明史

列傳第一百五十 傅宗龍 汪喬年 楊文岳 孫傳庭

○傅宗龍汪喬年(張國欽等)楊文嶽(傅汝為等)孫傳庭

傅宗龍

傅宗龍、字は仲綸、昆明の人。萬暦三十八年の進士。銅梁知縣に任ぜられ、巴縣に転じ、行取されて戸部主事となる。久しくして、御史を授かる。

天啓元年、遼陽が陥落し、帝が募兵の令を下すと、宗龍は行くことを請うた。一月余りで精兵五千を得た。翌年、安邦彥が反し、貴陽を包囲し、土寇が蜂起した。宗龍は帑金を発して滇の将士を救済し、建昌を開いてしょくより滇に入る道を通じ、別に偏沅巡撫を設け、湖廣の退怯総兵薛來允を罷めるよう請うた。帝は多くこれを採り入れた。また上疏して自ら賊を討つことを請い、「武定・尋甸の患となるは、東川の土酋祿千鐘。沾益・羅平の患となるは、賊婦設科及びその徒党李賢ら。普安を攻囲し、滇・黔の門戸の患となるは、龍文治の妻及びその徒党尹二。安南を困らせ、関索嶺を占拠するは、沙国珍及び羅応魁ら。烏撒を困らせるは、安効良。臣は皆その生平を知り、臣の敵ではない。臣は四川巡按を以て兼ねて貴州監軍となり、この群醜を滅ぼさんことを願う」と言上した。帝は大いに喜び、所司に議させた。時に宗龍は病により帰郷し、果たして行かなかった。

四年正月、貴州巡撫王三善が降賊陳其愚に欺かれて敗死した。その夏、家より宗龍を起用してその地を巡按させ、兼ねて監軍とした。初め、部の檄で滇撫閔洪学が黔を援けることとなったが、盤江を渡れずに止まっていた。宗龍が命を受けると、洪学は参政謝存仁・参将袁善及び土官普名声・沙如玉らに兵五千を率いて送らせた。宗龍は直ちに盤江を渡り、戦いながら進み、賊を悉く破った。そこで存仁・善を謝して帰し、名声らの土兵七百人を率いて貴陽に入り、其愚を擒斬し、軍民大いに快とした。宗龍は黔中の要害及び土酋の順逆、将士の勇怯を尽く知った。巡撫蔡復一は彼を倚り信じ、宗龍に軍務を専管させ、中軍旗鼓を設け、裨将以下に賞罰を聴かせるよう請うた。帝はこれを許した。宗龍は方略を条上し、また黔中の艱苦を詳しく述べて大いに餉金を発するよう請うた。これも聞き届けられた。初め、三善は監軍道臣に諸将を節制させたため、文武和せず、進退牽制された。宗龍はそのやり方を改め、監軍に芻糧を給し、功罪を核することを命じ、進止を専断させなかった。これにより諸将は命を用い、連続して賊の汪家沖・蔣義寨を破り、織金に直抵した。

五年正月、総理魯欽が陸広河で敗績した。宗龍は上言した。「滇・蜀と合せなければ、黔は賊を平らげられない。総督の任を専らにしなければ、滇・蜀の兵を合わせられない。朱燮元を召還し、復一に四川を兼ねて督させ、遵義に開府し、蜀撫を永寧に、滇撫を沾益に、黔撫を陸広に、沅撫を偏橋に駐屯させ、四面より並び進み、餉金二百万を給するよう請う。更に黔・蜀巡撫を設けるべきである」。帝は復一が新たに敗れたため、官を解かせ、即座に燮元を代えさせ、尹同臯をして蜀を撫せしめ、王瑊をして黔を撫せしめ、沅撫閔夢得を移鎮させ、ことごとく宗龍の議の通りとした。

陸広敗後、諸苗が再び蠢動した。復一と宗龍は謀り、烏粟・螺螄・長田の諸叛苗を討ち破り、平越賊を大破し、その砦百七十を毀ち、賊党は次第に孤立した。宗龍は屯守の策を条上し、言上した。

蜀は屯を以て守と為すが、黔は則ち守を以て屯と為すべきである。安酋の土地は半ば水外にあり、仡佬・龍仲・蔡苗の諸雑種は、緩急に応じてこれに相助ける。賊には外藩あり、我には辺蔽なし、これが黔兵が力を分けてますます詰まる所以である。臣が守を以て屯と為すと言うは、先ず兵を発して河を占拠し、賊の恃む所を奪う。然る後に諸種を撫剿し、渡口の大小に随い、大小の寨を置き、深溝高壘を築き、烽墩砲台を設ける。小渡は則ち木石を以て塞ぎ、一粟も水内に入らず、一賊も水外に出さず、賊は我を如何ともしがたい。また沿河の兵に水戦を習わせ、賊が耕耨する時に、頻りに奇兵を出し、渡河してこれを擾乱する。賊は河に沿って住むことを敢えず、然る後に我は屯を議することができる。

屯の策に二つある。一つは衛所の原田を清めること、一つは逆賊の故壌を割き、衛所の法を以てこれを行なうことである。黔は田無きを患えず、人無きを患う。客兵は聚散常なく、久しく駐屯できぬ。祖制に倣い、尽く屯田を挙げて有功の者に授け、功の大小に因り、官の高下を定め、指揮より総旗・小旗に至るまで、応得の田を与えて世業とし、その私売買を禁ずるに若くはない。招徠を待たずして、戸口自ずから実る。臣の謂う所の守を以て屯と為すとはこのようである。然れども兵は四万八千人を用い、餉は歳八十余万を要し、時は三年を閲すべきである。このようにして然る後に賊を尽く滅ぼすことができる。

部議はこれに従った。

復一が卒すると、王瑊が代わり、事は悉く宗龍に倚って行われた。宗龍は次第に水外の逆党を剪除し、将に大いに屯田を興さんとした。邦彥は懼れ、これを沮まんと謀り、六年三月、大挙して河を渡り入寇した。宗龍は邦彥の趙官屯を撃破し、老蟲添を斬り、威名大いに著わした。この時、大帥新たに亡び、全黔震動し、燮元は遠く蜀にあり、瑊は虚位を擁するのみで、宗龍がなければ、黔は危うかった。詔して太僕少卿を加えられた。憂いにより帰郷した。

崇禎三年、故官に起用された。孫承宗の推薦により、右僉都御史に擢げられ、順天を巡撫した。未だ幾ばくもなく、兵部右侍郎兼僉都御史に任ぜられ、薊・遼・保定の軍務を総督した。

些細な事由で官を奪われた。久しく閑居した後、十年十月、流寇が大いに蜀に入り、蜀の三十余州県を陥落させた。帝は髀を撫でて宗龍を思い、「宗龍に蜀を撫せしめていたなら、賊はどうしてここまで至っただろうか」と言い、急いで家より宗龍を起用させた。宗龍は蜀に至り、王維章に代わり総兵羅尚文と共に賊を防ぎ退けた。十二年五月、楊嗣昌の推薦により、兵部尚書として召され、蜀を去った。宗龍は黔の乱を定めて後、凡そ十四年、起用されると、用いられて久からずして転じ去った。八月に京に至り、帝に謁見した。宗龍は人となり伉直で気に任せ、諛い承意に従うことができなかった。帝は中樞の失職を憤り、嗣昌は権詭を以て主の知を得ていた。宗龍は朴忠で、初めて入見すると、即ち民窮財尽を言上した。帝は頗るこれを然りとしたが、宗龍が豤言止まず、遂に怫然として「卿は兵事を整理すべきである」と言った。退出後、帝は嗣昌に「どうしたものか。宗龍は黔の策に善く、しかるに言う所は卑卑として皆他人の唾余である。何故か」と語った。これより後、宗龍の奏請は多く中格された。

熊文燦が既に罷免されると、宗龍は言上した、「かつて賊は東西に流動突撃し、嗣昌はそれゆえに分かれて討伐する策を立てた。今や流動突撃する者はそれぞれその所に止まっている。臣は険しい勢いを収め、短い節度で効果を挙げることを請う。総理はただ楚・を管轄し、秦督は兼ねて四川を管轄し、鳳督は兼ねて安慶を管轄し、それぞれが管轄する撫鎮を率いて、十二月の成功を期すべきである」と。そこで湖広巡撫方孔炤が文燦に代わるに堪えると推薦した。帝は用いず、嗣昌を用いて師を督せしめた。

嗣昌が師を督することになると、上章して兵糧を請うたが、全て応じられず、中樞が任に堪えないと弾劾した。宗龍もまた嗣昌が徒らに国家を消耗疲弊させて、報効できず、気勢で廷臣を凌ぐと弾劾した。折しも薊遼総督洪承疇が劉肇基を団練総兵官に用いるよう請うと、宦官高起潜がまた肇基が臆病であると上告し、宗龍は直ちに返答しなかった。帝は遂に怒りを発し、抗旨の責を負わせ、陳状を命じた。奏上すると、再び封疆を軽視したとして獄吏に下した。法司は辺境に戍らせることを擬したが、許さず、死に置こうとした。獄中に二年いたが、十四年春、嗣昌が死ぬと、尚書陳新甲がその才能を推薦し、帝は応ずる言葉がなかったが、しばらくして言った、「朴忠である。我はかつての負い目ゆえに用いる。死力を尽くすべきである」と。遂に彼を釈放して獄から出し、兵部右侍郎兼右僉都御史として丁啓睿に代わり、陝西三辺の軍務を総督させた。

この時、李自成は五十万の兵を有し、河・洛を陥落させた後、開封を犯し、羅汝才もまた南陽から鄧・淅へ急ぎ、合流した。帝は宗龍に専ら自成を討伐するよう命じた。関中の兵糧を全て徴発して出撃することを議したが、所属の郡は旱魃と蝗害に見舞われ、既に応じられなかった。

九月四日、川・陝の兵二万を率いて関を出て、新蔡に駐屯し、保督楊文嶽の兵と合流した。賀人龍・李国奇が秦兵を率い、虎大威が保兵を率い、共に浮橋を結び、東へ汝を渡り、合流して項城へ向かった。五日、両軍は渡河を終え、龍口へ向かった。自成・汝才もまた上流に浮橋を結び、汝寧へ向かおうとした。両督の兵が来るのを偵察し、精鋭を全て林中に伏せ、陽に諸賊を浮橋の西へ渡らせた。人龍が後騎に賊を偵察させると、戻って報告して言った、「賊は汝へ向かった。浮橋を結んで渡ろうとしている」と。宗龍・文嶽は夜に龍口で諸将と会し、明朝に戦おうとした。

六日、両軍は並んで進み、途中で一騎が馳せて告げて言った、「賊は渡り終えました」と。さらに進むと、一騎が馳せて告げて言った、「賊は半分渡りました。三分の二が渡りました」と。宗龍・文嶽は言った、「追い立てよ」と。三十里走り、孟家莊に至った時、日は正午であった。人龍・大威は言った、「馬の力が尽きた。明朝に戦おう。兵を止めて営を為せ」と。諸軍は馬の甲を弛め、戈や矛を立て、散らばって村落を歩き飼料や水を求めた。賊がこれを偵察し、塵が林中に立ち上がると、伏兵が一斉に出て我が兵に搏ちかかった。人龍には千騎の馬兵がいたが戦わず、国奇が麾下の兵を率いて迎撃したが、勝てなかった。秦兵・保兵ともに潰走し、人龍・大威は沈丘へ奔り、国奇もそれに従い、三帥の師は潰えた。宗龍・文嶽は兵を合わせて火焼店に屯し、賊は歩兵でその営を攻めた。諸軍は大砲を鳴らし、賊百余を震死させた。日暮れに、賊は引き去った。宗龍の軍は西北に、文嶽の軍は東南に、塹壕を掘って守った。保兵は夜に潰走し、保督副将が文嶽を馬に乗せて馳せ、夜に項城へ奔った。宗龍はまた秦兵を分けて東南に営を立て、諸将はそれぞれ壁を築いて賊の陣営に対した。

九日、人龍・国奇に兵を返して救うよう檄を飛ばしたが、二帥は応じなかった。宗龍は言った、「彼らは死を避ける。来ないのは当然だ。我はどうして死を避けようか!」その麾下に語って言った、「宗龍は老いた。今日賊の中に陥った。諸軍と決死の戦いをせねばならぬ。他人のように甲を巻いて逃げる真似はできぬ」と。裨校の李本実を召し、文嶽の陣壁に沿って塹壕を穿ち、堡塁を築いて賊に抗させた。賊もまた二重の壕を穿ってこれを包囲した。

十一日、秦師の食糧が尽き、宗龍は馬や騾を殺して軍に供した。翌日、営中の馬騾が尽き、賊を殺してその屍を分けて食った。十八日、営中の火薬・鉛弾・矢が共に尽きた。宗龍は士卒を選び、傷つき死に喪った余りで、六千の兵がいた。夜半、密かに諸軍を率いて賊の陣営を突破し、千余人を殺し、包囲を破って出た。諸軍は星散し、宗龍は徒歩で諸軍を率い、戦いながら走った。十九日、正午、項城に至る八里手前で、賊が追いつき、宗龍を捕らえ、城門に向かって呼んで言った、「秦督に従う官丁である。秦督を入れるよう門を開けよ」と。宗龍は大声で叫んだ、「我は秦督である。不幸にも賊の手に落ちた。左右は皆賊だ」と。賊は宗龍に唾を吐いた。宗龍は賊を罵って言った、「我は大臣である。殺すなら殺せ。どうして賊のために城を騙し取って死を緩めようか!」賊は刀を抜いて宗龍を撃ち、その脳を打って倒し、耳鼻をそぎ取って城下で死なせた。事が聞こえると、帝は言った、「このようであるなら、朴忠と言えよう」と。兵部尚書の官を回復し、太子少保を加え、忠壮と諡し、子に錦衣世襲百戸の蔭官を与え、祭葬を賜った。

人龍・国奇の兵は潰走して陝に帰り、賊は遂に項城を屠った。兵を分けて商水・扶溝を屠り、遂に葉県を攻めた。

汪喬年

汪喬年、字は歳星、遂安の人。天啓二年の進士。刑部主事に授かり、郎中を歴任した。母の喪で帰郷。

崇禎二年に工部に起用され、青州知府に遷る。治行が卓異であったため、登萊兵備副使に遷ったが、終養を乞うて帰郷した。父の喪が終わり、平陽で起官し、陝西右参政に遷り、学校を提督した。再び卓異により、そのまま按察使に遷った。喬年は清廉で自らを励まし、粗末な衣服と質素な食事をし、官に赴く時は二人の僕を連れ、家族を伴わなかった。青州では、廊下に土鍋を十数個置き、訴訟する者は自ら炊事して審判を待ち、吏は一銭も要求できなかった。自ら才武を負い、休暇の度に馬を馳せ、弓刀や撃刺を習い、風露の中に寝起きした。

十四年、右僉都御史に抜擢され、陝西を巡撫した。時に李自成は既に河南を破り、関に入ると声言していた。喬年は疾駆して商・洛に至ったが、賊を見なかった。賊が開封を包囲すると、三辺総督傅宗龍もまた陝に至り、兵を抽き餉を括ることを議したが、関中の兵糧は既に尽きて、応じるものはなかった。宗龍と喬年は手を握り合って歔欷して別れた。間もなく、宗龍が項城で敗死すると、喬年は涙を流して嘆いて言った、「傅公が死んだ。賊を討つ者はいなくなった」と。やがて、詔が喬年を兵部右侍郎に抜擢し、三辺軍務を総督して宗龍に代わらせたと聞いた。部からの檄が続いて至り、関を出るよう促した。この時、関中の精鋭は全て項城で失われていた。喬年は言った、「兵は疲れ餉は乏しい。まさに勢い盛んな賊に対し、我が出るのは、肉を虎に与えるようなものだ。しかし、一度は出て中原の人心を支えねばならぬ」と。そこで散亡した兵を収容し、辺境の兵卒を調発し、馬歩三万を得た。

十五年正月、総兵賀人龍・鄭嘉棟・牛成虎を率いて潼関を出た。先に、臨潁は賊の守るところとなり、左良玉が破ってこれを屠り、賊が掠奪したものを全て獲た。自成はこれを聞いて怒り、開封を捨てて良玉を攻め、良玉は郾城に退いて守り、賊は急に包囲した。喬年は諸将に議して言った、「郾城は旦夕に危うい。我が郾へ向かえば、賊は勢い盛んで、鋒を争うのは難しい。聞くところによると、襄城は郾から四舎(四十里)の距離で、賊の古い砦が皆そこにある。我が郾を捨てて精鋭でその必ず応ずる所を攻めれば、賊は必ず兵を返して救うであろう。そうすれば郾城の包囲は解ける。郾城が解ければ、我はその前を撃ち、良玉がその背を衝けば、賊は大破できるであろう」と。諸将は皆言った、「善し」と。そこで歩兵と火器を洛陽らくように留め、精騎一万人を選んで兼行で進んだ。郟県に駐屯すると、襄城の人張永祺らが喬年を迎えた。

二月二日、喬年は襄城に入り、人龍・嘉棟・成虎の三軍を分けて、城東四十里に駐屯させ、郾城に迫って陣を張り、自らは兵を率いて城外に駐屯した。賊は果たして郾城の包囲を解き、襄城を救援した。賊が到着すると、三将は敗走し、良玉の救援は届かず、軍は大いに潰えた。喬年は嘆息して言った、「ここが我が死に場所である」と。歩卒千余人を率いて城に入り守備した。賊は地下に穴を穿ち火薬を詰めて城を攻め、喬年もまた井戸を掘り、賊の掘った穴を覗き、長矛でこれを刺した。賊が大砲で喬年の座標の旗を撃つと、城壁の女牆はことごとく砕け、左右の者が取り囲んで泣きながら避けるよう請うたが、喬年は怒り、足でその頭を蹴って言った、「汝らは死を恐れるが、私は死を恐れぬ」と。十七日、城は陥落し、巷戦して賊を三人殺し、自ら頸を刎ねたが死にきれず、賊に捕らえられ、大声で罵った。賊はその舌を切り、八つ裂きにして殺した。襄城の人々は祠を建てて彼を祀った。

時に張國欽・張一貫・黨威・李萬慶、および監紀西安同知の孫兆祿・材官の李可從・襄城知縣の曹思正が喬年に従い、皆これに殉じて死んだ。萬慶は、降将の射塌天である。また馬帥の某という者がいたが、その名は伝わらない。兆祿は塩山の人。可從は盩厔の人。黨威は神木の人。その他は詳らかでない。黨威はかつて西雒峪で賊を撃ち、賊首の竇阿婆を生け捕りにした者である。

自成は永祺を捕らえ得ず、その一族を皆殺しにし、諸生の劉漢臣ら百九十人を鼻削ぎ・足切りにした。自成は数ヶ月の間に二度秦の軍を破り、馬二万頭を獲得し、秦兵数万を降し、その威は河雒に震動した。

初め、喬年が陝西を巡撫した時、詔を奉じて自成の先祖の墳墓を暴いた。米脂の県令辺大受は、河間静海の挙人で、有能な県令であり、その族人の県吏となっている者を探し出し、拷問した。その者が言うには、「県から二百里離れた所に李氏村という所があり、乱山の中に、十六の墳墓が環状に葬られており、中央がその始祖である。伝えられるところでは、墓穴は仙人が定めたもので、壙中の鉄の灯明台の灯が消えなければ、李氏は興隆するという」。その言葉の通りに発掘すると、蟻塚が数石あり、火の光がぼんやりとしていた。棺を開けると、骨は青黒く、体には黄毛が生え、脳後の穴は銭のようで、赤い蛇が蟠り、三四寸の角があり飛び上がり、高さ一丈ほどになり、かみかみと日光を六七度呑み、再び伏した。喬年はその頭蓋骨を函に入れ、蛇を干物にして報告し、残りを焼き、穢物と混ぜて棄てた。自成はこれを聞き、歯を嚙みしめて大いに恨んで言った、「我は必ずや喬年に死を致さん」と。喬年を殺した後、西華から陳州を攻めた。

楊文嶽

楊文嶽、字は鬥望、南充の人。万暦四十七年進士。行人に授けられる。天啓五年、兵科給事中に抜擢され、累進して礼科都給事中となる。

崇禎二年、江西右参政として出向し、湖広・広西按察使、雲南・山西左右布政使を歴任し、右副都御史として登州・萊州を巡撫した。十二年、兵部右侍郎に抜擢され、保定・山東・河北の軍務を総督し、孫傳庭の後任となる。

十四年正月、李自成が洛陽を陥落させ、開封を犯すと、文嶽は総兵虎大威を率いて二万の兵で救援に向かった。黄河を渡ると、賊は先に逃げ、鳴臯で追撃した。帰還し、開封に駐屯した。疫病が発生したため、汝寧に兵を留め、西平・新蔡の間に出て駐屯した。七月、自成は内郷・淅川に走り、羅汝才と合流した。文嶽は鄧州に向かい、自成は引き返してこれを攻めた。文嶽は三度戦って勝利し、その首領一条龍・一只龍を斬り、賊は逃走した。

九月、新蔡で陝西総督傅宗龍と合流し、賊と遭遇し、孟家莊で大敗し、再び火焼店で敗れた。部将が文嶽を擁して夜に項城に入った。翌日陳州に奔り、宗龍はついに全滅した。事が上聞され、文嶽は官職を剥奪され、事官に充てられ、罪を戴いて自ら贖うこととなった。そこで散亡した兵を収集し、配下の兵を率いて巡撫高名衡の下で杞を防衛した。賊はついに葉県を破り、泌陽を抜き、勝に乗じて南陽を陥落させ、唐王を殺し、鄧州など十四城を落とし、再び開封を包囲した。

翌年正月、文嶽は開封に急行して救援し、功績により官職を回復した。臨潁は賊が守っており、左良玉がこれを破って皆殺しにし、郾城に退いて守った。自成が郾城を包囲した。二月、督師丁啓睿および文嶽・大威が郾城を救援した。賊は潰走し、官軍から数里離れて陣を張った。文嶽と啓睿は犄角の勢いをなし、十一昼夜持ちこたえた。総督汪喬年が関を出ると、賊は去り、再び開封を攻めた。六月、詔して侯恂を兵部右侍郎に起用し、保定・山東・河南・湖北の軍務を総督させ、文嶽の後任とした。関係官庁に命じて文嶽の罪状を調査させた。七月朔、文嶽・啓睿は良玉・大威および楊德政・方国安の四総兵の軍を合わせ、朱仙鎮に駐屯した。諸軍はことごとく潰え、啓睿・文嶽は汝寧に奔った。賊は黄河を渡り、四百里にわたって追撃し、官軍は数万を失った。詔して官職を剥奪し、取り調べを待たせた。

九月、文嶽は汝寧におり、夜に賊の陣営を襲撃して功績があった。賊は開封を水攻めにした後、すぐに孫傳庭の軍を破り、閏十一月に全軍を挙げて汝寧に迫り、老回回・革裏眼・左金王らがことごとく集結した。文嶽は都司康世徳に軽騎を率いて賊を偵察させたが、世徳は走って汝寧に戻り、その歩騎五百を率い、夜に火を放ち騒ぎながら奔った。十三日、群賊が一斉に到着し、汝寧から五里の所に迫って陣を張った。監軍僉事孔貞会は川兵を率いて城東に駐屯し、文嶽は保定兵を率いて城西に駐屯した。賊兵が進攻し、一昼夜相持した。川兵が潰え、数百の死傷者を出した。賊はその馬騾を奪い、全軍で保定兵を攻め、次第に支えきれなくなった。僉事王世琮・知府傅汝為・通判朱國寶は将士を縄で城内に入れ、副将賈悌・参将馮名聖もまた文嶽・貞会を支えて城に登らせた。

翌日、賊は四面から環状に攻め、戸を盾にして陣を張り、矢石と雲梯が城壁のように立ち並んだ。城頭からは矢・砲・擂石が雨のように降り注ぎ、賊の死傷者は山のように積もったが、攻撃は止まなかった。一太鼓で百道から一斉に登城し、文嶽および世琮・國寶・悌・名聖を城頭で捕らえ、汝陽知縣文師頤を城上で殺した。汝為は変事を聞き、水に赴いて死んだ。賊は文嶽らを擁して自成に会わせたが、大声で罵ったので、賊は怒り、城南の三里鋪に縛り付け、大砲で撃ち、胸を貫き骨を糜爛させて死なせた。士民は数万が屠殺され、公私の官舎はほとんど焼き尽くされた。貞会は捕らえられて行方知れずとなった。自成は文嶽が忠義のために死んだことを以て、礼を尽くして葬った。そこで陣営を抜いて確山・信陽・泌陽に向かい、襄陽へ向かい、崇王由樻・崇世子・諸王妃および河南の懐安諸王を虜として連行した。

汝為、字は於宣、江陵の人。崇禎七年進士。世琮、字は仲発、達州の人。國寶は成都の人。師頤は全州の人。皆挙人である。世琮はかつて汝寧推官となり、土寇を討伐し、流れ矢が耳を貫いても動じず、当時「王鉄耳」と号された者である。師頤は着任してわずか三日であった。

孫傳庭

孫傳庭、字は百雅、代州振武衛の人。父の代より上、四世にわたり郷挙された。傳庭は容姿が長身で立派、沈着剛毅で計略に富んだ。万暦四十七年進士となり、永城知縣に授けられ、才能を以て商丘に転任した。天啓初年、吏部驗封主事に抜擢され、累進して稽勲郎中となり、休暇を請いて帰郷した。家に居て長く出仕しなかった。

崇禎八年(1635年)の秋、初めて驗封郎中に転じ、超遷して順天府丞となった。陝西巡撫甘學闊は賊を討つことができず、秦の士大夫が朝廷で騒ぎ立てたため、辺境の才を推挙して傅庭を用い、九年三月に交代した。傅庭が秦に臨むと、徴発と期日の取り決めを厳しくし、すべて軍興法に従った。秦人は彼を総督洪承疇ほどには愛さなかったが、その才は賊を処理するに足りた。賊首の整齊王が商州・雒南を占拠し、諸将は攻撃を恐れたが、副将羅尚文に檄を飛ばしてこれを撃ち斬らせた。

この時、賊は関中を乱し、名のある者は数十人おり、高迎祥が最も強く、拓養坤の党が最も多く、いわゆる闖王・蠍子塊である。傅庭は方略を設け、盩厔の黒水峪で自ら迎祥を撃ち、これを捕らえ、その偽の領哨黄龍・総管劉哲を捕え、闕下に献俘した。功績を記録し、秩を一等増した。賊党はこれより李自成を共に闖王に推戴した。翌年、養坤とその党の張耀文が降伏して来た。やがて養坤は叛いて去り、その部下に命じて追撃斬殺させた。涇陽・三原で賊の惠登相を撃ち、登相は西へ逃走した。河南の賊馬進忠・劉国能ら十七部が渭南に入り、これを追撃して関外に出し、さらに河南兵と合流して挟撃し、先後千余級を斬首した。進忠らは再び商州・雒南・藍田をかき乱し、叛卒と合流し、西安を犯さんとした。左光先・曹変蛟を派遣してこれを渭南に追い走らせ、その渠帥一条龍を降伏させ、脅従者を招き還した。健児を募って残賊を撃ち、聖世王・瓦背・一翅飛を斬り、鎮天王・上山虎を降伏させ、さらに白捍賊の渠魁数人を殲滅した。関南はやや平靖となった。副将盛略らを派遣して宝鶏で賊の大天王を破り、賊は山谷に逃げ込み、傅庭はこれを鳳翔まで追撃した。他の賊が棧道から出て、関を越えて河南を犯さんと謀り、軍を返して撃ち、賊は斜谷に潜伏したが、再び大敗させ、その余衆を降伏させた。西安四衛には、旧来屯軍二万四千、田二万余頃があったが、後に田は豪右に帰し、軍はすべて虚籍となった。傅庭は整理して軍一万一千余を得、毎年屯課銀十四万五千余両、米麦一万三千五百余石を収めた。帝は大いに喜び、秩を増し、銀幣を賜った。

ちょうど楊嗣昌が本兵(兵部尚書)に入り、方略を上奏した。洪承疇は秦督として剿務を兼ね、広撫熊文燦を総理に用いた。四正六隅に分け、馬三步七とし、兵十二万を計り、加派して二百八十万とし、百日で賊を平定することを期した。傅庭は書を移して争い、「益なく、しかもこれに限らない。部卒はたびたび潰蹶し、民力は尽きており、命に堪えられない恐れがある。必ずこれを行おうとすれば、賊は必ずしも尽きず、害は国家に中る」と述べ、数千言に及び、嗣昌は大いに忤った。部議では、秦撫は一正面を担当し、土着一万人を募り、餉銀二十三万を与え、商州・雒南などを汛守とすべきとした。傅庭はこれが用いられないと知り、帑蔵を核査し、贖鍰を免除し、銀四万八千を得て、馬を買い兵を募り、自ら滅賊の具を整え、部議を用いなかった。ちょうど諸撫が募兵が定額に達したと報告したが、傅庭の上疏だけは届かなかった。嗣昌は軍法が秦で行われないと言い、自ら白衣領職を請うて、帝の怒りを煽った。傅庭は奏上して、「臣が他の撫のごとく、郡県の民兵を籍に上せば、すぐに定額に達したと言うが、ならば臣が先に報告した屯兵はすでに定額に達している。ましてさらに募練した馬歩軍は、数が一万を超えており、何ら部議に遵わないことはない。百日の期日、商州・雒南の汛守については、臣はともに委ねられない。しかし賊が商州・雒南に入り、臣が防禦できなければ、臣の罪を治めよ。もし臣が商州・雒南を扼し、期日を過ぎても賊を滅ぼせなければ、剿事を誤る者は必ずや臣ではない」と言った。嗣昌は難詰できなかったが、ますます恨んだ。傅庭は二度詔を奉じて秩を進められ、部銜を加えるべきであったが、嗣昌は抑えて奏上しなかった。十一年春、賊が漢陰・石泉を破ると、傅庭の失援に坐し、加えられた秩を削った。

傅庭は出て商州・雒南を扼した。大天王らが慶陽・宝鶏を犯し、軍を返して合水で戦い、これを破って走らせ、その二人の子を捕え、延安まで追撃した。過天星・混天星らが徽州・秦州から鳳翔に向かい、澄城に迫った。傅庭は兵を五道に分けて楊家嶺・黄龍山でこれを撃ち、大破し、二千余級を斬首した。大天王は二人の子が殺されなかったことを知り、遂に降伏した。賊は北に引き、延安を犯した。傅庭は、鄜州の西、合水の東三四百里は荒山邃谷であり、賊が入れば自ずから斃れると策し、標兵を率いて中部でその東を扼し、変蛟・慶陽に檄を飛ばしてその西を拒ませ、三水・淳化の間に伏兵を置いた。賊は飢えて出て食糧を掠奪すると、大いに旗幟を張り、鼓角を鳴らして邀撃し、一日夜に二百五十里を馳せた。賊は大いに驚き、西に奔り、職田庄に至り、伏兵に遇って敗れた。再び宝鶏に走り、棧道を取ったが、再び伏兵に中って大敗した。折れて隴州関山道に走ったが、また伏兵に挫かれた。三度敗れ、賊の死者は数えきれず、過天星・混天星はともに降伏した。さらに賊を邠州・寧州の間で追撃し、陣に陷り、その渠帥を捕えた。河南の賊馬進忠・馬光玉は宛・洛の衆を駆り、箕張して西に向かった。傅庭がこれを撃つと、賊は還って逃走した。さらに潼関原に伏兵を設け、変蛟が賊を追い伏兵に入らせた。闖王李自成は、洪承疇に追われ、その卒をすべて失い、十八騎で囲みを潰して遁走した。関中の群盗はすべて平定され、これは崇禎十一年春のことである。捷報が聞こえると、大いに喜び、先に澄城の捷を叙し、傅庭に部銜を加えるよう命じた。嗣昌はなおも阻んで奏上しなかった。

この時、総理熊文燦は撫(懐柔)を主とした。湖広の賊張献忠はすでに降伏し、ただ河南の賊は依然としていた。羅汝才・馬進忠・賀一龍・左金王ら十三部が西に潼関を窺い、連営数十里に及んだ。傅庭は計略して言った。「天下の大寇はすべてここにいる。我はその西を撃ち出し、総理はその東を撃てば、賊は降らなければ滅びる。この賊が平定されれば、天下に賊はなくなる。献忠はたとえ狙伏していても、為すところがない」と。そこで兵を率いて東に向かい、閿郷・霊宝の山間で賊を大破し、その営を貫いて東に進み、再び東から西に返った。賊は甚だ窮し、文燦の招降の手諭を上って、旦夕に降伏すると言った。傅庭は言った。「お前たちは日々熊公に撫を言いながら、日々堡を攻め寨を屠るのを止めないのは、偽りである。降伏するなら甲を解いて来い、言い訳があれば真の降伏ではなく、我は明日進兵する」と。明日甲を着て出ると、途中で文燦の檄を得て、「我が撫功を妬むな」と言い、さらに進むと、本兵嗣昌の手書も同様であった。傅庭は怏怏として兵を撤して還った。しかし賊はついに撫に就かず、商州・雒南に窺いを移した。文燦は後悔し、傅庭に夾撃を約した。属吏の王文清らが三戦三勝し、賊は内郷・淅川に奔って去った。傅庭はたびたび大功を立て、その将校も数度旨を奉じて優叙されたが、嗣昌は努めて抑えて奏上しなかった。傅庭は懇請してその籍を部に上せようとしたが、嗣昌は「待て」と言った。

十月、京師は戒厳し、傅庭及び承疇を召して入衛させ、兵部右侍郎兼右僉都御史に抜擢し、総督盧象升に代わって諸鎮の援軍を督し、剣を賜う。この時、傅庭は兵を提げて近郊に至るが、嗣昌と協せず、また中官高起潜と忤り、降旨切責され、京師に朝することを得ず。承疇が至ると、郊労し、且つ陛見を命ぜられ、傅庭は觖望なきを得ず。間もなく、嗣昌は承疇を用いて薊督と為し、入援した秦兵を尽く留めて薊・遼を守らせんと欲す。傅庭曰く、「秦軍は留むべからず。留めれば則ち賊勢張り、辺に益無く、是れ賊に代わって兵を撤くなり。秦軍の妻子は俱に秦に在り、兵は日々賊を殺して以て利と為す、久しく辺に留まれば、嘩せざれば則ち逃げ、復た吾が用に為らず、必ず賊の用に為らん、是れ民を駆りて賊に従わしむるなり。安危の機、察せざるべからず」と。嗣昌聴かず。傅庭之を争うも得ず、郁郁勝えず、耳遂に聾す。

傅庭初めて命を受け、疏を上りて言う、「年来疆事の決裂は、計画の差謬に由る。事竣りて、当に面を請いて大計を決すべし」と。明年、帝傅庭を移して総督保定・山東・河南軍務と為す。既に厳を解き、疏を上りて陛見を請う。嗣昌大いに驚き、傅庭将に之を傾けんと謂い、来役を斥けて疏を賫して傅庭に還す。傅庭慍り、疾を引いて休を乞う。嗣昌又其の疾を托するを劾し、真の聾に非ずと、帝遂に怒りを発し、民に斥け、巡撫楊一俊を下して真偽を核せしむ。一俊奏言して、「真の聾、疾を托するに非ず」と。並びに一俊を獄に下す。傅庭長く繋がれて決を待つ、挙朝其の冤を知るも、言う者莫し。獄に在ること三年、文燦・嗣昌相継いで敗る。而して是の時、闖王李自成なる者は、已に河南を攻め破り、開封を犯し、宗龍を執り、唐王を殺し、兵散じて賊益々横し。帝傅庭の言を思い、朝士の薦むる者益々衆し。

十五年正月、傅庭を起して兵部右侍郎と為し、親しく文華殿に御して賊を剿ぎ民を安んずるの策を問う。傅庭侃侃として言う。帝嗟嘆すること久しく、燕労賞賚甚だ渥く、禁旅を将いて開封を援けしむ。開封の囲み已に解け、賊陜督汪喬年を殺す。帝即ち傅庭を命じて往きて代わらしむ。諸将を関中に大いに集め、援剿総兵賀人龍を縛し、之を麾下に坐せ、数えて之を斬る。其の開県に噪ぎ帰り、猛帥以て孤軍利を失い而して献・曹出柙するを謂い、又其の敵に遇いて先ず潰え、新蔡・襄城連ねて二督を喪うを謂う。諸将洒然として色を動かさざる者莫し。

傅庭既に人龍を誅殺し、威三辺を詟し、日夜軍を治めて賊を平らげるの計と為す。而して賊遂に已に再び開封を囲む。詔して御史蘇京に延・寧・甘・固の軍を監せしめ、傅庭を趣して関を出でしむ。傅庭上言して、「兵新たに募り、用に堪えず」と。帝聴かず。傅庭已むを得ず出師し、九月を以て潼関に抵る。大雨連旬、自成馬家口の河を決して開封を灌ぐ。開封已に陥ち、傅庭南陽に趨く。自成西行して秦師に逆う。傅庭三覆を設けて以て賊を待つ。牛成虎前軍を将い、左勷左を将い、鄭嘉棟右を将い、高傑中軍を将う。成虎陽に北して以て賊を誘い、賊奔りて伏中に入る。成虎兵を還して闘い、高傑・董学礼突起して之を翼し、左勷・鄭嘉棟左右横撃す。賊潰えて東に走り、首千余を斬る。三十里を追い、之に及ぶこと郟県の冢頭、賊甲仗軍資を道に棄つ。秦兵利に趨く。賊我が軍の囂るを覘い、反兵して之に乗ず。左勷・蕭慎鼎の師潰え、諸軍皆潰ゆ。副将孫枝秀馬を躍らせて以て賊を追い、数十騎を撃殺す。賊兵之を囲み、馳突して出づるを得ず、馬蹶ちて執らる。植立して撓まず。刃を以て之に臨むも、瞠目して答えず。一人曰く、「此れ孫副将なり」と。遂に之を殺す。参将黒尚仁亦執られて屈せずして見殺さる。覆軍数千、材官小将の歿する者、張渼奎・李棲鳳・任光裕・戴友仁以下七十有八人。賊其の喪う所の馬を倍して獲る。傅庭鞏に走り、孟より関に入り、慎鼎を執り斬る。勷を罰して馬二千を以てし、勷の父光先の故を以て、勷を貸す。是の役、天大雨、糧至らず、士卒青柿を采りて以て食し、凍え且つ餒ゆ、故に大敗す。豫人の謂う所の「柿園の役」なり。

伝庭は既に敗れて陝西に帰り、潼関を守り、京師の上流を扼することを計った。且つ我が軍は新たに集まったばかりで、速戦には不利であるから、乃ち益々勇士を募り、屯田を開き、兵器を繕い、粟を積み、三家より壮丁一人を出す。火車に火炮甲仗を載せるもの三萬輛、戦えば之を駆って拒馬とし、止まれば環らして以て自衛す。督工苛急にして、夜を以て日を継ぎ、秦の民堪えられず。而して関中は頻年に飢饉、大軍を駐めて餉乏しく、士大夫は伝庭の為す所に厭苦し、法を用いること厳しく、其の秦に在るを楽しまず。相与に朝に嘩して曰く、「秦督寇を玩ぶ」と。又相与に危語を以て之を恫脅して曰く、「秦督関を出でざれば、収者至らん」と。明年五月、命じて兼ねて河南・四川の軍務を督せしめ、尋いで兵部尚書に進み、督師と改称し、山西・湖広・貴州及び江南・北の軍務を督するを加え、剣を賜う。戦を趣ること益々急なり。伝庭頓足して嘆じて曰く、「奈何ぞや!吾固より往きて返らざるを知る。然れども大丈夫豈に再び獄吏に対せんや」と。頃之、已むを得ず遂に再び出師を議す。総兵牛成虎前鋒を将い、高傑中軍を将い、王定・官撫民延・寧の兵を将いて後勁と為し、白広恩火車営を統べ、左良玉を檄して汝寧に赴き夾撃せしむ。当是の時、自成は已に河南・湖北十余郡を据え有し、自ら新順王と号し、官を設け戍を置き、襄陽に営して之に居る。将に内・淅より商・雒を窺い、荊・襄の兵を尽く発して氾水・滎沢に会し、竹を伐り筏を結び、人三つの葫蘆を佩き、将に河を渡らんと謀る。伝庭兵を分かち防御す。八月十日、伝庭潼関より出師し、閿郷に次ぐ。二十一日、師陜州に次ぎ、河南諸軍を檄して河を渡り進剿せしむ。九月八日、師汝州に次ぎ、偽都尉四天王李養純降る。養純賊の虚実を言う:諸賊の老営は唐県に在り、偽将吏は宝豊に屯し、自成の精鋭は尽く襄城に聚まる、と。遂に賊宝豊を破り、偽州牧陳可新等を斬る。遂に唐県を搗ち、之を破り、家口を殺すこと殆んど尽くし、賊満営哭す。転戦して郟県に至り、遂に偽果毅将軍謝君友を擒にし、賊の坐纛を斫ち、尾いて自成を幾ばくも獲んとす。賊襄城に奔り、大軍遂に進みて襄城に逼る。賊懼れて降らんと謀るも、自成曰く、「畏るる無かれ!我王を殺し陵を焚く、罪大なり、姑く一死戦を決せん。勝たざれば、則ち我を殺して降るも未だ晩からず」と。而して大軍の時は皆露宿して賊と持し、久雨道濘み、糧車前へ進まず。士飢え、郟を攻めて之を破り、馬騾を獲て啖うも立ちどころに尽く。雨七日夜止まず、後軍汝州に嘩す。賊大いに至り、流言四起す。已むを得ず軍を還して糧を迎え、陳永福を留めて後拒と為す。前軍既に移り、後軍乱れ、永福之を斬るも止む能わず。賊之を追いて南陽に及び、官軍還り戦う。賊陣五重、饑民外に処り、次に歩卒、次に馬軍、又次にぎょう騎、老営の家口内に処る。戦いて其の三重を破る。賊の驍騎殊死に闘い、我が師陣稍動き、広恩の軍火車を将うる者呼んで曰く、「師敗れたり」と。挽輅を脱して奔り、車傾き道を塞ぎ、馬衡に掛かって前へ進まず、賊の鉄騎凌ぎて之を騰し、歩賊手に白棓を持ち遮り撃ち、中る者は首兜鍪倶に砕く。自成空壁して我を躡い、一日夜、官兵狂奔四百里、孟津に至り、死者四万余、失亡する兵器輜重数十万。伝庭単騎垣曲を渡り、閿郷より済る。賊督師の坐纛を獲、勝に乗じて潼関を破り、官軍を大敗す。伝庭監軍副使喬遷高と躍馬大呼して陣に歿し、広恩賊に降る。伝庭の屍竟に得可からず。伝庭死して、関以內堅城無し。

初め、伝庭の出師するや、自ら必ず死すと分ち、顧みて継妻張夫人に語りて曰く、「爾は若何」と。夫人曰く、「丈夫国に報ゆるのみ、我を憂うる毋れ」と。及んで西安破るるや、張二女三妾を率いて井に沈み、其の八歳の児世寧を揮って亟に賊を避けて去らしむ。児墻を逾えて民舎に墮ち、一老翁之を収養す。長子世瑞之を聞き、重趼して秦に入り、夫人の屍を井中に得るに、面生けるが如し。翁其の弟世寧を帰し、相扶け携えて還る。道路に見る者、知ると知らざると倶に泣下す。伝庭の死する時、年五十有一なり。伝庭再び出師するも皆雨に敗るるなり。或いは伝庭未だ死せずと言う者あり、帝之を疑う、故に贈蔭を与えず。伝庭死して而して明亡ぶ。

【贊】

贊に曰く、流賊中原に蔓延し、恃む所以て賊を禦ぐ者は独り秦兵のみ。傅宗龍・孫伝庭遠近相望み、倚りて以て賊を辦ぜんとす。汪喬年・楊文嶽奮力して以て賊鋒に当たるも、而して終に潰僨す。此れ殆ど天有り、其の才の任に非ざるに非ず。伝庭敗死し、賊遂に関に入り、勢以て愈々熾なり。存亡の際、系る所豈に重からずや。