○范景文、倪元璐、李邦華、王家彥、孟兆祥(子章明)、施邦曜、淩義渠
崇禎十七年三月、流賊李自成が京師を犯す。十九日丁未、荘烈帝社稷に殉ず。文臣国に死する者、東閣大学士范景文以下、凡そ二十一人あり。福王南京に立ち、並びに贈謚を予う。皇清順治九年、世祖章皇帝前代の忠臣を表章し、所司范景文・倪元璐・李邦華・王家彥・孟兆祥・子章明・施邦曜・淩義渠・呉麟征・周鳳翔・馬世奇・劉理順・汪偉・呉甘来・王章・陳良謨・申佳允・許直・成徳・金鉉の二十人名を上る。命じて所在の有司に各々地七十畝を給し、祠を建てて祭りを致し、且つ美謚を予う。
范景文、字は夢章、呉橋の人。父は永年、南寧知府。景文幼より器識を負い、万暦四十一年の進士に登り、東昌推官を授かる。名節を以て自ら励まし、苞苴敢えて其の門に及ぶ者なし。歳大いに飢え、心を尽くして振救し、闔郡之に頼る。治行高等を用い、擢て吏部稽勲主事と為り、歴て文選員外郎、選事を署す。泰昌の時、群賢登進し、景文力多く為し、尋いで仮を乞いて去る。
天啓五年二月、文選郎中を起す。魏忠賢及び魏広微中外に用事す。景文同郷なりと雖も、一も其の門に詣らず、亦た東林に附せず、孤立して意を行うのみ。嘗て言う、「天地の人才は、当に天地の為に之を惜しむべし。朝廷の名器は、当に朝廷の為に之を守るべし。天下万世の是非公論は、当に天下万世と之を共にすべし」と。時に名言と為す。事を視ること未だ弥月せず、病を謝して去る。
七年冬、南京右都御史を起す。未幾、就いて兵部尚書を拝し、機務に参賛す。屡々兵を遣わして池河・浦口を戍り、廬州を援け、滁陽を扼す。警有れば輒ち発し、節制精明なり。嘗て南京戸部尚書銭春と軍食を以て相い訐奏し、坐して鐫秩して事を視る。已にして、援剿の功を叙し、故の秩を復す。十一年冬、京師戒厳す。兵を遣わして入衛す。楊嗣昌奪情して政を輔く。廷臣力争し多く謫せらる。景文同列を倡え合詞を以て論救す。帝悦ばず、首謀を詰む。則ち自ら罪を引き、且つ衆論僉同を以て言と為す。帝益々怒り、籍を削りて民と為す。
十五年秋、薦を用いて召し拝して刑部尚書と為す。未だ上せず、工部に改む。入対す。帝迎え労いて曰く、「卿を見ざること久し、何ぞ臒きや」と。景文謝す。十七年二月、命じて本官を以て東閣大学士を兼ね、入りて機務に参ず。未幾、李自成宣府を破り、烽火京師に逼る。帝の南幸を請う者有り。命じて閣中に集議せしむ。景文曰く、「人心を固結し、堅守して援を待つのみ。此の外は臣の知る所に非ず」と。都城陥つるに及び、宮門に趨る。宮人曰く、「駕出づ」と。復た朝房に趨る。賊已に道を塞ぐ。従者服を易えて邸に還るを請う。景文曰く、「駕出でて安くにか帰らん」と。道旁の廟に就き草して遺疏し、復た大書して曰く、「身大臣と為り、賊を滅ぼし恥を雪ぐこと能わず、死して余恨有り」と。遂に演象所に至り闕墓を拝辞し、双塔寺旁の古井に赴きて死す。景文死する時、猶お帝の南幸を謂うなり。太傅を贈り、文貞と謚す。本朝文忠と謚を賜う。
倪元璐、字は玉汝、上虞の人。父は凍、歴て撫州・淮安・荊州・瓊州四府を知り、官に当る称有り。
臣頃に章奏を閲し、崔・魏を攻むる者は必ず東林と並び称して邪党と為すを見る。夫れ東林を以て邪党と為さば、将に何を以てか崔・魏を名づけん。崔・魏既に邪党たり。忠賢・呈秀を撃つ者又邪党ならんや。東林は天下の才藪なり。而るに或いは高明の幟を樹て、人を繩すること過刻に、論を持すること太深く、之を非中行と謂うは則ち可なり、之を非狂狷と謂うは不可なり。且つ天下の議論は、寧ろ仮借すとも、必ず名義を失うべからず。士人の行己は、寧ろ矯激すとも、必ず廉隅を忘るべからず。自ら仮借矯激を以て大咎と為すより、是に於いて彪虎の徒公然と名義に背畔し、廉隅を決裂す。徳を頌えて已まず、必ず将に進を勧めん。祠を建てて已まず、必ず且つ嵩を呼ばん。而るに人猶お且つ之を寬して曰く、「奈何す可からず、然らざるを得ず耳」と。此の奈何す可からず、然らざるを得ざるの心を充せば、又将に何くにか至らざらんや。乃ち議者は忠厚の心を以て曲く此の輩を原し、而して独り已甚の論を持して吾が徒を苛責す。所謂る舛なり。今大獄の後、湯火僅かに存す。屡々明綸を奉じ、之をして酌用せしむ。而るに当事者猶お道学封疆を以て、持して鉄案と為す。亦た深く其の報復を防ぐこと毋からんや。然れども臣以為く過ちたりと。年来東林を借りて崔・魏に媚びる者は、其人自ら敗る。何ぞ東林の報復を待たん。若し崔・魏に附せず、又能く之を攻め去らば、其人已に喬嶽たり。百の東林と雖も烏んぞ能く報復せんや。臣又た伏して聖旨を読むに、「韓爌清忠有執、朕の鑒知する所なり」との諭有り。而るに近く廷臣の議を聞くに、殊に異同有り。大怪と為す可し。爌の相業光偉、他の具論せず、即ち紅丸の議起るが如き、挙国沸然たり。爌独り侃侃として条掲し、其の然らざるを明らかにす。夫れ孫慎行は君子なり。爌且つ附せず、況んや他人をや。而るに今推轂及ばず、点灼横に加わる。則ち徒に其の票擬熊廷弼一事を以てするのみ。廷弼固に誅すべし。爌説無きに非ず。封疆の事を失い、累累として徒有り。乃ち独り一廷弼を殺さんと欲す。豈に平論ならんや。此れ爌の閣筆する所以なり。然れども廷弼究むるに封疆に死せずして局面に死し、法吏に死せずして奸珰に死す。則ち又た後の人能く廷弼を殺すと謂うべからず。而して爌独り能く之を殺さずと謂うべからざるなり。又た詞臣文震孟の如きは正学勁骨、古大臣の品有り。三月官に居り、昌言して罪を獲る。人方之を羅倫・舒芬に比す。而るに今起用の旨再び下る。謬悠の譚已まず。将毋や門戸の二字重ねて提うべからざるか。更端を用いて以て相い遮抑せんとするか。書院・生祠は相い勝負する者なり。生祠毀つ。書院豈に修復すべからざらんや。
当時、国政を執る者は皆、忠賢の遺党であり、上疏が入ると、論奏が不適当であるとして責めた。そこで維垣は再び上疏して元璐を駁した。元璐は再び上疏して言う。
臣の前の上疏は、もともと維垣のために発したものである。陛下の明旨には『門戸を分けることは、すでに治世の兆しではない』と言い、『異を化して同となす』と言い、『天下を公となす』と言われた。しかし維垣は孫党・趙党・熊党・鄒党という説を唱えている。これは陛下が方隅を化していないわけではなく、維垣が実は化していないのである。陛下が正気を伸ばしていないわけではなく、維垣が伸ばそうとしないのである。
維垣は、臣が東林を盛んに称賛するのを怪しみ、東林がかつて李三才を推挙し、熊廷弼を庇護したからだという。しかし、東林には魏忠賢を力強く撃った楊漣がおり、崔呈秀を最初に弾劾した高攀龍がいることを知らないのか。忠賢は窮凶極悪であったが、維垣はなおも『廠臣公』『廠臣は金を愛せず』『廠臣は国と民のために知る』と尊称した。それならば、どうして三才を責めるのか。五彪・五虎の罪について、刑官が僅かに削奪を擬しただけで、維垣は駁正せず、それならばどうして廷弼を誅するのか。維垣はまた、臣が韓爌を盛んに称賛するのを怪しむ。爌が明らかに璫(宦官)に逆らった大節を捨てて、利を貪るという根拠のない事を加えるのは、すでに公平を失っている。廷弼が賄賂を行ったという説は、忠賢が清流を誣陷するために借りたものであり、楊漣・左光斗らに追贓させるための口実に過ぎない。天下に誰が知らないことがあろうか。維垣はなおもこの説を守るのか。維垣はまた、臣が文震孟を盛んに称賛するのを怪しむ。震孟は璫に逆らって削奪され、その破帽をかぶり、驢馬に乗って蟒玉を着け駅伝を馳せる者を傲った言葉は、どうして非とできようか。維垣は数年来の破帽をかぶり驢馬に乗る輩と、階級を超えて昇進した連中とを比べてみよ。どちらが栄辱か。この道理が明らかでないから、破帽をかぶり驢馬に乗ることを恐れる者が相次いで徳を頌え祠を建て、蟒玉を着け駅伝を馳せることを望む者が父と呼び、九千歳と呼んでも恥じない。嘆かわしいことではないか。維垣はまた、臣が鄒元標を盛んに称賛するのを怪しむ。都門で講学を集めることが非であると言うのはよいが、元標の講学に別の意図があると言うのはよくない。当時、忠賢が諸人を追放し、書院を廃毀したのは、まさに学士・大夫の口を封じ、不義をほしいままに行おうとしたからである。元標が偽学として追放されて以来、逆璫は自ら真儒を任じ、学宮の内で、あたかも先聖と対等に揖するようになった。もし元標らがいたならば、どうしてここまでなっただろうか。維垣はまた、臣が仮借して矯激であると駁す。崔呈秀・魏忠賢の時代には、人々は皆、真率な性に任せて、徳を頌え祠を建てた。もし一人でも仮借して矯激であり、頌えず建てない者がいたならば、その人に頼ることはできなかっただろうか。維垣は真の小人は、その悪が満ちれば攻め去ることができると考えているが、臣はそれは良策ではないと思う。必ずその悪が満ちるのを待つならば、その天下を敗壊することはすでに言い尽くせず、攻め去っても、すでに遅くはないか。崔呈秀・魏忠賢のように、悪は久しく満ちていたが、聖明に遇わなければ、誰が攻め去ることができただろうか。維垣は結局、どうしようもなかったことをもって、徳を頌え祠を建てる者の弁解とするが、臣はそれは教訓ではないと思う。仮に呈秀一人が逆璫に舞蹈して臣と称したとして、諸臣もどうしようもなかったとして従っただろうか。また、逆璫が兵をもって諸臣を脅して叛逆に従わせたとして、諸臣も靡然として従い、どうしようもなかったとしてそうしただろうか。維垣はまた『今日の忠直は、崔・魏を対案とすべきではない』と言うが、臣はまさに崔・魏を対案とすべきだと思う。人の品は崔・魏によって試されて定まる。だから、東林の人で、崔・魏がその抵触を恨み、その才望を畏れて必ず殺し追放しようとした者、これが正人である。東林を攻撃する人で、崔・魏に利用されながらも、勁節で阿らず、遠ざけられたり追放されたりした者、これも正人である。崔・魏によって邪正を定めるのは、明鏡によって美醜を別けるようなものである。維垣はここに証拠を取らずして、どこに証拠を取るというのか。
要するに、東林は逆璫に憎まれることが特に深く、その禍を受けることが特に酷かった。今日においては、その抑圧された苦しみを曲げて理解すべきであり、その些細な欠点を細かく挙げるべきではない。逆璫に首功を帰し、逆璫に代わって謗りを分かつとは、これもまた論を立てるのが上手くない者である。
上疏が入ると、国政を執る者は互いに誹謗し合っているとして両方を和解させた。この時、元凶は誅殺されたが、その徒党はなおも盛んで、東林を公然と称える者はいなかった。元璐の上疏が出てから、清議が次第に明らかになり、善類も少しずつ登用されるようになった。
元璐はまもなく侍講に進んだ。その年の四月、『三朝要典』を毀つことを請い、言う。『梃撃・紅丸・移宮の三議は、清流の間で喧噪し、『三朝要典』一書は、逆豎(魏忠賢)によって成った。その議は併行して行われうるが、その書は必ず速やかに毀つべきである。そもそも事件が起こり議論が興ると、朝廷は互いに訟えた。梃撃を主張する者は東宮を力強く護り、梃撃に争う者は神祖(万暦帝)を安んじようと計った。紅丸を主張する者は仗義の言であり、紅丸に争う者は原情の論である。移宮を主張する者は変を未然に防ぎ、移宮に争う者は事後に公平を保った。これら数者はそれぞれに是があり、偏って非とすることはできない。総じて逆璫が用いられる前は、水火のようであっても塤篪の和を害さず、これが一つの局面である。やがて楊漣の二十四罪の上疏が発せられ、魏広微の輩の門戸の説が興ると、逆璫は人を殺すのに三案を借り、群小は富貴を求めるのに三案を借りた。この二つの借用を経て、三案は全く非となった。だから、凡そ慈孝を先皇に帰し、その徳を頌え功を称えることを義父(魏忠賢)に対して正すのは、また一つの局面である。網はすでに密であるのになお鱗が漏れているのではないかと疑い、勢いはすでに重いのに局面が覆されるのではないかと憂える。崔呈秀・魏忠賢ら諸奸は初めて私編を創立し、『要典』と標題して、今日を根拠に批判すれば、衆正の党碑となり、他年に免死するためには、すなわち上公(魏忠賢)の鉄券となる。また一つの局面である。これによって観れば、三案は天下の公議であり、『要典』は魏氏の私書である。三案は三案であり、『要典』は『要典』である。今、金石に刻んで改めない論とする者は、誠に深く考えていない。臣は、覆すことは紛囂を招き、改めることも多事であるが、ただ毀つだけだと思う。』帝は礼部に命じて詞臣と詳しく議させた。議が上ると、その板を焼いた。侍講の孫之獬は忠賢の党であったが、これを聞いて閣に赴いて大哭し、天下はこれを笑った。
元璐は歴任して南京司業・右中允となった。四年、右諭徳に進み、日講官を充て、右庶子に進んだ。制実八策を上奏した。間插部、京邑を繕うこと、守兵を優遇すること、降人を靖めること、寇餉を益すこと、辺才を儲けること、輦轂を奠めること、教育を厳かにすることである。また制虚八策を上奏した。政本を端にする、公議を伸ばす、義問を宣べる、一条教、久遠を慮る、激勧を昭かにする、名節を励ます、体貌を仮すことである。その政本を端にするは、すべて温体仁を規切し、その公議を伸ばすは、張捷が呂純如を推薦して逆案を覆そうと謀った事を詆った。捷は大いに怒り、上疏して力強く攻撃し、元璐は上疏して弁明したが、帝はともに問わなかった。八年、国子祭酒に遷った。
元璐は平素より時望を負い、位は次第に通顕となった。帝の意向は彼に向かい、深く体仁に忌まれた。ある日、帝は手書でその名を閣に下し、履歴を進めるよう命じたので、体仁はますます恐れた。ちょうど誠意伯劉孔昭が戎政を掌ろうと謀り、体仁は孔昭を餌にして元璐を攻撃させ、その妻陳氏がなお存命であるのに、妾の王氏が継配を冒して再び封を受けたのは、礼を敗り法を乱すものだと言った。詔が下って吏部に核奏させると、その同里の尚書姜逢元、侍郎王業浩・劉宗周およびその従兄の御史元珙は、皆、陳氏は過失によって出され、継いで娶った王氏は妾ではないと言い、体仁の意は沮んだ。ちょうど部議が撫按に勘奏を行うことになり、すぐに旨を擬して『登科録に二氏が並列している。罪跡は明らかであり、どうして行勘を待つ必要があろうか』と言い、ついに落職して閑住させた。孔昭は京営を得ることができず、ついに南京操江で償った。
十五年九月、詔して兵部右侍郎兼侍読学士を起用す。明年春、都に至り、敵を制する機宜を陳べ、帝喜ぶ。五月、超えて戸部尚書兼翰林院学士を拝し、仍日講官を充てる。祖制に、浙人は戸部に官すべからず。元璐辞すも、許さず。帝元璐を眷顧すること甚だしく、五日に三たび対す。因りて奏す、「陛下誠に臣を用い給わば、臣請う兵部の謀に参ずるを得ん」と。帝曰く、「已に枢臣に諭し、卿と協計せしむ」と。是の時に当たり、馮元飆兵部に在り、元璐と志を同じくし、兵食を鉤考し、中外治平を想望す。惟だ帝も亦た両人を用いること遅かりしを以てし、而して時事益ます為すべからざるに至り、左支右詘し、既に已むを得ざるに至れり。故事に、諸辺の餉司は悉く中差たり、元璐請う大差に改め、兵部の銜を兼ね、軍伍を清核せしめ、職に称わざる者は即ち人を遣わして之に代えしむ。是に先立ち、屡科臣を遣わし四方の租賦を出督せしむ、元璐以て民を擾し益無しと為し、之を罷め、而して専ら撫按に責む。戸部侍郎庄祖誨寇餉を督剿し、盗に劫わるるを憂え、遠く長沙・衡州に避く。元璐請う督撫自ら催すを令し、朝使を煩わす毋からしむ。軍興以来、正供の外に、辺餉有り、新餉有り、練餉有り、款目多く、黠吏奸を為し易く、元璐請う一に合するを。帝皆報可す。時に国用益ます詘し、而して災傷蠲免又多し。元璐計る所無く、贖罪の例を開くを請い、且つ官に到り歳満つる者、貲を輸して封誥を給うるを得しむ。帝も亦た之に従う。
是に先立ち、崇明の人沈廷揚有り、海運の策を献ず、元璐奏聞す。命じて試行せしむ、乃ち廟湾の船六艘を以て運進を聴かしむ。月余りして、廷揚元璐に見ゆ、元璐驚きて曰く、「我已に上に奏聞し、公去れりと謂えり、何ぞ此に在る」と。廷揚曰く、「已に去りて復た来れり、運已に至れり」と。元璐又た驚喜して上に聞かしむ。上も亦た喜び、酌議を命ず。乃ち議す、歳の糧艘、漕と海と各々半ばを行かしむと。十月、吏部の事を兼ね摂るを命ず。陳演元璐を忌み、魏藻徳に風し帝に言わしむ、「元璐書生、銭穀に習わず」と。元璐も亦た数たび職を解くを請う。
十七年二月、原官を以て専ら日講に直るを命ず。月を踰え、李自成京師を陥す、元璐衣冠を整え闕を拝し、机上に大書して曰く、「南都尚ば為すべし。死は吾が分なり、衣衾を以て斂る勿れ。我が屍を暴し、聊か吾が痛みを誌せ」と。遂に南に向かいて坐し、帛を取って自縊して死す。少保、吏部尚書を贈り、文正と謚す。本朝文正の謚を賜う。
四十一年、福王の藩すべき期已に有り、忽ち旨を伝え庄田務めて四万頃を足すべしと。廷臣相顧みて愕眙し、田数必ず足らざるを計り、則ち期将に復た更らんとす、然れども敢えて抗言争う者無し。邦華首めて疏を以て諫め、廷臣乃ち相継ぎ争い、期得て易えられず。銀庫を巡視し、弊を祛く十事を上る、中貴便せず、格して行わず。浙江を巡按し、織造中官劉成死す、命じて其の事を有司に帰し、別に中官呂貴を遣わし成の遺貲を録せしむ。貴〓族の奸民紀光機戸と詭称し、闕に詣り貴を保留し成に代わり督造せしむ。邦華極めて二人の交関し奸を為す罪を論ず。光の疏は通政を由らず、内閣に下さず、中旨を以て之を行わしむ。邦華三たび疏を以て争うも、皆報ぜず。是の時神宗貨を好み、中官進奉する所有り、名けて孝順と為す。疏中に之を刺し、並びに左右の大奄の党で貴き者を劾す、是に於いて期満ちて久しく代わるを得ず。
京営故に占役・虚冒の弊有り。占役とは、其の人諸将に役せられ、一小営に至るまで四五百人に及び、且つ売閑・包操諸弊有り。虚冒とは、其の人無く、諸将及び勲戚・奄寺・豪強蒼頭を以て選鋒壮丁に冒し、月厚餉を支う。邦華占役一万を核還し、虚冒一千を清む。三大営軍十余万、半ば老弱。故事に、軍缺は告補を聴き、率ね賄に由り得たり。邦華必ず親しく校し、年壮力強からざれば録せず、是より軍冒濫鮮し。三営選鋒一万、壮丁七千、餉他軍に倍し、而して疲弱異ならず。邦華下令し、毎把総兵五百、月自ら五人を簡し、年必ず二十五以下、力必ず二百五十斤以上、技必ず弓矢火砲を兼ね、月一たび解送し、選鋒壮丁の缺を補わしむ、是より人人奮うを思う。三大営六副将を領し、又三十六営に分ち、官三百六十七人を以て計い、用うる所の掾史皆積猾たり。邦華罪に按ずる者十余り、又一歳二考察の令を行い、是より諸奸戢まる。
営馬の定数は二万六千頭であったが、今では一万五千頭に止まる。他の役人が公務で借りて騎乗し、総督・協理及び巡視科道には、例として坐班馬があり、不届きな者はさらに馬を売って金に換え、営馬は大いに消耗した。邦華はまず自らの班馬を三分の一減らし、他の役人が馬を借りるには、公事でなければ騎乗を許さず、これより濫借は稀となった。
京営は毎年太僕寺から銀一万六千両、屯田の種子代銀千六十両を受け取り、軍を犒労し武器を造り、役人の食料もこれから支給した。各役人が無制限に取り立てるため、歳費は不足していた。邦華は建議し、まず協理が毎年千四百両を取るのを定め、総督・巡視は順次減額し、これより営の財庫は豊かとなった。
営の将官は三百六十人、任用を待つ者も同数であった。一官が欠けると、請託が紛至した。邦華はこれを全て絶ち、計日省成の法を行った。各小営ごとに帳簿を置き、毎月の事績を協理に上申して、優劣を定めた。旧制では、三大営の外にさらに三つの備兵営を設け、各営三千人、餉は正軍と同額であったが、武芸を習わず、かえって豪家に隠れて不正に雇われる者となった。邦華は四千余人を削除し、さらに老弱千余人を淘汰し、上疏して三大営に併合し別に設けないよう請い、これにより戎政は大いに整った。
倉場総督の南居益が言うには、「京営が毎年支給する米は百六十六万四千余石で、万暦四十六年に比べて五万七千余石増えている。減省すべきである。」邦華はこれにより、軍は十二万を定員とし、餉は百四十四万石を定額とし、毎年二十二万余を節減することを議上した。帝もこれを認め、令として定めた。帝は邦華の忠誠を知り、奏上は従わないことがなかった。邦華もまた帝の知遇に感じ、後患を顧みなかった。諸々の利益を失った者は骨髄に恨み、怨みと誹謗が紛然とした。
その年十月、畿輔が兵乱に遭い、精兵三千を選んで通州を守らせ、二千を薊州に援軍とし、自らは諸軍を率いて城外に営し、軍容は甚だ壮であった。やがて邦華の軍を撤収させて城壁を守らせる命があり、これにより偵察者は遠出できず、消息は遂に絶えた。そこで賊寇を防ぎ、間諜を捕え、奸宄を散じ、訛言を禁ずることを請うた。邦華は警報を聞いてより、衣を解かず帯を外さず、私財を投じて砲車及び諸火器を造り、また外城が薄弱なため、自ら出て守ることを請うた。しかし諸々の不逞の徒は、流言をでっち上げて大内に入れた。襄城伯李守錡は京営を督し、また邦華が己を抑えたことを恨み、隙に乗じて誹謗した。邦華は自ら危うく思い、上疏して心情を陳べ、命運を帝に帰した。ちょうど満桂の兵が大清兵を徳勝門外で防ぎ、城上から大砲を発して桂を助けたが、誤って桂の兵を多く傷つけた。都察院都事の張道澤が遂に邦華を弾劾し、言官が相次いで上奏して論じたため、邦華を罷免して閑住させた。これより代わりの者はこれを戒め、概ね因循姑息となり、戎政は問うに及ばなくなった。邦華は前後して罷免され、家に居ること二十年。父の廷諫は無事であった。
十五年冬、元の官に起用され、南京都察院事を掌り、まもなく劉宗周に代わって左都御史となった。都城が兵乱に遭うと、即日に東南の援兵を督して入衛することを請い、病を押して出発した。明年三月、九江に着いた。左良玉の潰兵数十万が、餉が乏しいと称し、財貨を南京に預けようとし、軍船が江を蔽って東下した。留都の士民は一夕に数度も転居し、文武の大吏は顔を見合わせて驚いた。邦華は嘆いて言う、「中原の安静な土地は、東南の一角のみである。身を大臣として、どうして決裂を坐視し、手を袖にして局外に去ることができようか。」そこで舟を停めて檄文を草し良玉に告げ、大義を以て責めた。良玉は気勢を挫かれ、返書の言葉は頗る恭しかった。邦華は便宜を以て九江の庫銀十五万を発してこれを犒い、自らその軍中に入り、誠意を以て慰労した。良玉とその部下は皆感激し、賊を殺して国に報いると誓い、一軍は遂に安定した。帝はこれを聞き、大いに喜び、陛見して嘉労した。邦華は跪いて奏上することしばらく、数度詔して立ち上がらせ、温かい言葉は家人の如く、宦官は息を潜めて遠くに伏した。その後百官を召して対する時、帝は常に邦華に目を注いだという。旧例では、御史が巡察に出て、戻ってから考核した。邦華は、戻ってから罷免するのでは、害政が既に多いと言う。巡按御史・巡塩御史各一人を論じて罷免させた。御史を試験することを命じられ、濫りに冒した者一人を罷免し、顕著な過失はないが先任の推官として貪婪の名声があった御史一人を追って罷免した。台中の者は初めて法を畏れた。
十七年二月、李自成が山西を陥落させた。邦華は密疏を上して帝が京師を固守し、永楽朝の故事に倣い、太子に南都で監国させるよう請うた。数日経っても命が下らず、また定王・永二王を太平・寧国二府に分封し、両京を拱護させるよう請うた。帝は上疏を得て心動き、殿を巡り歩き、読みながら嘆き、その言を行おうとした。ちょうど帝が群臣を召して対する時、中允の李明睿が南遷が便利であると上疏し、給事中の光時亨が率先して言って機密を漏らしたと糾弾した。帝は言う、「国君は社稷のために死ぬのが正しい。朕の志は定まった。」遂に邦華の策を議することなく罷めた。間もなく、賊が都城に迫り、急ぎ内閣に赴いて事を言った。魏藻德は漫然と応えて言う、「暫く待たれよ。」邦華は太息して出た。やがて、諸御史を率いて城に登ろうとしたが、群奄に拒まれて上れなかった。十八日、外城が陥落し、文信国祠に宿った。明日、内城もまた陥落し、そこで三度信国に揖して言う、「邦華は国難に死し、先生に従って九原に赴かんことを請う。」詩を作って曰く、「堂堂たる丈夫兮 聖賢を徒とし、忠孝の大節兮 誓って死すとも渝らず、危きに臨みて命を授くる兮 吾れ吾に愧じず。」遂に縄を投じて絶命した。太保・吏部尚書を贈られ、諡して忠文といった。本朝は諡して忠肅を賜うた。
崇禎四年、獄中の大学士錢龍錫を釈放するよう請い、龍錫は死罪を減じられた。按月奏報の例を四方に推行するよう請い、獄囚が長く滞留することがなくなった。閩海の盗賊劉香が郡邑を擾し、撫鎮が追剿したが多くは失利し、朝議では召募を行い、大挙しようとした。家彦は言う、「旧制では、衛所の軍は官から給与を受け、別の兵も別の将もなく、各衛の指揮に統べられた。寨には号船を設け、連絡呼応し、また遊撃等の官を添設し、支洋窮港に至るまで、戈船が相望んだ。臣の愚見では、今日海防を策するには、旧制を復し、訓練を勤めるに如くはない。訓練すれば衛所の軍は皆精兵となり、訓練しなければたとえ召募兵を添設しても、市人を駆り立てて戦わせるようなもので、餉を浪費し民を擾し益なく、賊は終に尽くせない。」時に名言とされた。青州巡視を命じられ、条奏した多くは議行された。
先に、隆慶年間に太僕寺の種馬の定数は十二万五千頭を存し、辺境の馬は二十六万頭に至った。言論者は民間が最も苦しむのは馬の飼育であり、納める馬も用に足りないとして、馬一頭につき銀十両を徴収し、草料銀二両を加え、毎年銀百四十四万両を得ることを議した。中樞の楊博はこれを認めず、詔してその半額に折納させ、ここに馬政は初めて変わった。万暦九年に全てを改折(銀納)に改めることを議し、南寺は毎年銀二十二万両を徴収し、北寺は五十一万両を徴収し、銀は冏寺に入り馬政は日に日に弛緩した。家彦はその弊害を極めて陳述し、国初の種馬の制及び西番茶馬の制に改めることを請うた。また、班軍の旧額は十六万であったが、後に七万に減じ、この時には二万有余に過ぎず、さらに行糧・月糧を全て徴収し、その番上を免じることを建議する者もあった。家彦は当時京営を巡視し、その不可を力陳し、かつその工役を免じて全て行伍に帰すことを請うた。帝は皆その言を褒めて採用した。遵化の鉄冶は久しく廃れており、奸民がその再開を請うたが、家彦は害あって利なしと述べた。また開化の雲霧山を開いて屯田を興すことを請うた者もあり、これも家彦の言によって止んだ。
累遷して戸科都給事中となった。軍興により兵糧が不足し、総督の盧象升に因糧加餉の議があり、戸部尚書の侯恂は寇に侵されていない地において、士大夫の家で賦銀を納める者には二銭を加え、民間で五両以上納める者には一両につき一銭を加えることを請うた。家彦は言う、「民賦五両以上の者は、おおよそ百十軒の家で一戸を成し、富民ではない。これを削ってはならない」と。軍糧が不足したため、畿輔・山東・河南・江北で米豆を召し買い天津に輸送したが、九十余万石に至り、吏胥が侵食・消耗する率は数十万に及んだ。家彦は厳しくこれを治めることを請い、帝は併せて採用した。憂いにより帰郷した。
十五年、太僕卿に遷った。家彦は以前に馬政について言上したが、帝は兵部に檄を下して陝西の督撫に命じたが、行うことができなかった。この時、四度上疏して馬が消耗する原因を述べ、官牧及び金牌差発の遺制を行なうことを請うた。かつ言う、「課馬の改折は、旧に二十四万両に増加し、既に重く困窮させている。楊嗣昌は民を恤れず、さらに三十七万両を増加し、旧額がかえって滞納するに至った。これを厘正せざるべからず」と。帝はその上疏を手にし、執政に語って言う、「家彦の奏は皆善である」と。議して行なうよう勅した。しかし軍興がまさに急であり、全てを行うことはできなかった。
まもなく、戸部右侍郎に抜擢された。都城が兵に囲まれ、戎政を協理することを命じられた。即日に城壁に登り、内外城十六門を閲視した。雪の夜、一つの灯を携え、歩いて城堞を巡り、知る者はいなかった。翌日、勤惰を校すると、将士は皆服し、争って自ら励んだ。初めは阜成門を分守したが、後に安定門に移り、城楼に寝起きすること半年であった。戒厳が解け、午門で宴を賜り、秩一等を増された。
十七年二月、廷推で戸部尚書に推された。帝は言う、「戎政は家彦でなければならない」と。特に留任させた。賊が京師に迫り、襄城伯の李国禎が京営を督し、また中官の王德化に内外の軍を全て督することを命じた。国禎は三大営の軍を城外に出し、城壁を守る者はますます少なくなった。諸軍は城外に出ると、賊を見ればすぐに降り、降った兵卒は逆に城を攻め、城上の者は皆その同類であり、ますます固守する意志がなかった。廷臣は門を分けて守り、家彦は安定門を守った。号令の進止は中官によるもので、諸臣が城に登るのを阻み、また叛監の杜勛を縋り上げ、密約して去らせた。帝は手勅を以て兵部尚書の張縉彦に城に登り視察することを命じ、家彦が従ったが、中官はなお固く拒み、手勅を示し、勛はどこにいるかと問うと、「去りました」と言った。秦・晋の二王が城に上ろうとしたが、家彦は言う、「二王が賊に降れば、即ち賊である。賊がどうして上れようか!」と。地を踏み鳴らして泣いた。縉彦とともに宮門に詣でて謁見を請うたが、入ることができなかった。黎明、城は陥落し、家彦は城下に身を投げたが死なず、民家で首を吊り、賊に焼かれて一臂を失い、僕がその残った体を収めた。太子太保・兵部尚書を贈られ、諡して忠端といった。本朝は諡して忠毅を賜った。
崇禎初年、吏部稽勛主事に遷り、文選員外郎を歴任した。門生が謁選して善地を請うたが、兆祥は正色でこれを拒み、その人は恐れて退いた。稽勛郎中に進み、考功を歴任した。権要に逆らい、行人司副に貶され、やがて光祿丞に遷り、少卿に進んだ。左通政・太僕卿を歴任し、まもなく通政使に進み、刑部右侍郎に拝された。
賊が都城に迫り、兆祥は正陽門を分守した。襄城伯の李国禎が京営軍を統率したが、月餉を検閲して与えず、兵士に固守の意志がなかった。城が陥落し、兆祥は言う、「社稷は既に覆った。我はどこに行こうか!」と。門の下で首を吊った。
長子の章明、字は綱宜、進士に成ったばかりであったが、兆祥はこれを揮って言う、「我が死んだら、汝は去れ」と。答えて言う、「君父の大節である。君亡び父死す。我どうして生きることをなそうか!」と。乃ち父の側で首を吊った。兆祥の妻の呂、章明の妻の王は相向かって泣き、やがて言う、「彼ら父子は忠に死した。我ら二人だけが死ねないことがあろうか!」と。皆首を吊った。兆祥には刑部尚書を贈り、諡して忠貞といい、章明には河南道御史を贈り、諡して節湣といった。本朝は兆祥に諡して忠靖を賜り、章明に貞孝を賜った。
施邦曜、字は爾韜、余姚の人である。万暦四十一年の進士。吏となることを好まず、順天武学教授に改められ、国子博士・工部営繕主事を歴任し、員外郎に進んだ。魏忠賢が三殿の工事を興すと、諸曹郎はその門に奔走したが、邦曜は行かなかった。忠賢は彼を困らせようと、北堂を解体することを命じ、期限を五日としたが、丁度大風が屋を抜き、叱責を免れた。また獣吻を作らせようとしたが、嘉靖年間の制を模倣するも、考証するものがなかった。夢に神が告げ、地を発って吻を得ると、嘉靖の旧物であり、忠賢は難くすることができなかった。
屯田郎中に遷り、やがて漳州知府に遷った。属県の奸盗の主たる者の名を全て知り、発する毎に必ず捕え、郡中は驚いて神のようだと言った。盗賊の劉香・李魁奇が海上で横行したが、邦曜は香の母を拘束して誘い、香は生け捕られた。魁奇は鄭芝龍の故事を援いて帰順を請うたが、邦曜は巡撫の鄒維璉に言って討ち平らげた。福建副使・左参政・四川按察使・福建左布政使に遷り、いずれも名声があった。
ある時、朱墨の竹を贈る者がおり、姉の子が傍らでこれを受けるよう請うた。言う、「不可である。我がこれを受ければ、即ち彼は隙に乗じて我を試みることを得る。我は則ち彼に欲し得る門を示すことになる」と。性、山水を好んだ。ある者が峨嵋に遊ぶことを勧めたが、言う、「上官が遊覧すれば、動もすれば属吏に支応を煩わせ、小民の幾許かの物力を傷つける」と。その己を潔くし民を愛する様はこのようであった。
両京の光禄寺卿を歴任し、通政使に改めた。黄道周が既に官を謫せられた後、再び詔獄に下された。国子生の塗仲吉が上書してこれを訟うたが、邦曜は封を進めず、その副封に大書して曰く、「書は必ずしも上せずとも、論は存せざるべからず」と。仲吉は邦曜を弾劾し、邦曜は副封を上った。帝はその署語を見て怒り、仲吉を獄に下し、邦曜の官を奪った。一年余りして南京通政使に起用された。都に入り陛見し、学術・吏治・用兵・財賦の四事を陳べると、帝は顔色を改めてこれを容れた。都を出て三日後、中使を命じて召還し、「南京には事無し、留まって朕のために効力せよ」と言った。吏部が刑部右侍郎に推挙した。帝は「邦曜は清く執れる者なり、左副都御史とすべし」と言った。時に崇禎十六年十二月であった。
翌年、賊が近郊に迫った。邦曜は兵部尚書張縉彦に天下の兵を勧めて王を勤めるよう檄を飛ばすよう言ったが、縉彦は怠慢で省みず、邦曜は太息して去った。城が陥落すると、長安門に趨り、帝の崩御を聞き、慟哭して曰く、「君は社稷に殉ぜり、臣子としてどうして生きながらえようか」と。即ち帯を解いて自縊した。僕が救って蘇生させると、恨んで曰く、「この児が我を誤らせた」と。賊が衢巷に満ち、邸舎に戻れず、門を望んで縊死を求めたが、常に居民に阻まれた。そこで家人に命じて信石を買わせ、酒に混ぜて飲ませ、即ち途中でこれを服し、血が迸り裂けて卒した。
邦曜は若くして王守仁の学を好み、理学・文章・経済の三分してその書を読み、義を慕うこと窮まり無かった。魯時生という者は、郷里の同年の生まれで、庶吉士の官にあり、京師で歿した。邦曜は自ら含斂を整え、娘をその子に娶せた。嘗て一人の婢を買い、洒掃を命じたところ、東隅に至り、箒を捧げて凝視して泣いた。怪しんで問うと、曰く、「ここは先人の御史の宅なり。時に環が此の地に堕ち、覚えず淒愴たるのみ」と。邦曜は即ち嫁がせる娘の資財を分け、士人を選んでこれを帰した。その内行に篤きこと此の如し。太子少保・左都御史を贈られ、諡して忠介といった。本朝は諡して忠湣を賜った。
三たび遷って兵科都給事中となった。東江は毛文龍の後、叛く者踵を接した。義渠は言う、「東島孤懸海外に在り、餉を転ずること艱しく、向より朝鮮に仰ぎ給す。今路阻絶して食を得ず、内潰慮るべし」と。居ること無く、衆果たして潰え、帥を挟んで撫を求めた。義渠は言う、「陽に撫し陰に剿すを請う、同悪必ず相い戕らん」と。及び新帥を命じて海に出づるに及び、義渠は言う、「渠を殲し党を散ずるは速かなるべし、速なれば則ち功を図るべく、遅れば則ち更に他の釁を生ず」と。後にその語皆験した。
義渠は諫垣に居ること九年、建白多し。吏科給事中劉安行これを悪み、年例を以て義渠を出して福建参政とした。尋いで按察使に遷り、山東右布政使に転じ、至る所清操有り。召されて南京光禄寺卿に拝され、応天尹の事を署した。
十六年、入って大理卿となった。明年三月、賊が都城を犯し、旨有りて召対す。長安門に趨り赴くも、旦に扉を啓かず。俄かに城陥つと伝わり、還る。已にして帝の崩問を得た。墻に倚り哀号し、首を柱に触れ、血面を被う。門生死なざるを勧むると、義渠厲声して曰く、「爾は道義を以て相勖むべし、何ぞ姑息を為さんや」と。揮って去らしむ。机に据わり端坐し、平生の好む所の書籍を尽く取りてこれを焚き、曰く、「賊の手をして汚さしむる無からん」と。旦日に緋衣を具えて闕を拝し、書を作りて父に辞す。已にして自ら系し、身を奮い吭を絶ちて死す。年五十二。刑部尚書を贈られ、諡して忠清といった。本朝は諡して忠介を賜った。
賛して曰く、範景文・倪元璐等は皆荘烈帝の腹心の大臣、共に社稷を図る所の者、国亡ぶるに与に亡ぶるは、正なり。当時顔を壎して節を屈し、僥倖を以て生を偷むる者は、多く刑掠を被りて死し、身名俱に裂け、詬を貽すこと窮まり無し。而して景文等は義烈を千秋に樹て、褒揚を興代に荷い、名は日月と光を争う。彼を以て此に潔くする、その相去ること得失如何なるや。