明史

列傳第一百五十一 宋一鶴 馮師孔 林日瑞 蔡懋德 えい景瑗 朱之馮 陳士奇 龍文光 劉佳引 劉之勃

○宋一鶴(沈壽崇蕭漢)馮師孔(黃絅等)林日瑞(郭天吉等)蔡懋德(趙建極等)衛景瑗(朱家仕等)朱之馮(朱敏泰等)陳士奇(陳纁等)龍文光(劉佳引)劉之勃(劉鎮藩)

宋一鶴は宛平の人である。諸生であった時、天下が大乱するのを見て、ただちに兵事に心を究めた。崇禎三年に郷試に合格した。教諭に任じられ、推薦によって丘県知県に遷り、また推薦によって東昌府同知を加えられ、なおも知県の職務を掌った。

巡按御史の禹好善は一鶴が兵事に通じているとして、彼を推薦した。兵部員外郎に任じられ、まもなく天津兵備僉事に抜擢され、汝南兵備を整える職に改められ、信陽に駐屯した。

時に熊文燦が南畿・河南・山西・陝西・湖広・四川の軍務を総理し、賊の懐柔を主としていた。一鶴はその賊の首魁たる黄三耀を降し、またその死賊たる順天王の党類劉喜才を降した。一鶴は先後して大賊を討伐し、七百余りの首級を斬った。副将龍在田に従って賊を固始で破り、一鶴はその賊千人を毒殺した。左良玉がその賊李万慶を降したが、一鶴はこれを慰撫して数万を安定させた。文燦はたびたびその功績を上奏し、推薦して、副使に進ませ、鄖陽に転任させた。

文燦が誅せられると、楊嗣昌が代わり、一鶴の才能を認めて推薦し、右僉都御史に抜擢し、方孔炤に代わって湖広巡撫とした。時に湖広の賊は諸将に追われて多く四川に逃げ込んだ。一鶴は雲南軍を移して当陽に鎮め、宦官劉元斌は京軍を移して荊門に鎮め、互いに犄角の勢いをなした。左良玉らが賊を瑪瑙山で大破すると、一鶴は功績を叙して俸給を増された。副将王允成・孫応元らを遣わして賊の汝才五大営を豊邑ほうゆう坪で大破し、三千余級を斬った。嗣昌は一鶴を荊楚第一の功労者と評した。献忠が襄陽を陥すと、革裏眼・左金王らとともに東に走って黄州・汝寧の間に集結した。一鶴は蘄州に移駐し、舟を焼き、賊の渡河を阻んだ。賊が北に移ると、一鶴はまた横江を断ち、賊は渡ることができなかった。

嗣昌が没すると、丁啓睿が代わった。啓睿は献忠を麻城で破り、一鶴及び鳳陽総督朱大典・安慶巡撫鄭二陽とともに賊の左金王・老回回らを潜山・懐寧の山中に追い詰めた。一鶴はまた参将王嘉謨らを督して左金王・争世王・治世王を燈草坪で追撃して破り、千八百級を斬った。十五年、部将陳治らを遣わして江北兵と合流させ、賊を桐城・舒城で破った。

一鶴は郷挙から起用され、十年と経たずに節鉞を執ったので、廷臣は嫉みを抱かぬ者はなかった。御史衛周允が上疏して一鶴を醜く誹謗した。一鶴はたびたび功を立てたが、しかしまたしばしば当時の誹りを受けた。嗣昌の父の名は鶴であったので、一鶴が名刺を投ずる時、自らその名を「一鳥」と署し、楚人の間に伝わって笑われた。一鶴もまた連続して上疏して病を理由に引退を願い出たが、帝は偽りを疑い、所管の役所に厳しく調査させた。先に襄陽陥落の責任で官職を剥奪され罪を戴いており、この時に至って解任を許され、後任を待つこととなった。

汝寧を救援に急行したが、汝寧城はすでに陥落していた。十二月、襄陽・徳安・荊州が相次いで陥落を告げ、一鶴は承天に急行して献陵を守護した。陵を守る軍は木柵で城を造ったが、賊は薪を積んで焼き、煙が純徳山を覆った。城壁が破られ、一挙に登られ、献陵を犯し、祭祀の殿堂を破壊した。陵を守る巡按御史李振聲・総兵官銭中選はともに降伏し、ついに承天を攻め、年の暮れ、翌年正月二日、城内から賊に内応する者があって城は陥落し、一鶴は自縊した。故に留守の沈寿崇・鐘祥知県蕭漢はともに死に、分巡副使張鳳翥は山中に逃げ込んだ。先に左良玉の軍が襄陽・樊城を荒らしたので、一鶴は上疏してこれを糾弾していた。その後、良玉は襄陽から承天に逃げ、軍は飢えて略奪し、一鶴に糧食を乞うたが、許されなかった。良玉はこれを恨んだ。この時に至り、一鶴は良玉の兵を留めようと謀ったが、良玉は武昌に走り、故に難に及んだのである。

寿崇は宣城の人で、都督ととく沈有容の子である。崇禎初年の武進士であった。巡按に逆らい、弾劾されて罷免されたが、未だ出発せずに賊が到来し、ついに難に及んだ。都督僉事を追贈され、子に錦衣衛百戸の蔭官が与えられた。

蕭漢は字を雲濤といい、南豊の人である。崇禎十年の進士であった。任期が満ちて出発しようとした時、賊が城に迫り、ただちに家廟に別れを告げ、妾媵に手拭いを授けて言った。「男は忠、女は烈、努めて自ら尽くせ。」そこで出て城壁に登り、五昼夜にわたって防戦した。元旦、包囲を突破して出て、献陵に急行した。賊の騎兵が彼を取り囲むと、蕭漢は大声で叫んだ。「鐘祥県令ここにあり、誰か陵寢を驚かす者あらんや!」賊は彼を連れ去ったが、殺さず、降伏を説いたが、聞き入れなかった。翌日、城が陥落し、蕭漢を吉祥寺に送り、厳重に見張ったので、死ぬこともできなかった。三日を経て、僧の寝台から剃刀を見つけ、これを隠し、古びた紙に楊継盛の絶命の詞を書いた。紙が尽きると筆を投げ起き上がり、また土塊を拾って壁に「鐘祥県令蕭漢此の寺に死せんと願う」と十字を書き、ただちに壁に向かって自ら頸を切り、血はまさにその字の上に飛び散り、死んだ。賊はその義を称え、錦衣で収斂して埋葬した。賊が退いた後、その門人が時服で改めて収斂し、言った。「嗚呼、大白は汚されざるか!我が師は賊の服を肯んじて着ようか!」すべて取り替えた。詔して蕭漢に大理寺丞を追贈した。

振聲は米脂の人である。李自成と同県で同姓であり、自成は彼を兄と呼んだが、後にまた彼を殺した。献陵を発掘しようとした時、大声が山谷から起こり、雷鳴や虎の咆哮のようであったので、恐れてやめた。

馮師孔は字を景魯といい、原武の人である。万暦四十四年の進士であった。刑部主事に任じられ、員外郎・郎中を歴任した。陝西で刑獄を恤み、疑獄百八十人を釈放した。天啓初年、出て真定知府となり、井陘兵備副使に遷ったが、憂いにより帰郷した。

崇禎二年、臨鞏兵備として起用され、固原に改められ、再び憂いにより帰郷した。喪が明けて、懐来兵備副使として起用され、密雲に移った。鎮守宦官鄧希詔に逆らった。希詔は他の事を摘まえて彼を弾劾し、法吏に下され、官籍を削られて帰郷した。

十五年、詔して辺才を挙げしめ、推薦によりて故官を起用し、通州の軍を監す。勤王の兵が都下に集まり、剽劫公行し、婦人の首を割いて功を報ず。師孔大いに怒り、その卒を以て死に抵す。明年、天下の賢能方面官を挙げしめ、鄭三俊が師孔を推薦す。六月、右僉都御史に擢げ、蔡官治に代わりて陝西を巡撫し、兵食を調え、総督孫傳庭に出関を促す。

当是の時、賊十三家七十二営降り、師殆んど尽き、惟だ李自成・張献忠存す。自成尤も強く、襄陽を拠す。河洛・荊襄の四戦の地を以て、関中其の故郷、士馬天下に甲たり、之を拠すれば以て覇たるべしと、決策して西に向かう。潼関の天険を憚り、淅川龍車寨の間道より陝西に入らんとす。傳庭之を聞き、師孔に四川・甘粛の兵を率い商・雒に駐屯し掎角と為さしめ、而して師孔は戦を促す。間も無く、我が師南陽に敗績し、賊遂に乗勝して潼関を破り、大隊長駆し、勢破竹の如し。師孔衆を整えて西安を守る、人或いは師孔が師を促して敗を致すを咎む。賊至り、守将王根子門を開いて之を入る。十月十一日、城陥ち、師孔井に投じて死す。同死する者、按察使黄絅、長安ちょうあん知県呉従義、秦府長史章尚絅、指揮崔爾達。

絅、字は季侯、光州の人。天啓二年の進士。崇禎中、淮海兵備副使として憂に服して帰る。流賊州城を陥とし、絅方に山中に墓廬す、子彜如賊に死し、其の妹も亦難に被る。服除け、臨鞏兵備副使に起ち、番兵を調え、大いに李自成を潼関原に破る。尋いで右参政として洮岷を分守し、陝西按察使に擢ぐ。自成之を降るを勧む、叱して曰く「潼関の役、汝、我が戮余なり、今日肯て汝に降らんや」と。妻王氏井に赴き、絅間を得て亦井に赴き、皆死す。太常卿を贈り、諡して忠烈と曰う。

尚絅、会稽の人。城陥つるを聞き、印を井中に投じ、冠服して王府端礼門に趨き雉経す。按察司副使を贈らる。

従義、山陰の人。児時に一人其の背を拊して曰く「歳寒松柏、其れ斯れに在るか」と夢む。崇禎十三年進士となり、之官す、兵荒に、従義丁壮三百人を練り賊を殺す。賊秦を破り、従義曰く「嗟乎、豈に天ならずや、吾唯だ昔の夢是を践むのみ」と。遂に井に投じて死す。按察司僉事を贈らる。

爾達、何許の人なるかを知らず、亦井に投じて之に死す。是より長安に義井多し。

賊遂に秦王存樞を執し、其の宮署に処し、百官を置き、王と称して西安に在す。王府中に坐し、日々士大夫を執り拷掠し、金銭を索め、兵を分ち四出して攻抄す。小吏丘従周なる者有り、長さ三尺に及ばず、酔いに乗じて自成を罵りて曰く「若一小民無頼、妄りに王府に踞り、将に偽号を僭せんとし、而して為す所暴虐此の若きは、何ぞ能く久しからん」と。賊怒り、斫き殺す。而して布政使平湖の陸之祺及び裏居の吏部郎乾州の宋企郊・提学僉事真寧の鞏焴皆賊に降り、寵用を得る。

先ず是に、戸部尚書倪元璐奏して曰く「天下諸藩、孰れか秦・晋と与にせん。秦晋は山険しく、武を用うる国なり。請う二王に諭し、以て賊を剿ぎ秦を保つを秦王に責め、以て賊の入らざるを遏ぐを晋王に責めよ。王能く賊を殺さば、王に大將軍の権を仮し、能く賊を殺さざれば、悉く王の所有する所を輸して軍に餉し、其の盗に賫するに与せよ。賊平らぎ、王各一子を益封して親王の如くせば、亦以て報いを明らかにするに足らん。二王独り十一宗の禍を鑒みざるか。賢王忠にして計に熟すれば、必ず処する所を知らん」と。書上るも、報いず。是に至り、賊果たして秦を破り、悉く賊の有と為る。

林日瑞、字は浴元、詔安の人。万暦四十四年の進士。崇禎初、江西右参政として憂に服して帰る。服闋け、故官に起ち、湖広を分守す。属県鉛山は閩に界し、妖人山中に聚まり謀りて軌に不なり、鉛山を囲む。日瑞之を撃ち破り、其の巣を搗く。屡遷して陝西左・右布政使と為る。

十五年夏、右僉都御史に遷り、呂大器に代わりて甘粛を巡撫す。明年十一月、李自成慶陽を屠る。其の別将賀錦蘭州を犯し、蘭州人城を開き賊を迎う。賊遂に河を渡る。涼州・荘浪二衛降り、即ち進みて甘州を逼る。日瑞賊急なるを聞き、西羌と結び、兵を厳しくして以て待ち、而して自ら副将郭天吉等を率い諸の河干を扼す。十二月、賊氷を踏みて過ぎ、直ちに甘州城下に抵る。日瑞城に入り、戦い且つ守る。大雪深さ丈余、樹尽く介し、角幹折れ、手足皸瘃し、守者咸く怨む。賊夜に乗じ雪を坎てて登り、城陥ち、日瑞を執る。官を以て誘うも従わず、市に磔く。

初め、日瑞甘粛を撫す、廷議其の任に堪えざるを以てし、楊汝経を遣わして之に代わらしむ。未だ至らざるに、日瑞遂に難に及ぶ。

天吉及び総兵官馬爌、撫標中軍哈維新・姚世儒、監紀同知藍臺、裏居総兵官羅俊傑・趙宦、並びに之に死す。賊居民四万七千余人を殺す。三辺既に陥ち、列城風望みて降り、惟だ西寧衛固く守りて下らざるのみ。賊後顧無く、乃ち長駆して東す。福王の時、日瑞に兵部尚書を贈り、臺に太僕寺少卿を贈り、皆祭葬を賜う。

蔡懋德、字は維立、昆山の人。少くして王守仁の為人を慕い、『管見』を著し、良知の説を宗とす。万暦四十七年進士に挙げられ、杭州推官を授かる。天啓間、行取されて都に入る。同郷顧秉謙国を柄にす、懋德之と通ぜず、秉謙怒り、以て故に顕擢を得ず。礼部儀制主事を授かり、祠祭員外郎に進む。尚書諸司を率いて魏忠賢祠に謁せんとす、懋德疾に托して赴かず。

崇禎初、出でて江西提学副使と為り、好んで守仁の『抜本塞源論』を以て諸生を教え、大抵釈氏の緒論なり。浙江右参政に遷り、嘉興・湖州を分守す。劇盗屠阿醜千余の衆有り、太湖に出没す。懋德曰く「此れ計りて擒う可し」と。瀕湖の豪家を悉く召し、其の罪を把り、壮士を簡びて与に発し、遂に阿醜を擒う。皆曰く「懋德兵を知る」と。内艱有り、服除け、井陘兵備に起つ。旱魃し、懋德祷れば即ち雨ふる。他郷争いて迎えて以て祷らしめ、又た輒ち雨ふる。寧遠に調え、松山を守り及び臺堡を修むる功を以て、数え叙賚す。会に災異有り言を求め、懋德『省過』・『治平』の二疏を上し、君相を規切す、一時咸く迂闊と為して笑う。

懋德釈氏を好み、身を律すること苦行頭陀の如し。楊嗣昌其の清修弱質を謂い、辺地に処するに宜しからずとし、済南道に改む。済南新たに残破し、大吏多く人を缺く、懋德両司及び三道の印を摂す。山東按察使・河南右布政使に遷る。田荒れ穀貴く、民催科に苦しみ、賊復た先服して租を輸せざるを以て相煽誘す。懋德亟に檄して州県に征を停めしめ、上疏して自ら劾し、詔して七級を鐫して視事せしむ。十四年冬、右僉都御史に擢げ、山西を巡撫す。召対し、酒饌・銀幣を賜う。明年春、任に抵り、大盗王冕を討平す。十月、兵を統べて京師に入衛し、詔して龍泉・固関の二関を扼守せしむ。李自成已に河南を陥とす、懋德之を河上に禦う。

十六年の冬、李自成が潼関を破り、西安を占拠し、三秦の地をことごとく有するに至った。十二月、蔡懋徳は軍を平陽に駐屯させ、副将陳尚智を派遣して河津を扼守させた。山西は京師の右背に当たり、蒲州から北は保徳に至るまで、すべて賊に隣接し、黄河を険として頼んでいた。しかし厳冬の氷結により、賊騎は長駆直入することができた。懋徳は連章して危急を告げ、禁旅および保定・宣府・大同の兵を急ぎ河岸に赴かせ、合流して防戦するよう請願した。朝廷ではますます山西を憂慮し、河防を論ずる者は多かったが、援軍に差し向けられる兵はなかった。懋徳は疲弊した兵卒三千をもって、百万の狂寇に当たらねばならなかった。当時太原は動揺し、晋王が手ずから書をしたためて懋徳の省城帰還を促した。十八日、懋徳は平陽を去る。二十日、賊は河津に到達し、船窩から東へ渡河し、尚智は敗走して平陽に戻った。二十二日、賊は平陽を攻撃し、これを陥落させた。尚智は泥源山中に奔り入った。二十八日、懋徳は太原に帰還した。

翌年の正月、李自成は西安において王を称した。賊はすでに黄河を渡り、河東を転掠し、諸城はことごとく陥落した。ここにおいて山西巡按御史汪宗友が上疏して言うには、「晋の黄河二千里のうち、平陽がその半分を占める。巡撫蔡懋徳は春の氷解を待たず、急遽平陽から軍を返したため、賊はその翌日に渡河を果たしたのである。随行の馬歩千人をただちに倍道で西に向かわせ、陳尚智の叛卒を召集し、各路の防兵に檄を移して援剿させればよかったのに、一兵も発しなかった。年末に省城に至り、臣は一軍を率いて星馳して前進し、疑兵を張り声討を行えば、なお挽回の望みがあると進言したが、聞き入れられなかったのはどうしようもない。賊は日々偽官を派遣し、ひと月のうちに余りの郡県を失った。これは誰の過ちであろうか」と。詔があり官を奪って審査を待たせ、郭景昌を以ってこれに代えた。

二十三日、尚智は叛いて賊に降った。ここにおいて懋徳は太原において誓師し、布政使趙建極、監司の毛文炳・藺剛中・畢拱辰、太原知府孫康周、陽曲県事を代行する長史範誌泰ら官吏軍民がことごとく参集した。懋徳が泣くと、衆もみな泣いた。免官の命令がちょうど届き、ある者は城外に出て後任を待つよう請うた。懋徳は承諾せず、言うには「我はすでに一死を決している。景昌が到着しても、我もまたともに死ぬのみである」と。陽和の兵三千を調発して東門の協守に当たらせた。剛中は彼らが内応することを憂慮し、南関の外に移した。部将張雄を派遣して新南門を分守させ、中軍副総兵応時盛を召し入れて参謀議に加わらせた。懋徳らは城楼に登った。

二月五日、賊は城下に至った。部将の牛勇・朱孔訓・王永魁を派遣して出戦させたが、戦死した。翌日、李自成は鹵簿を整え、衆を督いて城を攻撃し、陽和兵は叛いて賊に降った。また翌日、昼間が暗くなり、懋徳は遺表を草した。しばらくして大風が起こり、木を抜き砂を舞い上げた。張雄を大南門守備に配置したが、雄はすでに城を縋り下りて降伏しており、その仲間に語って言うには「城の東南角楼には、火器と火薬がすべてある。我が下りたらただちに楼を焼け」と。夜中に火の手が上がり、風はますます烈しく、守備兵はみな散り散りになった。賊は城に登り、懋徳は北面して再拝し、遺表を友人賈士璋に託し、間道を通じて京師に届けさせ、人に語って言うには「我は長年学道し、すでに死生を看破している。今日こそ我が命を尽くす時である」と。ただちに自ら剣をくわえようとしたが、麾下の者がこれを押しとどめた。時盛は城を下りて巷戦するよう請い、懋徳を顧みて言うには「馬に乗られよ」と。懋徳が馬に乗ると、時盛は矛を執って突進し、賊数十人を殺した。炭市口に至ると、賊騎が充満し、時盛は叫んで言うには「西門より出よ」と。懋徳は急いで馬を下りて言うには「我は封疆において死すべきであり、諸君は自ら去れ」と。衆は再び懋徳を馬に乗せ、水西門に至った。懋徳は叱って言うには「諸君は我を不忠に陥れようとするのか」と。再び馬を下り、地に坐した。時盛はすでに城外に出て、妻子を殺し、振り返っても懋徳が見えないので、再び門を斬り破って入り、懋徳に語って言うには「公とともに死することを請う」と。遂にともに三立祠に至った。懋徳は縊死を図ったが絶えず、時盛は甲冑を解いてその肩に加えると、ようやく絶命した。時盛は弓弦を取って自縊した。建極は公堂に端座し、賊がこれを擁して李自成に会わせようとしたが、屈せず、斬らんとした。階を下りて万歳を二度叫び、言うには「臣は封疆を失守し、死すべき余罪あり」と。自成は自分を呼んだと思い、引き戻した。建極は目を怒らせて言うには「我は大明皇帝を呼んだのであって、賊を呼ぶものか」と。立ちどころに射殺した。当時、李自成は晋王を捕らえ、王宮を占拠したという。

文炳は殺害され、妻の趙氏と妾の李氏もまた井戸に身を投じて死に、子の兆夢は数歳に過ぎず、賊に掠われた。士民は彼が忠臣の子であるとして、贖い出して帰した。剛中を降そうとしたが従わず、殺害した。首は即座に落ちたが、再び丈余も跳ね上がり、賊はみな辟易した。賊がちょうど新刀を得たので、拱辰がそれを見つめた。問うて「何を見つめるのか」と言うと、「これで頭を斬りたいのだ」と答えた。そこで取って斬った。康周は巷戦して死に、誌泰は食を絶って死んだ。懋徳以下、太原において国事に死した者は合わせて四十六人に及び、賊はその屍をことごとく城上に晒した。李自成は懋徳が降らなかったことを恨み、その屍を検分し、刃で首を断って去った。福王の時、懋徳が黄河を守らなかったことを失策とみなし、そこで忠襄と諡し、祭葬を賜ったが贈蔭は与えず、その他は差等を設けて恩恤を賜った。間もなく四十六人を考証したが、事跡の多くは欠落し、姓名も伝わらず、順序立てることができないという。

建極は、河南永寧の人である。賊が永寧を掠めた時、建極の五人の子はみな死に、後に生まれた三人の子もまた夭折し、ここに至って趙氏の一門はついに絶えた。

文炳は、字を夢石といい、鄭州の人である。吏科給事中から出て山西兵備副使となった。給事中であった時、楊嗣昌が督師となり、民兵を調発して賊を討つことを議した。文炳は言うには「民兵は守備には用いることができるが調発すべきではなく、官軍が馬に乗って賊を殺戮する方が便利である」と。また言うには「大計(官吏考課)の際、主計者は奔走競争を好み、廉静を抑えるので、官に互いに不公を糾弾させるべきである」と。帝はいずれもその言を採用した。

剛中は、字を坦生といい、陵県の人である。南京給事中として、留都(南京)を保護する六事を奏上し、また漕運の弊害を救う要諦を陳述した。山東が飢饉に陥ると、上疏して言うには「民は死に丁(成年男子)は存し、田は荒れ賦は在る。どうして盗賊とならぬことがあろうか。戸口と里甲を整理すべきである」と。いずれも時弊を突いていた。山西副使に遷った。

拱辰は、字を星伯といい、掖県の人である。朝邑・塩城の二県の知県を務め、数度の昇進と左遷を繰り返した。淮徐兵備僉事を歴任し、督漕侍郎史可法はその不適任を指摘し、冀寧に移した。

建極・文炳・剛中・拱辰は進士出身である。康周は、字を晋侯といい、安丘の人で、郷挙(郷試合格者)出身である。時盛は、遼陽の諸生(生員)である。懋徳に認められ、幕下に抜擢され、都督僉事に至った。誌泰は、虞城の人である。その他は考証できない。

太原が陥落すると、賊は檄文を遠近に伝え、到る所の郡県は風を望んで寨を結び官兵に抵抗した。その中で義に立ち難に死し、胸を突き首を断たれて甘んじた者としては、安邑知県房之屏(宛平の人、郷挙より起家)がいる。城が陥落すると、北に向かって天子を拝し、役所に入って母を拝し、妻子に各自自尽するよう命じ、井戸に投身したが、賊が引き出して斬った。忻州知州楊家龍(字は惕若、曲陽の人)は、寧郷知県として七年間在任し、流亡した民がその生業に復した。忻州に転じると、賊がすぐに到来し、「この城は必ず守れない。私が出れば、お前たち民は全うできる」と言い、城を出て賊を罵り死んだ。州人は祠を建てて祀った。代州参将閻夢夔(鹿邑の人)、汾州知州侯君昭は、皆城と共に滅びた。汾陽知県劉必達は袖から賊を罵る文書を取り出し、賊がそれを読んで殺した。その義勇範奇芳は、偽都尉一人を刺殺し自刎した。寧武兵備副使王孕懋(字は有懐、太原知府より転任)は、自成が太原を陥落させた後、降伏を勧める使者を送ったが、孕懋はこれを斬り、総兵官周遇吉と共に守り、城陥落時に自殺し、妻楊は井戸に投身して殉じた。孕懋は州の人、進士である。遇吉は別に伝がある。寧武を失い、賊は三関を破り、大同を犯した。

衛景瑗、字は仲玉、韓城の人。天啓五年の進士、河南推官に任じられた。

崇禎四年に召されて御史に任じられ、首輔周延儒が賄賂を納め私を行った数事を弾劾し、さらに吏部侍郎曾楚卿の邪悪を弾劾した。帝は採用しなかった。真定諸府を巡察した。父の喪に服するため、命令を待たずに帰郷した。喪が明けると、元の官に起用された。給事中傅朝佑・李汝璨が温体仁を論じて吏に下されたことを救う上疏をしたため、帝は快く思わず、行人司正に左遷した。尚宝・大理丞を歴任し、少卿に進んだ。十五年春、右僉都御史に抜擢され、大同を巡撫した。凶作と疫病が発生し、救済を上疏して請願した。軍備を調査し、火器を訓練し、豪族を抑制し、名声と実績が大いに著しかった。

十七年正月、李自成が山西を犯そうとした時、宣大総督王継謨は大同総兵官姜瓖に河上でこれを防がせたが、瓖は密かに降伏の意を通じて帰還した。景瑗はその変を知らなかった。山西が陥落すると、景瑗は瓖を招いて血をすすって守ることを誓わせた。瓖は出て人に告げて言った、「衛巡撫は秦の人であるから、賊に応じようとしている」。代王はこれを疑い、景瑗に会わず、永慶王は景瑗の従者を射殺した。ちょうど景瑗は足の病を患っており、時々出仕せず、軍事は瓖が主導した。瓖の兄の瑄は、かつて昌平総兵であり、瓖に賊への降伏を勧めた。瓖は配下が従わないのを懸念し、人々に銀をねぎらい、守城の将士を励ますと言い、代王はこれを信じた。諸郡王がそれぞれ城門を守り、瓖は各門に兵卒二百人を派遣して守備を助けさせた。

三月朔日(一日)に至り、賊が城下に到着した。瓖はすぐに永慶王を射殺し、城門を開いて賊を迎え入れた。景瑗に計事があると偽って呼び出し、景瑗が馬に乗って出ると、初めて変事を知り、自ら馬から落ちた。賊が彼を捕らえて自成に会わせると、自成は官に任じようとした。景瑗は地面に座り込み、皇帝を大声で呼んで泣いた。賊はその義を認め、「忠臣なり」と言って殺さなかった。景瑗は突然立ち上がり、頭で階の石に触れ、血が淋漓とした。賊が彼を引き出すと、振り返って瓖を見て罵った、「反賊よ、我と盟を結んでおきながら背いた。神がお前を赦すことがあろうか」。賊は景瑗の母に降伏を勧めさせた。景瑗は言った、「母は八十余歳、自ら計らうべきである。子は国の大臣、死なざるを得ない」。母が出た後、景瑗は人に言った、「私が賊を罵らなかったのは、母を全うするためである」。初六日に僧寺で自縊した。賊は嘆いて言った、「忠臣なり」。その妻子を空き家に移し、犯すなと戒めた。代王伝〓(欠字)斉とその宗室をほぼ皆殺しにした。

分巡副使朱家仕は、妻子妾子女をことごとく井戸に追い込み、自らもそれに従い、死者は十六人に及んだ。督儲郎中徐有聲、山陰知県李倬もまたこれに死した。諸生李若蔡は自らその壁に「一門完節」と題し、一家九人が自縊した。家仕は河州の人。

福王の時、景瑗に兵部尚書を追贈し、諡して忠毅とした。賊は大同を陥落させると、兵を以て陽和を巡行させ、宣府に向かって長駆した。

朱之馮、字は楽三、大興の人。天啓五年の進士。戸部主事に任じられ、河西務で税を徴収した。税収は超過し、公の金庫に貯蔵して私することはなかった。父の喪で去職した。

崇禎二年に元の官に起用され、員外郎に進んだ。過失に連座して、浙江布政司理問に左遷された。やがて行人司副に転じ、刑部郎中、浙江驛伝僉事、青州参議を歴任した。盗賊が沂水の民を襲い、多くの者が連座した。之馮は真の盗賊を捕らえ、大獄はことごとく解かれた。楽安の土豪李中行を捕らえて処罰したが、権貴が請願しても聞き入れなかった。副使に進み、上表文を携えて都に入り、家族を済南に寄宿させた。済南が陥落すると、妻の馮は姑と子を他所に匿わせ、自らは井戸に身を投げた。姑の李はこれを聞き、絶食して死んだ。棺が戻ると、之馮は墓の側に廬を結んで三年を過ごした。河東副使に起用された。河東の大悪党朱全宇は密かに秦の賊と通じており、之馮が着任するとこれを捕らえて殺し、管内は平穏になった。之馮は妻の死後再婚せず、妾も置かず、一室は寂然としていた。

十六年正月、右僉都御史に抜擢され、宣府を巡撫した。司餉主事張碩抱が兵糧を削って兵変を引き起こし、群衆が碩抱を縛り上げた。之馮が出て慰撫し、商人・民衆の資産を借りて分配し、密かに首謀者七人を捕らえて誅し、碩抱を弾劾して吏に下した。軍情は平穏になった。

翌年三月、李自成が大同を陥落させた。之馮は将吏を城楼に集め、高皇帝(朱元璋)の位を設け、血をすすって死守を誓い、賞格を掲げて将士を励ました。しかし人心はすでに離散し、監視中官杜勛は総兵王承允と先を争って降伏の意を通じようとし、之馮に会って叩頭し、城を以て賊に下るよう請うた。之馮は大いに罵って言った、「勛よ、お前は帝の信頼する所、特に派遣され、封疆をお前に託した。お前は到着するや賊に通じるとは、何の面目あって帝に会うか」。勛は答えず、笑って去った。やがて賊が到来しようとすると、勛は蟒袍を着て騶卒に声をかけさせ、郊外三十里で出迎え、将士は皆散り散りになった。之馮は城に登って嘆息し、大砲を見て左右に言った、「我がためにこれを発射せよ」。黙って応じる者はいなかった。自ら火をつけようとすると、砲口は釘で塞がれており、ある者は後ろからその肘を引っ張った。之馮は胸を撫でて嘆いて言った、「人心がここに至るとは思わなかった」。天を仰いで大声で泣いた。賊が城下に至ると、承允は門を開いてこれを入れ、賊は人を殺さず、徭役賦税を免除するという噂が流れると、城全体が沸き立ち喜び、彩りを結び香を焚いて迎えた。左右が之馮を擁して逃げ出そうとしたが、之馮が叱りつけた。そこで南に向かって叩頭し、遺表を草し、帝に人心を収め士節を励ますよう勧め、自縊して死んだ。賊は死体を濠に捨てたが、濠の傍らの犬は毎日人肉を食らうのに、之馮だけは損なわれなかった。

同日に死んだ者は、督糧通判朱敏泰、諸生姚時中、副将寧龍、及び獄に繋がれていた総兵官董用文、副将劉九卿、及び郷里に住む知県申以孝であり、他の義に死した婦女はまた十余人いた。福王の時、之馮に兵部尚書を追贈し、諡して忠壮とした。

勛は賊に降ると、京師攻めに従い、城中に矢文を射た。城中では初め勛が宣府で死んだと聞き、帝は追贈・恩蔭・祠建立を行っていたので、今これを鬼と思った。守城監王承恩が女墻にもたれてこれと語り、勛を縋り上げて帝に会わせると、勛は盛んに自成を称え、「上は自ら計らうべきである」と言った。再び縋り降ろすと、諸守監に笑いながら語って言った、「我々の富貴は自ずからある」と。

陳士奇は字を平人といい、漳浦の人である。学問を好み、文名があったが、兵事を知らなかった。天啓五年の進士に挙げられ、中書舎人に任じられた。崇禎四年に考選を受け、礼部主事に任じられ、広西提学僉事に抜擢された。父の喪で帰郷した。喪が明けると、重慶兵備に起用され、まもなく貴州に改められ、再び学政を監督した。母の喪が明けると、贛州兵備参議に起用され、副使に進み、四川の学政を監督した。廷臣が相次いで上疏して士奇が兵事に通じていると推薦した。

十五年秋、右僉都御史に抜擢され、廖大奇に代わって四川巡撫となった。松潘で兵変が起こり、数万の兵がいたが、士奇は禍福を説いて諭し、皆帰順した。揺賊・黄賊の十三家は、川東北を縦横に跋扈すること十数年、軍民を殺掠すること数知れず、少壮を捕らえて顔に入れ墨をして兵士とし、数十万に至った。士奇は副使の陳其赤・葛征奇、参将の趙栄貴らに檄を飛ばして進討させ、しばしば勝利を報告した。しかし賊は狡猾で、ついに制圧できなかった。士奇はもともと文人で、再び学政を監督し、諸生と兵事を談ずるのを好んだため、朝士は士奇が兵事に通じていると思った。節鉞を執ってからは、かえって文墨を事とし、軍政は廃弛した。石砫の女将秦良玉はかつて全しょくの形勢を図示し、兵を増やして十三の要害を分守し、賊の奔突を扼するよう請うたが、放置して問わず、蜀はこれによって擾乱した。

翌年十二月、朝廷の議論はその不適任を以て、龍文光を代わらせることを命じた。士奇はちょうど交代を待っていたところ、陽平の将趙光遠が兵二万を擁し、瑞王常浩を護衛して漢中から逃れて来奔し、難を避ける士民もまた数万に及び、保寧に至り、蜀人は震駭した。士奇は馳せて光遠を責めて言った、「もし陽平関に退いて守り、我がために防衛せんには、二万金を惜しまずして軍を犒うべし。もしここに駐屯せんには、厚い兵糧を要す、我が首は断たれようとも、兵糧は得られぬ。」光遠は退いて陽平に駐屯し、王は三千騎を以て重慶に奔った。翌年四月、文光が交代を受け、士奇は出発せんとしたが、京師の変報が届いた。士奇は自ら兵事に通じていると思い、「必ず国仇を報ぜん」と言い、そこで重慶に留まって駐在し、水師参将の曾英を遣わして忠州で賊を撃たせ、その舟を焼き、趙栄貴を遣わして梁山で賊を防がせた。献忠は葫蘆壩より左に歩兵、右に騎兵、舟を翼として進み上り、二将は敗走し、ついに仏図関を奪い、涪州を陥落させた。士奇は石砫に援兵を徴したが至らなかった。ある者が勧めて言った、「公はすでに職を辞した、去るべきである。」士奇は承知しなかった。賊が城下に迫ると、滾炮で撃ち、賊は無数に死んだ。二十日の夜、黒雲が四方に広がり、賊は地を穿って城を轟かせた。城は陥落し、王・士奇および副使の陳纁・知府の王行儉・知県の王錫は皆捕らえられた。士奇は大声で罵り、賊は教場に縛り付け、殺そうとしたが、突然雷雨が暗く覆い、咫尺も見えなくなった。献忠は仰いで罵って言った、「我が人を殺すこと、天の事と何の関わりあらんや!」大砲を以て天に向かって集中して撃った。やがて晴れ渡り、そこで殺戮をほしいままにした。士奇は罵り絶えずして死に、王もまた害に遇い、賊は軍民三万七千余人を集め、その腕を斬り落とした。ついに成都を犯した。

纁は、もと関南兵備副使で、瑞王を護衛して蜀に入り、難に及んだ。行儉は字を質行といい、宜興の人である。崇禎十年の進士で、重慶を守り、よく撫育統御に長け、賊に切り刻まれて死んだ。錫は新建の人で、崇禎十三年の進士で、巴県知県に任じられた。かつて士奇に従って土寇彭長庚の徒党を殲滅し、また揺賊・黄賊の首魁馬超を斬った。この時、賊は巨大な板で城を穿ち、錫は熱油を注いで多くを死なせた。捕らえられると、大声で罵り、その歯を抉られても罵りやまず、膝を捶いて跪かせようとしたが、ますます屹立した。教場に担がれて行き、樹に縛り付けて射られ、また切り刻まれて焼かれた。死んだ後、その骨を毀された。

指揮の顧景は城の陥落を聞き、瑞王府に入り、自らの乗馬に王を乗せ、鞭打って走り、賊に遇って呼んで言った、「賊は寧ろ我を殺せ、帝子を犯すなかれ。」賊は王を刺し殺し、景はそこで死んだ。

龍文光は馬平の人で、天啓二年の進士である。崇禎十七年、川北参政から右僉都御史に抜擢され、陳士奇に代わって四川巡撫となった。命令を聞き、総兵官の劉佳引とともに兵三千を率い、順慶より馳せて赴いた。部署も定まらぬうち、数日で城は陥落した。賊は文武の将吏および軍民の男女をことごとく東門の外に駆り立て、殺そうとしたが、突然龍の尾が垂れ下がり、賊は瑞祥と思い、そこで刑を止めた。文光・佳引はついに屈せず、賊は文光を濯錦橋で殺し、佳引は自ら浣花溪に投身した。

劉之勃は字を安侯といい、鳳翔の人である。崇禎七年の進士。行人に任じられ、御史に抜擢された。財を節約する六つの建議を上奏し、言うには、「先朝では馬は万を数え、草場はわずか五六所であったが、今は馬は漸く少なくなり、場はかえって二倍に増えている、節約できること一。水衡の工役費は、歳に幾百万に及ぶが、近ごろ明旨を奉じて、朝廷は興作を事とせず、しかるに節慎庫の額数は相変わらず常の如し、節約できること二。諸鎮の兵馬は時に敗潰するが、兵糧の額は減らず、虚伍必ず多し、節約できること三。光祿の宴享賜賚は、大抵簡素であるが、監局の厨役は冗濫が多い、節約できること四。三呉の織造、沢・潞の機杼、および香蠟・薬材・陶器は、歳として貢がないことはなく、内に積めば廃物となり、下に輸すれば皆金銭となる、節約できること五。軍前の監紀・監軍・賛画の官は、数えきれぬほど多く、平時には一人で千百人の兵糧を費やし、臨敵にはまた千百人で一人の身を衛い、食を消耗し兵をも消耗する、節約できること六。」また東廠の三弊を疏陳し、言うには、「東廠は緝訪を司るが、内は五城、外は巡按、および刑部・大理寺は皆その職を挙げられず、これは官守に不便である。奸民が千里を隔てて首告し、姓名を捏造し、一紙で株連し、万金がたちまち尽きる、これは民生に不便である。子弟が父兄を、奴僕が家主を、部民が官長を告発することを、東廠は皆喜んで聞く、これは国体に不便である。」帝は皆その言を容れた。

十五年、四川を巡察した。十六年秋、災異を類報し、賦を緩め刑を省くこともまた災を消す一つの術であると請うたが、時に用いられなかった。翌年正月、張献忠が川中の郡邑を大破した。四月、都城の失守を聞き、人心はますます恐れ騒いだ。挙人の楊鏘・劉道貞らが蜀王至澍を擁して監国させようと謀ったが、之勃は承知せず、池に躍り込んだので、議論はやんだ。八月、賊が成都に迫り、之勃は巡撫の龍文光・建昌兵備副使の劉士鬥らとともに城壁を分かって守り、総兵官の劉鎮藩は出戦して敗れた。賊は城を穿ち、火薬を詰め、また数丈の長さの大木を刳り合わせ、帛で巻き、薬を貯め、城楼に向けた。之勃は衆を励まして奮撃し、賊は二三里退き、皆喜んで、去ろうとしていると思った。初九日の黎明、火が発し、北楼が陥落し、木石が飛んで天を蔽い、城壁を守る者は皆散り、賊はついに城に入った。蜀王は妃妾を率いて菊井に自沈した。鎮藩は包囲を突破して出て、浣花溪に赴いて死んだ。之勃らは捕らえられ、賊は之勃が同郷であることを以て、用いようとしたが、之勃は百姓を殺さず、蜀世子を輔けて立てるよう勧めた。従わないので、ついに大声で罵り、賊は箭を集中して射殺した。時に福王が南京に立ち、之勃を右僉都御史に抜擢して四川巡撫としたが、すでに聞くに及ばなかった。

賛に曰く、潼関既に破れ、李自成勝に乗じて遂に三秦を有ち、河を渡りて東す、勢い燎原の若し。宣府・大同相継いで覆り、明の亡ぶること遂に決す。一時封疆の諸臣後先を争いて死す、烈しきと謂わざるべけんや。然れども平陽の旆甫に東し、船窩の警旋って告ぐ。死するは難からず、死を処する所以こそ難し、君子懋德に憾み無き能わざるなり。若し夫れ一鶴の死するは顕陵に、士奇の死するは夔州に、劉之勃・龍文光の死するは成都に、亦た死所を得たる者ならずや。