良玉は幼くして孤となり、叔父に養われた。その身が貴くなっても、母の姓を知らなかった。背が高く顔は赤く、驍勇で、左右の射撃に長けていた。書物を知らずとも、智謀多く、士卒を撫でてその歓心を得たため、戦えば常に功があった。時に陝西の賊が河南に入り、懐慶を謀った。朝廷の議により良玉に昌平兵を率いて討伐に赴かせ、大旨は専ら河南を担当せしめた。折しも賊が修武・清化を寇した者が平陽に逃げ込んだため、良玉を山西に入れて防がせ、多く斬獲があった。河南巡撫樊尚璟は良玉を沢州に駐屯させ、豫・晉の咽喉を扼し、四方に援兵となし得るとした。詔してこれに従った。時に曹文詔が陝西兵を率い、帝は良玉に尚璟の節制を受け、文詔と心を合わせて賊を討ち、急なれば秦兵は東に、豫兵は西に、良玉の兵は中から横撃するよう命じた。
六年正月、賊が隰州を犯し、陽城を陥落させた。良玉はこれを涉県の西陂で破った。二月、良玉の兵が賊と武安で戦い、大敗した。尚璟は罷免され、太常少卿玄默が代わった。三月、賊が再び河内に入り、良玉は輝県からこれを追った。賊は修武に奔り、遊撃越效忠を殺し、参将陶希謙を追って、希謙は落馬して死んだ。良玉はこれを万善駅で撃ち、柳樹口に至って大破し、賊の首領数人を擒らえ、賊は遂に西へ奔った。河南の定員兵は僅か七千で、幾度も賊に遭い、死傷して殆ど尽きた。良玉は昌平兵二千余を率い、数度戦い、功はあったが、勢い甚だ孤であった。総兵鄧玘がちょうど萊州で功を立てたばかりであったため、川兵に石砫土司馬鳳儀の兵を加えて良玉に馳せ赴かせ、共に賊を挟撃させた。やがて鳳儀は孤軍で侯家荘にて戦没した。
この時、賊の勢いは既に大いに盛んで、三晉・畿輔・河北の間を縦横した。諸将曹文詔・李卑・艾萬年・湯九州・鄧玘・良玉らは先後して賊と戦い、勝負はほぼ互角であった。良玉・鄧玘は河南を担当し、官村・沁河・清化・万善で幾度もこれを破った。良玉はまた武安八徳でこれを扼し、斬獲が特に多かった。折しも帝が倪寵・王朴を総兵とし、京営兵六千を率いて河南に赴かせ、宦官楊進朝・盧九徳にその軍を監させ、別に宦官を遣わして良玉らの軍を監させた。職方郎中李継貞が言うには、「良玉・李卑は身に百戦を経ており、位が却って寵・朴の下にあるのは、聞いて士気が崩れる恐れがある」。そこで良玉・李卑に都督僉事を署せしめ、援剿総兵官とし、寵・朴と対等の扱いとした。京営兵が到着し、共に賊を撃ち、数度功を立てた。良玉は賊を済源・河内で破り、また永寧青山嶺銀洞溝で破り、また葉県から小武当山まで追撃し、いずれも賊の首魁を多く斬った。しかし諸将は宦官が軍を監することを良しとしなかった。
その冬、西へ奔った賊が再び東へ転じた。良玉・九州がその前を扼し、京営兵がその後を追い、賊は大いに窮し、官軍は柳泉・猛虎村で連破した。賊の張妙手・賀双全ら三十六家は詭弁をもって分巡布政司常道立に降伏を請い、監軍の進朝を通じて願い出た。諸将は朝命を待ち、出戦しなかった。折しも寒さで黄河が氷結し、賊は澠池から直ちに渡河した。巡撫玄默は良玉・九州・李卑・鄧玘の兵を率いて境上で待ち受けた。賊は盧氏の山中に逃げ込み、ここから鄖・襄を経て川中に入り、転じて秦隴を掠め、再び川中・湖北に出没し、河南を犯すに至り、中原はますます大いに荒廃した。しかし三晉・畿輔だけは十年にわたり賊禍を受けなかった。
賊が既に黄河を渡って去ると、良玉は諸将と分地して守った。陳奇瑜・盧象升がちょうど秦・楚で賊を挟撃しており、七年の春夏の間、中州は幸い事が無かった。やがて奇瑜が車箱峡で李自成を見失い、朝廷の議により晉・豫・楚・蜀の兵を合わせて四面からこれを剿討することとなった。賊はそこで軍を三つに分けた。一つは慶陽に向かい、一つは鄖陽に向かい、一つは関を出て河南に向かった。河南に向かった者もまた三つに分かれ、郡邑は至る所で急を告げた。良玉は新安・澠池を扼し、他の将陳治邦は汝州に駐屯し、陳永福は南陽を扼したが、皆甲を坐して自保するのみで、賊に大創を与えることはできなかった。賊は毎営数万、兵は交代で進み、皆食糧に因って飽くまで宿営する。我が兵は寡くして備える所多く、糧秣の補給が続かない。賊は甲冑を着た馬で馳せ、一日夜に数百里。我が兵は歩兵多く騎兵少なく、数十里行けば疲労し、それ故多く賊を恐れた。そして良玉は懐慶にいた時、督撫と意見が合わず、これによって異心を生じ、追撃を緩めて賊を養い、多くの降伏者を収めて自らの勢力を重んじた。督撫が檄を飛ばして調べても、時を定めず命令に応じず、次第に跋扈の兆しを見せ始めた。十二月に磁山で賊に遭遇し、数十度大戦し、百余里を追撃した。
八年正月、河南の賊が潁州を破り、鳳陽の皇陵を毀った。鹿邑・柘城・寧陵・通許を陥落させた賊に対して、良玉は許州にいて救うことができなかった。四月、督師洪承疇が汝州におり、諸将に分地して賊を遮らせた。尤世威は雒南を守り、陳永福は盧氏・永寧を押さえ、鄧玘・尤翟文・張応昌・許成名は湖広を塞いだ。呉村・瓦屋は内郷・淅川の要地であるため、良玉と湯九州に五千人でこれを扼させた。間もなく、鄧玘は兵の騒動で死に、曹文詔は陝西の賊を討ち、真寧で敗没した。賊はますます勢いを張り、遂に盧氏を越え、永寧に奔った。巡撫玄默は逮捕されたが未だ去らず、良玉に内郷から陳治邦・馬良文らと共に盧氏を救援するよう檄を飛ばした。八月に鄢陵で賊を破った。九月に郟県の神垕山で賊を追跡した。賊は連営数十里、交代で休み戦い、我が兵を疲れさせたため、良玉は軍を収めて止んだ。賊が再び密県を攻めると、良玉は郟県からこれを救援し、賊は去った。十月、良玉は霊宝に到着し、遼東総兵祖寛の兵と合流して澗口・焦村で賊を討った。焦村は硃陽関の地である。十一月、李自成が硃陽関を出て、張献忠は久しく霊宝を占拠し、闖王高迎祥もまたこれと合流した。良玉・祖寛は霊宝でこれを防いだが支えきれず、陝州が陥落した。賊は東下して洛陽を攻め、良玉・祖寛は巡撫陳必謙に従って洛陽を救い、賊は去った。迎祥・自成は偃師・鞏県に走り、献忠は嵩県・汝州に走った。良玉は洛陽を出て迎祥・自成を追い、祖寛は分かれて献忠を撃ち汝州を救った。折しも総理盧象升が湖広から到着し、祖寛と共に汝州西で賊を大破し、裨将に命じて宜陽黄澗口で賊を破らせた。
九年二月、賊は登封の郜城鎮にて敗れ、石陽関へ走り、伊州・嵩州の賊と合流した。故総兵の九州は嵩県より深入りし、良玉と挟撃せんとした。良玉は途中で遁走して帰り、九州は勝に乗じて四十里を窮追したが、援なくして敗死し、良玉は逆に捷を奏聞した。五月、象升は祖寛・李重鎮を遣わし、陝西総督洪承疇に随って西行させた。良玉の軍は最も強く、また中州の人を率いるゆえ、独り久しく留め置かれた。しかるにその驕亢にして用い難きを以て、孔道興を用いてその偏将趙柱に代わって霊宝に駐屯させ、雒西を防がせた。良玉と羅岱は宜陽・永寧に駐屯し、雒東を防いだ。七月、良玉の兵は開封に至り、登封の唐荘より深入りして賊を撃ち、辰の刻より申の刻まで激戦し、賊は支えきれず西へ走った。陳永福はちょうど唐河にて賊を破り、賊は田家営に至った。良玉は河を渡ってこれを撃ち、斬獲頗る多かった。九月、巡撫楊縄武は良玉が賊を避けたことを弾劾し、戴罪自贖を命じた。
十年正月、賊の老回回が曹操・闖塌天ら諸部と合流し、流れに沿って東下し、安慶が警報を発した。詔して良玉に中州よりこれを救わしむ。良玉は道中、南陽の土寇楊四・侯馭民・郭三海を剿殺し、急ぎ六安に至り、賊と遭遇した。部将の岱・道興は勝に乗じて連戦し、賊を大破した。賊は霍州・潜山へ走った。時に馬爌・劉良佐もまた桐城・廬州・六安にて賊を屡々破り、滁州・和州に在る賊も西へ遁走し、江北の警報は稍々止んだ。応天巡撫張国維は三度檄を発して良玉に入山し捜剿せしむるも、応ぜず、兵を放って婦女を掠奪した。舒城に月余り屯し、河南監軍太監が強く促して、初めて北去したが、賊は既に飽掠して山中に入っていた。已にして淅川が陥落したが、良玉は兵を擁して救わず。六安にて賊を破った功により、詔して職を落とし戴罪とし、尋いでこれを復した。賊は東下して六合を襲い、天長を攻め、分かれて瓜洲・儀真を掠め、盱眙を破った。良玉は堅く救うことを肯ぜず、中州の士大夫に合疏して己を留めさせた。帝は良玉の意より出づるを知り、奪うこと能わず。十月、総理熊文燦が安慶に至り、部檄を以て良玉の軍をこれに隷属させたが、良玉は文燦を軽んじて用いなかった。
十一年正月、良玉は総兵陳洪範とともに鄖西にて賊を大破した。張献忠は官軍の旗号を仮りて南陽を襲い、南関に屯した。良玉は丁度到着し、疑って急ぎこれを召したので、献忠は逃げ去った。追い及んで、両矢を発し、その肩に中て、また刀を揮ってこれを撃ち、顔面に流血した。その部下が救って免れ、遂に穀城へ逃れた。未だ幾ばくもせず、降伏を請うた。良玉はその偽りを知り、力を尽くしてこれを撃たんことを請うたが、文燦は許さず。九月、文燦は鄖州・襄陽の諸賊を剿討し、良玉は洪範及び副将龍在田とともに双溝営にてこれを撃破し、二千余級を斬首した。十二月、河南巡撫常道立は良玉を陝州に調した。賊は盧氏の虚に乗じ、内郷・淅川へ遁入した。この月、許州に兵変が起こり、良玉の家は許州に在りて、殲滅された。
初めに、左良玉は平賊将軍の印綬を受け、次第に驕慢となり、督師の制約を受けようとしなかった。一方、賀人龍はたびたび賊を破って功績を挙げ、楊嗣昌はひそかに人龍に良玉に代わることを約束した。良玉が瑪瑙山の勝利を奏上すると、嗣昌は人龍に後の命令を待つよう告げた。人龍は大いに恨み、以前の言葉をことごとく良玉に告げると、良玉も内心恨んだ。張献忠が敗走した時、追撃が迫りかかると、献忠はその党の馬元利に重宝を持たせて良玉を誘い、言った、「献忠がいるからこそ、貴公は重用されるのである。貴公の部下は多く殺掠を行い、閣部(楊嗣昌)は猜疑心が強く専断的である。献忠がいなければ、貴公もまもなく滅びるであろう」。良玉は心を動かされ、献忠を見逃してやった。監軍の萬元吉は良玉が跋扈して使いものにならないと知り、嗣昌に前軍に賊を追撃させ、後軍をこれに続かせ、自らは間道から梓潼に出て帰路を扼し、援軍の到着を待つよう勧めたが、嗣昌は用いなかった。賊がすでに蜀の巴州に入ると、人龍の兵は騒ぎ立てて西へ帰った。良玉の兵を召し寄せて合撃しようとしたが、九度檄を発してもついに来なかった。
十四年正月、諸軍は賊を開県の黄陵城まで追撃した。参将劉士傑が深く入り、当たる所はことごとく靡いた。献忠は高みに登って眺め、秦人の旗幟がなく、良玉の兵の前部に闘志がなく、ただ士傑が孤軍であるのを見た。そこで密かに壮士を選び篠竹の谷を潜行させ、高みから乗じて大声で叫びながら駆け下らせると、良玉の兵は先に潰走し、総兵猛如虎は包囲を破って脱出した。嗣昌はようやく元吉の言を用いなかったことを悔いたが、献忠はすでに席巻して川を出、西は新開駅を遮断し、楚と蜀の消息は中絶し、ついに計略を用いて襄陽城に入った。襄王が捕らえられ、嗣昌は食を絶って死んだ。賊が瀕死の状態から再び放たれ、ついに国を亡ぼすに至ったのは、良玉が平素驕慢で命令に従わなかったためである。二月、詔して良玉を官職を削り罪を戴かせ、賊を平定して自ら贖罪させた。五月、献忠は南陽を陥とし、すぐに沁陽を攻めてこれを破った。良玉が南陽に至ると、賊は逃げ去った。良玉は兵士を統制せず、賊から脱した沁陽の人々は、官軍に遇えば生き残る者はなかった。やがて献忠は鄖西を陥とし、地を掠めて信陽に至り、たびたび勝利して驕った。良玉はそこで南陽から進兵し、再びこれを大破し、その数万の衆を降した。献忠は股に傷を負い、重傷を負って夜に逃げた。この時、李自成はちょうど襄城を破壊し、良玉を郾城に包囲して、ほとんど陥落させようとした。ちょうど陝西総督汪喬年が関を出たので、自成は包囲を解き、喬年と襄陽城外で戦った。喬年の軍はことごとく覆没し、良玉は救うことができなかった。帝はすでに賀人龍を斬って軍を粛正し、専ら良玉に賊を討たせることに頼った。
十五年四月、自成が再び開封を包囲すると、かつて良玉を推薦した元尚書の侯恂を獄から釈放し、督師として起用し、国庫の金十五万両を出して良玉の営の将士を犒労し、激励した。良玉と虎大威、楊德政は硃仙鎮で会師し、賊の陣営は西に、官軍の陣営は北にあった。良玉は賊の勢いが盛んなのを見て、一夜のうちに陣営を引き払って逃げ、諸軍はこれを見てことごとく潰走した。自成は士卒に戒めて良玉の兵が過ぎるのを待ち、後からこれを撃った。官軍は幸いにも追撃が緩やかだったので、八十里を疾駆した。賊はすでにその前に深さ広さ各二尋の塹壕を穿ち、百里を環繞し、自成はみずから衆を率いて後ろを遮った。良玉の兵は大いに乱れ、馬を下りて溝を渡り、溪谷に倒れ伏し、その頭を踏みつけて過ぎた。賊はこれに従って蹂躙し、軍は大敗し、馬騾一万匹を棄て、器械は数え切れず、良玉は襄陽に逃げた。帝は良玉の敗北を聞き、詔して恂に河を拒いで賊を図らせ、良玉に兵を率いて来て会うよう命じた。良玉は自成を恐れ、遷延して来なかった。九月、開封は河の決壊によって滅びた。帝は恂を怒り、その官を罷免したが、良玉を罪にすることはできなかった。開封がすでに滅びると、自成は得る所がなく、急いで兵を率いて西へ向かい、襄陽を抜いて根本としようと謀った。
この時、良玉は樊城に陣を構え、大いに戦艦を造り、襄陽一郡の人々を駆り立てて軍を充実させ、諸々の降賊がこれに附き、二十万の衆を擁した。しかし親軍の愛将の大半は死に、降人は制約に従わず、良玉も次第に衰え病が多く、もはや自成と対抗できなくなった。自成は勝ちに乗じて良玉を攻め、良玉は兵を退けて南岸に陣し、水寨を結んで相持し、一万人をもって浅洲を扼した。賊兵十万が争って渡河しようとしたが、阻むことができなかった。良玉はそこで夜に逃げ、その舟師を率い、左に歩兵、右に騎兵を従えて下った。武昌に至り、楚王に二十万人分の兵糧を請い、言った、「私が王のために境を保ちましょう」。王は応じず、良玉は兵を放って大いに掠奪し、火の光は江中を照らした。宗室や士民は山谷に奔り逃げ、多くは土寇に害された。駅伝道の王揚基は門を奪って出たが、良玉の兵はその財産を掠め、その子女にまで及んだ。十二月二十四日に武昌に着き、十六年正月の中旬まで、兵はようやく去った。住民は蛇山に登って眺め、生き返ったように叫び、「左兵が過ぎた!」と言った。良玉がすでに東へ向かうと、自成はついに承天を陥とし、傍らの諸州県を掠めた。
この時、降兵や叛卒はおおむね左軍の号を借りて恣に剽掠し、蘄州守将の王允成が乱の首となり、建徳を破り、池陽を劫略し、蕪湖から四十里の所で、舟を三山、荻港に泊め、漕運の船や塩の船をことごとく奪って兵を載せた。諸将が南京に財貨を預けていると声言し、親信三千人を連れて行くことを請うた。南京の諸文武官や操江都御史は江上に陣を陳べて守禦に当たった。士民は一晩に数度も移り、商旅は行かなかった。都御史李邦華は召されて、湖口を通り、檄文を草して良玉に告げ、危険な言葉で動かした。そして安慶巡撫に命じて九江の庫銀十五万両を出し、六月分の兵糧を補わせると、軍心はようやく定まった。邦華は入朝して帝に拝謁し、良玉の潰兵の罪を論じ、王允成に罪を帰するよう請うた。帝はそこで良玉に允成を誅殺させ、その変を定める能力を褒賞した。良玉はついに允成を軍中に留め、誅殺しなかった。良玉は安慶に長く留まり、ゆっくりと九江を溯上した。献忠が湖広を破り、楚王を江に沈めたと聞くと、坐視して救わなかった。
八月になってようやく武昌に入り、軍府を立てて招き寄せ、下流はほぼ定まり、副将の呉学礼に命じて袁州を救援させた。江西巡撫の郭都賢はその淫掠を憎み、檄を発して帰還させ、自ら土人を募って戍守に当たらせた。ちょうど賊が長沙、吉州を陥とし、さらに袁州、岳州を陥とすと、良玉は馬進忠を遣わして袁州を救援させ、馬士秀を遣わして岳州を救援させた。士秀は水師を率いて岳州城下で賊を破り、二城はついにともに回復した。この時、帝は兵部侍郎の呂大器に命じて侯恂に代わって総督とし、恂は任を解かれ、途中で捕らえられて獄に下された。良玉はこれが自分のためであると知り、心に不平を抱き、大器と齟齬をきたした。賊は連続して建昌などの府を陥とし、大器には兵がなく救えず、良玉も救援しなかった。進忠は賊と嘉魚で戦い、再び失利し、良玉の軍はついに振るわなくなった。ちょうど献忠が荊河から蜀に入ると、良玉は兵を遣わしてこれを追い、荊州から七十里の所まで迫った。荊、襄の諸賊は自成が関に入ったため、ことごとく緩んだ。良玉は偵察して知ると、副将の盧光祖を遣わして随、棗、承徳に向かわせ、一方で恵登相は均、房から、劉洪起は南陽から、賊の背後を掎い、その空虚な地を収めて自らの功とした。
十七年三月、詔して良玉を甯南伯に封じ、その子の左夢庚に平賊将軍の印綬を与え、功績が成れば武昌を世襲で守らせた。給事中の左懋第に命じて近道から戦を督させると、良玉は月日を条記した進兵の状況を上奏して聞かせた。上疏が入ったが、まだ旨を奉じないうちに、京師が陥落したと聞き、諸将は騒然として、江南に自立した君があるとして、兵を率いて東下するよう請うた。良玉は慟哭し、誓って許さなかった。副将の馬士秀は奮って言った、「公の命令を奉じず、また東下を言う者があれば、私がこれを撃つ!」。巨艦に砲を置いて江を遮断すると、衆はようやく定まった。
福王が即位すると、左良玉を侯に封じ、一子を錦衣衛正千戸に世襲させ、また黄得功・高傑・劉澤清・劉良佐を諸鎮に封じて、皆子に世襲を許し、上流の事を専ら左良玉に委ね、まもなく太子太傅を加えた。時に李自成が関門で敗れ、左良玉はその隙に楚西境の荊州・徳安・承天を少しずつ回復した。湖広巡撫何騰蛟及び総督袁継咸は江西に在り、皆左良玉と親しく、南都は彼らを遮蔽として頼った。
左良玉の兵は八十万、号して百万、前五営は親軍、後五営は降軍。春秋毎に武昌の諸山で練兵し、一山に一色の旗を立て、山谷を満たした。軍法は二人で馬を挟んで馳せることを「過対」と称した。馬の足が地を動かす響きは雷の如く殷々として、数里に聞こえた。諸鎮の兵は高傑が最も強かったが、左良玉には遠く及ばなかった。然し左良玉は朱仙鎮の敗戦以来、精鋭はほぼ尽き、その後帰順した者は多く烏合の衆で、軍容は壮んでも法令はもはや畏怖させられなかった。左良玉の家族は許州で殲滅され、武昌では諸営が優娼歌舞を朝まで続けたが、左良玉は塊然として独り居り、妾侍もいなかった。嘗て夜に僚佐を宴し、営妓十余人を召して酒を行わせ、履と杯が交錯したが、しばらくして左を顧みて咳をし、順次引き出させた。賓客は粛然とし、左右は敢えて仰ぎ見る者もなかった。その統御には体があり、下に服されることは多くこの類であった。而してこの時、左良玉は既に老いて病み、中原を望む意はなかった。
初め、左夢庚が自立すると、偽って袁継咸に池州で旨を待つよう言った。池州に着くと、袁継咸は密かに上疏して奏聞したが、道が塞がれて届かなかった。恵登相という者は、初め賊であったが、降った後、左良玉の副将となった。諸軍は彭沢より下り、連続して建徳・東流を陥とし、安慶城を破壊したが、池州だけは破らず、恵登相に書を送り「これを留めて後軍を待つ」と言った。恵登相は大いに罵って曰く「もしそうなら、我は前に流賊であった時よりも劣るではないか、先帥の遺命をどうするのか」と。その軍に檄して返させた。左夢庚は黒旗の船が西上するのを見て、軽舟を索めて追い付き、恵登相と相見て大いに慟哭した。恵登相は左夢庚が事に足りぬと見て、兵を率いて江を渡って去り、諸将はそこで師を返すことを議した。時に大清兵は既に泗州を下し、儀真に迫っていた。左夢庚は遂に黄澍と共に衆を率いて九江で降った。
鄧玘は四川の人。天啓初年、軍に従い、功を積んで守備となる。安邦彦が反すると、鄧玘は賊を織金に追い、勇は諸将に冠した。已にして、織績河濱で敗る。魯欽が敗死し、賊が威清を犯す。鄧玘は夜に営を斬って賊を走らせ、都司僉書に進む。苗酋李阿二を討って敗る。貴州での用兵以来、裨将楊明楷・劉志敏・張雲鵬は共に驍勇であったが、大将となることができず、ただ鄧玘のみが功名を聞かせた。
崇禎初年、累遷して四川副総兵となり、侯良柱と共に安邦彦を斬る。京師に警報あり、六千人を率いて勤王し、共に遵化・永平の四城を回復する。署都督僉事を加え、世襲千戸を許される。尋いで総兵官に擢てられ、遵化を鎮守する。喜峰口及び洪山で戦い、共に功があり、進んで真の官秩となる。五年春、叛将が登州・萊州で乱し、王洪らは功が無い。鄧玘自ら行くことを請い、援剿総兵官に命じられ、王洪及び劉国柱と賊を沙河で防ぎ、戦いは互角であった。已にして遁走し、賊がこれに乗じ、大敗する。尋いで諸将金国奇らと共に登州・萊州の二城を回復し、功を録して署都督同知に進む。
鄧玘は遵化に長く戍り、帰郷を思う。登州・萊州の事が終わると、またそのことを言う。会に賊が河北に入り、言者が鄧玘に剿討を命じるよう請うと、鄧玘は怏怏として行く。給事中範淑泰が鄧玘が民を虐げると劾すが、帝は問わず、間もなく近侍を遣わしてその軍を監させる。鄧玘は済源に至り、王自用を善陽山で射殺す。即ち賊の紫金梁である。間もなく、賊が磁州に迫り、彭城鎮でこれを拒ぎ退ける。左良玉と賊を清池・柳荘で撃ち、賊は林県に走る。鄧玘の部将楊遇春が賊を邀え撃つが、伏兵に中り死す。賊はその旗を用い、また他将を誘い殺し、ここに至って鄧玘を軽んじる。俄かに左良玉と賊を沙河に逐い、賊が湯陰を囲むと、鄧玘は土樵窩に包囲され、左良玉が救って初めて免れる。已にして、共に賊を官村・沁河・清化・万善で破り、師を畿南に移し、賊を白草関で敗る。賊が平山を犯すと、紅子店・馬種川でこれを敗る。賊が青石嶺に遁れると、紅澗村・酔漢口でこれを敗る。賊が臨城を犯すと、魚桂嶺でこれを敗る。
この時、賊は河溯から畿南に蔓延し、天子は特に倪寵・王樸を遣わして京軍を将いさせ、また保定の梁甫、河南の左良玉、湯九州が鄧玘の軍と合わされば賊を殲滅するに足りた。群帥の勢いは互いに軋み、彼此に観望し、山深く道が岐れることを託りに弁解し、先に入ることを利とせず、賊は遂に澠池より南渡した。而して諸帥は各々近侍を中軍としており、事は掩飾し易く、報告する功績は多く実を以てしなかった。十一月、賊は南に遁れ、鄧玘は追撃して澠池の扣子山でこれを敗り、宜陽・盧氏に至って還る。この月、鄧玘を保定総兵官とし、梁甫に代わる。
七年正月、賊が尽く鄖陽・襄陽に入ったため、鄧玘に援剿を命じ、南漳の包囲を解かせる。尋いで賊を胡地沖で敗り、闖天王・九条龍・草上飛・抓山虎・双翼虎を斬る。房県・竹山・南漳の賊を剿討し、獅子崖・石漳山で戦い、一隻虎・満天飛を斬る。已にして、賊を洵陽の乜家溝で撃ち、連戦連勝し、首功一千余りを獲る。八月、五峰山の賊破りの功を叙し、右都督に進む。鄧玘は軍を馭するに善くなく、軍心もまた附かず、鄖西で騒ぎ、鄧玘は河を渡ってこれを避け、総督陳奇瑜が犒労慰撫して初めて定まる。陳奇瑜が諸将を集めて竹山・竹溪の諸賊を討つと、鄧玘は頻りに功があった。十一月、賊が大いに河南に入り、鄧玘に援剿を命ず。
八年春、賊が新蔡を陥とし、知県王信が賊を罵って死す。鄧玘は賊を羅山で追撃して敗る。この時、賊が鳳陽を陥とし、鄧玘に黄州より速やかに安慶を救援するよう命ず。桐城が包囲された時、遂に至らなかった。御史銭守廉が鄧玘が賊を羅山で剿討し、良民を殺して功に冒すと劾し、総督洪承疇にこれを核実させる。四月、洪承疇は汝州に至り、鄧玘に樊城を戍らせ、漢江を防がせる。この月、部将王允成が糧餉を削ったことに怒って騒ぎ、鄧玘の二人の僕を殺す。鄧玘は懼れ、楼に登り牆を越えて地に堕ち死す。
玘は小校から身を起こし、大小数百戦に及び、向かうところことごとく勝利した。長く戍守して不満を抱き、その部下に淫掠を恣にさせた。大学士王応熊が郷里の縁故で彼を庇護したため、玘はますます畏れるところがなくなった。その死は、人々が刑罰を免れたものと見なしたという。
賀人龍は米脂の人である。初め守備として延綏巡撫洪承疇の麾下に属した。崇禎四年、承疇が賊の降伏を受け、人龍に命じて酒を振る舞わせ、伏兵で三百二十人を撃ち斬らせた。その冬、張福臻が承疇に代わり、人龍を遣わして賊の党雄を剿討させ、二百余りを斬獲した。翌年夏、福臻に従い賊の孫守法を生け捕った。その秋、配下の兵を率いて山西の援剿に赴いた。六年春、総兵尤世祿とともに遼州を回復した。やがて、賊を垣曲・絳県で破った。都司僉書に進んだ。さらに続けて賊を水頭鎮・花池塞・湯湖村で破った。山西の賊がほぼ尽きたため、陝西に戻った。巡撫陳奇瑜に従い延川の賊を討ち平らげ、千余りを斬り、あるいは捕らえた。奇瑜が総督に抜擢されると、人龍を従えた。
七年四月、賊を隰州で撃ち、克天虎を生け捕り、参将に進んだ。奇瑜が賊を鄖・襄・興・漢に追撃するのに、人龍もともに功があった。賊が車箱峡を脱出し、隴州を陥落させて西去すると、奇瑜は人龍を遣わして救援させた。隴州に入ったばかりで、李自成が再び到来し、包囲攻撃した。人龍が同郷であるため、その将高傑を遣わして書を送り反逆を命じたが、人龍は返答しなかった。二ヶ月間堅守し、左光先の救援が到着して、包囲がようやく解けた。十二月、賊を中荘で破った。翌年正月、鳳陽が陥落し、総督洪承疇が人龍を急派して救援させ、賊を睢州で破った。副総兵に進んだ。承疇は陝西が危急であるため、人龍を率いて関中に入った。商・洛の賊馬光玉らが西安に迫り、大軍から五十里の距離であった。承疇は人龍に命じて子午谷に入り、賊を南から遮断させ、別将の劉成功・王永祥に北から遮断させ、張全昌に咸陽から興平の東を迂回させた。賊はこれにより南へ逃げられず、ことごとく武功・扶風へ走り、さらに渭水を渡って郿県へ走った。承疇は王渠鎮まで追撃し、賊はちょうど南山を掠めていた。人龍・成功らがこれと戦い、三十里追撃して大泥峪に至り、賊は馬を捨てて山に登って逃げた。七月、高迎祥・張献忠が秦安・清水を掠め、人龍は全昌とともに張家川でこれを破った。やがて戦いに敗れ、都司田応龍らが戦死した。八月、高傑が降伏し、承疇は人龍と遊撃孫守法に命じて彼を挟み富平へ急行させ、夜に乗じて賊を撃破した。人龍はまもなく延綏を守備することに移った。
九年七月、巡撫孫伝庭に従い賊を盩啡で大破し、迎祥を生け捕った。九月、恵登相らが宝鶏に屯し、承疇は人龍らを遣わして往撃させ、賈家村で戦った。追撃中、賊に遮断された。川将の曾栄耀らが来援したが敗れて去り、人龍は官を剥奪され、功を立てて贖うこととなった。十年、小紅狼が漢中を包囲し、瑞王が危急を告げた。承疇が人龍の兵を率いて両当から救援に急行すると、賊は包囲を解いて去り、詔により人龍の官を復した。徽州・秦州から逃れた賊が東へ平涼・鳳翔に向かい、人龍は柳林まで追跡したが、戦果を挙げられなかった。賊が西安を窺うと、人龍がこれを防ぎ、多くを斬獲した。その冬、自成・登相が四川に入り、承疇は人龍らを率いて往援した。年末に広元に至ったが、賊はすでに成都に迫っており、自成は別途松潘から陝西に戻った。
十一年、承疇は人龍らを督して階州・文県から窮追し、自成は西羌の地界に逃げ込み、人龍は曹変蛟らと二十七日間大戦した。自成は残兵を率いて塞内に入り、山中に潜伏し、四川に入ろうと謀ったが、人龍と馬科に追撃された。漢中に突進したが、左光先に阻まれた。その党の祁総管が降伏し、自成はほとんど滅亡した。詳細は『変蛟伝』にある。その冬、京師が戒厳となり、人龍を総兵官に抜擢し、師を率いて入衛させた。人龍の配下には降賊が多く、山西に至って騒動を起こしたが、まもなく鎮撫平定した。京師に到着し、変蛟らとともに太平で捷を奏した。翌年事態が収まり、陝西に戻った。その秋、張献忠・羅汝才が叛き、陝西に入ろうと謀った。人龍と副将李国奇らが興安でこれを阻んだため、賊は川東に入った。楊嗣昌が檄を飛ばし、陝西総督鄭崇儉に人龍・国奇の軍を率いて会剿させた。十二月、人龍が賊を撃ち、大いにこれを破った。
十四年三月、嗣昌が没し、丁啓睿が代わると、人龍・国奇に出撃を命じて当陽に出し、霊宝山中で自成を撃破した。人龍の子の大明が戦死した。九月、総督傅宗龍が人龍・国奇の軍を統率して関を出、新蔡に駐屯し、孟家荘で賊に遭遇した。戦おうとした時、人龍が先に逃走し、国奇は戦って勝てず、やはり逃走し、宗龍はついに戦死した。十五年正月、総督汪喬年が関を出て賊を撃ち、人龍と鄭嘉棟・牛成虎が従った。襄城で賊に遭遇し、またも戦わずして逃走し、喬年もまた戦死した。帝は大いに怒り、彼を誅殺しようとしたが、変事を起こすことを慮り、暫く職を奪い、罪を戴いて職務を見させることにした。孫伝庭が陝西で督師すると、帝は意を授けた。人龍は咸陽に駐屯して禍を憂い、昼夜備えを固めた。伝庭は人龍の家が米脂であり、その宗族の多くが賊中にいるため、軽々しく手を出せないと考え、道中で偽って上疏して言った、「人龍は臣の旧将であり、その罪を赦し、臣に従って自ら効力を尽くさせたい」。帝もまた偽ってこれを許した。人龍は少し安心した。伝庭が陝西に至り、密かに巡撫張爾忠と謀り、五月朔日に人龍を召し出して事を議し、その罪を数え上げて斬った。その部将周国卿は精兵二百人を率いて、同党の魏大亨・賀国賢・高進庫らとともに逃れて涇陽に戻り妻子を取ろうとし、賊とともに乱を起こそうとした。爾忠は参将孫守法を先に涇陽に入らせ、その妻子を人質に取らせた。国卿は窮し、大亨らを斬って降伏しようと謀った。爾忠は密かにこれを大亨に知らせたため、大亨は国卿を斬り、その首を箱に入れて送った。他の部将高傑・高汝利・賀勇・董学礼ら十四人はいずれも元の官のままとし、一軍はようやく安定した。
十五年、人龍は罪により誅殺され、傑を実授の遊撃に任ずる命が下った。十月、陝西総督孫伝庭が南陽に至ると、自成と羅汝才は西進してこれを迎え撃った。伝庭は傑と魯某を先鋒とし、塚頭で遭遇し、大戦して賊を破り、六十里を追撃した。汝才は自成の敗北を見て救援に来、官軍の背後に回り出た。後軍の左勷が賊を見ると、恐れて先ず逃走し、諸軍も皆逃げ、遂に大敗したが、傑の失った兵は特に少なかった。
十六年、副総兵に進み、総兵白広恩と共に軍の先鋒となった。二人は共に降将である。広恩は凶暴で、元来命令に従わず、傑は特に凶暴であった。朝廷は傑が自成に深く恨まれているため、伝庭に隷属させて賊を討たせた。九月、伝庭に従い宝豊を陥落させ、郟県を回復した。時に官軍は勝ちに乗じて深く侵入し、食糧が欠乏した。降将李際遇が賊に内通し、自成が精鋭騎兵を率いて大挙して来襲した。伝庭が諸将に計を問うと、傑は戦いを請い、広恩は不可とした。伝庭は広恩を臆病と見なし、広恩は快からず、配下の兵を率いて遁走した。官軍が交戦すると、伏兵の中に陥った。傑が嶺の上に登ってこれを見て言うには、「支えられぬ」と。またも麾下の兵を率いて退却した。軍は遂に大いに敗走し、死者数万に及んだ。広恩は汝州に逃げて救援せず、傑は伝庭に従って河北に逃れた。やがて山西より黄河を渡り、転じて潼関に入ったが、広恩は既に先に到着していた。十一月、自成が関を攻めると、広恩は力戦した。しかし傑は宝豊の敗戦で広恩が己を救援しなかったことを怨み、またも兵を擁して救援しようとしなかった。広恩が戦いに敗れ、関は遂に陥落し、伝庭は殺された。自成は西安を陥落させ、これを占拠した。傑は北へ延安に逃れ、賊将李過が傑を追撃した。傑は東へ宜川に逃れ、河の氷が丁度合わさったので、渡河し、蒲津に入って守った。賊が到着すると、氷が解けて渡れず、難を免れた。広恩は既に敗れ、固原に逃れたが、賊将に追いつかれ、遂に城を挙げて降伏した。十七年、傑を総兵に進めた。帝は総督李化熙に命じて傑の兵を率い山西を急援させたが、蒲州・平陽は既に陥落して久しく、傑は沢州まで退き、沿道で大いに掠奪したため、賊は遂に太原に迫った。
京師が陥落すると、傑は南へ逃れ、福王は傑を興平伯に封じ、四鎮の一つに列し、揚州を領し、城外に駐屯させた。傑は固より城内に入ろうとし、揚州の民は傑を恐れて受け入れなかった。傑は城を急攻し、日に郊外の村の婦女を掠奪したため、民はますます憎悪した。知府馬鳴騄・推官湯来賀は一ヶ月余り堅守した。傑は攻め落とせぬと知り、やや気を緩めた。閣部史可法が瓜州を傑に与えることを議し、ようやく止んだ。九月、傑に命じて徐州に移駐させ、左中允衛胤文を兼ねて兵科給事中とし、その軍を監して西征させた。徐州の土賊程継孔が捕らえられ京師に送られたが、李自成の乱に乗じて逃げ帰った。十二月、傑はこれを捕らえて斬った。太子少傅を加えられ、一子に蔭官を授け、世襲の錦衣衛僉事とした。
初め、傑は土橋で黄得功を伏兵で邀撃し、得功は危うく死を免れず、両鎮は遂に互いに仇怨を抱き、事は『得功伝』に見える。傑が揚州を争った時、可法は大いに窘迫させられた。この時至り、傑は可法の忠誠に感じ入り、彼と共に回復を謀った。得功と劉沢清の二鎮を邳州・宿州に調遣して河を防がせ、傑自ら兵を提いて直ちに帰徳・開封に向かい、かつ宛・洛・荊・襄を窺い、根本と為すことを議した。遂に上疏を具してこれを上奏し、言葉は激切であった。かつ云うには、「得功と臣はなお以前の事をこだわっている。臣は君に報い恥を雪ぐことを知るのみで、どうして同列と優劣を較べることができようか」と。しかし得功は終に傑の後詰めとなることを欲せず、沢清は特に狡猾横暴で任に堪え難かった。可法は已むなく、劉良佐を徐州に赴かせ傑と声援を為させた。
傑は人となり淫乱で残忍であり、揚州の民はその死を聞き、皆互いに祝賀した。しかしこの出陣は、進取の意志が非常に鋭かったため、当時にこれを惜しむ者もいた。初め朝廷は諸鎮に国政に関与することを許したため、傑はたびたび上奏して賊に降った者を救済し、及び武愫を獄から釈放することを請うたが、許されなかった。さらに上疏して呉甡・鄭三俊・金光辰・姜埰・熊開元・金声・沈正宗らを推薦した。大抵その時の武臣の風潮は多くこの類いであった。傑の死後、太子太保を追贈され、その子元爵が興平伯を襲封した。
十六年二月、賊が開封を長く包囲したため、沢清は救援に赴いた。硃家寨が汴(開封)から八里の地点にあり、五千人を率いて南渡し、河を頼りに寨を築き、疏水してこれを囲み、順次八つの寨を築いて大堤に達し、甬道を築き、城中に糧秣を送ろうとした。壁塁が未完成のうちに、賊が争って来襲した。三日間相持し、互いに死傷者を出した。沢清は即ち命じて営を撤去させ、慌てふためいて奔り逃げ、兵士は舟を争い、多く溺死者を出した。
澤清は性質が臆病で、私心を抱いて形勢を窺っていた。かつて虚偽の大捷を報告して賞賜を求め、また偽って落馬して負傷したと称し、詔により薬代として四十両を賜った。保定へ賊を討伐せよとの命を受けたが従わず、日々臨清を大いに掠奪した。兵を率いて南下し、至る所で焼き払い略奪して一物も残さなかった。賊の気勢が日に日に急迫すると、給事中韓如愈・馬嘉植はいずれも使者として南帰することを計画した。如愈はかつて澤清を弾劾したことがあり、東昌を過ぎた時、澤清は人を遣わして道中でこれを殺害させ、敢えて上奏する者はいなかった。
京師が陥落すると、澤清は南都に走り、福王は彼を諸鎮の一人とし、東平伯に封じて廬州に駐屯させた。当時、武臣はそれぞれ分地を占拠し、賦税の収入を上供せず、その使用を恣にし、封疆や兵事については一切問わなかった。廷臣と互いに党派を分けて援護し合い、朝政に干預し、異己を排擠し、奏牘が乱れ飛び、紀綱はことごとく断裂したが、澤清の言うことは特に狂悖であった。王が即位した当初、ただちに靖康の故事を引き合いに出し、今年の五月に改元するよう請い、また故輔周延儒の軍資金調達の贓銀を赦免するよう請うた。都御史劉宗周が諸将の跋扈の状を弾劾すると、澤清はすかさず二度にわたり上疏して宗周を弾劾し、かつ「上もし宗周を誅せば、臣は即時に職を解く」と言った。朝廷はやむなく、穏やかな詔でこれを諭した。また巡按が贓物を追及して逮捕・尋問することを禁じるよう請い、法司に故総督侯恂とその子方域を厳しく緝捕するよう請うたが、朝廷はいずれも意を曲げてこれに従った。
澤清は文芸にかなり通じ、詩を詠むことを好んだ。かつて客を招いて酒を飲み、詩の唱和をした。幕中に二匹の猿を飼い、名を呼べばすぐに来た。ある日、その故人の子を宴に招き、金甌に酒を酌んだ。甌は三升ほど入り、猿を呼んで酒を捧げさせ、客に跪いて進めた。猿は非常に獰猛で、客は震え上がり、躊躇して取ろうとしなかった。澤清は笑って「君は怖がっているのか」と言い、囚人を取って階下で撲殺させ、その脳と心肝をえぐり取り、甌の中に入れて酒と混ぜ、猿に持たせて前に進ませた。飲み干すと、顔色は平然としていた。その凶暴残忍なことは多くこの類であった。
祖寬は遼東の人である。若い頃から勇力があった。祖大壽の家に給仕し、軍に従って功績を挙げ、累進して寧遠参将となった。配下の兵卒は塞外の降人が多く、向かうところ克捷した。
崇禎五年七月、叛将李九成らが萊州を急に包囲したため、詔して関外の兵を発してこれを討たせた。寬は靳國臣・祖大弼・張韜とともに兵を率いて昌邑に到着した。巡撫硃大典が賊の書簡を入手し、寬らを内応させる約束をしていたので、これを寬らに見せた。皆、賊を滅ぼして自らの潔白を証明すると誓い、そこで寬・國臣を前鋒に用いた。寬が沙河で賊と遭遇した時、衆寡敵せず、やや退いた。ちょうど國臣が到着し、刀を抜いて大声で叫び真っ直ぐ前に進み、寬・大弼・韜はいずれも必死に戦い、賊兵を大いに破り、敗走する賊を追って城下に至り、ただちに萊州の包囲を解いた。その月の晦日、黄縣に進軍した。賊が巣窟を挙げて出戦したが、寬らは再びこれを大いに破り、そこで劉澤清らとともに長囲を築いて登州を包囲した。翌年二月、賊はようやく平定された。詳細は『大典傳』にある。寬は包囲を解いた功績により、都督僉事に進んだ。さらに功績を叙し、外衛副千戸の世襲を賜り、副総兵に進んだ。
八年秋、援剿総兵官に任じられ、関外兵三千を督いて流賊を討つこととなった。十月に河南に至り、巡撫陳必謙・監紀推官湯開遠は左良玉とともに霊宝に進むよう命じた。到着すると焦村で張献忠を挫いた。まもなく高迎祥・李自成が到着し、献忠と合流して閿郷を攻めた。寬が救援に向かうと、賊は包囲を解いて霊宝に向かい、良玉と寬の軍の連絡を断ち、そこで東進して陝州を陥落させ、洛陽を攻めた。良玉と寬が到着すると、迎祥・自成・献忠はいずれも逃走した。良玉は迎祥を追撃し、寬は分かれて献忠を撃ち、夜、副将祖克勇らを督いて葛家莊に向かい、黎明に賊と遭遇してこれを大破した。賊は嵩県九皋山に奔ったが、寬は二軍を山溝に伏せてこれを誘った。賊が下りてくると、伏兵が現れ、九百余りの首級を斬った。まもなく副将劉肇基・羅岱と汝州圪料鎮で賊に遭遇し、再び賊を大いに破り、二十余里にわたって屍が横たわり、千六百余りの首級を斬った。献忠は憤慨し、迎祥・自成の兵と合流し、寬と龍門・白沙で戦い、官軍を二つに分断した。寬は自ら後衛を務め、士卒は必死に戦い、朝から夜半まで戦い、再び大勝し、一千余りの首級を斬った。迎祥と自成はそこで光州を窺うために逃走し、寬は副将李輔明を督いてその後を追った。賊は確山を攻撃して逃走したが、寬らは馳せて救援し、これを大破し、五百八十余りの首級を斬った。自成らはそこで東進して廬州に走り、七昼夜にわたって包囲攻撃した。翌年正月、寬らが到着すると、賊は全椒に奔り、そこで滁州を包囲した。南京太僕卿李覚斯・知州劉大鞏が力戦してこれを防いだ。そして寬らの軍が到着し、奮撃して大声で叫ぶと、諸軍は一もって百に当たるものなく、朝から夕方まで戦い、賊は大敗した。城東五里から関山の硃龍橋まで追撃し、横たわる屍が枕を並べ、川の流れが止まった。二月、また総理盧象升とともに賊を七頂山で破り、自成の精鋭兵卒をほとんど殲滅した。象升が軍を南陽に移すと、寬に鄧州を守備させた。ちょうど賊が漢江を渡り、鄖・襄に入り、残党三萬が内郷・淅川の山中に潜伏した。象升は寬と祖大樂らに命じて山中に入り捜索討伐させた。
辺軍は強悍で頑なであり、性質が他の兵卒と異なり、法で律することができなかった。以前の官軍は関中の人が多く、賊と同郷であり、陣前で労をねぎらい、捕虜を放ち、輜重を捨てて、すぐに逃がしてやり、これを「打活仗」と呼んだ。辺軍は言葉が通じず、賊に逢えば即座に殺すので、勝つことが多かった。しかし通過する所で家屋を焼き、婦女を犯し、功績を恃んで収まらず、また野戦を得意とし、山捜しを忌み嫌い、かつ賊が遠くに逃げるのを見て、十日や一月では平定できないと考え、自らを客将とみなし、持久する心がなかった。寬の兵卒がちょうど河を渡った時、騒ぎ立てて逃亡した。象升が再三激励して説得して、ようやく命令に従った。黨子口に至っても、依然として甲を按じて進まなかった。そして総兵李重鎮はもともと臆病で、責任を逃れようと望み、兵士たちはますます帰郷を思った。象升はそこで山中に入って捜索剿滅することの難しさを力説し、寬と重鎮に関中へ赴いて賊を討たせるよう請うた。ちょうど総督洪承疇もこれを請うたので、寬らはそこで軍を移して陝西に赴き、承疇の麾下に属した。八月、京師が兵乱に遭い、召還されて守衛に当たった。滁州の功績を記録し、右都督に進み、銀幣を賜った。事態が落ち着くと、寧遠に赴き協力して守備するよう命じられた。
十一年冬、詔して寬に師を率いて畿輔を救援させた。山東が危急を告げた時、寬は逗留した。翌年正月、済南が失陥すると、官職を剥奪され逮捕され、藩封を失陥した罪に問われ、ついに市で斬首に処された。
寬は敢戦して功績があり、驍将と称された。性質が剛直で気性が激しく、文吏に好かれず、ついに大辟の刑に至り、論じて救う者はいなかった。
賛して言う。左良玉は驍勇の才をもって、しばしば大賊を殲滅し、ついに強兵を擁するに至り、驕り高ぶって自ら恣にし、緩やかな時は賊を養って憂いを残し、急な時は甲を棄てて潰走を招いた。当時、命令に従わない罪で諸将を罰することは屡々あったが、良玉は傲慢で事を敗りながら、刑罰を正されず、姑息が禍患を醸成し、ついに兵を挙げて闕を犯すに至っても顧みなかったのである。高傑・祖寬はいずれも剛悍で馴らし難く、功を恃んで収まらず、傑は特に凶驁であった。しかし傑は鋭意進取の時に殺害され、寬は力戦して救援に向かった後に誅殺され、死はその罪に非ず、遺憾なしとしないのである。