肯為下。桂卒掠民間,甫軍捕之,桂輒索去。聲以兩軍不和聞,帝即命聲調護。亡何,桂歿,甫連敗於柳林、大井,乃結車營盧溝橋。大清兵繞出其後,禦車者惶懼不能轉,殲戮殆盡,甫亦陣亡。聲痛傷之,言甫受事日淺,直前沖鋒,遺骸矢刃殆遍,非喋血力戰不至此。帝亦傷之,命予恤典。

聲は功績なく恥じ、参将の董大勝の兵七百人、甫の遺将の古壁の兵百人、及び豪傑の義従数百人を率い、一旅の兵に練り、劉之綸の奇兵として、桑榆の効果を収めんことを請うたが、許されなかった。まもなく軍需の清査が完了したことを以て、関防を奏繳し、律に按じて罪を定めることを請い、再び疏を上して罷斥を請うたが、皆許されなかった。東江は毛文龍が殺されて以来、兵力が弱く、勢い孤立していた。聲は東宮冊立に因り、自ら朝鮮に詔を頒ち、東江を連絡させ、海外の形勢を張らんことを請うた。帝はその志を嘉したが、遂に用いられなかった。

原文聲恥無功,請率參將董大勝兵七百人,甫遺將古壁兵百人,及豪傑義從數百人,練成一旅,為劉之綸奇兵,收桑榆之效,不許。俄以清核軍需告竣,奏繳關防,請按律定罪,再疏請罷斥,皆不許。東江自毛文龍被殺,兵力弱,勢孤。聲因東宮冊立,自請頒詔朝鮮,俾聯絡東江,張海外形勢。帝雖嘉其意,亦不果用。

まもなく上疏して言った、「陛下は晝夜焦労し、日に天下の事に親しまれますが、実は日に天下の人に習われてはいません。必ず天下の才ある者と才なき者、及び才の長短を、一々程量して誤りなくして、初めて斟酌して位置づけることができます。往時、陛下は数たび群臣を召対されましたが、問うて得る所なく、聖心に当たるものが少なかったため、遂にこれを厭い薄くされました。臣愚妄かに謂うに、陛下の泰交は未だ殷ならず、顧問は未だ数ならず、召対が益なきと謂うべからず。願わくは今より間日に文華殿に御し、京卿・翰林・臺諫及び中行・評博等の官に、輪番して入直させ、広く諮詢されますように。而して内外に職業ある者もまた、時に応じて進見することができます。政事の得失、軍民の利病、廟堂の挙措、辺塞の情形を、皆臣工と燕閑の間に考究されます。歳月既に久しければ、品量は畢く呈されます。諸臣の才あるか否か、及び才の長短は、豈に聖鑑を逃れ得ましょうか。」帝は未だ報いず、聲は再び疏を上して懇ろにこれを言ったが、終に用いられず、遂に屡々疏を上して帰ることを乞うた。

原文尋上疏言:「陛下曉夜焦勞,日親天下之事,實未嘗日習天下之人。必使天下才不才,及才長短,一一程量不爽,方可斟酌位置。往者,陛下數召對群臣,問無所得,鮮當聖心,遂厭薄之。臣愚妄謂陛下泰交尚未殷,顧問尚未數,不得謂召對無益也。願自今間日禦文華,令京卿、翰林、臺諫及中行、評博等官,輪番入直,博咨廣詢。而內外有職業者,亦得不時進見。政事得失,軍民利病,廟堂舉錯,邊塞情形,皆與臣工考究於燕閑之間。歲月既久,品量畢呈。諸臣才不才,及才長短,豈得逃聖鑒。」帝未及報,聲再疏懇言之,終不用,遂屢疏乞歸。

後に大学士の徐光啓が聲を推薦して暦書を同修させようとしたが、辭して就かなかった。御史として召されたが、また赴かなかった。八年春、山東僉事に起用されたが、再び二度疏を上して力辭した。郷郡に盗賊多く、聲は義勇を団練し、防禦に当たった。十六年、鳳陽総督の馬士英が使者の李章玉を遣わして貴州兵を徴発し賊を討たせたが、迂回して江西を掠め、楽平の吏民に拒撃された。徽州の境に至るに及び、吏民は賊と思い、衆を率いてこれを破り走らせた。章玉は激変を憚り、聲及び徽州推官の呉翔風が主使したと述べた。士英はこれを上聞し、聲は二度疏を上して弁明した。帝はその無罪を察し、問わなかった。その年冬、廷臣が交々推薦し、即時に召用を命じ、促して入都し陛見させようとしたが、赴かぬうちに京師が陥落した。

原文後大學士徐光啟薦聲同修歷書,辭不就。以御史召,亦不赴。八年春,起山東僉事,復兩疏力辭。鄉郡多盜,聲團練義勇,為捍禦。十六年,鳳陽總督馬士英遣使者李章玉征貴州兵討賊,迂道掠江西,為樂平吏民所拒擊。比抵徽州境,吏民以為賊,率眾破走之。章玉諱激變,謂聲及徽州推官吳翔風主使。士英以聞,聲兩疏陳辨。帝察其無罪,不問。其年冬,廷臣交薦,即命召用,促入都陛見,未赴而京師陷。

福王が南京に立つと、聲を左僉都御史に超擢したが、聲は堅く起たなかった。大清兵が南京を破ると、列郡は風に望んで迎え降った。聲は士民を糾集して績溪・黄山を保ち、兵を分けて六嶺を扼した。寧国の丘祖德・徽州の温璜・貴池の呉応箕等多くこれに応じた。乃ち使者を遣わして唐王に通表し、聲に右都御史兼兵部右侍郎を授け、諸道の軍を総督させた。旌徳・寧国諸県を抜いた。九月下旬、徽の故御史の黄澍が大清に降り、王師が間道を襲ってこれを破った。

原文福王立於南京,超擢聲左僉都御史,聲堅不起。大清兵破南京,列郡望風迎降。聲糾集士民保績溪、黃山,分兵扼六嶺。寧國丘祖德、徽州溫璜、貴池吳應箕等多應之。乃遣使通表唐王,授聲右都御史兼兵部右侍郎,總督諸道軍。拔旌德、寧國諸縣。九月下旬,徽故御史黃澍降於大清,王師間道襲破之。

金声が捕らえられて江寧に至ると、門人の江天一に言った、「そなたには老母がいる、死ぬことはならぬ。」と。天一は答えて、「天一は公と共に挙兵した、公と共に義に殉ずることを同じくせぬことがあろうか!」と。遂に共に死んだ。唐王は金声に礼部尚書を追贈し、文毅と諡した。天一は、歙県の諸生であった。

原文聲被執至江寧,語門人江天一曰:「子有老母,不可死。」對曰:「天一同公起兵,可不同公殉義乎!」遂偕死。唐王贈聲禮部尚書,謚文毅。天一,歙諸生。

丘祖德

原文丘祖德

丘祖德、字は念修、成都の人。崇禎十年の進士。寧国推官に任じられ、才能により済南に転任した。推薦により超擢されて僉事となり、東昌を分巡した。山東の土寇が猖獗したので、帝は給事中張元始の言に基づき、祖徳と東兗道の李恪に専ら招撫を任せ、賊は多く解散した。十五年、沂州に転任。その冬、兵部尚書張国維の推薦により、右僉都御史に抜擢され、保定を巡撫した。十六年、察典に掛かり、解職して審査を待った。事が白状し、元の官で王永吉に代わって山東を巡撫した。京師が陥落すると、賊が使者を遣わして降伏を勧めた。祖徳はこれを斬り、兵を発して守りを固めようと謀った。中軍の梅応元が叛き、部下を率いて印を要求したため、祖徳は南へ奔った。

原文丘祖德,字念修,成都人。崇禎十年進士。授寧國推官,以才調濟南。用薦超擢僉事,分巡東昌。山東土寇猖獗,帝因給事中張元始言,令祖德及東兗道李恪專任招撫,寇多解散。十五年調官沂州。其冬用兵部尚書張國維薦,擢右僉都御史,巡撫保定。十六年罣察典,解職侯勘。事白,以故官代王永吉撫山東。京師覆,賊遣使招降。祖德斬之,謀發兵拒守。會中軍梅應元叛,率部卒索印,祖德乃南奔。

福王の時、御史沈宸荃が祖徳及び河南総督黄希憲が封疆を軽々しく放棄したと弾劾し、詔により官籍を削られ取り調べを受けたが、久しくして釈放された。しかし成都もまた陥落し、帰る家がなく、寧国に流寓した。金声が績渓で挙兵すると、祖徳は寧国の挙人銭文龍、諸生麻三衡・沈寿蕘らと共にそれぞれ兵を挙げてこれに応じた。当時郡城は既に失われており、祖徳は華陽に駐屯し、三衡は稽亭に駐屯し、その他蜂起ほうきした者がまた十余部あり、共に郡城を攻めることを約した。勝てず、寿蕘は戦死し、祖徳は山中に退いた。大清兵がその寨を攻め落とし、捕らえられて磔刑に処され、その子もまた死んだ。四日後、三衡の軍も敗れ、また死んだ。寿蕘は、都督沈有容の子である。三衡は、布政使麻溶の孫である。三衡の兵が挙がると、近傍の呉太平・阮恒・阮善長・劉鼎甲・胡天球・馮百家が共に挙兵し、七家軍と号した。皆諸生であった。三衡が敗れた後、太平らもまた死んだ。

原文福王時,御史沈宸荃劾祖德及河南總督黃希憲輕棄封疆,詔削籍提訊,久之獲釋。而成都亦陷,無家可歸,流寓寧國。金聲起兵績溪,祖德與寧國舉人錢文龍,諸生麻三衡、沈壽蕘等各舉兵應之。時郡城已失,祖德駐華陽,三衡駐稽亭,他蜂起者又十餘部,約共攻郡城。不克,壽蕘陣歿,祖德退還山中。大清兵攻拔其寨,被獲,磔死,其子亦死。越四日,三衡軍敗,亦死。壽蕘,都督有容子。三衡,布政使溶孫也。三衡兵既起,旁近吳太平、阮恒、阮善長、劉鼎甲、胡天球、馮百家與俱起,號七家軍,皆諸生也。三衡既敗,太平等亦死。

温璜

原文溫璜

温璜、初名は以介、字は於石、烏程の人。大学士温体仁の再従弟である。母の陸氏は節を守って表彰された。璜は久しく諸生であり、学問と行いがあった。崇禎十六年秋に進士に挙げられた。徽州推官に任じられた。任に就いたばかりで、京師陥落の報を聞き、急いで民兵を訓練し、守備の計画を立てた。翌年、南京もまた陥落した。知府秦祖襄及び諸僚属は皆逃げ去り、璜はその印を全て摂り、士民を召集して慰諭した。金声が績渓で挙兵すると、璜はこれと掎角の勢いをなし、かつ糧秣を転送してその軍に供給し、家族を村民の家に移した。間もなく、金声が敗れると、璜は厳重に兵を整えて自ら守った。郡内の元御史黄澍が城を献上すると、璜は急いで村の家に帰り、妻の茅氏と長女を刃にかけ、遂に自刎して死んだ。

原文溫璜,初名以介,字於石,烏程人。大學士體仁再從弟也。母陸守節被旌。璜久為諸生,有學行。崇禎十六年秋舉進士。授徽州推官。甫蒞任,聞京師陷,亟練民兵,為保障計。明年,南京亦覆。知府秦祖襄及諸僚屬皆遁,璜乃盡攝其印,召士民慰諭之。金聲舉兵績溪,璜與掎角,且轉餉給其軍,而徙家屬於村民舍。未幾,聲敗,璜嚴兵自守。郡中故御史黃澍以城獻,璜趨歸村舍,刃其妻茅氏及長女,遂自剄死。

呉応箕

原文吳應箕

呉応箕、字は次尾、貴池の人。今古文に優れ、意気盛んで一世を横厲した。阮大鋮は宦官に附いて官籍を削られ、南京に寓居し、南北の宦官に附いて失職した者らを連絡し、当道を劫持した。応箕は無錫の顧杲・桐城の左国材・蕪湖の沈士柱・余姚の黄宗羲・長洲の楊廷枢らと共に『留都防乱公掲』を作ってこれを討ち、名を列ねた者は百四十余人、皆復社の諸生であった。後に大鋮が志を得て、周鑣を謀殺しようとすると、応箕は独り獄に入って護視した。大鋮がこれを聞き、急ぎ騎兵を遣わして捕らえようとしたが、応箕は夜逃げ去った。南都が守れなくなると、挙兵して金声に応じ、敗れて山中に走り、捕らえられて慷慨として死についた。その同時に挙兵した者に尹民興・呉漢超・龐昌胤・謝球・司石磐・王湛・魯之玙がいる。

原文吳應箕,字次尾,貴池人。善今古文,意氣橫厲一世。阮大鋮以附珰削籍,僑居南京,聯絡南北附珰失職諸人,劫持當道。應箕與無錫顧杲、桐城左國材、蕪湖沈士柱、餘姚黃宗羲、長洲楊廷樞等為《留都防亂公揭》討之,列名者百四十餘人,皆復社諸生也。後大鋮得志,謀殺周鑣,應箕獨入獄護視。大鋮聞,急遣騎捕之,應箕夜亡去。南都不守,起兵應金聲,敗走山中,被獲,慷慨就死。其同時舉兵者有尹民興、吳漢超、龐昌胤、謝球、司石磐、王湛、魯之玙。

尹民興

原文尹民興

民興、字は宣子、崇禎初年に進士に挙げられた。寧国・涇の二県の知県を歴任し、奸を除き蠹を厘め、神明の称があった。行取されて都に入り、陳啓新に弾劾され、福建按察司検校に左遷された。十五年春、時務十四事を上疏して陳べ、帝は喜び、職方主事として召し出した。数度召対され、言うところ多く帝の意に当たり、即ち本司郎中に抜擢された。周延儒が出師を督するに当たり、従軍して賛画することを命じられた。延儒が譴責を受けると、民興は吏に下され、除名され、久しくしてようやく釈放された。福王が立つと、元の官に起用され、間もなく病を理由に辞職して帰り、涇県に流寓した。南京が失われると、諸生趙初浣らと共に城を拠って守りを固め、大清兵が城を攻め破ると、初浣はこれに死し、民興は逃れて難を免れた。唐王はこれをもって御史とし、事敗れて帰り、家で卒した。

原文民興,字宣子,崇禎初舉進士。歷知寧國、涇二縣,除奸厘蠹,有神明之稱。行取入都,為陳啟新所訐,謫福建按察司檢校。十五年春,疏陳時務十四事,帝喜,召為職方主事。數召對,言多當帝意,即擢本司郎中。周延儒出督師,命從軍贊畫。延儒被譴,下民興吏,除名,久之始釋。福王立,起故官,尋謝病歸,流寓涇縣。南京失,與諸生趙初浣等據城拒守,大清兵攻破城,初浣死之,民興走免。唐王以為御史,事敗歸,卒於家。

呉漢超

原文吳漢超

漢超、宣城の諸生。崇禎十七年、都城の変事を聞き、兵を募って国難に赴こうと謀ったが、福王が立ったので、やめた。翌年、南都が陥落すると、家を棄てて涇県に走り、尹民興に従って挙兵した。兵敗れ、華陽山中に匿れた。先に、丘祖徳・麻三衡らの諸軍が潰え、華陽に保ち、徐淮という者がこれを部署していた。漢超はこれと合流し、連続して句容・溧水・高淳・溧陽・涇・太平の諸県を取った。翌年正月、寧国を襲撃し、夜に南城を攀じ登った。兵は潰え、城中では首謀者を捜索した。漢超は既に城外に出ていたが、母がいることを思い、かつ一族に累が及ぶことを恐れ、入って言った、「首謀者は私である」と。その腹を剖くと、胆は三寸の長さがあった。妻の戚氏は自ら楼の下に飛び降りて死んだ。

原文漢超,宣城諸生。崇禎十七年聞都城變,謀募兵赴難,會福王立,乃已。明年,南都覆,棄家走涇縣,從尹民興起兵。兵敗,匿華陽山中。先是,丘祖德、麻三衡諸軍潰,保華陽,有徐淮者部署之。漢超與合,連取句容、溧水、高淳、溧陽、涇、太平諸縣。明年正月襲寧國,夜緣南城登。兵潰,城中按首事者。漢超已出城,念母在,且恐累族人,入見曰:「首事者我也。」剖其腹,膽長三寸。妻戚自擲樓下死。

昌胤、西充の人。崇禎十年の進士。青陽知県に任じられた。南京陥落後、走って九華山に匿れ、挙兵を謀った。事が漏れて捕らえられ、夜、旅店の中で死んだ。謝球、溧陽の諸生、僉事謝鼎新の子である。家財をなげうって兵を募った。兵が散ると、捕らえられて死んだ。

原文昌胤,西充人。崇禎十年進士。授青陽知縣。南京覆,走匿九華山,謀舉兵。事泄被執,夜死旅店中。球,溧陽諸生,僉事鼎新子也。毀家募兵。兵散,被執而死。

石磐、塩城の諸生、都司の酆某と共に挙兵し、兵敗れて捕らえられた。酆某は言った、「これは儒生で、私が劫いて書記にしただけだ」と。石磐は言った、「私が首謀した、どうしてこれを避けようか!」と。獄に繋がれて六十余日、酆某と共に死んだ。

原文石磐,鹽城諸生,與都司酆某同舉兵,兵敗被執。酆言:「此儒生,吾劫之為書記耳。」石磐曰:「吾首事,奈何諱之!」繫獄六十餘日,與酆偕死。

王湛、太倉の諸生。城は既に陥落した後、兄の王淳と共に再び里人数百を集めて城を包囲した。城中の兵が出撃し、淳は水に赴いて死に、湛は斬られて死んだ。

原文湛,太倉諸生。城已下,與兄淳復集裏人數百圍城。城中兵出擊,淳赴水死,湛被斫死。

之玙は、副総兵を歴任し、福山に駐屯した。蘇州が降伏すると、諸生の陸世鑰が衆を集めて城楼を焼いた。之玙は千人を率いて城に入り、大清の兵と戦ったが、潰走し、之玙は戦死した。

原文之玙,歷官副總兵,駐福山。蘇州既降,諸生陸世鑰聚眾焚城樓。之玙率千人入城,與大清兵戰,潰走,之玙戰死。

その時、諸生として死んだ者に、六合の馬純仁・邳州の王臺輔がいる。南京が陥落すると、六合はすぐに帰順したが、純仁は橋柱に銘を書き、石を抱いて水に投身して死んだ。臺輔は、崇禎末年に宦官が再び出鎮すると聞き、上疏を草して極諫しようとした。都に入ったばかりで、都城が陥落したので、帰還した。福王の時、東平伯の劉澤清と御史の王燮が睢寧で音楽を奏で大宴会を開いた。臺輔は喪服を着て直入し、彼らを責めて言った、「国は破れ君は亡びた。これは公らが臥薪嘗胆し、食も喉を通らぬ時である。まさか酒宴を設け大宴会を開くとは!」左右は彼を鞭打とうとしたが、燮は「狂生だ」と言い、引き下がらせた。南京が陥落すると、臺輔は自分の穀倉を見て言った、「これは私が育てたもの、これで尽きて死のう」。翌年、粟が尽き、北面して再拝し、自縊して死んだ。

原文其時以諸生死者,有六合馬純仁、邳州王臺輔。南京既下,六合即歸附,純仁題銘橋柱,抱石投水死。臺輔,當崇禎末,聞宦官復出鎮,將草疏極諫。甫入都,都城陷,乃還。福王時,東平伯劉澤清、御史王燮張樂大宴於睢寧。臺輔衰糸至直入,責之曰:「國破君亡,此公等臥薪嘗膽、食不下咽時,顧置酒大會耶!」左右欲鞭之,燮曰:「狂生也。」命引去。及南京覆,臺輔視其廩曰:「此吾所樹,盡此死。」明年,粟盡,北面再拜,自縊死。

沈猶龍

原文沈猶龍

沈猶龍、字は雲升、松江華亭の人。万暦四十四年の進士。鄞県知県に任じられた。天啓初年、召されて御史に任じられ、出て河南副使となった。崇禎元年、召されて元の官に復し、太僕少卿に進み、右僉都御史に任じられ、福建巡撫となった。江西の妖賊張普薇らが乱を起こすと、猶龍は遊撃の黄斌卿を派遣して協同討伐させ、大いにこれを破った。官位を増し金を賜り、憂いにより帰郷した。喪が明けると、兵部右侍郎兼右僉都御史として起用され、両広軍務を総督し、広東巡撫を兼ねた。

原文沈猶龍,字雲升,松江華亭人。萬歷四十四年進士。除鄞縣知縣。天啟初,征授御史,出為河南副使。崇禎元年,召復故官,進太僕少卿,拜右僉都御史,巡撫福建。江西妖賊張普薇等作亂,猶龍遣遊擊黃斌卿協剿,大破之。增秩賜金,以憂歸。服闋,起兵部右侍郎兼右僉都御史,總督兩廣軍務,兼廣東巡撫。

十七年冬、福王が部の事務を処理するよう召したが、就かず、親の葬儀のために帰ることを請うた。翌年、南京が陥落し、諸城は風に従って降った。閏六月、呉淞総兵官の呉志葵が海から江に入り、泖湖に水寨を結んだ。時に総兵官の黄蜚が千艘を擁して無錫から到着し、合流した。猶龍は郷里の者李待問・章簡らとともに、壮士数千人を募って城を守り、二将と犄角の勢いをなし、参将の侯承祖は金山を守った。八月、大清兵が到着し、二将は春申浦で敗れ、城は包囲された。まもなく破られ、猶龍は逃げ出し、矢に当たって死んだ。待問は東門を守り、簡は南門を守り、城が破られ、ともに殺された。華亭教諭の眭明永は明倫堂に詩を書き、首を吊って死んだ。諸生の戴泓は池に投身して死んだ。嘉定の挙人傅凝之は志葵の軍事に参与し、兵が敗れると、水に投身して死んだ。大清兵はついに金山を攻め、承祖と子の世祿はなお固守した。城が破られると、巷戦は一時間を超え、世祿は四十本の矢を受け、捕らえられて死んだ。承祖も捕らえられ、降伏を説かれたが従わず、ついに殺された。志葵と蜚は敗れた後、江陰城下に連行され、城中の人に降伏を説くよう命じられた。志葵は説いたが、蜚は語らず、城はついに陥落せず、後でともに殺された。

原文十七年冬,福王召理部事,不就,乞葬親歸。明年,南京失守,列城望風下。閏六月,吳淞總兵官吳志葵自海入江,結水寨於泖湖。會總兵官黃蜚擁千艘自無錫至,與合。猶龍乃偕里人李待問、章簡等,募壯士數千人守城,與二將相掎角,而參將侯承祖守金山。八月,大清兵至,二將敗於春申浦,城遂被圍。未幾破,猶龍出走,中矢死。待問守東門,簡守南門,城破,俱被殺。華亭教諭眭明永題詩明倫堂,投繯死。諸生戴泓赴池死。嘉定舉人傅凝之參志葵軍事,兵敗,赴水死。大清兵遂攻金山,承祖與子世祿猶固守。城既破,巷戰逾時,世祿中四十矢,被獲,死之。承祖亦被獲,說之降,不從,遂被殺。志葵、蜚既敗,執至江陰城下,令說城中人降。志葵說之,蜚不語,城迄不下,後皆被殺。

待問、字は存我、崇禎末年の進士。中書舎人に任じられた。文章に巧みで、書法にも精通した。簡、字は坤能。郷挙に及第し、羅源知県を務めた。

原文待問,字存我,崇禎末進士。授中書舍人。工文章,兼精書法。簡,字坤能。舉於鄉,官羅源知縣。

陳子龍

原文陳子龍

陳子龍、字は臥子、松江華亭の人。生まれつき異才があり、科挙の学業に優れ、詩賦古文も修め、魏・晋を手本とし、駢体文は特に精妙であった。崇禎十年の進士。紹興推官に選ばれた。

原文陳子龍,字臥子,松江華亭人。生有異才,工舉子業,兼治詩賦古文,取法魏、晉,駢體尤精妙。崇禎十年進士。選紹興推官。

東陽の諸生許都は、副使達道の孫である。家は裕福で、任侠を好み施しを好み、密かに兵法で賓客子弟を統率し、機会を得ようとしていた。子龍はかつて上官に推薦したが用いられず、東陽県令は私怨を抱いていた。おりしも義烏の奸人が宦官の名を借りて兵を募る事件が発覚し、都が山中で母を葬るとき、集まった者は一万人に及んだ。ある者が監司の王雄に告げて言った、「都が反逆しました」。雄は急いで使者を遣わして捕らえようとし、都はついに反逆した。十日ほどの間に数万の衆を集め、東陽・義烏・浦江を陥落させ、ついに郡城に迫ったが、やがて引き上げた。巡撫の董象恒は事に坐して捕らえられ、後任は未到で、巡按御史の左光先は撫標の兵をもって、子龍を監軍としてこれを討つよう命じ、少しばかりの捕虜と鹵獲を得た。遊撃の蒋若来が郡を犯すその兵を破ると、都は残兵三千を率いて南砦に拠った。雄は賊を懐柔しようとし、子龍に言った、「賊は糧を集め険に拠り、官軍は仰ぎ攻めることができず、長時日を要さなければ勝てない。我が兵は一万人で、五日分の糧しかない。どうしたものか」。子龍は言った、「都は旧知です。行って様子を見てきます」。そこで単騎で都の陣営に入り、その罪を責め数え、帰順するよう諭し、死なせないことを約束した。ついに都を連れて雄に会わせた。また都を連れて山中に走り、その衆を解散させ、二百人を降伏させた。光先は東陽県令と親しく、ついに都ら六十余人を江辺で斬った。子龍は争ったが、叶わなかった。

原文東陽諸生許都者,副使達道孫也。家富,任俠好施,陰以兵法部勒賓客子弟,思得一當。子龍嘗薦諸上官,不用,東陽令以私憾之。適義烏奸人假中貴名招兵事發,都葬母山中,會者萬人。或告監司王雄曰:「都反矣。」雄遽遣使收捕,都遂反。旬日間聚眾數萬,連陷東陽、義烏、浦江,遂逼郡城,既而引去。巡撫董象恒坐事逮,代者未至,巡按御史左光先以撫標兵,命子龍為監軍討之,稍有俘獲。而遊擊蔣若來破其犯郡之兵,都乃率餘卒三千保南砦。雄欲撫賊,語子龍曰:「賊聚糧據險,官軍不能仰攻,非曠日不克。我兵萬人,止五日糧,奈何?」子龍曰:「都,舊識也,請往察之。」乃單騎入都營,責數其罪,諭令歸降,待以不死。遂挾都見雄。復挾都走山中,散遣其眾,而以二百人降。光先與東陽令善,竟斬都等六十餘人於江滸。子龍爭,不能得。

乱を平定した功績により、兵科給事中に抜擢された。命令が下ったばかりで京師が陥落し、ついに南京で福王に仕えた。その年六月、江防の策は水師に過ぎるものはなく、海舟の議は緩めるべからずと上言し、兵部主事の何剛に専任して訓練させるよう請うた。聞き入れられた。太僕少卿の馬紹愉が使者として拝謁し、陳新甲が和議を主導したことに言及した。王は言った、「そうであれば、新甲は弔うべきである」。廷臣に応じる者はなく、ただ少詹事の陳盟が可と言った。そこで弔問するよう命じ、かつて新甲を弾劾した者を追って罪に問うた。廷臣は劉孔昭が殿上で争ったことを戒め、敢えて言わなかった。子龍は同官の李清とともに上疏して力諫し、事はやむことができた。

原文以定亂功,擢兵科給事中。命甫下而京師陷,乃事福王於南京。其年六月,言防江之策莫過水師,海舟議不可緩,請專委兵部主事何剛訓練,從之。太僕少卿馬紹愉奉使陛見,語及陳新甲主款事。王曰:「如此,新甲當恤。」廷臣無應者,獨少詹事陳盟曰可。因命予恤,且追罪嘗劾新甲者。廷臣懲劉孔昭殿上相爭事,不敢言。子龍與同官李清交章力諫,事獲已。

まもなく、防衛の要策を列挙して上奏し、元尚書の鄭三俊、都御史の易応昌・房可壮・孫晋を召還するよう請うた。いずれも聞き入れられた。また言った、「宦官が四方に出て巷を捜索している。娘のいる家はすべて黄紙で額に貼り、連れ去っていく。巷は騒然としている。明旨は役所を経ておらず、宦官が私自らに捜索採択するのは、まことに法紀に反する」。そこで誤った伝言で惑わす者を禁じるよう命じた。子龍はまた言った、「中興の主は、みな自ら士卒に先んじたゆえに、旧物を光復することができた。今、国門に入って二十日が過ぎたが、人情は緩み怠り、太平の時と変わらない。漏れる船の中で清歌し、燃える家の中で痛飲する。臣はその結末を知らない。その始まりはすべて一二の武臣を甘やかしたことから起こり、あらゆる政令が因循姑息となった。臣はひどく心寒く思う」。これも聞き入れられなかった。翌年二月、終養を乞うて去った。

原文未幾,列上防守要策,請召還故尚書鄭三俊,都御史易應昌、房可壯、孫晉,並可之。又言:「中使四出搜巷。凡有女之家,黃紙貼額,持之而去,閭井騷然。明旨未經有司,中使私自搜采,甚非法紀。」乃命禁訛傳誑惑者。子龍又言:「中興之主,莫不身先士卒,故能光復舊物。今入國門再旬矣,人情泄沓,無異升平。清歌漏舟之中,痛飲焚屋之內,臣不知其所終。其始皆起於姑息一二武臣,以至凡百政令皆因循遵養,臣甚為之寒心也。」亦不聽。明年二月乞終養去。

子龍は同郷の夏允彜とともに重い名声を負い、允彜が死ぬと、子龍は祖母が九十歳であることを思い、離れるに忍びず、僧となって遁れた。まもなく魯王の部院の職銜を受け、太湖の兵を結集し、挙兵しようとした。事が露見して捕らえられ、隙を見て水に投身して死んだ。

原文子龍與同邑夏允彜皆負重名,允彜死,子龍念祖母年九十,不忍割,遁為僧。尋以受魯王部院職銜,結太湖兵,欲舉事。事露被獲,乘間投水死。

夏允彜

原文夏允彜

夏允彜、字は彜仲。弱冠で郷挙に及第し、古を好み博学で、文章を作ることに巧みであった。この時、東林の講席が盛んで、蘇州の高才生張溥・楊廷樞らはこれを慕い、文会を結んで復社と名付けた。允彜は同郷の陳子龍・徐孚遠・王光承らとともに幾社を結んで応和した。崇禎十年、子龍とともに進士となり、長楽知県に任じられ、疑獄を裁くことに優れた。他の郡県で裁決できないものは、上官が多く長楽に下した。五年在任し、県は大いに治まった。吏部尚書の鄭三俊が天下の廉能な知県七人を挙げ、允彜を筆頭とした。帝が召見すると、大臣の方嶽貢らがその賢を力説し、特別に抜擢しようとした。ちょうど母の喪に服することになり、まだ用いられなかった。

原文夏允彜,字彜仲。弱冠舉於鄉,好古博學,工屬文。是時東林講席盛,蘇州高才生張溥、楊廷樞等慕之,結文會名復社。允彜與同邑陳子龍、徐孚遠、王光承等亦結幾社相應和。崇禎十年,與子龍同成進士,授長樂知縣,善決疑獄。他郡邑不能決者,上官多下長樂。居五年,邑大治。吏部尚書鄭三俊舉天下廉能知縣七人,以允彜為首。帝召見,大臣方嶽貢等力稱其賢,將特擢。會丁母憂,未及用。

北都の変報を聞き、允彜は走って尚書の史可法を訪ね、興復を謀った。福王が立ったと聞き、帰還した。その年五月、吏部考功司主事に抜擢された。喪に服し終えるよう上疏し、赴任しなかった。御史の徐復陽が権力者の意を迎え、允彜とその同官の文徳翼が喪中に官職を受けたのは制度に反すると弾劾した。二人はともに東林であったからである。二人は実はまだ赴任しておらず、罪に問うべき点はなかった。吏部尚書の張捷は急いで官位を下げて転任させることを議した。

原文北都變聞,允彜走謁尚書史可法,與謀興復。聞福王立,乃還。其年五月擢吏部考功司主事。疏請終制,不赴。御史徐復陽希要人旨,劾允彜及其同官文德翼居喪授職為非制,以兩人皆東林也。兩人實未嘗赴官,無可罪。吏部尚書張捷遽議貶秩調用。

間もなく南都は陥落し、彼は山林沢藪の間を彷徨し、何かを為さんとした。友人侯峒曾・黄淳耀・徐汧等が皆死んだと聞き、八月の中旬に絶命詞を賦し、深淵に身を投じて死んだ。允彝の死後二年、子の完淳と兄の之旭は共に陳子龍の獄詞に連座して及び、亦死んだ。而同社の徐孚遠は郷挙に挙げられ、松江の陥落により、海に遁れ、島中にて死んだ。

原文未幾,南都失,仿徨山澤間,欲有所為。聞友人侯峒曾、黃淳耀、徐汧等皆死,乃以八月中賦絕命詞,自投深淵以死。允彜死後二年,子完淳、兄之旭並以陳子龍獄詞連及,亦死。而同社徐孚遠,舉於鄉,因松江破,遁入海,死於島中。

侯峒曾

原文侯峒曾

侯峒曾、字は豫瞻、嘉定県の人である。給事中侯震暘の子。天啓五年に進士となり、南京武選司主事に授かり、父の喪に服した。崇禎七年に都に入る。兵部尚書張鳳翼が職方郎中に推薦したが、峒曾は固辞し、乃ち南京文選司主事に改めた。稽勲郎中より江西提学参議に遷る。給事中耿始然が賦税督励のため到着し、他の監司は属礼をもって謁見したが、峒曾のみ抗礼をもって対した。益王の勢いが盛んな折、歳試で二人の宗学生を罷免したところ、王は怒り、人を遣わして詰責させたが、峒曾は動じなかった。広東副使に遷るも、赴任せず。浙江右参政として起用され、嘉興・湖州を分守した。漕卒が秀水知県李向中を撃傷した事件では、峒曾は巡撫・巡按に請い、首謀者を捕らえて誅戮し、管内は粛然とした。吏部尚書鄭三俊が天下の賢能なる監司五人を挙げたが、峒曾はその一人であった。順天府丞に召されたが、未だ赴かぬうちに京師は陥落した。

原文侯峒曾,字豫瞻,嘉定縣人。給事中震旸子也。天啟五年成進士,授南京武選司主事,丁父憂。崇禎七年入都。兵部尚書張鳳翼薦為職方郎中,峒曾力辭,乃改南京文選司主事。由稽勛郎中遷江西提學參議。給事中耿始然督賦至,他監司以屬禮見,峒曾獨與抗禮。益王勢方熾,歲試黜兩宗生,王怒,使人誚讓,峒曾不為動。遷廣東副使,不赴。起浙江右參政,分守嘉、湖。漕卒擊傷秀水知縣李向中,峒曾請於撫按,捕戮首惡,部內肅然。吏部尚書鄭三俊舉天下賢能監司五人,峒曾與焉。召為順天府丞,未赴而京師陷。

福王の時、左通政に用いられたが、辞して就かず。南京が覆ると、州県多く兵を起こして自保した。嘉定の士民は峒曾を推して首唱者とし、同郷の黄淳耀・張錫眉・董用圓・馬元調・唐全昌・夏雲蛟等と共に誓って死守した。大清兵が攻めて来ると、峒曾は呉淞総兵官呉志葵に援軍を乞うた。志葵は遊撃蔡祥に七百人を率いさせて赴援させたが、一戦して敗北し、甲を束ねて遁走し、外援は遂に絶えた。城中の矢石は尽きた。七月三日大雨、城隅が崩壊し、巨木を架して支えた。翌日雨は益々甚だしく、城は大いに崩れ、大清兵が入城した。峒曾は家廟に拝礼し、二子元演・元潔を連れて池に沈んだ。錫眉・用圓・元調・全昌・雲蛟も皆死んだ。錫眉・用圓は共に挙人。用圓は秀水教諭の官にあった。元調・全昌・雲蛟は共に諸生である。

原文福王時,用為左通政,辭不就。及南京覆,州縣多起兵自保。嘉定士民推峒曾為倡,偕裏人黃淳耀、張錫眉、董用圓、馬元調、唐全昌、夏雲蛟等誓死固守。大清兵來攻,峒曾乞師於吳淞總兵官吳志葵。志葵遣遊擊蔡祥以七百人來赴,一戰失利,束甲遁,外援遂絕,城中矢石俱盡。七月三日大雨,城隅崩,架巨木支之。明日雨益甚,城大崩,大清兵入。峒曾拜家廟,挈二子元演、元潔並沈於池。錫眉、用圓、元調、全昌、雲蛟皆死之。錫眉、用圓皆舉人。用圓官秀水教諭。元調、全昌、雲蛟並諸生。

その時、衆を集めて城を守り死んだ者には、江陰の閻応元・昆山の朱集璜の類がいる。

原文其時聚眾城守而死者有江陰閻應元、昆山朱集璜之屬。

応元

原文應元

応元、字は麗亨、順天府通州の人。崇禎年間、江陰典史となる。十七年、海賊顧三麻が黄田港に入ると、応元は防禦に向かい、自ら弓を射て三人を殺した。賊退き、功により英徳主簿に遷るが、道が阻まれ赴任せず、江陰に寓居した。

原文應元,字麗亨,順天通州人。崇禎中,為江陰典史。十七年,海賊顧三麻人黃田港,應元往禦,手射殺三人。賊退,以功遷英德主簿,道阻不赴,寓居江陰。

翌年五月、南京が滅亡し、諸城は皆降った。閏六月朔、諸生許用が城守を唱導し、遠近より応じる者数万人。典史陳明遇が兵を主とし、徽州人邵康公を将とした。而して前都司周瑞龍が江口に泊し、互いに犄角の勢いを成した。戦い利あらず、大清兵は城下に逼った。徽州人程璧は家財を尽くして軍餉に充て、自らは呉淞総兵官呉志葵に援軍を乞うた。志葵が到着すると、璧は遂に帰らなかった。康公は戦いに勝たず、瑞龍の水軍も敗れて去り、明遇は乃ち応元を城に入れ、兵事を委ねた。

原文明年五月,南京亡,列城皆下。閏六月朔,諸生許用倡言守城,遠近應者數萬人。典史陳明遇主兵,用徽人邵康公為將。而前都司周瑞龍泊江口,相掎角。戰失利,大清兵逼城下。徽人程璧盡散家貲充餉,而身乞師於吳淞總兵官吳志葵。志葵至,璧遂不返。康公戰不勝,瑞龍水軍亦敗去,明遇乃請應元入城,屬以兵事。

大清兵は力を尽くして城を攻め、応元は守り甚だ堅固であった。東平伯劉良佐が牛皮帳を用いて城の東北を攻めると、城中は炮石をもって力撃した。良佐は乃ち十方庵に営を移し、僧に利害を説かせた。良佐やがて馬を馳せて至り、応元は大義を誓って、屹然として動かなかった。松江が陥ちると、大清兵は来ること益々多く、四方より大砲を発し、城中の死傷数知れず、猶も固守した。八月二十一日、大清兵が祥符寺背後の城壁より入ると、衆は猶も巷戦し、男女池井に投ずること皆満ちた。明遇・用は共に挙家自焚した。応元は水に赴いたが、引きずり出され、死んだ。

原文大清兵力攻城,應元守甚固。東平伯劉良佐用牛皮帳攻城東北,城中用炮石力擊。良佐乃移營十方庵,令僧陳利害。良佐旋策馬至,應元誓以大義,屹不動。及松江破,大清兵來益眾,四圍發大炮,城中死傷無算,猶固守。八月二十一日,大清兵從祥符寺後城入,眾猶巷戰,男婦投池井皆滿。明遇、用皆舉家自焚。應元赴水,被曳出,死之。

訓導馮厚敦は冠帯を正して明倫堂に縊死し、妹及び妻王氏は袵を結んで井戸に投じ死んだ。同郷の中書舎人戚勛は妻及び子女・子の妻に先に縊死させ、乃ち火を挙げて自焚し、従死者二十人。挙人夏維新、諸生王華・呂九韶は自刎して死んだ。

原文訓導馮厚敦冠帶縊於明倫堂,娣及妻王結袵投井死。裏居中書舍人戚勛令妻及子女、子婦先縊,乃舉火自焚,從死者二十人。舉人夏維新,諸生王華、呂九韶自刎死。

黄毓祺

原文黃毓祺

貢生黄毓祺は、学を好み、盛名有り、仏教学に精通していた。門人徐趨と共に行塘に挙兵し、城内の兵に応じようとした。城陥ちると、二人は逃れ去った。翌年冬、趨は江陰に備え無きを偵り、壮士十四人を率いて襲撃した。克たず、皆死んだ。毓祺は既に逃れ去り、江北に避けた。その子大湛・大洪は捕らえられ、兄弟は互いに死を争った。而して毓祺は敕印の事発し、江寧の獄に逮繫され、刑に処せられんとする時、その門人が期日を告げると、襲衣を取って自ら殮らせ、趺坐して逝った。

原文貢生黃毓祺者,好學,有盛名,精釋氏學。與門人徐趨舉兵行塘,以應城內兵。及城陷,兩人逸去。明年冬,趨偵江陰無備,率壯士十四人襲之。不克,皆死。毓祺既逸去,避江北。其子大湛、大洪被收,兄弟方爭死。而毓祺以敕印事發,逮繫江寧獄,將刑,其門人告之期,命取襲衣自斂,趺坐而逝。

朱集璜

原文朱集璜

朱集璜、字は以発、昆山の貢生。学行は郷里に推され、弟子数百人を教授した。南京既に亡び、昆山は守りを拒むことを議したが、県丞閻茂才は既に使を遣わして降を迎えていた。県人は共に茂才を捕らえて殺し、六月の望、旧将王佐才を帥に推し、集璜及び周室瑜・陶琰・陳大任等が共に兵を挙げた。参将陳宏勛・前知県楊永言が壮士百人を率いて助力した。佐才も亦邑人で、嘗て狼山副総兵に官し、年老いていた。大清兵至り、宏勛は舟師を率いて迎戦したが、敗れて還り、遊撃孫志尹は戦死した。城陥ち、永言は遁れ去った。佐才は民を出走させ、而して己は冠帯を正して帥府に坐し、殺された。集璜は東禅寺の後ろの河に投じて死んだ。門人孫道民・張謙は同日に死んだ。室瑜・琰・大任も亦死んだ。室瑜の子朝礦・大任の子思翰は皆共に死んだ。室瑜は郷挙に挙げられ、儀封知県の官にあった。琰・大任は皆諸生である。

原文朱集璜,字以發,昆山貢生。學行為鄉里所推,教授弟子數百人。南京既亡,昆山議拒守,而縣丞閻茂才已遣使迎降。縣人共執殺茂才,以六月望,推舊將王佐才為帥,集璜及周室瑜、陶琰、陳大任等共舉兵。參將陳宏勛、前知縣楊永言率壯士百人為助。佐才亦邑人,嘗官狼山副總兵,年老矣。大清兵至,宏勛率舟師迎戰,敗還,遊擊孫志尹戰歿。城陷,永言遁去。佐才縱民出走,而己冠帶坐帥府,被殺。集璜投東禪寺後河死。門人孫道民、張謙同日死。室瑜、琰、大任亦死之。室瑜子朝礦、大任子思翰皆同死。室瑜舉於鄉,官儀封知縣。琰、大任皆諸生。

時に守禦して死した者に、蘇達道・庄万程・陸世鏜・陸雲将・帰之甲・周復培・陸彦沖。父に代わって死した者に、沈征憲・朱国軾。母を救って死した者に、徐洺。自尽した者に、徐溵・王在中・呉行貞。

原文時以守禦死者,蘇達道、莊萬程、陸世鏜、陸雲將、歸之甲、周復培、陸彥沖。代父死者,沈征憲、朱國軾。救母死者,徐洺。自盡者,徐溵、王在中、吳行貞。

楊文驄

原文楊文驄

楊文驄、字は龍友、貴陽の人。浙江参政楊師孔の子。万暦末、郷挙に及第。崇禎時、江寧知県に任官。御史詹兆恒がその貪汙を弾劾し、官を奪われて取調を待つ。事未だ終わらざるに、福王が南京に立つ。文驄は縁戚の馬士英が国政を執り、兵部主事に起用され、員外郎・郎中を歴任し、皆京口にて監軍す。金山が大江の中に聳えて南北を制するを以て、城を築きて守禦の資とすべく請う。これに従う。文驄は書を善くし、文藻あり、交遊を好み、士英に干る者は多くこれに縁りて進む。その人となり豪侠自ら喜び、頗る名士を推奨し、士も亦これを以てこれに附す。

原文楊文驄,字龍友,貴陽人。浙江參政師孔子。萬歷末,舉於鄉。崇禎時,官江寧知縣。御史詹兆恒劾其貪汙,奪官侯訊。事未竟,福王立於南京,文驄戚馬士英當國,起兵部主事,歷員外郎、郎中,皆監軍京口。以金山踞大江中,控制南北,請築城以資守禦,從之。文驄善書,有文藻,好交遊,幹士英者多緣以進。其為人豪俠自喜,頗推獎名士,士亦以此附之。

明年、兵備副使に遷り、常・鎮二府を分巡し、大将鄭鴻逵・鄭彩の軍を監す。大清兵江に臨むに及んで、文驄は金山に駐し、大江を扼して守る。五月朔、右僉都御史に擢げられ、その地を巡撫し、兼ねて沿海諸軍を督す。文驄は乃ち還って京口に駐し、鴻逵等の兵と南岸に合し、大清兵と江を隔てて相持す。大清兵は大筏を編み、燈火を置き、夜に中流に放つ。南岸の軍は炮石を発し、以て敵を克つと為し、日に捷を奏す。初九日、大清兵霧に乗じて潜かに渡り、岸に迫る。諸軍始めて知り、倉皇として甘露寺に陣を列ぬ。鉄騎之を沖し、悉く潰ゆ。文驄は蘇州に走る。十三日、大清兵南京を破り、百官尽く降る。鴻臚丞黄家鼒を命じて蘇州に往きて安撫せしむ。文驄は之を襲撃して殺し、遂に処州に走る。時に唐王已に福州に自立せり。

原文明年遷兵備副使,分巡常、鎮二府,監大將鄭鴻逵、鄭彩軍。及大清兵臨江,文驄駐金山,扼大江而守。五月朔,擢右僉都御史,巡撫其地,兼督沿海諸軍。文驄乃還駐京口,合鴻逵等兵南岸,與大清兵隔江相持。大清兵編大筏,置燈火,夜放之中流,南岸軍發炮石,以為克敵也,日奏捷。初九日,大清兵乘霧潛濟,迫岸。諸軍始知,倉皇列陣甘露寺。鐵騎沖之,悉潰。文驄走蘇州。十三日,大清兵破南京,百官盡降。命鴻臚丞黃家鼒往蘇州安撫,文驄襲殺之,遂走處州。時唐王已自立於福州矣。

初め、唐王が鎮江に在りし時、文驄と交わり好し。是に至り、文驄は使者を遣わし表を奉じて賀を称す。鴻逵も又数え薦む。乃ち兵部右侍郎兼右僉都御史に拝し、軍務を提督し、南京を図らしむ。其の子鼎卿に左都督・太子太保を加う。鼎卿は士英の甥なり。士英は福王を迎えしめ遣わし、淮安にて王に遇う。王甚だ貧寠しきに、鼎卿之に赒給す。王と布衣の交わりを定め、故を以て鼎卿を寵すること甚だし。鼎卿の上謁するに及び、王は故人の子を以て之に遇い、其の父子を奨め、漢朝の大耿・小耿に擬す。然れども其の父子は士英の故を以て、人の為に詆諆せらること多し。

原文初,唐王在鎮江時,與文驄交好。至是,文驄遣使奉表稱賀。鴻逵又數薦,乃拜兵部右侍郎兼右僉都御史,提督軍務,令圖南京。加其子鼎卿左都督、太子太保。鼎卿,士英甥也。士英遣迎福王,遇王於淮安。王貧寠甚,鼎卿赒給之,王與定布衣交,以故寵鼎卿甚。及鼎卿上謁,王以故人子遇之,獎其父子,擬以漢朝大、小耿。然其父子以士英故,多為人詆諆。

明年、衢州急を告ぐ。誠意侯劉孔昭も亦処州に駐す。王は文驄に令し共に衢を援けしむ。七月、大清兵至る。文驄禦ぐ能わず、浦城に退く。追騎に獲らるる所となり、監紀孫臨と俱に降らずして戮せらる。

原文明年,衢州告急。誠意侯劉孔昭亦駐處州,王令文驄與共援衢。七月,大清兵至,文驄不能禦,退至浦城,為追騎所獲,與監紀孫臨俱不降被戮。

孫臨、字は武公、桐城の人、兵部侍郎孫晉の弟。文驄は招きて幕に入れ、職方主事に奏す。竟に同じく死す。

原文臨,字武公,桐城人,兵部侍郎晉之弟。文驄招入幕,奏為職方主事,竟與同死。

其の時兵を起して旁ら郡県を掠むる者有り、呉易、字は日生、呉江の人。生まれながら膂力有り、跅弛にして羈縻せず。崇禎末、進士に成る。福王時、揚州にて史可法に謁す。可法其の才を異とし、題して職方主事を授け、己が監軍と為す。明年、檄を奉じて江南に餉を征す。未だ還らざるに揚州失われ、已にして呉江も亦失わる。易は太湖に走り、同邑の挙人孫兆奎、諸生沈自駉・自炳、武進の呉福之等と謀りて兵を挙ぐ。旬日に千余人を得、長白蕩に屯し、出没して旁近の諸県に及び、道路梗まる。唐王之を聞き、兵部右侍郎兼右僉都御史を授け、江南諸軍を総督す。文驄は易の斬獲多きを奏し、兵部尚書に進む。魯王も亦易に兵部侍郎を授け、長興伯に封ず。八月、大清兵至る。易遂に敗走す。父承緒・妻沈及び女皆水に投じて死し、自駉・自炳・福之も亦死す。兆奎は獲らる。一軍尽く殲さる。明年、易の郷人周瑞復た長白蕩に衆を聚め、易を迎えて其の営に入る。八月、事泄れて獲らる。之に死す。福之は呉鐘巒の子なり。兆奎の兵敗るる時、易の妻女の辱めらるるを慮り、其の死するを視て後に行く。故に獲らる。械されて江寧に至り、之に死す。

原文其時起兵旁掠郡縣者有吳易,字日生,吳江人。生有膂力,跅弛不羈。崇禎末,成進士。福王時,謁史可法於揚州。可法異其才,題授職方主事,為己監軍。明年,奉檄征餉江南,未還而揚州失,已而吳江亦失。易走太湖,與同邑舉人孫兆奎,諸生沈自駉、自炳,武進吳福之等謀舉兵。旬日得千餘人,屯於長白蕩,出沒旁近諸縣,道路為梗。唐王聞之,授兵部右侍郎兼右僉都御史,總督江南諸軍。文驄奏易斬獲多,進為兵部尚書。魯王亦授易兵部侍郎,封長興伯。八月,大清兵至,易遂敗走。父承緒、妻沈及女皆投水死,自駉、自炳、福之亦死焉,兆奎被獲,一軍盡殲。明年,易鄉人周瑞復聚眾長白蕩,迎易入其營。八月,事泄被獲,死之。福之,鐘巒子也。兆奎兵敗時,慮易妻女被辱,視其死而後行,故被獲。械至江寧,死之。

陳潜夫

原文陳潛夫

陳潜夫、字は元倩、錢塘の人。家貧しく落魄し、大言を以て俗を駴くことを好む。崇禎九年郷挙に及第し、益々交遊を広くし、豪挙を為し、人の臧否を好み、里中の人之を悪む。友人陸培兄弟が文を為して潜夫を逐う。潜夫乃ち華亭に避居す。十六年冬、開封推官を授かる。大河の南五郡尽く賊に据えられ、開封は河に灌がれ、城虚しく人無く、長吏皆封丘に寄居す。潜夫に往かざるを勧むる者有るも、聴かず、馳せて封丘に至る。会うに叛将陳永福が賊兵を率いて山西より出で、其の子陳德が巡撫秦所式の部将たり、巡按御史蘇京を縛りて去る。潜夫は民兵千を募り、所式及び総兵卜従善・許定国に請い、令して共に剿せしむ。皆肯いて行かず。潜夫は乃ち十七年正月、周王を奉じて河を渡り杞県に居り、檄を以て旁近の長吏を召し、高皇帝の位を設け、血を歃って固守を誓う。賊の設くる所の偽巡撫梁啓隆は開封に居り、他の偽官郡邑の間に散布すること甚だ衆し。而して開封東西の諸土寨は剽掠公行し、相攻殺して已むこと無し。潜夫は杞・陳留の間に転側し、朝夕自保せず。西平寨の副将劉洪起が勇にして義を好み、屡々賊を殺して功有るを聞き、躬ら往きて之を説く。五月五日方に師を誓わんとし、而して都城守を失う。報至りて、乃ち慟哭し、其の下に縞素せしむ。洪起の兵一万、号して五万とす。潜夫の兵三千、杞の偽官を俘え、啓隆風を聞きて遁去す。遂に河を渡りて北し、柳園にて賊将陳德を大破す。時に李自成已に敗走して山西に走り、而して南陽の賊隙に乗じて西平を犯す。洪起引き還り、潜夫も亦随いて南す。

原文陳潛夫,字元倩,錢塘人。家貧落魄,好大言以駴俗。崇禎九年舉於鄉,益廣交遊,為豪舉,好臧否人,里中人惡之。友人陸培兄弟為文逐潛夫,潛夫乃避居華亭。十六年冬,授開封推官。大河南五郡盡為賊據,開封被河灌,城虛無人,長吏皆寄居封丘。有勸潛夫弗往者,不聽,馳之封丘。會叛將陳永福率賊兵出山西,其子德為巡撫秦所式部將,縛巡按御史蘇京去。潛夫募民兵千,請於所式及總兵卜從善、許定國,令共剿,皆不肯行。潛夫乃以十七年正月奉周王渡河居杞縣,檄召旁近長吏,設高皇帝位,歃血誓固守。賊所設偽巡撫梁啟隆居開封,他偽官散布郡邑間甚眾,而開封東西諸土寨剽掠公行,相攻殺無已。潛夫轉側杞、陳留間,朝夕不自保。聞西平寨副將劉洪起勇而好義,屢殺賊有功,躬往說之。五月五日方誓師,而都城失守。報至,乃慟哭,令其下縞素。洪起兵萬,號五萬,潛夫兵三千,俘杞偽官,啟隆聞風遁去。遂渡河而北,大破賊將陳德於柳園。時李自成已敗走山西,而南陽賊乘間犯西平,洪起引還,潛夫亦隨而南。

福王南京に立つ。潜夫の伝うる露布至り、朝中大喜び、即ち監軍御史に擢げ、河南を巡按せしむ。潜夫乃ち朝に入りて言う、「中興は進取に在り、王業は偏安せず。山東・河南の地は、尺寸も棄つべからず。豪傑寨を結びて自ら固むる者は、領を引いて官軍を待つ。誠に藩鎮を分命し、一軍をして潁・寿より出でしめ、一軍をして淮・徐より出でしめば、則ち衆心競って奮い、争って我が用と為らん。更に爵賞を頒ち鼓舞し、遠近を計り、城堡を画して自ら守らしめ、而して我が督撫将帥は鋭師を要害に屯して以て之に策応せしむ。寛なれば則ち耕屯して食と為し、急なれば則ち甲を披き墉に乗じ、一方警有れば、前後救援し、長河も守るに足らざるなり。汴梁一路は、臣が聯絡素より定まり、旬日に十余万人を集め得べし。誠に稍々糗糧を与え、臣の自ら将たるを容れば、臣当に戈を荷いて先駆し、諸藩鎮を後勁と為さん。河南五郡尽く復せられん。五郡既に復せば、河を画して固と為し、南は荊楚に連なり、西は秦関を控え、北は趙・衛に臨まん。上は則ち恢復望み有り、下は則ち江淮永く安からん。これ今日の至計なり。両淮の上、何事か多兵を為さん、督撫紛紜として、並びに虚設と為る。若し外拒を思わず、専ら退守に事とり、土地甲兵の衆を挙げて之を他人に致さば、臣は江淮も亦未だ保つべからざるを恐る」と。

原文福王立南京,潛夫傳露布至,朝中大喜,即擢監軍御史,巡按河南。潛夫乃入朝言:「中興在進取,王業不偏安。山東、河南地,尺寸不可棄。豪傑結寨自固者,引領待官軍。誠分命藩鎮,以一軍出潁、壽,一軍出淮、徐,則眾心競奮,爭為我用。更頒爵賞鼓舞,計遠近,畫城堡俾自守,而我督撫將帥屯銳師要害以策應之。寬則耕屯為食,急則披甲乘墉,一方有警,前後救援,長河不足守也。汴梁一路,臣聯絡素定,旬日可集十餘萬人。誠稍給糗糧,容臣自將,臣當荷戈先驅,諸藩鎮為後勁,河南五郡可盡復。五郡既復,畫河為固,南連荊楚,西控秦關,北臨趙、衛,上之則恢復可望,下之則江淮永安,此今日至計也。兩淮之上,何事多兵,督撫紛紜,並為虛設。若不思外拒,專事退守,舉土地甲兵之眾致之他人,臣恐江淮亦未可保也。」

この時、開封・汝寧の間に百を数える砦が並び、劉洪起が最も大規模であった。南陽には数十の砦があり、蕭応訓が最も大規模であり、洛陽にも数十の砦があり、李際遇が最も大規模であった。諸将帥の中でただ劉洪起のみが忠誠を尽くそうとし、凌駉は彼に将軍の印綬を与えるよう請うたが、馬士英は聞き入れず、その姻戚である越其傑を用いて河南巡撫とした。凌駉は九月に入朝してから、途中で帰省し、わずか五日で河上に急行した。彼の建議はすべて用いられず、諸鎮の兵も来る者はなかった。越其傑は老いて疲れ、兵事を知らなかった。兵部尚書張縉彦が河南・山東軍務を総督したが、空名を掲げるのみで諸将を統御できなかった。その冬、蕭応訓が再び南陽及び泌陽・舞陽・桐柏を回復し、子の三傑を遣わして勝利を献上した。凌駉は告身を授け、酒を飲ませ、鼓吹と旌旗を先導に出した。三傑は望外の喜びで、越其傑を謁見した。越其傑はわざと尊厳を装い、厳しい言葉で詰問し、賊と誹謗した。三傑は泣いて退出し、異心を抱いた。凌駉が諸砦を通ると、皆が鐃吹で送迎したが、越其傑が時折通ると、諸砦は皆門を閉めて出てこなかった。越其傑は憤り、馬士英に凌駉を讒言した。馬士英は怒り、冬の終わりに凌駉を召還し、凌駉に代えて越其傑を任じた。凌駉もまた父の喪に遭い帰郷した。

原文當是時,開封、汝寧間列寨百數,洪起最大;南陽列寨數十,蕭應訓最大,洛陽列寨亦數十,李際遇最大。諸帥中獨洪起欲效忠,潛夫請予掛印為將軍。馬士英不聽,而用其姻婭越其傑巡撫河南。潛夫自九月入覲,便道省親,甫五日即馳赴河上。所建白皆不用,諸鎮兵無至者。其傑老憊不知兵。兵部尚書張縉彥總督河南、山東軍務,止提空名,不能馭諸將。其冬,應訓復南陽及泌陽、舞陽、桐柏,遣子三傑獻捷。潛夫授告身,飲之灑,鼓吹旌旗前導出。三傑喜過望,往謁其傑。其傑故為尊嚴,厲辭詰責,詆為賊。三傑泣而出,萌異心。潛夫過諸寨,皆鐃吹送迎;其傑間過之,諸寨皆閉門不出。其傑恚,譖潛夫於士英。士英怒,冬盡,召潛夫還,以淩駉代。潛夫亦遭外艱歸。

翌年三月、給事中林有本が上疏して御史彭遇颽を弾劾し、凌駉にも及んだ。馬士英は彭遇颽が自分の側近であるため、問わずに置き、ただ凌駉の罪を議するよう命じた。先に童氏という者がおり、自ら福王の継妃と称し、広昌伯劉良佐が礼を整えて送った。凌駉が寿州に至った時、車馬と従者が皇后来臨と伝え呼ぶのを見て、これにも臣として朝謁した。童氏が都に入ると、王は偽物とみなして獄に下した。そこで凌駉が妖婦に私謁したことを責め、捕らえて獄に下し処罰した。

原文明年三月,給事中林有本疏劾御史彭遇颽,並及潛夫。士英以遇颽己私人,置不問,獨令議潛夫罪。先是,有童氏者,自言福王繼妃,廣昌伯劉良佐具禮送之。潛夫至壽州,見車馬騶從傳呼皇后來,亦稱臣朝謁。及童氏入都,王以為假冒,下之獄。遂責潛夫私謁妖婦,逮下獄治之。

間もなく、南都が守られず、凌駉は脱出して帰郷した。魯王が紹興で監国したと聞き、渡江して謁見し、元の官に復し、太僕少卿を加えられ、監軍となり、自ら三百人を募り江上に陣営を並べた。まもなく大理寺少卿に進み、御史の職はそのまま兼ねた。順治三年五月晦日、江上の軍はことごとく潰え、凌駉は山陰の化龍橋まで逃れ、妻妾の二孟氏とともに水に赴いて死んだ。三十七歳であった。

原文未幾,南都不守,潛夫得脫歸。聞魯王監國紹興,渡江往謁,命復故官,加太僕少卿,監軍,乃自募三百人列營江上。尋進大理寺少卿,兼御史如故。順治三年五月晦,江上師盡潰,潛夫走至山陰化龍橋,偕妻妾二孟氏同赴水死,年三十七。

最初に文章を書いて凌駉を追放した陸培は、字を鯤庭といい、進士に挙げられ、行人となり、使命を果たして帰省した。南京が既に陥落し、潞王もまた降伏したと聞くと、縄を二人の僕に授け、従容として縊死した。二十九歳であった。陸培は若くして俊才を負い、文名があり、行いと義理に謹み、華亭に客としており、かつて室内に駆け込んできた女を退けたという。

原文始為文逐潛夫者陸培,字鯤庭,舉進士,為行人,奉使事竣歸省。南京既覆,聞潞王又降,以繩授二僕,從容就縊而死,年二十九。培少負俊才,有文名,行誼修謹,客華亭,嘗卻奔女於室云。

沈廷揚

原文沈廷揚

沈廷揚は、字を季明といい、崇明の人である。経世済民の学を好んで談じた。崇禎年間、国子監生から内閣中書舎人となった。十二年冬、帝は山東に警報多く、運河の道が時折遮断されるため、海運の復活を議した。沈廷揚は海浜に生まれ、水路に通じ、上疏してその便益を極力主張し、さらに海運書五巻を編集して呈上した。帝は喜び、直ちに海舟を造らせて試すよう命じた。沈廷揚は二隻の舟で淮安から出航し、天津に着くまでわずか半月であった。帝は大いに喜び、直ちに戸部郎中を加え、登州に赴き巡撫徐人龍と海運の事を計らせた。初め、寧遠の軍餉は天津船を用い、登州から東南風を待って糧秣を天津に運び、さらに西南風を待って寧遠に運んでいた。沈廷揚は登州から直ちに寧遠に達するよう請い、帝はその建議を用い、費用を多く節減した。十五年、再び淮安に赴き海運を監督するよう命じ、事が終わると光禄少卿を加えられ、依然としてその職務を掌った。

原文沈廷揚,字季明,崇明人。好談經濟。崇禎中,由國子生為內閣中書舍人。十二年冬,帝以山東多警,運道時梗,議復海運。廷揚生海濱,習水道,上疏極言其便,且輯海運書五卷以呈。帝喜,即命造海舟試之。廷揚乘二舟由淮安出海,抵天津,僅半月。帝大喜,即加戶部郎中,往登州與巡撫徐人龍計海運事。初,寧遠軍餉率用天津船,自登州侯東南風,轉粟至天津;又侯西南風轉至寧遠。廷揚請從登州直達寧遠,帝用其議,省費多。十五年命再赴淮安督海運,事竣,加光祿少卿,仍領其事。

京師が陥落すると、福王は沈廷揚に海舟で江を防衛するよう命じた。まもなく糧餉事務も兼ねて江北諸軍に補給するよう命じた。南京が失陥すると、郷里に逃れ帰った。後に航海して舟山に至り、黄斌卿に依った。唐王が福建におり、兵部右侍郎を授け、水師を総督した。魯王も同様に官を授けた。魯王が航海した翌年、沈廷揚は舟師を督いて北上し、福山に着き、鹿苑に駐屯した。夜半に颶風が大いに起こり、舟が砂に乗り上げ、大清兵に捕らえられた。降伏を勧められたが従わず、そこで処刑された。

原文及京師陷,福王命廷揚以海舟防江。尋命兼理餉務,饋江北諸軍。南京失守,走還鄉里。後航海至舟山,依黃斌卿。唐王在福建,授兵部右侍郎,總督水師。魯王授官亦如之。魯王航海之明年,廷揚督舟師北上,抵福山,次鹿苑。夜分颶風大作,舟膠於沙,為大清兵所執。諭之降,不從,乃就戮。

林汝翥

原文林汝翥

林汝翥は、字を大葳といい、福清の人である。郷試に合格し、沛はい県知県に任じられた。天啓二年、戦って徐鴻儒の兵を退け、妖人王普光の一味を逮捕する功績があり、特に抜擢されて御史となった。四年六月、京城を巡視した。民の曹大の妻が人の奴隷と言い争い、毒を飲んで死んだ。火者(宦官)の曹進・傅国興が衆を率いて奴隷の主家を大いに掠奪し、大錐でその主を刺し、刑官は敢えて問わなかった。林汝翥は曹進を捕らえ、曹進は弾劾を恐れ、杖刑を受けることを請うたので、そこで五十回杖打った。傅国興が道で待ち伏せし、罵りやまなかったので、林汝翥は捕らえて拘束し、これも杖刑を受けることを請うたので、再び杖打った。魏忠賢は大いに怒り、直ちに旨を伝えて林汝翥を廷杖に処すよう命じた。数日前、宦官の一団が万璟を殴打して殺していた。林汝翥は大いに恐れ、遵化に逃れた。巡撫鄧渼が代わりに上奏し、都御史孫瑋・御史潘雲翼らが相次いで上疏して救ったが、聞き入れられず、ついに杖打ち、官籍を削られて帰郷した。崇禎初年、右参議に起用され、温処道を分守することとなったが、赴任しなかった。久しくして瓊州道に起用されたが、奸民が煽動して乱を起こした罪に坐し、官位を降格されて帰郷した。福王の時、雲南僉事に起用されたが、やがて解職された。魯王が長垣に駐屯すると、兵部右侍郎に召され、員外郎林惣とともに福寧を攻めたが、戦いに敗れて捕らえられ、降伏を勧められたが従わず、拘束され、金屑を飲んで死んだ。

原文林汝翥,字大葳,福清人。舉於鄉,授沛縣知縣。天啟二年,戰卻徐鴻儒兵,緝妖人王普光黨有功,特擢御史。四年六月,巡視京城。民曹大妻與人奴角口,服毒死。火者曹進、傅國興率眾大掠奴主家,用大錐錐其主,刑官不敢問。汝翥捕得進,進懼劾,請受杖,遂杖之五十。國興邀於道,罵不已,汝翥收系之,亦請受杖,復杖之。魏忠賢大怒,立傳旨廷杖汝翥。先數日,群奄毆殺萬璟。汝翥大懼,逸至遵化。巡撫鄧渼為代題,都御史孫瑋、御史潘雲翼等交章論救。不聽,卒杖之,削籍歸。崇禎初,起官右參議,分守溫處道,不赴。久之,起瓊州道,坐奸民煽亂,貶秩歸。福王時,起雲南僉事,已而解職。魯王次長垣,召為兵部右侍郎,與員外郎林惣攻福寧,戰敗被執,諭降不從,系之,吞金屑而死。

林垐

原文林垐

林垐は、字を子野といい、林汝翥の同郷人である。崇禎十六年の進士。海寧知県に任じられた。県に妖人が剣術で衆を惑わし、千人を集めていたので、林垐は捕らえて殺した。南都が陥落し、杭州も守られず、兵卒が機に乗じて糧餉を請い、役所を取り囲んで大いに騒いだ。林垐は首謀者を罪に問うたが、その要求は聞き入れた。城が孤立して存続できないため、退去した。唐王は御史とし、文選員外郎に改め、福寧で兵を募らせた。王が殺されたと聞き、大いに慟哭し、山中に逃れて隠れた。魯王が航海して長垣に至ると、福清の郷兵が林垐を主将に請い、林汝翥とともに城を攻め、陣中で戦死した。

原文垐,字子野,汝翥同邑人。崇禎十六年進士。授海寧知縣。邑有妖人以劍術惑眾,聚千人,惣捕殺之。南都覆,杭州亦不守,卒乘機乞餉,環署大噪。惣罪為首者,而如其請。以城孤不能存,引去。唐王以為御史,改文選員外郎,募兵福寧。聞王被殺,大慟,走匿山中。及魯王航海至長垣,福清鄉兵請惣為主,與汝翥共攻城,歿於陣。

鄭為虹

原文鄭為虹

鄭為虹は、字を天玉といい、江都の人である。崇禎十六年の進士。浦城知県に任じられた。唐王が浦城を通った時、その清廉さを知り、自立すると、御史に召した。管下の民が相次いで留任を請い、十の去れない理由を述べた上疏があった。そこで御史として仙霞関を巡視させ、浦城に駐在させた。まもなく上遊四府を巡撫し、関務を兼ねて掌るよう命じた。鄭芝龍の部将が民の舟を奪ったので、鄭為虹はこれを叱責した。鄭芝龍は王に訴え、王は諭して和解させた。しかしこの時すでに鄭芝龍は異心を抱いており、守関の将をことごとく撤収させたので、仙霞嶺二百里の間に一人もいなくなった。順治三年八月、大清兵が長駆直入し、鄭為虹は急いで浦城に戻り、士民を逃がし出し、自らは空城を守った。間もなく捕らえられ、給事中黄大鵬とともに死んだ。二十五歳であった。

原文鄭為虹,字天玉,江都人。崇禎十六年進士。除浦城知縣。唐王道浦城,知其廉,及自立,召為御史。部民相率乞留,有十不可去之疏。乃令以御史巡視仙霞關,駐浦城。尋令巡撫上遊四府,兼領關務。鄭芝龍部將奪民舟,為虹叱責之。芝龍訴於王,王為諭解。然是時芝龍已懷異志,盡撤守關將,仙霞嶺二百里間無一人。順治三年八月,大清兵長驅直入,為虹亟還浦城,縱士民出走,自守空城。無何,被執,與給事中黃大鵬並死之,年二十有五。

黄大鵬

原文黃大鵬

黄大鵬は、字を文若といい、建陽の人である。崇禎十三年の進士。義烏知県となり、有能な名声があった。唐王は兵科給事中に召し、建寧まで従い、鄭為虹とともに仙霞嶺を守るよう命じ、ついにともに死んだ。時に王は延平におり、仙霞関が失陥したと聞き、慌ただしく汀州に逃れた。延平を守ったのは王士和であり、汀州まで従って逃れた者に胡上琛・熊緯がおり、皆、死をもって事に当たったことで著名である。

原文大鵬,字文若,建陽人。崇禎十三年進士。為義烏知縣,有能聲。唐王召為兵科給事中,從至建寧,令與為虹共守仙霞嶺,竟同死。時王在延平,聞仙霞關失守,倉猝走汀州。守延平者為王士和,從走汀州者有胡上琛、熊緯,皆以死事著。

王士和

原文王士和

士和は字を萬育といい、金渓の人である。崇禎年間に郷挙に及第した。南京が既に陥落し、江西もまた兵乱に遭うと、士和は福建に避難し、吏部司務に任ぜられた。時政の欠失を上疏して陳べること、凡そ数千言に及び、唐王はこれを印刷して文武の諸臣に賜り、且つ士和を召し入れて応対させ、嘉賞して至れり尽くせりとし、兵部主事に抜擢した。一月も経たぬうちに延平知府に抜擢された。八月、王が汀州に走ると、兵部侍郎曹覆泰を留めて士和と共に居守させた。間もなく警報が相次いで至り、士和は父老を召集して言った、「私は一月の郡守ではあるが、城と存亡を共にすべきである。汝らは速やかに出て行くがよい、数万の生霊を尽く斧鑕の膏とさせてはならぬ。」衆は泣き、士和もまた泣いた。退いて内署に入り、友人に言った、「私は一介の書生に過ぎぬが、数ヶ月で二千石の官を辱うし、どうして生きながらえることができようか。」その友人がこれを制止しようとすると、正色して言った、「君子は人を愛するに徳を以てし、姑息は何の為ぞや。」衣冠を整え、戸を閉じて縄に投じて死んだ。

原文士和,字萬育,金溪人。崇禎中,舉於鄉。南京既覆,江西亦被兵,士和避入閩,授吏部司務。疏陳時政闕失,凡數千言,唐王刊賜文武諸臣,且召士和入對,嘉獎備至,擢兵部主事。未一月擢延平知府。八月,王走汀州,留兵部侍郎曹覆泰偕士和居守。俄警報疊至,士和召父老曰:「吾雖一月郡守,當與城存亡。若等可速出,毋使數萬生靈盡膏斧锧。」眾泣,士和亦泣。退入內署,謂友人曰:「吾一介書生,數月而忝二千石,安敢偷生。」其友勸止之,正色曰:「君子愛人以德,姑息何為。」從容正衣冠,閉戶投繯死。

胡上琛

原文胡上琛

上琛は字を席公という。世襲で福州右衛指揮使を継いだ。書を好み、詩を作ることができた。職を襲った後、さらに武郷試に及第した。唐王の時、錦衣衛指揮に任官し、署都督僉事に遷り、禦営総兵官を充て、王に従って汀州に至った。王が捕らえられると、上琛は福州に奔り帰り、家人に言った、「私は世臣である、安んじて生きることはできない、私のために毒草を採って来い。」妾の劉は二十歳で、共に死ぬことを願った。上琛は喜んで言った、「汝は若い婦人ながらも死ぬことができようか!」そこで冠帯を整え、妾と共に薬酒を飲んで卒した。

原文上琛,字席公。世襲福州右衛指揮使。好讀書,能詩。既襲職,復舉武鄉試。唐王時,官錦衣衛指揮,遷署都督僉事,充禦營總兵官,從至汀州。王被執,上琛奔還福州,謂家人曰:「吾世臣,不可茍活,為我采毒草來。」妾劉年二十,願同死。上琛喜曰:「汝幼婦亦能死耶!」遂整冠帶與妾共飲藥酒而卒。

熊緯

原文熊緯

緯は字を文江といい、南昌の人である。崇禎十六年の進士。行人に任ぜられた。両京が既に陥落した後、酒を飲む度に、涙が交わって流れ落ちた。友人がこれに言った、「昔、狼覃に『我は死する所を得ず』という言葉があった、子は既に志があるなら、どうしてその所を求めないのか。」そこで延平に赴いて唐王に謁し、給事中に抜擢された。間もなく王に扈従して汀州に至り、変事に遭い、従官は皆散り散りになったが、緯はなおも奔走して赴いた。大清の兵に遇い、これに死した。

原文緯,字文江,南昌人。崇禎十六年進士。授行人。兩京既覆,每飲酒,輒涕泗交橫下。友人語之曰:「昔狼覃有言『吾未獲死所』,子既有志,曷求所乎?」乃赴延平謁唐王,擢給事中。尋扈行至汀州,遘變,從官皆散,緯仍奔赴。遇大清兵,死之。

【贊】

原文【贊】

賛して言う、廃興の故は、豈に天道ならざらんや。金聲らは烏合の師を以て、張皇して奮い呼び、既に廃れた後に明の祚を引き留めんと欲したが、心は離れ勢いは渙散し、敗れること旋踵を待たず、何の尺寸を補うことができようか。然しながら終に命を致し志を遂げ、死を帰するが如く視ること、事は成らずと雖も、亦たその志を存するのみである。

原文贊曰:廢興之故,豈非天道哉。金聲等以烏合之師,張皇奮呼,欲挽明祚於已廢之後,心離勢渙,敗不旋踵,何尺寸之能補。然卒能致命遂志,視死如歸,事雖無成,亦存其志而已矣。