○艾萬年李卑湯九州(楊正芳楊世恩)陳於王(程龍等)侯良柱(子天錫)張令(汪之鳳)猛如虎(劉光祚等)虎大威孫應元姜名武(王來聘等鄧祖禹)尤世威(王世欽等)侯世祿(子拱極)劉國能(李萬慶)
艾萬年
艾萬年は米脂の人である。武学生から従軍し、功を積んで神木参将に至った。崇禎四年、曹文詔に従い河曲を回復した。点灯子が山西に入ると、萬年は文詔に従い連続してこれを桑落鎮・花地窊・霧露山で破った。都司の王世虎・守備の姚進忠は戦死した。賊は石楼の康家山に退き屯し、西は河から三十里であった。綏徳知州の周士奇・守備の孫守法は含峪に伏兵し、河を渡ってこれを襲撃し殺した。五年、参政の樊一蘅に従い不沾泥を討ち平らげた。山西が警報を告げると、文詔に隷属して東討し、李卑とともに一月に五度の勝利を奏上した。また賀人龍とともに八大王・掃地王の兵を破った。翌年、賊が東へ逃れようとした時、連続してこれを延家山・亢義村・賈寨村で破り、副総兵に抜擢された。
初め、山西が既に賊の侵攻を受けると、その土着の賊も隙に乗じて蜂起し、三関の王剛・孝義の通天柱・臨県の王之臣はいずれも城邑を破壊した。後に賊が衰えるのを見て、相次いで帰順したが、密かに徒党を結んで解散しなかった。巡撫の戴君恩が新たに職務に就き、これを誅殺しようと謀った。七年正月の迎春の際、王剛を招いて宴を催し、これを殺し、併せて通天柱を他の場所で殺した。そして萬年もまた王豹五とその党の領兵王を捕らえて殺し、翻山動を生け捕りにし、姬関鎖・掌世王を捕らえ、京師に献俘し、晋中の大盗はほぼ平定された。豹五は即ち之臣である。君恩が降伏者を殺したことを非議する者がいたが、給事中の張第元は諸賊が蹂躙した惨状を力説し、萬年の功績を記録するよう請うた。萬年はちょうど病にかかり帰郷を願い出たが、まもなく署都督僉事を加えられた。
八年二月、上疏して言うには、
臣が剣を執って軍務に従うこと七年、府谷を回復し、孤山の包囲を解き、清水・黄甫・木瓜の十一の営堡を救った。高山で転戦し、河曲に伏兵を設け、馬鎮・虎頭巖・石臺山・西川での勝利があった。平陽・汾州・太原で戦い、臨県及び〓虒亭駅を回復した。大小数十戦、精力は尽き果てた。臣と共に事に当たった者に李卑がいるが、早くも露と消えた。臣は病勢が奄奄としているが、なおも冀北で力戦した。また王剛・豹五・領兵王・通天柱を撫剿し、賊一万三千余りを解散させた。恩を蒙り臣の養病を許されたが、督臣の洪承疇の檄文がまた届き、臣は病を押して出発せざるを得ない。ただ賊を滅ぼす方法は、剿と撫の外にないが、今は剿も撫もともに機宜に合わず、臣は極言せざるを得ない。賊を剿滅するには賊が多いことを憂えず、賊が逃げることを憂える。重なり合う山々は皆その巣窟であり、兵が至る前に賊が先に逃げるので、滅ぼし難いのである。その原因は兵が少ないことにある。当事者は兵が少ないことを知らないわけではないが、兵糧が不足しているため、一時しのぎの策をとり、日を引き月を長じて今日に至り、多く糧秣を措置し、多く兵を設けても、もはや救うことができない。賊の衆寡を合計し、用いる兵数、糧秣の量を考え、それが十分であると見積もってから、地の利を審らかにし、正兵を用い奇兵を用い、伏兵を用い間諜を用い、あるいは首尾を撃ち、あるいは左右を衝くならば、即時に殄滅しないものがあれば、臣は信じない。次には堅壁清野の法を行い、賊を死地に困らせてから、初めて撫のことを言える。群賊は妻子を連れ、城柵もなく輜重もなく、朝秦暮楚し、中原の地で食を転じ、掠奪を生業としている。誠に付近の村屯を城郭に移し、精兵と火器を蓄えてこれを待てば、賊の衣食は容易に尽き、生計が絶たれ、鳥驚き鼠竄する。その後に精鋭を選び、要害を占めてこれを撃つ。あるいは陛下の好生の心を体し、その渠魁を誅し、その協従を赦せば、仁を傷つけず、威を損なわず、これが撫剿の良策である。
帝は深くこれを嘉し、所管の官庁に下して議論して実行させたが、結局その策を用いることはできなかった。
まもなく孤山副総兵を授けられ、平涼を守備した。この時、総督の洪承疇は六月に賊を滅ぼす期限に迫られ、急いで進軍して戦った。諸将は賊が多く兵が少ないのを見て、皆自ら敵わないと推測したが、勢いを止めることはできなかった。萬年及び副将の劉成功・柳國鎮、遊撃の王錫命が兵三千を合わせ、六月十四日に寧州の襄楽に至り、賊と大戦し、数百の首級を斬った。伏兵が突然現れ、数重に包囲した。萬年・國鎮は力戦したが支えきれず、ともに戦死した。成功・錫命は重傷を負って帰還した。士卒で死者は千余人に及んだ。事が聞こえ、贈恤は定めに従って行われた。
李卑
李卑は字を侍平といい、榆林の人である。千総から抜擢されて守備となった。天啓初年、総督の王象乾が薊鎮に車営五つを設け、卑を都司僉書とし、西協後車営を統率させた。山海関遊撃に遷ったが、事に坐して罷免され帰郷した。
時に陝西の賊は多く山西に流入した。詔して卑及び賀人龍にそれぞれ部下の兵卒千人を率いさせ、総督の張宗衡の麾下に隷属させた。ちょうど王自用が遼州を陥落させ、官兵が至ると聞き、城を棄てて逃げた。六年春、諸軍が城に入り、多くは良民を殺して功を偽ったが、卑だけは厳しく部下を戒めて擾乱することがなかった。後に、賊を陽城の郎家山で破り、また艾萬年と連続してこれを南独泉土河村で破り、さらに芃塸村で破った。賊が済源の山中に入ると、巡撫の許鼎臣が卑・萬年に合剿を命じ、卑はこれを天井関で破った。七月、臨洮総兵の曹文詔が大同に改められ、卑に命じてその職務を代行させ、河北の賊を協討させ、都督僉事を加えられ、数度功績があった。その冬、賊はことごとく河南に逃げ、卑に援剿を命じた。七年春、賊を内郷で破り、馳せて光化に至り、楚兵とともに賊を蓮花坪・白溝坪で破り、実授で臨洮総兵官となり、湖広で賊を討った。賊は多く鄖・襄に集まり、総理の盧象升はまさに卑を頼りに賊を処理していたが、六月に任上で卒した。
卑は紀律を保つのに優れ、赴くところ軍民は安堵した。人となりに器量があり、倉卒の際にも平常のように鎮静であった。右都督を追贈され、祭葬を賜った。
湯九州
湯九州は石埭の人である。崇禎の時、昌平副総兵となった。六年の夏、流賊が河北・畿南を大いにかき乱した。命により九州は協同して討伐し、左良玉らとともにしばしば賊兵を破り、賊はことごとく河を渡って南に去った。その冬、過天星を呉城鎮で大いに破り、首級四百二十を斬った。賊の闖天王らを五華集に追撃し、またこれを破り、首級六百四十余を斬った。七年、賊を嵩県の潭頭で撃ち、首級三百二十を斬った。賊は商州・雒南に駐屯し、再び山西に入ろうと謀った。左良玉が商南で迎撃し、九州は部将の趙柱・周爾敬を遣わして雒南でこれを迎え撃たせた。賊は商州に至って引き返した。やがて、また閿郷を侵した。九州は病み、部将の淩元機・胡良翰らに山を捜索させたが、ことごとく敗れて死んだ。九州はまもなく山西に救援に赴いた。間もなく、河南での賊討伐の功により、署都督僉事を加えられた。八年の春、弾劾されて官を奪われ、軍に従って自ら功を立てることを許された。洪承疇が関に入り、呉村・瓦屋が商南の賊が内郷・淅川に走る要地であるとして、九州に良玉とともにこれを扼するよう命じた。まもなく洛陽に移駐した。九年二月、賊は登封の石陽関に走り、伊陽・嵩県の賊と合流した。九州は良玉と期して挟撃しようとしたが、良玉は途中で帰還した。九州は孤軍千二百人を率いて嵩県から深く入った。賊はしばしば敗れ、四十余里を窮追したが、誤って深い崖に入った。数万の賊に遭遇し、険阻な地を占めて攻囲された。九州は勢い敵わず、夜に営を移したが、賊に乗ぜられ、ついに戦死した。従孫の文瓊が宮門に伏して三度上書して恩恤を請うたが、返答がなかった。文瓊は後にも殉難した。
楊正芳
楊世恩
陳於王
陳於王は字を丹衷といい、呉県の人である。代々蘇州衛の千戸であった。職を襲い、二度武郷試に挙げられ、奇兵営守備を授けられた。海賊を捕獲した功により、都司僉書に遷り、崇明の蛇山を守った。盗賊の王一爵らが海辺で乱を起こすと、於王は戦船数十を率いて羊山でこれを撃ち、刀を執ってその船に飛び込み、一爵を生け捕りにし、その徒党をことごとく殲滅した。上官がこぞって推薦し、これにより名を知られた。天啓初め、経略の熊廷弼がこれを標下の参将に用いた。代わりの者が到着し、余於王は酒を飲んで急死した。その子が於王が毒殺したと訴え、逮捕されて長く釈放されなかった。
十年正月、賊が分かれて江浦・六合及び安慶を犯した。国維は部将の張載賡らを遣わして安慶を救援させ、新たに募った兵二千を副将の程龍及び於王・若来に分けて二邑に守らせた。やがて賊は来ず、国維は安慶に赴き、太湖に城を築くことを議し、そこで龍ら三将の兵を率いて西上した。三月、賊が太湖を犯すと、副将の潘可大が安慶の兵九百を率い、龍ら三将が呉中の兵三千六百を率いて、酆家店でこれを防いだ。賊はまず可大の営を犯し、龍らが到着すると、挟撃して、賊は多く死んだ。夜にまた至ったが、伏兵に中たり、また敗れて去った。監軍の史可法は要害を扼して退くことを望んだが、諸将は従わず、塹を掘って二十四日間守った。羅汝才・劉国能ら七営数万の衆が一斉に至り、数重に包囲した。諸将は突撃し、かなりの殺傷があった。可法は副将の許自強とともに馳せ救い、賊に扼され、大砲を鳴らして遥かに声援とし、諸将もまた呼噪して包囲を突破しようとした。時に雨が降り、甲冑が重くて出ることができなかった。翌日の日中、賊が四面から入り、将士は短兵を接して戦った。可大は戦死し、龍は火を引いて自ら焼死した。於王は手に大刀を執り、左右に賊を殺し、傷つき力尽き、北面して叩頭し自刎して死んだ。十日経っても面色は生きているようであった。若来は馬丁の衣を着て免れた。ともに死んだ者は、武挙の詹兆鵬は頭を石に打ちつけて死に、陸王猷は賊を殺すこと過当で、賊がその肉を切り分けて死に、莫是驊・唐世龍及び千戸の王定遠はいずれも力戦して死に、百戸の王弘猷は賊に捕らえられ、鋸で歯を断たれ足を断たれ、罵り絶えず声を出して死んだ。士卒で脱出した者はわずか千余人であった。事が聞こえ、於王に昭勇将軍・指揮使を追贈し、世蔭として副千戸を授けた。その他は贈官・蔭官に差等があった。
侯良柱
侯良柱は字を朝石といい、永寧衛の人である。天啓初め、累官して四川副総兵となった。奢崇明父子を討ち、遵義城を回復した。また参議の趙邦清とともに奢寅の徒党の安鑾を招降した。六年五月、李維新に代わって四川総兵官となり、永寧に鎮した。時に崇明は敗れて水西に奔り、安邦彦と合流し、貴州の兵は数度討伐したが勝てなかった。
四川巡撫張論がその功績を上奏したが、貴州の将軍は含まれなかった。成名らは怒り、邦彦・徳は己の部将趙国璽が斬ったものであり、しかも崇明はまだ死んでいないと主張した。燮元はこれを信じ、朝廷に上奏した。兵部は決断できず、恩賞は長らく行われなかった。御史孫征蘭が言うには、「捕虜の阿痴・楊作らを訊問すると、皆が邦彦は即時に首を斬られ、明らかに貴州軍の力ではないと云う」と。帝は直ちに捕虜を献じて宗廟に告げ、首を九辺に伝示するよう命じた。川中の巡撫・按察使及び御史毛羽健は皆、良柱・可訓の功績を主張し、燮元を誹謗した。燮元は上疏して弁明し、かつ辞任を求めたため、恩賞は遂に止まって行われなかった。良柱は燮元を怨み、用いられず、遂に互いに上奏して非難し合い、解職されて審査を待った。久しくして、御史劉宗祥が功績の状況を列挙して上奏した。七年八月、ようやく以前の功績を記録し、良柱を左都督に進め、世襲の錦衣指揮僉事を授け、成名らも優遇して叙した。間もなく、再び四川総兵官となった。
八年夏、総督洪承疇が大挙して賊を討ち、良柱に賊の四川侵入路を扼させた。鳳県三江口で戦い、三百七十余りの首級を斬った。明年の冬、賊が漢中を侵犯し、瑞王が使者を遣わして援軍を乞うた。良柱は兵を督して救援し、他の将軍と共に賊を退けた。十年四月、川中で地震が七度、地鳴りが一度あり、占いは兵事を主とした。賊は果たして侵犯し、南江・通江を陥落させた。帝は厳しく良柱及び巡撫王維章を責めた。当時、良柱は広元に駐屯し、諸地域の兵九千余りを全て召集し、分防して要害を扼し、残りは僅か二千人であった。賊はその勢いが弱いと知り、五月に再び川北を寇した。維章は朝廷に危急を告げた。ちょうど賊が他の地に転掠したため、良柱は要害を守る兵を撤収して戻し、専ら広元を守った。維章はこれは良策でないと考え、上章して述べた。十月、李自成・過天星・混天星らが寧羌を陥落させ、三路に分かれて侵犯した。良柱は急ぎ綿州で防戦したが、衆寡敵せず、陣没した。賊は直ちに成都に迫り、維章は保寧を守っていたが、逆に外におり、連続して三十余りの州県を失った。帝は大いに怒り、二人を逮捕して詔獄に下すよう命じたが、まだ良柱の死を知らなかった。獄が決し、維章は戍辺に遣られ、良柱の官職は追奪された。
張令
献忠は転じて柯家坪に入ったが、その地は乱峰錯峙し、笹が深く道が険しかった。令は衆を率いて追い及び、その配下を五つに分け、勇を鼓して利を争った。賊衆は官軍に寡く、国安は後衛となり、他の道から逃げ去った。令は独り深く入り、包囲され、絶阪の中に居て、屡々賊の陣営を射ると、弦に応じて斃れる者が甚だ多かった。水は遠く兵士は渇き、天の雨に頼って凌いだが、包囲は終に解けなかった。襄陽監軍僉事張克儉が総督鄭崇儉に言うには、「張令は健将である、どうしてこれを棄てるのか」と。急ぎ参将張応元・汪之鳳に八台山から進むよう命じ、総兵賀人龍に満月曹から進むよう命じた。三月八日、応元らが先に到着した。令は正に賊と戦い、喚声は山谷を動かした。応元らがこれに応じ、内外から挟撃し、賊は遂に敗走した。令は賊万余りと十三日間相対し、殺傷した数は自軍の損害を上回り、その兵卒は僅か五千であった。当時、巡撫邵捷春は重慶に駐屯し、黄泥窪を守らせ、令及び秦良玉を左右の手として頼った。後に捷春は大昌に移り、令に竹箘坪を守らせ、賊の逃亡を防いだ。九月、献忠の兵が大挙して来た。令は力戦し、矢に当たって死に、軍は遂に敗れた。
之鳳は柯家坪の包囲を解いた後、応元と共に夔州の土地嶺を守ったが、部卒は多く新たに募った者であった。献忠が精鋭を尽くして来攻し、之鳳・応元は力戦した。賊は兵を分けて後山から下り、突如その陣営に突入した。応元は包囲を突破して出た。之鳳は他の道を走って免れたが、山中を行く中で渇き、一斗の水を飲んで臥すと、血が胸に凝って死んだ。一月余りして、令もまた戦死した。軍中で二将を失い、気勢を奪われた。
猛如虎
猛如虎は本来塞外の降人で、家は榆林にあり、功績を積んで遊撃に至った。崇禎五年、高平で邢紅狼を撃ち、その包囲を解いた。明年、寿陽黒山で賊を破り、姫関鎖の軍を覆滅した。既にして、曹文詔に従って賊を西偃・碧霞村まで追撃し、混世王を斬った。頗希牧と共に賊を寿陽の東に追った。また陳国威・馬傑と共に来遠寨を破った。文詔に従って範村で賊を大破した。国威は歩卒三百で夜に賊の紅山嶺を急襲し、如虎・傑及び虎大威・和応詔は九条龍を撃殺した。間もなく巡撫許鼎臣の命により、文水から山に入り賊を剿討した。また大威・応詔・傑と共に皋落山から東犯する賊を剿討し、共に功績があった。賊が畿南に流入すると、山西の警報は次第に収まり、如虎はなお鼎臣に隷属した。七年、賊を沁源で剿討し、五条龍を斬った。
如虎は驍勇にして戦に長け、虎大威と並び称された。戴君恩・呉甡が相次いで巡撫となると、ともに彼を信任した。功により参将に進む。その年の冬、賊は河南にあり、氷を乗じて北に渡らんとしたが、如虎・大威は河辺でこれを防いだ。八年二月、大威・国威とともに大賊高加計を斬る。山西の賊はことごとく平定され、甡の推薦により副総兵を加えられる。その冬、河防の功により、署都督僉事を加えられる。連年河を防ぎ、河南の賊を援剿し、功績甚だ著しかった。十一年冬、京師に警報あり、如虎は兵を督して王事に勤しむ。明年四月、薊鎮中協総兵官に抜擢される。
明年正月、嗣昌はみずから舟師を統率して雲陽に下り、諸将に檄して陸より賊を追わしむ。諸軍はついにことごとく賊の後を躡う。賊は折れて東に返り、帰路ことごとく空しく、ふたたび遏むべからず。如虎の将うるはただ六百騎に止まり、余はみな左良玉の部兵にして、驕悍にして制すべからず、過ぐる所に肆に焚掠す。ただ参将劉士傑のみ勇敢にして功を立てんとす。諸軍は良玉に従い、多く優閑として戦わず。如虎に改隷せられ、山谷風雪の中を馳逐し、みな怨望す。謡に曰く、「我が左鎮を想い殺し、我が猛鎮を走り殺す」と。時に賀人龍の兵はすでに大いに騒ぎて西に帰り、恃むべきはただ如虎のみ。元吉は深くこれを憂う。賊は巴州より開県に至り、官軍これを追い、諸れ黄陵城に遇う。日晡に雨起こり、諸将疲乏し、詰朝の戦を請う。士傑奮いていわく、「四十日賊を逐い、今始めてこれに及ぶ。捨てて撃たずんば、我れ能わざるなり」と。戈を執いて先んじ、如虎は諸軍を激してこれに継がしむ。士傑の当たる所、輒ち摧陷す。献忠は高く登り官軍を望み、後継なきを見て、密かに壮騎を抽きて箐谷の中を潜行し、高きに乗じて大呼し馳下る。良玉の兵は先に潰え、士傑及び遊撃郭開・如虎の子先捷ともに戦死す。如虎は親兵を率いて力戦し、部将に馬上に挟まれ、囲みを潰して出で、旗纛・軍符ことごとく失う。すなわち残卒を収めて嗣昌に従い荊州に下る。嗣昌の死に及び、その部を率いて徳安・黄州を扼す。会うところ疽背に発し、戦う能わず、退きて承天に屯し、尋いで南陽に駐す。
十一月、李自成が傅宗龍の兵を覆し、勢いに乗じて来攻す。如虎と劉光祚は城に憑り固く守り、計を用いて賊の精卒数千を殺す。已にして城破れ、如虎は短兵を把り巷戦し、大呼して沖撃し、血袍袖に盈つ。唐府の門を過ぎ、北面して叩頭し上恩に謝し、みずから力竭きたりと称し、賊のために揕死す。光祚及び分守参議艾毓初・南陽知県姚運熙ともにこれに死し、唐王もまた害に遇う。
劉光祚
当是の時、賊はすでに河南・襄陽を陥し、中原の郡県は大抵残破す。光祚の士馬幾ばくもなく、督師丁啓睿はことさらに怯懦なり。光祚は少し克捷あるも、賊勢は転じて盛んとなる。傅宗龍が項城に敗没するに及び、南陽震恐す。光祚は適たずその地を経る。唐王これを邀えてともに守らんとし、城陥ちてついに死す。
虎大威
九年八月、畿輔が兵乱に遭い、率いて師を率いて入援した。翌年春、陝西の賊を援剿することを命じられ、やがて王忠に代わって山西総兵官となった。上疏して諸将の賊討伐について、零細な首級を取るべからず、捕虜を貪るべからず、境界を限るべからずと述べた。帝はこれを採り入れた。十一年、兵部に詔して諸大将を甄別させると、大威は称職として秩を増された。その年冬、京師が戒厳となった。総督盧象升に命じて大威及び宣府総兵楊国柱、大同総兵王朴を統率させて入衛させた。まもなく象升に従って転戦し鉅鹿の賈荘に至り、数重に包囲され、象升はそこで戦死し、大威らは包囲を突破して出た。督師劉宇亮、総督孫伝庭は皆、大威・国柱は敢勇にして、身をもって重囲に入り、他の将と異なると言い、功を立てて自ら贖罪させるよう請うた。大威もまた上章して罪を請うた。帝は従わず、ついにその任を解いた。まもなく軍に従って賊を討つことを命じた。
十四年正月、李自成が開封を包囲した。総督楊文岳が大威及び副将張徳昌を遣わし、先に五千人を率いて河を渡らせた。ちょうど賊はすでに包囲を解いて去ったので、偃師で河南巡撫李仙風と会し、兵が少ないため賊を撃つことを敢えてしなかった。文岳の軍が至るのを待ち、賊と鳴臯で戦い、大いにこれを破り、また監軍道任棟とともに賊を平峪で挫いた。七月、自成及び張献忠・羅汝才が鄧州を攻めると、大威は文岳に従ってこれを撃破し、千余級を斬首した。陝西総督傅宗龍が関を出て賊を討つと、文岳・大威はこれと会した。九月に新蔡に駐屯し、孟家荘に到着した。戦おうとしたとき、秦の帥賀人龍の軍が先に潰え、大威の軍もまた潰え、ついに沈丘に奔った。賊は連続して河南の鄧・許を陥落させ、再び開封を包囲した。大威は文岳に従ってこれを救援し、賊は引き去った。翌年二月、軍は郾城に駐屯した。督師丁啓睿・総兵左良玉がちょうど賊と激戦しており、文岳は大威及び馮大棟・張鵬翼らを督して合撃し、賊は大敗した。十一昼夜相持し、数千を俘斬した。賊はついに東の陳州・帰徳を陥落させ、やがて、再び開封を包囲した。七月朔、啓睿・文岳・大威及び良玉・楊徳政・方国安の軍がことごとく会した。啓睿は急撃を欲したが、良玉は従わず、先に逃走した。大威ら諸軍もまた逃走した。帝は大いに怒り、ただちに徳政を誅し、啓睿らを罷免・譴責した。大威は当時汝寧に奔り、出て賊の寨を攻めたが、砲に中たって死んだため、その罪を免じた。
大威は偏裨として最も名声があった。大帥となると、賊の勢いがますます盛んになる時に当たり、率いるのは僅か数千人に過ぎず、大いに挫くことができなかった。しかし身をもって数十戦を経て、ついに王事に死し、論ずる者はこれを賢とした。
孫応元
孫応元は、何許の人か知れない。京営参将を歴任し、勇衛営を督した。勇衛営はすなわち騰驤・武驤の四衛であり、その先は禦馬監に隷属し、専ら馬を牧していた。荘烈帝は武備を修めることに鋭意で、応元及び黄得功・周遇吉らを選抜して訓練させ、ついに精鋭の軍となった。崇禎九年秋、張鳳翼の軍に従って畿輔にあり、功があり、副総兵に進んだ。再び功により秩一等を増された。翌年、河南の賊が熾んになると、応元・得功は慷慨して行くことを請うた。帝はこれを壮とした。卒万人を発し、宦官劉元斌・盧九徳に監させ、民を擾さぬよう戒めた。諸将は命を受け、軍の行進は粛然としていた。十二月に賊を鄭州で大破し、再び密県でこれを破り、先後千七百を斬首した。翌年正月に舞陽・光山・固始で大破した。四日のうちに三たび勝ち、二千九百余を斬首し、賊はついに江北を犯すことを謀った。元斌・九徳は南に潁州へ向かい、鳳陵を護り、密かに応元・得功を遣わし騎兵を督して賊の前を扼させた。南より北へ、方家集でこれを破った。賊はついに固始より商城へ走った。功を録し、都督僉事を加えた。やがて、新野でこれを破り、また遂平で大いにこれを破った。熊文燦はちょうど撫を主とし戦わなかった。しかし賊は応元らを憚り、多く降り、降った者もまたすぐには叛かなかった。文燦はこれをもって賊を撫でる功を擅にした。やがて京師に警報があり、応元らを召還すると、賊はついに畏れるところがなくなった。帝は初め禁軍が屡々賊を破ると聞き、大いに喜び、累ねて応元に都督同知を加え、銀幣・蟒服を賜い、この時に至って功を論じ、ついに左都督に進め、総兵官の銜を加え、世襲で錦衣副千戸を蔭した。
応元は戦に善く、軍中で多く黄得功と偕にした。応元が死ぬと、得功の勲功はますます顕著となり、故にその名は特に世に震うた。
姜名武
十五年、李自成が開封を急に包囲すると、名武は文岳に従って救援に向かった。当時諸軍が朱仙鎮に壁したもの十余万、左良玉が最も強かった。ある夕べ、その軍が大いに騒ぎ、諸営を突き、諸営は驚いて潰えた。その軍はついに乱に乗じて諸営の馬騾を掠めて去り、ここにおいて諸営は悉く奔り、ただ名武一軍のみが堅く壁して動かなかった。夜明け前、賊が大いに至り、麾下を督して血戦した。数百人を殺し、力尽きて捕らえられ、大いに罵り、賊のために磔死した。特進栄禄大夫・右都督を贈られ、外衛世襲総旗を蔭した。その子が王来聘・甄奇傑の例に援け、ついに特進光禄大夫・左都督を贈り、世襲で錦衣百戸とすることを議した。疏が上って一ヶ月余りして都城が陥落し、果たして行われなかった。
来聘は京師の人である。崇禎四年、武会試に合格した。時に帝は武事を重んじることに意を鋭くし、百斤の大刀を振るう挙子は来聘と徐彦琦の二人のみであったが、彦琦は選に与からなかった。帝は考官及び監試御史を獄に下し、兵部郎二十二人を悉く貶した。詞臣の倪元璐らを遣わして覆閲させ、百人を取って、文榜の例に倣い、三甲に分けて伝臚し宴を賜い、前三十巻を進呈し、欽定で一甲三人とし、来聘が首位にあり、即座に副総兵を授かった。武榜に状元があるのは、来聘に始まるのである。来聘は命を拝するや、涙を流して言うには、「上は武をかくも重んじ、我らに疆場で命を効せしめんとされるのだ。躯を捐てて賊を殺さずして、何をもって上恩に報いようか」と。明年、孔有徳が登州を拠りて叛き、官軍はこれを攻めて久しく下さず。また明年二月、火薬をもって城を轟かせ、城は壊れた。将士は躍り入るも、すなわち賊に撃退された。来聘はまた先登し、傷を受け死んだ。天子これを惜しみ、贈蔭を加えた。奇傑もまた副総兵に官し、楊文岳の麾下に隷し、賊を撃つに河南に従い、戦死した。
先に、また鄧祖禹という者あり、蘄水の人、万暦四十七年の武会試に挙げられ、瀋陽守備を授かった。嘗て出戦し、矢に中り死す、夜半に蘇生し、創甚だしくして帰を告げた。崇禎初め、宣府遊撃を起し、京師に入り衛る。副将申甫の軍歿するや、祖禹は盧溝橋で力戦し、涿州参将に擢げられた。疏を上して召対を請うも、許されず。入朝して上書し、声甚だしく厲しく、御史に糾弾され獄に下されたが、然れども帝は頗るその言を采り入れた。久しくして赦出され、辰沅参将となり、苗酋の飛天王・張五保を擒え、千五百級を斬首し、その巣を夷した。副総兵に擢げられ、徳安・黄州を轄した。賊を土壁山に攻め、獲たる所を悉く掩して己が有と為した。当事の者、これを劾せんとし、寇を剿りて自ら贖うを請わしむ。乃ち応城を援けしめ、七百人を率いて城に入る。賊大いに至り、数重に囲む。祖禹は囲を突いて西城外を保つも、賊またこれを囲み、軍敗れて捕らえられた。賊は降るを説くも、怒罵して屈せず。賊これを再三言うに、また罵って曰く、「かくの如くは、須らく心肝を換えざるべからず」と。賊笑いて曰く、「換えるは難からず」と。遂に心を剖き肝を剜って死した。
尤世威
明年正月、賊は鳳陽を陥とす。世威は二千五百騎を以てこれに赴き、亳州に抵る。時に総督洪承疇は関を出でて賊を討ち、信陽に次し、世威をして汝州に趨らしむ。甫く二日、承疇もまた至る。時に賊は河南の兵盛んなるを見て、悉く奔りて関中に入る。承疇は関に入りて征討せんとし、乃ち諸将を大会し、令して汝・雒の諸要害を分防せしむ。世威の部下は皆勁旅なるを以て、令して参将徐来朝と分かち永寧・盧氏の山中に駐し、以て雒南の蘭草川・朱陽関の険を扼せしむ。戒めて曰く、「霊・陜は賊の出入する所、汝懈るなかれ」と。承疇の既に関に入るに及び、賊はこれを避けて南し、また藍田より盧氏に走る。世威に扼せられ、なお商・雒の山中に入る。来朝の部する所の三千人は山に入るを肯わず、大いに騒ぐ。賊至り、来朝逃げ、一軍尽く歿す。世威の軍は暴露久しく、大いに疫し、賊と戦いて利あらず。世威及び遊撃劉肇基・羅岱は倶に重傷を負い、軍大いに潰る。賊は遂に盧氏を越え、永寧に走る。事聞こえ、命じて任を解きて勘を侯たしむ。十年、宣大総督盧象升言う、「世威は士卒を撫するに善く、軍機に暁る、徒に数千の客旅を以て久しく荒山に戍し、疾作して利を失う。今は用兵の時、これを棄つは惜しむべし」と。乃ち命じて象升の軍に赴きて自ら効せしむ。象升の戦歿するに及び、自ら免じて帰る。
十五年、廷臣の薦めにより、命じて弟の世禄とともに京に赴きて調を候わしむ。中左門に召対し、また帰を告ぐ。明年十月、李自成は西安を陥とし、檄を伝えて榆林に降を招く。総兵官王定は懼れ、率いる所の精兵を以て城を棄てて走る。時に巡撫張鳳翼未だ至らず、城中の士馬は単弱にして、人心洶洶たり。布政使都任は急ぎ副将恵顕・参将劉廷傑らを集め、裏居の将帥世威及び王世欽・王世国・侯世禄・侯拱極・王学書、故延綏総兵李昌齢と城守を議す。衆は世威を推して主帥と為す。未だ幾ばくもせず、賊十万衆は延安を陥とし、綏徳を下し、また使を遣わして降を説く。廷傑は大呼して曰く、「長安は破るれども、三辺は旧の如し。賊は皆中州の子弟、その父兄を殺してこれを戦に駆るは、必ずしも願う所に非ざるべし。榆林は天下の勁兵、一戦してその気を奪い、然る後に寧夏・固原を約して三師と為し叠進せば、賊は平ぐべし」と。衆その言を然りとし、乃ち血を歃って師を誓い、卒乗を簡び、甲仗を繕い、各々私財を出して軍を佐く。守具未だ備わらず、賊は已に城下に抵る。
廷傑は死士を募り、師を套部に乞う。師将に至らんとす、賊は兵を分けてこれを却け、城を攻むること甚だ力めり。官軍は力戦し、賊を殺すこと算無し。賊は益々衆を増して来り攻め、飛楼を起して城中に逼り、矢石交々至るも、世威らは戦い益々厲し。七昼夜を守り、賊は乃ち城に穴し、大砲を置いてこれを轟かせ、城は遂に破る。世威らはなお衆を督して巷戦し、婦人豎子もまた屋瓦を発して賊を撃ち、賊屍枕藉す。既にして力支えず、任はこれに死し、侯世禄父子及び学書は倶に屈せず死す。賊は廷傑が套部を勾くを怒り、これを磔にし、死に至るまで罵り絶えず。世威・世欽・世国・昌齢は並びに捕らえられ、縛られて西安に至る。自成は秦王府に坐してこれを降さんと欲す、四人は膝を屈せず。自成曰く、「諸公は皆名将、我を助けて天下を平らげ、封侯を取らば、可ならんか」と。衆罵って曰く、「汝は駅卒、敢えて大言して我を侮るか」と。自成笑い、前に進みてその縛を解く、世欽唾して曰く、「駅卒前きに近づくな、将軍の衣を汚す」と。自成怒り、皆これを殺す。時に顕もまた捕らえられ、賊を大いに罵る。賊はその勇を惜しみ、神木に繫がしめ、毒を服して死す。
王世欽は大将威の子、山海左部総兵官を歴任し、病を謝して去る。崇禎八年、洪承疇これを家より起し、李自成を撃って功あり、即ち謝して帰る。十六年、中左門に召対す、未だ用いらるるに及ばずして帰り、遂に賊に死す。世国は威の弟、保定総兵官継の子、柳溝総兵官より罷めて帰る。甫く数日、竟に賊を拒ぎて死す。
世威の弟世禄は、寧夏総兵官となり、累ねて戦功を著わし、是に至りて世威とともに死す。世威の従弟翟文は靖辺営副将たり。嘗て洪承疇に従い闖賊を鳳翔の官亭に敗り、七百余級を斬首す。是に至り、敢死士を率いて南門より出で奮撃し、殺傷甚だ衆く、矢に中り死す。
また尤岱という者あり、歩卒より起家し、山海鉄騎営参将に至り、数たび功あり。上官に忤い、職を棄てて帰り、水西門を守り、城陥ちて自殺す。
廷傑が既に死ぬと、その父の副使彜鼎はこれを聞いて泣かず、言うには、「我に子あり」と。その弟の廷夔は兄の屍を収め、また自ら閣に投じて死す。
昌齢は、字を玉川といい、鎮番衛の人である。延綏総兵官となり、数度功績があり、剛直のゆえに罷免され、榆林に移り住んだ。賊が至ると、ある者が去るよう勧めたが、昌齢は言うには、「賊が至って遁るは、勇にあらず。難を見て避けるは、義にあらず」と。起ち上がって世威らとともに城を守り、ついにともに死す。
侯世祿
拱極は歴官して参将となり、常に総兵尤世祿に従い賊を河曲で破り功績があった。九年冬、山海総兵官に任じられ、まもなく病を謝して帰る。後に廷臣の推薦により、詔に応じて都に入り、王洪・王世欽・尤世威とともに中左門で召対を受けるが、用いられずに帰される。ついに父とともに死す。
劉國能
この時、総理熊文燦が新たに至り、賊はこれを畏れた。その下した招降の令を見て、正に帰らんとする者頗るあり。國能は先に張献忠と不和があり、併呑されることを慮り、後にまた左良玉と戦って敗れたため、十一年正月四日、率先して随州において撫に就き、文燦の前に頓首して言うには、「愚民、不義に陥ること且つ十年、公に頼りて湔洗され更生す。願わくは衆を悉く軍籍に入れ、身を麾下に隷して死力を尽くさん」と。文燦は大いに喜び、慰撫し、守備に署し、良玉の軍に隷属させるよう命じた。國能は約束を受け、異志無し。やがて張献忠・羅汝才も降り、皆邑を拠りて自ら固める。獨り國能は軍に従い征剿し、数度功績あり。翌年二月、良玉に従い勤王する。詔あり、還って賊を討ち、これを奨励す。兵部に命じて官を授け、その部下の将士を録し、言うには、「献忠能く功を立てば、これを見よ」と。ついに國能を副総兵に授く。四月、良玉が南陽に会師し、李萬慶を撃つ。國能は分かれて撃ち、賊は潰走し、ついに萬慶を招いて降す。その秋、献忠・汝才ともに反す。文燦は國能に萬慶の兵を率いて会討させ、ついにともに鄖陽を守る。既にして李自成が河南を擾すと、また移って葉県を守る。
初め、國能が盗賊であった時、自成・汝才らと兄弟の契りを結んだ。國能が正に帰すると、自成らはこれを深く恨んだ。十四年九月、その城を包囲し、四面より力攻めし、國能は支えることができず、城はついに陥落し、捕らえられる。賊はなお好んでこれに謂うには、「汝は我が故人なり、何ぞ降らざる」と。國能は瞋目して罵りて言うには、「我初め汝とともに賊たりしも、今は則ち王臣なり、何ぞ故ありて賊に降らんや」と。ついにこれを殺す。事が聞こえ、左都督を贈られ、特進栄禄大夫とし、祠を建つ。
李萬慶
李萬慶は、延安の人である。崇禎初年、張献忠・羅汝才らとともに反し、賊中に射塌天と称する者はこれである。陝西に起こり、山西・畿南・河北に蔓り、河を渡って河南を残破し、湖広・四川に出没し、還って鄖陽に向かい、興安に入り、車箱峡に困窮する。険を出て、益々大いにほしいままにする。八年春、賊七十二営が滎陽に会し、兵を分けて向かう所に随うことを議し、萬慶及び許可変に馬進忠・横天王を助けて西において陝西の兵に当たらせる。やがて諸路の賊は尽く陝西に集まり、総督洪承疇は一年を経ても定めることができず、益々ほしいままにし、河南・湖広に出没し、凡そ十五家となる。
十一年春に至り、國能・献忠が降ると、萬慶らは大いに騒ぎ去り、改めて十三家と称し、勢い頗る衰える。しかし文燦は兵を擁して徳安にあり、敢えて撃たず、萬慶らは再び大いに振るう。李自成が関中に向かうと、萬慶及び馬光玉・馬進忠・羅汝才・恵登相・賀一龍・藺養成・順天王・順義王の九家が最も著しい。八月、進忠・光玉は潼関において大いに挫かれる。九月、鄖陽・襄陽の賊はまた双溝において大いに敗れ、汝才は九営を率いて均州に走り、萬慶は三営を率いて光州・固始に走る。十一月、汝才もまた降り、自成はまた関内において大いに敗れ、勢い益々衰え、ただ萬慶・光玉・一龍・順天王が最も勁し。そして萬慶は馬士秀・杜応金が掠奪した左良玉の賄賂を得て、富み且つ強く、麻城に営し、信陽に移る。
十四年、献忠突如として襄陽を陥とし、鄖の守りは旧の如し。明年正月、総督汪喬年賊を討ち、萬慶を従う。襄城に至り、軍潰え、城に入る。賊これを攻め囲み、固く五日守る。城陥ち、喬年死し、萬慶も亦た屈せずして死す。事聞こえ、都督同知・栄禄大夫を贈り、祠を襄城に立つ。
【賛】
賛に曰く、明末季に至り、流寇蔓延し、国勢坐して困しむ。奮威敵を禦ぐの臣有りと雖も、兵孱餉絀し、徒らに賊をしてその敝に乗ぜしめ、潰陷相属し、乱亡を救う無し。艾萬年等の躯を捐げ節を尽くすが如き、その悲しむべき者なり。これ其の勇備わらず、略嫺ならざるに非ず。兵力耗頓し、これに統馭失宜、応援及ばずを加う。敗衄無きを求むるも、得んや。