明史

列傳第一百四十八 楊鶴 陳奇瑜 熊文燦 練國事 丁啟睿 鄭崇儉 邵捷春 余應桂 高斗樞 張任學

列傳第一百四十八 楊鶴 陳奇瑜 熊文燦 練國事 丁啟睿 鄭崇儉 邵捷春 余應桂 高斗樞 張任學

原文列傳第一百四十八 楊鶴 陳奇瑜 熊文燦 練國事 丁啟睿 鄭崇儉 邵捷春 余應桂 高斗樞 張任學

○楊鶴(從弟鶚)陳奇瑜(元默)熊文燦(洪雲蒸)練國事丁啟睿(從父魁楚)鄭崇儉(方孔炤楊一鵬)邵捷春余應桂高斗樞張任學

原文○楊鶴(從弟鶚)陳奇瑜(元默)熊文燦(洪雲蒸)練國事丁啟睿(從父魁楚)鄭崇儉(方孔炤楊一鵬)邵捷春余應桂高鬥樞張任學

楊鶴

原文楊鶴

楊鶴、字あざなは修齢、武陵の人。萬曆三十二年の進士。雒南知縣に任じられ、長安に転任。

原文楊鶴,字修齡,武陵人。萬曆三十二年進士。授雒南知縣,調長安。

四十年、御史に抜擢され、上疏して東宮の講学を請う。かつて言う、「近頃、愛女が宮奴に踏み躙られ、館甥が朝市で鞭打たれ、宮門を叩いても聞こえず、上書しても通じず、閉塞は極まれり」と。時に壽寧主の婿の冉興譲が掌家宮人の梁盈女・内官の彭進朝らに毆打侮辱され、公主が三度奏上しても通じず、興譲は長安門に冠を掛けて去ったので、鶴はこれに言及したのである。

原文四十年擢御史,上疏請東宮講學。且言:「頃者,愛女被躪於宮奴,館甥受撻於朝市,叩閽不聞,上書不達,壅蔽極矣。」時壽寧主婿冉興讓為掌家宮人梁盈女、內官彭進朝等毆辱,公主三奏不達,興讓掛冠長安門去,故鶴言及之。

まもなく出て両淮の塩法を督し、貴州を巡按。貴州は烏撒に接し、川南の敘州から千里離れ、節制し難い。土官の安雲龍が死に、その族人と沾益の安效良が印を争い、三十年兵を構え、後ついに效良に占拠され、その父の紹慶はまた沾益州を占拠し、いずれも川・雲・貴の咽喉の地である。鶴は烏撒を割いて貴州に隷属させ、地が近ければ節制に便利で、後患を消し得ると請うたが、朝議は決しなかった。間もなく效良が乱を起こし、その言の如くになった。貴州の土官は百数を数え、水西の安氏が最も大きく、土地・戸口・貢賦の類は、籍で稽べるべきものがなかった。鶴は宣慰の安位に檄を飛ばして全て籍に著させ、併せて首領の目把の主名・承襲の源委を悉く列挙して有司に上らせた。ここに初めて簿牒が明らかとなり、奸弊が稽べ易くなった。事が竣り、命を待たずに直ちに帰った。久しくして、還朝。

原文尋出督兩淮鹽法,巡按貴州。貴州接壤烏撒,去川南敘州千里,節制難。土官安雲龍死,其族人與沾益安效良爭印,構兵三十年,後竟為效良所據,其父紹慶又據沾益州,皆川、雲、貴咽喉地。鶴請割烏撒隸貴州,地近節制便,可弭後患,朝議不決。未幾,效良為亂,如其言。貴州土官以百數,水西安氏最大,而土地、戶口、貢賦之屬,無籍可稽。鶴乃檄宣慰安位盡著之籍,並首領目把主名、承襲源委,悉列上有司。自是簿牒始明,奸弊易核。事竣,不候命徑歸。久之,還朝。

楊鎬の四路の軍が敗れると、鶴は熊廷弼・張鶴鳴・李長庚・薛國用・袁應泰を推薦し、言う、「遼事の失は、彼我を量らず、師を喪い国を辱しめたのは、経略に誤りあり。機宜に諳んぜず、馬上で戦を催したのは、輔臣に誤りあり。調度を聞かず、束手して策無きは、枢部に誤りあり。至尊が優柔不断なれば、また至尊自ら誤る」と。当事者はその直諫を憎み、他事を仮りてこれを逐おうとしたので、乃ち疾を引いて去った。父の喪に服す。天啓初め、太僕少卿に起用され、右僉都御史に抜擢され、南・贛を巡撫。未だ任に就かず、母の喪に服す。而して広寧がまた敗れた。魏忠賢は鶴が廷弼を党護したとして、鶴の名を除いた。

原文楊鎬四路師敗,鶴薦熊廷弼、張鶴鳴、李長庚、薛國用、袁應泰,言:「遼事之失,不料彼己,喪師辱國,誤在經略;不諳機宜,馬上催戰,誤在輔臣;調度不聞,束手無策,誤在樞部。至尊優柔不斷,又至尊自誤。」當事惡其直,將假他事逐之,乃引疾去。丁外艱。天啟初,起太僕少卿,擢右僉都御史,巡撫南、贛。未任,丁內艱,而廣寧又敗。魏忠賢以鶴黨護廷弼,除鶴名。

崇禎元年、召されて左僉都御史に拝され、左副都御史に進む。鶴が上言する、「治を図る要は、元気を培うにあり。大兵大役より、加派頻繁で、公私共に窮し、小民の元気傷つく。遼左・黔・蜀より師を喪い律を失い、暴骨丘を成し、封疆の元気傷つく。搢紳が党を構え、彼此相傾き、逆奄これに乗じ、善類を誅鋤し、士大夫の元気傷つく。譬えば重病初めて起き、百脈未だ調わず、風邪入り易く、道は培養に在り」と。時に名言と為す。

原文崇禎元年,召拜左僉都御史,進左副都御史。鶴上言:「圖治之要,在培元氣。自大兵大役,加派頻仍,公私交罄,小民之元氣傷;自遼左、黔、蜀喪師失律,暴骨成丘,封疆之元氣傷;自搢紳構黨,彼此相傾,逆奄乘之,誅鋤善類,士大夫之元氣傷。譬如重病初起,百脈未調,風邪易入,道在培養。」時以為名言。

先に、遼左に兵を用い、逃軍は憚って敢えて帰伍せず、相集まって剽虜した。ここに至り、関中は頻年に凶作、有司は下を恤れまず。白水の王二という者、衆を鳩し、その面に墨を塗り、澄城に闖入し、知県の張耀采を殺す。ここより府谷の王嘉允・漢南の王大梁・階州の周大旺ら群賊蜂起ほうきし、三辺の飢軍これに応じ、流賊の始まりである。この時、承平久しく、卒然に兵災に遭い、人に固き志無し。大吏は賊を聞くを悪み、曰く、「これは飢えた民、徐々に自ら定まるであろう」と。明年、総督の武之望死す。久しくして、廷臣に肯って往く者無く、群れて鶴を推す。帝、鶴を召見し、方略を問う。対えて曰く、「清慎自ら持ち、将卒を撫恤するのみ」と。遂に鶴を兵部右侍郎に拝し、之望に代わって陝西三辺の軍務を総督す。至れば大梁・大旺・王二は既に前に誅滅されていたが、継いで起る者益々衆し。鶴は平素清望有り、然れども兵を知らず。その冬、京師戒厳、延綏・寧夏・甘肅・固原・臨洮の五鎮総兵官悉く勤王の為に出発。延綏兵は途中で逃げ帰り、甘肅兵もまた嘩変し、誅を懼れ、共に賊に合流し、賊は益々張る。

原文先是,遼左用兵,逃軍憚不敢歸伍,相聚剽虜。至是,關中頻歲祲,有司不恤下。白水王二者,鳩眾,墨其面,闖入澄城,殺知縣張耀采。由是府谷王嘉允、漢南王大梁、階州周大旺群賊蜂起,三邊饑軍應之,流氛之始也。當是時,承平久,卒被兵,人無固誌。大吏惡聞賊,曰:「此饑氓,徐自定耳。」明年,總督武之望死。久之,廷臣莫肯往者,群推鶴。帝召見鶴,問方略。對曰:「清慎自持,撫恤將卒而已。」遂拜鶴兵部右侍郎,代之望總督陜西三邊軍務。至則大梁、大旺、王二已前誅滅,而繼起者益眾。鶴素有清望,然不知兵。其冬,京師戒嚴,延綏、寧夏、甘肅、固原、臨洮五鎮總兵官悉以勤王行。延綏兵中道逃歸,甘肅兵亦嘩,懼誅,並合於賊,賊益張。

三年正月、王左掛ら宜川を攻め、知県の成材に撃退され、転じて韓城を攻む。軍中に帥無し、鶴は参政の洪承疇に命じてこれを防がせる。三百余人を俘斬し、囲み解け、賊は清澗に走る。鶴は連疏して諸将の還鎮を請うたが、果たさず、故将の杜文煥を起用してこれを任せた。二月、延安知府の張輦・都司の艾穆が賊を延川に迫り、その首魁の王子順・張述聖・姬三児を降す。別賊の王嘉允は延安・慶陽を掠め、鶴は匿して奏上せず、而して降賊の王虎・小紅狼・一丈いちじょう青・掠地虎・混江龍らに免死の牒を与え、延綏・河曲の間に安置す。賊は淫掠すること旧の如く、有司敢えて問わず。寇患ここに成る。

原文三年正月,王左掛等攻宜川,為知縣成材所卻,轉攻韓城。軍中無帥,鶴命參政洪承疇禦之。俘斬三百餘人,圍解,賊走清澗。鶴連疏請諸將還鎮,不果,起故將杜文煥任之。二月,延安知府張輦、都司艾穆蹙賊延川,降其魁王子順、張述聖、姬三兒。別賊王嘉允掠延安、慶陽,鶴匿不奏,而給降賊王虎、小紅狼、一丈青、掠地虎、混江龍等免死牒,安置延綏、河曲間。賊淫掠如故,有司不敢問。寇患成於此矣。

七月、嘉允は黄甫・清水・木瓜を陥とし、遂に府谷を陥とす。文煥これを撃退し、賊は山西に流入。既に撫でられた王左掛は白汝学を以て綏徳州を攻め、内応を謀る。事覚り、巡按の李応期は承疇と計りて左掛らを綏徳で誅し、五十七人皆死す。十二月、賊の神一元は新安・寧塞・柳樹澗等の堡を攻め陥とす。寧塞は文煥の居所、宗人多く死す。

原文七月,嘉允陷黃甫、清水、木瓜,遂陷府谷,文煥擊走之,賊流入山西。已撫王左掛以白汝學攻綏德州,謀內應。事覺,巡按李應期與承疇計誅左掛等綏德,五十七人皆死。十二月,賊神一元攻陷新安、寧塞、柳樹澗等堡。寧塞,文煥所居,宗人多死。

明年正月、賊は寧塞を棄て、保安を陥とす。一元死に、弟の一魁は慶陽を囲み、合水を陥とす。鶴聞き、寧州に移駐。一魁は撫を求め、合水知県の蔣応昌を送還し、別賊の拓先齢・金翅鵬・過天星・田近庵・独頭虎・上天龍らも先後に降る。鶴は城楼に御座を設け、賊は跪拝して万歳を呼ぶ。鶴は聖諭を宣べ、誓いを設け、或いは帰伍、或いは帰農せしむ。賊は偽ってこれに応じ、則ち直ちにその罪を赦す。群盗はここより総督を児戯の如く視る。鶴はまた一魁が最も強しとし、その婿を帳中に致し、同臥起す。而して一魁果たして至る。十の罪を数えれば、則ち稽首して謝す。即ち詔を宣べてこれを赦し、官を与え、その衆四千余人を寧塞に処し、守備の呉弘器に護らしむ。文煥これを聞き、嘆いて曰く、「寧塞の役、賊は我を畏れて逃げた。今、賊は偽降し、楊公これを信じ、名城を借りて盗賊の資と為す。我は宗人、賊とこの土に逼処すべけんや」と。遂にその族を率いて去る。

原文明年正月,賊棄寧塞,陷保安。一元死,弟一魁圍慶陽,陷合水,鶴聞,移駐寧州。一魁求撫,送還合水知縣蔣應昌,別賊拓先齡、金翅鵬、過天星、田近庵、獨頭虎、上天龍等亦先後降。鶴設御座於城樓,賊跪拜呼萬歲。鶴宣聖諭,令設誓,或歸伍,或歸農,賊佯應之,則立赦其罪,群盜自是視總督如兒戲矣。鶴又以一魁最強,致其婿帳中,同臥起,而一魁果至。數以十罪,則稽首謝。即宣詔赦之,畀以官,處其眾四千餘人於寧塞,使守備吳弘器護焉。文煥聞之,嘆曰:「寧塞之役,賊畏我而逃。今者賊偽降,楊公信之,借名城為盜資。我宗人,可與賊逼處此土乎!」遂以其族行。

五月、鶴は耀州に移駐。賊は金鎖関を攻め破り、都司の王廉を殺す。七月、別賊の李老柴・独行狼は中部を攻め陥とし、田近庵は六百人を以て馬欄山を守りこれに応ず。而して降した渠魁一魁の党の茹成名という者は、尤も桀驁、鶴は一魁に命じて耀州でこれを誘殺せしむ。その党は猜懼し、一魁を挟んで叛く。御史の謝三賓言う、「鶴は慶陽の撫局既に畢り、賊は散遣して俱に尽きたりと言う。中部の賊は、寧ろ天より降るか」と。疏は巡按御史の呉甡に下りて核奏せしむ。甡は鶴が撫を主とし国を誤ると奏す。帝怒り、鶴を逮えて獄に下し、袁州に戍す。

原文五月,鶴移駐耀州。賊攻破金鎖關,殺都司王廉。七月,別賊李老柴、獨行狼攻陷中部,田近庵以六百人守馬欄山應之。而降渠一魁之黨茹成名者,尤桀驁,鶴令一魁誘殺之於耀州,其黨猜懼,挾一魁以叛。御史謝三賓言:「鶴謂慶陽撫局既畢,賊散遣俱盡。中部之賊,寧自天降?」疏下巡按御史吳甡核奏,甡奏鶴主撫誤國。帝怒,逮鶴下獄,戍袁州。

七年の秋、子の嗣昌が宣大山西総督に抜擢され、上疏して辞退し、「臣の父鶴は総督として譴責を受けて既に三年、臣何の心あって再びこの職に居らん」と述べた。帝は優詔でこれに答えながらも、鶴の罪を赦さなかった。八年の冬、鶴が戍所で卒すると、嗣昌が恩恤を請うた。帝は鶴の官を復したが、恩恤は与えなかった。鶴は初め尤世禄の寧夏大捷の功により、兵部尚書・太子少保に進み、世蔭として錦衣千戸を賜った。十年、賀虎臣の寧夏における賊破りの功を叙し、太子少傅を追加した。十三年、また甘肅の叙功により、一子に官を任じた。

原文七年秋,子嗣昌擢宣大山西總督,疏辭,言:「臣父鶴以總督蒙譴已三年,臣何心復居此職。」帝優詔答之,而不赦鶴罪。八年冬,鶴卒於戍所,嗣昌請恤。帝復鶴官,而不予恤。鶴初以尤世祿寧夏大捷功,進兵部尚書、太子少保,世蔭錦衣千戶。十年,敘賀虎臣寧夏破賊功,追加太子少傅。十三年,又以甘肅敘功,任一子官。

従弟の鶚は、崇禎四年の進士である。御史に官し、才名があり、順天巡撫に抜擢された。京師陥落後、南に帰り、福王が兵部右侍郎とし、川・湖軍務を総督させた。

原文從弟鶚,崇禎四年進士。官御史,有才名,擢順天巡撫。京師陷,南歸,福王以為兵部右侍郎,總督川、湖軍務。

陳奇瑜

原文陳奇瑜

陳奇瑜、字は玉鉉、保德州の人。萬暦四十四年の進士。洛陽知県に任じられる。天啓二年、礼科給事中に抜擢される。楊漣が魏忠賢を弾劾すると、奇瑜もまた抗疏して力強く誹謗した。六年春、戸科左給事中から出て陝西副使となり、右参政に遷り、南陽を分守した。

原文陳奇瑜,字玉鉉,保德州人。萬曆四十四年進士。除洛陽知縣。天啟二年,擢禮科給事中。楊漣劾魏忠賢,奇瑜亦抗疏力詆。六年春,由戶科左給事中出為陜西副使,遷右參政,分守南陽。

崇禎に改元すると、按察使職を加えられ、まもなく陝西左右布政使を歴任した。五年、右僉都御史に抜擢され、張福臻に代わって延綏を巡撫した。当時、大盗の神一魁・不沾泥らは既に殲滅されていたが、余党はなお多かった。年は大凶作で、民多く賊に従った。翌年五月、奇瑜は上疏し、鄜州・延州から鎮城に至る千余里の饑荒と盗賊の状況を極言し、詔して延安・慶陽の田租を免じた。奇瑜はそこで副将盧文善を遣わして截山虎・柳盗跖・金翅鵬らを討ち斬らせた。まもなく遊撃常懐徳を遣わして薛仁貴を斬り、参政戴君恩が一条龍・金剛鑽・開山鷂・黒煞神・人中虎・五閻王・馬上飛を斬り、都司賀思賢が王登槐を斬り、巡検羅聖楚が馬紅狼・満天飛を斬り、参政張伯鯨が満鵞を斬り、黄参耀・隔溝飛を生け捕り、守備閻士衡が張聡・樊登科・樊計栄・一塊鉄・青背狼・穿山甲・老将軍・二将軍・満天星・上山虎を斬り、把総白士祥が掃地虎を斬り、守備郭金城が扒地虎・括天飛を斬り、守備郭太が跳山虎・新来将・就地滾・小黄鶯・房日兎を斬り、遊撃羅世勲が賈総管・逼上天・小紅旗を斬り、他の将が草上飛・一隻虎・一翅飛・雲裏手・四天王・薛紅旗・独尾狼を斬り、諸々の渠魁はほぼ尽きた。奇瑜はそこで上疏して言う、「流寇が難を起こすは、歳の饑饉に始まり、元凶の煽動誘導によって成り、両郡三路皆盗賊の巣窟となった。今、一兵も頓せず、一弦も絶たず、頭目百七十七人を擒斬し、その党千余人を得た。頭目既に除かれ、余党自ら散じ、かつて木を斬り竿を掲げた者は、今や鋤を荷い耒を負うに至った」と。帝はこれを嘉し、功ある将士を記録して奏聞するよう命じた。

原文崇禎改元,加按察使職,尋歷陜西左右布政使。五年,擢右僉都御史,代張福臻巡撫延綏。時大盜神一魁、不沾泥等已殲,而余黨猶眾。歲大凶,民多從賊。明年五月,奇瑜上疏,極言鄜、延達鎮城千餘里饑荒盜賊狀,詔免延安、慶陽田租。奇瑜乃遣副將盧文善討斬截山虎、柳盜跖、金翅鵬等。尋遣遊擊常懷德斬薛仁貴,參政戴君恩斬一條龍、金剛鉆、開山鷂、黑煞神、人中虎、五閻王、馬上飛,都司賀思賢斬王登槐,巡檢羅聖楚斬馬紅狼、滿天飛,參政張伯鯨斬滿鵝,擒黃參耀、隔溝飛,守備閻士衡斬張聰、樊登科、樊計榮、一塊鐵、青背狼、穿山甲、老將軍、二將軍、滿天星、上山虎,把總白士祥斬掃地虎,守備郭金城斬扒地虎、括天飛,守備郭太斬跳山虎、新來將、就地滾、小黃鶯、房日兔,遊擊羅世勛斬賈總管、逼上天、小紅旗,他將斬草上飛、一隻虎、一翅飛、雲裏手、四天王、薛紅旗、獨尾狼,諸渠魁略盡。奇瑜乃上疏曰:「流寇作難,始於歲饑,而成於元凶之煽誘,致兩郡三路皆盜藪。今未頓一兵,未絕一弦,擒斬頭目百七十七人,及其黨千有奇。頭目既除,余黨自散,向之斬木揭竿者,今且荷鋤負耒矣。」帝嘉之,令錄有功將士以聞。

延綏の群賊多く解散したが、独り鑽天哨・開山斧が永寧関に拠った。永寧は鎮城の東にあり、前は山に阻まれ、下は黄河に臨み、数年落ちなかった。奇瑜はこれは力攻めでは取れないと考え、ひそかに精鋭を選び、表向きは総制の檄で兵を発すると言い、賀人龍にこれを率いさせて西に向かわせ、自らは後詰めとなり、直ちに延川に到着した。俄かに馬を策して東に向かい、「我が馬首の向かう所を見よ」と言った。潜かに軍を率いて疾く山に入ると、賊は大兵の来るを予期せず、驚いて潰走した。その巣窟を焼き、千六百余級を斬首し、二賊ともに馘にした。兵を分けて金翅鵬・一座城を撃ち斬り、五百五十級を獲た。延水の群盗ことごとく平定され、奇瑜の威名関陝に著しい。ここにおいて群盗ことごとく山西に集まり、河北・畿南に流れ突いた。冬の氷堅く、澠池から渡り、河南・湖広を蹂躙し、四川を窺った。

原文延綏群賊多解,獨鉆天哨、開山斧據永寧關。永寧在鎮城東,前阻山,下臨黃河,數年不下。奇瑜謂是不可以力取,乃陰簡銳士,陽言總制檄發兵,令賀人龍將之而西,身為後勁,直抵延川。俄策馬東,曰:「視吾馬首所向。」潛師疾走入山,賊不虞大兵至,驚潰。焚其巢,斬首千六百有奇,二賊俱馘。分兵擊斬金翅鵬、一座城,獲首五百五十。延水群盜盡平,奇瑜威名著關陜。於是群盜盡萃於山西,流突河北、畿南。冬冰堅,從澠池渡,躪河南、湖廣,窺四川。

翌年、廷議で諸鎮撫の事権が統一されず、大臣を設けて統べるべきであり、多く洪承疇を推薦した。承疇が当時三辺を督していたため、動かし難いとして、奇瑜を兵部右侍郎兼右僉都御史に抜擢し、陝西・山西・河南・湖広・四川の軍務を総督させ、専ら流賊を討伐させた。奇瑜は諸将に檄を飛ばして陝州で兵を会させた。先だって、老回回・過天星・満天星・闖塌天・混世王の五大営が楚から蜀に入り、夔州を陥とした。険阻に阻まれ、再び楚に逃げ戻り、三つに分かれた。一つは均州を犯し、河南へ向かい、一つは鄖陽を犯し、淅川へ向かい、一つは金漆坪を犯し、河を渡って商南を犯した。奇瑜はそこで均州に馳せ至り、四巡撫に檄を飛ばして会討させた。陝西の練国事は商南に駐屯し、その西北を扼し、鄖陽の盧象昇は房県・竹山に駐屯し、その西を扼し、河南の元黙は盧氏に駐屯し、その東北を扼し、湖広の唐暉は南漳に駐屯し、その東南を扼した。奇瑜はそこで象昇とともに将士を督して竹渓から平利の烏林関に至り、十余戦し、賊千七百余級を斬った。七日を過ぎて、乜家溝で大いにこれを破り、千八十余級を斬り、総兵鄧玘の功が多かった。既にして、蚋渓に伏兵を設け、連戦し、三百余級を斬った。獅子山に至り、七百二十余級を斬った。別将の楊化麟・楊世恩・周任鳳・楊正芳らが分道して賊を撃殺し、その魁の闖王・翻山虎らを生け捕った。

原文明年,廷議諸鎮撫事權不一,宜設大臣統之,多推薦洪承疇。以承疇方督三邊,不可易,乃擢奇瑜兵部右侍郎兼右僉都御史,總督陜西、山西、河南、湖廣、四川軍務,專辦流賊。奇瑜檄諸將會兵陜州。先是,老回回、過天星、滿天星、闖塌天、混世王五大營自楚入蜀,陷夔州。阻險,復走還楚,分為三:一犯均州,往河南;一犯鄖陽,往淅川;一犯金漆坪,渡河犯商南。奇瑜乃馳至均州,檄四巡撫會討。陜西練國事駐商南,遏其西北;鄖陽盧象昇駐房、竹,遏其西;河南元默駐盧氏,遏其東北;湖廣唐暉駐南漳,遏其東南。奇瑜乃偕象昇督將士由竹溪至平利之烏林關,十餘戰,斬賊千七百餘級。越七日,大破之乜家溝,斬千八十餘級,總兵鄧玘功為多。已,設伏蚋溪,連戰,斬三百餘級。至獅子山,斬七百二十餘級。別將楊化麟、楊世恩、周任鳳、楊正芳等分道擊殺賊,擒其魁闖王、翻山虎等。

奇瑜は上言した、「楚中において屡々勝利し、一時大盗ほぼ尽き、深山に竄伏している者は、臣が郷兵を督して道案内とし、穴なくして捜さず、楚中に漸く寧宇あり」と。帝はこれを嘉労した。そこで副将劉遷らを督して竹渓・平利の賊を捜索させ、五狼河まで追撃し、その魁十二人を生け捕った。参将賀人龍らを遣わして八昼夜追撃し紫陽に至らせ、賊の死者一万余人に及んだ。

原文奇瑜上言:「楚中屢捷,一時大盜幾盡,其竄伏深山者,臣督鄉兵為向道,無穴不搜,楚中漸有寧宇。」帝嘉勞之。乃督副將劉遷等搜竹溪、平利賊,追至五狼河,擒其魁十二人。遣參將賀人龍等追八晝夜至紫陽,賊死者萬餘人。

先だって、賊は蜀に入り、再び蜀から秦に入り、陽平関から鞏昌に奔り、承疇が秦州でこれを防いだ。賊はそこで両当を越え、鳳県を襲撃して陥とし、二つに分かれた。一つは漢中に向かい、間道を取って城固・洋県を犯し、一つは鳳県から宝鶏・汧陽に奔った。ここにおいて賊は平利・洵陽の間に数万、四川から西郷に入る者二三万、城固・洋県を犯す者がまた東下して石泉・漢陰に至り、漢中・興安で合流し、商州・雒南を窺った。この時、奇瑜は湖広の賊が尽きたとして、鼓行して西に向かい、賊は平定に足らぬと考えた。そこで遊撃唐通を遣わして漢中を防がせ、藩封を護らせ、参将賀人龍・劉遷・夏鎬を遣わして略陽・沔県を扼させ、賊の西遁を防がせ、副将楊正芳・余世任を遣わして褒城を扼させ、賊の北遁を防がせ、自ら副将楊化麟・柳国鎮らを督して洋県に駐屯させ、賊の東遁を防がせ、また練国事・盧象昇・元黙に檄を飛ばして各々要害を守らせ、賊の奔逸を遮断させた。

原文先是,賊入蜀,復自蜀入秦,由陽平關奔鞏昌,承疇禦之秦州。賊遂越兩當,襲破鳳縣,分為二:一向漢中,取間道犯城固、洋縣;一由鳳縣奔寶雞、汧陽。於是賊在平利、洵陽間者數萬,自四川入西鄉者二三萬。犯城固、洋縣者,又東下石泉、漢陰,會漢、興,窺商、雒。當是時,奇瑜以湖廣賊盡,鼓行而西,謂賊不足平也。乃遣遊擊唐通防漢中,以護藩封;遣參將賀人龍、劉遷、夏鎬扼略陽、沔縣,防賊西遁;遣副將楊正芳、余世任扼褒城,防賊北遁;自督副將楊化麟、柳國鎮等駐洋縣,防賊東遁;又檄練國事、盧象昇、元默各守要害,截賊奔逸。

賊は官軍が四方から集まるのを見て、大いに恐れ、悉く興安の車廂峽に逃げ込み、諸渠魁の李自成・張献忠らは皆そこにいた。峽は四方の山が険しく立ち、中は四十里に亘り、入り易く出難い。賊は誤ってその中に入り、山上の住民が石を投げ下して撃ち、或いは炬火を投げかけ、山口には石を累ねて塞ぎ、路は絶え、食を得る所なく、困窮甚だしかった。また大雨二十日、弓矢は尽く脱け、馬は芻に乏しく、死者は過半に及んだ。この時、官軍がこれを追い詰めれば、悉く殲滅できたが、自成らは形勢が不利なのを見て、その党の顧君恩の謀を用い、重宝をもって奇瑜の左右及び諸将帥に賄賂し、偽って降伏を請うた。奇瑜は大計なく、急にこれを許し、先後三萬六千余人を籍し、悉く労をねぎらって帰農させた。毎百人に安撫官一人を付けて護送し、檄を発して通過する州県に糗糧を備えて伝送させ、諸将には撫事を妨げ撓めぬよう命じた。諸賊は大いに創を受けず、降伏は実ではなかった。既に棧道を出ると、遂に約束を受けず、安撫官五十余人を尽く殺し、諸州県を攻め掠め、関中大いに震動した。

原文賊見官軍四集,大懼,悉遁入興安之車廂峽,諸渠魁李自成、張獻忠等咸在焉。峽四山巉立,中亙四十里,易入難出。賊誤入其中,山上居民下石擊,或投以炬火,山口累石塞,路絕,無所得食,困甚。又大雨二旬,弓矢盡脫,馬乏芻,死者過半。當是時,官軍蹙之,可盡殲,自成等見勢絀,用其黨顧君恩謀以重寶賄奇瑜左右及諸將帥,偽請降。奇瑜無大計,遽許之,先後籍三萬六千餘人,悉勞遣歸農。每百人以安撫官一護之,檄所過州縣具糗糧傳送,諸將無邀撓撫事。諸賊未大創,降非實也,既出棧道,遂不受約束,盡殺安撫官五十餘人,攻掠諸州縣,關中大震。

奇瑜は失策を悔い、乃ち罪を他人に委ねて自らを弁解した。賊が初めて叛いた時、突然鳳翔に至り、城を開くよう誘ったが、守城の者はその詐りを知り、城上から縋り降ろすと偽って、先に登った者三十六人を殺し、残りは騒ぎながら去った。宝雞を犯した時も、知県の李嘉彦に挫かれた。奇瑜は遂に嘉彦及び鳳翔の郷官孫鵬らが撫局を撓めたと劾奏し、撫按官も異心ありとした。帝は怒り、撫按を厳しく責め、嘉彦・鵬及び士民五十余人を逮捕した。奇瑜は又、勅を請うて陝西・鄖陽・湖広・河南・山西の五巡撫に各要害を守らせ、失えば諸臣を罪に治すとし、以て己が過ちを分かたんとした。又、罪を巡撫の練国事に委ね、国事もまた逮捕された。給事中の顧国宝が奇瑜が封疆を誤ったと劾奏し、詔して解任して審査を待たせた。御史の傅永淳がまた、奇瑜が隴州の包囲を解いたことを首功として報告したのは不実であると劾奏し、詔して除名し、錦衣官に逮捕尋問させた。九年六月、辺境に流罪とした。

原文奇瑜悔失計,乃委罪他人以自解。賊初叛,猝至鳳翔,誘開城,守城知其詐,紿以縋城上,殺其先登者三十六人,余噪而去。其犯寶雞,亦為知縣李嘉彥所挫。奇瑜遂劾嘉彥及鳳翔鄉官孫鵬等撓撫局,撫按官亦異心。帝怒,切責撫按,逮嘉彥、鵬及士民五十餘人。奇瑜又請敕陜西、鄖陽、湖廣、河南、山西五巡撫各守要害,有失則治諸臣罪,冀以分己過。又委罪巡撫練國事,國事亦被逮。給事中顧國寶劾奇瑜誤封疆,詔解任候勘。御史傅永淳復劾奇瑜解隴州圍報首功不實,詔除名,錦衣官逮訊。九年六月謫戍邊。

初め、奇瑜が南陽に官した時、唐王がその世子を殺し、世子の子の聿鍵をも併せて廃そうとした。奇瑜の力に頼り、聿鍵は世孫となることができた。後に聿鍵が閩で自立し、奇瑜を召して東閣大学士とした。道遠く、命を聞かぬうちに、家で卒した。

原文初,奇瑜官南陽,唐王殺其世子,欲並廢世子子聿鍵。賴奇瑜力,聿鍵得為世孫。後聿鍵自立於閩,召奇瑜為東閣大學士。道遠,未聞命,卒於家。

元默は、字は中象、静海の人である。萬曆四十七年の進士。除して懷慶推官となり、擢て吏科給事中となった。魏忠賢の勢焰が方に熾んである時、郷里の縁で彼を招き寄せようとしたが、默は謝絶して応じなかった。言路が忠賢の意を承け、劾奏して罷免させ帰郷させた。

原文元默,字中象,靜海人。萬曆四十七年進士。除懷慶推官,擢吏科給事中。魏忠賢焰方熾,以鄉里欲招致之,默謝不可。言路承忠賢意,劾罷歸。

崇禎初年、官に復し、歴遷して太常卿となった。六年春、僉都御史として河南を巡撫した。流賊が均州から河内を犯すと、默は左良玉・湯九州・李卑・鄧玘の兵を率いて境上で待ち受けた。また九州を率いて雪の夜に乗じ吳城の賊営に迫り、これを大破した。嵩・雒以北の名城数十、賊は避けて敢えて攻めなかった。奇瑜が既に車箱峽で李自成を失うと、默は汝州から自ら移って盧氏に駐屯し、檄を発して良玉・九州に各要害を守るよう兵を陳べさせ、数ヶ月の間、稍々寧かであった。この時、賊の勢いは張り、良玉らは督師の檄を承け、守備は尚固かった。默は諸将を率いて斬獲多く、賊は多く秦・楚の境に向かった。已にして三つに分かれ、潁州から鳳陽の皇陵を犯し、中州所在急を告げた。八年夏、默は逮捕されて去った。久しくして、釈放されて帰り、八年に卒した。

原文崇禎初,復官,歷遷太常卿。六年春,以僉都御史巡撫河南。流賊由均州犯河內,默率左良玉、湯九州、李卑、鄧玘兵待境上;復率九州乘雪夜薄吳城賊營,大破之。嵩、雒以北名城數十,賊避勿敢攻。奇瑜既失李自成於車箱峽,默自汝州移駐盧氏,檄良玉、九州各陳兵守要害,得稍寧者數月。當是時,賊勢張,良玉等承督師檄,守備尚固。默率諸將斬獲多,賊多趨秦、楚境。已,分為三,自潁州犯鳳陽皇陵,中州所在告急。八年夏,默被逮去。久之,得釋歸,八年卒。

熊文燦

原文熊文燦

熊文燦は、貴州永寧衛の人である。萬曆三十五年の進士。授けて貴州推官となり、遷って禮部主事、歴任して郎中となった。琉球に封じに出て還り、擢て山東左參政・山西按察使・山東右布政使となった。憂いにより帰郷し、ここから蘄水に家を移した。

原文熊文燦,貴州永寧衛人。萬曆三十五年進士。授貴州推官,遷禮部主事,歷郎中。出封琉球還,擢山東左參政、山西按察使、山東右布政使。憂歸,自是徙家蘄水。

崇禎元年、起用されて福建左布政使となった。三月、就いて右僉都御史を拝命し、その地を巡撫した。海上は元より劇盗多く、袁進・李忠が既に降り、楊六・楊七及び鄭芝龍が続いて起こった。総兵官の俞咨臯が六・七を招いて降したが、芝龍は猖獗として元の如かった。然し芝龍は常に都司の洪先春を敗りながら、追わずに釈放し、一遊撃を捕らえても殺さず、咨臯が戦いに敗れると、彼を逃がした。当事者は彼が撫でられることを知り、使者を遣わして降伏を諭した。文燦が至ると、芝龍を善く遇し、己が用いるところとした。その党の李魁奇は再び降り、再び叛いて去ったが、芝龍は撃ってこれを擒にした。海警は漸く息んだが、鐘斌がまた起こった。斌は初めもまた撫に就いたが、後に再び叛き、福州を寇した。文燦は斌を誘って泉州へ往かせ、芝龍に命じてこれを撃破させた。既にして大洋にこれを追い詰め、斌は海に投身して死んだ。閩中で屡々巨寇を平げたのは、皆芝龍の力であり、文燦もまた功を叙して秩を増した。

原文崇禎元年,起福建左布政使。三月,就拜右僉都御史,巡撫其地。海上故多劇盜,袁進、李忠既降,楊六、楊七及鄭芝龍繼起。總兵官俞咨臯招六、七降,芝龍猖獗如故。然芝龍常敗都司洪先春,釋不追;獲一遊擊,不殺;咨臯戰敗,縱之走。當事知其可撫,遣使諭降之。文燦至,善遇芝龍,使為己用。其黨李魁奇再降,再叛去,芝龍擊擒之。海警漸息,而鐘斌又起。斌初亦就撫,後復叛,寇福州。文燦誘斌往泉州,令芝龍擊敗之。既而蹙之大洋,斌投海死。閩中屢平巨寇,皆芝龍力,文燦亦敘功增秩焉。

五年二月、文燦を擢て兵部右侍郎兼右僉都御史とし、両広軍務を総督させ、兼ねて広東を巡撫させた。先に、海寇の鐘靈秀が既に降りてまた叛き、芝龍に擒にされたが、その党は潰れて長汀に入り、転じて江西の属邑を掠め、文燦は芝龍に檄を発して屡々賊を敗った。而して福建には紅夷の患いがあり、海盜の劉香がこれに乗じ、連ねて閩・広の沿海の邑を犯し、帝は文燦を責めた。文燦は討つことができず、乃ち招撫を議し、賊は偽ってこれを許した。參政の洪雲蒸は、長沙の人で、初め広西參政に官し、嘗て靈秀の余党を捜索し、三十余級を斬り、その巣を尽く毀った。文燦は乃ち雲蒸と副使の康承祖、參将の夏之本・張一傑をして賊舟に入り宣諭させたが、俱に捕らえられた。文燦は罪を懼れ、諸臣が賊を信じて自ら陷ったと奏上した。給事中の朱國棟がこれを劾奏し、詔して秩を貶し、罪を戴いて自ら効うことを命じた。八年、芝龍が広東兵と合して田尾の遠洋で香を撃った。香は雲蒸を脅して兵を止めさせようとしたが、雲蒸は大呼して曰く、「我は死を誓って国に報いん、急ぎ撃て、機を失うなかれ」と。遂に害に遇った。香の勢いは追い詰められ、自ら焚き溺れて死に、承祖らは脱して還った。賊党千余人が浙江に詣でて帰順し、海盜は尽く平定された。

原文五年二月,擢文燦兵部右侍郎兼右僉都御史,總督兩廣軍務,兼巡撫廣東。先是,海寇鐘靈秀既降復叛,為芝龍所擒,其黨潰入長汀,轉掠江西屬邑,文燦檄芝龍屢敗賊。而福建有紅夷之患,海盜劉香乘之,連犯閩、廣沿海邑,帝以責文燦。文燦不能討,乃議招撫,賊佯許之。參政洪雲蒸,長沙人,初官廣西參政,嘗搜靈秀余黨,斬三十餘級,盡毀其巢。文燦乃令雲蒸與副使康承祖,參將夏之本、張一傑入賊舟宣諭,俱被執。文燦懼罪,奏諸臣信賊自陷。給事中朱國棟劾之,詔貶秩,戴罪自效。八年,芝龍合廣東兵擊香於田尾遠洋。香脅雲蒸止兵,雲蒸大呼曰:「我矢死報國,急擊勿失!」遂遇害。香勢蹙,自焚溺死,承祖等脫還。賊黨千餘人詣浙江歸款,海盜盡平。

文燦は閩・広に官すること久しく、財を積むこと算なく、厚く珍宝をもって中外の権要に結びつき、久しく嶺南に鎮まらんことを謀った。時に帝は劉香が未だ死んでいないことを疑い、且つ文燦の為人を知らず、中使を遣わし広西採辦と偽って、往ってこれを覘わせた。既に至ると、文燦は盛んに贈遺するところがあり、十日間留めて飲ませた。中使は喜び、中原の寇乱に言及すると、文燦は丁度酒に中り、案を撃って罵って曰く、「諸臣が国を誤ったのだ。若し文燦が往かば、豈に鼠輩をして此の如きに至らしめんや」と。中使は起立して曰く、「我は広西採辦に往くのではなく、上命を銜んで公を覘うのである。公は信じるに当世の才あり、公に非ざれば此の賊を辦するに足らざるなり」と。文燦は意表に出で、失言を悔い、随って五難四不可があると言った。中使は曰く、「我は上に見えて自ら請うであろう。若し上に吝るところ無ければ、即ち公は辞するを得ざるであろう」と。文燦は言葉に窮し、応えて「諾」と言った。中使は還朝し、果たして帝にこれを言った。初め、文燦が蘄水に移った時、邑人の姚明恭と姻妮となり、明恭は詹事に官し、又楊嗣昌と善かった。嗣昌は兵柄を握り、帝の眷顧を受け、帝が賊を平げることを急いでいるので、一人の助けを得んことを冀い、明恭は因って文燦を薦め、且つ曰く、「此には内援有りて引くべし」と。嗣昌は喜び、遂にこれを薦めた。

原文文燦官閩、廣久,積貲無算,厚以珍寶結中外權要,謀久鎮嶺南。會帝疑劉香未死,且不識文燦為人,遣中使假廣西采辦名,往覘之。既至,文燦盛有所贈遺,留飲十日。中使喜,語及中原寇亂,文燦方中酒,擊案罵曰:「諸臣誤國耳。若文燦往,詎令鼠輩至是哉!」中使起立曰:「吾非往廣西采辦也,銜上命覘公。公信有當世才,非公不足辦此賊。」文燦出不意,悔失言,隨言有五難四不可。中使曰:「吾見上自請之,若上無所吝,即公不得辭矣。」文燦辭窮,應曰「諾」。中使還朝,果言之帝。初,文燦徙蘄水,與邑人姚明恭為姻妮,明恭官詹事,又與楊嗣昌善。嗣昌握兵柄,承帝眷,以帝急平賊,冀得一人自助,明恭因薦文燦,且曰:「此有內援可引也。」嗣昌喜,遂薦之。

十年四月、文燦を兵部尚書兼右副都御史に拝し、王家禎に代わって南畿・河南・山西・陜西・湖広・四川の軍務を総理せしむ。文燦は拝命するや、ただちに左良玉の率いる六千人を己が軍とすべく請い、また広く粤人及び烏蠻の精鋭なる火器を用いる者一二千人を募りて自らを護らしめ、弓刀甲冑は甚だ整う。廬山に次ぎ、善きところの僧空隠に謁す。僧は迎えて曰く、「公誤れり」と。文燦は人を屏いて故を問う。僧曰く、「公自ら度るに、将いる兵は賊を制して死命に至らしむるに足るか」と。曰く、「能わず」と。曰く、「諸将に大事を属すべき、一面を当つべき、指揮を煩わさずして定まる者あらんか」と。曰く、「未だ如何なるかを知らず」と。曰く、「此の二者既に賊に当たる能わず、上は特ち名を以て公を使い、厚く責望す。一たび効あらずんば誅せられん」と。文燦は却立して良久くして曰く、「これを撫するは如何」と。僧曰く、「吾れ公の必ず撫するを料る。然れども流寇は海寇に比ぶるに非ず、公其れ慎むべし」と。文燦去りて安慶に抵る。帝の遣わしし中官劉元斌・盧九德、勇衛営の軍を監する者も亦至る。良玉は宿将にして桀驁、文吏の節制を受けず、会うに其の下と粤軍和せず、大いに詬る。文燦已むを得ずして南兵を遣り返す。然れども良玉の軍は実に用いられず。嗣昌、帝に言う。乃ち辺将馮挙・苗有才の兵五千人を以てこれに隷せしむ。有才は真陽に敗れ、而して京営の将黄得功は連ねて賊兵を破り、威甚だ振う。

原文十年四月,拜文燦兵部尚書兼右副都御史,代王家禎總理南畿、河南、山西、陜西、湖廣、四川軍務。文燦拜命,即請左良玉所將六千人為己軍,而大募粵人及烏蠻精火器者一二千人以自護,弓刀甲胄甚整。次廬山,謁所善僧空隱。僧迎謂曰:「公誤矣。」文燦屏人問故,僧曰:「公自度所將兵足制賊死命乎?」曰:「不能。」曰:「諸將有可屬大事、當一面、不煩指揮而定者乎?」曰:「未知何如也。」曰:「二者既不能當賊,上特以名使公,厚責望,一不效,誅矣。」文燦卻立良久,曰:「撫之何如?」僧曰:「吾料公必撫。然流寇非海寇比,公其慎之。」文燦去,抵安慶,帝所遣中官劉元斌、盧九德監勇衛營軍者亦至。良玉宿將桀驁,不受文吏節制,會其下與粵軍不和,大詬。文燦不得已,遣還南兵,然良玉軍實不為用。嗣昌言於帝,乃以邊將馮舉、苗有才兵五千人隸焉。有才敗於真陽,而京營將黃得功連破賊兵,威甚振。

是の時に当たり、嗣昌「四正六隅」の策を建て、兵餉を大半増し、賊を滅ぼすを期す。賊頗る懼る。文燦の至るに及び、京軍は屡々捷し、益々懼る。文燦顧みて招降を決計す。初め安慶に抵るや、即ち人を遣わして張献忠・劉国能を招く。二人は命を聴く。乃ち益々招降の檄を刊し、通都に布く。又た民と粟を尽く遷して城中に閉じ、賊掠うる所無からしめば、自ずから退くべしと請う。帝怒り、文燦を譙譲す。嗣昌も亦心に之を非とす。既に之を任ずるに及んで、則ち曲く文燦の為に解す。其の請いに因り、畿輔・山西の兵各三千を以てこれに畀う。明年、国能果たして降り、而して献忠は谷城を襲い据う。会うに得功又た大いに賊を舞陽に破り、馬士秀・杜応金は夜半に信陽城下に降る。献忠は左良玉に創せられ、幾くんか擒われんとす。其の下飢え困り多く散ず。献忠窮蹙し、亦た陳洪範に因りて降る。ここにおいて嗣昌、功罪を議し、洪承疇・曹変蛟等を絀け、而して文燦の功を称す。

原文當是時,嗣昌建「四正六隅」之策,增兵餉大半,期滅賊,賊頗懼。及文燦至,京軍屢捷,益懼。文燦顧決計招降。初抵安慶,即遣人招張獻忠、劉國能,二人聽命。乃益刊招降檄,布通都。又請盡遷民與粟閉城中,賊無所掠,當自退。帝怒,譙讓文燦。嗣昌亦心非之,既已任之,則曲為文燦解。因其請,畀以畿輔、山西兵各三千。明年,國能果降,而獻忠襲據谷城。會得功又大破賊舞陽,馬士秀、杜應金夜半降信陽城下。獻忠為左良玉所創,幾被擒,其下饑困多散去。獻忠窮蹙,亦因陳洪範以降。於是嗣昌議功罪,絀洪承疇、曹變蛟等,而稱文燦功焉。

已にして京軍は遂平の囲みを解き、斬獲三千有奇。時に文燦は裕州に在り、馬進忠・羅汝才十三家の賊は南陽に聚まる。文燦は令を下し、賊を殺す者は死を償うとす。賊従わず。則ち金帛酒牢を賫してこれを犒い、名づけて「賊を求む」と曰う。帝其の状を詗え得て曰く、「文燦は大言にして実無し」と。文燦懼る。孫伝庭は関を出でて賊を撃つ。文燦は救わず。而して嗣昌は已に政府に入り中樞を掌る。九月、文燦は襄陽に次ぐ。賊は分かれて鄖・襄の諸険に踞る。諸将戦を請う。文燦は兵を分かつを議す。盧九徳曰く、「兵分かれば則ち力弱し。一たび利を失えば、全軍動揺せん。其の力を厚く集めて合撃するに若かず」と。衆曰く、「善し」と。乃ち僉事張大経をして大将左良玉・陳洪範の軍を監せしめ、通判孔貞会をして副将龍在田の軍を監せしめ、双溝に戦いて大いに之を破り、首二千余級を斬る。羅汝才・恵登相は九営を率いて均州に走り、李万慶は三営を率いて光・固に走る。

原文已而京軍解遂平圍,斬獲三千有奇。時文燦在裕州,馬進忠、羅汝才十三家賊聚南陽,文燦下令,殺賊者償死。賊不肯從,則賫金帛酒牢犒之,名曰「求賊」。帝诇得狀,曰:「文燦大言無實。」文燦恐。孫傳庭出關擊賊,文燦不救,而嗣昌已入政府掌中樞矣。九月,文燦次襄陽,賊分踞鄖、襄諸險。諸將請戰,文燦議分兵。盧九德曰:「兵分則力弱,一失利,全軍搖矣。莫若厚集其力而合擊之。」眾曰:「善。」乃以僉事張大經監大將左良玉、陳洪範軍,以通判孔貞會監副將龍在田軍,戰於雙溝,大破之,斬首二千餘級。羅汝才、惠登相率九營走均州,李萬慶率三營走光、固。

十一月、京師戒厳し、洪承疇・孫伝庭を召して入衛せしむ。汝才等は己を討つと以為い、懼れて太和山提督中官に叩き、文燦に撫を求む。これを許す。汝才及び一丈青・小秦王・一条龍の四営を鄖県に処し、登相及び王国寧・常徳安・楊友賢・王光恩の五営を均州に処す。上言して曰く、「臣は李万慶・賀一龍・馬光玉及び順天王には剿を主とし、他の皆は撫を主とす。汝才等の罪を赦し、之に官を授けんことを請う」と。これを可とす。時に京軍・良玉軍は皆入衛に行くを以てす。馬士秀・杜応金は遂に許州に叛く。初め、士秀等降る。良玉は其の衆を以て許の郊外に処す。許は大州なり。良玉の諸将は孥と賄とをここに寄す。良玉久しく征して帰らず。士秀・応金は文燦の軍中に在り、偽りて急を請い、良玉の軍号を仮りて城に入る。夜半、兵府第より出で、城南の楼を焼き、庫を劫い、官吏を殺し、其の資を挈ちて万慶に投ず。万慶は賊魁射塌天なり。

原文十一月,京師戒嚴,召洪承疇、孫傳庭入衛。汝才等以為討己也,懼而叩太和山提督中官,求撫於文燦,許之。處汝才及一丈青、小秦王、一條龍四營於鄖縣,處登相及王國寧、常德安、楊友賢、王光恩五營於均州。上言:「臣於李萬慶、賀一龍、馬光玉及順天王主剿,他皆主撫。請赦汝才等罪,授之官。」可之。時京軍、良玉軍皆以入衛行,馬士秀、杜應金遂叛於許州。初,士秀等降,良玉以其眾處許之郊外。許,大州也,良玉諸將寄孥與賄焉。良玉久征不歸,士秀、應金在文燦軍中,偽請急,假良玉軍號入城。夜半,兵從府第出,燒城南樓,劫庫,殺官吏,挈其貲投萬慶。萬慶者,賊魁射塌天也。

十二年三月、良玉還り、馬進忠を破り降し、劉国能をして万慶を撃ち降らしむ。士秀・応金も亦再び降る。順天王は已に前に死し、其の党順義王は其の下に為りて殺さる。文燦遂に上言して曰く、「臣が兵威震懾し、降る者踵を接す。十三家の賊、惟だ革・左及び馬光玉の三部のみ尚お天誅を稽えり。歳月を以て平ぐべし」と。帝優詔を以て之に報う。

原文十二年三月,良玉還,破降馬進忠,使劉國能擊降萬慶,士秀、應金亦再降。順天王已前死,其黨順義王為其下所殺。文燦遂上言:「臣兵威震懾,降者接踵。十三家之賊,惟革、左及馬光玉三部尚稽天誅,可歲月平也。」帝優詔報之。

初め、張献忠の降るや、兵万人を擁して谷城に踞り、十万人の餉を索う。文燦及び中外の要人曰くこれに与う。官を請い、地を請い、関防を請う。献忠は軍状を列ねて備遣を請う。既にして三たび其の兵を檄すも応ぜず。朝野献忠の必ず叛くを知る。其の後、汝才降るも、甲を釈くを肯ぜず。進忠・万慶等の並び降るに及び、文燦は策を得たりと以為い、天下将に賊無からんと謂う。五月、献忠遂に谷城に反し、汝才を房県に劫う。ここにおいて九営俱に反す。初め、均州の五営は討たるるを懼れ、自ら疑い、相与に血を歃って献忠を拒む。間も無く亦叛き去る。帝変を聞き、大いに驚き、文燦の官を削り、罪を戴きて事を視せしむ。七月、良玉は献忠を羅英山に撃ち、敗績す。帝大いに怒り、嗣昌を命じて来たり代わらしむ。嗣昌已に軍に至り、即ち使いを遣わして文燦を逮え獄に下し、大辟に坐す。親しきところの姚明恭国を柄とすれども救う能わず。十三年十月、文燦竟に市に棄つ。

原文初,張獻忠之降也,擁兵萬人踞谷城,索十萬人餉,文燦及中外要人曰與之。為請官、請地、請關防矣,獻忠列軍狀曰請備遣,既而三檄其兵不應,朝野知獻忠必叛也。其後,汝才降,不肯釋甲。及進忠、萬慶等並降,文燦以為得策,謂天下且無賊也。五月,獻忠遂反於谷城,劫汝才於房縣,於是九營俱反。初,均州五營懼見討,自疑,相與歃血拒獻忠,無何亦叛去。帝聞變,大驚,削文燦官,戴罪視事。七月,良玉擊獻忠羅英山,敗績。帝大怒,命嗣昌來代。嗣昌已至軍,即遣使逮文燦下獄,坐大辟,所親姚明恭柄國而不能救也。十三年十月,文燦竟棄市。

練国事

原文練國事

練国事、字は君豫、永城の人。万暦四十四年進士。沛はい県知県を授かり、山陽に調う。

原文練國事,字君豫,永城人。萬曆四十四年進士。授沛縣知縣,調山陽。

天啓二年、征されて御史を授かる。広寧失守す。国事は薊州・宣府・大同及び山東・山西・河南の撫臣各々兵万を練り、以て山海の声援を壮んずるを請う。又た大同の妖人を捕え誅するを請う。又た疏を上りて魏忠賢が群閹をして尚書鐘羽正を辱しめ、冬衣を索め、国体を傷つくると論ず。国事は諫垣に在りて、匡救多し。給事中趙興邦は忠賢の私人なり。国事を趙南星の党と為し、これを劾し、籍を削る。

原文天啟二年,征授御史。廣寧失守,國事請薊州、宣府、大同及山東、山西、河南撫臣各練兵萬,以壯山海聲援。又請捕誅殺大同妖人。又疏論魏忠賢使群閹辱尚書鐘羽正,索冬衣,傷國體。國事在諫垣,匡救多。給事中趙興邦,忠賢私人也,以國事為趙南星黨,劾之,削籍。

崇禎元年官に復し、太僕少卿に擢てられ、右僉都御史に進み、陜西を巡撫す。関中は頻年に飢え、盗賊蜂起す。四年正月、神一元は保安を陥す。国事は賀虎臣を遣わして延安を援けしめ、而して自らは副将張全昌を率い、点灯子を中部・合阝陽・韓城に連破し、又た別部を宜君・雒川に破り、其の魁李応鰲を降す。諸将張全昌・趙大允・王承恩・杜文煥・賀虎臣等は賊を澄城・宜川・耀州・白水・合阝陽に分剿し、首千九百有奇を斬る。総督楊鶴は既に群賊の降を受く。已にして相継いで叛く。田近庵・李老柴は中部を陥す。国事は承恩とともに攻囲すること五月、これを克つ。而して所部も亦頻りに事を失い、楊鶴は征せられ、国事も亦罪を戴きて自ら贖う。

原文崇禎元年復官,擢太僕少卿,進右僉都御史,巡撫陜西。關中頻歲饑,盜賊蜂起。四年正月,神一元陷保安。國事遣賀虎臣援延安,而身率副將張全昌連破點燈子於中部、合阝陽、韓城,又破別部於宜君、雒川,降其魁李應鰲。諸將張全昌、趙大允、王承恩、杜文煥、賀虎臣等分剿賊澄城、宜川、耀州、白水、合阝陽,斬首千九百有奇。總督楊鶴既受群賊降,已,復相繼叛,田近庵、李老柴陷中部。國事偕承恩攻圍五月,克之,而所部亦頻失事,楊鶴被征,國事亦戴罪自贖。

五年、紅軍友・李都司らが平涼を犯さんとした。国事は涇より固原へ急ぎ、大帥楊嘉謨に檄を飛ばして賊の塘馬を殺し、その偵察を断たせた。賊は慶陽の西壕へ走り、嘉謨と曹文詔が邀撃して大いにこれを破った。三月より五月に至るまで、大小数十戦、賊はついに破滅した。国事は戴罪を免じられた。

原文五年,紅軍友、李都司等將犯平涼。國事自涇趨固原,檄大帥楊嘉謨殺賊塘馬,斷其偵探。賊乃走慶陽西壕,嘉謨、曹文詔邀擊,大敗之。自三月至五月,大小數十戰,賊迄破滅。國事免戴罪。

この時、関中の五鎮では、大帥曹文詔・楊嘉謨・王承恩・楊麟・賀虎臣がそれぞれ辺境の軍を督率して協同討伐に当たり、総督洪承疇は特に調度に長けていた。賊の首魁は多く殲滅され、残りはことごとく山西へ走り、関中はやや平穏となった。

原文當是時,關中五鎮,大帥曹文詔、楊嘉謨、王承恩、楊麟、賀虎臣各督邊軍協討,總督洪承疇尤善調度。賊魁多殲,余盡走山西,關中稍靖。

六年冬、賊はすでに澠池から渡河し、盧氏に入った。翌年、賊はついに河南・湖広より漢南に入った。総督陳奇瑜は国事に檄を飛ばし商州に駐屯させ、商南・盧氏の賊の協同掃討に当たらせた。漢南の賊はついに寧羌より両当に至り、鳳県を掠め、棧道を出て宝鶏を陥とし、関中の賊は再び勢いを盛り返した。やがて奇瑜は賊の降伏を受け入れ、諸軍に撃つなと檄を飛ばした。賊は険地を出ると、大いに鳳翔・麟遊・宝鶏・扶風・汧陽・乾州・涇陽・醴泉を掠めた。奇瑜は自らを弁解するため国事に罪をなすりつけた。国事は上疏して言うには、「漢南の賊はことごとく棧道に入り、奇瑜は兵を止めよと檄を飛ばした。臣は撫でた実数を知らなかった。奇瑜の上疏を見て、八大王の部一万三千余人、蠍子塊の部一万五百余人、張妙手の部九千一百余人、八大王のまた一部八千三百余人とあり、臣は思わず天を仰いで長嘆した。ひと月の内に、強寇四万余を撫で、ことごとく棧道より内地に入れる。飲食はどこから出るというのか、掠奪がないはずがあろうか。かつ一大帥が三千人を将いるのに、一賊魁が反って一万余の衆を擁する。どうして紀律を受け入れられよう。仮に帰籍を口実にしても、延安の州県に突然四万余の者が増え、どこに安集できようか。諸々の征剿兵を合わせても二万に満たず、降賊は四万を超える。内地の兵力でどうして支えられようか。名城が連続して陥ち救えぬのも当然である。もし臣が堵剿しなかったことを咎めるなら、先に兵を止めよとの檄があった。もし賊がすでに撫でを受け、誤って使者を殺したためこうなったと言うなら、誤殺する以前、なぜ麟遊・永寿を破ったのか。今、事ここに至った。ただ急ぎ大軍を調発して討伐に当たるべきである。もしなお願って原籍に帰ると言い、兵に禁じて剿殺させなければ、三秦の禍はどこで終わるというのか」と。上疏が入った時には、事すでに為すべからざるに至っており、ついに捕らえられ獄に下された。九年正月、広西へ遣戍された。久しくして、前功を叙し、赦されて還り、冠帯を復した。

原文六年冬,賊既從澠池渡,入盧氏。明年,賊遂由河南、湖廣入漢南。總督陳奇瑜檄國事駐商州,協剿商南、盧氏賊。漢南賊遂由寧羌至兩當,掠鳳縣,出棧道,陷寶雞,關中賊復熾。既而奇瑜受賊降,檄諸軍勿擊。賊出險,遂大掠鳳翔、麟遊、寶雞、扶風、汧陽、乾州、涇陽、醴泉。奇瑜委罪國事以自解,國事上言:「漢南賊盡入棧道,奇瑜檄止兵,臣未知所撫實數。及見奇瑜疏,八大王部萬三千餘人,蠍子塊部萬五百餘人,張妙手部九千一百餘人,八大王又一部八千三百餘人,臣不覺仰天長嘆。夫一月內,撫強寇四萬餘,盡從棧道入內地,食飲何自出,安得無剽掠?且一大帥將三千人,而一賊魁反擁萬餘眾,安能受紀律?即藉口回籍,延安州縣驟增四萬餘人,安集何所?合諸征剿兵不滿二萬,而降賊逾四萬,豈內地兵力所能支,宜其連陷名城而不可救也。若咎臣不堵剿,則先有止兵檄矣;若雲賊已受撫,因誤殺使人致然,則未誤殺之先,何為破麟遊、永壽。今事已至此,惟急調大軍致討,若仍以願回原籍,禁兵勿剿,三秦之禍安所終極哉!」疏入,事已不可為,遂逮下獄。九年正月遣戍廣西。久之,敘前功,赦還,復冠帶。

福王の時、召されて戸部左侍郎となり、まもなく兵部に改められた。十二月、尚書を加えられ、なお侍郎の事に蒞った。翌年二月、致仕し、まもなく卒した。

原文福王時,召為戶部左侍郎,尋改兵部。十二月加尚書,仍蒞侍郎事。明年二月致仕,未幾卒。

丁啓睿

原文丁啟睿

丁啓睿は永城の人である。万暦四十七年の進士。崇禎初め、山東右参政を歴任し、事に坐して陜西副使に謫された。九年、寧夏で兵変が起こり、啓睿は巡撫王楫を殺した者の首悪六人を捕らえて斬り、軍中は大いに安定した。再び右布政使に遷り、関南を分守し、巡撫孫伝庭に従って賊を討った。

原文丁啟睿,永城人。萬曆四十七年進士。崇禎初,歷山東右參政,坐事謫陜西副使。九年,寧夏兵變,啟睿捕斬殺巡撫王楫者首惡六人,軍中大定。再遷右布政使,分守關南,從巡撫孫傳庭討賊。

十一年冬、そのまま右僉都御史に拝され、伝庭に代わって陜西を巡撫した。年々旱魃が続き、民はますます盗賊となり、長武・環・白水・長安・臨潼・咸陽で賊が起きて猬の毛のようであった。十三年、督師楊嗣昌の推薦により、兵部右侍郎兼右僉都御史に抜擢され、鄭崇儉に代わって陜西三辺軍務を総督し賊を討った。翌年、嗣昌が死ぬと、啓睿に兵部尚書を加え、督師と称を改め、嗣昌に代わって陜西・湖広・河南・四川・山西及び江南・北の諸軍をことごとく督し、なお陜西三辺軍務を総督することを兼ね、剣・勅書・印を嗣昌の如く賜った。

原文十一年冬,就拜右僉都御史,代傳庭巡撫陜西。歲頻旱,民益為盜,長武、環、白水、長安、臨潼、咸陽賊起如猬毛。十三年,用督師楊嗣昌薦,擢兵部右侍郎兼右僉都御史,代鄭崇儉總督陜西三邊軍務討賊。明年,嗣昌死,加啟睿兵部尚書,改稱督師,代嗣昌盡督陜西、湖廣、河南、四川、山西及江南、北諸軍,仍兼總督陜西三邊軍務,賜劍、敕、印如嗣昌。

啓睿は河西副使に謫されて以来、数度の昇進もすべて陜西においてであり、しかし実は庸才であった。総督・巡撫として、督師の期会に奉じ、謹慎して功過なく、督師として重任を専制するに至っては、すなわちどうしてよいかわからなかった。啓睿はすでに命を受けて潼関を出、承天より荊州の嗣昌の軍へ赴かんとした。湖広巡按汪承詔は言うに、大寇は河南にあり、荊・襄は幸い警報が止んでいる、大軍を煩わす必要はないと、漢津の船をことごとく隠した。啓睿が到着すると、五日間渡河できず、転じて鄧州に向かったが、州人は門を閉じて罵った。内郷を通ると、長吏は食糧の売買を閉ざした。軍は荒山の間を行き、馬騾を切り、野草で焼き、士卒は満腹に食べられなかった。この時、李自成はすでに洛陽を陥とし、開封を包囲し、七十万の衆を擁していた。啓睿は恐れて救援しようとしなかった。張献忠が光山・固始の間にいて、やや弱いと聞くと、諸将に謀って言うには、「上は我に豫賊を剿滅せよと命じた。これも豫賊である」と。ついに左良玉に檄を飛ばして麻城でこれを破り、千二百の首級を斬った。開封が日に日に急を告げると、言うには、「我は今献忠に当たっている。赴かない」と。傅宗龍が関に入り秦師を督しようとしていると聞くと、啓睿は「三辺にはすでに総督を置いた」と言い、帝に勅書を改めるよう乞い、ついに勅書を改めて宗龍に自成を討たせた。九月、宗龍は項城で敗死したが、啓睿は救えなかった。賊は勝ちに乗じて南陽を陥とし、唐王を殺し、開・汝二郡は風を望んで降った。十二月、自成は再び開封を包囲した。河南巡撫高名衡の飛檄が至り、啓睿は兵を督してこれに赴いたが、賊を避けて城に入り、部下は大いに淫掠した。総兵陳永福が自成を射て、その左目に命中させた。翌年正月、賊は包囲を解いて去った。

原文啟睿自謫河西副使,數遷皆在陜西,然實庸才。為督、撫,奉督師期會,謹慎無功過;及督師任重專制,即莫知為計。啟睿已受命出潼關,將由承天赴嗣昌軍於荊州。湖廣巡按汪承詔言大寇在河南,荊、襄幸息警,無煩大軍,盡匿漢津船。啟睿至,五日不得渡,折而向鄧州,州人閉門詬;過內鄉,長吏閉之糴。軍行荒山間,割馬騾,燎以野草,士啖不得飽。是時李自成已陷洛陽,圍開封,有眾七十萬,啟睿憚不敢援。聞張獻忠在光山、固始間,少弱,乃謀於諸將曰:「上命我剿豫賊,此亦豫賊也。」遂檄左良玉破之於麻城,斬首千二百。開封日告急,則曰:「我方有事於獻忠,不赴矣。」聞傅宗龍將入關督秦師,啟睿曰「三邊已置總督矣」,乞帝更敕書,乃更敕書宗龍辦自成。九月,宗龍敗歿於項城,啟睿不能救。賊乘勝陷南陽,殺唐王,開、汝二郡望風下。十二月,自成再圍開封。河南巡撫高名衡飛檄至,啟睿督兵赴之,避賊入城,部下大淫掠。總兵陳永福射自成,中其左目。明年正月,賊解圍去。

啓睿が許州にいた時、賊の接近を恐れ、ようやく開封へ赴いた。城を三十里離れたところで、城はすでに陥ちた。開封に着くと、門を開けて入ったが、賊がこれに乗じ、ほとんど陥ちるところであった。四月、自成は群賊を合わせて再び開封を攻めた。六月、帝は侯恂を獄より釈放し、援剿諸軍を督して開封を救うよう命じた。未だ到着せず、開封の包囲はますます急を告げた。帝はたびたび詔を下して啓睿を厳しく責めた。啓睿は已むなく、ついに良玉・虎大威・楊徳政・方国安の軍を大いに集め、保定総督楊文嶽とともに、七月に朱仙鎮で会し、賊の塁と相望んだ。賊の衆は百万、啓睿は戦おうとしたが、良玉は言うに、「賊の鋒は鋭い。撃つべからず」と。啓睿は言うに、「包囲はすでに急である。必ずこれを撃たねばならぬ」と。諸将は皆恐れた。良玉は帰営すると即ち先に走り、諸営もともに走り、啓睿と文嶽は騎を連ねて汝寧へ奔った。賊は河を渡ってこれを追い、四百里追撃した。馬騾七千、将士数万を喪い、啓睿の勅書・印・剣はことごとく失われた。事が聞こえると、詔して職を褫い、代わりを待たせた。九月、賊は馬家口の河を決壊させて開封を水攻めにし、開封はついに陥ちた。ついに吏に下して取り調べ、久しくして釈放して帰した。嗣昌の死より二年にして啓睿は敗れ、啓睿の敗れよりまた二年にして明は亡びた。

原文啟睿之在許州也,畏賊逼,始赴開封。離城三十里,而城即破。其抵開封,啟門入,賊乘之,幾陷。四月,自成合群賊復攻開封。六月,帝釋侯恂於獄,命督援剿諸軍救開封。未至,開封圍益急。帝數詔切責啟睿。啟睿不得已,乃大集良玉、虎大威、楊德政、方國安之軍,偕保定總督楊文嶽,以七月會於朱仙鎮,與賊壘相望。賊眾百萬,啟睿欲戰,良玉曰:「賊鋒銳,未可擊也。」啟睿曰:「圍已急,必擊之。」諸將皆懼。良玉歸營即先走,諸營俱走,啟睿、文嶽聯騎奔汝寧。賊渡河逐之,追奔四百里。喪馬騾七千,將士數萬,啟睿敕書、印、劍俱失。事聞,詔褫職候代。九月,賊決馬家口河灌開封,開封遂陷,乃征下吏,久之釋歸。自嗣昌死二年而啟睿敗,啟睿敗又二年而明亡矣。

福王の時、啓睿は馬士英に縁故を求めて事官となり、河南の勧農・剿寇の諸務を督した。まもなく帰徳の偽官を擒斬した功により、兵部尚書に拝され、太子太保を加えられ、その一子を官とした。事敗れると、身を脱して郷里に帰り、久しくして卒した。

原文福王時,啟睿夤緣馬士英充為事官,督河南勸農、剿寇諸務。尋以擒斬歸德偽官,拜兵部尚書,加太子太保,官其一子。事敗,脫身旋裏,久之卒。

従父の魁楚は、崇禎四年の春、右僉都御史として保定を巡撫した。七年、兵部右侍郎に抜擢され、傅宗龍に代わって薊・遼・保定の軍務を総督した。九年七月、畿輔が兵乱に遭い、魁楚は官吏に連座して免職となり、長い後放免されて帰還した。福王の時、元の官職に起用され、河南・湖広を総督し、兼ねて承天・徳安・襄陽を巡撫することとなった。赴任しないうちに、両広総督の沈猶龍が侍郎として朝廷に入ることとなり、魁楚はついにその任を代行した。まもなく兵部尚書を加えられた。唐王が福州で自立すると、元の官職のまま戎政を協理するよう命じられた。靖江王の亨嘉が桂林で反乱を起こし、梧州を陥落させ、巡撫の瞿式耜を捕らえた。魁楚は思恩参将の陳邦傳らに檄を飛ばしてこれを襲撃し敗走させ、桂林で捕らえた。魁楚は平粵伯に封ぜられ、依然として両広に留まって鎮守した。閩中の事態が敗れると、式耜とともに肇慶で桂王を擁立し、東閣大学士に進み、兼ねて戎政を管理した。大清兵が広州を落とし、次第に肇慶に迫った。魁楚は王を奉じて梧州に逃れ、さらにこれを棄てて岑渓に逃れた。輜重しちょうが多く、船が連なっていたため、大将の李成棟に追撃され捕らえられ、魁楚はついに降伏した。成棟は彼と不和があったので、その家の数百人を記録して殺害し、魁楚は一子の命乞いをしたが、成棟は笑って言った、「汝の身すら保てないのに、まだ生き残りを求めるのか?」と言い、ともに殺した。

原文從父魁楚,崇禎四年春,以右僉都御史巡撫保定。七年,擢兵部右侍郎,代傅宗龍總督薊、遼、保定軍務。九年七月,畿輔被兵,魁楚坐下吏,久之放還。福王時,起故官,總督河南、湖廣,兼巡撫承天、德安、襄陽。未赴,會兩廣總督沈猶龍入為侍郎,魁楚竟代其任。尋加兵部尚書。唐王自立於福州,命以故官協理戎政。靖江王亨嘉反桂林,下梧州,執巡撫瞿式耜。魁楚檄思恩參將陳邦傳等襲走之,獲於桂林。封魁楚平粵伯,仍留鎮兩廣。閩中事敗,與式耜擁立桂王於肇慶,進東閣大學士,兼理戎政。大清兵下廣州,漸迫肇慶。魁楚奉王走梧州,復棄之,走岑溪。輜重多,舳艫相屬,為大將李成棟追獲,魁楚遂降。成棟與有隙,錄其家數百人殺之,魁楚乞一子,成棟笑曰:「汝身且莫保,尚求活人耶?」並殺之。

鄭崇儉

原文鄭崇儉

鄭崇儉は、字を大章といい、寧郷の人である。万暦四十四年に進士となった。河南府推官に任じられ、済南兵備副使を歴任した。崇禎初年、陝西右参政に転じた。たびたび昇進して右僉都御史となり、寧夏を巡撫した。たびたびオルドスの賊を破り、銀貨を賜り、世襲の錦衣副千戸の恩蔭を受けた。

原文鄭崇儉,字大章,寧鄉人。萬曆四十四年進士。授河南府推官,歷濟南兵備副使。崇禎初,遷陜西右參政。屢遷右僉都御史,巡撫寧夏。數敗套寇,賚銀幣,世蔭錦衣副千戶。

十二年正月、兵部右侍郎に抜擢され、洪承疇に代わって陝西三辺の軍務を総督した。五月、張献忠が谷城で反乱を起こし、羅汝才らの九営も皆反乱し、興安が危急を告げた。総理の熊文燦は、楚撫の方孔炤に荊門・当陽を防がせ、鄖撫の王鰲永に江陵・遠安を防がせ、陝撫の丁啓睿・蜀撫の邵捷春にそれぞれ自らの境で厳重に兵備を整えるよう勅命を請うた。しかし崇儉は兵を率いて合撃することを主張し、当時、固原・臨洮・寧夏の三総兵である左光先・曹変蛟・馬科は承疇に従って京師を守衛しており、柴時華は途中で甘粛に戻り、徴発に応じなかったので、崇儉は副将の賀人龍・李国奇らの軍に檄を飛ばして西安から出撃させた。国奇が洛陽に至ると、兵卒が大いに騒ぎ、瑞王の租税を掠奪した。国奇はすでに陝西総兵官に抜擢されていたが、新たな任命を停止され、崇儉もまた一階級降格された。

原文十二年正月,擢兵部右侍郎,代洪承疇總督陜西三邊軍務。五月,張獻忠反谷城,羅汝才等九營皆反,興安告警。總理熊文燦請敕楚撫方孔炤防荊門、當陽,鄖撫王鰲永防江陵、遠安,陜撫丁啟睿、蜀撫邵捷春各嚴兵於其境。而崇儉主提兵合擊,時固原、臨洮、寧夏三總兵左光先、曹變蛟、馬科隨承疇人衛,柴時華中道還甘肅,征之不應,崇儉乃檄副將賀人龍、李國奇等軍發西安。國奇至洛陽,卒大噪,剽瑞王租。國奇已擢陜西總兵官,坐停新命,崇儉亦貶一秩。

献忠が反乱を起こすと、房県の羅英山で左良玉軍を大いに破り、陝西に入ろうと謀った。崇儉は人龍・国奇の軍を率いて興安でこれを防ぎ、賊は引き返して興山・太平に逃れ、楚と蜀の境に身を置いた。この時、楊嗣昌はすでに出師し、文燦の軍に入ってこれを代行していた。先に、尚書の傅宗龍が崇儉に蜀軍をも兼ねて督させるよう議し、また嗣昌も秦軍に蜀に入るよう檄を飛ばしていた。崇儉はそこで十三年二月、人龍・国奇を率いて良玉と合流し、瑪瑙山で賊を大いに破り、斬首の功千三百三十三、賊将二十五人を降伏させ、馬騾・甲仗を数えきれないほど捕獲した。この戦役で、崇儉は自ら陣中にいたが、嗣昌は遠く襄陽にいた。功績を論ずるに及んで、賜ったものは嗣昌の半分に過ぎず、ただ一階級を増すだけで、先に降格された一階級を回復したに過ぎなかった。

原文獻忠既叛,大敗左良玉軍於房縣之羅英山,謀入陜。崇儉率人龍、國奇軍扼之興安,賊還走興山、太平,處楚、蜀交。是時,楊嗣昌已出師,入文燦軍而代之矣。先是,尚書傅宗龍議令崇儉兼督蜀軍,而嗣昌亦檄秦軍入蜀。崇儉乃以十三年二月率人龍、國奇會良玉大敗賊於瑪瑙山,獲首功千三百三十有三,降賊將二十有五人,獲馬騾、甲仗無算。是役也,崇儉身在行,而嗣昌遠處襄陽。及論功,所賜半嗣昌,但增一秩,復先所降一秩而已。

献忠が敗れると、柯家坪に逃げ込み、蜀将の張令がこれを追撃したが、包囲された。崇儉は兵を遣わして賊を撃退し、人龍・国奇らはさらに追撃して寒渓寺・塩井でこれを破り、先後して千五百級を斬首し、その与党の順天王・一条龍・一隻龍は皆降伏した。崇儉の軍は五日で三度勝利し、威名は大いに振るった。年老いて衰えたことを理由に致仕を願い出たが、許されず、総兵の鄭家棟を率いて関中に戻るよう命じられ、人龍・国奇を留めて賊を討たせた。

原文獻忠既敗,竄柯家坪,蜀將張令追之,被圍。崇儉遣兵擊走賊,人龍、國奇等復追敗之寒溪寺、鹽井,先後斬首千五百級,其黨順天王、一條龍、一隻龍皆降。崇儉軍五日三捷,威名甚振。以年衰乞骸骨,不許,令率總兵鄭家棟還關中,留人龍、國奇討賊。

この時、献忠は興山・帰州の山中に潜伏していた。秦・楚の軍はともに夔州に集結し、諸将が心を合わせて深い竹林を窮め探せば、千余りの残賊をことごとく殲滅できた。崇儉が去ってまもなく、人龍の軍もまた開県から騒ぎを起こして西に帰還し、楚軍はついに土地嶺で大敗し、蜀中はこれにより大いに乱れた。嗣昌はそこで崇儉が兵を引き上げるのが早すぎて、賊を猖獗させたと上言した。帝は初め崇儉が軍を統御できないことを不満に思っていたが、この時になって官籍を削除し、啓睿を軍前に赴かせて代理とし、崇儉が病気と称したことを疑い、按臣に実情を調査させた。翌年の春、献忠が襄陽を陥落させ、嗣昌が死ぬと、帝はますます崇儉が賊を挟撃して平定しなかったことを恨み、獄に下し、兵を放任して勝手に帰還させ、軍律を失ったことを責めた。秋を待たず、五月に斬首刑に処した。

原文當是時,獻忠竄伏興、歸山中。秦、楚師俱集於夔,諸將協心窮搜深箐,千餘殘寇可盡殲。崇儉既去,未幾,人龍軍亦自開縣噪而西歸,楚師遂敗績於土地嶺,蜀中由是大亂。嗣昌因言崇儉撤兵太早,致賊猖獗。帝初以崇儉不能馭軍,不悅,及是命削籍,以啟睿赴軍前代理,而疑崇儉托疾,令按臣核實。明年春,獻忠陷襄陽,嗣昌死,帝益恨崇儉不掎角平賊也,逮下獄,責以縱兵擅還,失誤軍律。不俟秋後,以五月棄市。

帝は即位以来、総督七人を誅殺したが、崇儉および袁崇煥・劉策・楊一鵬・熊文燦・范志完・趙光抃である。帝は賊が日に日に勢いを増すことに憤り、法の適用をますます厳しくし、功罪を容赦せず、辺境の事態は次第に悪化し、ついに滅亡に至った。福王の時、給事中の李清が言うには、「崇儉は一城も失わず、一軍も喪わなかったのに、他人が巧みに責任を転嫁したため、ついに極刑に服した。群臣は微かにその冤罪を知っていたが、敢えて公言する者もなく、臣は甚だ痛む」と。崇儉の冤罪はようやく晴れた。

原文帝自即位以來,誅總督七人,崇儉及袁崇煥、劉策、楊一鵬、熊文燦、范志完、趙光抃也。帝憤寇日熾,用法益峻,功罪不假貸,而疆事寢壞,卒至於亡。福王時,給事中李清言:「崇儉未失一城、喪一旅,因他人巧卸,遂服上刑。群臣微知其冤,無敢訟言者,臣甚痛之。」崇儉冤始白。

方孔炤

原文方孔炤

方孔炤は、字を潛夫といい、桐城の人である。万暦四十四年に進士となった。天啓初年、職方員外郎となった。崔呈秀に逆らい、官籍を削除された。

原文方孔炤,字潛夫,桐城人。萬曆四十四年進士。天啟初,為職方員外郎。忤崔呈秀,削籍。

崇禎元年、元の官職に起用された。憂いにより帰郷した。桐城の民変を平定し、朝廷に戻った。十一年、右僉都御史として湖広を巡撫し、承天で賊の李万慶・馬光玉・羅汝才を撃ち、八戦八勝した。当時、文燦は献忠の降伏を受け入れ、谷城に置いていた。孔炤は八つの建議を条陳し、主撫の誤りを説いたが、聞き入れられず、ひそかに兵馬を整えて戦守に備えた。やがて賊は果たして反乱し、孔炤の言う通りとなった。賊はもとより孔炤を恐れ、東進しようとせず、文燦はそこで孔炤に荊門・当陽を防がせ、鰲永に江陵・遠安を防がせ、秦・蜀はそれぞれ厳重に兵備を整えさせた。崇儉が合撃を主張したので、孔炤はそこで徳安・黄州を専断し、承天を守り、献陵を護ることを請うた。一方で江・漢以南は鰲永に責任を負わせた。ちょうど嗣昌が文燦に代わり、孔炤に依然として当陽に駐屯するよう命じた。恵王の常潤が言うには、「孔炤は献忠を阻み、来家河・神通堡での勝利があり、賊の首魁馬光玉に射当て、陵寢が無事であった。官位を増して長く任に留めるよう請う」と。上奏文は部に下されたが、返答しないうちに、部将の楊世恩・羅安邦が徴発を受け、川・沅の兵と合流して竹山の賊を討伐した。両将は深く入り込み、香油坪に至って敗れた。嗣昌はすでに孔炤の撫議が自分と異なることを不快に思い、またその言が的中したことを妬み、そこで事に因って独り孔炤を弾劾し、詔獄に下した。子の検討官である以智は、国変の後、家を棄てて僧となり、無可と号した者であるが、宮門に伏して父の冤罪を訴え、砂利の上を膝行して二年に及んだ。帝は心を動かされ、議を下し、孔炤の陵寢護衛の功績が多いとして、死刑を減じて紹興に流刑とした。長い後、推薦により官職に復し、右僉都御史として山東・河北で屯田した。急いで済南に至り、さらに軍務を兼ねて管理するよう命じられ、大名・広平の二監司を督して賊を防がせた。命令が下ったばかりで京師が陥落し、孔炤は南に奔った。馬士英・阮大鋮が政を乱すと、帰郷して隠居し、十余年後に没した。

原文崇禎元年,起故官。憂歸。定桐城民變,還朝。十一年,以右僉都御史巡撫湖廣,擊賊李萬慶、馬光玉、羅汝才於承天,八戰八捷。時文燦納獻忠降,處之谷城。孔炤條上八議,言主撫之誤,不聽,而陰厲士馬備戰守。已而賊果叛,如孔炤言。賊故畏孔炤,不敢東,文燦乃檄孔炤防荊門、當陽,鰲永防江陵、遠安,秦、蜀各嚴兵。崇儉主合擊,孔炤乃請專斷德、黃,守承天,護獻陵;而江、漢以南責鰲永。會嗣昌代文燦,令孔炤仍駐當陽。惠王常潤言:「孔炤遏獻忠,有來家河、神通堡之捷,射中賊魁馬光玉,陵寢得無虞。請增秩久任。」章下部,未奏,而部將楊世恩、羅安邦奉調,會川、沅兵剿竹山寇。兩將深入,至香油坪而敗。嗣昌既以孔炤撫議異己也,又忮其言中,遂因事獨劾孔炤,逮下詔獄。子檢討以智,國變後,棄家為僧,號無可者也,伏闕訟父冤,膝行沙塸者兩年。帝為心動,下議,孔炤護陵寢功多,減死戍紹興。久之,用薦復官,以右僉都御史屯田山東、河北。馳至濟南,復命兼理軍務,督大名、廣平二監司禦賊。命甫下而京師陷,孔炤南奔。馬、阮亂政,歸隱十餘年而終。

先に、陵寢を失守したことで重い譴責を受けた者がいた。楊一鵬である。一鵬は臨湘の人である。大理寺丞を歴任し、官籍を削除された。崇禎六年、兵部左侍郎から戸部尚書兼右僉都御史に任ぜられ、漕運を総督し、江北四府を巡撫した。鳳陽の軍民はもとより、守陵太監の楊沢の貪虐を憎み、賊を引き入れて来寇させた。八年正月、賊はついに鳳陽を攻め落とし、皇陵を焼き、龍興寺を焼き、公私の邸宅二万二千六百五十を焼き払い、中都留守の朱国相・指揮使の程永寧ら四十一員を殺害し、軍民数万人を殺した。

原文先是,有以陵寢失守獲重譴者,為楊一鵬。一鵬,臨湘人。歷官大理寺丞,削籍。崇禎六年,以兵部左侍郎拜戶部尚書兼右僉都御史,總督漕運,巡撫江北四府。鳳陽軍民素疾守陵太監楊澤貪虐,引賊來寇。八年正月,賊遂攻陷鳳陽,焚皇陵,燒龍興寺,燔公私邸舍二萬二千六百五十,戮中都留守朱國相、指揮使程永寧等四十有一員,殺軍民數萬人。

先に、賊が次第に江北に迫り、兵部尚書張鳳翼が一鵬に鳳陽に移鎮するよう勅命を下すことを請うたが、溫體仁がその議を阻んだ。賊が急に至り、一鵬は淮安におり、遠くて救うに及ばなかった。帝は変事を聞いて大いに驚き、素服で殿を避け、自ら太廟に祭告し、遂に一鵬及び巡按御史呉振纓・守陵官の澤を捕らえた。澤は先に自殺し、一鵬は市で斬られ、振纓は辺境に流された。

原文先是,賊漸逼江北,兵部尚書張鳳翼請敕一鵬移鎮鳳陽,溫體仁格其議。賊驟至,一鵬在淮安,遠不及救。帝聞變大驚,素服避殿,親祭告太廟,遂逮一鵬及巡按御史吳振纓、守陵官澤。澤先自殺,一鵬棄市,振纓戍邊。

邵捷春

原文邵捷春

邵捷春は、字を肇復といい、侯官の人である。萬曆四十七年の進士。累官して稽勲郎中となった。

原文邵捷春,字肇復,侯官人。萬曆四十七年進士。累官稽勛郎中。

崇禎二年、出て四川右參政となり、川南を分守し、天全六番の高・楊の二氏を撫定した。浙江按察使に遷る。大計の際、坐して貶せられた。久しくして、四川副使として起用され、十年の秋に成都に着任した。時に秦の賊は既に蜀に入り、巡撫王維章・総兵侯良柱が全軍を率いて北に拒い、城中には屯田軍及び蜀王府の護衛軍のみで、人情は恐れおののき、捷春は城門を開いて賊を避ける郷民を受け入れた。中尉の奉鐕が賊を誘き寄せて城下に至ると、捷春は御史陳廷謨と共に奉鐕を捕らえて撃ち、市人を募り、廃将を起用して固守した。賊が去ると、蜀王がその功績を上疏した。折しも維章が罷免され、傅宗龍が代わり、捷春に監軍を命じ、総兵羅尚文と共に賊を撃たせた。翌年、尚文及び安錦副使の呉麟征が賊の過天星らを大破した。捷春は右參政に進み、引き続き監軍を務めた。

原文崇禎二年,出為四川右參政,分守川南,撫定天全六番高、楊二氏。遷浙江按察使。大計,坐貶。久之,起四川副使,以十年秋抵成都。時秦賊已入蜀,巡撫王維章、總兵侯良柱悉眾北拒,城中惟屯田軍及蜀府護衛軍,人情恇懼,捷春啟門納鄉民避賊者。中尉奉鐕勾賊抵城下,捷春與御史陳廷謨擒擊奉鐕,而募市人、起廢將固守。賊去,蜀王疏其功。會維章罷,傅宗龍代,命捷春監軍,偕總兵羅尚文擊賊。明年,尚文及安錦副使吳麟征大破賊過天星等。捷春進右參政,仍監軍。

十二年五月、宗龍が中樞に入って掌ると、即座に捷春を右僉都御史に抜擢して代わらせた。時に張献忠・羅汝才は既に叛き、秦に入らんと謀っていた。秦の兵が興安でこれを扼したため、興山及び蜀の太平を犯し、遂に大寧を窺った。捷春は副将の王之綸・方國安を分遣してこれを扼させた。國安が連続して賊を破ったため、賊は秦・楚に還って入った。十月朔、楊嗣昌が襄陽で誓師し、檄を飛ばして蜀軍に節度を受けるよう命じた。嗣昌は楚の地が広く平坦で賊を制し難いと考え、賊を蜀に駆り込み、蜀は険阻で賊が思い通りにならず、追い詰めて全勝を得ようとし、また蜀の重兵が険を扼すれば賊が楚に毒を返すことを慮り、蜀の精鋭一万余りを調発して己が用に充てたため、蜀中の兵卒はこれより益々疲弊弱体化して支えきれなくなった。捷春は憤って言った、「法令では一城を失えば巡撫が罪に坐す。今蜀を賊に委ねるとは、督師が我を殺すことである」と。争ったが、聞き入れられなかった。ここにおいて汝才・惠登相が興山・遠安より大寧・大昌を犯し、献忠も西進して太平に至った。翌年二月、左良玉が献忠を瑪瑙山で大破し、他の将の張応元・張令らもまた数度これを破った。献忠は興山・帰州の山中に逃れた。久しくして再び勢いを盛り返し、汝才と共に寧昌の旧道を通って西に走った。

原文十二年五月,宗龍入掌中樞,即擢捷春右僉都御史代之。時張獻忠、羅汝才已叛,謀入秦。秦兵扼之興安,乃犯興山及蜀太平,遂窺大寧。捷春遣副將王之綸、方國安分道扼之。國安連破賊,賊遂還入秦、楚。十月朔,楊嗣昌誓師襄陽,檄蜀軍受節度。嗣昌以楚地廣衍,賊難制,驅使入蜀,蜀險阻,賊不得逞,蹙之可全勝,又慮蜀重兵扼險,賊將還毒楚,調蜀精銳萬餘為己用,蜀中卒自是益疲弱不足支矣。捷春憤曰:「令甲失一城,巡撫坐。今以蜀委賊,是督師殺我也。」爭之,不能得。於是汝才、惠登相遂自興山、遠安犯大寧、大昌,獻忠亦西至太平。明年二月,左良玉大破獻忠瑪瑙山,他將張應元、張令等復數敗之。獻忠乃逃興、歸山中。久之復振,由汝才入寧昌故道走而西。

初め、汝才は寧昌で江に阻まれ、諸将の劉貴・秦良玉・秦翼明・楊茂選らに拒まれて渡ることができなかった。折しも献忠が西来したので、遂に合流した。貴らの軍は皆戦って退き、賊は江を渡り、萬頃山・苦桃灣に営し、その別部は紅茨崖・青平砦に営し、帰州・巫山の間は大いに震動した。嗣昌は夷陵に上り、檄を飛ばして捷春に夔門を扼させた。蜀の大寧・大昌は楚の竹溪・房縣と境を接し、三十二の隘口があったが、嗣昌は兵力を厚く集めて専ら夔を守り、寧・昌を棄てて賊に喰わせ、官軍がこれを包囲攻撃しようとした。捷春は言った、「隘口を棄てて守らぬは、賊を戸口に招き入れることである」と。そこで茂選及び覃思岱らを遣わして関を出て分守させた。二将は仲が悪く、思岱が茂選を鐕殺したので、捷春は思岱にその軍を兼ねて統率させたが、その兵卒は相率いて去った。賊が隘口に入ると、守備兵は潰え、賊は夜に夔関を斬り開き、将士は大いに驚いて潰走し、新寧・大竹は皆陥落した。一方、汝才・登相は巴霧河を越え、開縣を陥とし、鄭嘉棟・賀人龍に破られた。汝才は小秦王・混世王と共に東奔し、登相だけが開縣を過ぎて西進した。人龍及び李國奇がまた西進してこれを追い、汝才らは遁走して興山に戻り、屡々挫かれた。折しも嗣昌が招降令を下し、小秦王・混世王は皆降ったが、汝才だけは逃げ去った。嗣昌は楚の地に賊がいないのを見て、八月末に軍を率いて蜀に入り、ここにおいて群賊は尽く蜀中に集結した。

原文初,汝才在寧昌阻江,為諸將劉貴、秦良玉、秦翼明、楊茂選等所拒,不得渡。會獻忠西,遂與合。貴等戰皆卻,賊乃渡江,營萬頃山、苦桃灣,其別部營紅茨崖、青平砦,歸、巫間大震。嗣昌乃上夷陵,而檄捷春扼夔門。蜀大寧、大昌界楚竹溪、房縣,有三十二隘口,嗣昌欲厚集兵力專守夔,棄寧、昌啖賊,官軍環攻之。捷春曰:「棄隘口不守,是延賊入戶也。」乃遣茂選及覃思岱等出關分守。二將不相得,思岱鐕殺茂選,捷春令兼統其眾,其眾相率去。賊入隘,守者潰,賊夜斬夔關,將士大驚潰,新寧、大竹皆陷。而汝才、登相越巴霧河,陷開縣,為鄭嘉棟、賀人龍所破。汝才乃與小秦王、混世王東奔,而登相獨過開縣西。人龍及李國奇又西追之,汝才等遁還興山,屢挫。會嗣昌下招降令,小秦王、混世王皆降,惟汝才逸去。嗣昌見楚地無賊,以八月終率師入蜀,於是群賊盡萃蜀中。

この時、捷春は弱卒二万を率いて重慶を守り、頼みとしたのは秦良玉・張令の軍のみであった。間もなく、秦の軍が騒ぎを起こして西帰し、楚の将張応元らが夔州の土地嶺で敗北した。ここにおいて捷春は、大昌の上・中・下馬渡は水浅く地が平らで持久戦に難いと考え、水寨の観音巖を扼して第一の隘とし、部将の邵仲光にこれを守らせた。そして夜叉巖・三黄嶺・磨子巖・魚河洞・下湧の諸所には、それぞれ兵三四百人を分けて守らせた。萬元吉は兵力分散で力が弱まることを憂えたが、捷春は聞き入れなかった。九月、献忠が突如として仲光の軍を破り、上馬渡を陥とした。元吉は急ぎ諸将に檄を飛ばして分かれて邀撃させ、また張奏凱に凈壁に屯させ、捷春は二将の羅洪政・沈応龍を助けに遣わした。十月、献忠が凈壁を急襲し、遂に大昌を陥とし、開縣に屯した。良玉・令の両軍は皆覆没した。賊は行軍時には哨探を出し、停止時には馬を休め糧を掠めた。関隘の偵察が不十分で、防軍が戍所から遠く離れることもあり、賊は隙を乗じて無人の境を通過した。嗣昌は遂に仲光を捕らえて斬り、上疏して捷春の失事を弾劾した。捷春は兵を収めて梁山を扼した。時に登相は既に帰順していたが、汝才は再び献忠と合流し、梁山河が深く渡れないため、開縣より西走して達州に向かった。捷春は退いて綿州を保ち、涪江を扼した。賊は疾走して劍州を陥とし、遂に広元に向かい、間道より漢中に入らんとしたが、秦の兵に扼せられ、再び巴西に走った。応元ら諸軍が梓潼でこれを邀撃し、小勝したが、やがて敗れ、蜀将の曹誌耀らが力戦してこれを退けた。降将の張一川・張載福は陣に陥って死に、涪江の軍は遂に潰え、賊は綿州を屠った。捷春は成都に帰り、賊は成都に迫った。十一月、捷春を逮捕する使者が到着し、遂に軍事を代行者廖大亨に託して去った。

原文當是時,捷春提弱卒二萬守重慶,所倚惟秦良玉、張令軍。無何,秦師噪而西歸,楚將張應元等敗績於夔州之土地嶺。於是捷春以大昌上、中、下馬渡水淺地平,難與持久,乃扼水寨觀音巖為第一隘,以部將邵仲光守之。而夜叉巖、三黃嶺、磨子巖、魚河洞、下湧諸處,各分兵三四百人以守。萬元吉以兵分力弱為憂,捷春不聽。九月,獻忠突敗仲光軍,破上馬渡。元吉急檄諸將分邀之,復令張奏凱屯凈壁,捷春遣二將羅洪政、沈應龍為助。十月,獻忠突凈壁,遂陷大昌,屯開縣。良玉、令兩軍皆覆。賊行則哨探,止則息馬抄糧。關隘偵候不明,防軍或遠離戍所,賊乘隙而過無人之境。嗣昌遂收斬仲光,上疏劾捷春失事。捷春收兵扼梁山。時登相已歸正,而汝才復與獻忠合,以梁山河深不能渡,乃自開縣西走達州。捷春退保綿州,扼涪江。賊疾走,陷劍州,遂趨廣元,將由間道入漢中,為秦兵所扼,乃復走巴西。應元諸軍邀之梓潼,戰小利,既而衄,蜀將曹誌耀等力戰卻之。降將張一川、張載福陷陣死,涪江師遂潰,賊屠綿州。捷春歸成都,賊逼成都。十一月,逮捷春使者至,遂以軍事付代者廖大亨而去。

捷春は人となり清く謹直で、蜀を治めて善政があった。士民が泣いて見送る者が道に満ち、舟は進むことができず、競って官旗を追い散らした。蜀王が上疏して救おうとしたが、聞き入れられなかった。勅命により巡按御史が官を遣わして京師に送り、獄に下して死罪と論じた。捷春は逃れられぬと知り、翌年八月に獄中で仰薬して死んだ。福王の時、官職を回復し、兵部右侍郎を追贈された。

原文捷春為人清謹,治蜀有惠政。士民哭送者載道,舟不得行,競逐散官旗。蜀王為疏救,不聽。敕巡按御史遣官送京師,下獄論死。捷春知不可脫,明年八月仰藥死獄中。福王時,復官,贈兵部右侍郎。

余応桂

原文余應桂

余応桂は、字を二磯といい、都昌の人である。萬曆四十七年の進士。武康・龍巖・海澄の三縣の知縣を歴任した。

原文余應桂,字二磯,都昌人。萬曆四十七年進士。歷知武康、龍巖、海澄三縣。

崇禎四年、召されて御史に任じられた。戸部尚書畢自嚴が朋比していることを弾劾し、殿試の読巻で陳於泰を第一に取った。於泰は、首輔周延儒の姻戚である。延儒が孫元化から人参・貂皮を納め、楊鶴から重賂を受けたことを弾劾した。帝はちょうど延儒を寵眷していたため、応桂を責めた。間もなく、賊が登州を陥とし、元化が捕らえられると、応桂は再び上疏して延儒を弾劾した。帝は怒り、三階降格して視事させ、応桂は病を理由に帰郷した。

原文崇禎四年,征授御史。劾戶部尚書畢自嚴朋比,殿試讀卷,取陳於泰第一。於泰者,首輔周延儒姻也。劾延儒納孫元化參、貂,受楊鶴重賂。帝方眷延儒,責應桂。未幾,賊陷登州,元化被執,應桂再疏劾延儒。帝怒,貶三秩視事,應桂引疾歸。

七年に朝に戻り、出て湖広を按察し、承天に居て守った。贖鍰十余万を捐じて壮士を募り、城を繕い兵器を整えたため、賊は献陵に迫ることができなかった。帝はこれを聞いて賞賛した。任期が満ちると、命じてさらに一年巡視させた。贖鍰一万五千を送って盧象昇の軍需を助け、所属する城の失事を奏報するに、全て実情を以て報告した。帝はこれによって巡撫王夢尹の詐りを知り、益々応桂を信じた。任期が満ちると、命じてさらに一年巡視させた。十年、即座に応桂を右僉都御史に抜擢し、夢尹に代わらせた。

原文七年還朝,出按湖廣,居守承天。捐贖鍰十餘萬募壯士,繕城治器,賊不敢逼獻陵。帝聞而嘉之。期滿,命再巡一年。貽贖鍰萬五千助盧象昇軍需,而奏報屬城失事,具以實聞。帝以是知巡撫王夢尹詐,而益信應桂。期滿,命再巡一年。十年,即擢應桂右僉都御史,代夢尹。

この時、諸監司の袁継咸・包鳳起・高鬥樞らは既に湖南の群賊を平定していたが、江北の賊勢は日に日に盛んとなり、諸将は勝利を奏上するも、大いに打撃を与えることはできなかった。帝は熊文燦を総理に任命し、文燦は招撫を主とした。翌年、その渠魁劉国能・張献忠を降した。馬進忠は西へ潼関へ走り、馬光玉・賀一龍・李万慶・順義王・九条龍の衆十余万は麻城・黄安に集結した。応桂は光玉・一龍を諭して降そうとしたが、未だ到らぬうちに、将を遣わして順天王らを黄福店で撃ち、賊は遂に黄安へ走った。時に文燦が麻城に到着し、応桂は協同して撃つことを請うたが、従わなかった。賊は再び東へ江北へ走ったが、左良玉に阻まれ、転じて広済・蘄水へ走った。文燦は諸道の兵に檄を飛ばし茶山で賊を合撃させたが、賊は応桂の分担地から逃れ、文燦は遂に彼が期に遅れて軍を誤ったと弾劾した。兵部尚書楊嗣昌は応桂がかつて自分の父の楊鶴を弾劾したことから、彼を逮捕するよう上奏した。応桂はそこで招撫と剿討の経緯を陳べ、己の無罪を訴え、文燦を誹謗して言うには、

原文當是時,諸監司袁繼咸、包鳳起、高鬥樞輩已削平湖南群賊,而江北賊勢日熾,諸將雖奏捷,不能大創也。帝命熊文燦為總理,文燦主撫。明年,降其渠劉國能、張獻忠。馬進忠西走潼關,馬光玉、賀一龍、李萬慶、順義王、九條龍眾十餘萬萃麻城、黃安。應桂諭降光玉、一龍,未至,而遣將擊順天王等於黃福店,賊遂走黃安。會文燦至麻城,應桂請協擊,不從。賊復東走江北,為左良玉所遏,折而走廣濟、蘄水。文燦檄諸道兵合擊賊於茶山,賊逸於應桂所分地,文燦遂劾其後期誤軍。兵部尚書楊嗣昌以應桂曾劾其父鶴也,奏逮之。應桂乃陳撫剿始末,白己無罪,而詆文燦,言:

正月の初め、劉国能を招撫することを議し、その党の李万慶ら諸大賊は尽く泌陽・棗陽へ走った。時に文燦・良玉は共に徳安にいた。臣は兵勢が正に盛んなので、これに乗じて追剿すべきと考えたが、文燦は良玉の諸軍を尽く信陽に調遣して馬進忠を剿討させた。臣は進忠は小寇であり、勝っても武勇とは言えぬと述べたが、文燦は聞き入れなかった。ここから機会を一度失い、賊は西へ走り、文燦は東へ向かい、張献忠が谷城を攻め落として招撫を要求し、李万慶の五部が残党を収めて勢いを再び振るうこととなった。そして河南・湖広の禍患は、遂に文燦の諫めを顧みぬことからもたらされたのである。賊が西へ潰走した後、事実を隠して上聞し、虚偽の斬首数を報告した。彼が自ら恃むところはただ火炮火攻のみで、通過する州県で用いる人夫は八百に及び、死亡する者が道に満ちたが、一度も試みたところを見ない。

原文正月初,議撫劉國能,其黨李萬慶等諸大賊盡走泌陽、棗陽。時文燦、良玉並在德安。臣以為兵勢方盛,宜乘此追剿,而文燦調良玉諸軍盡赴信陽剿馬進忠。臣謂進忠小寇,勝之不武,文燦不聽。自此機一失,賊走西,而文燦東,致張獻忠攻陷谷城以要撫,李萬慶五部收余燼,勢復振。而豫、楚之患,遂自文燦之愎諫貽之矣。迨賊西潰之後,遮飾上聞,妄報斬級。其自恃所長惟火炮火攻,經過州縣用夫至八百,死亡載道,未見其一試也。

かつ文燦の賊を処理する策は「先ず撫し後に剿す」というものであった。ところが茶山では効果なく、麻城でもまた効果なく、ただ招撫の旗が道に続くのを見るのみである。一度使者を遣わして賀一龍を招いたが、使者は殺害され、一度使者を遣わして李万慶を招いたが、塩や胡椒を贈り魚肉を運んで交易をしたところ、賊はかえってこれに乗じて焚掠し、一人の賊が帰順するのを見ない。天下にこのような撫法があろうか。その一切の軍需は、歴訪した役所から悉く取り立て、名目は「借辦」といい、城市を空虚にし、残った者も尽く絶えさせた。三月に麻城に至ると、民は淫掠に耐えかね、その役所を焼こうとし、ようやくよろめきながら逃走した。麻城は文燦の婿の家である。姻戚の里でこのような有様であるから、他の地は推して知ることができる。三月に蘄水にいた時、その兵が郷民を殺して勝利を報告し、民家は取り囲んで泣いたが、遂に一人の兵も処罰できなかった。蘄水は文燦の家郷である。郷里でこのような有様であるから、他の地は推して知ることができる。このように勝利の報告は日に日に誇張され、賊の勢いはますます盛んとなった。十三家の賊は南陽・汝寧を蹂躙し、無人の境を行くが如くであった。文燦は宛・汝に駐在すること久しいが、調度のことは聞こえず、天下にこのような剿法があろうか。献忠は谷城で亡命者を招き入れ、馬を買い武器を備え、誰もがその測り難きを知っていた。文燦はかえって彼を前衛として用いようとし、官を遣わして調遣したが、応じないばかりか、さらに糧秣を解送する官を留め、湖広総兵を求めた。今や既に浮橋を造って漢水を跨いでいる。文燦は前に誇張して功績を記し、後には隠蔽して報告しない。これを欺君と言わずして何と言おうか。総理の大権を躓く老耄の者に与えること、臣はその可なるを知らない。

原文且文燦辦賊之策曰「先撫後剿」。乃茶山不效,麻城又不效,第見招撫之旗絡繹於道。一遣使招賀一龍,而使者被殺;一遣使招李萬慶,而饋鹽椒運魚肉與通市,賊反因之焚掠,未見一賊歸順也。天下有如是撫法乎!其一切軍需,悉取於所歷之有司,名曰「借辦」,致城市空虛,孑遺盡絕。三月至麻城,民不堪淫掠,欲焚其署,始踉蹌而走。麻城,文燦婿家也,戚裏如是,余可知矣。三月在蘄水,其兵殺鄉民報捷,民家環哭,竟不敢治一兵。蘄水,文燦家園也,鄉里如是,余可知矣。是以捷報日張,寇勢愈熾。十三家之賊蹂躪南陽、汝寧,如履無人之境。文燦駐宛、汝已久,調度不聞,天下有如是剿法乎!獻忠在谷城招納亡命,買馬置器,人人知其叵測。文燦顧欲借之為前茅,遣官調之,非惟不應,復留解餉之官,求總兵湖廣。今已造浮橋跨漢水矣。文燦前既誇張而敘功,後復掩匿而不報,可不謂之欺君乎!以總理之大柄畀之顛蹶之耄夫,臣不知其可也。

帝は採用しなかった。逮捕されて獄に下された。

原文帝不納。逮至,下獄。

初め、応桂は文燦に書を送り、献忠は必ず反逆するので、未だ発せざる先に図るべきだと述べた。その書は献忠の偵察者に得られ、献忠は鄖陽巡撫戴東旻に牒文を飛ばし、「撫軍(熊文燦)が我を殺そうとしている」と言い、東旻はこれを文燦に伝え、文燦は再び応桂を糾弾した。応桂は再び上疏して弁明したが、帝はまた採用しなかった。応桂は遂に流刑に処せられた。間もなく、献忠は果たして反逆し、廷臣は相次いで上章して応桂を推薦した。

原文初,應桂貽書文燦,言獻忠必反,可先未發圖之。其書為獻忠邏者所得,獻忠騰牒鄖陽巡撫戴東旻,言「撫軍欲殺我」,東旻聞之文燦,文燦再糾應桂。應桂再疏辨,帝亦不納。應桂竟遣戍。無何,獻忠果反,廷臣交章薦應桂。

十六年、応桂を兵部右侍郎として起用した。十月、潼関が陥落し、帝は大臣を召して問うた。陳演が言うには、「賊が関中に入れば、必ず子女玉帛に執着し、虎が罠に入るようなものである」。応桂はこれを叱って言った、「壮士健馬は皆関西より出る。賊がこれを得れば、必ず長駆横行する。大臣たる者、どうして面と向かって欺くことができようか」。演は股が震えて顔色を失った。十一月、督師孫伝庭が戦死し、応桂に右僉都御史を兼ねさせて代わりに赴かせた。応桂は兵も糧秣もないことを理由に、入朝して帝に会い涙を流した。帝はただ京軍千人を護衛として派遣し、御用の銀一万両、銀花四百、銀牌二百、蟒幣二百、雑幣はその倍を与え、軍前で功績を賞する用に供するのみであった。応桂は命を受けると、日夜悲嘆し疑懼し、山西に到らんとする時には偽官が充満し、ためらって進むことができなかった。帝は逗留を責めて職を奪い、新たに抜擢された陝西巡撫李化熙に代わらせたが、化熙もまた進むことができなかった。間もなく、京師は陥落した。応桂は家に居て出仕しなかった。久しくして、難に死んだ。

原文十六年,起應桂兵部右侍郎。十月,潼關陷,帝召問大臣。陳演言:「賊入關中,必戀子女玉帛,猶虎入陷阱。」應桂叱之曰:「壯士健馬咸出關西。賊得之,必長驅橫行,大臣安得面謾!」演股栗失色。十一月,督師孫傳庭戰歿,命應桂兼右僉都御史往代之。應桂以無兵無餉,入見帝而泣。帝但遣京軍千人護行,給御用銀萬兩、銀花四百、銀牌二百、蟒幣二百、雜幣倍之,為軍前賞功之用而已。應桂既受命,日夜悲疑,將至山西,則偽官充斥,逡巡不得前。帝責以逗遛,奪職,命新擢陜西巡撫李化熙代之,化熙亦不能進也。未幾,京師陷。應桂家居不出。久之,死於難。

高鬥樞

原文高鬥樞

高鬥樞、字は象先、鄞の人。崇禎元年の進士。刑部主事に任じられた。巡撫耿如杞の獄を議したことで罪を得、同列の四人と共に詔獄に下された。まもなく官に復し、員外郎に進んだ。

原文高鬥樞,字象先,鄞人。崇禎元年進士。授刑部主事。坐議巡撫耿如杞獄,與同列四人下詔獄。尋復官,進員外郎。

五年、荊州知府に遷った。久しくして、長沙兵備副使に抜擢された。湖北にある楚の郡は尽く賊の禍いに遭い、その勢いは湖南に及ぼうとし、臨・藍・湖・湘の間に土寇が蜂起した。長沙には老弱の衛卒五百のみで、さらに二百を攸県に守備させており、城壁や楼閣、雉堞は尽く崩壊していた。鬥樞が到着すると、飛楼四十を建て、守備の具を大いに修繕した。臨・藍の賊船二百余は、衡・湘から城下に抵り、十余日相拒してようやく退き去り、転じて袁州を攻めた。都司陳上才を遣わしてその後を追わせたところ、賊もまた解いて去った。まもなく乱賊劉高峰らを撃殺し、残党を撫定した。詔してその功績を記録した。巡撫陳睿謨が大いに臨・藍の寇を征伐した時、鬥樞は南面を担当し、大小十余戦して賊を尽く平定した。詔して銀幣を賜った。

原文五年,遷荊州知府。久之,擢長沙兵備副使。楚郡之在湖北者,盡罹賊禍,勢且及湖南,臨、藍、湖、湘間土寇蜂起。長沙止老弱衛卒五百,又遣二百戍攸縣,城庫雉堞盡圮。鬥樞至,建飛樓四十,大修守具。臨、藍賊艘二百餘,由衡、湘抵城下,相拒十餘日乃卻去,轉攻袁州。遣都司陳上才躡其後,賊亦解去。尋擊殺亂賊劉高峰等,撫定余眾。詔錄其功。巡撫陳睿謨大征臨、藍寇,鬥樞當南面,大小十餘戰,賊盡平。詔賚銀幣。

十四年六月、按察使に進み、鄖陽を守るよう移された。鄖は寇に襲われてほぼ十年、所属する邑は六つあるが、住民は四千に満たず、数百里にわたって荊棘が生い茂っていた。撫治王永祚は襄陽が危急のため、軍を移してこれを鎮めた。鬥樞が到着してわずか六日目に、張献忠が陝西から軍を率いて東進した。鬥樞は知府徐啓元と共に遊撃王光恩とその弟の光興を遣わして分かってこれを防がせ、戦って頻りに勝利し、賊は侵犯を敢えてしなかった。光恩とは、均州で降った渠魁の小秦王である。初め張献忠・羅汝才らと賊を為し、献忠・汝才が降ってまた叛いた時、均州の五営は討伐されることを恐れて自ら疑い、また献忠が強力なのを慮って併呑されることを憂え、光恩は衆を集めて要害を占めて献忠に抵抗した。久しく居るうちに、次第に逃げ去る者が出て、光恩もまた去ったが、後に再び降った。光恩はその部下をよく用い、部下もまた喜んで彼に用いられた。鬥樞はその誠実さを察し、招き入れて郡を守らせた。この時、鬥樞・啓元は謀略に優れ、光恩は戦闘に優れ、鄖城は危うくしながらも再び保全された。

原文十四年六月進按察使,移守鄖陽。鄖被寇且十載,屬邑有六,居民不四千,數百里荊榛。撫治王永祚以襄陽急,移師鎮之。鬥樞至甫六日,張獻忠自陜引而東。鬥樞與知府徐啟元遣遊擊王光恩及弟光興分扼之,戰頻捷,賊不敢犯。光恩者,均州降渠小秦王也。初與張獻忠、羅汝才輩為賊,獻忠、汝才降而復叛,均州五營懼見討自疑。又以獻忠強,慮為所並,光恩斂眾據要害以拒獻忠。居久之,乃有稍稍飏去者,光恩亦去,已而復降。光恩善用其下,下亦樂為之用。鬥樞察其誠,招入郡守。當是時,鬥樞、啟元善謀,光恩善戰,鄖城危而復全。

十五年冬、李自成が襄陽・均州を陥とし、鄖陽を四日間攻めて去った。翌年春、再び来攻し、十余日陥とせず、遂に退いて楊溪に駐屯した。五月、鬥樞は遊撃劉調元を召し入れて城に入らせ、旬日の間に賊三千余を殺した。自成の将が来攻しようとしたが、遂に陥とせず去った。そこで光恩に均州を回復させ、調元に光化を下らせ、自ら将士を率いて谷城を回復した。襄陽を襲おうとしたが、孫伝庭の敗報を聞き、軍を返したため、均州は再び賊の有するところとなった。

原文十五年冬,李自成陷襄陽、均州,攻鄖陽四日而去。明年春,復來攻,十餘日不克,乃退屯楊溪。五月,鬥樞召遊擊劉調元入城,旬日間殺賊三千餘。自成將來攻,卒不克而去。乃令光恩復均州,調元下光化,躬率將士復谷城。將襲襄陽,聞孫傳庭敗,旋師,均州復為賊有。

十七年正月、自成は将路応標らを遣わし三万人を以て鄖を攻めしむ。斗枢は人を均州に入らしめ、其の蓄積を焼き、賊は食乏しくして退く。是の時に当たり、湖南・北十四郡皆陥ち、独り鄖在り。十五年冬より撫治王永祚逮はれ、連ねて李乾徳・郭景昌を命じて之に代えしも、路絶えて至ること能わず、中朝は鄖已に陥ちたるを謂い、復た撫治を設けず。十六年夏、斗枢上に兵を請う疏を上す、始めて鄖存するを知り、衆議即ち斗枢を任ぜんとす。而して陳演之と隙有り、乃ち啓元を擢て右僉都御史と為し之に任じ、斗枢に太僕少卿を加う、路阻み亦達すること能わず。是の年二月、朝議漢中巡撫を設け、兼ねて川北軍務を督せしめ、斗枢を擢て右副都御史と為し往かしむ、朝命亦達せず。三月に至り始めて太僕の命を聞き、即ち軍事を啓元に付す。七月にして北都の変聞こえ、並びに漢中の命を聞く、地已に失い、往くべからず。

原文十七年正月,自成遣將路應標等以三萬人攻鄖。鬥樞遣人入均州,燒其蓄積,賊乏食而退。當是時,湖南、北十四郡皆陷,獨鄖在。自十五年冬撫治王永祚被逮,連命李乾德、郭景昌代之,路絕不能至,中朝謂鄖已陷,不復設撫治。十六年夏,鬥樞上請兵疏,始知鄖存,眾議即任鬥樞。而陳演與之有隙,乃擢啟元右僉都御史任之,加鬥樞太僕少卿,路阻亦不能達。是年二月,朝議設漢中巡撫,兼督川北軍務,擢鬥樞右副都御史以往,朝命亦不達。至三月始聞太僕之命,即以軍事付啟元。七月而北都變聞,並聞漢中之命,地已失,不可往。

福王が立つと、鬥樞を移して湖広巡撫とし、何騰蛟に代わらしむ。また道路不通のため、王驥を用いるに改むるも、鬥樞は皆聞かず。国変後の数年にして卒す。啓元、光恩も亦皆功名を以て終わる。

原文福王立,移鬥樞巡撫湖廣,代何騰蛟。復以道路不通,改用王驥,鬥樞皆不聞也。國變後數年卒。啟元、光恩亦皆以功名終。

張任學

原文張任學

張任學は安嶽の人、天啓五年の進士。太原知縣に授かり、その才能により榆次に調ぜられる。

原文張任學,安嶽人,天啟五年進士。授太原知縣,以才調榆次。

崇禎四年、治行卓異なるを挙げられて御史に入る。蜀中の私税・催科・訟獄の三大苦を陳べ、帝之を行わしむ。出でて両浙の塩法を視、数たび条奏して利弊を論ず。八年、流賊鳳陽を陥とす。詔して巡按呉振纓を逮え、命じて任学をして往きて代わらしむ。朝に還り、復た河南を按じ、軍を監して賊を討つ。時に群盗縦横し、而して諸将縮朒して敢えて撃たず。任学慨然として曰く、「事難を辞せざるは、臣の職なり。賊の勢此の如し、我輩雍容として坐鎮すべけんや」と。十一年二月、遂に上疏して極めて諸将を詆す。武階に易えんことを請い、親ら干戈を執り、国の為に賊を平げんとす。帝之を壮とし、吏・兵二部及び都察院に下して議せしむ。諸臣、文吏に武職を改むる者無きを以て、請う仍く監軍御史を以て総兵事を兼ねしめんとす。帝従わず、命じて署都督僉事を授け、河南総兵官と為す。河南旧に総兵無し、左良玉・陳永福並びに客兵を以て援剿に備う、此に至りて大将特設す、而して麾下に一官無し。兵部乃ち署鎮許定国の兵を以て之に授け、参将羅岱をして中軍と為さしむ。岱は健将にして、屡たび戦功を著わす。任学之に倚りて以て自強す。時に熊文燦専ら撫を主とし、劉国能・張献忠俱に降る。羅汝才・馬進忠・李万慶等中原を躪る事旧の如し。河南人塢壁に拠りて自保する者数十、賊悉く之を摧破し、息県・光州に踞り、人を磔いて汝水に投ずれば、水赤と為る。任学大いに創むる能わず。進忠勢衰え、佯り撫を求め、文燦及び巡撫常道立之を許す。間に乗じて逸去す。事聞こえ、任学と文燦・道立並びに秩を鐫らる。

原文崇禎四年,舉治行卓異入為御史。陳蜀中私稅、催科、訟獄三大苦,帝為飭行。出視兩浙鹽法,數條奏利弊。八年,流賊陷鳳陽,詔逮巡按吳振纓,命任學往代。還朝,復按河南,監軍討賊。時群盜縱橫,而諸將縮朒不敢擊。任學慨然曰:「事不辭難,臣職也。賊勢如此,我輩可雍容坐鎮耶!」十一年二月,遂上疏極詆諸將。請易武階,親執干戈,為國平賊。帝壯之,下吏、兵二部及都察院議。諸臣以文吏無改武職者,請仍以監軍御史兼總兵事。帝不從,命授署都督僉事,為河南總兵官。河南舊無總兵,左良玉、陳永福並以客兵備援剿,至是大將特設,而麾下無一官,兵部乃以署鎮許定國兵授之,使參將羅岱為中軍。岱,健將,屢著戰功,任學倚以自強。時熊文燦專主撫,劉國能、張獻忠俱降,羅汝才、馬進忠、李萬慶等躪中原如故。河南人據塢壁自保者數十,賊悉摧破之,踞息縣、光州,磔人投汝水,水為赤,任學不能大創也。進忠勢衰,佯求撫,文燦及巡撫常道立許之,乘間逸去。事聞,任學與文燦、道立並鐫秩。

七月、任學督の岱らを羅山に赴かせ、左良玉の軍と合流して汝才・萬慶及び紫微星・順義王を撃ち、大いにこれを破り、五十里を追撃し、一千四百余りの首級を斬り、黒虎狼・満天星を捕らえ、賊は遂平に奔った。九月、進忠が開封を寇し、瓦子坡に至る。岱は奮撃し、賊は輜重を尽く棄てて大隗山に遁れ、その妻子を捕らえた。

原文七月,任學督岱等赴羅山,合左良玉軍擊汝才、萬慶及紫微星、順義王,大敗之,追奔五十里,斬首一千四百有奇,獲黑虎狼、滿天星,賊奔遂平。九月,進忠寇開封,至瓦子坡。岱奮擊,賊盡棄輜重遁入大隗山,獲其妻子。

その冬、京師が戒厳し、任學が入衛し、道中で文燦に謁し、言うには、「献忠は狼子の野心、終には国の患いとならん。我は勤王を名とし、其の不意に出で、直ちに縛るべし」と。文燦は用いる能わず。畿南に抵り、詔有りて却って還る。巡撫道立は良玉の兵を陜州に調し、賊は盧氏の虚に乗じ、内郷・淅川に遁入し、文燦に劾せらる。明年、道立の名を除き、任學も亦一秩を鐫さる。遊撃宋懷智・都司孔道興、再び賊を陳州に破り、部将王応龍・尤之龍等、賊を襄城に破り、五戦皆勝つ。副将岱と応龍・懷智等、復た賊を葉県に破り、十日に八捷を奏し、帝、詔して所司に実を核せしむ。已にして、又賊を裕州に挫く。而して是の時に総兵孫応元・黄得功、京軍を統して賊を討ち、屡大捷を奏す。凱旋して功を録し、任學も亦二秩を叙復す。

原文其冬,京師戒嚴,任學入衛,道謁文燦,言:「獻忠狼子野心,終為國患,我以勤王為名,出其不意,可立縛也。」文燦不能用。抵畿南,有詔卻還。巡撫道立調良玉兵於陜州,賊乘盧氏虛,遁入內鄉、淅川,為文燦所劾。明年除道立名,任學亦鐫一秩。遊擊宋懷智、都司孔道興再破賊陳州,部將王應龍、尤之龍等破賊襄城,五戰皆勝。副將岱與應龍、懷智等復破賊葉縣,十日奏八捷,帝詔所司核實。已,又挫賊裕州。而是時總兵孫應元、黃得功統京軍討賊,屢奏大捷。凱旋錄功,任學亦敘復二秩。

まもなく左良玉・陳洪範とともに内郷において李萬慶を追い詰める。萬慶が降伏しようとしていた頃、献忠はすでに叛き、文燦は河南の軍をことごとく援剿に動員し、ただ任学のみを汝南に留めて任せた。川貴総督の李若星は文燦の主撫の誤りを論じ、任学の原官を復し、大将の職務を代行させて軍事を督察するよう請うたが、聞き入れられなかった。七月、献忠は汝才と合流して房県より西へ走り、岱は良玉とともにこれを追う。良玉は岱を前鋒とし、自らはその後を従う。羅狼藉𤠉山に至り、軍は食糧に乏しくなった。賊は要害に伏兵を置き、岱と副将の劉元捷は勇気を奮って直ちに登るが、四方から伏兵が起こる。岱の馬の足が藤に引っかかり、刀を抜いてこれを断ち、転倒してもまた進み、ついに馬を棄てて歩いて戦うことしばらく、矢が尽きて賊に陥り、良玉の軍もまた大敗した。事が聞こえ、任学は職を褫奪される罪に坐す。十五年、言官が廃官の起用を請い、任学もその中にあり、用いられる前に卒した。

原文尋與左良玉、陳洪範蹙李萬慶於內鄉。萬慶方降,獻忠已叛,文燦盡調河南軍援剿,獨任學留汝南。川貴總督李若星論文燦主撫之謬,請復任學原官,攝行大將,督察軍事。不從。七月,獻忠合汝才自房縣西走,岱偕良玉追之。良玉令岱為前鋒,己隨其後。至羅狼藉𤠉山,軍乏食。賊伏兵要害,岱與副將劉元捷鼓勇直上,伏四起。岱馬足掛於藤,抽刀斷之,蹶而復進,乃棄馬步鬥,久之矢盡,陷於賊,良玉軍亦大敗。事聞,任學坐褫職。十五年,言官請起廢,任學與焉,未及用而卒。

賛に曰く、流賊の毒を肆うは、禍は楊鶴に始まり、陳奇瑜に成り、而して熊文燦・丁啓睿に熾なり。然れども練國事・鄭崇儉は先づ其の罰に罹り、而して邵捷春・余應桂も亦た或いは死し或いは戍す。疆場に於ては則ち剿撫方に乖き、廟堂に於ては則ち賞罰當らず、師を僨し寇を玩び、賊勢日張く、人謀臧からざるに非ずと謂ひて、實に之を然らしむるか。

原文贊曰:流賊之肆毒也,禍始於楊鶴,成於陳奇瑜,而熾於熊文燦、丁啟睿。然練國事、鄭崇儉先罹其罰,而邵捷春、余應桂亦或死或戍。疆場則剿撫乖方,廟堂則賞罰不當,僨師玩寇,賊勢日張,謂非人謀不臧實使之然乎!