明史

列傳第一百三十八 孫承宗

列傳第一百三十八 孫承宗

原文列傳第一百三十八 孫承宗

孫承宗

原文孫承宗

孫承宗、字あざなは稚繩、高陽の人である。容貌は奇偉で、鬚髯は戟の如く張っていた。人と語る時、声は壁に響いた。初めは県学生となり、辺境の郡で経書を講じた。飛狐・拒馬の間を往来し、直ちに白登に赴き、また紇干・清波の故道を経て南下した。材官や老兵に従い、険要や厄塞を究明することを好み、これによって辺事に通暁した。

原文孫承宗,字稚繩,高陽人。貌奇偉,須髯戟張。與人言,聲殷牆壁。始為縣學生 ,授經邊郡。往來飛狐、拒馬間,直走白登,又從紇干、清波故道南下。喜從材官老兵究問險要厄塞,用是曉暢邊事。

萬曆三十二年、進士第二人に登第し、編修に授かり、中允に進んだ。「梃撃」の変が起こると、大学士吳道南が承宗に諮問した。対えて曰く、「事は東宮に関わる、問わざるべからず。事は貴妃に連なる、深く問うべからず。龐保・劉成以下は、問わざるべからず。龐保・劉成以上は、深く問うべからず。」道南はその言の如くし、疏を具えて上奏すると、事は遂に定まった。出て応天郷試を典試し、策問を発してその語を著した。これにより党人の忌諱いみなに触れ、大計によって外官に出そうとしたが、学士劉一燝が保持したため、免れることができた。諭徳・洗馬を歴任した。

原文萬曆三十二年,登進士第二人,授編修,進中允。「梃擊」變起,大學士吳道南以諮承宗。對曰:「事關東宮 ,不可不問;事連貴妃,不可深問。龐保、劉成而下,不可不問也;龐保、劉成而上,不可深問也。」道南如其言,具揭上之,事遂定。出典應天鄉試,發策著其語。攖黨人忌,將以大計出諸外,學士劉一燝保持,乃得免。歷諭德、洗馬。

熹宗が即位すると、左庶子として日講官を充たした。帝は毎度承宗の講義を聴くごとに、「心開く」と曰い、故に眷注は特に厚かった。天啓元年、少詹事に進んだ。時に瀋陽・遼陽が相次いで失陥し、挙朝洶洶たるありさまであった。御史方震孺が兵部尚書崔景榮を罷免し、承宗を以て代えるよう請うた。廷臣もまた皆、承宗が兵事を知るところありとして、遂に推挙して兵部添設侍郎とし、東事を主掌させた。帝は承宗を講筵から離すことを欲せず、疏が再上されても許さなかった。二年、礼部右侍郎に擢られ、詹事府を協理した。

原文熹宗即位,以左庶子充日講官。帝每聽承宗講,輒曰「心開」,故眷注特殷。天啟元年進少詹事。時沈、遼相繼失,舉朝洶洶。御史方震孺請罷兵部尚書崔景榮 ,以承宗代。廷臣亦皆以承宗知兵,遂推為兵部添設侍郎,主東事。帝不欲承宗離講筵,疏再上不許。二年擢禮部右侍郎,協理詹事府。

未だ幾ばくもせず、大清兵が広寧に迫り、王化貞は城を棄てて逃走し、熊廷弼も共に関内に入った。兵部尚書張鶴鳴は罪を懼れ、辺境巡行に出た。帝もまた東事を急ぎ、遂に承宗を兵部尚書兼東閣大学士に拝し、入直して事務を辦せしめた。数日を経て、閣臣に命じて部務を掌らせた。承宗は上疏して曰く、「近年、兵は多く練られず、餉は多く核められず。将を以て兵を用いながら、文官を以て招練し、将を以て臨陣しながら、文官を以て指発し、武略を以て辺備を為しながら、日に文官を幕中に増置し、辺任を経略・巡撫に委ねながら、日に戦守を朝廷に問う。これは極めて弊れたことである。今、天下は将権を重んずべきであり、沈雄にして気略ある者を選び、これに節鉞を授け、偏裨以下を自ら辟置するを得させ、文吏に小見を以て沾沾としてその上に陵ぐことをさせてはならない。辺疆の小勝小敗は、皆問うに足らず、要は関を守って闌入無からしめ、徐々に恢復の計を為すことにある。」因みに西部を撫し、遼民を恤れ、京軍を簡び、永平の大帥を増し、薊鎮の亭障を修め、京東の屯田を開く等の数策を列挙して上奏すると、帝は褒めてこれを納れた。時に辺警が屡々告げられ、閣部大臣は旦暮無事を幸いとし、言路は日に日に紛呶した。承宗は乃ち廷弼を法司に下し、化貞と共に審議するよう請い、以て朝士の党護を正そうとした。また給事中明時挙・御史李達を逮問するよう請い、以て四川において兵を招き寇を致した者を懲らしめようとした。また遼東巡按方震孺・登萊監軍梁之垣・薊州兵備邵可立を詰責するよう請い、以て在位の骫骳たる者を警めようとした。諸人は次第に譴責を受け、朝廷は聳然としたが、側目して怨み諮る者もまた多かった。

原文未幾,大清兵逼廣寧,王化貞棄城走,熊廷弼與俱入關。兵部尚書張鶴鳴懼罪,出行邊。帝亦急東事 ,遂拜承宗兵部尚書兼東閣大學士,入直辦事。越數日,命以閣臣掌部務。承宗上疏曰:「邇年兵多不練,餉多不核。以將用兵,而以文官招練;以將臨陣,而以文官指發;以武略備邊,而日增置文官於幕;以邊任經、撫,而日問戰守於朝;此極弊也。今天下當重將權,擇一沉雄有氣略者,授之節鉞,得自辟置偏裨以下,勿使文吏用小見沾沾陵其上。邊疆小勝小敗,皆不足問,要使守關無闌入,而徐為恢復計。」因列上撫西部、恤遼民、簡京軍、增永平大帥、修薊鎮亭障、開京東屯田數策,帝褒納焉。時邊警屢告,閣部大臣幸旦暮無事,而言路日益紛呶。承宗乃請下廷弼於理,與化貞並讞,用正朝士黨護。又請逮給事中明時舉、御史李達,以懲四川之招兵致寇者。又請詰責遼東巡按方震孺、登萊監軍梁之垣、薊州兵備邵可立,以警在位之骫骳者。諸人以次獲譴,朝右聳然,而側目怨咨者亦眾矣。

兵部尚書王在晉が廷弼に代わって遼東経略となり、総督王象乾と深く相倚り結んだ。象乾は薊門に在ること久しく、西部の種類と情性を熟知し、西部もまたこれを愛戴したが、実は他に才無く、ただ財物を啖わせて相羈縻し、老いて解職することを得んことを冀うるのみであった。在晉は西部を用いて広寧を襲撃することを謀ったが、象乾はこれを諫めて曰く、「広寧を得ても守ることはできず、罪を獲ること一層大なり。重関を設けて険をなすに如かず、山海を衛って以て京師を衛うべし。」在晉は乃ち山海関外の八里鋪に重関を築き、四万人を以てこれを守ることを請うた。その僚佐の袁崇煥・沈棨・孫元化らが力爭したが得られず、首輔葉向高に奏記した。向高は曰く、「これは未だ臆度すべからず。」承宗は自ら往きてこれを決するよう請うた。帝は大いに喜び、太子太保を加え、蟒玉・銀幣を賜った。関に抵ると、在晉を詰めて曰く、「新城が成れば、即ち旧城の四万人を移して守るのか。」在晉曰く、「否、更に兵を設くべし。」曰く、「然らば、則ち八里内に守兵八万となる。一片石の西北には兵を設くべからざるか。且つ関を築くは八里内にあり、新城の背は即ち旧城の趾なり、旧城の品坑地雷は敵人のために設くるか、それとも新兵のために設くるか。新城が守れるならば、安んぞ旧城を用いん。もし守れざるならば、則ち四万の新兵は旧城下に戈を倒し、将に関を開いて敵を延き入れんか、それとも関を閉じて敵に委ねんか。」曰く、「関外に三道関ありて入るべし。」曰く、「若し此くの如くならば、則ち敵至れば兵逃ぐること旧の如く、安んぞ重関を用いん。」曰く、「山に三寨を建て、以て潰卒を待たんとす。」曰く、「兵未だ潰えざるに寨を築きてこれを待つは、これ潰るるを教うるなり。且つ潰兵入るべくば、敵もまたこれを尾いて入るべし。今恢復の計を為さず、関を画して守らんとし、将に籓籬を尽く撤き、日に堂奥を哄かさんとす、畿東に寧宇あらんや。」在晉は難ずる言葉無し。承宗は乃ち関外を守ることを議した。監軍閻鳴泰は覚華島を主とし、袁崇煥は寧遠衛を主としたが、在晉はこれを不可とし、中前所を守ることを主とした。旧監司の邢慎言・張応吾は関内に逃れており、皆これに附和した。

原文兵部尚書王在晉代廷弼經略遼東,與總督王象乾深相倚結。象乾在薊門久,習知西部種類情性,西部亦愛戴之,然實無他才 ,惟啖以財物相羈縻,冀得以老解職而已。在晉謀用西部襲廣寧,象乾惎之曰:「得廣寧,不能守也,獲罪滋大。不如重關設險,衛山海以衛京師。」在晉乃請於山海關外八里鋪築重關,用四萬人守之。其僚佐袁崇煥、沈棨、孫元化等力爭不能得,奏記於首輔葉向高。向高曰:「是未可臆度也。」承宗請身往決之。帝大喜,加太子太保,賜蟒玉、銀幣。抵關,詰在晉曰:「新城成,即移舊城四萬人以守乎?」在晉曰:「否,當更設兵。」曰:「如此,則八里內守兵八萬矣。一片石西北不當設兵乎?且築關在八里內,新城背即舊城趾,舊城之品坑地雷為敵人設,抑為新兵設乎?新城可守,安用舊城?如不可守,則四萬新兵倒戈舊城下,將開關延入乎,抑閉關以委敵乎?」曰:「關外有三道關可入也。」曰:「若此,則敵至而兵逃如故也,安用重關?」曰:「將建三寨於山,以待潰卒。」曰:「兵未潰而築寨以待之,是教之潰也。且潰兵可入,敵亦可尾之入。今不為恢復計,畫關而守,將盡撤籓籬,日哄堂奧,畿東其有寧宇乎?」在晉無以難。承宗乃議守關外。監軍閻鳴泰主覺華島,袁崇煥主寧遠衛,在晉持不可,主守中前所。舊監司邢慎言、張應吾逃在關,皆附和之。

初め、化貞らが既に逃げると、寧遠以西の五城七十二堡は悉く哈喇慎諸部の占拠するところとなり、声言して辺を守るを助けんとした。前哨游撃左輔は名は中前に駐すと雖も、実は八里鋪を出でず。承宗は諸部の信ずるに足らざるを知り、寧遠・覚華の守るべきを認め、既に自ら在晉を発して決しようと決心し、推心して告げ語ること凡そ七昼夜に及んだが、終に応じなかった。還朝して言うには、「敵未だ鎮武に抵らざるに我自ら寧遠・前屯を焼く、これは前日の経略・巡撫の罪なり。我寧遠・前屯を棄つるも、敵終に至らず、而して我敢えて関を出で一步せず、これは今日の将吏の罪なり。将吏関内に匿り、その畏敵の心を転じて法を畏るるに化し、その謀利の智を化して敵を謀るに至らざる、これは臣と経臣の罪なり。百万の金錢を無用の版築に浪擲するに、何ぞ寧遠の要害を築くに若かん。八里鋪を守る四万人を以て寧遠の沖に当て、覚華と相犄角せしめよ。敵城を窺えば、島上の卒をして旁らに三岔より出で、浮橋を断ち、その後を繞って横撃せしめよ。即ち事無くとも、且つ二百里の疆土を収めん。総じて、敵人の帳幕は必ず関門に近づくべからず、杏山の難民は必ず膜外に置くべからず。庸人の論を尽く破らざれば、遼事は為すべからず。」その他の軍事制置についてまた十余疏を上奏した。帝は嘉納した。未だ幾ばくもせず、御講筵にて、承宗は面奏して在晉の任に足らざるを言い、乃ち南京兵部尚書に改め、併せて逃臣慎言らを斥け、而して八里築城の議は遂に熄んだ。

原文初,化貞等既逃,自寧遠以西五城七十二堡悉為哈喇慎諸部所據,聲言助守邊。前哨游擊左輔名駐中前,實不出八里鋪。承宗知諸部不足信 ,而寧遠、覺華之可守,已決計將自在晉發之,推心告語凡七晝夜,終不應。還朝,言:「敵未抵鎮武而我自燒寧、前,此前日經、撫罪也;我棄寧、前,敵終不至,而我不敢出關一步,此今日將吏罪也。將吏匿關內,無能轉其畏敵之心以畏法,化其謀利之智以謀敵,此臣與經臣罪也。與其以百萬金錢浪擲於無用之版築,曷若築寧遠要害?以守八里鋪之四萬人當寧遠沖,與覺華相犄角。敵窺城,令島上卒旁出三岔,斷浮橋,繞其後而橫擊之。即無事,亦且收二百里疆土。總之,敵人之帳幕必不可近關門,杏山之難民必不可置膜外。不盡破庸人之論,遼事不可為也。」其他制置軍事又十餘疏。帝嘉納。無何,御講筵,承宗面奏在晉不足任,乃改南京兵部尚書,並斥逃臣慎言等,而八里築城之議遂熄。

高第が去った後、承宗は自ら督師を請うた。詔して関防と勅書を与え、原官のまま山海関及び薊・遼・天津・登・萊の諸処の軍務を督理し、便宜行事を許し、中央の制約を受けず、鳴泰を遼東巡撫とした。承宗は職方主事の鹿善継・王則古を辟召して賛画とし、国庫の金八十万両を請うて出発した。帝は特に門を御して臨み送別し、尚方剣と坐蟒を賜い、閣臣は崇文門外まで見送った。関に到着すると、総兵の江応詔に軍制を定めさせ、僉事の崇煥に営舎を建てさせ、廃将の李秉誠に火器を訓練させ、賛画の善継・則古に軍需を管理させ、沈棨・杜応芳に甲冑兵器を整備させ、司務の孫元化に砲台を築かせ、中書舎人の宋献・羽林経歴の程侖に馬の購入を主管させ、広寧道僉事の万有孚に木材の採伐を主管させ、また遊撃の祖大寿に覚華島で金冠を補佐させ、副将の陳諫に前屯で趙率教を補助させ、遊撃の魯之甲に難民を救済させ、副将の李承先に騎兵を訓練させ、参将の楊応乾に遼人を募って兵士とした。

原文在晉既去,承宗自請督師。詔給關防敕書,以原官督山海關及薊、遼、天津、登、萊諸處軍務,便宜行事,不從中制 ,而以鳴泰為遼東巡撫。承宗乃辟職方主事鹿善繼、王則古為贊畫,請帑金八十萬以行。帝特御門臨遣,賜尚方劍、坐蟒,閣臣送之崇文門外。既至關,令總兵江應詔定軍制,僉事崇煥建營舍,廢將李秉誠練火器,贊畫善繼、則古治軍儲,沈棨、杜應芳繕甲仗,司務孫元化築砲臺,中書舍人宋獻、羽林經歷程侖主市馬,廣寧道僉事萬有孚主採木,而令游擊祖大壽佐金冠於覺華,副將陳諫助趙率教於前屯,游擊魯之甲拯難民,副將李承先練騎卒,參將楊應乾募遼人為軍。

この時、関上の兵は名目上七万であったが、軍紀がなく、兵糧を不正に受ける者が多かった。承宗は大規模な閲兵を行い、逃亡した将兵数百人を淘汰し、河南・真定の疲弊した兵一万余りを送還し、之甲が救った難民七千人を前屯に送って兵士とした。応乾が募集した遼卒は寧遠に駐屯させ、朝鮮に諮って援軍を要請した。毛文龍を東江で慰労し、四衛を回復するよう命じた。登州の将帥沈有容に檄を飛ばして広鹿島を占拠させた。春の防衛時に自ら登・萊に赴いて進取を協議しようとしたが、朝廷の意向は遼東を急務とし、許さなかった。応詔が弾劾されると、承宗は馬世龍を代わりに任用するよう請い、尤世禄・王世欽を南北の将帥とし、世龍の指揮下に置き、また世龍のために尚方剣を請うた。帝は全て許可した。世龍が職務に就くと、承宗は壇を築き、鉞を授ける儀式を行った。率教は既に前屯を守り、ハラチン(哈喇慎)諸部を全て追い払ったが、交易場は依然として八里鋪にあった。象乾は水関を開き、関内で懐柔することを提案したが、承宗は同意せず、高台堡に定めた。

原文是時,關上兵名七萬,顧無紀律,冒餉多。承宗大閱,汰逃將數百人 ,遣還河南、真定疲兵萬餘,以之甲所救難民七千發前屯為兵。應乾所募遼卒出戍寧遠,咨朝鮮使助聲援。犒毛文龍於東江,令復四衛。檄登帥沈有容進據廣鹿島。欲以春防躬詣登、萊商進取,而中朝意方急遼,弗許也。應詔被劾,承宗請用馬世龍代之,以尤世祿、王世欽為南北帥,聽世龍節制,且為世龍請尚方劍。帝皆可之。世龍既受事,承宗為築壇,拜行授鉞禮。率教已守前屯,盡驅哈喇慎諸部,撫場猶在八里鋪。象乾議開水關,撫之關內,承宗不可,乃定於高臺堡。

当時、大清兵は広寧を放棄して去り、遼の遺民がそこに住み着いていた。チャハル部(插漢部)が有孚に報告すると、有孚は西部を抱き込んで隙に乗じて彼らを殲滅し、回復の功績を偽ろうと謀った。承宗は檄を下して言った、「西部が我が民を殺す者は、盟約の言葉通りに罰する」。この一件で、千余人の命が救われた。帝は辺境の情勢を細かく監察することを好み、しばしば東廠に人を遣わして関門に赴かせ、事態を詳細に奏上させ、これを「較事」と呼んだ。魏忠賢が政権を窃取すると、その党羽の劉朝・胡良輔・紀用ら四十五人を遣わし、内庫の神砲・甲仗・弓矢など数万を関門に届けて軍中用とし、また白金十万両と蟒・麒麟・獅子・虎・豹などの幣を賜って将士を慰労し、承宗には蟒服と白金を賜って慰労したが、実は軍情を偵察するためであった。承宗はちょうど関を出て寧遠を巡視しており、途中でこれを聞き、直ちに上疏して言った、「宦官が軍情を視察することは、古来より戒めとされている」。帝は穏やかな言葉で返答した。使者が到着すると、茶を出しただけであった。

原文時大清兵委廣寧去,遼遺民入居之。插漢部以告有孚,有孚謀挾西部乘間殲之,冒恢復功。承宗下檄曰:「西部殺我人者,致罰如盟言。」是役也 ,全活千餘人。帝好察邊情,時令東廠遣人詣關門,具事狀奏報,名曰「較事」。及魏忠賢竊政,遣其黨劉朝、胡良輔、紀用等四十五人齎內庫神砲、甲仗、弓矢之屬數萬至關門,為軍中用,又以白金十萬,蟒、麒麟、獅子、虎、豹諸幣頒賚將士,而賜承宗蟒服、白金慰勞之,實覘軍也。承宗方出關巡寧遠,中路聞之,立疏言:「中使觀兵,自古有戒。」帝溫旨報之。使者至,具杯茗而已。

鳴泰が巡撫となったのは、承宗が推薦したためであった。後に実力がないことを知り、軍事について多く彼と協議しなかった。鳴泰は不満を抱いて去りを求め、承宗もまた病気を理由に辞任しようとした。言官が共に承宗を留任するよう求め、鳴泰を非難し、巡関御史の潘雲翼もまた弾劾した。帝はついに鳴泰を罷免し、張鳳翼を代わりとした。鳳翼は臆病で、再び関を守る議論を主張した。承宗は快く思わず、再び関を出て巡視した。寧遠に到着し、将吏を集めて守るべき場所を議論した。多くは鳳翼の意見に従ったが、ただ世龍だけが中後所を守ることを請い、崇煥・善継及び副将の茅元儀は力を込めて寧遠を守ることを請うた。承宗はこれに同意し、議論が定まった。大寿に工事を起こさせ、崇煥と満桂に守らせた。先に、虎部(ハルチン部か)が密かに出て略奪し、率教が四人を捕らえて斬った。象乾は率教を斬って虎部に謝罪させようとしたが、承宗は同意しなかった。また承宗が派遣した王楹が中右所を守り、その兵を護衛して木材を採りに出たが、西部の朗素に殺された。承宗は怒り、世龍を派遣して討伐させた。象乾は懐柔策を壊すことを恐れ、朗素に逃亡者を縛らせて楹を殺した者として献上させ、さらに交易の賞金を千金増やした。承宗がちょうど上疏して争っていると、象乾は憂い(喪か)で去った。

原文鳴泰之為巡撫也,承宗薦之。後知其無實,軍事多不與議。鳴泰怏怏求去,承宗亦引疾。言官共留承宗,詆鳴泰 ,巡關御史潘雲翼復論劾之。帝乃罷鳴泰,而以張鳳翼代。鳳翼怯,復主守關議。承宗不悅,乃復出關巡視。抵寧遠,集將吏議所守。眾多如鳳翼指,獨世龍請守中後所,而崇煥、善繼及副將茅元儀力請守寧遠,承宗然之,議乃定。令大壽興工,崇煥、滿桂守之。先是,虎部竊出盜掠,率教捕斬四人。象乾欲斬率教謝虎部,承宗不可。而承宗所遣王楹戍中右,護其兵出採木,為西部朗素所殺。承宗怒,遣世龍剿之。象乾恐壞撫局,令郎素縛逃人為殺楹者以獻,而增市賞千金。承宗方疏爭,而象乾以憂去。

承宗は、和議を主張する者が自分の権限を妨げることを憂い、督師と総督は兼務すべきでなく、自分を罷免するか、さもなくば総督を推挙しないよう請うた。また遼東巡撫を寧遠に移駐させるよう請うた。帝は総督の推挙を止めるよう命じたが、鳳翼は自分を死地に置くものだと言って、大いに恨んだ。郷里の者である雲翼・有孚らと力を合わせて世龍を誹謗し、承宗を揺るがそうとした。まもなく、有孚が薊州巡撫の岳和声に弾劾され、ますます世龍と崇煥が共謀して陥れたと疑い、共に根拠のない言葉を流して、関を出る計画を妨害した。給事中の解学龍はついに世龍の罪を極論した。承宗は憤慨し、抗疏して守備の策を陳べ、言った、「敵を門庭の中で防ぐことと、諸々の門庭の外で防ぐこととは、情勢が既に異なる。我が敵を二百里外に迫ることと、敵が我を二百里内に迫ることとは、情勢がまた異なる。広寧は、我が遠く敵が近く、寧遠は我が近く敵が遠い。我が進んで敵を逼迫しなければ、敵が進んで我を逼迫するであろう。今日たとえ遼左を回復できなくとも、寧遠と覚華は終に放棄すべきでない。廷臣に雑議させ、主兵・客兵が長く駐屯できるか、本餉・折色の兵糧が長く輸送できるか、関外の土地人民を放棄できるか、屯田・築城・戦闘・守備を興し挙行できるか、再び敵の情勢を察して、果たして坐待するだけで消滅させられるかを請う。臣は百年の久計を為すことは敢えず、只五年間の内に究竟どうなるかを計るのみである。もし臣の言が当たらずば、直ちに臣を斥けて大計を定め、迂回して決断せず、全躯保妻子の臣をして衆喙に附和させ、臣一身を殺して天下を誤らせないでいただきたい」。また世龍を弁護し、有孚らが互いに結託して讒構する様子を明らかにした。

原文承宗患主款者撓己權,言督師、總督可勿兼設,請罷己,不可,則弗推總督。並請以遼撫移駐寧遠。帝命止總督推 ,而鳳翼謂置己死地也,因大恨。與其鄉人雲翼、有孚等力毀世龍,以撼承宗。無何,有孚為薊撫岳和聲所劾,益疑世龍與崇煥構陷,乃共為浮言,撓出關計。給事中解學龍遂極論世龍罪。承宗憤,抗疏陳守御策,言:「拒敵門庭之中,與拒諸門庭外,勢既辨。我促敵二百里外,敵促我二百里中,勢又辨。蓋廣寧,我遠而敵近;寧遠,我近而敵遠。我不進逼敵,敵將進而逼我。今日即不能恢遼左,而寧遠、覺華終不可棄。請敕廷臣雜議主、客之兵可否久戍,本折之餉可否久輸,關外之土地人民可否捐棄,屯築戰守可否興舉,再察敵人情形果否坐待可以消滅。臣不敢為百年久計,只計及五年間究竟何如。倘臣言不當,立斥臣以定大計,無紆迴不決,使全軀保妻子之臣附合眾喙,以殺臣一身而誤天下也。」復為世龍辯,而發有孚等交構狀。

有孚は、故侍郎の世徳の子で、広寧で兵糧を管理する同知であった。城が陥落すると逃げ帰り、象乾が題奏して広寧道僉事とし、専らチャハル部を懐柔させたが、着服が多かった。この時、承宗の言によって罷免された。鳳翼もまた憂い(喪か)で帰り、喻安性が代わった。廷臣が総督は廃止できないと言い、呉用先に薊・遼を督理させ、象乾の代わりとした。承宗は兵部尚書の王在晉が多く中央の制約を加えることを憎み、病気を称して辞任を求め、王在晉を自らの後任に推挙して彼を困らせようとしたが、廷議が不可として止んだ。

原文有孚者,故侍郎世德子也,為廣寧理餉同知。城陷逃歸,象乾題為廣寧道僉事,專撫插漢 ,乾沒多。至是以承宗言被斥。鳳翼亦以憂歸,喻安性代。而廷臣言總督不可裁,命吳用先督薊、遼,代象乾。承宗惡本兵越彥多中制,稱疾求罷,舉彥自代以困之,廷議不可而止。

この時、寧遠城の工事が完成し、関外の守備の具が全て整った。承宗は大挙を図り、上奏して言った、「前哨は既に連山と大凌河に置かれた。速やかに臣に兵糧二十四万を与えられば、功績は直ちに奏上できる」。帝は関係部署に給与するよう命じた。兵部と工部は互いに謀って言った、「兵糧が足りれば、彼は即ち妄りに行動するであろう。許しても与えず、文書の往復で遅延させる方が良い」。承宗は再び上疏して催促し、事情を全て告げた。帝は諸官庁に厳命したが、軍は結局出撃しなかった。

原文時寧遠城工竣,關外守具畢備。承宗圖大舉,奏言:「前哨已置連山大凌河,速畀臣餉二十四萬,則功可立奏。」帝命所司給之。兵、工二部相與謀曰:「餉足 ,渠即妄為,不如許而不與,文移往復稽緩之。」承宗再疏促,具以情告。帝為飭諸曹,而師竟不果出。

初め、方震孺・游士任・李達・明時挙が譴責されたのは、承宗が実際に弾劾したためであったが、後に皆彼らのために赦免を求めた。また楊鎬・熊廷弼・王化貞の功労を称え、死刑を免じて辺境に戍らせるよう請うたが、朝廷では騒然となった。給事中の顧其仁・許誉卿、御史の袁化中が相次いで上章して論駁したが、帝は皆省みなかった。ちょうど承宗が五防で功労のあった諸臣を叙勲し、また病気を理由に辞任を乞うたので、宦官の劉応坤らを遣わして国庫の金十万両を齎らせて将士を慰労し、承宗には坐蟒と膝襴を賜い、金幣を添えた。

原文初,方震孺、游士任、李達、明時舉之譴,承宗實劾之,後皆為求宥。復稱楊鎬、熊廷弼、王化貞之勞,請免死遣戍 ,朝端嘩然。給事中顧其仁、許譽卿,御史袁化中交章論駁,帝皆置弗省。會承宗敘五防效勞諸臣,且引疾乞罷,乃遣中官劉應坤等齎帑金十萬犒將士,而賜承宗坐蟒、膝襴,佐以金幣。

この時、魏忠賢はますます権力を盗み取った。孫承宗の功績が高いので、親しく付き従わせようとし、劉応坤らに意向を伝えさせた。承宗は一言も交わさず、忠賢はこれにより大いに恨んだ。ちょうど忠賢が楊漣・趙南星・高攀龍らを追放した時、承宗はちょうど西へ巡視して薊州・昌平にいた。上疏して抗議しても帝が必ずしも親覧されないだろうと考え、かつて講筵に侍した時、毎回奏上に対し聴き入れられることがあったので、聖寿を賀するため入朝して機宜を面奏することを請い、これによって忠賢の罪を論じようとした。魏広微がこれを聞き、駆けつけて忠賢に告げた、「承宗が数万の兵を擁して君側を清めようとし、兵部侍郎李邦華が内応します、公はたちまち粉砕されますぞ!」忠賢はひどくおののき、御床をめぐって泣いた。帝もまた心を動かされ、内閣に旨を起草させた。次輔顧秉謙が奮筆して曰く、「旨なくして守備地を離るるは、祖宗の法に非ず、違う者は赦さず」。夜に禁門を開いて兵部尚書を召し入れ、三道の飛騎を以てこれを止めさせた。また詔旨を偽って九門の守閹に諭し、承宗がもし斉化門に至れば、縛り上げて入れよと。承宗は通州に到着したが、命令を聞いて引き返した。忠賢が人を遣わして偵察させると、一つの袱紗包みを輿の中に置き、後車には鹿善継がいるだけであったので、怒りは少し和らいだ。しかしその党の李蕃・崔呈秀・徐大化が相次いで上疏して彼を誹謗し、ついには王敦・李懐光に比した。承宗は門を閉じて罷免を求めた。

原文當是時,忠賢益盜柄。以承宗功高,欲親附之,令應坤等申意。承宗不與交一言,忠賢由是大憾。會忠賢逐楊漣、趙南星、高攀龍等 ,承宗方西巡薊、昌。念抗疏帝未必親覽,往在講筵,每奏對輒有入,乃請以賀聖壽入朝面奏機宜,欲因是論其罪。魏廣微聞之,奔告忠賢:「承宗擁兵數萬將清君側,兵部侍郎李邦華為內主,公立齏粉矣!」忠賢悸甚,繞御床哭。帝亦為心動,令內閣擬旨。次輔顧秉謙奮筆曰:「無旨離信地,非祖宗法,違者不宥。」夜啟禁門召兵部尚書入,令三道飛騎止之。又矯旨諭九門守閹,承宗若至齊化門,反接以入。承宗抵通州,聞命而返。忠賢遣人偵之,一襆被置輿中,後車鹿善繼而已,意少解。而其黨李蕃、崔呈秀、徐大化連疏詆之,至比之王敦、李懷光。承宗乃杜門求罷。

五年四月、給事中郭興治が廷臣に去就を議させよと請い、糧秣を横領したと論ずる者もまた続いて至り、ついに廷臣に雑議を下した。吏部尚書崔景栄がこれを支持し、詔を下して留任を勧め、将を簡び兵を汰い餉を清めるの三事を以て承宗に責めた。奏上して報告したが、承宗はちょうど諸将を分遣して錦州・大小凌河・松山・杏山・右屯の諸要害に戍らせ、拓地また二百里、大将の世欽・世祿、副将の李秉誠・孫諫を罷め、軍一万七千余人を淘汰し、度支六十八万を省いた。ところが言官が世龍を論じ止まなかった。九月に至り、ついに柳河の敗があり、死者四百余人、その言葉は『世龍伝』に詳しい。ここにおいて台省が世龍を弾劾し承宗にも及び、章疏数十通が上った。承宗は去ることをますます強く求め、十月になってようやく請いが聞き届けられた。先にすでに累次左柱国・少師・太子太師・中極殿大学士を加えられ、ここに特進光禄大夫を加えられ、子に中書舎人を蔭し、蟒服・銀幣を賜り、行人が護送して帰した。そして兵部尚書高第を代わりに経略とした。まもなく、張安性もまた罷められ、ついに巡撫を廃して設けなかった。

原文五年四月,給事中郭興治請令廷臣議去留,論冒餉者復踵至,遂下廷臣雜議。吏部尚書崔景榮持之,乃下詔勉留 ,而以簡將、汰兵、清餉三事責承宗。奏報,承宗方遣諸將分戍錦州、大小凌河、松、杏、右屯諸要害,拓地復二百里,罷大將世欽、世祿,副將李秉誠、孫諫,汰軍萬七千餘人,省度支六十八萬。而言官論世龍不已。至九月,遂有柳河之敗,死者四百餘人,語詳《世龍傳》。於是臺省劾世龍並及承宗,章疏數十上。承宗求去益力,十月始得請。先已屢加左柱國、少師、太子太師、中極殿大學士,遂加特進光祿大夫,廕子中書舍人,賜蟒服、銀幣,行人護歸。而以兵部尚書高第代為經略。無何,安性亦罷,遂廢巡撫不設。

初め、高第は強く承宗を抑え、関外を撤して関内を守るよう請うた。承宗がこれを駁すと、第は深く恨んだ。翌年、寧遠が包囲されると、上疏して関門の兵はわずか五万しか残っていないと言い、言う者はますますこれを承宗の罪とした。承宗は戸部に告げて曰く、「第が初めて関に臨んだ時、十一万七千人に糧秣を与えたが、今はただ五万人に糧秣を与えれば足りる」。第は果たして妄言を以て罪を引いた。後、忠賢がその党梁夢環を遣わして関を巡視させ、承宗の罪をでっち上げようとしたが、得るところなく止んだ。承宗が関に在ること四年、前後して大城九・堡四十五を修復し、兵十一万を練り、車営十二・水営五・火営二・前鋒後勁営八を立て、甲冑・器械・弓矢・砲石・渠答・鹵楯の具を合わせ数百万造り、地四百里を拓き、屯五千頃を開き、歳入十五万を得た。後に寧遠の功を叙し、子に錦衣世千戸を蔭した。

原文初,第力扼承宗,請撤關外以守關內。承宗駁之,第深憾。明年,寧遠被圍 ,乃疏言關門兵止存五萬,言者益以為承宗罪。承宗告戶部曰:「第初蒞關,嘗給十一萬七千人餉,今但給五萬人餉足矣。」第果以妄言引罪。後忠賢遣其黨梁夢環巡關,欲傅致承宗罪,無所得而止。承宗在關四年,前後修復大城九、堡四十五,練兵十一萬,立車營十二、水營五、火營二、前鋒後勁營八,造甲胄、器械、弓矢、砲石、渠答、鹵楯之具合數百萬,拓地四百里,開屯五千頃,歲入十五萬。後敘寧遠功,廕子錦衣世千戶。

庄烈帝が即位し、王在晋が入朝して兵部尚書となると、承宗を恨んでやまず、極力世龍及び茅元儀が枢輔を惑わして関を壊したことを論じ、また台省をそそのかして口を揃えて承宗を誹謗させ、その出仕を阻んだ。二年十月、大清兵が大安口に入り、遵化を取って、将に都城に迫らんとし、廷臣が争って承宗を召すよう請うた。詔して原官のまま兵部尚書を兼ねて通州を守らせ、なお入朝して陛見させた。承宗が至り、平台で召し対した。帝が慰労し終え、方略を問うた。承宗奏す、「臣は聞く、袁崇煥は薊州に駐し、満桂は順義に駐し、侯世祿は三河に駐す、これは得策なり。また聞く、尤世威は昌平に戻り、世祿は通州に駐す、これは適切ならざるが如し」。帝問う、「卿が三河を守らんと欲するは、何の意ぞ」。対えて曰く、「三河を守れば西奔を沮ぎ南下を遏ぐべし」。帝善しとし、曰く、「いかんぞ朕がために京師を保護せん」。承宗言う、「緩急の際に当たり、城壁を守る者は飢寒に苦しむ、万全の策に非ず。器械を整え、犒労を厚くし、以て人心を固むるを請う」。条画したところ皆旨に称した。帝曰く、「卿は通州に行くに及ばず、朕がために京城内外の守御事務を総督せよ、なお帷幄に参ぜよ」。首輔韓爌に勅を草させて所司に関防を鋳させよと促した。承宗が出ると、漏刻は二十刻を過ぎており、即ち都城を周覧し、五鼓にして終わり、また出て重城を閲した。明日夜半、突然旨を伝えて通州を守らせた。時に烽火は近郊に遍く、承宗は二十七騎を従えて東便門より出で、途中で三騎を失い、疾駆して通州に到着したが、門番はほとんど入れさせまいとした。既に城に入り、保定巡撫解経伝・御史方大任・総兵楊国棟と共に城壁に登り固守した。しかし大清兵はすでに都城に迫り、急ぎ游撃尤岱に騎卒三千を率いて赴援させた。まもなく副将劉国柱に軍二千を督して岱と合流させ、また密雲の兵三千を発して東直門に営し、保定の兵五千を広寧門に営した。その間に将を遣わして馬蘭・三屯の二城を回復させた。

原文庄烈帝即位,在晉入為兵部尚書,恨承宗不置,極論世龍及元儀熒惑樞輔壞關事,又嗾臺省交口詆承宗 ,以沮其出。二年十月,大清兵入大安口,取遵化,將薄都城,廷臣爭請召承宗。詔以原官兼兵部尚書守通州,仍入朝陛見。承宗至,召對平臺。帝慰勞畢,問方略。承宗奏:「臣聞袁崇煥駐薊州,滿桂駐順義,侯世祿駐三河,此為得策。又聞尤世威回昌平,世祿駐通州,似未合宜。」帝問:「卿欲守三河,何意?」對曰:「守三河可以沮西奔,遏南下。」帝稱善,曰:「若何為朕保護京師?」承宗言:「當緩急之際,守陴人苦饑寒,非萬全策。請整器械,厚犒勞,以固人心。」所條畫俱稱旨。帝曰:「卿不須往通,其為朕總督京城內外守御事務,仍參帷幄。」趣首輔韓爌草敕下所司鑄關防。承宗出,漏下二十刻矣,即周閱都城,五鼓而畢,復出閱重城。明日夜半,忽傳旨守通州。時烽火遍近郊,承宗從二十七騎出東便門,道亡其三,疾馳抵通,門者幾不納。既入城,與保定巡撫解經傳、御史方大任、總兵楊國棟登陴固守。而大清兵已薄都城,乃急遣游擊尤岱以騎卒三千赴援。旋遣副將劉國柱督軍二千與岱合,而發密雲兵三千營東直門,保定兵五千營廣寧門。以其間遣將復馬蘭、三屯二城。

十二月四日に至り、祖大寿の変があった。大寿は遼東前鋒総兵官で、崇煥と共に入衛した。崇煥が獄吏に下されるのを見て、誅殺を恐れ、遂に副将何可綱らと共に率いる所の一万五千人を率いて東へ潰走し、遠近大いに震動した。承宗は聞き、急ぎ都司賈登科に手書を持たせて大寿を慰諭させ、また游撃石柱国に馳せて諸軍を撫でさせた。大寿は登科に会い、言う、「麾下の卒は赴援し、連戦俱に捷し、厚賞を得んと冀う。城上の人群りて賊と罵り、石を投げて数人を撃ち死にせしむ。遣わした邏卒は、間諜と指して之を殺す。労して罪を見る、是を以て奔還す。当に出でて朶顔を搗ち、然る後に身を束ねて命に帰せん」。柱国が諸軍に追い及ぶと、その将士は弓刀を相向け、皆涙を垂れて言う、「督師既に戮せられ、又大砲を以て我が軍を撃ち斃さんとす、故に此に至る」。柱国がさらに前進して追うと、大寿は去ることすでに遠く、乃ち返った。承宗奏言す、「大寿の危疑すでに甚だしく、また満桂の節制を受けず、訛言に因りて衆を激して東奔せしむ、部下尽く叛かんと欲するに非ず。当に生路を大いに開き、衆心を曲く収むべし。遼将多くは馬世龍の旧部曲ぶきょく、臣謹みて便宜を用い、世龍を遣わして馳せ諭せば、その将士必ず甲を解きて帰らん、大寿は慮るに足らず」。帝喜んでこれに従った。承宗は密札を以て大寿に急ぎ上章して自ら列ね、かつ功を立てて督師の罪を贖い、己が代わりに剖白すべしと諭した。大寿はこれを諾し、東奔の故を具に列ね、悉く将士の言うが如くであった。帝は優詔を以てこれに報い、承宗に命じて関門に移鎮させた。諸将は承宗・世龍の至るを聞き、多く自ら抜けて来帰する者あり。大寿の妻左氏もまた大義を以てその夫を責め、大寿は兵を収めて命を待った。

原文至十二月四日,而有祖大壽之變。大壽,遼東前鋒總兵官也,偕崇煥入衛。見崇煥下吏,懼誅 ,遂與副將何可綱等率所部萬五千人東潰,遠近大震。承宗聞,急遣都司賈登科齎手書慰諭大壽,而令游擊石柱國馳撫諸軍。大壽見登科,言:「麾下卒赴援,連戰俱捷,冀得厚賞。城上人群詈為賊,投石擊死數人。所遣邏卒,指為間諜而殺之。勞而見罪,是以奔還。當出搗朵顏,然後束身歸命。」柱國追及諸軍,其將士持弓刀相向,皆垂涕,言:「督師既戮,又將以大砲擊斃我軍,故至此。」柱國復前追,大壽去已遠,乃返。承宗奏言:「大壽危疑已甚,又不肯受滿桂節制,因訛言激眾東奔,非部下盡欲叛也。當大開生路,曲收眾心。遼將多馬世龍舊部曲,臣謹用便宜,遣世龍馳諭,其將士必解甲歸,大壽不足慮也。」帝喜從之。承宗密札諭大壽急上章自列,且立功贖督師罪,而己當代為剖白。大壽諾之,具列東奔之故,悉如將士言。帝優詔報之,命承宗移鎮關門。諸將聞承宗、世龍至,多自拔來歸者。大壽妻左氏亦以大義責其夫,大壽斂兵待命。

敗兵が関を出ると、関城は掠奪され、城門は閉ざされ市は廃れた。承宗が到着して、人心は初めて定まった。関城はもと十六里、衛城はわずか二里である。今敵は内におり、関城は守るに足らず、衛城は関に連なり、歩いて登ることができる。そこで別に城壁を築き、関城を横断し、穴を穿って砲を平射できるようにした。城中の水が不足すると、一昼夜で百の井戸を穿った。旧来淘汰された牙門将で他郷に寄寓する者千人、困窮して乱を思う者を、皆官に食わせ、街衢を巡行させ、台を守り倉を護らせ、それぞれに事を為させた。内間は発動できず、外から来る者は直ちに邏騎に捕らえられ、これにより関門の守りは完璧となった。そこで世龍に歩騎兵一万五千を督して入援させ、游撃祖可法らに騎兵四営を率いさせ西に撫寧を戍らせた。三年正月、大寿が関に入り承宗に謁見したが、親軍五百人が甲を着けて門で待機していた。承宗は誠意を開いて語り、即日にその統べる歩騎三万を教場に列し、誓師の礼を行い、群疑はたちまち氷解した。

原文當潰兵出關,關城被劫掠,閉門罷市。承宗至,人心始定。關城故十六里,衛城止二里。今敵在內 ,關城無可守,衛城連關,可步屟而上也。乃別築牆,橫互於關城,穴之使砲可平出。城中水不足,一晝夜穿鑿百井。舊汰牙門將僑寓者千人,窮而思亂,皆廩之於官,使巡行街衢,守台護倉,均有所事。內間不得發,外來者輒為邏騎所得,由是關門守完。乃遣世龍督步騎兵萬五千入援,令游擊祖可法等率騎兵四營西戍撫寧。三年正月,大壽入關謁承宗,親軍五百人甲而候於門。承宗開誠與語,即日列其所統步騎三萬於教場,行誓師禮,群疑頓釋。

時に我が大清は既に遵化を抜いてこれを守っていた。この月四日に永平を抜き、八日に遷安を抜き、遂に灤州を下した。兵を分けて撫寧を攻めたが、可法らは堅守して下さなかった。大清兵は遂に山海関に向かい、三十里離れて営し、副将官惟賢らが力戦した。そこで還って撫寧及び昌黎を攻めたが、共に下さなかった。この時、京師への道は阻まれ、承宗・大寿の軍は東に、世龍及び四方の援軍は西にあった。承宗は死士を募り海沿いに京師に達させ、初めて関城が尚無恙であることを知った。関西南の三県:撫寧・昌黎・楽亭、西北の三城:石門・台頭・燕河。六城は東に関門を護り、西に永平をめぐり、皆関に近い要地である。承宗は諸城を飭めて厳守させ、将を遣わして開平を戍らせ、建昌を復し、声援が初めて接続した。

原文時我大清已拔遵化而守之。是月四日拔永平。八日拔遷安,遂下灤州。分兵攻撫寧,可法等堅守不下。大清兵遂向山海關,離三十里而營,副將官惟賢等力戰。乃還攻撫寧及昌黎 ,俱不下。當是時,京師道梗,承宗、大壽軍在東,世龍及四方援軍在西。承宗募死士沿海達京師,始知關城尚無恙。關西南三縣:曰撫寧、昌黎、樂亭,西北三城:曰石門、台頭、燕河。六城東護關門,西繞永平,皆近關要地。承宗飭諸城嚴守,而遣將戍開平,復建昌,聲援始接。

京師が戒厳するや、天下の勤王兵先後至る者二十万、皆薊門及び近畿に壁し、進むに利あらず。詔旨しばしば督趣すれども、諸将も時に戦攻すれど、然れども克復すること能わず。世龍は先ず遵化を復すことを請うたが、承宗は言う、「然らず、遵化は北にあり、取り易くして守り難し、姑くこれを留めてその勢いを分かち、先ず灤を図るに如かず。今当に多く声勢を為し、遵化を図らんとする状を示してこれを牽制すべし。諸鎮は豊潤・開平に赴き、関兵を連ねて灤を図るべし。灤を得れば則ち開平の兵をもってこれを守り、騎兵決戦して永平を図るべし。灤・永平を得れば則ち関・永平合し、遵化を取ること易々たるべし」と。議既に定まり、東西諸営を併進させ、親しく撫寧に詣ってこれを督した。五月十日、大寿及び張春・邱禾嘉諸軍先ず灤城下に抵り、世龍及び尤世禄・呉自勉・楊麒・王承恩継いて至り、二日を越えてこれを克ち、副将王維城らも遷安に入った。我が大清兵永平を守る者は、尽く撤して北還し、承宗は遂に永平に入った。十六日、諸将謝尚政らも遵化に入った。四城俱に復した。帝は郊廟に告謝し、大いに賞賚を行い、承宗に太傅を加え、蟒服・白金を賜い、錦衣衛指揮僉事を世襲させた。力めて太傅を辞し受けず、しばしば疏を上して疾を称し休を乞うたが、優詔して允さず。

原文方京師戒嚴,天下勤王兵先後至者二十萬,皆壁於薊門及近畿,莫利先進。詔旨屢督趣,諸將亦時戰攻 ,然莫能克復。世龍請先復遵化,承宗曰:「不然,遵在北,易取而難守,不如姑留之,以分其勢,而先圖灤。今當多為聲勢,示欲圖遵之狀以牽之。諸鎮赴豐潤、開平,聯關兵以圖灤。得灤則以開平兵守之,而騎兵決戰以圖永。得灤、永則關、永合,而取遵易易矣。」議既定,乃令東西諸營併進,親詣撫寧以督之。五月十日,大壽及張春、邱禾嘉諸軍先抵灤城下,世龍及尤世祿、吳自勉、楊麒、王承恩繼至,越二日克之,而副將王維城等亦入遷安。我大清兵守永平者,盡撤而北還,承宗遂入永平。十六日,諸將謝尚政等亦入遵化。四城俱復。帝為告謝郊廟,大行賞賚,加承宗太傅,賜蟒服、白金,世襲錦衣衛指揮僉事。力辭太傅不受,而屢疏稱疾乞休,優詔不允。

朵顔束不的は反覆し、承宗は大将王威にこれを撃破させ、また銀幣を賜った。先に冊立東宮により太保を加えられ、及び『神宗実録』成り、加官もまたこれの如し。共に辞免し、而して休を乞うて已まず。帝は閣臣に議して去留を決せしむれども、決せず。特に中書を遣わし手詔を齎して慰問し、乃ち起きて視事した。四年正月に関を出て東巡し、松山・錦州に抵り、還って関に入り、また西巡し、遍く三協十二路を閲して返った。東西辺政八事を条上し、帝は皆これを採納した。五月に考満により、詔して太傅を加え尚書俸を兼食せしめ、尚宝司丞を廕し、蟒服・銀幣・羊酒を賜うたが、また太傅を辞し受けず。

原文朵顏束不的反覆,承宗令大將王威擊敗之,復賚銀幣。先以冊立東宮,加太保;及《神宗實錄》成,加官亦如之。並辭免 ,而乞休不已。帝命閣臣議去留,不能決。特遣中書齎手詔慰問,乃起視事。四年正月出關東巡,抵松山、錦州,還入關,復西巡,遍閱三協十二路而返。條上東西邊政八事,帝咸採納。五月以考滿,詔加太傅兼食尚書俸,廕尚寶司丞,賚蟒服、銀幣、羊酒,復辭太傅不受。

初め、右屯・大凌河の二城、承宗は既に兵を設けて戍守せしめていた。後に高第来たりて代わり、尽くこれを撤し、二城は遂に毀された。ここに至り、禾嘉は遼東を巡撫し、広寧・義州・右屯の三城を復取するを議す。承宗は言う、広寧は道遠く、当に先ず右屯を拠り、大凌河に城を築き、漸を以て進むべしと。兵部尚書梁廷棟これに主たり、遂に七月をもって工を興し、工甫に竣るや、我が大清兵大いに至り、数周を囲む。承宗聞き、馳せて錦州に赴き、呉襄・宋偉を遣わして往き救わしむ。禾嘉はしばしば師期を易え、偉と襄はまた相能わず、遂に長山に大敗した。十月に至り、城中糧尽き援絶え、守将祖大寿力屈して出降し、城はまた毀された。廷臣は築城が策に非ざるを追咎し、交章して禾嘉及び承宗を論じ、承宗はまた連疏して疾を引きいた。十一月に請いを得、銀幣を賜い乗伝して帰る。言者はその喪師辱国を追論し、官を奪い閑住せしめ、寧遠の世廕をも奪う。承宗はまた辺計十六事を列上し、而して極言して禾嘉の軍謀牴牾の失を言う、帝は報聞するのみ。家に居ること七年、中外しばしば召用を請うも、報いず。

原文初,右屯、大凌河二城,承宗已設兵戍守。後高第來代,盡撤之,二城遂被毀。至是 ,禾嘉巡撫遼東,議復取廣寧、義州、右屯三城。承宗言廣寧道遠,當先據右屯,築城大凌河,以漸而進。兵部尚書梁廷棟主之,遂以七月興工,工甫竣,我大清兵大至,圍數周。承宗聞,馳赴錦州,遣吳襄、宋偉往救。禾嘉屢易師期,偉與襄又不相能,遂大敗於長山。至十月,城中糧盡援絕,守將祖大壽力屈出降,城復被毀。廷臣追咎築城非策也,交章論禾嘉及承宗,承宗復連疏引疾。十一月得請,賜銀幣乘傳歸。言者追論其喪師辱國,奪官閒住,並奪寧遠世廕。承宗復列上邊計十六事,而極言禾嘉軍謀牴牾之失,帝報聞而已。家居七年,中外屢請召用,不報。

十一年、我が大清兵内地に深入す。十一月九日をもって高陽を攻め、承宗は家人を率いて拒守す。大兵将に去らんとし、城を繞りて三たび喊し、守る者もまたこれに応じて三たびし、曰く「此れ城の笑いなり、法に於いて当に破るべし」と、囲み復た合す。明日城陥ち、執らえられる。闕を望みて頭を叩き、繯に投じて死す、年七十六。

原文十一年,我大清兵深入內地。以十一月九日攻高陽,承宗率家人拒守。大兵將引去,繞城納喊者三,守者亦應之三,曰:「此城笑也,於法當破」,圍復合。明日城陷,被執。望闕叩頭,投繯而死,年七十有六。

子 鉁 等

原文子 鉁 等

子挙人鉁、尚宝丞鑰、官生鈰、生員鋡・鎬、従子鍊、及び孫之沆・之滂・之澋・之洁・之瀗、従孫之澈・之渼・之泳・之澤・之渙・之瀚、皆戦死す。督師中官高起潜以て聞こゆ。帝嗟悼し、所司に命じて優恤せしむ。国を当る者楊嗣昌・薛国観輩陰にこれを扼し、但だ故官を復し、祭葬を与うるのみ。福王の時、初めて太師を贈り、諡して文忠とす。

原文子舉人鉁,尚寶丞鑰,官生鈰,生員鋡、鎬,從子鍊,及孫之沆、之滂、之澋、之洁、之瀗,從孫之澈、之渼、之泳、之澤、之渙、之瀚,皆戰死。督師中官高起潛以聞。帝嗟悼,命所司優恤。當國者楊嗣昌、薛國觀輩陰扼之,但復故官,予祭葬而已。福王時,始贈太師,諡文忠。

贊

原文贊

贊して曰く、承宗は宰相として再び師を視ること、皆粗く成效有りしが、奄豎斗筲、後先齮扼し、卒に諸田野に屏し、闔門膏斧鑕に至るも、恤典加わらず。国是かくの如し、危き無きを求むるも、安んぞ得べけんや。夫れ攻むるに足らざる者は守るに余り有り、彼の才を度るに、恢復固より言い易からず、専任せしむれば、猶ほ以って封守を慎固するに足るべし。然るに廷論紛呶し、亟に翦除を行わんとす。蓋し天の徳有る者を眷し、気運将に更らんとし、之を為す莫き而も為す者有るか。

原文贊曰:承宗以宰相再視師,皆粗有成效矣,奄豎斗筲,後先齮扼,卒屏諸田野,至闔門膏斧鑕,而恤典不加。國是如此,求無危,安可得也。夫攻不足者守有餘,度彼之才,恢復固未易言,令專任之,猶足以慎固封守;而廷論紛呶,亟行翦除。蓋天眷有德,氣運將更,有莫之為而為者夫。