明史

列傳第一百五十 傅宗龍 汪喬年 楊文岳 孫傳庭

列傳第一百五十 傅宗龍 汪喬年 楊文岳 孫傳庭

原文列傳第一百五十 傅宗龍 汪喬年 楊文岳 孫傳庭

○傅宗龍汪喬年(張國欽等)楊文嶽(傅汝為等)孫傳庭

原文○傅宗龍汪喬年(張國欽等)楊文嶽(傅汝為等)孫傳庭

傅宗龍

原文傅宗龍

傅宗龍、字あざなは仲綸、昆明の人。萬暦三十八年の進士。銅梁知縣に任ぜられ、巴縣に転じ、行取されて戸部主事となる。久しくして、御史を授かる。

原文傅宗龍,字仲綸,昆明人。萬歷三十八年進士。除銅梁知縣,調巴縣,行取,入為戶部主事。久之,授御史。

天啓元年、遼陽が陥落し、帝が募兵の令を下すと、宗龍は行くことを請うた。一月余りで精兵五千を得た。翌年、安邦彥が反し、貴陽を包囲し、土寇が蜂起ほうきした。宗龍は帑金を発して滇の将士を救済し、建昌を開いて蜀より滇に入る道を通じ、別に偏沅巡撫を設け、湖廣の退怯総兵薛來允を罷めるよう請うた。帝は多くこれを採り入れた。また上疏して自ら賊を討つことを請い、「武定・尋甸の患となるは、東川の土酋祿千鐘。沾益・羅平の患となるは、賊婦設科及びその徒党李賢ら。普安を攻囲し、滇・黔の門戸の患となるは、龍文治の妻及びその徒党尹二。安南を困らせ、関索嶺を占拠するは、沙国珍及び羅応魁ら。烏撒を困らせるは、安効良。臣は皆その生平を知り、臣の敵ではない。臣は四川巡按を以て兼ねて貴州監軍となり、この群醜を滅ぼさんことを願う」と言上した。帝は大いに喜び、所司に議させた。時に宗龍は病により帰郷し、果たして行かなかった。

原文天啟元年,遼陽破,帝下募兵之令,宗龍請行。一月餘,得精卒五千。明年,安邦彥反,圍貴陽,土寇蜂起。請發帑金濟滇將士,開建昌,通由蜀入滇之路,別設偏沅巡撫,罷湖廣退怯總兵薛來允。帝多采納之。又上疏自請討賊,言:「為武定、尋甸患者,東川土酋祿千鐘。為沾益、羅平患者,賊婦設科及其黨李賢輩。攻圍普安,為滇、黔門戶患者,龍文治妻及其黨尹二。困安南,據關索嶺者,沙國珍及羅應魁輩。困烏撒者,安效良。臣皆悉其生平,非臣敵。臣願以四川巡按兼貴州監軍,滅此群醜。」帝大喜,下所司議。會宗龍以疾歸,不果行。

四年正月、貴州巡撫王三善が降賊陳其愚に欺かれて敗死した。その夏、家より宗龍を起用してその地を巡按させ、兼ねて監軍とした。初め、部の檄で滇撫閔洪学が黔を援けることとなったが、盤江を渡れずに止まっていた。宗龍が命を受けると、洪学は参政謝存仁・参将袁善及び土官普名声・沙如玉らに兵五千を率いて送らせた。宗龍は直ちに盤江を渡り、戦いながら進み、賊を悉く破った。そこで存仁・善を謝して帰し、名声らの土兵七百人を率いて貴陽に入り、其愚を擒斬し、軍民大いに快とした。宗龍は黔中の要害及び土酋の順逆、将士の勇怯を尽く知った。巡撫蔡復一は彼を倚り信じ、宗龍に軍務を専管させ、中軍旗鼓を設け、裨将ひしょう以下に賞罰を聴かせるよう請うた。帝はこれを許した。宗龍は方略を条上し、また黔中の艱苦を詳しく述べて大いに餉金を発するよう請うた。これも聞き届けられた。初め、三善は監軍道臣に諸将を節制させたため、文武和せず、進退牽制された。宗龍はそのやり方を改め、監軍に芻糧を給し、功罪を核することを命じ、進止を専断させなかった。これにより諸将は命を用い、連続して賊の汪家沖・蔣義寨を破り、織金に直抵した。

原文四年正月,貴州巡撫王三善為降賊陳其愚所紿,敗歿。其夏即家起宗龍巡按其地,兼監軍。初,部檄滇撫閔洪學援黔,以不能過盤江而止。宗龍既被命,洪學令參政謝存仁、參將袁善及土官普名聲、沙如玉等以兵五千送之。宗龍直渡盤江,戰且行,寇悉破。乃謝遣存仁、善,以名聲等土兵七百人入貴陽,擒斬其愚,軍民大快。宗龍盡知黔中要害及土酋逆順,將士勇怯。巡撫蔡復一倚信之,請敕宗龍專理軍務,設中軍旗鼓,裨將以下聽賞罰,可之。宗龍乃條上方略,又備陳黔中艱苦,請大發餉金,亦報可。初,三善令監軍道臣節制諸將,文武不和,進退牽制。宗龍反其所為,令監軍給芻糧,核功罪,不得專進止。由是諸將用命,連破賊汪家沖、蔣義寨,直抵織金。

五年正月、総理魯欽が陸広河で敗績した。宗龍は上言した。「滇・蜀と合せなければ、黔は賊を平らげられない。総督の任を専らにしなければ、滇・蜀の兵を合わせられない。朱燮元を召還し、復一に四川を兼ねて督させ、遵義に開府し、蜀撫を永寧に、滇撫を沾益に、黔撫を陸広に、沅撫を偏橋に駐屯させ、四面より並び進み、餉金二百万を給するよう請う。更に黔・蜀巡撫を設けるべきである」。帝は復一が新たに敗れたため、官を解かせ、即座に燮元を代えさせ、尹同臯をして蜀を撫せしめ、王瑊をして黔を撫せしめ、沅撫閔夢得を移鎮させ、ことごとく宗龍の議の通りとした。

原文五年正月,總理魯欽敗績於陸廣河。宗龍上言:「不合滇、蜀,則黔不能平賊;不專總督任,則不能合滇、蜀兵。請召還朱燮元,以復一兼督四川,開府遵義,而移蜀撫駐永寧,滇撫駐沾益,黔撫駐陸廣,沅撫駐偏橋,四面並進,發餉二百萬金給之。更設黔、蜀巡撫。」帝以復一新敗,令解官,即以燮元代,而命尹同臯撫蜀,王瑊撫黔,沅撫閔夢得移鎮,一如宗龍議。

陸広敗後、諸苗が再び蠢動した。復一と宗龍は謀り、烏粟・螺螄・長田の諸叛苗を討ち破り、平越賊を大破し、その砦百七十を毀ち、賊党は次第に孤立した。宗龍は屯守の策を条上し、言上した。

原文陸廣敗後,諸苗復蠢動。復一、宗龍謀,討破烏粟、螺螄、長田諸叛苗,大破平越賊,毀其砦百七十,賊黨漸孤。宗龍乃條上屯守策,言:

蜀は屯を以て守と為すが、黔は則ち守を以て屯と為すべきである。安酋の土地は半ば水外にあり、仡佬・龍仲・蔡苗の諸雑種は、緩急に応じてこれに相助ける。賊には外藩あり、我には辺蔽なし、これが黔兵が力を分けてますます詰まる所以である。臣が守を以て屯と為すと言うは、先ず兵を発して河を占拠し、賊の恃む所を奪う。然る後に諸種を撫剿し、渡口の大小に随い、大小の寨を置き、深溝高壘を築き、烽墩砲台を設ける。小渡は則ち木石を以て塞ぎ、一粟も水内に入らず、一賊も水外に出さず、賊は我を如何ともしがたい。また沿河の兵に水戦を習わせ、賊が耕耨する時に、頻りに奇兵を出し、渡河してこれを擾乱する。賊は河に沿って住むことを敢えず、然る後に我は屯を議することができる。

原文蜀以屯為守,黔則當以守為屯。蓋安酋土地半在水外,仡佬、龍仲、蔡苗諸雜種,緩急與相助。賊有外藩,我無邊蔽,黔兵所以分力愈詘。臣謂以守為屯者,先發兵據河,奪賊所恃。然後撫剿諸種,隨渡口大小,置大小寨,深溝高壘,置烽墩炮臺。小渡則塞以木石,使一粟不入水內,一賊不出水外,賊無如我何。又令沿河兵習水戰,當賊耕耨時,頻出奇兵,渡河擾之。賊不敢附河而居,而後我可以議屯也。

屯の策に二つある。一つは衛所の原田を清めること、一つは逆賊の故壌を割き、衛所の法を以てこれを行なうことである。黔は田無きを患えず、人無きを患う。客兵は聚散常なく、久しく駐屯できぬ。祖制に倣い、尽く屯田を挙げて有功の者に授け、功の大小に因り、官の高下を定め、指揮より総旗・小旗に至るまで、応得の田を与えて世業とし、その私売買を禁ずるに若くはない。招徠を待たずして、戸口自ずから実る。臣の謂う所の守を以て屯と為すとはこのようである。然れども兵は四万八千人を用い、餉は歳八十余万を要し、時は三年を閲すべきである。このようにして然る後に賊を尽く滅ぼすことができる。

原文屯之策有二:一曰清衛所原田,一曰割逆賊故壤,而以衛所之法行之。蓋黔不患無田,患無人。客兵聚散無常,不能久駐,莫若仿祖制,盡舉屯田以授有功,因功大小,為官高下,自指揮至總、小旗,畀以應得田為世業,而禁其私賣買。不待招徠,戶口自實。臣所謂以守為屯者如此。然兵當用四萬八千人,餉當歲八十餘萬,時當閱三年,如此而後賊可盡滅也。

部議はこれに従った。

原文部議從之。

復一が卒すると、王瑊が代わり、事は悉く宗龍に倚って行われた。宗龍は次第に水外の逆党を剪除し、将に大いに屯田を興さんとした。邦彥は懼れ、これを沮まんと謀り、六年三月、大挙して河を渡り入寇した。宗龍は邦彥の趙官屯を撃破し、老蟲添を斬り、威名大いに著わした。この時、大帥新たに亡び、全黔震動し、燮元は遠く蜀にあり、瑊は虚位を擁するのみで、宗龍がなければ、黔は危うかった。詔して太僕少卿を加えられた。憂いにより帰郷した。

原文復一卒,王瑊代,事悉倚辦。宗龍乃漸剪水外逆黨,將大興屯田。邦彥懼,謀沮之,六年三月,大舉渡河入寇。宗龍擊破邦彥趙官屯,斬老蟲添,威名大著。當是時,大帥新亡,全黔震動,燮元遠在蜀,瑊擁虛位,非宗龍,黔幾殆。詔加太僕少卿。憂歸。

崇禎三年、故官に起用された。孫承宗の推薦により、右僉都御史に擢げられ、順天を巡撫した。未だ幾ばくもなく、兵部右侍郎兼僉都御史に任ぜられ、薊・遼・保定の軍務を総督した。

原文崇禎三年起故官。用孫承宗薦,擢右僉都御史,巡撫順天。未幾,拜兵部右侍郎兼僉都御史,總督薊、遼、保定軍務。

些細な事由で官を奪われた。久しく閑居した後、十年十月、流寇が大いに蜀に入り、蜀の三十余州県を陥落させた。帝は髀を撫でて宗龍を思い、「宗龍に蜀を撫せしめていたなら、賊はどうしてここまで至っただろうか」と言い、急いで家より宗龍を起用させた。宗龍は蜀に至り、王維章に代わり総兵羅尚文と共に賊を防ぎ退けた。十二年五月、楊嗣昌の推薦により、兵部尚書として召され、蜀を去った。宗龍は黔の乱を定めて後、凡そ十四年、起用されると、用いられて久からずして転じ去った。八月に京に至り、帝に謁見した。宗龍は人となり伉直で気に任せ、諛い承意に従うことができなかった。帝は中樞の失職を憤り、嗣昌は権詭を以て主の知を得ていた。宗龍は朴忠で、初めて入見すると、即ち民窮財尽を言上した。帝は頗るこれを然りとしたが、宗龍が豤言止まず、遂に怫然として「卿は兵事を整理すべきである」と言った。退出後、帝は嗣昌に「どうしたものか。宗龍は黔の策に善く、しかるに言う所は卑卑として皆他人の唾余である。何故か」と語った。これより後、宗龍の奏請は多く中格された。

原文用小故奪官矣。居久之,十年十月流寇大入蜀,陷蜀三十餘州縣,帝拊髀而思宗龍曰:「使宗龍撫蜀,賊安至是哉!」趣即家起宗龍。宗龍至蜀,代王維章與總兵羅尚文禦卻賊。十二年五月,以楊嗣昌薦,召為兵部尚書,去蜀。宗龍自定黔亂後,凡十有四年,輒起用,用不久輒遷去。八月至京,入見帝。宗龍為人伉直任氣,不能從諛承意。帝憤中樞失職,嗣昌以權詭得主知。宗龍樸忠,初入見,即言民窮財盡。帝頗然之,顧豤言不已,遂怫然曰:「卿當整理兵事爾。」既退,語嗣昌曰:「何哉?宗龍善策黔,而所言卑卑,皆他人唾余,何也?」自是所奏請,多中格。

熊文燦が既に罷免されると、宗龍は言上した、「かつて賊は東西に流動突撃し、嗣昌はそれゆえに分かれて討伐する策を立てた。今や流動突撃する者はそれぞれその所に止まっている。臣は険しい勢いを収め、短い節度で効果を挙げることを請う。総理はただ楚・豫を管轄し、秦督は兼ねて四川を管轄し、鳳督は兼ねて安慶を管轄し、それぞれが管轄する撫鎮を率いて、十二月の成功を期すべきである」と。そこで湖広巡撫方孔炤が文燦に代わるに堪えると推薦した。帝は用いず、嗣昌を用いて師を督せしめた。

原文熊文粲既罷,宗龍乃言:「向者賊流突東西,嗣昌故建分剿之策。今則流突者各止其所,臣請收勢險節短之效。總理止轄楚、豫,秦督兼轄四川,鳳督兼轄安慶,各率所轄撫鎮,期十二月成功。」因薦湖廣巡撫方孔炤堪代文燦。帝不用,用嗣昌督師。

嗣昌が師を督することになると、上章して兵糧を請うたが、全て応じられず、中樞が任に堪えないと弾劾した。宗龍もまた嗣昌が徒らに国家を消耗疲弊させて、報効できず、気勢で廷臣を凌ぐと弾劾した。折しも薊遼総督洪承疇が劉肇基を団練総兵官に用いるよう請うと、宦官高起潜がまた肇基が臆病であると上告し、宗龍は直ちに返答しなかった。帝は遂に怒りを発し、抗旨の責を負わせ、陳状を命じた。奏上すると、再び封疆を軽視したとして獄吏に下した。法司は辺境に戍らせることを擬したが、許さず、死に置こうとした。獄中に二年いたが、十四年春、嗣昌が死ぬと、尚書陳新甲がその才能を推薦し、帝は応ずる言葉がなかったが、しばらくして言った、「朴忠である。我はかつての負い目ゆえに用いる。死力を尽くすべきである」と。遂に彼を釈放して獄から出し、兵部右侍郎兼右僉都御史として丁啓睿に代わり、陝西三辺の軍務を総督させた。

原文嗣昌既督師,上章請兵食,不悉應,劾中樞不任。宗龍亦劾嗣昌徒耗敝國家,不能報效,以氣淩廷臣。會薊遼總督洪承疇請用劉肇基為團練總兵官,中官高起潛又揭肇基恇怯,宗龍不即覆。帝遂發怒,責以抗旨,令對狀。奏上,復以戲視封疆下吏。法司擬戍邊,不許,欲置之死。在獄二年矣,十四年春,嗣昌死,尚書陳新甲薦其才,帝未有以應也,良久曰:「樸忠,吾以夙負用之,宜盡死力。」遂釋之出獄,以兵部右侍郎兼右僉都御史代丁啟睿,總督陜西三邊軍務。

この時、李自成は五十万の兵を有し、河・洛を陥落させた後、開封を犯し、羅汝才もまた南陽から鄧・淅へ急ぎ、合流した。帝は宗龍に専ら自成を討伐するよう命じた。関中の兵糧を全て徴発して出撃することを議したが、所属の郡は旱魃と蝗害こうがいに見舞われ、既に応じられなかった。

原文當是之時,李自成有眾五十萬,自陷河、洛,犯開封,羅汝才復自南陽趨鄧、淅,與合兵。帝命宗龍專辦自成。議盡括關中兵餉以出,然屬郡旱蝗,已不能應。

九月四日、川・陝の兵二万を率いて関を出て、新蔡に駐屯し、保督楊文嶽の兵と合流した。賀人龍・李国奇が秦兵を率い、虎大威が保兵を率い、共に浮橋を結び、東へ汝を渡り、合流して項城へ向かった。五日、両軍は渡河を終え、龍口へ向かった。自成・汝才もまた上流に浮橋を結び、汝寧へ向かおうとした。両督の兵が来るのを偵察し、精鋭を全て林中に伏せ、陽に諸賊を浮橋の西へ渡らせた。人龍が後騎に賊を偵察させると、戻って報告して言った、「賊は汝へ向かった。浮橋を結んで渡ろうとしている」と。宗龍・文嶽は夜に龍口で諸将と会し、明朝に戦おうとした。

原文九月四日,以川、陜兵二萬出關,次新蔡,與保督楊文嶽兵會。賀人龍、李國奇將秦兵,虎大威將保兵,共結浮橋,東渡汝,合兵趨項城。五日,兩軍畢渡,走龍口。自成、汝才亦結浮橋於上流,將趨汝寧。覘兩督兵至,盡伏精銳於林中,陽驅諸賊自浮橋西渡。人龍使後騎覘賊,還報曰:「賊向汝矣,結浮橋將渡矣。」宗龍、文嶽夜會諸將於龍口,詰朝將戰。

六日、両軍は並んで進み、途中で一騎が馳せて告げて言った、「賊は渡り終えました」と。さらに進むと、一騎が馳せて告げて言った、「賊は半分渡りました。三分の二が渡りました」と。宗龍・文嶽は言った、「追い立てよ」と。三十里走り、孟家莊に至った時、日は正午であった。人龍・大威は言った、「馬の力が尽きた。明朝に戦おう。兵を止めて営を為せ」と。諸軍は馬の甲を弛め、戈や矛を立て、散らばって村落を歩き飼料や水を求めた。賊がこれを偵察し、塵が林中に立ち上がると、伏兵が一斉に出て我が兵に搏ちかかった。人龍には千騎の馬兵がいたが戦わず、国奇が麾下の兵を率いて迎撃したが、勝てなかった。秦兵・保兵ともに潰走し、人龍・大威は沈丘へ奔り、国奇もそれに従い、三帥の師は潰えた。宗龍・文嶽は兵を合わせて火焼店に屯し、賊は歩兵でその営を攻めた。諸軍は大砲を鳴らし、賊百余を震死させた。日暮れに、賊は引き去った。宗龍の軍は西北に、文嶽の軍は東南に、塹壕を掘って守った。保兵は夜に潰走し、保督副将が文嶽を馬に乗せて馳せ、夜に項城へ奔った。宗龍はまた秦兵を分けて東南に営を立て、諸将はそれぞれ壁を築いて賊の陣営に対した。

原文六日,兩軍並進,中道一騎馳而告曰:「賊畢渡矣。」復進,一騎馳而告曰:「賊半渡矣,三分渡其二矣。」宗龍、文嶽曰:「驅之。」走三十里,至於孟家莊,日卓午。人龍、大威曰:「馬力乏矣,詰朝而戰,止兵為營。」諸軍弛馬甲,植戈錞,散行墟落求芻牧。賊覘之,塵起於林中,伏甲並出搏我兵。人龍有馬千騎不戰,國奇以麾下兵迎擊之,不勝。秦兵、保兵俱潰,人龍、大威奔沈丘,國奇從之,三帥師潰。宗龍、文嶽合兵屯火燒店,賊以步兵攻其營。諸軍鳴大炮,震死賊百餘。日暮,賊引去。宗龍軍西北,文嶽軍東南,畫塹而守。保兵宵潰,保督副將挾文嶽騎而馳,夜奔於項城。宗龍復分秦兵立營於東南,諸將分壁當賊壘。

九日、人龍・国奇に兵を返して救うよう檄を飛ばしたが、二帥は応じなかった。宗龍は言った、「彼らは死を避ける。来ないのは当然だ。我はどうして死を避けようか!」その麾下に語って言った、「宗龍は老いた。今日賊の中に陥った。諸軍と決死の戦いをせねばならぬ。他人のように甲を巻いて逃げる真似はできぬ」と。裨校の李本実を召し、文嶽の陣壁に沿って塹壕を穿ち、堡塁を築いて賊に抗させた。賊もまた二重の壕を穿ってこれを包囲した。

原文九日,檄人龍、國奇還兵救,二帥不應。宗龍曰:「彼避死,宜不來,吾豈避死哉!」語其麾下曰:「宗龍老矣,今日陷賊中,當與諸軍決一死戰,不能效他人卷甲走也。」召裨校李本實,即文嶽壁穿塹築壘以拒賊。賊亦穿壕二重以圍之。

十一日、秦師の食糧が尽き、宗龍は馬や騾を殺して軍に供した。翌日、営中の馬騾が尽き、賊を殺してその屍を分けて食った。十八日、営中の火薬・鉛弾・矢が共に尽きた。宗龍は士卒を選び、傷つき死に喪った余りで、六千の兵がいた。夜半、密かに諸軍を率いて賊の陣営を突破し、千余人を殺し、包囲を破って出た。諸軍は星散し、宗龍は徒歩で諸軍を率い、戦いながら走った。十九日、正午、項城に至る八里手前で、賊が追いつき、宗龍を捕らえ、城門に向かって呼んで言った、「秦督に従う官丁である。秦督を入れるよう門を開けよ」と。宗龍は大声で叫んだ、「我は秦督である。不幸にも賊の手に落ちた。左右は皆賊だ」と。賊は宗龍に唾を吐いた。宗龍は賊を罵って言った、「我は大臣である。殺すなら殺せ。どうして賊のために城を騙し取って死を緩めようか!」賊は刀を抜いて宗龍を撃ち、その脳を打って倒し、耳鼻をそぎ取って城下で死なせた。事が聞こえると、帝は言った、「このようであるなら、朴忠と言えよう」と。兵部尚書の官を回復し、太子少保を加え、忠壮と諡し、子に錦衣世襲百戸の蔭官を与え、祭葬を賜った。

原文十一日,秦師食盡,宗龍殺馬騾以享軍。明日,營中馬騾盡,殺賊取其屍分啖之。十八日,營中火藥、鉛子、矢並盡。宗龍簡士卒,夷傷死喪之余,有眾六千。夜半,潛勒諸軍突賊營,殺千餘人,潰圍出。諸軍星散,宗龍徒步率諸軍且戰且走。十九日,日卓午,未至項城八里,賊追及之,執宗龍,呼於門曰:「秦督圍隨官丁也,請啟門納秦督。」宗龍大呼曰:「我秦督也,不幸墮賊手,左右皆賊耳。」賊唾宗龍。宗龍罵賊曰:「我大臣也,殺則殺耳,豈能為賊賺城以緩死哉!」賊抽刀擊宗龍,中其腦而仆,檆其耳鼻死城下。事聞,帝曰:「若此,可謂樸忠矣。」復官兵部尚書,加太子少保,謚忠壯,蔭子錦衣世百戶,予祭葬。

人龍・国奇の兵は潰走して陝に帰り、賊は遂に項城を屠った。兵を分けて商水・扶溝を屠り、遂に葉県を攻めた。

原文人龍、國奇兵潰歸陜,賊遂屠項城。分兵屠商水、扶溝,遂攻葉縣。

汪喬年

原文汪喬年

汪喬年、字は歳星、遂安の人。天啓二年の進士。刑部主事に授かり、郎中を歴任した。母の喪で帰郷。

原文汪喬年,字歲星,遂安人。天啟二年進士。授刑部主事,歷郎中。母憂歸。

崇禎二年に工部に起用され、青州知府に遷る。治行が卓異であったため、登萊兵備副使に遷ったが、終養を乞うて帰郷した。父の喪が終わり、平陽で起官し、陝西右参政に遷り、学校を提督した。再び卓異により、そのまま按察使に遷った。喬年は清廉で自らを励まし、粗末な衣服と質素な食事をし、官に赴く時は二人の僕を連れ、家族を伴わなかった。青州では、廊下に土鍋を十数個置き、訴訟する者は自ら炊事して審判を待ち、吏は一銭も要求できなかった。自ら才武を負い、休暇の度に馬を馳せ、弓刀や撃刺を習い、風露の中に寝起きした。

原文崇禎二年起工部,遷青州知府。以治行卓異,遷登萊兵備副使,乞終養歸。父喪除,起官平陽,遷陜西右參政,提督學校。再以卓異,就遷按察使。喬年清若自勵,惡衣菲食,之官,攜二仆,不以家自隨。為青州,行廊置土銼十餘,訟者自炊候鞫,吏無敢索一錢。自負才武,休沐輒馳騎,習弓刀擊刺,寢處風露中。

十四年、右僉都御史に抜擢され、陝西を巡撫した。時に李自成は既に河南を破り、関に入ると声言していた。喬年は疾駆して商・洛に至ったが、賊を見なかった。賊が開封を包囲すると、三辺総督傅宗龍もまた陝に至り、兵を抽き餉を括ることを議したが、関中の兵糧は既に尽きて、応じるものはなかった。宗龍と喬年は手を握り合って歔欷して別れた。間もなく、宗龍が項城で敗死すると、喬年は涙を流して嘆いて言った、「傅公が死んだ。賊を討つ者はいなくなった」と。やがて、詔が喬年を兵部右侍郎に抜擢し、三辺軍務を総督して宗龍に代わらせたと聞いた。部からの檄が続いて至り、関を出るよう促した。この時、関中の精鋭は全て項城で失われていた。喬年は言った、「兵は疲れ餉は乏しい。まさに勢い盛んな賊に対し、我が出るのは、肉を虎に与えるようなものだ。しかし、一度は出て中原の人心を支えねばならぬ」と。そこで散亡した兵を収容し、辺境の兵卒を調発し、馬歩三万を得た。

原文十四年,擢右僉都御史,巡撫陜西。時李自成已破河南,聲言入關。喬年疾驅至商、洛,不見賊。賊圍開封,而三邊總督傅宗龍亦至陜,議抽兵括餉,則關中兵食已盡,無以應。宗龍、喬年握手欷歔而別。未幾,宗龍敗歿於項城,喬年流涕嘆曰:「傅公死,討賊無人矣。」已,又聞詔擢喬年兵部右侍郎,總督三邊軍務,代宗龍。部檄踵至,趣出關。是時,關中精銳盡沒於項城。喬年曰:「兵疲餉乏,當方張之寇。我出,如以肉餵虎耳。然不可不一出,以持中原心。」乃收散亡,調邊卒,得馬步三萬人。

十五年正月、総兵賀人龍・鄭嘉棟・牛成虎を率いて潼関を出た。先に、臨潁は賊の守るところとなり、左良玉が破ってこれを屠り、賊が掠奪したものを全て獲た。自成はこれを聞いて怒り、開封を捨てて良玉を攻め、良玉は郾城に退いて守り、賊は急に包囲した。喬年は諸将に議して言った、「郾城は旦夕に危うい。我が郾へ向かえば、賊は勢い盛んで、鋒を争うのは難しい。聞くところによると、襄城は郾から四舎(四十里)の距離で、賊の古い砦が皆そこにある。我が郾を捨てて精鋭でその必ず応ずる所を攻めれば、賊は必ず兵を返して救うであろう。そうすれば郾城の包囲は解ける。郾城が解ければ、我はその前を撃ち、良玉がその背を衝けば、賊は大破できるであろう」と。諸将は皆言った、「善し」と。そこで歩兵と火器を洛陽に留め、精騎一万人を選んで兼行で進んだ。郟県に駐屯すると、襄城の人張永祺らが喬年を迎えた。

原文十五年正月,率總兵賀人龍、鄭嘉棟、牛成虎出潼關。先是,臨潁為賊守,左良玉破而屠之,盡獲賊所擄。自成聞之怒,舍開封而攻良玉,良玉退保郾城,賊圍之急。喬年諸將議曰:「郾城危在旦夕。吾趨郾,賊方銳,難與爭鋒。吾聞襄城距郾四舍,賊老砦鹹在。吾舍郾而以精銳攻其必應,賊必還兵救,則郾城解矣。郾城解,我擊其前,良玉乘其背,賊可大破也。」諸將皆曰:「善。」乃留步兵火器於洛陽,簡精騎萬人兼程進。次郟縣,襄城人張永祺等迎喬年。

二月二日、喬年は襄城に入り、人龍・嘉棟・成虎の三軍を分けて、城東四十里に駐屯させ、郾城に迫って陣を張り、自らは兵を率いて城外に駐屯した。賊は果たして郾城の包囲を解き、襄城を救援した。賊が到着すると、三将は敗走し、良玉の救援は届かず、軍は大いに潰えた。喬年は嘆息して言った、「ここが我が死に場所である」と。歩卒千余人を率いて城に入り守備した。賊は地下に穴を穿ち火薬を詰めて城を攻め、喬年もまた井戸を掘り、賊の掘った穴を覗き、長矛でこれを刺した。賊が大砲で喬年の座標の旗を撃つと、城壁の女牆はことごとく砕け、左右の者が取り囲んで泣きながら避けるよう請うたが、喬年は怒り、足でその頭を蹴って言った、「汝らは死を恐れるが、私は死を恐れぬ」と。十七日、城は陥落し、巷戦して賊を三人殺し、自ら頸を刎ねたが死にきれず、賊に捕らえられ、大声で罵った。賊はその舌を切り、八つ裂きにして殺した。襄城の人々は祠を建てて彼を祀った。

原文二月二日,喬年入襄城,分人龍、嘉棟、成虎軍三路,駐城東四十里,逼郾城而軍,而自勒兵駐城外。賊果解郾城而救襄城。賊至,三帥奔,良玉救不至,軍大潰。喬年嘆曰:「此吾死所也。」率步卒千餘入城守。賊穴地實火藥攻城,喬年亦穿阱,視所鑿,長矛刺之。賊炮擊喬年坐纛,雉堞盡碎,左右環泣請避之,喬年怒,以足蹴其首曰:「汝畏死,我不畏死也。」十七日,城陷,巷戰,殺三賊,自剄不殊,為賊所執,大罵。賊割其舌,磔殺之。襄城人建祠而祀之。

時に張國欽・張一貫・黨威・李萬慶、および監紀西安同知の孫兆祿・材官の李可從・襄城知縣の曹思正が喬年に従い、皆これに殉じて死んだ。萬慶は、降将の射塌天である。また馬帥の某という者がいたが、その名は伝わらない。兆祿は塩山の人。可從は盩厔の人。黨威は神木の人。その他は詳らかでない。黨威はかつて西雒峪で賊を撃ち、賊首の竇阿婆を生け捕りにした者である。

原文時張國欽、張一貫、黨威、李萬慶及監紀西安同知孫兆祿、材官李可從、襄城知縣曹思正從喬年,皆死之。萬慶者,降將射塌天也。又有馬帥某者,逸其名。兆祿,鹽山人。可從,盩厔人。黨威,神木人。余莫考。黨威則嘗擊賊於西雒峪,擒賊首竇阿婆者也。

自成は永祺を捕らえ得ず、その一族を皆殺しにし、諸生の劉漢臣ら百九十人を鼻削ぎ・足切りにした。自成は数ヶ月の間に二度秦の軍を破り、馬二万頭を獲得し、秦兵数万を降し、その威は河雒に震動した。

原文自成購永祺不得,屠其族,劓刖諸生劉漢臣等百九十人。自成數月之間再敗秦師,獲馬二萬,降秦兵又數萬,威震河雒。

初め、喬年が陝西を巡撫した時、詔を奉じて自成の先祖の墳墓を暴いた。米脂の県令辺大受は、河間静海の挙人で、有能な県令であり、その族人の県吏となっている者を探し出し、拷問した。その者が言うには、「県から二百里離れた所に李氏村という所があり、乱山の中に、十六の墳墓が環状に葬られており、中央がその始祖である。伝えられるところでは、墓穴は仙人が定めたもので、壙中の鉄の灯明台の灯が消えなければ、李氏は興隆するという」。その言葉の通りに発掘すると、蟻塚が数石あり、火の光がぼんやりとしていた。棺を開けると、骨は青黒く、体には黄毛が生え、脳後の穴は銭のようで、赤い蛇が蟠り、三四寸の角があり飛び上がり、高さ一丈いちじょうほどになり、かみかみと日光を六七度呑み、再び伏した。喬年はその頭蓋骨を函に入れ、蛇を干物にして報告し、残りを焼き、穢物と混ぜて棄てた。自成はこれを聞き、歯を嚙みしめて大いに恨んで言った、「我は必ずや喬年に死を致さん」と。喬年を殺した後、西華から陳州を攻めた。

原文初,喬年之撫陜西也,奉詔發自成先冢。米脂令邊大受,河間靜海舉人,健令也,诇得其族人為縣吏者,掠之。言:「去縣二百里曰李氏村,亂山中,十六冢環而葬,中其始祖也。相傳,穴,仙人所定,壙中鐵燈檠,鐵燈不滅,李氏興。」如其言發之螻蟻數石,火光熒熒然。檆棺,骨青黑,被體黃毛,腦後穴大如錢,赤蛇盤,三四寸,角而飛,高丈許,咋咋吞日光者六七,反而伏。喬年函其顱骨、臘蛇以聞,焚其餘,雜以穢,棄之。自成聞之,嚙齒大恨曰:「吾必致死於喬年。」既殺喬年,由西華攻陳州。

楊文嶽

原文楊文嶽

楊文嶽、字は鬥望、南充の人。万暦四十七年進士。行人に授けられる。天啓五年、兵科給事中に抜擢され、累進して礼科都給事中となる。

原文楊文嶽,字鬥望,南充人。萬歷四十七年進士。授行人。天啟五年,擢兵科給事中,屢遷禮科都給事中。

崇禎二年、江西右参政として出向し、湖広・広西按察使、雲南・山西左右布政使を歴任し、右副都御史として登州・萊州を巡撫した。十二年、兵部右侍郎に抜擢され、保定・山東・河北の軍務を総督し、孫傳庭の後任となる。

原文崇禎二年,出為江西右參政,歷湖廣、廣西按察使,雲南、山西左右布政使,以右副都御史巡撫登、萊。十二年擢兵部右侍郎,總督保定、山東、河北軍務,代孫傳庭。

十四年正月、李自成が洛陽を陥落させ、開封を犯すと、文嶽は総兵虎大威を率いて二万の兵で救援に向かった。黄河を渡ると、賊は先に逃げ、鳴臯で追撃した。帰還し、開封に駐屯した。疫病が発生したため、汝寧に兵を留め、西平・新蔡の間に出て駐屯した。七月、自成は内郷・淅川に走り、羅汝才と合流した。文嶽は鄧州に向かい、自成は引き返してこれを攻めた。文嶽は三度戦って勝利し、その首領一条龍・一只龍を斬り、賊は逃走した。

原文十四年正月,李自成陷洛陽,犯開封,文嶽率總兵虎大威以眾二萬赴救。渡河,賊先遁,追擊於鳴臯。還,駐兵開封。疫作,乃頓兵於汝寧,出屯西平、新蔡間。七月,自成走內鄉、淅川,與羅汝才合。文嶽趨鄧州,自成還攻之。文嶽戰三捷,斬其魁一條龍、一只龍,賊遁去。

九月、新蔡で陝西総督傅宗龍と合流し、賊と遭遇し、孟家莊で大敗し、再び火焼店で敗れた。部将が文嶽を擁して夜に項城に入った。翌日陳州に奔り、宗龍はついに全滅した。事が上聞され、文嶽は官職を剥奪され、事官に充てられ、罪を戴いて自ら贖うこととなった。そこで散亡した兵を収集し、配下の兵を率いて巡撫高名衡の下で杞を防衛した。賊はついに葉県を破り、泌陽を抜き、勝に乗じて南陽を陥落させ、唐王を殺し、鄧州など十四城を落とし、再び開封を包囲した。

原文九月,會陜西總督傅宗龍於新蔡,與賊遇,大潰於孟家莊,再潰於火燒店。部將挾文嶽夜入於項城。明日奔陳州,宗龍遂覆沒。事聞,文嶽革職,充為事官,戴罪自贖。乃收集散亡,率所部就巡撫高名衡防杞。賊遂破葉縣,拔泌陽,乘勝陷南陽,殺唐王,下鄧州等十四城,再圍開封。

翌年正月、文嶽は開封に急行して救援し、功績により官職を回復した。臨潁は賊が守っており、左良玉がこれを破って皆殺しにし、郾城に退いて守った。自成が郾城を包囲した。二月、督師丁啓睿および文嶽・大威が郾城を救援した。賊は潰走し、官軍から数里離れて陣を張った。文嶽と啓睿は犄角の勢いをなし、十一昼夜持ちこたえた。総督汪喬年が関を出ると、賊は去り、再び開封を攻めた。六月、詔して侯恂を兵部右侍郎に起用し、保定・山東・河南・湖北の軍務を総督させ、文嶽の後任とした。関係官庁に命じて文嶽の罪状を調査させた。七月朔、文嶽・啓睿は良玉・大威および楊德政・方国安の四総兵の軍を合わせ、朱仙鎮に駐屯した。諸軍はことごとく潰え、啓睿・文嶽は汝寧に奔った。賊は黄河を渡り、四百里にわたって追撃し、官軍は数万を失った。詔して官職を剥奪し、取り調べを待たせた。

原文明年正月,文嶽馳救開封,論功復官。臨潁為賊守,左良玉破而屠之,退保郾城。自成圍郾城。二月,督師丁啟睿及文嶽、大威救郾城。賊潰,距官軍數里而營。文嶽、啟睿相掎角,持十一晝夜。總督汪喬年出關,賊引去,再攻開封。六月,詔起侯恂兵部右侍郎,總督保定、山東、河南、湖北軍務,代文嶽。命所司察文嶽罪狀。七月朔,文嶽、啟睿合良玉、大威及楊德政、方國安四總兵之師,次朱仙鎮。諸軍盡潰,啟睿、文嶽奔汝寧。賊渡河,追奔四百里,官軍失亡數萬。詔褫官候勘。

九月、文嶽は汝寧におり、夜に賊の陣営を襲撃して功績があった。賊は開封を水攻めにした後、すぐに孫傳庭の軍を破り、閏十一月に全軍を挙げて汝寧に迫り、老回回・革裏眼・左金王らがことごとく集結した。文嶽は都司康世徳に軽騎を率いて賊を偵察させたが、世徳は走って汝寧に戻り、その歩騎五百を率い、夜に火を放ち騒ぎながら奔った。十三日、群賊が一斉に到着し、汝寧から五里の所に迫って陣を張った。監軍僉事孔貞会は川兵を率いて城東に駐屯し、文嶽は保定兵を率いて城西に駐屯した。賊兵が進攻し、一昼夜相持した。川兵が潰え、数百の死傷者を出した。賊はその馬騾を奪い、全軍で保定兵を攻め、次第に支えきれなくなった。僉事王世琮・知府傅汝為・通判朱國寶は将士を縄で城内に入れ、副将賈悌・参将馮名聖もまた文嶽・貞会を支えて城に登らせた。

原文九月,文嶽在汝寧,夜襲賊營有功。賊既灌開封,旋敗孫傳庭兵,以閏十一月悉眾薄汝寧,老回回、革裏眼、左金王等畢會。文嶽遣都司康世德以輕騎偵賊,世德走還汝,將其步騎五百,夜縱火噪而奔。十三日,群賊並至,壓汝寧五里而軍。監軍僉事孔貞會以川兵屯城東,文嶽以保兵屯城西。賊兵進攻,相持一晝夜。川兵潰,殺傷數百。賊奪其馬騾,悉眾攻保兵,漸不支。僉事王世琮、知府傅汝為、通判朱國寶縋將士入城,副將賈悌、參將馮名聖亦掖文嶽、貞會登城。

翌日、賊は四面から環状に攻め、戸を盾にして陣を張り、矢石と雲梯が城壁のように立ち並んだ。城頭からは矢・砲・擂石が雨のように降り注ぎ、賊の死傷者は山のように積もったが、攻撃は止まなかった。一太鼓で百道から一斉に登城し、文嶽および世琮・國寶・悌・名聖を城頭で捕らえ、汝陽知縣文師頤を城上で殺した。汝為は変事を聞き、水に赴いて死んだ。賊は文嶽らを擁して自成に会わせたが、大声で罵ったので、賊は怒り、城南の三里鋪に縛り付け、大砲で撃ち、胸を貫き骨を糜爛させて死なせた。士民は数万が屠殺され、公私の官舎はほとんど焼き尽くされた。貞会は捕らえられて行方知れずとなった。自成は文嶽が忠義のために死んだことを以て、礼を尽くして葬った。そこで陣営を抜いて確山・信陽・泌陽に向かい、襄陽へ向かい、崇王由樻・崇世子・諸王妃および河南の懐安諸王を虜として連行した。

原文明日,賊四面環攻,戴扉以陣,矢石雲梯堵墻而立。城頭矢炮擂石雨集,賊死傷山積,而攻不休。一鼓百道並登,執文嶽及世琮、國寶、悌、名聖於城頭,殺汝陽知縣文師頤於城上。汝為聞變,赴水死。賊擁文嶽等見自成,大罵,賊怒,縛之城南三里鋪,以大炮擊之,洞胸糜骨而死。士民屠戮數萬,焚公私廨舍殆盡。貞會執去,不知所終。自成以文嶽死忠,備禮斂之。遂拔營走確山、信陽、泌陽,向襄陽,虜崇王由樻、崇世子、諸王妃及河南懷安諸王以行。

汝為、字は於宣、江陵の人。崇禎七年進士。世琮、字は仲発、達州の人。國寶は成都の人。師頤は全州の人。皆挙人である。世琮はかつて汝寧推官となり、土寇を討伐し、流れ矢が耳を貫いても動じず、当時「王鉄耳」と号された者である。師頤は着任してわずか三日であった。

原文汝為,字於宣,江陵人。崇禎七年進士。世琮,字仲發,達州人。國寶,成都人。師頤,全州人。皆舉人。世琮嘗為汝寧推官,討土寇,流矢貫耳不為動,時號王鐵耳者也。師頤蒞任甫三日。

孫傳庭

原文孫傳庭

孫傳庭、字は百雅、代州振武衛の人。父の代より上、四世にわたり郷挙された。傳庭は容姿が長身で立派、沈着剛毅で計略に富んだ。万暦四十七年進士となり、永城知縣に授けられ、才能を以て商丘に転任した。天啓初年、吏部驗封主事に抜擢され、累進して稽勲郎中となり、休暇を請いて帰郷した。家に居て長く出仕しなかった。

原文孫傳庭,字百雅,代州振武衛人。自父以上,四世舉於鄉。傳庭儀表頎碩,沈毅多籌略。萬歷四十七年成進士,授永城知縣,以才調商丘。天啟初,擢吏部驗封主事,屢遷稽勛郎中,請告歸。家居久不出。

崇禎八年(1635年)の秋、初めて驗封郎中に転じ、超遷して順天府丞となった。陝西巡撫甘學闊は賊を討つことができず、秦の士大夫が朝廷で騒ぎ立てたため、辺境の才を推挙して傅庭を用い、九年三月に交代した。傅庭が秦に臨むと、徴発と期日の取り決めを厳しくし、すべて軍興法に従った。秦人は彼を総督洪承疇ほどには愛さなかったが、その才は賊を処理するに足りた。賊首の整齊王が商州・雒南を占拠し、諸将は攻撃を恐れたが、副将羅尚文に檄を飛ばしてこれを撃ち斬らせた。

原文崇禎八年秋,始遷驗封郎中,超遷順天府丞。陜西巡撫甘學闊不能討賊,秦之士大夫嘩於朝,乃推邊才用傳庭,以九年三月受代。傳庭蒞秦,嚴征發期會,一從軍興法。秦人愛之不如總督洪承疇,然其才自足辦賊。賊首整齊王據商、雒,諸將不敢攻,檄副將羅尚文擊斬之。

この時、賊は関中を乱し、名のある者は数十人おり、高迎祥が最も強く、拓養坤の党が最も多く、いわゆる闖王・蠍子塊である。傅庭は方略を設け、盩厔の黒水峪で自ら迎祥を撃ち、これを捕らえ、その偽の領哨黄龍・総管劉哲を捕え、闕下に献俘した。功績を記録し、秩を一等増した。賊党はこれより李自成を共に闖王に推戴した。翌年、養坤とその党の張耀文が降伏して来た。やがて養坤は叛いて去り、その部下に命じて追撃斬殺させた。涇陽・三原で賊の惠登相を撃ち、登相は西へ逃走した。河南の賊馬進忠・劉国能ら十七部が渭南に入り、これを追撃して関外に出し、さらに河南兵と合流して挟撃し、先後千余級を斬首した。進忠らは再び商州・雒南・藍田をかき乱し、叛卒と合流し、西安を犯さんとした。左光先・曹変蛟を派遣してこれを渭南に追い走らせ、その渠帥きょすい一条龍を降伏させ、脅従者を招き還した。健児を募って残賊を撃ち、聖世王・瓦背・一翅飛を斬り、鎮天王・上山虎を降伏させ、さらに白捍賊の渠魁数人を殲滅した。関南はやや平靖となった。副将盛略らを派遣して宝鶏で賊の大天王を破り、賊は山谷に逃げ込み、傅庭はこれを鳳翔まで追撃した。他の賊が棧道から出て、関を越えて河南を犯さんと謀り、軍を返して撃ち、賊は斜谷に潜伏したが、再び大敗させ、その余衆を降伏させた。西安四衛には、旧来屯軍二万四千、田二万余頃があったが、後に田は豪右に帰し、軍はすべて虚籍となった。傅庭は整理して軍一万一千余を得、毎年屯課銀十四万五千余両、米麦一万三千五百余石を収めた。帝は大いに喜び、秩を増し、銀幣を賜った。

原文當是時,賊亂關中,有名字者以十數,高迎祥最強,拓養坤黨最眾,所謂闖王、蠍子塊者也。傳庭設方略,親擊迎祥於盩厔之黑水峪,擒之,及其偽領哨黃龍、總管劉哲,獻俘闕下。錄功,增秩一等。而賊黨自是乃共推李自成為闖王矣。明年,養坤及其黨張耀文來降。已而養坤叛去,諭其下追斬之。擊賊惠登相於涇陽、三原,登相西走。河南賊馬進忠、劉國能等十七部入渭南,追之出關,復合河南兵夾擊之,先後斬首千餘級。進忠等復擾商、雒、藍田,叛卒與之合,將犯西安。遣左光先、曹變蛟追走之渭南,降其渠一條龍,招還脅從。募健兒擊余賊,斬聖世王、瓦背、一翅飛,降鎮天王、上山虎,又殲白捍賊渠魁數人。關南稍靖。遣副將盛略等敗賊大天王於寶雞,賊走入山谷,傳庭追之鳳翔。他賊出棧道,謀越關犯河南,還軍擊,賊走伏斜谷,復大敗之,降其餘眾。西安四衛,舊有屯軍二萬四千,田二萬餘頃,其後田歸豪右,軍盡虛籍。傳庭厘得軍萬一千有奇,歲收屯課銀十四萬五千餘兩,米麥萬三千五百餘石。帝大喜,增秩,賚銀幣。

ちょうど楊嗣昌が本兵(兵部尚書)に入り、方略を上奏した。洪承疇は秦督として剿務を兼ね、広撫熊文燦を総理に用いた。四正六隅に分け、馬三步七とし、兵十二万を計り、加派して二百八十万とし、百日で賊を平定することを期した。傅庭は書を移して争い、「益なく、しかもこれに限らない。部卒はたびたび潰蹶し、民力は尽きており、命に堪えられない恐れがある。必ずこれを行おうとすれば、賊は必ずしも尽きず、害は国家に中る」と述べ、数千言に及び、嗣昌は大いに忤った。部議では、秦撫は一正面を担当し、土着一万人を募り、餉銀二十三万を与え、商州・雒南などを汛守とすべきとした。傅庭はこれが用いられないと知り、帑蔵を核査し、贖鍰を免除し、銀四万八千を得て、馬を買い兵を募り、自ら滅賊の具を整え、部議を用いなかった。ちょうど諸撫が募兵が定額に達したと報告したが、傅庭の上疏だけは届かなかった。嗣昌は軍法が秦で行われないと言い、自ら白衣領職を請うて、帝の怒りを煽った。傅庭は奏上して、「臣が他の撫のごとく、郡県の民兵を籍に上せば、すぐに定額に達したと言うが、ならば臣が先に報告した屯兵はすでに定額に達している。ましてさらに募練した馬歩軍は、数が一万を超えており、何ら部議に遵わないことはない。百日の期日、商州・雒南の汛守については、臣はともに委ねられない。しかし賊が商州・雒南に入り、臣が防禦できなければ、臣の罪を治めよ。もし臣が商州・雒南を扼し、期日を過ぎても賊を滅ぼせなければ、剿事を誤る者は必ずや臣ではない」と言った。嗣昌は難詰できなかったが、ますます恨んだ。傅庭は二度詔を奉じて秩を進められ、部銜を加えるべきであったが、嗣昌は抑えて奏上しなかった。十一年春、賊が漢陰・石泉を破ると、傅庭の失援に坐し、加えられた秩を削った。

原文會楊嗣昌入為本兵,條上方略。洪承疇以秦督兼剿務,而用廣撫熊文燦為總理。分四正六隅,馬三步七,計兵十二萬,加派至二百八十萬,期百日平賊。傳庭移書爭之,曰:「無益,且非特此也。部卒屢經潰蹶,民力竭矣,恐不堪命。必欲行之,賊不必盡,而害中於國家。」累數千言,嗣昌大忤。部議,秦撫當一正面,募土著萬人,給餉銀二十三萬,以商、雒等處為汛守。傳庭知其不可用也,乃核帑藏,蠲贖鍰,得銀四萬八千,市馬募兵,自辦滅賊具,不用部議。會諸撫報募兵及額,傳庭疏獨不至。嗣昌言軍法不行於秦,自請白衣領職,以激帝怒。傳庭奏曰:「使臣如他撫,籍郡縣民兵上之,遂謂及額,則臣先所報屯兵已及額矣。況更有募練馬步軍,數且逾萬,何嘗不遵部議。至百日之期,商、雒之汛守,臣皆不敢委。然使賊入商、雒,而臣不能禦,則治臣罪。若臣扼商、雒,而逾期不能滅賊,誤剿事者必非臣。」嗣昌無以難,然銜之彌甚。傳庭兩奉詔進秩,當加部銜,嗣昌抑弗奏。十一年春,賊破漢陰、石泉,則坐傳庭失援,削其所加秩。

傅庭は出て商州・雒南を扼した。大天王らが慶陽・宝鶏を犯し、軍を返して合水で戦い、これを破って走らせ、その二人の子を捕え、延安まで追撃した。過天星・混天星らが徽州・秦州から鳳翔に向かい、澄城に迫った。傅庭は兵を五道に分けて楊家嶺・黄龍山でこれを撃ち、大破し、二千余級を斬首した。大天王は二人の子が殺されなかったことを知り、遂に降伏した。賊は北に引き、延安を犯した。傅庭は、鄜州の西、合水の東三四百里は荒山邃谷であり、賊が入れば自ずから斃れると策し、標兵を率いて中部でその東を扼し、変蛟・慶陽に檄を飛ばしてその西を拒ませ、三水・淳化の間に伏兵を置いた。賊は飢えて出て食糧を掠奪すると、大いに旗幟を張り、鼓角を鳴らして邀撃し、一日夜に二百五十里を馳せた。賊は大いに驚き、西に奔り、職田庄に至り、伏兵に遇って敗れた。再び宝鶏に走り、棧道を取ったが、再び伏兵に中って大敗した。折れて隴州関山道に走ったが、また伏兵に挫かれた。三度敗れ、賊の死者は数えきれず、過天星・混天星はともに降伏した。さらに賊を邠州・寧州の間で追撃し、陣に陷り、その渠帥を捕えた。河南の賊馬進忠・馬光玉は宛・洛の衆を駆り、箕張して西に向かった。傅庭がこれを撃つと、賊は還って逃走した。さらに潼関原に伏兵を設け、変蛟が賊を追い伏兵に入らせた。闖王李自成は、洪承疇に追われ、その卒をすべて失い、十八騎で囲みを潰して遁走した。関中の群盗はすべて平定され、これは崇禎十一年春のことである。捷報が聞こえると、大いに喜び、先に澄城の捷を叙し、傅庭に部銜を加えるよう命じた。嗣昌はなおも阻んで奏上しなかった。

原文傳庭出扼商、雒。大天王等犯慶陽、寶雞,還軍戰合水,破走之,獲其二子,追擊之延安。過天星、混天星等從徽、秦趨鳳翔,逼澄城。傳庭分兵五道擊之楊家嶺、黃龍山,大破之,斬首二千餘級。大天王知二子不殺,遂降。賊引而北,犯延安。傳庭策鄜州西、合水東三四百里,荒山邃谷,賊入當自斃,乃率標兵中部遏其東,檄變蛟、慶陽拒其西,伏兵三水、淳化間。賊饑,出掠食,則大張旗幟,鳴鼓角以邀之,一日夜馳二百五十里。賊大驚,西奔,至職田莊,遇伏而敗;復走寶雞,取棧道,再中伏大敗;折而走隴州關山道,又為伏兵所挫。三敗,賊死者無算,過天星、混天星並降。又逐賊邠、寧間,陷陣,獲其渠。河南賊馬進忠、馬光玉驅宛、洛之眾,箕張而西。傳庭擊之,賊還走。又設伏於潼關原,變蛟逐賊入伏。而闖王李自成者,為洪承疇所逐,盡亡其卒,以十八騎潰圍遁。關中群盜悉平,是為崇禎之十一年春也。捷聞,大喜,先敘澄城之捷,命加傳庭部銜。嗣昌仍格不奏。

この時、総理熊文燦は撫(懐柔)を主とした。湖広の賊張献忠はすでに降伏し、ただ河南の賊は依然としていた。羅汝才・馬進忠・賀一龍・左金王ら十三部が西に潼関を窺い、連営数十里に及んだ。傅庭は計略して言った。「天下の大寇はすべてここにいる。我はその西を撃ち出し、総理はその東を撃てば、賊は降らなければ滅びる。この賊が平定されれば、天下に賊はなくなる。献忠はたとえ狙伏していても、為すところがない」と。そこで兵を率いて東に向かい、閿郷・霊宝の山間で賊を大破し、その営を貫いて東に進み、再び東から西に返った。賊は甚だ窮し、文燦の招降の手諭を上って、旦夕に降伏すると言った。傅庭は言った。「お前たちは日々熊公に撫を言いながら、日々堡を攻め寨を屠るのを止めないのは、偽りである。降伏するなら甲を解いて来い、言い訳があれば真の降伏ではなく、我は明日進兵する」と。明日甲を着て出ると、途中で文燦の檄を得て、「我が撫功を妬むな」と言い、さらに進むと、本兵嗣昌の手書も同様であった。傅庭は怏怏として兵を撤して還った。しかし賊はついに撫に就かず、商州・雒南に窺いを移した。文燦は後悔し、傅庭に夾撃を約した。属吏の王文清らが三戦三勝し、賊は内郷・淅川に奔って去った。傅庭はたびたび大功を立て、その将校も数度旨を奉じて優叙されたが、嗣昌は努めて抑えて奏上しなかった。傅庭は懇請してその籍を部に上せようとしたが、嗣昌は「待て」と言った。

原文當是時,總理熊文燦主撫。湖廣賊張獻忠已降,惟河南賊如故。羅汝才、馬進忠、賀一龍、左金王等十三部西窺潼關,聯營數十里。傳庭計曰:「天下大寇盡在此矣。我出擊其西,總理擊其東,賊不降則滅。此賊平,天下無賊矣。獻忠即狙伏,無能為也。」乃遂引兵東,大敗賊閿鄉、靈寶山間,貫其營而東,復自東以西。賊窘甚,以文燦招降手諭上,言旦夕且降。傳庭曰:「爾曹日就熊公言撫,而日攻堡屠寨不已,是偽也。降即解甲來,有說即非真降,吾明日進兵矣。」明日擐甲而出,得文燦檄於途中曰:「毋妒吾撫功。」又進,得本兵嗣昌手書,亦雲。傳庭怏怏撤兵還。然賊迄不就撫,移瞰商、雒。文燦悔,期傳庭夾擊。屬吏王文清等三戰三敗之,賊奔內鄉、淅川而去。傳庭既屢建大功,其將校數奉旨優敘,嗣昌務抑之不為奏。傳庭懇請上其籍於部,嗣昌曰:「需之。」

十月、京師は戒厳し、傅庭及び承疇を召して入衛させ、兵部右侍郎兼右僉都御史に抜擢し、総督盧象升に代わって諸鎮の援軍を督し、剣を賜う。この時、傅庭は兵を提げて近郊に至るが、嗣昌と協せず、また中官高起潜と忤り、降旨切責され、京師に朝することを得ず。承疇が至ると、郊労し、且つ陛見を命ぜられ、傅庭は觖望なきを得ず。間もなく、嗣昌は承疇を用いて薊督と為し、入援した秦兵を尽く留めて薊・遼を守らせんと欲す。傅庭曰く、「秦軍は留むべからず。留めれば則ち賊勢張り、辺に益無く、是れ賊に代わって兵を撤くなり。秦軍の妻子は俱に秦に在り、兵は日々賊を殺して以て利と為す、久しく辺に留まれば、嘩せざれば則ち逃げ、復た吾が用に為らず、必ず賊の用に為らん、是れ民を駆りて賊に従わしむるなり。安危の機、察せざるべからず」と。嗣昌聴かず。傅庭之を争うも得ず、郁郁勝えず、耳遂に聾す。

原文十月,京師戒嚴,召傳庭及承疇入衛,擢兵部右侍郎兼右僉都御史,代總督盧象升督諸鎮援軍,賜劍。當是時,傳庭提兵抵近郊,與嗣昌不協,又與中官高起潛忤,降旨切責,不得朝京師。承疇至,郊勞,且命陛見,傳庭不能無觖望。無何,嗣昌用承疇以為薊督,欲盡留秦兵之入援者守薊、遼。傳庭曰:「秦軍不可留也。留則賊勢張,無益於邊,是代賊撤兵也。秦軍妻子俱在秦,兵日殺賊以為利,久留於邊,非嘩則逃,不復為吾用,必為賊用,是驅民使從賊也。安危之機,不可不察也。」嗣昌不聽。傳庭爭之不能得,不勝郁郁,耳遂聾。

傅庭初めて命を受け、疏を上りて言う、「年来疆事の決裂は、計画の差謬に由る。事竣りて、当に面を請いて大計を決すべし」と。明年、帝傅庭を移して総督保定・山東・河南軍務と為す。既に厳を解き、疏を上りて陛見を請う。嗣昌大いに驚き、傅庭将に之を傾けんと謂い、来役を斥けて疏を賫して傅庭に還す。傅庭慍り、疾を引いて休を乞う。嗣昌又其の疾を托するを劾し、真の聾に非ずと、帝遂に怒りを発し、民に斥け、巡撫楊一俊を下して真偽を核せしむ。一俊奏言して、「真の聾、疾を托するに非ず」と。並びに一俊を獄に下す。傅庭長く繋がれて決を待つ、挙朝其の冤を知るも、言う者莫し。獄に在ること三年、文燦・嗣昌相継いで敗る。而して是の時、闖王李自成なる者は、已に河南を攻め破り、開封を犯し、宗龍を執り、唐王を殺し、兵散じて賊益々横し。帝傅庭の言を思い、朝士の薦むる者益々衆し。

原文傳庭初受命,疏言:「年來疆事決裂,由計畫差謬。事竣,當面請決大計。」明年,帝移傳庭總督保定、山東、河南軍務。既解嚴,疏請陛見。嗣昌大驚,謂傳庭將傾之,斥來役賫疏還之傳庭。傳庭慍,引疾乞休。嗣昌又劾其托疾,非真聾,帝遂發怒,斥為民,下巡撫楊一俊核真偽,一俊奏言:「真聾,非托疾。」並下一俊獄。傳庭長繋待決,舉朝知其冤,莫為言。在獄三年,文燦、嗣昌相繼敗。而是時,闖王李自成者,已攻破河南矣,犯開封,執宗龍,殺唐王,兵散而賊益橫。帝思傳庭言,朝士薦者益眾。

十五年正月、傅庭を起して兵部右侍郎と為し、親しく文華殿に御して賊を剿ぎ民を安んずるの策を問う。傅庭侃侃として言う。帝嗟嘆すること久しく、燕労賞賚甚だ渥く、禁旅を将いて開封を援けしむ。開封の囲み已に解け、賊陜督汪喬年を殺す。帝即ち傅庭を命じて往きて代わらしむ。諸将を関中に大いに集め、援剿総兵賀人龍を縛し、之を麾下に坐せ、数えて之を斬る。其の開県に噪ぎ帰り、猛帥以て孤軍利を失い而して献・曹出柙するを謂い、又其の敵に遇いて先ず潰え、新蔡・襄城連ねて二督を喪うを謂う。諸将洒然として色を動かさざる者莫し。

原文十五年正月,起傳庭兵部右侍郎,親御文華殿問剿賊安民之策,傳庭侃侃言。帝嗟嘆久之,燕勞賞賚甚渥,命將禁旅援開封。開封圍已解,賊殺陜督汪喬年,帝即命傳庭往代。大集諸將於關中,縛援剿總兵賀人龍,坐之麾下,數而斬之。謂其開縣噪歸,猛帥以孤軍失利而獻、曹出柙也;又謂其遇敵先潰,新蔡、襄城連喪二督也。諸將莫不灑然動色者。

傅庭既に人龍を誅殺し、威三辺を詟し、日夜軍を治めて賊を平らげるの計と為す。而して賊遂に已に再び開封を囲む。詔して御史蘇京に延・寧・甘・固の軍を監せしめ、傅庭を趣して関を出でしむ。傅庭上言して、「兵新たに募り、用に堪えず」と。帝聴かず。傅庭已むを得ず出師し、九月を以て潼関に抵る。大雨連旬、自成馬家口の河を決して開封を灌ぐ。開封已に陥ち、傅庭南陽に趨く。自成西行して秦師に逆う。傅庭三覆を設けて以て賊を待つ。牛成虎前軍を将い、左勷左を将い、鄭嘉棟右を将い、高傑中軍を将う。成虎陽に北して以て賊を誘い、賊奔りて伏中に入る。成虎兵を還して闘い、高傑・董学礼突起して之を翼し、左勷・鄭嘉棟左右横撃す。賊潰えて東に走り、首千余を斬る。三十里を追い、之に及ぶこと郟県の冢頭、賊甲仗軍資を道に棄つ。秦兵利に趨く。賊我が軍の囂るを覘い、反兵して之に乗ず。左勷・蕭慎鼎の師潰え、諸軍皆潰ゆ。副将孫枝秀馬を躍らせて以て賊を追い、数十騎を撃殺す。賊兵之を囲み、馳突して出づるを得ず、馬蹶ちて執らる。植立して撓まず。刃を以て之に臨むも、瞠目して答えず。一人曰く、「此れ孫副将なり」と。遂に之を殺す。参将黒尚仁亦執られて屈せずして見殺さる。覆軍数千、材官小将の歿する者、張渼奎・李棲鳳・任光裕・戴友仁以下七十有八人。賊其の喪う所の馬を倍して獲る。傅庭鞏に走り、孟より関に入り、慎鼎を執り斬る。勷を罰して馬二千を以てし、勷の父光先の故を以て、勷を貸す。是の役、天大雨、糧至らず、士卒青柿を采りて以て食し、凍え且つ餒ゆ、故に大敗す。豫人の謂う所の「柿園の役」なり。

原文傳庭既已誅殺人龍,威詟三邊,日夜治軍為平賊計,而賊遂已再圍開封。詔御史蘇京監延、寧、甘、固軍,趣傳庭出關。傳庭上言:「兵新募,不堪用。」帝不聽。傳庭不得已出師,以九月抵潼關。大雨連旬,自成決馬家口河灌開封。開封已陷,傳庭趨南陽,自成西行逆秦師。傳庭設三覆以待賊:牛成虎將前軍,左勷將左,鄭嘉棟將右,高傑將中軍。成虎陽北以誘賊,賊奔入伏中,成虎還兵而鬥,高傑、董學禮突起翼之,左勷、鄭嘉棟左右橫擊之。賊潰東走,斬首千餘。追三十里,及之郟縣之冢頭,賊棄甲仗軍資於道,秦兵趨利。賊覘我軍囂,反兵乘之,左勷、蕭慎鼎之師潰,諸軍皆潰。副將孫枝秀躍馬以追賊,擊殺數十騎,賊兵圍之,馳突不得出,馬蹶被執,植立不撓。以刃臨之,瞠目不答。一人曰:「此孫副將也。」遂殺之。參將黑尚仁亦被執不屈而見殺,覆軍數千,材官小將之歿者,張渼奎、李棲鳳、任光裕、戴友仁以下七十有八人。賊倍獲其所喪馬。傳庭走鞏,由孟入關,執斬慎鼎;罰勷馬以二千,以勷父光先故,貸勷。是役也,天大雨,糧不至,士卒采青柿以食,凍且餒,故大敗。豫人所謂「柿園之役」也。

伝庭は既に敗れて陝西に帰り、潼関を守り、京師の上流を扼することを計った。且つ我が軍は新たに集まったばかりで、速戦には不利であるから、乃ち益々勇士を募り、屯田を開き、兵器を繕い、粟を積み、三家より壮丁一人を出す。火車に火炮甲仗を載せるもの三萬輛、戦えば之を駆って拒馬とし、止まれば環らして以て自衛す。督工苛急にして、夜を以て日を継ぎ、秦の民堪えられず。而して関中は頻年に飢饉、大軍を駐めて餉乏しく、士大夫は伝庭の為す所に厭苦し、法を用いること厳しく、其の秦に在るを楽しまず。相与に朝に嘩して曰く、「秦督寇を玩ぶ」と。又相与に危語を以て之を恫脅して曰く、「秦督関を出でざれば、収者至らん」と。明年五月、命じて兼ねて河南・四川の軍務を督せしめ、尋いで兵部尚書に進み、督師と改称し、山西・湖広・貴州及び江南・北の軍務を督するを加え、剣を賜う。戦を趣ること益々急なり。伝庭頓足して嘆じて曰く、「奈何ぞや!吾固より往きて返らざるを知る。然れども大丈夫豈に再び獄吏に対せんや」と。頃之、已むを得ず遂に再び出師を議す。総兵牛成虎前鋒を将い、高傑中軍を将い、王定・官撫民延・寧の兵を将いて後勁と為し、白広恩火車営を統べ、左良玉を檄して汝寧に赴き夾撃せしむ。当是の時、自成は已に河南・湖北十余郡を据え有し、自ら新順王と号し、官を設け戍を置き、襄陽に営して之に居る。将に内・淅より商・雒を窺い、荊・襄の兵を尽く発して氾水・滎沢に会し、竹を伐り筏を結び、人三つの葫蘆を佩き、将に河を渡らんと謀る。伝庭兵を分かち防御す。八月十日、伝庭潼関より出師し、閿郷に次ぐ。二十一日、師陜州に次ぎ、河南諸軍を檄して河を渡り進剿せしむ。九月八日、師汝州に次ぎ、偽都尉四天王李養純降る。養純賊の虚実を言う:諸賊の老営は唐県に在り、偽将吏は宝豊に屯し、自成の精鋭は尽く襄城に聚まる、と。遂に賊宝豊を破り、偽州牧陳可新等を斬る。遂に唐県を搗ち、之を破り、家口を殺すこと殆んど尽くし、賊満営哭す。転戦して郟県に至り、遂に偽果毅将軍謝君友を擒にし、賊の坐纛を斫ち、尾いて自成を幾ばくも獲んとす。賊襄城に奔り、大軍遂に進みて襄城に逼る。賊懼れて降らんと謀るも、自成曰く、「畏るる無かれ!我王を殺し陵を焚く、罪大なり、姑く一死戦を決せん。勝たざれば、則ち我を殺して降るも未だ晩からず」と。而して大軍の時は皆露宿して賊と持し、久雨道濘み、糧車前へ進まず。士飢え、郟を攻めて之を破り、馬騾を獲て啖うも立ちどころに尽く。雨七日夜止まず、後軍汝州に嘩す。賊大いに至り、流言四起す。已むを得ず軍を還して糧を迎え、陳永福を留めて後拒と為す。前軍既に移り、後軍乱れ、永福之を斬るも止む能わず。賊之を追いて南陽に及び、官軍還り戦う。賊陣五重、饑民外に処り、次に歩卒、次に馬軍、又次に驍ぎょう騎、老営の家口内に処る。戦いて其の三重を破る。賊の驍騎殊死しゅしに闘い、我が師陣稍動き、広恩の軍火車を将うる者呼んで曰く、「師敗れたり」と。挽輅を脱して奔り、車傾き道を塞ぎ、馬衡に掛かって前へ進まず、賊の鉄騎凌ぎて之を騰し、歩賊手に白棓を持ち遮り撃ち、中る者は首兜鍪倶に砕く。自成空壁して我を躡い、一日夜、官兵狂奔四百里、孟津に至り、死者四万余、失亡する兵器輜重しちょう数十万。伝庭単騎垣曲を渡り、閿郷より済る。賊督師の坐纛を獲、勝に乗じて潼関を破り、官軍を大敗す。伝庭監軍副使喬遷高と躍馬大呼して陣に歿し、広恩賊に降る。伝庭の屍竟に得可からず。伝庭死して、関以內堅城無し。

原文傳庭既已敗歸陜西,計守潼關,扼京師上遊。且我軍新集,不利速戰,乃益募勇士,開屯田,繕器,積粟,三家出壯丁一。火車載火炮甲仗者三萬輛,戰則驅之拒馬,止則環以自衛。督工苛急,夜以繼日,秦民不能堪。而關中頻歲饑,駐大軍餉乏,士大夫厭苦傳庭所為,用法嚴,不樂其在秦。相與嘩於朝曰:「秦督玩寇矣。」又相與危語恫脅之曰:「秦督不出關,收者至矣。」明年五月,命兼督河南、四川軍務,尋進兵部尚書,改稱督師,加督山西、湖廣、貴州及江南、北軍務,賜劍。趣戰益急。傳庭頓足嘆曰:「奈何乎!吾固知往而不返也。然大丈夫豈能再對獄吏乎!」頃之,不得已遂再議出師。總兵牛成虎將前鋒,高傑將中軍,王定、官撫民將延、寧兵為後勁,白廣恩統火車營,檄左良玉赴汝寧夾擊。當是時,自成已據有河南、湖北十餘郡,自號新順王,設官置戍,營襄陽而居之。將由內、淅窺商、雒,盡發荊、襄兵會於氾水、滎澤,伐竹結筏,人佩三葫蘆,將謀渡河。傳庭分兵防禦。八月十日,傳庭出師潼關,次於閿鄉。二十一日,師次陜州,檄河南諸軍渡河進剿。九月八日,師次汝州,偽都尉四天王李養純降。養純言賊虛實:諸賊老營在唐縣,偽將吏屯寶豐,自成精銳盡聚於襄城。遂破賊寶豐,斬偽州牧陳可新等。遂搗唐縣,破之,殺家口殆盡,賊滿營哭。轉戰至郟縣,遂擒偽果毅將軍謝君友,斫賊坐纛,尾自成幾獲。賊奔襄城,大軍遂進逼襄城。賊懼謀降,自成曰:「無畏!我殺王焚陵,罪大矣,姑決一死戰。不勝,則殺我而降未晚也。」而大軍時皆露宿與賊持,久雨道濘,糧車不能前。士饑,攻郟破之,獲馬騾啖之立盡。雨七日夜不止,後軍嘩於汝州。賊大至,流言四起。不得已還軍迎糧,留陳永福為後拒。前軍既移,後軍亂,永福斬之不能止。賊追及之南陽,官軍還戰。賊陣五重,饑民處外,次步卒,次馬軍,又次驍騎,老營家口處內。戰破其三重。賊驍騎殊死鬥,我師陣稍動,廣恩軍將火車者呼曰:「師敗矣!」脫挽輅而奔,車傾塞道,馬掛於衡不得前,賊之鐵騎淩而騰之,步賊手白棓遮擊,中者首兜鍪俱碎。自成空壁躡我,一日夜,官兵狂奔四百里,至於孟津,死者四萬餘,失亡兵器輜重數十萬。傳庭單騎渡垣曲,由閿鄉濟。賊獲督師坐纛,乘勝破潼關,大敗官軍。傳庭與監軍副使喬遷高躍馬大呼而歿於陣,廣恩降賊。傳庭屍竟不可得。傳庭死,關以內無堅城矣。

初め、伝庭の出師するや、自ら必ず死すと分ち、顧みて継妻張夫人に語りて曰く、「爾は若何」と。夫人曰く、「丈夫国に報ゆるのみ、我を憂うる毋れ」と。及んで西安破るるや、張二女三妾を率いて井に沈み、其の八歳の児世寧を揮って亟に賊を避けて去らしむ。児墻を逾えて民舎に墮ち、一老翁之を収養す。長子世瑞之を聞き、重趼して秦に入り、夫人の屍を井中に得るに、面生けるが如し。翁其の弟世寧を帰し、相扶け携えて還る。道路に見る者、知ると知らざると倶に泣下す。伝庭の死する時、年五十有一なり。伝庭再び出師するも皆雨に敗るるなり。或いは伝庭未だ死せずと言う者あり、帝之を疑う、故に贈蔭を与えず。伝庭死して而して明亡ぶ。

原文初,傳庭之出師也,自分必死,顧語繼妻張夫人曰:「爾若何?」夫人曰:「丈夫報國耳,毋憂我。」及西安破,張率二女三妾沈於井,揮其八歲兒世寧亟避賊去之。兒逾墻墮民舍中,一老翁收養之。長子世瑞聞之,重趼入秦,得夫人屍井中,面如生。翁歸其弟世寧,相扶攜還。道路見者,知與不知皆泣下。傳庭死時,年五十有一矣。傳庭再出師皆以雨敗也。或言傳庭未死者,帝疑之,故不予贈蔭。傳庭死而明亡矣。

【贊】

原文【贊】

贊に曰く、流賊中原に蔓延し、恃む所以て賊を禦ぐ者は独り秦兵のみ。傅宗龍・孫伝庭遠近相望み、倚りて以て賊を辦ぜんとす。汪喬年・楊文嶽奮力して以て賊鋒に当たるも、而して終に潰僨す。此れ殆ど天有り、其の才の任に非ざるに非ず。伝庭敗死し、賊遂に関に入り、勢以て愈々熾なり。存亡の際、系る所豈に重からずや。

原文贊曰:流賊蔓延中原,所恃以禦賊者獨秦兵耳。傅宗龍、孫傳庭遠近相望,倚以辦賊。汪喬年、楊文嶽奮力以當賊鋒,而終於潰僨。此殆有天焉,非其才之不任也。傳庭敗死,賊遂入關,勢以愈熾。存亡之際,所系豈不重哉!