明史

列傳第一百四十九 盧象昇 劉之綸 丘民仰

列傳第一百四十九 盧象昇 劉之綸 丘民仰

原文列傳第一百四十九 盧象昇 劉之綸 丘民仰

○盧象昇(弟象晉・象觀・從弟象同) 劉之綸 邱民仰(邱禾嘉)

原文○盧象昇(弟象晉象觀從弟象同)劉之綸邱民仰(邱禾嘉)

盧象昇、字あざなは建鬥、宜興の人。祖父は立誌、儀封の知縣。象昇は色白で痩せ、肩の骨が突出し、並外れた膂力を有した。天啓二年の進士に挙げられ、戸部主事を授かる。員外郎を歴任し、やがて大名知府に遷る。

原文盧象昇,字建鬥,宜興人。祖立誌,儀封知縣。象昇白皙而臞,膊獨骨,負殊力。舉天啟二年進士,授戶部主事。歷員外郎,稍遷大名知府。

崇禎二年、京師が戒厳すると、一万人を募って入衛した。翌年、右參政兼副使に進み、大名・広平・順徳の三府の兵備を整飭し、「天雄軍」と号した。さらに翌年、治行卓異に挙げられ、按察使に進み、兵を治めることは従前の如し。象昇は文士ながらも、射術に優れ、将略に熟達し、軍を統率することができた。

原文崇禎二年,京師戒嚴,募萬人入衛。明年,進右參政兼副使,整飭大名、廣平、順德三府兵備,號「天雄軍」。又明年舉治行卓異,進按察使,治兵如故。象昇雖文士,善射,嫻將略,能治軍。

六年、山西の賊が畿輔に流入し、臨城の西山を占拠した。象昇はこれを撃退し、総兵梁甫・参議寇従化と連携して賊を破った。賊は西山に逃げ戻り、遊撃董維坤を冷水村に包囲した。象昇は石城の南に伏兵を設け、これを大破し、さらに青龍岡で破り、また武安で破った。賊の首魁十一人を連続して斬り、その徒党を殲滅し、男女二万人を奪還した。三郡の民は、数年にわたり安堵した。象昇は戦陣に臨むごとに、士卒に先んじ、賊と格闘し、刃が鞍に及んでも顧みず、馬を失えば即ち歩戦し、賊を危崖に追い、一賊が頂上から象昇の額を射たが、また一矢で従僕が馬の下に倒れても、象昇は刀を提げて戦いを一層激しくした。賊は驚いて逃げ、「盧廉使に遇えば即死す、犯すべからず」と戒め合った。象昇はこれによって能兵の名を得た。賊は恐れ、南へ黄河を渡った。

原文六年,山西賊流入畿輔,據臨城之西山。象昇擊卻之,與總兵梁甫、參議寇從化連敗賊。賊走還西山,圍遊擊董維坤冷水村。象昇設伏石城南,大破之,又破之青龍岡,又破之武安。連斬賊魁十一人,殲其黨,收還男女二萬。三郡之民,安堵者數歲。象昇每臨陣,身先士卒,與賊格鬥,刃及鞍勿顧,失馬即步戰,逐賊危崖,一賊自巔射中象昇額,又一矢仆夫斃馬下,象昇提刀戰益疾。賊駭走,相戒曰:「盧廉使遇即死,不可犯。」象昇以是有能兵名。賊懼,南渡河。

翌年、賊が楚に入り、鄖陽の六県を陥れた。象昇に右僉都御史を以て、蔣允儀に代わり鄖陽を撫治することを命じた。時に蜀の寇で楚に戻った者が鄖の黄龍灘に駐屯しており、象昇は総督陳奇瑜と分道して挟撃し、烏林関・乜家溝・石泉壩・康寧坪・獅子山・太平河・竹木砭・箐口の諸所で、連戦連勝し、五千六百余りの首級を斬り、漢南の寇はほぼ尽きた。ここにおいて鄖の主兵を増やすこと、税賦を減ずること、城郭を繕うこと、隣郡の倉穀を貸すこと、商を募って銅を採り銭を鋳ることなどを請い、鄖は完治した。

原文明年,賊入楚,陷鄖陽六縣。命象昇以右僉都御史,代蔣允儀撫治鄖陽。時蜀寇返楚者駐鄖之黃龍灘,象昇與總督陳奇瑜分道夾擊,自烏林關、乜家溝、石泉壩、康寧坪、獅子山、太平河、竹木砭、箐口諸處,連戰皆捷,斬馘五千六百有奇,漢南寇幾盡。因請益鄖主兵,減稅賦,繕城郭,貸鄰郡倉谷,募商采銅鑄錢,鄖得完輯。

八年五月、象昇を右副都御史に抜擢し、唐暉に代わり湖広を巡撫させた。八月、江北・河南・山東・湖広・四川の軍務を総理し、湖広巡撫を兼ねることを命じた。総督洪承疇は西北を担当し、象昇は東南を担当した。まもなく巡撫の任を解かれ、兵部侍郎に進み、山西・陝西の軍務を督することを加えられ、尚方剣を賜り、便宜行事を許された。汝・洛が警報を告げると、象昇は倍道で汝に馳せ入った。賊の部衆三十余万、連営百里、勢い甚だ盛ん。象昇は副将李重鎮・雷時聲等を督して高迎祥を城西で撃ち、強弩を用いて賊千余人を射殺した。迎祥・李自成は逃げ、光州を陥れ、象昇は再び確山でこれを大破した。先に、大帥曹文詔・艾萬年が陣没し、尤世威が敗北し、諸将は概ね賊を恐れて前に進まず、象昇は常に慷慨して涙を流し、忠義をもって激励した。軍中で三日間糧秣が絶えたことがあったが、象昇もまた水漿を口にせず、これによって将士の心を得て、戦えば必ず功績があった。

原文八年五月,擢象昇右副都御史,代唐暉巡撫湖廣。八月,命總理江北、河南、山東、湖廣、四川軍務,兼湖廣巡撫。總督洪承疇辦西北,象昇辦東南。尋解巡撫任,進兵部侍郎,加督山西、陜西軍務,賜尚方劍,便宜行事。汝、洛告警,象昇倍道馳入汝。賊部眾三十餘萬,連營百里,勢甚盛。象昇督副將李重鎮、雷時聲等擊高迎祥於城西,用強弩射殺賊千餘人。迎祥、李自成走,陷光州,象昇復大破之確山。先是,大帥曹文詔、艾萬年陣亡,尤世威敗衄,諸將率畏賊不敢前,象昇每慷慨灑泣,激以忠義。軍中嘗絕三日餉,象昇亦水漿不入口,以是得將士心,戰輒有功。

九年正月、諸将を鳳陽に大集した。象昇はそこで上言して言う、「賊が横行して後に兵を調べ、賊が多くなって後に兵を増やす、これを後局という。兵が至って後に餉を議し、兵が集まって後に餉を請う、これを危形という。まして請うた餉が満たされなければ、兵将は賊に従って寇となる、これは八年来請うた兵は皆賊の党、用いた餉は皆盗賊の糧である」。また言う、「総督・総理は専兵・専餉を持つべきである。咸寧・甘・固の兵を調べて総督に属させ、薊・遼・関・寧の兵を総理に属させることを請う」。また言う、「各直省の撫臣は、皆封疆の重任を負っており、賊警があれば即ち援を求め調を求めることがあってはならない。応じなければ呉・越のごとく、分けて応じればどうして支えられようか」。また言う、「臺諫の諸臣は、難易を問わず、死生を顧みず、専ら完璧を求めて責め立てる。長材があっても、どうして展開できようか。臣と督臣は、剿法はあれど堵法はなく、戦法はあれど守法はない」。その言はことごとく機宜に適中した。

原文九年正月,大會諸將於鳳陽。象昇乃上言曰:「賊橫而後調兵,賊多而後增兵,是為後局;兵至而後議餉,兵集而後請餉,是為危形。況請餉未敷,兵將從賊而為寇,是八年來所請之兵皆賊黨,所用之餉皆盜糧也。」又言:「總督、總理宜有專兵專餉。請調鹹寧、甘、固之兵屬總督,薊、遼、關、寧之兵屬總理。」又言:「各直省撫臣,俱有封疆重任,毋得一有賊警即求援求調。不應則吳、越也,分應則何以支。」又言:「臺諫諸臣,不問難易,不顧死生,專以求全責備。雖有長材,從何展布。臣與督臣,有剿法無堵法,有戰法無守法。」言皆切中機宜。

そこで迎祥が廬州を包囲したが、陥れず、分道して含山・和州を陥れ、進んで滁州を包囲した。象昇は総兵祖寬・遊撃羅岱を率いて滁州を救い、城東五里橋で大戦し、賊首の搖天動を斬り、その駿馬を奪った。賊の連営はことごとく潰え、敗走を五十里追撃し、朱龍橋から関山に至るまで、屍が溝や塹を埋め、滁水は流れを止めた。賊はそこで北へ鳳陽に向かい、寿州を包囲し、潁・霍・蕭・碭・霊璧・虹を突破し、曹・単を窺った。総兵劉澤清が河を防ぐと、考城・儀封を掠めて西へ向かった。亳を犯した者は、転じて帰徳に入った。永寧総兵官祖大楽が邀撃し、賊はそこで開封を北に向かった。陳永福が朱仙鎮でこれを破り、賊は登封に走り、他の賊と合流し、裕州・南陽に分かれて向かった。象昇は寬・大楽・岱の兵を合わせて七頂山でこれを大破し、自成の精騎をほぼ殲滅した。やがて、南陽に駐屯し、大楽に汝寧を備えさせ、寬に鄧州を備えさせ、自らは諸軍を率いて賊を追い詰めた。使者を遣わして湖広巡撫王夢尹・鄖陽撫治宋祖舜に告げて言う、「賊は疲れた。東西から邀撃し、前は漢江に阻まれ、一戦で殲滅できる」。二人はついに防ぐことができず、賊は光化から密かに漢江を渡って鄖に入った。象昇は総兵秦翼明・副将雷時聲を遣わし、南漳・谷城から山に入って賊を撃たせた。寬等の騎兵軍は、険阻な地形に不利で、副将王進忠の軍は騒動を起こし、羅岱・劉肇基の兵は多く逃げ、追えば弓を内に向けて引いた。象昇はそこで四川及び筸子の土兵を調達し、均州の賊を捜索捕縛した。この時、楚・豫の賊及び迎祥等は皆秦・楚・蜀の境の万山の中におり、象昇は南陽から襄陽に向かって進軍した。賊多く兵少なく、しかも河南は大飢饉で、餉は乏しく、辺兵はますます騒然とした。承疇・象昇が議し、関中は平曠で騎兵に利ありとして、寬・重鎮の軍を陝に入れさせ、一方で襄陽・均・宜・谷・上津・南漳は、山を巡らせて皆賊であった。七月、象昇は淅河を渡って南へ向かった。九月、賊を追って鄖西に至った。

原文於是迎祥圍廬州,不克,分道陷含山、和州,進圍滁州。象昇率總兵祖寬、遊擊羅岱救滁州,大戰城東五里橋,斬賊首搖天動,奪其駿馬。賊連營俱潰,逐北五十里,朱龍橋至關山,積屍填溝委塹,滁水為不流。賊乃北趨鳳陽,圍壽州,突潁、霍、蕭、碭、靈璧、虹,窺曹、單。總兵劉澤清拒河,乃掠考城、儀封而西。其犯亳者,折入歸德。永寧總兵官祖大樂邀擊之,賊乃北向開封。陳永福敗之朱仙鎮,賊遂走登封,與他賊合,分趨裕州、南陽。象昇合寬、大樂、岱兵大破之七頂山,殲自成精騎殆盡。已,次南陽,令大樂備汝寧,寬備鄧州,而躬率諸軍蹙賊。遣使告湖廣巡撫王夢尹、鄖陽撫治宋祖舜曰:「賊疲矣,東西邀擊,前阻漢江,可一戰殲也。」兩人竟不能禦,賊遂自光化潛渡漢入鄖。象昇遣總兵秦翼明、副將雷時聲由南漳、谷城入山擊賊。寬等騎軍,不利阻隘,副將王進忠軍嘩,羅岱、劉肇基兵多逃,追之則彎弓內向。象昇乃調四川及筸子土兵,搜捕均州賊。是時,楚、豫賊及迎祥等俱在秦、楚、蜀之交萬山中,象昇自南陽趨襄陽進兵。賊多兵少,而河南大饑,餉乏,邊兵益洶洶。承疇、象昇議,關中平曠,利騎兵,以寬、重鎮軍入陜,而襄陽、均、宜、谷、上津、南漳,環山皆賊。七月,象昇渡淅河而南。九月,追賊至鄖西。

京師が戒厳すると、詔があり入衛を命じられ、再び尚方剣を賜った。既に出発すると、賊は大いに勢いを振るい、もはや制御しがたいほどになった。戒厳が解けると、詔があり兵部左侍郎に遷り、宣・大・山西の軍務を総督することを命じられた。大いに屯政を興し、穀物が熟すと、一畝あたり一鐘を収め、粟を二十余万積み貯めた。天子は九辺に諭し、皆宣・大を模範とせよとした。

原文京師戒嚴,有詔入衛,再賜尚方劍。既行,賊遂大逞,骎驍乎不可復制矣。既解嚴,詔遷兵部左侍郎,總督宣、大、山西軍務。大興屯政,谷熟,畝一鐘,積粟二十餘萬。天子諭九邊皆式宣、大。

翌年春、宣に警報があると聞き、即夜天城に馳せ至った。矢文の檄が錯綜し、二百里外に乞炭の馬蹄が四十里にわたって闊踏しているという。象昇は言う、「これは大挙である」。問う、「入口したか」。答えて言う、「未だ」。象昇は言う、「おそらく右の雲・晉を窺い、我が兵を宣に集めさせれば、彼は虚に乗じて入るつもりであろう」。そこで雲・晉の兵に動くなと檄を飛ばし、自ら師を率いて右衛に駐屯し、辺吏に軽々しく戦いを言うなと戒めた。一か月持ちこたえ、象昇は言う、「弛んだ、撃つべし」。斥候が三十六営が墻から六十里離れていることを知ると、密かに雲の師を西から召し寄せ、宣の師を東から来させ、自ら兵を督して直ちに子午を出て、羊房堡から出て、期日を定めて激戦した。乞炭はこれを聞いて遂に遁走した。象昇が陽和にいる間、乞炭は辺境に近づくことを敢えなかった。五月、父の喪に遭い、十度上疏して、奔喪を乞うた。時に楊嗣昌は喪中を奪情して中樞に任じ、また陳新甲を起用して制中とし、象昇には喪に席しながら交代を待たせた。兵部尚書に進んだ。新甲は遠方にあり、直ちには至らなかった。

原文明年春,聞宣警,即夜馳至天城。矢檄旁午,言二百里外乞炭馬蹄闊踏四十里。象昇曰:「此大舉也。」問:「入口乎?」曰:「未。」象昇曰:「殆欲右窺雲、晉,令我兵集宣,則彼乘虛入耳。」因檄雲、晉兵勿動,自率師次右衛,戒邊吏毋輕言戰。持一月,象昇曰:「懈矣,可擊。」哨知三十六營離墻六十里,潛召雲師西來,宣師東來,自督兵直子午,出羊房堡,計日鏖戰。乞炭聞之遂遁。象昇在陽和,乞炭不敢近邊。五月,丁外艱,疏十上,乞奔喪。時楊嗣昌奪情任中樞,亦起陳新甲制中,而令象昇席喪候代。進兵部尚書。新甲在遠,未即至。

九月、大清兵が墻子嶺・青口山に入り、総督呉阿衡を殺し、正関を破壊し、営城・石匣に至り、牛蘭に駐屯した。宣府・大同・山西の三総兵楊国柱・王樸・虎大威を召して入衛させ、三たび象昇に尚方剣を賜い、天下の援兵を督せしむ。象昇は麻衣に草履を履き、郊外で師を誓い、馳せて上疏して報じて曰く、「臣は軍旅の才にあらず。愚かなる心をもって事に任じ、義、難を避けず。ただ臣の父が急逝してより、長途惨傷し、五官が潰乱して、もはや昔のごとくにあらず。兼ねて草土の身をもって三軍の上に踞るは、ただ観瞻を聳えしめぬのみならず、特に金鼓の霊ならざるを憂う」と。やがて総監中官高起潜もまた衰絰を着て軍に臨むと聞き、象昇は親しい者に謂いて曰く、「我ら三人は皆、不祥の身なり。人臣に親無くば、安んぞ君あらんや。枢輔(楊嗣昌)が奪情したるは、また我に礼を変えて愆を分かたんと欲するか。心をこのように処するは、安んぞ以て君に事えんや。他日必ず面して責めん」と。この時、嗣昌・起潜は和議を主とす。象昇これを聞き、頓足して嘆じて曰く、「予は国恩を受け、恨むらくは死する所を得ず。もし万一の不幸あらば、寧ろ躯を捐てて脰を断たん」と。都に至り、帝召して対し、方略を問う。対えて曰く、「臣は戦を主とす」と。帝の色変じ、良久くして曰く、「撫は外廷の議なり。出でて嗣昌・起潜と議せよ」と。出でて議すれども合わず。明日、帝は万金を発して軍を犒い、嗣昌はこれを送り、左右を屏い、無用の戦を戒めて、遂に別れ去る。師は昌平に次ぐ。帝また中官を遣わして帑金三万を齎し軍を犒う。明日、また御馬百、太僕の馬千、銀鉄鞭五百を賜う。象昇曰く、「果たして外廷の議なり。帝の意、甚だ鋭し」と。決策して戦を議うも、然れども事多くは嗣昌・起潜に撓まされる。疏を上して兵を分かつを請うと、則ち宣府・大同・山西の三帥を象昇に属し、関・寧諸路を起潜に属すと議す。象昇は名は天下の兵を督すといえども、実は二万に及ばず。順義に次ぐ。

原文九月,大清兵入墻子嶺、青口山,殺總督吳阿衡,毀正關,至營城石匣,駐於牛蘭。召宣、大、山西三總兵楊國柱、王樸、虎大威入衛,三賜象昇尚方劍,督天下援兵。象昇麻衣草履,誓師及郊,馳疏報曰:「臣非軍旅才。愚心任事,誼不避難。但自臣父奄逝,長途慘傷,潰亂五官,非復昔時;兼以草土之身踞三軍上,豈惟觀瞻不聳,尤虞金鼓不靈。」已聞總監中官高起潛亦衰绖臨戎,象昇謂所親曰:「吾三人皆不祥之身也。人臣無親,安有君。樞輔奪情,亦欲予變禮以分愆耶?處心若此,安可與事君。他日必面責之。」當是時,嗣昌、起潛主和議。象昇聞之,頓足嘆曰:「予受國恩,恨不得死所,有如萬分一不幸,寧捐軀斷脰耳。」及都,帝召對,問方略。對曰:「臣主戰。」帝色變,良久曰:「撫乃外廷議耳,其出與嗣昌、起潛議。」出與議,不合。明日,帝發萬金犒軍,嗣昌送之,屏左右,戒毋浪戰,遂別去。師次昌平,帝復遣中官賫帑金三萬犒軍。明日,又賜禦馬百,太僕馬千,銀鐵鞭五百。象昇曰:「果然外廷議也,帝意銳甚矣。」決策議戰,然事多為嗣昌、起潛撓。疏請分兵,則議宣、大、山西三帥屬象昇,關、寧諸路屬起潛。象昇名督天下兵,實不及二萬。次順義。

先に、盲目で卜を売る者周元忠あり、遼人と善くし、時にこれを遣わして和を講ぜしむ。会に嗣昌が軍に至り、象昇これを責め数えて曰く、「文弱(嗣昌の字)、子は城下の盟いを聞かざるか、『春秋』これを恥ず。而るに日に和を講ず。長安の口舌鋒の如し、袁崇煥の禍、其れ能く免れんや」と。嗣昌の頬赤くして曰く、「公は直に尚方剣を以て我に加えんとす」と。象昇曰く、「既に喪に奔らず、又能く戦わず。剣に歯する者は我なり、安んぞ人に加えんや」と。嗣昌は言を遁らして去る。象昇即ち言う、「元忠が款を講ずるは、往来一日ならず。事は薊門督監に始まり、本兵に成を受く。国中これを聞く、誰か諱いみなむべけんや」と。嗣昌は語塞して去る。また数日を経て、起潜と安定門で会し、両人各々一議を堅持す。新甲もまた昌平に至り、象昇は兵を分かちてこれに与う。この時、象昇自ら馬歩軍を将いて都城の外に営を列ね、沖鋒陷陣し、軍律甚だ整えり。

原文先是,有瞽而賣卜者周元忠,善遼人,時遣之為媾。會嗣昌至軍,象昇責數之曰:「文弱,子不聞城下盟《春秋》恥之,而日為媾。長安口舌如鋒,袁崇煥之禍其能免乎?」嗣昌頰赤,曰:「公直以尚方劍加我矣。」象昇曰:「既不奔喪,又不能戰,齒劍者我也,安能加人?」嗣昌辭遁。象昇即言:「元忠講款,往來非一日,事始於薊門督監,受成於本兵,通國聞之,誰可諱也?」嗣昌語塞而去。又數日,會起潛安定門,兩人各持一議。新甲亦至昌平,象昇分兵與之。當是時,象昇自將馬步軍列營都城之外,沖鋒陷陣,軍律甚整。

大清兵南下し、三路より出師す。一は淶水より易を攻め、一は新城より雄を攻め、一は定興より安粛を攻む。象昇は遂に涿より進み保定を拠り、諸将に命じて分道出撃せしめ、慶都にて大戦す。編修楊廷麟上疏して言う、「南仲内に在りて、李綱功無し。潜善成を秉りて、宗澤恨みを殞す。国に若き人あれば、封疆の福に非ず」と。嗣昌大いに怒り、廷麟を兵部主事に改め、行営を賛画せしめ、象昇の尚書を奪い、侍郎として事を視せしむ。大学士劉宇亮に命じて輔臣として師を督せしめ、巡撫張其平は餉を閉絶す。俄かにまた雲・晋の警報あり、関を出づるを促し、王樸は径ちに兵を率いて去る。

原文大清兵南下,三路出師:一由淶水攻易,一由新城攻雄,一由定興攻安肅。象昇遂由涿進據保定,命諸將分道出擊,大戰於慶都。編修楊廷麟上疏言:「南仲在內,李綱無功;潛善秉成,宗澤殞恨。國有若人,非封疆福。」嗣昌大怒,改廷麟兵部主事,贊畫行營,奪象昇尚書,侍郎視事。命大學士劉宇亮輔臣督師,巡撫張其平閉絕餉。俄又以雲、晉警,趣出關,王樸徑引兵去。

象昇は残卒を提げ、三宮野外に宿営す。畿南三郡の父老これを聞き、皆軍門を叩いて請いて曰く、「天下洶洶として且つ十年、明公は万死を出でて一生を顧みざるの計を以て天下に先んず。乃ち奸臣内に在り、孤忠見嫉さる。三軍は関を出づるの檄を捧げ、将士は西に帰るの心を懐く。絶野に棲遅し、一飽する時無し。巾を脱ぎて狂躁す、雲帥(王樸)其れ告げんとす。明公誠に愚計に従い、軍を広順に移し、義師を召集せば、三郡の子弟公の来るを喜び、皆、昔は公無くば賊に死し、今は公無くば兵に死せんとし、同心戮力し、一呼して糧を裹みて従う者十萬に可なり。隻臂無援にて、立って死に就くに孰れか若かん」と。象昇は泫然として涕を流し、父老に謂いて曰く、「父老の義に感ず。然りと雖も、自ら予が賊と角するより、数十百戦を経て未だ嘗て衄せず。今者、疲卒五千を分かち、大敵西より沖き、援師東に隔てらる。事は中制より起こり、食尽き力窮まり、旦夕に死せんとす。徒らに爾ら父老を累わすことなかれ」と。衆号泣して雷動し、各々床頭の斗粟を携えて軍に餉い、或いは棗一升を貽って曰く、「公、煮て糧とせよ」と。十二月十一日、師を進めて鉅鹿賈莊に至る。起潜は関・寧の兵を擁して雞沢に在り、賈莊より五十里に近し。象昇は廷麟を遣わして往きて援を乞わしむも、応ぜず。師は蒿水橋に至り、大清兵に遇う。象昇は中軍を将い、大威は左を帥い、国柱は右を帥いて遂に戦う。夜半、觱篥の声四囲より起こる。旦日、騎数万これを三匝に環らす。象昇は兵を麾して疾く戦い、呼声天を動かす。辰より未に至り、砲尽き矢窮まる。身を奮って闘い、後騎皆進み、手を撃ちて数十人を殺し、身に四矢三刃を受け、遂に仆る。掌牧楊陸凱は衆の其の屍を残すを懼れ、其の上に伏し、背に二十四矢を負いて死す。僕の顧顕なる者は殉じ、一軍尽く覆る。大威・国柱は囲みを潰して乃ち脱す。

原文象昇提殘卒,次宿三宮野外。畿南三郡父老聞之,鹹叩軍門請曰:「天下洶洶且十年,明公出萬死不顧一生之計為天下先。乃奸臣在內,孤忠見嫉。三軍捧出關之檄,將士懷西歸之心,棲遲絕野,一飽無時。脫巾狂噪,雲帥其見告矣。明公誠從愚計,移軍廣順,召集義師。三郡子弟喜公之來,皆以昔非公死賊,今非公死兵,同心戮力,一呼而裹糧從者可十萬,孰與只臂無援,立而就死哉!」象昇泫然流涕而謂父老曰:「感父老義。雖然,自予與賊角,經數十百戰未嘗衄。今者,分疲卒五千,大敵西沖,援師東隔,事由中制,食盡力窮,旦夕死矣,無徒累爾父老為也。」眾號泣雷動,各攜床頭鬥粟餉軍,或貽棗一升,曰:「公煮為糧。」十二月十一日,進師至鉅鹿賈莊。起潛擁關、寧兵在雞澤,距賈莊五十里而近,象昇遣廷麟往乞援,不應。師至蒿水橋,遇大清兵。象昇將中軍,大威帥左,國柱帥右遂戰。夜半,觱篥聲四起。旦日,騎數萬環之三匝。象昇麾兵疾戰,呼聲動天,自辰迄未,炮盡矢窮。奮身鬥,後騎皆進,手擊殺數十人,身中四矢三刃,遂仆。掌牧楊陸凱懼眾之殘其屍而伏其上,背負二十四矢以死。仆顧顯者殉,一軍盡覆。大威、國柱潰圍乃得脫。

起潜は敗を聞き、倉皇として遁れ、象昇の死状を言わず。嗣昌これを疑い、詔して検視せしむ。廷麟は其の屍を戦場に得たり。麻衣に白網巾なり。一卒遥かに見て、即ち号泣して曰く、「此れ吾が盧公なり」と。三郡の民これを聞き、哭して声を失う。順徳知府於穎上状す。嗣昌故にこれを靳み、八十日にして後ち殮す。明年、象昇の妻王氏、恤を請う。又明年、其の弟象晉・象観また請うも、許さず。久しくして、嗣昌敗れ、廷臣多く言う者ありて、乃ち太子少師・兵部尚書を贈り、祭葬を賜い、世蔭錦衣千戸を賜う。福王の時、忠烈と追謚し、祠を建てて奉祀す。

原文起潛聞敗,倉皇遁,不言象昇死狀。嗣昌疑之,有詔驗視。廷麟得其屍戰場,麻衣白網巾。一卒遙見,即號泣曰:「此吾盧公也。」三郡之民聞之,哭失聲。順德知府於穎上狀,嗣昌故靳之,八十日而後殮。明年,象昇妻王請恤。又明年,其弟象晉、象觀又請,不許。久之,嗣昌敗,廷臣多為言者,乃贈太子少師、兵部尚書,賜祭葬,世蔭錦衣千戶。福王時,追謚忠烈,建祠奉祀。

象昇は少より大志有り、学を為すに章句を事とせず。官に居りて勤労、下吏に倍し、夜は燭を刻み、鶏鳴に盥櫛し、一の機要を得れば、衣を披き起き、立って之を行う。暇あれば即ち角射し、箭に花を銜ませ、五十歩の外より発すれば必ず中つ。才を愛し下を惜しむこと及ばざるが如く、三たび剣を賜うも、未だ嘗て一の偏裨を戮せず。

原文象昇少有大誌,為學不事章句。居官勤勞倍下吏,夜刻燭,雞鳴盥櫛,得一機要,披衣起,立行之。暇即角射,箭銜花,五十步外,發必中。愛才惜下如不及,三賜劍,未嘗戮一偏裨。

高平知県侯弘文なる者は、奇士なり。襄陽に僑寓し、家財を散じ、滇軍を募りて象昇に随い賊を討つ。象昇が宣府・大同に移るや、弘文は募兵を率いて楚に至る。巡撫王夢尹、駅を擾わすを以て聞こゆ。象昇上疏して救うも得ず、弘文は卒に戍に遣わさる。天下ここより弘文を惜しみ、象昇を多とす。

原文高平知縣侯弘文者,奇士也。僑寓襄陽,散家財,募滇軍隨象昇討賊。象昇移宣、大,弘文率募兵至楚,巡撫王夢尹以擾驛聞。象昇上疏救,不得,弘文卒遣戍。天下由是惜弘文而多象昇。

象昇は駿馬を畜うるを好み、皆名字有り。嘗て賊を南漳に逐い、敗れ、追兵沙河に至る。水闊さ数丈、一躍して過ぐ。即ち号する所の五明驥なり。

原文象昇好畜駿馬,皆有名字。嘗逐賊南漳,敗,追兵至沙河,水闊數丈,一躍而過,即所號五明驥也。

象昇の戦歿せし時、嗣昌は三邏の卒を遣わし其の死状を察せしむ。其の一人俞振龍なる者、帰りて象昇実に死せりと言う。嗣昌怒り、之を鞭つこと三日三夜、将に死せんとし、目を張って曰く、「天道神明、忠臣を枉げること無し」と。ここに於いて天下之を聞き、莫く欷歔せず、益々嗣昌を恚る。

原文方象昇之戰歿也,嗣昌遣三邏卒察其死狀。其一人俞振龍者,歸言象昇實死。嗣昌怒,鞭之三日夜,且死,張目曰:「天道神明,無枉忠臣。」於是天下聞之,莫不欷歔,益恚嗣昌矣。

其の後、南都亡び、象観は水に赴きて死し、象晉は僧と為り、一門先後難に赴く者百餘人。従弟象同及び其の部将陳安の死、尤も烈し。

原文其後南都亡,象觀赴水死,象晉為僧,一門先後赴難者百餘人。從弟象同及其部將陳安死尤烈。

象観は崇禎十五年、郷試第一となり、進士に及第した。中書の官に任ぜられた。象晋・象同はともに諸生であった。象昇が死んだ時、年三十九であった。

原文象觀,崇禎十五年,鄉薦第一,成進士。官中書。象晉、象同皆諸生。象昇死時,年三十九。

劉之綸は字を元誠といい、宜賓の人である。家は代々農を務めた。之綸は幼少の頃父兄に従って田畑を力耕し、合間に薪を刈り、市中で売った。帰って書を学び、その座右に「必ず聖人とならん」と銘じた。里中はこれにより之綸を劉聖人と号した。天啓初年、郷試に合格した。奢崇明が反乱を起こすと、策を以て監司に献策し賊の帰路を扼すべきことを説いたが、監司は用いなかった。

原文劉之綸,字元誠,宜賓人。家世務農。之綸少從父兄力田,間艾薪樵,賣之市中。歸而學書,銘其座曰「必為聖人」,里中由是號之綸劉聖人。天啟初,舉鄉試。奢崇明反,以策幹監司扼賊歸路,監司不能用。

崇禎元年に進士に及第し、庶吉士に改められた。同館の金声及び客分の申甫の三人と互いに友となり、単輪火車・偏廂車・獣車を造り、木を刳り抜いて西洋式の大小砲とし、司農の銭を費やさなかった。

原文崇禎元年第進士,改庶吉士。與同館金聲及所客申甫三人者相與為友,造單輪火車、偏廂車、獸車,刳木為西洋大小炮,不費司農錢。

翌年の冬、京師が戒厳となった。金声が上書して召見を得、之綸と申甫を推薦した。帝は直ちに之綸と申甫を召した。之綸が兵事を論じると、明瞭に口弁した。帝は大いに喜び、申甫に京営副総兵を授け、金十七万を与えて召募させ、金声を御史に改め、その軍を監させ、之綸に兵部右侍郎を授け、尚書閔夢得の次官として京営戎政を協理させた。ここにおいて之綸は新進の身で急に卿貳の地位に登ったのである。

原文明年冬,京師戒嚴。聲上書得召見,薦之綸及甫。帝立召之綸、甫。之綸言兵,了了口辨。帝大悅,授甫京營副總兵,資之金十七萬召募;改聲御史,監其軍;授之綸兵部右侍郎,副尚書閔夢得協理京營戎政。於是之綸賓賓以新進驟躋卿貳矣。

初め、正月元日に黒気が東北より起こり西方に亘った。申甫はこれを見て大いに驚き、急いで之綸と金声に語って言った、「天変この如し、汝ら知っているか。今年は京城の下で血を喋るであろう、恐るべきことである」と。聞いた者は皆笑った。冬十一月三日に至り、大清兵が遵化を破り、十五日に壩上に至り、二十日に都城に迫り、北より西へと進んだ。都の人が城上よりこれを望むと、雲の万許りの片が風に馳せるが如く、須臾の間に過ぎ去った。遂に良郷を攻克し、還って蘆溝に至り、夜に申甫の一軍七千余人を殺し、黎明に大帥満桂・孫祖寿を掩撃して殺し、黒雲龍・麻登雲を生擒して去った。之綸は言った、「元日の言葉が験した」と。出陣を請うたが、兵が無い。ならば京営兵を請うたが、許されない。ならば関外の川兵を請うたが、許されない。ならば召募を議し、召募して万人を得、遂に行った。通州に着いた時、永平は既に陥落し、天は大雨雪であった。之綸が軍機を奏上すること七度、報いられなかった。

原文初,正月元日有黑氣起東北亙西方。甫見之大驚,趨語之綸、聲曰:「天變如此,汝知之乎?今年當喋血京城下,可畏也。」聞者皆笑。及冬十一月三日,大清兵破遵化,十五日至壩上,二十日薄都城,自北而西。都人從城上望之,如雲萬許片馳風,須臾已過。遂克良鄉,還至蘆溝,夜殺甫一軍七千餘人,黎明掩殺大帥滿桂、孫祖壽,生擒黑雲龍、麻登雲以去。之綸曰:「元日之言驗矣。」請行,無兵,則請京營兵,不許;則請關外川兵,不許;則議召募,召募得萬人,遂行。抵通州,時永平已陷,天大雨雪。之綸奏軍機,七上,不報。

翌年正月、軍は薊に駐屯した。この時、大清兵と蒙古諸部は号すること十余万、永平に駐屯し、諸勤王軍数万が薊にあった。之綸は総兵馬世龍・呉自勉と約し、薊より永平に向かい、牽制して動かさず、自ら兵を率いて八路より遵化を進攻することとした。既に石門より白草頂に至り、遵化より八里の娘娘山に距って営を張ったが、世龍・自勉は約に赴かなかった。二十二日、大清兵が永平より三屯営に向かい、驍ぎょう騎三万、山上の軍を見ると、縦撃してこれを攻めた。之綸が砲を発すると、砲が炸裂し、軍営自ら乱れた。左右が陣を結んで徐々に退き、後図とすべきことを請うたが、之綸は叱って言った、「多く言うな。我は国恩を受けている、我は死ぬのみだ」と。厳しく鼓を鳴らして再戦し、流矢四方より集まった。之綸は佩いていた印を解いて家人に付し、「これを持ち帰って天子に報ぜよ」と言い、遂に死んだ。一軍皆哭し、営を抜いて野戦し、皆死んだ。屍が還ると、矢が頭蓋に喰い込んで抜けず、金声が歯で嚙んで抜き出し、その家人に授けた。

原文明年正月,師次薊。當是時,大清兵蒙古諸部號十餘萬,駐永平;諸勤王軍數萬在薊。之綸乃與總兵馬世龍、吳自勉約,由薊趨永平,牽之無動,而自率兵八路進攻遵化。既由石門至白草頂,距遵化八里娘娘山而營,世龍、自勉不赴約。二十二日,大清兵自永平趨三屯營,驍騎三萬,望見山上軍,縱擊之。之綸發炮,炮炸,軍營自亂。左右請結陣徐退,以為後圖,之綸叱曰:「毋多言!吾受國恩,吾死耳!」嚴鼓再戰,流矢四集。之綸解所佩印付家人,「持此歸報天子」,遂死。一軍皆哭,拔營野戰,皆死之。屍還,矢飲於顱,不可拔,聲以齒嚙之出,以授其家人。

初め、講官文震孟が都に入ると、之綸と金声が往って見え、震孟は持重すべきことを教えた。之綸が既に命を受けて師を視ることとなり、急に貴くなると、廷臣はこれを抑えた。震孟が人をやって諷し、侍郎を辞して科銜に易えて行くべきであると言ったが、聞き入れなかった。既に行くと、通州の守者が納めず、雨雪の中古廟に宿った。御史董羽宸がその行留を弾劾した。之綸は言った、「小人は意忌し、事あれば委卸し、事なければ議論し、ただ一侍郎の起見に止まるのみである。臣の今官を削り、骸骨を賜わらんことを乞う」と。許されなかった。戦死すると、天子はその忠を嘉し、優恤に従い、兵部尚書を追贈した。震孟がこれを止めて言った、「死綏は分なり、侍郎も尊からずというわけではない」と。遂に贈官を与えず、一祭半葬を賜い、一子に任官した。之綸の母は老い、二子は幼く、貧しくして柩を返すことができず、朝廷に請うて駅伝を給され還った。久しくして、尚書を追贈した。後十五年、金声が難に死んだ。

原文初,講官文震孟入都,之綸、聲往見之,震孟教以持重。之綸既受命視師,驟貴,廷臣抑之。震孟使人諷之,謂宜辭侍郎而易科銜以行,不聽。既行,通州守者不納,雨雪宿古廟中,御史董羽宸劾其行留。之綸曰:「小人意忌,有事則委卸,無事則議論,止從一侍郎起見耳。乞削臣今官,賜骸骨。」不許。及戰死,天子嘉其忠,從優恤,贈兵部尚書。震孟止之曰:「死綏,分也,侍郎非不尊。」遂不予贈,賜一祭半葬,任一子。之綸母老,二子幼,貧不能返柩,請於朝,給驛還。久之,贈尚書。後十五年,聲死難。

邱民仰は字を長白といい、渭南の人である。万暦年中に郷試に合格した。教諭より順天東安知県に遷り、宿弊十二事を厘正した。河が嚙み、歳は旱魃蝗害こうがいがあり、文を作って祭祷した。河は他に移り、蝗もまた尽きた。繁劇の地保定の新城に転任した。

原文邱民仰,字長白,渭南人。萬歷中舉於鄉。以教諭遷順天東安知縣,厘宿弊十二事。河嚙,歲旱蝗,為文祭禱。河他徙,蝗亦盡。調繁保定之新城。

崇禎二年、県が兵禍に遭い、朝夕城壁に登って守った。四方の勤王軍が皆その地を出たが、民仰は調度方あり、民は擾乱を知らなかった。御史に抜擢され、敢言と号された。当時四方に盗賊多く、鎮撫は率いて怯懦にして敢えて戦わず、大乱を醸成した。呉橋の兵変では列城多く陥ち、巡撫余大成・孫元化は皆撫を主とした。流賊が山西を擾すと、巡撫宋統殷が賊を殺す者は死に抵すとの令を下した。民仰は先後に疏を上ってその非を論じ、後は皆民仰の言う如くとなった。妻の喪に遭い、告帰した。出て河間知府となり、天津副使に遷り、大同監軍汝寧に転じ、永平右参政に遷り、寧前兵備を督すべく移った。民仰は劇務を善く処理し、故に移る所は皆要地であった。

原文崇禎二年,縣被兵,晨夕登陴守。四方勤王軍畢出其地,民仰調度有方,民不知擾。擢御史,號敢言。時四方多盜,鎮撫率怯懦不敢戰,釀成大亂。吳橋兵變,列城多陷,巡撫余大成、孫元化皆主撫。流賊擾山西,巡撫宋統殷下令,殺賊者抵死。民仰先後疏論其非,後皆如民仰言。遭妻喪,告歸。出為河間知府,遷天津副使,調大同監軍汝寧,遷永平右參政,移督寧前兵備。民仰善理劇,以故所移皆要地。

十三年三月、右僉都御史に抜擢され、方一藻に代わって遼東巡撫となり、関外八城を巡行し、寧遠に駐屯した。十四年春、錦州が包囲され、壕を埋め塹を毀ち、声援断絶した。その帥祖大寿の言葉を伝える者があった、「車営を以て逼り、軽々に戦うなかれ」と。総督洪承疇が兵を集め、民仰が糧秣を転送したが、未だ発しなかった。帝これを憂いた。朝議は両端に分かれた。郎中張若麒を行営に遣わして計議させると、若麒が至れば、進師を促した。七月、軍は乳峰に駐屯し、錦州より五六里を距って営し、翌日、楊国柱の軍が潰えた。一月余りして、王樸の軍もまた潰えた。未幾、馬科等五将も皆潰えた。大清兵が松山を掘り、我が帰路を断った。遂に大敗し、蹂躪殺溺数を知らず、退いて松山を保った。包囲急にして、外援至らず、芻糧尽きた。翌年二月に至り、且つ半年、城破れ、承疇は降り、民仰は死に、若麒は跳んで海上より漁舟を蕩して還り、寧遠・関門の勁旅尽く喪われた。事聞こえ、帝は驚悼甚だしく、都城に壇を設け、承疇に十六壇、民仰に六壇、祭を賜いて尽く哀した。民仰に右副都御史を追贈し、官が営葬し、一子を録した。尋ねて都城外に祠を建てることを命じ、承疇と並列し、帝は親臨して祭らんとした。将に祭らんとし、承疇の降伏を聞き、乃ち止めた。

原文十三年三月,擢右僉都御史,代方一藻巡撫遼東,按行關外八城,駐寧遠。十四年春,錦州被圍,填壕毀塹,聲援斷絕。有傳其帥祖大壽語者:「逼以車營,毋輕戰。」總督洪承疇集兵,民仰轉餉,未發。帝憂之。朝議兩端。命郎中張若麒就行營計議,若麒至,則趣進師。七月,師次乳峰,去錦州五六里而營,旦日,楊國柱之軍潰。逾月,王樸軍亦潰。未幾,馬科等五將皆潰。大清兵掘松山,斷我歸路,遂大敗,蹂躪殺溺無算,退保松山。圍急,外援不至,芻糧竭。至明年二月,且半年矣,城破,承疇降,民仰死,若麒跳從海上蕩漁舟而還,寧遠、關門勁旅盡喪。事聞,帝驚悼甚,設壇都城,承疇十六,民仰六,賜祭盡哀。贈民仰右副都御史,官為營葬,錄其一子。尋命建祠都城外,與承疇並列,帝將親臨祭焉。將祭,聞承疇降,乃止。

邱禾嘉は貴州新添衛の人である。万暦四十一年の郷試に合格し、兵を談ずることを好んだ。天啓の時、安邦彦が反乱を起こすと、資を捐げて器械を制し、協力してその党何中蔚を擒にした。祁門教諭に選ばれ、貴州巡撫蔡復一の請いにより、翰林待詔に遷り、復一の軍に参じた。

原文邱禾嘉,貴州新添衛人。舉萬歷四十一年鄉試,好談兵。天啟時,安邦彥反,捐資制器,協擒其黨何中蔚。選祁門教諭,以貴州巡撫蔡復一請,遷翰林待詔,參復一軍。

崇禎元年、その兵を知る者を推薦する者あり、命じて上方略を条陳せしむ。帝善しと称し、即ち兵部職方主事を授く。三年正月、薊遼総督梁廷棟中樞に入り、総理馬世龍の節制に違うを銜み、禾嘉に命じてその軍を監紀せしむ。時に永平四城失守し、枢輔孫承宗は関門に在り、声息阻絶す。薊遼総督張鳳翼未だ至らず、而して順天巡撫方大任は老病にして軍を能わず、惟だ禾嘉関門の声援を通ぜんと議し、軍を率いて開平に入る。二月、大清兵来たりて攻む、禾嘉力拒して守り、乃ち去る。已にして分かち古治郷を略す、禾嘉副将何可綱・張洪謨・金国奇・劉光祚等をして迎戦せしめ、灤州に抵る。甫く還るや、而して大清兵復た牛門・水門を攻め、又た参将曹文詔等を督して転戦し、遵化に抵りて返る。間も無く、四城皆復す。

原文崇禎元年,有薦其知兵者,命條上方略。帝稱善,即授兵部職方主事。三年正月,薊遼總督梁廷棟入主中樞,銜總理馬世龍違節制,命禾嘉監紀其軍。時永平四城失守,樞輔孫承宗在關門,聲息阻絕。薊遼總督張鳳翼未至,而順天巡撫方大任老病不能軍,惟禾嘉議通關門聲援,率軍入開平。二月,大清兵來攻,禾嘉力拒守,乃引去。已,分略古治鄉,禾嘉令副將何可綱、張洪謨、金國奇、劉光祚等迎戰,抵灤州。甫還,而大清兵復攻牛門、水門,又督參將曹文詔等轉戰,抵遵化而返。無何,四城皆復。

寧遠は畢自肅の遇害より以来、遂に巡撫官を廃し、経略を以てこれを兼ぬ、是に至り復設を議す。廷棟禾嘉の才を力推し、超えて右僉都御史を拝し、その地を巡撫し、兼ねて山海関諸処を轄す。禾嘉初めて鎮に蒞るや、大清兵二万騎を以て錦州を囲む、禾嘉諸将を督して赴き救い、城全きを得。登萊巡撫孫元化は島上の兵を関外に徹し、広寧及び金・海・蓋の三衛を規復せんと議す、禾嘉は島兵を用いて広寧・義州・右屯を復せんと議す。廷棟その難きを慮り、もって承宗に諮る。承宗上奏して曰く、「広寧は海より百八十里、河より百六十里、陸運難し。義州地偏にして、広寧より遠く、必ず先ず右屯を拠り、兵を聚め粟を積み、乃ち漸く広寧を逼るべし。」又た言う、「右屯城已に隳ち、修築して後に守るべし。これを築せば、敵必ず至り、必ず大・小淩河を復し、もって松・杏・錦州に接すべし。錦州は海を繞りて居り敵し、陸運難し。而して右屯の後は即ち海、此れに拠れば則ち糧は給せられ、兵は聚められ、始めて発軔の地と為すを得。」奏入り、廷棟力これを主とし、ここにおいて大淩築城の議あり。

原文寧遠自畢自肅遇害,遂廢巡撫官,以經略兼之,至是議復設。廷棟力推禾嘉才,超拜右僉都御史,巡撫其地,兼轄山海關諸處。禾嘉初蒞鎮,大清兵以二萬騎圍錦州,禾嘉督諸將赴救,城獲全。登萊巡撫孫元化議徹島上兵於關外,規復廣寧及金、海、蓋三衛,禾嘉議用島兵復廣寧、義州、右屯。廷棟慮其難,以咨承宗。承宗上奏曰:「廣寧去海百八十里,去河百六十里,陸運難。義州地偏,去廣寧遠,必先據右屯,聚兵積粟,乃可漸逼廣寧。」又言:「右屯城已隳,修築而後可守。築之,敵必至,必復大、小淩河,以接松、杏、錦州。錦州繞海而居敵,難陸運。而右屯之後即海,據此則糧可給,兵可聚,始得為發軔地。」奏入,廷棟力主之,於是有大淩築城之議。

会うところ禾嘉祖大寿を訐り、大寿もまたその贓私を発す。承宗は武将を以て文臣を去らしむるを欲せず、抑えて奏せしめず、密かに朝に聞こえ、禾嘉を他職に改めんことを請う。四年五月、命じて南京太僕卿に調じ、孫谷を以て代わらしむ。谷未だ至らず、部檄城を促すこと甚だ急なり。大寿兵四千を以てその地を拠り、班軍一万四千人を発してこれを築き、石矽土兵一万人を以て護る。禾嘉往きてこれを視、九議を条して上る。工垂成らんとす、廷棟罷め去る。廷議大淩荒遠にして城すべからずとし、班軍を撤して薊に赴かしめ、撫鎮の矯挙を責め、回奏を令す。禾嘉懼れ、防兵を尽く撤し、班軍一万人を留め、糧一万石を輸してこれを済す。

原文會禾嘉訐祖大壽,大壽亦發其贓私。承宗不欲以武將去文臣,抑使弗奏,密聞於朝,請改禾嘉他職。四年五月,命調南京太僕卿,以孫谷代。谷未至,部檄促城甚急。大壽以兵四千據其地,發班軍萬四千人築之,護以石矽土兵萬人。禾嘉往視之,條九議以上。工垂成,廷棟罷去。廷議大淩荒遠不當城,撤班軍赴薊,責撫鎮矯舉,令回奏。禾嘉懼,盡撤防兵,留班軍萬人,輸糧萬石濟之。

八月、大清兵城下に抵り、濠を掘り墻を築き、四面合囲し、別に一軍を遣わして錦州大道を截つ。城外の堠台皆下り、城中の兵出で、悉く敗れて還る。禾嘉これを聞き、馳せて錦州に入り、総兵官呉襄・宋偉と兵を合して赴き救う。松山を離れること三十余里、大清兵と遇い、長山・小淩河の間に大戦し、互いに傷損あり。九月の望、大清兵錦州に薄り、五隊に分かれて直ちに城下に抵る。襄・偉出でて戦い勝たず、乃ち城に入る。二十四日、監軍張春襄・偉の兵に会し、小淩河を過ぐること東五里、壘を築き車営を列ね、大淩の声援と為す。大清兵長山を扼し、進むを得ず。禾嘉副将張洪謨・祖大寿・靳国臣・孟道等を遣わして五里荘に出でて戦わしむ、亦勝たず。夜小淩河に趨り、長山に至りて戦いを接し、大敗す。春及び副将洪謨・楊華征・薛大湖等三十三人俱に執らわれ、副将張吉甫・満庫・王之敬等戦歿す。大寿出でるを敢えず、淩城の援はここより絶つ。敗書聞こえ、挙朝震駭す。孫谷禾嘉に代わらんとす、未だ至らずして罷め、改めて謝璉を命ず。璉畏懼し、久しく至らず。後兵事急なり、璉を召して関外に駐ましめ、禾嘉は留まって中を治む。是に及び敗を聞き、松山に移駐し、再挙を図る、言官推委を以てこれを帝に詆す。帝禾嘉の独り松山を守るを以て、責を卸すに非ずとし、戒飭するのみ。

原文八月,大清兵抵城下,掘濠築墻,四面合圍,別遣一軍截錦州大道。城外堠臺皆下,城中兵出,悉敗還。禾嘉聞之,馳入錦州,與總兵官吳襄、宋偉合兵赴救。離松山三十餘里,與大清兵遇,大戰長山、小淩河間,互有傷損。九月望,大清兵薄錦州,分五隊直抵城下。襄、偉出戰不勝,乃入城。二十四日,監軍張春會襄、偉兵,過小淩河東五里,築壘列車營,為大淩聲援。大清兵扼長山,不得進。禾嘉遣副將張洪謨、祖大壽、靳國臣、孟道等出戰五里莊,亦不勝。夜趨小淩河,至長山接戰,大敗。春及副將洪謨、楊華征、薛大湖等三十三人俱被執,副將張吉甫、滿庫、王之敬等戰歿。大壽不敢出,淩城援自此絕。敗書聞,舉朝震駭。孫谷代禾嘉,未至而罷,改命謝璉。璉畏懼,久不至。後兵事亟,召璉駐關外,禾嘉留治中。及是聞敗,移駐松山,圖再舉,言官以推委詆之帝。帝以禾嘉獨守松山,非卸責,戒飭而已。

大淩糧尽き人馬を食らう。大清屡たび書を移してこれを招く、大寿諾す、独り副将可綱従わず。十月二十七日、大寿可綱を殺し、副将張存仁等三十九人と誓書を投じて降を約す。是の夕出でて見え、妻子錦州に在るを以て、計を設けて錦州守将を誘降せんことを請い、而して諸子を大清に留む。禾嘉大淩城の砲声を聞き、大寿の脱するを得たりと謂い、襄及び中官李明臣・高起潜と兵を発して往き迎う。適た大寿偽り逃げ還る、遂に俱に錦州に入る。大淩城の人民商旅三万有奇、僅かに三の一を存するのみ、悉く大清の所有と為り、城も亦毀たる。十一月六日、大清復た杏山を攻め、明日中左所を攻む。城上砲を用いて撃ち、乃ち退く。大寿錦州に入る、間を得ず、而して禾嘉その納款の状を知り、疏を具して朝に聞こゆ。初め大寿の突囲して出づと奏せしにより、前後相讎わず、罪を引き死を請う。ここにおいて言官交わって劾し、厳旨禾嘉を飭す。而して帝大寿に於いてはこれを羈縻せんと欲し、罪とせず。

原文大淩糧盡食人馬。大清屢移書招之,大壽許諾,獨副將可綱不從。十月二十七日,大壽殺可綱,與副將張存仁等三十九人投誓書約降。是夕出見,以妻子在錦州,請設計誘降錦州守將,而留諸子於大清。禾嘉聞大淩城炮聲,謂大壽得脫,與襄及中官李明臣、高起潛發兵往迎。適大壽偽逃還,遂俱入錦州。大淩城人民商旅三萬有奇,僅存三之一,悉為大清所有,城亦被毀。十一月六日,大清復攻杏山,明日攻中左所。城上用炮擊,乃退。大壽入錦州,未得間,而禾嘉知其納款狀,具疏聞於朝。因初奏大壽突圍出,前後不讎,引罪請死。於是言官交劾,嚴旨飭禾嘉。而帝於大壽欲羈縻之,弗罪也。

新撫璉已に至る、禾嘉猶お錦州に在り、会うところ廷議山海別に巡撫を設く。詔璉を罷め、方一藻をして寧遠を撫ましめ、禾嘉は仍く僉都御史を以て山海・永平を巡撫せしむ。尋いで城を築き釁を召すの罪を論じ、二秩を貶し、巡撫は故の如し。禾嘉監視中官の為に標兵を設けんことを請う。御史宋賢その中人に諂附するを詆す、帝怒り、賢を三秩貶す。禾嘉持論毎に承宗と異なり、喜ばれず、時に詆諆あり。既に喪敗に遭い、廷論益々容れず、遂に堅く疾を以て請う。五年四月、詔して還京を許し、楊嗣昌を以て代わらしむ。その妻に代わって病状を陳ぜしむ。乃ち帰田を命じ、未だ都を出でずして卒す。

原文新撫璉已至,禾嘉猶在錦州,會廷議山海別設巡撫。詔罷璉,令方一藻撫寧遠,禾嘉仍以僉都御史巡撫山海、永平。尋論築城召釁罪,貶二秩,巡撫如故。禾嘉請為監視中官設標兵。御史宋賢詆其諂附中人,帝怒,貶賢三秩。禾嘉持論每與承宗異,不為所喜,時有詆諆。既遭喪敗,廷論益不容,遂堅以疾請。五年四月,詔許還京,以楊嗣昌代。令其妻代陳病狀。乃命歸田,未出都卒。

明世郷に挙げられて巡撫に至りて仕うる者は、隆慶朝は止だ海瑞、万暦朝は張守中・艾穆。荘烈帝格を破りて才を求む、十人を得たり:邱民仰・宋一鶴・何騰蛟・張亮は忠義を以て著しく、劉可訓は武功を以て聞こえ、劉応遇・孫元化・徐起元は皆勤労を以て位に致り、而して陳新甲官最も顕る。

原文明世舉於鄉而仕至巡撫者,隆慶朝止海瑞,萬歷朝張守中、艾穆。莊烈帝破格求才,得十人:邱民仰、宋一鶴、何騰蛟、張亮以忠義著,劉可訓以武功聞,劉應遇、孫元化、徐起元皆以勤勞致位,而陳新甲官最顯。

賛して曰く、危乱の世、未だ嘗て才を乏しむこと有らず、顧みるに往々その用を尽くさず。用うる矣、或いはその肘を掣きてこれを必死に駆る。是の若き者は、人実にこれを為す、要するに亦天意なり。盧象昇の荘烈帝の時に在りしは、豈に世にまた無きの才に非ざらんや、乃ち困抑して以て死に至らしむ、何ぞや!忠義の激発に至りては、危きを顧みず身を顧みず、劉之綸・邱民仰の徒の若きは、又た相与に俱に尽き、則ち天意知るべし。

原文贊曰:危亂之世,未嘗乏才,顧往往不盡其用。用矣,或掣其肘而驅之必死。若是者,人實為之,要之亦天意也。盧象昇在莊烈帝時,豈非不世之才,乃困抑之以至死,何耶!至忠義激發,危不顧身,若劉之綸、邱民仰之徒,又相與俱盡,則天意可知矣。