○馬世奇 呉麟征 周鳳翔 劉理順 汪偉 呉甘來 王章 陳良謨 陳純德 申佳允 成徳 許直 金鉉
馬世奇は、字を君常といい、無錫の人である。祖父の濂は進士となり、桂林知府を務めた。世奇は幼少より聡明で異なり、学問を好み文名があった。崇禎四年に進士に及第し、庶吉士に改められ、編修を授けられた。十一年、帝は詞臣を派遣して諸藩を諭させた。世奇は山東・湖広・江西の諸王府に使いし、赴く先々で饋遺を退けた。還朝し、左諭徳に進んだ。父の喪に服して帰郷した。
長くして還朝し、左庶子に進んだ。帝はたびたび廷臣を召して賊を防ぐ策を問うた。世奇は言う、「闖賊(李自成)と献賊(張献忠)の二賊では、献賊を除くのは易く、闖賊を除くのは難しい。人心は献賊を畏れて闖賊に附くが、闖賊に附くのではなく、兵に苦しむのである。今、人心を収めようとすれば、ただ督撫鎮将に命じて厳しく部伍を束ねさせ、兵が民を虐げず、民が兵に苦しまぬようにすれば、乱は鎮められよう」。帝はその言を善しとし、詔を下して戒めさせた。時に賊の警報は日に日に切迫し、召対のたびに、諸大臣は一策も画することができなかった。世奇は邸に帰ると、いつも嘆息して涙を流し、「事は為すべからざるに至った」と言った。十七年三月、都城は陥落した。世奇が朝食をとっていると、箸を投げて立ち上がり、帝はどこにおられるか、東宮と二王はどこにおられるかと問うた。ある者は帝はすでに城外に出られたと言い、ある者は崩御されたと言い、またある者は東宮と二王が捕らえられたと言った。世奇は言う、「ああ、我が死なずしてどこへ行こうか」。その僕が言う、「太夫人(母)のことはどうなさいますか」。世奇は言う、「正に太夫人を辱しめることを恐れるのだ」。自縊しようとすると、二人の妾の朱氏と李氏が盛装して前に出た。世奇は訝って言う、「お前たちは私が死ぬので、私に別れを告げて去ろうとするのか」。答えて言う、「主人が節を尽くされると聞き、我々二人は従って死にに参りました」。世奇は言う、「そういうことか」。二人の妾はともに自縊し、世奇は端坐し、帛を引いて自ら力を込めて縊り死んだ。先に、兵部主事の成徳が死のうとするとき、世奇に書を送り、慷慨と従容の二つの義について質した。世奇は言う、「元升(成徳の字)、努めよ。我々は危難を見て命を授かるのであり、我がその難を為さねば、誰がその難を為そうか。君と手を携えて黄泉に赴き、あらかじめこの盟を結び、息壤(約束の地)を忘れるな」。世奇は頤が長く額が広く、眉を揚げ耳が大きく、名行を磨き、館閣に居て名声があり、後進を推奨することを好んだ。人となりは廉潔で、父が死ぬと、蘇州推官の倪長圩が贖鍰三千を送って喪を助けようとした。世奇は辞して言う、「蘇州は飢えている、これを留めて賑恤に用いるがよい」。座主の周延儒が再び宰相となると、世奇は同郡の者として嫌疑を避け、喪服を脱いでも都に赴かなかった。還朝したとき、延儒はすでに賜死されており、親昵の者はおおよそ避けて去ったが、世奇はその喪を経紀した。その好義はこのようなものであった。礼部右侍郎を追贈され、諡は文忠といった。本朝(清)は諡を文肅と賜った。
崇禎五年、吏科給事中に抜擢され、内臣の派遣を罷めるよう請い、言う、「古は内臣を用いて乱を致し、今は内臣を用いて治を求めようとする。君の臣に対するは、父の子に対するがごとく、僕従を信じてその子を捨て、家を治めようとする道理はない」。また言う、「民を安んずる根本は守令にある。郡守が廉潔であれば、県令は貪ることができず、郡守が慈愛であれば、県令は虐げることができず、郡守が精明であれば、県令は煩雑にすることができない。宣宗が況鐘を用いた故事に倣い、精選して礼を以て遣わし、重ねて璽書を与え、便宜を許して久任させるべきである。民生の疾苦、吏治の臧否を、天子に自ら上達させうるようにすべきである」。時に実行されなかった。麟征は諫垣にあって、直声が甚だ著しかった。まもなく上疏して仮を乞い父を葬った。去った後、言路に公揭を送り、「言官が積み重ねて軽んぜられ、廟堂の上では往々にしてその言に反して用いる。奸人はこの旨を窺見し、明らかに君父に告げて朋党と目し、自ら孤立を称し、下は公論に背き、上は主権を窃む。諸君子は宜しく沾々たる意を尽くして化し、その彀中に陥ることなく、清流の禍を再び明時に見せしめぬようにすべきである」と言った。久しく居て、還朝した。吏部尚書田唯嘉の贓汚を弾劾し、唯嘉は罷免されて去った。再び刑科給事中に遷り、継母の喪に服した。喪が明けて、吏科都給事中に起用され、時に貨賂が公行し、銓曹の資格はことごとく廃されていた。麟征は上言して、「年を限り平らに配するのは、確かに銓政の弊ではあるが、これを捨てては中才の者を待つ術がない。今、遷転は流れの如く、資格に従わず、巧みな者は速やかに化し、拙き者は積み重なって薪のようになり、奔競の門を開き、軍国の計に益するところがない」。帝は深くこれを然りとした。
十七年春、太常少卿に推挙された。まもなく、賊が京師に迫った。麟征は命を受けて西直門を守った。門は賊の衝に当たり、賊は勤王兵と偽って入城を求めた。宦官はこれを受け入れようとしたが、麟征は許さず、土石をもって堅くその門を塞ぎ、死士を募って城から縋り下りて襲撃し、多くを斬り獲た。賊の攻撃はますます急となり、麟征は朝廷に馳せ入り、帝に会って事を奏上しようとした。午門に至ると、魏藻徳が麟征の手を引いて言う、「国家は天のごとき福があり、必ず他に憂いはない。旦夕に兵糧が集まる、公はどうして急ぐのか」。これを引き出し、遂に西直門に還った。明日、城は陥落し、邸に還ろうとしたが、すでに賊の占拠するところとなっていた。そこで道傍の祠に入り、家人に訣別の書をしたためて言う、「祖宗二百七十余年余りの宗社が、一朝ここに至った。上には亢龍の悔いがあり、下には魚爛の殃いがあるとはいえ、身は諫垣に居ながら、匡救するところなく、法として褫服すべきである。殮には角巾と青衫を用い、単衾をもって覆い、以て我が哀れを誌せ」。帯を解いて自縊した。家人が救い蘇らせ、周りを取り囲んで泣きながら請うた、「祝孝廉が到着するのを待ち、一訣なさってはどうですか」。これを許した。祝孝廉は名を淵といい、かつて劉宗周を救って獄に下ったことがあり、麟征と善かった者である。明日、淵が到着した。麟征は慷慨として言う、「第に登った時の夢を憶う、隠士の劉宗周が文信国(文天祥)の『零丁洋詩』を吟じていた。今、山河は砕けた、死なずして何を為そうか」。酒を酌んで淵と別れ、遂に自縊し、淵は含殮を視て去った。兵部右侍郎を追贈され、諡は忠節といった。本朝は諡を貞肅と賜った。
賊が山西を陥落させたとき、薊遼総督の王永吉が寧遠の呉三桂の兵を撤して関門を守らせ、士卒を選んで西行させ賊を遏え、仮に京師に警報があっても、旦夕に援けられると請うた。天子がその議を下すと、麟征は深くこれを然りとした。輔臣の陳演・魏藻徳は不可とし、「故なくして地二百里を棄てる、臣はその咎を任じかねる」と言い、漢が涼州を棄てたことを引き合いに出して証とした。麟征は再び数百言の議を為し、六科は署名せず、独り疏を上して昌言したが、省みられなかった。烽煙が大内に徹するに及んで、帝は初めて麟征の言を用いなかったことを悔い、旨を永吉に下し、永吉は関を馳せ出て、寧遠の五十万の衆を移し、日に数十里を行き、十六日に関に入り、二十日に豊潤に抵ったが、京師はすでに陥落していたのである。城が破れ、八門は斉しく開いたが、ただ西直門だけは堅く塞がれて通じなかった。五月七日になって、民夫を集めて発掘してようやく開いた。
賊京師を犯すこと急なり。守卒は餉を欠き、陰雨に饑凍す。理順は朝房に詣でて諸執政に語り、急ぎ帑金を請う。衆は唯唯す。理順は太息して帰り、家資を捐げて守城の卒を犒う。僚友進止を問うに、正色して曰く、「存亡は国に視る、尚お商酌を須いんや」と。城破る。妻の万・妾の李は先ず死なんことを請う。既に絶ゆ。理順は大書して曰く、「仁を成し義を取るは、孔・孟の伝うる所。文信(文天祥)これを践みし、吾何ぞ然らざらん」と。書き畢えて繯に投ず。年六十三。僕四人皆従死す。群盗多くは中州の人、入りて唁いて曰く、「此れ吾が郷杞県の劉状元なり、郷に居りて厚徳あり、何ぞ遽かに死せん」と。羅拝し号泣して去る。後に詹事を贈られ、諡して文正。本朝(清)諡して文烈を賜う。
十六年、賊承天・荊・襄を陥す。偉は留都は根本の地なりとし、『江防綢繆疏』を上りて言う、「金陵城は周囲百二十里、十万の衆と雖も守ること能わず。議者は守城の法無く、防江の法有りと謂う。賊北より来れば淮安を要とし、上流より来れば九江を要とす。淮を禦ぐは以て江を禦ぐ所以、九江を守るは以て金陵を守る所以なり。淮には史可法あり、屹然として保障す。九江一郡は宜しく重臣を設けて之を鎮むべし。是より上りて武昌に至り、下りて太平・采石・浦口に至るまで、南京兵部大臣に牙を建て閫を分かたしめ、以て声援に接し、而して金陵の門戸固し。南京兵部には重兵有りて用無く、操江は兵を用いんと欲して人無し。宜しく緩急相応ぜしむべし。而して府尹・府丞の官は、その権を重くし、その任を久しくし、百万の士民の心を聯ね、以て兵部・操江の責を分かつべし」と。帝嘉納し、乃ち九江総督を設く。又言う、「兵額既に虧く、宜しく衛所の官舎余丁を以て伍を補い操練し、兵船を修治し、以て防禦の資とすべし。額餉足らざれば、暫く塩課・漕米を借りて之を与うべし」と。条奏する所皆時務に切る。
明年三月、賊兵東に犯す。偉は閣臣に語りて曰く、「事急なり、亟に大僚を遣わして畿郡を守らしむべし。都中の城守は、文は内閣より、武は公侯伯以下、各々子弟を率いて地を画して守る。庶民は紳士を以て統べ、家を為して守る。而して京軍は番を分かって巡僥し、以て勤王の師を待つべし」と。魏藻徳笑いて曰く、「大僚に畿輔を守らしむるは、誰か肯んぜん」と。偉曰く、「此れ何等の時ぞ、尚お尊卑を較え、安危を計らんや。一の劇郡を以て見委せんことを請う」と。藻徳はその早計を哂う。未幾、真定遊撃謝加福が巡撫徐標を殺して賊を迎う。偉泣いて曰く、「事ここに至るか」と。書を作りて友人に寄せて曰く、「賊真定に据わり、奸人都城に満つ。外郡の上供する絲粟至らず、諸臣危亡を支うるに一も可なる者無し、聖主を如何にせん。平時国を誤るの人、終日門戸を言うて朝廷を顧みず、今当に何れの処にか狂喙を伸べん」と。賊都城に迫る。守兵は餉乏しく、食を得ず。偉は餅餌を市って以て饋る。已にして城陥つ。偉は寓に帰り、継室の耿に善く幼子を撫づるよう語る。耿泣いて曰く、「我独り公に従いて死する能わざらんや」と。因って幼子をその弟に属し、新衣を衣、上下を縫い、刀を引いて自剄するも殊れず、復た繯に投じて遂に絶ゆ。時に年二十三。偉欣然として曰く、「是れ吾が志を成すなり」と。その屍を堂に移し、子の観に書を貽し、忠孝を以て勉め、乃ち自経す。少詹事を贈られ、諡して文烈。本朝(清)諡して文毅を賜う。
五年、甘来は刑科給事中に擢でらる。七年、西北大旱、秦・晋の人相食む。疏を上して粟を発して振恤すべく請い、而して言う、「山西総兵張応昌らは半ば難民を殺して以て功を冒す。中州諸郡は曹変蛟の兵を賊よりも甚だ畏る。陛下之を生かして能わず、武臣之を殺して顧みず、臣実に之を痛む」と。又言う、「賞罰は、将を将うるの大機権なり。陛下辺陲に意を加え、賞は延格無し。乃ち紅夷の献俘、黔・蜀の功を争い、昌黎の死守、功猶お勘を待つ。急なれば則ちその死綏を用い、緩なれば則ち文法を以て束ぬ。且つ封疆の罰は、武と文と二、内と外と二、士卒と将帥と二なり。命を受けて牙を建つる者は、或いは逮われ或いは逐われ、以て封疆の罪を以て之を罪す。而して跋扈の将帥は、罪状已に暴かるるも、止むるところ戴罪なり。偏裨は士卒を令せず、将帥は偏裨を令せず、督撫は将帥を令せず。将に賊の自ら来たり自ら去るを聴かしむ、誰か陛下の為に兇逆を翦かん」と。憂い帰る。服闋し、吏科に起り、兵科右給事中に進み、乞假して帰る。
十五年、起用されて戸科都給事中となる。中外多事にして、荊・襄の数郡は、賊未だ至らずして撫道の諸臣率ね藩を護ると称して去る。甘来曰く、「もし然らば、則ち是れ地方を棄てて逃ぐるなり。城社人民、誰か与に守る者あらん」と。乃ち上疏して曰く、「天子衆建して親親しむ、将に屏藩として帝室をせんとす、故に曰く『宗子維城』と。乃ち烽火纔に伝わるや、一朝に委して去り以て民の望みと為し、而して諸臣猶嘵嘵として擁衛を以て自ら功と為し、其の地を失える罪を掩う。是れ維城を留む可く去る可きの人と為し、名都を守る可く棄つ可きの土と為し、撫道を有る可く無き可きの官と為す。功罪明らかならず、賞罰著わさず、此れより甚しきは莫し」と。疏入り、帝大いに嘉嘆す。一日、帝戸部尚書倪元璐に餉額を詰む、甘来曰く、「臣科は戸曹と表裏し、餉は籍を按じて稽うる可し。臣の慮る所は、兵賊を聞きて逃げ、民賊を見て喜ぶ、恐らくは餉無きの患いではなくして、民無きの患いならん。宜しく急ぎ賦税を軽くし、人心を収むべし」と。帝之を頷く。
甘来疾に遘い、連ねて告を請う。会に帝編修陳名夏を命じて戸科を掌らしむ、甘来代わるを得て喜ぶ。数日ならずして、賊都城に薄し。時に泰来官は礼部員外郎なり、甘来兄に属して母に帰り事えしめ、而して自ら必ず死せんことを誓う。明日、城陷る、駕南幸すと謂う者有り、甘来曰く、「主上明決にして、必ず軽く出づること無からん」と。乃ち疾く皇城に走るも、入るを得ず。返りて机上の疏草を検し曰く、「賊寇縦横たるに当たり、徒に議論を持するも、毫末に益無し」と。尽く取りて之を焚き、後世の名を釣ること毋からんとし、遂に繯に投じて死す。太常卿を贈られ、諡して忠節と曰う。本朝諡して莊介を賜う。
十一年、行取して都に入る。時に考選して翰林と為すの命有り、行取する者争いて奔競す、給事中陳啓新之を論ず。帝怒り、吏部に命じて訪冊を上らしめ、廷臣濫りに徇う者の罪せしむ。尚書姜逢元・王業浩、給事中傅元初、御史禹好善等六人閑住す;給事中孫晉、御史李右讜等三人降調す;給事中劉含輝、御史劉興秀等十一人二秩を貶して事を視さしむ。吏部尚書田維嘉等乃ち先ず部曹を推すことを請い、凡そ二十二人を推す、章も其の中に与り、工部主事に授かる。章及び任浚・塗必泓・李嗣京疏を為して弁ぜんと欲すも、首と為りて罪を得るを憚る。李士淳なる者は耄たり、四人告げずして其の名を首とす、士淳之を知り、懼れ且つ怒り、章等と大いに詬う。而して帝維嘉私有るを知り、詔して与に考するを許す。又た首と為す者は必ず良士なりと以為い、士淳を擢て編修と為し、章等皆御史と為す。章上疏して内操を罷め、江南の逋賦を寛むることを請う。
明年甘肅に按ずるに出で、風紀を持し、辺防を飭う。西部寇として莊浪す、巡撫急ぎ兵を征す。章曰く、「貧寇食を索むるのみ」と。策馬して其の帳に入れば、衆羅拜して降を乞う、乃ち稍く之に食を与う。両河旱す、章城隍の神に檄す、「御史銭を受け或いは人を戕害せば、神御史を殛せ、民を虐むること毋かれ。神血食茲の土、上帝を請いて一方を蘇すこと能わずんば、当に天子に奏して爾が位を易うべし」と。檄焚かれば、雨大いに注ぐ。辺卒武弁に金を貸し、賊首を以て償う、武弁以て功を冒す、是に坐して数え辺釁を召す。章令を著し、大挙に非ざれば以て零級を以て功を冒すこと毋からしむ。巡撫劉鎬の貪惰を劾して罷む。又た所部十道の監司、其の四を劾して罷む。母憂に帰る。服闋し、朝に還り、京営を巡視し、籍に按ずるに軍額十一万奇有り。喜びて曰く、「兵十万に至れば、猶為す可きなり」と。及び閲視するに、半ばは死せる者、余は伍を冒し、憊ること甚だしく、矢折れ刀缺け、炮声を聞けば耳を掩い、馬未だ馳せずして輒ち墮つ。而して司農餉を缺き、半歳発せず。章屢疏して帑を請うも、報いず。
一月を逾え、賊真定を陷し、京師大いに震う。襄城伯李国禎営卒五万を発して城外に営し、章と給事中光時亨阜成門を守る。城内の外堞凡そ十五万四千奇有り、三堞に一卒。三月初めて陴に登り、十日を閲して始めて一たび邸に還り、櫛沐して新衣冠に易う。家人大いに駭く、章応ぜず。賊城下に傅し、章手ずから二炮を発すれば、賊少しく卻く。頃くの内に、各門炮声絶ゆ。時亨章を摂して走る、章声を厲して曰く、「事此に至り、猶死を惜しまんや」と。時亨曰く、「此に死するは士卒と何の別かあらん。朝に入りて上の在る所を訪い、獲ざれば則ち死せん、死する未だ晩からず」と。章之に従い、時亨と並び馬を行く。俄に賊突き至り、下馬を呼ぶ。時亨倉皇として下馬し跪く、章鞭を持して顧みず、叱して曰く、「吾れ軍を視る御史なり、誰か敢えて犯さん」と。賊章の股を刺せば、墮つ。章罵して曰く、「逆賊!勤王の兵将に至らん。我死せば、爾滅びて踵を旋らさず」と。賊怒り、槊を攢りて章を刺殺して去る。暮に抵り、家人屍を覓むれば、猶一手地に拠りて坐し、口を張り目を怒らし、勃勃として賊を叱する状の如し。妻姜籍に在り、之を聞き、一慟して絶ゆ。大理寺卿を贈られ、諡して忠烈と曰う。本朝諡して節湣を賜う。次子之栻閩に仕えて職方主事と為り、亦た難に死す。
陳良謨、字は士亮、鄞の人。崇禎四年進士、大理推官に授かる。初め名は天工。莊烈帝上帝を虔しく事え、詔して群臣名に「天」の字ある者悉く之を改めしむ、乃ち良謨と改む。職に在ること六年、両たび上考に註さる。行取して陛見し、御史に擢てらる。
良謨嘗て夢み文文山を堂下に拝す、文山揖して之を上る:「公予と先後一揆、何ぞ下拝するを為さん」。覚めて之を異とす。及び是に城陷る、良謨方に疾を移して邸中に臥す、一慟して幾くんぞ絶えんとす、是より水漿口に入れず。或り良謨に死無かれと勧む、答えず。邑子李天葆に謂いて曰く、「吾れ国の為に死す、義家を顧みず。惟だ是れ母老い、先君葬られず、継嗣未だ定まらず、須らく一言のみ」と。因りて詩を賦して天葆に付す。未だ幾くならず、帝煤山に崩ずるを聞き、大慟して曰く、「主上冕服せず、臣子敢えて冠帯を具せんや!吾が巾褻たり、安んぞ明巾を得ん」と。天葆巾を以て進む。良謨巾を著け、藍の便服、起ちて戸に入る。妾時氏之に随う、遂に妾と倶に自縊して死す。時氏、京師の人、年十八。良謨五十を逾えて子無し、礼を以て之を納れ、良謨に侍ること百三日のみ。良謨既に卒し、其の族人其の兄の子久樞を以て後の為とす。未だ幾くならず、久樞亦た卒す、良謨竟に後無し。太僕卿を贈られ、諡して恭湣と曰う。本朝諡して恭潔を賜う。
陳純德、字は静生、零陵の人。諸生となり、学問と品行で称された。かつて洞庭湖に夜泊した時、賊に追われ、飛び出して水に落ち、再び飛び込んで洲に着いた。夜明け頃、蘆葦の中に座り、停泊した船から数十丈離れていた。
朝廷に戻り、畿輔の学政を督めた。巡察に出ようとした時、都城が陥落した。賊(李自成軍)が百官に某日に入って拝謁するよう命じた。人々は純徳を引き連れて入り、邸に戻って慟哭し、遂に自縊した。京山の人秦嘉系が地を買って永定門外に葬り、石を立てて墓を表した。太僕卿を追贈され、諡は恭節。
申佳允、字は孔嘉。永年の人。崇禎四年の進士。儀封知県に任じられた。県はもとより賊が多く、佳允は保甲法を厳しくし、賊の身を置く所が無かった。長雨で黄河が決壊し、怒涛の中に船を繋ぎ、その口を塞いだ。大悪党を捕らえて法に処した。才能により杞県に転任した。八年、賊の掃地王が一万人を率いて来攻し、城の土塀は多く崩れていた。佳允は死士を募って賊を撃退し、それにより城を煉瓦で築いた。唐王聿鍵が王事に尽力し、開封に到着しようとした。諸大吏は恐れおののき、集まって議して言った。「留めても聞かない。行かせれば、土地を守る者が罪を得よう。」佳允は言った。「周王だけが彼を留め得る。」皆が善しとし、その計を用いた。
治績が卓異であり、吏部文選主事に抜擢され、辺備五策を上奏した。考功員外郎に進み、京察(京官考査)を補佐した。大学士薛国観が少詹事文安之を陥れた。安之は佳允の座主であり、事は佳允に連座し、左遷されて南京国子監博士となった。
成徳、字は元升、霍州の人。舅の家に依り、籍を懐柔に占めた。崇禎四年の進士。滋陽知県に任じられた。性質剛介、清操は俗を絶ち、悪を疾むこと仇の如し。文震孟が都に入ると、徳は郊外で出迎え、弟子の礼を執り、言葉は温体仁を刺した。体仁はこれを聞いて恨んだ。兗州知府が餉の額を増やそうとすると、徳は固く争い、またかつてその手先の吏を捕らえて処罰した。知府は怒り、御史の禹好善に讒言した。好善は体仁の客であり、徳が貪虐であると誣告し、逮捕して京に送った。滋陽の民が宮門に赴き冤罪を訴えた。震孟が内閣にいた時も、彼のために冤罪を称えた。徳は道中で上疏を準備し、極力体仁の罪を論じたが、震孟は既に体仁に排擠されて去っていた。好善は再び徳を弾劾し、その上疏は震孟の手によるものだと述べたが、帝はこれを追究しなかった。徳の母の張氏が体仁を長安街で待ち伏せ、車の周りを回って大声で罵り、瓦礫を拾って投げつけた。体仁は憤り、上疏して朝廷に知らせた。詔により五城御史が追い払い、徳を鎮撫司の獄に移して拷問した。午門外で六十回杖打ちし、辺境に流刑とした。贓罪六千余りを着せられた。そして体仁には校尉五十人を与えて出入りを護衛させた。
徳は流刑地に七年居た。御史詹兆恒の推薦により起用され、如皋知県となった。まもなく武庫主事に抜擢された。母が老いていることを理由に辞退したが、許されず、やむなく赴任した。到着すると上言した。「年来、中外に多くの変事有り、官に居る者は爵禄に心迷い、廉恥の道喪われたり。陛下御極十七年、何ぞ節を仗き義に死する者の寥寥たるや!宋臣張栻に言有り、『節を仗き義に死するの臣は、顔を犯して諫諍する中に求むべし』と。顔を犯して諫諍するは何ぞ難からん、朝廷にこれを養うに在るのみ。その宅裏を表するは、忠臣孝子を生前に伸ばす所以なり。その井疆を殊にするは、乱臣賊子を未だ死せざるに誅する所以なり。もし敵に死する者に功無ければ、則ち敵に媚びる者は且つ罪無からん。賊に死する者を褒揚すること亟やかならざれば、則ち賊に従う者は恬として畏るるを知らざらん。」未幾、城が破れ、帝の所在を知らず、役所で彷徨った。やがて午門に急行し、兵部尚書張縉彦が賊の所から出てくるのを見た。徳は頭で縉彦の胸を突き、かつ罵った。間もなく帝の崩御を聞き、痛哭した。鶏と酒を持って東華門に駆けつけ、茶棚の下で梓宮に奠し、地に触れて流血した。賊が刃を露わにして脅したが、動じなかった。奠し終えて家に帰ると、二十余歳で未だ嫁いでいない妹がいた。徳は彼女を見て言った。「我が死んだら、汝は何に依る?」妹は言った。「兄が死ねば、妹は先んじます。」徳は善しと称え、泣きながら彼女の縊死を見届けた。母に別れに入り、泣き尽くして哀しみ、出て自縊した。母は子女皆死んだのを見て、また縊死した。先に、懐柔城が破れ、徳の父の文桂が害に遇い、家族は皆亡くなった。妻の劉は京におり、徳の贓罪の取り立てが厳しく、憂い恐れて死んだ。ここに至り、また一家門死難し、ただ幼い子だけが先に友人の家に預けられて生き残った。徳に光禄卿を追贈し、諡は忠毅。本朝(清)は諡を介湣と賜う。
許直、字は若魯、如皋の人。崇禎七年に進士となる。文震孟の門下に出で、名節をもって自ら砥ぎ、義烏知県に任じられた。母の喪で帰郷し、哀毀骨立し、喪が終わるまで粗食し、柩の傍らに寝た。広東恵来県に補された。清望により、徴されて吏部文選主事に任じられ、考功員外郎に進んだ。
賊が都城に迫ると、同官と約して資を出し士卒に饗応し、死守の計を立てた。城が陥落し、賊が百官に名を届け出るよう命じた。直は言った。「身は殺されても、志は奪われぬ。」帝が南狩(南方へ逃れた)したという伝聞があり、直は従おうとした。賊の騎兵が道を塞いでいるのを見て、門を出てすぐに戻り、言った。「四方兵戈(戦乱)、駕(帝の車駕)は何処へ往かん?国乱れて匡さず、君危うくして済わず、我何を為さんや生きるを!」やがて帝の崩御を知り、一慟して幾ばくか絶えんとした。客が七十の老父を理由に説得した。直は言った。「死なねば、辱めは生みし者(父母)に及ぶ。」絶命詩六章を賦し、戸を閉めて自縊した。翌朝見ると、神気生けるが如し。太僕卿を追贈され、諡は忠節。本朝(清)は諡を忠湣と賜う。
直には族子の徳溥という者がおり、南方におり、荘烈帝(崇禎帝)の崩御を聞き、数日間大いに哭した。揚州が陥落すると、また数日間哭した。独り坐するごとに慟哭し、食事には必ず崇禎銭一枚を机の上に置き、祭ってから食し、食し終わるとまた哭した。またその両臂に「生は明の臣、死は明の鬼」と刺した。事が発覚し、西市で死んだ。
帝はまさに鋭意綜核を志し、廷臣の朋党営私を疑った。度支は匱乏を告げ、四方は急に兵を用い、軍餉は足りず、中官の張彜憲を遣わして戸・工二部を総理させ、専署を建て、諸曹に謁見を檄し、礼は堂官に見なした。鉉はこれを恥じ、再び疏を上って争ったが、納れられなかった。そこで両部の諸僚と約し、私に謁する者は衆人その面に唾せしめ、彜憲は甚だ慍った。鉉は杭州で税を榷する当番であったが、疾を辞して仮を請うた。彜憲は火器が程に中らぬことを摘発し、鉉を弾劾して落職させた。鉉は門を杜って客を謝し、自ら爨して父母を養った。
十七年春、ようやく兵部主事に起用され、皇城を巡視した。大同の陥落を聞き、疏を上って言う、「宣府・大同は京師の北門である。大同が陥落すれば宣府は危うく、宣府が危うければ大事去る。急ぎ宣府を監する中官の杜勛を撤回し、専ら巡撫の朱之馮に任ずることを請う。勛は二心あり事を僨し、之馮は忠懇にして大事を属すべし」と。報いられず、未だ幾ばくもせず、勛は宣府を以て賊に下り、賊は之馮を殺し、烽火は京師に逼った。鉉は走って母に告げる、「母はしばらく逃げ隠れられよ。児は国恩を受け、義として死すべきなり」と。鉉の母の章は時に八十余歳であったが、叱って言う、「汝は国恩を受けるが、私は国恩を受けぬというのか!廡下の井戸こそ、我が死する所なり」と。鉉は哭して去った。
城が破れ、趨って朝に入ると、宮人が紛紛として出て行く。帝が既に崩じたことを知り、牙牌を解きて家人に拝授し、即ち金水河に投じた。家人は争って前へ進みこれを引き止めたが、鉉は怒り、口でその臂を嚙み、脱し得て、遂に躍りて水に入った。水は浅く、首を濡らして泥中にて乃ち絶えた。母は聞くや即ち井戸に投じ、妾の王がこれに随い、皆死んだ。賊は大内を占拠し、一月を過ぎて始めて去った。金水河に冠袍が泛々として水上に見え、内官の群れがこれを指して言う、「これ金兵部なり」と。弟の錝がその屍を弁じ、網巾環を検し、鉉の首を得て帰り、木身に合せ、礼に従って殮した。事が竣うと、錝は自ら経した。後に鉉に太僕少卿を贈り、諡して忠節といった。本朝(清)は諡して忠潔を賜うた。
右は範景文より鉉に至る二十一人、皆自ら引決した。他の者は概ね委蛇して賊に会した。賊は大僚の多くが国を誤ったとして、一概に囚縛した。庶官は則ち或いは用い或いは用いず、用いる者は吏政府に下して銓除し、用いぬ者は諸偽将が搒掠してその資を取った。大氐降る者は十の七、刑せられる者は十の三。福王の時、六等の罪を以て諸の従逆者を治めた。而して文武の臣で殉難した者には併せて贈蔭祭葬を予て、且つ都城に旌忠祠を建てた。曰く正祀文臣、景文以下二十人、及び大同巡撫の衛景瑗・宣府巡撫の朱之馮・布衣の湯文瓊・諸生の許琰の四人を祀る。曰く正祀武臣、新楽侯の劉文炳・恵安伯の張慶臻・襄城伯の李国楨・駙馬都尉の鞏永固・左都督の劉文耀・山西総兵官の周遇吉・遼東総兵官の呉襄の七人を祀る。曰く正祀内臣、太監の王承恩一人を祀る。曰く正祀婦人、烈婦の成徳の母の張氏、金鉉の母の章氏、汪偉の妻の耿氏、劉理順の妻の万氏・妾の李氏、馬世奇の妾の朱氏・李氏、陳良謨の妾の時氏、呉襄の妻の祖氏の九人を祀る。曰く附祀文臣、進士の孟章明及び郎中の徐有聲、給事中の顧鋐・彭琯、御史の俞志虞、総督の徐標、副使の朱廷煥の七人を祀る。曰く附祀武臣、成国公の朱純臣・鎮遠侯の顧肇跡・定遠侯の鄧文明・武定侯の郭培民・陽武侯の薛濂・永康侯の徐錫登・西寧侯の宋裕徳・懐寧侯の孫維藩・彰武伯の楊崇猷・宣城伯の衛時春・清平伯の呉遵周・新建伯の王先通・安郷伯の張光燦・右都督の方履泰・錦衣衛千戸の李国禄の十五人を祀る。曰く附祀内臣、太監の李鳳翔・王之心・高時明・褚憲章・方正化・張国元の六人を祀る。有司は春秋に祭を致した。然れども顧鋐・彭琯・俞志虞の輩は、特に賊に拷死せられたに過ぎず、諸侯伯も大半は兵に死した。而して郎中の周之茂・員外郎の寧承烈・中書の宋天顕・署丞の於騰雲・兵馬指揮の姚成・知州の馬象乾は皆不屈して死したが、顧みて贈恤を邀えられなかった。
徐標、字は準明、済寧の人。天啓五年の進士。崇禎の時、官を歴て淮徐道参議となった。十六年二月、超擢して右僉都御史となり、保定を巡撫した。陛見し、辺防を重んじ、守令を択び、車戦を用いて敵を禦ぎ、流民を招いて荒を墾くことを請うた。帝は深くこれを嘉した。李自成が山西を陥落させ、警報日々逼り、標に兵部侍郎を加え、畿南・山東・河北の軍務を総督させ、仍く巡撫を兼ね、真定に移駐して賊を遏えしめた。未だ幾ばくもせず、賊は使を遣わして降を諭したが、標は檄を毀ちその使を戮した。賊の別将が畿輔を掠め、真定知府の邱茂華が妻子を城外に移すと、標は茂華を執ってこれを獄に下した。中軍の謝加福が標が城に登り守禦の策を画するのを伺い、衆を鼓してこれを殺し、茂華を獄より出した。数日にして賊が至り、城を以て降った。福王の時、標に兵部尚書を贈った。
朱廷煥、単県の人。崇禎七年の進士。工部主事に除され、廬州・大名の二府の知府を歴任し、即ち兵備副使として大名を分巡した。十七年、賊が畿輔に逼り、廷煥は守備を厳にした。賊が檄を伝えて城に入れよとすると、怒ってこれを砕いた。三月四日、賊が攻めて来ると、軍民皆走り、城は遂に陥落した。捕らえられて不屈、死した。福王の時、右副都御史を贈られた。
周之茂、字は松如、黄麻の人。崇禎七年の進士。官を歴て工部郎中となった。服闋し、都下に需次していた。賊が捜索してこれを得、跪かせようと迫ったが、屈せず、その臂を折られて死した。
寧承烈、字は養純、大興の人。郷挙に挙げられ、魏県教諭、戸部司務を歴任し、進んで本部員外郎となり、太倉銀庫を管った。城が陥落し、官廨において自経した。
宋天顕、松江華亭の人。国子生より官を内閣中書舎人とした。賊に捕らえられ、自経した。
於騰雲、順天の人。光禄置丞となった。賊が至り、その妻に語る、「我は朝臣、汝も命婦、賊に汚されようか!」と。夫婦並びに命服を服し、従容として繯に投じて死した。
姚成、字は孝威、余姚の人。礼部儒士より北城兵馬司副指揮となった。城が陥落し、自縊して死した。
馬象乾は京師の人である。郷挙に挙げられ、濮州知州に任じられた。里居の時、賊が侵入し、妻及び子女五人を率いて共に自縊した。
御史の馮垣登、兵部員外郎の鄭逢蘭、行人の謝於宣は皆拷問により死し、郎中の李逢甲は長く拷掠され、縊死を強制された。鋐、琯、志虞と共に皆太僕少卿を追贈され、垣登、於宣に至っては忠節と諡された。行取知縣の鄒逢吉は拷問により死し、太僕寺丞を追贈された。時に南北は阻絶し、皆実情を核実することができなかった。湯文瓊、許琰の事は『忠義傳』に載せられている。
賛に曰く、『傳』に「君子其の位に居れば、則ち其の官に死するを思う」と云う。忠貞の士、危に臨んで命を授くるは、豈に一時を矯厲し、身後に名を邀えんや。分誼の在る所、確然として以て自ら持して乱れざるなり。馬世奇等は皆貞亮の操を負い、志を勵し節を植え、其の素を欺かず、故に能く従容として義に蹈み、一轍を出すが如し。其の安んずる所を得たりと謂うべし。