孫承宗
孫承宗、字は稚繩、高陽の人である。容貌は奇偉で、鬚髯は戟の如く張っていた。人と語る時、声は壁に響いた。初めは県学生となり、辺境の郡で経書を講じた。飛狐・拒馬の間を往来し、直ちに白登に赴き、また紇干・清波の故道を経て南下した。材官や老兵に従い、険要や厄塞を究明することを好み、これによって辺事に通暁した。
未だ幾ばくもせず、大清兵が広寧に迫り、王化貞は城を棄てて逃走し、熊廷弼も共に関内に入った。兵部尚書張鶴鳴は罪を懼れ、辺境巡行に出た。帝もまた東事を急ぎ、遂に承宗を兵部尚書兼東閣大学士に拝し、入直して事務を辦せしめた。数日を経て、閣臣に命じて部務を掌らせた。承宗は上疏して曰く、「近年、兵は多く練られず、餉は多く核められず。将を以て兵を用いながら、文官を以て招練し、将を以て臨陣しながら、文官を以て指発し、武略を以て辺備を為しながら、日に文官を幕中に増置し、辺任を経略・巡撫に委ねながら、日に戦守を朝廷に問う。これは極めて弊れたことである。今、天下は将権を重んずべきであり、沈雄にして気略ある者を選び、これに節鉞を授け、偏裨以下を自ら辟置するを得させ、文吏に小見を以て沾沾としてその上に陵ぐことをさせてはならない。辺疆の小勝小敗は、皆問うに足らず、要は関を守って闌入無からしめ、徐々に恢復の計を為すことにある。」因みに西部を撫し、遼民を恤れ、京軍を簡び、永平の大帥を増し、薊鎮の亭障を修め、京東の屯田を開く等の数策を列挙して上奏すると、帝は褒めてこれを納れた。時に辺警が屡々告げられ、閣部大臣は旦暮無事を幸いとし、言路は日に日に紛呶した。承宗は乃ち廷弼を法司に下し、化貞と共に審議するよう請い、以て朝士の党護を正そうとした。また給事中明時挙・御史李達を逮問するよう請い、以て四川において兵を招き寇を致した者を懲らしめようとした。また遼東巡按方震孺・登萊監軍梁之垣・薊州兵備邵可立を詰責するよう請い、以て在位の骫骳たる者を警めようとした。諸人は次第に譴責を受け、朝廷は聳然としたが、側目して怨み諮る者もまた多かった。
兵部尚書王在晉が廷弼に代わって遼東経略となり、総督王象乾と深く相倚り結んだ。象乾は薊門に在ること久しく、西部の種類と情性を熟知し、西部もまたこれを愛戴したが、実は他に才無く、ただ財物を啖わせて相羈縻し、老いて解職することを得んことを冀うるのみであった。在晉は西部を用いて広寧を襲撃することを謀ったが、象乾はこれを諫めて曰く、「広寧を得ても守ることはできず、罪を獲ること一層大なり。重関を設けて険をなすに如かず、山海を衛って以て京師を衛うべし。」在晉は乃ち山海関外の八里鋪に重関を築き、四万人を以てこれを守ることを請うた。その僚佐の袁崇煥・沈棨・孫元化らが力爭したが得られず、首輔葉向高に奏記した。向高は曰く、「これは未だ臆度すべからず。」承宗は自ら往きてこれを決するよう請うた。帝は大いに喜び、太子太保を加え、蟒玉・銀幣を賜った。関に抵ると、在晉を詰めて曰く、「新城が成れば、即ち旧城の四万人を移して守るのか。」在晉曰く、「否、更に兵を設くべし。」曰く、「然らば、則ち八里内に守兵八万となる。一片石の西北には兵を設くべからざるか。且つ関を築くは八里内にあり、新城の背は即ち旧城の趾なり、旧城の品坑地雷は敵人のために設くるか、それとも新兵のために設くるか。新城が守れるならば、安んぞ旧城を用いん。もし守れざるならば、則ち四万の新兵は旧城下に戈を倒し、将に関を開いて敵を延き入れんか、それとも関を閉じて敵に委ねんか。」曰く、「関外に三道関ありて入るべし。」曰く、「若し此くの如くならば、則ち敵至れば兵逃ぐること旧の如く、安んぞ重関を用いん。」曰く、「山に三寨を建て、以て潰卒を待たんとす。」曰く、「兵未だ潰えざるに寨を築きてこれを待つは、これ潰るるを教うるなり。且つ潰兵入るべくば、敵もまたこれを尾いて入るべし。今恢復の計を為さず、関を画して守らんとし、将に籓籬を尽く撤き、日に堂奥を哄かさんとす、畿東に寧宇あらんや。」在晉は難ずる言葉無し。承宗は乃ち関外を守ることを議した。監軍閻鳴泰は覚華島を主とし、袁崇煥は寧遠衛を主としたが、在晉はこれを不可とし、中前所を守ることを主とした。旧監司の邢慎言・張応吾は関内に逃れており、皆これに附和した。
初め、化貞らが既に逃げると、寧遠以西の五城七十二堡は悉く哈喇慎諸部の占拠するところとなり、声言して辺を守るを助けんとした。前哨游撃左輔は名は中前に駐すと雖も、実は八里鋪を出でず。承宗は諸部の信ずるに足らざるを知り、寧遠・覚華の守るべきを認め、既に自ら在晉を発して決しようと決心し、推心して告げ語ること凡そ七昼夜に及んだが、終に応じなかった。還朝して言うには、「敵未だ鎮武に抵らざるに我自ら寧遠・前屯を焼く、これは前日の経略・巡撫の罪なり。我寧遠・前屯を棄つるも、敵終に至らず、而して我敢えて関を出で一步せず、これは今日の将吏の罪なり。将吏関内に匿り、その畏敵の心を転じて法を畏るるに化し、その謀利の智を化して敵を謀るに至らざる、これは臣と経臣の罪なり。百万の金錢を無用の版築に浪擲するに、何ぞ寧遠の要害を築くに若かん。八里鋪を守る四万人を以て寧遠の沖に当て、覚華と相犄角せしめよ。敵城を窺えば、島上の卒をして旁らに三岔より出で、浮橋を断ち、その後を繞って横撃せしめよ。即ち事無くとも、且つ二百里の疆土を収めん。総じて、敵人の帳幕は必ず関門に近づくべからず、杏山の難民は必ず膜外に置くべからず。庸人の論を尽く破らざれば、遼事は為すべからず。」その他の軍事制置についてまた十余疏を上奏した。帝は嘉納した。未だ幾ばくもせず、御講筵にて、承宗は面奏して在晉の任に足らざるを言い、乃ち南京兵部尚書に改め、併せて逃臣慎言らを斥け、而して八里築城の議は遂に熄んだ。
高第が去った後、承宗は自ら督師を請うた。詔して関防と勅書を与え、原官のまま山海関及び薊・遼・天津・登・萊の諸処の軍務を督理し、便宜行事を許し、中央の制約を受けず、鳴泰を遼東巡撫とした。承宗は職方主事の鹿善継・王則古を辟召して賛画とし、国庫の金八十万両を請うて出発した。帝は特に門を御して臨み送別し、尚方剣と坐蟒を賜い、閣臣は崇文門外まで見送った。関に到着すると、総兵の江応詔に軍制を定めさせ、僉事の崇煥に営舎を建てさせ、廃将の李秉誠に火器を訓練させ、賛画の善継・則古に軍需を管理させ、沈棨・杜応芳に甲冑兵器を整備させ、司務の孫元化に砲台を築かせ、中書舎人の宋献・羽林経歴の程侖に馬の購入を主管させ、広寧道僉事の万有孚に木材の採伐を主管させ、また遊撃の祖大寿に覚華島で金冠を補佐させ、副将の陳諫に前屯で趙率教を補助させ、遊撃の魯之甲に難民を救済させ、副将の李承先に騎兵を訓練させ、参将の楊応乾に遼人を募って兵士とした。
この時、関上の兵は名目上七万であったが、軍紀がなく、兵糧を不正に受ける者が多かった。承宗は大規模な閲兵を行い、逃亡した将兵数百人を淘汰し、河南・真定の疲弊した兵一万余りを送還し、之甲が救った難民七千人を前屯に送って兵士とした。応乾が募集した遼卒は寧遠に駐屯させ、朝鮮に諮って援軍を要請した。毛文龍を東江で慰労し、四衛を回復するよう命じた。登州の将帥沈有容に檄を飛ばして広鹿島を占拠させた。春の防衛時に自ら登・萊に赴いて進取を協議しようとしたが、朝廷の意向は遼東を急務とし、許さなかった。応詔が弾劾されると、承宗は馬世龍を代わりに任用するよう請い、尤世禄・王世欽を南北の将帥とし、世龍の指揮下に置き、また世龍のために尚方剣を請うた。帝は全て許可した。世龍が職務に就くと、承宗は壇を築き、鉞を授ける儀式を行った。率教は既に前屯を守り、ハラチン(哈喇慎)諸部を全て追い払ったが、交易場は依然として八里鋪にあった。象乾は水関を開き、関内で懐柔することを提案したが、承宗は同意せず、高台堡に定めた。
当時、大清兵は広寧を放棄して去り、遼の遺民がそこに住み着いていた。チャハル部(插漢部)が有孚に報告すると、有孚は西部を抱き込んで隙に乗じて彼らを殲滅し、回復の功績を偽ろうと謀った。承宗は檄を下して言った、「西部が我が民を殺す者は、盟約の言葉通りに罰する」。この一件で、千余人の命が救われた。帝は辺境の情勢を細かく監察することを好み、しばしば東廠に人を遣わして関門に赴かせ、事態を詳細に奏上させ、これを「較事」と呼んだ。魏忠賢が政権を窃取すると、その党羽の劉朝・胡良輔・紀用ら四十五人を遣わし、内庫の神砲・甲仗・弓矢など数万を関門に届けて軍中用とし、また白金十万両と蟒・麒麟・獅子・虎・豹などの幣を賜って将士を慰労し、承宗には蟒服と白金を賜って慰労したが、実は軍情を偵察するためであった。承宗はちょうど関を出て寧遠を巡視しており、途中でこれを聞き、直ちに上疏して言った、「宦官が軍情を視察することは、古来より戒めとされている」。帝は穏やかな言葉で返答した。使者が到着すると、茶を出しただけであった。
鳴泰が巡撫となったのは、承宗が推薦したためであった。後に実力がないことを知り、軍事について多く彼と協議しなかった。鳴泰は不満を抱いて去りを求め、承宗もまた病気を理由に辞任しようとした。言官が共に承宗を留任するよう求め、鳴泰を非難し、巡関御史の潘雲翼もまた弾劾した。帝はついに鳴泰を罷免し、張鳳翼を代わりとした。鳳翼は臆病で、再び関を守る議論を主張した。承宗は快く思わず、再び関を出て巡視した。寧遠に到着し、将吏を集めて守るべき場所を議論した。多くは鳳翼の意見に従ったが、ただ世龍だけが中後所を守ることを請い、崇煥・善継及び副将の茅元儀は力を込めて寧遠を守ることを請うた。承宗はこれに同意し、議論が定まった。大寿に工事を起こさせ、崇煥と満桂に守らせた。先に、虎部(ハルチン部か)が密かに出て略奪し、率教が四人を捕らえて斬った。象乾は率教を斬って虎部に謝罪させようとしたが、承宗は同意しなかった。また承宗が派遣した王楹が中右所を守り、その兵を護衛して木材を採りに出たが、西部の朗素に殺された。承宗は怒り、世龍を派遣して討伐させた。象乾は懐柔策を壊すことを恐れ、朗素に逃亡者を縛らせて楹を殺した者として献上させ、さらに交易の賞金を千金増やした。承宗がちょうど上疏して争っていると、象乾は憂い(喪か)で去った。
承宗は、和議を主張する者が自分の権限を妨げることを憂い、督師と総督は兼務すべきでなく、自分を罷免するか、さもなくば総督を推挙しないよう請うた。また遼東巡撫を寧遠に移駐させるよう請うた。帝は総督の推挙を止めるよう命じたが、鳳翼は自分を死地に置くものだと言って、大いに恨んだ。郷里の者である雲翼・有孚らと力を合わせて世龍を誹謗し、承宗を揺るがそうとした。まもなく、有孚が薊州巡撫の岳和声に弾劾され、ますます世龍と崇煥が共謀して陥れたと疑い、共に根拠のない言葉を流して、関を出る計画を妨害した。給事中の解学龍はついに世龍の罪を極論した。承宗は憤慨し、抗疏して守備の策を陳べ、言った、「敵を門庭の中で防ぐことと、諸々の門庭の外で防ぐこととは、情勢が既に異なる。我が敵を二百里外に迫ることと、敵が我を二百里内に迫ることとは、情勢がまた異なる。広寧は、我が遠く敵が近く、寧遠は我が近く敵が遠い。我が進んで敵を逼迫しなければ、敵が進んで我を逼迫するであろう。今日たとえ遼左を回復できなくとも、寧遠と覚華は終に放棄すべきでない。廷臣に雑議させ、主兵・客兵が長く駐屯できるか、本餉・折色の兵糧が長く輸送できるか、関外の土地人民を放棄できるか、屯田・築城・戦闘・守備を興し挙行できるか、再び敵の情勢を察して、果たして坐待するだけで消滅させられるかを請う。臣は百年の久計を為すことは敢えず、只五年間の内に究竟どうなるかを計るのみである。もし臣の言が当たらずば、直ちに臣を斥けて大計を定め、迂回して決断せず、全躯保妻子の臣をして衆喙に附和させ、臣一身を殺して天下を誤らせないでいただきたい」。また世龍を弁護し、有孚らが互いに結託して讒構する様子を明らかにした。
有孚は、故侍郎の世徳の子で、広寧で兵糧を管理する同知であった。城が陥落すると逃げ帰り、象乾が題奏して広寧道僉事とし、専らチャハル部を懐柔させたが、着服が多かった。この時、承宗の言によって罷免された。鳳翼もまた憂い(喪か)で帰り、喻安性が代わった。廷臣が総督は廃止できないと言い、呉用先に薊・遼を督理させ、象乾の代わりとした。承宗は兵部尚書の王在晉が多く中央の制約を加えることを憎み、病気を称して辞任を求め、王在晉を自らの後任に推挙して彼を困らせようとしたが、廷議が不可として止んだ。
この時、寧遠城の工事が完成し、関外の守備の具が全て整った。承宗は大挙を図り、上奏して言った、「前哨は既に連山と大凌河に置かれた。速やかに臣に兵糧二十四万を与えられば、功績は直ちに奏上できる」。帝は関係部署に給与するよう命じた。兵部と工部は互いに謀って言った、「兵糧が足りれば、彼は即ち妄りに行動するであろう。許しても与えず、文書の往復で遅延させる方が良い」。承宗は再び上疏して催促し、事情を全て告げた。帝は諸官庁に厳命したが、軍は結局出撃しなかった。
初め、方震孺・游士任・李達・明時挙が譴責されたのは、承宗が実際に弾劾したためであったが、後に皆彼らのために赦免を求めた。また楊鎬・熊廷弼・王化貞の功労を称え、死刑を免じて辺境に戍らせるよう請うたが、朝廷では騒然となった。給事中の顧其仁・許誉卿、御史の袁化中が相次いで上章して論駁したが、帝は皆省みなかった。ちょうど承宗が五防で功労のあった諸臣を叙勲し、また病気を理由に辞任を乞うたので、宦官の劉応坤らを遣わして国庫の金十万両を齎らせて将士を慰労し、承宗には坐蟒と膝襴を賜い、金幣を添えた。
この時、魏忠賢はますます権力を盗み取った。孫承宗の功績が高いので、親しく付き従わせようとし、劉応坤らに意向を伝えさせた。承宗は一言も交わさず、忠賢はこれにより大いに恨んだ。ちょうど忠賢が楊漣・趙南星・高攀龍らを追放した時、承宗はちょうど西へ巡視して薊州・昌平にいた。上疏して抗議しても帝が必ずしも親覧されないだろうと考え、かつて講筵に侍した時、毎回奏上に対し聴き入れられることがあったので、聖寿を賀するため入朝して機宜を面奏することを請い、これによって忠賢の罪を論じようとした。魏広微がこれを聞き、駆けつけて忠賢に告げた、「承宗が数万の兵を擁して君側を清めようとし、兵部侍郎李邦華が内応します、公はたちまち粉砕されますぞ!」忠賢はひどくおののき、御床をめぐって泣いた。帝もまた心を動かされ、内閣に旨を起草させた。次輔顧秉謙が奮筆して曰く、「旨なくして守備地を離るるは、祖宗の法に非ず、違う者は赦さず」。夜に禁門を開いて兵部尚書を召し入れ、三道の飛騎を以てこれを止めさせた。また詔旨を偽って九門の守閹に諭し、承宗がもし斉化門に至れば、縛り上げて入れよと。承宗は通州に到着したが、命令を聞いて引き返した。忠賢が人を遣わして偵察させると、一つの袱紗包みを輿の中に置き、後車には鹿善継がいるだけであったので、怒りは少し和らいだ。しかしその党の李蕃・崔呈秀・徐大化が相次いで上疏して彼を誹謗し、ついには王敦・李懐光に比した。承宗は門を閉じて罷免を求めた。
五年四月、給事中郭興治が廷臣に去就を議させよと請い、糧秣を横領したと論ずる者もまた続いて至り、ついに廷臣に雑議を下した。吏部尚書崔景栄がこれを支持し、詔を下して留任を勧め、将を簡び兵を汰い餉を清めるの三事を以て承宗に責めた。奏上して報告したが、承宗はちょうど諸将を分遣して錦州・大小凌河・松山・杏山・右屯の諸要害に戍らせ、拓地また二百里、大将の世欽・世祿、副将の李秉誠・孫諫を罷め、軍一万七千余人を淘汰し、度支六十八万を省いた。ところが言官が世龍を論じ止まなかった。九月に至り、ついに柳河の敗があり、死者四百余人、その言葉は『世龍伝』に詳しい。ここにおいて台省が世龍を弾劾し承宗にも及び、章疏数十通が上った。承宗は去ることをますます強く求め、十月になってようやく請いが聞き届けられた。先にすでに累次左柱国・少師・太子太師・中極殿大学士を加えられ、ここに特進光禄大夫を加えられ、子に中書舎人を蔭し、蟒服・銀幣を賜り、行人が護送して帰した。そして兵部尚書高第を代わりに経略とした。まもなく、張安性もまた罷められ、ついに巡撫を廃して設けなかった。
初め、高第は強く承宗を抑え、関外を撤して関内を守るよう請うた。承宗がこれを駁すと、第は深く恨んだ。翌年、寧遠が包囲されると、上疏して関門の兵はわずか五万しか残っていないと言い、言う者はますますこれを承宗の罪とした。承宗は戸部に告げて曰く、「第が初めて関に臨んだ時、十一万七千人に糧秣を与えたが、今はただ五万人に糧秣を与えれば足りる」。第は果たして妄言を以て罪を引いた。後、忠賢がその党梁夢環を遣わして関を巡視させ、承宗の罪をでっち上げようとしたが、得るところなく止んだ。承宗が関に在ること四年、前後して大城九・堡四十五を修復し、兵十一万を練り、車営十二・水営五・火営二・前鋒後勁営八を立て、甲冑・器械・弓矢・砲石・渠答・鹵楯の具を合わせ数百万造り、地四百里を拓き、屯五千頃を開き、歳入十五万を得た。後に寧遠の功を叙し、子に錦衣世千戸を蔭した。
十二月四日に至り、祖大寿の変があった。大寿は遼東前鋒総兵官で、崇煥と共に入衛した。崇煥が獄吏に下されるのを見て、誅殺を恐れ、遂に副将何可綱らと共に率いる所の一万五千人を率いて東へ潰走し、遠近大いに震動した。承宗は聞き、急ぎ都司賈登科に手書を持たせて大寿を慰諭させ、また游撃石柱国に馳せて諸軍を撫でさせた。大寿は登科に会い、言う、「麾下の卒は赴援し、連戦俱に捷し、厚賞を得んと冀う。城上の人群りて賊と罵り、石を投げて数人を撃ち死にせしむ。遣わした邏卒は、間諜と指して之を殺す。労して罪を見る、是を以て奔還す。当に出でて朶顔を搗ち、然る後に身を束ねて命に帰せん」。柱国が諸軍に追い及ぶと、その将士は弓刀を相向け、皆涙を垂れて言う、「督師既に戮せられ、又大砲を以て我が軍を撃ち斃さんとす、故に此に至る」。柱国がさらに前進して追うと、大寿は去ることすでに遠く、乃ち返った。承宗奏言す、「大寿の危疑すでに甚だしく、また満桂の節制を受けず、訛言に因りて衆を激して東奔せしむ、部下尽く叛かんと欲するに非ず。当に生路を大いに開き、衆心を曲く収むべし。遼将多くは馬世龍の旧部曲、臣謹みて便宜を用い、世龍を遣わして馳せ諭せば、その将士必ず甲を解きて帰らん、大寿は慮るに足らず」。帝喜んでこれに従った。承宗は密札を以て大寿に急ぎ上章して自ら列ね、かつ功を立てて督師の罪を贖い、己が代わりに剖白すべしと諭した。大寿はこれを諾し、東奔の故を具に列ね、悉く将士の言うが如くであった。帝は優詔を以てこれに報い、承宗に命じて関門に移鎮させた。諸将は承宗・世龍の至るを聞き、多く自ら抜けて来帰する者あり。大寿の妻左氏もまた大義を以てその夫を責め、大寿は兵を収めて命を待った。
時に我が大清は既に遵化を抜いてこれを守っていた。この月四日に永平を抜き、八日に遷安を抜き、遂に灤州を下した。兵を分けて撫寧を攻めたが、可法らは堅守して下さなかった。大清兵は遂に山海関に向かい、三十里離れて営し、副将官惟賢らが力戦した。そこで還って撫寧及び昌黎を攻めたが、共に下さなかった。この時、京師への道は阻まれ、承宗・大寿の軍は東に、世龍及び四方の援軍は西にあった。承宗は死士を募り海沿いに京師に達させ、初めて関城が尚無恙であることを知った。関西南の三県:撫寧・昌黎・楽亭、西北の三城:石門・台頭・燕河。六城は東に関門を護り、西に永平をめぐり、皆関に近い要地である。承宗は諸城を飭めて厳守させ、将を遣わして開平を戍らせ、建昌を復し、声援が初めて接続した。
京師が戒厳するや、天下の勤王兵先後至る者二十万、皆薊門及び近畿に壁し、進むに利あらず。詔旨しばしば督趣すれども、諸将も時に戦攻すれど、然れども克復すること能わず。世龍は先ず遵化を復すことを請うたが、承宗は言う、「然らず、遵化は北にあり、取り易くして守り難し、姑くこれを留めてその勢いを分かち、先ず灤を図るに如かず。今当に多く声勢を為し、遵化を図らんとする状を示してこれを牽制すべし。諸鎮は豊潤・開平に赴き、関兵を連ねて灤を図るべし。灤を得れば則ち開平の兵をもってこれを守り、騎兵決戦して永平を図るべし。灤・永平を得れば則ち関・永平合し、遵化を取ること易々たるべし」と。議既に定まり、東西諸営を併進させ、親しく撫寧に詣ってこれを督した。五月十日、大寿及び張春・邱禾嘉諸軍先ず灤城下に抵り、世龍及び尤世禄・呉自勉・楊麒・王承恩継いて至り、二日を越えてこれを克ち、副将王維城らも遷安に入った。我が大清兵永平を守る者は、尽く撤して北還し、承宗は遂に永平に入った。十六日、諸将謝尚政らも遵化に入った。四城俱に復した。帝は郊廟に告謝し、大いに賞賚を行い、承宗に太傅を加え、蟒服・白金を賜い、錦衣衛指揮僉事を世襲させた。力めて太傅を辞し受けず、しばしば疏を上して疾を称し休を乞うたが、優詔して允さず。
朵顔束不的は反覆し、承宗は大将王威にこれを撃破させ、また銀幣を賜った。先に冊立東宮により太保を加えられ、及び『神宗実録』成り、加官もまたこれの如し。共に辞免し、而して休を乞うて已まず。帝は閣臣に議して去留を決せしむれども、決せず。特に中書を遣わし手詔を齎して慰問し、乃ち起きて視事した。四年正月に関を出て東巡し、松山・錦州に抵り、還って関に入り、また西巡し、遍く三協十二路を閲して返った。東西辺政八事を条上し、帝は皆これを採納した。五月に考満により、詔して太傅を加え尚書俸を兼食せしめ、尚宝司丞を廕し、蟒服・銀幣・羊酒を賜うたが、また太傅を辞し受けず。
初め、右屯・大凌河の二城、承宗は既に兵を設けて戍守せしめていた。後に高第来たりて代わり、尽くこれを撤し、二城は遂に毀された。ここに至り、禾嘉は遼東を巡撫し、広寧・義州・右屯の三城を復取するを議す。承宗は言う、広寧は道遠く、当に先ず右屯を拠り、大凌河に城を築き、漸を以て進むべしと。兵部尚書梁廷棟これに主たり、遂に七月をもって工を興し、工甫に竣るや、我が大清兵大いに至り、数周を囲む。承宗聞き、馳せて錦州に赴き、呉襄・宋偉を遣わして往き救わしむ。禾嘉はしばしば師期を易え、偉と襄はまた相能わず、遂に長山に大敗した。十月に至り、城中糧尽き援絶え、守将祖大寿力屈して出降し、城はまた毀された。廷臣は築城が策に非ざるを追咎し、交章して禾嘉及び承宗を論じ、承宗はまた連疏して疾を引きいた。十一月に請いを得、銀幣を賜い乗伝して帰る。言者はその喪師辱国を追論し、官を奪い閑住せしめ、寧遠の世廕をも奪う。承宗はまた辺計十六事を列上し、而して極言して禾嘉の軍謀牴牾の失を言う、帝は報聞するのみ。家に居ること七年、中外しばしば召用を請うも、報いず。
十一年、我が大清兵内地に深入す。十一月九日をもって高陽を攻め、承宗は家人を率いて拒守す。大兵将に去らんとし、城を繞りて三たび喊し、守る者もまたこれに応じて三たびし、曰く「此れ城の笑いなり、法に於いて当に破るべし」と、囲み復た合す。明日城陥ち、執らえられる。闕を望みて頭を叩き、繯に投じて死す、年七十六。
子 鉁 等
子挙人鉁、尚宝丞鑰、官生鈰、生員鋡・鎬、従子鍊、及び孫之沆・之滂・之澋・之洁・之瀗、従孫之澈・之渼・之泳・之澤・之渙・之瀚、皆戦死す。督師中官高起潜以て聞こゆ。帝嗟悼し、所司に命じて優恤せしむ。国を当る者楊嗣昌・薛国観輩陰にこれを扼し、但だ故官を復し、祭葬を与うるのみ。福王の時、初めて太師を贈り、諡して文忠とす。
贊
贊して曰く、承宗は宰相として再び師を視ること、皆粗く成效有りしが、奄豎斗筲、後先齮扼し、卒に諸田野に屏し、闔門膏斧鑕に至るも、恤典加わらず。国是かくの如し、危き無きを求むるも、安んぞ得べけんや。夫れ攻むるに足らざる者は守るに余り有り、彼の才を度るに、恢復固より言い易からず、専任せしむれば、猶ほ以って封守を慎固するに足るべし。然るに廷論紛呶し、亟に翦除を行わんとす。蓋し天の徳有る者を眷し、気運将に更らんとし、之を為す莫き而も為す者有るか。