明史

列傳第一百四十八 楊鶴 陳奇瑜 熊文燦 練國事 丁啟睿 鄭崇儉 邵捷春 余應桂 高斗樞 張任學

○楊鶴(從弟鶚)陳奇瑜(元默)熊文燦(洪雲蒸)練國事丁啟睿(從父魁楚)鄭崇儉(方孔炤楊一鵬)邵捷春余應桂高斗樞張任學

楊鶴

楊鶴、字は修齢、武陵の人。萬曆三十二年の進士。雒南知縣に任じられ、長安ちょうあんに転任。

四十年、御史に抜擢され、上疏して東宮の講学を請う。かつて言う、「近頃、愛女が宮奴に踏み躙られ、館甥が朝市で鞭打たれ、宮門を叩いても聞こえず、上書しても通じず、閉塞は極まれり」と。時に壽寧主の婿の冉興譲が掌家宮人の梁盈女・内官の彭進朝らに毆打侮辱され、公主が三度奏上しても通じず、興譲は長安門に冠を掛けて去ったので、鶴はこれに言及したのである。

まもなく出て両淮の塩法を督し、貴州を巡按。貴州は烏撒に接し、川南の敘州から千里離れ、節制し難い。土官の安雲龍が死に、その族人と沾益の安效良が印を争い、三十年兵を構え、後ついに效良に占拠され、その父の紹慶はまた沾益州を占拠し、いずれも川・雲・貴の咽喉の地である。鶴は烏撒を割いて貴州に隷属させ、地が近ければ節制に便利で、後患を消し得ると請うたが、朝議は決しなかった。間もなく效良が乱を起こし、その言の如くになった。貴州の土官は百数を数え、水西の安氏が最も大きく、土地・戸口・貢賦の類は、籍で稽べるべきものがなかった。鶴は宣慰の安位に檄を飛ばして全て籍に著させ、併せて首領の目把の主名・承襲の源委を悉く列挙して有司に上らせた。ここに初めて簿牒が明らかとなり、奸弊が稽べ易くなった。事が竣り、命を待たずに直ちに帰った。久しくして、還朝。

楊鎬の四路の軍が敗れると、鶴は熊廷弼・張鶴鳴・李長庚・薛國用・袁應泰を推薦し、言う、「遼事の失は、彼我を量らず、師を喪い国を辱しめたのは、経略に誤りあり。機宜に諳んぜず、馬上で戦を催したのは、輔臣に誤りあり。調度を聞かず、束手して策無きは、枢部に誤りあり。至尊が優柔不断なれば、また至尊自ら誤る」と。当事者はその直諫を憎み、他事を仮りてこれを逐おうとしたので、乃ち疾を引いて去った。父の喪に服す。天啓初め、太僕少卿に起用され、右僉都御史に抜擢され、南・贛を巡撫。未だ任に就かず、母の喪に服す。而して広寧がまた敗れた。魏忠賢は鶴が廷弼を党護したとして、鶴の名を除いた。

崇禎元年、召されて左僉都御史に拝され、左副都御史に進む。鶴が上言する、「治を図る要は、元気を培うにあり。大兵大役より、加派頻繁で、公私共に窮し、小民の元気傷つく。遼左・黔・しょくより師を喪い律を失い、暴骨丘を成し、封疆の元気傷つく。搢紳が党を構え、彼此相傾き、逆奄これに乗じ、善類を誅鋤し、士大夫の元気傷つく。譬えば重病初めて起き、百脈未だ調わず、風邪入り易く、道は培養に在り」と。時に名言と為す。

先に、遼左に兵を用い、逃軍は憚って敢えて帰伍せず、相集まって剽虜した。ここに至り、関中は頻年に凶作、有司は下を恤れまず。白水の王二という者、衆を鳩し、その面に墨を塗り、澄城に闖入し、知県の張耀采を殺す。ここより府谷の王嘉允・漢南の王大梁・階州の周大旺ら群賊蜂起し、三辺の飢軍これに応じ、流賊の始まりである。この時、承平久しく、卒然に兵災に遭い、人に固き志無し。大吏は賊を聞くを悪み、曰く、「これは飢えた民、徐々に自ら定まるであろう」と。明年、総督の武之望死す。久しくして、廷臣に肯って往く者無く、群れて鶴を推す。帝、鶴を召見し、方略を問う。対えて曰く、「清慎自ら持ち、将卒を撫恤するのみ」と。遂に鶴を兵部右侍郎に拝し、之望に代わって陝西三辺の軍務を総督す。至れば大梁・大旺・王二は既に前に誅滅されていたが、継いで起る者益々衆し。鶴は平素清望有り、然れども兵を知らず。その冬、京師戒厳、延綏・寧夏・甘肅・固原・臨洮の五鎮総兵官悉く勤王の為に出発。延綏兵は途中で逃げ帰り、甘肅兵もまた嘩変し、誅を懼れ、共に賊に合流し、賊は益々張る。

三年正月、王左掛ら宜川を攻め、知県の成材に撃退され、転じて韓城を攻む。軍中に帥無し、鶴は参政の洪承疇に命じてこれを防がせる。三百余人を俘斬し、囲み解け、賊は清澗に走る。鶴は連疏して諸将の還鎮を請うたが、果たさず、故将の杜文煥を起用してこれを任せた。二月、延安知府の張輦・都司の艾穆が賊を延川に迫り、その首魁の王子順・張述聖・姬三児を降す。別賊の王嘉允は延安・慶陽を掠め、鶴は匿して奏上せず、而して降賊の王虎・小紅狼・一丈青・掠地虎・混江龍らに免死の牒を与え、延綏・河曲の間に安置す。賊は淫掠すること旧の如く、有司敢えて問わず。寇患ここに成る。

七月、嘉允は黄甫・清水・木瓜を陥とし、遂に府谷を陥とす。文煥これを撃退し、賊は山西に流入。既に撫でられた王左掛は白汝学を以て綏徳州を攻め、内応を謀る。事覚り、巡按の李応期は承疇と計りて左掛らを綏徳で誅し、五十七人皆死す。十二月、賊の神一元は新安・寧塞・柳樹澗等の堡を攻め陥とす。寧塞は文煥の居所、宗人多く死す。

明年正月、賊は寧塞を棄て、保安を陥とす。一元死に、弟の一魁は慶陽を囲み、合水を陥とす。鶴聞き、寧州に移駐。一魁は撫を求め、合水知県の蔣応昌を送還し、別賊の拓先齢・金翅鵬・過天星・田近庵・独頭虎・上天龍らも先後に降る。鶴は城楼に御座を設け、賊は跪拝して万歳を呼ぶ。鶴は聖諭を宣べ、誓いを設け、或いは帰伍、或いは帰農せしむ。賊は偽ってこれに応じ、則ち直ちにその罪を赦す。群盗はここより総督を児戯の如く視る。鶴はまた一魁が最も強しとし、その婿を帳中に致し、同臥起す。而して一魁果たして至る。十の罪を数えれば、則ち稽首して謝す。即ち詔を宣べてこれを赦し、官を与え、その衆四千余人を寧塞に処し、守備の呉弘器に護らしむ。文煥これを聞き、嘆いて曰く、「寧塞の役、賊は我を畏れて逃げた。今、賊は偽降し、楊公これを信じ、名城を借りて盗賊の資と為す。我は宗人、賊とこの土に逼処すべけんや」と。遂にその族を率いて去る。

五月、鶴は耀州に移駐。賊は金鎖関を攻め破り、都司の王廉を殺す。七月、別賊の李老柴・独行狼は中部を攻め陥とし、田近庵は六百人を以て馬欄山を守りこれに応ず。而して降した渠魁一魁の党の茹成名という者は、尤も桀驁、鶴は一魁に命じて耀州でこれを誘殺せしむ。その党は猜懼し、一魁を挟んで叛く。御史の謝三賓言う、「鶴は慶陽の撫局既に畢り、賊は散遣して俱に尽きたりと言う。中部の賊は、寧ろ天より降るか」と。疏は巡按御史の呉甡に下りて核奏せしむ。甡は鶴が撫を主とし国を誤ると奏す。帝怒り、鶴を逮えて獄に下し、袁州に戍す。

七年の秋、子の嗣昌が宣大山西総督に抜擢され、上疏して辞退し、「臣の父鶴は総督として譴責を受けて既に三年、臣何の心あって再びこの職に居らん」と述べた。帝は優詔でこれに答えながらも、鶴の罪を赦さなかった。八年の冬、鶴が戍所で卒すると、嗣昌が恩恤を請うた。帝は鶴の官を復したが、恩恤は与えなかった。鶴は初め尤世禄の寧夏大捷の功により、兵部尚書・太子少保に進み、世蔭として錦衣千戸を賜った。十年、賀虎臣の寧夏における賊破りの功を叙し、太子少傅を追加した。十三年、また甘肅の叙功により、一子に官を任じた。

従弟の鶚は、崇禎四年の進士である。御史に官し、才名があり、順天巡撫に抜擢された。京師陥落後、南に帰り、福王が兵部右侍郎とし、川・湖軍務を総督させた。

陳奇瑜

陳奇瑜、字は玉鉉、保德州の人。萬暦四十四年の進士。洛陽らくよう知県に任じられる。天啓二年、礼科給事中に抜擢される。楊漣が魏忠賢を弾劾すると、奇瑜もまた抗疏して力強く誹謗した。六年春、戸科左給事中から出て陝西副使となり、右参政に遷り、南陽を分守した。

崇禎に改元すると、按察使職を加えられ、まもなく陝西左右布政使を歴任した。五年、右僉都御史に抜擢され、張福臻に代わって延綏を巡撫した。当時、大盗の神一魁・不沾泥らは既に殲滅されていたが、余党はなお多かった。年は大凶作で、民多く賊に従った。翌年五月、奇瑜は上疏し、鄜州・延州から鎮城に至る千余里の饑荒と盗賊の状況を極言し、詔して延安・慶陽の田租を免じた。奇瑜はそこで副将盧文善を遣わして截山虎・柳盗跖・金翅鵬らを討ち斬らせた。まもなく遊撃常懐徳を遣わして薛仁貴を斬り、参政戴君恩が一条龍・金剛鑽・開山鷂・黒煞神・人中虎・五閻王・馬上飛を斬り、都司賀思賢が王登槐を斬り、巡検羅聖楚が馬紅狼・満天飛を斬り、参政張伯鯨が満鵞を斬り、黄参耀・隔溝飛を生け捕り、守備閻士衡が張聡・樊登科・樊計栄・一塊鉄・青背狼・穿山甲・老将軍・二将軍・満天星・上山虎を斬り、把総白士祥が掃地虎を斬り、守備郭金城が扒地虎・括天飛を斬り、守備郭太が跳山虎・新来将・就地滾・小黄鶯・房日兎を斬り、遊撃羅世勲が賈総管・逼上天・小紅旗を斬り、他の将が草上飛・一隻虎・一翅飛・雲裏手・四天王・薛紅旗・独尾狼を斬り、諸々の渠魁はほぼ尽きた。奇瑜はそこで上疏して言う、「流寇が難を起こすは、歳の饑饉に始まり、元凶の煽動誘導によって成り、両郡三路皆盗賊の巣窟となった。今、一兵も頓せず、一弦も絶たず、頭目百七十七人を擒斬し、その党千余人を得た。頭目既に除かれ、余党自ら散じ、かつて木を斬り竿を掲げた者は、今や鋤を荷い耒を負うに至った」と。帝はこれを嘉し、功ある将士を記録して奏聞するよう命じた。

延綏の群賊多く解散したが、独り鑽天哨・開山斧が永寧関に拠った。永寧は鎮城の東にあり、前は山に阻まれ、下は黄河に臨み、数年落ちなかった。奇瑜はこれは力攻めでは取れないと考え、ひそかに精鋭を選び、表向きは総制の檄で兵を発すると言い、賀人龍にこれを率いさせて西に向かわせ、自らは後詰めとなり、直ちに延川に到着した。俄かに馬を策して東に向かい、「我が馬首の向かう所を見よ」と言った。潜かに軍を率いて疾く山に入ると、賊は大兵の来るを予期せず、驚いて潰走した。その巣窟を焼き、千六百余級を斬首し、二賊ともに馘にした。兵を分けて金翅鵬・一座城を撃ち斬り、五百五十級を獲た。延水の群盗ことごとく平定され、奇瑜の威名関陝に著しい。ここにおいて群盗ことごとく山西に集まり、河北・畿南に流れ突いた。冬の氷堅く、澠池から渡り、河南・湖広を蹂躙し、四川を窺った。

翌年、廷議で諸鎮撫の事権が統一されず、大臣を設けて統べるべきであり、多く洪承疇を推薦した。承疇が当時三辺を督していたため、動かし難いとして、奇瑜を兵部右侍郎兼右僉都御史に抜擢し、陝西・山西・河南・湖広・四川の軍務を総督させ、専ら流賊を討伐させた。奇瑜は諸将に檄を飛ばして陝州で兵を会させた。先だって、老回回・過天星・満天星・闖塌天・混世王の五大営が楚から蜀に入り、夔州を陥とした。険阻に阻まれ、再び楚に逃げ戻り、三つに分かれた。一つは均州を犯し、河南へ向かい、一つは鄖陽を犯し、淅川へ向かい、一つは金漆坪を犯し、河を渡って商南を犯した。奇瑜はそこで均州に馳せ至り、四巡撫に檄を飛ばして会討させた。陝西の練国事は商南に駐屯し、その西北を扼し、鄖陽の盧象昇は房県・竹山に駐屯し、その西を扼し、河南の元黙は盧氏に駐屯し、その東北を扼し、湖広の唐暉は南漳に駐屯し、その東南を扼した。奇瑜はそこで象昇とともに将士を督して竹渓から平利の烏林関に至り、十余戦し、賊千七百余級を斬った。七日を過ぎて、乜家溝で大いにこれを破り、千八十余級を斬り、総兵鄧玘の功が多かった。既にして、蚋渓に伏兵を設け、連戦し、三百余級を斬った。獅子山に至り、七百二十余級を斬った。別将の楊化麟・楊世恩・周任鳳・楊正芳らが分道して賊を撃殺し、その魁の闖王・翻山虎らを生け捕った。

奇瑜は上言した、「楚中において屡々勝利し、一時大盗ほぼ尽き、深山に竄伏している者は、臣が郷兵を督して道案内とし、穴なくして捜さず、楚中に漸く寧宇あり」と。帝はこれを嘉労した。そこで副将劉遷らを督して竹渓・平利の賊を捜索させ、五狼河まで追撃し、その魁十二人を生け捕った。参将賀人龍らを遣わして八昼夜追撃し紫陽に至らせ、賊の死者一万余人に及んだ。

先だって、賊は蜀に入り、再び蜀から秦に入り、陽平関から鞏昌に奔り、承疇が秦州でこれを防いだ。賊はそこで両当を越え、鳳県を襲撃して陥とし、二つに分かれた。一つは漢中に向かい、間道を取って城固・洋県を犯し、一つは鳳県から宝鶏・汧陽に奔った。ここにおいて賊は平利・洵陽の間に数万、四川から西郷に入る者二三万、城固・洋県を犯す者がまた東下して石泉・漢陰に至り、漢中・興安で合流し、商州・雒南を窺った。この時、奇瑜は湖広の賊が尽きたとして、鼓行して西に向かい、賊は平定に足らぬと考えた。そこで遊撃唐通を遣わして漢中を防がせ、藩封を護らせ、参将賀人龍・劉遷・夏鎬を遣わして略陽・沔県を扼させ、賊の西遁を防がせ、副将楊正芳・余世任を遣わして褒城を扼させ、賊の北遁を防がせ、自ら副将楊化麟・柳国鎮らを督して洋県に駐屯させ、賊の東遁を防がせ、また練国事・盧象昇・元黙に檄を飛ばして各々要害を守らせ、賊の奔逸を遮断させた。

賊は官軍が四方から集まるのを見て、大いに恐れ、悉く興安の車廂峽に逃げ込み、諸渠魁の李自成・張献忠らは皆そこにいた。峽は四方の山が険しく立ち、中は四十里に亘り、入り易く出難い。賊は誤ってその中に入り、山上の住民が石を投げ下して撃ち、或いは炬火を投げかけ、山口には石を累ねて塞ぎ、路は絶え、食を得る所なく、困窮甚だしかった。また大雨二十日、弓矢は尽く脱け、馬は芻に乏しく、死者は過半に及んだ。この時、官軍がこれを追い詰めれば、悉く殲滅できたが、自成らは形勢が不利なのを見て、その党の顧君恩の謀を用い、重宝をもって奇瑜の左右及び諸将帥に賄賂し、偽って降伏を請うた。奇瑜は大計なく、急にこれを許し、先後三萬六千余人を籍し、悉く労をねぎらって帰農させた。毎百人に安撫官一人を付けて護送し、檄を発して通過する州県に糗糧を備えて伝送させ、諸将には撫事を妨げ撓めぬよう命じた。諸賊は大いに創を受けず、降伏は実ではなかった。既に棧道を出ると、遂に約束を受けず、安撫官五十余人を尽く殺し、諸州県を攻め掠め、関中大いに震動した。

奇瑜は失策を悔い、乃ち罪を他人に委ねて自らを弁解した。賊が初めて叛いた時、突然鳳翔に至り、城を開くよう誘ったが、守城の者はその詐りを知り、城上から縋り降ろすと偽って、先に登った者三十六人を殺し、残りは騒ぎながら去った。宝雞を犯した時も、知県の李嘉彦に挫かれた。奇瑜は遂に嘉彦及び鳳翔の郷官孫鵬らが撫局を撓めたと劾奏し、撫按官も異心ありとした。帝は怒り、撫按を厳しく責め、嘉彦・鵬及び士民五十余人を逮捕した。奇瑜は又、勅を請うて陝西・鄖陽・湖広・河南・山西の五巡撫に各要害を守らせ、失えば諸臣を罪に治すとし、以て己が過ちを分かたんとした。又、罪を巡撫の練国事に委ね、国事もまた逮捕された。給事中の顧国宝が奇瑜が封疆を誤ったと劾奏し、詔して解任して審査を待たせた。御史の傅永淳がまた、奇瑜が隴州の包囲を解いたことを首功として報告したのは不実であると劾奏し、詔して除名し、錦衣官に逮捕尋問させた。九年六月、辺境に流罪とした。

初め、奇瑜が南陽に官した時、唐王がその世子を殺し、世子の子の聿鍵をも併せて廃そうとした。奇瑜の力に頼り、聿鍵は世孫となることができた。後に聿鍵が閩で自立し、奇瑜を召して東閣大学士とした。道遠く、命を聞かぬうちに、家で卒した。

元默は、字は中象、静海の人である。萬曆四十七年の進士。除して懷慶推官となり、擢て吏科給事中となった。魏忠賢の勢焰が方に熾んである時、郷里の縁で彼を招き寄せようとしたが、默は謝絶して応じなかった。言路が忠賢の意を承け、劾奏して罷免させ帰郷させた。

崇禎初年、官に復し、歴遷して太常卿となった。六年春、僉都御史として河南を巡撫した。流賊が均州から河内を犯すと、默は左良玉・湯九州・李卑・鄧玘の兵を率いて境上で待ち受けた。また九州を率いて雪の夜に乗じ吳城の賊営に迫り、これを大破した。嵩・雒以北の名城数十、賊は避けて敢えて攻めなかった。奇瑜が既に車箱峽で李自成を失うと、默は汝州から自ら移って盧氏に駐屯し、檄を発して良玉・九州に各要害を守るよう兵を陳べさせ、数ヶ月の間、稍々寧かであった。この時、賊の勢いは張り、良玉らは督師の檄を承け、守備は尚固かった。默は諸将を率いて斬獲多く、賊は多く秦・楚の境に向かった。已にして三つに分かれ、潁州から鳳陽の皇陵を犯し、中州所在急を告げた。八年夏、默は逮捕されて去った。久しくして、釈放されて帰り、八年に卒した。

熊文燦

熊文燦は、貴州永寧衛の人である。萬曆三十五年の進士。授けて貴州推官となり、遷って禮部主事、歴任して郎中となった。琉球に封じに出て還り、擢て山東左參政・山西按察使・山東右布政使となった。憂いにより帰郷し、ここから蘄水に家を移した。

崇禎元年、起用されて福建左布政使となった。三月、就いて右僉都御史を拝命し、その地を巡撫した。海上は元より劇盗多く、袁進・李忠が既に降り、楊六・楊七及び鄭芝龍が続いて起こった。総兵官の俞咨臯が六・七を招いて降したが、芝龍は猖獗として元の如かった。然し芝龍は常に都司の洪先春を敗りながら、追わずに釈放し、一遊撃を捕らえても殺さず、咨臯が戦いに敗れると、彼を逃がした。当事者は彼が撫でられることを知り、使者を遣わして降伏を諭した。文燦が至ると、芝龍を善く遇し、己が用いるところとした。その党の李魁奇は再び降り、再び叛いて去ったが、芝龍は撃ってこれを擒にした。海警は漸く息んだが、鐘斌がまた起こった。斌は初めもまた撫に就いたが、後に再び叛き、福州を寇した。文燦は斌を誘って泉州へ往かせ、芝龍に命じてこれを撃破させた。既にして大洋にこれを追い詰め、斌は海に投身して死んだ。閩中で屡々巨寇を平げたのは、皆芝龍の力であり、文燦もまた功を叙して秩を増した。

五年二月、文燦を擢て兵部右侍郎兼右僉都御史とし、両広軍務を総督させ、兼ねて広東を巡撫させた。先に、海寇の鐘靈秀が既に降りてまた叛き、芝龍に擒にされたが、その党は潰れて長汀に入り、転じて江西の属邑を掠め、文燦は芝龍に檄を発して屡々賊を敗った。而して福建には紅夷の患いがあり、海盜の劉香がこれに乗じ、連ねて閩・広の沿海の邑を犯し、帝は文燦を責めた。文燦は討つことができず、乃ち招撫を議し、賊は偽ってこれを許した。參政の洪雲蒸は、長沙の人で、初め広西參政に官し、嘗て靈秀の余党を捜索し、三十余級を斬り、その巣を尽く毀った。文燦は乃ち雲蒸と副使の康承祖、參将の夏之本・張一傑をして賊舟に入り宣諭させたが、俱に捕らえられた。文燦は罪を懼れ、諸臣が賊を信じて自ら陷ったと奏上した。給事中の朱國棟がこれを劾奏し、詔して秩を貶し、罪を戴いて自ら効うことを命じた。八年、芝龍が広東兵と合して田尾の遠洋で香を撃った。香は雲蒸を脅して兵を止めさせようとしたが、雲蒸は大呼して曰く、「我は死を誓って国に報いん、急ぎ撃て、機を失うなかれ」と。遂に害に遇った。香の勢いは追い詰められ、自ら焚き溺れて死に、承祖らは脱して還った。賊党千余人が浙江に詣でて帰順し、海盜は尽く平定された。

文燦は閩・広に官すること久しく、財を積むこと算なく、厚く珍宝をもって中外の権要に結びつき、久しく嶺南に鎮まらんことを謀った。時に帝は劉香が未だ死んでいないことを疑い、且つ文燦の為人を知らず、中使を遣わし広西採辦と偽って、往ってこれを覘わせた。既に至ると、文燦は盛んに贈遺するところがあり、十日間留めて飲ませた。中使は喜び、中原の寇乱に言及すると、文燦は丁度酒に中り、案を撃って罵って曰く、「諸臣が国を誤ったのだ。若し文燦が往かば、豈に鼠輩をして此の如きに至らしめんや」と。中使は起立して曰く、「我は広西採辦に往くのではなく、上命を銜んで公を覘うのである。公は信じるに当世の才あり、公に非ざれば此の賊を辦するに足らざるなり」と。文燦は意表に出で、失言を悔い、随って五難四不可があると言った。中使は曰く、「我は上に見えて自ら請うであろう。若し上に吝るところ無ければ、即ち公は辞するを得ざるであろう」と。文燦は言葉に窮し、応えて「諾」と言った。中使は還朝し、果たして帝にこれを言った。初め、文燦が蘄水に移った時、邑人の姚明恭と姻妮となり、明恭は詹事に官し、又楊嗣昌と善かった。嗣昌は兵柄を握り、帝の眷顧を受け、帝が賊を平げることを急いでいるので、一人の助けを得んことを冀い、明恭は因って文燦を薦め、且つ曰く、「此には内援有りて引くべし」と。嗣昌は喜び、遂にこれを薦めた。

十年四月、文燦を兵部尚書兼右副都御史に拝し、王家禎に代わって南畿・河南・山西・陜西・湖広・四川の軍務を総理せしむ。文燦は拝命するや、ただちに左良玉の率いる六千人を己が軍とすべく請い、また広く粤人及び烏蠻の精鋭なる火器を用いる者一二千人を募りて自らを護らしめ、弓刀甲冑は甚だ整う。廬山に次ぎ、善きところの僧空隠に謁す。僧は迎えて曰く、「公誤れり」と。文燦は人を屏いて故を問う。僧曰く、「公自ら度るに、将いる兵は賊を制して死命に至らしむるに足るか」と。曰く、「能わず」と。曰く、「諸将に大事を属すべき、一面を当つべき、指揮を煩わさずして定まる者あらんか」と。曰く、「未だ如何なるかを知らず」と。曰く、「此の二者既に賊に当たる能わず、上は特ち名を以て公を使い、厚く責望す。一たび効あらずんば誅せられん」と。文燦は却立して良久くして曰く、「これを撫するは如何」と。僧曰く、「吾れ公の必ず撫するを料る。然れども流寇は海寇に比ぶるに非ず、公其れ慎むべし」と。文燦去りて安慶に抵る。帝の遣わしし中官劉元斌・盧九德、勇衛営の軍を監する者も亦至る。良玉は宿将にして桀驁、文吏の節制を受けず、会うに其の下と粤軍和せず、大いに詬る。文燦已むを得ずして南兵を遣り返す。然れども良玉の軍は実に用いられず。嗣昌、帝に言う。乃ち辺将馮挙・苗有才の兵五千人を以てこれに隷せしむ。有才は真陽に敗れ、而して京営の将黄得功は連ねて賊兵を破り、威甚だ振う。

是の時に当たり、嗣昌「四正六隅」の策を建て、兵餉を大半増し、賊を滅ぼすを期す。賊頗る懼る。文燦の至るに及び、京軍は屡々捷し、益々懼る。文燦顧みて招降を決計す。初め安慶に抵るや、即ち人を遣わして張献忠・劉国能を招く。二人は命を聴く。乃ち益々招降の檄を刊し、通都に布く。又た民と粟を尽く遷して城中に閉じ、賊掠うる所無からしめば、自ずから退くべしと請う。帝怒り、文燦を譙譲す。嗣昌も亦心に之を非とす。既に之を任ずるに及んで、則ち曲く文燦の為に解す。其の請いに因り、畿輔・山西の兵各三千を以てこれに畀う。明年、国能果たして降り、而して献忠は谷城を襲い据う。会うに得功又た大いに賊を舞陽に破り、馬士秀・杜応金は夜半に信陽城下に降る。献忠は左良玉に創せられ、幾くんか擒われんとす。其の下飢え困り多く散ず。献忠窮蹙し、亦た陳洪範に因りて降る。ここにおいて嗣昌、功罪を議し、洪承疇・曹変蛟等を絀け、而して文燦の功を称す。

已にして京軍は遂平の囲みを解き、斬獲三千有奇。時に文燦は裕州に在り、馬進忠・羅汝才十三家の賊は南陽に聚まる。文燦は令を下し、賊を殺す者は死を償うとす。賊従わず。則ち金帛酒牢を賫してこれを犒い、名づけて「賊を求む」と曰う。帝其の状を詗え得て曰く、「文燦は大言にして実無し」と。文燦懼る。孫伝庭は関を出でて賊を撃つ。文燦は救わず。而して嗣昌は已に政府に入り中樞を掌る。九月、文燦は襄陽に次ぐ。賊は分かれて鄖・襄の諸険に踞る。諸将戦を請う。文燦は兵を分かつを議す。盧九徳曰く、「兵分かれば則ち力弱し。一たび利を失えば、全軍動揺せん。其の力を厚く集めて合撃するに若かず」と。衆曰く、「善し」と。乃ち僉事張大経をして大将左良玉・陳洪範の軍を監せしめ、通判孔貞会をして副将龍在田の軍を監せしめ、双溝に戦いて大いに之を破り、首二千余級を斬る。羅汝才・恵登相は九営を率いて均州に走り、李万慶は三営を率いて光・固に走る。

十一月、京師戒厳し、洪承疇・孫伝庭を召して入衛せしむ。汝才等は己を討つと以為い、懼れて太和山提督中官に叩き、文燦に撫を求む。これを許す。汝才及び一丈青・小秦王・一条龍の四営を鄖県に処し、登相及び王国寧・常徳安・楊友賢・王光恩の五営を均州に処す。上言して曰く、「臣は李万慶・賀一龍・馬光玉及び順天王には剿を主とし、他の皆は撫を主とす。汝才等の罪を赦し、之に官を授けんことを請う」と。これを可とす。時に京軍・良玉軍は皆入衛に行くを以てす。馬士秀・杜応金は遂に許州に叛く。初め、士秀等降る。良玉は其の衆を以て許の郊外に処す。許は大州なり。良玉の諸将は孥と賄とをここに寄す。良玉久しく征して帰らず。士秀・応金は文燦の軍中に在り、偽りて急を請い、良玉の軍号を仮りて城に入る。夜半、兵府第より出で、城南の楼を焼き、庫を劫い、官吏を殺し、其の資を挈ちて万慶に投ず。万慶は賊魁射塌天なり。

十二年三月、良玉還り、馬進忠を破り降し、劉国能をして万慶を撃ち降らしむ。士秀・応金も亦再び降る。順天王は已に前に死し、其の党順義王は其の下に為りて殺さる。文燦遂に上言して曰く、「臣が兵威震懾し、降る者踵を接す。十三家の賊、惟だ革・左及び馬光玉の三部のみ尚お天誅を稽えり。歳月を以て平ぐべし」と。帝優詔を以て之に報う。

初め、張献忠の降るや、兵万人を擁して谷城に踞り、十万人の餉を索う。文燦及び中外の要人曰くこれに与う。官を請い、地を請い、関防を請う。献忠は軍状を列ねて備遣を請う。既にして三たび其の兵を檄すも応ぜず。朝野献忠の必ず叛くを知る。其の後、汝才降るも、甲を釈くを肯ぜず。進忠・万慶等の並び降るに及び、文燦は策を得たりと以為い、天下将に賊無からんと謂う。五月、献忠遂に谷城に反し、汝才を房県に劫う。ここにおいて九営俱に反す。初め、均州の五営は討たるるを懼れ、自ら疑い、相与に血を歃って献忠を拒む。間も無く亦叛き去る。帝変を聞き、大いに驚き、文燦の官を削り、罪を戴きて事を視せしむ。七月、良玉は献忠を羅英山に撃ち、敗績す。帝大いに怒り、嗣昌を命じて来たり代わらしむ。嗣昌已に軍に至り、即ち使いを遣わして文燦を逮え獄に下し、大辟に坐す。親しきところの姚明恭国を柄とすれども救う能わず。十三年十月、文燦竟に市に棄つ。

練国事

練国事、字は君、永城の人。万暦四十四年進士。はい県知県を授かり、山陽に調う。

天啓二年、征されて御史を授かる。広寧失守す。国事は薊州・宣府・大同及び山東・山西・河南の撫臣各々兵万を練り、以て山海の声援を壮んずるを請う。又た大同の妖人を捕え誅するを請う。又た疏を上りて魏忠賢が群閹をして尚書鐘羽正を辱しめ、冬衣を索め、国体を傷つくると論ず。国事は諫垣に在りて、匡救多し。給事中趙興邦は忠賢の私人なり。国事を趙南星の党と為し、これを劾し、籍を削る。

崇禎元年官に復し、太僕少卿に擢てられ、右僉都御史に進み、陜西を巡撫す。関中は頻年に飢え、盗賊蜂起す。四年正月、神一元は保安を陥す。国事は賀虎臣を遣わして延安を援けしめ、而して自らは副将張全昌を率い、点灯子を中部・合阝陽・韓城に連破し、又た別部を宜君・雒川に破り、其の魁李応鰲を降す。諸将張全昌・趙大允・王承恩・杜文煥・賀虎臣等は賊を澄城・宜川・耀州・白水・合阝陽に分剿し、首千九百有奇を斬る。総督楊鶴は既に群賊の降を受く。已にして相継いで叛く。田近庵・李老柴は中部を陥す。国事は承恩とともに攻囲すること五月、これを克つ。而して所部も亦頻りに事を失い、楊鶴は征せられ、国事も亦罪を戴きて自ら贖う。

五年、紅軍友・李都司らが平涼を犯さんとした。国事は涇より固原へ急ぎ、大帥楊嘉謨に檄を飛ばして賊の塘馬を殺し、その偵察を断たせた。賊は慶陽の西壕へ走り、嘉謨と曹文詔が邀撃して大いにこれを破った。三月より五月に至るまで、大小数十戦、賊はついに破滅した。国事は戴罪を免じられた。

この時、関中の五鎮では、大帥曹文詔・楊嘉謨・王承恩・楊麟・賀虎臣がそれぞれ辺境の軍を督率して協同討伐に当たり、総督洪承疇は特に調度に長けていた。賊の首魁は多く殲滅され、残りはことごとく山西へ走り、関中はやや平穏となった。

六年冬、賊はすでに澠池から渡河し、盧氏に入った。翌年、賊はついに河南・湖広より漢南に入った。総督陳奇瑜は国事に檄を飛ばし商州に駐屯させ、商南・盧氏の賊の協同掃討に当たらせた。漢南の賊はついに寧羌より両当に至り、鳳県を掠め、棧道を出て宝鶏を陥とし、関中の賊は再び勢いを盛り返した。やがて奇瑜は賊の降伏を受け入れ、諸軍に撃つなと檄を飛ばした。賊は険地を出ると、大いに鳳翔・麟遊・宝鶏・扶風・汧陽・乾州・涇陽・醴泉を掠めた。奇瑜は自らを弁解するため国事に罪をなすりつけた。国事は上疏して言うには、「漢南の賊はことごとく棧道に入り、奇瑜は兵を止めよと檄を飛ばした。臣は撫でた実数を知らなかった。奇瑜の上疏を見て、八大王の部一万三千余人、蠍子塊の部一万五百余人、張妙手の部九千一百余人、八大王のまた一部八千三百余人とあり、臣は思わず天を仰いで長嘆した。ひと月の内に、強寇四万余を撫で、ことごとく棧道より内地に入れる。飲食はどこから出るというのか、掠奪がないはずがあろうか。かつ一大帥が三千人を将いるのに、一賊魁が反って一万余の衆を擁する。どうして紀律を受け入れられよう。仮に帰籍を口実にしても、延安の州県に突然四万余の者が増え、どこに安集できようか。諸々の征剿兵を合わせても二万に満たず、降賊は四万を超える。内地の兵力でどうして支えられようか。名城が連続して陥ち救えぬのも当然である。もし臣が堵剿しなかったことを咎めるなら、先に兵を止めよとの檄があった。もし賊がすでに撫でを受け、誤って使者を殺したためこうなったと言うなら、誤殺する以前、なぜ麟遊・永寿を破ったのか。今、事ここに至った。ただ急ぎ大軍を調発して討伐に当たるべきである。もしなお願って原籍に帰ると言い、兵に禁じて剿殺させなければ、三秦の禍はどこで終わるというのか」と。上疏が入った時には、事すでに為すべからざるに至っており、ついに捕らえられ獄に下された。九年正月、広西へ遣戍された。久しくして、前功を叙し、赦されて還り、冠帯を復した。

福王の時、召されて戸部左侍郎となり、まもなく兵部に改められた。十二月、尚書を加えられ、なお侍郎の事に蒞った。翌年二月、致仕し、まもなく卒した。

丁啓睿

丁啓睿は永城の人である。万暦四十七年の進士。崇禎初め、山東右参政を歴任し、事に坐して陜西副使に謫された。九年、寧夏で兵変が起こり、啓睿は巡撫王楫を殺した者の首悪六人を捕らえて斬り、軍中は大いに安定した。再び右布政使に遷り、関南を分守し、巡撫孫伝庭に従って賊を討った。

十一年冬、そのまま右僉都御史に拝され、伝庭に代わって陜西を巡撫した。年々旱魃が続き、民はますます盗賊となり、長武・環・白水・長安・臨潼・咸陽で賊が起きて猬の毛のようであった。十三年、督師楊嗣昌の推薦により、兵部右侍郎兼右僉都御史に抜擢され、鄭崇儉に代わって陜西三辺軍務を総督し賊を討った。翌年、嗣昌が死ぬと、啓睿に兵部尚書を加え、督師と称を改め、嗣昌に代わって陜西・湖広・河南・四川・山西及び江南・北の諸軍をことごとく督し、なお陜西三辺軍務を総督することを兼ね、剣・勅書・印を嗣昌の如く賜った。

啓睿は河西副使に謫されて以来、数度の昇進もすべて陜西においてであり、しかし実は庸才であった。総督・巡撫として、督師の期会に奉じ、謹慎して功過なく、督師として重任を専制するに至っては、すなわちどうしてよいかわからなかった。啓睿はすでに命を受けて潼関を出、承天より荊州の嗣昌の軍へ赴かんとした。湖広巡按汪承詔は言うに、大寇は河南にあり、荊・襄は幸い警報が止んでいる、大軍を煩わす必要はないと、漢津の船をことごとく隠した。啓睿が到着すると、五日間渡河できず、転じて鄧州に向かったが、州人は門を閉じて罵った。内郷を通ると、長吏は食糧の売買を閉ざした。軍は荒山の間を行き、馬騾を切り、野草で焼き、士卒は満腹に食べられなかった。この時、李自成はすでに洛陽を陥とし、開封を包囲し、七十万の衆を擁していた。啓睿は恐れて救援しようとしなかった。張献忠が光山・固始の間にいて、やや弱いと聞くと、諸将に謀って言うには、「上は我に豫賊を剿滅せよと命じた。これも豫賊である」と。ついに左良玉に檄を飛ばして麻城でこれを破り、千二百の首級を斬った。開封が日に日に急を告げると、言うには、「我は今献忠に当たっている。赴かない」と。傅宗龍が関に入り秦師を督しようとしていると聞くと、啓睿は「三辺にはすでに総督を置いた」と言い、帝に勅書を改めるよう乞い、ついに勅書を改めて宗龍に自成を討たせた。九月、宗龍は項城で敗死したが、啓睿は救えなかった。賊は勝ちに乗じて南陽を陥とし、唐王を殺し、開・汝二郡は風を望んで降った。十二月、自成は再び開封を包囲した。河南巡撫高名衡の飛檄が至り、啓睿は兵を督してこれに赴いたが、賊を避けて城に入り、部下は大いに淫掠した。総兵陳永福が自成を射て、その左目に命中させた。翌年正月、賊は包囲を解いて去った。

啓睿が許州にいた時、賊の接近を恐れ、ようやく開封へ赴いた。城を三十里離れたところで、城はすでに陥ちた。開封に着くと、門を開けて入ったが、賊がこれに乗じ、ほとんど陥ちるところであった。四月、自成は群賊を合わせて再び開封を攻めた。六月、帝は侯恂を獄より釈放し、援剿諸軍を督して開封を救うよう命じた。未だ到着せず、開封の包囲はますます急を告げた。帝はたびたび詔を下して啓睿を厳しく責めた。啓睿は已むなく、ついに良玉・虎大威・楊徳政・方国安の軍を大いに集め、保定総督楊文嶽とともに、七月に朱仙鎮で会し、賊の塁と相望んだ。賊の衆は百万、啓睿は戦おうとしたが、良玉は言うに、「賊の鋒は鋭い。撃つべからず」と。啓睿は言うに、「包囲はすでに急である。必ずこれを撃たねばならぬ」と。諸将は皆恐れた。良玉は帰営すると即ち先に走り、諸営もともに走り、啓睿と文嶽は騎を連ねて汝寧へ奔った。賊は河を渡ってこれを追い、四百里追撃した。馬騾七千、将士数万を喪い、啓睿の勅書・印・剣はことごとく失われた。事が聞こえると、詔して職を褫い、代わりを待たせた。九月、賊は馬家口の河を決壊させて開封を水攻めにし、開封はついに陥ちた。ついに吏に下して取り調べ、久しくして釈放して帰した。嗣昌の死より二年にして啓睿は敗れ、啓睿の敗れよりまた二年にして明は亡びた。

福王の時、啓睿は馬士英に縁故を求めて事官となり、河南の勧農・剿寇の諸務を督した。まもなく帰徳の偽官を擒斬した功により、兵部尚書に拝され、太子太保を加えられ、その一子を官とした。事敗れると、身を脱して郷里に帰り、久しくして卒した。

従父の魁楚は、崇禎四年の春、右僉都御史として保定を巡撫した。七年、兵部右侍郎に抜擢され、傅宗龍に代わって薊・遼・保定の軍務を総督した。九年七月、畿輔が兵乱に遭い、魁楚は官吏に連座して免職となり、長い後放免されて帰還した。福王の時、元の官職に起用され、河南・湖広を総督し、兼ねて承天・徳安・襄陽を巡撫することとなった。赴任しないうちに、両広総督の沈猶龍が侍郎として朝廷に入ることとなり、魁楚はついにその任を代行した。まもなく兵部尚書を加えられた。唐王が福州で自立すると、元の官職のまま戎政を協理するよう命じられた。靖江王の亨嘉が桂林で反乱を起こし、梧州を陥落させ、巡撫の瞿式耜を捕らえた。魁楚は思恩参将の陳邦傳らに檄を飛ばしてこれを襲撃し敗走させ、桂林で捕らえた。魁楚は平粵伯に封ぜられ、依然として両広に留まって鎮守した。閩中の事態が敗れると、式耜とともに肇慶で桂王を擁立し、東閣大学士に進み、兼ねて戎政を管理した。大清兵が広州を落とし、次第に肇慶に迫った。魁楚は王を奉じて梧州に逃れ、さらにこれを棄てて岑渓に逃れた。輜重が多く、船が連なっていたため、大将の李成棟に追撃され捕らえられ、魁楚はついに降伏した。成棟は彼と不和があったので、その家の数百人を記録して殺害し、魁楚は一子の命乞いをしたが、成棟は笑って言った、「汝の身すら保てないのに、まだ生き残りを求めるのか?」と言い、ともに殺した。

鄭崇儉

鄭崇儉は、字を大章といい、寧郷の人である。万暦四十四年に進士となった。河南府推官に任じられ、済南兵備副使を歴任した。崇禎初年、陝西右参政に転じた。たびたび昇進して右僉都御史となり、寧夏を巡撫した。たびたびオルドスの賊を破り、銀貨を賜り、世襲の錦衣副千戸の恩蔭を受けた。

十二年正月、兵部右侍郎に抜擢され、洪承疇に代わって陝西三辺の軍務を総督した。五月、張献忠が谷城で反乱を起こし、羅汝才らの九営も皆反乱し、興安が危急を告げた。総理の熊文燦は、楚撫の方孔炤に荊門・当陽を防がせ、鄖撫の王鰲永に江陵・遠安を防がせ、陝撫の丁啓睿・蜀撫の邵捷春にそれぞれ自らの境で厳重に兵備を整えるよう勅命を請うた。しかし崇儉は兵を率いて合撃することを主張し、当時、固原・臨洮・寧夏の三総兵である左光先・曹変蛟・馬科は承疇に従って京師を守衛しており、柴時華は途中で甘粛に戻り、徴発に応じなかったので、崇儉は副将の賀人龍・李国奇らの軍に檄を飛ばして西安から出撃させた。国奇が洛陽に至ると、兵卒が大いに騒ぎ、瑞王の租税を掠奪した。国奇はすでに陝西総兵官に抜擢されていたが、新たな任命を停止され、崇儉もまた一階級降格された。

献忠が反乱を起こすと、房県の羅英山で左良玉軍を大いに破り、陝西に入ろうと謀った。崇儉は人龍・国奇の軍を率いて興安でこれを防ぎ、賊は引き返して興山・太平に逃れ、楚と蜀の境に身を置いた。この時、楊嗣昌はすでに出師し、文燦の軍に入ってこれを代行していた。先に、尚書の傅宗龍が崇儉に蜀軍をも兼ねて督させるよう議し、また嗣昌も秦軍に蜀に入るよう檄を飛ばしていた。崇儉はそこで十三年二月、人龍・国奇を率いて良玉と合流し、瑪瑙山で賊を大いに破り、斬首の功千三百三十三、賊将二十五人を降伏させ、馬騾・甲仗を数えきれないほど捕獲した。この戦役で、崇儉は自ら陣中にいたが、嗣昌は遠く襄陽にいた。功績を論ずるに及んで、賜ったものは嗣昌の半分に過ぎず、ただ一階級を増すだけで、先に降格された一階級を回復したに過ぎなかった。

献忠が敗れると、柯家坪に逃げ込み、蜀将の張令がこれを追撃したが、包囲された。崇儉は兵を遣わして賊を撃退し、人龍・国奇らはさらに追撃して寒渓寺・塩井でこれを破り、先後して千五百級を斬首し、その与党の順天王・一条龍・一隻龍は皆降伏した。崇儉の軍は五日で三度勝利し、威名は大いに振るった。年老いて衰えたことを理由に致仕を願い出たが、許されず、総兵の鄭家棟を率いて関中に戻るよう命じられ、人龍・国奇を留めて賊を討たせた。

この時、献忠は興山・帰州の山中に潜伏していた。秦・楚の軍はともに夔州に集結し、諸将が心を合わせて深い竹林を窮め探せば、千余りの残賊をことごとく殲滅できた。崇儉が去ってまもなく、人龍の軍もまた開県から騒ぎを起こして西に帰還し、楚軍はついに土地嶺で大敗し、蜀中はこれにより大いに乱れた。嗣昌はそこで崇儉が兵を引き上げるのが早すぎて、賊を猖獗させたと上言した。帝は初め崇儉が軍を統御できないことを不満に思っていたが、この時になって官籍を削除し、啓睿を軍前に赴かせて代理とし、崇儉が病気と称したことを疑い、按臣に実情を調査させた。翌年の春、献忠が襄陽を陥落させ、嗣昌が死ぬと、帝はますます崇儉が賊を挟撃して平定しなかったことを恨み、獄に下し、兵を放任して勝手に帰還させ、軍律を失ったことを責めた。秋を待たず、五月に斬首刑に処した。

帝は即位以来、総督七人を誅殺したが、崇儉および袁崇煥・劉策・楊一鵬・熊文燦・范志完・趙光抃である。帝は賊が日に日に勢いを増すことに憤り、法の適用をますます厳しくし、功罪を容赦せず、辺境の事態は次第に悪化し、ついに滅亡に至った。福王の時、給事中の李清が言うには、「崇儉は一城も失わず、一軍も喪わなかったのに、他人が巧みに責任を転嫁したため、ついに極刑に服した。群臣は微かにその冤罪を知っていたが、敢えて公言する者もなく、臣は甚だ痛む」と。崇儉の冤罪はようやく晴れた。

方孔炤

方孔炤は、字を潛夫といい、桐城の人である。万暦四十四年に進士となった。天啓初年、職方員外郎となった。崔呈秀に逆らい、官籍を削除された。

崇禎元年、元の官職に起用された。憂いにより帰郷した。桐城の民変を平定し、朝廷に戻った。十一年、右僉都御史として湖広を巡撫し、承天で賊の李万慶・馬光玉・羅汝才を撃ち、八戦八勝した。当時、文燦は献忠の降伏を受け入れ、谷城に置いていた。孔炤は八つの建議を条陳し、主撫の誤りを説いたが、聞き入れられず、ひそかに兵馬を整えて戦守に備えた。やがて賊は果たして反乱し、孔炤の言う通りとなった。賊はもとより孔炤を恐れ、東進しようとせず、文燦はそこで孔炤に荊門・当陽を防がせ、鰲永に江陵・遠安を防がせ、秦・蜀はそれぞれ厳重に兵備を整えさせた。崇儉が合撃を主張したので、孔炤はそこで徳安・黄州を専断し、承天を守り、献陵を護ることを請うた。一方で江・漢以南は鰲永に責任を負わせた。ちょうど嗣昌が文燦に代わり、孔炤に依然として当陽に駐屯するよう命じた。恵王の常潤が言うには、「孔炤は献忠を阻み、来家河・神通堡での勝利があり、賊の首魁馬光玉に射当て、陵寢が無事であった。官位を増して長く任に留めるよう請う」と。上奏文は部に下されたが、返答しないうちに、部将の楊世恩・羅安邦が徴発を受け、川・沅の兵と合流して竹山の賊を討伐した。両将は深く入り込み、香油坪に至って敗れた。嗣昌はすでに孔炤の撫議が自分と異なることを不快に思い、またその言が的中したことを妬み、そこで事に因って独り孔炤を弾劾し、詔獄に下した。子の検討官である以智は、国変の後、家を棄てて僧となり、無可と号した者であるが、宮門に伏して父の冤罪を訴え、砂利の上を膝行して二年に及んだ。帝は心を動かされ、議を下し、孔炤の陵寢護衛の功績が多いとして、死刑を減じて紹興に流刑とした。長い後、推薦により官職に復し、右僉都御史として山東・河北で屯田した。急いで済南に至り、さらに軍務を兼ねて管理するよう命じられ、大名・広平の二監司を督して賊を防がせた。命令が下ったばかりで京師が陥落し、孔炤は南に奔った。馬士英・阮大鋮が政を乱すと、帰郷して隠居し、十余年後に没した。

先に、陵寢を失守したことで重い譴責を受けた者がいた。楊一鵬である。一鵬は臨湘の人である。大理寺丞を歴任し、官籍を削除された。崇禎六年、兵部左侍郎から戸部尚書兼右僉都御史に任ぜられ、漕運を総督し、江北四府を巡撫した。鳳陽の軍民はもとより、守陵太監の楊沢の貪虐を憎み、賊を引き入れて来寇させた。八年正月、賊はついに鳳陽を攻め落とし、皇陵を焼き、龍興寺を焼き、公私の邸宅二万二千六百五十を焼き払い、中都留守の朱国相・指揮使の程永寧ら四十一員を殺害し、軍民数万人を殺した。

先に、賊が次第に江北に迫り、兵部尚書張鳳翼が一鵬に鳳陽に移鎮するよう勅命を下すことを請うたが、溫體仁がその議を阻んだ。賊が急に至り、一鵬は淮安におり、遠くて救うに及ばなかった。帝は変事を聞いて大いに驚き、素服で殿を避け、自ら太廟に祭告し、遂に一鵬及び巡按御史呉振纓・守陵官の澤を捕らえた。澤は先に自殺し、一鵬は市で斬られ、振纓は辺境に流された。

邵捷春

邵捷春は、字を肇復といい、侯官の人である。萬曆四十七年の進士。累官して稽勲郎中となった。

崇禎二年、出て四川右參政となり、川南を分守し、天全六番の高・楊の二氏を撫定した。浙江按察使に遷る。大計の際、坐して貶せられた。久しくして、四川副使として起用され、十年の秋に成都に着任した。時に秦の賊は既に蜀に入り、巡撫王維章・総兵侯良柱が全軍を率いて北に拒い、城中には屯田軍及び蜀王府の護衛軍のみで、人情は恐れおののき、捷春は城門を開いて賊を避ける郷民を受け入れた。中尉の奉鐕が賊を誘き寄せて城下に至ると、捷春は御史陳廷謨と共に奉鐕を捕らえて撃ち、市人を募り、廃将を起用して固守した。賊が去ると、蜀王がその功績を上疏した。折しも維章が罷免され、傅宗龍が代わり、捷春に監軍を命じ、総兵羅尚文と共に賊を撃たせた。翌年、尚文及び安錦副使の呉麟征が賊の過天星らを大破した。捷春は右參政に進み、引き続き監軍を務めた。

十二年五月、宗龍が中樞に入って掌ると、即座に捷春を右僉都御史に抜擢して代わらせた。時に張献忠・羅汝才は既に叛き、秦に入らんと謀っていた。秦の兵が興安でこれを扼したため、興山及び蜀の太平を犯し、遂に大寧を窺った。捷春は副将の王之綸・方國安を分遣してこれを扼させた。國安が連続して賊を破ったため、賊は秦・楚に還って入った。十月朔、楊嗣昌が襄陽で誓師し、檄を飛ばして蜀軍に節度を受けるよう命じた。嗣昌は楚の地が広く平坦で賊を制し難いと考え、賊を蜀に駆り込み、蜀は険阻で賊が思い通りにならず、追い詰めて全勝を得ようとし、また蜀の重兵が険を扼すれば賊が楚に毒を返すことを慮り、蜀の精鋭一万余りを調発して己が用に充てたため、蜀中の兵卒はこれより益々疲弊弱体化して支えきれなくなった。捷春は憤って言った、「法令では一城を失えば巡撫が罪に坐す。今蜀を賊に委ねるとは、督師が我を殺すことである」と。争ったが、聞き入れられなかった。ここにおいて汝才・惠登相が興山・遠安より大寧・大昌を犯し、献忠も西進して太平に至った。翌年二月、左良玉が献忠を瑪瑙山で大破し、他の将の張応元・張令らもまた数度これを破った。献忠は興山・帰州の山中に逃れた。久しくして再び勢いを盛り返し、汝才と共に寧昌の旧道を通って西に走った。

初め、汝才は寧昌で江に阻まれ、諸将の劉貴・秦良玉・秦翼明・楊茂選らに拒まれて渡ることができなかった。折しも献忠が西来したので、遂に合流した。貴らの軍は皆戦って退き、賊は江を渡り、萬頃山・苦桃灣に営し、その別部は紅茨崖・青平砦に営し、帰州・巫山の間は大いに震動した。嗣昌は夷陵に上り、檄を飛ばして捷春に夔門を扼させた。蜀の大寧・大昌は楚の竹溪・房縣と境を接し、三十二の隘口があったが、嗣昌は兵力を厚く集めて専ら夔を守り、寧・昌を棄てて賊に喰わせ、官軍がこれを包囲攻撃しようとした。捷春は言った、「隘口を棄てて守らぬは、賊を戸口に招き入れることである」と。そこで茂選及び覃思岱らを遣わして関を出て分守させた。二将は仲が悪く、思岱が茂選を鐕殺したので、捷春は思岱にその軍を兼ねて統率させたが、その兵卒は相率いて去った。賊が隘口に入ると、守備兵は潰え、賊は夜に夔関を斬り開き、将士は大いに驚いて潰走し、新寧・大竹は皆陥落した。一方、汝才・登相は巴霧河を越え、開縣を陥とし、鄭嘉棟・賀人龍に破られた。汝才は小秦王・混世王と共に東奔し、登相だけが開縣を過ぎて西進した。人龍及び李國奇がまた西進してこれを追い、汝才らは遁走して興山に戻り、屡々挫かれた。折しも嗣昌が招降令を下し、小秦王・混世王は皆降ったが、汝才だけは逃げ去った。嗣昌は楚の地に賊がいないのを見て、八月末に軍を率いて蜀に入り、ここにおいて群賊は尽く蜀中に集結した。

この時、捷春は弱卒二万を率いて重慶を守り、頼みとしたのは秦良玉・張令の軍のみであった。間もなく、秦の軍が騒ぎを起こして西帰し、楚の将張応元らが夔州の土地嶺で敗北した。ここにおいて捷春は、大昌の上・中・下馬渡は水浅く地が平らで持久戦に難いと考え、水寨の観音巖を扼して第一の隘とし、部将の邵仲光にこれを守らせた。そして夜叉巖・三黄嶺・磨子巖・魚河洞・下湧の諸所には、それぞれ兵三四百人を分けて守らせた。萬元吉は兵力分散で力が弱まることを憂えたが、捷春は聞き入れなかった。九月、献忠が突如として仲光の軍を破り、上馬渡を陥とした。元吉は急ぎ諸将に檄を飛ばして分かれて邀撃させ、また張奏凱に凈壁に屯させ、捷春は二将の羅洪政・沈応龍を助けに遣わした。十月、献忠が凈壁を急襲し、遂に大昌を陥とし、開縣に屯した。良玉・令の両軍は皆覆没した。賊は行軍時には哨探を出し、停止時には馬を休め糧を掠めた。関隘の偵察が不十分で、防軍が戍所から遠く離れることもあり、賊は隙を乗じて無人の境を通過した。嗣昌は遂に仲光を捕らえて斬り、上疏して捷春の失事を弾劾した。捷春は兵を収めて梁山を扼した。時に登相は既に帰順していたが、汝才は再び献忠と合流し、梁山河が深く渡れないため、開縣より西走して達州に向かった。捷春は退いて綿州を保ち、涪江を扼した。賊は疾走して劍州を陥とし、遂に広元に向かい、間道より漢中に入らんとしたが、秦の兵に扼せられ、再び巴西に走った。応元ら諸軍が梓潼でこれを邀撃し、小勝したが、やがて敗れ、蜀将の曹誌耀らが力戦してこれを退けた。降将の張一川・張載福は陣に陥って死に、涪江の軍は遂に潰え、賊は綿州を屠った。捷春は成都に帰り、賊は成都に迫った。十一月、捷春を逮捕する使者が到着し、遂に軍事を代行者廖大亨に託して去った。

捷春は人となり清く謹直で、蜀を治めて善政があった。士民が泣いて見送る者が道に満ち、舟は進むことができず、競って官旗を追い散らした。蜀王が上疏して救おうとしたが、聞き入れられなかった。勅命により巡按御史が官を遣わして京師に送り、獄に下して死罪と論じた。捷春は逃れられぬと知り、翌年八月に獄中で仰薬して死んだ。福王の時、官職を回復し、兵部右侍郎を追贈された。

余応桂

余応桂は、字を二磯といい、都昌の人である。萬曆四十七年の進士。武康・龍巖・海澄の三縣の知縣を歴任した。

崇禎四年、召されて御史に任じられた。戸部尚書畢自嚴が朋比していることを弾劾し、殿試の読巻で陳於泰を第一に取った。於泰は、首輔周延儒の姻戚である。延儒が孫元化から人参・貂皮を納め、楊鶴から重賂を受けたことを弾劾した。帝はちょうど延儒を寵眷していたため、応桂を責めた。間もなく、賊が登州を陥とし、元化が捕らえられると、応桂は再び上疏して延儒を弾劾した。帝は怒り、三階降格して視事させ、応桂は病を理由に帰郷した。

七年に朝に戻り、出て湖広を按察し、承天に居て守った。贖鍰十余万を捐じて壮士を募り、城を繕い兵器を整えたため、賊は献陵に迫ることができなかった。帝はこれを聞いて賞賛した。任期が満ちると、命じてさらに一年巡視させた。贖鍰一万五千を送って盧象昇の軍需を助け、所属する城の失事を奏報するに、全て実情を以て報告した。帝はこれによって巡撫王夢尹の詐りを知り、益々応桂を信じた。任期が満ちると、命じてさらに一年巡視させた。十年、即座に応桂を右僉都御史に抜擢し、夢尹に代わらせた。

この時、諸監司の袁継咸・包鳳起・高鬥樞らは既に湖南の群賊を平定していたが、江北の賊勢は日に日に盛んとなり、諸将は勝利を奏上するも、大いに打撃を与えることはできなかった。帝は熊文燦を総理に任命し、文燦は招撫を主とした。翌年、その渠魁劉国能・張献忠を降した。馬進忠は西へ潼関へ走り、馬光玉・賀一龍・李万慶・順義王・九条龍の衆十余万は麻城・黄安に集結した。応桂は光玉・一龍を諭して降そうとしたが、未だ到らぬうちに、将を遣わして順天王らを黄福店で撃ち、賊は遂に黄安へ走った。時に文燦が麻城に到着し、応桂は協同して撃つことを請うたが、従わなかった。賊は再び東へ江北へ走ったが、左良玉に阻まれ、転じて広済・蘄水へ走った。文燦は諸道の兵に檄を飛ばし茶山で賊を合撃させたが、賊は応桂の分担地から逃れ、文燦は遂に彼が期に遅れて軍を誤ったと弾劾した。兵部尚書楊嗣昌は応桂がかつて自分の父の楊鶴を弾劾したことから、彼を逮捕するよう上奏した。応桂はそこで招撫と剿討の経緯を陳べ、己の無罪を訴え、文燦を誹謗して言うには、

正月の初め、劉国能を招撫することを議し、その党の李万慶ら諸大賊は尽く泌陽・棗陽へ走った。時に文燦・良玉は共に徳安にいた。臣は兵勢が正に盛んなので、これに乗じて追剿すべきと考えたが、文燦は良玉の諸軍を尽く信陽に調遣して馬進忠を剿討させた。臣は進忠は小寇であり、勝っても武勇とは言えぬと述べたが、文燦は聞き入れなかった。ここから機会を一度失い、賊は西へ走り、文燦は東へ向かい、張献忠が谷城を攻め落として招撫を要求し、李万慶の五部が残党を収めて勢いを再び振るうこととなった。そして河南・湖広の禍患は、遂に文燦の諫めを顧みぬことからもたらされたのである。賊が西へ潰走した後、事実を隠して上聞し、虚偽の斬首数を報告した。彼が自ら恃むところはただ火炮火攻のみで、通過する州県で用いる人夫は八百に及び、死亡する者が道に満ちたが、一度も試みたところを見ない。

かつ文燦の賊を処理する策は「先ず撫し後に剿す」というものであった。ところが茶山では効果なく、麻城でもまた効果なく、ただ招撫の旗が道に続くのを見るのみである。一度使者を遣わして賀一龍を招いたが、使者は殺害され、一度使者を遣わして李万慶を招いたが、塩や胡椒を贈り魚肉を運んで交易をしたところ、賊はかえってこれに乗じて焚掠し、一人の賊が帰順するのを見ない。天下にこのような撫法があろうか。その一切の軍需は、歴訪した役所から悉く取り立て、名目は「借辦」といい、城市を空虚にし、残った者も尽く絶えさせた。三月に麻城に至ると、民は淫掠に耐えかね、その役所を焼こうとし、ようやくよろめきながら逃走した。麻城は文燦の婿の家である。姻戚の里でこのような有様であるから、他の地は推して知ることができる。三月に蘄水にいた時、その兵が郷民を殺して勝利を報告し、民家は取り囲んで泣いたが、遂に一人の兵も処罰できなかった。蘄水は文燦の家郷である。郷里でこのような有様であるから、他の地は推して知ることができる。このように勝利の報告は日に日に誇張され、賊の勢いはますます盛んとなった。十三家の賊は南陽・汝寧を蹂躙し、無人の境を行くが如くであった。文燦は宛・汝に駐在すること久しいが、調度のことは聞こえず、天下にこのような剿法があろうか。献忠は谷城で亡命者を招き入れ、馬を買い武器を備え、誰もがその測り難きを知っていた。文燦はかえって彼を前衛として用いようとし、官を遣わして調遣したが、応じないばかりか、さらに糧秣を解送する官を留め、湖広総兵を求めた。今や既に浮橋を造って漢水を跨いでいる。文燦は前に誇張して功績を記し、後には隠蔽して報告しない。これを欺君と言わずして何と言おうか。総理の大権を躓く老耄の者に与えること、臣はその可なるを知らない。

帝は採用しなかった。逮捕されて獄に下された。

初め、応桂は文燦に書を送り、献忠は必ず反逆するので、未だ発せざる先に図るべきだと述べた。その書は献忠の偵察者に得られ、献忠は鄖陽巡撫戴東旻に牒文を飛ばし、「撫軍(熊文燦)が我を殺そうとしている」と言い、東旻はこれを文燦に伝え、文燦は再び応桂を糾弾した。応桂は再び上疏して弁明したが、帝はまた採用しなかった。応桂は遂に流刑に処せられた。間もなく、献忠は果たして反逆し、廷臣は相次いで上章して応桂を推薦した。

十六年、応桂を兵部右侍郎として起用した。十月、潼関が陥落し、帝は大臣を召して問うた。陳演が言うには、「賊が関中に入れば、必ず子女玉帛に執着し、虎が罠に入るようなものである」。応桂はこれを叱って言った、「壮士健馬は皆関西より出る。賊がこれを得れば、必ず長駆横行する。大臣たる者、どうして面と向かって欺くことができようか」。演は股が震えて顔色を失った。十一月、督師孫伝庭が戦死し、応桂に右僉都御史を兼ねさせて代わりに赴かせた。応桂は兵も糧秣もないことを理由に、入朝して帝に会い涙を流した。帝はただ京軍千人を護衛として派遣し、御用の銀一万両、銀花四百、銀牌二百、蟒幣二百、雑幣はその倍を与え、軍前で功績を賞する用に供するのみであった。応桂は命を受けると、日夜悲嘆し疑懼し、山西に到らんとする時には偽官が充満し、ためらって進むことができなかった。帝は逗留を責めて職を奪い、新たに抜擢された陝西巡撫李化熙に代わらせたが、化熙もまた進むことができなかった。間もなく、京師は陥落した。応桂は家に居て出仕しなかった。久しくして、難に死んだ。

高鬥樞

高鬥樞、字は象先、鄞の人。崇禎元年の進士。刑部主事に任じられた。巡撫耿如杞の獄を議したことで罪を得、同列の四人と共に詔獄に下された。まもなく官に復し、員外郎に進んだ。

五年、荊州知府に遷った。久しくして、長沙兵備副使に抜擢された。湖北にある楚の郡は尽く賊の禍いに遭い、その勢いは湖南に及ぼうとし、臨・藍・湖・湘の間に土寇が蜂起した。長沙には老弱の衛卒五百のみで、さらに二百を攸県に守備させており、城壁や楼閣、雉堞は尽く崩壊していた。鬥樞が到着すると、飛楼四十を建て、守備の具を大いに修繕した。臨・藍の賊船二百余は、衡・湘から城下に抵り、十余日相拒してようやく退き去り、転じて袁州を攻めた。都司陳上才を遣わしてその後を追わせたところ、賊もまた解いて去った。まもなく乱賊劉高峰らを撃殺し、残党を撫定した。詔してその功績を記録した。巡撫陳睿謨が大いに臨・藍の寇を征伐した時、鬥樞は南面を担当し、大小十余戦して賊を尽く平定した。詔して銀幣を賜った。

十四年六月、按察使に進み、鄖陽を守るよう移された。鄖は寇に襲われてほぼ十年、所属する邑は六つあるが、住民は四千に満たず、数百里にわたって荊棘が生い茂っていた。撫治王永祚は襄陽が危急のため、軍を移してこれを鎮めた。鬥樞が到着してわずか六日目に、張献忠が陝西から軍を率いて東進した。鬥樞は知府徐啓元と共に遊撃王光恩とその弟の光興を遣わして分かってこれを防がせ、戦って頻りに勝利し、賊は侵犯を敢えてしなかった。光恩とは、均州で降った渠魁の小秦王である。初め張献忠・羅汝才らと賊を為し、献忠・汝才が降ってまた叛いた時、均州の五営は討伐されることを恐れて自ら疑い、また献忠が強力なのを慮って併呑されることを憂え、光恩は衆を集めて要害を占めて献忠に抵抗した。久しく居るうちに、次第に逃げ去る者が出て、光恩もまた去ったが、後に再び降った。光恩はその部下をよく用い、部下もまた喜んで彼に用いられた。鬥樞はその誠実さを察し、招き入れて郡を守らせた。この時、鬥樞・啓元は謀略に優れ、光恩は戦闘に優れ、鄖城は危うくしながらも再び保全された。

十五年冬、李自成が襄陽・均州を陥とし、鄖陽を四日間攻めて去った。翌年春、再び来攻し、十余日陥とせず、遂に退いて楊溪に駐屯した。五月、鬥樞は遊撃劉調元を召し入れて城に入らせ、旬日の間に賊三千余を殺した。自成の将が来攻しようとしたが、遂に陥とせず去った。そこで光恩に均州を回復させ、調元に光化を下らせ、自ら将士を率いて谷城を回復した。襄陽を襲おうとしたが、孫伝庭の敗報を聞き、軍を返したため、均州は再び賊の有するところとなった。

十七年正月、自成は将路応標らを遣わし三万人を以て鄖を攻めしむ。斗枢は人を均州に入らしめ、其の蓄積を焼き、賊は食乏しくして退く。是の時に当たり、湖南・北十四郡皆陥ち、独り鄖在り。十五年冬より撫治王永祚逮はれ、連ねて李乾徳・郭景昌を命じて之に代えしも、路絶えて至ること能わず、中朝は鄖已に陥ちたるを謂い、復た撫治を設けず。十六年夏、斗枢上に兵を請う疏を上す、始めて鄖存するを知り、衆議即ち斗枢を任ぜんとす。而して陳演之と隙有り、乃ち啓元を擢て右僉都御史と為し之に任じ、斗枢に太僕少卿を加う、路阻み亦達すること能わず。是の年二月、朝議漢中巡撫を設け、兼ねて川北軍務を督せしめ、斗枢を擢て右副都御史と為し往かしむ、朝命亦達せず。三月に至り始めて太僕の命を聞き、即ち軍事を啓元に付す。七月にして北都の変聞こえ、並びに漢中の命を聞く、地已に失い、往くべからず。

福王が立つと、鬥樞を移して湖広巡撫とし、何騰蛟に代わらしむ。また道路不通のため、王驥を用いるに改むるも、鬥樞は皆聞かず。国変後の数年にして卒す。啓元、光恩も亦皆功名を以て終わる。

張任學

張任學は安嶽の人、天啓五年の進士。太原知縣に授かり、その才能により榆次に調ぜられる。

崇禎四年、治行卓異なるを挙げられて御史に入る。蜀中の私税・催科・訟獄の三大苦を陳べ、帝之を行わしむ。出でて両浙の塩法を視、数たび条奏して利弊を論ず。八年、流賊鳳陽を陥とす。詔して巡按呉振纓を逮え、命じて任学をして往きて代わらしむ。朝に還り、復た河南を按じ、軍を監して賊を討つ。時に群盗縦横し、而して諸将縮朒して敢えて撃たず。任学慨然として曰く、「事難を辞せざるは、臣の職なり。賊の勢此の如し、我輩雍容として坐鎮すべけんや」と。十一年二月、遂に上疏して極めて諸将を詆す。武階に易えんことを請い、親ら干戈を執り、国の為に賊を平げんとす。帝之を壮とし、吏・兵二部及び都察院に下して議せしむ。諸臣、文吏に武職を改むる者無きを以て、請う仍く監軍御史を以て総兵事を兼ねしめんとす。帝従わず、命じて署都督ととく僉事を授け、河南総兵官と為す。河南旧に総兵無し、左良玉・陳永福並びに客兵を以て援剿に備う、此に至りて大将特設す、而して麾下に一官無し。兵部乃ち署鎮許定国の兵を以て之に授け、参将羅岱をして中軍と為さしむ。岱は健将にして、屡たび戦功を著わす。任学之に倚りて以て自強す。時に熊文燦専ら撫を主とし、劉国能・張献忠俱に降る。羅汝才・馬進忠・李万慶等中原を躪る事旧の如し。河南人塢壁に拠りて自保する者数十、賊悉く之を摧破し、息県・光州に踞り、人を磔いて汝水に投ずれば、水赤と為る。任学大いに創むる能わず。進忠勢衰え、佯り撫を求め、文燦及び巡撫常道立之を許す。間に乗じて逸去す。事聞こえ、任学と文燦・道立並びに秩を鐫らる。

七月、任學督の岱らを羅山に赴かせ、左良玉の軍と合流して汝才・萬慶及び紫微星・順義王を撃ち、大いにこれを破り、五十里を追撃し、一千四百余りの首級を斬り、黒虎狼・満天星を捕らえ、賊は遂平に奔った。九月、進忠が開封を寇し、瓦子坡に至る。岱は奮撃し、賊は輜重を尽く棄てて大隗山に遁れ、その妻子を捕らえた。

その冬、京師が戒厳し、任學が入衛し、道中で文燦に謁し、言うには、「献忠は狼子の野心、終には国の患いとならん。我は勤王を名とし、其の不意に出で、直ちに縛るべし」と。文燦は用いる能わず。畿南に抵り、詔有りて却って還る。巡撫道立は良玉の兵を陜州に調し、賊は盧氏の虚に乗じ、内郷・淅川に遁入し、文燦に劾せらる。明年、道立の名を除き、任學も亦一秩を鐫さる。遊撃宋懷智・都司孔道興、再び賊を陳州に破り、部将王応龍・尤之龍等、賊を襄城に破り、五戦皆勝つ。副将岱と応龍・懷智等、復た賊を葉県に破り、十日に八捷を奏し、帝、詔して所司に実を核せしむ。已にして、又賊を裕州に挫く。而して是の時に総兵孫応元・黄得功、京軍を統して賊を討ち、屡大捷を奏す。凱旋して功を録し、任學も亦二秩を叙復す。

まもなく左良玉・陳洪範とともに内郷において李萬慶を追い詰める。萬慶が降伏しようとしていた頃、献忠はすでに叛き、文燦は河南の軍をことごとく援剿に動員し、ただ任学のみを汝南に留めて任せた。川貴総督の李若星は文燦の主撫の誤りを論じ、任学の原官を復し、大将の職務を代行させて軍事を督察するよう請うたが、聞き入れられなかった。七月、献忠は汝才と合流して房県より西へ走り、岱は良玉とともにこれを追う。良玉は岱を前鋒とし、自らはその後を従う。羅狼藉𤠉山に至り、軍は食糧に乏しくなった。賊は要害に伏兵を置き、岱と副将の劉元捷は勇気を奮って直ちに登るが、四方から伏兵が起こる。岱の馬の足が藤に引っかかり、刀を抜いてこれを断ち、転倒してもまた進み、ついに馬を棄てて歩いて戦うことしばらく、矢が尽きて賊に陥り、良玉の軍もまた大敗した。事が聞こえ、任学は職を褫奪される罪に坐す。十五年、言官が廃官の起用を請い、任学もその中にあり、用いられる前に卒した。

賛に曰く、流賊の毒を肆うは、禍は楊鶴に始まり、陳奇瑜に成り、而して熊文燦・丁啓睿に熾なり。然れども練國事・鄭崇儉は先づ其の罰に罹り、而して邵捷春・余應桂も亦た或いは死し或いは戍す。疆場に於ては則ち剿撫方に乖き、廟堂に於ては則ち賞罰當らず、師を僨し寇を玩び、賊勢日張く、人謀臧からざるに非ずと謂ひて、實に之を然らしむるか。