明史

列傳第一百五十五 馬從聘 張伯鯨 宋玫 范淑泰 高名衡 徐汧 鹿善繼

列傳第一百五十五 馬從聘 張伯鯨 宋玫 范淑泰 高名衡 徐汧 鹿善繼

原文列傳第一百五十五 馬從聘 張伯鯨 宋玫 范淑泰 高名衡 徐汧 鹿善繼

○馬從聘(耿蔭樓)張伯鯨宋玫(族叔應亨陳顯際趙士驥等)範淑泰高名衡(王漢)徐汧(楊廷樞)鹿善繼(薛一鶚)

原文○馬從聘(耿蔭樓)張伯鯨宋玫(族叔應亨陳顯際趙士驥等)範淑泰高名衡(王漢)徐汧(楊廷樞)鹿善繼(薛一鶚)

馬從聘は、字あざなを起莘といい、霊寿の人である。万暦十七年の進士。青州推官に任じられ、御史に抜擢された。勲衛の李宗城が平秀吉を冊封するため派遣されたが逃げ帰ったとき、從聘はその父の李言恭が再び戎政を督べるべきでないと上言したが、聞き入れられなかった。出向して両淮の塩課を管理し、近ごろ泰山が崩れ、裂け目が一里余りに及んだのは、鉱山を開いて地脈を断ったことによるものであり、速やかに中止すべきだと上言したが、回答はなかった。奸人の田応璧が没官した余塩を売却して大工事を助成するよう請うと、帝は宦官の魯保を派遣してこれを監督させた。從聘は欺瞞の状況を極力陳述したが、聞き入れられなかった。朝廷に戻り、浙江按察使に転じ、さらに蘇州・松江を按察し、蘇州・松江・常州・鎮江の税課の増徴免除を請うたが、これも回答がなかった。長く在任した功績により太僕少卿に抜擢され、右僉都御史に任じられ、延綏巡撫となったが、失態により俸給を削られた。その後、敵の本拠を討つ功績があったが、叙勲されないうちに、病気を理由に辞任して帰郷した。兵部右侍郎を加えられた。家に居ること凡そ二十余年、熹宗の世が終ついわるまで出仕しなかった。

原文馬從聘,字起莘,靈壽人。萬歷十七年進士。授青州推官,擢御史。勛衛李宗城冊封平秀吉逃歸,從聘言其父言恭不當復督戎政,不從。出理兩淮鹽課,言近日泰山崩離,坼者裏余,由開礦斷地脈所致,當速罷,不報。奸人田應璧請掣賣沒官余鹽助大工,帝遣中官魯保督之。從聘極陳欺罔狀,不從。還朝,改按浙江,又按蘇、松,請免增蘇、松、常鎮稅課,亦不報。以久次擢太僕少卿,拜右僉都御史,巡撫延綏,失事奪俸。既而有搗巢功,未敘,引疾歸。加兵部右侍郎。家居凡二十餘年,終熹宗世不出。

崇禎十一年の冬、大清が霊寿を陥落させた。從聘は八十二歳であり、三人の息子に言った。「我は死に場所を得た。」また言った。「我は大臣、義として生きるべからず。汝らは生きても害はない。」三人の息子は従わなかった。從聘は縊死し、三人の息子も皆縊死した。兵部尚書を追贈され、諡は介敏、子の一人に官職が与えられた。

原文崇禎十一年冬,大清破靈壽。從聘年八十有二矣,謂其三子曰:「吾得死所矣。」又曰:「吾大臣,義不可生,汝曹生無害也。」三子不從。從聘縊,三子皆縊。贈兵部尚書,謚介敏,官其一子。

耿蔭樓は、從聘と同じ郷里の人で、字は旋極である。天啓年間このかた、臨淄知県に任じられた。長く旱魃が続いたとき、囚人の服を着て烈日ひごとの中に身を曝し、壇で泣いて祈ると、雨がたちまち降り注いだ。寿光県の代理を務め、雨乞いをしたのは臨淄のときと同じであった。崇禎年間、兵部主事として朝廷に入り、吏部に転じ、員外郎を歴任し、休暇を請うて帰郷した。城が陥落すると、息子の耿參とともに死んだ。光禄少卿を追贈された。

原文耿蔭樓,從聘同邑人也,字旋極。天啟中,任臨淄知縣。久旱,囚服暴烈日中,哭於壇,雨立澍。攝壽光,禱雨如臨淄。崇禎中,入為兵部主事,調吏部,歷員外郎,乞假歸。城破,偕子參並死之。贈光祿少卿。

張伯鯨は、字を繩海といい、江都の人である。万暦四十四年の進士。会たまたま稽かんが・帰安・鄞の三県の知県を歴任した。天啓年間、大計(官吏考課)により、盧氏県に補任された。

原文張伯鯨,字繩海,江都人。萬歷四十四年進士。歷知會稽、歸安、鄞三縣。天啟中,大計,調補盧氏。

崇禎二年、漸次昇進して戸部主事となり、出向して延綏・寧夏の二鎮の軍需物資を監督した。黄甫川から西へ寧夏に至る千二百里は五穀が実らず、秣や粟は内地に頼っていた。賀蘭山に沿った黄河の漢渠・唐渠から東の花馬池に至る地域は、もと沃野であったが、このころは甚だしく荒廃していた。伯鯨はその状況を上疏して陳べ、商工業を盛んにし、豆や麦を転送するよう提案した。また、辺境の商人が塩引を得る方まさ法にならって官市法を立てて商人を招き、軍民に便利とされた。大盗が延綏で起こると、伯鯨は兵備僉事に抜擢され、楡林中路を管轄した。賀思賢を撃破し、一座城・金翅鵬を斬り、長楽堡でオルドス(套)の寇を破った。巡撫の陳奇瑜がその功績を上奏し、詔により三階進級して右參政となり、引き続き兵備の事務を管掌した。

原文崇禎二年,稍遷戶部主事,出督延、寧二鎮軍儲。自黃甫川西抵寧夏千二百里,不產五谷,芻粟資內地。賀蘭山沿黃河漢、唐二渠,東抵花馬池,素沃野,亦荒蕪甚。伯鯨疏陳其狀,為通商惠工,轉菽麥。又仿邊商中鹽意,立官市法以招之,軍民稱便。大盜起延綏,擢伯鯨兵備僉事,轄榆林中路。擊破賀思賢,斬一座城、金翅鵬,敗套寇於長樂堡。巡撫陳奇瑜上其功,詔進三階,為右參政,仍視兵備事。

七年の春、奇瑜が総督に転じると、伯鯨を右僉都御史に抜擢して後任とした。総兵の王承恩らを督いて分道し、双山・魚河の二堡でチャハル(插漢)部長およびオルドスの寇を撃破し、三百の首級を斬った。翌年、拾遺(官吏の欠点摘発)により弾劾されて免職された。まもなく延綏での功績が論じられ、詔により起用され、子に錦衣千戸の世職が与えられた。

原文七年春,奇瑜遷總督,遂擢伯鯨右僉都御史代之。督總兵王承恩等分道擊破插漢部長及套寇於雙山、魚河二堡,斬首三百。明年,以拾遺論罷。尋論延綏功,詔起用,蔭子錦衣千戶。

十年の秋、楊嗣昌が賊を大挙討伐することを議し、戸部侍郎一人を池州に駐在させ、専ら兵糧を管理させた。帝は傅淑訓を任命した。翌年、淑訓が親の喪で去ると、伯鯨を家から起用して後任とし、淑訓と同じ官職とした。さらに翌年、熊文燦の招撫策が失敗し、嗣昌が自ら出て督師すると、伯鯨を襄陽に移した。文燦が逮捕されたとき、剿餉(討伐税)が六十万余り届かなかったと述べ、伯鯨はこれに連座して位階を下げられた。

原文十年秋,楊嗣昌議大舉討賊,遣戶部一侍郎駐池州,專理兵食。帝命傅淑訓。明年,淑訓憂去,即家起伯鯨代之,如淑訓官。又明年,熊文燦撫事敗,嗣昌自出督師,移伯鯨襄陽。文燦之被逮也,言剿餉不至者六十餘萬,伯鯨坐貶秩。

十五年、兵部左侍郎として召された。翌年、尚書の馮元飆が休暇中であったため、伯鯨が部の事務を代行した。萬歳山で召し出されて応対したが、病気が起こり、宦官に扶け出され、そこで致仕を請うた。さらに翌年、京城が陥落すると、微服で逃れて帰郷した。福王が南京に即位すると、伯鯨は家に居て出仕しなかった。しばらくして、揚州が包囲されると、当局者とともに城を分かち守った。城が陥落すると、自縊して死んだ。

原文十五年,召為兵部左侍郎。明年,尚書馮元飆在告,伯鯨攝部事。召對萬歲山,疾作,中官扶出,遂乞休。又明年,京城陷,微服遁還。福王立於南京,伯鯨家居不出。久之,揚州被圍,與當事分城守。城破,自經死。

宋玫は、字を文玉といい、萊陽の人である。父の継登は、万暦三十二年の進士。陝西右參議まで歴任した。天啓五年の大計で貶官された。玫はこの年に族叔の応亨とともに進士に挙げられ、玫は虞城知県に任じられ、応亨は清豊知県を得た。

原文宋玫,字文玉,萊陽人。父繼登,萬歷三十二年進士。歷官陜西右參議。天啟五年大計謫官。玫即以是年偕族叔應亨同舉進士,玫授虞城知縣,應亨得清豐。

崇禎元年、玫の兄の琮も進士に挙げられ、祥符知県となり、玫は才能により繁劇な杞県に転じた。三人の治める地域は隣接し、ともに治績の名声があった。応亨は礼部主事に昇進し、玫も吏科給事中に抜擢された。かつて人事について上疏して論じ、「陛下が治めようとする心が急であればあるほど、軽薄で事を好む人々は皆、詭弁を飾り奇策を釣ろうとし、陛下が格を破る意図が殷であればあるほど、巧言令色の奸佞の徒は皆、機に乗じて敏捷を競うでしょう」と言った。人々はその言を正しいとした。当時、応亨はすでに吏部に転じ、累進して稽勲郎中となったが、免職されて帰郷した。玫はちょうど母の喪が明け、元の官職に復帰し、刑科都給事中を歴任した。熱審(夏の囚人審理)を天下に一律に行うよう請うた。また、獄囚が滞留して獄死する者が、刑死する者とほぼ半数に及ぶので、憐れんで釈放すべきだと上言した。帝はこれを採用した。太常少卿に転じ、大理卿・工部右侍郎を歴任した。玫の父の継登は長く官を失っていたが、このとき浙江右參政となった。大学士周延儒の食客である盛順が、浙江巡撫の熊奮渭のために朝廷への召還を画策し、果たして奮渭は南京戸部侍郎に抜擢され、継登父子はこれを信じた。

原文崇禎元年,玫兄琮亦舉進士,知祥符,而玫以才調繁杞縣,三人壤地相接,並有治聲。應亨遷禮部主事,玫亦擢吏科給事中。嘗疏論用人,謂:「陛下求治之心愈急,則浮薄喜事之人皆飾詭而釣奇;陛下破格之意愈殷,則巧言孔壬之徒皆乘機而鬥捷。」眾韙其言。時應亨已改吏部,累遷稽勛郎中,落職歸。玫方除母喪,起故官,歷刑科都給事中。請熱審概行於天下。又言獄囚稽滯瘐死,與刑死幾相半,宜有矜釋。帝采納之。遷太常少卿,歷大理卿、工部右侍郎。玫父繼登已久廢,至是為浙江右參政。大學士周延儒客盛順者,為浙江巡撫熊奮渭營內召,果擢南京戶部侍郎,繼登父子信之。

十五年夏、廷推(朝廷での推挙)で閣臣を推挙する際、盛順は宋玫のために大いに推挙工作をした。ちょうど詔で再推挙を命じられ、玫もその中に含まれた。帝はすでに流言を信じ、諸臣に私心があると疑っていた。対面して応対するに及んで、玫は帝の意を得ようと期待し、侃々として敷奏した。帝は怒りを発し、叱りつけて退け、吏部尚書の李日宣らとともに獄に下した。日宣らは流刑に処せられ、玫は除名され、盛順は驚いて逃げ隠れた。

原文十五年夏,廷推閣臣,順為玫營推甚力。會詔令再推,玫與焉。帝已中流言,疑諸臣有私。比入對,玫冀得帝意,侃侃敷奏。帝發怒,叱退之,與吏部尚書李日宣等並下獄。日宣等遣戍,玫除名,順乃驚竄。

閏十一月、臨清が陥落すると、応亨は知県の陳顯際と城守を謀った。応亨は城北が低く薄弱であるとして、千金を出して甕城を築き、十日で完成させた。玫と同郷人の趙士驥も資金を出して守備の具を整えた。まもなく、大清兵が城に迫ると、城上で火炮と矢石を一斉に発射し、包囲は解けた。翌年二月に再び到来し、城はついに陥落し、玫・応亨・顯際・士驥はともに死んだ。顯際は真定の人、士驥は中書舎人の官にあり、ともに進士から出た。玫と応亨には文名があった。

原文閏十一月,臨清破,應亨與知縣陳顯際謀城守。應亨以城北庳薄,出千金建甕城,浹旬而畢。玫及邑人趙士驥亦出貲治守具。無何,大清兵薄城,城上火炮矢石並發,圍乃解。明年二月復至,城遂破,玫、應亨、顯際、士驥並死之。顯際,真定人,士驥官中書舍人,並起家進士。玫、應亨有文名。

沈迅もまた萊陽の人である。崇禎四年に進士に挙げられ、新城・蠡の二県の知県を歴任し、膠州の張若麒とは同年で親しく交わった。十一年に行取されて都に入る。帝は吏部の考選が私情で行われたとして、自ら諸臣を策問し、沈迅・若麒はともに刑部主事を得た。二人は大いに恨み、楊嗣昌と結び、兵部に改めることを得た。その年の冬、畿輔が兵乱に遭い、沈迅は広平・河間・定州・蠡県にそれぞれ兵備一人を設置するよう請うた。また天下の僧侶を尼姑に配し、里甲に編入し、三丁ごとに一人を抽丁すれば、数十万の兵を得られると請うた。その他の条奏も多くあった。上奏文は兵部に下され、嗣昌は沈迅の言を用いるべきと大いに称え、兵科給事中に任じられた。

原文沈迅,亦萊陽人也。崇禎四年舉進士,歷知新城、蠡二縣,與膠州張若麒同年友善。十一年行取入都。帝以吏部考選行私,親策諸臣,迅、若騏並得刑部主事。兩人大恚恨,結楊嗣昌,得改兵部。其年冬,畿輔被兵,迅請於廣平、河間、定州、蠡縣各設兵備一人。又請以天下僧人配尼姑,編入裏甲,三丁抽一,可得兵數十萬。他條奏甚多。章下兵部,嗣昌盛稱迅言可用,乃命為兵科給事中。

沈迅は自ら帝に結びつこうとし、しばしば事を言上し、いずれも中旨に叶った。当時は軍事が急を要しており、廷臣で兵事を言う者があれば、すぐに兵事に通じていると見なされ、大は督撫に推挙され、小は兵備に任じられ、ひとたび任に当たれば、罪累がたちまち至った。そこで上下ともに兵事を言うのを忌み、章奏で敢えて及ぶ者はいなかった。沈迅はその弊害を極言し、廷臣に五日以内に方略を陳述するよう勅することを乞うた。帝はすぐにその言に従った。沈迅は考選の時に掌河南道御史の王萬象に抑えられたため、事に因って萬象を弾劾して罷免させ、勢いはいよいよ張り、若麒とともに山東の事をことごとく把持した。時に順天府丞の戴澳が平遠知県の王凝命・嘉興推官の文德翼の貪汚を誣しって弾劾したので、沈迅は上疏して二人の廉潔と才能を称え、戴澳は吏部に下されて官籍を削られた。沈迅は累進して礼科都給事中となった。陳新甲が和議を主張すると、沈迅は面と向かってその非を斥け、廷議で長く論じ、また言うには、「楊嗣昌は死してもなお余罪があるのに、久しい旧案を借りて功を邀い、陳新甲は罪を負って暇もないのに、辺境の労を移して録蔭するのは、功を論じ罪を議する法ではない」と。帝はその言を是とした。沈迅はもともと嗣昌によって進められたのに、衆に随って詆毀し、当時の論者はこれを軽蔑した。

原文迅欲自結於帝,數言事,皆中旨。當是時,軍興方棘,廷臣言兵者即以為知兵,大者推督撫,小者兵備,一當事任,罪累立至。於是上下諱言兵,章奏無敢及者。迅極言其弊,乞敕廷臣五日內陳方略。帝即從其言。迅考選時為掌河南道御史王萬象所抑,因事劾罷萬象,勢益張,與若麒盡把持山東事。會順天府丞戴澳誣劾平遠知縣王凝命、嘉興推官文德翼貪,迅上疏頌二人廉能,澳下吏削籍。迅累遷禮科都給事中。陳新甲主款,迅面斥其非,廷辨良久,又言:「楊嗣昌死有餘戮,借久案以邀功,陳新甲負罪不遑,移邊勞而錄蔭,非論功議罪法。」帝是其言。迅本由嗣昌進,隨眾詆毀,時論訾薄之。

まもなく高鬥光を保挙して鳳陽総督としたのが不当であるとして、国子博士に貶謫され、暇を乞うて帰郷した。新甲が誅殺されると、兵科が糾発しなかった罪を追って論ずるよう命じられ、吏部が沈迅の名を上奏した。帝は「沈迅が御前で駁議したことは、朕もまだ覚えている。元の官に復させよ」と言った。赴任しないうちに京師が陥落した。沈迅は家に居て、弟の迓とともに砦を設けて自衛した。迓は小柄で精悍で、馬上で百斤の鉄椎を舞った。兄弟は里中の壮士を率い、土寇を捕らえ剿滅してほぼ尽くした。大清兵が至り、砦を破り、沈迅は一家を挙げて死んだ。

原文尋以保舉高鬥光為鳳陽總督不當,謫國子博士,乞假歸。及新甲誅,命追論兵科不糾發罪,吏部上迅名。帝曰:「迅御前駁議,朕猶識之,可復故官。」未赴而京師陷。迅家居,與弟迓設砦自衛。迓短小精悍,馬上舞百斤鐵椎。兄弟率里中壯士,捕剿土寇略盡。大清兵至,破砦,迅闔門死之。

若麒は黄道周を弾劾して嗣昌に媚びた。職方郎中を歴任し、新甲が寧遠・錦州に派遣して督戦させ、洪承疇ら十余万の軍を覆滅させたが、ただ一人海を渡って逃げ帰り、死罪に論じられ獄に繋がれた。李自成が都城を陥落させると、出て降った。

原文若麒劾黃道周以媚嗣昌。歷職方郎中,新甲遣赴寧、錦督戰,覆洪承疇等十餘萬軍,獨渡海逃還,論死繫獄。李自成陷都城,出降。

範淑泰、字は通也、滋陽の人。崇禎元年の進士。行人に授けられた。五年の冬、工科給事中に抜擢された。上疏して刑獄が繁多であることを陳べ、刑官に疏理するよう勅することを乞うと、帝は褒めて受け入れた。流賊が河南を犯すと、先任の巡撫樊尚璟の罪を追って論じ、総兵鄧玘の淫掠の様子を弾劾した。時に宦官張彜憲が天下の逋賦が一千七百余万に至ると言い、科道官を派遣して督征するよう請うた。帝は大いに怒り、巡撫・巡按に回奏を責めた。淑泰は民が貧しく盗賊が起こり、逋賦は督追し難いと言い、従わなかった。給事中莊鰲獻・章正宸が建言して吏部に下された時、抗疏してこれを救った。

原文範淑泰,字通也,滋陽人。崇禎元年進士。授行人。五年冬,擢工科給事中。上疏陳刑獄繁多,乞敕刑官疏理,帝褒納之。流賊犯河南,追論先任巡撫樊尚璟罪,劾總兵鄧玘淫掠狀。時中官張彜憲言天下逋賦至一千七百餘萬,請遣科道官督征。帝大怒,責撫按回奏。淑泰言民貧盜起,逋賦難以督追,不從。給事中莊鰲獻、章正宸建言下吏,抗疏救之。

吏部の張捷が逆党の呂純如を推薦すると、淑泰はその誤りを極論し、併せて大学士王応熊が朋比して私を行っていることを論じ、張捷が応熊の意に従い、その私人の王維章を四川巡撫に用いたことを弾劾した。言うには、「維章は西寧に官し、加徴して変乱を激発させた罪で、落職閑住となった。張捷は朦朧として事を啓し、明らかに奸欺を肆にしている」と。帝は張捷に自ら陳述するよう責めた。張捷は淑泰が党同伐異していると誹謗したが、帝は問わなかった。時に皇陵が毀損され、巡撫楊一鵬が罪を得た。応熊は座主の縁故で、力を尽くしてこれを庇った。淑泰はその章奏を停匿した状を発し、帝もまた追究しなかった。淑泰はそこで応熊が賄賂を受けた数事を拾い上げて上奏し、応熊が資を捐すじて陵工を助けると、淑泰はまたその寇を召し奸を庇うことを弾劾した。帝は私を挟んで勝ちを求めるとして責め、終に受け入れなかった。

原文吏部張捷薦逆黨呂純如,淑泰極論其謬,並論大學士王應熊朋比行私,劾捷徇應熊意,用其私人王維章撫蜀。言:「維章官西寧,坐加征激變,落職閑住。捷朦朧啟事,明肆奸欺。」帝責捷自陳。捷詆淑泰黨同伐異,帝不問。時皇陵被毀,巡撫楊一鵬得罪。應熊以座主故,力庇之。淑泰發其停匿章奏狀,帝亦不究。淑泰乃摭應熊納賄數事上之,應熊捐貲助陵工,淑泰又劾其召寇庇奸。帝責以挾私求勝,終不納。

十一年の冬、上疏して言うには、「今、餉を措くために、搜括・借助に至っている。たとえ行って得たとしても、再び兵事があれば、また行えるだろうか!治はその久しきを規せず、ただ補救の術に倉皇とするのは、忠と為す所以ではない。陛下はまさに清節をもって天下を風化しようとしているのに、かえって百官の金銭を多寡の間で条叙するのは、これに貪を教えるものである。至って借貸の説は、特に行うべからざるものである。京師は根本の重地であり、近ごろ物力困竭し、富商大賈の大半は帰ってしまった。内が安からずして、何をもって外を攘わん!乞う、直ただちにその説を止められたい」と。また言うには、「強兵は法を行うに如くはない。今の兵は、餉を索めば強く、敵に赴けば弱く、良民を殺して功を冒せば強く、暴を除き民を救えば弱い。請う、法令を明示し、諸将で命を用いて賊を殺すことのできる者は、直ちに大将に擢げ、そうでなければ死罪を赦さないように。降級・戴罪をもってするのみで、ただ身に切ならぬ痛癢を為すことのないように」と。帝はその言を是とした。

原文十一年冬,上疏言:「今以措餉故,至搜括借助。即行之而得,再有兵事,能復行乎!治不規其可久,徒倉皇於補救之術,非所以為忠也。陛下方以清節風天下,而乃條敘百官金錢於多寡之間,是教之貪也。至借貸之說,尤不可行。京師根本重地,邇者物力困竭,富商大賈大半旋歸。內不安,何以攘外!乞立寢其說。」又言:「強兵莫如行法。今之兵,索餉則強,赴敵則弱;殺良冒功則強,除暴救民則弱。請明示法令,諸將能用命殺賊者,立擢為大將,否則死無赦。毋以降級戴罪,徒為不切身之痛癢。」帝是其言。

十五年、吏科に転じ、浙江郷試を典つかさどし、事が竣って家に還った。十二月、大清兵が兗州を囲み、淑泰は力を尽くして固守した。城が破れ、死んだ。詔して太僕少卿を贈り、一子に官した。

原文十五年遷吏科,典浙江鄉試,事竣還家。十二月,大清兵圍兗州,淑泰竭力固守。城破,死之。詔贈太僕少卿,官一子。

高名衡、字は仲平、沂州の人。崇禎四年の進士。如臯知県に除され、才能によって興化に転じ、召されて御史に授けられた。十二年、河南を按じに出た。翌年、任期が満ち、留まってさらに一年巡按した。

原文高名衡,字仲平,沂州人。崇禎四年進士。除如臯知縣,以才調興化,征授御史。十二年出按河南。明年期滿,留再巡一年。

十四年正月、李自成が洛陽を陥落させ、勝に乗じて開封を囲んだ。巡撫李仙風は時に河北におり、名衡は衆を集めて守った。周王恭枵は庫金百万両を発し、死士を募って賊を殺させ、米を蒸し麦を砕き、竈を執って軍に饗し、凡そ七昼夜に及んだ。仙風は馳せて開封に還り、副将陳永福が城を背にして戦い、二千の首を斬った。遊撃高謙が挟撃し、七百の首を斬った。賊は解いて去った。仙風が既に還ると、名衡と互いに奏して訐った。帝は福藩を陥落させた罪で詔して仙風を逮捕し、襄陽兵備副使の張克儉を代わらせた。克儉は既に先に死難しており、直ちに名衡を右僉都御史に擢げて代わらせた。永福を総兵官都督僉事に充て、河南を鎮守させた。

原文十四年正月,李自成陷洛陽,乘勝遂圍開封。巡撫李仙風時在河北,名衡集眾守。周王恭枵發庫金百萬兩,募死士殺賊,烝米屑麥,執爨以餉軍,凡七晝夜。仙風馳還開封,副將陳永福背城而戰,斬首二千。遊擊高謙夾擊,斬首七百。賊解去。仙風既還,與名衡互訐奏。帝以陷福藩罪詔逮仙風,以襄陽兵備副使張克儉代。克儉已前死難,即擢名衡右僉都御史代之。以永福充總兵官都督僉事,鎮守河南。

当時、賊は連続して南陽・鄧州・汝州など十余の州県を陥落させ、唐王・徽王の二王が遇害され、名衡は救うことができなかった。開封の周邸は図書文物の盛んなことが他藩に甲たり、士大夫は富み、蓄積が充刃していた。自成はこれを攻めたが克つことができず、しかし得て甘心しようとした。十二月の末、賊は再び開封を囲んだ。永福が自成を射て、その左目に中て、砲で上天龍らを斃した。自成は大いに怒り、急攻した。開封はもと宋の汴都で、金帝が南遷して重ねて築いた所であり、厚さ数丈、内は堅緻で外は粗い。賊は火薬を用いて迸らせたが、火が発すれば外に撃ち、<番瓦>瓳が飛び鳴り、賊騎はことごとく糜爛し、自成は大いに驚いた。時に楊文嶽の援兵も至り、そこで囲みを解いて去った。西華・郾城・襄城・睢州・陳州・太康・商丘・寧陵・考城がことごとく陥落した。

原文當是時,賊連陷南陽、鄧、汝十餘州縣,唐、徽二王遇害,名稀不能救。開封周邸圖書文物之盛甲他藩,士大夫垔富,蓄積充刃。自成攻之不能克,然欲得而甘心焉。十二月杪,賊再圍開封。永福射自成,中其左目,炮殪上天龍等。自成大怒,急攻之。開封故宋汴都,金帝南遷所重築也,厚數丈,內堅致而疏外。賊用火藥放迸,火發即外擊,瓳飛鳴,賊騎皆糜爛,自成大驚。會楊文嶽援兵亦至,乃解圍去。西華、郾、襄、睢、陳、太康、商丘、寧陵、考城俱陷。

十五年四月、再び開封に至り、囲んで攻めず、坐して困らせんとした。六月、帝は詔して故尚書侯恂を獄より釈放し、保定・山東・河北・湖北の諸軍務を督せしめ、併せて平賊等鎮の援剿官兵を管轄せしめた。知県蘇京・王漢・王燮を抜擢して御史と為す。詔して蘇京に延綏・寧夏・甘粛・固原の軍を監せしめ、孫伝庭に関を出づるを促し、王漢に平賊鎮標の楚・蜀の軍を監せしめ、侯恂等と共に急撃せしめ、王燮に陽和・懐来の東晋の軍を監せしめ、期日を刻して河を渡らしめた。総兵許定国は晋軍を率いて沁水に駐屯したが、一晩で潰走し、寧武の兵もまた懐慶にて潰えた。詔して定国を逮捕す。七月、河上の兵潰く。督師丁啓睿・保督楊文岳は左良玉・虎大威・楊徳政・方国安の諸軍と合し、朱仙鎮に駐屯す。良玉は走って襄陽に還り、諸軍皆潰え、啓睿・文岳は汝寧に奔る。詔して山東総兵官劉沢清に開封を救援せしむ。城中食尽き、名衡・永福は監司梁炳・蘇壮・呉士講、同知蘇茂灼、通判彭士奇、推官黄澍等と共に守り益々堅し。沢清兵を以て来援す。諸軍並びに河北の朱家寨に集まるも敢えて進まず。沢清曰く、「朱家寨は開封より八里。我れ兵五千を以て南渡し、河に依りて営し、水を引きて之を環らす。次第に八営を結び、直ちに大堤に達す。甬道を築き河北の粟を輸送し、以て城中に餉えん。賊兵已に老ゆ、一戦にして走らしむべし」と。諸軍皆曰く「善し」と。乃ち兵三千人を以て先ず渡り営を立てしむ。賊之を攻む。三昼夜戦うも、諸軍に継ぐ者無く、甬道成らず、沢清営を抜きて帰る。日夜伝庭の関を出づるを望むも、至らず。

原文十五年四月復至開封,圍而不攻,欲坐困之。六月,帝詔釋故尚書侯恂於獄,命督保定、山東、河北、湖北諸軍務,並轄平賊等鎮援剿官兵。拔知縣蘇京、王漢、王燮為御史。詔蘇京監延、寧、甘、固軍,趣孫傳庭出關;王漢監平賊鎮標楚、蜀軍,同侯恂等急擊;王燮監陽、懷東晉軍,刻期渡河。總兵許定國以晉軍次沁水,一夕潰去,寧武兵亦潰於懷慶,詔逮定國。七月,河上之兵潰。督師丁啟睿、保督楊文嶽合左良玉、虎大威、楊德政、方國安諸軍,次於朱仙鎮。良玉走還襄陽,諸軍皆潰,啟睿、文嶽奔汝寧。詔山東總兵官劉澤清援開封。城中食盡,名衡、永福偕監司梁炳、蘇壯、吳士講,同知蘇茂灼,通判彭士奇,推官黃澍等守益堅。澤清以兵來援,諸軍並集河北朱家寨不敢進。澤清曰:「朱家寨去開封八里。我以兵五千南渡,依河而營,引水環之。以次結八營,直達大堤。築甬道輸河北之粟,以餉城中。賊兵已老,可一戰走也。」諸軍皆曰:「善。」乃以兵三千人先渡立營。賊攻之,戰三晝夜,諸軍無繼者,甬道不就,澤清拔營歸。日夜望傳庭出關,不至。

賊開封を図る者三度はか、士馬の損傷多く、積憤し、誓って必ず之を抜かんとす。半年を囲み、師老い糧匱え、黄河を決して之を灌がんと欲す。城中の子女貨宝を以て、猶豫決せず。秦師已に東すと聞き、諸鎮の兵の挟撃を恐れ、計を変えんと欲す。時に巡按御史厳雲京に計を献ずる者有り、河を決して以て賊を灌がんことを請う。雲京名衡・澍に語る。名衡・澍然りと為す。周王恭枵民を募りて羊馬墻を築かしむ。堅厚高岸の如し。賊営直ちに大堤に傅わり、河決すれば賊尽くす可く、城中虞無し。我方朱家寨の口を鑿つ。賊知り、営を移して高阜にし、艨艟巨筏を以て待ち、而して民夫数万を駆り掠めて反って馬家口を決し以て城を灌がんとす。九月癸未の望、夜半、二口並びに決す。天大雨連旬、黄流驟に漲り、声百里に聞ゆ。鍤を荷う丁夫、堤に随い漂没すること十数万、賊も亦万人を沈む。河は北門より入り、東南門を貫きて出で、流れて渦水に入る。名衡・永福小舟に乗りて城頭に至る。周王其の宮眷及び寧郷の諸郡王を率い水を避けて城楼に棲み、雨に坐し食を絶つこと七日。王燮舟を以て王を迎う。王城上より舟に泛ぎて出づ。名衡等皆出づ。茂灼・士奇久しく餓えて起つ能わず、並びに溺死す。賊艦を浮かべて城に入り、遺民俱に尽き、営を抜きて西す。城初め囲まる時百万戸、後饑疫にて死者十二三。汴梁の佳麗中州に甲たり、群盗心に之を艶みしも、是に至り尽く水に没す。帝聞き、痛悼す。猶諸臣の拒守の労を念い、功を叙するを命ず。名衡に兵部右侍郎を加う。名衡疾を以て辞す。即ち王漢を擢て右僉都御史と為し、名衡に代わりて河南を巡撫せしむ。名衡帰る。未幾、大清兵沂州を破り、名衡夫婦殉難す。

原文賊圖開封者三,士馬損傷多,積憤,誓必拔之。圍半年,師老糧匱,欲決黃河灌之。以城中子女貨寶,猶豫不決。聞秦師已東,恐諸鎮兵夾擊,欲變計。會有獻計於巡按御史嚴雲京者,請決河以灌賊。雲京語名衡、澍,名衡、澍以為然。周王恭枵募民築羊馬墻,堅厚如高岸。賊營直傅大堤,河決賊可盡,城中無虞。我方鑿朱家寨口,賊知,移營高阜,艨艟巨筏以待,而驅掠民夫數萬反決馬家口以灌城。九月癸未望,夜半,二口並決。天大雨連旬,黃流驟漲,聲聞百里。丁夫荷鍤者,隨堤漂沒十數萬,賊亦沈萬人。河入自北門,貫東南門以出,流入於渦水。名衡、永福乘小舟至城頭,周王率其宮眷及寧鄉諸郡王避水棲城樓,坐雨絕食者七日。王燮以舟迎王,王從城上泛舟出,名衡等皆出。茂灼、士奇久餓不能起,並溺死。賊浮艦入城,遺民俱盡,拔營而西。城初圍時百萬戶,後饑疫死者十二三。汴梁佳麗甲中州,群盜心艷之,至是盡沒於水。帝聞,痛悼。猶念諸臣拒守勞,命敘功。加名衡兵部右侍郎,名衡辭以疾。即擢王漢右僉都御史,代名衡巡撫河南。名衡歸,未幾,大清兵破沂州,名衡夫婦殉難。

王漢、字は子房、掖県の人。崇禎十年の進士。高平知県を除く。河内に調じ、巨寇天壇山の劉二を擒う。又雪夜に乗じて妖僧智善を破る。夜半河を渡り、賊楊六郎を破る。李自成開封を囲む。漢金龍口柳林に火を然して疑兵と為し、死士を賊中に遣り、声言して「諸鎮の兵来援し、各数十万至れり」と曰わしむ。賊聞きて則ち驚き走る。

原文王漢,字子房,掖縣人。崇禎十年進士。除高平知縣。調河內,擒巨寇天壇山劉二。又乘雪夜破妖僧智善。夜半渡河,破賊楊六郎。李自成圍開封,漢然火金龍口柳林為疑兵,遣死士入賊中,聲言:「諸鎮兵來援,各數十萬至矣。」賊聞則驚走。

漢人となり気を負い士を愛す。人一長有れば、嗟嘆して口に容れず。僚属紳士民の疾苦を陳べ、或いは己が過ちを言えば、則ち瞿然として下拝す。兵を用うるに士卒ついと甘苦を同じくし、人之が為に死するを楽しましむ。間を用いるを好み、賊中の虚実知らざる莫し。天壇山の賊を攻む。山陡絶し、登る者は布を以て挽く。漢刀を把り直ちに上る。人其の勇に服す。時に賊の気焰日々に熾んず。帝毎に臨朝して嘆き、漢の前後賊を破るの功に、旨を降して優に叙す。

原文漢為人負氣愛士。人有一長,嗟嘆之不容口。僚屬紳士陳民疾苦,或言己過,則瞿然下拜。用兵士卒同甘苦,人樂為之死。好用間,賊中虛實莫不知。攻天壇山賊,山陡絕,登者挽以布。漢持刀直上,人服其勇。時賊氛日熾,帝每臨朝而嘆漢前後破賊功,降旨優敘。

十五年春、減俸行取を以て都に入り、蘇京・王燮と同召対に与り、旨に称す。三臣皆試御史を以て軍を監するを命ず。漢平賊鎮標の楚・蜀の軍を監し、督臣侯恂と南して汴を援ぐ。

原文十五年春,以減俸行取入都,與蘇京、王燮同召對,稱旨。命三臣皆以試御史監軍。漢監平賊鎮標楚、蜀軍,與督臣侯恂南援汴。

時に兵部援剿兵十万を奏す。十の四を以て京・燮に属し、其の六を以て漢に属す。漢の監する所凡そ五万九千、然れども大半已に潰散し、兵部空名を以て之を使わしむ。漢乃ち自立標営の兵千人、騎二百を請う。報可す。乃ち保営の兵百余りを簡び、邯鄲・鉅鹿の壮士三百人を募り、又故に治むる所の河内の練る義兵及び修武・済源の素より征剿に従う者五百人を取り、及び親故子弟、合わせて千人。八月朔夜半、賊の範家灘を襲い、一の紅甲の賊目を斬る。諸将に檄して合剿せしむ。自ら襄陽に走り、左良玉の兵を督して汴を救わしむ。潼関に至り、詔有りて漢に河南を巡按せしむ。時に賊開封を灌ぐ。漢聞き、諸将に趣し柳園より夜半河を渡らしめ、伏兵を西岸にす。卜従善等に檄して之を挟攻せしめ、首級九十余を斬り、遂に汴に入り、大いに鼓を張り旗を為して疑兵とす。賊を朱仙鎮に追い、連戦皆捷す。巡撫高名衡病を謝す。即ち漢を擢て右僉都御史と為し之に代わる。漢乃ち広く間諜をし、土豪を収め、屯田を議し、謀る所以の賊を図らんとす。

原文時兵部奏援剿兵十萬,十之四以屬京、燮,屬漢以其六。漢所監凡五萬九千,然大半已潰散,兵部空名使之。漢乃請自立標營兵千人,騎二百,報可。乃簡保營兵百餘人,募邯鄲、鉅鹿壯士三百人,又取故治河內所練義兵及修武、濟源素從征剿者五百人,及親故子弟,合千人。八月朔夜半,襲賊範家灘,斬一紅甲賊目。檄諸將合剿。自走襄陽,督左良玉兵救汴。至潼關,有詔漢巡按河南。時賊灌開封,漢聞,趣諸將自柳園夜半渡河,伏兵西岸。檄卜從善等夾攻之,斬首九十餘級,遂入汴,大張旗鼓為疑兵。追賊至朱仙鎮,連戰皆捷。巡撫高名衡謝病,即擢漢右僉都御史代之。漢乃廣間諜,收土豪,議屯田,謀所以圖賊。

未幾、劉超永城に反す。超、永城の人、跛にして狡く、貴州総兵と為り、罪に坐して免ぜらる。上疏して兵計を言い、陳新甲之を用いて河南総兵と為す。私怨を以て其の郷官御史魏景琦の一家三十余人を殺し、罪を懼れ、遂に城を拠りて反す。漢上疏して討つを請う。語泄る。超備えを為すを得。明年正月、漢永城に入り、声言して招撫し、賊の為に殺さる。参将陳治邦・遊撃連光耀父子皆戦死す。遊撃馬魁漢の屍を負いて出づ。面生けるが如し。詔して兵部尚書を贈り、錦衣世百戸を蔭し、祠を建てて祭る。既にして超誅せらる。首を九辺に伝う。

原文無何,劉超反永城。超,永城人,跛而狡,為貴州總兵,坐罪免。上疏言兵計,陳新甲用為河南總兵。以私怨殺其鄉官御史魏景琦一家三十餘人,懼罪,遂據城反。漢上疏請討,語泄,超得為備。明年正月,漢入永城,聲言招撫,為賊所殺。參將陳治邦、遊擊連光耀父子皆戰死。遊擊馬魁負漢屍以出,面如生。詔贈兵部尚書,蔭錦衣世百戶,建祠致祭。既而超伏誅,傳首九邊。

徐汧、字は九一、長洲の人。生まれて期に及ばずして孤と為る。稍長じて行いを砥ぎ、時に名有り、同里の楊廷枢と相善しむ。廷枢、復社の諸生の称する所の維斗先生なる者なり。天啓五年、魏大中逮われ薊州を過ぐ。汧金を貸して其の行を資す。周順昌逮わる。緹騎横に銭を索む。汧と廷枢財を斂めて之を経理す。当是の時、汧・廷枢の名天下に聞ゆ。

原文徐汧,字九一,長洲人。生未期而孤。稍長砥行,有時名,與同里楊廷樞相友善。廷樞,復社諸生所稱維鬥先生者也。天啟五年,魏大中被逮過薊州,汧貸金資其行。周順昌被逮,緹騎橫索錢,汧與廷樞斂財經理之。當是時,汧、廷樞名聞天下。

崇禎元年、汧は進士となり、庶吉士に改められ、検討を授けられた。三年、廷樞は応天郷試で第一を挙げた。中允黄道周は錢龍錫を救おうとして官を貶せられた。倪元璐は道周の同年生であり、自らが代わって謫されることを請うたが、帝は許さなかった。汧は上疏して道周・元璐の賢を称え、かつ自ら罷黜を請うたので、帝は汧を詰責した。汧は言う、「賢を推し能を譲るは、まことに臣の務めるところなり。進み難く退き易きは、儒者の風なり。間陛下の委任の意は外廷に注がれず、防察の権は輒しばしば閽寺に逮ぶ。聖意を默窺すれば、疑貳漸く萌す。万一士風日ひごとに賤しく、宸向しんこう日に移らば、明盛の時に憂い方に大ならん」。帝は聴かなかった。汧はまもなく暇を乞うて帰った。還朝して、右庶子に遷り、日講官を充てられた。

原文崇禎元年,汧成進士,改庶吉士,授檢討。三年,廷樞舉應天鄉試第一。中允黃道周以救錢龍錫貶官。倪元璐,道周同年生,請以己代謫,帝不允。汧上疏頌道周、元璐賢,且自請罷黜,帝詰責汧。汧曰:「推賢讓能,藎臣所務;難進易退,儒者之風。間者陛下委任之意希註外廷,防察之權輒逮閽寺,默窺聖意,疑貳漸萌。萬一士風日賤,宸向日移,明盛之時為憂方大。」帝不聽。汧尋乞假歸。還朝,遷右庶子,充日講官。

十四年、益王府に使いを奉じ、便道で家に還った。この時に当たり、復社の諸生は気勢甚だ盛んであり、汧は廷樞・顧杲・華允誠らと往来し特に意気投合した。久しく居て、京師陥落す。福王は汧を召して少詹事とした。汧は国破れ君亡びたるに、臣子たる者位に叨たんるべからずとし、かつ朋党の相傾くによりて宗社の喪亡したるを痛み、当事者に書を移し、異同の見を力破すべく勧めた。既に職に就き、時政七事を陳べ、倦けん々として恩仇を化し偏党を去ることを言とした。しかるに安遠侯柳祚昌が疏を上って汧を攻め、謂う、「朝服して京口にて潞王に謁し、東林の巨魁を恃み、復社の楊廷樞・顧杲ら諸奸と狼狽相倚る。陛下金陵に鼎を定むるや、彼は『金陵を討つ檄』を作り、その云うところ『中原鹿を逐い、南国馬を指す』とは何の言ぞや。乞う、汧を理に置き、廷樞・杲の名を除き、その余の徒党は、臣に次第に糾弾せしめよ」。時に国事方に棘きわまり、事もまた竟おに寝やんだ。汧は疾を移して帰った。

原文十四年奉使益王府,便道還家。當是時,復社諸生氣甚盛,汧與廷樞、顧杲、華允誠等往復尤契。居久之,京師陷。福王召汧為少詹事。汧以國破君亡,臣子不當叨位,且痛宗社之喪亡,由朋黨相傾,移書當事,勸以力破異同之見。既就職,陳時政七事,惓惓以化恩仇、去偏黨為言。而安遠侯柳祚昌疏攻汧,謂:「朝服謁潞王於京口,自恃東林巨魁,與復社楊廷樞、顧杲諸奸狼狽相倚。陛下定鼎金陵,彼為《討金陵檄》,所云『中原逐鹿,南國指馬』是何語?乞置汧於理,除廷樞、杲名,其餘徒黨,容臣次第糾彈。」時國事方棘,事亦竟寢。汧移疾歸。

明年、南京失守し、蘇・常相継いで下る。汧は慨然として太息し、書を作って二子を戒め、虎丘新塘橋の下に投じて死んだ。郡人赴きて哭する者数千人。時にまた一人、儒冠藍衫にして来たり、虎丘剣池の中に躍り入る。土人憐れんでこれを葬り、終に何なる人なるかを知らず。

原文明年,南京失守,蘇、常相繼下。汧慨然太息,作書戒二子,投虎丘新塘橋下死。郡人赴哭者數千人。時又有一人儒冠藍衫而來,躍虎丘劍池中,土人憐而葬之,卒不知何人也。

ここにおいて廷樞は変を聞き、走り避けて鄧尉山中に至る。久しくして、四方兵を弄する者群れ起こり、廷樞は重名を負うて、咸みな廷樞を指目す。当事者廷樞を執り、好言をもってこれを慰むるも、廷樞は嫚罵して已まず、蘆墟泗洲寺にてこれを殺す。首は既に墮つるも、声は項中より出でて益々厲はげし。門人迮紹原その屍を購い求めて葬る。

原文於是廷樞聞變,走避之鄧尉山中。久之,四方弄兵者群起,廷樞負重名,鹹指目廷樞。當事者執廷樞,好言慰之,廷樞嫚罵不已,殺之蘆墟泗洲寺。首已墮,聲從項中出,益厲。門人迮紹原購其屍葬焉。

汧の子枋、字は昭法、十五年郷試に挙がる。枋は隠れに依り、高行有り。

原文汧子枋,字昭法,舉十五年鄉試。枋依隱,有高行雲。

鹿善繼、字は伯順、定興の人。祖父久征、萬歷中進士となり、息県知県を授かる。時に詔して天下に田を度らしめ、各上中下の壤を署す。息県独り下田を以て報ず、曰く、「田を度るは民を紓ゆるすためなり、乃ち民を病まんや」。襄垣に調せられ、御史に擢げられ、言事を以て澤州判官に謫せられ、滎澤知県に遷るも、未だ任せずして卒す。父正、苦節自ら礪みがく。県令某これを見んと欲す。方に田に糞こゆるに、鍤を投じて往く。人の難を急ぐに、その家を傾けても惜しまず、遠近鹿太公と称す。

原文鹿善繼,字伯順,定興人。祖久征,萬歷中進士,授息縣知縣。時詔天下度田,各署上中下壤,息獨以下田報,曰:「度田以紓民,乃病民乎!」調襄垣,擢御史,以言事謫澤州判官,遷滎澤知縣,未任而卒。父正,苦節自礪。縣令某欲見之,方糞田,投鍤而往。急人之難,傾其家不惜,遠近稱鹿太公。

善繼は端方謹愨なり。萬歷四十一年進士より、戸部主事を授かる。内艱(母の喪)除かれ、故官に起つ。遼左の餉中絶す。廷臣数しばしば帑たくを発するを請うも、報いず。会広東より金花銀を進む。善繼旧制を稽うるに、金花は庫に貯え、各辺の応用に備う。乃ち尚書李汝華に奏記して曰く、「発せられざるの帑を請うよりは、いずくんぞ進まざるの金を留めん」。汝華これ然りとす。帝怒り、善継の俸一年を奪い、補進を促す。善継持して不可とし、死を以て争う。乃ち汝華の俸二月を奪い、善継を一級降し、外に調す。汝華懼れ、卒に銀を補って進む。泰昌改元し、原官に復し、新餉を典る。連疏して帑百万を請うも、報いず。

原文善繼端方謹愨。由萬歷四十一年進士,授戶部主事。內艱除,起故官。遼左餉中絕,廷臣數請發帑,不報。會廣東進金花銀,善繼稽舊制,金花貯庫,備各邊應用。乃奏記尚書李汝華曰:「與其請不發之帑,何如留未進之金?」汝華然之。帝怒,奪善繼俸一年,趣補進。善繼持不可,以死爭。乃奪汝華俸二月,降善繼一級,調外。汝華懼,卒補銀進。泰昌改元,復原官,典新餉。連疏請帑百萬,不報。

天啓元年、遼陽陥ち、才を以て兵部職方主事に改む。大学士孫承宗兵部事を理むるや、推心してこれを任ず。及び関門を閲視するに、善継を従う。出でて師を督するに、復た表して賛画とす。布衣羸馬、亭障の間を出入りし、将卒を延見して相労苦し、地四百里を拓き、城堡数十を収復す。承宗これに倚ること左右の手の如し。関に在ること四年、累ねて員外郎・郎中に進む。承宗事を謝し、善継もまた告げて帰る。

原文天啟元年,遼陽陷,以才改兵部職方主事。大學士孫承宗理兵部事,推心任之。及閱視關門,以善繼從。出督師,復表為贊畫。布衣羸馬,出入亭障間,延見將卒相勞苦,拓地四百里,收復城堡數十,承宗倚之若左右手。在關四年,累進員外郎、郎中。承宗謝事,善繼亦告歸。

先に、楊・左の獄起こり、魏大中の子学洢・左光斗の弟光明、先後に鹿太公の家に投ず。太公これを客とし、善きところの義士容城挙人孫奇逢と謀り、書を持って関門に走り、その難を承宗に告ぐ。承宗・善継謀りて薊門を巡視するに藉かり、入覲を請わんとす。奄党大いに嘩わめき、閣部将に兵を提げて君側を清めんとすと謂い、厳旨を以てこれを阻む。獄益々急なり、五日ごとに一たび贓を追い、搒掠甚だ酷し。太公急ぎ数百金を募り得てこれを輸す。しかるに両人者は則ち皆既に斃る。ここに至り、善継帰る。而して周順昌の獄また起こる。順昌は善継の同年生なり。善継また為に数百金を募り得る。金入るるに及び順昌また斃る。奄党善継の家に近く居り、難に遭える家の子弟仆従、道に相望む。太公曰く、「吾懼れず」。崇禎元年、逆榼既に誅せられ、善継尚宝卿に起り、太常少卿に遷り、光禄丞事を管し、再び帰るを請う。

原文先是,楊、左之獄起,魏大中子學洢、左光鬥弟光明,先後投鹿太公家。太公客之,與所善義士容城舉人孫奇逢謀,持書走關門,告其難於承宗。承宗、善繼謀借巡視薊門,請入覲。奄黨大嘩,謂閣部將提兵清君側,嚴旨阻之。獄益急,五日一追贓,搒掠甚酷。太公急募得數百金輸之,而兩人者則皆已斃矣。至是,善繼歸,而周順昌之獄又起。順昌,善繼同年生,善繼又為募得數百金,金入而順昌又斃。奄黨居近善繼家,難家子弟仆從相望於道。太公曰:「吾不懼也。」崇禎元年,逆榼既誅,善繼起尚寶卿,遷太常少卿,管光祿丞事,再請歸。

九年七月、大清兵定興を攻む。善継の家は江村に在り、太公に白もうして入り城を捍がんことを請い、太公これを許す。裏居の知州薛一鶚らと共に守る。六日守りて城破れ、善継死す。家人奔り走って太公に告ぐ。太公曰く、「嗟乎、吾が児は素より身を以て国に許す。今果たして死す。吾また何をか憾みん」。事聞こえ、善継に大理卿を贈り、忠節と謚し、有司に祠を建てしむるを敕す。子化麟、天啓元年郷試第一を挙げ、闕に伏して父の忠を訟う。年を逾こえてまた卒す。

原文九年七月,大清兵攻定興。善繼家在江村,白太公請入捍城,太公許之。與裏居知州薛一鶚等共守。守六日而城破,善繼死。家人奔告太公,太公曰:「嗟乎,吾兒素以身許國,今果死,吾復何憾!」事聞,贈善繼大理卿,謚忠節,敕有司建祠。子化麟,舉天啟元年鄉試第一,伏闕訟父忠。逾年亦卒。

薛一鶚、字は百當、貢生より黄州通判となる。荊王の姬、他姬を誣いて世子を鴆ちんすとす。一鶚その誣を白(あき)らかにす。奄人太妃の命を伝え、その獄を竟わさんと欲すも、卒にこれを直す。蘭州知州に遷る。州の北に田あり番に没す。吏その賦を他戸に派す。後ち田復た帰るも、衛卒に占拠せられ、而して民は賦を出すこと三十年、一鶚核してその害を除く。ここに至り善継を佐けて城を守り、遂に同死す。

原文薛一鶚,字百當,由貢生為黃州通判。荊王姬誣他姬鴆世子,一鶚白其誣。奄人傳太妃命,欲竟其獄,卒直之。遷蘭州知州。州北有田沒於番,吏派其賦於他戶,後田復歸,為衛卒所據,而民出賦三十年,一鶚核除其害。至是佐善繼城守,遂同死。

賛して曰く、士大夫政を致して裏居するは、封疆民社の責なく、跡を遜しりぞけて自ら全うすべし。必ず死するを以て勇と為すには非ざるなり。然れども慷慨して躯を捐て、白刃を冒して悔いず、宗を湛しずめ族を覆す。君子これを哀しまざるや。豈に名義の在る所、生より重きもの有らざらんや。気節凜然として、要はその志を自ら遂ぐるに在り。その英風義烈、固より宇宙の間に泯沒すべからざるなり。

原文贊曰:士大夫致政裏居,無封疆民社之責,可遜跡自全,非以必死為勇也。然而慷慨捐軀,冒白刃而不悔,湛宗覆族,君子哀之。豈非名義所在,有重於生者乎!氣節凜然,要於自遂其誌。其英風義烈,固不可泯沒於宇宙間矣。