明史

列傳第一百四十九 盧象昇 劉之綸 丘民仰

○盧象昇(弟象晉・象觀・從弟象同) 劉之綸 邱民仰(邱禾嘉)

盧象昇、字は建鬥、宜興の人。祖父は立誌、儀封の知縣。象昇は色白で痩せ、肩の骨が突出し、並外れた膂力を有した。天啓二年の進士に挙げられ、戸部主事を授かる。員外郎を歴任し、やがて大名知府に遷る。

崇禎二年、京師が戒厳すると、一万人を募って入衛した。翌年、右參政兼副使に進み、大名・広平・順徳の三府の兵備を整飭し、「天雄軍」と号した。さらに翌年、治行卓異に挙げられ、按察使に進み、兵を治めることは従前の如し。象昇は文士ながらも、射術に優れ、将略に熟達し、軍を統率することができた。

六年、山西の賊が畿輔に流入し、臨城の西山を占拠した。象昇はこれを撃退し、総兵梁甫・参議寇従化と連携して賊を破った。賊は西山に逃げ戻り、遊撃董維坤を冷水村に包囲した。象昇は石城の南に伏兵を設け、これを大破し、さらに青龍岡で破り、また武安で破った。賊の首魁十一人を連続して斬り、その徒党を殲滅し、男女二万人を奪還した。三郡の民は、数年にわたり安堵した。象昇は戦陣に臨むごとに、士卒に先んじ、賊と格闘し、刃が鞍に及んでも顧みず、馬を失えば即ち歩戦し、賊を危崖に追い、一賊が頂上から象昇の額を射たが、また一矢で従僕が馬の下に倒れても、象昇は刀を提げて戦いを一層激しくした。賊は驚いて逃げ、「盧廉使に遇えば即死す、犯すべからず」と戒め合った。象昇はこれによって能兵の名を得た。賊は恐れ、南へ黄河を渡った。

翌年、賊が楚に入り、鄖陽の六県を陥れた。象昇に右僉都御史を以て、蔣允儀に代わり鄖陽を撫治することを命じた。時にしょくの寇で楚に戻った者が鄖の黄龍灘に駐屯しており、象昇は総督陳奇瑜と分道して挟撃し、烏林関・乜家溝・石泉壩・康寧坪・獅子山・太平河・竹木砭・箐口の諸所で、連戦連勝し、五千六百余りの首級を斬り、漢南の寇はほぼ尽きた。ここにおいて鄖の主兵を増やすこと、税賦を減ずること、城郭を繕うこと、隣郡の倉穀を貸すこと、商を募って銅を採り銭を鋳ることなどを請い、鄖は完治した。

八年五月、象昇を右副都御史に抜擢し、唐暉に代わり湖広を巡撫させた。八月、江北・河南・山東・湖広・四川の軍務を総理し、湖広巡撫を兼ねることを命じた。総督洪承疇は西北を担当し、象昇は東南を担当した。まもなく巡撫の任を解かれ、兵部侍郎に進み、山西・陝西の軍務を督することを加えられ、尚方剣を賜り、便宜行事を許された。汝・洛が警報を告げると、象昇は倍道で汝に馳せ入った。賊の部衆三十余万、連営百里、勢い甚だ盛ん。象昇は副将李重鎮・雷時聲等を督して高迎祥を城西で撃ち、強弩を用いて賊千余人を射殺した。迎祥・李自成は逃げ、光州を陥れ、象昇は再び確山でこれを大破した。先に、大帥曹文詔・艾萬年が陣没し、尤世威が敗北し、諸将は概ね賊を恐れて前に進まず、象昇は常に慷慨して涙を流し、忠義をもって激励した。軍中で三日間糧秣が絶えたことがあったが、象昇もまた水漿を口にせず、これによって将士の心を得て、戦えば必ず功績があった。

九年正月、諸将を鳳陽に大集した。象昇はそこで上言して言う、「賊が横行して後に兵を調べ、賊が多くなって後に兵を増やす、これを後局という。兵が至って後に餉を議し、兵が集まって後に餉を請う、これを危形という。まして請うた餉が満たされなければ、兵将は賊に従って寇となる、これは八年来請うた兵は皆賊の党、用いた餉は皆盗賊の糧である」。また言う、「総督・総理は専兵・専餉を持つべきである。咸寧・甘・固の兵を調べて総督に属させ、薊・遼・関・寧の兵を総理に属させることを請う」。また言う、「各直省の撫臣は、皆封疆の重任を負っており、賊警があれば即ち援を求め調を求めることがあってはならない。応じなければ呉・越のごとく、分けて応じればどうして支えられようか」。また言う、「臺諫の諸臣は、難易を問わず、死生を顧みず、専ら完璧を求めて責め立てる。長材があっても、どうして展開できようか。臣と督臣は、剿法はあれど堵法はなく、戦法はあれど守法はない」。その言はことごとく機宜に適中した。

そこで迎祥が廬州を包囲したが、陥れず、分道して含山・和州を陥れ、進んで滁州を包囲した。象昇は総兵祖寬・遊撃羅岱を率いて滁州を救い、城東五里橋で大戦し、賊首の搖天動を斬り、その駿馬を奪った。賊の連営はことごとく潰え、敗走を五十里追撃し、朱龍橋から関山に至るまで、屍が溝や塹を埋め、滁水は流れを止めた。賊はそこで北へ鳳陽に向かい、寿州を包囲し、潁・霍・蕭・碭・霊璧・虹を突破し、曹・単を窺った。総兵劉澤清が河を防ぐと、考城・儀封を掠めて西へ向かった。亳を犯した者は、転じて帰徳に入った。永寧総兵官祖大楽が邀撃し、賊はそこで開封を北に向かった。陳永福が朱仙鎮でこれを破り、賊は登封に走り、他の賊と合流し、裕州・南陽に分かれて向かった。象昇は寬・大楽・岱の兵を合わせて七頂山でこれを大破し、自成の精騎をほぼ殲滅した。やがて、南陽に駐屯し、大楽に汝寧を備えさせ、寬に鄧州を備えさせ、自らは諸軍を率いて賊を追い詰めた。使者を遣わして湖広巡撫王夢尹・鄖陽撫治宋祖舜に告げて言う、「賊は疲れた。東西から邀撃し、前は漢江に阻まれ、一戦で殲滅できる」。二人はついに防ぐことができず、賊は光化から密かに漢江を渡って鄖に入った。象昇は総兵秦翼明・副将雷時聲を遣わし、南漳・谷城から山に入って賊を撃たせた。寬等の騎兵軍は、険阻な地形に不利で、副将王進忠の軍は騒動を起こし、羅岱・劉肇基の兵は多く逃げ、追えば弓を内に向けて引いた。象昇はそこで四川及び筸子の土兵を調達し、均州の賊を捜索捕縛した。この時、楚・の賊及び迎祥等は皆秦・楚・蜀の境の万山の中におり、象昇は南陽から襄陽に向かって進軍した。賊多く兵少なく、しかも河南は大飢饉で、餉は乏しく、辺兵はますます騒然とした。承疇・象昇が議し、関中は平曠で騎兵に利ありとして、寬・重鎮の軍を陝に入れさせ、一方で襄陽・均・宜・谷・上津・南漳は、山を巡らせて皆賊であった。七月、象昇は淅河を渡って南へ向かった。九月、賊を追って鄖西に至った。

京師が戒厳すると、詔があり入衛を命じられ、再び尚方剣を賜った。既に出発すると、賊は大いに勢いを振るい、もはや制御しがたいほどになった。戒厳が解けると、詔があり兵部左侍郎に遷り、宣・大・山西の軍務を総督することを命じられた。大いに屯政を興し、穀物が熟すと、一畝あたり一鐘を収め、粟を二十余万積み貯めた。天子は九辺に諭し、皆宣・大を模範とせよとした。

翌年春、宣に警報があると聞き、即夜天城に馳せ至った。矢文の檄が錯綜し、二百里外に乞炭の馬蹄が四十里にわたって闊踏しているという。象昇は言う、「これは大挙である」。問う、「入口したか」。答えて言う、「未だ」。象昇は言う、「おそらく右の雲・晉を窺い、我が兵を宣に集めさせれば、彼は虚に乗じて入るつもりであろう」。そこで雲・晉の兵に動くなと檄を飛ばし、自ら師を率いて右衛に駐屯し、辺吏に軽々しく戦いを言うなと戒めた。一か月持ちこたえ、象昇は言う、「弛んだ、撃つべし」。斥候が三十六営が墻から六十里離れていることを知ると、密かに雲の師を西から召し寄せ、宣の師を東から来させ、自ら兵を督して直ちに子午を出て、羊房堡から出て、期日を定めて激戦した。乞炭はこれを聞いて遂に遁走した。象昇が陽和にいる間、乞炭は辺境に近づくことを敢えなかった。五月、父の喪に遭い、十度上疏して、奔喪を乞うた。時に楊嗣昌は喪中を奪情して中樞に任じ、また陳新甲を起用して制中とし、象昇には喪に席しながら交代を待たせた。兵部尚書に進んだ。新甲は遠方にあり、直ちには至らなかった。

九月、大清兵が墻子嶺・青口山に入り、総督呉阿衡を殺し、正関を破壊し、営城・石匣に至り、牛蘭に駐屯した。宣府・大同・山西の三総兵楊国柱・王樸・虎大威を召して入衛させ、三たび象昇に尚方剣を賜い、天下の援兵を督せしむ。象昇は麻衣に草履を履き、郊外で師を誓い、馳せて上疏して報じて曰く、「臣は軍旅の才にあらず。愚かなる心をもって事に任じ、義、難を避けず。ただ臣の父が急逝してより、長途惨傷し、五官が潰乱して、もはや昔のごとくにあらず。兼ねて草土の身をもって三軍の上に踞るは、ただ観瞻を聳えしめぬのみならず、特に金鼓の霊ならざるを憂う」と。やがて総監中官高起潜もまた衰絰を着て軍に臨むと聞き、象昇は親しい者に謂いて曰く、「我ら三人は皆、不祥の身なり。人臣に親無くば、安んぞ君あらんや。枢輔(楊嗣昌)が奪情したるは、また我に礼を変えて愆を分かたんと欲するか。心をこのように処するは、安んぞ以て君に事えんや。他日必ず面して責めん」と。この時、嗣昌・起潜は和議を主とす。象昇これを聞き、頓足して嘆じて曰く、「予は国恩を受け、恨むらくは死する所を得ず。もし万一の不幸あらば、寧ろ躯を捐てて脰を断たん」と。都に至り、帝召して対し、方略を問う。対えて曰く、「臣は戦を主とす」と。帝の色変じ、良久くして曰く、「撫は外廷の議なり。出でて嗣昌・起潜と議せよ」と。出でて議すれども合わず。明日、帝は万金を発して軍を犒い、嗣昌はこれを送り、左右を屏い、無用の戦を戒めて、遂に別れ去る。師は昌平に次ぐ。帝また中官を遣わして帑金三万を齎し軍を犒う。明日、また御馬百、太僕の馬千、銀鉄鞭五百を賜う。象昇曰く、「果たして外廷の議なり。帝の意、甚だ鋭し」と。決策して戦を議うも、然れども事多くは嗣昌・起潜に撓まされる。疏を上して兵を分かつを請うと、則ち宣府・大同・山西の三帥を象昇に属し、関・寧諸路を起潜に属すと議す。象昇は名は天下の兵を督すといえども、実は二万に及ばず。順義に次ぐ。

先に、盲目で卜を売る者周元忠あり、遼人と善くし、時にこれを遣わして和を講ぜしむ。会に嗣昌が軍に至り、象昇これを責め数えて曰く、「文弱(嗣昌の字)、子は城下の盟いを聞かざるか、『春秋』これを恥ず。而るに日に和を講ず。長安ちょうあんの口舌鋒の如し、袁崇煥の禍、其れ能く免れんや」と。嗣昌の頬赤くして曰く、「公は直に尚方剣を以て我に加えんとす」と。象昇曰く、「既に喪に奔らず、又能く戦わず。剣に歯する者は我なり、安んぞ人に加えんや」と。嗣昌は言を遁らして去る。象昇即ち言う、「元忠が款を講ずるは、往来一日ならず。事は薊門督監に始まり、本兵に成を受く。国中これを聞く、誰か諱むべけんや」と。嗣昌は語塞して去る。また数日を経て、起潜と安定門で会し、両人各々一議を堅持す。新甲もまた昌平に至り、象昇は兵を分かちてこれに与う。この時、象昇自ら馬歩軍を将いて都城の外に営を列ね、沖鋒陷陣し、軍律甚だ整えり。

大清兵南下し、三路より出師す。一は淶水より易を攻め、一は新城より雄を攻め、一は定興より安粛を攻む。象昇は遂に涿より進み保定を拠り、諸将に命じて分道出撃せしめ、慶都にて大戦す。編修楊廷麟上疏して言う、「南仲内に在りて、李綱功無し。潜善成を秉りて、宗澤恨みを殞す。国に若き人あれば、封疆の福に非ず」と。嗣昌大いに怒り、廷麟を兵部主事に改め、行営を賛画せしめ、象昇の尚書を奪い、侍郎として事を視せしむ。大学士劉宇亮に命じて輔臣として師を督せしめ、巡撫張其平は餉を閉絶す。俄かにまた雲・晋の警報あり、関を出づるを促し、王樸は径ちに兵を率いて去る。

象昇は残卒を提げ、三宮野外に宿営す。畿南三郡の父老これを聞き、皆軍門を叩いて請いて曰く、「天下洶洶として且つ十年、明公は万死を出でて一生を顧みざるの計を以て天下に先んず。乃ち奸臣内に在り、孤忠見嫉さる。三軍は関を出づるの檄を捧げ、将士は西に帰るの心を懐く。絶野に棲遅し、一飽する時無し。巾を脱ぎて狂躁す、雲帥(王樸)其れ告げんとす。明公誠に愚計に従い、軍を広順に移し、義師を召集せば、三郡の子弟公の来るを喜び、皆、昔は公無くば賊に死し、今は公無くば兵に死せんとし、同心戮力し、一呼して糧を裹みて従う者十萬に可なり。隻臂無援にて、立って死に就くに孰れか若かん」と。象昇は泫然として涕を流し、父老に謂いて曰く、「父老の義に感ず。然りと雖も、自ら予が賊と角するより、数十百戦を経て未だ嘗て衄せず。今者、疲卒五千を分かち、大敵西より沖き、援師東に隔てらる。事は中制より起こり、食尽き力窮まり、旦夕に死せんとす。徒らに爾ら父老を累わすことなかれ」と。衆号泣して雷動し、各々床頭の斗粟を携えて軍に餉い、或いは棗一升を貽って曰く、「公、煮て糧とせよ」と。十二月十一日、師を進めて鉅鹿賈莊に至る。起潜は関・寧の兵を擁して雞沢に在り、賈莊より五十里に近し。象昇は廷麟を遣わして往きて援を乞わしむも、応ぜず。師は蒿水橋に至り、大清兵に遇う。象昇は中軍を将い、大威は左を帥い、国柱は右を帥いて遂に戦う。夜半、觱篥の声四囲より起こる。旦日、騎数万これを三匝に環らす。象昇は兵を麾して疾く戦い、呼声天を動かす。辰より未に至り、砲尽き矢窮まる。身を奮って闘い、後騎皆進み、手を撃ちて数十人を殺し、身に四矢三刃を受け、遂に仆る。掌牧楊陸凱は衆の其の屍を残すを懼れ、其の上に伏し、背に二十四矢を負いて死す。僕の顧顕なる者は殉じ、一軍尽く覆る。大威・国柱は囲みを潰して乃ち脱す。

起潜は敗を聞き、倉皇として遁れ、象昇の死状を言わず。嗣昌これを疑い、詔して検視せしむ。廷麟は其の屍を戦場に得たり。麻衣に白網巾なり。一卒遥かに見て、即ち号泣して曰く、「此れ吾が盧公なり」と。三郡の民これを聞き、哭して声を失う。順徳知府於穎上状す。嗣昌故にこれを靳み、八十日にして後ち殮す。明年、象昇の妻王氏、恤を請う。又明年、其の弟象晉・象観また請うも、許さず。久しくして、嗣昌敗れ、廷臣多く言う者ありて、乃ち太子少師・兵部尚書を贈り、祭葬を賜い、世蔭錦衣千戸を賜う。福王の時、忠烈と追謚し、祠を建てて奉祀す。

象昇は少より大志有り、学を為すに章句を事とせず。官に居りて勤労、下吏に倍し、夜は燭を刻み、鶏鳴に盥櫛し、一の機要を得れば、衣を披き起き、立って之を行う。暇あれば即ち角射し、箭に花を銜ませ、五十歩の外より発すれば必ず中つ。才を愛し下を惜しむこと及ばざるが如く、三たび剣を賜うも、未だ嘗て一の偏裨を戮せず。

高平知県侯弘文なる者は、奇士なり。襄陽に僑寓し、家財を散じ、滇軍を募りて象昇に随い賊を討つ。象昇が宣府・大同に移るや、弘文は募兵を率いて楚に至る。巡撫王夢尹、駅を擾わすを以て聞こゆ。象昇上疏して救うも得ず、弘文は卒に戍に遣わさる。天下ここより弘文を惜しみ、象昇を多とす。

象昇は駿馬を畜うるを好み、皆名字有り。嘗て賊を南漳に逐い、敗れ、追兵沙河に至る。水闊さ数丈、一躍して過ぐ。即ち号する所の五明驥なり。

象昇の戦歿せし時、嗣昌は三邏の卒を遣わし其の死状を察せしむ。其の一人俞振龍なる者、帰りて象昇実に死せりと言う。嗣昌怒り、之を鞭つこと三日三夜、将に死せんとし、目を張って曰く、「天道神明、忠臣を枉げること無し」と。ここに於いて天下之を聞き、莫く欷歔せず、益々嗣昌を恚る。

其の後、南都亡び、象観は水に赴きて死し、象晉は僧と為り、一門先後難に赴く者百餘人。従弟象同及び其の部将陳安の死、尤も烈し。

象観は崇禎十五年、郷試第一となり、進士に及第した。中書の官に任ぜられた。象晋・象同はともに諸生であった。象昇が死んだ時、年三十九であった。

劉之綸は字を元誠といい、宜賓の人である。家は代々農を務めた。之綸は幼少の頃父兄に従って田畑を力耕し、合間に薪を刈り、市中で売った。帰って書を学び、その座右に「必ず聖人とならん」と銘じた。里中はこれにより之綸を劉聖人と号した。天啓初年、郷試に合格した。奢崇明が反乱を起こすと、策を以て監司に献策し賊の帰路を扼すべきことを説いたが、監司は用いなかった。

崇禎元年に進士に及第し、庶吉士に改められた。同館の金声及び客分の申甫の三人と互いに友となり、単輪火車・偏廂車・獣車を造り、木を刳り抜いて西洋式の大小砲とし、司農の銭を費やさなかった。

翌年の冬、京師が戒厳となった。金声が上書して召見を得、之綸と申甫を推薦した。帝は直ちに之綸と申甫を召した。之綸が兵事を論じると、明瞭に口弁した。帝は大いに喜び、申甫に京営副総兵を授け、金十七万を与えて召募させ、金声を御史に改め、その軍を監させ、之綸に兵部右侍郎を授け、尚書閔夢得の次官として京営戎政を協理させた。ここにおいて之綸は新進の身で急に卿貳の地位に登ったのである。

初め、正月元日に黒気が東北より起こり西方に亘った。申甫はこれを見て大いに驚き、急いで之綸と金声に語って言った、「天変この如し、汝ら知っているか。今年は京城の下で血を喋るであろう、恐るべきことである」と。聞いた者は皆笑った。冬十一月三日に至り、大清兵が遵化を破り、十五日に壩上に至り、二十日に都城に迫り、北より西へと進んだ。都の人が城上よりこれを望むと、雲の万許りの片が風に馳せるが如く、須臾の間に過ぎ去った。遂に良郷を攻克し、還って蘆溝に至り、夜に申甫の一軍七千余人を殺し、黎明に大帥満桂・孫祖寿を掩撃して殺し、黒雲龍・麻登雲を生擒して去った。之綸は言った、「元日の言葉が験した」と。出陣を請うたが、兵が無い。ならば京営兵を請うたが、許されない。ならば関外の川兵を請うたが、許されない。ならば召募を議し、召募して万人を得、遂に行った。通州に着いた時、永平は既に陥落し、天は大雨雪であった。之綸が軍機を奏上すること七度、報いられなかった。

翌年正月、軍は薊に駐屯した。この時、大清兵と蒙古諸部は号すること十余万、永平に駐屯し、諸勤王軍数万が薊にあった。之綸は総兵馬世龍・呉自勉と約し、薊より永平に向かい、牽制して動かさず、自ら兵を率いて八路より遵化を進攻することとした。既に石門より白草頂に至り、遵化より八里の娘娘山に距って営を張ったが、世龍・自勉は約に赴かなかった。二十二日、大清兵が永平より三屯営に向かい、ぎょう騎三万、山上の軍を見ると、縦撃してこれを攻めた。之綸が砲を発すると、砲が炸裂し、軍営自ら乱れた。左右が陣を結んで徐々に退き、後図とすべきことを請うたが、之綸は叱って言った、「多く言うな。我は国恩を受けている、我は死ぬのみだ」と。厳しく鼓を鳴らして再戦し、流矢四方より集まった。之綸は佩いていた印を解いて家人に付し、「これを持ち帰って天子に報ぜよ」と言い、遂に死んだ。一軍皆哭し、営を抜いて野戦し、皆死んだ。屍が還ると、矢が頭蓋に喰い込んで抜けず、金声が歯で嚙んで抜き出し、その家人に授けた。

初め、講官文震孟が都に入ると、之綸と金声が往って見え、震孟は持重すべきことを教えた。之綸が既に命を受けて師を視ることとなり、急に貴くなると、廷臣はこれを抑えた。震孟が人をやって諷し、侍郎を辞して科銜に易えて行くべきであると言ったが、聞き入れなかった。既に行くと、通州の守者が納めず、雨雪の中古廟に宿った。御史董羽宸がその行留を弾劾した。之綸は言った、「小人は意忌し、事あれば委卸し、事なければ議論し、ただ一侍郎の起見に止まるのみである。臣の今官を削り、骸骨を賜わらんことを乞う」と。許されなかった。戦死すると、天子はその忠を嘉し、優恤に従い、兵部尚書を追贈した。震孟がこれを止めて言った、「死綏は分なり、侍郎も尊からずというわけではない」と。遂に贈官を与えず、一祭半葬を賜い、一子に任官した。之綸の母は老い、二子は幼く、貧しくして柩を返すことができず、朝廷に請うて駅伝を給され還った。久しくして、尚書を追贈した。後十五年、金声が難に死んだ。

邱民仰は字を長白といい、渭南の人である。万暦年中に郷試に合格した。教諭より順天東安知県に遷り、宿弊十二事を厘正した。河が嚙み、歳は旱魃蝗害があり、文を作って祭祷した。河は他に移り、蝗もまた尽きた。繁劇の地保定の新城に転任した。

崇禎二年、県が兵禍に遭い、朝夕城壁に登って守った。四方の勤王軍が皆その地を出たが、民仰は調度方あり、民は擾乱を知らなかった。御史に抜擢され、敢言と号された。当時四方に盗賊多く、鎮撫は率いて怯懦にして敢えて戦わず、大乱を醸成した。呉橋の兵変では列城多く陥ち、巡撫余大成・孫元化は皆撫を主とした。流賊が山西を擾すと、巡撫宋統殷が賊を殺す者は死に抵すとの令を下した。民仰は先後に疏を上ってその非を論じ、後は皆民仰の言う如くとなった。妻の喪に遭い、告帰した。出て河間知府となり、天津副使に遷り、大同監軍汝寧に転じ、永平右参政に遷り、寧前兵備を督すべく移った。民仰は劇務を善く処理し、故に移る所は皆要地であった。

十三年三月、右僉都御史に抜擢され、方一藻に代わって遼東巡撫となり、関外八城を巡行し、寧遠に駐屯した。十四年春、錦州が包囲され、壕を埋め塹を毀ち、声援断絶した。その帥祖大寿の言葉を伝える者があった、「車営を以て逼り、軽々に戦うなかれ」と。総督洪承疇が兵を集め、民仰が糧秣を転送したが、未だ発しなかった。帝これを憂いた。朝議は両端に分かれた。郎中張若麒を行営に遣わして計議させると、若麒が至れば、進師を促した。七月、軍は乳峰に駐屯し、錦州より五六里を距って営し、翌日、楊国柱の軍が潰えた。一月余りして、王樸の軍もまた潰えた。未幾、馬科等五将も皆潰えた。大清兵が松山を掘り、我が帰路を断った。遂に大敗し、蹂躪殺溺数を知らず、退いて松山を保った。包囲急にして、外援至らず、芻糧尽きた。翌年二月に至り、且つ半年、城破れ、承疇は降り、民仰は死に、若麒は跳んで海上より漁舟を蕩して還り、寧遠・関門の勁旅尽く喪われた。事聞こえ、帝は驚悼甚だしく、都城に壇を設け、承疇に十六壇、民仰に六壇、祭を賜いて尽く哀した。民仰に右副都御史を追贈し、官が営葬し、一子を録した。尋ねて都城外に祠を建てることを命じ、承疇と並列し、帝は親臨して祭らんとした。将に祭らんとし、承疇の降伏を聞き、乃ち止めた。

邱禾嘉は貴州新添衛の人である。万暦四十一年の郷試に合格し、兵を談ずることを好んだ。天啓の時、安邦彦が反乱を起こすと、資を捐げて器械を制し、協力してその党何中蔚を擒にした。祁門教諭に選ばれ、貴州巡撫蔡復一の請いにより、翰林待詔に遷り、復一の軍に参じた。

崇禎元年、その兵を知る者を推薦する者あり、命じて上方略を条陳せしむ。帝善しと称し、即ち兵部職方主事を授く。三年正月、薊遼総督梁廷棟中樞に入り、総理馬世龍の節制に違うを銜み、禾嘉に命じてその軍を監紀せしむ。時に永平四城失守し、枢輔孫承宗は関門に在り、声息阻絶す。薊遼総督張鳳翼未だ至らず、而して順天巡撫方大任は老病にして軍を能わず、惟だ禾嘉関門の声援を通ぜんと議し、軍を率いて開平に入る。二月、大清兵来たりて攻む、禾嘉力拒して守り、乃ち去る。已にして分かち古治郷を略す、禾嘉副将何可綱・張洪謨・金国奇・劉光祚等をして迎戦せしめ、灤州に抵る。甫く還るや、而して大清兵復た牛門・水門を攻め、又た参将曹文詔等を督して転戦し、遵化に抵りて返る。間も無く、四城皆復す。

寧遠は畢自肅の遇害より以来、遂に巡撫官を廃し、経略を以てこれを兼ぬ、是に至り復設を議す。廷棟禾嘉の才を力推し、超えて右僉都御史を拝し、その地を巡撫し、兼ねて山海関諸処を轄す。禾嘉初めて鎮に蒞るや、大清兵二万騎を以て錦州を囲む、禾嘉諸将を督して赴き救い、城全きを得。登萊巡撫孫元化は島上の兵を関外に徹し、広寧及び金・海・蓋の三衛を規復せんと議す、禾嘉は島兵を用いて広寧・義州・右屯を復せんと議す。廷棟その難きを慮り、もって承宗に諮る。承宗上奏して曰く、「広寧は海より百八十里、河より百六十里、陸運難し。義州地偏にして、広寧より遠く、必ず先ず右屯を拠り、兵を聚め粟を積み、乃ち漸く広寧を逼るべし。」又た言う、「右屯城已に隳ち、修築して後に守るべし。これを築せば、敵必ず至り、必ず大・小淩河を復し、もって松・杏・錦州に接すべし。錦州は海を繞りて居り敵し、陸運難し。而して右屯の後は即ち海、此れに拠れば則ち糧は給せられ、兵は聚められ、始めて発軔の地と為すを得。」奏入り、廷棟力これを主とし、ここにおいて大淩築城の議あり。

会うところ禾嘉祖大寿を訐り、大寿もまたその贓私を発す。承宗は武将を以て文臣を去らしむるを欲せず、抑えて奏せしめず、密かに朝に聞こえ、禾嘉を他職に改めんことを請う。四年五月、命じて南京太僕卿に調じ、孫谷を以て代わらしむ。谷未だ至らず、部檄城を促すこと甚だ急なり。大寿兵四千を以てその地を拠り、班軍一万四千人を発してこれを築き、石矽土兵一万人を以て護る。禾嘉往きてこれを視、九議を条して上る。工垂成らんとす、廷棟罷め去る。廷議大淩荒遠にして城すべからずとし、班軍を撤して薊に赴かしめ、撫鎮の矯挙を責め、回奏を令す。禾嘉懼れ、防兵を尽く撤し、班軍一万人を留め、糧一万石を輸してこれを済す。

八月、大清兵城下に抵り、濠を掘り墻を築き、四面合囲し、別に一軍を遣わして錦州大道を截つ。城外の堠台皆下り、城中の兵出で、悉く敗れて還る。禾嘉これを聞き、馳せて錦州に入り、総兵官呉襄・宋偉と兵を合して赴き救う。松山を離れること三十余里、大清兵と遇い、長山・小淩河の間に大戦し、互いに傷損あり。九月の望、大清兵錦州に薄り、五隊に分かれて直ちに城下に抵る。襄・偉出でて戦い勝たず、乃ち城に入る。二十四日、監軍張春襄・偉の兵に会し、小淩河を過ぐること東五里、壘を築き車営を列ね、大淩の声援と為す。大清兵長山を扼し、進むを得ず。禾嘉副将張洪謨・祖大寿・靳国臣・孟道等を遣わして五里荘に出でて戦わしむ、亦勝たず。夜小淩河に趨り、長山に至りて戦いを接し、大敗す。春及び副将洪謨・楊華征・薛大湖等三十三人俱に執らわれ、副将張吉甫・満庫・王之敬等戦歿す。大寿出でるを敢えず、淩城の援はここより絶つ。敗書聞こえ、挙朝震駭す。孫谷禾嘉に代わらんとす、未だ至らずして罷め、改めて謝璉を命ず。璉畏懼し、久しく至らず。後兵事急なり、璉を召して関外に駐ましめ、禾嘉は留まって中を治む。是に及び敗を聞き、松山に移駐し、再挙を図る、言官推委を以てこれを帝に詆す。帝禾嘉の独り松山を守るを以て、責を卸すに非ずとし、戒飭するのみ。

大淩糧尽き人馬を食らう。大清屡たび書を移してこれを招く、大寿諾す、独り副将可綱従わず。十月二十七日、大寿可綱を殺し、副将張存仁等三十九人と誓書を投じて降を約す。是の夕出でて見え、妻子錦州に在るを以て、計を設けて錦州守将を誘降せんことを請い、而して諸子を大清に留む。禾嘉大淩城の砲声を聞き、大寿の脱するを得たりと謂い、襄及び中官李明臣・高起潜と兵を発して往き迎う。適た大寿偽り逃げ還る、遂に俱に錦州に入る。大淩城の人民商旅三万有奇、僅かに三の一を存するのみ、悉く大清の所有と為り、城も亦毀たる。十一月六日、大清復た杏山を攻め、明日中左所を攻む。城上砲を用いて撃ち、乃ち退く。大寿錦州に入る、間を得ず、而して禾嘉その納款の状を知り、疏を具して朝に聞こゆ。初め大寿の突囲して出づと奏せしにより、前後相讎わず、罪を引き死を請う。ここにおいて言官交わって劾し、厳旨禾嘉を飭す。而して帝大寿に於いてはこれを羈縻せんと欲し、罪とせず。

新撫璉已に至る、禾嘉猶お錦州に在り、会うところ廷議山海別に巡撫を設く。詔璉を罷め、方一藻をして寧遠を撫ましめ、禾嘉は仍く僉都御史を以て山海・永平を巡撫せしむ。尋いで城を築き釁を召すの罪を論じ、二秩を貶し、巡撫は故の如し。禾嘉監視中官の為に標兵を設けんことを請う。御史宋賢その中人に諂附するを詆す、帝怒り、賢を三秩貶す。禾嘉持論毎に承宗と異なり、喜ばれず、時に詆諆あり。既に喪敗に遭い、廷論益々容れず、遂に堅く疾を以て請う。五年四月、詔して還京を許し、楊嗣昌を以て代わらしむ。その妻に代わって病状を陳ぜしむ。乃ち帰田を命じ、未だ都を出でずして卒す。

明世郷に挙げられて巡撫に至りて仕うる者は、隆慶朝は止だ海瑞、万暦朝は張守中・艾穆。荘烈帝格を破りて才を求む、十人を得たり:邱民仰・宋一鶴・何騰蛟・張亮は忠義を以て著しく、劉可訓は武功を以て聞こえ、劉応遇・孫元化・徐起元は皆勤労を以て位に致り、而して陳新甲官最も顕る。

賛して曰く、危乱の世、未だ嘗て才を乏しむこと有らず、顧みるに往々その用を尽くさず。用うる矣、或いはその肘を掣きてこれを必死に駆る。是の若き者は、人実にこれを為す、要するに亦天意なり。盧象昇の荘烈帝の時に在りしは、豈に世にまた無きの才に非ざらんや、乃ち困抑して以て死に至らしむ、何ぞや!忠義の激発に至りては、危きを顧みず身を顧みず、劉之綸・邱民仰の徒の若きは、又た相与に俱に尽き、則ち天意知るべし。