○金國鳳(楊振・楊國柱)曹變蛟(朱文德・李輔明)劉肇基(乙邦才・馬應魁・莊子固)
金國鳳
松山が包囲された時、巡撫方一藻が兵を派遣して救援することを議したが、諸将は誰も応じようとしなかった。ただ副将の楊振だけが行くことを請い、呂洪山に至って伏兵に遭い、全軍が壊滅した。振は捕らえられ、松山へ行って降伏を説くよう命じられた。一里ほど手前まで来ると、地面に座り込んで南を向き、従官の李祿に言った。「私に代わって城中の人々に伝えよ、堅く守れ、援軍はただちに到着するであろうと。」祿が城壁の下まで行って振の言葉を伝えると、城中の守りはますます堅固になった。振と祿はともに殺害された。事が聞こえ、手厚い恩恤を命じた。
振の従父の国柱は、崇禎九年に宣府総兵官となった。十一年冬、京畿を防衛するため入り、総督盧象升に従って賈莊で戦った。象升が敗死すると、国柱は罪に当たるはずであった。大学士劉宇亮と侍郎孫傳庭はともに、彼が重囲に身を投じたのであり、敵前で退却した者とは同列にできないと述べた。そこで事官に降格とし、罪を戴いて功績を立てることを図らせた。十四年、祖大寿が錦州で包囲されると、総督洪承疇は八人の大将を率いて救援に向かった。国柱は先に松山に到着し、伏兵の中に陥った。大清兵は四方から降伏を呼びかけたが、国柱は嘆息し、配下に言った。「ここは我が兄の子がかつて殉難した場所である。我ひとり降伏の将軍となろうか!」包囲を突破しようとし、矢に当たって落馬し死んだ。事が聞こえ、規定に従って追贈と恩恤がなされた。
国柱の二人の息子はともに夭折した。妻の何氏は遺された甲冑・弓矢および戦馬五十三頭を朝廷に献上した。帝は深く賞賛し、一品夫人を授けるよう命じ、役所に月々米一石を給し、終身にわたって養った。
曹變蛟
曹變蛟は、曹文詔の甥である。幼少より文詔に従い軍功を積み、遊撃に至った。崇禎四年、従って河曲を回復した。翌年、賊の紅軍友らを張麻村・隴安・水落城・唐毛山で連破し、さらに劉道江らを銅川橋で破り、勇猛は諸軍の冠であった。御史呉甡の推薦により、参将に進んだ。文詔が山西に移ると、變蛟は従って戦い、つねに勝利した。文詔が大同に転鎮すると、山西巡撫許鼎臣が言うには、「山西の賊の紫金梁は死んだが、老回回・過天星・大天王・蠍子塊・闖塌天らの首領はまだ滅んでいない。變蛟は驍勇人に絶し、麾下の健児は千百おり、その才は文詔に次ぐ。どうか山西に留めてほしい。」これに従った。
七年、群賊が湖広に入ると、變蛟に南征を命じた。文詔が大同で苦境に陥ると、また北援を命じた。七月、広武で大清兵と遭遇し、戦功があった。その冬、文詔が失態により流刑に処せられると、變蛟もまた病気のため帰郷した。翌年、文詔が起用されて陝西の賊を討つと、變蛟は元の官職でこれに従った。金嶺川で大勝し、真寧の湫頭鎮で激戦し、ともに軍の先鋒となった。文詔が戦死すると、變蛟は潰走した兵卒を収容し、ふたたび一軍を成した。総督洪承疇が副総兵に推薦し、麾下に置き、高傑とともに賊を関山鎮で破り、敗走する敵を三十余里追撃した。また副将尤翟文・遊撃孫守法とともに闖王高迎祥を追撃し、鳳翔官亭で戦い、七百余級を斬首した。また総兵左光先とともに迎祥を乾州で破った。迎祥は矢を受け逃げ、三百五十余級を斬首した。やがて迎祥は華陰南原から大嶺を越え、夜に朱陽関から出撃した。光先は戦いが不利であったが、變蛟が敵陣に突入したおかげで、ようやく全軍を守り抜いた。九年、闖将を澄城で破った。光先らとともに靖虜衛まで追撃し、転戦して安定・会寧に及び、静寧・固寧に至り、賊をたびたび挫いた。その秋、混天星らを追撃し、蒲城でこれを破った。賊は西へ平涼・鞏昌へ走ったが、ふたたびこれを撃破した。
十年(崇禎十年)二月、巡撫孫傳庭の配下の兵卒許忠が叛き、賊と結んで混十萬を率いて西安を犯さんと謀る。変蛟はちょうど西へ過天星を追撃中であったが、乱を聞き急ぎ戻り、賊は遂に遁走した。伝庭は既に迎祥を誅殺しており、その党の闖将混天星・過天星は洮州・岷州・階州・文県の深谷間に蟠踞していた。承疇は変蛟・光先及び祖大弼・孫顯祖を遣わして合撃させた。四月十五日、山中に入り、賊に郭家壩で遭遇し、大雨となる。諸将力戦し、賊の死傷数知れず、食糧尽きて引き還る。九月、階州陥落し、光先と共に俸給を停められる。間もなく都督僉事に抜擢され、臨洮総兵官となる。この時、承疇・伝庭共に賊を滅ぼさんと誓う。伝庭は東で戦い、承疇は西で戦い、東の賊はほぼ尽きる。西に在る賊は、また階州・成県より出て西和・礼県へ向かう。光先・顯祖は皆功なく、ただ変蛟のみ小紅狼を降す。残賊は徽州・両当・成県・鳳県の間を竄走し、大いに暴れることができず。十月、賊は蜀中の虚を窺い、寧羌州を陥とし、三道に分かれ、連続して三十余の州県を陥す。承疇は変蛟等を率いて沔県より寧羌を経て、七盤・朝天の二関を過ぎる。山高く道狭く、士馬飢え疲れ、歳暮に広元に到着した時には、賊は既に秦に走り還っていた。変蛟等は軍を返して邀撃し、五百余級を斬首。時に兵部尚書楊嗣昌は「四正六隅」の説を創始し、三月を限って賊を平定せんとする。十一年四月、賊を滅ぼす期限に過ぎたとして、広く降格処罰を議し、変蛟・光先は共に五級を削られ、罪を戴いて賊を討つこととなる。
賊が再び秦に入った時、その渠魁で六隊と号する者が、大天王・混天王・争管王の四部と連合して東進し、混天星・過天星の二部は依然として階州・文県に潜伏し、ただ闖将李自成のみが三月に洮州より番地に出る。承疇は変蛟に賀人龍と共にこれを追撃せしめ、連戦して六千七百有余を斬首。番地は食糧乏しく、賊多く死亡す。変蛟は千里を転戦し、身に甲を解かざること二十七昼夜。残賊は潰走して塞内に入る。大弼は洮州に駐屯し、戦いを扼するも力及ばず。乃ち岷州及び西和・礼県の山中に走り入る。変蛟は還ってこれを剿討し、賊は潜伏して敢えて出ず、ただ六隊の勢いのみなお張り。六月、光先は固原より進兵するも、賊は既に隴州・清水に奔る。光先は秦州まで追撃し、六隊及び争管王はまた成県・階州に走り、変蛟に扼せられる。その別部で三隊と号する者及び仁義王・混天王は光先に降り、而して自成・六隊及びその党の祁総管は秦兵を避け、また蜀を犯さんと謀り、副将馬科・賀人龍がこれを拒ぐ。将に階州・文県及び西郷に走り還らんとするも、変蛟を憚り、乃ち漢中に走り、また光先に扼せられる。六隊・祁総管は皆降り、ただ自成のみ東に遁走す。承疇は変蛟に窮追を命じ、而して三つの伏兵を潼関の南原に設く。変蛟は追い及び、大呼して賊を斬る。伏兵尽く起ち、賊の屍は枕藉す。村民は大棒を用いて逃げる者を撃つ。自成は妻女を共に失い、七騎を従えて遁走す。残りは皆降る。この時、曹(変蛟)の兵最も強く、各鎮これに依って固めとす。関中の賊平定の功を録し、変蛟を左都督に進む。
十一月、京師戒厳、承疇を召して入衛せしめ、変蛟及び光先これに従う。明年二月、近畿に抵り、帝は使者を遣わして迎え労い、将士各々賜り物有り。未幾、渾河に戦い、功無し。再び太平砦の北に戦い、小なる斬獲有り。及んで戒厳解け、留まって遵化に屯す。麾下は皆秦の卒、帰郷を思い、逃亡する者多し、追い斬って乃ち定まる。時に張献忠・羅汝才は既に降りてまた叛き、陝西再び兵を用う。総督鄭崇儉は変蛟の兵を西還せしめるよう乞うも、帝は許さず、間もなく東協総兵官に用いる。
宣府総兵楊国柱・大同総兵王樸・密雲総兵唐通を徴発し、各々精兵を選んで赴援せしむ。十四年三月、変蛟・科・広恩と先後に出関し、三桂・廷臣と合わせて凡そ八大将、兵十三万、馬四万、並びに寧遠に駐屯す。
承疇は持重を主とすれども、朝議は兵多く餉艱難を以てし、職方郎張若麒が戦いを促す。承疇は祖大寿が長く囲まれしを思い、乃ち錦州を急ぎ救うことを議す。七月二十八日、諸軍松山に次し、西北の岡に営す。数度戦うも、囲み解けず。八月、国柱戦死し、山西総兵李輔明を以て代う。承疇は変蛟に松山の北、乳峰山の西に営せしめ、両山の間に七営を列ね、長壕を以て環らす。間もなく我が太宗文皇帝親臨して陣を督するを聞き、諸将大いに懼る。及んで出戦し、連敗し、糧道また絶つ。樸先ず夜遁す。通・科・三桂・広恩・輔明相継いで走る。杏山より南の沿海に沿い、東は塔山に至るまで、大清兵の邀撃を受け、海に溺れ死する者数知れず。変蛟・廷臣は敗報を聞き、馳せて松山に至り、承疇と共に固守す。三桂・樸は奔り杏山を占拠す。数日を過ぎ、寧遠に走り還らんと欲す。高橋に至り伏兵に遇い、大敗し、僅かに身を以て免る。先後して喪う士卒凡そ五万三千七百余人。是より錦州の囲み益々急なり、而して松山も亦囲まれ、応援俱に絶つ。九月、承疇・変蛟等は城中の馬歩兵を尽く出し、突囲して出んと欲すれども、敗れて還る。半年を守り、明年二月に至り、副将夏成徳が内応し、松山遂に破る。承疇・変蛟・廷臣及び巡撫丘民仰、故総兵祖大楽、兵備道張鬥・姚恭・王之楨、副将江翥・饒勛・朱文徳、参将以下百余人皆捕らえられて殺され、独り承疇と大楽のみ免る。
文徳は義州衛の人、後に錦州に家す。崇禎時、功を積みて松山副将に至る。監視中官高起潜に忤い、中傷され、斥罷せらる。十一年、故官に起用さる。及んで城囲まれしに当たり、前鋒を領して拒守甚だ力め、城破れて竟に死す。
三月、大寿遂に錦州を以て降る。杏山・塔山連続して失われ、京師大いに震う。詔して諸臣に祭葬を賜い、有司に祠を建てしむ。変蛟の妻高氏が贈蔭を請うたので、乃ち栄禄大夫・太子少保を贈り、世蔭として錦衣指揮僉事を授く。
法司会して王樸の罪を鞫く。御史郝晉言う、「六鎮の罪同じく、皆死に当たるべし。三桂は実に遼左の主将にして、戦わずして逃ぐ、奈何ぞ反って提督を加えんや」。兵部尚書陳新甲覆議し、独り樸を斬ることを請い、科に軍令状を勒し、再び機を失すれば即ち斬決すべしとす。三桂は地を失い斬に応ずるも、寧遠を守った功を思い、輔明・広恩・通と共に皆秩を貶し、事官に充てらる。
樸は榆林衛の人である。父の威は左都督に任じられ、九度将印を佩き、提督・総鎮として五十年を務めた。兄の世欽は郷里にいて殉難し、『尤世威伝』に見える。樸は父の蔭官により累進して京営副将となった。崇禎六年、賊が畿南を蹂躙すると、命により樸と倪寵を総兵官とし、京軍六千を率い、宦官楊応朝・盧九徳を監軍として、しばしば斬獲の功を挙げ、右都督に進んだ。翌年、曹文詔に代わって大同を鎮守し、左都督に進んだ。九年秋、都城が兵に侵されると、詔により樸は入衛し、蟒衣・彩幣を賜ったが、ついに功績はなかった。十一年、太子太保を加えられた。この冬、総督盧象升に従って入衛し、ちょうど欒城・束鹿の間で戦っていた。ある者が大同に急報ありと言うや、すぐに兵を率いて帰還した。このたび錦州を救援するに及び、先頭を逃げた罪で詔獄に下された。十五年五月、誅殺された。
科は偏裨から大帥に至り、戦功は変蛟に次ぎ、三桂とともに寧遠を守って功績があった。十六年春、兵を督して入衛し、武英殿で賜宴を受け、命により大学士吳甡に従って南征しようとしたが、果たせなかった。翌年三月、李建泰に従って西征した。李自成の兵が到ると、科はすなわち降伏し、懐仁伯に封じられた。
広恩は初め混天猴に従って賊となった。降伏後、しばしば戦功を立てた。松山で敗れて帰還し、馬科に代わって山海関を鎮守した。この年十一月、京師が戒厳すると、広恩は入衛し、銀幣・羊酒を賜った。まもなく龍王口で戦い、わずかに斬獲があり、捷報として上奏した。帝は初め広恩の傍観を憎み、降旨して譴責したが、その後の働きを期待し、特に命じて功績を論じさせた。翌年四月、八鎮の兵を合わせて螺山で戦い、ことごとく潰敗した。総督趙光抃は帝に召し入れて武経略に用いるよう請うた。広恩は帝が頻繁に大将を誅戮し、また自らも過失が多いことを恐れ、来ることを敢えず、糧秣を要求する名目で真定に駐屯した。大学士吳甡が南征しようとし、密かに帝に厳旨で逮捕処分を下すよう請うたが、自らは力救し、率いて賊を剿討させようとした。広恩は大いに感激した。まもなく、帝は宦官を遣わして二万金をその軍を犒賞し、かつ温旨をもって諭した。広恩はすなわち驕り、甡に用いられず、臨洺関を大掠し、まっすぐ陝西に帰った。帝は已むなく、督師孫伝庭に隷属させて賊を討たせた。十月、郟県で軍が覆ると、広恩に蕩寇将軍を加え、道すがら潰卒を収容して潼関を守らせた。まもなく、潼関も破られ、広恩は西へ固原に奔った。賊の将が追撃して及ぶと、すなわち門を開いて降伏した。自成は大いに喜び、手を握って共に飲み、桃源伯に封じた。
通は弁舌はあったが勇略はなかった。敗れて帰った後、なおも密雲を鎮守した。その年冬、詔を奉じて入衛し、三河・平谷を守備するよう命じられた。大清兵が山東を下ると、通はその後を尾いて南進し、青州に至ったが、ついに一戦も敢えてしなかった。翌年、また尾いて北進し、螺山で戦い、敗績した。やがて、命により甡に従って南征することとなった。甡は出発せずに斥けられ、通に薊鎮西協を管轄させた。五月、密雲総兵官を淘汰し、中協四路を兼轄するよう命じた。まもなく孔希貴を西協に用い、通に中協を専管させた。十月、関外に急報あり、命により師を率いて赴援し、銀牌二百を賞功に用いた。事態が収まると、また西協に移鎮した。帝は通を厚く遇し、蟒衣・玉帯の賜物があり、召見して卿と称し名を呼ばず、宴を賜い、褒賞・慰労ことごとく至った。翌年、賊が宣府に迫ると、命により居庸を守るよう移り、定西伯に封じられた。まもなく、賊が関を犯すと、すなわち宦官杜之秩とともに迎えて降伏し、京師はついに陥落した。
光先は梟将であり、賊と陝西で争い、功績が最も多かった。遼左から遣還されてからは、廃されて用いられなかった。後に広恩が賊に従ったと聞き、また賊のもとに赴いて降伏した。
また陳永福という者がおり、開封を守り、李自成を射て目に当てた。自成が山西を陥落させると、広恩に命じてこれを諭して降伏させた。永福は誅殺を恐れ、ためらう気持ちがあった。自成は矢を折って信を示すと、すなわち降伏し、文水伯に封じられた。後、自成が敗れて山西に還ると、永福は太原を守り、晋府の宗室をことごとく殺した。
劉肇基
劉肇基、字は鼎維、遼東の人。世職の指揮僉事を嗣ぎ、都司僉書に遷り、山海総兵官尤世威の麾下に隷属した。崇禎七年、世威に従って宣府を救援し、また中原の賊を剿討した。遊撃に進み、雒南の蘭草川を戍守した。翌年、賊に遭遇し、戦って敗れ臂を負傷した。まもなく、世威が罷免されると、肇基と遊撃羅岱が分かってその兵を将い、祖寛とともに賊を汝州で大破し、千六百余級を斬首した。後、寛に従って数度功績を挙げたが、その部下は皆辺境の軍士で、久しく戍守して帰郷を思い、寛の軍とともに騒ぎ立てて逃走した。総理盧象升はすなわちこれを秦に入らせた。その秋、畿輔に急報あり、初めて山海に還り、ついに前の罪に坐して解職され、従征して自ら効力を尽くすよう命じられた。まもなく永平を固守した功績で復職し、累進して遼東副総兵となった。
乙邦才は青州の人。崇禎年間、隊長として賊を河南・江北の間で討った。大将黄得功が賊と霍山で戦い、単騎で賊を追って泥沼に陥った。賊は囲んで矢を射かけ、馬は斃れ、得功は徒歩で戦った。日も暮れんとして、矢は二本のみ。邦才は大声で賊に突進し走り、得功はようやく脱出できた。邦才は己が馬を与え、矢を分け与え、走りながら射て、追騎十余人を斃し、ようやく自軍に及んだ。得功はこれより邦才を知る。
時に張衡という者あり、また驍勇果敢で名を知られた。賊が六安を急に包囲したとき、総督馬士英がこれを救った。到着するや、左右の副将を斥け、軍中に号して曰く、「乙邦才・張衡なる者は誰ぞ」と。二人が入って謁見すると、即座に牒を以て副将に補し、その兵を授けて曰く、「我に代わって六安に入り、知州の状を取って来て報告せよ」と。二人が出ると、即ち精騎二百を選び、夜に賊陣を衝いて入り、城を巡って大呼し、「大軍至れり、固く守って懈るなかれ」と。城中の人は喜び、守りは益々堅固となった。二人は知州に促して状を署させ、再び包囲を突破して出、一騎も損なわず。
時に潁・寿・六安・霍山諸州県は数度賊に侵され、邦才は大小十余戦、皆功があった。及んで可法が揚州を鎮守するに及び、彼を伴って行った。ここに至って戦いに敗れ、自刎して死す。
馬応魁は字を守卿といい、貴池の人。初め小将となり、家丁五十人を率いて村落の間を巡った。突然賊に遭遇し、衆は懼れて逃げんとした。応魁は大声で曰く、「死を怖れるな!死は命なり」と。連発して二矢で二賊を斃し、賊は即ち退いた。可法はこれにより副総兵に抜擢し、旗鼓を領させた。戦うごとに白甲をまとい、背に「尽忠報国」の四字を大書し、ここに至って巷戦して死す。
荘子固は字を憲伯といい、遼東の人。十三歳の時、人を殺して亡命した。後に軍に従って功があり、累官して参将に至った。かつて山西総兵許定国に従って開封を救い、軍は半道で騒ぎ帰還し、定国は罪を得た。子固は余衆をまとめ、議を免れた。後に可法が出鎮し、副総兵として用い、徐州・帰徳の間に屯田を興させた。子固は壮士七百人を募り、「赤心報国」を号とした。揚州が包囲されたと聞き、衆を率いて馳せ救い、三日にして至った。城将に破られんとし、可法を擁して城外に出んとし、大清兵に遇い、格闘して死す。
その他、副将楼挺・江雲龍・李豫、参将陶国祚・許謹・馮国用・陳光玉・李隆・徐純仁、遊撃李大忠・孫開忠、都司姚懐龍・解学曾等十余人、皆巷戦して死す。
【賛】
賛に曰く、金国鳳の善く守るや、曹変蛟の力戦するや、均しく良将の材に愧じること無し。然れども運移り事易わり、功を立て難くして、挫敗し易く、遂に謀勇兼ねて絀き、身を以て之に殉ずるに至る。蓋し天命帰する有り、之を為す莫きにして為す者なり。