明史

列伝第一百五十七 艾萬年 李卑 湯九州 陳于王 侯良柱 張令 猛如虎 虎大威 孫應元 姜名武 尤世威 侯世祿 劉國能

○艾萬年李卑湯九州(楊正芳楊世恩)陳於王(程龍等)侯良柱(子天錫)張令(汪之鳳)猛如虎(劉光祚等)虎大威孫應元姜名武(王來聘等鄧祖禹)尤世威(王世欽等)侯世祿(子拱極)劉國能(李萬慶)

艾萬年

艾萬年は米脂の人である。武学生から従軍し、功を積んで神木参将に至った。崇禎四年、曹文詔に従い河曲を回復した。点灯子が山西に入ると、萬年は文詔に従い連続してこれを桑落鎮・花地窊・霧露山で破った。都司の王世虎・守備の姚進忠は戦死した。賊は石楼の康家山に退き屯し、西は河から三十里であった。綏徳知州の周士奇・守備の孫守法は含峪に伏兵し、河を渡ってこれを襲撃し殺した。五年、参政の樊一蘅に従い不沾泥を討ち平らげた。山西が警報を告げると、文詔に隷属して東討し、李卑とともに一月に五度の勝利を奏上した。また賀人龍とともに八大王・掃地王の兵を破った。翌年、賊が東へ逃れようとした時、連続してこれを延家山・亢義村・賈寨村で破り、副総兵に抜擢された。

初め、山西が既に賊の侵攻を受けると、その土着の賊も隙に乗じて蜂起し、三関の王剛・孝義の通天柱・臨県の王之臣はいずれも城邑を破壊した。後に賊が衰えるのを見て、相次いで帰順したが、密かに徒党を結んで解散しなかった。巡撫の戴君恩が新たに職務に就き、これを誅殺しようと謀った。七年正月の迎春の際、王剛を招いて宴を催し、これを殺し、併せて通天柱を他の場所で殺した。そして萬年もまた王豹五とその党の領兵王を捕らえて殺し、翻山動を生け捕りにし、姬関鎖・掌世王を捕らえ、京師に献俘し、晋中の大盗はほぼ平定された。豹五は即ち之臣である。君恩が降伏者を殺したことを非議する者がいたが、給事中の張第元は諸賊が蹂躙した惨状を力説し、萬年の功績を記録するよう請うた。萬年はちょうど病にかかり帰郷を願い出たが、まもなく署都督ととく僉事を加えられた。

八年二月、上疏して言うには、

臣が剣を執って軍務に従うこと七年、府谷を回復し、孤山の包囲を解き、清水・黄甫・木瓜の十一の営堡を救った。高山で転戦し、河曲に伏兵を設け、馬鎮・虎頭巖・石臺山・西川での勝利があった。平陽・汾州・太原で戦い、臨県及び〓虒亭駅を回復した。大小数十戦、精力は尽き果てた。臣と共に事に当たった者に李卑がいるが、早くも露と消えた。臣は病勢が奄奄としているが、なおも冀北で力戦した。また王剛・豹五・領兵王・通天柱を撫剿し、賊一万三千余りを解散させた。恩を蒙り臣の養病を許されたが、督臣の洪承疇の檄文がまた届き、臣は病を押して出発せざるを得ない。ただ賊を滅ぼす方法は、剿と撫の外にないが、今は剿も撫もともに機宜に合わず、臣は極言せざるを得ない。賊を剿滅するには賊が多いことを憂えず、賊が逃げることを憂える。重なり合う山々は皆その巣窟であり、兵が至る前に賊が先に逃げるので、滅ぼし難いのである。その原因は兵が少ないことにある。当事者は兵が少ないことを知らないわけではないが、兵糧が不足しているため、一時しのぎの策をとり、日を引き月を長じて今日に至り、多く糧秣を措置し、多く兵を設けても、もはや救うことができない。賊の衆寡を合計し、用いる兵数、糧秣の量を考え、それが十分であると見積もってから、地の利を審らかにし、正兵を用い奇兵を用い、伏兵を用い間諜を用い、あるいは首尾を撃ち、あるいは左右を衝くならば、即時に殄滅しないものがあれば、臣は信じない。次には堅壁清野の法を行い、賊を死地に困らせてから、初めて撫のことを言える。群賊は妻子を連れ、城柵もなく輜重もなく、朝秦暮楚し、中原の地で食を転じ、掠奪を生業としている。誠に付近の村屯を城郭に移し、精兵と火器を蓄えてこれを待てば、賊の衣食は容易に尽き、生計が絶たれ、鳥驚き鼠竄する。その後に精鋭を選び、要害を占めてこれを撃つ。あるいは陛下の好生の心を体し、その渠魁を誅し、その協従を赦せば、仁を傷つけず、威を損なわず、これが撫剿の良策である。

帝は深くこれを嘉し、所管の官庁に下して議論して実行させたが、結局その策を用いることはできなかった。

まもなく孤山副総兵を授けられ、平涼を守備した。この時、総督の洪承疇は六月に賊を滅ぼす期限に迫られ、急いで進軍して戦った。諸将は賊が多く兵が少ないのを見て、皆自ら敵わないと推測したが、勢いを止めることはできなかった。萬年及び副将の劉成功・柳國鎮、遊撃の王錫命が兵三千を合わせ、六月十四日に寧州の襄楽に至り、賊と大戦し、数百の首級を斬った。伏兵が突然現れ、数重に包囲した。萬年・國鎮は力戦したが支えきれず、ともに戦死した。成功・錫命は重傷を負って帰還した。士卒で死者は千余人に及んだ。事が聞こえ、贈恤は定めに従って行われた。

李卑

李卑は字を侍平といい、榆林の人である。千総から抜擢されて守備となった。天啓初年、総督の王象乾が薊鎮に車営五つを設け、卑を都司僉書とし、西協後車営を統率させた。山海関遊撃に遷ったが、事に坐して罷免され帰郷した。

崇禎二年、陝西巡撫の劉廣生が延慶の回賊を討つことを議し、三路から進軍し、卑と遊撃の伍維藩らに西路から入ることを命じた。卑は精騎二百を選び、両昼夜追撃し、四百里を行って保安寧塞に至り、連続してこれを破り、合わせて首功一千余りを獲た。まもなく延安参将に起用された。時に群盗が蜂起し、延発が特に甚だしく、卑は連続してこれを富家灣・松樹屯で破った。四年、神一元が保安を陥落させると、卑は寧夏総兵の賀虎臣とともに延安を守り、賊は侵犯できなかった。まもなく孤山副総兵に抜擢された。譚雄が安塞を陥落させ、その城を占拠すると、卑は王承恩とともに雄を撃って降伏させ、これを殺し、五百三十余級の首級を斬った。五年春、混天猴が宜君・鄜州を陥落させ、その夏に合水を攻めた。卑及び参将の馬科は甘泉山まで追撃した。七月に延水関でこれを破り、六百余級の首級を斬った。その地は東は黄河に限られ、賊で溺死した者は数え切れず、科の部下の兵卒が混天猴を斬って献上した。初め、卑及び遊撃の吳國俊らは賊の首魁三人を甘泉の橋子溝で斬り、まもなく固原で賊を剿討し、その首魁の薛仁貴ら三人を斬った。

時に陝西の賊は多く山西に流入した。詔して卑及び賀人龍にそれぞれ部下の兵卒千人を率いさせ、総督の張宗衡の麾下に隷属させた。ちょうど王自用が遼州を陥落させ、官兵が至ると聞き、城を棄てて逃げた。六年春、諸軍が城に入り、多くは良民を殺して功を偽ったが、卑だけは厳しく部下を戒めて擾乱することがなかった。後に、賊を陽城の郎家山で破り、また艾萬年と連続してこれを南独泉土河村で破り、さらに芃塸村で破った。賊が済源の山中に入ると、巡撫の許鼎臣が卑・萬年に合剿を命じ、卑はこれを天井関で破った。七月、臨洮総兵の曹文詔が大同に改められ、卑に命じてその職務を代行させ、河北の賊を協討させ、都督僉事を加えられ、数度功績があった。その冬、賊はことごとく河南に逃げ、卑に援剿を命じた。七年春、賊を内郷で破り、馳せて光化に至り、楚兵とともに賊を蓮花坪・白溝坪で破り、実授で臨洮総兵官となり、湖広で賊を討った。賊は多く鄖・襄に集まり、総理の盧象升はまさに卑を頼りに賊を処理していたが、六月に任上で卒した。

卑は紀律を保つのに優れ、赴くところ軍民は安堵した。人となりに器量があり、倉卒の際にも平常のように鎮静であった。右都督を追贈され、祭葬を賜った。

湯九州

湯九州は石埭の人である。崇禎の時、昌平副総兵となった。六年の夏、流賊が河北・畿南を大いにかき乱した。命により九州は協同して討伐し、左良玉らとともにしばしば賊兵を破り、賊はことごとく河を渡って南に去った。その冬、過天星を呉城鎮で大いに破り、首級四百二十を斬った。賊の闖天王らを五華集に追撃し、またこれを破り、首級六百四十余を斬った。七年、賊を嵩県の潭頭で撃ち、首級三百二十を斬った。賊は商州・雒南に駐屯し、再び山西に入ろうと謀った。左良玉が商南で迎撃し、九州は部将の趙柱・周爾敬を遣わして雒南でこれを迎え撃たせた。賊は商州に至って引き返した。やがて、また閿郷を侵した。九州は病み、部将の淩元機・胡良翰らに山を捜索させたが、ことごとく敗れて死んだ。九州はまもなく山西に救援に赴いた。間もなく、河南での賊討伐の功により、署都督僉事を加えられた。八年の春、弾劾されて官を奪われ、軍に従って自ら功を立てることを許された。洪承疇が関に入り、呉村・瓦屋が商南の賊が内郷・淅川に走る要地であるとして、九州に良玉とともにこれを扼するよう命じた。まもなく洛陽らくように移駐した。九年二月、賊は登封の石陽関に走り、伊陽・嵩県の賊と合流した。九州は良玉と期して挟撃しようとしたが、良玉は途中で帰還した。九州は孤軍千二百人を率いて嵩県から深く入った。賊はしばしば敗れ、四十余里を窮追したが、誤って深い崖に入った。数万の賊に遭遇し、険阻な地を占めて攻囲された。九州は勢い敵わず、夜に営を移したが、賊に乗ぜられ、ついに戦死した。従孫の文瓊が宮門に伏して三度上書して恩恤を請うたが、返答がなかった。文瓊は後にも殉難した。

楊正芳

時に楊正芳という者がいた。天啓の間、小校として軍に従い、しばしば貴州の賊を討伐し、功を積んで副総兵に至った。桃紅壩の功を叙し、署都督同知を加えられた。崇禎三年、定番の叛く苗を撃破した。七年、賊が当陽を陥落させると、正芳は鎮筸兵を率いて賊を班鳩灘で破り、その城を回復した。湖広巡撫の唐暉は献陵・恵藩を重んじ、正芳及び総兵の許成名に専ら荊州・承天を護らせた。正芳は金沙鋪・蓮花坪・白溝坪・官田・石門山での勝利を連続して奏上した。陳奇瑜が鄖陽に出師すると、正芳は成名・鄧玘とともに竹山・竹渓・白河から分道して進み、いずれも大いに獲るところがあった。十月に至り、正芳は筸兵千余を督して雒南を救援したが、戦いに敗れ、部将の張上選とともにともに死に、一軍ことごとく滅んだ。太子少師・左都督を追贈され、世蔭として指揮同知を授けられ、さらに一子に守備を蔭し、祭葬を賜り、役所に祠を建てさせた。

楊世恩

また楊世恩という者がいた。崇禎の時、官を歴任して湖広副総兵となった。七年の春、賊を竹渓で破った。大雨が降り、山水が急に漲り、賊は多く漂溺して死に、残りは潰走した。世恩は急撃し、鎮山虎ら四十余人を斬った。やがて、賊を石河口に追撃し、康家坪・蚋渓で連戦し、功績が最もあった。八年の冬、賊を孝感で破った。九年の春、祖寛が賊を滁州で大破した。世恩は盧象升に従って馳せ至り、また大いにこれを破った。十年の春、秦翼明とともに劉国能を細石嶺で破り、その首領の新来虎を捕らえた。賊が随州を陥落させると、罪を負って自ら贖うことを命じられた。十二年の冬、督師の楊嗣昌は宜城を守らせた。時に賊の羅汝才・恵登相が興山・遠安に分屯し、夷陵が危急を告げた。嗣昌は世恩及び荊門の守将羅安邦に救援に赴くよう檄を飛ばした。洋坪の猴児洞に至ると、道は甚だ険しく、嗣昌は再び檄を発して召還したが、安邦は祚峪から、世恩は重陽坪からすでに両道深く入り、馬良坪で合流することを期していた。汝才・登相がこれを香油坪で包囲すると、嗣昌は数道の兵を連続して発して救援に向かわせたが、いずれも道遠くして進むことができなかった。世恩らは包囲されて久しく、包囲を突破して黄連坪に走ったが、絶地で水がなく、兵士は飢え渇き甚だしかった。賊が至り、両軍ことごとく覆り、世恩・安邦ともに死んだ。

陳於王

陳於王は字を丹衷といい、呉県の人である。代々蘇州衛の千戸であった。職を襲い、二度武郷試に挙げられ、奇兵営守備を授けられた。海賊を捕獲した功により、都司僉書に遷り、崇明の蛇山を守った。盗賊の王一爵らが海辺で乱を起こすと、於王は戦船数十を率いて羊山でこれを撃ち、刀を執ってその船に飛び込み、一爵を生け捕りにし、その徒党をことごとく殲滅した。上官がこぞって推薦し、これにより名を知られた。天啓初め、経略の熊廷弼がこれを標下の参将に用いた。代わりの者が到着し、余於王は酒を飲んで急死した。その子が於王が毒殺したと訴え、逮捕されて長く釈放されなかった。

崇禎二年、京師に警報があった。巡撫の曹文衡がその罪を赦し、前鋒遊撃を署理させ、兵を率いて王事に勤めさせた。到着すると、兵事はすでに解決し、そこで南に還った。久しくして、巡撫の張国維がこれを中軍守備に用いた。九年、賊が江北に入り、廬州を包囲し、和州を陥落させた。国維は於王に六合を守らせ、守備の蒋若来に江浦を守らせた。賊がちょうど江浦を包囲すると、若来は急ぎ入って知県の李維樾とともに固守した。賊が城に登ると、若来は拒んでこれを退けた。城から縋り下りて賊と戦い、矢がその頬に当たり、左腕を傷つけられたが、血を包んで還って戦い、賊はついに退いた。六合には城がなく、若来と於王が犄角となって賊を防ぎ、二邑はこれによって全うされた。賊が宿松を犯すと、於王の弟の国計が指揮の包文達らとともに二千人を率いて救援に向かった。文達は敗れて死に、於王は馬を駆って入り、その弟を救い出した。

十年正月、賊が分かれて江浦・六合及び安慶を犯した。国維は部将の張載賡らを遣わして安慶を救援させ、新たに募った兵二千を副将の程龍及び於王・若来に分けて二邑に守らせた。やがて賊は来ず、国維は安慶に赴き、太湖に城を築くことを議し、そこで龍ら三将の兵を率いて西上した。三月、賊が太湖を犯すと、副将の潘可大が安慶の兵九百を率い、龍ら三将が呉中の兵三千六百を率いて、酆家店でこれを防いだ。賊はまず可大の営を犯し、龍らが到着すると、挟撃して、賊は多く死んだ。夜にまた至ったが、伏兵に中たり、また敗れて去った。監軍の史可法は要害を扼して退くことを望んだが、諸将は従わず、塹を掘って二十四日間守った。羅汝才・劉国能ら七営数万の衆が一斉に至り、数重に包囲した。諸将は突撃し、かなりの殺傷があった。可法は副将の許自強とともに馳せ救い、賊に扼され、大砲を鳴らして遥かに声援とし、諸将もまた呼噪して包囲を突破しようとした。時に雨が降り、甲冑が重くて出ることができなかった。翌日の日中、賊が四面から入り、将士は短兵を接して戦った。可大は戦死し、龍は火を引いて自ら焼死した。於王は手に大刀を執り、左右に賊を殺し、傷つき力尽き、北面して叩頭し自刎して死んだ。十日経っても面色は生きているようであった。若来は馬丁の衣を着て免れた。ともに死んだ者は、武挙の詹兆鵬は頭を石に打ちつけて死に、陸王猷は賊を殺すこと過当で、賊がその肉を切り分けて死に、莫是驊・唐世龍及び千戸の王定遠はいずれも力戦して死に、百戸の王弘猷は賊に捕らえられ、鋸で歯を断たれ足を断たれ、罵り絶えず声を出して死んだ。士卒で脱出した者はわずか千余人であった。事が聞こえ、於王に昭勇将軍・指揮使を追贈し、世蔭として副千戸を授けた。その他は贈官・蔭官に差等があった。

侯良柱

侯良柱は字を朝石といい、永寧衛の人である。天啓初め、累官して四川副総兵となった。奢崇明父子を討ち、遵義城を回復した。また参議の趙邦清とともに奢寅の徒党の安鑾を招降した。六年五月、李維新に代わって四川総兵官となり、永寧に鎮した。時に崇明は敗れて水西に奔り、安邦彦と合流し、貴州の兵は数度討伐したが勝てなかった。

崇禎二年、総督朱燮元は貴州総兵許成名を派遣して赤水衛を奪回すると、崇明・邦彦は十余万の兵を率いて争奪に来た。成名は永寧に引き返し、賊は猛烈に追撃した。良柱は監軍副使劉可訓と共に出戦して小敗し、成名らが援軍に来ると、賊は五峰山桃紅壩を占拠した。数日を経て、良柱は賊の不意を衝き、副将鄧玘らと共に早朝の霧に乗じて迫り、賊は大いに潰走した。成名は山上の喚声を聞いても出撃した。賊は鵝項嶺に奔り、道は長く狭く、人馬が容れられない。良柱・玘の軍が到着し、賊は再び大敗し、死者は数万人に及んだ。崇明・邦彦及び邦彦の党で偽都督の莫徳は共に首を斬られ、その党の楊作ら数千人を捕虜とした。積年の大寇は平定され、時に西南の奇捷と称された。

四川巡撫張論がその功績を上奏したが、貴州の将軍は含まれなかった。成名らは怒り、邦彦・徳は己の部将趙国璽が斬ったものであり、しかも崇明はまだ死んでいないと主張した。燮元はこれを信じ、朝廷に上奏した。兵部は決断できず、恩賞は長らく行われなかった。御史孫征蘭が言うには、「捕虜の阿痴・楊作らを訊問すると、皆が邦彦は即時に首を斬られ、明らかに貴州軍の力ではないと云う」と。帝は直ちに捕虜を献じて宗廟に告げ、首を九辺に伝示するよう命じた。川中の巡撫・按察使及び御史毛羽健は皆、良柱・可訓の功績を主張し、燮元を誹謗した。燮元は上疏して弁明し、かつ辞任を求めたため、恩賞は遂に止まって行われなかった。良柱は燮元を怨み、用いられず、遂に互いに上奏して非難し合い、解職されて審査を待った。久しくして、御史劉宗祥が功績の状況を列挙して上奏した。七年八月、ようやく以前の功績を記録し、良柱を左都督に進め、世襲の錦衣指揮僉事を授け、成名らも優遇して叙した。間もなく、再び四川総兵官となった。

八年夏、総督洪承疇が大挙して賊を討ち、良柱に賊の四川侵入路を扼させた。鳳県三江口で戦い、三百七十余りの首級を斬った。明年の冬、賊が漢中を侵犯し、瑞王が使者を遣わして援軍を乞うた。良柱は兵を督して救援し、他の将軍と共に賊を退けた。十年四月、川中で地震が七度、地鳴りが一度あり、占いは兵事を主とした。賊は果たして侵犯し、南江・通江を陥落させた。帝は厳しく良柱及び巡撫王維章を責めた。当時、良柱は広元に駐屯し、諸地域の兵九千余りを全て召集し、分防して要害を扼し、残りは僅か二千人であった。賊はその勢いが弱いと知り、五月に再び川北を寇した。維章は朝廷に危急を告げた。ちょうど賊が他の地に転掠したため、良柱は要害を守る兵を撤収して戻し、専ら広元を守った。維章はこれは良策でないと考え、上章して述べた。十月、李自成・過天星・混天星らが寧羌を陥落させ、三路に分かれて侵犯した。良柱は急ぎ綿州で防戦したが、衆寡敵せず、陣没した。賊は直ちに成都に迫り、維章は保寧を守っていたが、逆に外におり、連続して三十余りの州県を失った。帝は大いに怒り、二人を逮捕して詔獄に下すよう命じたが、まだ良柱の死を知らなかった。獄が決し、維章は戍辺に遣られ、良柱の官職は追奪された。

十三年、良柱の子で指揮の天錫が宮門に伏して言うには、「臣は賊と共に天を戴かず。資財を投じて甲冑を整え、勁旅を選び募り、及び臣の父の旧将を率い、自ら一隊を担当し、賊と血戦し、下は父の恥を雪ぎ、上は国恩に報いたい」と。帝は深くこれを嘉し、遊撃を授けて嗣昌の軍に赴き、功を立てるよう命じた。既にして、嗣昌は天錫の率いる親丁二百六十人及び召募した精卒五六百人は皆、剽悍で敢えて戦うと述べた。帝はますますこれを嘉し、再び一階級を増した。

張令

張令は永寧宣撫司の人である。天啓元年、奢崇明が反逆し、令は偽総兵となり、従って成都を攻めた。令は賊に用いられていたが、その本意ではなかった。崇明が敗れて永寧に帰ると、令は宋武らと結んで隙に乗じ、その偽丞相何若海を生け捕りにし、衆を率いて降伏した。崇明は怒り、令の一家を殺し、その先祖の墓を平らげた。巡撫朱燮元は令らが国のために家を忘れたと述べ、優遇して抜擢し、勧めを示すよう請い、命により武と共に参将を授けられた。後に屡々大軍に従って征討し、頻りに功績があり、副総兵を加えられ、なお参将の職務を管し、後に実授で建武遊撃となった。崇禎年間、屡々昇進して副総兵となり、川北を鎮守した。七年、流賊が侵犯し、総兵張爾奇は令を先鋒とし、副将陳一龍・武声華を左右翼として、員山で防いだ。令は龍潭まで追撃したが、一龍らは到着せず、顔に三本の矢を受け、賊百余りの首級を斬って帰還した。賊が略陽を侵犯すると、令はまたこれを撃破し、保寧・漢中の諸要害を扼したため、秦の賊は侵犯できなかった。十年冬、李自成らが四川三十余りの州県を陥落させ、総兵侯良柱が陣没したが、令は免れた。楊嗣昌が督師となると、張献忠らは悉く興安に奔り、令に扼され、漢中に入れず、転じて夔州を寇した。十三年二月、瑪瑙山で大敗し、岔溪千江河に走ると、令はまた副将方国安と共にこれを大破した。令は当時七十余歳で、馬上で五石の弩を用い、当たれば必ず胸を貫き、軍中で「神弩将」と号された。

献忠は転じて柯家坪に入ったが、その地は乱峰錯峙し、笹が深く道が険しかった。令は衆を率いて追い及び、その配下を五つに分け、勇を鼓して利を争った。賊衆は官軍に寡く、国安は後衛となり、他の道から逃げ去った。令は独り深く入り、包囲され、絶阪の中に居て、屡々賊の陣営を射ると、弦に応じて斃れる者が甚だ多かった。水は遠く兵士は渇き、天の雨に頼って凌いだが、包囲は終に解けなかった。襄陽監軍僉事張克儉が総督鄭崇儉に言うには、「張令は健将である、どうしてこれを棄てるのか」と。急ぎ参将張応元・汪之鳳に八台山から進むよう命じ、総兵賀人龍に満月曹から進むよう命じた。三月八日、応元らが先に到着した。令は正に賊と戦い、喚声は山谷を動かした。応元らがこれに応じ、内外から挟撃し、賊は遂に敗走した。令は賊万余りと十三日間相対し、殺傷した数は自軍の損害を上回り、その兵卒は僅か五千であった。当時、巡撫邵捷春は重慶に駐屯し、黄泥窪を守らせ、令及び秦良玉を左右の手として頼った。後に捷春は大昌に移り、令に竹箘坪を守らせ、賊の逃亡を防いだ。九月、献忠の兵が大挙して来た。令は力戦し、矢に当たって死に、軍は遂に敗れた。

之鳳は柯家坪の包囲を解いた後、応元と共に夔州の土地嶺を守ったが、部卒は多く新たに募った者であった。献忠が精鋭を尽くして来攻し、之鳳・応元は力戦した。賊は兵を分けて後山から下り、突如その陣営に突入した。応元は包囲を突破して出た。之鳳は他の道を走って免れたが、山中を行く中で渇き、一斗の水を飲んで臥すと、血が胸に凝って死んだ。一月余りして、令もまた戦死した。軍中で二将を失い、気勢を奪われた。

猛如虎

猛如虎は本来塞外の降人で、家は榆林にあり、功績を積んで遊撃に至った。崇禎五年、高平で邢紅狼を撃ち、その包囲を解いた。明年、寿陽黒山で賊を破り、姫関鎖の軍を覆滅した。既にして、曹文詔に従って賊を西偃・碧霞村まで追撃し、混世王を斬った。頗希牧と共に賊を寿陽の東に追った。また陳国威・馬傑と共に来遠寨を破った。文詔に従って範村で賊を大破した。国威は歩卒三百で夜に賊の紅山嶺を急襲し、如虎・傑及び虎大威・和応詔は九条龍を撃殺した。間もなく巡撫許鼎臣の命により、文水から山に入り賊を剿討した。また大威・応詔・傑と共に皋落山から東犯する賊を剿討し、共に功績があった。賊が畿南に流入すると、山西の警報は次第に収まり、如虎はなお鼎臣に隷属した。七年、賊を沁源で剿討し、五条龍を斬った。

如虎はぎょう勇にして戦に長け、虎大威と並び称された。戴君恩・呉甡が相次いで巡撫となると、ともに彼を信任した。功により参将に進む。その年の冬、賊は河南にあり、氷を乗じて北に渡らんとしたが、如虎・大威は河辺でこれを防いだ。八年二月、大威・国威とともに大賊高加計を斬る。山西の賊はことごとく平定され、甡の推薦により副総兵を加えられる。その冬、河防の功により、署都督僉事を加えられる。連年河を防ぎ、河南の賊を援剿し、功績甚だ著しかった。十一年冬、京師に警報あり、如虎は兵を督して王事に勤しむ。明年四月、薊鎮中協総兵官に抜擢される。

十三年、事に坐して職を落とし、辺方に発して功を立てしめられる。督師楊嗣昌が朝廷に請い、従ってしょくに入らしむ。十一月、監軍萬元吉が保寧において将士を大いに饗す。諸軍の進退一ならざるを以て、如虎を正総統に抜擢し、張応元を副とし、軍を率いて綿州に向かわしむ。諸将を分遣して要害に屯す。而して元吉は間道より射洪に走り、蓬溪を扼して賊を待つ。賊は安嶽界に屯し、官軍の将に至らんとするを偵知し、夜遁して内江に抵る。如虎は驍騎を簡抜してこれを追う。元吉・応元は安嶽城下に営し、その帰路を扼す。十二月、張献忠が瀘州を陥す。その地は三面江に阻まれ、ただ立石站のみ北に走るべし。元吉は賊が絶地に居るを以て、大兵を遣わして南にその老巣を搗き、伏兵を旁らに玉蟾寺に塞ぎ、賊を蹙めて永川に北竄せしめ、逆に撃てば、ことごとく殄滅すべしとす。永川知県はすでに先に遁走し、城中には丞・簿一二人のみ。如虎は嚮導を求むるも得ず、夜は西関の空舎に宿る。立石に抵るに及んで、賊はすでに先んじて南渓を渡り返走せり。関中の将賀人龍の軍は水を隔てて撃たず、賊はついに成都を越え、漢川・徳陽に走り、綿河を渡って巴州に入る。

明年正月、嗣昌はみずから舟師を統率して雲陽に下り、諸将に檄して陸より賊を追わしむ。諸軍はついにことごとく賊の後を躡う。賊は折れて東に返り、帰路ことごとく空しく、ふたたび遏むべからず。如虎の将うるはただ六百騎に止まり、余はみな左良玉の部兵にして、驕悍にして制すべからず、過ぐる所に肆に焚掠す。ただ参将劉士傑のみ勇敢にして功を立てんとす。諸軍は良玉に従い、多く優閑として戦わず。如虎に改隷せられ、山谷風雪の中を馳逐し、みな怨望す。謡に曰く、「我が左鎮を想い殺し、我が猛鎮を走り殺す」と。時に賀人龍の兵はすでに大いに騒ぎて西に帰り、恃むべきはただ如虎のみ。元吉は深くこれを憂う。賊は巴州より開県に至り、官軍これを追い、諸れ黄陵城に遇う。日晡に雨起こり、諸将疲乏し、詰朝の戦を請う。士傑奮いていわく、「四十日賊を逐い、今始めてこれに及ぶ。捨てて撃たずんば、我れ能わざるなり」と。戈を執いて先んじ、如虎は諸軍を激してこれに継がしむ。士傑の当たる所、輒ち摧陷す。献忠は高く登り官軍を望み、後継なきを見て、密かに壮騎を抽きて箐谷の中を潜行し、高きに乗じて大呼し馳下る。良玉の兵は先に潰え、士傑及び遊撃郭開・如虎の子先捷ともに戦死す。如虎は親兵を率いて力戦し、部将に馬上に挟まれ、囲みを潰して出で、旗纛・軍符ことごとく失う。すなわち残卒を収めて嗣昌に従い荊州に下る。嗣昌の死に及び、その部を率いて徳安・黄州を扼す。会うところ疽背に発し、戦う能わず、退きて承天に屯し、尋いで南陽に駐す。

十一月、李自成が傅宗龍の兵を覆し、勢いに乗じて来攻す。如虎と劉光祚は城に憑り固く守り、計を用いて賊の精卒数千を殺す。已にして城破れ、如虎は短兵を把り巷戦し、大呼して沖撃し、血袍袖に盈つ。唐府の門を過ぎ、北面して叩頭し上恩に謝し、みずから力竭きたりと称し、賊のために揕死す。光祚及び分守参議艾毓初・南陽知県姚運熙ともにこれに死し、唐王もまた害に遇う。

劉光祚

光祚、字は鴻基、榆林衛の人。初め諸生たりしも、棄て去る。祖蔭を承け、歴官して延綏遊撃となる。崇禎三年、詔を奉じて王事に勤しみ、何可綱等と灤州に戦い功あり、汾州参将に遷る。五年、遊撃王尚義とともに賊張有義を臨県に敗る。賊還り兵を犯すに、軍ことごとく覆え、光祚はただ身をもって免るるのみ。征せられ、未だ行かざるに、諸将とともに臨県を復し、詔してその罪を除く。六年、賊石楼を犯す。光祚は三道に分かち撃ち、大いにこれを敗り、隔溝飛・撲天虎等六人を斬り、首功三百七十を獲る。また数たび賊を臨県・永寧に敗る。撲天飛等偽り降る。光祚は伏兵を設けてこれを斬る。已にして賊を魏家湾・黒茶山に撃ち敗る。七年、王剛の余党を剿敗し、四百余級を斬り、署都督僉事を加えられ、山西副総兵となる。賊を崞県に敗り、その城を復す。八年、賊渠賀宗漢、号して活地草という者、その党劉浩然・高加計の破滅を見て、偽り乞降す。光祚は伏兵してこれを斬る。晋中の群盗ことごとく尽き、すなわち光祚を宣府に移す。久しくして、命じて兵を率い河南を援剿せしむ。十一年、連ねて賊を白果園・襄城に敗る。已にして保定総兵官に擢げられ、なお河南の賊を協討す。その冬、畿輔に警あり、馳せ還りて鎮す。大清兵保定に薄るも、光祚の堅守を以て、攻めずして去る。光祚は尋いで総督孫伝庭に従い南下す。明年二月、大清兵還りて渾河に至る。値うところ水漲り、輜重渡り難く、諸将王樸・曹変蛟等相顧みて敢えて撃たず、光祚は恇怯ことさらに甚だし。師を視る大学士劉宇亮これを劾す。詔して即ち軍前に正法せしむ。光祚は適たず武清の捷を報ず。宇亮はすなわちこれを武清の獄に繋ぎ、疏を拝して寛恕を請う。帝怒りて宇亮を罷め、光祚を論じて死せしむ。十四年、大学士範復粹囚を録す。力めて光祚の才武を言い、命じて事官に充て、罪を戴きて賊を弁ぜしむ。光祚は廃将尤翟文等を挙ぐ。帝もまたこれに従う。

当是の時、賊はすでに河南・襄陽を陥し、中原の郡県は大抵残破す。光祚の士馬幾ばくもなく、督師丁啓睿はことさらに怯懦なり。光祚は少し克捷あるも、賊勢は転じて盛んとなる。傅宗龍が項城に敗没するに及び、南陽震恐す。光祚は適たずその地を経る。唐王これを邀えてともに守らんとし、城陥ちてついに死す。

虎大威

虎大威、榆林の人。本は塞外の降卒なり。勇敢にして将略に嫻ね、軍に従いて功あり、累官して山西参将となる。崇禎三年冬、総兵尤世祿に従い王嘉胤を河曲に撃ち、力戦して傷つく。五年、総督張宗衡に従い賊を臨川・潞安・陽城・沁水に剿ぎ、連ねてこれに勝つ。明年、巡撫許鼎臣に従い賊を介休に撃ち、その魁九条龍を殲す。時に賊山西を去り、遁れて輝林・武陟の山中に拠る。約す二万余。鼎臣は曹文詔をして黎城より入らしめ、大威・猛如虎諸将をして臯落山より入らしむ。賊は屡敗す。尋いで大威を移して平陽を守らしむ。七年、巡撫呉甡至り、諸将の中にただ大威・如虎沈毅にして兵事に属すべきを察し、委任す。その冬、如虎とともに賊の渡河を扼す。高加計は岢嵐に拠り、四出して剽掠す。明年三月、二将は忻・代の山中に追い至る。加計は馬上にて三十斤の長梃を舞わして陣を突く。大威は射殺し、その衆五百人を追斬し、余党ことごとく平ぐ。甡は二人の忠勇を薦め、大威を副総兵に進む。その冬、賊を扼する功を以て、署都督僉事を加えられる。

九年八月、畿輔が兵乱に遭い、率いて師を率いて入援した。翌年春、陝西の賊を援剿することを命じられ、やがて王忠に代わって山西総兵官となった。上疏して諸将の賊討伐について、零細な首級を取るべからず、捕虜を貪るべからず、境界を限るべからずと述べた。帝はこれを採り入れた。十一年、兵部に詔して諸大将を甄別させると、大威は称職として秩を増された。その年冬、京師が戒厳となった。総督盧象升に命じて大威及び宣府総兵楊国柱、大同総兵王朴を統率させて入衛させた。まもなく象升に従って転戦し鉅鹿の賈荘に至り、数重に包囲され、象升はそこで戦死し、大威らは包囲を突破して出た。督師劉宇亮、総督孫伝庭は皆、大威・国柱は敢勇にして、身をもって重囲に入り、他の将と異なると言い、功を立てて自ら贖罪させるよう請うた。大威もまた上章して罪を請うた。帝は従わず、ついにその任を解いた。まもなく軍に従って賊を討つことを命じた。

十四年正月、李自成が開封を包囲した。総督楊文岳が大威及び副将張徳昌を遣わし、先に五千人を率いて河を渡らせた。ちょうど賊はすでに包囲を解いて去ったので、偃師で河南巡撫李仙風と会し、兵が少ないため賊を撃つことを敢えてしなかった。文岳の軍が至るのを待ち、賊と鳴臯で戦い、大いにこれを破り、また監軍道任棟とともに賊を平峪で挫いた。七月、自成及び張献忠・羅汝才が鄧州を攻めると、大威は文岳に従ってこれを撃破し、千余級を斬首した。陝西総督傅宗龍が関を出て賊を討つと、文岳・大威はこれと会した。九月に新蔡に駐屯し、孟家荘に到着した。戦おうとしたとき、秦の帥賀人龍の軍が先に潰え、大威の軍もまた潰え、ついに沈丘に奔った。賊は連続して河南の鄧・許を陥落させ、再び開封を包囲した。大威は文岳に従ってこれを救援し、賊は引き去った。翌年二月、軍は郾城に駐屯した。督師丁啓睿・総兵左良玉がちょうど賊と激戦しており、文岳は大威及び馮大棟・張鵬翼らを督して合撃し、賊は大敗した。十一昼夜相持し、数千を俘斬した。賊はついに東の陳州・帰徳を陥落させ、やがて、再び開封を包囲した。七月朔、啓睿・文岳・大威及び良玉・楊徳政・方国安の軍がことごとく会した。啓睿は急撃を欲したが、良玉は従わず、先に逃走した。大威ら諸軍もまた逃走した。帝は大いに怒り、ただちに徳政を誅し、啓睿らを罷免・譴責した。大威は当時汝寧に奔り、出て賊の寨を攻めたが、砲に中たって死んだため、その罪を免じた。

大威は偏裨として最も名声があった。大帥となると、賊の勢いがますます盛んになる時に当たり、率いるのは僅か数千人に過ぎず、大いに挫くことができなかった。しかし身をもって数十戦を経て、ついに王事に死し、論ずる者はこれを賢とした。

孫応元

孫応元は、何許の人か知れない。京営参将を歴任し、勇衛営を督した。勇衛営はすなわち騰驤・武驤の四衛であり、その先は禦馬監に隷属し、専ら馬を牧していた。荘烈帝は武備を修めることに鋭意で、応元及び黄得功・周遇吉らを選抜して訓練させ、ついに精鋭の軍となった。崇禎九年秋、張鳳翼の軍に従って畿輔にあり、功があり、副総兵に進んだ。再び功により秩一等を増された。翌年、河南の賊が熾んになると、応元・得功は慷慨して行くことを請うた。帝はこれを壮とした。卒万人を発し、宦官劉元斌・盧九徳に監させ、民を擾さぬよう戒めた。諸将は命を受け、軍の行進は粛然としていた。十二月に賊を鄭州で大破し、再び密県でこれを破り、先後千七百を斬首した。翌年正月に舞陽・光山・固始で大破した。四日のうちに三たび勝ち、二千九百余を斬首し、賊はついに江北を犯すことを謀った。元斌・九徳は南に潁州へ向かい、鳳陵を護り、密かに応元・得功を遣わし騎兵を督して賊の前を扼させた。南より北へ、方家集でこれを破った。賊はついに固始より商城へ走った。功を録し、都督僉事を加えた。やがて、新野でこれを破り、また遂平で大いにこれを破った。熊文燦はちょうど撫を主とし戦わなかった。しかし賊は応元らを憚り、多く降り、降った者もまたすぐには叛かなかった。文燦はこれをもって賊を撫でる功を擅にした。やがて京師に警報があり、応元らを召還すると、賊はついに畏れるところがなくなった。帝は初め禁軍が屡々賊を破ると聞き、大いに喜び、累ねて応元に都督同知を加え、銀幣・蟒服を賜い、この時に至って功を論じ、ついに左都督に進め、総兵官の銜を加え、世襲で錦衣副千戸を蔭した。

十二年五月、張献忠・羅汝才が再び叛くと、やはり元斌・九徳に命じて応元・得功の軍を監させて南征させた。応元らは馳せて南陽に至った。ちょうど馬光玉が淅川の呉村に屯し、偽って撫を乞い、漢江を渡って献忠に応じようと図っていた。淅川知県郭守邦がその党の許可変・胡可受を説いて降した。可変はすなわち賊の改世王、可受は則ち安世王である。可変は夜に至り、これを東関に処した。可受は光玉に挟持され、約束は未だ定まらなかった。応元・得功は内郷に趨いてその背を掩い、副将周遇吉らに命じて分道して別にこれを撃たせた。文燦の遣わした陳洪範もまた至った。八月に小黄河口に至り、参将馬文豸らが力戦し、可受は敗れ、呼んで曰く「始めに許王と降を約した者は私なり、今帰命す」と。遇吉は馬を駐めてこれを受け入れた。応元・得功はついに進兵して王家寨に至った。賊は南北の両山に分屯し、木石を用いて道を塞いだ。応元は文豸を率いてその南で戦い、得功は副将林報国を率いてその北で戦い、河南兵はまた華陽関を扼したので、賊はついに大敗し、光玉は遁れて免れた。元斌が軍に至り、檄を以て可変・可受の罪を除き、官を授け、先後の首功三千人を報じた。

楊嗣昌が督師として襄陽に至ると、元斌・応元に命じて荊門を戍し、献陵を護らせた。十三年七月、副将王允成・王之綸・監軍僉事孔貞会らとともに豊邑ほうゆう坪で羅汝才を大破し、二千三百を斬首し、五百余を生擒した。混世王・小秦王は皆降った。時に荊楚第一の功と称された。十五年春、賊を羅山で撃ち、力戦した。孤軍で援けなく、ついに陣歿した。贈恤は制の如く行われた。

応元は戦に善く、軍中で多く黄得功と偕にした。応元が死ぬと、得功の勲功はますます顕著となり、故にその名は特に世に震うた。

姜名武

姜名武、字は我揚、保德州の人。天啓二年の武会試に挙げられ、大同威遠守備に授けられた。崇禎初年、大水峪遊撃に遷る。杏山城を築いて功があり、宣府西城参将に遷り、大盗王科を撃斬した。宣府右衛を守ることに移り、通州副総兵に擢げられた。諸陵を護って功があり、故官のまま保定総督楊文岳の中軍を典し、兼ねて忠勇営団練事を管した。

十五年、李自成が開封を急に包囲すると、名武は文岳に従って救援に向かった。当時諸軍が朱仙鎮に壁したもの十余万、左良玉が最も強かった。ある夕べ、その軍が大いに騒ぎ、諸営を突き、諸営は驚いて潰えた。その軍はついに乱に乗じて諸営の馬騾を掠めて去り、ここにおいて諸営は悉く奔り、ただ名武一軍のみが堅く壁して動かなかった。夜明け前、賊が大いに至り、麾下を督して血戦した。数百人を殺し、力尽きて捕らえられ、大いに罵り、賊のために磔死した。特進栄禄大夫・右都督を贈られ、外衛世襲総旗を蔭した。その子が王来聘・甄奇傑の例に援け、ついに特進光禄大夫・左都督を贈り、世襲で錦衣百戸とすることを議した。疏が上って一ヶ月余りして都城が陥落し、果たして行われなかった。

来聘は京師の人である。崇禎四年、武会試に合格した。時に帝は武事を重んじることに意を鋭くし、百斤の大刀を振るう挙子は来聘と徐彦琦の二人のみであったが、彦琦は選に与からなかった。帝は考官及び監試御史を獄に下し、兵部郎二十二人を悉く貶した。詞臣の倪元璐らを遣わして覆閲させ、百人を取って、文榜の例に倣い、三甲に分けて伝臚し宴を賜い、前三十巻を進呈し、欽定で一甲三人とし、来聘が首位にあり、即座に副総兵を授かった。武榜に状元があるのは、来聘に始まるのである。来聘は命を拝するや、涙を流して言うには、「上は武をかくも重んじ、我らに疆場で命を効せしめんとされるのだ。躯を捐てて賊を殺さずして、何をもって上恩に報いようか」と。明年、孔有徳が登州を拠りて叛き、官軍はこれを攻めて久しく下さず。また明年二月、火薬をもって城を轟かせ、城は壊れた。将士は躍り入るも、すなわち賊に撃退された。来聘はまた先登し、傷を受け死んだ。天子これを惜しみ、贈蔭を加えた。奇傑もまた副総兵に官し、楊文岳の麾下に隷し、賊を撃つに河南に従い、戦死した。

先に、また鄧祖禹という者あり、蘄水の人、万暦四十七年の武会試に挙げられ、瀋陽守備を授かった。嘗て出戦し、矢に中り死す、夜半に蘇生し、創甚だしくして帰を告げた。崇禎初め、宣府遊撃を起し、京師に入り衛る。副将申甫の軍歿するや、祖禹は盧溝橋で力戦し、涿州参将に擢げられた。疏を上して召対を請うも、許されず。入朝して上書し、声甚だしく厲しく、御史に糾弾され獄に下されたが、然れども帝は頗るその言を采り入れた。久しくして赦出され、辰沅参将となり、苗酋の飛天王・張五保を擒え、千五百級を斬首し、その巣を夷した。副総兵に擢げられ、徳安・黄州を轄した。賊を土壁山に攻め、獲たる所を悉く掩して己が有と為した。当事の者、これを劾せんとし、寇を剿りて自ら贖うを請わしむ。乃ち応城を援けしめ、七百人を率いて城に入る。賊大いに至り、数重に囲む。祖禹は囲を突いて西城外を保つも、賊またこれを囲み、軍敗れて捕らえられた。賊は降るを説くも、怒罵して屈せず。賊これを再三言うに、また罵って曰く、「かくの如くは、須らく心肝を換えざるべからず」と。賊笑いて曰く、「換えるは難からず」と。遂に心を剖き肝を剜って死した。

尤世威

尤世威は榆林衛の人である。兄の世功・弟の世禄と並び勇敢にして名を知られた。天啓中、世威は官を積んで建昌営参将となり、墻子路を守るに調された。七年、山海中部副総兵に遷る。寧遠より警報あり、大帥満桂に従い赴援し、城東で力戦して功あり、秩を増し賜を受けた。崇禎二年、総兵官に擢げられ、居庸・昌平を鎮守す。その冬、京師戒厳し、兵五千を提げて順義を防がしむ。俄かに命じて還鎮せしめ、諸陵を防護す。四年、宋偉に代わり山海総兵官となり、資を積んで左都督に至る。七年、命じて寧遠総兵官呉襄とともに馳せて宣府を援けしむ。兵を擁して進まずの罪に坐し、職を褫ぎて戍に論ぜらる。未だ行かず、流賊の河南を躙るに会い、詔して世威を事官に充て、副将張外嘉とともに関門鉄騎五千を統べて往き剿らしむ。

明年正月、賊は鳳陽を陥とす。世威は二千五百騎を以てこれに赴き、亳州に抵る。時に総督洪承疇は関を出でて賊を討ち、信陽に次し、世威をして汝州に趨らしむ。甫く二日、承疇もまた至る。時に賊は河南の兵盛んなるを見て、悉く奔りて関中に入る。承疇は関に入りて征討せんとし、乃ち諸将を大会し、令して汝・雒の諸要害を分防せしむ。世威の部下は皆勁旅なるを以て、令して参将徐来朝と分かち永寧・盧氏の山中に駐し、以て雒南の蘭草川・朱陽関の険を扼せしむ。戒めて曰く、「霊・陜は賊の出入する所、汝懈るなかれ」と。承疇の既に関に入るに及び、賊はこれを避けて南し、また藍田より盧氏に走る。世威に扼せられ、なお商・雒の山中に入る。来朝の部する所の三千人は山に入るを肯わず、大いに騒ぐ。賊至り、来朝逃げ、一軍尽く歿す。世威の軍は暴露久しく、大いに疫し、賊と戦いて利あらず。世威及び遊撃劉肇基・羅岱は倶に重傷を負い、軍大いに潰る。賊は遂に盧氏を越え、永寧に走る。事聞こえ、命じて任を解きて勘を侯たしむ。十年、宣大総督盧象升言う、「世威は士卒を撫するに善く、軍機に暁る、徒に数千の客旅を以て久しく荒山に戍し、疾作して利を失う。今は用兵の時、これを棄つは惜しむべし」と。乃ち命じて象升の軍に赴きて自ら効せしむ。象升の戦歿するに及び、自ら免じて帰る。

十五年、廷臣の薦めにより、命じて弟の世禄とともに京に赴きて調を候わしむ。中左門に召対し、また帰を告ぐ。明年十月、李自成は西安を陥とし、檄を伝えて榆林に降を招く。総兵官王定は懼れ、率いる所の精兵を以て城を棄てて走る。時に巡撫張鳳翼未だ至らず、城中の士馬は単弱にして、人心洶洶たり。布政使都任は急ぎ副将恵顕・参将劉廷傑らを集め、裏居の将帥世威及び王世欽・王世国・侯世禄・侯拱極・王学書、故延綏総兵李昌齢と城守を議す。衆は世威を推して主帥と為す。未だ幾ばくもせず、賊十万衆は延安を陥とし、綏徳を下し、また使を遣わして降を説く。廷傑は大呼して曰く、「長安ちょうあんは破るれども、三辺は旧の如し。賊は皆中州の子弟、その父兄を殺してこれを戦に駆るは、必ずしも願う所に非ざるべし。榆林は天下の勁兵、一戦してその気を奪い、然る後に寧夏・固原を約して三師と為し叠進せば、賊は平ぐべし」と。衆その言を然りとし、乃ち血を歃って師を誓い、卒乗を簡び、甲仗を繕い、各々私財を出して軍を佐く。守具未だ備わらず、賊は已に城下に抵る。

廷傑は死士を募り、師を套部に乞う。師将に至らんとす、賊は兵を分けてこれを却け、城を攻むること甚だ力めり。官軍は力戦し、賊を殺すこと算無し。賊は益々衆を増して来り攻め、飛楼を起して城中に逼り、矢石交々至るも、世威らは戦い益々厲し。七昼夜を守り、賊は乃ち城に穴し、大砲を置いてこれを轟かせ、城は遂に破る。世威らはなお衆を督して巷戦し、婦人豎子もまた屋瓦を発して賊を撃ち、賊屍枕藉す。既にして力支えず、任はこれに死し、侯世禄父子及び学書は倶に屈せず死す。賊は廷傑が套部を勾くを怒り、これを磔にし、死に至るまで罵り絶えず。世威・世欽・世国・昌齢は並びに捕らえられ、縛られて西安に至る。自成は秦王府に坐してこれを降さんと欲す、四人は膝を屈せず。自成曰く、「諸公は皆名将、我を助けて天下を平らげ、封侯を取らば、可ならんか」と。衆罵って曰く、「汝は駅卒、敢えて大言して我を侮るか」と。自成笑い、前に進みてその縛を解く、世欽唾して曰く、「駅卒前きに近づくな、将軍の衣を汚す」と。自成怒り、皆これを殺す。時に顕もまた捕らえられ、賊を大いに罵る。賊はその勇を惜しみ、神木に繫がしめ、毒を服して死す。

王世欽は大将威の子、山海左部総兵官を歴任し、病を謝して去る。崇禎八年、洪承疇これを家より起し、李自成を撃って功あり、即ち謝して帰る。十六年、中左門に召対す、未だ用いらるるに及ばずして帰り、遂に賊に死す。世国は威の弟、保定総兵官継の子、柳溝総兵官より罷めて帰る。甫く数日、竟に賊を拒ぎて死す。

世威の弟世禄は、寧夏総兵官となり、累ねて戦功を著わし、是に至りて世威とともに死す。世威の従弟翟文は靖辺営副将たり。嘗て洪承疇に従い闖賊を鳳翔の官亭に敗り、七百余級を斬首す。是に至り、敢死士を率いて南門より出で奮撃し、殺傷甚だ衆く、矢に中り死す。

また尤岱という者あり、歩卒より起家し、山海鉄騎営参将に至り、数たび功あり。上官に忤い、職を棄てて帰り、水西門を守り、城陥ちて自殺す。

廷傑が既に死ぬと、その父の副使彜鼎はこれを聞いて泣かず、言うには、「我に子あり」と。その弟の廷夔は兄の屍を収め、また自ら閣に投じて死す。

昌齢は、字を玉川といい、鎮番衛の人である。延綏総兵官となり、数度功績があり、剛直のゆえに罷免され、榆林に移り住んだ。賊が至ると、ある者が去るよう勧めたが、昌齢は言うには、「賊が至って遁るは、勇にあらず。難を見て避けるは、義にあらず」と。起ち上がって世威らとともに城を守り、ついにともに死す。

侯世祿

侯世祿は、榆林の人である。世職より累官して涼州副総兵となる。遼東の事態が急を告げ、詔により総兵官に抜擢され、兵を率いて赴援する。世祿は勇敢で精悍であり、経略熊廷弼に知られた。袁応泰が廷弼に代わると、これも倚任した。天啓元年、応泰は撫順・清河を回復することを議し、世祿及び姜弼・梁仲善に各々兵一万を将いて清河に駐屯させた。未だ行かず、遼陽が陥落し、仲善は陣没し、世祿・弼ともに重傷を負い、包囲を突破して出る。世祿は傷が重いため、功を立てて自ら効力を尽くすよう命じられた。まもなく固原総兵官に任用される。六年、軍政拾遺により罷免。翌年、寧遠・錦州が警報を告げ、家丁を率いて関門に赴き調遣を待つよう命じられる。やがて前屯を守るよう命じられ、到着したばかりで、故官をもって山海を鎮守するよう命じられる。崇禎元年、宣府に移鎮。翌年冬、京師が戒厳となり、師を率いて入衛する。兵が再び潰え、世祿は傷を負う。部下の兵卒が民間を掠奪し、奔り還って鎮に帰る。事が聞こえ、重く処すべきところ、勤王に先んじて至ったため、死罪を減じて辺境に戍る。九年八月、京師が兵乱に遭う。子弟を率いて従軍し、功績を叙して戍を免じられ、原籍に還る。廷臣多く推薦するも、ついに再び用いられず。十六年、李自成が榆林を包囲すると、世祿は子の拱極とともに新添門を固守した。城が陥落し、父子ともに捕らえられ、ともに屈せず死す。

拱極は歴官して参将となり、常に総兵尤世祿に従い賊を河曲で破り功績があった。九年冬、山海総兵官に任じられ、まもなく病を謝して帰る。後に廷臣の推薦により、詔に応じて都に入り、王洪・王世欽・尤世威とともに中左門で召対を受けるが、用いられずに帰される。ついに父とともに死す。

劉國能

劉國能は、延安の人である。初め李自成・張献忠らとともに盗賊となり、自ら闖塌天と号した。崇禎三年、陝西で大いに乱れる。やがて河を渡って東に進み、山西を寇し、転じて畿南・河北を掠奪する。六年冬、河南に入り、ついに内郷・淅川より湖広の鄖陽・襄陽を犯し、数県を破る。翌年正月、四川に入り、夔州を陥落させる。折れて東に向かい、鄖陽の境に入り、総督陳奇瑜に追い詰められる。漢南に走り、ともに車箱峡に困窮する。やがて出ることができ、再び陝西で大いに乱れ、再び河南に入り、江北を蹂躙する。官軍がこれを逼迫し、整齊王とともに商州・雒南の山間に屯す。九年、再び闖王・蠍子塊らとともに鄖陽・襄陽より興安・漢中に向かい、総督洪承疇は奔命に暇あらず。まもなく南に走って荊州・襄陽に至り、総兵秦翼明と数度戦う。その冬、蠍子塊ら十七営とともに潼関を窺い、巡撫孫伝庭がこれを扼し、引きいて南に向かう。翌年、馬光玉らが蘄州・黄州を犯さんとするのを聞き、衆を率いてこれに会し、直ちに江北に向かう。官軍が数道より邀撃し、ついに東に向かうことを敢えず。還って黄陂に走り、木蘭山に入り、転じて河南を寇し、参将李春貴の兵を破り、開封を迫らんとする。詔して諸将に兵を発して援けさせると、南に走って黄州・麻城に至る。

この時、総理熊文燦が新たに至り、賊はこれを畏れた。その下した招降の令を見て、正に帰らんとする者頗るあり。國能は先に張献忠と不和があり、併呑されることを慮り、後にまた左良玉と戦って敗れたため、十一年正月四日、率先して随州において撫に就き、文燦の前に頓首して言うには、「愚民、不義に陥ること且つ十年、公に頼りて湔洗され更生す。願わくは衆を悉く軍籍に入れ、身を麾下に隷して死力を尽くさん」と。文燦は大いに喜び、慰撫し、守備に署し、良玉の軍に隷属させるよう命じた。國能は約束を受け、異志無し。やがて張献忠・羅汝才も降り、皆邑を拠りて自ら固める。獨り國能は軍に従い征剿し、数度功績あり。翌年二月、良玉に従い勤王する。詔あり、還って賊を討ち、これを奨励す。兵部に命じて官を授け、その部下の将士を録し、言うには、「献忠能く功を立てば、これを見よ」と。ついに國能を副総兵に授く。四月、良玉が南陽に会師し、李萬慶を撃つ。國能は分かれて撃ち、賊は潰走し、ついに萬慶を招いて降す。その秋、献忠・汝才ともに反す。文燦は國能に萬慶の兵を率いて会討させ、ついにともに鄖陽を守る。既にして李自成が河南を擾すと、また移って葉県を守る。

初め、國能が盗賊であった時、自成・汝才らと兄弟の契りを結んだ。國能が正に帰すると、自成らはこれを深く恨んだ。十四年九月、その城を包囲し、四面より力攻めし、國能は支えることができず、城はついに陥落し、捕らえられる。賊はなお好んでこれに謂うには、「汝は我が故人なり、何ぞ降らざる」と。國能は瞋目して罵りて言うには、「我初め汝とともに賊たりしも、今は則ち王臣なり、何ぞ故ありて賊に降らんや」と。ついにこれを殺す。事が聞こえ、左都督を贈られ、特進栄禄大夫とし、祠を建つ。

李萬慶

李萬慶は、延安の人である。崇禎初年、張献忠・羅汝才らとともに反し、賊中に射塌天と称する者はこれである。陝西に起こり、山西・畿南・河北に蔓り、河を渡って河南を残破し、湖広・四川に出没し、還って鄖陽に向かい、興安に入り、車箱峡に困窮する。険を出て、益々大いにほしいままにする。八年春、賊七十二営が滎陽けいように会し、兵を分けて向かう所に随うことを議し、萬慶及び許可変に馬進忠・横天王を助けて西において陝西の兵に当たらせる。やがて諸路の賊は尽く陝西に集まり、総督洪承疇は一年を経ても定めることができず、益々ほしいままにし、河南・湖広に出没し、凡そ十五家となる。

十一年春に至り、國能・献忠が降ると、萬慶らは大いに騒ぎ去り、改めて十三家と称し、勢い頗る衰える。しかし文燦は兵を擁して徳安にあり、敢えて撃たず、萬慶らは再び大いに振るう。李自成が関中に向かうと、萬慶及び馬光玉・馬進忠・羅汝才・恵登相・賀一龍・藺養成・順天王・順義王の九家が最も著しい。八月、進忠・光玉は潼関において大いに挫かれる。九月、鄖陽・襄陽の賊はまた双溝において大いに敗れ、汝才は九営を率いて均州に走り、萬慶は三営を率いて光州・固始に走る。十一月、汝才もまた降り、自成はまた関内において大いに敗れ、勢い益々衰え、ただ萬慶・光玉・一龍・順天王が最も勁し。そして萬慶は馬士秀・杜応金が掠奪した左良玉の賄賂を得て、富み且つ強く、麻城に営し、信陽に移る。

十二年正月、戦いに敗れ、応山・徳安に移る。光玉・進忠らが皆大いに敗れ、進忠は懼れて降り、順天王は既に死す。一龍・養成は深山に潜み、登相は遠く秦・蜀を掠め、萬慶の勢いは益々孤となる。文燦は良玉に檄して唐県姚梁にこれを撃たしめ、三営に分かれて賊を疲弊させ、三山に逐い込み、裨将王修政は利に趨って戦死す。文燦は二営の卒を収め、良玉に命じて内郷にこれを追い詰めしむ。萬慶らは赤眉城四平岡に在り、山に依りて壘を結び降を請う。良玉はその詐りを慮り、文燦と謀り、益々諸将陳永福・羅岱・金聲桓の兵を調べて賈宋に会し、萬慶及び光玉・可変を大いに剿る。副将国能も至り、張家林・七里河より分かれて撃ち、賊は大いに奔る。良玉は国能に二十騎を遣わして偵察せしめ、且つ萬慶に降を諭す。萬慶は馳せて見え、国能に情を輸し、遂に許州の叛党於汝虎を執えて降り、内郷城下に処する者四千人。士秀・応金は進忠・萬慶の降るを見て懼れ、復た来たりて帰す。劉喜才なる者有り、夜に順義王の首を取って献じ、余党は可変を推して主と為し、胡可受と皆降る。ここに自り群盗大いに衰う。五月に至り、献忠復た叛き、汝才その党九営を率いてこれに応じ、復た大いに熾んず。而して萬慶・進忠は徒衆既に散じ、二心無し。萬慶は征に従いて自ら効わんことを願い、国能に比して餉を給せらる。遂に副総兵を授け、国能とともに鄖陽を守らしむ。献忠ら方に蜀中を大いに乱し、鄖境は事無きを得たり。

十四年、献忠突如として襄陽を陥とし、鄖の守りは旧の如し。明年正月、総督汪喬年賊を討ち、萬慶を従う。襄城に至り、軍潰え、城に入る。賊これを攻め囲み、固く五日守る。城陥ち、喬年死し、萬慶も亦た屈せずして死す。事聞こえ、都督同知・栄禄大夫を贈り、祠を襄城に立つ。

【賛】

賛に曰く、明末季に至り、流寇蔓延し、国勢坐して困しむ。奮威敵を禦ぐの臣有りと雖も、兵孱餉絀し、徒らに賊をしてその敝に乗ぜしめ、潰陷相属し、乱亡を救う無し。艾萬年等の躯を捐げ節を尽くすが如き、その悲しむべき者なり。これ其の勇備わらず、略嫺ならざるに非ず。兵力耗頓し、これに統馭失宜、応援及ばずを加う。敗衄無きを求むるも、得んや。