明史

列傳第一百五十二 賀逢聖 南居益 周士樸 呂維祺 王家禎 焦源溥 李夢辰 宋師襄 麻僖 王道純 田時震

列傳第一百五十二 賀逢聖 南居益 周士樸 呂維祺 王家禎 焦源溥 李夢辰 宋師襄 麻僖 王道純 田時震

原文列傳第一百五十二 賀逢聖 南居益 周士樸 呂維祺 王家禎 焦源溥 李夢辰 宋師襄 麻僖 王道純 田時震

○賀逢聖(傅冠尹如翁)南居益(族父企仲族弟居業)周士樸呂維祺(弟維祮)王家禎焦源溥(兄源清)李夢辰宋師襄麻僖王道純田時震(朱崇德崇德子國棟)

原文○賀逢聖(傅冠尹如翁)南居益(族父企仲族弟居業)周士樸呂維祺(弟維祮)王家禎焦源溥(兄源清)李夢辰宋師襄麻僖王道純田時震(朱崇德崇德子國棟)

賀逢聖は、字あざなを克繇といい、江夏の人である。熊廷弼と年少の頃同じ里に住んだが、仲は良くなかった。諸生であった時、ともに督学熊尚文に知遇を得た。尚文は二人の生を並びに奇とし、「熊生は幹将・莫邪のごときものであり、賀生は夏瑚・商璉のごときものである」と言った。郷試に合格した。家は貧しく、応城の教諭に就いた。万暦四十四年、殿試で第二人となり、翰林院編修に任じられた。

原文賀逢聖,字克繇,江夏人。與熊廷弼少同里闬,而不相能。為諸生,同受知於督學熊尚文。尚文並奇二生,曰:「熊生,幹將、莫邪也;賀生,夏瑚、商璉也。」舉於鄉。家貧,就應城教諭。萬歷四十四年,殿試第二人,授翰林編修。

天啓年間、洗馬となった。この時、廷弼はすでに再び起用されて遼東経略となっていた。広寧の敗戦の際、同郷の官人が熊廷弼の冤罪を訴える上奏文を起草しようとしたが、逢聖がこれを阻むのではないかと心配した。逢聖は顔色を変えて言った、「これは国家の大事である。どうして私的なわだかまりを気にかけ、明らかにしないことがあろうか」と。すぐに草稿を作って上奏した。湖広に魏忠賢の生祠が建てられた時、忠賢は上梁文が逢聖の手によるものと聞き、大いに喜び、即日に逢聖を訪ねた。逢聖は言った、「誤りです。官職名を借りるのは陋習に過ぎません」。忠賢は不機嫌になって去り、翌日、逢聖の官籍を削除した。

原文天啟間,為洗馬。當是時,廷弼已再起經略遼東矣。廣寧之敗,同鄉官將揭白廷弼之冤,意逢聖且沮之。逢聖作色曰:「此乃國家大事,吾安敢小嫌介介,不以明!」即具草上之。湖廣建魏忠賢生祠,忠賢聞上梁文出逢聖手,大喜,即日詣逢聖。逢聖曰:「誤,借銜陋習耳。」忠賢咈然去。翌日削逢聖籍。

荘烈帝(崇禎帝)が即位すると、官に復し、次々と昇進した。九年六月、礼部尚書兼東閣大学士となり、内閣に入って政務を補佐し、太子太保を加えられ、文淵閣大学士に改めた。十一年に致仕した。十四年に再び内閣に入った。翌年、再び致仕した。

原文莊烈帝即位,復官,連進秩。九年六月,以禮部尚書兼東閣大學士,入閣輔政,加太子太保,改文淵閣。十一年致政。十四年再入閣。明年再致政。

逢聖は人となり清廉で静粛、自らを律し行いを磨いた。帝はやや性急なところがあったが、逢聖は終始これを諫める言葉を発することはなかった。再び周延儒とともに召された時、帝の遇する態度は延儒に及ばなかった。致仕を許された時、便殿で宴を賜り、金と坐蟒の服を賜った。感激して大声で泣き、伏したまま起き上がれず、帝もまた涙ぐんで顔色を動かした。

原文逢聖為人廉靜,束修砥行。帝頗事操切,逢聖終無所匡言。其再與周延儒同召,帝待之不如延儒。及予告,宴餞便殿,賜金,賜坐蟒。感激大哭,伏地不能起,帝亦汍瀾動容焉。

この時、湖広の賊が大いに騒擾していた。翌年春、張献忠が相次いで蘄州・黄州を陥落させ、江夏に迫った。大冶の人尹如翁は、逢聖の門下生で、三百里を走り、僧帽一つと袈裟一つを持って逢聖に贈り届けた。逢聖はその衣を返して言った、「君はただ去れ、私のことを心配するな」。如翁は去った。五月壬戌の晦日、賊は武昌を陥落させ、逢聖を捕らえた。逢聖は叱って言った、「我は朝廷の大臣である。お前たちが無礼を働くことがあろうか」。賊は手を振って去らせたので、遂に墩子湖に身を投じて死んだ。賊が来たのは夏であり、去ったのは秋であったという。大官が湖畔で祭ると、湖の住民に神が夢に現れ、「我は賀相公を守るのに大変苦労している。お前たちが受け取って見よ。その左手に黒子がある。それが証拠だ」と言った。目覚めて怪しみ、湖辺で待っていると、突然屍が浮かび上がり、検証すると果たしてその通りであった。沈んでから百七十日経っていたが、顔は生きているようであった。冬十一月壬子に殯し、大官は涙を揮って葬った。

原文是時,湖廣賊大擾。明年春,張獻忠連陷蘄、黃,逼江夏。有大冶人尹如翁,逢聖門生,走三百里,持一僧帽、一袈裟來貽逢聖。逢聖反其衣曰:「子第去,毋憂我。」如翁去。五月,壬戌晦,賊陷武昌,執逢聖,叱曰:「我朝廷大臣,若曹敢無禮!」賊麾使去,遂投墩子湖死也。賊來自夏,去以秋雲。大吏望衍而祭,有神夢於湖之人,「我守賀相殊苦,汝受而視之,有黑子在其左手,其征是。」覺而異之,俟於湖,赫然而屍出,驗之果是,蓋沈之百有七十日,面如生。以冬十一月壬子殮,大吏揮淚而葬之。

初め、城が陥落した時、逢聖は家族を小舟に乗せて墩子湖に出て、船底を穿ち、皆溺死した。賀氏で死んだ者は、妻の危氏、子の覲明、子の嫁の曾氏・陳氏、孫三人、次男の光明が別の所から来て合流し、合わせて二十余人であった。福王の時、少傅を追贈され、文忠と諡され、祭礼と葬儀を行い、子に蔭官を与えることが定めに従って行われた。

原文初,城之陷也,逢聖載家人以其句鹿出墩子,鑿其氐當,皆溺。賀氏死者,妻危氏,子覲明,子婦曾氏、陳氏,孫三人,次子光明自他所來,凡二十餘人。福王時,贈少傅,謚文忠,祭葬蔭子如制。

如翁は去り、大冶に帰った。大冶城が破られた時、慷慨として死んだのは、如翁であった。

原文如翁去,歸大冶。大冶城破,其慷慨而死者,如翁也。

その後、傅冠がいる。冠は、字を元甫といい、進賢の人である。祖父の炯は、南京刑部尚書であった。天啓二年、冠は進士第二人となり、翰林院編修に任じられた。崇禎十年秋、礼部右侍郎から尚書兼東閣大学士に任じられた。性質は簡易で、皇帝の前から発せられた章奏を、冠は掲帖と思い、筆を取ってその上に判を書いた。誤りと知ると、恐惶して罪を請うたが、帝は即座に帰郷させた。唐王の時、原官のまま江西督師を命じられた。酒を嗜み、ある者がこれを弾劾したため、致仕した。大清が江西を下すと、冠は逃げ隠れ、門人の泰寧の汪亨龍の家に匿われた。亨龍は彼を捕らえて役所に献上し、汀州で殺された。血が地に染み、久しく経ってもなお鮮やかであった。

原文其後有傅冠。冠,字元甫,進賢人。祖炯,南京刑部尚書。天啟二年,冠舉進士第二,授翰林編修。崇禎十年秋,由禮部右侍郎拜尚書兼東閣大學士。性簡易,有章奏發自御前,冠以為揭帖,援筆判其上。既知誤,惶恐引罪,帝即放歸。唐王時,命以原官督師江西。嗜酒,或劾之,乃致仕。大清下江西,冠走匿門人泰寧汪亨龍家。亨龍執而獻之有司,殺之汀州,血漬地,久而猶鮮。

南居益は、字を思受といい、渭南の人である。尚書企仲の族子(同族の子)、師仲の従子おいである。曾祖父の従吉と曾伯祖父の大吉はともに進士であった。二人の子孫は、科挙に合格する者が相継いだ。

原文南居益,字思受,渭南人,尚書企仲族子、師仲從子也。曾祖從吉與曾伯祖大吉皆進士。兩人子姓,科第相繼。

企仲は、大吉の孫で、万暦八年の進士である。祖母が高齢であったため、終養を請うた。祖母が没した後、刑部主事に任じられた。客が資産を彼の家に預け、夫婦ともに没したので、企仲はその子を呼び返して返還した。吏部尚書孫丕揚は彼を賢人と思い、自分の部署に移した。文選郎を歴任し、太僕少卿に抜擢され、太僕卿に進んだ。三十年、帝は病気のため詔を下して鉱税を免じ、囚人を釈放し、建言して貶謫・排斥された諸臣を記録するよう命じた。しばらくしてこれを悔い、鉱税は元通りとするよう命じ、その他は所管の役所に議して実行させた。吏部・刑部の二尚書李戴・蕭大亨は数日経っても上奏しなかったので、企仲は二人を速やかに罷免し、二部に詔に従って速やかに実行するよう勅することを請うた。帝は大いに怒り、上諭を伝えて二事を速やかに停止させ、企仲の官を一等落とした。給事中蕭近高、御史李培・余懋衡もまた明詔を信じるよう請うたので、帝はますます怒り、彼らの俸給を奪い、さらに以前に貶謫された官の鄒元標らの罰を重くするよう命じ、言論を封じようとした。諸閣臣が力争したため、やっと止んだ。しかし給事中張鳳翔が帝の意を迎え、企仲の他の事を弾劾したため、遂に官籍を削除された。天啓初年、太常卿に起用され、累進して南京吏部尚書となり、老齢のため致仕した。師仲の父の軒は、吏部郎中で、かつて『通鑒綱目前編』を著した。師仲は南京礼部尚書に至った。

原文企仲,大吉孫,萬歷八年進士。以祖母年高,請終養。祖母既歿,授刑部主事。客寓貲其家,夫婦並歿,企仲呼其子還之。吏部尚書孫丕揚以為賢,調為己屬。歷文選郎,擢太僕少卿,進太僕卿。三十年,帝以疾詔免礦稅,釋系囚,錄建言貶斥諸臣。既而悔之,命礦稅如故,余所司議行。吏、刑二部尚書李戴、蕭大亨遲數日未奏,企仲請亟罷二人,而敕二部亟如詔奉行。帝大恚,傳諭亟停二事,落企仲一官。給事中蕭近高,御史李培、余懋衡亦請信明詔,帝益怒,並奪其俸,且命益重前貶謫官鄒元標等罰,欲以鉗言者。諸閣臣力爭,乃止。而給事中張鳳翔迎帝意,劾企仲他事,遂削籍。天啟初,起太常卿,累遷南京吏部尚書,以老致仕。師仲父軒,吏部郎中,嘗著《通鑒綱目前編》。師仲至南京禮部尚書。

居益は若い頃から操行を励み、万暦二十九年の進士に合格し、刑部主事に任じられた。三度転じて広平知府となり、山西提学副使に抜擢され、雁門参政となり、按察使・左右布政使を歴任し、いずれも山西に在った。

原文居益少厲操行,舉萬歷二十九年進士,授刑部主事。三遷廣平知府,擢山西提學副使,雁門參政,歷按察使、左右布政使,並在山西。

天啓二年、朝廷に入って太僕卿となった。翌年、右副都御史に抜擢され、福建巡撫となった。紅毛夷とは、海外の雑種で、紺碧の目、赤い髭髪の者、いわゆる和蘭国(オランダ)である。昔から中国と通じず、大泥(パタニ)・咬〓留吧(ジャカルタ)の二国を通じて福建商人と交易していた。万暦年間、奸民の潘秀が彼らを引き入れて彭湖(澎湖)を占拠し交易を求めたが、巡撫徐学聚は二国に転売するよう命じた。二国は険遠であったため、商人はこれを捨てて呂宋(ルソン)に向かった。夷人は呂宋が商船を妨げたと疑い、これを攻撃し、また広東の香山澳(マカオ)を寇したが、いずれも敗れ、帰国できず、再び彭湖に入って交易を求め、さらに城を築いた。巡撫商周祚がこれを拒んだが、鎮めることができなかった。ちょうど居益が周祚に代わると、賊は漳州・泉州を犯し、日本・大泥・咬〓留吧および海寇の李旦らを助けとして招いていた。居益は人を遣わして李旦を招き、大泥・咬〓留吧を離反させるよう説得した。賊の将帥高文律は恐れ、使者を遣わして和議を求めたが、これを斬り、鎮海港に城を築き、賊の拠点風櫃を圧迫した。賊は窮迫し、舟で去り、遂に文律を擒らえ、海の患いはようやく鎮まった。五年、工部右侍郎に転じ、河道総督となった。魏忠賢は居益が功績を叙するのに自分を及ぼさなかったことを恨み、その賞を阻んだ。給事中黄承昊がさらに居益が門閥に依り、高位に躍り出たと論じたため、官籍を削除されて去った。福建の人々が宮廷に赴いて彼の無実を訴えたが、聞き入れられなかった。そこで祠を立てて祀り、彭湖及び平遠臺に碑を刻んだ。

原文天啟二年,入為太僕卿。明年擢右副都御史,巡撫福建。紅毛夷者,海外雜種,紺眼,赤須發,所謂和蘭國也,自昔不通中土,由大泥、咬〓留吧二國通閩商。萬歷中,奸民潘秀引其人據彭湖求市,巡撫徐學聚令轉販之二國。二國險遠,商舍而之呂宋。夷人疑呂宋邀商舶,攻之,又寇廣東香山澳,皆敗,不敢歸國,復入彭湖求市,且築城焉。巡撫商周祚拒之,不能靖。會居益代周祚,賊方犯漳、泉,招日本、大泥、咬〓留吧及海寇李旦等為助。居益使人招旦,說攜大泥、咬〓留吧。賊帥高文律懼,遣使求款,斬之,築城鎮海港,逼賊風櫃。賊窮蹙,泛舟去,遂擒文律,海患乃息。五年遷工部右侍郎,總督河道。魏忠賢銜居益敘功不及己,格其賞。給事中黃承昊復論居益倚傍門戶,躐躋通顯,遂削籍去。閩人詣闕訟之,不聽。乃立祠以祀,勒碑於彭湖及平遠臺。

崇禎元年、戸部右侍郎に起用され、倉場総督を務めた。陝西鎮の欠餉は三十余月に及び、居益は陝西の賦税で関門に輸送すべき分のうち三十万を留保して急を緩めるよう請い、許可された。畿輔が戒厳となると、居益は通州におり、城守の策を周到に講じた。時に工部尚書張鳳翔が軍械不備の罪で官吏に下され、四司の郎中三名が獄死したため、居益に鳳翔の代行を命じた。間もなく、砲の試射で爆発事故があり、兵部尚書梁廷棟が郎中王守履の失職を弾劾した。守履は恐れ、兵部郎中王建侯が自分を誣告したと誹謗した。廷議は守履の言の通りでないとし、遂に獄に下した。居益が上疏して救おうとしたが、帝は私情に徇ったとして官籍を削り帰郷させた。守履は廷杖六十に処され、庶民に斥けられた。後に城守の功績を叙し、居益の冠帯を復した。

原文崇禎元年,起戶部右侍郎,總督倉場。陜西鎮缺餉至三十餘月,居益請以陜賦當輸關門者留三十萬,紓其急,報可。畿輔戒嚴,居益在通州,為城守計甚備。會工部尚書張鳳翔坐軍械不具下吏,四司郎中瘐死者三,遂詔居益代鳳翔。未幾,試炮而炸,兵部尚書梁廷棟劾郎中王守履失職。守履懼,詆兵部郎中王建侯誣己。廷議不如守履言,遂下獄。居益疏捄,帝以為徇私,削籍歸。廷杖守履六十,斥為民。尋敘城守功,復居益冠帶。

十六年、李自成が渭南を陥落させ、南氏に軍資金百六十万を要求した。企仲は八十三歳であったが、害された。居益及び企仲の子で礼部主事の居業を誘降したが、二人とも従わなかった。翌年正月、賊は兵を遣わして二人を連行し、炮烙の刑を加えた。二人は終に屈せず、絶食七日にして死んだ。

原文十六年,李自成陷渭南,責南氏餉百六十萬。企仲年八十三矣,遇害。誘降居益及企仲子禮部主事居業,皆不從。明年正月,賊遣兵擁之去,加炮烙。二人終不屈,絕食七日而死。

周士樸、字は丹其、商丘の人。万暦四十一年の進士。曲沃知県に任じられた。泰昌元年に召されて礼科給事中に授けられた。宦官王添爵が浄身男子を選び、賄賂を要求して騒動を引き起こした。守陵の劉尚忠が陵軍を煽って賞与を要求した。劉朝らが軍器を送る名目を借りて山海の外に出て、勢いは険悪であった。織造の李実が周起元を告訴した。宦官らが冬衣を要求し、尚書鐘羽正を辱めた。士樸はいずれも上疏して争った。士樸の性格は剛直果断で、世俗に従って妥協することができず、特に宦官と対立することを好み、深く魏忠賢に憎まれた。京卿に昇進すべき時であったが、忠賢がこれを留保したため、士樸は病を理由に辞職して帰郷した。

原文周士樸,字丹其,商丘人。萬歷四十一年進士。除曲沃知縣。泰昌元年征授禮科給事中。中官王添爵選凈身男子,索賄激變。守陵劉尚忠鼓陵軍挾賞。劉朝等假賫送軍器名,出行山海外,勢洶洶。織造李實訐周起元。群珰索冬衣,辱尚書鐘羽正。士樸皆疏爭。士樸性剛果,不能委蛇隨俗,尤好與中官相搘柱,深為魏忠賢所惡。會當擢京卿,忠賢持不下,士樸遂謝病歸。

崇禎元年、太常少卿に起用され、戸部左侍郎・右侍郎を歴任し、工部尚書に任じられた。帝が宦官張彜憲に戸部・工部二部の出納を監視させると、士樸はこれを恥じ、しばしば彜憲と対立した。彜憲が帝に訴えると、士樸は上疏して率直に弁明し、帝も難くすることができなかった。間もなく、駙馬都尉齊贊元が遂平長公主の墳墓の費用について、士樸が瑞安大長公主の先例を引用せず、寿寧大長公主が薨じた時には瑞安の例を引用したことを問題とし、上疏して醜く誹謗したため、官籍を削られた。

原文崇禎元年,起太常少卿,歷戶部左、右侍郎,拜工部尚書。帝命中官張彜憲監戶、工二部出納,士樸恥之,數與齟齬。彜憲訐於帝,士樸疏對辭直,帝無以難。未幾,駙馬都尉齊贊元以遂平長公主塋價,士樸不引瑞安大長公主例,而壽寧大長公主薨則引瑞安例,上疏醜詆之,遂削其籍。

十五年、廷臣が相次いで推薦したが、召されなかった。その年八月、李自成が商丘を陥落させると、妻の曹氏、妾の張氏、子の挙人業熙、子の妻の沈氏と同日に縊死した。

原文十五年,廷臣交薦,不召。其年八月,李自成陷商丘,與妻曹、妾張、子舉人業熙、子婦沈同日縊死。

呂維祺、字は介孺、新安の人。祖母の牛氏は節操を守ったことで表彰された。父の孔学は母に孝行し、粟千二百石を寄付して飢饉を救済し、二度孝義で表彰された。維祺は万暦四十一年の進士に挙げられ、兗州推官に授けられ、吏部主事に抜擢され、四司を歴任した。光宗が崩御し、皇長子が即位しないうちに、内侍が小南城行幸を導いた。維祺は慈慶宮に謁見し、梓宮が殯中のため乗輿を軽々しく動かすべきでないと述べ、行幸は中止された。天啓初年、考功員外郎・文選員外郎を歴任し、驗封郎中に進み、辞職して帰郷した。開封で魏忠賢の生祠が建てられると、士大夫に書を送って参与しないよう戒めた。忠賢が天下の書院を破壊すると、維祺は芝泉講会を設立し、伊洛の七賢を祀った。

原文呂維祺,字介孺,新安人。祖母牛氏以守節被旌。父孔學,事母孝,捐粟千二百石振饑,兩旌孝義。維祺舉萬歷四十一年進士,授兗州推官,擢吏部主事,更歷四司。光宗崩,皇長子未踐阼,內侍導幸小南城。維祺謁見慈慶宮,言梓宮在殯,乘輿不得輕動,乃止。天啟初,歷考功、文選員外郎,進驗封郎中,告歸。開封建魏忠賢生祠,遺書士大夫戒勿預。忠賢毀天下書院,維祺立芝泉講會,祀伊洛七賢。

崇禎元年、尚宝卿に起用され、太常少卿に転じ、四夷館を監督した。翌年四月、廷議で軍餉について、維祺は十五事を上奏した。その冬、微を防ぐ八事を奏上し、「陛下は初めは批答に勤勉であったが、今は留中することがあり、留中が多いと疑念が生じる。これが防ぐべき一である。初めは虚心に相談したが、擬旨が一つ不適当だと、改擬して直ちに施行する。執奏すべきことがないはずがない。これが防ぐべき二である。初めは疑厭がなかったが、疑厭は諸臣が自ら招いたものであり、今は共工と夔龍を並べて進用する。これが防ぐべき三である。初めは毎日講筵に臨んだが、今は免除が伝えられるようになった。これが防ぐべき四である。初めは嗜欲を寡くし宴遊を慎んだが、今は偶に及ぶことがある。これが防ぐべき五である。初めは刑獄を慎重にしたが、今は詔獄に下される者があり、かつ登聞鼓が頻繁に打たれ、嚚訟の風潮を長じる恐れがある。これが防ぐべき六である。初めは廷推を重んじたが、今は間をおいて陪を用いることがあり、常典ではない。これが防ぐべき七である。初めは直言を喜んだが、今は譴責や叱責が時として及ぶ。これが防ぐべき八である。」と述べた。帝は優れた旨で回答した。

原文崇禎元年,起尚寶卿,遷太常少卿,督四夷館。明年四月,廷議軍餉,維祺陳奏十五事。其冬,奏防微八事,言:「陛下初勤批答,今或留中,留中多則疑慮起,當防一。初虛懷商榷,及擬旨一不當,改擬徑行,豈無當執奏,當防二。初無疑厭,疑厭諸臣自取,今且共、夔並進,當防三。初日禦講筵,今始傳免,當防四。初寡嗜欲,慎宴遊,今或偶涉,當防五。初慎刑獄,今有下詔獄者,且登聞頻擊,恐長嚚訟風,當防六。初重廷推,今間用陪,非常典,當防七。初樂讜言,今或譴訶時及,當防八。」帝優旨報之。

三年、南京戸部右侍郎に抜擢され、糧儲総督を務めた。会計簿を設け、隠匿・横領及び滞納数十百万を調査し、大罪は弾劾奏上し、小罪は逮捕処罰した。屯田課税を厳しく監督する法を立て、倉庫は次第に充実した。六議を条上し、出入を稽えて侵漁を杜絶すること、比較を増して積案を完結すること、本科を設けて題覆を重んずること、会計を適時に行って収支を照合すること、差序を定めて営私を杜絶すること、差假を禁じて職業を修めること、を述べた。帝は善しとし、直ちに施行した。

原文三年,擢南京戶部右侍郎,總督糧儲。設會計簿,鉤考隱沒侵欺,及積逋不輸,各數十百萬,大者彈奏,小者捕治。立法嚴督屯課,倉庾漸充。條上六議,曰稽出入以杜侵漁,增比較以完積案,設本科以重題覆,時會計以核支收,定差序以杜營私,禁差假以修職業。帝稱善,即行之。

六年、南京兵部尚書に任じられ、機務に参与した。虚偽の兵籍八千余名を整理した。江防を厳しく整備するよう請い、鳳陽陵が孤立していることを憂慮したが、聞き入れられなかった。八年正月、賊が江北を侵犯すると、参将薛邦臣を派遣して全椒を防がせ、趙世臣に浦口を守備させた。世臣が潰走し、南京は震動し、鳳陽も間もなく陥落したと報告された。大計で拾遺され、言官が他の事柄を弾劾したため、遂に除名された。時に維祺の父孔学が賊を避けて洛陽におり、維祺は帰郷して洛陽に留まり、伊洛会を設立し、門下生二百余人を得た。『孝経本義』を著して完成し、これを献上した。

原文六年,拜南京兵部尚書,參贊機務。清冒伍八千餘名。請申飭江防,鳳陵單外為憂,弗省。八年正月,賊犯江北,遣參將薛邦臣防全椒,趙世臣戍浦口。世臣潰走,南京震動,鳳陽亦旋告陷。大計拾遺,言官復劾他事,遂除名。時維祺父孔學避賊洛陽,維祺乃歸留洛,立伊洛會,及門二百餘人。著《孝經本義》成,上之。

十二年、洛陽は大飢饉となった。維祺は福王常洵に財を散じて兵士に与え、人心を振奮させるよう勧めたが、王は聞き入れなかった。そこで私財を全て出して、救済局を設けた。事が聞こえ、官職を回復した。しかし飢民の多くが賊に従い、河南の賊は再び勢いを増した。間もなく、李自成が大挙して攻め寄せ、維祺は洛陽北城の守備を分担した。夜半、総兵王紹禹の軍に騎馬で疾走する者がおり、城上で周囲に呼びかけ、城外も呼応して応じたため、城は陥落した。維祺を知る賊が「あなたは飢饉を救った呂尚書ではないか。私はあなたを生かすことができる。隙を見て逃げよ。」と言ったが、維祺は応じず、賊は維祺を連行した。時に福王常洵は民家に隠れていたが、賊が跡を追って捕らえ、道で維祺と出会った。維祺は手を後ろに縛られ、王を見ると、「王よ、綱常は最も重い。死は同じである。賊に膝を屈するな。」と叫んだ。王は目を見開いたまま黙っていた。周公廟で賊の首領に会うと、その首を押さえて跪かせようとしたが、屈せず、首を伸べて刃に就いて死んだ。時に十四年の正月某日のことであった。維祺は五十五歳、太子少保を追贈され、祭葬が行われ、子に蔭官が与えられた。新安にあった維祺の家は、十六年に城が陥落し、家も破壊された。

原文十二年,洛陽大饑。維祺勸福王常洵散財餉士,以振人心,王不省。乃盡出私廩,設局振濟。事聞,復官。然饑民多從賊者,河南賊復大熾。無何,李自成大舉來攻,維祺分守洛陽北城。夜半,總兵王紹禹之軍有騎而馳者,周呼於城上,城外亦呼而應之,於是城陷。賊有識維祺者曰:「子非振饑呂尚書乎?我能活爾,爾可以間去。」維祺弗應,賊擁維祺去。時福王常洵匿民舍中,賊跡而執之,遇維祺於道。維祺反接,望見王,呼曰:「王,綱常至重。等死耳,毋屈膝於賊!」王瞠不語。見賊渠於周公廟,按其項使跪,不屈,延頸就刃而死。時十四年之正月某日也。維祺年五十有五,贈太子少保,祭葬,蔭子如制。而維祺之家在新安者,十六年城陷,家亦破。

弟の維祮、字は泰孺、選貢生から楽平知県となった人物である。この時職を解かれて帰郷し、やはり節を守って死んだ。按察僉事を追贈された。福王が南京に即位すると、維祺に太傅を加贈し、忠節と諡した。

原文弟維祮,字泰孺,由選貢生為樂平知縣者也。至是解職歸,亦抗節死。贈按察僉事。福王立南京,加贈維祺太傅,謚忠節。

王家禎、長垣の人。万暦三十五年の進士。天啓年間、左僉都御史を歴任し、甘肅巡撫となった。松山部長の銀定・歹成が西部辺境を二十年余り擾乱したが、家禎が着任すると、三度侵犯し三度撃退し、先後五百四十の首級を斬った。戸部右侍郎に抜擢され、左侍郎に転じた。崇禎元年に戸部の事務を代行したが、辺境の兵糧を適時に支給しなかった。秋、遼東の兵が騒動し、巡撫畢自肅が自縊死した。帝は大いに怒り、家禎の官籍を削った。後に甘肅の功績を叙し、その冠帯を回復した。

原文王家禎,長垣人。萬歷三十五年進士。天啟間,歷官左僉都御史,巡撫甘肅。松山部長銀定、歹成擾西鄙二十餘年,家禎至,三犯三卻之,先後斬首五百四十。擢戶部右侍郎,轉左。崇禎元年攝部事,邊餉不以時發。秋,遼東兵鼓噪,巡撫畢自肅自縊死。帝大怒,削家禎籍。已,敘甘肅功,復其冠帶。

九年七月、京師が兵に侵されると、兵部左侍郎に起用され、まもなく本官のまま右僉都御史を兼ね、河南・湖広・山西・陝西・四川・江北の軍務を総理し、盧象升に代わって賊を討った。時に河南巡撫陳必謙が罷免されたので、即座にこれを兼ねることを命じられた。将兵を督して賊の馬進忠らを南陽で会剿し、また兵を派遣して襄陽を救援し、牌樓閣で大戦した。その冬、家丁が騒動を起こし、開封の西門を焼いた。家禎は夜に外から帰り、慰諭して犒賞こうしょうを与え、翌朝、土寇の楊四を討つため南陽へ発向させた。楊四とは、舞陽の凶悪な盗賊である。初め、四はその党の郭三海・侯馭民らと共に必謙に降ったが、この時再び叛いたので、家禎にこの派遣があったのである。その後、南陽同知の万年策と監紀推官の湯開遠、諸将の左良玉・牟文綬らが相次いで四を破り、四は焼死し、その党も諸将に捕らえられ誅殺されたという。

原文九年七月,京師被兵,起兵部左侍郎,尋以本官兼右僉都御史,總理河南、湖廣、山西、陜西、四川、江北軍務,代盧象升討賊。會河南巡撫陳必謙罷,即命兼之。督將士會剿賊馬進忠等於南陽,復遣兵救襄陽,大戰牌樓閣。其冬,家丁鼓噪,燒開封西門。家禎夜自外歸,慰諭犒賞,詰旦,發往南陽討土寇楊四以去。楊四者,舞陽劇盜也。初,四與其黨郭三海、侯馭民等降於必謙,至是復叛,故家禎有是遣。其後南陽同知萬年策與監紀推官湯開遠,諸將左良玉、牟文綬等連破四,四焚死,其黨亦為諸將所擒誅雲。

この時、流賊はことごとく江北に向かい、留都は震撼した。言事者が家禎が安慶の賊を討つよう命じられながら、一度も中州を出なかったと指摘した。帝もまた家丁の変故を心に留めて彼を軽んじた。翌年四月、ついに総理の職を熊文燦に授け、家禎に河南の巡撫に専念させた。文燦が未だ到着しないうちに、詔を下して左良玉を安慶に救援させようとしたが、家禎は派遣しなかった。秋、劉國能が開封を犯すと、裨将ひしょうの李春貴らが戦死した。罪を議し、家禎は落職して閑住させられた。久しくして、李自成が京師を陥落させ、兵を派遣して長垣を占拠し、偽官を設置した。家禎はその子の元炌と共に自縊して死んだ。

原文當是時,流賊盡趨江北,留都震驚。言者謂家禎奉命討安慶賊,未嘗一出中州。帝亦以家丁之變心輕之。明年四月乃以總理授熊文燦,令家禎專撫河南。文燦未至,詔遣左良玉援安慶,家禎不遣。秋,劉國能犯開封,裨將李春貴等戰歿。議罪,家禎落職閑住。久之,李自成陷京師,遣兵據長垣,設偽官。家禎與其子元炌並自經死。

焦源溥、字は涵一、三原の人。万暦四十一年の進士。沙河・浚の二県の知県を歴任し、考課が最上となり、召されて御史となった。

原文焦源溥,字涵一,三原人。萬歷四十一年進士。歷知沙河、浚二縣,考最,召為御史。

熹宗が位を継ぐと、移宮の議論が起こり、刑部尚書の黄克纘が宝を盗んだ諸宦官を寛大に処するよう請うた。源溥はこれを論破して言った、「光宗は神宗の長子である。長子に忠であるならば、福藩に忠であることは忠ではない。孝端・孝靖は神宗の后である。二后に忠であるならば、鄭貴妃に忠であることは忠ではない。孝元・孝和は光宗の后である。二后に忠であるならば、李選侍に忠であることは忠ではない。貴妃の三十年の心事は、誰が知らぬことがあろうか。張差が棍棒を持ち、危険が呼吸の間に迫った時でさえ、まだ忍んで言うのか。ましてや先帝が即位した初めに、突然皇祖が后を封じる命令が伝わり、封を請うても得られず、艶姿を進めたのである。張差の棍棒が当たらなければ、女優の誘惑を投げかけ、崔文升の薬が速やかでなければ、李可灼の丸薬で促した。痛ましいことよ。先帝は進御の事を言うのを避けようとし、遂に白日の冤罪を甘んじて蒙られた。今たとえ貴妃を厚く遇し、終始恩礼を尽くすとしても、鄭養性の都督は奪わざるを得ず、崔文升は磔にせざるを得ない。もし竟にこれを問わずに置くならば、父を忘れるに近くはないか。李選侍は一宮人に過ぎず、さらに貴妃と比べるべくもない。聖諭にあるように暖閣で陛下を阻み、陛下を挟んで垂簾し、及び聖母を凌虐した様は、臣子の忍んで言わぬところである。今たとえ選侍のために憐れみを乞うとしても、ただ前の罪を曲げて宥し、量りに応じて優れた典刑に従うことを求めるべきで、移宮の始末を抹消することはできず、宝を盗んだ諸宦官を寛宥することはできない。もし竟に諸宦官を問わずに置くならば、母を忘れるに近くはないか」。上疏が上がると、朝廷中が寒心して恐れた。

原文熹宗嗣位,移宮議起,刑部尚書黃克纘請寬盜寶諸奄。源溥折之曰:「光宗,神宗元子也;為元子者為忠,則為福藩者非忠。孝端、孝靖,神宗後也;為二後者為忠,則為鄭貴妃者非忠。孝元、孝和,光宗後也;為二後者為忠,則為李選侍者非忠。貴妃三十年心事,人誰不知?張差持梃,危在呼吸,尚忍言哉!況當先帝御極之初,忽傳皇祖封後之命,請封不得,冶容進矣。張差之梃不中,則投以女優之惑;崔文升之藥不速,則促以李可灼之丸。痛哉!先帝欲諱言進禦之事,遂甘蒙不白之冤。今即厚待貴妃,始終恩禮,而鄭養性之都督不可不奪也,崔文升不可不磔也。若竟置弗問,不幾於忘父乎!李選侍一宮人,更非貴妃比,如聖諭阻陛下於暖閣,挾陛下以垂簾,及淩虐聖母狀,有臣子所不忍言者。今即為選侍乞憐,第可求曲宥前辜,量從優典,而移宮始末不可得而抹摋也,盜寶諸奄不可得而寬宥也。若竟置諸奄弗問,不幾於忘母乎!」疏上,舉朝寒懼。

天啓二年、憂いにより帰郷した。喪が明けて朝廷に戻り、真定諸府を巡察し、例により鳳陽兵備副使に転じた。時に崔文升が両淮に出鎮し、源溥に恨みを晴らそうとしたので、遂に病を理由に帰郷した。

原文天啟二年憂歸。服闋還朝,出按真定諸府,例轉鳳陽兵備副使。時崔文升出鎮兩淮,欲甘心源溥,遂移疾歸。

崇禎二年、元の官に起用され、河東道を分巡し、寧武参政に遷り、寇を平定する功績があり、そのまま山西按察使に遷った。七年、右僉都御史に抜擢され、大同を巡撫した。時に辺境の事態は日々切迫し、兵は欠員し、糧秣も久しく欠乏し、年々凶作が続き、民は馬糞を洗って食した。源溥は租税の免除・救済と糧秣の増加を請うたが、当局は応じられなかった。一年余りして、自らを弾劾して去ることを求め、遂に罷免されて帰郷した。十六年冬、李自成が関中を陥落させると、従兄の源清と共に捕らえられ、金を納めるよう強制された。源溥は目を怒らして大声で罵り、賊はその舌を抜き、四肢を切断して殺した。

原文崇禎二年起故官,分巡河東道,遷寧武參政,有平寇功,就遷山西按察使。七年擢右僉都御史,巡撫大同。時邊事日棘,兵缺伍,餉又久乏,歲洊饑,民淘馬糞以食。源溥請蠲振增餉,當事不能應。逾年,自劾求去,遂罷歸。十六年冬,李自成陷關中,與從兄源清同被執,勒令輸金。源溥瞋目大罵,賊拔其舌,支解之。

源清、字は湛一、進士より官を歴任し宣府巡撫となった。七年秋、万全左衛が失陥した罪に坐し、官を奪われ流罪となった。久しくして釈放されて帰還し、七十歳であった。この時節義を守り、七日間食を絶って死んだ。

原文源清,字湛一,由進士歷官宣府巡撫。七年秋,坐萬全左衛失守,奪官謫戍。久之釋還,年七十。至是抗節,不食七日死。

李夢辰、字は元居、睢州の人。崇禎元年の進士。庶吉士に授けられ、兵科給事中に改めた。時に盗賊が陝西で起こり、山東の曹・濮の間の盗賊は、街道を三百余里塞ぎ、河北には回賊がいた。夢辰はその状況を逐一陳述し、将吏に急いで防備するよう命じることを請うた。五年、上疏して言った、「内外ともに争いが起こり、秦・晋・齊・魯は多く乱れ、両河は中央に位置し特に要地である。鉛硝は長らく市価を直さず、漕米は毎年輸送して累が絶えず、宗禄を併せて徴収し、南陽に加派し、黄河が決壊し凶作となり、郵伝や徴税の害が百出し、民家は壺のように空で、生計は日に日に支えられず、急難に誰が命を使おうとするか。両河の標兵・磁兵は、新旧合わせて七千に満たず、一たび警報があれば、防禦に何を資するのか。今日の急務は河を防ぎ、城を修繕し、兵器を備え、郷兵を訓練し、甲冑を整え、特に人心を収拾することを根本とする」。帝は関係部署に厳しく命じるよう命じた。六年冬、大盗がことごとく河北に集結した。夢辰はその南犯を憂慮し、河南諸道の監司に急いで渡し場を防備するよう命じ、また巡撫を衛輝に移駐させ、山西・保定の二巡撫臣と犄角の勢いで急撃するよう請うた。帝がようやく兵部に議を下した時、賊はすでに澠池から密かに渡河していた。この時より中州の郡県は一日として警報を告げない日はなかった。

原文李夢辰,字元居,睢州人。崇禎元年進士。授庶吉士,改兵科給事中,時盜起陜西,山東曹、濮間之盜,道梗三百餘裏,河北有回賊。夢辰歷陳其狀,請敕將吏急防。五年,上疏言:「中外交訌,秦、晉、齊、魯多亂,兩河居中尤要地。鉛硝久市直未償,漕米歲輸累無已,宗祿並征,南陽加派,河決歲歉,郵傳催科之患百出,民室如懸罄,生計日不支,急難誰肯用命?兩河標兵、磁兵,新舊不滿七千,一有警,防禦何資?今日之務急防河,繕城,備器,練鄉兵,治甲胄,尤以收拾人心為本。」帝命所司嚴飭。六年冬,鉅盜盡萃河北。夢辰慮其南犯,請敕河南諸道監司急防渡口,而巡撫移駐衛輝,與山西、保定二撫臣掎角急擊。帝方下兵部議,賊已從澠池潛渡。自是中州郡縣無日不告警矣。

累進して本科左給事中となった。また言った、「将は驕り軍は悍ましい。鄧玘・張外嘉の兵は主君を弑しいして叛き、曹文詔・艾万年の兵は賊を見て逃げ、尤世威・徐来朝の兵は守備地を離れて遁走した。今や、張全昌・趙光遠の兵はまさに戈を倒して乱を為そうとしている。滎沢では庫を劫き人を殺し、偃師では陣営を並べて対峙している。しかも全昌らは豫賊を会剿するにあたり、随所で逗留し、途中で兵変が起こると、全昌はついに東に向かい、光遠はようやく西に向かった。驕り抗うことこのようである。どうして重く治めないでいられようか」。帝はその言をかなり採用した。吏科都給事中に進んだ。都御史の唐世濟が霍維華を推薦し、福建巡按の応喜臣が周維京を推薦し、ともに逆案を覆そうとした。夢辰が上疏してこれを駁すと、世濟・喜臣はともに吏に下され流罪となった。

原文累遷本科左給事中。復言:「將驕軍悍,鄧玘、張外嘉之兵弒主而叛,曹文詔、艾萬年之兵望賊而奔,尤世威、徐來朝之兵離汛而遁,今者,張全昌、趙光遠之兵且倒戈為亂矣。滎澤劫庫殺人,偃師列營對壘。且全昌等會剿豫賊,隨處逗遛,及中途兵變,全昌竟東行,光遠始西向。驕抗如此,安可不重治。」帝頗采其言。進吏科都給事中。都御史唐世濟薦霍維華,福建巡按應喜臣薦周維京,冀並翻逆案。夢辰疏駁之,世濟、喜臣皆下吏謫戍。

まもなく太常少卿に抜擢され、累進して通政使となった。他人に代わって章奏を削った罪に坐し、位を降格され転任させられた。間もなく、金を持ってある中書舎人に賄賂を贈り、大学士に副都御史になることを求める者がいた。邏卒が探知して捕らえ、その言葉が夢辰に及んだ。帝は夢辰に自ら奏上するよう命じ、事実は明らかになった。しかし夢辰はついにこのことで官籍を削られることとなった。

原文尋擢太常少卿,累遷至通政使。坐代人削章奏,貶秩調任。未幾,有持金囑中書舍人某賄大學士,求為副都御史者。邏卒廉得之,詞連夢辰。帝令夢辰自奏,事得白。然夢辰竟坐是削籍。

十五年春、賊が開封を攻めたが陥せず、遂に去り、西華を陥落させ、陳州を屠り、睢州に迫った。時に州には正官が欠けており、夢辰が帰郷すると、すぐに城に乗り込んで守備を主導した。間もなく、賊が他の門から入り、夢辰を擁して羅汝才に会わせた。汝才が何を望むかと問うと、言った、「私は大臣である。ただ死を望むのみである」。汝才が去り、その客を遣わして降伏を説得させ、かつ酒を進めた。夢辰は杯を地に覆し、太息して立ち上がり、喉を扼して死んだ。妻の王氏は、ちょうど病んでいたが、これを聞くと、食を絶って死んだ。

原文十五年春,賊攻開封,不克,遂去,陷西華,屠陳州,逼睢州。時州缺正官,夢辰歸,即乘城主守。無何,賊從他門入,擁夢辰見羅汝才。汝才問所欲,曰:「我大臣,但欲死爾。」汝才去,遣其客說降,且進之酒。夢辰覆杯於地,太息起,扼吭而卒。妻王氏,方病,聞之,不食死。

宋師襄、耀州の人。万暦四十四年の進士。官を歴任して御史となった。

原文宋師襄,耀州人。萬歷四十四年進士。歷官御史。

天啓三年五月、内操の廃止を請い、言う、「劉朝が脱死を謀り、沈纮と共に寵愛を固める計略を為して以来、纮は募兵を以て朝の外護と為し、朝は内操を以て纮の内援と為す。宮府内外、朝の有るを知りて天子を知らず。天、聖聡を牖ひて、一旦発露し、之を南京に屏ふ。然れども朝は去れども、三千の虎旅何れに帰すべきや。世に怨を蓄へ怒を蔵するの人、左右に潜布して患ひと為らざるは無し。今唯だ之を散ずるのみ。平素朝を卵翼せる者は、黄克纘なり、何ぞ亡くして以て戎政を内宣す。朝を抄参せる者は、毛士龍なり、未だ幾ばくもせずして以て構陷を以て籍を削らる。豈に兵を握り要に据へ、転相恐喝して、是に至らざらんや」と。帝は内操を祖宗の故事と為し、納れず。又た足財の策を陳べ、上供を減じ、冗官を汰ひ、営造を核し、賚賞を省かんことを請ふ。皆宦官の便ならざる所にして、格て行われず。奉聖夫人客氏の子及び中官王体乾・宋晋・魏進忠等十二人、俱に錦衣を世襲す。進忠は即ち魏忠賢なり。師襄力諫す。又た言ふ、左都御史熊尚文・工部侍郎周応秋・登萊巡撫袁可立は当に去るべきに去らず、光禄卿須之彦・太常卿呂純如は当に来るべからざるに来たりと。帝皆聴かず。

原文天啟三年五月請罷內操,言:「自劉朝營脫死,與沈纮謀為固寵計。纮以募兵為朝外護,朝以內操為纮內援。宮府內外,知有朝而不知天子。天牖聖聰,一旦發露,屏之南京。然朝雖去,而三千虎旅安歸?世未有蓄怨藏怒之人潛布左右而不為患者,今惟有散之而已。夫平日卵翼朝者,黃克纘也,亡何以戎政內宣;抄參朝者,毛士龍也,未幾以構陷削籍。豈非握兵據要,轉相恐喝,以至是乎?」帝以內操祖宗故事,不納。又陳足財之策,請減上供,汰冗官,核營造,省賚賞。皆宦官所不便,格不行。奉聖夫人客氏子及中官王體乾、宋晉、魏進忠等十二人俱世襲錦衣。進忠者,魏忠賢也。師襄力諫。又言左都御史熊尚文、工部侍郎周應秋、登萊巡撫袁可立當去不去,光祿卿須之彥、太常卿呂純如不當來而來。帝皆不聽。

四年、河南を巡按す。陛辞に、言ふ、「今の言者は皆曰く、治平の要務は、終日に辺事を籌ひ、国計を商ひ、吏治を飭ひ、民生を計ひ、盗賊を弭ぐと。而して漫として実効無し。其の然る所以は、台諫は進言を以て責と為し、条奏一たび入れば、即ち職を尽せりと云ひ、言の行はるるや否やは、置きて問はざるなり。六曹は題覆を以て責と為し、題覆一たび上れば、即ち事を畢せりと云ひ、事の行はるるや否やは、置きて問はざるなり。内閣は票擬を以て責と為し、票擬一たび定まれば、即ち明綸と為し、旨の行はるるや否やは、置きて問はざるなり。上は謾り下は欺き、大患を醸す。今、人の怨已に極まり、天の怒已に甚しく、災害並び至り、民聊生する無く、相聚ひて乱を思ふこと、十に八九なり。臣恐らくは今日の患は、遼左・黔・蜀に在らずして、数百年休養の赤子に在らんと」と。明年、復命して部内の人才を薦ぐるに、首に尚書盛以弘に及ぶ。魏忠賢、私に徇るを以て責め、一秩を貶し調任せしめ、師襄遂に帰す。

原文四年,巡按河南。陛辭,言:「今之言者,皆曰治平要務,乃終日籌邊事、商國計、飭吏治、計民生、弭盜賊,而漫無實效。所以然者,臺諫以進言為責,條奏一入,即雲盡職,言之行否,置弗問矣。六曹以題覆為責,題覆一上,即雲畢事,事之行否,置弗問矣。內閣以票擬為責,票擬一定,即為明綸,旨之行否,置弗問矣。上謾下欺,釀成大患。今人怨已極,天怒已甚,災害並至,民不聊生,相聚思亂,十而八九。臣恐今日之患,不在遼左、黔、蜀,而在數百年休養之赤子也。」明年復命薦部內人才,首及尚書盛以弘。魏忠賢責以徇私,貶一秩調任,師襄遂歸。

崇禎元年、召して官に復し、太僕少卿に擢てられ、累遷して太常卿に至り、致仕す。奸人宋夢郊、師襄の手書を仮りて兵部に営む。事覚り、師襄逮はれ、獄に繋がること二年。徐石麒の刑部と為るに至り、始めて雪がれ得たり。十六年冬、賊耀州を陥し、師襄之に死す。

原文崇禎元年召復官,擢太僕少卿,累遷至太常卿,致仕。奸人宋夢郊假師襄手書營兵部。事覺,師襄被逮,繫獄者二年。至徐石麒為刑部,始得雪。十六年冬,賊陷耀州,師襄死之。

麻僖、慶陽の人。父永吉、庶吉士より御史と為り、終に湖広按察使、清操を以て聞こゆ。僖、万暦三十五年の進士に挙げられ、庶吉士を授けられ、兵科給事中に改む。代王の長子鼎渭、父を訐て長を廃し幼を立つ。僖、代王に君無く鼎渭に父無しと劾す。四十年、疏を上して諫諍を納れ、枚卜を挙げ、大僚を補ひ、遺佚を登用し、考選を速かにする数事を陳ぶ。報いず。已にして、復た武科を重んじ、比試を復し、納級を清め、家丁を汰ひ、班操を恤ひ、辺餉を急がんことを請ふ。時に亦用ふる能はざりき。遼東巡撫楊鎬、旧将李如梅を用いんことを請ふ。僖の言に以て、張承蔭を用いるに改む。承蔭未だ至らざるに鎮遠堡・曹庄相継いで失事す。鎬皆実を以て聞こえず。僖両疏を以て之を劾す。鎬旋ち去るを引く。已にして、同官孫振基等と与に熊廷弼の人の殺し人に媚びるを劾す。又た言ふ、湯賓尹の韓敬を取るは、関節顕然たりと。語は『振基伝』に具はりたり。尋ち仮を乞ひて帰る。四十五年京察、賓尹の党用事し、僖の東林に倚附するを以て、山西按察知事に謫す。

原文麻僖,慶陽人。父永吉,由庶吉士為御史,終湖廣按察使,以清操聞。僖舉萬歷三十五年進士,授庶吉士,改兵科給事中。代王長子鼎渭訐父廢長立幼,僖劾代王無君鼎渭無父。四十年,疏陳納諫諍、舉枚卜、補大僚、登遺佚、速考選數事,不報。已,復請重武科、復比試、清納級、汰家丁、恤班操、急邊餉,時亦不能用。遼東巡撫楊鎬請用舊將李如梅,以僖言,改用張承蔭。承蔭未至而鎮遠堡、曹莊相繼失事,鎬皆不以實聞。僖兩疏劾之,鎬旋引去。已,與同官孫振基等劾熊廷弼殺人媚人。又言湯賓尹取韓敬,關節顯然,語具《振基傳》。尋乞假歸。四十五年京察,賓尹黨用事,以僖倚附東林,謫山西按察知事。

天啓二年、兵部主事に起し、尚宝丞・少卿を歴て、太常に改む。五年六月、魏忠賢の党御史陳世飐之を劾し、遂に職を落とす。崇禎初、官に復し、致仕して家居す。十六年冬、李自成慶陽を陥し、僖之に死す。

原文天啟二年,起兵部主事,歷尚寶丞、少卿,改太常。五年六月,魏忠賢黨御史陳世飐劾之,遂落職。崇禎初,復官,致仕家居。十六年冬,李自成陷慶陽,僖死之。

王道純、字は懷鞠、蒲城の人。天啓五年の進士。中書舎人を授かる。崇禎三年、御史に擢てらる。疏を上して資格の説を破り、言ふ、銓除・挙劾・考選に、甲乙科の高低昂ぶること甚だし、宜しく変通すべし、然らば則ち賢才日々に広からんと。帝、司に命じて即ち行はしむ。然れども甲科の勢重く、卒に返す能はざりき。流賊関中を躪す。道純、急ぎ饑民を振ひ、以て賊に従はしむる無からんことを請ふ。報可す。已にして、光禄卿蘇晋・参政張爾基を劾罷す。四年、吏部尚書王永光の当に去るべき者三、留むべからざる者四を劾す。納れず。

原文王道純,字懷鞠,蒲城人。天啟五年進士。授中書舍人。崇禎三年擢御史。疏陳破資格之說,言銓除、舉劾、考選,甲乙科太低昂,宜變通,則賢才日廣。帝命所司即行,而甲科勢重,卒不能返。流賊躪關中,道純請急振饑民,毋使從賊,報可。已,劾罷光祿卿蘇晉、參政張爾基。四年,劾吏部尚書王永光當去者三,不可留者四,不納。

山東を巡按す。其の時、李九成・孔有德、呉橋に叛き、南下す。道純、巡撫余大成に書を移し、討捕せんことを令す。大成信ぜず。再び之を促す。遂に疾を托して告を請ひ、登萊巡撫孫元化と与に使を遣はして招撫す。道純以て非なりと為し、二撫に勅して速かに剿せんことを請ふ。及び賊登州を陥し、元化縶はる。大成猶ほ招撫を主とす。道純憤り、抗疏力争す。帝即ち道純に命じて監軍せしむ。及び徐従治大成に代はり、謝璉元化に代はり、倶に萊州に入り、賊の為に困らる。外に在りて調度するは、道純一人のみ。賊人を遣はし偽りて撫を乞ふ。道純書を焚き使を斬り、馳疏して言ふ、「賊日を以て撫を以て我を愚弄す。一たび撫して六城陥ち、再び撫して登州亡び、三たび撫して黄県失す。今四たび撫して萊州囲まる。我軍屡く挫く、安んぞ復た戦ふことを得ん。速かに大軍を発し、此の危土を拯はんことを乞ふ」と。時に周延儒・熊明遇、撫議を主とす。道純反つて責譲せらる。明遇、職方主事張国臣を遣はして軍事を賛画せしむ。国臣賊中に入り招諭す。賊佯りて之を許し、攻囲すること旧の如し。及び総督劉宇烈至り、沙河に進兵す。道純之と俱にす。宇烈中情怯み、兵を頓して進まず、日を議撫に議し、尋ち軍を棄てて奔る。道純復た速かに討たんことを請ふ。納れず。迨ふに巡撫謝璉執はるるに及び、帝震怒し、宇烈を逮へ、道純を召して還京せしめ、而して明遇亦罷去す。宇烈吏に下り、道純を引いて過を分つ。道純疏を上して其の奏する十余事を駁し、司に命じて並び按せしむ。又た明遇・国臣の交通して国を誤る十罪を劾し、語延儒を侵す。疏未だ下らざるに、延儒之を国臣に泄す。国臣亦道純の十罪を劾す。道純遂に並び延儒を劾す。帝皆問はず。已にして賊平ぐ。道純竟に監軍溺職に坐し、民と為すを斥かる。

原文巡按山東。其時李九成、孔有德叛於吳橋,南下。道純移書巡撫余大成,令討捕,大成不信。再促之,遂托疾請告,與登萊巡撫孫元化遣使招撫。道純以為非,請敕二撫速剿。及賊陷登州,元化被縶,大成猶主招撫。道純憤,抗疏力爭,帝即命道純監軍。及徐從治代大成,謝璉代元化,並入萊州,為賊困。在外調度,止道純一人。賊遣人偽乞撫,道純焚書斬使,馳疏言:「賊日以撫愚我,一撫而六城陷,再撫而登州亡,三撫而黃縣失,今四撫而萊州被圍。我軍屢挫,安能復戰?乞速發大軍,拯此危土。」時周延儒、熊明遇主撫議,道純反被責讓。明遇遣職方主事張國臣贊畫軍事,國臣入賊中招諭。賊佯許之,攻圍如故。及總督劉宇烈至,進兵沙河,道純與之俱。宇烈中情怯,頓兵不進,日議撫,尋棄軍奔。道純復請速討,不納。迨巡撫謝璉被執,帝震怒,逮宇烈,召道純還京,而明遇亦罷去。宇烈下吏,引道純分過。道純疏駁其所奏十餘事,命所司並按。又劾明遇、國臣交通誤國十罪,語侵延儒。疏未下,延儒泄之國臣,國臣亦劾道純十罪,道純遂並劾延儒。帝皆不問。已而賊平,道純竟坐監軍溺職,斥為民。

十五年、廷臣の薦に以て、将に起用せんとす。未だ果さず。及び李自成蒲城を陥し、道純節を抗して死す。福王の時、制の如く贈恤す。

原文十五年以廷臣薦,將起用,未果。及李自成陷蒲城,道純抗節死。福王時,贈恤如制。

田時震は富平の人。天啓二年の進士。光山・霊宝の知県を歴任。崇禎二年に御史として召され、南京戸部尚書範濟世・順天巡撫単明詡・御史卓邁の逆党の罪を疏で弾劾し、また故御史夏之令の贓罪の誣坐を免ずるよう請うた。いずれも従われた。劉鴻訓が田仰の金を受け取り、吏部尚書王永光に嘱して四川巡撫に任用させたことを弾劾し、仰はついに罷免された。時震は鴻訓の私事を発したことにより、官秩一等を進められた。ほどなく、また永光及び温体仁を弾劾し、旨に忤って厳しく責められた。御史袁弘勛は永光の心腹で、弾劾されて罷職したが、永光が力を尽くして援けた。時震は言う、「弘勛は閣臣劉鴻訓が賄賂で敗れたことにより、たちまち濫りに弁じた。鴻訓の人心をやや快くしたのは、正に徐大化・霍維華ら諸人の奸を弁別して斥けたことにある。どうしてこれを翻案の端緒とすることができようか。弘勛の計が行われれば、大化・維華の輩は間隙に乗じて害をなすこと、言い尽くせぬものがある」と。そこで故光禄少卿史記事を推薦し、蕭然として四壁あるのみで、講学著書に励み、早急に召し用いるべきであると述べたが、帝は採用しなかった。

原文田時震,富平人。天啟二年進士。歷知光山、靈寶。崇禎二年入為御史,疏劾南京戶部尚書範濟世、順天巡撫單明詡、御史卓邁黨逆罪,而請免故御史夏之令誣坐贓,並從之。劾劉鴻訓納田仰金,囑吏部尚書王永光用為四川巡撫,仰迄罷去。時震以發鴻訓私,進秩一等。未幾,又劾永光及溫體仁,忤旨切責。御史袁弘勛者,永光心腹也,被劾罷職,永光力援之。時震言:「弘勛因閣臣劉鴻訓賄敗,輒肆瀆辯。不知鴻訓之差快人意者,正以能別白徐大化、霍維華諸人之奸而斥去之,安得借此為翻案之端耶?弘勛計行,大化、維華輩將乘間抵隙,害不可勝言。」因薦故光祿少卿史記事,蕭然四壁,講學著書,亟宜召用,帝不納。

時震はすでにたびたび永光に忤ったため、年例により江西右参議として出され、山西に転じ、そのまま左参政に遷り、罷免されて帰郷した。十六年冬、流賊が富平を陥落させ、偽職を授けたが、屈せずに死んだ。

原文時震既屢忤永光,遂以年例出為江西右參議,調山西,就遷左參政,罷歸。十六年冬,流賊陷富平,授以偽職,不屈死。

同邑の朱崇徳は字を淳庵といい、侍郎朱国棟の父である。国棟は天啓二年の進士に及第し、戸科給事中を歴任した。吏部侍郎張捷が逆案の呂純如を推薦したとき、国棟は上疏して力を尽くして誹謗した。その後、また両広総督熊文燦を弾劾し、海賊劉香を招撫した際の奏詞が事実を飾り欺瞞した五つの罪を挙げ、帝は文燦を厳しく責めた。そして国棟は累進して山東巡撫右僉都御史となり、昌平を督治した。十五年、卒した。

原文同邑朱崇德,字淳庵,侍郎國棟父也。國棟中天啟二年進士,歷戶科給事中。吏部侍郎張捷薦逆案呂純如,國棟上疏力詆。已,又劾兩廣總督熊文燦,招撫海盜劉香,奏詞掩飾欺罔五罪,帝切責文燦。而國棟累遷巡撫山東右僉都御史,督治昌平。十五年卒。

国棟が卒した翌年、富平は賊に陥落した。賊は崇徳を長安へ追い立てたが、途中で病と称した。賊はその老齢を見て、果たして病であると思い、帰ることを許した。崇徳は言う、「初め私が隠忍したのは、九族のために計ったからである。今、死に場所を得た」と。そこで北面して再拝し、自縊して死んだ。この時、関中の諸死節者への恩恤がようやく議せられたが、国変が至った。福王が立つと、初めて崇徳に右副都御史を贈った。

原文國棟卒之明年,富平陷於賊。賊驅崇德往長安,中道稱病。賊見其老,以為果病也,聽之歸。崇德曰:「始吾所以隱忍者,為九族計也,今得死所矣。」乃北面再拜,自縊死。是時關中諸死節者甫議恤,而國變至。福王立,始贈崇德右副都御史。

賛して曰く、流賊は中原を荼毒し、至る所で糜爛した。士大夫で難に遭う者は、死ななければ辱を受けた。しかしその時、徘徊隠忍し、垢を蒙りついに自ら害する者もまた少なくなかった。賀逢聖ら諸人は従容として義に就き、患難に臨んでその節を変えず、一死は顧みて重からずや。逢聖と南居益・周士樸は公方清正であり、呂維祺は学深く修め純粋で、まことに中朝の賢士大夫であった。宋師襄のいわゆる「上は謾り下は欺き、大患を醸成す」とは、末季の習俗をいう。痛ましいことよ、その言うところは。

原文贊曰:流賊荼毒中原,所至糜爛。士大夫遘難者,不死則辱。然當其時,徘徊隱忍、蒙垢而終以自戕者,亦不少矣。賀逢聖諸人從容就義,臨患難而不易其節,一死顧不重哉!逢聖與南居益、周士樸公方清正,呂維祺邃學純修,固中朝賢士大夫。宋師襄所謂「上謾下欺,釀成大患」,末季之習,痛哉其言之也。