明史

列傳第一百五十九 賀世賢 童仲揆 羅一貫 滿桂 趙率教 官惟賢 何可綱 黃龍 金日觀

○賀世賢(尤世功)童仲揆(陳策周敦吉等張神武等)羅一貫(劉渠祁秉忠)滿桂(孫祖壽)趙率教(朱國彥)官惟賢(張奇化)何可綱黃龍(李惟鸞)金日觀(楚繼功等)

賀世賢

賀世賢は、榆林衛の人である。若い頃は下働きをしていたが、後に軍に従い、功を重ねて瀋陽遊撃に至り、義州参将に遷った。万暦四十六年七月、清河が包囲されると、副将鄒儲賢が固守した。城が陥落し、親兵を率いて城南で激戦し、参将張旆と共に戦死した。部将二十人、兵民一万余が殲滅された。世賢は叆陽に駐屯していたが、変報を聞くと、疾駆して塞外に出て、首級百五十四を挙げ、副総兵に進んだ。

翌年、楊鎬が四路より出師した。世賢は李如柏の副将として清河より出た。劉綎が深入りして伏兵に遭い、世賢は如柏を勧めて救援に向かわせようとしたが、従わず、綎は遂に覆没した。まもなく都督ととく僉事に抜擢され、総兵官を充てられ、虎皮驛に駐屯した。鉄嶺が包囲されると、世賢は馳せて救援したが、城は既に陥落しており、邀撃して首級百余を挙げた。泰昌元年九月、灰山・撫安堡で連戦し、首級二百余を挙げた。この時、四方の宿将が鱗のごとく遼左に集まったが、多くは萎縮して戦おうとせず、ただ世賢のみがしばしば戦闘して功を立てたため、同僚たちは多くこれを忌んだ。瀋陽に移鎮した。経略袁応泰が降伏者受け入れの命令を下すと、広寧総兵李光栄は世賢が受け入れた者が多いことを疑い、その状況を上奏した。巡撫薛国用も三つの憂慮すべき点を奏上し、兵部尚書崔景栄は受け入れを拒み、既に受け入れた者は別の場所に置くよう請うた。しかし世賢が受け入れた者たちは結局解散させられず、同僚たちは遂に彼に異心ありと誹謗した。

天啓元年三月、我が大清が重兵をもって瀋陽に迫った。世賢及び総兵尤世功は塹壕を掘り、大木を立てて柵とし、楯車・火器・木石を並べ、城を巡らせて兵を配置し、城守の法を十分に整えた。大清はまず数十騎で偵察に来たが、世功の兵がこれを追跡し、四人を殺した。世賢は勇猛だが軽率で、酒を嗜んだ。ある朝酒を飲み、親兵千を率いて城を出て迎撃し、敵を殲滅して戻ることを期した。大清兵は偽って敗走し、世賢は鋭気に乗じて進んだ。たちまち精鋭の騎兵が四方から包囲し、世賢は戦いながら退却し、西門に至り、身に十四本の矢を受けた。城中で世賢の敗北を聞くと、兵民は鳥獣のごとく逃げ散り、降伏した兵が再び叛いて城外の吊り橋を断った。ある者が世賢に遼陽へ逃げるよう勧めたが、「我は大将として城を守れず、何の面目あって袁経略に会えようか」と言い、鉄鞭を振るって包囲の中を馳せ突き、数人を撃ち殺したが、矢に中って落馬し死んだ。世功が兵を率いて救援したが、これも戦死した。

世功もまた榆林の人である。万暦年間、武郷試に挙げられ、瀋陽遊撃を歴任した。張承蔭の敗戦の時、世功は脱出して帰還したが、職を剥奪された。経略楊鎬が彼が重傷を負いながらも、才能は激励に値すると言ったため、武精営遊撃に補された。鎬が四路より出師した時、世功は李如柏の麾下に属し、全軍を保った。まもなく副総兵として瀋陽を守った。熊廷弼が鎬に代わると、その才を愛し、副将朱万良と共に倚任した。廷弼が罷免され、袁応泰が代わると、三路より出師することを議し、世功を総兵官に用いようとした。出発せずして瀋陽が攻撃を受け、戦死した。少保・左都督を追贈され、世襲の恩蔭を三級増やし、さらに指揮僉事の恩蔭が加えられ、世襲とし、祭葬を賜り、「湣忠」と名付けた祠が建てられた。

世賢が死んだ後、ある者は彼が叛いて降ったのではないかと疑い、恩恤の典も及ばなかった。四川副使車樸が冤罪を訴えたが、衆議に阻まれて果たせなかった。

童仲揆

童仲揆は、南京の人である。武会試に挙げられ、都指揮を歴任し、四川都司を掌った。万暦末、副総兵に抜擢され、川兵を督いて遼東を救援し、同官の陳策と共に援剿総兵官を充てられた。熹宗が即位した初め、経略袁応泰が蒙古諸部を招き、遼・瀋の二城に置いた。仲揆は力を尽くして諫めたが、聞き入れられなかった。

翌年、天啓に改元し、応泰は清河・撫順に城を築こうとした。三路より出師することを議し、大将十人を用い、各々兵万余を将いようとし、仲揆と策はそのうちの二人に当たった。出発せずして、大清兵が既に瀋陽に迫った。二人は馳せて救援し、渾河に駐屯した。遊撃周敦吉が言うには、「事態は急を要します。直ちに瀋陽に進み、城中の兵と挟撃すれば、成功できます」。やがて瀋陽陥落を聞くと、諸将は皆憤慨して言った。「我らは瀋陽を救えず、ここに三年も何をしているのか」。敦吉は固く請うて石砫都司秦邦屏と先に河を渡り、橋の北に営した。仲揆・策及び副将戚金・参将張名世は浙兵三千を統率して橋の南に営した。邦屏が陣を結ぶやいなや、大清兵が攻めて来た。三度退却してはまた進み、諸軍は遂に敗れた。敦吉・邦屏及び参将呉文傑・守備雷安民等は皆死んだ。他の将は浙兵の営に逃げ込んだが、数重に包囲された。副将朱万良・姜弼は救援せず、包囲が切迫してからようやく前進したが、一戦して即ち敗走した。大清兵は全力を尽くして浙営を攻めた。営中は火器を用い、多くを殺傷した。火薬が尽き、短兵相接して、遂に大敗した。策は先に戦死し、仲揆は逃げようとしたが、金が止めたので、兵を返して戦った。力尽き矢も尽き、刀を揮って十七人を殺した。大清兵が万矢を一斉に放ち、仲揆は金・名世及び都司袁見龍・鄧起龍等と共に死んだ。万良は既に逃げたが、経略が斬ろうとしたので、罪を許して自ら功を立てることを請うた。遼陽が攻撃を受けた時、果たして敵陣に突入して死んだ。

遼左で用兵が始まって以来、将士は風の便りに奔潰するばかりであったが、ただこれのみが万余人をもって数万の衆に当たった。力尽きて覆没したとはいえ、当時は皆その壮挙を称えた。事が上聞され、策に少保・左都督を追贈し、世襲の恩蔭を三級増やし、さらに本衛指揮僉事の恩蔭が加えられ、世襲とし、祭葬を賜り、「湣忠」と名付けた祠が建てられた。仲揆には都督同知を追贈し、世襲の恩蔭を三級増やし、祭祀に預からせた。金・起龍には都督僉事を追贈し、世襲の恩蔭を三級増やし、付祀された。名世は先に罪があって獄に繋がれていたが、尚書薛三才がその火器の巧みさを推薦し、征討に従って功を立てることを命じられた。文傑も先に職を剥奪されていた。死後、共に官を復され、三級を追贈され、世襲の恩蔭を二級増やされた。見龍等は皆追贈と恩蔭が与えられ、他の副将から把総に至るまでの戦死者百二十余人には、それぞれ差等をつけて追贈と恩蔭がなされた。

敦吉は、先に四川永寧参将であった。永寧宣撫奢効忠が卒すると、子の崇明は幼く、その妻奢世統と妾の奢世継が印を争い、十数年攻撃し合った。後に崇明が職を襲うと、世継はなおも印を隠して与えなかった。都司張神武が敦吉と謀り、その蓄積した財物と子女をことごとく掠奪し、世継を捕らえて帰還した。その部の頭目閻宗伝が怒り、主母を求めることを名目に、永寧・赤水・普市・麾尼を大いに掠奪し、数百里が廃墟と化した。事が上聞され、敦吉・神武は共に死罪と論じられた。遼東が警報を告げると、敦吉に軍に従って自ら功を立てることを命じ、ここに至って激戦して死んだ。贈恤は定めに従って行われた。

神武は新建の人である。万暦年間に武会試に挙げられて第一となり、四川都司僉書に任ぜられた。既に死罪と論ぜられた後、遼左で兵乱が起こり、経略袁応泰の推薦により、詔を奉じて従征し功を立てることを命ぜられた。神武は親丁二百四十余人を率い、疾駆して広寧に至った。時に遼陽は既に失陥しており、巡撫薛国用は固く留めようとしたが、神武は肯ぜず、「命を奉じて遼陽を守るのであり、広寧を守るのではない」と言った。国用が「遼陽は既に陥ちた。君はどこへ行くのか」と問うと、「敵を殲滅せんとする」と答えた。「二百人で敵を殲滅できるか」と問うと、「できなければ、死ぬまでである」と言った。前に進んで遼河に至ると、逃げ帰る士卒十余万に出会った。神武は忠義をもってその将帥を激励し、共に還って戦おうとしたが、将帥は従わなかった。そこで独りで配下を率いて河を渡り、首山に至り、遼陽から十七里のところに駐屯した。将士は一日も食せず、大清兵に遭遇し、声をあげて奮撃したが、孤軍で援けなく、ことごとく陣に斃れた。監軍御史方震孺は神武の像を描き、将士を率いて羅列して拝礼し、文を作ってこれを祭った。詔して都督僉事を追贈し、世襲で千戸を蔭し、祠を立てて祀らせた。

また楊宗業・梁仲善という者がいた。皆、遼東を救援する総兵官である。宗業は歴任して浙江・山西を鎮守した。楊鎬の四路軍敗北後、兵を率いて赴援することを命ぜられ、ここに至って父子ともに戦死した。仲善もまた遼陽城下で戦死した。宗業には都督同知を追贈し、世襲で千戸を蔭し、仲善には都督僉事を追贈し、世襲の蔭を三級増やした。ともに祠に従祀させた。

羅一貫

羅一貫は甘州衛の人である。参将として西平堡を守った。遼陽が陥落すると、西平の地は最も要衝であり、一貫は全力で防禦した。巡撫王化貞が朝廷に上言し、副総兵に加えられた。時に化貞は広寧に駐屯し、経略熊廷弼は右屯に駐屯し、総兵劉渠は二万人を率いて鎮武を守り、祁秉忠は一万人を率いて閭陽を守り、一貫は三千人を率いて西平を守った。やがて議が定まり、それぞれ濠を修め塁を堅くし、危急の際は互いに救援し、違う者は必ず誅することとした。明年正月、大清兵が西へ河を渡り、経略・巡撫は軽々に戦うなと戒めた。兵が次第に近づくと、参将黒雲鶴が出撃した。一貫はこれを止めたが、従わなかった。翌日、雲鶴は戦いに敗れ、城に奔り還ったが、追兵に殲滅された。一貫は城に拠って固く拒み、砲を用いて撃ち傷つけた者は数えきれなかった。大清は旗を立てて降伏を招き、かつ使者を遣わして説得したが、一貫は従わなかった。また翌日、騎兵はますます多く、城をめぐって力攻めした。一貫は流れ矢が目に当たり、戦うことができなかった。火薬と矢石が尽きると、北面して再拝し、「臣の力は尽きました」と言い、自ら剣で頸を切った。都司陳尚仁・王崇信もまたこれに死した。化貞は城がまだ陥ちていないと知り、遊撃孫得功の言葉を信じ、広寧の兵をことごとく発した。得功及び中軍遊撃祖大寿を前鋒とし、秉忠と会して赴援するよう命じ、廷弼もまた使者を遣わして渠に進戦を督させ、平陽で大清兵に遭遇した。得功は異心を抱き、退去しようとした。そこで兵を左右の翼に分け、少し退き、渠・秉忠を前に推し出した。渠らは力戦し、かなりの殺傷を加えた。得功及び副将鮑承先が逃走し、後軍もこれを見て奔ったので、大いに潰走した。渠は戦死した。秉忠は二刀三矢を受け、家の者が扶けて馬上に乗せ、包囲を突破して出たが、創は重く、途中で卒した。副将劉征は十余人を撃ち殺してから死んだ。大寿は覚華島に逃げた。得功は遂に降伏した。二日を過ぎて、広寧は即時に陥落した。事が聞こえ、一貫に都督同知を追贈し、世襲で副千戸を蔭し、渠・秉忠には少保・左都督を追贈し、世襲の蔭を三級増やし、さらに指揮僉事を蔭した。皆、祭葬を賜り、祠を建ててともに祀らせた。

一貫の子俊傑は蔭を承け、崇禎年間に宣府総兵官に至ったが、免職されて帰った。李自成が甘州を犯すと、城は陥落し、これに死した。

渠は京城巡捕営の副将であり、御史楊鶴の推薦により、総兵官に抜擢され、遼東を援剿した。遼陽が包囲されると、広寧総兵李光栄は救援できず、かえって河の橋を断ち切り軍民の帰路を遮断したので、総督文球が弾劾して罷免し、即座に渠を代わりとした。西平が危急を告げると、鎮武の兵を率いて救援に向かい、遂に戦死した。

秉忠は陝西の人である。万暦四十四年、永昌参将となった。銀定・歹青が二千余騎を率いて塞内に入ると、秉忠は兵三百を提げてこれを拒ぎ、二昼夜転戦した。援軍が至って、初めて逃げ去った。秉忠は掠められた人畜を追い返し、辺境の人はこれを称えた。涼州副総兵に抜擢された。経略袁応泰がその智勇を推薦し、私卒を率いて蒲河を守らせた。到着すると遼陽は既に陥落しており、援剿総兵官に命ぜられ、閭陽に駐防し、西平を救援したが、ついに死した。

遼左で軍興が起こって以来、総兵官が陣歿した者は合わせて十四人である。撫順では張承蔭、四路出師では杜松・劉綎・王宣・趙夢麟、開原では馬林、瀋陽では賀世賢・尤世功、渾河では童仲揆・陳策、遼陽では楊宗業・梁仲善である。この戦役で、渠と秉忠がこれに続いた。朝廷の恤典は、ことごとく極めて優遇され崇められた。しかし軍を敗北させた将、李如柏・麻承恩らの輩は、ついに顕戮を受けなかった者もあった。

満桂は蒙古の人で、幼くして中国に入り、宣府に家を置いた。やや成長すると、騎射に長じた。征戦に従うたびに、多く首級を斬った。軍令では、敵の首一つを得れば一官を与え、そうでなければ白金五十両を賜うこととしていた。桂はたびたび金を得たが、職を受けなかった。壮年に及び、初めて総旗となった。また十余年して百戸となった。後にたびたび遷って潮河川守備となった。楊鎬の四路軍敗北後、知兵の小将数人を推薦し、まず桂に及んだ。黄土嶺に移って守った。総督王象乾に知られ、石塘路遊撃・喜峰口参将に進んだ。

天啓二年、大学士孫承宗が辺境を行くと、桂は入って謁見した。その容貌を壮とし、兵事について談じ、大いに奇とした。山海に出鎮すると、即座に副総兵に抜擢し、中軍の事を領させた。承宗の幕下には文武の士が輻輳したが、独り桂を用いた。桂は非常に朴訥であったが、忠勇は絶倫で、声色を好まず、士卒と苦楽を共にした。

明年、承宗は関を出て寧遠を修復することを議した。誰を守らせることができるかと問うた。馬世龍は孫諫及び李承先を推薦したが、承宗は皆許さなかった。袁崇煥・茅元儀が進み出て言うには、「満桂ができます。ただし公の中軍であるため、敢えて請いませんでした」と言った。承宗は「既にできるなら、中軍であることを問う必要はない」と言い、桂を呼んで語りかけると、慨然として行くことを請うた。世龍はなおその不可を疑ったが、承宗は聞き入れなかった。即日、酒を設け、自らこれを見送った。桂は寧遠に至り、崇煥と心を合わせて城を築き、屹然として重鎮となった。語は『崇煥伝』に詳しい。

時に蒙古の部落が寧遠の東鄙に駐牧し、帰順して来る遼民はことごとく劫掠に遭ったので、承宗はこれを憂えた。四年二月、桂及び総兵尤世祿を遣わして大淩河を襲撃させた。諸部は号泣して西に逃げ、東鄙はこれにより寧かとなった。拱兔・炒花・宰賽の諸部は表面上は款を受けながらも、内に反側を懐いていた。桂は操縦に長じ、諸部はことごとく服し、毎年撫賞銀を莫大に節減した。初め、城中郭外は一望して丘墟であった。ここに至って軍民五万余家がおり、屯種は遠く五十里に及んだ。承宗はその功を上奏した。詔して都督僉事に抜擢し、総兵の銜を加えた。承宗はそこで後部を統べさせ、前部の趙率教と相掎角させた。督餉郎中楊呈秀が軍糧を侵奪し、副将徐漣がこれを激して変を起こし、崇煥の官署を包囲した。桂の家卒の勇猛を憚り、敢えて犯さず、隊を結んで東に走った。桂と崇煥は首悪を追い斬り、余衆を撫して還った。

六年正月、我が大清が数万騎をもって攻め来たり、遠近大いに震動し、桂と崇煥は死守した。初め西南の城隅を攻め、西洋紅夷砲を発し、攻撃者を多く傷つけた。翌日、南城に転じて攻め、火器を用いてこれを拒ぎ退け、包囲は解けた。帝は大いに喜び、都督同知に抜擢し、実授で総兵官とした。再び功を論じ、右都督を加え、副千戸を蔭し、世襲させた。桂は上疏して謝し、併せて前後の功績を自ら述べた。優詔で褒め答え、さらに左都督に進めた。

桂は初め率教と深く相得ていた。この役において、率教が親しく救援しなかったことを怒り、互いに責め合った。帝はこれを聞き、勅を下して戒め励ました。しかるに崇煥はまた桂と不和となり、その意気驕矜にして僚属を謾罵することを言い、恐らくは封疆の大計を損なわんことを乞い、これを別鎮に移し、関外の事権を率教に帰せしめんとした。挙朝みな桂の用いるべきを知りながら、同城にいて或いは事を覆すを慮り、遂に召還した。督師王之臣は力説して桂の去るべからざるを言うも、召命は既に下った。また関門に用いることを請うた。崇煥は皆これを受け入れなかった。閏六月、乃ち故秩をもって中軍府事を僉書することを命じた。未だ幾ばくもなく、崇煥もまた自ら悔い、仍お王之臣の言を用いることを請うた。帝はこれを許し、桂に印を掛けて関門に移鎮し、兼ねて関外四路及び燕河・建昌諸軍を統べさせ、尚方剣を賜って事権を重んじた。

七年五月、大清兵は錦州を囲み、兵を分けて寧遠を略した。桂は兵を遣わして救援したが、笊籬山に包囲された。桂は総兵尤世祿と共にこれに赴き、大戦して互角であった。遂に寧遠城に入り、崇煥と守禦の計を為した。俄かに大清兵は進んで城下に迫り、桂は副将尤世威等を率いて出城迎え、頗る殺傷があり、桂もまた身に重創を被った。捷報が聞こえ、太子太師を加え、世襲で錦衣僉事を蔭した。崇煥が休み去ると、之臣が再び督師となり、盛んに桂の才を推し、仍お寧遠に鎮することを請うた。時に蒙古炒花諸部が離散し、桂と之臣は多くこれを収めて麾下に置いた。

莊烈帝が既に位を嗣ぐと、詔して之臣に袁応泰・王化貞の故轍を蹈ますなからしめ、併せて桂が之臣の意に阿ることを責めた。桂は遂に病を請い休みを乞うたが、許されなかった。崇禎元年七月、言官が交えて之臣を劾し、因って桂に及んだ。之臣は罷免され、桂もまた召還されて府に帰った。丁度大同総兵渠家楨が事を失い、桂を代わりに命じた。大同は久しく款を恃んで備えを弛め、插部が西侵し、順義王は遂に境に入り大掠した。家楨及び巡撫張翼明は死を論ぜられ、插部は遂に賞を挟んで去らなかった。桂が至ると、遍く八路七十二城堡を閲し、辺備は大いに修まり、軍民はこれに恃んで恐れ無かった。

明年冬十月、大清兵が近畿に入る。十一月、詔を諭して勤王を命ず。桂は五千騎を率いて入衛し、順義に次ぎ、宣府総兵侯世祿と共に戦って敗れ、遂に都城に趨った。帝は官を遣わして慰労し、万金を犒い、世祿と共に徳勝門に屯することを命じた。未だ幾ばくもなく、合戦し、世祿の兵は潰え、桂は独り前に進んで闘った。城上より大砲を発してこれを助けたが、誤って桂の軍を傷つけ、桂もまた負傷し、甕城に入って休むことを命じた。間もなく袁崇煥・祖大寿と共に召見され、桂は衣を解いて創を示し、帝は深く嘉嘆した。十二月朔、再び召見し、崇煥を獄に下し、桂に酒饌を賜い、関・寧の将卒を総理し、安定門外に営することを命じた。

桂はぎょう勇で敢然と戦った。配下の降丁は時に民を擾したが、桂は問うことができなかった。副将申甫の統べる所は多く市人であり、桂の軍はこれを凌いだ。夜に矢を発し、その営を驚かせ、死者があった。御史金声がこれを以て上聞し、帝もまた問わなかった。大寿の軍が東潰すると、乃ち桂を武経略に拝し、入衛諸軍を尽く統べさせ、尚方剣を賜い、出師を促した。桂は曰く「敵は勁く援け寡く、軽々に戦うべからず」。中使が急ぎを促すので、已むを得ず、黒雲龍・麻登雲・孫祖寿諸大将を督し、十五日に永定門外二里許に営を移し、柵を列ねて待った。大清兵は良郷より戻り、明日昧爽、精騎を以て四面よりこれを蹙めた。諸将は支えることができず、大敗し、桂及び祖寿は戦死し、雲龍・登雲は捕らえられた。帝は聞き、震悼し、礼部侍郎徐光啓を遣わして祭を致し、少師を贈り、世襲で錦衣僉事を蔭し、襲升三級を賜い、祭葬を賜い、有司に祠を建てさせた。

孫祖寿、字は必之、昌平の人。万暦年中に武郷試に挙げられ、固関把総を授かった。天啓二年、歴官して署都督僉事となり、薊鎮総兵官となった。

孫承宗が辺を行き、薊鎮三協十二路に三大将を分設することを議した。祖寿に西協を領せしめ、石匣・古北・曹家・墻子の四路を轄し、遵化に駐せしめた。而して江応詔に東協を領せしめ、関門に駐し、山海関・一片石・燕河・建昌の四路を轄せしめた。馬世龍に中協を領せしめ、三屯営に駐し、馬蘭・松棚・喜峰・太平の四路を轄せしめた。経略王在晋・総督王象乾は僉に謂う「永平に鎮を設くるは、本より山海を衛わんがためなり。今これを三屯に移せば、則ち山海を去ること四百里、応援に於いて疎なり。遵化は三屯を去ること僅か六十里、今両鎮を並列するは、建牙に於いて贅なり。請う、世龍をして仍お永平に鎮せしめ、東協四路を分かち世龍・応詔に隷せしめ、而して中・西二協を専ら祖寿に隷せしめ、仍お三屯に鎮せしめん」。章は兵部に下り、署事侍郎張経世は議してその言の如くし、承宗は堅く初めの如く執した。乃ち祖寿に命じて遵化に移鎮せしめた。七年、錦州が警を告げ、祖寿は赴援したが、敢えて戦わず、劾せられて罷め帰った。是に及び都城が兵に被られると、家財を散じ、部曲を招き回し、満桂に従って闘いに赴き、竟に死し、贈恤は制の如くした。

祖寿は初め固関を守り、危疾に罹った。妻張氏は臂を割いて以て療し、飲食を絶つこと七日。祖寿は生き、而して張氏は間もなく死に、遂に終身婦人に近づかなかった。大帥となり、部将が五百金をその子の家に遺したが、却けて受けなかった。他日来省するに、之に卮酒を賜いて曰く「金を却けた一事、善く吾が心を体せり、然らずんば法汝を宥さじ」。その義を秉り節を執ること此の如し。

趙率教、陜西の人。万暦年中、歴官して延綏参将となり、屡々戦功を著した。已に、劾せられて罷む。遼事急なり、詔して廃将で家丁を蓄える者を軍前に赴かせて功を立てしむ。率教は経略袁応泰に知られ、副総兵に抜擢され、中軍事を典じた。

天啓元年、遼陽破れ、率教は潜逃し、罪は死に当たるも、幸いに免れた。明年、王化貞が広寧を棄て、関外諸城尽く空し。率教は経略王在晋に請い、願わくは前屯衛城を収復せんとし、家丁三十八人を率いて往かんとした。蒙古はその地を占拠し、進むを敢えず、中前所に抵って止まった。その年、遊撃魯之甲が枢輔孫承宗の令を以て、難民六千口を救い、前屯に至り、蒙古を尽く郊外に駆逐した。率教は乃ち入り得、難民を編次して兵と為し、雉堞を繕い、斥候を謹み、軍府は是より粗く立った。既にして承宗は裨将陣練に川・湖の土兵を率い来たり助けしめ、前屯の守り始めて固し。而して率教の招く流亡は五六万に至った。その壮なる者を択びて軍に従わせ、悉く訓練を加えた。余りには牛種を与え、大いに屯田を興し、身自ら督課し、手足胼胝に至った。承宗は関を出て閲視し、大いに喜び、己の乗る輿を以て之に贈った。

蒙古の虎墩兔は素より総督王象乾に撫でられていた。その部下に抽扣兒という者あり、盗みを善くし、率教は四人を捕らえて斬った。招撫僉事萬有孚は率教と隙あり、遂に故に款事を敗ったことを以て之を象乾に訴えた。象乾は兵部尚書董漢儒に告げ、将に之を斬らんとしたが、承宗が漢儒に書を貽ったことに頼り、死を免れた。

時に孫承宗は関内と関外を五部に分けた。馬世龍・王世欽・尤世祿に中・左・右部を統領させ、趙率教と副将の孫諫に前・後部を統領させた。各部はそれぞれ一万五千人であった。率教は依然として前屯に駐屯した。四年九月、承宗は朝廷にその功績を顕彰した。都督僉事に署任し、総兵の官銜を加えられた。五年冬、承宗が去り、高第が代わって来ると、諸将は多く更迭された。率教は高第に巧みに仕え、高第もまた彼を信頼して任せた。

六年二月、蒙古は寧遠が包囲された隙に乗じて平川・三山堡に侵入した。率教がこれを防ぎ、百余人を斬首し、二百匹の馬を奪い、高臺堡まで追撃して帰還した。勝利の報が聞こえると、帝は大いに喜び、直ちに都督同知に抜擢し、総兵官を実授して楊麒に代わって山海関を鎮守させた。まもなく功績を論じ、さらに右都督に進み、本衛の副千戸を世襲させた。時に満桂が寧遠を守り、これも盛名があり、率教とは深く意気投合していた。寧遠が包囲されると、率教は一都司・四守備を東へ派遣して援軍とした。桂はその遅滞を憎み、受け入れを拒否したが、袁崇煥の言葉によってようやく入城を許した。包囲が解けた後、率教は功績を分けようとした。桂は許さず、みずから救援に来なかったことを責めたので、二人は遂に不和となった。朝廷はこれを聞き、勅を下して戒め諭した。ところが桂はまた崇煥とも不和となった。そこで桂を召還し、率教に関内外の兵をすべて統率させ、寧遠に移鎮させた。

七年正月、大清兵が南征して朝鮮を討った。率教は兵を督して三岔河に進み牽制したが、ついに功績はなかった。三月、崇煥は錦州・大淩河・中左所の三城を修築し、漸次に回復を図ることを議した。率教は錦州に移鎮して工事を護り、さらに左都督を加えられた。五月、大清兵が錦州を包囲すると、率教は宦官の紀用・副将の左輔・朱梅らとともに城に拠って固守した。大砲を発射し、多くを撃傷した。二十四日間相持し、包囲はようやく解けた。時に桂もまた寧遠で功績を挙げたため、「寧遠・錦州の大捷」と称された。魏忠賢らは重賞を蒙った。率教は太子少傅を加えられ、錦衣千戸を世襲させられた。

崇禎元年八月、永平に移鎮し、薊鎮八路を兼轄した。一ヶ月余りして平遼将軍印を掛け、再び関門に移った。翌年、大清兵が大安口から南下した。率教は馳せて救援し、三昼夜で三屯営に到着した。総兵の朱国彦は入城を許さず、そこで馬を西へ向かわせた。十一月四日、遵化で戦い、流れ矢に当たって陣没し、全軍が尽く滅んだ。帝は聞いて痛悼し、恤典を賜り、祠を立てて祀らせた。

率教は将として廉潔で勇猛であり、士卒に恩恵をもって接し、身を励んで公務に奉じ、労苦を厭わず、満桂と並んで良将と称された。二人が既に死んでからは、ますます東方の事態を処理できる者がいなくなった。

朱国彦は崇禎二年四月に薊鎮中協総兵官となり、三屯営に駐屯した。十一月六日、大清兵が城に迫ると、副将の朱来同らは家族を連れて密かに逃亡した。国彦は憤慨し、彼らの姓名を大通りに掲示した。蓄えていた俸銀五百余両と衣服・器具をすべて部下の兵卒に与えた。冠帯を整えて西に向かって稽首し、妻の張氏とともに縊死した。

官惟賢は、万暦の末に甘粛裴家営の守備となった。天啓二年に都司僉書として鎮番参将の事務を署理し、宣府遊撃・延綏西路参将を歴任し、再び鎮番に移った。五年春、河套・松山の諸部が侵入したので、惟賢は参将の丁孟科とともにこれを大破し、二百四十余級を斬首した。翌年春、班記刺麻臺吉が再び松山の銀定・歹成および矮木素・三児臺吉と結び、三千騎で来犯した。惟賢は再びこれを破り、二百余りの首級を獲た。三児臺吉は傷ついて死んだ。惟賢を副総兵に進めた。その冬、銀定らは三児の死を憤りとして報復を図り、さらに河套の土巴臺吉らを糾合して分道して侵入略奪した。惟賢と鎮将の徐永寿らもまた分道してこれを防ぎ、合わせて百六十の首級を獲た。七年春、銀定・賓兔・矮木素・班記刺麻が土賣火力赤らと合流して黒水河から侵入した。惟賢と西路副将の陳洪範がこれを大破し、百八十余級を斬首した。この時、西部は頻繁に辺境を寇し、惟賢はたびたびその鋒を挫いた。その秋、王之臣が遼東を督師し、惟賢に関門に赴くことを請うた。

翌年、崇禎と改元し、惟賢が到着すると、山海北路副総兵に任用した。二年冬、京師に警報があった。惟賢は入衛し、総理の馬世龍が宝坻・漷県への急援を命じた。翌年正月九日、大清兵が撫寧から山海へ向かった。翌日、鳳凰店に至り、関から三十里の地に三つの営を列ねた。惟賢は参将の陳維翰らとともに二つの営を設けて待ち、合戦して互いに殺傷があった。やがて、大清兵は撫寧に戻り、世龍は惟賢に維翰および遊撃の張奇化・李居正・王世選・王成らを率いて遵化を襲撃するよう命じた。城西の波羅湾に至ると、城中の兵が出撃し、前鋒は決死の戦いをした。大清兵は城内に収まり、後隊は勢いに乗じて進攻したが、城上から矢石が雨のごとく降った。まもなくまた兵を遣わして出戦させ、惟賢は敵陣に突入し、矢に当たって死んだ。士卒の殺傷者は三百余人に及び、奇化もまた戦死した。

何可綱は遼東の人である。天啓年間、守備として袁崇煥の寧遠道中軍を掌り、廉潔で勇猛であり、士卒をよく慰撫した。六年、寧遠が包囲されると、崇煥を補佐して防禦に功績があり、都司僉書に進んだ。翌年再び兵禍に遭い、また堅守した。参将に遷り、寧遠副将の事務を署理した。崇禎元年、巡撫の畢自肅が中軍を掌るよう命じた。崇煥が再び出鎮すると、また副将として中軍の事務を領し、十三営の変乱を平定した。崇煥は大将を更置しようとし、上奏して言った。「臣がかつて巡撫であった時、関外にはただ一総兵を設けると定議した。その時、魏忠賢が権柄を窃み、崔呈秀は私党を用いようとして、三四人を増設したため、権勢が相衡し、手足のように動かなくなった。そこで寧遠と前鋒の二人だけを留め置いたが、手足の動かないのは依然として同じであった。臣は思うに、寧遠一路は断じて前鋒に併せて帰すべきである。関内に駐屯する総兵は、平遼将軍印を掛け、山・石の二路を管轄し、前屯をこれに隷属させる。関外に駐屯する総兵は、征遼前鋒将軍印を掛け、寧遠一衛を管轄し、錦州をこれに隷属させる。薊遼総兵の趙率教は長く遼事に習熟しているので、山海の麻登雲と互いに交代させ、平遼将軍印を掛けるのがよい。関外の総兵には旧来、朱梅・祖大寿がいた。梅は既に解任されているので、ともに大寿に帰し、錦州に駐屯させ、臣の中軍である何可綱に専ら寧遠を防備させるのがよい。可綱は仁愛があり勇猛で、廉潔でよく勤勉であり、事に臨んで善く謀り、その才は臣の下にない。臣がかつて立てた業績は、実に可綱の力によるものである。都督僉事を加え、依然として臣の中軍を掌らせてほしい。そうすれば一鎮の費用は削減されても、一鎮の用は依然として存するであろう。臣が妄りに五年で凱歌を奏すると言ったのは、この三人の力によるものであり、用いて効果がなければ、臣の罪を治めてほしい。」帝はすべてこれに従った。可綱は崇煥を補佐して軍制を改定し、歳に百二十万有余の兵糧を節減した。春秋二度の防備の功績により、職を右都督に進めた。

二年の冬、京師が兵に襲われた時、大寿と共に崇煥に従って入衛し、幾度か功績を挙げた。崇煥が獄吏に下されると、大寿に従って東へ潰走し、また帰朝した。翌年正月、永平・灤州が陥落すると、可綱は古冶郷及び双望で戦い、かなりの斬獲があった。四月、枢輔孫承宗は可綱に命じて諸将を督し双望の諸山に営を築かせ、永平の軍を引きつけておいた。大寿ら諸軍に命じて直ちに灤州へ向かわせた。灤州が回復すると、大清兵は永平を放棄して去り、可綱は遂にその城に入った。功績を論じ、太子太保・左都督を加えられた。やがて錦州が包囲されると、可綱は諸将を督して救援に赴き、郵馬山で功を立て、さらに位階を進められた。四年、大凌河に城を築き、可綱に大寿と共に版築を護るよう命じた。八月に竣工したばかりの時、大清が十万の兵をもって攻めて来たので、可綱らは堅守して陥落させなかった。長くして糧食が尽き、援軍も絶えた。大寿及び諸将は皆降伏を望んだが、可綱だけは従わず、二人の者に城外へ連れ出されて殺されるよう命じられた。可綱は顔色一つ変えず、一言も発せず、笑みを浮かべて死んだ。

黄龍は遼東の人である。初め小校として錦州回復に従い、功を積んで参将となった。崇禎三年、大軍に従って灤州を回復し、功績第一となり、副総兵に昇進した。まもなく功績を論じて三等進階し、都督僉事となり、世蔭で副千戸となった。登萊巡撫孫元化は劉興治が東江で乱を起こしたため、黄龍を派遣して鎮撫するよう請うた。兵部尚書梁廷棟もまた黄龍を総兵官に推薦し、元化と共に四衛を回復させるよう、これに従った。

先に、毛文龍が死ぬと、袁崇煥はその兵二万八千を四協に分け、副将陳継盛、参将劉興治・毛承祚・徐敷奏にこれを統率させた。後に二協に改め、継盛が東協を領し、興治が西協を摂した。詳細は『崇煥伝』にある。興治は凶暴狡猾で乱を好み、継盛と相容れなかった。その兄の参将興祚が陣没したが、継盛は誤って諜報を聞き、死んでいないと言った。興治は憤り、日を選んで興祚の喪を治め、諸将は皆弔問した。継盛が到着すると、伏兵を以てこれを捕らえ、併せて理餉経歴劉応鶴ら十一人を捕らえた。袖から一書を出し、衆に宣して、これは継盛が興祚の詐死を誣告し、また謀叛を誣告して己を陥れたものだと偽り、遂に継盛及び応鶴らを殺した。また偽って島中の商民の奏文一通を作り、興祚の優恤を請うと共に、興治に東江を鎮守させるよう求めた。朝廷全体が大いに驚いたが、海外のことゆえ詰問する暇がなかった。興治は諸兄弟と共に長山島に舟を出し、大いに殺掠をほしいままにした。島は登州から四十里の距離である。時に登萊総兵官張可大は永平救援に赴いていたが、帝は廷棟の言を用い、可大を急ぎ登州に還らせ、副将周文郁に大将の印を授け、興治を撫定させるよう命じた。ちょうど永平が既に回復したので、興治はやや収まり、東江に戻った。黄龍が皮島に赴任して事務を執ると、興治は依然として桀驁なままだった。四年三月、再び乱を起こし、その弟興基を杖ち、参将沈世魁の家族を殺した。世魁はその党を率いて夜襲し興治を殺し、乱はようやく鎮定した。

遊撃耿仲明の党である李梅という者が、密貿易の事が発覚し、黄龍がこれを獄に繋いだ。仲明の弟で都司の仲裕が黄龍の軍中にあり、乱を謀った。十月、部卒を率いて糧秣請求を名目に黄龍の官署を包囲し、演武場に連行し、股を折り耳鼻を切り取り、殺そうとした。諸将が救って免れた。間もなく、黄龍は仲裕を捕らえて斬り、上疏して仲明の罪を正すよう請うた。ちょうど元化が黄龍が兵糧を削って兵の騒動を招いたと弾劾し、帝は黄龍を事官に充てるよう命じ、仲明の主使の状況を審査した。仲明は遂に孔有徳と共に反し、五年正月に登州を陥落させ、島中の諸将を招いた。旅順副将陳有時、広鹿島副将毛承祿は皆これに従って行った。黄龍は急ぎ尚可喜・金声桓らを派遣して諸島を撫定させ、自らその地を巡視し、商民を慰撫し、叛党を誅し、火を放ってその舟を焼いた。賊党の高成友という者が旅順を占拠し、関寧・天津からの援軍を遮断した。黄龍は遊撃李維鸞に命じて可喜らと共にこれを撃退し、直ちにその地に移駐し、援軍の道がようやく通じた。その冬、有徳らは登州を放棄して海へ逃れようとしたので、黄龍は副将龔正祥に舟師四千を率いさせて廟島でこれを遮ろうとした。颶風が舟を破壊し、正祥は賊中に陥った。後に登州に居て、内応を謀ったが、事が露見して殺された。初め、黄龍は旅順に駐屯して大いに兵を整えた。賊は黄龍の母・妻及び子を拘束して脅したが、黄龍は顧みなかった。

六年二月、有徳・仲明は幾度も巡撫朱大典に敗れ、海路で遁走した。黄龍は有徳らが必ず遁走し、遁走には必ず旅順を経由すると推測し、邀撃した。有徳は危うく捕らえられそうになりながら逃れた。賊の首魁李九成の子応元を斬り、毛承祿・蘇有功・陳光福及びその党高誌祥ら十六人を生け捕りにし、首級一千余りを獲、奪還した婦女は数えきれず、朝廷に俘虜を献じた。帝は大いに喜び、承祿らを磔刑に処し、首を九辺に伝示し、黄龍の官職を回復させた。承祿は、文龍の族家の子である。

有徳らは大いに憤り、黄龍に報復しようとした。ちょうど賊舟が鴨緑江に停泊していたので、黄龍は水師を全て出動させてこれを剿討した。七月、有徳らは旅順が空虚であると偵知し、遂に大清兵を引き連れて襲来した。黄龍は幾度か戦ったが皆敗れ、火薬も矢石も尽きた。部将譚応華に言った。「敵は多く我は少ない。今夕、城は必ず陥落する。もし速やかに我が印を持って登州に送ることができなければ、海に投じてもよい。」応華が出て行くと、黄龍は維鸞らを率いて力戦した。包囲が切迫し、脱出できないと知ると、自ら剣で首を刎ねて死んだ。維鸞及び諸将の項祚臨・樊化龍・張大禄・尚可義は皆これに殉じて死んだ。事が聞こえ、黄龍に左都督を追贈し、祭葬を賜り、世蔭を与え、「顕忠」という祠を建てた。維鸞らはこれに附祀された。副総兵沈世魁を以て黄龍に代わって総兵官とした。

世魁は元は市井の商人で、その娘は殊色があり、毛文龍の側室となった。世魁はその勢いを頼みとして島中で横行し、ここに至って大帥となった。七年二月、広鹿島副将尚可喜が我が大清に降り、島中の勢力はますます孤立した。十年、朝鮮が危急を告げると、世魁は軍を移して皮島に駐屯し声援とした。有徳らが襲来し、世魁は戦いに敗れ、舟師を率いて石城に逃れた。副将金日観が陣没した。登萊総兵陳洪範が来援したが、戦わずして逃走した。世魁もまた陣没し、士卒の死傷者は一万余りに及んだ。甥の副将誌科が潰走した兵卒を集めて長城島に至り、世魁の勅印を得ようとした。監軍副使黄孫茂が与えなかったので、誌科は怒ってこれを殺し、併せて理餉通判邵啓を殺した。副将白登庸は遂に配下を率いて大清に降った。諸島には残兵があったが、軍を成すことができず、朝廷もまた大帥を置かず、登萊総兵が遥かにこれを領するだけであった。翌年夏、楊嗣昌は決策してその兵民を全て寧・錦に移し、諸島は空となった。

金日観

金日観は、何処の者か知れない。天啓五年に将才を以て守備に任じられ、関門にて効力した。鎮標中軍遊撃に抜擢され、参将を加えて薊鎮東路遊撃事を行い、専ら南兵を統率した。崇禎初年、副総兵を加えられ、馬蘭峪を守った。三年正月、大清の兵が京東の諸城を破った。兵部侍郎劉之綸が部将の呉応龍らを遣わして毛山に営を結ばせ、羅文谷関を奪取せんと図った。軍は敗れ、日観は二将を馳せて援けさせたが、これもまた敗れて戦死した。大清の兵は勝ちに乗じて府君・玉皇の二山を占拠し、馬蘭城を攻撃すること甚だ急であった。日観は堅く守り、自ら大砲に点火した。砲が炸裂し、頭と手足を焼かれたが、意気は衰えなかった。総理の馬世龍に援けを乞うた。参将の王世選らを赴かせて救わせたので、兵はようやく退いた。間もなくまた二千余騎を以て来攻し、日観は世選らとともに死守して陥落させなかった。朝廷はその功を賞し、急遽都督同知を加えた。四月、副将の謝尚政・曹文詔らとともに大安城を攻め復し、ついに諸軍とともに遵化を回復した。功績を記録され、左都督に進んだ。時に総兵の鄧玘は馬蘭・松棚の二路を管轄し、日観はその節制を受けるべきであった。玘が都督同知の官位にあることを恨み、その下に立つことを潔しとしなかった。総督の曹文衡が日観を器量が小さく満ち易く、功を恃んで驕り放縦であると弾劾したが、帝は特に戒飭を与えたのみであった。久しくして、萊州副総兵に移った。十年春、大清の兵が朝鮮を攻めたので、登萊総兵の陳洪範に従って救援に赴くことを命じられ、皮島に軍を駐めた。大清は孔有徳・耿仲明・尚可喜らを遣わして先ず鉄山を攻撃させた。四月、兵を分けて皮島を攻め、水陸より挟撃した。副将の白登庸が先に遁走し、洪範もまた石城に避走した。登庸は間もなく配下を率いて降った。日観は諸将の楚継功らとともに七昼夜相持し、力支えず、陣にて戦死し、島城は続いて陥落した。特進光禄大夫・太子太師を贈られ、世蔭として錦衣副千戸を賜り、祠が建てられた。継功らには贈恤に差等があった。

【賛】

賛に曰く、古人に言有り、彼且つ我が為に死せんとす、故に我得て之と俱に生く、と。故に封疆に死するの臣は、君子之を重んず。遼左の諸帥を観るに、身を委ねて国に許し、危きを見て避けず、死する所を得たりと謂うべきか。時に優恤の典甚だ渥からざるに非ざるも、然れども危亡を救うに足らず。廟算定まらず、事を僨らす者誅せられず、文墨議論の徒従いて之を撓ぎ、徒らに忠義を激勧するも益無きなり。