明史

列傳第一百五十九 賀世賢 童仲揆 羅一貫 滿桂 趙率教 官惟賢 何可綱 黃龍 金日觀

列傳第一百五十九 賀世賢 童仲揆 羅一貫 滿桂 趙率教 官惟賢 何可綱 黃龍 金日觀

原文列傳第一百五十九 賀世賢 童仲揆 羅一貫 滿桂 趙率教 官惟賢 何可綱 黃龍 金日觀

○賀世賢(尤世功)童仲揆(陳策周敦吉等張神武等)羅一貫(劉渠祁秉忠)滿桂(孫祖壽)趙率教(朱國彥)官惟賢(張奇化)何可綱黃龍(李惟鸞)金日觀(楚繼功等)

原文○賀世賢(尤世功)童仲揆(陳策周敦吉等張神武等)羅一貫(劉渠祁秉忠)滿桂(孫祖壽)趙率教(朱國彥)官惟賢(張奇化)何可綱黃龍(李惟鸞)金日觀(楚繼功等)

賀世賢

原文賀世賢

賀世賢は、榆林衛の人である。若い頃は下働きをしていたが、後に軍に従い、功を重ねて瀋陽遊撃に至り、義州参将に遷った。万暦四十六年七月、清河が包囲されると、副将鄒儲賢が固守した。城が陥落し、親兵を率いて城南で激戦し、参将張旆と共に戦死した。部将二十人、兵民一万余が殲滅された。世賢は叆陽に駐屯していたが、変報を聞くと、疾駆して塞外に出て、首級百五十四を挙げ、副総兵に進んだ。

原文賀世賢,榆林衛人。少為廝養,後從軍,積功至沈陽遊擊,遷義州參將。萬歷四十六年七月,清河被圍,副將鄒儲賢固守。城破,率親丁鏖戰城南,與參將張旆俱死。部將二十人、兵民萬餘殲焉。世賢駐叆陽,聞變,疾馳出塞,得首功百五十有四級,進副總兵。

翌年、楊鎬が四路より出師した。世賢は李如柏の副将として清河より出た。劉綎が深入りして伏兵に遭い、世賢は如柏を勧めて救援に向かわせようとしたが、従わず、綎は遂に覆没した。まもなく都督僉事に抜擢され、総兵官を充てられ、虎皮驛に駐屯した。鉄嶺が包囲されると、世賢は馳せて救援したが、城は既に陥落しており、邀撃して首級百余を挙げた。泰昌元年九月、灰山・撫安堡で連戦し、首級二百余を挙げた。この時、四方の宿将が鱗のごとく遼左に集まったが、多くは萎縮して戦おうとせず、ただ世賢のみがしばしば戦闘して功を立てたため、同僚たちは多くこれを忌んだ。瀋陽に移鎮した。経略袁応泰が降伏者受け入れの命令を下すと、広寧総兵李光栄は世賢が受け入れた者が多いことを疑い、その状況を上奏した。巡撫薛国用も三つの憂慮すべき点を奏上し、兵部尚書崔景栄は受け入れを拒み、既に受け入れた者は別の場所に置くよう請うた。しかし世賢が受け入れた者たちは結局解散させられず、同僚たちは遂に彼に異心ありと誹謗した。

原文明年,楊鎬四路出師。世賢副李如柏出清河。劉綎深入中伏,勸如柏往救,不從,綎遂覆歿。尋擢都督僉事,充總兵官,駐虎皮驛。鐵嶺被圍,世賢馳援,城已破,邀獲首功百餘級。泰昌元年九月連戰灰山、撫安堡,獲首功二百有奇。當是時,四方宿將鱗集遼左,率縮朒不敢戰,獨世賢數角鬥有功,同列多忌之。移鎮沈陽。經略袁應泰下納降令。廣寧總兵李光榮疑世賢所納多,以狀聞。巡撫薛國用亦奏三可慮,兵部尚書崔景榮請拒勿納,而置己納於他所。然世賢所納卒不可散,同列遂謗其有異志。

天啓元年三月、我が大清が重兵をもって瀋陽に迫った。世賢及び総兵尤世功は塹壕を掘り、大木を立てて柵とし、楯車・火器・木石を並べ、城を巡らせて兵を配置し、城守の法を十分に整えた。大清はまず数十騎で偵察に来たが、世功の兵がこれを追跡し、四人を殺した。世賢は勇猛だが軽率で、酒を嗜んだ。ある朝酒を飲み、親兵千を率いて城を出て迎撃し、敵を殲滅して戻ることを期した。大清兵は偽って敗走し、世賢は鋭気に乗じて進んだ。たちまち精鋭の騎兵が四方から包囲し、世賢は戦いながら退却し、西門に至り、身に十四本の矢を受けた。城中で世賢の敗北を聞くと、兵民は鳥獣のごとく逃げ散り、降伏した兵が再び叛いて城外の吊り橋を断った。ある者が世賢に遼陽へ逃げるよう勧めたが、「我は大将として城を守れず、何の面目あって袁経略に会えようか」と言い、鉄鞭を振るって包囲の中を馳せ突き、数人を撃ち殺したが、矢に中って落馬し死んだ。世功が兵を率いて救援したが、これも戦死した。

原文天啟元年三月,我大清以重兵薄沈陽。世賢及總兵尤世功掘塹浚壕,樹大木為柵,列楯車火器木石,環城設兵,守城法甚具。大清先以數十騎來偵,世功兵躡之,殺四人。世賢勇而輕,嗜酒。旦日飲酒,率親丁千,出城逆擊,期盡敵而反。大清兵佯敗,世賢乘銳進。倏精騎四合,世賢戰且卻,抵西門,身被十四矢。城中聞世賢敗,各鳥獸竄,而降丁復叛,斷城外吊橋。或勸世賢走遼陽,曰:「吾為大將,不能存城,何面目見袁經略乎!」揮鐵鞭馳突圍中,擊殺數人,中矢墜馬而死。世功引兵援,亦戰死。

世功もまた榆林の人である。万暦年間、武郷試に挙げられ、瀋陽遊撃を歴任した。張承蔭の敗戦の時、世功は脱出して帰還したが、職を剥奪された。経略楊鎬が彼が重傷を負いながらも、才能は激励に値すると言ったため、武精営遊撃に補された。鎬が四路より出師した時、世功は李如柏の麾下に属し、全軍を保った。まもなく副総兵として瀋陽を守った。熊廷弼が鎬に代わると、その才を愛し、副将朱万良と共に倚任した。廷弼が罷免され、袁応泰が代わると、三路より出師することを議し、世功を総兵官に用いようとした。出発せずして瀋陽が攻撃を受け、戦死した。少保・左都督を追贈され、世襲の恩蔭を三級増やし、さらに指揮僉事の恩蔭が加えられ、世襲とし、祭葬を賜り、「湣忠」と名付けた祠が建てられた。

原文世功亦榆林人。萬歷中,舉武鄉試,歷沈陽遊擊。張承蔭之敗也,世功脫歸,坐褫職。經略楊鎬言其身負重傷,才堪策勵,乃補武精營遊擊。鎬四路出師,世功隸李如柏麾下,得全。尋以副總兵守沈陽。熊廷弼代鎬,愛其才,與副將朱萬良並倚任。廷弼罷,袁應泰代,議三路出師,用為總兵官。未行,而沈陽被兵,死於戰。贈少保、左都督,增世蔭三級,再蔭指揮僉事,世襲,賜祭葬,建祠曰「湣忠」。

世賢が死んだ後、ある者は彼が叛いて降ったのではないかと疑い、恩恤の典も及ばなかった。四川副使車樸が冤罪を訴えたが、衆議に阻まれて果たせなかった。

原文世賢既歿,或疑其叛降,恤典故不及。四川副使車樸為訟冤,格眾議不果。

童仲揆

原文童仲揆

童仲揆は、南京の人である。武会試に挙げられ、都指揮を歴任し、四川都司を掌った。万暦末、副総兵に抜擢され、川兵を督いて遼東を救援し、同官の陳策と共に援剿総兵官を充てられた。熹宗が即位した初め、経略袁応泰が蒙古諸部を招き、遼・瀋の二城に置いた。仲揆は力を尽くして諫めたが、聞き入れられなかった。

原文童仲揆,南京人。舉武會試,歷都指揮,掌四川都司。萬歷末,擢副總兵,督川兵援遼,與同官陳策並充援剿總兵官。熹宗初立,經略袁應泰招蒙古諸部,處之遼、瀋二城。仲揆力諫,不聽。

翌年、天啓に改元し、応泰は清河・撫順に城を築こうとした。三路より出師することを議し、大将十人を用い、各々兵万余を将いようとし、仲揆と策はそのうちの二人に当たった。出発せずして、大清兵が既に瀋陽に迫った。二人は馳せて救援し、渾河に駐屯した。遊撃周敦吉が言うには、「事態は急を要します。直ちに瀋陽に進み、城中の兵と挟撃すれば、成功できます」。やがて瀋陽陥落を聞くと、諸将は皆憤慨して言った。「我らは瀋陽を救えず、ここに三年も何をしているのか」。敦吉は固く請うて石砫都司秦邦屏と先に河を渡り、橋の北に営した。仲揆・策及び副将戚金・参将張名世は浙兵三千を統率して橋の南に営した。邦屏が陣を結ぶやいなや、大清兵が攻めて来た。三度退却してはまた進み、諸軍は遂に敗れた。敦吉・邦屏及び参将呉文傑・守備雷安民等は皆死んだ。他の将は浙兵の営に逃げ込んだが、数重に包囲された。副将朱万良・姜弼は救援せず、包囲が切迫してからようやく前進したが、一戦して即ち敗走した。大清兵は全力を尽くして浙営を攻めた。営中は火器を用い、多くを殺傷した。火薬が尽き、短兵相接して、遂に大敗した。策は先に戦死し、仲揆は逃げようとしたが、金が止めたので、兵を返して戦った。力尽き矢も尽き、刀を揮って十七人を殺した。大清兵が万矢を一斉に放ち、仲揆は金・名世及び都司袁見龍・鄧起龍等と共に死んだ。万良は既に逃げたが、経略が斬ろうとしたので、罪を許して自ら功を立てることを請うた。遼陽が攻撃を受けた時、果たして敵陣に突入して死んだ。

原文明年,天啟改元,應泰欲城清河、撫順。議三路出師,用大將十人,各將兵萬餘,仲揆、策當其二。未行,而大清兵已逼沈陽。兩人馳救,次渾河。遊擊周敦吉曰:「事急矣,請直抵沈陽,與城中兵夾擊,可以成功。」已,聞沈陽陷,諸將皆憤曰:「我輩不能救沈,在此三年何為!」敦吉固請與石砫都司秦邦屏先渡河,營橋北,仲揆、策及副將戚金、參將張名世統浙兵三千營橋南。邦屏結陣未就,大清兵來攻,卻復前者三,諸軍遂敗。敦吉、邦屏及參將吳文傑、守備雷安民等皆死。他將走入浙兵營,被圍數匝。副將朱萬良、姜弼不救,及圍急始前,一戰即敗走。大清兵盡銳攻浙營。營中用火器,多殺傷。火藥盡,短兵接,遂大潰。策先戰死,仲揆將奔,金止之,乃還兵鬥。力盡矢竭,揮刀殺十七人。大清兵萬矢齊發,仲揆與金、名世及都司袁見龍、鄧起龍等並死焉。萬良既遁,經略將斬之,乞勚罪自效。及遼陽被攻,果陷陣死。

遼左で用兵が始まって以来、将士は風の便りに奔潰するばかりであったが、ただこれのみが万余人をもって数万の衆に当たった。力尽きて覆没したとはいえ、当時は皆その壮挙を称えた。事が上聞され、策に少保・左都督を追贈し、世襲の恩蔭を三級増やし、さらに本衛指揮僉事の恩蔭が加えられ、世襲とし、祭葬を賜り、「湣忠」と名付けた祠が建てられた。仲揆には都督同知を追贈し、世襲の恩蔭を三級増やし、祭祀に預からせた。金・起龍には都督僉事を追贈し、世襲の恩蔭を三級増やし、付祀された。名世は先に罪があって獄に繋がれていたが、尚書薛三才がその火器の巧みさを推薦し、征討に従って功を立てることを命じられた。文傑も先に職を剥奪されていた。死後、共に官を復され、三級を追贈され、世襲の恩蔭を二級増やされた。見龍等は皆追贈と恩蔭が与えられ、他の副将から把総に至るまでの戦死者百二十余人には、それぞれ差等をつけて追贈と恩蔭がなされた。

原文自遼左用兵,將士率望風奔潰,獨此以萬餘人當數萬眾。雖力絀而覆,時鹹壯之。事聞,贈策少保、左都督,增世蔭三級,再蔭本衛指揮僉事,世襲,賜祭葬,建祠曰:「湣忠」。仲揆贈都督同知,增世蔭三級,祀祀。金、起龍贈都督僉事,增世蔭三級,附祀。名世先有罪繫獄,尚書薛三才薦其善火器,命從征立功。文傑亦先褫職。及死,並得復官,贈三級,增世蔭二級。見龍等皆予贈蔭,他副將至把總戰死者百二十餘人,贈蔭有差。

敦吉は、先に四川永寧参将であった。永寧宣撫奢効忠が卒すると、子の崇明は幼く、その妻奢世統と妾の奢世継が印を争い、十数年攻撃し合った。後に崇明が職を襲うと、世継はなおも印を隠して与えなかった。都司張神武が敦吉と謀り、その蓄積した財物と子女をことごとく掠奪し、世継を捕らえて帰還した。その部の頭目閻宗伝が怒り、主母を求めることを名目に、永寧・赤水・普市・麾尼を大いに掠奪し、数百里が廃墟と化した。事が上聞され、敦吉・神武は共に死罪と論じられた。遼東が警報を告げると、敦吉に軍に従って自ら功を立てることを命じ、ここに至って激戦して死んだ。贈恤は定めに従って行われた。

原文敦吉,先為四川永寧參將。永寧宣撫奢效忠卒,子崇明幼,其妻奢世統與妾奢世續爭印,相攻者十餘年。後崇明襲職,世續猶匿印不予。都司張神武與敦吉謀,盡掠其積聚子女,擒世續以歸。其部目閻宗傳怒,以求主母為名,大掠永寧、赤水、普市、麾尼,數百里成兵墟。事聞,敦吉、神武並論死。遼東告警,命敦吉從軍自效,及是鏖戰死,贈恤如制。

神武は新建の人である。万暦年間に武会試に挙げられて第一となり、四川都司僉書に任ぜられた。既に死罪と論ぜられた後、遼左で兵乱が起こり、経略袁応泰の推薦により、詔を奉じて従征し功を立てることを命ぜられた。神武は親丁二百四十余人を率い、疾駆して広寧に至った。時に遼陽は既に失陥しており、巡撫薛国用は固く留めようとしたが、神武は肯ぜず、「命を奉じて遼陽を守るのであり、広寧を守るのではない」と言った。国用が「遼陽は既に陥ちた。君はどこへ行くのか」と問うと、「敵を殲滅せんとする」と答えた。「二百人で敵を殲滅できるか」と問うと、「できなければ、死ぬまでである」と言った。前に進んで遼河に至ると、逃げ帰る士卒十余万に出会った。神武は忠義をもってその将帥を激励し、共に還って戦おうとしたが、将帥は従わなかった。そこで独りで配下を率いて河を渡り、首山に至り、遼陽から十七里のところに駐屯した。将士は一日も食せず、大清兵に遭遇し、声をあげて奮撃したが、孤軍で援けなく、ことごとく陣に斃れた。監軍御史方震孺は神武の像を描き、将士を率いて羅列して拝礼し、文を作ってこれを祭った。詔して都督僉事を追贈し、世襲で千戸を蔭し、祠を立てて祀らせた。

原文神武,新建人。萬歷中舉武會試第一。授四川都司僉書。既論死,遼左兵興,用經略袁應泰薦,詔諭從征立功。神武率親丁二百四十餘,疾馳至廣寧。會遼陽已失,巡撫薛國用固留之,不可,曰:「奉命守遼陽,非守廣寧也。」曰:「遼陽歿矣,若何之?」曰:「將以殲敵。」曰:「二百人能殲敵乎?」曰:「不能,則死之。」前至遼河,遇逃卒十餘萬。神武以忠義激其帥,欲與還戰,帥不從。乃獨率所部渡河,抵首山,去遼陽十七里而軍。將士不食已一日,遇大清兵,疾呼奮擊,孤軍無援,盡歿於陣。監軍御史方震孺繪神武像,率將士羅拜,為文祭之。詔贈都督僉事,世蔭千戶,立祠祀之。

また楊宗業・梁仲善という者がいた。皆、遼東を救援する総兵官である。宗業は歴任して浙江・山西を鎮守した。楊鎬の四路軍敗北後、兵を率いて赴援することを命ぜられ、ここに至って父子ともに戦死した。仲善もまた遼陽城下で戦死した。宗業には都督同知を追贈し、世襲で千戸を蔭し、仲善には都督僉事を追贈し、世襲の蔭を三級増やした。ともに祠に従祀させた。

原文又有楊宗業、梁仲善者,皆援遼總兵官。宗業歷鎮浙江、山西。楊鎬四路敗後,命提兵赴援,至是父子並戰死。仲善亦戰死遼陽城下。宗業贈都督同知,世蔭千戶;仲善贈都督僉事,增世蔭三級。並從祠附祀。

羅一貫

原文羅一貫

羅一貫は甘州衛の人である。参将として西平堡を守った。遼陽が陥落すると、西平の地は最も要衝であり、一貫は全力で防禦した。巡撫王化貞が朝廷に上言し、副総兵に加えられた。時に化貞は広寧に駐屯し、経略熊廷弼は右屯に駐屯し、総兵劉渠は二万人を率いて鎮武を守り、祁秉忠は一万人を率いて閭陽を守り、一貫は三千人を率いて西平を守った。やがて議が定まり、それぞれ濠を修め塁を堅くし、危急の際は互いに救援し、違う者は必ず誅することとした。明年正月、大清兵が西へ河を渡り、経略・巡撫は軽々に戦うなと戒めた。兵が次第に近づくと、参将黒雲鶴が出撃した。一貫はこれを止めたが、従わなかった。翌日、雲鶴は戦いに敗れ、城に奔り還ったが、追兵に殲滅された。一貫は城に拠って固く拒み、砲を用いて撃ち傷つけた者は数えきれなかった。大清は旗を立てて降伏を招き、かつ使者を遣わして説得したが、一貫は従わなかった。また翌日、騎兵はますます多く、城をめぐって力攻めした。一貫は流れ矢が目に当たり、戦うことができなかった。火薬と矢石が尽きると、北面して再拝し、「臣の力は尽きました」と言い、自ら剣で頸を切った。都司陳尚仁・王崇信もまたこれに死した。化貞は城がまだ陥ちていないと知り、遊撃孫得功の言葉を信じ、広寧の兵をことごとく発した。得功及び中軍遊撃祖大寿を前鋒とし、秉忠と会して赴援するよう命じ、廷弼もまた使者を遣わして渠に進戦を督させ、平陽で大清兵に遭遇した。得功は異心を抱き、退去しようとした。そこで兵を左右の翼に分け、少し退き、渠・秉忠を前に推し出した。渠らは力戦し、かなりの殺傷を加えた。得功及び副将鮑承先が逃走し、後軍もこれを見て奔ったので、大いに潰走した。渠は戦死した。秉忠は二刀三矢を受け、家の者が扶けて馬上に乗せ、包囲を突破して出たが、創は重く、途中で卒した。副将劉征は十余人を撃ち殺してから死んだ。大寿は覚華島に逃げた。得功は遂に降伏した。二日を過ぎて、広寧は即時に陥落した。事が聞こえ、一貫に都督同知を追贈し、世襲で副千戸を蔭し、渠・秉忠には少保・左都督を追贈し、世襲の蔭を三級増やし、さらに指揮僉事を蔭した。皆、祭葬を賜り、祠を建ててともに祀らせた。

原文羅一貫,甘州衛人。以參將守西平堡。遼陽陷,西平地最沖,一貫悉力捍禦。巡撫王化貞言於朝,加副總兵。時化貞駐廣寧,經略熊廷弼駐右屯,總兵劉渠以二萬人守鎮武,祁秉忠以萬人守閭陽,而一貫帥三千人守西平。已,定議,各繕隍堅壘,急則互相援,違者必誅。明年正月,大清兵西渡河,經撫戒勿輕戰。兵漸近,參將黑雲鶴出擊。一貫止之,不從。明日,雲鶴戰敗,奔還城,追兵殲焉。一貫憑城固拒,用炮擊傷者無算。大清樹旗招降,且遣使來說,一貫不從。又明日,騎益眾,環城力攻。一貫流矢中目,不能戰。火藥矢石盡,乃北面再拜,曰:「臣力竭矣。」遂自剄。都司陳尚仁、王崇信亦死之。化貞知城未下,信遊擊孫得功語,盡發廣寧兵。以得功及中軍遊擊祖大壽為前鋒,令會秉忠赴援,廷弼亦遣使督渠進戰,遇大清兵於平陽。得功懷異志,欲引去。乃分兵為左右翼,稍卻,推渠、秉忠前。渠等力戰,頗有殺傷。得功及副將鮑承先走,後軍見之亦奔,遂大潰。渠戰死。秉忠被二刀三矢,家眾扶上馬,奪圍出,創重,卒於途。副將劉征擊殺十餘人,乃死。大壽走覺華島。得功遂降。越二日,廣寧即破。事聞,贈一貫都督同知,世蔭副千戶;渠、秉忠少保,左都督,增世蔭三級,再蔭指揮僉事。皆賜祭葬,建祠並祀。

一貫の子俊傑は蔭を承け、崇禎年間に宣府総兵官に至ったが、免職されて帰った。李自成が甘州を犯すと、城は陥落し、これに死した。

原文一貫子俊傑承蔭,崇禎中仕至宣府總兵官,免歸。李自成犯甘州,城陷,死之。

渠は京城巡捕営の副将であり、御史楊鶴の推薦により、総兵官に抜擢され、遼東を援剿した。遼陽が包囲されると、広寧総兵李光栄は救援できず、かえって河の橋を断ち切り軍民の帰路を遮断したので、総督文球が弾劾して罷免し、即座に渠を代わりとした。西平が危急を告げると、鎮武の兵を率いて救援に向かい、遂に戦死した。

原文渠,京城巡捕營副將也,以御史楊鶴薦,擢總兵官,援剿遼東。遼陽被圍,廣寧總兵李光榮不能救,反斷河橋截軍民歸路,總督文球劾罷之,即以渠代。西平告急,帥鎮武兵往援,遂戰歿。

秉忠は陝西の人である。万暦四十四年、永昌参将となった。銀定・歹青が二千余騎を率いて塞内に入ると、秉忠は兵三百を提げてこれを拒ぎ、二昼夜転戦した。援軍が至って、初めて逃げ去った。秉忠は掠められた人畜を追い返し、辺境の人はこれを称えた。涼州副総兵に抜擢された。経略袁応泰がその智勇を推薦し、私卒を率いて蒲河を守らせた。到着すると遼陽は既に陥落しており、援剿総兵官に命ぜられ、閭陽に駐防し、西平を救援したが、ついに死した。

原文秉忠,陜西人。萬歷四十四年為永昌參將。銀定、歹青以二千餘騎入塞,秉忠提兵三百拒之,轉戰兩晝夜。援軍至,始遁。秉忠追還所掠人畜,邊人頌之。擢涼州副總兵。經略袁應泰薦其智勇,令率私卒守蒲河。至則遼陽已破,命為援剿總兵官,駐防閭陽,援西平,竟死。

遼左で軍興が起こって以来、総兵官が陣歿した者は合わせて十四人である。撫順では張承蔭、四路出師では杜松・劉綎・王宣・趙夢麟、開原では馬林、瀋陽では賀世賢・尤世功、渾河では童仲揆・陳策、遼陽では楊宗業・梁仲善である。この戦役で、渠と秉忠がこれに続いた。朝廷の恤典は、ことごとく極めて優遇され崇められた。しかし軍を敗北させた将、李如柏・麻承恩らの輩は、ついに顕戮を受けなかった者もあった。

原文自遼左軍興,總兵官陣亡者凡十有四人:撫順則張承蔭,四路出師則杜松、劉綎、王宣、趙夢麟,開原則馬林,沈陽則賀世賢、尤世功,渾河則童仲揆、陳策,遼陽則楊宗業、梁仲善。是役,渠與秉忠繼之。朝端恤典,俱極優崇。而僨軍之將,若李如柏、麻承恩輩,竟有未膺顯戮者。

満桂は蒙古の人で、幼くして中国に入り、宣府に家を置いた。やや成長すると、騎射に長じた。征戦に従うたびに、多く首級を斬った。軍令では、敵の首一つを得れば一官を与え、そうでなければ白金五十両を賜うこととしていた。桂はたびたび金を得たが、職を受けなかった。壮年に及び、初めて総旗となった。また十余年して百戸となった。後にたびたび遷って潮河川守備となった。楊鎬の四路軍敗北後、知兵の小将数人を推薦し、まず桂に及んだ。黄土嶺に移って守った。総督王象乾に知られ、石塘路遊撃・喜峰口参将に進んだ。

原文滿桂,蒙古人,幼入中國,家宣府。稍長,便騎射。每從征,多斬馘。軍令,獲敵首一,予一官,否則賚白金五十。桂屢得金,不受職。年及壯,始為總旗。又十餘年為百戶。後屢遷潮河川守備。楊鎬四路師敗,薦小將知兵者數人,首及桂。移守黃土嶺。為總督王象乾所知,進石塘路遊擊、喜峰口參將。

天啓二年、大学士孫承宗が辺境を行くと、桂は入って謁見した。その容貌を壮とし、兵事について談じ、大いに奇とした。山海に出鎮すると、即座に副総兵に抜擢し、中軍の事を領させた。承宗の幕下には文武の士が輻輳したが、独り桂を用いた。桂は非常に朴訥であったが、忠勇は絶倫で、声色を好まず、士卒と苦楽を共にした。

原文天啟二年,大學士孫承宗行邊,桂入謁。壯其貌,與談兵事,大奇之。及出鎮山海,即擢副總兵,領中軍事。承宗幕下,文武輻輳,獨用桂。桂椎魯甚,然忠勇絕倫,不好聲色,與士卒同甘苦。

明年、承宗は関を出て寧遠を修復することを議した。誰を守らせることができるかと問うた。馬世龍は孫諫及び李承先を推薦したが、承宗は皆許さなかった。袁崇煥・茅元儀が進み出て言うには、「満桂ができます。ただし公の中軍であるため、敢えて請いませんでした」と言った。承宗は「既にできるなら、中軍であることを問う必要はない」と言い、桂を呼んで語りかけると、慨然として行くことを請うた。世龍はなおその不可を疑ったが、承宗は聞き入れなかった。即日、酒を設け、自らこれを見送った。桂は寧遠に至り、崇煥と心を合わせて城を築き、屹然として重鎮となった。語は『崇煥伝』に詳しい。

原文明年,承宗議出關修復寧遠。問誰可守者。馬世龍薦孫諫及李承先,承宗皆不許。袁崇煥、茅元儀進曰:「滿桂可。但為公中軍,不敢請耳。」承宗曰:「既可,安問中軍。」呼桂語之,慨然請行。世龍猶疑其不可,承宗不聽。即日置酒,親為之餞。桂至寧遠,與崇煥協心城築,屹然成重鎮。語具《崇煥傳》中。

時に蒙古の部落が寧遠の東鄙に駐牧し、帰順して来る遼民はことごとく劫掠に遭ったので、承宗はこれを憂えた。四年二月、桂及び総兵尤世祿を遣わして大淩河を襲撃させた。諸部は号泣して西に逃げ、東鄙はこれにより寧かとなった。拱兔・炒花・宰賽の諸部は表面上は款を受けながらも、内に反側を懐いていた。桂は操縦に長じ、諸部はことごとく服し、毎年撫賞銀を莫大に節減した。初め、城中郭外は一望して丘墟であった。ここに至って軍民五万余家がおり、屯種は遠く五十里に及んだ。承宗はその功を上奏した。詔して都督僉事に抜擢し、総兵の銜を加えた。承宗はそこで後部を統べさせ、前部の趙率教と相掎角させた。督餉郎中楊呈秀が軍糧を侵奪し、副将徐漣がこれを激して変を起こし、崇煥の官署を包囲した。桂の家卒の勇猛を憚り、敢えて犯さず、隊を結んで東に走った。桂と崇煥は首悪を追い斬り、余衆を撫して還った。

原文時蒙古部落駐牧寧遠東鄙,遼民來歸者悉遭劫掠,承宗患之。四年二月,遣桂及總兵尤世祿襲之大淩河。諸部號泣西竄,東鄙以寧。拱兔、炒花、宰賽諸部陽受款而陰懷反側。桂善操縱,諸部鹹服,歲省撫賞銀不貲。初,城中郭外,一望丘墟。至是軍民五萬餘家,屯種遠至五十里。承宗上其功。詔擢都督僉事,加銜總兵。承宗乃令典後部,與前部趙率教相掎角。督餉郎中楊呈秀侵克軍糧,副將徐漣激之變,圍崇煥署。憚桂家卒勇猛,不敢犯,結隊東走。桂與崇煥追斬首惡,撫余眾而還。

六年正月、我が大清が数万騎をもって攻め来たり、遠近大いに震動し、桂と崇煥は死守した。初め西南の城隅を攻め、西洋紅夷砲を発し、攻撃者を多く傷つけた。翌日、南城に転じて攻め、火器を用いてこれを拒ぎ退け、包囲は解けた。帝は大いに喜び、都督同知に抜擢し、実授で総兵官とした。再び功を論じ、右都督を加え、副千戸を蔭し、世襲させた。桂は上疏して謝し、併せて前後の功績を自ら述べた。優詔で褒め答え、さらに左都督に進めた。

原文六年正月,我大清以數萬騎來攻,遠邇大震,桂與崇煥死守。始攻西南城隅,發西洋紅夷炮,傷攻者甚眾。明日轉攻南城,用火器拒卻之,圍解。帝大喜,擢都督同知,實授總兵官。再論功,加右都督,蔭副千戶,世襲。桂疏謝,並自敘前後功。優詔褒答,再進左都督。

桂は初め率教と深く相得ていた。この役において、率教が親しく救援しなかったことを怒り、互いに責め合った。帝はこれを聞き、勅を下して戒め励ました。しかるに崇煥はまた桂と不和となり、その意気驕矜にして僚属を謾罵することを言い、恐らくは封疆の大計を損なわんことを乞い、これを別鎮に移し、関外の事権を率教に帰せしめんとした。挙朝みな桂の用いるべきを知りながら、同城にいて或いは事を覆すを慮り、遂に召還した。督師王之臣は力説して桂の去るべからざるを言うも、召命は既に下った。また関門に用いることを請うた。崇煥は皆これを受け入れなかった。閏六月、乃ち故秩をもって中軍府事を僉書することを命じた。未だ幾ばくもなく、崇煥もまた自ら悔い、仍お王之臣の言を用いることを請うた。帝はこれを許し、桂に印を掛けて関門に移鎮し、兼ねて関外四路及び燕河・建昌諸軍を統べさせ、尚方剣を賜って事権を重んじた。

原文桂初與率教深相得。是役也,怒其不親救,相責望。帝聞之,下敕戒勉。而崇煥復與桂不和,言其意氣驕矜,謾罵僚屬,恐壞封疆大計,乞移之別鎮,以關外事權歸率教。舉朝皆知桂可用,慮同城或僨事,遂召還。督師王之臣力言桂不可去,而召命已下。又請用之關門。崇煥皆不納。閏六月乃命以故秩僉書中軍府事。未幾,崇煥亦自悔,請仍用之臣言,帝可之,命桂掛印移鎮關門,兼統關外四路及燕河、建昌諸軍,賜尚方劍以重事權。

七年五月、大清兵は錦州を囲み、兵を分けて寧遠を略した。桂は兵を遣わして救援したが、笊籬山に包囲された。桂は総兵尤世祿と共にこれに赴き、大戦して互角であった。遂に寧遠城に入り、崇煥と守禦の計を為した。俄かに大清兵は進んで城下に迫り、桂は副将尤世威等を率いて出城迎え、頗る殺傷があり、桂もまた身に重創を被った。捷報が聞こえ、太子太師を加え、世襲で錦衣僉事を蔭した。崇煥が休み去ると、之臣が再び督師となり、盛んに桂の才を推し、仍お寧遠に鎮することを請うた。時に蒙古炒花諸部が離散し、桂と之臣は多くこれを収めて麾下に置いた。

原文七年五月,大清兵圍錦州,分兵略寧遠。桂遣兵救,被圍笊籬山。桂與總兵尤世祿赴之,大戰相當。遂入寧遠城,與崇煥為守禦計。俄大清兵進薄城下,桂率副將尤世威等出城迎,頗有殺傷,桂亦身被重創。捷聞,加太子太師,世蔭錦衣僉事。及崇煥休去,之臣再督師,盛推桂才,請仍鎮寧遠。會蒙古炒花諸部離散,桂與之臣多收置之麾下。

莊烈帝が既に位を嗣ぐと、詔して之臣に袁応泰・王化貞の故轍を蹈ますなからしめ、併せて桂が之臣の意に阿ることを責めた。桂は遂に病を請い休みを乞うたが、許されなかった。崇禎元年七月、言官が交えて之臣を劾し、因って桂に及んだ。之臣は罷免され、桂もまた召還されて府に帰った。丁度大同総兵渠家楨が事を失い、桂を代わりに命じた。大同は久しく款を恃んで備えを弛め、插部が西侵し、順義王は遂に境に入り大掠した。家楨及び巡撫張翼明は死を論ぜられ、插部は遂に賞を挟んで去らなかった。桂が至ると、遍く八路七十二城堡を閲し、辺備は大いに修まり、軍民はこれに恃んで恐れ無かった。

原文莊烈帝已嗣位,詔之臣毋蹈袁應泰、王化貞故轍,並責桂阿之臣意。桂遂請病乞休,不允。崇禎元年七月,言官交劾之臣,因及桂。之臣罷,桂亦召還府。適大同總兵渠家楨失事,命桂代之。大同久恃款弛備,插部西侵,順義王遂入境大掠。家楨及巡撫張翼明論死,插部遂挾賞不去。桂至,遍閱八路七十二城堡,邊備大修,軍民恃以無恐。

明年冬十月、大清兵が近畿に入る。十一月、詔を諭して勤王を命ず。桂は五千騎を率いて入衛し、順義に次ぎ、宣府総兵侯世祿と共に戦って敗れ、遂に都城に趨った。帝は官を遣わして慰労し、万金を犒い、世祿と共に徳勝門に屯することを命じた。未だ幾ばくもなく、合戦し、世祿の兵は潰え、桂は独り前に進んで闘った。城上より大砲を発してこれを助けたが、誤って桂の軍を傷つけ、桂もまた負傷し、甕城に入って休むことを命じた。間もなく袁崇煥・祖大寿と共に召見され、桂は衣を解いて創を示し、帝は深く嘉嘆した。十二月朔、再び召見し、崇煥を獄に下し、桂に酒饌を賜い、関・寧の将卒を総理し、安定門外に営することを命じた。

原文明年冬十月,大清兵入近畿。十一月詔諭勤王。桂率五千騎入衛,次順義,與宣府總兵侯世祿俱戰敗,遂趨都城。帝遣官慰勞,犒萬金,令與世祿俱屯德勝門。無何,合戰,世祿兵潰,桂獨前鬥。城上發大炮佐之,誤傷桂軍,桂亦負傷,令入休甕城。旋與袁崇煥、祖大壽並召見,桂解衣示創,帝深嘉嘆。十二月朔復召見,下崇煥獄,賜桂酒饌,令總理關、寧將卒,營安定門外。

桂は驍ぎょう勇で敢然と戦った。配下の降丁は時に民を擾したが、桂は問うことができなかった。副将申甫の統べる所は多く市人であり、桂の軍はこれを凌いだ。夜に矢を発し、その営を驚かせ、死者があった。御史金声がこれを以て上聞し、帝もまた問わなかった。大寿の軍が東潰すると、乃ち桂を武経略に拝し、入衛諸軍を尽く統べさせ、尚方剣を賜い、出師を促した。桂は曰く「敵は勁く援け寡く、軽々に戦うべからず」。中使が急ぎを促すので、已むを得ず、黒雲龍・麻登雲・孫祖寿諸大将を督し、十五日に永定門外二里許に営を移し、柵を列ねて待った。大清兵は良郷より戻り、明日昧爽、精騎を以て四面よりこれを蹙めた。諸将は支えることができず、大敗し、桂及び祖寿は戦死し、雲龍・登雲は捕らえられた。帝は聞き、震悼し、礼部侍郎徐光啓を遣わして祭を致し、少師を贈り、世襲で錦衣僉事を蔭し、襲升三級を賜い、祭葬を賜い、有司に祠を建てさせた。

原文桂驍勇敢戰。所部降丁間擾民,桂不能問。副將申甫所統多市人,桂軍淩之。夜發矢,驚其營,有死者。御史金聲以聞,帝亦不問。及大壽軍東潰,乃拜桂武經略,盡統入衛諸軍,賜尚方劍,趣出師。桂曰:「敵勁援寡,未可輕戰。」中使趣之急,不得已,督黑雲龍、麻登雲、孫祖壽諸大將,以十五日移營永定門外二里許,列柵以待。大清兵自良鄉回,明日昧爽,以精騎四面蹙之。諸將不能支,大敗,桂及祖壽戰死,雲龍、登雲被執。帝聞,震悼,遣禮部侍郎徐光啟致祭,贈少師,世蔭錦衣僉事,襲升三級,賜祭葬,有司建祠。

孫祖寿、字あざなは必之、昌平の人。万暦年中に武郷試に挙げられ、固関把総を授かった。天啓二年、歴官して署都督僉事となり、薊鎮総兵官となった。

原文孫祖壽,字必之,昌平人。萬歷中舉武鄉試,授固關把總。天啟二年歷官署都督僉事,為薊鎮總兵官。

孫承宗が辺を行き、薊鎮三協十二路に三大将を分設することを議した。祖寿に西協を領せしめ、石匣・古北・曹家・墻子の四路を轄し、遵化に駐せしめた。而して江応詔に東協を領せしめ、関門に駐し、山海関・一片石・燕河・建昌の四路を轄せしめた。馬世龍に中協を領せしめ、三屯営に駐し、馬蘭・松棚・喜峰・太平の四路を轄せしめた。経略王在晋・総督王象乾は僉に謂う「永平に鎮を設くるは、本より山海を衛わんがためなり。今これを三屯に移せば、則ち山海を去ること四百里、応援に於いて疎なり。遵化は三屯を去ること僅か六十里、今両鎮を並列するは、建牙に於いて贅なり。請う、世龍をして仍お永平に鎮せしめ、東協四路を分かち世龍・応詔に隷せしめ、而して中・西二協を専ら祖寿に隷せしめ、仍お三屯に鎮せしめん」。章は兵部に下り、署事侍郎張経世は議してその言の如くし、承宗は堅く初めの如く執した。乃ち祖寿に命じて遵化に移鎮せしめた。七年、錦州が警を告げ、祖寿は赴援したが、敢えて戦わず、劾せられて罷め帰った。是に及び都城が兵に被られると、家財を散じ、部曲ぶきょくを招き回し、満桂に従って闘いに赴き、竟に死し、贈恤は制の如くした。

原文孫承宗行邊,議於薊鎮三協十二路分設三大將。以祖壽領西協,轄石匣、古北、曹家、墻子四路,駐遵化。而江應詔領東協,駐關門,轄山海關、一片石、燕河、建昌四路。馬世龍領中協,駐三屯營,轄馬蘭、松棚、喜峰、太平四路。經略王在晉、總督王象乾僉謂:「永平設鎮,本以衛山海。今移之三屯,則去山海四百里,於應援為疏。遵化去三屯止六十里,今並列兩鎮,於建牙為贅。請令世龍仍鎮永平,以東協四路分隸世龍、應詔,而以中、西二協專隸之祖壽,仍鎮三屯。」章下兵部,署事侍郎張經世議如其言,承宗堅執如初。乃命祖壽移鎮遵化。七年,錦州告警,祖壽赴援,不敢戰,被劾罷歸。及是都城被兵,散家財,招回部曲,從滿桂赴鬥,竟死,贈恤如制。

祖寿は初め固関を守り、危疾に罹った。妻張氏は臂を割いて以て療し、飲食を絶つこと七日。祖寿は生き、而して張氏は間もなく死に、遂に終身婦人に近づかなかった。大帥となり、部将が五百金をその子の家に遺したが、却けて受けなかった。他日来省するに、之に卮酒を賜いて曰く「金を却けた一事、善く吾が心を体せり、然らずんば法汝を宥さじ」。その義を秉り節を執ること此の如し。

原文祖壽初守固關,遘危疾,妻張氏割臂以療,絕飲食者七日。祖壽生,而張氏旋死,遂終身不近婦人。為大帥,部將以五百金遺其子於家,卻不受。他日來省,賜之卮酒曰:「卻金一事,善體吾心,否則法不汝宥也。」其秉義執節如此。

趙率教、陜西の人。万暦年中、歴官して延綏参将となり、屡々戦功を著した。已に、劾せられて罷む。遼事急なり、詔して廃将で家丁を蓄える者を軍前に赴かせて功を立てしむ。率教は経略袁応泰に知られ、副総兵に抜擢され、中軍事を典じた。

原文趙率教,陜西人。萬歷中,歷官延綏參將,屢著戰功。已,劾罷。遼事急,詔廢將蓄家丁者赴軍前立功。率教受知於經略袁應泰,擢副總兵,典中軍事。

天啓元年、遼陽破れ、率教は潜逃し、罪は死に当たるも、幸いに免れた。明年、王化貞が広寧を棄て、関外諸城尽く空し。率教は経略王在晋に請い、願わくは前屯衛城を収復せんとし、家丁三十八人を率いて往かんとした。蒙古はその地を占拠し、進むを敢えず、中前所に抵って止まった。その年、遊撃魯之甲が枢輔孫承宗の令を以て、難民六千口を救い、前屯に至り、蒙古を尽く郊外に駆逐した。率教は乃ち入り得、難民を編次して兵と為し、雉堞を繕い、斥候を謹み、軍府は是より粗く立った。既にして承宗は裨将ひしょう陣練に川・湖の土兵を率い来たり助けしめ、前屯の守り始めて固し。而して率教の招く流亡は五六万に至った。その壮なる者を択びて軍に従わせ、悉く訓練を加えた。余りには牛種を与え、大いに屯田を興し、身自ら督課し、手足胼胝に至った。承宗は関を出て閲視し、大いに喜び、己の乗る輿を以て之に贈った。

原文天啟元年,遼陽破,率教潛逃,罪當死,幸免。明年,王化貞棄廣寧,關外諸城盡空。率教請於經略王在晉,願收復前屯衛城,率家丁三十八人以往。蒙古據其地,不敢進,抵中前所而止。其年,遊擊魯之甲以樞輔孫承宗令,救難民六千口,至前屯,盡驅蒙古於郊外。率教乃得入,編次難民為兵,繕雉堞,謹斥堠,軍府由是粗立。既而承宗令裨將陣練以川、湖土兵來助,前屯守始固。而率教所招流亡至五六萬。擇其壯者從軍,悉加訓練。余給牛種,大興屯田,身自督課,至手足胼胝。承宗出關閱視,大喜,以己所乘輿贈之。

蒙古の虎墩兔は素より総督王象乾に撫でられていた。その部下に抽扣兒という者あり、盗みを善くし、率教は四人を捕らえて斬った。招撫僉事萬有孚は率教と隙あり、遂に故に款事を敗ったことを以て之を象乾に訴えた。象乾は兵部尚書董漢儒に告げ、将に之を斬らんとしたが、承宗が漢儒に書を貽ったことに頼り、死を免れた。

原文蒙古虎墩兔素為總督王象乾所撫。其部下抽扣兒者,善為盜,率教捕斬四人。招撫僉事萬有孚與率教有隙,遂以故敗款事訴之象乾。象乾告兵部尚書董漢儒,將斬之,賴承宗貽書漢儒,得不死。

時に孫承宗は関内と関外を五部に分けた。馬世龍・王世欽・尤世祿に中・左・右部を統領させ、趙率教と副将の孫諫に前・後部を統領させた。各部はそれぞれ一万五千人であった。率教は依然として前屯に駐屯した。四年九月、承宗は朝廷にその功績を顕彰した。都督僉事に署任し、総兵の官銜を加えられた。五年冬、承宗が去り、高第が代わって来ると、諸将は多く更迭された。率教は高第に巧みに仕え、高第もまた彼を信頼して任せた。

原文時承宗分關內外為五部。以馬世龍、王世欽、尤世祿領中、左、右部,而令率教與副將孫諫領前、後部,部各萬五千人。率教仍駐前屯。四年九月,承宗暴其功於朝。擢署都督僉事,加銜總兵。五年冬,承宗去,高第來代,諸將多所更置。率教善事第,第亦委信之。

六年二月、蒙古は寧遠が包囲された隙に乗じて平川・三山堡に侵入した。率教がこれを防ぎ、百余人を斬首し、二百匹の馬を奪い、高臺堡まで追撃して帰還した。勝利の報が聞こえると、帝は大いに喜び、直ちに都督同知に抜擢し、総兵官を実授して楊麒に代わって山海関を鎮守させた。まもなく功績を論じ、さらに右都督に進み、本衛の副千戸を世襲させた。時に満桂が寧遠を守り、これも盛名があり、率教とは深く意気投合していた。寧遠が包囲されると、率教は一都司・四守備を東へ派遣して援軍とした。桂はその遅滞を憎み、受け入れを拒否したが、袁崇煥の言葉によってようやく入城を許した。包囲が解けた後、率教は功績を分けようとした。桂は許さず、みずから救援に来なかったことを責めたので、二人は遂に不和となった。朝廷はこれを聞き、勅を下して戒め諭した。ところが桂はまた崇煥とも不和となった。そこで桂を召還し、率教に関内外の兵をすべて統率させ、寧遠に移鎮させた。

原文六年二月,蒙古以寧遠被圍,乘間入犯平川、三山堡。率教禦之,斬首百餘級,奪馬二百匹,追至高臺堡乃還。捷聞,帝大喜,立擢都督同知,實授總兵官,代楊麒鎮山海關。尋論功,再進右都督,世蔭本衛副千戶。時滿桂守寧遠,亦有盛名,與率教深相得。及寧遠被圍,率教遣一都司、四守備東援。桂惡其稽緩,拒不納,以袁崇煥言,乃令入。既解圍,率教欲分功。桂不許,且責其不親援,兩人遂有隙。中朝聞之,下敕戒諭。而桂又與崇煥不和。乃召還桂,令率教盡統關內外兵,移鎮寧遠。

七年正月、大清兵が南征して朝鮮を討った。率教は兵を督して三岔河に進み牽制したが、ついに功績はなかった。三月、崇煥は錦州・大淩河・中左所の三城を修築し、漸次に回復を図ることを議した。率教は錦州に移鎮して工事を護り、さらに左都督を加えられた。五月、大清兵が錦州を包囲すると、率教は宦官の紀用・副将の左輔・朱梅らとともに城に拠って固守した。大砲を発射し、多くを撃傷した。二十四日間相持し、包囲はようやく解けた。時に桂もまた寧遠で功績を挙げたため、「寧遠・錦州の大捷」と称された。魏忠賢らは重賞を蒙った。率教は太子少傅を加えられ、錦衣千戸を世襲させられた。

原文七年正月,大清兵南征朝鮮。率教督兵抵三岔河為牽制,卒無功。三月,崇煥議修築錦州、大淩河、中左所三城,漸圖恢復。率教移鎮錦州護工,再加左都督。五月,大清兵圍錦州,率教與中官紀用、副將左輔、朱梅等嬰城固守。發大炮,頗多擊傷。相持二十四日,圍始解。時桂亦著功寧遠,因稱「寧、錦大捷」。魏忠賢等蒙重賞。率教加太子少傅,蔭錦衣千戶,世襲。

崇禎元年八月、永平に移鎮し、薊鎮八路を兼轄した。一ヶ月余りして平遼将軍印を掛け、再び関門に移った。翌年、大清兵が大安口から南下した。率教は馳せて救援し、三昼夜で三屯営に到着した。総兵の朱国彦は入城を許さず、そこで馬を西へ向かわせた。十一月四日、遵化で戦い、流れ矢に当たって陣没し、全軍が尽く滅んだ。帝は聞いて痛悼し、恤典を賜り、祠を立てて祀らせた。

原文崇禎元年八月移鎮永平,兼轄薊鎮八路。逾月,掛平遼將軍印,再移至關門。明年,大清兵由大安口南下。率教馳援,三晝夜抵三屯營。總兵朱國彥不令入,遂策馬而西。十一月四日戰於遵化,中流矢陣亡,一軍盡歿。帝聞痛悼,賜恤典,立祠奉祀。

率教は将として廉潔で勇猛であり、士卒に恩恵をもって接し、身を励んで公務に奉じ、労苦を厭わず、満桂と並んで良将と称された。二人が既に死んでからは、ますます東方の事態を処理できる者がいなくなった。

原文率教為將廉勇,待士有恩,勤身奉公,勞而不懈,與滿桂並稱良將。二人既歿,益無能辦東事者。

朱国彦は崇禎二年四月に薊鎮中協総兵官となり、三屯営に駐屯した。十一月六日、大清兵が城に迫ると、副将の朱来同らは家族を連れて密かに逃亡した。国彦は憤慨し、彼らの姓名を大通りに掲示した。蓄えていた俸銀五百余両と衣服・器具をすべて部下の兵卒に与えた。冠帯を整えて西に向かって稽首し、妻の張氏とともに縊死した。

原文國彥以崇禎二年四月為薊鎮中協總兵官,駐三屯營。十一月六日,大清兵臨城,副將朱來同等挈家潛遁。國彥憤,榜諸人性名於通衢。以所積俸銀五百餘、衣服器具盡給部卒。具冠帶西向稽首,偕妻張氏投繯死。

官惟賢は、万暦の末に甘粛裴家営の守備となった。天啓二年に都司僉書として鎮番参将の事務を署理し、宣府遊撃・延綏西路参将を歴任し、再び鎮番に移った。五年春、河套・松山の諸部が侵入したので、惟賢は参将の丁孟科とともにこれを大破し、二百四十余級を斬首した。翌年春、班記刺麻臺吉が再び松山の銀定・歹成および矮木素・三児臺吉と結び、三千騎で来犯した。惟賢は再びこれを破り、二百余りの首級を獲た。三児臺吉は傷ついて死んだ。惟賢を副総兵に進めた。その冬、銀定らは三児の死を憤りとして報復を図り、さらに河套の土巴臺吉らを糾合して分道して侵入略奪した。惟賢と鎮将の徐永寿らもまた分道してこれを防ぎ、合わせて百六十の首級を獲た。七年春、銀定・賓兔・矮木素・班記刺麻が土賣火力赤らと合流して黒水河から侵入した。惟賢と西路副将の陳洪範がこれを大破し、百八十余級を斬首した。この時、西部は頻繁に辺境を寇し、惟賢はたびたびその鋒を挫いた。その秋、王之臣が遼東を督師し、惟賢に関門に赴くことを請うた。

原文官惟賢,萬歷未,為甘肅裴家營守備。天啟二年以都司僉書署鎮番參將事,歷宣府遊擊、延綏西路參將,仍移鎮番。五年春,河套、松山諸部入犯,惟賢偕參將丁孟科大敗之,斬首二百四十餘級。明年春,班記刺麻臺吉復糾松山銀定、歹成及矮木素、三兒臺吉,以三千騎來犯。惟賢再敗之,獲首功二百有奇。三兒臺吉被創死。進惟賢副總兵。其冬,銀定等以三兒之死挾憤圖報,益糾河套土巴臺吉等分道入掠。惟賢及鎮將徐永壽等亦分道拒之,共獲首功百有六十。七年春,銀定、賓兔、矮木素、班記刺麻合土賣火力赤等由黑水河入。惟賢及西路副將陳洪範大破之,斬首百八十餘級。當是時,西部頻寇邊,惟賢屢挫其鋒。其秋,王之臣督師遼東,乞惟賢赴關門。

翌年、崇禎と改元し、惟賢が到着すると、山海北路副総兵に任用した。二年冬、京師に警報があった。惟賢は入衛し、総理の馬世龍が宝坻・漷県への急援を命じた。翌年正月九日、大清兵が撫寧から山海へ向かった。翌日、鳳凰店に至り、関から三十里の地に三つの営を列ねた。惟賢は参将の陳維翰らとともに二つの営を設けて待ち、合戦して互いに殺傷があった。やがて、大清兵は撫寧に戻り、世龍は惟賢に維翰および遊撃の張奇化・李居正・王世選・王成らを率いて遵化を襲撃するよう命じた。城西の波羅湾に至ると、城中の兵が出撃し、前鋒は決死の戦いをした。大清兵は城内に収まり、後隊は勢いに乗じて進攻したが、城上から矢石が雨のごとく降った。まもなくまた兵を遣わして出戦させ、惟賢は敵陣に突入し、矢に当たって死んだ。士卒の殺傷者は三百余人に及び、奇化もまた戦死した。

原文明年,崇禎改元,惟賢至,用為山海北路副總兵。二年冬,京師有警。惟賢入衛,總理馬世龍令急援寶坻、漷縣。明年正月九日,大清兵自撫寧向山海。翼日,至鳳凰店,離關三十里列三營。惟賢與參將陳維翰等設兩營以待,合戰,互有殺傷。已,大清兵返撫寧,世龍令惟賢率維翰及遊擊張奇化、李居正、王世選、王成等往襲遵化。至城西波羅灣,城中兵出擊,前鋒殊死戰。大清兵收入城,後隊乘勢進攻,城上矢石如雨。尋復遣兵出戰,惟賢陷陣,中箭死,士卒殺傷者三百餘人,奇化亦戰歿。

何可綱は遼東の人である。天啓年間、守備として袁崇煥の寧遠道中軍を掌り、廉潔で勇猛であり、士卒をよく慰撫した。六年、寧遠が包囲されると、崇煥を補佐して防禦に功績があり、都司僉書に進んだ。翌年再び兵禍に遭い、また堅守した。参将に遷り、寧遠副将の事務を署理した。崇禎元年、巡撫の畢自肅が中軍を掌るよう命じた。崇煥が再び出鎮すると、また副将として中軍の事務を領し、十三営の変乱を平定した。崇煥は大将を更置しようとし、上奏して言った。「臣がかつて巡撫であった時、関外にはただ一総兵を設けると定議した。その時、魏忠賢が権柄を窃み、崔呈秀は私党を用いようとして、三四人を増設したため、権勢が相衡し、手足のように動かなくなった。そこで寧遠と前鋒の二人だけを留め置いたが、手足の動かないのは依然として同じであった。臣は思うに、寧遠一路は断じて前鋒に併せて帰すべきである。関内に駐屯する総兵は、平遼将軍印を掛け、山・石の二路を管轄し、前屯をこれに隷属させる。関外に駐屯する総兵は、征遼前鋒将軍印を掛け、寧遠一衛を管轄し、錦州をこれに隷属させる。薊遼総兵の趙率教は長く遼事に習熟しているので、山海の麻登雲と互いに交代させ、平遼将軍印を掛けるのがよい。関外の総兵には旧来、朱梅・祖大寿がいた。梅は既に解任されているので、ともに大寿に帰し、錦州に駐屯させ、臣の中軍である何可綱に専ら寧遠を防備させるのがよい。可綱は仁愛があり勇猛で、廉潔でよく勤勉であり、事に臨んで善く謀り、その才は臣の下にない。臣がかつて立てた業績は、実に可綱の力によるものである。都督僉事を加え、依然として臣の中軍を掌らせてほしい。そうすれば一鎮の費用は削減されても、一鎮の用は依然として存するであろう。臣が妄りに五年で凱歌を奏すると言ったのは、この三人の力によるものであり、用いて効果がなければ、臣の罪を治めてほしい。」帝はすべてこれに従った。可綱は崇煥を補佐して軍制を改定し、歳に百二十万有余の兵糧を節減した。春秋二度の防備の功績により、職を右都督に進めた。

原文何可綱,遼東人。天啟中,以守備典袁崇煥寧遠道中軍,廉勇善撫士卒。六年,寧遠被圍,佐崇煥捍禦有功,進都司僉書。明年再被兵,復堅守。遷參將,署寧遠副將事。崇禎元年,巡撫畢自肅令典中軍。及崇煥再出鎮,復以副將領中軍事,靖十三營之變。崇煥欲更置大將,上言:「臣昔為巡撫,定議關外止設一總兵。其時魏忠賢竊柄,崔呈秀欲用其私黨,增設三四人,以致權勢相衡,臂指不運。乃止留寧遠及前鋒二人,而臂指之不運猶故也。臣以為寧遠一路,斷宜並歸前鋒。總兵駐關內者,掛平遼將軍印,轄山、石二路,而以前屯隸之。駐關外者,掛征遼前鋒將軍印,轄寧遠一衛,而以錦州隸之。薊遼總兵趙率教久習遼事,宜與山海麻登雲相易,掛平遼將軍印。關外總兵舊有朱梅、祖大壽。梅已解任,宜並歸大壽,駐錦州,而以臣中軍何可綱專防寧遠。可綱仁而有勇,廉而能勤,事至善謀,其才不在臣下。臣向所建豎,實可綱力,請加都督僉事,仍典臣中軍。則一鎮之費雖裁,一鎮之用仍在。臣妄謂五年奏凱者,仗此三人之力,用而不效,請治臣罪。」帝悉從之。可綱佐崇煥更定軍制,歲省餉百二十萬有奇。以春秋二防功,進職右都督。

二年の冬、京師が兵に襲われた時、大寿と共に崇煥に従って入衛し、幾度か功績を挙げた。崇煥が獄吏に下されると、大寿に従って東へ潰走し、また帰朝した。翌年正月、永平・灤州が陥落すると、可綱は古冶郷及び双望で戦い、かなりの斬獲があった。四月、枢輔孫承宗は可綱に命じて諸将を督し双望の諸山に営を築かせ、永平の軍を引きつけておいた。大寿ら諸軍に命じて直ちに灤州へ向かわせた。灤州が回復すると、大清兵は永平を放棄して去り、可綱は遂にその城に入った。功績を論じ、太子太保・左都督を加えられた。やがて錦州が包囲されると、可綱は諸将を督して救援に赴き、郵馬山で功を立て、さらに位階を進められた。四年、大凌河に城を築き、可綱に大寿と共に版築を護るよう命じた。八月に竣工したばかりの時、大清が十万の兵をもって攻めて来たので、可綱らは堅守して陥落させなかった。長くして糧食が尽き、援軍も絶えた。大寿及び諸将は皆降伏を望んだが、可綱だけは従わず、二人の者に城外へ連れ出されて殺されるよう命じられた。可綱は顔色一つ変えず、一言も発せず、笑みを浮かべて死んだ。

原文二年冬,京師被兵,與大壽從崇煥入衛,數有功。崇煥下吏,乃隨大壽東潰,復與歸朝。明年正月,永平、灤州失守,可綱戰古冶鄉及雙望,頗有斬獲。四月,樞輔孫承宗令可綱督諸將營雙望諸山,以綴永平之師。令大壽諸軍直趨灤州。灤州既復,大清兵棄永平去,可綱遂入其城。論功,加太子太保、左都督。已而錦州被圍,可綱督諸將赴救,立功郵馬山,復進秩。四年築城大淩河,命可綱偕大壽護版築。八月甫竣工,大清以十萬眾來攻,可綱等堅守不下。久之,糧盡援絕。大壽及諸將皆欲降,獨可綱不從,令二人掖出城外殺之,可綱顏色不變,亦不發一言,含笑而死。

黄龍は遼東の人である。初め小校として錦州回復に従い、功を積んで参将となった。崇禎三年、大軍に従って灤州を回復し、功績第一となり、副総兵に昇進した。まもなく功績を論じて三等進階し、都督僉事となり、世蔭で副千戸となった。登萊巡撫孫元化は劉興治が東江で乱を起こしたため、黄龍を派遣して鎮撫するよう請うた。兵部尚書梁廷棟もまた黄龍を総兵官に推薦し、元化と共に四衛を回復させるよう、これに従った。

原文黃龍,遼東人。初以小校從復錦州,積功至參將。崇禎三年從大軍復灤州,功第一,遷副總兵。尋論功進秩三等,為都督僉事,世蔭副千戶。登萊巡撫孫元化以劉興治亂東江,請龍往鎮。兵部尚書梁廷棟亦薦龍為總兵官,與元化恢復四衛,從之。

先に、毛文龍が死ぬと、袁崇煥はその兵二万八千を四協に分け、副将陳継盛、参将劉興治・毛承祚・徐敷奏にこれを統率させた。後に二協に改め、継盛が東協を領し、興治が西協を摂した。詳細は『崇煥伝』にある。興治は凶暴狡猾で乱を好み、継盛と相容れなかった。その兄の参将興祚が陣没したが、継盛は誤って諜報を聞き、死んでいないと言った。興治は憤り、日を選んで興祚の喪を治め、諸将は皆弔問した。継盛が到着すると、伏兵を以てこれを捕らえ、併せて理餉経歴劉応鶴ら十一人を捕らえた。袖から一書を出し、衆に宣して、これは継盛が興祚の詐死を誣告し、また謀叛を誣告して己を陥れたものだと偽り、遂に継盛及び応鶴らを殺した。また偽って島中の商民の奏文一通を作り、興祚の優恤を請うと共に、興治に東江を鎮守させるよう求めた。朝廷全体が大いに驚いたが、海外のことゆえ詰問する暇がなかった。興治は諸兄弟と共に長山島に舟を出し、大いに殺掠をほしいままにした。島は登州から四十里の距離である。時に登萊総兵官張可大は永平救援に赴いていたが、帝は廷棟の言を用い、可大を急ぎ登州に還らせ、副将周文郁に大将の印を授け、興治を撫定させるよう命じた。ちょうど永平が既に回復したので、興治はやや収まり、東江に戻った。黄龍が皮島に赴任して事務を執ると、興治は依然として桀驁なままだった。四年三月、再び乱を起こし、その弟興基を杖ち、参将沈世魁の家族を殺した。世魁はその党を率いて夜襲し興治を殺し、乱はようやく鎮定した。

原文先是,毛文龍死,袁崇煥分其兵二萬八千為四協,命副將陳繼盛,參將劉興治、毛承祚、徐敷奏主之。後改為兩協,繼盛領東協,興治攝西協。語詳《崇煥傳》。興治兇狡好亂,與繼盛不相能。其兄參將興祚陣亡,繼盛誤聽諜報,謂未死。興治憤,擇日為興祚治喪,諸將鹹吊。繼盛至,伏兵執之,並執理餉經歷劉應鶴等十一人。袖出一書,宣於眾,詭言此繼盛誣興祚詐死,及以謀叛誣陷己者,遂殺繼盛及應鶴等。又偽為島中商民奏一通,請優恤興祚,而令興治鎮東江。舉朝大駭,以海外未遑詰也。興冶與諸弟兄放舟長山島,大肆殺掠。島去登州四十里。時登萊總兵官張可大赴援永平,帝用廷棟言,趣可大還登州,授副將周文郁大將印,令撫定興冶。會永平已復,興治稍戢,返東江。龍蒞皮島受事,興治猶桀驁如故。四年三月復作亂,杖其弟興基,殺參將沈世魁家眾。世魁率其黨夜襲殺興治,亂乃定。

遊撃耿仲明の党である李梅という者が、密貿易の事が発覚し、黄龍がこれを獄に繋いだ。仲明の弟で都司の仲裕が黄龍の軍中にあり、乱を謀った。十月、部卒を率いて糧秣請求を名目に黄龍の官署を包囲し、演武場に連行し、股を折り耳鼻を切り取り、殺そうとした。諸将が救って免れた。間もなく、黄龍は仲裕を捕らえて斬り、上疏して仲明の罪を正すよう請うた。ちょうど元化が黄龍が兵糧を削って兵の騒動を招いたと弾劾し、帝は黄龍を事官に充てるよう命じ、仲明の主使の状況を審査した。仲明は遂に孔有徳と共に反し、五年正月に登州を陥落させ、島中の諸将を招いた。旅順副将陳有時、広鹿島副将毛承祿は皆これに従って行った。黄龍は急ぎ尚可喜・金声桓らを派遣して諸島を撫定させ、自らその地を巡視し、商民を慰撫し、叛党を誅し、火を放ってその舟を焼いた。賊党の高成友という者が旅順を占拠し、関寧・天津からの援軍を遮断した。黄龍は遊撃李維鸞に命じて可喜らと共にこれを撃退し、直ちにその地に移駐し、援軍の道がようやく通じた。その冬、有徳らは登州を放棄して海へ逃れようとしたので、黄龍は副将龔正祥に舟師四千を率いさせて廟島でこれを遮ろうとした。颶風が舟を破壊し、正祥は賊中に陥った。後に登州に居て、内応を謀ったが、事が露見して殺された。初め、黄龍は旅順に駐屯して大いに兵を整えた。賊は黄龍の母・妻及び子を拘束して脅したが、黄龍は顧みなかった。

原文遊擊耿仲明之黨李梅者,通洋事覺,龍系之獄。仲明弟都司仲裕在龍軍,謀作亂。十月率部卒假索餉名圍龍署,擁至演武場,折股去耳鼻,將殺之。諸將為救免。未幾,龍捕斬仲裕,疏請正仲明罪。會元化劾龍克餉致兵嘩,帝命充為事官,而核仲明主使狀。仲明遂偕孔有德反,以五年正月陷登州,招島中諸將。旅順副將陳有時、廣鹿島副將毛承祿皆往從之。龍急遣尚可喜、金聲桓等撫定諸島,而躬巡其地,慰商民,誅叛黨,縱火焚其舟。賊黨高成友者據旅順,斷關寧、天津援師。龍令遊擊李維鸞偕可喜等擊走之,即移駐其地,援始通。其冬,有德等欲棄登州走入海,龍遣副將龔正祥率舟師四千邀之廟島。颶風破舟,正祥陷賊中。後居登州,謀為內應,事露被殺。初,龍駐旅順大治兵。賊拘龍母妻及子以脅之,龍不顧。

六年二月、有徳・仲明は幾度も巡撫朱大典に敗れ、海路で遁走した。黄龍は有徳らが必ず遁走し、遁走には必ず旅順を経由すると推測し、邀撃した。有徳は危うく捕らえられそうになりながら逃れた。賊の首魁李九成の子応元を斬り、毛承祿・蘇有功・陳光福及びその党高誌祥ら十六人を生け捕りにし、首級一千余りを獲、奪還した婦女は数えきれず、朝廷に俘虜を献じた。帝は大いに喜び、承祿らを磔刑に処し、首を九辺に伝示し、黄龍の官職を回復させた。承祿は、文龍の族家の子である。

原文六年二月,有德、仲明屢為巡撫朱大典所敗,航海遁去。龍度有德等必遁,遁必經旅順,邀擊之。有德幾獲而逸。斬賊魁李九成子應元,生擒毛承祿、蘇有功、陳光福及其黨高誌祥等十六人,獲首級一千有奇,奪還婦女無算,獻俘於朝。帝大喜,磔承祿等,傳首九邊,復龍官。承祿,文龍族家子也。

有徳らは大いに憤り、黄龍に報復しようとした。ちょうど賊舟が鴨緑江に停泊していたので、黄龍は水師を全て出動させてこれを剿討した。七月、有徳らは旅順が空虚であると偵知し、遂に大清兵を引き連れて襲来した。黄龍は幾度か戦ったが皆敗れ、火薬も矢石も尽きた。部将譚応華に言った。「敵は多く我は少ない。今夕、城は必ず陥落する。もし速やかに我が印を持って登州に送ることができなければ、海に投じてもよい。」応華が出て行くと、黄龍は維鸞らを率いて力戦した。包囲が切迫し、脱出できないと知ると、自ら剣で首を刎ねて死んだ。維鸞及び諸将の項祚臨・樊化龍・張大禄・尚可義は皆これに殉じて死んだ。事が聞こえ、黄龍に左都督を追贈し、祭葬を賜り、世蔭を与え、「顕忠」という祠を建てた。維鸞らはこれに附祀された。副総兵沈世魁を以て黄龍に代わって総兵官とした。

原文有德等大憤,欲報龍。會賊舟泊鴨綠江,龍盡發水師剿之。七月,有德等偵知旅順空虛,遂引大清兵來襲。龍數戰皆敗,火藥矢石俱盡,語部將譚應華曰:「敵眾我寡,今夕城必破。若速持吾印送登州,不能赴,即投諸海可也。」應華出,龍率惟鸞等力戰。圍急,知不能脫,自剄死。惟鸞及諸將項祚臨、樊化龍、張大祿、尚可義俱死之。事聞,贈龍左都督,賜祭葬,予世蔭,建祠曰:「顯忠」。惟鸞等附祀。以副總兵沈世魁代龍為總兵官。

世魁は元は市井の商人で、その娘は殊色があり、毛文龍の側室となった。世魁はその勢いを頼みとして島中で横行し、ここに至って大帥となった。七年二月、広鹿島副将尚可喜が我が大清に降り、島中の勢力はますます孤立した。十年、朝鮮が危急を告げると、世魁は軍を移して皮島に駐屯し声援とした。有徳らが襲来し、世魁は戦いに敗れ、舟師を率いて石城に逃れた。副将金日観が陣没した。登萊総兵陳洪範が来援したが、戦わずして逃走した。世魁もまた陣没し、士卒の死傷者は一万余りに及んだ。甥の副将誌科が潰走した兵卒を集めて長城島に至り、世魁の勅印を得ようとした。監軍副使黄孫茂が与えなかったので、誌科は怒ってこれを殺し、併せて理餉通判邵啓を殺した。副将白登庸は遂に配下を率いて大清に降った。諸島には残兵があったが、軍を成すことができず、朝廷もまた大帥を置かず、登萊総兵が遥かにこれを領するだけであった。翌年夏、楊嗣昌は決策してその兵民を全て寧・錦に移し、諸島は空となった。

原文世魁本市儈,其女有殊色,為毛文龍小妻。世魁倚勢橫行島中,至是為大帥。七年二月,廣鹿島副將尚可喜降於我大清,島中勢益孤。十年,朝鮮告急,世魁移師皮島為聲援。有德等來襲,世魁戰敗,率舟師走石城,副將金日觀陣歿。登萊總兵陳洪範來援,不戰而走。世魁亦陣亡,士卒死傷者萬餘。從子副將誌科集潰卒至長城島,欲得世魁敕印。監軍副使黃孫茂不予,誌科怒殺之,並殺理餉通判邵啟。副將白登庸遂率所部降大清。諸島雖有殘卒,不能成軍,朝廷亦不置大帥,以登萊總兵遙領之而已。明年夏,楊嗣昌決策盡徙其兵民寧、錦,而諸島一空。

金日観

原文金日觀

金日観は、何処の者か知れない。天啓五年に将才を以て守備に任じられ、関門にて効力した。鎮標中軍遊撃に抜擢され、参将を加えて薊鎮東路遊撃事を行い、専ら南兵を統率した。崇禎初年、副総兵を加えられ、馬蘭峪を守った。三年正月、大清の兵が京東の諸城を破った。兵部侍郎劉之綸が部将の呉応龍らを遣わして毛山に営を結ばせ、羅文谷関を奪取せんと図った。軍は敗れ、日観は二将を馳せて援けさせたが、これもまた敗れて戦死した。大清の兵は勝ちに乗じて府君・玉皇の二山を占拠し、馬蘭城を攻撃すること甚だ急であった。日観は堅く守り、自ら大砲に点火した。砲が炸裂し、頭と手足を焼かれたが、意気は衰えなかった。総理の馬世龍に援けを乞うた。参将の王世選らを赴かせて救わせたので、兵はようやく退いた。間もなくまた二千余騎を以て来攻し、日観は世選らとともに死守して陥落させなかった。朝廷はその功を賞し、急遽都督同知を加えた。四月、副将の謝尚政・曹文詔らとともに大安城を攻め復し、ついに諸軍とともに遵化を回復した。功績を記録され、左都督に進んだ。時に総兵の鄧玘は馬蘭・松棚の二路を管轄し、日観はその節制を受けるべきであった。玘が都督同知の官位にあることを恨み、その下に立つことを潔しとしなかった。総督の曹文衡が日観を器量が小さく満ち易く、功を恃んで驕り放縦であると弾劾したが、帝は特に戒飭を与えたのみであった。久しくして、萊州副総兵に移った。十年春、大清の兵が朝鮮を攻めたので、登萊総兵の陳洪範に従って救援に赴くことを命じられ、皮島に軍を駐めた。大清は孔有徳・耿仲明・尚可喜らを遣わして先ず鉄山を攻撃させた。四月、兵を分けて皮島を攻め、水陸より挟撃した。副将の白登庸が先に遁走し、洪範もまた石城に避走した。登庸は間もなく配下を率いて降った。日観は諸将の楚継功らとともに七昼夜相持し、力支えず、陣にて戦死し、島城は続いて陥落した。特進光禄大夫・太子太師を贈られ、世蔭として錦衣副千戸を賜り、祠が建てられた。継功らには贈恤に差等があった。

原文金日觀,不知何許人。天啟五年以將才授守備,效力關門。擢鎮標中軍遊擊,加參將行薊鎮東路遊擊事,專領南兵。崇禎初,加副總兵,守馬蘭峪。三年正月,大清兵破京東列城。兵部侍郎劉之綸遣部將吳應龍等結營毛山,規取羅文谷關。師敗,日觀遣二將馳援,亦敗歿。大清兵乘勝據府君、玉皇二山,進攻馬蘭城甚急。日觀堅守,親然大炮。炮炸,焚頭目手足,意氣不衰。乞援於總理馬世龍。令參將王世選等赴救,兵乃退。尋復以二千餘騎來攻,日觀偕世選等死守不下。朝廷獎其功,驟加都督同知。四月,與副將謝尚政、曹文詔等攻復大安城,遂偕諸軍復遵化。錄功,進左都督。時總兵鄧玘轄馬蘭、松棚二路,日觀應受節制。以玘銜都督同知,不屑為之下。總督曹文衡劾日觀器小易盈,恃功驕縱,帝特戒飭而已。久之,移萊州副總兵。十年春,大清兵攻朝鮮,命從登萊總兵陳洪範往救,駐師皮島。大清遣孔有德、耿仲明、尚可喜等先攻鐵山。四月分兵攻皮島,水陸夾攻。副將白登庸先遁,洪範亦避走石城。登庸尋帥所部降。日觀偕諸將楚繼功等相持七晝夜,力不支,陣歿,島城隨破。贈特進光祿大夫、太子太師,世蔭錦衣副千戶,建祠。繼功等贈恤有差。

【賛】

原文【贊】

賛に曰く、古人に言有り、彼且つ我が為に死せんとす、故に我得て之と俱に生く、と。故に封疆に死するの臣は、君子之を重んず。遼左の諸帥を観るに、身を委ねて国に許し、危きを見て避けず、死する所を得たりと謂うべきか。時に優恤の典甚だ渥からざるに非ざるも、然れども危亡を救うに足らず。廟算定まらず、事を僨らす者誅せられず、文墨議論の徒従いて之を撓ぎ、徒らに忠義を激勧するも益無きなり。

原文贊曰:古人有言,彼且為我死,故我得與之俱生。故死封疆之臣,君子重之。觀遼左諸帥,委身許國,見危不避,可謂得死所者與!於時優恤之典非不甚渥,然而無救於危亡者,廟算不定,僨事者不誅,文墨議論之徒從而撓之,徒激勸忠義無益也。