明史

列傳第一百三十九 李標 劉鴻訓 錢龍錫 成基命 何如寵 徐光啟 文震孟 蔣德璟 方岳貢

○李標(李國𣚴 周道登)劉鴻訓 錢龍錫(錢士升 錢士晉)成基命 何如寵(兄如申 錢象坤)徐光啟(鄭以偉 林釬)文震孟(周炳謨)蔣德璟(黃景昉)方岳貢(邱瑜 瑜子之陶)

李標

李標、字は汝立、高邑の人。萬歷三十五年の進士。庶吉士に改められ、檢討を授かる。泰昌の時、累遷して少詹事となる。天啓の中頃、擢て禮部右侍郎に拜され、詹事府を協理す。標は同郷の趙南星に師事し、黨人がこれを忌み、名を『東林同志録』の中に列ねる。標は禍を懼れ、疾を引いて帰る。

莊烈帝が位を嗣ぐや、即ち家にて禮部尚書兼東閣大學士に拜す。崇禎元年三月、朝に入る。未だ幾ばくもせず、李國𣚴、來宗道、楊景辰相継ぎ去り、標遂に首輔となる。帝は治を図るに鋭意にして、恒に大臣を召して庶政を面決す。宣府巡撫李養沖、疏を上りて旗尉の往来織の如く、蹤跡憑み難く、且つ費の出す所無きを慮る、と言ふ。帝以て標等に示して曰く、「邊情危急、旗尉を遣はして偵探す、奈何ぞ偽りと為すや。且つ祖宗朝廠衛を設立するは、奚の為めぞ」と。標對へて曰く、「事固より慎むべし。養沖は賂はざれば恐らく毀言日より至らんとし、之に賂すれば則ち物力勝ひ難しと為すのみ」と。帝默然たり。同官の劉鴻訓、敕を増す事を以て御史吳玉に糾さる。帝鴻訓を法に置かんと欲す。標力めて其の賄を納るるの誣を辯す。溫體仁、錢謙益を訐て己が浙闈の事を結ぶを引きて詞と為す。給事中章允儒、廷にて之を駁す。帝怒り、謙益と並びて重く譴らんとし、又た給事中瞿式耜、御史房可壯等を罪せんと欲す。標言ふ、「陛下謙益、允儒を処分せらるるは、本體仁の言に因る。體仁乃ち安んぜずして罷めを求む。乞ふらくは陛下謙益の事恩詔を経るを念ひ、姑く回籍を令せよ。允儒に於ては仍ほ自新を許し、而して式耜等は概ね薄罰に従はしめよ。諸臣安んずれば、體仁も亦安んず」と。帝従はず、是より朝臣に黨有るを深く疑ひ、標等遂に其の志を行ふを得ず。是の冬、韓爌朝に還り、標首輔を譲る。尋で爌等と逆案を定む。

三年正月、爌罷め、標復た首輔となり、累加して少保兼太子太保、戶部尚書、武英殿大學士に至る。先づ、標と並び相たる者六人、宗道、景辰は珰に附くを以て斥けられ、鴻訓は敕を増すを以て戍せられ、周道登、錢龍錫は攻められて去り、獨り標在り、遂に五疏を上りて休を乞ふ。三月に至りて請ひを得。家に居ること六年にして卒す。少傅を贈られ、文節と謚さる。

李國𣚴、字は元治、高陽の人。萬歷四十一年の進士。庶吉士より歴官して詹事となる。天啓六年七月、超擢して禮部尚書、内閣に入る。褐を釋くこと十四年にして即ち宰輔に登る。魏忠賢、同郷の故を以て之を援く也。然れども國𣚴每に正論を持す。劉志選、張國紀を劾して以て中宮を撼かさんとす。國𣚴言ふ、「子は父を佐けて母を難くすべからず、而るに況や間無きの父母をや」と。國紀乃ち罪を免るるを得。御史方震孺及び高陽令唐紹堯獄に繫がる、皆力めて保全す。崇禎初め、登極の恩を以て左柱國、少師兼太子太師、吏部尚書、中極殿大學士に進む。國子監生胡煥猷、國𣚴等を劾して衣冠を褫ふ。國𣚴之を薦めて復す。時人長厚と稱す。元年五月、請ひを得て里に歸り、韓爌、孫承宗を薦めて自ら代はる。卒し、太保を贈られ、文敏と謚さる。宗道、景辰の事は『黃立極傳』の中に見ゆ。

周道登、吳江の人。萬歷二十六年の進士。庶吉士より歴遷して少詹事となる。天啓の時、禮部左侍郎と為り、頗る爭執有り。病を以て歸る。五年秋、廷推して禮部尚書と為る。魏忠賢其の籍を削る。崇禎初め、李標等と同く内閣に入る。道登學術無く、奏對鄙淺、傳へて以て笑ひと為す。御史田時震、劉士禎、王道直、吳之仁、任贊化、給事中閻可陛交はりて之を劾す。悉く廷議に下す。吏部尚書王永光等、道登樞臣王在晉及び宗生朱統飾、鄉人陳於鼎の館選の事を黨護すと言ふ。俱に實跡有り。乃ち罷めて歸る。閱ふこと五年にして卒す。

劉鴻訓

劉鴻訓、字は默承、長山の人。父一相、進士より歴官して南京吏科給事中となる。故相張居正の事を追論し、執政之を忌み、出でて隴右僉事と為る。終に陜西副使。

萬歷四十一年、鴻訓第に登り、庶吉士より編修を授かる。神宗、光宗二宗相継ぎ崩ず。詔を朝鮮に頒つ。甫く境に入るや、遼陽陷つ。朝鮮為に二洋舶を造り、海道より還る。沿途難民を収む。舶重くして壞る。淺沙に跳り、小舟に入り、飄泊すること三晝夜、僅かに登州に達して命に報ず。母喪に遭ひ、服闋け、右中允に進み、轉じて左諭德、父喪に歸る。天啓六年冬、起きて少詹事と為り、魏忠賢に忤ひ、斥けられて民と為る。

莊烈帝即位し、禮部尚書兼東閣大學士に拜し、機務に參預す。行人を遣はして之を召す。三たび辭し、允さず。崇禎元年四月、朝に還る。是の時に當たり、忠賢敗るるも、其の黨猶ほ盛んにして、言路新進の者群り起ちて之を抨撃す。諸執政嘗て忠賢と事を共にし、敢へて顯かに別白を為さず。鴻訓至り、毅然として主持し、楊維垣、李恒茂、楊所修、田景新、孫之獬、阮大鋮、徐紹吉、張訥、李蕃、賈繼春、霍維華等を斥く。人情大いに快しとす。而して御史袁弘勛、史褷、高捷本より維垣輩進み、謀を合はせて鴻訓を攻め去らんと思ふ。則ち黨人安んず可き也。弘勛乃ち言ふ、所修、繼春、維垣夾攻して表裏の奸、功有りて罪無し、而るに誅鋮自ら三臣より始まると。又た鴻訓を詆りて朝鮮に使し、滿載の貂參を以て歸ると。錦衣僉事張道浚も亦た鴻訓を攻め訐る。鴻訓奏して辯す。給事中顏繼祖言ふ、「鴻訓先朝削奪せらる。朝鮮一役、舟敗れ、僅かに身を以て免る。乞ふらくは鴻訓を諭して入直せしめ、共に安攘の策を籌らしめよ。弘勛の題を借りて人を傾くる、道浚の位を出でて政を亂すに至りては、重く創さざれば未だ已む無からん」と。帝之を是とす。給事中鄧英乃ち盡く弘勛の贓私を發し、且つ言ふ、弘勛千金を以て維垣に贄りて御史を得たりと。帝怒り、弘勛の職を落として勘を候はしむ。已にして高捷疏を上りて言ふ、鴻訓奸を撃つ維垣、所修、繼春、大鋮を斥け、而して孫之獬の流涕の忠言を納れず。謬りて『要典』を焚毀するを主とし、以て私黨孫慎行の進用を便にすと。帝妄言を以て責め、其の俸を停む。史褷復た捷を佐けて之を攻む。言路多く兩人を直とせず、兩人遂に罷め去る。

七月、四川の賊が平定されたことを以て、鴻訓に太子太保を加え、文淵閣に進めた。帝はたびたび廷臣を召見した。鴻訓の応対は特に敏捷で、民の困窮は吏の職を失うことによるとして、帝に久任して責成することを請うた。尚書畢自嚴は賦を治めるに善く、王在晉は兵を治めるに善いとして、帝に倚信を加えるよう請うた。帝は初めは甚だ彼に傾いた。関門の兵が欠餉を以て騒動を起こすと、帝は戸部を責める意であったが、鴻訓は帑金三十万を発するよう請い、測り難い恩を示すべきとし、これによって帝の意に背いた。

九月に至って、勅書を改める事件が起こった。旧例では、京営を督する者は巡捕軍を管轄しない。恵安伯張慶臻が京営を総督した際、勅書に「兼ねて捕営を轄す」との語があり、提督鄭其心が職権侵害であると論じた。命じて中書が賄賂で改めた経緯を調査させ、舎人田佳璧を獄に下した。給事中李覚斯が言うには、「原稿は兵部に備わり、輔臣に送って裁定を仰ぎ、それから中書に繕写させた。書き終わって、再び審視して進呈した。兵部及び輔臣は皆問うべきである」と。十月、帝が便殿に御し、閣臣に問うたが、皆知らないと謝した。帝は怒り、廷臣に劾奏させた。尚書自厳らも知らないと謝し、帝はますます怒った。給事中張鼎延、御史王道直は皆、慶臻に行賄の跡があるが、誰が主使したかは知らないと言った。御史劉玉が言うには、「主使者は鴻訓である」と。慶臻は言った、「勅書を改めるのは中書の事であり、臣は実は予め知らなかった。しかも捕卒の管轄を増やすことで、利益がどれほどあるというのか、重い賄賂を行うだろうか」と。帝は彼を叱責した。兵部の掲示文に鴻訓が西司房に批した語があるのを閲覧し、佳璧も鴻訓の指図を受けたと供述したため、事は遂に解けなくなり、侍郎張鳳翔が特に激しく彼を誹謗した。閣臣李標、錢龍錫は鴻訓にこのようなことがあるべきでないとし、更に察訪を請うた。帝は言った、「事は既に明らかである、どうして更に訪ねる必要があろうか」と。旨を起草するよう促した。標らは逡巡して上奏せず、礼部尚書何如寵が鴻訓のために力強く弁護したが、帝の意は結局翻らなかった。そこで旨を起草し、鴻訓、慶臻をともに革職して審理を待たせた。間もなく、御史田時震が鴻訓が田仰を四川巡撫に任用し、賄賂二千両を受けたと弾劾した。給事中閻可陛が副都御史賈毓祥が賄賂によって鴻訓に抜擢任用されたと弾劾した。鴻訓はたびたび弾劾され、連章して力強く弁明し、ついで「都中の神奸狄姓の者が、詭計で慶臻から千金を騙し取り、臣をして無辜の禍を受からしめた」と言った。帝は聞き入れず、廷臣に議罪させた。

翌年正月、吏部尚書王永光らが言うには、「鴻訓、慶臻の罪は免れがたく、しかし律に議貴の条があり、寛大に赦すことを請う。兵部尚書王在晉、職方郎中苗思順は贓物の証拠が未だ確かでなく、懸案として罪に坐するのは難しい」と。帝は許さなかった。鴻訓は代州に謫戍とされ、在晉、思順はともに官籍を削られ、慶臻は世臣として禄を三年間停止された。覚斯、鼎延、道直、玉、時震は直言によって官秩一級を増された。

鴻訓が政府に在った時、鋭意事に任じた。帝が認めないことがあると、退いて「主上は畢竟沖主である」と言った。帝はこれを聞き、深く恨みに思い、彼を死に置こうとした。諸大臣の力救によって、ようやく少し寛大になった。七年五月、戍所で卒した。福王の時、官に復した。

錢龍錫

錢龍錫、字は稚文、松江華亭の人。万暦三十五年の進士。庶吉士より編修に授かり、たびたび遷って少詹事となった。天啓四年、礼部右侍郎に抜擢され、詹事府を協理した。翌年、南京吏部右侍郎に改めた。魏忠賢に逆らい、官籍を削られた。

莊烈帝が即位すると、閣臣黄立極、施鳳来、張瑞図、李國𣚴が皆忠賢に用いられた者で、倚るに足らずとして、詔して廷臣に推挙させ、十人を列挙して上奏した。帝は古の枚卜の典に倣い、名を金甌に貯え、香を焚いて肅拝し、順次探り、まず龍錫を得、次に李標、来宗道、楊景辰を得た。輔臣が天下に多事あることを以て、一二人を増やすよう請うと、再び周道登、劉鴻訓を得、ともに礼部尚書兼東閣大学士に拝された。翌年六月、龍錫が入朝すると、立極ら四人は先に罷免されており、宗道、景辰もこの月に去った。標が首輔となり、龍錫、鴻訓が心を合わせて輔理し、朝政は少し清まった。まもなくしょくの寇が平定されたことを以て、太子太保を加えられ、文淵閣に改めた。

帝は辺境の事を察することを好み、頻繁に旗尉を派遣して偵探させた。龍錫は言った、「旧制では都城内外にのみ行うことで止めており、遠くに派遣すれば委ねて信じるのは難しいであろう」と。海寇が中左所を犯すと、総兵官俞咨臯が城を棄てて遁走し、罪は誅に当たった。帝は巡撫朱一馮をも罪にしようとした。龍錫は言った、「一馮の駐在は遠く、城を棄てた者とは比べられず、罷職するだけで既に罪を蔽うに足りる」と。瑞王が漢中に出封するに当たり、川塩を食することを請うた。龍錫は言った、「漢中は晋塩を食し、瑞藩のみ川塩を用いるならば、恐らく奸徒が名を借りて私販し、敢えて譏察する者がないであろう」と。故事では、実録を纂修する際、国学生を四方に分遣して事跡を採集したが、龍錫は「実録に必要なものは邸報及び諸司の奏牘にあり、使者を遣わしても益がなく、徒らに擾乱を生むのみで、停止すべきである」と言った。烏撒の土官安効良が死に、その妻が改めて沾益の土官安辺に嫁ぎ、烏撒をも兼有しようとした。部議はこれを聴こうとした。龍錫は言った、「効良には子の其爵があり、其爵を立てて烏撒を収めるならば、亡びたものを存え、絶えたものを継ぐことになり、理に順う。安辺は淫乱であり、長くしてはならない」と。帝は皆これに従った。翌年、帝は漕船が禁を違えて関を越えることを以て、漕運総兵官を再設置しようとした。龍錫は言った、「久しく裁撤したものを復するには、廷臣を集めて得失を議すべきである」と。事は遂に止んだ。廷議で冗官を淘汰することになり、帝は学官が特に冗であると言った。龍錫は言った、「学官は旧来、歳貢生を用いたが、近頃は挙人が恩を乞うて選貢となり、纂修が官職を占める者が多く、歳貢生が二千六百有余も積もり、白髪頭で死ぬのは、実に憐れむべきである。かつ祖宗が官を設けるに当たり、ここで少し寛大にしたのは、師儒が士を造るには老成を要するからである」と。帝もこれを受け入れた。言官の鄒毓祚、韓一良、章允儒、劉斯来が譴責を受けると、ともに救済を申し立てた。

御史高捷、史褷が既に罷免された後、王永光が力を入れて彼らを引き入れようとしたが、龍錫によってかなり阻まれたため、二人は大いに恨んだ。逆案の決定は、半分が龍錫の主導によるもので、奸党は骨髄に徹して彼を恨んだ。袁崇煥が毛文龍を殺した時、上疏して「輔臣龍錫がこの一事のために臣の寓居に低徊された」と報じた。また善後の上疏をして言った、「閣臣と枢臣が往復して商確し、臣はこれによって奉行して過失がなかった」と。当時、文龍は兵を擁して専断し、跋扈の名声があり、崇煥が一朝にしてこれを除いたことは、朝廷も罪とはしなかった。その冬十二月、大清兵が都城に迫った。帝は崇煥が戦いに力を尽くさないことを怒り、捕らえて獄に下し、一方で捷、褷は既に永光に引用されていた。捷は遂に上章し、款を通じて将を殺したことを龍錫の罪と指摘し、かつ祖大寿の軍が潰えて東走したのは、龍錫が挑発したためであると言った。帝は龍錫が忠慎であるとして、過度に求めるなと戒めた。龍錫は上奏して弁明し、言った、「崇煥が陛見した時、臣はその容貌が陋いのを見て、退いて同官に『この人は恐らく任に勝たないであろう』と言った。崇煥が五年で遼を回復すると自ら詭した時、方略を訊ねに行くと、崇煥は『回復は東江より始めるべきである。文龍が用いるに足ればこれを用い、用いるに足らなければこれを去るのは容易である』と言った。崇煥が突然文龍を誅した時、上疏に『臣が低徊した』との一語があった。臣は文龍の功罪は朝廷で皆知っていることと思い、よって取り合わなかった。どうして崇煥の誇詡の言葉を以て、臣に朋謀の罪を坐せようとするのか」と。また大寿を挑発したという誣告を弁明し、罷黜を賜わるよう請うた。帝は慰諭し、龍錫はすぐに起きて職務に就いた。捷が再び上疏して攻撃すると、帝の意はかなり動いた。龍錫が再び弁明し、病を引いて、遂に帰郷を許された。当時、兵事が多忙で、崇煥の獄を完結する暇がなかった。

三年八月に至り、褷は再び上疏して言う、「龍錫は崇煥が帥を斬り兵を致すことを主張し、款議を唱えて、以て五年成功の説を信ぜしむ。国を売り君を欺く、その罪逃るべからず。龍錫は都を出で、崇煥の与えたる重賄数万を以て、姻家に転寄し、巧みに営幹して、国法の伸びざるを致せり」。帝怒り、刑官に勅して五日内に獄を具すべしとす。ここにおいて錦衣劉僑、崇煥の獄詞を上す。帝、諸臣を平台に召し、崇煥に重辟を置く。龍錫を責めて辺臣と私に結び、蒙隠して挙げざるを、廷臣に令して罪を議せしむ。この日、群議中府に於いて、謂う、「帥を斬るは龍錫の啓端と雖も、而して両書に『処置慎重』の語有り、意は擅殺に在らず、文龍を殺すは乃ち崇煥の過挙なり。講款に至りては、崇煥より倡き、龍錫は始め『酌量』と答え、継いで『天子神武、款を講ずべからず』と答えたり。然れども軍国大事、私自ら商度し、疏を抗して奸を発せざるは、何の罪をか逃れん」。帝遂に使を遣わしてこれを逮う。十二月に逮至り、獄に下す。復た疏を上ぎて弁じ、悉く崇煥の原書及び答書を封じて上るも、帝省みず。時に群小、逆案に名を麗せる者、謀を聚めて崇煥を指して逆首とし、龍錫等を逆党とす。更に一つの逆案を立てて相抵らんとす。謀既に定まり、兵部よりこれを発せんと欲すれども、尚書梁廷棟、帝の英明を憚り、敢えて任せずして止む。乃ち龍錫に大辟を議し、且つ夏言の故事を用い、廠を西市に設けて以て待たんとす。帝、龍錫に逆謀無きを以て、長く繋がしむ。

四年正月、右中允黄道周、疏を上ぎて龍錫の死罪に坐すべからざるを言う。旨に忤い、秩を貶し外に調す。而して帝の意次第に解く。夏五月大旱、刑部尚書胡応台等、龍錫を宥すことを乞い、給事中劉斯来継いでこれを言う。詔して所司に再讞せしむ。乃ち獄を釈し、定海衛に戍す。戍に在ること十二年、両たび赦に遇うも原われず。その子、粟を輸して罪を贖わんことを請う。会すに周延儒再び国を当るに及び、尼ぎて行わず。福王の時、官を復して里に帰る。未幾卒す。年六十八。

錢士升、字は抑之、嘉善の人。万暦四十四年殿試第一、修撰を授かる。天啓初め、母を養うを以て帰ることを乞う。久しくして左中允に進むも、赴かず。高邑の趙南星、同里の魏大中、璫禍を受け、及び江西の同年生万燝、杖死して贓を追わるに及び、皆力を尽くして営護し、産を破りてこれを助く。以てこれ東林に推さる。

崇禎元年、少詹事を起し、南京翰林院を掌る。明年、詹事を以て召さる。会すに座主錢龍錫逮われるに及び、これを河干に送り、即ち病を謝して帰る。四年、南京礼部右侍郎を起し、尚書事を署す。鳳陽陵寢に祭告し、疏を上ぎて戸口流亡の状を陳ぶこと甚だ悉し。六年九月、召されて礼部尚書兼東閣大学士に拝し、機務に参預す。明年春、朝に入る。事例を停め、鼓鑄を罷め、贓吏の誅を厳にし、新旧餉を督催する官の遣わすを止め、第に撫按に責成することを請う。帝悉くこれに従う。

帝操切にして、温体仁刻薄を以てこれを佐く。上下囂然たり。士升因りて『四箴』を撰して以て献じ、大旨は寛を以て衆を御し、簡を以て下に臨み、虚を以て心を宅し、平を以て政を出すを謂う。その言深く時病に中る。帝優旨を以て報聞すと雖も、意殊に懌ばず。

未だ幾ばざるに、武生李琎、江南の富戸を括り、官に報名輸し、首実籍没の法を行わんことを請う。士升これを悪み、旨を擬して刑部に下し提問せしめんとす。帝許さず、同官温体仁遂に軽く擬するを改む。士升曰く、「これ乱の本なり、去就を以てこれを争うべし」。乃ち疏を上ぎて言う、「陳啓新の事を言いてより、省闥に擢置す。比来端を借りて幸進する者、実に徒繁し。然れども未だ琎の如く誕肆なる者あらず。その曰く、縉紳豪右の家、大なる者は千百萬、中なる者は百十萬、萬を以て計る者は枚挙に遑あらず。臣その指す所の何の地なるを知らず。江南を論ずるに、富家数畝を以て対とし、百を計る者は什に六七、千を計る者は什に三四、萬を計る者は千百の中一二のみ。江南すらかくの如し、いわんや他省をや。且つ郡邑に富家有るは、固より貧民の衣食の源なり。地方水旱有れば、有司、錢粟を出だし、均糶して饑を済ましめ、一たび寇警に遇えば、城堡守禦を助けしむ。富家未だ嘗て国に益無きにしも非ず。『周礼』荒政十二、富を保つこと其の一に居る。今、兵荒を以て富家の朘削に帰罪し、その財を括りてこれを籍没せんと議す。これ秦皇の巴清に行わず、漢武の卜式に行わざる所にして、聖明の世に行わんと欲するか。今、秦・晋・楚・已に寧宇無し。独り江南数郡稍々安し。この議一たび倡われば、無頼亡命相率いて富家と難きを為し、天下の民を駆りて流寇と為すを止めざるべからず。或いはこの輩は乃ち流寇の心腹にして、横議を倡えて人心を摇がさんとするを疑わん。豈直に端を借りて幸進するのみならんや」。疏入る。而して琎已に法司に下り提問せらる。帝報いて曰く、「即ち名を沽がんと欲せば、前疏已にこれを致すに足る。汲汲たる毋れ」。前疏とは『四箴』を謂う。士升惶懼し、罪を引きて休を乞う。帝即ちこれを許す。

士升初めて閣に入るや、体仁頗るこれを援く。体仁、謝升・唐世済を推轂す。士升皆これを助く。文震孟擠さるるに及び、士升これを救う能わず。論者これを咎む。ここに至りて乃ち讜言を以て位を去る。

弟士晉、万暦中、進士より刑部主事を除く。畿輔に刑を恤み、平反すること千百人。崇禎の時、山東右布政より雲南巡撫に擢る。師宗・新化の六城を築き、金針・白沙等の河を浚い、土官岑・儂両姓の乱を平げ、頗る労績著し。已にして、経歴呉鯤化、その賄を営むを訐る。体仁即ち厳旨を擬し、且つ同官林釬に属して泄らさず、弟を因りて以てその兄を逐わんと欲す。命下る。而して士晉已に卒す。事乃ち已む。士升、国変後七年にして乃ち卒す。

成基命

成基命、字は靖之、大名の人。後、宣宗の諱を避け、字を以て行わる。万暦三十五年進士。庶吉士に改まり、司経局洗馬を歴て、国子監司業事を署す。天啓元年、幸学を請うるに先だって政府に白さず。執政者悦ばず、原官を以て局に還るを令し、遂に告げて帰ることを請う。尋いで少詹事を起す。累官して礼部右侍郎兼太子賓客、改めて南京翰林院事を掌る。六年、魏忠賢、基命を楊漣の同門生と為し、職を落として閑住せしむ。

崇禎元年、吏部左侍郎に起用された。翌年十月、京師が戒厳となると、基命は旧輔の孫承宗を召還し、一切の浮議を省き、嘉靖朝の故事に倣って枢臣を増設するよう請うた。帝はこれをすべて許可した。一か月余りして、礼部尚書兼東閣大学士に任じられ、内閣に入って政を輔佐した。庶吉士の金声が僧申甫を将として推薦した。帝は基命にその部下の兵を閲させたが、基命は極言して用いるべからずとし、後、果たして一戦にして敗れた。袁崇煥・祖大寿が入衛すると、帝は平台で召見し、崇煥を捕らえて官吏に引き渡した。大寿は傍らで股が震えた。基命のみが再び叩頭して慎重を請うた。帝は「慎重とは因循に過ぎず、何の益があろうか」と言った。基命はまた叩頭して「敵は城下におり、平時とは異なります」と言った。帝は終に悟らなかった。大寿が軍に至ると、すぐに衆を擁して東へ潰走した。帝はこれを大いに憂えた。基命は「崇煥に手紙を書かせて招けば、必ず帰順するでしょう」と言った。当時、兵事は急を告げており、基命は数度建議し、すべて実行を許された。戒厳の際、文華殿で召対があり、帝は法紀が廃弛しているので、力を振るって刷新すべきだと述べた。基命は「治道は甚だしきを去るものであり、乱れた糸を整理するように、その端緒を探すべきで、急に変更すれば却って混乱を増します」と言った。帝は「緩慢ならば猛をもって糾すのであり、何が変更なのか」と言った。その後、温体仁がますます帝を操切に導いたため、天下はついに大乱となった。

三年二月、工部主事の李逢申が基命を弾劾し、袁崇煥の罪を逃れさせようとして、故意に慎重を請うたのだと言った。基命は罷免を求め、帝は逢申を一階級降格させた。韓爌・李標が相次いで去り、基命は首輔となり、周延儒・何如寵・錢象坤とともに政事にあたった。永平回復の功により叙勲され、ともに太子太保を加えられ、文淵閣に進んだ。六月になると、温体仁・呉宗達が入閣し、延儒・体仁が最も帝の寵愛を受け、結託して基命を排斥したため、基命はその地位を安んじられなくなった。崇煥の罪を議した時、基命は足を病んで出勤していなかった。錦衣の張道浚が委卸(責任放棄)を理由に弾劾し、工部主事の陸澄源の上疏が続いた。基命は上奏して弁明した。「澄源は、臣が二度とも廷推の首位にあったのは、韓爌らが崇煥を救うために利用しようとしたからだと言います。廷推の時、崇煥は重用されていたのであり、どうして将来の敗北を知って、事前に救おうと謀ることができましょうか。その説は逢申・道浚の流れを汲み、臣を追放せずにはおかないのです。帰郷を許されたい」。帝は慰留した。結局、三度上疏して自ら去った。

基命は性質寛厚で、何事も大体を堅持した。以前、四城が回復していなかった時、兵部尚書の梁廷棟が総理の馬世龍を恨み、更迭しようとして、枢輔の承宗を揺るがそうとしたが、基命が尽力して調停し、世龍はついに遵化・永平の功を収めた。尚書の張鳳翔・喬允升・韓継思が相次いで獄吏に下され、基命はみな彼らのために申し立てた。副都御史の易応昌が詔獄に下されたが、基命の言葉により、法司に下されることになった。御史の李長春・給事中の杜斉芳が私書の件で連座し、重刑に処せられようとした。基命が力強く救おうとしたが、聞き入れられず、会極門に長跪し、「祖宗の立法では、真の死罪でもなお三度覆奏します。どうして詔獄で一度訊問しただけで極刑に処することがありましょうか」と言った。辰の刻から酉の刻まで起き上がらなかった。帝の意が解け、戍辺に減刑された。逢申は初め基命を弾劾したが、後に大砲爆発の件で獄に下され戍辺が擬せられた。帝はなお軽すぎると考えたが、これも基命の言葉によって擬せられた通りとなった。首輔となって数か月、帝は延儒に政を委ねようとしたため、ついにその党に追放された。八年、家で卒した。少保を追贈され、文穆と諡された。

何如寵

何如寵、字は康侯、桐城の人。父の思鰲は棲霞県の知県となり、民に恩徳を施した。如寵は万暦二十六年の進士に及第し、庶吉士から累進して国子監祭酒となった。天啓の時、礼部右侍郎に任じられ、詹事府を協理した。五年正月、廷推で左侍郎に推されたが、魏広微が如寵は左光斗と同郷で親しいと言ったため、職を奪われ閑住した。

崇禎元年、吏部右侍郎に起用された。着任前に、礼部尚書に任じられた。宗藩の婚嫁・命名は、例によって朝廷に請うことになっていた。貧しい者は部で留められ、万暦末からこの時まで、上疏が累積して千を数え、白髪になっても家室を整えられず、骨が朽ちてもまだ名付けられない者がいた。如寵の請願により、貧しい宗室で嫁娶ができた者は六百余人に及んだ。大学士の劉鴻訓が増敕の件で、帝の怒りが測り知れず、如寵が力を尽くして分析弁明し、死を免れて辺境に戍ることで済んだ。翌年冬、京師が戒厳となると、都人の桀黠な者が私財を出して衆を集め官軍を助けようと請い、朝議はこれを壮とした。如寵は力説してその意図を測り難く、用い方を誤れば必ず内紛を引き起こすと言った。帝が召して問うと、初めと同じように答えた。帝が一枚の紙片を示すと、それは偵察から得たもので、如寵の言葉と合致したため、これによって知遇を受けた。十二月、周延儒・錢象坤とともに本官のまま東閣大学士を兼ね、内閣に入って政を輔佐するよう命じられた。帝が袁崇煥の族誅をしようとしたが、如寵が申し立てて救ったため、死を免れた者は三百余人に及んだ。累進して少保・戸部尚書・武英殿大学士となった。

四年春、延儒の副として会試を総裁した。事が終わると、すぐに休職を請い、九度上疏してようやく許された。陛辞の際、惇大明作の道を述べた。家に着くと、さらに時々『通鑑』を観て、古今の治乱・忠佞を察するよう請うた。言葉は甚だ切実であった。六年、延儒が政を罷めると、体仁が首輔となるはずであった。しかし延儒は体仁が自分を排斥したことを恨み、如寵を起用して体仁を抑えようと謀った。如寵は体仁を恐れ、六度上疏して辞退したため、体仁が首輔となった。

如寵は性質孝友であった。母は九十歳であったが、和やかに養い衰えさせなかった。操行は恬雅で、物と争わず、進み難く退き易く、世に特に高く評価された。十四年に卒した。福王の時、太保を追贈され、文端と諡された。

兄の如申は、如寵とともに進士に挙げられた。戸部郎中に任じられ、遼東で糧餉を督した。清廉な操行を持ち、軍士がさらに二年留任を請うた。ついに浙江右布政使で終わった。

錢象坤、字は弘載、会稽の人。万暦二十九年の進士。庶吉士に改められ、検討に授かり、諭徳に進み、庶子に転じた。泰昌に改元すると、少詹事に任じられ、講筵に直った。講義が終わると、宦官の王安が執政と議事しているのを見て、すぐに退出した。安が人をやって招いたが、堅く入らなかった。天啓の中頃、給事中が織造を論じて、言葉が中貴を侵したため、詔により杖刑に処せられようとしたが、閣臣が救えなかった。象坤が葉向高に講筵で面奏するよう言い、ようやく免れた。当時、立枷の法が行われ、甚だ惨かったが、象坤が帝に申し上げて、多くが寛大に釈放された。再び転じて礼部右侍郎兼太子賓客となった。

四年七月、向高が辞任した。御史の黄公輔は象坤が政権を握ることを憂慮し、向高を留めるよう請い、象坤を激しく誹謗した。象坤はついに辞去した。六年、廷推で南京礼部尚書に推された。魏忠賢の私党が繆昌期の党と指弾し、落職して閑住した。

崇禎元年、召されて礼部尚書に任じられ、詹事府を協理した。翌年冬、都城が兵に囲まれると、敵を防ぐ三策を条陳した。命を受けて城壁に登り分守し、厳寒の中でも怠らなかった。帝がこれを察知し、ついに何如寵とともに宰相とした。翌年、温体仁が入閣すると、象坤はその門生であったが、譲ってその下に居た。累進して少保となり、武英殿に進んだ。象坤は翰林にいた時、龍錫・謙益・士升とともに物望を負い、「四銭」と称された。体仁が宰相となってからも、迎合の跡はなかった。

四年、御史の水佳允が連続して兵部尚書の梁廷棟を弾劾した。廷棟は旨を待たずに上奏して弁明した。廷棟はもと象坤の門下であったため、佳允は象坤が漏らしたのではないかと疑い、言葉が象坤を侵した。延儒は廷棟がかつて自分の私党の贓罪を発覚させたことを恨み、廷棟を憎み、象坤をも憎んだ。象坤はついに五度上疏して病気を理由に去り、廷棟は落職した。給事中の呉執御・傅朝佑は象坤は進み難く退き易い人物であり、門生のことで累にすべきではないと称したが、聞き入れられなかった。家に居ること十年、病なくして卒した。太保を追贈され、文貞と諡され、一子に中書舎人の蔭官が与えられた。

徐光啓

徐光啓は字を子先といい、上海の人である。萬暦二十五年に郷試で第一となり、さらに七年後に進士となった。庶吉士から贊善を歴任した。西洋人利瑪竇に従い天文・暦算・火器を学び、その術をことごとく究めた。ついで兵機・屯田・塩策・水利などの諸書を広く修めた。

楊鎬が四路で軍を喪うと、京師は大いに震駭した。累次上疏して練兵し自ら報效することを請うた。神宗はその志を壮とし、少詹事兼河南道御史に超擢した。通州で練兵し、十の建議を列挙して上奏した。当時遼東の事態が緊迫していたため、その請いの通りにはできなかった。光啓が疏を奉って争うと、ようやく民兵と兵器を若干給することとなった。

間もなく熹宗が即位した。光啓の志は伸びず、官を裁去することを請うたが、聞き入れられなかった。やがて病を理由に帰郷した。遼陽が陥落すると召し出されて起用された。朝に戻り、西洋の大砲を多く鋳造して城守に資するよう強く請うた。帝はその言を善しとした。ちょうど採用を議していたが、光啓は兵部尚書崔景榮と意見が合わず、御史邱兆麟に弾劾され、また病を理由に移って帰郷した。天啓三年に元の官に起用され、まもなく礼部右侍郎に擢られた。五年、魏忠賢の党の智鋌に弾劾され、落職して閑住した。

崇禎元年に召還され、再び練兵の説を申し述べた。間もなく左侍郎として部の事務を掌理した。帝は国用の不足を憂い、廷臣に屯田・塩政の善策を献じるよう勅した。光啓は屯政は荒れ地を開墾するにあり、塩政は私販を厳禁するにあると述べた。帝はこれを褒めて受け入れ、本部尚書に擢った。当時帝は日食の予測が外れたことをもって、台官を罪に処そうとした。光啓は言う、「台官の測候は本来郭守敬の法によるものです。元の時代にも当たって食うべき時に食わなかったことがあり、守敬でさえそうでした。台官の占いが外れたのも無理はありません。臣は聞きます、暦法は長く経て必ず差が生じるもの、時を移さず修正すべきですと」。帝はその言に従い、西洋人龍華民・鄧玉函・羅雅谷らに暦法を推算させ、光啓を監督とした。

四年春正月、光啓は『日躔歴指』一卷・『測天約説』二卷・『大測』二卷・『日躔表』二卷・『割圜八線表』六卷・『黄道升度』七卷・『黄赤距度表』一卷・『通率表』一卷を進呈した。この冬十月辛丑の朔に日食があり、再び測候に関する四説を上奏した。その時差と里差を弁別する方法は、最も詳密であった。

五年五月、本官のまま東閣大学士を兼ね、機務に参与し、鄭以偉とともに任命された。まもなく太子太保を加えられ、文淵閣に進んだ。光啓はもとより経世済民の才を負い、世に用いられんとする志があった。権柄を用いるに至った時には、すでに年老いており、周延儒・温体仁が専政する時勢に当たり、建白するところができなかった。翌年十月に卒した。少保を贈られた。

鄭以偉は字を子器といい、上饒の人である。萬暦二十九年の進士。庶吉士に改められ、検討を授かり、累進して少詹事となった。泰昌元年、礼部右侍郎に任じられた。天啓元年、光宗が廟に祔されるに当たり、憲宗を祧すべきところ、太常少卿洪文衡は睿宗(興献王)を廟に入れるのは不当として、玉芝宮に祧すよう請うたが、以偉が認めずに止まり、論者は結局文衡を是とした。まもなく左侍郎として詹事府の協理となった。四年、以偉が講筵に当たり、宦官に逆らい、上疏して帰郷を告げた。崇禎二年、召されて礼部尚書に拝された。久しくして光啓とともに相となり、再び辞したが、許されなかった。以偉は修潔自ら好み、書は過目して忘れず、文章は奥深く博識であったが、票擬はその長じるところではなかった。かつて言う、「我は万巻に富むも、数行に窮す。乃ち後進に蔑ろにされる」。章疏の中に「何況」の二字があったのを、誤って人名と思い、旨を擬して問いを提げた。帝が駁して改めるよう命じて初めて悟った。これより詞臣は帝に軽んじられ、遂に館員は推知の職を歴任すべきとの諭旨があり、閣臣は専ら翰林を用いなくなった。以偉は累次休致を乞うたが、許されなかった。翌年六月、官のまま卒した。太子太保を贈られた。御史が言うには、光啓・以偉が相次いで没し、蓋棺の日、囊に余財無し。優しく恤みて貪墨の者を愧じ入らせるよう請うた。帝はこれを容れ、乃ち光啓に文定、以偉に文恪の諡を贈った。

その後二年、同安の林釬が大学士となったが、半年も経たずに卒した。またその清廉を称する者がおり、文穆の諡を得た。釬は字を実甫といい、萬暦四十四年の殿試で第三位となり、編修を授かった。天啓の時、国子司業に任じられた。監生陸万齢が太学の傍らに魏忠賢の祠を建てるよう請い、簿を具えて金を醵し、強いて釬を倡導者にしようとした。釬は筆を援って塗り抹し、その夕に冠を欞星門に掛けて直ちに帰郷した。忠賢は矯詔してその籍を削った。崇禎に改元すると、少詹事に起用された。九年に礼部侍郎より内閣に入り、謹願誠恪の称があった。

久しくして、帝は光啓の博学強識を思い、その家に遺書を求められた。子の驥が入朝して謝し、『農政全書』六十巻を進呈した。詔して有司に刊行頒布させ、太保を加贈し、その孫を中書舎人とした。

文震孟

文震孟は字を文起といい、呉県の人で、待詔文征明の曾孫である。祖父は国子博士の文彭、父は衛輝同知の文元発で、ともに名声と行いがあった。震孟は弱冠にして『春秋』で郷挙され、十度会試に赴いた。天啓二年に至り、殿試で第一となり、修撰を授かった。

時に魏忠賢が次第に権力を握り、外廷の臣下もこれに応じ、しばしば大臣を排斥し追放した。震孟は憤慨し、この冬十月に『勤政講学疏』を上奏して言う、「今四方多事にして、地を蹙め城を陥とし、軍を覆し将を殺すこと無き歳なし。これ大小の臣工が臥薪嘗胆すべき日なり。しかるに因循粉飾し、将に祖宗の天下をして日銷月削せしめんとす。陛下が常格を大いに破り、豪傑の心を鼓舞せざれば、天下の事いずくに終わるかを知らざるなり。陛下は昧爽に臨朝し、寒暑も廃せず、政は勤ならざるにあらず。然れども鴻臚が奏を引き、跪拝起立すること、傀儡の登場するが如きのみ。請う、祖宗の制に按じ、六部六科を唱えしめ、則ち六部六科以て次第に事を白せしめ、糾弾敷奏せしめ、陛下と輔弼の大臣と面して裁決せられん。然らば則ち聖智日に明習を加え、而して百執事各奮励の心あるべし。若し僅かに掲帖一紙、長跪一諾、北面一揖のみにては、何ぞ此の鴛行豸繡、横玉腰金する者を取るに足らんや。経筵日講、臨御期あり、学は講ぜざるにあらず。然れども侍臣の進読するや、文辞を鋪叙すること、蒙師の誦説するが如きのみ。祖宗の朝には、君臣相対すること家人父子の如し。軍国の重事を諮訪し、閭閻の隠微を照らし、情形畢く照らされ、奸詐蔵る所なく、左右近習も亦縁有りて蒙蔽すること無し。若し僅かに尊厳神の如く、上下拱手し、経伝典謨徒らに故事を循るのみにては、何ぞ此の正笏垂紳、展書簪筆する者を取るに足らんや。且つ陛下既に群臣と洽わず、朝夕侍御するもの中涓の輩を越えず、豈に帝王の宏遠なる規模を知らんや。ここにおいて危きこと山海の如く、而して閣臣一出するも、偷安の習を挽回する莫く、惨きこと黔囲の如く、而して撫臣坐視するも、厳譴の施を聞かず。近日の挙動、尤も異とすべきものあり。鄒元標去位し、馮従吾門を杜ぎ、首揆冢宰も亦相率いて退を求む。人国を空しくして私窟を営むこと、幾くんぞ濁流の投ずるに似たり。道学を詈りて名賢を逐うこと、偽学の禁に甚だし。唐・宋の末季、以て前鑑と為すべし」。疏入るや、忠賢はこれを屏して即時に奏せず。帝が劇を観るに乗じ、疏中の「傀儡登場」の語を摘まみ、帝を偶人に比すと謂い、殺さざれば以て天下に示すこと無しとし、帝は之を頷く。一日、講筵畢りて、忠賢が旨を伝え、震孟を廷杖八十す。首輔葉向高告に在り、次輔韓爌力爭す。会に庶吉士鄭鄤の疏復た入り、内批して俱に秩を貶し外に調ず。言官交章して論救すも、納れず。震孟も亦調に赴かずして帰る。六年冬、太倉の進士顧同寅・生員孫文豸、詩を以て熊廷弼を悼惜するに坐し、兵馬司に緝獲せらる。御史門克新、これを妖言と指し、震孟に波及し、編修陳仁錫・庶吉士鄭鄤と並びに民に斥く。

崇禎元年、侍読を以て召される。左中允に改め、日講官を充つ。三年春、逆案を定めた輔臣相継いで国を去り、忠賢の遺党王永光の輩日に乗機報復す。震孟抗疏して之を糾す。帝方に永光を眷し、報ぜず。震孟尋いで左諭徳に進み、司経局を掌り、直講は故の如し。五月、復た疏を上して曰く、「群小合謀し、辺才を借りて逆案を翻さんと欲す。天下に才無くして事を誤る君子有りとも、必ず忠を懐い国に報うる小人無し。今に平生無恥、名賢を惨殺する呂純如有り、且つ奥援に藉りて弁雪を思う。永光は六卿の長たり、威福を仮竊し、用舎を倒置し、事無くして専せず、而して狠を以て済し、念を発すれば必ず欺き、而して樸を以て飾る。年例の大典を以て祖制を変乱し、考選の盛挙を以て清才を擯斥す。挙朝震恐し、敢えて訟言するもの莫し。臣下雷同す、豈に国の福ならんや」。帝実を指して再奏せよと令す。震孟言う、「名賢を殺す者は、故吏部郎周順昌なり。年例は則ち吏科都給事中陳良訓を抑え、考選は則ち中書舎人陳士奇・潘有功を擯く是れなり」。永光甚だ窘り、密かに大奄王永祚と結び、士奇は姚希孟の門に出ずと謂い、震孟は希孟の舅なりとす。帝心之を疑う。永光の弁疏は温旨を得、而して震孟を責めて任情牽詆す。然れども群小の翻案の謀も亦ここに由りて中沮す。

震孟、講筵に在りて最も厳正なり。時に大臣数え逮繋せられ、震孟『魯論』の「君臣を礼を以て使う」一章を講じ、反覆規諷す。帝即ち旨を降し、尚書喬允升・侍郎胡世賞を獄より出だす。帝嘗て足を膝に加う。適た『五子之歌』を講じ、「人上たる者、奈何ぞ敬せざる」に至り、目を以て帝の足を視す。帝即ち袖を以て之を掩い、徐かに引き下ろす。時に「真の講官」と称す。既に権臣に忤い、避けて去らんと欲す。益府に出封し、便道に帰り、遂に復た出でず。

五年、即ち家より擢て右庶子と為す。久しくして、少詹事に進む。初め、天啓の時、詔して『光宗実録』を修めしむ。礼部侍郎周炳謨、神宗の時の儲位の臲卼及び「妖書」「梃撃」の諸事を載せ、直筆して阿る所無し。其の後忠賢柄を盗み、御史石三畏炳謨の職を劾削す。忠賢其の党をして重修せしめ、是非倒置す。震孟尤も謬れるもの数条を摘まみ、疏を上して改正を請う。帝特に平台に御し、廷臣を召して面議せしむも、卒に温体仁・王応熊に沮まれる。

八年正月、賊鳳陽の皇陵を犯す。震孟歴に乱を致すの源を陳し、因りて言う、「当事の諸臣、国を憂え公に奉ずること能わず、一統の朝に強いて畛域を分かち、膝に加え淵に墜つ、総て恩怨に由る。数年来、綱を振い紀を粛するは何事ぞ、賢を推し能を用うるは何人ぞ、内を安んじ外を攘うるは何の道ぞ、国を富ませ兵を強くするは何の策ぞ。陛下宜しく奮然一怒し、哀痛の詔を発し、失律の誅を按じ、誤国の罪を正し、撫綏の実政を行い、閭閻の積逋を寛うべし。先ず人心を収めて以て寇盗を遏ぎ、徐かに財を浚うの源を議し、徒らに沢を竭くして魚を漁ること無かるべし。患得患失の鄙夫を尽く斥け、群策群力を広く集めて以て乱を定め、国事庶幾くは瘳えんか」。帝優旨を以て之に報うるも、然れども亦尽く行うこと能わず。

故事に、講筵に『春秋』を列せず。帝治乱に裨益有りとし、人を択びて進講せしむ。震孟は『春秋』の名家、体仁に忌まれる所となり、隠して挙げず。次輔銭士升之に指及びす。体仁佯りて驚き曰く、「幾くんぞ此人を失わんとす」。遂に其の名を上す。及び進講するに、果たして帝の旨に称す。

六月、帝将に閣臣を増置せんとし、廷臣数十人を召し、票擬を以て試む。震孟疾を引きて入らず、体仁方に告に在り。七月、帝特に震孟を擢て礼部左侍郎兼東閣大学士と為し、入閣して政に預からしむ。両疏固く辞すも、許さず。閣臣命を受ければ、即ち刺を司礼の大奄に投じ、兼ねて儀状を致す。震孟独り然らず。司礼を掌る者曹化淳、故に王安に属する従奄、雅に震孟を慕い、人をして輾転意を道わしむるも、卒に往かず。震孟既に直に入る。体仁毎に旨を擬すれば必ず之に商い、改むる所有れば必ず従う。喜びて人に謂いて曰く、「温公虚懐す、何ぞ奸と云わん」。同官何吾騶曰く、「此人機深し、詎んぞ軽く信ぜんや」。十余日を越え、体仁其の疏を窺い、擬する所当たらずとすれば、輒ち改めしめ、従わざれば則ち径に抹去す。震孟大いに慍り、諸疏を以て体仁の前に擲つ。体仁亦顧みず。

都給事中許譽卿は、かつて魏忠賢を弾劾して名声があり、文震孟および吾騶は彼を南京太常卿に任用しようとした。温体仁は許譽卿の剛直を忌み、吏部尚書謝升に諷して、彼が福建布政使申紹芳と共に美官を求めて奔走したと弾劾させた。体仁は貶謫を擬し、帝がより重い処分を望むなら必ず改めさせると推測したが、果たしてその通りになった。そこで許譽卿を庶民に落とし、申紹芳を尋問することを擬した。震孟は争ったが叶わず、不満げに言った。「科道官が民になるとは、天下の極めて栄誉あることだ、公のおかげで成就された。」体仁はすぐにこれを帝に奏聞した。帝は果たして怒り、吾騶と震孟が私情に従って事を撹乱したと責めた。吾騶は罷免され、震孟は官を落とされて閑住した。

文震孟が任命を受けた時、既に鎮守中官を撤去する旨の命令があった。次輔王応熊が去った時、これを忌む者は震孟がそうさせたと言った。ここから彼が功を誇るという讒言が起こり、帝の心は移ってしまった。震孟は剛直方正で節操堅く、古の大臣の風格があったが、惜しいことに三ヶ月で斥けられ、その才能を十分に発揮できなかった。

帰郷して半年、甥の姚希孟が卒去したので、慟哭して悲しみ、自らもまた卒去した。廷臣が恩恤を請うたが、許されなかった。崇禎十二年、詔して元の官に復した。十五年、礼部尚書を追贈し、祭葬を賜い、一子に官職を与えた。福王の時、文肅と追謚された。二子は秉と乗。乗は国変に遭い、難に死した。

周炳謨、字は仲覲、無錫の人。父の子義は、嘉靖年間の庶吉士で、万暦年間に吏部侍郎に至り、卒して文恪と謚された。炳謨は万暦三十二年の進士である。『光宗実録』を重修した時、炳謨は既に先に卒去していた。崇禎初年、礼部尚書を追贈され、文簡と謚された。父子ともに学問と品行をもって世に称された。

蔣德璟

蔣德璟、字は申葆、晉江の人。父は光彥、江西副使であった。德璟は天啓二年の進士である。庶吉士に改められ、編修を授かった。

崇禎の時、侍読を経て少詹事に累遷し、救荒の事宜を条奏した。まもなく礼部右侍郎に抜擢された。当時民田を制限する議論があり、德璟は言った。「民田は奪うべからず、食を足すには粟を貴ぶに如くはない。北平、山西、陝西、江北の諸処では、民に開墾を許し、桑や棗の植栽を課し、農田水利を修めるべきである。府県官の考課満了は、これを以て殿最とすべきだ。常平倉・義倉については、毎年現物を輸送し、法令に従って行えば足りる。」十四年春、楊嗣昌が軍中で卒去し、九卿に罪を議するよう命じた。德璟は議して言った。「嗣昌は聚斂の議を唱え、剿餉・練餉を加え、天下の民を窮乏させ財を尽きさせ、皆を賊と化させた。また失事を隠し、戦功を飾った。仇鸞の事例に照らし、その罪を追って正すべきである。」従われなかった。

十五年二月、藉田の礼が成り、原任侍郎陳子壮、祭酒倪元璐等を召還するよう請うた。帝は皆これを録用した。六月、廷臣が閣臣を推挙し、德璟を筆頭とした。入朝して対し、辺境の臣は久任すべきであり、薊州総督は半年で五人も更迭し、事は益々廃弛すると言った。帝は「不適任なら更迭すべきだ」と言うと、対して「後で更迭するより、初めに慎重に選ぶ方が良い」と答えた。帝が「天変はどうすれば止むか」と問うと、対して「百姓を救うに如くはありません。近ごろ遼餉千万、練餉七百万を加え、民はどうして耐えられようか。祖制では、三協にはただ一督・一撫・一総兵のみであったが、今は二督・三撫・六総兵を増やし、また副将数十人を設け、権が統一されず、どうして勝利を制せようか」と答えた。帝はうなずいた。首輔周延儒はかつて德璟が淵博で顧問に備えうる、文体が華麗で代言に適すると推薦していた。そこで德璟と黄景昉・吳甡を礼部尚書兼東閣大学士に抜擢し、共に内閣に入直させた。延儒と甡はそれぞれ派閥を作ったが、德璟は誰にも与しなかった。性は鯁直で、黄道周が召用され、劉宗周が免罪されたのは、德璟の力が多かった。開封が長く包囲されていたので、自ら馳せ往って諸将を督戦することを請うたが、優詔で許されなかった。

翌年、『御覧備辺冊』を進呈した。九辺十六鎮の新旧の兵と食糧の数、及び屯田・塩法・民運・漕糧・馬価のすべてを記載していた。後に『諸辺撫賞冊』及び『御覧簡明冊』を進呈した。帝は深くこれを嘉した。諸辺の兵馬数を戸部に報告するものは、兵部の報告より半数以上多く、食糧の消耗が甚だしかった。また屯田・塩引・民運は、一鎮ごとに数十万から百万に及び、すべて辺臣の言いなりであった。天津海道から薊州・遼東へ毎年輸送する米豆三百万は、倉場督臣及び天津巡撫のみが出入りし、部中は皆これを稽核しなかった。德璟は部臣に語り、部の運送・天津運送・各辺の民運・屯田・塩法を合わせて計画すれば、餉額は充足し、加派の餉は削減できると言った。そこでさらに十事を条陳して部臣に責めさせたが、結局すべてを是正することはできなかった。

ある日召対があり、帝が練兵について語った。德璟は言った。「『会典』によれば、高皇帝が軍士を教練された時は、一に弓弩刀槍をもって賞罰を行い、これが練軍の法である。衛所の総旗・小旗が役を補うには、槍の勝負をもって昇降を決した。凡そ武官が比試するには、必ず騎射に精通して初めて世襲を許された。これが練将の法である。どうして今になって初めて兵を設けるというのか。」帝は慄然とした。また言った。「祖制では、各辺が軍を養うのは屯田・塩法・民運の三つのみで、元来京から運ぶ銀はなかった。正統年間に始めて数万あり、万暦末に至っても三百余万に過ぎなかった。今では遼餉・練餉を旧餉に合わせて二千余万にもなるのに、兵はかえって昔より少なく、消耗腐敗がこのようである。」また言った。「文皇帝は京衛七十二を設け、軍四十万を計上された。畿内八府には軍二十八万。また中部・大寧・山東・河南の班軍十六万があった。春秋に京に入り操演し、重きを内に居えて軽きを馭する勢いを深く得ていた。今は皆虚名のみである。かつてより征討には皆衛所の官軍を用いたが、嘉靖末に始めて兵を募り、遂に軍を用いなくなった。加派が日増しになり、軍民ともに困窮している。願わくは二祖の法に倣い、旧制を修復されたい。」帝はこれを是としたが、果たして行われなかった。

十七年、戸部主事蔣臣が紙幣発行を請い、毎年三千万貫を造り、一貫の価格を一両とすれば、毎年銀三千万両を得られると言った。侍郎王鰲永がこれを支持して実行した。帝は特に内宝鈔局を設け、昼夜督造し、商人を募って発売したが、一人も応じる者はいなかった。德璟は言った。「百姓は愚かであっても、誰が金一両で紙一枚を買おうか。」帝は聞き入れなかった。また局官の言により、畿輔・山東・河南・浙江から桑の皮二百万斤を徴発するよう命じた。德璟は力爭し、帝は彼の奏疏を留中して下さず、後に結局免除された。先に軍儲が不足したため、毎年畿輔・山東・河南の富戸を徴発し、代価を与えて米豆を買わせ天津に輸送させ、百万にまで及び、民は大いに擾乱された。德璟は召対の際にその害を面陳すると、帝はすぐに諭旨を起草してこれを廃止するよう命じた。

二月、帝は賊の勢いが次第に迫るのを以て、群臣に会議させ、二十二日に奏聞するよう命じた。都御史李邦華が密疏を上し、輔臣は知っていながら敢えて言わないと述べた。翌日、帝はその疏を手に取り、何事かと問うた。陳演が少詹事項煜の東宮南遷の議を以て答えると、帝は取って見て黙然とした。德璟は傍らから力強く賛成したが、帝は答えなかった。

給事中光時亨が練餉の弊害を追及して論じた。蔣德璟が旨を草擬して「従来、聚斂の小人が練餉を唱え、民を窮乏させ禍を結ばせ、国を誤ること甚だ深し」と述べた。帝は喜ばず、詰問して「聚斂の小人とは誰か」と言った。德璟は楊嗣昌を名指しできず、元尚書の李待問を挙げて答えた。帝は「朕は聚斂をしているのではない、ただ兵を練りたいだけだ」と言った。德璟は「陛下がどうして聚斉をなさろうか。しかし既に旧餉五百万、新餉九百余万があり、さらに練餉七百三十万を増やしている。臣の戸部は実に責めを免れ難い。しかも練った兵馬はどこにあるのか。薊督は四万五千を練るとしたが、今は二万五千に過ぎない。保督は三万を練るとしたが、今は二千五百に過ぎない。保鎮は一万を練るとしたが、今は二百に過ぎない。山・永の兵七万八千、薊・密の兵十万、昌平の兵四万、宣大・山西及び陝西の三辺各二十余万は、一旦抽練すると、原額の兵馬は全て問われず、抽いた兵もまた練られず、ただ餉七百余万を増やして民の累とするのみである」と言った。帝は「今は既に三餉を一つに併せた、多く言う必要はない」と言った。德璟は「戸部は併せたが、州県が追徴するのは依然として三餉である」と言った。帝は激怒し、朋比を責めた。德璟は力強く弁明し、諸輔臣が救いを請うた。尚書倪元璐は鈔餉が戸部の職務であるとして自ら咎を引き受け、帝の怒りはやや解けた。翌日、德璟は上疏して罪を引いた。帝はやがて練餉を廃止したが、德璟は結局三月二日に去位した。給事中汪惟效、検討傅鼎銓らが相次いで上疏して留任を請うたが、聞き入れられなかった。德璟は山西陥落の報を聞き、敢えて行かなかった。廷臣が自分を留めようとしていると知ると、すぐに朝廷に別れを告げ、外城に移り住んだ。賊が至ると、逃亡することができた。

福王が南京に立つと、内閣に召された。自ら三つの罪を陳べて、固辞した。翌年、唐王が福州に立つと、何吾騶・黄景昉と共に召された。さらに翌年、足疾を理由に辞して帰郷した。九月、唐王の事が敗れ、德璟は丁度病が重く、その月に卒した。

黄景昉、字は太稚、これも晋江の人である。天啓五年の進士。庶吉士より歴官して庶子となり、日講を直した。崇禎十一年、帝が経筵に臨み、用人之道を問うた。景昉は「近頃考選が不公で、推官の成勇・朱天麟は廉能で素より著しいのに、清華の選に預かれない」と言い、また「刑部尚書鄭三俊は四朝の元老で、至って清廉で比類なく、長く獄に繋がれるべきではない」と言った。退いてさらに上章してこれを論じ、三俊はやがて釈放され、成勇らも皆改官された。

景昉はまもなく少詹事に進んだ。嘗て召対され、「近く監視中官の高起潜を撤還したところ、関外で直ちに警報が聞こえ、この中に隠れた事情があるのではないかと疑う。臣の家は海浜にあり、沿海の将吏が毎度調発があると、すぐに海警を報じて、留任を望むのを見た。類を推して触れると、その実情は自ずから明らかである」と言った。帝はうなずいた。十四年、詹事として翰林院を兼掌した。当時庶常の選は久しく停止されていたが、景昉は上疏して復活を請い、また修撰劉同升・編修趙士春を召還するよう請うたが、いずれも報われなかった。

十五年六月、召対で帝意にかなったため、蔣德璟・呉甡と共に宰相となった。翌年、共に太子少保を加えられ、戸部尚書・文淵閣大学士に改めた。南京の操江は従来文武二員を設けていたが、帝は文臣を削って、専ら誠意伯劉孔昭に任せようとした。副都御史の惠世揚が遅々として至らないので、帝はその官籍を削るよう命じた。景昉はともに上疏して争ったが、帝は喜ばず、ついに連続して上疏して帰郷を請うた。唐王の時、召されて入直したが、まもなく、再び告帰した。国変の後、家に居ること十数年でようやく卒した。

方岳貢

方岳貢、字は四長、谷城の人。天啓二年の進士。戸部主事に授けられ、郎中に進んだ。倉庫を歴任し、永平の糧儲を督し、ともに廉謹をもって知られた。

崇禎元年、松江知府として出た。海浜には賊が多く、捕らえるとすぐに杖殺した。郡の東南は大海に臨み、颶潮が沖撃して、時に民の患いとなったので、石堤を二十里余り築き、ついに永利となった。郡の漕糧は京師に数十万石を運ぶが、諸倉は五里離れていたので、城垣を築いてこれを守り、「倉城」と名付けた。その他、救荒・助役、修学・課士など、いずれも成績があり、卓異として挙げられることが数度あった。薛国観が失脚すると、その私的な関係にある上海の王陛彥が官吏に下され、もとより岳貢と隙があったため、岳貢がかつて国観に三千金を贈ったと述べ、ついに逮捕された。士民が宮廷に赴いて冤罪を訴え、巡撫の黄希もその誣告を明らかにし、法司に下して審議奏上させた。ある日、帝が輔臣と気楽に会見し、「ある知府が俸を積むこと十余年、たびたび卓異として挙げられた者は誰か」と問うた。蔣德璟が岳貢と答えた。帝は「今はどこにいるか」と言い、德璟がさらに王陛彥の連座であると答えると、帝はうなずいた。法司が審議を上奏し、賄賂の事実はなく、官に復すべきだと述べた。帝はその清廉で堅固なことを賞し、許可した。

まもなく、給事中の方士亮が岳貢及び蘇州知府陳洪謐を推薦し、山東副使兼右参議に抜擢され、江南糧儲を総理した。督した漕艘は期日に通州に着いた。帝は大いに喜んだ。吏部尚書鄭三俊が天下の廉能な監司五人を挙げたが、岳貢もその中にいた。帝は急いで入対させ、平臺で引見し、為政で何を先とするかと問うた。答えて「天下を治平にしたいなら、守令を選ぶことにある。守令の賢否を察するのは監司にある。監司の賢否を察するのは巡方にある。巡方の賢否を察するのは総憲にある。総憲に適任を得れば、御史がどうして自ら法を試みようか」と言った。帝はこれを良しとし、食を賜い、日暮れになってようやく退出した。六日後、すぐに左副都御史に超擢した。嘗て召対された時、帝が丁度事があって吏部尚書李遇知を詰問した。遇知は「臣は正に糾駁しようとしている」と言った。岳貢は「どうしてすぐに題参しないのか」と言い、深く帝意に合った。翌日、本官のまま東閣大学士を兼ねるよう命じられた。時は十六年十一月である。故事では、閣臣が都御史の官銜を帯びることはなかったが、岳貢から始まった。

岳貢は本来吏才に優れていた。宰相となってからは、簿書の検査に努め、赦前の旧賦を審査するよう請い、意は搜括にあり、声名を大いに損なった。十七年二月、戸部・兵部二尚書兼文淵閣大学士として漕運・屯田・練兵の諸務を総督し、済寧に駐屯するよう命じられた。已にして行かなかった。

李自成が京師を陥落させると、岳貢及び邱瑜は捕らえられ、劉宗敏の所に幽閉された。賊が銀を要求したが、岳貢は元来清廉で貧しく応じるものなく、拷掠を極めた。その邸宅を捜索したが何もなく、松江の商人が代わりに千金を納めた。四月朔日、邱瑜と共に釈放された。十二日、賊が既に陳演らを殺した後、監守者に命じて二人も殺させた。監守者は縄を奉げ、二人は共に縊死した。

邱瑜、宜城の人。天啓五年の進士。庶吉士より検討に授けられた。崇禎年間、累遷して少詹事となった。襄陽陥落の際、瑜は難に遭った宗室を恤れ、才吏を選べ、死節を旌せ、催征を停め、郵駅の困窮を蘇らせ、労役を禁ずるの六事を上奏した。帝はこれを採納した。礼部左右侍郎を歴任した。召対の際、「督師孫傳庭が関を出ることは、安危の繋がるところであり、慎んで軽々しく出ることを促さぬように。関中を鎮定させれば、なお諸将を号令し、機に乗じて進剿することができる」と言った。帝は従うことができなかった。十七年正月、本官のまま東閣大学士を兼ね、範景文と共に内閣に入った。都城陥落後、二度にわたり拷掠を受け、捜索で得られたのは二千金に過ぎず、やがて害された。

瑜の子之陶は、年少にして才幹と謀略あり。李自成が宜城を陥落させると、瑜の父民忠は賊を罵って死す。之陶は捕らえられ、兵政府の従事に用いられ、まもなく本府の侍郎として襄陽を守る。襄陽尹の牛佺は、賊の宰相金星の子なり、その信任は之陶に及ばず。之陶は蠟丸の書を傅庭に送りて曰く、「督師之と戦い、吾は詭りて左鎮の兵大いに至ると言い、其の心を揺るがせば、彼必ず返り顧みん。督師其の後を撃ち、吾は中より起これば、賊は滅ぼすべし」と。傅庭大いに喜び、報書をその言の如くす、賊の邏者の得るところとなる。傅庭は内応を恃み、連営して前進す、之陶果たして火を挙げ、左兵の大いに至るを報ず。自成其の詐りを得て験し、召して傅庭の書を示し、己に背けるを責む。之陶大いに罵りて曰く、「吾は汝を万段に斬らざるを恨む、豈に汝に従いて反せんや」と。賊怒り、之を支解す。

賛に曰く、荘烈帝在位僅かに十七年、輔相五十余人に至る。其の令名を克く保つ者は、数人のみ、標等の如き是なり。基命は能く旧輔を推轂して危難を定め、震孟は風節を以て顕れ、徳璟は旧章に諳悉す。陸喜の薛瑩を論ずる者を以て之を観れば、所謂侃然として国を体し、正を執りて懼れず、時宜を斟酌し、時に微益を献ずる者か。至りて危を扶け傾を定むるは、殆ど言う易きに非ざるなり。嗚呼、国歩方に艱しく、人材亦た俱に尽き、其の由来する所漸し。