明史

列傳第一百三十九 李標 劉鴻訓 錢龍錫 成基命 何如寵 徐光啟 文震孟 蔣德璟 方岳貢

列傳第一百三十九 李標 劉鴻訓 錢龍錫 成基命 何如寵 徐光啟 文震孟 蔣德璟 方岳貢

原文列傳第一百三十九 李標 劉鴻訓 錢龍錫 成基命 何如寵 徐光啟 文震孟 蔣德璟 方岳貢

○李標(李國𣚴 周道登)劉鴻訓 錢龍錫(錢士升 錢士晉)成基命 何如寵(兄如申 錢象坤)徐光啟(鄭以偉 林釬)文震孟(周炳謨)蔣德璟(黃景昉)方岳貢(邱瑜 瑜子之陶)

原文○李標(李國𣚴 周道登)劉鴻訓 錢龍錫(錢士升 士晉)成基命 何如寵(兄如申 錢象坤)徐光啟(鄭以偉 林釬)文震孟(周炳謨)蔣德璟(黃景昉)方岳貢(邱瑜 瑜子之陶)

李標

原文李標

李標、字あざなは汝立、高邑の人。萬歷三十五年の進士。庶吉士に改められ、檢討を授かる。泰昌の時、累遷して少詹事となる。天啓の中頃、擢て禮部右侍郎に拜され、詹事府を協理す。標は同郷の趙南星に師事し、黨人がこれを忌み、名を『東林同志録』の中に列ねる。標は禍を懼れ、疾を引いて帰る。

原文李標,字汝立,高邑人。萬歷三十五年進士。改庶吉士,授檢討。泰昌時,累遷少詹事。天啟中,擢拜禮部右侍郎,協理詹事府。標師同邑越南星,黨人忌之,列名《東林同志錄》中。標懼禍,引疾歸。

莊烈帝が位を嗣ぐや、即ち家にて禮部尚書兼東閣大學士に拜す。崇禎元年三月、朝に入る。未だ幾ばくもせず、李國𣚴、來宗道、楊景辰相継ぎ去り、標遂に首輔となる。帝は治を図るに鋭意にして、恒に大臣を召して庶政を面決す。宣府巡撫李養沖、疏を上りて旗尉の往来織の如く、蹤跡憑み難く、且つ費の出す所無きを慮る、と言ふ。帝以て標等に示して曰く、「邊情危急、旗尉を遣はして偵探す、奈何ぞ偽りと為すや。且つ祖宗朝廠衛を設立するは、奚の為めぞ」と。標對へて曰く、「事固より慎むべし。養沖は賂はざれば恐らく毀言日より至らんとし、之に賂すれば則ち物力勝ひ難しと為すのみ」と。帝默然たり。同官の劉鴻訓、敕を増す事を以て御史吳玉に糾さる。帝鴻訓を法に置かんと欲す。標力めて其の賄を納るるの誣を辯す。溫體仁、錢謙益を訐て己が浙闈の事を結ぶを引きて詞と為す。給事中章允儒、廷にて之を駁す。帝怒り、謙益と並びて重く譴らんとし、又た給事中瞿式耜、御史房可壯等を罪せんと欲す。標言ふ、「陛下謙益、允儒を処分せらるるは、本體仁の言に因る。體仁乃ち安んぜずして罷めを求む。乞ふらくは陛下謙益の事恩詔を経るを念ひ、姑く回籍を令せよ。允儒に於ては仍ほ自新を許し、而して式耜等は概ね薄罰に従はしめよ。諸臣安んずれば、體仁も亦安んず」と。帝従はず、是より朝臣に黨有るを深く疑ひ、標等遂に其の志を行ふを得ず。是の冬、韓爌朝に還り、標首輔を譲る。尋で爌等と逆案を定む。

原文莊烈帝嗣位,即家拜禮部尚書兼東閣大學士。崇禎元年三月入朝。未幾,李國𣚴、來宗道、楊景辰相繼去,標遂為首輔。帝銳意圖治,恒召大臣面決庶政。宣府巡撫李養沖疏言旗尉往來如織,蹤跡難憑,且慮費無所出。帝以示標等曰:「邊情危急,遣旗尉偵探,奈何以為偽?且祖宗朝設立廠衛,奚為者?」標對曰:「事固宜慎。養沖以為不賂恐毀言日至,賂之則物力難勝耳。」帝默然。同官劉鴻訓以增敕事為御史吳玉所糾,帝欲置鴻訓於法,標力辯其納賄之誣。溫體仁訐錢謙益引己結浙闈事為詞,給事中章允儒廷駁之。帝怒,並謙益將重譴,又欲罪給事中瞿式耜、御史房可壯等。標言:「陛下處分謙益、允儒,本因體仁言,體仁乃不安求罷。乞陛下念謙益事經恩詔,姑令回籍;於允儒仍許自新,而式耜等概從薄罰。諸臣安,體仁亦安。」帝不從,自是深疑朝臣有黨,標等遂不得行其志。是冬,韓爌還朝,標讓為首輔,尋與爌等定逆案。

三年正月、爌罷め、標復た首輔となり、累加して少保兼太子太保、戶部尚書、武英殿大學士に至る。先づ、標と並び相たる者六人、宗道、景辰は珰に附くを以て斥けられ、鴻訓は敕を増すを以て戍せられ、周道登、錢龍錫は攻められて去り、獨り標在り、遂に五疏を上りて休を乞ふ。三月に至りて請ひを得。家に居ること六年にして卒す。少傅を贈られ、文節と謚さる。

原文三年正月,爌罷,標復為首輔,累加至少保兼太子太保、戶部尚書、武英殿大學士。先是,與標並相者六人,宗道、景辰以附珰斥,鴻訓以增敕戍,周道登、錢龍錫被攻去,獨標在,遂五疏乞休。至三月得請。家居六年卒。贈少傅,謚文節。

李國𣚴、字は元治、高陽の人。萬歷四十一年の進士。庶吉士より歴官して詹事となる。天啓六年七月、超擢して禮部尚書、内閣に入る。褐を釋くこと十四年にして即ち宰輔に登る。魏忠賢、同郷の故を以て之を援く也。然れども國𣚴每に正論を持す。劉志選、張國紀を劾して以て中宮を撼かさんとす。國𣚴言ふ、「子は父を佐けて母を難くすべからず、而るに況や間無きの父母をや」と。國紀乃ち罪を免るるを得。御史方震孺及び高陽令唐紹堯獄に繫がる、皆力めて保全す。崇禎初め、登極の恩を以て左柱國、少師兼太子太師、吏部尚書、中極殿大學士に進む。國子監生胡煥猷、國𣚴等を劾して衣冠を褫ふ。國𣚴之を薦めて復す。時人長厚と稱す。元年五月、請ひを得て里に歸り、韓爌、孫承宗を薦めて自ら代はる。卒し、太保を贈られ、文敏と謚さる。宗道、景辰の事は『黃立極傳』の中に見ゆ。

原文李國{{僻字|𣚴|左木右普}},字元治,高陽人。萬歷四十一年進士。由庶吉士歷官詹事。天啟六年七月,超擢禮部尚書入閣。釋褐十四年即登宰輔,魏忠賢以同鄉故援之也。然國𣚴每持正論。劉志選劾張國紀以撼中宮,國𣚴言:「子不宜佐父難母,而況無間之父母乎!」國紀乃得免罪。御史方震孺及高陽令唐紹堯繫獄,皆力為保全。崇禎初,以登極恩進左柱國、少師兼太子太師、吏部尚書、中極殿大學士。國子監生胡煥猷劾國𣚴等褫衣冠,國{{僻字|𣚴|左木右普}}薦復之,時人稱為長厚。元年五月得請歸里,薦韓爌、孫承宗自代。卒,贈太保,謚文敏。宗道、景辰事見《黃立極傳》中。

周道登、吳江の人。萬歷二十六年の進士。庶吉士より歴遷して少詹事となる。天啓の時、禮部左侍郎と為り、頗る爭執有り。病を以て歸る。五年秋、廷推して禮部尚書と為る。魏忠賢其の籍を削る。崇禎初め、李標等と同く内閣に入る。道登學術無く、奏對鄙淺、傳へて以て笑ひと為す。御史田時震、劉士禎、王道直、吳之仁、任贊化、給事中閻可陛交はりて之を劾す。悉く廷議に下す。吏部尚書王永光等、道登樞臣王在晉及び宗生朱統飾、鄉人陳於鼎の館選の事を黨護すと言ふ。俱に實跡有り。乃ち罷めて歸る。閱ふこと五年にして卒す。

原文周道登,吳江人。萬歷二十六年進士。由庶吉士歷遷少詹事。天啟時,為禮部左侍郎,頗有所爭執。以病歸。五年秋,廷推禮部尚書,魏忠賢削其籍。崇禎初,與李標等同入閣。道登無學術,奏對鄙淺,傳以為笑。御史田時震、劉士禎、王道直、吳之仁、任贊化,給事中閻可陛交劾之,悉下廷議。吏部尚書王永光等言道登黨護樞臣王在晉及宗生朱統飾、鄉人陳於鼎館選事,俱有實跡,乃罷歸。閱五年而卒。

劉鴻訓

原文劉鴻訓

劉鴻訓、字は默承、長山の人。父一相、進士より歴官して南京吏科給事中となる。故相張居正の事を追論し、執政之を忌み、出でて隴右僉事と為る。終に陜西副使。

原文劉鴻訓,字默承,長山人。父一相,由進士歷南京吏科給事中。追論故相張居正事,執政忌之,出為隴右僉事。終陜西副使。

萬歷四十一年、鴻訓第に登り、庶吉士より編修を授かる。神宗、光宗二宗相継ぎ崩ず。詔を朝鮮に頒つ。甫く境に入るや、遼陽陷つ。朝鮮為に二洋舶を造り、海道より還る。沿途難民を収む。舶重くして壞る。淺沙に跳り、小舟に入り、飄泊すること三晝夜、僅かに登州に達して命に報ず。母喪に遭ひ、服闋け、右中允に進み、轉じて左諭德、父喪に歸る。天啓六年冬、起きて少詹事と為り、魏忠賢に忤ひ、斥けられて民と為る。

原文萬歷四十一年,鴻訓登第,由庶吉士授編修。神、光二宗相繼崩,頒詔朝鮮。甫入境,遼陽陷。朝鮮為造二洋舶,從海道還。沿途收難民,舶重而壞。跳淺沙,入小舟,飄泊三日夜,僅得達登州報命。遭母喪,服闋,進右中允,轉左諭德,父喪歸。天啟六年冬,起少詹事,忤魏忠賢,斥為民。

莊烈帝即位し、禮部尚書兼東閣大學士に拜し、機務に參預す。行人を遣はして之を召す。三たび辭し、允さず。崇禎元年四月、朝に還る。是の時に當たり、忠賢敗るるも、其の黨猶ほ盛んにして、言路新進の者群り起ちて之を抨撃す。諸執政嘗て忠賢と事を共にし、敢へて顯かに別白を為さず。鴻訓至り、毅然として主持し、楊維垣、李恒茂、楊所修、田景新、孫之獬、阮大鋮、徐紹吉、張訥、李蕃、賈繼春、霍維華等を斥く。人情大いに快しとす。而して御史袁弘勛、史褷、高捷本より維垣輩進み、謀を合はせて鴻訓を攻め去らんと思ふ。則ち黨人安んず可き也。弘勛乃ち言ふ、所修、繼春、維垣夾攻して表裏の奸、功有りて罪無し、而るに誅鋮自ら三臣より始まると。又た鴻訓を詆りて朝鮮に使し、滿載の貂參を以て歸ると。錦衣僉事張道浚も亦た鴻訓を攻め訐る。鴻訓奏して辯す。給事中顏繼祖言ふ、「鴻訓先朝削奪せらる。朝鮮一役、舟敗れ、僅かに身を以て免る。乞ふらくは鴻訓を諭して入直せしめ、共に安攘の策を籌らしめよ。弘勛の題を借りて人を傾くる、道浚の位を出でて政を亂すに至りては、重く創さざれば未だ已む無からん」と。帝之を是とす。給事中鄧英乃ち盡く弘勛の贓私を發し、且つ言ふ、弘勛千金を以て維垣に贄りて御史を得たりと。帝怒り、弘勛の職を落として勘を候はしむ。已にして高捷疏を上りて言ふ、鴻訓奸を撃つ維垣、所修、繼春、大鋮を斥け、而して孫之獬の流涕の忠言を納れず。謬りて『要典』を焚毀するを主とし、以て私黨孫慎行の進用を便にすと。帝妄言を以て責め、其の俸を停む。史褷復た捷を佐けて之を攻む。言路多く兩人を直とせず、兩人遂に罷め去る。

原文莊烈帝即位,拜禮部尚書兼東閣大學士,參預機務,遣行人召之。三辭,不允。崇禎元年四月還朝。當是時,忠賢雖敗,其黨猶盛,言路新進者群起抨擊之。諸執政嘗與忠賢共事,不敢顯為別白。鴻訓至,毅然主持,斥楊維垣、李恒茂、楊所修、田景新、孫之獬、阮大鋮、徐紹吉、張訥、李蕃、賈繼春、霍維華等,人情大快。而御史袁弘勛、史褵、高捷本由維垣輩進,思合謀攻去鴻訓,則黨人可安也。弘勛乃言所修、繼春、維垣夾攻表裏之奸,有功無罪,而誅鋤自三臣始;又詆鴻訓使朝鮮,滿載貂參而歸。錦衣僉事張道浚亦訐攻鴻訓,鴻訓奏辯。給事中顏繼祖言:「鴻訓先朝削奪。朝鮮一役,舟敗,僅以身免。乞諭鴻訓入直,共籌安攘之策。至弘勛之借題傾人,道浚之出位亂政,非重創未有已也。」帝是之。給事中鄧英乃盡發弘勛贓私,且言弘勛以千金贄維垣得御史。帝怒,落弘勛職候勘。已而高捷上疏言鴻訓斥擊奸之維垣、所修、繼春、大鋮,而不納孫之獬流涕忠言;謬主焚毀《要典》,以便私黨孫慎行進用。帝責以妄言,停其俸。史褷復佐捷攻之。言路多不直兩人,兩人遂罷去。

七月、四川の賊が平定されたことを以て、鴻訓に太子太保を加え、文淵閣に進めた。帝はたびたび廷臣を召見した。鴻訓の応対は特に敏捷で、民の困窮は吏の職を失うことによるとして、帝に久任して責成することを請うた。尚書畢自嚴は賦を治めるに善く、王在晉は兵を治めるに善いとして、帝に倚信を加えるよう請うた。帝は初めは甚だ彼に傾いた。関門の兵が欠餉を以て騒動を起こすと、帝は戸部を責める意であったが、鴻訓は帑金三十万を発するよう請い、測り難い恩を示すべきとし、これによって帝の意に背いた。

原文七月,以四川賊平,加鴻訓太子太保,進文淵閣。帝數召見廷臣。鴻訓應對獨敏,謂民困由吏失職,請帝久任責成。以尚書畢自嚴善治賦,王在晉善治兵,請帝加倚信。帝初甚向之。關門兵以缺餉鼓噪,帝意責戶部,而鴻訓請發帑三十萬,示不測恩,由是失帝指。

九月に至って、勅書を改める事件が起こった。旧例では、京営を督する者は巡捕軍を管轄しない。恵安伯張慶臻が京営を総督した際、勅書に「兼ねて捕営を轄す」との語があり、提督鄭其心が職権侵害であると論じた。命じて中書が賄賂で改めた経緯を調査させ、舎人田佳璧を獄に下した。給事中李覚斯が言うには、「原稿は兵部に備わり、輔臣に送って裁定を仰ぎ、それから中書に繕写させた。書き終わって、再び審視して進呈した。兵部及び輔臣は皆問うべきである」と。十月、帝が便殿に御し、閣臣に問うたが、皆知らないと謝した。帝は怒り、廷臣に劾奏させた。尚書自厳らも知らないと謝し、帝はますます怒った。給事中張鼎延、御史王道直は皆、慶臻に行賄の跡があるが、誰が主使したかは知らないと言った。御史劉玉が言うには、「主使者は鴻訓である」と。慶臻は言った、「勅書を改めるのは中書の事であり、臣は実は予め知らなかった。しかも捕卒の管轄を増やすことで、利益がどれほどあるというのか、重い賄賂を行うだろうか」と。帝は彼を叱責した。兵部の掲示文に鴻訓が西司房に批した語があるのを閲覧し、佳璧も鴻訓の指図を受けたと供述したため、事は遂に解けなくなり、侍郎張鳳翔が特に激しく彼を誹謗した。閣臣李標、錢龍錫は鴻訓にこのようなことがあるべきでないとし、更に察訪を請うた。帝は言った、「事は既に明らかである、どうして更に訪ねる必要があろうか」と。旨を起草するよう促した。標らは逡巡して上奏せず、礼部尚書何如寵が鴻訓のために力強く弁護したが、帝の意は結局翻らなかった。そこで旨を起草し、鴻訓、慶臻をともに革職して審理を待たせた。間もなく、御史田時震が鴻訓が田仰を四川巡撫に任用し、賄賂二千両を受けたと弾劾した。給事中閻可陛が副都御史賈毓祥が賄賂によって鴻訓に抜擢任用されたと弾劾した。鴻訓はたびたび弾劾され、連章して力強く弁明し、ついで「都中の神奸狄姓の者が、詭計で慶臻から千金を騙し取り、臣をして無辜の禍を受からしめた」と言った。帝は聞き入れず、廷臣に議罪させた。

原文至九月而有改敕書之事。舊例,督京營者,不轄巡捕軍。惠安伯張慶臻總督京營,敕有「兼轄捕營」語,提督鄭其心以侵職論之。命核中書賄改之故,下舍人田佳璧獄。給事中李覺斯言:「稿具兵部,送輔臣裁定,乃令中書繕寫。寫訖,復審視進呈。兵部及輔臣皆當問。」十月,帝御便殿,問閣臣,皆謝不知。帝怒,令廷臣劾奏;尚書自嚴等亦謝不知,帝益怒。給事中張鼎延、御史王道直鹹言慶臻行賄有跡,不知誰主使。御史劉玉言:「主使者,鴻訓也。」慶臻曰:「改敕乃中書事,臣實不預知。且增轄捕卒,取利幾何,乃行重賄?」帝叱之。閱兵部揭有鴻訓批西司房語,佳璧亦供受鴻訓指,事遂不可解,而侍郎張鳳翔詆之尤力。閣臣李標、錢龍錫言鴻訓不宜有此,請更察訪。帝曰:「事已大著,何更訪為?」促令擬旨。標等逡巡未上,禮部尚書何如寵為鴻訓力辯,帝意卒不可回。乃擬旨,鴻訓、慶臻並革職候勘。無何,御史田時震劾鴻訓用田仰巡撫四川,納賄二千金;給事中閻可陛劾副都御史賈毓祥由賂鴻訓擢用。鴻訓數被劾,連章力辯,因言「都中神奸狄姓者,詭誆慶臻千金,致臣無辜受禍。」帝不聽,下廷臣議罪。

翌年正月、吏部尚書王永光らが言うには、「鴻訓、慶臻の罪は免れがたく、しかし律に議貴の条があり、寛大に赦すことを請う。兵部尚書王在晉、職方郎中苗思順は贓物の証拠が未だ確かでなく、懸案として罪に坐するのは難しい」と。帝は許さなかった。鴻訓は代州に謫戍とされ、在晉、思順はともに官籍を削られ、慶臻は世臣として禄を三年間停止された。覚斯、鼎延、道直、玉、時震は直言によって官秩一級を増された。

原文明年正月,吏部尚書王永光等言:「鴻訓、慶臻罪無可辭,而律有議貴條,請寬貸。兵部尚書王在晉、職方郎中苗思順贓證未確,難懸坐。」帝不許。鴻訓謫戍代州,在晉、思順並削籍,慶臻以世臣停祿三年。覺斯、鼎延、道直、玉、時震以直言增秩一級。

鴻訓が政府に在った時、鋭意事に任じた。帝が認めないことがあると、退いて「主上は畢竟沖主である」と言った。帝はこれを聞き、深く恨みに思い、彼を死に置こうとした。諸大臣の力救によって、ようやく少し寛大になった。七年五月、戍所で卒した。福王の時、官に復した。

原文鴻訓居政府,銳意任事。帝有所不可,退而曰:「主上畢竟是沖主。」帝聞,深銜之,欲置之死。賴諸大臣力救,乃得稍寬。七年五月卒戍所。福王時,復官。

錢龍錫

原文錢龍錫

錢龍錫、字は稚文、松江華亭の人。万暦三十五年の進士。庶吉士より編修に授かり、たびたび遷って少詹事となった。天啓四年、礼部右侍郎に抜擢され、詹事府を協理した。翌年、南京吏部右侍郎に改めた。魏忠賢に逆らい、官籍を削られた。

原文錢龍錫,字稚文,松江華亭人。萬歷三十五年進士。由庶吉士授編修,屢遷少詹事。天啟四年擢禮部右侍郎,協理詹事府。明年改南京吏部右侍郎。忤魏忠賢,削籍。

莊烈帝が即位すると、閣臣黄立極、施鳳来、張瑞図、李國𣚴が皆忠賢に用いられた者で、倚るに足らずとして、詔して廷臣に推挙させ、十人を列挙して上奏した。帝は古の枚卜の典に倣い、名を金甌に貯え、香を焚いて肅拝し、順次探り、まず龍錫を得、次に李標、来宗道、楊景辰を得た。輔臣が天下に多事あることを以て、一二人を増やすよう請うと、再び周道登、劉鴻訓を得、ともに礼部尚書兼東閣大学士に拝された。翌年六月、龍錫が入朝すると、立極ら四人は先に罷免されており、宗道、景辰もこの月に去った。標が首輔となり、龍錫、鴻訓が心を合わせて輔理し、朝政は少し清まった。まもなく蜀の寇が平定されたことを以て、太子太保を加えられ、文淵閣に改めた。

原文莊烈帝即位,以閣臣黃立極、施鳳來、張瑞圖、李國𣚴皆忠賢所用,不足倚,詔廷臣推舉,列上十人。帝仿古枚卜典,貯名金甌,焚香肅拜,以次探之,首得龍錫,次李標、來宗道、楊景辰。輔臣以天下多故,請益一二人,復得周道登、劉鴻訓,並拜禮部尚書兼東閣大學士。明年六月,龍錫入朝,立極等四人俱先罷,宗道、景辰亦以是月去。標為首輔,龍錫、鴻訓協心輔理,朝政稍清。尋以蜀寇平,加太子太保,改文淵閣。

帝は辺境の事を察することを好み、頻繁に旗尉を派遣して偵探させた。龍錫は言った、「旧制では都城内外にのみ行うことで止めており、遠くに派遣すれば委ねて信じるのは難しいであろう」と。海寇が中左所を犯すと、総兵官俞咨臯が城を棄てて遁走し、罪は誅に当たった。帝は巡撫朱一馮をも罪にしようとした。龍錫は言った、「一馮の駐在は遠く、城を棄てた者とは比べられず、罷職するだけで既に罪を蔽うに足りる」と。瑞王が漢中に出封するに当たり、川塩を食することを請うた。龍錫は言った、「漢中は晋塩を食し、瑞藩のみ川塩を用いるならば、恐らく奸徒が名を借りて私販し、敢えて譏察する者がないであろう」と。故事では、実録を纂修する際、国学生を四方に分遣して事跡を採集したが、龍錫は「実録に必要なものは邸報及び諸司の奏牘にあり、使者を遣わしても益がなく、徒らに擾乱を生むのみで、停止すべきである」と言った。烏撒の土官安効良が死に、その妻が改めて沾益の土官安辺に嫁ぎ、烏撒をも兼有しようとした。部議はこれを聴こうとした。龍錫は言った、「効良には子の其爵があり、其爵を立てて烏撒を収めるならば、亡びたものを存え、絶えたものを継ぐことになり、理に順う。安辺は淫乱であり、長くしてはならない」と。帝は皆これに従った。翌年、帝は漕船が禁を違えて関を越えることを以て、漕運総兵官を再設置しようとした。龍錫は言った、「久しく裁撤したものを復するには、廷臣を集めて得失を議すべきである」と。事は遂に止んだ。廷議で冗官を淘汰することになり、帝は学官が特に冗であると言った。龍錫は言った、「学官は旧来、歳貢生を用いたが、近頃は挙人が恩を乞うて選貢となり、纂修が官職を占める者が多く、歳貢生が二千六百有余も積もり、白髪頭で死ぬのは、実に憐れむべきである。かつ祖宗が官を設けるに当たり、ここで少し寛大にしたのは、師儒が士を造るには老成を要するからである」と。帝もこれを受け入れた。言官の鄒毓祚、韓一良、章允儒、劉斯来が譴責を受けると、ともに救済を申し立てた。

原文帝好察邊事,頻遣旗尉偵探。龍錫言:「舊制止行於都城內外,若遠遣恐難委信。」海寇犯中左所,總兵官俞咨臯棄城遁,罪當誅。帝欲並罪巡撫朱一馮。龍錫言:「一馮所駐遠,非棄城者比,罷職已足蔽辜。」瑞王出封漢中,請食川鹽。龍錫言:「漢中食晉鹽,而瑞藩獨用川鹽,恐奸徒借名私販,莫敢譏察。」故事,纂修實錄,分遣國學生采事跡於四方,龍錫言「實錄所需在邸報及諸司奏牘,遣使無益,徒滋擾,宜停罷。」烏撒土官安效良死,其妻改適沾益土官安邊,欲兼有烏撒,部議將聽之。龍錫言:「效良有子其爵,立其爵以收烏撒,存亡繼絕,於理為順。安邊淫亂,不可長也。」帝悉從之。明年,帝以漕船違禁越關,欲復設漕運總兵官。龍錫言:「久裁而復,宜集廷臣議得失。」事竟止。廷議汰冗官,帝謂學官尤冗。龍錫言:「學官舊用歲貢生,近因舉人乞恩選貢,纂修占缺者多,歲貢積至二千六百有奇,皓首以歿,良可憫。且祖宗設官,於此稍寬者,以師儒造士需老成故也。」帝亦納之。言官鄒毓祚、韓一良、章允儒、劉斯來獲譴,並為申救。

御史高捷、史褷が既に罷免された後、王永光が力を入れて彼らを引き入れようとしたが、龍錫によってかなり阻まれたため、二人は大いに恨んだ。逆案の決定は、半分が龍錫の主導によるもので、奸党は骨髄に徹して彼を恨んだ。袁崇煥が毛文龍を殺した時、上疏して「輔臣龍錫がこの一事のために臣の寓居に低徊された」と報じた。また善後の上疏をして言った、「閣臣と枢臣が往復して商確し、臣はこれによって奉行して過失がなかった」と。当時、文龍は兵を擁して専断し、跋扈の名声があり、崇煥が一朝にしてこれを除いたことは、朝廷も罪とはしなかった。その冬十二月、大清兵が都城に迫った。帝は崇煥が戦いに力を尽くさないことを怒り、捕らえて獄に下し、一方で捷、褷は既に永光に引用されていた。捷は遂に上章し、款を通じて将を殺したことを龍錫の罪と指摘し、かつ祖大寿の軍が潰えて東走したのは、龍錫が挑発したためであると言った。帝は龍錫が忠慎であるとして、過度に求めるなと戒めた。龍錫は上奏して弁明し、言った、「崇煥が陛見した時、臣はその容貌が陋いのを見て、退いて同官に『この人は恐らく任に勝たないであろう』と言った。崇煥が五年で遼を回復すると自ら詭した時、方略を訊ねに行くと、崇煥は『回復は東江より始めるべきである。文龍が用いるに足ればこれを用い、用いるに足らなければこれを去るのは容易である』と言った。崇煥が突然文龍を誅した時、上疏に『臣が低徊した』との一語があった。臣は文龍の功罪は朝廷で皆知っていることと思い、よって取り合わなかった。どうして崇煥の誇詡の言葉を以て、臣に朋謀の罪を坐せようとするのか」と。また大寿を挑発したという誣告を弁明し、罷黜を賜わるよう請うた。帝は慰諭し、龍錫はすぐに起きて職務に就いた。捷が再び上疏して攻撃すると、帝の意はかなり動いた。龍錫が再び弁明し、病を引いて、遂に帰郷を許された。当時、兵事が多忙で、崇煥の獄を完結する暇がなかった。

原文御史高捷、史褷既罷,王永光力引之,頗為龍錫所扼,兩人大恨。逆案之定,半為龍錫主持,奸黨銜之次骨。及袁崇煥殺毛文龍,報疏云:「輔臣龍錫為此一事低徊過臣寓。」復上善後疏言:「閣臣樞臣,往復商確,臣以是得奉行無失。」時文龍擁兵自擅,有跋扈聲,崇煥一旦除之,即當寧不以為罪也。其冬十二月,大清兵薄都城。帝怒崇煥戰不力,執下獄,而捷、褷已為永光引用。捷遂上章,指通款殺將為龍錫罪,且言祖大壽師潰而東,由龍錫所挑激。帝以龍錫忠慎,戒無過求。龍錫奏辯,言:「崇煥陛見時,臣見其貌寢,退謂同官『此人恐不勝任』。及崇煥以五年復遼自詭,往詢方略,崇煥云:『恢復當自東江始。文龍可用則用之,不可用則去之易易耳。』迨崇煥突誅文龍,疏有『臣低徊』一語。臣念文龍功罪,朝端共知,因置不理。奈何以崇煥誇詡之詞,坐臣朋謀罪?」又辯挑激大壽之誣,請賜罷黜。帝慰諭之,龍錫即起視事。捷再疏攻,帝意頗動。龍錫再辯,引疾,遂放歸。時兵事旁午,未暇竟崇煥獄。

三年八月に至り、褷は再び上疏して言う、「龍錫は崇煥が帥を斬り兵を致すことを主張し、款議を唱えて、以て五年成功の説を信ぜしむ。国を売り君を欺く、その罪逃るべからず。龍錫は都を出で、崇煥の与えたる重賄数万を以て、姻家に転寄し、巧みに営幹して、国法の伸びざるを致せり」。帝怒り、刑官に勅して五日内に獄を具すべしとす。ここにおいて錦衣劉僑、崇煥の獄詞を上す。帝、諸臣を平台に召し、崇煥に重辟を置く。龍錫を責めて辺臣と私に結び、蒙隠して挙げざるを、廷臣に令して罪を議せしむ。この日、群議中府に於いて、謂う、「帥を斬るは龍錫の啓端と雖も、而して両書に『処置慎重』の語有り、意は擅殺に在らず、文龍を殺すは乃ち崇煥の過挙なり。講款に至りては、崇煥より倡き、龍錫は始め『酌量』と答え、継いで『天子神武、款を講ずべからず』と答えたり。然れども軍国大事、私自ら商度し、疏を抗して奸を発せざるは、何の罪をか逃れん」。帝遂に使を遣わしてこれを逮う。十二月に逮至り、獄に下す。復た疏を上ぎて弁じ、悉く崇煥の原書及び答書を封じて上るも、帝省みず。時に群小、逆案に名を麗せる者、謀を聚めて崇煥を指して逆首とし、龍錫等を逆党とす。更に一つの逆案を立てて相抵らんとす。謀既に定まり、兵部よりこれを発せんと欲すれども、尚書梁廷棟、帝の英明を憚り、敢えて任せずして止む。乃ち龍錫に大辟を議し、且つ夏言の故事を用い、廠を西市に設けて以て待たんとす。帝、龍錫に逆謀無きを以て、長く繋がしむ。

原文至三年八月,褷復上疏言:「龍錫主張崇煥斬帥致兵,倡為款議,以信五年成功之說。賣國欺君,其罪莫逭。龍錫出都,以崇煥所畀重賄數萬,轉寄姻家,巧為營幹,致國法不伸。」帝怒,敕刑官五日內具獄。於是錦衣劉僑上崇煥獄詞。帝召諸臣於平臺,置崇煥重辟。責龍錫私結邊臣,蒙隱不舉,令廷臣議罪。是日,群議於中府,謂:「斬帥雖龍錫啟端,而兩書有『處置慎重』語,意不在擅殺,殺文龍乃崇煥過舉。至講款,倡自崇煥,龍錫始答以『酌量』,繼答以『天子神武,不宜講款』。然軍國大事,私自商度,不抗疏發奸,何所逃罪?」帝遂遣使逮之。十二月逮至,下獄。復疏辯,悉封上崇煥原書及所答書,帝不省。時群小麗名逆案者,聚謀指崇煥為逆首,龍錫等為逆黨。更立一逆案相抵。謀既定,欲自兵部發之,尚書梁廷棟憚帝英明,不敢任而止。乃議龍錫大辟,且用夏言故事,設廠西市以待。帝以龍錫無逆謀,令長繋。

四年正月、右中允黄道周、疏を上ぎて龍錫の死罪に坐すべからざるを言う。旨に忤い、秩を貶し外に調す。而して帝の意次第に解く。夏五月大旱、刑部尚書胡応台等、龍錫を宥すことを乞い、給事中劉斯来継いでこれを言う。詔して所司に再讞せしむ。乃ち獄を釈し、定海衛に戍す。戍に在ること十二年、両たび赦に遇うも原われず。その子、粟を輸して罪を贖わんことを請う。会すに周延儒再び国を当るに及び、尼ぎて行わず。福王の時、官を復して里に帰る。未幾卒す。年六十八。

原文四年正月,右中允黃道周疏言龍錫不宜坐死罪。忤旨,貶秩調外,而帝意浸解矣。夏五月大旱,刑部尚書胡應臺等乞宥龍錫,給事中劉斯來繼言之,詔所司再讞。乃釋獄,戍定海衛。在戍十二年,兩遇赦不原。其子請輸粟贖罪,會周延儒再當國,尼不行。福王時,復官歸里。未幾卒,年六十有八。

錢士升、字は抑之、嘉善の人。万暦四十四年殿試第一、修撰を授かる。天啓初め、母を養うを以て帰ることを乞う。久しくして左中允に進むも、赴かず。高邑の趙南星、同里の魏大中、璫禍を受け、及び江西の同年生万燝、杖死して贓を追わるに及び、皆力を尽くして営護し、産を破りてこれを助く。以てこれ東林に推さる。

原文錢士升,字抑之,嘉善人。萬歷四十四年殿試第一,授修撰。天啟初,以養母乞歸。久之,進左中允,不赴。高邑趙南星、同里魏大中受珰禍,及江西同年生萬燝杖死追贓,皆力為營護,破產助之,以是為東林所推。

崇禎元年、少詹事を起し、南京翰林院を掌る。明年、詹事を以て召さる。会すに座主錢龍錫逮われるに及び、これを河干に送り、即ち病を謝して帰る。四年、南京礼部右侍郎を起し、尚書事を署す。鳳陽陵寢に祭告し、疏を上ぎて戸口流亡の状を陳ぶこと甚だ悉し。六年九月、召されて礼部尚書兼東閣大学士に拝し、機務に参預す。明年春、朝に入る。事例を停め、鼓鑄を罷め、贓吏の誅を厳にし、新旧餉を督催する官の遣わすを止め、第に撫按に責成することを請う。帝悉くこれに従う。

原文崇禎元年起少詹事,掌南京翰林院。明年以詹事召。會座主錢龍錫被逮,送之河干,即謝病歸。四年,起南京禮部右侍郎,署尚書事。祭告鳳陽陵寢,疏陳戶口流亡之狀甚悉。六年九月,召拜禮部尚書兼東閣大學士,參預機務。明年春入朝。請停事例,罷鼓鑄,嚴贓吏之誅,止遣官督催新舊餉,第責成於撫按。帝悉從之。

帝操切にして、温体仁刻薄を以てこれを佐く。上下囂然たり。士升因りて『四箴』を撰して以て献じ、大旨は寛を以て衆を御し、簡を以て下に臨み、虚を以て心を宅し、平を以て政を出すを謂う。その言深く時病に中る。帝優旨を以て報聞すと雖も、意殊に懌ばず。

原文帝操切,溫體仁以刻薄佐之,上下囂然。士升因撰《四箴》以獻,大指謂寬以御眾,簡以臨下,虛以宅心,平以出政,其言深中時病。帝雖優旨報聞,意殊不懌也。

未だ幾ばざるに、武生李琎、江南の富戸を括り、官に報名輸し、首実籍没の法を行わんことを請う。士升これを悪み、旨を擬して刑部に下し提問せしめんとす。帝許さず、同官温体仁遂に軽く擬するを改む。士升曰く、「これ乱の本なり、去就を以てこれを争うべし」。乃ち疏を上ぎて言う、「陳啓新の事を言いてより、省闥に擢置す。比来端を借りて幸進する者、実に徒繁し。然れども未だ琎の如く誕肆なる者あらず。その曰く、縉紳豪右の家、大なる者は千百萬、中なる者は百十萬、萬を以て計る者は枚挙に遑あらず。臣その指す所の何の地なるを知らず。江南を論ずるに、富家数畝を以て対とし、百を計る者は什に六七、千を計る者は什に三四、萬を計る者は千百の中一二のみ。江南すらかくの如し、いわんや他省をや。且つ郡邑に富家有るは、固より貧民の衣食の源なり。地方水旱有れば、有司、錢粟を出だし、均糶して饑を済ましめ、一たび寇警に遇えば、城堡守禦を助けしむ。富家未だ嘗て国に益無きにしも非ず。『周礼』荒政十二、富を保つこと其の一に居る。今、兵荒を以て富家の朘削に帰罪し、その財を括りてこれを籍没せんと議す。これ秦皇の巴清に行わず、漢武の卜式に行わざる所にして、聖明の世に行わんと欲するか。今、秦・晋・楚・豫已に寧宇無し。独り江南数郡稍々安し。この議一たび倡われば、無頼亡命相率いて富家と難きを為し、天下の民を駆りて流寇と為すを止めざるべからず。或いはこの輩は乃ち流寇の心腹にして、横議を倡えて人心を摇がさんとするを疑わん。豈直に端を借りて幸進するのみならんや」。疏入る。而して琎已に法司に下り提問せらる。帝報いて曰く、「即ち名を沽がんと欲せば、前疏已にこれを致すに足る。汲汲たる毋れ」。前疏とは『四箴』を謂う。士升惶懼し、罪を引きて休を乞う。帝即ちこれを許す。

原文無何,武生李琎請括江南富戶,報名輸官,行首實籍沒之法。士升惡之,擬旨下刑部提問,帝不許,同官溫體仁遂改輕擬。士升曰:「此亂本也,當以去就爭之。」乃疏言:「自陳啟新言事,擢置省闥。比來借端幸進者,實繁有徒,然未有誕肆如琎者也。其曰縉紳豪右之家,大者千百萬,中者百十萬,以萬計者不能枚舉。臣不知其所指何地。就江南論之,富家數畝以對,百計者什六七,千計者什三四,萬計者千百中一二耳。江南如此,何況他省。且郡邑有富家,固貧民衣食之源也。地方水旱,有司令出錢粟,均糶濟饑,一遇寇警,令助城堡守禦,富家未嘗無益於國。《周禮》荒政十二,保富居一。今以兵荒歸罪於富家朘削,議括其財而籍沒之,此秦皇不行於巴清、漢武不行於卜式者,而欲行聖明之世乎?今秦、晉、楚、豫已無寧宇,獨江南數郡稍安。此議一倡,無賴亡命相率而與富家為難,不驅天下之民胥為流寇不止。或疑此輩乃流寇心腹,倡橫議以搖人心,豈直借端幸進已哉!」疏入,而琎已下法司提問。帝報曰:「即欲沽名,前疏已足致之,毋庸汲汲。」前疏謂《四箴》也。士升惶懼,引罪乞休,帝即許之。

士升初めて閣に入るや、体仁頗るこれを援く。体仁、謝升・唐世済を推轂す。士升皆これを助く。文震孟擠さるるに及び、士升これを救う能わず。論者これを咎む。ここに至りて乃ち讜言を以て位を去る。

原文士升初入閣,體仁頗援之。體仁推轂謝升、唐世濟,士升皆為助。文震孟被擠,士升弗能救,論者咎之。至是乃以讜言去位。

弟士晉、万暦中、進士より刑部主事を除く。畿輔に刑を恤み、平反すること千百人。崇禎の時、山東右布政より雲南巡撫に擢る。師宗・新化の六城を築き、金針・白沙等の河を浚い、土官岑・儂両姓の乱を平げ、頗る労績著し。已にして、経歴呉鯤化、その賄を営むを訐る。体仁即ち厳旨を擬し、且つ同官林釬に属して泄らさず、弟を因りて以てその兄を逐わんと欲す。命下る。而して士晉已に卒す。事乃ち已む。士升、国変後七年にして乃ち卒す。

原文弟士晉,萬歷中由進士除刑部主事。恤刑畿輔,平反者千百人。崇禎時,以山東右布政擢雲南巡撫。築師宗、新化六城,浚金針、白沙等河,平土官岑、儂兩姓之亂,頗著勞績。已而經歷吳鯤化訐其營賄,體仁即擬嚴旨,且屬同官林釬弗泄,欲因弟以逐其兄。命下,而士晉已卒,事乃已。士升,國變後七年乃卒。

成基命

原文成基命

成基命、字は靖之、大名の人。後、宣宗の諱いみなを避け、字を以て行わる。万暦三十五年進士。庶吉士に改まり、司経局洗馬を歴て、国子監司業事を署す。天啓元年、幸学を請うるに先だって政府に白さず。執政者悦ばず、原官を以て局に還るを令し、遂に告げて帰ることを請う。尋いで少詹事を起す。累官して礼部右侍郎兼太子賓客、改めて南京翰林院事を掌る。六年、魏忠賢、基命を楊漣の同門生と為し、職を落として閑住せしむ。

原文成基命,字靖之,大名人,後避宣宗諱,以字行。萬歷三十五年進士。改庶吉士,歷司經局洗馬,署國子監司業事。天啟元年,疏請幸學不先白政府,執政者不悅,令以原官還局,遂請告歸。尋起少詹事。累官禮部右侍郎兼太子賓客,改掌南京翰林院事。六年,魏忠賢以基命為楊漣同門生,落職閑住。

崇禎元年、吏部左侍郎に起用された。翌年十月、京師が戒厳となると、基命は旧輔の孫承宗を召還し、一切の浮議を省き、嘉靖朝の故事に倣って枢臣を増設するよう請うた。帝はこれをすべて許可した。一か月余りして、礼部尚書兼東閣大学士に任じられ、内閣に入って政を輔佐した。庶吉士の金声が僧申甫を将として推薦した。帝は基命にその部下の兵を閲させたが、基命は極言して用いるべからずとし、後、果たして一戦にして敗れた。袁崇煥・祖大寿が入衛すると、帝は平台で召見し、崇煥を捕らえて官吏に引き渡した。大寿は傍らで股が震えた。基命のみが再び叩頭して慎重を請うた。帝は「慎重とは因循に過ぎず、何の益があろうか」と言った。基命はまた叩頭して「敵は城下におり、平時とは異なります」と言った。帝は終に悟らなかった。大寿が軍に至ると、すぐに衆を擁して東へ潰走した。帝はこれを大いに憂えた。基命は「崇煥に手紙を書かせて招けば、必ず帰順するでしょう」と言った。当時、兵事は急を告げており、基命は数度建議し、すべて実行を許された。戒厳の際、文華殿で召対があり、帝は法紀が廃弛しているので、力を振るって刷新すべきだと述べた。基命は「治道は甚だしきを去るものであり、乱れた糸を整理するように、その端緒を探すべきで、急に変更すれば却って混乱を増します」と言った。帝は「緩慢ならば猛をもって糾すのであり、何が変更なのか」と言った。その後、温体仁がますます帝を操切に導いたため、天下はついに大乱となった。

原文崇禎元年,起吏部左侍郎。明年十月,京師戒嚴,基命請召還舊輔孫承宗,省一切浮議,仿嘉靖朝故事,增設樞臣,帝並可之。逾月,拜禮部尚書兼東閣大學士,入閣輔政。庶吉士金聲薦僧申甫為將。帝令基命閱其所部兵,極言不可用,後果一戰而敗。袁崇煥、祖大壽入衛,帝召見平臺,執崇煥屬吏,大壽在旁股栗。基命獨叩頭請慎重者再,帝曰:「慎重即因循,何益?」基命復叩頭曰:「敵在城下,非他時比。」帝終不省。大壽至軍,即擁眾東潰,帝憂之甚。基命曰:「令崇煥作手劄招之,當歸命也。」時兵事孔棘,基命數建白,皆允行。及戒嚴,召對文華殿,帝言法紀廢弛,宜力振刷。基命曰:「治道去太甚,譬理亂絲,當覓其緒,驟紛更益擾亂。」帝曰:「慢則糾之以猛,何謂紛更?」其後溫體仁益導帝以操切,天下遂大亂。

三年二月、工部主事の李逢申が基命を弾劾し、袁崇煥の罪を逃れさせようとして、故意に慎重を請うたのだと言った。基命は罷免を求め、帝は逢申を一階級降格させた。韓爌・李標が相次いで去り、基命は首輔となり、周延儒・何如寵・錢象坤とともに政事にあたった。永平回復の功により叙勲され、ともに太子太保を加えられ、文淵閣に進んだ。六月になると、温体仁・呉宗達が入閣し、延儒・体仁が最も帝の寵愛を受け、結託して基命を排斥したため、基命はその地位を安んじられなくなった。崇煥の罪を議した時、基命は足を病んで出勤していなかった。錦衣の張道浚が委卸(責任放棄)を理由に弾劾し、工部主事の陸澄源の上疏が続いた。基命は上奏して弁明した。「澄源は、臣が二度とも廷推の首位にあったのは、韓爌らが崇煥を救うために利用しようとしたからだと言います。廷推の時、崇煥は重用されていたのであり、どうして将来の敗北を知って、事前に救おうと謀ることができましょうか。その説は逢申・道浚の流れを汲み、臣を追放せずにはおかないのです。帰郷を許されたい」。帝は慰留した。結局、三度上疏して自ら去った。

原文三年二月,工部主事李逢申劾基命欲脫袁崇煥罪,故乞慎重。基命求罷,帝為貶逢申一秩。韓爌、李標相繼去,基命遂為首輔,與周延儒、何如寵、錢象坤共事。以恢復永平敘功,並加太子太保,進文淵閣。至六月,溫體仁、吳宗達入,延儒、體仁最為帝所眷,比而傾基命,基命遂不安其位矣。方崇煥之議罪也,基命病足不入直。錦衣張道浚以委卸劾之,工部主事陸澄源疏繼上。基命奏辯曰:「澄源謂臣當兩首廷推,皆韓爌等欲藉以救崇煥。當廷推時,崇煥方倚任,安知後日之敗,預謀救之。其說祖逢申、道浚,不逐臣不止,乞放歸。」帝慰留之。卒三疏自引去。

基命は性質寛厚で、何事も大体を堅持した。以前、四城が回復していなかった時、兵部尚書の梁廷棟が総理の馬世龍を恨み、更迭しようとして、枢輔の承宗を揺るがそうとしたが、基命が尽力して調停し、世龍はついに遵化・永平の功を収めた。尚書の張鳳翔・喬允升・韓継思が相次いで獄吏に下され、基命はみな彼らのために申し立てた。副都御史の易応昌が詔獄に下されたが、基命の言葉により、法司に下されることになった。御史の李長春・給事中の杜斉芳が私書の件で連座し、重刑に処せられようとした。基命が力強く救おうとしたが、聞き入れられず、会極門に長跪し、「祖宗の立法では、真の死罪でもなお三度覆奏します。どうして詔獄で一度訊問しただけで極刑に処することがありましょうか」と言った。辰の刻から酉の刻まで起き上がらなかった。帝の意が解け、戍辺に減刑された。逢申は初め基命を弾劾したが、後に大砲爆発の件で獄に下され戍辺が擬せられた。帝はなお軽すぎると考えたが、これも基命の言葉によって擬せられた通りとなった。首輔となって数か月、帝は延儒に政を委ねようとしたため、ついにその党に追放された。八年、家で卒した。少保を追贈され、文穆と諡された。

原文基命性寬厚,每事持大體。先是,四城未復,兵部尚書梁廷棟銜總理馬世龍,將更置之,以撼樞輔承宗,基命力調劑,世龍卒收遵、永功。尚書張鳳翔、喬允升、韓繼思相繼下吏,並為申理。副都御史易應昌下詔獄,以基命言,改下法司。御史李長春、給事中杜齊芳坐私書事,將置重典。基命力救,不聽,長跪會極門,言:「祖宗立法,真死罪猶三覆奏,豈有詔獄一訊遽置極刑?」自辰至酉未起。帝意解,得遣戍。逢申初劾基命,後以炮炸下獄擬戍,帝猶以為輕,亦以基命言得如擬。為首輔者數月,帝欲委政延儒,遂為其黨所逐。八年卒於家。贈少保,謚文穆。

何如寵

原文何如寵

何如寵、字は康侯、桐城の人。父の思鰲は棲霞県の知県となり、民に恩徳を施した。如寵は万暦二十六年の進士に及第し、庶吉士から累進して国子監祭酒となった。天啓の時、礼部右侍郎に任じられ、詹事府を協理した。五年正月、廷推で左侍郎に推されたが、魏広微が如寵は左光斗と同郷で親しいと言ったため、職を奪われ閑住した。

原文何如寵,字康侯,桐城人。父思鰲,知棲霞縣,有德於民。如寵登萬歷二十六年進士,由庶吉士累遷國子監祭酒。天啟時,官禮部右侍郎,協理詹事府。五年正月,廷推左侍郎,魏廣微言如寵與左光鬥同里友善,遂奪職閑住。

崇禎元年、吏部右侍郎に起用された。着任前に、礼部尚書に任じられた。宗藩の婚嫁・命名は、例によって朝廷に請うことになっていた。貧しい者は部で留められ、万暦末からこの時まで、上疏が累積して千を数え、白髪になっても家室を整えられず、骨が朽ちてもまだ名付けられない者がいた。如寵の請願により、貧しい宗室で嫁娶ができた者は六百余人に及んだ。大学士の劉鴻訓が増敕の件で、帝の怒りが測り知れず、如寵が力を尽くして分析弁明し、死を免れて辺境に戍ることで済んだ。翌年冬、京師が戒厳となると、都人の桀黠な者が私財を出して衆を集め官軍を助けようと請い、朝議はこれを壮とした。如寵は力説してその意図を測り難く、用い方を誤れば必ず内紛を引き起こすと言った。帝が召して問うと、初めと同じように答えた。帝が一枚の紙片を示すと、それは偵察から得たもので、如寵の言葉と合致したため、これによって知遇を受けた。十二月、周延儒・錢象坤とともに本官のまま東閣大学士を兼ね、内閣に入って政を輔佐するよう命じられた。帝が袁崇煥の族誅をしようとしたが、如寵が申し立てて救ったため、死を免れた者は三百余人に及んだ。累進して少保・戸部尚書・武英殿大学士となった。

原文崇禎元年,起為吏部右侍郎。未至,拜禮部尚書。宗藩婚嫁命名,例請於朝。貧者為部所稽,自萬歷末至是,積疏累千,有白首不能完家室,骨朽而尚未名者。用如寵請,貧宗得嫁娶者六百餘人。大學士劉鴻訓以增敕事,帝怒不測,如寵力為剖析,得免死戍邊。明年冬,京師戒嚴,都人桀黠者,請以私財聚眾助官軍,朝議壯之。如寵力言其叵測,不善用,必啟內釁。帝召問,對如初。帝出片紙示之,則得之偵事,與如寵言合,由是受知。十二月,命與周延儒、錢象坤俱以本官兼東閣大學士,入閣輔政。帝欲族袁崇煥,以如寵申救,免死者三百餘口。累加少保、戶部尚書、武英殿大學士。

四年春、延儒の副として会試を総裁した。事が終わると、すぐに休職を請い、九度上疏してようやく許された。陛辞の際、惇大明作の道を述べた。家に着くと、さらに時々『通鑑』を観て、古今の治乱・忠佞を察するよう請うた。言葉は甚だ切実であった。六年、延儒が政を罷めると、体仁が首輔となるはずであった。しかし延儒は体仁が自分を排斥したことを恨み、如寵を起用して体仁を抑えようと謀った。如寵は体仁を恐れ、六度上疏して辞退したため、体仁が首輔となった。

原文四年春,副延儒總裁會試。事竣,即乞休,疏九上乃允。陛辭,陳惇大明作之道。抵家,復請時觀《通鑒》,察古今理亂忠佞,語甚切。六年,延儒罷政,體仁當為首輔。而延儒憾體仁排己,謀起如寵以抑之,如寵畏體仁,六疏辭,體仁遂為首輔。

如寵は性質孝友であった。母は九十歳であったが、和やかに養い衰えさせなかった。操行は恬雅で、物と争わず、進み難く退き易く、世に特に高く評価された。十四年に卒した。福王の時、太保を追贈され、文端と諡された。

原文如寵性孝友。母年九十,色養不衰。操行恬雅,與物無競,難進易退,世尤高之。十四年卒。福王時,贈太保,謚文端。

兄の如申は、如寵とともに進士に挙げられた。戸部郎中に任じられ、遼東で糧餉を督した。清廉な操行を持ち、軍士がさらに二年留任を請うた。ついに浙江右布政使で終わった。

原文兄如申,與如寵同舉進士。官戶部郎中,督餉遼東。有清操,軍士請復留二載。終浙江右布政使。

錢象坤、字は弘載、会稽の人。万暦二十九年の進士。庶吉士に改められ、検討に授かり、諭徳に進み、庶子に転じた。泰昌に改元すると、少詹事に任じられ、講筵に直った。講義が終わると、宦官の王安が執政と議事しているのを見て、すぐに退出した。安が人をやって招いたが、堅く入らなかった。天啓の中頃、給事中が織造を論じて、言葉が中貴を侵したため、詔により杖刑に処せられようとしたが、閣臣が救えなかった。象坤が葉向高に講筵で面奏するよう言い、ようやく免れた。当時、立枷の法が行われ、甚だ惨かったが、象坤が帝に申し上げて、多くが寛大に釈放された。再び転じて礼部右侍郎兼太子賓客となった。

原文錢象坤,字弘載,會稽人。萬歷二十九年進士。改庶吉士,授檢討,進諭德,轉庶子。泰昌改元,官少詹事,直講筵。講畢,見中官王安與執政議事,即趨出。安使人延之,堅不入。天啟中,給事中論織造,語侵中貴,詔予杖,閣臣救不得。象坤語葉向高講筵面奏之,乃免。時行立枷法,慘甚,象坤白之帝,多所寬釋。再遷禮部右侍郎兼太子賓客。

四年七月、向高が辞任した。御史の黄公輔は象坤が政権を握ることを憂慮し、向高を留めるよう請い、象坤を激しく誹謗した。象坤はついに辞去した。六年、廷推で南京礼部尚書に推された。魏忠賢の私党が繆昌期の党と指弾し、落職して閑住した。

原文四年七月,向高辭位。御史黃公輔慮象坤柄政,請留向高,詆象坤甚力。象坤遂辭去。六年,廷推南京禮部尚書。魏忠賢私人指為繆昌期黨,落職閑住。

崇禎元年、召されて礼部尚書に任じられ、詹事府を協理した。翌年冬、都城が兵に囲まれると、敵を防ぐ三策を条陳した。命を受けて城壁に登り分守し、厳寒の中でも怠らなかった。帝がこれを察知し、ついに何如寵とともに宰相とした。翌年、温体仁が入閣すると、象坤はその門生であったが、譲ってその下に居た。累進して少保となり、武英殿に進んだ。象坤は翰林にいた時、龍錫・謙益・士升とともに物望を負い、「四銭」と称された。体仁が宰相となってからも、迎合の跡はなかった。

原文崇禎元年,召拜禮部尚書,協理詹事府。明年冬,都城被兵,條禦敵三策。奉命登陴分守,祁寒不懈。帝覘知,遂與何如寵並相。明年,溫體仁入,象坤其門生,讓而居其下。累加少保,進武英殿。象坤在翰林,與龍錫、謙益、士升並負物望,有「四錢」之目。及體仁相,無附和跡。

四年、御史の水佳允が連続して兵部尚書の梁廷棟を弾劾した。廷棟は旨を待たずに上奏して弁明した。廷棟はもと象坤の門下であったため、佳允は象坤が漏らしたのではないかと疑い、言葉が象坤を侵した。延儒は廷棟がかつて自分の私党の贓罪を発覚させたことを恨み、廷棟を憎み、象坤をも憎んだ。象坤はついに五度上疏して病気を理由に去り、廷棟は落職した。給事中の呉執御・傅朝佑は象坤は進み難く退き易い人物であり、門生のことで累にすべきではないと称したが、聞き入れられなかった。家に居ること十年、病なくして卒した。太保を追贈され、文貞と諡され、一子に中書舎人の蔭官が与えられた。

原文四年,御史水佳允連劾兵部尚書梁廷棟,廷棟不待旨即奏辯。廷棟故出象坤門,佳允疑象坤泄之,語侵象坤。延儒以廷棟嘗發其私人贓罪,惡之,並惡象坤。象坤遂五疏引疾去,廷棟落職。給事中吳執御、傅朝佑稱象坤難進易退,不當以門生累,不聽。家居十年,無病而卒。贈太保,謚文貞,蔭一子中書舍人。

徐光啓

原文徐光啟

徐光啓は字を子先といい、上海の人である。萬暦二十五年に郷試で第一となり、さらに七年後に進士となった。庶吉士から贊善を歴任した。西洋人利瑪竇に従い天文・暦算・火器を学び、その術をことごとく究めた。ついで兵機・屯田・塩策・水利などの諸書を広く修めた。

原文徐光啟,字子先,上海人。萬歷二十五年舉鄉試第一,又七年成進士。由庶吉士歷贊善。從西洋人利瑪竇學天文、歷算、火器,盡其術。遂遍習兵機、屯田、鹽策、水利諸書。

楊鎬が四路で軍を喪うと、京師は大いに震駭した。累次上疏して練兵し自ら報效することを請うた。神宗はその志を壮とし、少詹事兼河南道御史に超擢した。通州で練兵し、十の建議を列挙して上奏した。当時遼東の事態が緊迫していたため、その請いの通りにはできなかった。光啓が疏を奉って争うと、ようやく民兵と兵器を若干給することとなった。

原文楊鎬四路喪師,京師大震。累疏請練兵自效,神宗壯之,超擢少詹事兼河南道御史。練兵通州,列上十議。時遼事方急,不能如所請。光啟疏爭,乃稍給以民兵戎械。

間もなく熹宗が即位した。光啓の志は伸びず、官を裁去することを請うたが、聞き入れられなかった。やがて病を理由に帰郷した。遼陽が陥落すると召し出されて起用された。朝に戻り、西洋の大砲を多く鋳造して城守に資するよう強く請うた。帝はその言を善しとした。ちょうど採用を議していたが、光啓は兵部尚書崔景榮と意見が合わず、御史邱兆麟に弾劾され、また病を理由に移って帰郷した。天啓三年に元の官に起用され、まもなく礼部右侍郎に擢られた。五年、魏忠賢の党の智鋌に弾劾され、落職して閑住した。

原文未幾,熹宗即位。光啟志不得展,請裁去,不聽。既而以疾歸。遼陽破,召起之。還朝,力請多鑄西洋大炮,以資城守。帝善其言。方議用,而光啟與兵部尚書崔景榮議不合,御史邱兆麟劾之,復移疾歸。天啟三年起故官,旋擢禮部右侍郎。五年,魏忠賢黨智鋌劾之,落職閑住。

崇禎元年に召還され、再び練兵の説を申し述べた。間もなく左侍郎として部の事務を掌理した。帝は国用の不足を憂い、廷臣に屯田・塩政の善策を献じるよう勅した。光啓は屯政は荒れ地を開墾するにあり、塩政は私販を厳禁するにあると述べた。帝はこれを褒めて受け入れ、本部尚書に擢った。当時帝は日食の予測が外れたことをもって、台官を罪に処そうとした。光啓は言う、「台官の測候は本来郭守敬の法によるものです。元の時代にも当たって食うべき時に食わなかったことがあり、守敬でさえそうでした。台官の占いが外れたのも無理はありません。臣は聞きます、暦法は長く経て必ず差が生じるもの、時を移さず修正すべきですと」。帝はその言に従い、西洋人龍華民・鄧玉函・羅雅谷らに暦法を推算させ、光啓を監督とした。

原文崇禎元年召還,復申練兵之說。未幾,以左侍郎理部事。帝憂國用不足,敕廷臣獻屯鹽善策。光啟言屯政在乎墾荒,鹽政在嚴禁私販。帝褒納之,擢本部尚書。時帝以日食失驗,欲罪臺官。光啟言:「臺官測候本郭守敬法。元時嘗當食不食,守敬且爾,無怪臺官之失占。臣聞歷久必差,宜及時修正。」帝從其言,詔西洋人龍華民、鄧玉函、羅雅谷等推算歷法,光啟為監督。

四年春正月、光啓は『日躔歴指』一卷・『測天約説』二卷・『大測』二卷・『日躔表』二卷・『割圜八線表』六卷・『黄道升度』七卷・『黄赤距度表』一卷・『通率表』一卷を進呈した。この冬十月辛丑の朔に日食があり、再び測候に関する四説を上奏した。その時差と里差を弁別する方法は、最も詳密であった。

原文四年春正月,光啟進《日躔歷指》一卷、《測天約說》二卷、《大測》二卷、《日躔表》二卷、《割圜八線表》六卷、《黃道升度》七卷、《黃赤距度表》一卷、《通率表》一卷。是冬十月辛丑朔日食,復上測候四說。其辯時差里差之法,最為詳密。

五年五月、本官のまま東閣大学士を兼ね、機務に参与し、鄭以偉とともに任命された。まもなく太子太保を加えられ、文淵閣に進んだ。光啓はもとより経世済民の才を負い、世に用いられんとする志があった。権柄を用いるに至った時には、すでに年老いており、周延儒・温体仁が専政する時勢に当たり、建白するところができなかった。翌年十月に卒した。少保を贈られた。

原文五年五月,以本官兼東閣大學士,入參機務,與鄭以偉並命。尋加太子太保,進文淵閣。光啟雅負經濟才,有志用世。及柄用,年已老,值周延儒、溫體仁專政,不能有所建白。明年十月卒。贈少保。

鄭以偉は字を子器といい、上饒の人である。萬暦二十九年の進士。庶吉士に改められ、検討を授かり、累進して少詹事となった。泰昌元年、礼部右侍郎に任じられた。天啓元年、光宗が廟に祔されるに当たり、憲宗を祧すべきところ、太常少卿洪文衡は睿宗(興献王)を廟に入れるのは不当として、玉芝宮に祧すよう請うたが、以偉が認めずに止まり、論者は結局文衡を是とした。まもなく左侍郎として詹事府の協理となった。四年、以偉が講筵に当たり、宦官に逆らい、上疏して帰郷を告げた。崇禎二年、召されて礼部尚書に拝された。久しくして光啓とともに相となり、再び辞したが、許されなかった。以偉は修潔自ら好み、書は過目して忘れず、文章は奥深く博識であったが、票擬はその長じるところではなかった。かつて言う、「我は万巻に富むも、数行に窮す。乃ち後進に蔑ろにされる」。章疏の中に「何況」の二字があったのを、誤って人名と思い、旨を擬して問いを提げた。帝が駁して改めるよう命じて初めて悟った。これより詞臣は帝に軽んじられ、遂に館員は推知の職を歴任すべきとの諭旨があり、閣臣は専ら翰林を用いなくなった。以偉は累次休致を乞うたが、許されなかった。翌年六月、官のまま卒した。太子太保を贈られた。御史が言うには、光啓・以偉が相次いで没し、蓋棺の日、囊に余財無し。優しく恤みて貪墨の者を愧じ入らせるよう請うた。帝はこれを容れ、乃ち光啓に文定、以偉に文恪の諡を贈った。

原文鄭以偉,字子器,上饒人。萬歷二十九年進士。改庶吉士,授檢討,累遷少詹事。泰昌元年,官禮部右侍郎。天啟元年,光宗祔廟,當祧憲宗,太常少卿洪文衡以睿宗不當入廟,請祧奉玉芝宮,以偉不可而止,論者卒是文衡。尋以左侍郎協理詹事府。四年,以偉直講筵,與珰忤,上疏告歸。崇禎二年,召拜禮部尚書。久之,與光啟並相,再辭,不允。以偉修潔自好,書過目不忘,文章奧博,而票擬非其所長。嘗曰:「吾富於萬卷,窘於數行,乃為後進所藐。」章疏中有「何況」二字,誤以為人名也,擬旨提問,帝駁改始悟。自是詞臣為帝輕,遂有館員須歷推知之諭,而閣臣不專用翰林矣。以偉累乞休,不允。明年六月,卒官,贈太子太保。御史言光啟、以偉相繼沒,蓋棺之日,囊無餘貲,請優恤以愧貪墨者。帝納之,乃謚光啟文定,以偉文恪。

その後二年、同安の林釬が大学士となったが、半年も経たずに卒した。またその清廉を称する者がおり、文穆の諡を得た。釬は字を実甫といい、萬暦四十四年の殿試で第三位となり、編修を授かった。天啓の時、国子司業に任じられた。監生陸万齢が太学の傍らに魏忠賢の祠を建てるよう請い、簿を具えて金を醵し、強いて釬を倡導者にしようとした。釬は筆を援って塗り抹し、その夕に冠を欞星門に掛けて直ちに帰郷した。忠賢は矯詔してその籍を削った。崇禎に改元すると、少詹事に起用された。九年に礼部侍郎より内閣に入り、謹願誠恪の称があった。

原文其後二年,同安林釬為大學士,未半歲而卒。亦有言其清者,得謚文穆。釬,字實甫,萬歷四十四年殿試第三人,授編修。天啟時,任國子司業。監生陸萬齡請建魏忠賢祠於太學旁,具簿醵金,強釬為倡。釬援筆塗抹,即夕掛冠欞星門徑歸,忠賢矯旨削其籍。崇禎改元,起少詹事。九年由禮部侍郎入閣,有謹願誠恪之稱。

久しくして、帝は光啓の博学強識を思い、その家に遺書を求められた。子の驥が入朝して謝し、『農政全書』六十巻を進呈した。詔して有司に刊行頒布させ、太保を加贈し、その孫を中書舎人とした。

原文久之,帝念光啟博學強識,索其家遣書。子驥入謝,進《農政全書》六十卷。詔令有司刊布,加贈太保,其孫為中書舍人。

文震孟

原文文震孟

文震孟は字を文起といい、呉県の人で、待詔文征明の曾孫である。祖父は国子博士の文彭、父は衛輝同知の文元発で、ともに名声と行いがあった。震孟は弱冠にして『春秋』で郷挙され、十度会試に赴いた。天啓二年に至り、殿試で第一となり、修撰を授かった。

原文文震孟,字文起,吳縣人,待詔征明曾孫也。祖國子博士彭,父衛輝同知元發,並有名行。震孟弱冠以《春秋》舉於鄉,十赴會試。至天啟二年,殿試第一,授修撰。

時に魏忠賢が次第に権力を握り、外廷の臣下もこれに応じ、しばしば大臣を排斥し追放した。震孟は憤慨し、この冬十月に『勤政講学疏』を上奏して言う、「今四方多事にして、地を蹙め城を陥とし、軍を覆し将を殺すこと無き歳なし。これ大小の臣工が臥薪嘗胆すべき日なり。しかるに因循粉飾し、将に祖宗の天下をして日銷月削せしめんとす。陛下が常格を大いに破り、豪傑の心を鼓舞せざれば、天下の事いずくに終わるかを知らざるなり。陛下は昧爽に臨朝し、寒暑も廃せず、政は勤ならざるにあらず。然れども鴻臚が奏を引き、跪拝起立すること、傀儡の登場するが如きのみ。請う、祖宗の制に按じ、六部六科を唱えしめ、則ち六部六科以て次第に事を白せしめ、糾弾敷奏せしめ、陛下と輔弼の大臣と面して裁決せられん。然らば則ち聖智日に明習を加え、而して百執事各奮励の心あるべし。若し僅かに掲帖一紙、長跪一諾、北面一揖のみにては、何ぞ此の鴛行豸繡、横玉腰金する者を取るに足らんや。経筵日講、臨御期あり、学は講ぜざるにあらず。然れども侍臣の進読するや、文辞を鋪叙すること、蒙師の誦説するが如きのみ。祖宗の朝には、君臣相対すること家人父子の如し。軍国の重事を諮訪し、閭閻の隠微を照らし、情形畢く照らされ、奸詐蔵る所なく、左右近習も亦縁有りて蒙蔽すること無し。若し僅かに尊厳神の如く、上下拱手し、経伝典謨徒らに故事を循るのみにては、何ぞ此の正笏垂紳、展書簪筆する者を取るに足らんや。且つ陛下既に群臣と洽わず、朝夕侍御するもの中涓の輩を越えず、豈に帝王の宏遠なる規模を知らんや。ここにおいて危きこと山海の如く、而して閣臣一出するも、偷安の習を挽回する莫く、惨きこと黔囲の如く、而して撫臣坐視するも、厳譴の施を聞かず。近日の挙動、尤も異とすべきものあり。鄒元標去位し、馮従吾門を杜ぎ、首揆冢宰も亦相率いて退を求む。人国を空しくして私窟を営むこと、幾くんぞ濁流の投ずるに似たり。道学を詈りて名賢を逐うこと、偽学の禁に甚だし。唐・宋の末季、以て前鑑と為すべし」。疏入るや、忠賢はこれを屏して即時に奏せず。帝が劇を観るに乗じ、疏中の「傀儡登場」の語を摘まみ、帝を偶人に比すと謂い、殺さざれば以て天下に示すこと無しとし、帝は之を頷く。一日、講筵畢りて、忠賢が旨を伝え、震孟を廷杖八十す。首輔葉向高告に在り、次輔韓爌力爭す。会に庶吉士鄭鄤の疏復た入り、内批して俱に秩を貶し外に調ず。言官交章して論救すも、納れず。震孟も亦調に赴かずして帰る。六年冬、太倉の進士顧同寅・生員孫文豸、詩を以て熊廷弼を悼惜するに坐し、兵馬司に緝獲せらる。御史門克新、これを妖言と指し、震孟に波及し、編修陳仁錫・庶吉士鄭鄤と並びに民に斥く。

原文時魏忠賢漸用事,外廷應之,數斥逐大臣。震孟憤,於是冬十月上《勤政講學疏》,言:「今四方多故,無歲不蹙地陷城,覆軍殺將,乃大小臣工臥薪嘗膽之日。而因循粉飾,將使祖宗天下日銷月削。非陛下大破常格,鼓舞豪傑心,天下事未知所終也。陛下昧爽臨朝,寒暑靡輟,政非不勤,然鴻臚引奏,跪拜起立,如傀儡登場已耳。請按祖宗制,唱六部六科,則六部六科以次白事,糾彈敷奏,陛下與輔弼大臣面裁決焉。則聖智日益明習,而百執事各有奮心。若僅揭帖一紙,長跪一諾,北面一揖,安取此鴛行豸繡、橫玉腰金者為?經筵日講,臨御有期,學非不講,然侍臣進讀,鋪敘文辭,如蒙師誦說已耳。祖宗之朝,君臣相對,如家人父子。咨訪軍國重事,閭閻隱微,情形畢照,奸詐無所藏,左右近習亦無緣蒙蔽。若僅尊嚴如神,上下拱手,經傳典謨徒循故事,安取此正笏垂紳、展書簪筆者為?且陛下既與群臣不洽,朝夕侍御不越中涓之輩,豈知帝王宏遠規模?於是危如山海,而閣臣一出,莫挽偷安之習;慘如黔圍,而撫臣坐視,不聞嚴譴之施。近日舉動,尤可異者。鄒元標去位,馮從吾杜門,首揆冢宰亦相率求退。空人國以營私窟,幾似濁流之投;詈道學以逐名賢,有甚偽學之禁。唐、宋末季,可為前鑒。」疏入,忠賢屏不即奏。乘帝觀劇,摘疏中「傀儡登場」語,謂比帝於偶人,不殺無以示天下,帝頷之。一日,講筵畢,忠賢傳旨,廷杖震孟八十。首輔葉向高在告,次輔韓爌力爭。會庶吉士鄭鄤疏復入,內批俱貶秩調外。言官交章論救,不納。震孟亦不赴調而歸。六年冬,太倉進士顧同寅、生員孫文豸坐以詩悼惜熊廷弼,為兵馬司緝獲。御史門克新指為妖言,波及震孟,與編修陳仁錫、庶吉士鄭鄤並斥為民。

崇禎元年、侍読を以て召される。左中允に改め、日講官を充つ。三年春、逆案を定めた輔臣相継いで国を去り、忠賢の遺党王永光の輩日に乗機報復す。震孟抗疏して之を糾す。帝方に永光を眷し、報ぜず。震孟尋いで左諭徳に進み、司経局を掌り、直講は故の如し。五月、復た疏を上して曰く、「群小合謀し、辺才を借りて逆案を翻さんと欲す。天下に才無くして事を誤る君子有りとも、必ず忠を懐い国に報うる小人無し。今に平生無恥、名賢を惨殺する呂純如有り、且つ奥援に藉りて弁雪を思う。永光は六卿の長たり、威福を仮竊し、用舎を倒置し、事無くして専せず、而して狠を以て済し、念を発すれば必ず欺き、而して樸を以て飾る。年例の大典を以て祖制を変乱し、考選の盛挙を以て清才を擯斥す。挙朝震恐し、敢えて訟言するもの莫し。臣下雷同す、豈に国の福ならんや」。帝実を指して再奏せよと令す。震孟言う、「名賢を殺す者は、故吏部郎周順昌なり。年例は則ち吏科都給事中陳良訓を抑え、考選は則ち中書舎人陳士奇・潘有功を擯く是れなり」。永光甚だ窘り、密かに大奄王永祚と結び、士奇は姚希孟の門に出ずと謂い、震孟は希孟の舅なりとす。帝心之を疑う。永光の弁疏は温旨を得、而して震孟を責めて任情牽詆す。然れども群小の翻案の謀も亦ここに由りて中沮す。

原文崇禎元年以侍讀召。改左中允,充日講官。三年春,輔臣定逆案者相繼去國,忠賢遺黨王永光輩日乘機報復,震孟抗疏糾之。帝方眷永光,不報。震孟尋進左諭德,掌司經局,直講如故。五月,復上疏曰:「群小合謀,欲借邊才翻逆案。天下有無才誤事之君子,必無懷忠報國之小人。今有平生無恥,慘殺名賢之呂純如,且藉奧援思辯雪。永光為六卿長,假竊威福,倒置用舍,無事不專而濟以狠,發念必欺而飾以樸,以年例大典而變亂祖制,以考選盛舉而擯斥清才。舉朝震恐,莫敢訟言。臣下雷同,豈國之福!」帝令指實再奏。震孟言:「殺名賢者,故吏部郎周順昌。年例則抑吏科都給事中陳良訓,考選則擯中書舍人陳士奇、潘有功是也。」永光窘甚,密結大奄王永祚謂士奇出姚希孟門,震孟,希孟舅也。帝心疑之。永光辯疏得溫旨,而責震孟任情牽詆。然群小翻案之謀亦由是中沮。

震孟、講筵に在りて最も厳正なり。時に大臣数え逮繋せられ、震孟『魯論』の「君臣を礼を以て使う」一章を講じ、反覆規諷す。帝即ち旨を降し、尚書喬允升・侍郎胡世賞を獄より出だす。帝嘗て足を膝に加う。適た『五子之歌』を講じ、「人上たる者、奈何ぞ敬せざる」に至り、目を以て帝の足を視す。帝即ち袖を以て之を掩い、徐かに引き下ろす。時に「真の講官」と称す。既に権臣に忤い、避けて去らんと欲す。益府に出封し、便道に帰り、遂に復た出でず。

原文震孟在講筵,最嚴正。時大臣數逮繋,震孟講《魯論》「君使臣以禮」一章,反覆規諷,帝即降旨出尚書喬允升、侍郎胡世賞於獄。帝嘗足加於膝,適講《五子之歌》,至「為人上者,奈何不敬」,以目視帝足,帝即袖掩之,徐為引下。時稱「真講官」。既忤權臣,欲避去。出封益府,便道歸,遂不復出。

五年、即ち家より擢て右庶子と為す。久しくして、少詹事に進む。初め、天啓の時、詔して『光宗実録』を修めしむ。礼部侍郎周炳謨、神宗の時の儲位の臲卼及び「妖書」「梃撃」の諸事を載せ、直筆して阿る所無し。其の後忠賢柄を盗み、御史石三畏炳謨の職を劾削す。忠賢其の党をして重修せしめ、是非倒置す。震孟尤も謬れるもの数条を摘まみ、疏を上して改正を請う。帝特に平台に御し、廷臣を召して面議せしむも、卒に温体仁・王応熊に沮まれる。

原文五年,即家擢右庶子。久之,進少詹事。初,天啟時,詔修《光宗實錄》,禮部侍郎周炳謨載神宗時儲位臲卼及「妖書」、「梃擊」諸事,直筆無所阿。其後忠賢盜柄,御史石三畏劾削炳謨職。忠賢使其黨重修,是非倒置。震孟摘尤謬者數條,疏請改正。帝特御平臺,召廷臣面議,卒為溫體仁、王應熊所沮。

八年正月、賊鳳陽の皇陵を犯す。震孟歴に乱を致すの源を陳し、因りて言う、「当事の諸臣、国を憂え公に奉ずること能わず、一統の朝に強いて畛域を分かち、膝に加え淵に墜つ、総て恩怨に由る。数年来、綱を振い紀を粛するは何事ぞ、賢を推し能を用うるは何人ぞ、内を安んじ外を攘うるは何の道ぞ、国を富ませ兵を強くするは何の策ぞ。陛下宜しく奮然一怒し、哀痛の詔を発し、失律の誅を按じ、誤国の罪を正し、撫綏の実政を行い、閭閻の積逋を寛うべし。先ず人心を収めて以て寇盗を遏ぎ、徐かに財を浚うの源を議し、徒らに沢を竭くして魚を漁ること無かるべし。患得患失の鄙夫を尽く斥け、群策群力を広く集めて以て乱を定め、国事庶幾くは瘳えんか」。帝優旨を以て之に報うるも、然れども亦尽く行うこと能わず。

原文八年正月,賊犯鳳陽皇陵。震孟歷陳致亂之源,因言:「當事諸臣,不能憂國奉公,一統之朝,強分畛域,加膝墜淵,總由恩怨。數年來,振綱肅紀者何事,推賢用能者何人,安內攘外者何道,富國強兵者何策?陛下宜奮然一怒,發哀痛之詔,按失律之誅,正誤國之罪,行撫綏之實政,寬閭閻之積逋。先收人心以遏寇盜,徐議浚財之源,毋徒竭澤而漁。盡斥患得患失之鄙夫,廣集群策群力以定亂,國事庶有瘳乎!」帝優旨報之,然亦不能盡行也。

故事に、講筵に『春秋』を列せず。帝治乱に裨益有りとし、人を択びて進講せしむ。震孟は『春秋』の名家、体仁に忌まれる所となり、隠して挙げず。次輔銭士升之に指及びす。体仁佯りて驚き曰く、「幾くんぞ此人を失わんとす」。遂に其の名を上す。及び進講するに、果たして帝の旨に称す。

原文故事,講筵不列《春秋》。帝以有裨治亂,令擇人進講。震孟,《春秋》名家,為體仁所忌,隱不舉。次輔錢士升指及之,體仁佯驚曰:「幾失此人!」遂以其名上。及進講,果稱帝旨。

六月、帝将に閣臣を増置せんとし、廷臣数十人を召し、票擬を以て試む。震孟疾を引きて入らず、体仁方に告に在り。七月、帝特に震孟を擢て礼部左侍郎兼東閣大学士と為し、入閣して政に預からしむ。両疏固く辞すも、許さず。閣臣命を受ければ、即ち刺を司礼の大奄に投じ、兼ねて儀状を致す。震孟独り然らず。司礼を掌る者曹化淳、故に王安に属する従奄、雅に震孟を慕い、人をして輾転意を道わしむるも、卒に往かず。震孟既に直に入る。体仁毎に旨を擬すれば必ず之に商い、改むる所有れば必ず従う。喜びて人に謂いて曰く、「温公虚懐す、何ぞ奸と云わん」。同官何吾騶曰く、「此人機深し、詎んぞ軽く信ぜんや」。十余日を越え、体仁其の疏を窺い、擬する所当たらずとすれば、輒ち改めしめ、従わざれば則ち径に抹去す。震孟大いに慍り、諸疏を以て体仁の前に擲つ。体仁亦顧みず。

原文六月,帝將增置閣臣,召廷臣數十人,試以票擬。震孟引疾不入,體仁方在告。七月,帝特擢震孟禮部左侍郎兼東閣大學士,入閣預政。兩疏固辭,不許。閣臣被命,即投刺司禮大奄,兼致儀狀,震孟獨否。掌司禮者曹化淳,故屬王安從奄,雅慕震孟,令人輾轉道意,卒不往。震孟既入直,體仁每擬旨必商之,有所改必從,喜謂人曰:「溫公虛懷,何云奸也?」同官何吾騶曰:「此人機深,詎可輕信?」越十餘日,體仁窺其疏,所擬不當,輒令改,不從,則徑抹去。震孟大慍,以諸疏擲體仁前,體仁亦不顧。

都給事中許譽卿は、かつて魏忠賢を弾劾して名声があり、文震孟および吾騶は彼を南京太常卿に任用しようとした。温体仁は許譽卿の剛直を忌み、吏部尚書謝升に諷して、彼が福建布政使申紹芳と共に美官を求めて奔走したと弾劾させた。体仁は貶謫を擬し、帝がより重い処分を望むなら必ず改めさせると推測したが、果たしてその通りになった。そこで許譽卿を庶民に落とし、申紹芳を尋問することを擬した。震孟は争ったが叶わず、不満げに言った。「科道官が民になるとは、天下の極めて栄誉あることだ、公のおかげで成就された。」体仁はすぐにこれを帝に奏聞した。帝は果たして怒り、吾騶と震孟が私情に従って事を撹乱したと責めた。吾騶は罷免され、震孟は官を落とされて閑住した。

原文都給事中許譽卿者,故劾忠賢有聲,震孟及吾騶欲用為南京太常卿。體仁忌譽卿伉直,諷吏部尚書謝升劾其與福建布政使申紹芳營求美官。體仁擬以貶謫,度帝欲重擬必發改,已而果然。遂擬斥譽卿為民,紹芳提問。震孟爭之不得,咈然曰:「科道為民,是天下極榮事,賴公玉成之。」體仁遽以聞。帝果怒,責吾騶、震孟徇私撓亂。吾騶罷,震孟落職閑住。

文震孟が任命を受けた時、既に鎮守中官を撤去する旨の命令があった。次輔王応熊が去った時、これを忌む者は震孟がそうさせたと言った。ここから彼が功を誇るという讒言が起こり、帝の心は移ってしまった。震孟は剛直方正で節操堅く、古の大臣の風格があったが、惜しいことに三ヶ月で斥けられ、その才能を十分に発揮できなかった。

原文方震孟之拜命也,即有旨撤鎮守中官。及次輔王應熊之去,忌者謂震孟為之。由是有譖其居功者,帝意遂移。震孟剛方貞介,有古大臣風,惜三月而斥,未竟其用。

帰郷して半年、甥の姚希孟が卒去したので、慟哭して悲しみ、自らもまた卒去した。廷臣が恩恤を請うたが、許されなかった。崇禎十二年、詔して元の官に復した。十五年、礼部尚書を追贈し、祭葬を賜い、一子に官職を与えた。福王の時、文肅と追謚された。二子は秉と乗。乗は国変に遭い、難に死した。

原文歸半歲,會甥姚希孟卒,哭之慟,亦卒。廷臣請恤,不允。十二年,詔復故官。十五年,贈禮部尚書,賜祭葬,官一子。福王時,追謚文肅。二子秉、乘。乘遭國變,死於難。

周炳謨、字は仲覲、無錫の人。父の子義は、嘉靖年間の庶吉士で、万暦年間に吏部侍郎に至り、卒して文恪と謚された。炳謨は万暦三十二年の進士である。『光宗実録』を重修した時、炳謨は既に先に卒去していた。崇禎初年、礼部尚書を追贈され、文簡と謚された。父子ともに学問と品行をもって世に称された。

原文周炳謨,子仲覲,無錫人。父子義,嘉靖中庶吉士,萬歷中仕至吏部侍郎,卒謚文恪。炳謨,萬歷三十二年進士。當重修《光宗實錄》時,炳謨已先卒。崇禎初,贈禮部尚書,謚文簡。父子皆以學行稱於世。

蔣德璟

原文蔣德璟

蔣德璟、字は申葆、晉江の人。父は光彥、江西副使であった。德璟は天啓二年の進士である。庶吉士に改められ、編修を授かった。

原文蔣德璟,字申葆,晉江人。父光彥,江西副使。德璟,天啟二年進士。改庶吉士,授編修。

崇禎の時、侍読を経て少詹事に累遷し、救荒の事宜を条奏した。まもなく礼部右侍郎に抜擢された。当時民田を制限する議論があり、德璟は言った。「民田は奪うべからず、食を足すには粟を貴ぶに如くはない。北平、山西、陝西、江北の諸処では、民に開墾を許し、桑や棗の植栽を課し、農田水利を修めるべきである。府県官の考課満了は、これを以て殿最とすべきだ。常平倉・義倉については、毎年現物を輸送し、法令に従って行えば足りる。」十四年春、楊嗣昌が軍中で卒去し、九卿に罪を議するよう命じた。德璟は議して言った。「嗣昌は聚斂の議を唱え、剿餉・練餉を加え、天下の民を窮乏させ財を尽きさせ、皆を賊と化させた。また失事を隠し、戦功を飾った。仇鸞の事例に照らし、その罪を追って正すべきである。」従われなかった。

原文崇禎時,由侍讀歷遷少詹事,條奏救荒事宜。尋擢禮部右侍郎。時議限民田,德璟言:「民田不可奪,而足食莫如貴粟。北平、山、陜、江北諸處,宜聽民開墾,及課種桑棗,修農田水利。府縣官考滿,以是為殿最。至常平義倉,歲輸本色,依令甲行之足矣。」十四年春,楊嗣昌卒於軍,命九卿議罪。德璟議曰:「嗣昌倡聚斂之議,加剿餉、練餉,致天下民窮財盡,胥為盜,又匿失事,飾首功。宜按仇鸞事,追正其罪。」不從。

十五年二月、藉田の礼が成り、原任侍郎陳子壮、祭酒倪元璐等を召還するよう請うた。帝は皆これを録用した。六月、廷臣が閣臣を推挙し、德璟を筆頭とした。入朝して対し、辺境の臣は久任すべきであり、薊州総督は半年で五人も更迭し、事は益々廃弛すると言った。帝は「不適任なら更迭すべきだ」と言うと、対して「後で更迭するより、初めに慎重に選ぶ方が良い」と答えた。帝が「天変はどうすれば止むか」と問うと、対して「百姓を救うに如くはありません。近ごろ遼餉千万、練餉七百万を加え、民はどうして耐えられようか。祖制では、三協にはただ一督・一撫・一総兵のみであったが、今は二督・三撫・六総兵を増やし、また副将数十人を設け、権が統一されず、どうして勝利を制せようか」と答えた。帝はうなずいた。首輔周延儒はかつて德璟が淵博で顧問に備えうる、文体が華麗で代言に適すると推薦していた。そこで德璟と黄景昉・吳甡を礼部尚書兼東閣大学士に抜擢し、共に内閣に入直させた。延儒と甡はそれぞれ派閥を作ったが、德璟は誰にも与しなかった。性は鯁直で、黄道周が召用され、劉宗周が免罪されたのは、德璟の力が多かった。開封が長く包囲されていたので、自ら馳せ往って諸将を督戦することを請うたが、優詔で許されなかった。

原文十五年二月,耕耤禮成,請召還原任侍郎陳子壯、祭酒倪元璐等,帝皆錄用。六月,廷推閣臣,首德璟。入對,言邊臣須久任,薊督半載更五人,事將益廢弛。帝曰:「不稱當更。」對曰:「與其更於後,曷若慎於初。」帝問:「天變何由弭?」對曰:「莫如拯百姓。近加遼餉千萬,練餉七百萬,民何以堪!祖制,三協止一督、一撫、一總兵,今增二督、三撫、六總兵,又設副將數十人,權不統一,何由制勝!」帝頷之。首輔周延儒嘗薦德璟淵博,可備顧問,文體華贍,宜用之代言。遂擢德璟及黃景昉、吳甡為禮部尚書兼東閣大學士,同入直。延儒、甡各樹門戶,德璟無所比。性鯁直,黃道周召用,劉宗周免罪,德璟之力居多。開封久被圍,自請馳督諸將戰,優詔不允。

翌年、『御覧備辺冊』を進呈した。九辺十六鎮の新旧の兵と食糧の数、及び屯田・塩法・民運・漕糧・馬価のすべてを記載していた。後に『諸辺撫賞冊』及び『御覧簡明冊』を進呈した。帝は深くこれを嘉した。諸辺の兵馬数を戸部に報告するものは、兵部の報告より半数以上多く、食糧の消耗が甚だしかった。また屯田・塩引・民運は、一鎮ごとに数十万から百万に及び、すべて辺臣の言いなりであった。天津海道から薊州・遼東へ毎年輸送する米豆三百万は、倉場督臣及び天津巡撫のみが出入りし、部中は皆これを稽核しなかった。德璟は部臣に語り、部の運送・天津運送・各辺の民運・屯田・塩法を合わせて計画すれば、餉額は充足し、加派の餉は削減できると言った。そこでさらに十事を条陳して部臣に責めさせたが、結局すべてを是正することはできなかった。

原文明年,進《御覽備邊冊》,凡九邊十六鎮新舊兵食之數,及屯、鹽、民運、漕糧、馬價悉志焉。已,進《諸邊撫賞冊》及《御覽簡明冊》。帝深嘉之。諸邊士馬報戶部者,浮兵部過半,耗糧居多,而屯田、鹽引、民運,每鎮至數十百萬,一聽之邊臣。天津海道輸薊、遼歲米豆三百萬,惟倉場督臣及天津撫臣出入,部中皆不稽核。德璟語部臣,合部運津運、各邊民運、屯、鹽,通為計畫,餉額可足,而加派之餉可裁。因復條十事以責部臣,然卒不能盡厘也。

ある日召対があり、帝が練兵について語った。德璟は言った。「『会典』によれば、高皇帝が軍士を教練された時は、一に弓弩刀槍をもって賞罰を行い、これが練軍の法である。衛所の総旗・小旗が役を補うには、槍の勝負をもって昇降を決した。凡そ武官が比試するには、必ず騎射に精通して初めて世襲を許された。これが練将の法である。どうして今になって初めて兵を設けるというのか。」帝は慄然とした。また言った。「祖制では、各辺が軍を養うのは屯田・塩法・民運の三つのみで、元来京から運ぶ銀はなかった。正統年間に始めて数万あり、万暦末に至っても三百余万に過ぎなかった。今では遼餉・練餉を旧餉に合わせて二千余万にもなるのに、兵はかえって昔より少なく、消耗腐敗がこのようである。」また言った。「文皇帝は京衛七十二を設け、軍四十万を計上された。畿内八府には軍二十八万。また中部・大寧・山東・河南の班軍十六万があった。春秋に京に入り操演し、重きを内に居えて軽きを馭する勢いを深く得ていた。今は皆虚名のみである。かつてより征討には皆衛所の官軍を用いたが、嘉靖末に始めて兵を募り、遂に軍を用いなくなった。加派が日増しになり、軍民ともに困窮している。願わくは二祖の法に倣い、旧制を修復されたい。」帝はこれを是としたが、果たして行われなかった。

原文一日召對,帝語及練兵。德璟曰:「《會典》,高皇帝教練軍士,一以弓弩刀槍行賞罰,此練軍法。衛所總、小旗補役,以槍勝負為升降。凡武弁比試,必騎射精嫻,方準襲替,此練將法。豈至今方設兵?」帝為悚然。又言:「祖制,各邊養軍止屯、鹽、民運三者,原無京運銀。自正統時始有數萬,迄萬歷末,亦止三百餘萬。今則遼餉、練餉並舊餉計二千餘萬,而兵反少於往時,耗蠹乃如此。」又言:「文皇帝設京衛七十二,計軍四十萬。畿內八府,軍二十八萬。又有中部、大寧、山東、河南班軍十六萬。春秋入京操演,深得居重馭輕勢。今皆虛冒。且自來征討皆用衛所官軍,嘉靖末,始募兵,遂置軍不用。至加派日增,軍民兩困。願憲章二祖,修復舊制。」帝是之,而不果行。

十七年、戸部主事蔣臣が紙幣発行を請い、毎年三千万貫を造り、一貫の価格を一両とすれば、毎年銀三千万両を得られると言った。侍郎王鰲永がこれを支持して実行した。帝は特に内宝鈔局を設け、昼夜督造し、商人を募って発売したが、一人も応じる者はいなかった。德璟は言った。「百姓は愚かであっても、誰が金一両で紙一枚を買おうか。」帝は聞き入れなかった。また局官の言により、畿輔・山東・河南・浙江から桑の皮二百万斤を徴発するよう命じた。德璟は力爭し、帝は彼の奏疏を留中して下さず、後に結局免除された。先に軍儲が不足したため、毎年畿輔・山東・河南の富戸を徴発し、代価を与えて米豆を買わせ天津に輸送させ、百万にまで及び、民は大いに擾乱された。德璟は召対の際にその害を面陳すると、帝はすぐに諭旨を起草してこれを廃止するよう命じた。

原文十七年,戶部主事蔣臣請行鈔法,言歲造三千萬貫,一貫價一兩,歲可得銀三千萬兩。侍郎王鰲永贊行之。帝特設內寶鈔局,晝夜督造,募商發賣,無一人應者。德璟言:「百姓雖愚,誰肯以一金買一紙。」帝不聽。又因局官言,責取桑穰二百萬斤於畿輔、山東、河南、浙江。德璟力爭,帝留其揭不下,後竟獲免。先以軍儲不足,歲僉畿輔、山東、河南富戶,給值令買米豆輸天津,多至百萬,民大擾。德璟因召對面陳其害,帝即令擬諭罷之。

二月、帝は賊の勢いが次第に迫るのを以て、群臣に会議させ、二十二日に奏聞するよう命じた。都御史李邦華が密疏を上し、輔臣は知っていながら敢えて言わないと述べた。翌日、帝はその疏を手に取り、何事かと問うた。陳演が少詹事項煜の東宮南遷の議を以て答えると、帝は取って見て黙然とした。德璟は傍らから力強く賛成したが、帝は答えなかった。

原文二月,帝以賊勢漸逼,令群臣會議,以二十二日奏聞。都御史李邦華密疏云輔臣知而不敢言。翼日,帝手其疏問何事。陳演以少詹事項煜東宮南遷議對,帝取視默然。德璟從旁力贊,帝不答。

給事中光時亨が練餉の弊害を追及して論じた。蔣德璟が旨を草擬して「従来、聚斂の小人が練餉を唱え、民を窮乏させ禍を結ばせ、国を誤ること甚だ深し」と述べた。帝は喜ばず、詰問して「聚斂の小人とは誰か」と言った。德璟は楊嗣昌を名指しできず、元尚書の李待問を挙げて答えた。帝は「朕は聚斂をしているのではない、ただ兵を練りたいだけだ」と言った。德璟は「陛下がどうして聚斉をなさろうか。しかし既に旧餉五百万、新餉九百余万があり、さらに練餉七百三十万を増やしている。臣の戸部は実に責めを免れ難い。しかも練った兵馬はどこにあるのか。薊督は四万五千を練るとしたが、今は二万五千に過ぎない。保督は三万を練るとしたが、今は二千五百に過ぎない。保鎮は一万を練るとしたが、今は二百に過ぎない。山・永の兵七万八千、薊・密の兵十万、昌平の兵四万、宣大・山西及び陝西の三辺各二十余万は、一旦抽練すると、原額の兵馬は全て問われず、抽いた兵もまた練られず、ただ餉七百余万を増やして民の累とするのみである」と言った。帝は「今は既に三餉を一つに併せた、多く言う必要はない」と言った。德璟は「戸部は併せたが、州県が追徴するのは依然として三餉である」と言った。帝は激怒し、朋比を責めた。德璟は力強く弁明し、諸輔臣が救いを請うた。尚書倪元璐は鈔餉が戸部の職務であるとして自ら咎を引き受け、帝の怒りはやや解けた。翌日、德璟は上疏して罪を引いた。帝はやがて練餉を廃止したが、德璟は結局三月二日に去位した。給事中汪惟效、検討傅鼎銓らが相次いで上疏して留任を請うたが、聞き入れられなかった。德璟は山西陥落の報を聞き、敢えて行かなかった。廷臣が自分を留めようとしていると知ると、すぐに朝廷に別れを告げ、外城に移り住んだ。賊が至ると、逃亡することができた。

原文給事中光時亨追論練餉之害。德璟擬旨:「向來聚斂小人倡為練餉,致民窮禍結,誤國良深。」帝不悅,詰曰:「聚斂小人誰也?」德璟不敢斥嗣昌,以故尚書李待問對。帝曰:「朕非聚斂,但欲練兵耳。」德璟曰:「陛下豈肯聚斂。然既有舊餉五百萬,新餉九百餘萬,復增練餉七百三十萬,臣部實難辭責。且所練兵馬安在?薊督練四萬五千,今止二萬五千。保督練三萬,今止二千五百;保鎮練一萬,今止二百;若山、永兵七萬八千,薊、密兵十萬,昌平兵四萬,宣大、山西及陜西三邊各二十餘萬,一經抽練,原額兵馬俱不問,並所抽亦未練,徒增餉七百餘萬,為民累耳。」帝曰:「今已並三餉為一,何必多言!」德璟曰:「戶部雖並為一,州縣追比,仍是三餉。」帝震怒,責以朋比。德璟力辯,諸輔臣為申救。尚書倪元璐以鈔餉乃戶部職,自引咎,帝意稍解。明日,德璟具疏引罪。帝雖旋罷練餉,而德璟竟以三月二日去位。給事中汪惟效、檢討傅鼎銓等交章乞留,不聽。德璟聞山西陷,未敢行。及知廷臣留己,即辭朝,移寓外城。賊至,得亡去。

福王が南京に立つと、内閣に召された。自ら三つの罪を陳べて、固辞した。翌年、唐王が福州に立つと、何吾騶・黄景昉と共に召された。さらに翌年、足疾を理由に辞して帰郷した。九月、唐王の事が敗れ、德璟は丁度病が重く、その月に卒した。

原文福王立於南京,召入閣。自陳三罪,固辭。明年,唐王立於福州,與何吾騶、黃景昉並召。又明年以足疾辭歸。九月,王事敗,而德璟適病篤,遂以是月卒。

黄景昉、字は太稚、これも晋江の人である。天啓五年の進士。庶吉士より歴官して庶子となり、日講を直した。崇禎十一年、帝が経筵に臨み、用人之道を問うた。景昉は「近頃考選が不公で、推官の成勇・朱天麟は廉能で素より著しいのに、清華の選に預かれない」と言い、また「刑部尚書鄭三俊は四朝の元老で、至って清廉で比類なく、長く獄に繋がれるべきではない」と言った。退いてさらに上章してこれを論じ、三俊はやがて釈放され、成勇らも皆改官された。

原文黃景昉,字太稚,亦晉江人。天啟五年進士。由庶吉士歷官庶子,直日講。崇禎十一年,帝御經筵,問用人之道。景昉言「近日考選不公,推官成勇、朱天麟廉能素著,乃不得預清華選。」又言「刑部尚書鄭三俊四朝元老,至清無儔,不當久繫獄。」退復上章論之,三俊旋獲釋,勇等亦俱改官。

景昉はまもなく少詹事に進んだ。嘗て召対され、「近く監視中官の高起潜を撤還したところ、関外で直ちに警報が聞こえ、この中に隠れた事情があるのではないかと疑う。臣の家は海浜にあり、沿海の将吏が毎度調発があると、すぐに海警を報じて、留任を望むのを見た。類を推して触れると、その実情は自ずから明らかである」と言った。帝はうなずいた。十四年、詹事として翰林院を兼掌した。当時庶常の選は久しく停止されていたが、景昉は上疏して復活を請い、また修撰劉同升・編修趙士春を召還するよう請うたが、いずれも報われなかった。

原文景昉尋進少詹事。嘗召對,言:「近撤還監視中官高起潛,關外輒聞警報,疑此中有隱情。臣家海濱,見沿海將吏每遇調發,即報海警,冀得復留。觸類而推,其情自見。」帝頷之。十四年以詹事兼掌翰林院。時庶常停選已久,景昉具疏請復,又請召還修撰劉同升、編修趙士春,皆不報。

十五年六月、召対で帝意にかなったため、蔣德璟・呉甡と共に宰相となった。翌年、共に太子少保を加えられ、戸部尚書・文淵閣大学士に改めた。南京の操江は従来文武二員を設けていたが、帝は文臣を削って、専ら誠意伯劉孔昭に任せようとした。副都御史の惠世揚が遅々として至らないので、帝はその官籍を削るよう命じた。景昉はともに上疏して争ったが、帝は喜ばず、ついに連続して上疏して帰郷を請うた。唐王の時、召されて入直したが、まもなく、再び告帰した。国変の後、家に居ること十数年でようやく卒した。

原文十五年六月召對稱旨,與蔣德璟、吳甡並相。明年並加太子少保,改戶部尚書、文淵閣。南京操江故設文武二員,帝欲裁去文臣,專任誠意伯劉孔昭。副都御史惠世揚遲久不至,帝命削其籍。景昉俱揭爭,帝不悅,遂連疏引歸。唐王時,召入直,未幾,復告歸。國變後,家居十數年始卒。

方岳貢

原文方岳貢

方岳貢、字は四長、谷城の人。天啓二年の進士。戸部主事に授けられ、郎中に進んだ。倉庫を歴任し、永平の糧儲を督し、ともに廉謹をもって知られた。

原文方岳貢,字四長,谷城人。天啟二年進士。授戶部主事,進郎中。歷典倉庫,督永平糧儲,並以廉謹聞。

崇禎元年、松江知府として出た。海浜には賊が多く、捕らえるとすぐに杖殺した。郡の東南は大海に臨み、颶潮が沖撃して、時に民の患いとなったので、石堤を二十里余り築き、ついに永利となった。郡の漕糧は京師に数十万石を運ぶが、諸倉は五里離れていたので、城垣を築いてこれを守り、「倉城」と名付けた。その他、救荒・助役、修学・課士など、いずれも成績があり、卓異として挙げられることが数度あった。薛国観が失脚すると、その私的な関係にある上海の王陛彥が官吏に下され、もとより岳貢と隙があったため、岳貢がかつて国観に三千金を贈ったと述べ、ついに逮捕された。士民が宮廷に赴いて冤罪を訴え、巡撫の黄希もその誣告を明らかにし、法司に下して審議奏上させた。ある日、帝が輔臣と気楽に会見し、「ある知府が俸を積むこと十余年、たびたび卓異として挙げられた者は誰か」と問うた。蔣德璟が岳貢と答えた。帝は「今はどこにいるか」と言い、德璟がさらに王陛彥の連座であると答えると、帝はうなずいた。法司が審議を上奏し、賄賂の事実はなく、官に復すべきだと述べた。帝はその清廉で堅固なことを賞し、許可した。

原文崇禎元年,出為松江知府。海濱多盜,捕得輒杖殺之。郡東南臨大海,颶潮沖擊,時為民患,築石堤二十里許,遂為永利。郡漕京師數十萬石,而諸倉乃相距五里,為築城垣護之,名曰「倉城」。他救荒助役、修學課士,鹹有成績,舉卓異者數矣。薛國觀敗,其私人上海王陛彥下吏,素有隙,因言岳貢嘗饋國觀三千金,遂被逮。士民詣闕訟冤,巡撫黃希亦白其誣,下法司讞奏。一日,帝晏見輔臣,問:「有一知府積俸十餘年,屢舉卓異者誰也?」蔣德璟以岳貢對。帝曰:「今安在?」德璟復以陛彥株連對,帝頷之。法司讞上,言行賄無實跡,宜復官。帝獎其清執,報可。

まもなく、給事中の方士亮が岳貢及び蘇州知府陳洪謐を推薦し、山東副使兼右参議に抜擢され、江南糧儲を総理した。督した漕艘は期日に通州に着いた。帝は大いに喜んだ。吏部尚書鄭三俊が天下の廉能な監司五人を挙げたが、岳貢もその中にいた。帝は急いで入対させ、平臺で引見し、為政で何を先とするかと問うた。答えて「天下を治平にしたいなら、守令を選ぶことにある。守令の賢否を察するのは監司にある。監司の賢否を察するのは巡方にある。巡方の賢否を察するのは総憲にある。総憲に適任を得れば、御史がどうして自ら法を試みようか」と言った。帝はこれを良しとし、食を賜い、日暮れになってようやく退出した。六日後、すぐに左副都御史に超擢した。嘗て召対された時、帝が丁度事があって吏部尚書李遇知を詰問した。遇知は「臣は正に糾駁しようとしている」と言った。岳貢は「どうしてすぐに題参しないのか」と言い、深く帝意に合った。翌日、本官のまま東閣大学士を兼ねるよう命じられた。時は十六年十一月である。故事では、閣臣が都御史の官銜を帯びることはなかったが、岳貢から始まった。

原文無何,給事中方士亮薦岳貢及蘇州知府陳洪謐,乃擢山東副使兼右參議,總理江南糧儲。所督漕艘,如期抵通州。帝大喜。吏部尚書鄭三俊舉天下廉能監司五人,岳貢與焉。帝趣使入對,見於平臺,問為政何先,對曰:「欲天下治平,在擇守令;察守令賢否,在監司;察監司賢否,在巡方;察巡方賢否,在總憲。總憲得人,御史安敢以身試法。」帝善之,賜食,日晡乃出。越六日,即超擢左副都御史。嘗召對,帝適以事詰吏部尚書李遇知。遇知曰:「臣正糾駁。」岳貢曰:「何不即題參?」深合帝意。翼日,命以本官兼東閣大學士,時十六年十一月也。故事,閣臣無帶都御史銜者,自岳貢始。

岳貢は本来吏才に優れていた。宰相となってからは、簿書の検査に努め、赦前の旧賦を審査するよう請い、意は搜括にあり、声名を大いに損なった。十七年二月、戸部・兵部二尚書兼文淵閣大学士として漕運・屯田・練兵の諸務を総督し、済寧に駐屯するよう命じられた。已にして行かなかった。

原文岳貢本吏材。及為相,務勾檢簿書,請核赦前舊賦,意主搜括,聲名甚損。十七年二月命以戶、兵二部尚書兼文淵閣大學士總督漕運、屯田、練兵諸務,駐濟寧。已而不行。

李自成が京師を陥落させると、岳貢及び邱瑜は捕らえられ、劉宗敏の所に幽閉された。賊が銀を要求したが、岳貢は元来清廉で貧しく応じるものなく、拷掠を極めた。その邸宅を捜索したが何もなく、松江の商人が代わりに千金を納めた。四月朔日、邱瑜と共に釈放された。十二日、賊が既に陳演らを殺した後、監守者に命じて二人も殺させた。監守者は縄を奉げ、二人は共に縊死した。

原文李自成陷京師,岳貢及邱瑜被執,幽劉宗敏所。賊索銀,岳貢素廉,貧無以應,拷掠備至。搜其邸,無所有,松江賈人為代輸千金。四月朔日與瑜並釋。十二日,賊既殺陳演等,令監守者並殺二人,監守者奉以繯,二人並縊死。

邱瑜、宜城の人。天啓五年の進士。庶吉士より検討に授けられた。崇禎年間、累遷して少詹事となった。襄陽陥落の際、瑜は難に遭った宗室を恤れ、才吏を選べ、死節を旌せ、催征を停め、郵駅の困窮を蘇らせ、労役を禁ずるの六事を上奏した。帝はこれを採納した。礼部左右侍郎を歴任した。召対の際、「督師孫傳庭が関を出ることは、安危の繋がるところであり、慎んで軽々しく出ることを促さぬように。関中を鎮定させれば、なお諸将を号令し、機に乗じて進剿することができる」と言った。帝は従うことができなかった。十七年正月、本官のまま東閣大学士を兼ね、範景文と共に内閣に入った。都城陥落後、二度にわたり拷掠を受け、捜索で得られたのは二千金に過ぎず、やがて害された。

原文邱瑜,宜城人。天啟五年進士。由庶吉士授檢討。崇禎中,屢遷少詹事。襄陽陷,瑜上恤難宗、擇才吏、旌死節、停催征、蘇郵困、禁勞役六事。帝采納焉。歷禮部左右侍郎。因召對,言:「督師孫傳庭出關,安危所繋,慎勿促之輕出。俾鎮定關中,猶可號召諸將,相機進剿。」帝不能從。十七年正月以本官兼東閣大學士,同範景文入閣。都城陷,受拷掠者再,搜獲止二千金,既而被害。

瑜の子之陶は、年少にして才幹と謀略あり。李自成が宜城を陥落させると、瑜の父民忠は賊を罵って死す。之陶は捕らえられ、兵政府の従事に用いられ、まもなく本府の侍郎として襄陽を守る。襄陽尹の牛佺は、賊の宰相金星の子なり、その信任は之陶に及ばず。之陶は蠟丸の書を傅庭に送りて曰く、「督師之と戦い、吾は詭りて左鎮の兵大いに至ると言い、其の心を揺るがせば、彼必ず返り顧みん。督師其の後を撃ち、吾は中より起これば、賊は滅ぼすべし」と。傅庭大いに喜び、報書をその言の如くす、賊の邏者の得るところとなる。傅庭は内応を恃み、連営して前進す、之陶果たして火を挙げ、左兵の大いに至るを報ず。自成其の詐りを得て験し、召して傅庭の書を示し、己に背けるを責む。之陶大いに罵りて曰く、「吾は汝を万段に斬らざるを恨む、豈に汝に従いて反せんや」と。賊怒り、之を支解す。

原文瑜子之陶,年少有幹略。李自成陷宜城,瑜父民忠罵賊而死。之陶被獲,用為兵政府從事,尋以本府侍郎守襄陽。襄陽尹牛佺,賊相金星子,其倚任不如也。之陶以蠟丸書貽傳庭曰:「督師與之戰,吾詭言左鎮兵大至,搖其心,彼必返顧。督師擊其後,吾從中起,賊可滅也。」傳庭大喜,報書如其言,為賊邏者所得。傳庭恃內應,連營前進,之陶果舉火,報左兵大至。自成驗得其詐,召而示以傳庭書,責其負己。之陶大罵曰:「吾恨不斬汝萬段,豈從汝反耶!」賊怒,支解之。

賛に曰く、荘烈帝在位僅かに十七年、輔相五十余人に至る。其の令名を克く保つ者は、数人のみ、標等の如き是なり。基命は能く旧輔を推轂して危難を定め、震孟は風節を以て顕れ、徳璟は旧章に諳悉す。陸喜の薛瑩を論ずる者を以て之を観れば、所謂侃然として国を体し、正を執りて懼れず、時宜を斟酌し、時に微益を献ずる者か。至りて危を扶け傾を定むるは、殆ど言う易きに非ざるなり。嗚呼、国歩方に艱しく、人材亦た俱に尽き、其の由来する所漸し。

原文贊曰:莊烈帝在位僅十七年,輔相至五十餘人。其克保令名者,數人而已,若標等是也。基命能推轂舊輔以定危難,震孟以風節顯,德璟諳悉舊章。以陸喜之論薛瑩者觀之,所謂侃然體國,執正不懼,斟酌時宜,時獻微益者乎。至於扶危定傾,殆非易言也。嗚呼,國步方艱,人材亦與俱盡,其所由來者漸矣。