明史

列傳第一百五十八 馬世龍 賀虎臣 沈有容 張可大 魯欽 秦良玉 龍在田

○馬世龍(楊肇基)賀虎臣(子贊誠)沈有容張可大(弟可仕)魯欽(子宗文)秦良玉龍在田

馬世龍

馬世龍、字は蒼元、寧夏の人。世襲の官職から武会試に挙げられ、宣府遊撃を歴任した。

天啓二年、永平副総兵に抜擢された。兵部を代行する孫承宗はその才能を奇異とし、署都督ととく僉事に推薦して授け、三屯営総兵官を充てた。承宗が鎮守に出ると、山海総兵に推薦し、中部を統率させ、総兵王世欽・尤世祿を調して南北二部を分領させた。翌年正月、尚方剣を賜り、実授の府銜となった。承宗は壇を築いて大将を拝し、代わって授鉞の礼を行い、軍馬・銭穀ことごとくこれを属した。まもなく分地を定め、世龍は中央に居り衛城に駐屯し、世欽は南海に、世祿は北山にあり、ともに世龍の節制を受け、兵は各々一万五千人であった。世龍は承宗の知己を感じ、頗る尽力し、承宗と計を定めて関外の諸城を守り出た。四年、巡撫喻安性及び袁崇煥とともに東巡して広寧に至り、また崇煥・世欽と航海して蓋套に抵り、形勢を相度して還った。功労を叙し、右都督を加えられた。

当時、承宗は士馬十余万を統べ、将校数百人を用い、歳費軍儲数百万を費やした。諸々承宗に求める者、率いて世龍に因るも、得ざれば大いに恚った。しかるに世龍の容貌は魁偉なれど、内実は怯懦であり、承宗を忌む者は多く世龍を撃ってこれを揺るがせた。承宗は朝に抗弁して曰く、「人その貪淫朘削を謂うも、臣敢えて百口を以てその必ず無きを保つ」と。帝は承宗の故を以て、問わなかった。

五年九月、世龍は降人劉伯漒の言を誤って信じ、前鋒副将魯之甲・参将李承先を遣わして師を率い耀州を襲取せしめたが、敗没した。言官交々章を上って劾奏し、厳旨切責し、罪を戴いて功を図らしめた。時に魏忠賢はまさに清君側を以て承宗を疑い、その党の世龍を攻むる者は並びに承宗に及んだ。承宗はその位を安んぜず去り、兵部尚書高第を以て代わらせた。職方主事徐日久という者、先に第を佐けて遼事を撓がせ、及び第に従って賛画し、力を尽くして世龍を攻めた。世龍は密かに忠賢と結び、反って日久の籍を削った。その冬、世龍もまた病を謝して去った。

崇禎元年、王在晋が尚書となった。世龍は上疏して極めてその罪を論じ、詔ありて世龍を逮えようとしたが、久しく至らなかった。在晋が罷免されて、初めて獄に詣った。二年冬、都城戒厳。刑部尚書喬允升が世龍の才を推薦し、詔して功を図りて自ら贖わしめた。会に祖大寿の師潰え、京師大いに震動す。承宗再び起きて師を督し、便宜を以て世龍を遣わし馳せて大寿を諭し、命を聴かしめた。及び満桂戦死し、遂に世龍をして代わって総理と為らしめ、尚方剣を賜り、諸鎮の援師を尽く統べしめた。

三年三月、左都督に進む。時に遵化・永平・遷安・灤州の四城、失守すること既に三月。承宗・大寿は関門を隔て、世龍の諸軍と声息断絶す。帝急ぎ詔して四方の兵に勤王せしめ、昌平尤世威・薊鎮楊肇基・保定曹鳴雷・山海宋偉・山西王国樑・固原楊麒・延綏呉自勉・臨洮王承恩・寧夏尤世禄・甘粛楊嘉謨、将うる所は皆諸辺の鋭卒なり。内地は則ち山東・河南・南都・湖広・浙江・江西・福建・四川の諸軍、亦先後に至る。並びに薊門に壁し、観望して進まず。給事中張第元上言す、「世龍関に在ること数載、績効聞こえず、衛・霍の儔の若くは非ず、功名以て人を服するに足るなり。諸帥の宿将、世龍の偏裨に非ざれば、駆策節制せんと欲し、誰か能くこれを甘んぜん。師老い財匱え、鋭気日々消え、夏秋に延び及ばば、将に言うべからざる者有らん」と。帝は世龍方に進取を規するを以て、その言を納れず。時に大寿は五月十日に灤州に迫る。明日、世龍等師を以て会す。又明日その城を復す。十三日、遊撃靳国臣遷安を復す。明日、副将何可綱永平を復す。又二日、別将遵化を復す。五月を閲し、四城始めて復す。功を論ずれば、大寿最も上、世禄これに次ぐ。世龍は太子少保を加えられ、本衛世襲千戸を蔭す。八月また病を謝して帰る。

六年五月、插漢虎墩兔が套寇と合して寧夏を犯し、総兵賀虎臣戦死す。詔して世龍を起してこれに代わらしむ。世龍は寧夏に生長し、その形勢に習熟し、大いに戦備を修めた。明年正月、二部入寇し、参将卜応第を遣わしてこれを大破し、斬首二百余。ひと月余り過ぎ、套寇賀蘭山を犯す。世龍は降丁を遣わして密かにその営に入り、その長撒児甲を馘り、斬級前の如し。未だ幾ばくもせず、插部大挙して入寇す。世龍は副将婁光先等を遣わし五道に分かれて要害に伏せしめ、而して己は中道にてこれを待ち、夾撃し、斬首八百余。巡撫王振奇もまた三百余級を斬る。寇また河西玉泉宮を犯す。世龍また邀え斬ること五百余。その年七月棗園堡を犯す。世龍またこれを大いに敗り、俘斬一千余。世龍は半年のうちに屡々大捷を奏し、威名西塞に震う。間もなく、官に卒す。年四十余。後功を論じ、太子太傅を贈られ、世襲錦衣僉事とし、恤を賜ること制の如し。

楊肇基

楊肇基、沂州衛の人。世職より起家し、官を積んで大同総兵に至る。天啓二年、妖賊徐鴻儒山東に反し、連ねて鄆・鉅野・鄒・滕・嶧を陥し、衆数万に至る。巡撫趙彦は都司楊国棟・廖棟に任じ、檄を所部に発して民兵を練り、諸要地の守卒を増す。時に肇基は方に家居す。彦因りて即ち家にて薦め起し、山東総兵官として賊を討たしむ。未だ至らざるに、棟及び国棟等鄒を攻め、兵潰え、遊撃張榜戦死す。彦は方に師を視て兗州にあり、賊に遇う。肇基至り、急ぎ迎え戦い、而して国棟及び棟に夾撃せしめ、横河にてこれを大いに敗る。時に賊の精鋭は鄒・滕の中道に聚まる。肇基は遊兵をして賊を鄒城に綴らしめ、而して大軍を以て賊を黄陰・紀王城に撃ち、賊を大いに敗り、蹙めてこれを嶧山に殪し、遂に鄒を囲む。国棟等もまた先後に鄆・鉅野・嶧・滕の諸県を収復し、又沙河にてこれを大破す。乃ち長囲を築きて鄒を攻む。囲むこと三月、賊食尽き、その党出でて降り、遂に鴻儒を擒う。俘を献じ、市に磔し、賊平ぐ。肇基は署都督僉事より右都督に進み、本衛世襲千戸を蔭す。尋いで沈有容に代わって登・萊を鎮す。延綏に改め、套寇を撃つ功を以て、左都督に進み、錦衣千戸を蔭し、屡々太子太保を加えらる。崇禎元年薊鎮西協に移る。二年冬、大清兵三屯営を克つ。肇基は間を乗じて収復し、困守すること数月、卒に孤城を全うす。錦衣世襲千戸を蔭す。已にして、四城を恢復する功を録し、太子太師を加え、改めて錦衣僉事を蔭す。明年官に卒す。子禦蕃、『徐従治伝』に見ゆ。

賀虎臣

賀虎臣は保定の人である。天啓初年、天津海防遊撃、登萊参将を歴任し、兗州に移った。六年、延綏副総兵に遷る。河套の寇が大挙して侵入し、帥の楊肇基に従って協力して撃ち、これを大破した。署都督僉事を加えられる。崇禎二年、階州の叛卒周大旺らを捕らえて誅殺した。総兵官に擢てられ、寧夏を鎮守した。関中の賊が大いに起こり、王嘉胤が清水営を陥とし、遊撃李顕宗を殺し、遂に府谷を陥とした。その党の李老柴がこれに応じ、三千余人を嘯聚して合水を攻めた。総督楊鶴が虎臣に檄を飛ばして討伐に向かわせ、盤谷でこれを撃ち、六百余りを俘斬した。後に、慶陽の賊渠劉六を撃ち斬った。四年、神一元が保安を陥とした。延安が急を告げ、延綏の撫鎮は皆東へ向かい陝西を救援した。巡撫練国事が虎臣及び副将李卑に檄を飛ばして援剿させた。虎臣らは遂に進んで保安を包囲したが、賊は河套の数千騎を引き連れて虎臣の軍を挫いた。時に張応昌がこれを撃破し、賊の衆は城を棄てて去った。虎臣らは前後して首功一千九百を獲た。翌年、可天飛・郝臨庵・劉道江・李都司が再び合水を包囲した。虎臣は臨洮の曹文詔・甘粛の楊嘉謨・固原の楊麒と合流して撃ち、甘泉の虎兕凹で賊を大破し、七百余りを斬首し、賊は大いに困窮した。

六年五月、插漢虎墩兔が河套の寇五万騎と合流し、清水・横城から分道して侵入した。守備姚之夔らは防禦できず、沙井驛副将史開先・臨河堡参将張問政・嶽家楼守備趙訪は皆潰走した。寇は遂に進んで霊州に迫り、虎臣は急いで千騎を率いて入城して守った。やがて城中の兵を全て率いて出撃し、大沙井に駐屯した。寇が漢伯堡から突如として到来し、虎臣の軍はまだ陣を布く暇もなく、また衆寡敵せず、遂に戦死した。子の賀賛が五十騎を率いて重囲を突破して出た。事が聞こえ、虎臣に都督僉事を追贈し、祭葬を賜い、世蔭として指揮僉事を授けた。間もなく先後の寇剿討の功を記録し、再び都督同知を追贈し、世蔭として錦衣副千戸を授けた。

賀賛は勇敢で父の風があった。既に蔭を承けた後、間もなく武進士に挙げられた。官を積み重ねて京営副将に至った。崇禎十七年三月、李自成が京師に迫り、京軍六大営は城外に分列したが、皆戦おうとせず、あるいは甲を棄てて降った。賀賛は独り部卒を率いて迎撃し、矢に中たって死んだ。

弟の賀誠は身長七尺、美しい鬚髯を持ち、諸生となり、忠義を以て自ら任じた。兄の賀誡が副千戸を襲ったが早逝し、子が無かったので、賀誠が襲うべきであったが、これを弟の賀詮に譲った。賊が保定を陥とした時、家人が衣服を変えて遁走するよう勧めた。叱って言うには、「我は忠臣の子である。生きながらえて逃げれば、どうして先の将軍に地下で会えようか」と。遂に妻女と共に井戸に投身して死んだ。

沈有容

沈有容は字を士弘といい、宣城の人である。僉事沈寵の孫である。幼少より馬を走らせ剣を撃ち、兵略を好んだ。万暦七年の武郷試に挙げられた。薊遼総督梁夢龍がこれを見て異とし、昌平千総に用いた。また総督張佳胤に知られ、薊鎮東路に調され、南兵後営を管轄した。十二年秋、朵顔の長昂が三千騎を率いて劉家口を犯した。有容は夜半に健卒二十九人を率いて迎撃し、身に二矢を受け、六級を斬首し、寇が退いてから帰還し、これによって知名となった。遼東巡撫顧養謙が麾下に召し抱え、火器を訓練させた。十四年、李成梁に従って塞外に出、可可毋林に抵り、多くを斬獲した。翌年再び出撃し、また功があった。成梁が北関を攻めた時、有容は陣に陥り、馬を二度替え二度斃れたが、遂にその城を抜いた。功を記録され、世蔭として千戸を授かった。都司僉書に遷り、浮屠谷を守った。

宋応昌に従って朝鮮を救援し、帰還を乞うた。日本の封事が破綻し、福建巡撫金学曾が奇策を用いてその巣穴を衝こうとし、有容を起用して浯嶼・銅山を守らせた。二十九年、倭が諸寨を掠奪したが、有容がこれを撃破した。一月余り後、銅山把総張万紀と共に彭山洋で倭を破った。倭が東番を占拠した。有容は石湖を守り、これを殲滅しようと謀り、二十一舟を率いて出海したが、風に遭い、十四舟が残った。彭湖を過ぎ、倭と遭遇し、数人を格殺し、火を放ってその六舟を沈め、十五級を斬首し、男女三百七十余人を奪還した。倭は遂に東番を去り、海上は十年間肩を休めた。捷報が聞こえ、文武の将吏は皆功を叙されたが、有容は白金を賜ったのみであった。

三十二年七月、西洋の紅毛番の長韋麻郎が三大艘を駕して彭湖に至り、互市を求めたが、これは税使高寀が招いたものであった。有容は当局に申し出て、自ら往って諭すことを請うた。麻郎に会い、利害を指摘し陳べた。麻郎は悟り、寀の使者を呼び、寀に賄賂した金の返還を求め、帆を揚げて去った。浙江都司僉書に改められた。浙江遊撃から天津に調され、温処参将に遷り、罷免されて帰った。四十四年、倭が福建を犯した。巡撫黄承元が特に水師を設けることを請い、有容を起用してこれを統率させ、東沙で倭を擒えた。間もなく巨寇の袁進・李忠を招降し、その衆を解散させた。

泰昌元年、遼事が差し迫り、初めて山東副総兵を設け、登州に駐屯させ、有容を以てこれに命じた。天啓に改元し、遼・瀋が相次いで陥落した。熊廷弼が三方布置の議を建て、陶朗先を登・萊巡撫とし、有容を都督僉事に擢て、総兵官に充てたので、登・萊は遂に重鎮となった。八月、毛文龍が鎮江の捷を挙げた。詔して有容に水師一万を統率させ、天津水師と共に直ちに鎮江に抵り策応させた。有容は嘆いて言うには、「一旅の師を率いて、方張の敵に当たる。我はその成し遂げられぬことを知る」と。間もなく、鎮江は果たして失陥し、水師は遂に進まなかった。翌年、広寧が陥落し、遼民が諸島に逃れ避難し、日々登州の師の救援を望んだ。朗先は敢えて一人でも渡海させる者は斬ると下令した。有容がこれと争い、直ちに数十艘を往かせ、数万人を救済させた。時に金・復・蓋の三衛は皆空しく人無く、金州を占拠しようとする者がいた。有容は金州は孤懸して海外にあり、登州・皮島は共に大洋を隔て遠く、声援が及ばず、守るべからずと言った。文龍が金州を取ったが、間もなくまた失った。四年、有容は年老いを以て骸骨を乞い、帰り、卒した。都督同知を追贈し、祭葬を賜った。

張可大

張可大は字を観甫といい、応天の人である。世襲で南京羽林左衛千戸を継ぎ、万暦二十九年の武会試に挙げられ、建昌守備を授かった。浙江都司僉書に遷り、瓜洲・儀真を分守し、江洋の大盗が跡を潜めた。税監魯保が死ぬと、淮撫李三才が可大に命じてその財産を記録させた。魯保の家が重賄を贈ったが、退けて受け取らなかった。葉向高が召しに応じて赴く途中儀真を過ぎ、これを見て異とし、言うには、「これは良将のみならず、かつ良吏である」と。劉河遊撃に遷り、広東高肇参将に改められた。浙江舟山に調された。黎征討を命じられ、総兵王鳴鶴と共に黒番を導きとして用い、その巣穴を衝き、黎は遂に滅んだ。

舟山は、宋の昌國城であり、海中にあり、七十二の墺があり、浙東の要害である。可大は八議を条上し、いずれも大計であった。倭が五罩湖・白沙港・茶山・潭頭を犯すと、連戦してこれを破り、副総兵に加えられた。城は久しく崩壊していたが、可大は副使蔡献臣とともにこれを築き、二ヶ月で完工した。城内・城外の田数千畝は、海潮が農作物を害した。可大は碶を築いて淡水を蓄え、ついに肥沃な土地となった。民はこれを「張公碶」と称した。天啓元年、都指揮使として南京錦衣衛を掌った。六年、都督僉事に抜擢され、南京右府の僉書となった。崇禎元年、登萊総兵官として出向した。登州・萊州の巡撫・総兵を削減する会議があり、総兵官として登州副総兵の事務を視ることと命じられ、巡撫はついに廃止されて設けられなかった。可大は海防に尽力し、自ら巡視し、沿海の地形・兵力の強弱を図示し、『海防図説』として上奏した。二年冬、白蓮賊の残党が萊陽を包囲すると、可大はこれを撃破し、その六つの砦を焼き、偽国公二人を斬り、包囲はついに解けた。京師が兵禍に遭うと、可大は入衛し、西直門・広寧門などを守った。翌年、勤王の功により、都督同知に昇進した。

劉興治が東江で反乱を起こすと、詔により鎮に還った。やがて四城がともに回復し、朝議で再び登萊巡撫を設け、孫元化をこれに任じた。元化は関外の八千人を率いて到着し、大半は遼人であった。可大は変事を憂慮し、たびたび元化に進言したが、聞き入れられなかった。

四年七月、以前の守城の功を記録し、右都督に進んだ。十月、南京左府の僉書となり、池河・浦口の二軍を兼ねて督したが、登州の民は泣いて引き留めた。出発しないうちに孔有徳が呉橋で反乱し、東の六城を陥落させた。可大は急ぎ討伐に向かおうとしたが、元化が檄を発して止め、聞き入れなかった。萊州に至り、元化に会い、再び阻まれたため、鎮に還った。年の暮れに、有徳が夕方に城に迫った。可大はこれを撃つことを請うたが、元化は撫議を主張し、許さなかった。可大は利害を切に陳述し、元化は翌年の元日に兵を発して合撃することを約した。期日になると、元化の兵は発しなかった。翌日、兵を合わせて城東で戦い、可大の兵はたびたび勝利した。元化の部卒はみな遼人で、親族が多く、闘志がなかった。その将張燾が先に逃走し、可大の兵も敗れた。中軍の管維城、遊撃の陳良謨、守備の盛洛・姚士良はいずれも戦死した。燾の兵の半数が有徳に降り、内応として帰還させられた。元化は門を開いてこれを迎え入れたが、可大は諫めたが、聞き入れられなかった。夜半に賊が至り、城はついに陥落した。可大は当時水城を守り、胸を撫でて大いに慟哭した。佩いていた印を解いて旗鼓に渡し、間道を通って済南に赴きこれを上奏した。家に帰って母に別れを告げ、弟の可度・子の鹿征に命じて母を奉じて海路天津に向かわせた。そして佩剣を部将に渡し、諸婢妾をことごとく斬らせ、ついに縊死した。事が聞こえ、特進栄禄大夫・太子少傅を追贈され、諡は荘節、祭葬を賜り、世蔭を授けられ、祠を建てて「旌忠」と称した。

可大は学問を好み詩をよくし、節行を重んじ、儒将の風があった。南京錦衣衛にいた時、欧陽暉が刑部主事から本衛知事に左遷され、かつて「陰霾国事非」の句のある詩を賦し、揚州知府劉鐸がこれを扇に書いて一僧に贈った。鐸を憎む者が魏忠賢に讒言し、暉・鐸ともに逮捕された。可大は旗尉を制約し、俸禄を出して助け、家屋を占ってその妻子を住まわせた。その義を重んじることはこのようなものであった。

弟の可仕、字は文峙、字をもって行われる。隠居して博学であり、かつて明の布衣の詩を百巻輯めた。

魯欽

魯欽は長清の人である。万暦年間、山西副総兵を歴任した。天啓元年、神機営左副将に転じた。まもなく都督僉事を署し、保定総兵官を充任した。奢崇明・安邦彦がともに反乱し、貴州総兵張彦方が包囲の中にあり、総理杜文煥は病と称した。翌年十月、欽を用いて文煥に代え、川・忠・湖広の漢土軍を総べ、期日を定めて包囲を解くことを命じた。到着しないうちに包囲はすでに解け、欽は急ぎ貴陽に赴いた。三年正月、巡撫王三善が陸広で大敗し、群苗の宋万化・何中尉らが蜂起した。欽は三善を補佐して防剿し、諸将を率いて中尉・万化を擒らえ、ついに紅崖に進んで営した。紅崖は、崇明が敗走したところである。三善は大挙して深く入ることを謀り、欽および総兵官馬炯・張彦方、諸道の監司尹伸・岳具仰・向日升・楊世賞がそれぞれ兵を従え、五戦して首級一万八千を斬り、直ちに大方に到達した。四年正月、三善が内荘で敗死すると、欽らは残卒を率いて還った。戴罪で賊を討つことを命じられた。

都勻凱裏の土司は、運道の咽喉であり、邦彦が諸蛮を結んでその城を困らせ、長官楊世蔚は守ることができなかった。総督蔡復一は欽および総兵官劉超を派遣してこれを救い、賊の巌頭寨を抜き、ついに師を移して平茶を克った。やがて邦彦は羅鬼をことごとく駆り立て、斑鳩湾後寨に四十営を結び、互いに二十余里に及び、分かれて普定を犯した。復一は欽と総兵官黄鉞に命じて分道してこれを防がせた。欽は部将張雲鵬・劉志敏・鄧玘らを率いて賊を汪家沖で大破した。鉞および参政陸夢龍・副使楊世賞もまた賊を蒋義寨で大破した。合流して河まで追撃し、首級千五百余を斬った。山を捜索し、さらに六百余級を斬った。尹伸は普定を守り、また賊兵を破り、大軍と会し、ともに水外の逆苗を剪滅した。邦彦は勢い窮し、河を渡って西に奔った。欽・鉞は諸将を督して窮追し、夢龍らは分かれて三岔河岸に駐屯して後詰めとした。前鋒の雲鵬・玘らは深く織金に入り、先後して首級千余を斬った。

復一はその功を上奏し、言うには「欽は廉潔で勇敢である。名目は総理といえども、権力は一偏裨に当たらない。旧撫臣三善および諸監軍は、人人大帥となり、内荘で軍律を失ったが、欽は独り大帥の罪を負うべきではない。臣が黔に至り、諸道監軍の兵をことごとく欽に属させ、毎戦士卒に先んじた。欽の敗は許すべきであり、勝は記録に足る。その戴罪を免じ、なお功をもって論ずべきである」。これに従った。翌年正月、欽らは河を渡って還る途中、伏兵に遭い、敗死した者は数千人に及んだ。事官に充てられ、功を立てて自ら贖うこととなった。

平越から興隆・清平の二衛に至るまで、苗の二百余寨がその間に盤踞し、長田の天保・阿秧を首領とした。邦彦が初めに反乱した時、二酋に都督を授け、下六衛の消息を通じさせた。この年春、石阡・余慶を寇した。監軍按察使来斯行は阿秧を誘い、天保を図らせようとしたが、阿秧はかえって内情を告げた。斯行はついに阿秧を誘い斬り、天保を討つことを議したが、病のため去ることとなった。復一は貴陽同知周鴻図に命じて監軍を代行させ、阿秧の弟阿買と天保は邦彦に兵を請い、兄の仇を報じようとした。復一は兵事を鴻図および欽に委ね、参将胡従儀・楊明楷らを派遣してこれを補佐させた。欽らは三道より進み、米墩山で大戦し、天保および阿買を生け捕りにし、先後して賊の首魁五十四人を斬り、首功二千三百五十を獲、百七十四寨を破り焼いた。盛夏に師を興し、将士は暑雨を冒し、嵐瘴を衝いた。大賊はことごとく除かれ、土人は二百年にないことと称した。復一はすでに功を奏上したが、返答がないうちに卒去した。監軍御史傅宗龍が再びこれを言上し、欽に命じて従前の通り総理とし、鴻図は平越知府を授けられた。

六年三月、邦彦が再び大挙して入寇した。欽は河上でこれを防ぎ、連日戦い、殺傷は互角であった。夜半、賊は直ちに欽の陣営に迫った。将校が逃げ散り、欽はついに自刎した。諸営はことごとく潰え、賊の勢いは再び張った。

欽は勇敢で戦に長け、西南の大将の首座であった。荘烈帝が位を嗣ぐと、少保・左都督を追贈し、世蔭として指揮僉事を授け、祭葬を賜り、祠を建てて「旌忠」と称した。

子の宗文は蔭を承け、崇禎年間に薊鎮副総兵として総督呉阿衡の中軍となった。十一年冬、墻子嶺で事を失い、阿衡と共に力を併せて戦死した。

秦良玉

秦良玉は忠州の人で、石砫宣撫使馬千乗に嫁した。万暦二十七年、千乗は三千人を率いて播州征討に従軍し、良玉は別に精兵五百を統率し糧食を携えて自ら随い、副将周国柱と共に賊を鄧坎で扼した。翌年正月二日、賊は官軍が宴会を開いている隙に乗じ、夜襲をかけた。良玉夫婦が真っ先にこれを撃破し、賊の境内に追い入り、金築など七つの寨を連続して陥落させた。やがて、酉陽の諸軍と共に桑木関を直ちに攻め取り、賊の大軍を大いに破り、南川路における戦功第一となった。賊が平定されると、良玉は功を言わなかった。その後、千乗は部民に訴えられ、雲陽の獄中で病死し、良玉がその職務を代わって統領した。良玉は人となり胆智に富み、騎射に優れ、詞翰にも通じ、儀度は嫻雅であった。しかし部下を統御するのは厳峻で、行軍して命令を発するたび、軍伍は粛然とした。配下の兵は白桿兵と号され、遠近に憚られた。

泰昌の時、その兵を徴発して遼東を救援させた。良玉は兄の邦屏と弟の民屏を先に数千人を率いて派遣した。朝廷は良玉に三品の服を賜い、邦屏に都司僉書を授け、民屏に守備を授けた。天啓元年、邦屏は渾河を渡って戦死し、民屏は包囲を突破して脱出した。良玉は自ら精兵三千を統率してこれに赴き、通過する所で秋毫も犯さなかった。詔により二品の服を加えられ、直ちに封誥を与えられた。子の祥麟は指揮使を授けられた。良玉は邦屏の戦死の状況を陳述し、優れた恩恤を請うた。ついで言上した、「臣は播州征討以来、立てた功績は讒言と嫉妬の口に満たず、貝錦が高く張られ、忠誠は誰が表わすのでしょうか」。帝は優詔をもってこれに報いた。兵部尚書張鶴鳴が言上した、「渾河の血戦で、第一の功績は数千に及び、実に石砫・酉陽の二土司の功績である。邦屏が既に没すると、良玉は直ちに使者を都に入れ、冬衣一千五百を調製し、残存の兵卒に分け与え、自らは精兵三千を督率して榆関に抵った。上は公家の難を急ぎ、下は私門の仇を復し、気概は甚だ壮である。邦屏の子を登用し、民屏の官を進めるべきである」。そこで邦屏に都督僉事を追贈し、世蔭を賜い、陳策らと合祠した。民屏は都司僉書に進んだ。

兵部の議でさらに二千の兵を徴発することとなった。良玉は民屏と共に馳せて帰還し、家に着いてわずか一日で、奢崇明の党徒樊龍が重慶で反乱を起こし、金帛を携えて援助を結ぼうとした。良玉はその使者を斬り、直ちに兵を発し民屏および邦屏の子翼明・拱明を率いて流れを遡って西上し、渝城を過ぎ、たちまち重慶の南坪関に至り、賊の帰路を扼した。伏兵を両河に配置して襲撃し、その舟を焼いた。兵を分けて忠州を守らせ、檄を夔州に馳せて、急いで翟塘の上下を防がせた。賊が出撃して戦うと、直ちに敗れて帰った。良玉はその状況を上奏し、民屏を参将に抜擢し、翼明・拱明を守備とした。

やがて奢崇明が成都を急に包囲したので、巡撫朱燮元が良玉に討伐を命じる檄を飛ばした。当時、諸土司は皆賊の賄賂を貪り、逗留して進まなかった。ただ良玉だけが鼓を鳴らして西進し、新都を収め、長駆して成都に抵ると、賊は包囲を解いて去った。良玉はそこで軍を返して二郎関を攻め、民屏が先に登城し、やがて佛図関を陥落させ、重慶を回復した。良玉が初めて挙兵した時、既に上疏して報告していた。命により夫人に封じられ、誥命を賜い、ここに至ってさらに都督僉事を授けられ、総兵官を充任した。祥麟を宣慰使とし、民屏を副総兵に進め、翼明・拱明を参将に進めた。良玉はますます感激奮起し、先後に紅崖墩・観音寺・青山墩などの諸大巣を攻略し、しょくの賊は平定された。さらに貴州救援の功により、たびたび金幣を賜った。

三年六月、良玉が上言した、「臣は翼明・拱明を率いて兵を提え糧食を携え、累次にわたり紅崖墩での諸勝利を奏上した。ところが軍中の諸将は、賊の顔も見ず、腕をまくって誇張し、対陣に及んでは、風聞を聞いて先に逃げる。賊に敗れた者は、人の勝つことを恐れるのみ。賊に怯えた者は、人の強くなることを恐れるのみ。例えば総兵李維新は、河を渡って一戦し、敗れて帰営すると、反って門を閉じて臣を拒み、一見すら許さない。六尺の躯の鬚眉の男子が、一巾幗の婦人を忌むとは、静夜にこれを思えば、また愧死すべきである」。帝は優詔をもってこれに報い、文武の大吏は皆礼をもって待遇し、疑忌してはならないと命じた。

この年、民屏は巡撫王三善に従って陸広に抵ったが、兵が敗れて先に逃げた。その冬、大方で戦い、たびたび勝利した。翌年正月、退却した。賊が襲撃してきて、戦死した。二子の佐明・祚明は脱出したが、皆重傷を負った。良玉が恩恤を請うたので、都督同知を追贈し、祠を立てて祭祀を賜い、二子に官職を与えた。そしてこの時、翼明・拱明は皆官を進めて副総兵に至った。

崇禎三年、永平の四城が失陥した。良玉と翼明は詔を奉じて勤王し、家財を出して兵糧を補った。荘烈帝は優詔を下して褒め称え、平臺に召見し、良玉に彩幣と羊酒を賜い、四首の詩を賦してその功を旌った。ちょうど四城が回復したので、良玉に帰還を命じ、翼明は近畿に駐屯させた。翌年、大凌河城を築いた。翼明は一万人を率いて築城を護衛し、城が完成すると、撤兵して鎮に還るよう命じられた。七年、流賊が河南を陥落させると、翼明に総兵官を加え、軍を督して討伐に赴かせた。翌年、鄧玘が死ぬと、その配下が皆蜀人であったので、翼明にこれを率いさせ、青崖河・呉家堰・袁家坪で連続して賊を破り、賊が鄖西路に走るのを扼した。翼明は性質が臆病で、部将が連敗しても、実情を報告せず、都督の官銜を剥奪され、二階級降格して賊の討伐に当たらせた。やがて、盧象升に従って谷城で賊を追撃した。賊が均州に走ると、翼明は青石鋪でこれを破った。賊が山中に籠って自保すると、翼明はこれを攻め破った。連続して賊を界山・三道河・花園溝で破り、黒煞神・飛山虎を生け捕りにした。賊が鄖・襄の間に出没したので、撫治鄖陽の苗胙土が使者を遣わして招降すると、翼明はその事を支持したが、賊に欺かれ、ついに降伏させられなかった。翼明・胙土は共に弾劾された。やがて賊が襄陽を侵犯すると、翼明は連戦して勝利し、廟灘に屯兵して、漢江の浅瀬を扼した。しかし羅汝才・劉国能が深水から渡河し、ついに蘄・黄の間を大いにかき乱した。帝は鄖・襄の属邑がことごとく荒廃したことを以て、胙土を罷免し、翼明を厳しく責め、まもなく弾劾されて解官された。そして良玉は京師から帰還してからは、もはや援剿せず、専ら蜀の賊の討伐に当たった。

七年二月、賊が夔州を陥落させ、太平を包囲したが、良玉が到着すると去った。十三年、羅汝才を巫山で扼した。汝才が夔州を侵犯すると、良玉の軍が到着して去った。やがて、馬家寨でこれを邀撃し、六百の首級を斬り、留馬埡で追撃して破り、その首魁の東山虎を斬った。さらに他の将軍と合流して譚家坪北山で大いにこれを破り、また仙寺嶺でこれを破った。良玉は汝才の大纛を奪い、その渠帥の副将たる塌天を生け捕りにし、賊の勢力は次第に衰えた。

この時、督師楊嗣昌は賊を悉く川に駆り込んだ。川撫邵捷春は弱卒二万を率いて重慶を守り、頼みとしたのは秦良玉と張令の二軍のみであった。綿州知州陸遜之が罷官して帰る際、捷春は彼に営壘を巡視させた。良玉の軍が整然としているのを見て、心に異とす。良玉は酒を設けた。遜之に語って曰く、「邵公は兵を知らぬ。我は一婦人ながら、国恩を受け、義として死すべきであるが、ただ邵公と共に死ぬことを恨むのみ」と。遜之がその故を問うと、良玉曰く、「邵公は我を近くに移し、駐屯する重慶から僅か三四十里の所に置きながら、張令を黄泥窪に守らせており、地の利を甚だ失っている。賊は帰州・巫山の万山の頂きに拠り、我が営を俯瞰している。鉄騎が建瓴の勢いで下れば、張令は必ず破れる。令が破れて我に及べば、我が敗れて尚よく重慶の急を救えようか。況んや督師は蜀をみぞと為すことを、愚者智者となく知っている。邵公がこの時に山を争い険を奪い、賊をして我に近寄らせざるようにせず、坐して防を設けるは、これ敗の道である」と。遜之は深く然りとす。已にして捷春は大昌に営を移し、監軍萬元吉もまた進んで巫山に屯し、互いに応援した。その年十月、張献忠は官軍を観音巌・三黄嶺で連破し、遂に上馬渡から軍を渡した。良玉は張令と共に急ぎ竹𥳙坪でこれを扼し、その鋒を挫いた。時に令は賊のために殪され、良玉は趨って救うも克たず、転闘してまた敗れ、配下の三万人は略尽きた。乃ち単騎で捷春に謁し請うて曰く、「事急なり。我が溪峒の卒を尽く発すれば、二万を得べし。我はその半を自ら廩し、半は官に餼すれば、猶賊を辦ずるに足る」と。捷春は嗣昌が己と相左なるを見、而して倉に現糧無く、その計を用いざるを謝す。良玉乃ち嘆息して帰る。時に摇・黄十三家の賊は蜀中に横行す。秦纘勛という者あり、良玉の族人也、賊の耳目と為り、擒えられて獄卒を殺し遁去す。良玉は捕え執って献じ、脱する者無し。

張献忠は楚の地を尽く陥し、将に復た蜀に入らんとす。良玉は全蜀の形勢を図して之を巡撫陳士奇に上り、兵を益して十三の隘を守ることを請うたが、士奇は用いる能わず。復た之を巡按劉之勃に上る。之勃は之を許すも、兵を発すべき無し。十七年春、献忠は遂に長駆して夔州を犯す。良玉は馳せて援くるも、衆寡敵せず、潰ゆ。全蜀尽く陥つるに及び、良玉は慷慨として其の衆に語りて曰く、「我が兄弟二人皆王事に死す。我は一孱婦として国恩を蒙ること二十年、今不幸にして此に至る。敢えて余年を以て逆賊に事えんや」と。悉く配下を召し約して曰く、「賊に従う者有らば、族を赦さず」と。乃ち兵を分けて四境を守る。賊は遍く土司を招くも、独り石砫に至るを敢えてする者無し。後、献忠死し、良玉は竟に寿を以て終わる。

翼明既に罷めらる。崇禎十六年冬、四川総兵官に起用さる。道梗え、命は達せず。而して拱明は普名聲の乱に値い、賊と闘い死す。贈恤は制の如し。

龍在田

龍在田は、石屏州の土官舍人也。天啓二年、雲南の賊安效良・張世臣等乱を為す。在田は阿迷の普名聲・武定の吾必奎等と征討し、数たび功有り、土守備となるを得たり。新平の賊石屏を剽し、安效良は沾益を攻む。在田は俱に之を破り走らす。巡撫閔洪学其の功を上り、坐営都司に擢ぐ。

崇禎二年、必奎と烏撒を収復す。八年、流賊鳳陽を犯す。詔して雲南の土兵を征す。在田は配下を率いて詔に応じ、賊を湖広・河南に撃ち、頻りに功有り、副総兵に擢ぐ。総理盧象升檄をして襄陽の賊を討たしむ。至れば則ち象升は已に詔を奉じて勤王し、熊文燦に属せしむ。十年三月、大盗郭三海を撃ち擒う。十一年九月、賀一龍・李万慶を双溝に大破し、都督同知に進む。明年三月、賊を固始に大破し、首級三千五百余を斬る。張献忠の叛くや、文燦は在田に命じて谷城に駐し、賊の東突を遏たしむ。諸将多く在田を忌み、讒言日に興る。文燦の逮せらるるに及び、在田も亦罷められて帰る。還りて貴州に至り、叛賊安隴壁を撃ち平らぐ。

十五年夏、中原の盗益々熾んず。在田上疏して曰く、「臣は石屏の世弁たり。流賊の陵寝を震駭するに因り、国難に奮激し、貲を捐て精卒九千五百、戦象四、戦馬二千を募り、楚・に入り賊を破る。賊敢えて江北の陵寝を窺わず、滇兵の力有り。五載に捷二十八、忌口中に阻まれ、臣を逼りて病に帰す。臣の罷めて以来、親藩辱しめられ、名城屡く陥つ。臣妄りに謂う、寇を討つには須らく南兵を要すと。蓋し諸将の統ぶる所は多く烏合にして、寇に遇えば即ち逃れ、餉乏しければ即ち噪く。滇兵は万里を長駆し、家人父子志を同じくす。他軍の易く潰ゆるが如くに非ず。且つ一歳の中、秋冬気涼なれば、賊は馳騁するを得。春夏は即ち山に入り暑を避け、鋭を養いて出ず。故に其の気益々盛んなり。夫れ平原の戦既に勝たず、山蹊また敢えて攖うる莫く、師老い財殫き、蕩平何の日ぞ。滇兵は軽く走り遠く跳び、山を捜すに善し。臣願わくは万衆を整え、力を奮って秦・楚・豫・皖の諸寇を掃し、滅さざるは止まじ。速に行糧を給し、沿途接濟せんことを望む。臣誓って躯を捐て国に報い、言にして效あらずば、甘んじて斧鑕に伏す」と。帝之を壮とし、兵部に下して議せしむも、寝て行わず。

二載を逾え、乙酉八月、吾必奎叛く。黔国公沐天波、在田及び寧州土知州祿永命に檄して協討せしめ、之を撃ち擒う。未幾、沙定洲乱を作し、雲南府を拠る。在田は敢えて撃たず。明年、定州在田を攻むるも下らず、移って寧州を攻め、尋いで習峨を陥とす。在田は大理に走る。又明年、孫可望等貴州に至る。在田は説きて定洲を攻めしむ。定洲遂に破滅す。在田帰り、家に卒す。

【贊】

贊して曰く、馬世龍等は辺陲多事に値い、其の勇略を奮い、績を戎行に著わし、或いは躯を捐て力戦し、身原野に膏す。爪牙の任に忝なきと謂うべし。夫れ鋒を摧き敵を陷るは、宿将猶お難し。而るに秦良玉一の土舍の婦人、兵を提げ糧を裹き、崎嶇として転闘し、其の公に急き義に赴くは足るに多き者有り。彼鉞を仗りて戎に臨み、縮朒して観望する者は、此を見て能く愧なきこと有らんや。