明史

列傳第一百三十七 朱燮元 李橒 王三善 蔡復一

○朱燮元(徐如珂 劉可訓 胡平表 盧安世 林兆鼎) 李枟(史永安 劉錫元) 王三善(岳具仰等 朱家民) 蔡復一(沈儆炌) 袁善 周鴻圖 段伯炌(胡從儀)

朱燮元、字は懋和、浙江山陰の人なり。萬歷二十年の進士。大理評事に除せらる。蘇州知府・四川副使に遷り、廣東提督學校に改む。右參政として病を謝して帰る。陜西按察使として起用され、四川右布政使に移る。

天啓元年、就いて左に遷らんとす。将に入覲せんとす、会に永寧の奢崇明反し、しょく王燮元に軍を治むるを要す。永寧は古の蘭州の地なり。奢氏は倮羅の種なり、洪武の時帰附し、世々宣撫使と為る。崇周に伝わり、子無く、崇明は疏属を以て襲ぐ、外は恭にして内は陰鷙、子の寅は尤もぎょう桀にして乱を好む。時に詔して給事中明時挙・御史李達に川兵を征し遼を援わしむ、崇明父子行くを請い、先ず土目樊龍・樊虎を遣わし兵を以て重慶に詣らしむ。巡撫徐可求其の老弱を汰り、餉復た継がず、龍等遂に反す。可求及び参政孫好古・総兵官黄守魁等を殺し、時挙・達は傷を負いて遁る。時に九月十有七日なり。賊遂に重慶を拠り、播州の遺孽及び諸の亡命奸人蜂起して之に応ず。賊党の符国禎は遵義を襲い陥し、列城多く守らず。

崇明は偽号を僭し、丞相五府等の官を設け、統ぶる所の部及び徼外の雑蛮数万、分道して成都に趨く。新都・内江を陥し、尽く木椑・龍泉諸の隘口を拠る。指揮周邦太は降り、冉世洪・雷安世・瞿英は戦死す。成都の兵は僅かに二千、餉又絀す。燮元は檄を飛ばし石砫・羅綱・龍安・松・茂諸道の兵を征し入援せしめ、二百里内の粟を斂めて城に入る。巡按御史薛敷政・右布政使周著・按察使林宰等と偕に分かって陴を守る。賊は革を障ぎ竹牌を裹み鉤梯を以て城に附き、土山を壘み、上に蓬蓽を架し、弩を伏せて城中を射る。燮元は火器を用いて之を撃ち却け、又人を遣わし都江堰の水を決して濠に注がしむ。賊は橋を治め、少しく息むを得、因って城中の賊に通ずる者二百人を斬り、賊は内応を失う。賊は四面に望楼を立て、高さ城と斉しく、燮元は死士を命じて突出し、三賊帥を撃斬し、其の楼を燔く。

既にして援兵漸く集まる。登萊副使楊述程は募兵を以て湖広に至り、遂に安綿副使劉芬謙・石砫女土官秦良玉の軍と合し、賊を牛頭鎮に敗り、新都を復す。他路の援兵も亦連ねて賊に勝つ。然れども賊も亦愈々増し、日に冢を発し、枯骸を擲つ。忽ち林中より大いに噪き、数千人舟の如き物を擁し、高さ丈許、長さ五十丈、楼数重、牛革を以て左右を蔽い、板を置くこと平地の如し。一人は髪を披き剣を仗し、上に羽旗を載せ、中に数百人機弩毒矢を挟み、旁に両雲楼を翼とし、牛を以て曳き、俯瞰して城中を望めば、城中の人皆哭く。燮元曰く「此れ呂公車なり」と。乃ち巨木を以て機関と為し、索を転じて砲を発し、千鈞の石を飛ばして之を撃ち、又大砲を以て牛を撃てば、牛は返り走り、敗れて去る。

諸生の賊中に陥りし者有り、人を遣わして言う、賊将羅乾象は正に返らんと欲すと。燮元は乾象と倶に至らしめ、戍楼中に呼びて飲ましめ、其の佩刀を脱がず、与に同臥して酣く寝る。乾象は死を誓いて報いんとし、復た縋りて出づ。是より、賊中の挙動知らざる無し。乃ち部将を遣わし詐りて降り、崇明を誘いて城下に至らしむ。伏起こり、崇明は跳ねて免る。会に諸道の援軍至り、燮元は賊将に走らんと策し、木牌数百を錦江に投じ、流れて下らしめ、有司に命じて舟を沈め橋を断ち、厳兵して待たしむ。乾象は因って内より自ら火を放ち、崇明父子は遁走して瀘州に至り、乾象は遂に衆を以て来帰す。城の囲み百二日にして解く。

初め、朝廷重慶の変を聞き、即ち燮元を擢て僉都御史と為し、四川を巡撫せしめ、楊愈懋を以て総兵官と為し、而して河南巡撫張我続を擢て四川・貴州・云南・湖広の軍を総督せしむ。未だ至らざるに成都の囲み解け、官軍は乗勢して州県衛所凡そ四十余を復す、惟だ重慶は樊龍等の拠る所と為る。其の地は三面江に阻まれ、一面陸に通ず、副使徐如珂は兵を率いて仏図関の後より繞り出で、良玉と与に之を攻め抜く。崇明は卒数万を発して来援し、如珂は迎え戦い、檄を飛ばし同知越其傑に賊の後を躡わしめ、万余人を殺す。監軍僉事戴君恩は守備金富廉に命じて賊将張彤を攻め斬らしめ、樊龍も亦戦死す。帝は廟に告げて賀を受け、君恩の官を三進む。燮元の遣わす他所の将は亦建武・長寧を復し、偽丞相何若海を獲、瀘州も亦旋ちに復す。

是に先立ち、国禎は遵義を陥し、貴州巡撫李枟は已に兵を遣わして之を復す。永寧の人李忠臣は嘗て松潘副使と為り、家に居り、賊に陥り、書を以て愈懋と約し内応と為らんとす、事覚え、合門害に遇う。賊は即ち其の家僮を用いて愈懋を紿し、襲い之を殺し、並びに順慶推官郭象儀等を殺し、再び遵義を陥し、推官馮鳳雛を殺す。

当是の時、崇明未だ平らず、而して貴州の安邦彦又起る。安氏は世々水西を有し、宣慰使安位は方に幼く、邦彦は故を得て乱を倡う。朝議は燮元の城を守る功を録し、兵部侍郎を加え、四川及び湖広の荊・岳・鄖・襄・陜西漢中の五府軍務を総督せしめ、兼ねて四川を巡撫せしめ、而して楊述中を以て貴州軍務を総督せしめ、兼ねて云南及び湖広の辰・常・衡・永十一府を制し、我続に代わり共に奢・安の二賊を辦ぜしむ。然れども両督府は閫を分かちて軍を治め、川・貴は相応ぜず、賊は益々自恣を得る。三年、燮元は謀りて直ちに永寧を取らんとし、将佐を集めて曰く「我久しく賊に志を得ず、我は分を以てし、賊は合を以てすなり」と。乃ち諸軍を尽く掣して長寧に会し、連ねて麻塘坎・観音庵・青山崖・天蓬洞諸の砦を破る。良玉の兵と会し、進んで永寧を攻む。奢寅を土地坎に撃ち敗り、老軍営・涼傘鋪に追い至り、尽く其の営を焚く。寅は二槍を受け遁れ、樊虎も亦槍を受け死す。復た之を横山に追い敗り、青崗坪に入り、城下に抵り、之を抜き、叛将周邦太を擒え、賊二万を降す。副総兵秦衍祚等も亦遵義を攻克す。崇明父子は逃れて紅崖大囤に入り、官軍は蹙めて之を抜く。連ねて天臺・白崖・楠木諸の囤を抜き、紅潦四十八砦を撫定す。賊は奔りて旧藺州城に入る、五月に参将羅乾象の攻克する所と為る。崇明父子は余衆を率いて水西の龍場客仲壩に走り、其の女弟の奢社輝に倚りて以て守る。初め、賊は永寧を失い、即ち安邦彦に求救す。邦彦は二軍を遣わして遵義・永寧を窺わしむ、燮元は之を敗り走らしむ。総兵官李維新等は遂に客仲の巣を攻め破り、崇明父子は深箐に竄る。維新は副使李仙品・僉事劉可訓・参将林兆鼎等と偕に龍場を搗ち、生擒にして崇明の妻安氏・弟の崇輝を獲、寅・国禎は皆創を受け走る。功を録し、燮元を右都御史に進む。

当時、蜀中の兵は十六万で、土兵と漢兵が半分ずつであった。漢兵は戦闘に耐えず、土兵は驕慢で淫らで、力を尽くそうとしなかった。成都の包囲が解けても、直ちに重慶を取らず、重慶が回復しても、直ちに永寧を攻めず、永寧・藺州が共に陥ちて賊が巣窟を失っても、また遠くに逃げるのを放任した。おおむね土官は賊を養うことを利とし、官軍もそれに倣い、賊は転々として計略を巡らすことができた。崇明父子はまさに非常に窮していたが、燮元は蜀には既に賊がいないとして、遂に窮追しなかった。永寧が既に陥ち、千里の地を拓いた。燮元は肥沃な地を割いて永寧衛に帰属させ、残りの地を四十八屯とし、降伏した賊で功のあった者に与え、毎年官に賦を納めさせ、「屯将」と称し、叙州府に隷属させ、同知一人を増設してこれを統領させた。また叙州兵備道を衛城に移し、貴州参将と共に駐屯させ、蜀中は遂に平定された。しかし邦彦は甚だ勢いを張った。

四年の春、貴州を陥落させ、巡撫王三善の軍は全滅した。翌年、総理魯欽は織金で敗れ、貴州総督蔡復一の軍もまた敗れた。廷臣は三善らの失態は川軍が協力しなかったためであるとして、両督府を合併することを議した。そこで燮元を兵部尚書として貴州・雲南・広西の諸軍を兼ねて督かせ、遵義に鎮を移させ、尹同臯を代わりに四川を巡撫させた。燮元が重慶に赴くと、邦彦はこれを探知した。六年二月、官軍が未だ出発しないうちに乗じて、分かれて雲南・遵義を犯し、寅に専ら永寧を犯させようと謀った。未だ行わないうちに、寅が殺害されたので、やめた。寅は非常に凶暴で淫らであり、阿引という者が、燮元の金銭を受け取り、寅が酔った隙に乗じてこれを殺した。寅が既に死ぬと、崇明は年老いて為す能わず、邦彦もまた降伏を乞うた。燮元は朝廷に報告し、これを許したので、参将楊明輝を派遣して降伏させようとした。燮元は間もなく父の喪で帰郷し、偏沅巡撫閔夢得が代わりに来た。

先に、貴州巡撫王瑊は督臣が貴陽に鎮を移すことには十の利便があると述べ、朝廷の議論はこれに従った。夢得はそこで用兵の機宜を陳べ、永寧から始め、次に普市・摩泥・赤水へと進むべきことを請うた。百五十里は皆平坦な道であり、赤水には城があり兵を屯駐でき、白巖・層臺・畢節・大方へ進むのは僅か二百余里である。我らが既に重兵を駐屯させれば、諸番の交通の路は絶たれ、その後で貴陽・遵義の軍が期日を定めて進めば、賊は必ず支えられないと。上疏は未だ返答を得ず、夢得は召還され、尚書張鶴鳴が代わりとなり、議は遂に止んだ。鶴鳴が未だ到着しないうちに、明輝は制書を奉じて、僅かに安位を招撫し、邦彦を赦すとは述べなかった。邦彦は怒り、明輝を殺し、降伏の議はこれによって絶えた。鶴鳴は軍を監督すること年余り、一度も戦わず、賊はその鋭気を養うことができた。

崇禎元年六月、再び燮元を召して代わりとし、貴州巡撫を兼任させ、仍として尚方剣を賜った。前の功績を記録し、少保に進め、世蔭として錦衣指揮使とした。当時、賊の乱は久しく、里井は蕭条として、貴陽の民は五百家に満たず、山谷は悉く苗仲であった。そして将兵は多く降伏者を殺して功績を報告し、苗は従わなかった。燮元は流民を招き、開墾を広め、勇敢な者を募った。夢得の以前の議論を用い、檄を飛ばして雲南兵に烏撒を下らせ、四川兵に永寧から出て畢節を下らせ、自らは大軍を率いて陸広に駐屯し、大方に迫った。総兵官許成名・参政鄭朝棟は永寧から赤水を回復した。邦彦はこれを聞き、陸広・鴨池・三岔などの要害を分かれて守り、別に一軍を遵義に向かわせ、自ら四裔大長老と称し、崇明を大梁王と号し、兵十余万を合わせ、先ず赤水を犯した。燮元は計略を成名に授け、賊を永寧におびき寄せ、そこで総兵官林兆鼎を三岔から、副将王國禎を陸広から、劉養鯤を遵義から入れさせ、合わせてその巣窟を傾覆させようとした。邦彦は勇を恃み、先ず永寧軍を破り、還って諸将を迎え撃とうとし、急いで戦いを求めた。四川総兵官侯良柱・副使劉可訓は賊十万と五峰山・桃紅壩で遭遇し、これを大破した。賊は走って山頂を占拠した。諸将は霧に乗じて力攻めし、賊はまた大敗した。また紅土川で追撃して破り、邦彦・崇明は共に首を斬られた。時に二年八月十七日のことであった。捷報が聞こえると、帝は大いに喜んだ。成名と良柱が功を争ったため、賞は久しく行われなかった。

烏撒の安效良が死に、その妻安氏は以前の沾益土酋安遠の弟辺を夫として招き、固く守って服従しなかった。燮元は兵威に乗じて辺を脅し走らせ、遂に烏撒を回復した。燮元は境内の賊がほぼ尽きたとして、兵を窮めようとせず、檄を飛ばして安位を招撫したが、位は決断しなかった。燮元は将吏を集めて議して言った、「水西の地は深く険しく、多くは竹林で、蛮の煙・僰の雨、昼夜を弁えず、深く入れば出るのが難しい。今はその要害を扼し、四方から重ねて攻め、賊が食糧に窮すれば、自ずから斃れるであろう」。そこで百余日攻め、首級一万余を斬った。養鯤はまた人を大方に入れ、その家屋を焼かせた。位は大いに恐れ、三年の春、使者を派遣して降伏を乞うた。燮元は四つの事柄を約した。一、位の位階を貶めること、二、水外六目の地を削って朝廷に帰属させること、三、王巡撫を殺した者の首を献ずること、四、畢節などの九つの駅を開くこと。位は約束の通りにすることを請い、四十八目を率いて出降した。燮元はこれを受け入れ、貴州もまた平定された。そこで善後の上疏を上奏して言った、「水西は河より外は、悉く版図に入る。河沿いの要害には、臣は三十六所の城を築き、近くは蛮苗を制し、遠くは滇・蜀に連絡し、皆邸舎を立て、郵亭を繕い、倉廩を建てた。賊は必ずや突然に入り寇すことはできない。鴨池・安莊の河に傍うて屯すべき土地は、二千頃に下らず、人に土地を与えて自ら養わせ、塩・酪・芻茭をそこから出す。諸将兵は身をもって数百戦を経て、皆わずかな土地を得て子孫を長くしたいと願っている。新たに得た疆土を割いて彼らに授け、奮い立たせることを知らしめたい」。帝は許可した。

初め、崇明・邦彦の死は、実は川中の諸将の功績であったが、黔の将がこれを争った。燮元はやや黔将を支持し、しばしば朝廷に上奏したため、四川巡按御史馬如蛟に弾劾された。燮元は力を尽くして罷免を求め、帝は慰留した。その冬、定番・鎮寧の叛く苗を討伐平定し、そこで威清などの上六衛及び平越・清平・偏橋・鎮遠の四衛の道路を通じ、凡そ一千六百余里にわたり、亭障を繕い、遊僥を置いた。貴陽の東北に洪辺十二馬頭があり、以前は宣慰宋嗣殷の地であった。嗣殷は邦彦を助けたため討伐滅ぼされ、そこでその地に開州を置き、また以前の施秉県を復することを奏上し、流民を招いて実らせた。

四年、阿迷州土官普名聲が乱を起こし、彌勒州曲江所を陥落させ、また臨安及び寧州を攻め、遠近震動した。巡撫王伉・総兵官沐天波は防禦できず、伉は捕らえられて戍にされた。燮元は兵を臨ませ、そこで降伏させた。

龍場壩は大方に隣接し、邦彦が崇明に与えたものであった。崇明が既に滅ぼされると、総兵侯良柱は官を置き屯守して自ら広げようとした。しかし安位は自分の旧地であるとして、しばしば兵を挙げて争い、燮元はこれを禁じなかった。ちょうど燮元が良柱が職務を果たさないと弾劾した。良柱もまた燮元が安氏を曲げて庇い、その重賄を受け取ったと告発した。上奏文は四川巡按御史劉宗祥に下された。宗祥もまた燮元が賄賂を受け取ったと弾劾し、かつ龍場・永寧に邑衛を置かないことを欺瞞とした。帝は燮元を責め、燮元はそこで上奏して言った、「夷を防禦する方法は、来ればこれを安んじ、専ら攻め取ることにあるのではない。今、水西は既に降伏し、ただ明らかに疆界を定め、自ら耕牧させて国賦を納めさせるべきである。もし官を置き兵を屯らせれば、この地は四方孤懸し、中は河水に隔てられ、応援に利なく、城を築き渡しを守れば、転運は煩雑で費用がかかる。かつ内には藺州の必死の闘いを激発し、外には水西の喉を扼する嫌疑を挑み、兵端が一旦開けば、容易に急に止めることはできず、国家の久遠の計ではない」。帝は未だ許さなかった。後にその地を検分すると、果たしてその議論の通りであった。桃紅壩の功績を論じ、少師に進め、世蔭として錦衣指揮使とした。一品六年満ちて、左柱国を加えた。再び賊平定の功績を議し、世蔭として錦衣指揮僉事とした。

十年、安位が死に、後嗣がなく、族属が争って立った。朝廷の議論はまたその地を郡県としようとしたが、燮元は強く争った。そこで檄を土目に伝え、上(朝廷)の威徳を布いた。諸蛮は争って土地を納め、重器を献じた。燮元はそこで疆域を分割し、諸蛮を多く建てた。また上疏して言うには、

水西には宣慰の土地があり、各目(土目)の土地がある。宣慰の公土は、朝廷に還すべきである。各目の私土は、分守に与え、その戸口を籍に載せ、その賦税を徴収し、異俗を内に響かせ、編氓と同等にすべきである。大方、西溪、谷裏、北那の要害の地には、城を築き兵を戍らせれば、反側を消すに足る。そもそも西南の境は、皆荒服である。楊氏は播州で反し、奢氏は藺州で反し、安氏は水西で反した。滇の定番は、小さな州に過ぎないが、長官司となっているものが十七あり、数百年の間反した者はなかった。他の苗が叛逆を好むのではなく、定番が忠順な性質だからである。地が大きいことは跋扈の資となり、勢いが弱いことは世を保つ策となる。今、臣が水西の地を分け、酋長及び功ある漢人に授け、皆世襲して守らせる。虐政と苛斂は一切免除し、漢法を参用すれば、長久の計とすることができる。そこでその便益が九つあることを言う。郡県を設けず軍衛を置き、その故俗に因り、土と漢が相安んずるは、便益その一。土地が益々開墾され、聚落が日に繁くなり、経界が既に正しくなれば、土酋が民地を侵軛することができないは、便益その二。黔の地は荒蕪で、外邦に仰給しているが、今自らその地の物を食すれば、転輸の労を省けるは、便益その三。功ある将士に、金で酬いれば国幣はまさに乏しく、爵で酬いれば名器は軽んぜられようが、土田を賜れば、国に損はないは、便益その四。既にその土を世襲すれば、各々久遠を図り、子孫のために計り、反側が生じないは、便益その五。大小相い維り、軽重相い制し、事なき時は安んじ易く、事ある時は制し易いは、便益その六。農を訓え兵を治め、河上に武を耀かし、賊の遺孽をして窺伺せしめざるは、便益その七。軍民で耕すことを願う者に田を与え、且つ耕し且つ守り、衛所自ら実れば、勾軍の煩わしさがないは、便益その八。軍が耕して餉に抵当て、民が耕して糧を輸し、屯をもって耕を課し、その籍に拘わらず、耕をもって人を聚め、その伍を世襲しないは、便益その九。

帝は皆これを許可した。間もなく、撫した土目に叛く者があり、諸将の方国安等の軍は敗れ、燮元は坐して一階貶せられた。やがて、ついにこれを破滅させた。十一年春、官で卒した。年七十三。

燮元の身長は八尺、腹は十圍もあり、飲食は二十人分を兼ねた。西南を鎮めること久しく、軍資や贖鍰は、年に数十万に下らず、皆官に籍した。事を治めるのは明決で、軍書が絡繹としても、幕佐に手を借りなかった。行軍は務めて持重を旨とし、謀を定めて後に戦い、特に間を用いることを善くした。人を使うには各々その材に当て、法を犯せば、親愛の者でも必ず誅し、功あれば、賤しい者でも賞を遺さなかった。蛮を御するには忠信をもってし、妄りに殺さず、苗民はこれを懐いた。初め陜西に官した時、一人の老翁に遇い、車に載せて帰り、その風角、占候、遁甲の諸術をことごとく会得した。別れに臨み、燮元に語って言うには、「幸いに自ら愛せよ、他日西南に事あらば、公がこれに当たるであろう」と。内江の牟康民という者は、奇士であった。兵が未だ起こらぬ時、人に語って言うには、「蜀に且つ変あり、これを平らぐる者は朱公であろうか」と。已にして果たしてそのようであった。

徐如珂、字は季鳴、呉県の人。万暦二十三年の進士。刑部主事に除され、郎中を歴任した。主事の謝廷贊が疏を上って儲君を立てることを請うた。帝は怒り、刑曹の官をことごとく貶し、如珂は雲南布政司照磨に降格した。累遷して南京礼部郎中、広東嶺南道右参議となった。暹羅の貢使が犀角、象牙を贈ったが、如珂は受け取らなかった。天啓元年、川東兵備副使に遷る。奢崇明の党の樊龍を撃殺し、重慶を回復した。檄を奉じて藺州の土城を搗くと、賊は水西の兵十万を借りて来援し、前軍が少し退いたが、捍子軍の覃懋勛が白竹の弩を挽いて連続してこれを射当て、賊は大いに潰えた。数千里に転戦し、首級万余を斬り、ついに藺州を抜き、崇明父子は水西に逃げ去った。そこで如珂を召して太僕少卿とし、左通政に転じた。

魏忠賢が楊漣を逐うと、如珂は郊外でこれを餞別し、忠賢は甚だ恨んだ。光禄卿に遷り、公廨の修築が竣り、疏の詞に称頌する所がなかった。六年九月、廷推で南京工部右侍郎に推されたが、ついに官籍を削られた。郷里に帰って三月、具を整えて客を飲ませた。間もなく卒した。崇禎初め、原推をもって起用されたが、死んでから一年余り経っていた。間もなく賊を破った功を録し、祭葬を賜り、秩一等を進め、一子に官を与えた。

劉可訓、澧州の人。万暦中に郷試に挙げられた。刑部員外郎を歴任した。天啓元年、四川で恤刑を務めた。時に奢崇明が反し、成都を囲んだ。可訓は城守を補佐して功があり、僉事に擢げられ、監軍として賊を討った。崇明は龍場壩に逃げ、可訓は諸将を督して進剿し、功が最も多かった。総督朱燮元が文武の将吏の功を匯奏し、盛んに可訓を推挙したので、威茂兵備参議に遷った。崇禎元年、叙瀘副使に改め、仍って諸軍を監した。二年、総兵侯良柱とともに賊十万を五峰山で破り、崇明及び安邦彦を斬った。御史毛羽健が言うには、「可訓は孤軍を将い、蛮煙瘴雨の中を出入すること多年。初めは守土の責はなく、囚を録することを命ぜられたのに、乃ち危難を見て命を授け、成都の囲みを解き、永寧に捷を奏し、藺の穴を掃除し、逆寅(崇明)を授首させた。五路の大戦、十道の並攻、皆病を抱いて軍を督し、死を誓って国に殉じた。節鉞を与えるのに、誰が不宜と言えようか」と。帝はその言を頗る取り入れた。間もなく、畿輔が兵乱に遭い、可訓は師を率いて入衛した。三年五月、遵化を恢復し、右僉都御史に擢げられ、順天、永平を巡撫し、薊鎮の辺務を督した。兵部尚書梁廷棟が私人の沈敏を可訓に嘱託し、敏はついに交関して奸利をなした。御史水佳允が可訓を弾劾し、落職して帰った。後に四川の寇を平らげた功を叙し、官に復し、世蔭として錦衣千戸となった。起用されるに及ばず、家で卒した。

胡平表、雲南臨安の人。万暦中に郷試に挙げられた。忠州判官を歴任した。天啓元年秋、樊龍が重慶を陥すと、平表は城から縋り下り、石砫の土官秦良玉に詣でて師を乞い、号泣して飲食せず五昼夜、良玉はこれがために兵を発した。巡撫朱燮元は檄を飛ばして平表に良玉の軍を監させた。時に新鄭知県に擢げられたが、燮元が奏してこれを留め、重慶推官に改め、監軍兼副総兵とし、諸軍将を尽く護らせた。戦って数たび功があり、四川監軍僉事に擢げられ、兼ねて屯田を理した。貴州右参議に遷った。崇禎元年、総督張鶴鳴が言うには、「平表は偏州の小吏ながら、慷慨として義に赴いた。新都を回復し、成都の囲みを解き、白市驛、馬廟で連戦し、進んで両嶺を占拠し、俘斬数知れず。二郎関を奪い、賊帥の黒蓬頭を擒え、樊龍を追い降し、ついに重慶を克った。六千人をもって奢、安二酋の十万の兵を破った。本官をもって督師御史の官銜を加え、専敕を賜えば、必ずや逆賊の首を梟して闕下に献上できよう」と。部議で阻まれて行われず、乃ち秩を進めて右参政とし、貴寧道を分守し、子に錦衣世千戸を蔭した。久しくして、貴州布政使に擢げられた。四年の大計で、不謹の坐により落職した。十三年、督師楊嗣昌がこれを推薦し、詔して武昌通判をもって標下の軍事を監させた。嗣昌が卒すると、乃ち罷めて帰った。

盧安世は、貴州赤水衛の人である。万暦四十年に郷試に合格し、富順の教諭となった。天啓初め、奢崇明が反乱を起こし、賊を遣わして県印を強奪させた。代理の県令は城を棄てて逃げた。安世は印を回収し、壮士を率いて賊を撃ち斬った。まもなく、賊数万が突然到来した。安世は単騎で戦い、自ら数人を斬り、上官に兵を請いその城を回復した。皇帝は大学士孫承宗の言を用い、超擢して僉事とし、監軍として賊を討たせ、屡々戦って功績があった。五年四月、総督朱燮元が上言した。「遵義より五路に進兵し、永寧で賊の本拠を破って以来、大小数百戦、捕獲することほぼ四万人、賊将百三十四人を降し、群賊及び土・漢・苗仲二十九万三千二百余人を招撫した。これらは皆、監司李仙品・劉可訓・鄭朝棟及び安世らの功績である。武将では林兆鼎・秦翼明・羅象乾、土官では陳治安・冉紹文・悦先民らである。」帝はこれを聞き入れた。安世は貴州右参議に進み、四川副使・遵義監軍に転じ、功績また多かった。崇禎初め、世襲の武職を賜り、右参政に進んだ。久しくして官を解かれ、帰郷して卒した。

林兆鼎は、福建の人である。天啓年間、四川参将となり、功績を積んで総兵官、都督ととく同知に至った。崇禎三年、将を遣わして定番州の苗を討ち、連続して十余の寨を破り、その首魁を擒えた。四年、将を遣わして湖広の苗の黒酋を討ち、二百余の寨を攻め落とした。左都督を加えられ、召されて南京右府僉事となった。卒し、太子少保を贈られた。

李枟は、字を長孺といい、鄞の人である。曾祖父の循義は、衡州知府であった。祖父の生威は、鳳陽推官であった。枟は万暦二十九年の進士に及第し、行人に授けられ、御史に抜擢された。例により広東塩法僉事に転じ、山東参議・陝西提学副使・山東参政・按察使を歴任した。

四十七年秋、右僉都御史に擢られ、貴州巡撫となった。貴州宣慰同知の安邦彦は、宣慰使堯臣の族子である。堯臣が死に、子の位が幼かったので、その母の奢社輝が代わってその事を領した。社輝は、永寧宣撫奢崇明の妹である。邦彦はついに兵権を専らにした。時に朝議で西南の兵を徴発して遼東を援けようとすると、邦彦は元来桀黠であり、これに乗じて挙兵しようと企み、枟のもとに赴いて出征を請うた。枟は諭して止めた。邦彦は帰り、ますます反逆の謀をめぐらした。枟は累次上疏して兵の増強と糧秣の補給を請うたが、朝廷は遼東の事態を急務としており、取り上げなかった。

時に枟は弾劾を受けたため、六度上疏して休職を乞うた。天啓元年になってようやく許され、王三善が代わった。しかし奢崇明はすでに重慶で反乱を起こし、遵義を陥とし、貴陽は大いに震駭した。枟はついに留まって職務を執ることになった。当時、城中の兵は三千に満たず、倉庫は空虚であった。枟は巡按御史史永安とともに雲南・湖広より銀四万余りを借り受け、兵四千を募り、米二万石を備蓄し、戦守の具を整え、急ぎ総兵官張彦方、都司許成名・黄運清、監軍副使朱芹、提学僉事劉錫元らを派遣して四川を援けさせた。屡々勝利し、ついに遵義・綏陽・湄潭・真安・桐梓を回復した。

二年二月、或る者が崇明が成都を陥としたと伝えると、邦彦はついに安位を擁して反逆し、自ら羅甸王と称した。四十八支及び他の部の頭目安邦俊・陳其愚らが蜂起して相応じ、烏撒の土目安効良もまたこれと通じた。邦彦はまず畢節を襲撃した。都司楊明廷が固守し、数百人を撃ち斬った。効良が邦彦を助けてその城を陥とし、明廷は敗死した。賊はついに兵を分けて安順・平壩を陥とし、効良もまた西進して沾益を陥とした。そして邦彦は自ら水西軍及び羅鬼・苗仲数万を統率し、東進して陸広河を渡り、直ちに貴陽に向かい、別に王倫らを遣わして甕安を下し、偏橋を襲撃して援兵を断った。洪辺の土司宋万化は苗仲九股を糾合して龍裏を陥とした。

枟と永安は変報を聞き、急ぎ城守を議した。時に藩司・臬司・守令らは皆入朝しており、彦方は銅仁を鎮守し、運清は遵義に駐屯していた。城中の文武官は僅か数人であった。そこで兵を五つに分け、錫元及び参議邵応禎・都司劉嘉言・元副総兵劉嶽に四門を守備させ、枟は自ら北門の要衝に当たった。永安は譙楼に居て、街市の兵をまとめ、内変を防いだ。学官及び諸生もまた民兵を督してそれぞれ城壁を守った。賊が到着し、全力を挙げて北城を攻撃した。枟は迎え撃ち、これを破った。賊は転じて東門を攻めたが、錫元によって退けられた。そこで賊は昼夜分番して突撃し、官兵を疲弊させようとした。三丈の高楼を築いて城に臨み、婦人・鶏犬を用いた厭勝の術を行った。枟と永安は豚を煮て雑穀飯に混ぜ、鶏犬に投げ与え、虎豹の皮を城楼に張ってこれを祓い、ようやく砲石を施すことができ、夜に死士を縋り下ろしてその楼を焼いた。賊はまた竹籠万余りを作り、土を積み上げて、城壁の高さを越えた。永安は急いで大寺の鐘楼を撤去して城上に建てた。賊は籠を棄てて去り、官軍は出撃してこれを焼いた。数度城を出て賊の糧秣を遮ったため、賊は怒り、城外の墳墓をことごとく発き、村砦を遍く焼いた。また先後に広州・普定・威清・普安・安南諸衛を攻め陥とした。貴陽より西数千里は、尽く賊の占拠するところとなった。

初め包囲された時、彦方と運清が救援に来て、新添で賊を破った。賊はこれを龍裏におびき寄せ、二将は共に敗れ、賊は彼らを城内に入れた。「お前らの糧秣を消耗させてやる」と言って。城中は果たして大いに困窮した。川貴総督張我続・巡撫王三善は兵を擁しながら進まず、枟と永安は連続して上疏して急を告げた。詔旨が彼らを督責した。時に彦方らが出戦して頻りに利を得、賊は澤溪に退いて守った。そこで裨将商士傑らを率い九千人を遣わし、威清・新添二衛を分かって押さえさせ、かつ援兵を乞うた。賊は城は必ず陥ちると思い、山に沿って営柵を列ねて内外を隔て、十日ごとに一度攻めて来ては、退散した。副総兵徐時逢・参将範仲仁が救援に赴き、甕城河で賊に遭遇した。仲仁は戦って不利となり、時逢は兵を擁して救わず、ついに大敗し、諸将馬一龍・白自強らは殲滅され、援軍はついに絶えた。賊は三善が進兵しようとしていると聞き、ますます日夜攻撃を加え、長梯をかけて蟻のように登り、城は数度陥ちそうになった。枟が奮臂一呼すると、士卒は疲弊していても、皆奮い立って賊を斬り、賊は皆城下で倒れ死んだ。王三善は屡々厳しい詔旨を受け、ついに軍を率いて重囲を破って進んだ。十二月七日、貴陽城下に到着し、包囲はようやく解けた。枟はついに兵事を辞し、官を解いて去った。三善が既に賊を破ると、我続は寸功もなく、軍資六十万を着服し、言官が相次いで弾劾し、解職して審理を待った。

我続は、邯鄲の人で、刑部尚書国彦の子である。その後、魏忠賢に縁故を求めて戸部侍郎に起用され、尚書に進み、名は逆案に連なったという。

官倉の食糧が尽きようとした時、米一升の値段は二十金に達した。糠・木の実・草木・腐った皮革を食い尽くし、死人肉を食べ、後には生きた人を食い、ついには親族同士で食い合うに至った。彦方・運清の部下の兵卒は公然と人を屠り市で売り、一斤が銀一両と交換された。枟は書籍と冠服をことごとく焼き、あらかじめ家人に戒め、危急の際には自尽するよう、皆に刀と縄を与えた。城中の戸数十万、包囲三百日、残存した者は千余人に過ぎなかった。孤城がついに安定したのは、皆、枟及び永安・錫元の功績である。熹宗は都御史鄒元標の言を用い、枟を兵部右侍郎に進め、永安を太僕少卿に、錫元を右参政に進めた。包囲が解けた後、再度功績を叙する際、御史蔣允儀が、安位が職を襲封した時、枟がその金盆を要求したため、争いを引き起こしたと上言した。上奏文は貴州巡按侯恂に下って審査されたが、返答がないうちに、御史張応辰が力を込めて枟の功績を称えた。恂が審査して上奏し、その誣告であることも明らかにした。帝は允儀を責めた。

初めに、永安は運清を新添・平越に派遣して援兵を催促させたが、その成功を危惧し、自ら城を出て督戦しようとした。錫元は永安に去意ありと疑い、枟に相談すると、枟は永安を制止した。また錫元が絶食に直面した時、兵を発して枟と永安を城外に護送し、自らは留まって死守しようと議したが、永安もまた錫元を疑った。そして運清がその間に離間工作を行ったため、三人は遂に不和となった。永安は錫元が身を留めて城を守ろうと議し、城を賊に明け渡そうとしたと誹謗し、枟もまたこれに加わったとし、両人は上疏して弁明した。吏部尚書趙南星・左都御史孫瑋らは力を尽くして三人を和解させようとし、永安の功績が第一であるとして、順序を超えて大用すべきであり、枟は既に官を進められており召還すべきであり、錫元は既に参政に進んでおり更に優れた叙用を行うべきであると上言した。詔はこれを許可した。しかし枟は結局召還されず、錫元も他の抜擢はなく、二人は共に郷里に帰った。ただ永安のみが朝廷に在り、連続して太常卿・右僉都御史に抜擢され、寧夏を巡撫し、再び兵部右侍郎として三辺を総督したが、枟及び諸将吏の功績は遂に叙されなかった。六年秋、御史田景新が枟の功績を称揚したが、採用されなかった。

崇禎元年、給事中許譽卿が再び金盆の件で枟を弾劾した。帝は廷臣を召して諮問し、ただ御史毛羽健のみが枟を弁護し、吏部尚書王永光らは羽健の言の通りに議し、給事中余昌祚は羽健が曲がって庇っていると誹謗した。帝は川貴総督朱燮元らに再調査を下し、羽健は乃ち上疏して言うには、「安氏・奢氏は代々婚姻関係にあり、同謀は久しい。奢寅が蜀を寇すや、邦彥は即ち黔を寇したのであり、どうして激変させる必要があろうか。貴陽が危急を告げた時は、正に広寧が新たに陥落した日であり、朝廷全体が慌てふためき、既に問わないことにしていた。後に枟が死なず、孤城が尚存することを知って、初めて王三善を派遣して救援させたが、到着した時には包囲は既に十月に及んでいた。安酋が初めて難を起こした時、崇明は成都を取って本拠地としようとし、邦彥は貴陽を図って根城とし、西は云南を取り、東は偏・沅・荊・襄を擾乱しようとしたのであり、枟がその要衝を扼さなければ、東南は尽く塗炭に帰したであろう。ところが按臣の永安は二、三年も経たぬうちに卿貳に昇り、三辺を督師したのに、枟は林壑に閑居を投じ、また永安の誹謗書を以て枟の罪とした。金盆の説は允儀から発せられたもので、当年既に風聞であると自ら認めており、何故今に至っても尚これを実事と固執するのか」。貴州の人々もまた争って枟の冤罪を称揚した。燮元は乃ち巡按御史越洪範と共に上疏を交わしてその枉を雪ぎ、枟の事は始めて明らかとなった。

九年冬、城守の功を叙し、一階進み、銀幣を賜った。久しくして、家で卒した。錫元は長洲の人である。崇禎年間、寧夏参政に任じた。

永安は武定の人である。共に枟と城を守り、功績多かった。辺境在任時に魏忠賢の祠を建てたため、後に御史寧光先に弾劾されて罷免され、人から重んじられなかったという。

王三善、字は彭伯、永城の人。万暦二十九年の進士。荊州推官から吏部主事に入る。斉・楚・浙の三党が李三才を抨撃した時、三善は自ら単騎で行って実地調査することを請い、遂にその党から推挙された。考功文選郎中を歴任し、太常少卿に進む。

天啓元年十月、右僉都御史に抜擢され、李枟に代わって貴州を巡撫した。時に奢崇明は既に重慶を陥とした。翌年二月、安邦彥もまた反し、貴陽を包囲した。枟及び巡按御史史永安が連続して上疏して危急を告げ、三善に急行救援を促した。三善は初め沅州に駐屯し、兵と食糧を調集した。既に鎮遠に駐留し、次に平越に駐留し、貴陽から百八十里の地点で、ようやく知府朱家民を派遣して四川に援兵を請わせた。兵が至らないので、進軍を敢えなかった。便宜を以て事を行うことを上疏して請い、空名の部牒を与えられ、才能に応じて随時任用できることとなった。帝は全て許可した。

十二月朔日に至り、貴陽の包囲が益々窮迫していることを知り、衆を集めて計議して言うには、「城を失えば法により死し、進んで援ければ敵により死す、死は等しい。どうして敵により死なぬことがあろうか」。乃ち兵を三つに分けた。副使何天麟らは清水江から進み、右部と為す。僉事楊世賞らは都勻から進み、左部と為す。自ら二万人を将い、参議向日升、副総兵劉超、参将楊明楷・劉誌敏・孫元謨・王建中らと共に中路より、賊の鋒に当たる。舟で新安に駐留し、龍頭営に到着した。超の前鋒が賊に遭遇し、衆は退こうとしたが、二人を斬ってようやく定まった。賊酋阿成は驍勇であり、超は歩卒張良ちょうりょう俊を率いて直前に進みその首を斬り、賊衆は披靡した。三善らの大軍もまた至り、遂に龍裏城を奪った。諸将は駐屯して形勢を見ようと議したが、三善は許さず、策馬して先んじた。邦彥は三善に数十万の兵がいるかと疑い、乃ち潜かに逃れ、残賊は退いて龍洞に屯した。官軍は遂に七里沖を奪い、進軍して畢節鋪に至る。元模・明楷が連続して賊を破り、その渠帥安邦俊は砲に中って死に、邦彥の弟阿倫を生け捕りにし、遂に貴陽城下に到着した。賊は包囲を解いて去った。枟・永安は三善に入城を請うたが、三善は言うには、「賊兵は遠くない。我は安んじることはできない」。南門外に営した。明日、賊を澤溪で破り、賊は逃れて陸広河を渡った。数日居て、左右二部の兵及び湖広・広西・四川の援兵が先後に至った。

三善は二万人で賊十万を破り、軽敵の心があり、敵に因って糧を取ろうとした。超を総兵官に推挙し、陸広を渡り、大方に向かい、安位の巣窟を搗くことを命じ、世賞にこれを監させた。総兵官張彦方は鴨池を渡り、邦彥の巣窟を搗くことを命じ、天麟にこれを監させた。漢兵・土兵各三万人。別将都司線補袞は黄沙渡より出撃する。期日を定めて並進した。超らは陸広に至り、連戦連勝し、彦方の部将秦民屏もまた賊の五大寨を破り、諸将は益々軽敵となった。邦彥は先に崇明・効良の兵を合わせて官軍を誘い深く入らせた。三年正月、超が陸広を渡ると、賊はこれに迫り、独山の土官蒙詔が先に逃れ、官軍は大敗し、争って河を渡り、超は逃れて免れ、明楷は捕らえられ、諸将姚旺ら二十六人は殲滅された。賊は遂に鴨池の軍を攻め破り、部将覃弘化が先に逃れ、諸営は尽く潰え、彦方は威清に退いて保ち、ただ補袞の軍のみが独り全うした。

諸苗は王師の失利を見て、再び蜂起した。土酋何中尉が進んで龍裏を占拠し、邦彥は李阿二を使わして青巖を包囲し、定番の糧道を断ち、宋萬化・呉楚漢を左右翼と為し、自ら将いて貴陽に向かい、遠近大いに震動した。三善は急ぎ遊撃祁継祖らを派遣して龍裏を奪取させ、王建中・劉誌敏に青巖を救援させた。継祖は上・中・下の三牌及び賊の百五十砦を焼き払い、建中もまた賊の四十八荘を焼き払い、龍裏・定番の路は皆通じた。三善はまた夜に建中・継祖を派遣して楚漢の八姑蕩を搗き、荘砦二百余を焼き払い、迫ってこれを攻めた。賊の溺死すること数知れず。萬化は楚漢の敗北を知らず、詐降した。三善は偽ってこれを許し、諸将に甲を巻いて急行させた。萬化は倉皇として出戦し、生け捕りにされ、邦彥は気を奪われた。群苗は再び順を效し、三善は黄幟を与え、営中に立てるよう命じた。邦彥はこれを見て敢えて出ず、鴨池・陸広の諸要害に兵を増やして守った。

時に崇明父子は屡敗し、邦彦これを救い、川師に敗れて走る。総理魯欽等は中尉を剿擒し、彦方もまた賊を鴨池に追うたが、賊は再び隙に乗じて普安を陥とした。総督楊述中は沅州に駐し、賊を畏れた。朝命が屡々促し、始めて鎮遠に移鎮す。議は三善と左し、三善は屡々退くを求め、許されず。会に崇明が川師に窘まされ、貴州龍場に逃れ、邦彦に依る。三善は会師して進討するを議し、述中及び諸将は多く不可を執る。三善は群議を排し、閏十月を以て、自ら六万人を将いて烏江を渡り、黒石に次ぎ、連ねて賊に敗れ、前に逃れた将覃弘化を斬りて徇せしむ。賊は乃ち漆山に柵し、日々遊騎を遣わして樵采者を掠む。軍中食乏しく、諸将は退師を請う。三善怒りて曰く、「汝曹退かんと欲せば、吾が首を斬りて賊に詣り降るに如かず」と。諸将は乃ち敢えて言わず。三善は壮士を募りて漆山に逼る。緋衣峨冠、肩輿に蓋を張り、自ら陣を督し、将士に語りて曰く、「戦い捷からずんば、此れ即ち吾が身を致す処なり」と。傍ら一山頗る峻し、左軍を麾して其の顛に拠らしむ。賊倉皇として柵を抜き山を争い、将士殊死に戦い、賊大いに敗れ、邦彦狼狽して走る。

三善は渭河を渡り、降る者相継ぐ。師は大方に抵り、安位の第に入り居る。位は母奢社輝とともに火灼堡に走り、邦彦は織金に竄じ、先に陥とされた将楊明楷は乃ち得て還る。位窘み、使いを遣わして述中に詣り降を請う。述中は崇明父子を縛って自贖せしめ、三善は邦彦を併せて献ずるを責む。往返の間に、賊は計を用いて備えを為すを得たり。三善は賊方に平らぎ、其の地を郡県とするを議し、諸苗及び土司は皆惴恐し、益々邦彦に合す。三善は先に四川総兵官李維新と賊を滅すを約すも、餉乏しきを以て辞す。

三善は大方に屯すること久しく、食尽き、述中は援け為さず、已むを得ず退師を議す。四年正月、大方の廬舎を尽く焚きて東し、賊これに躡う。中軍参将王建中、副総兵秦民屏戦いて歿す。官軍は行き且つ戦い、内莊に至り、後軍は賊に断たる。三善還りて救い、士卒多く奔る。陳其愚なる者は、賊の心腹にして、先に詐降し、三善これを信じ、兵事を籌るを以て、故に軍中の虚実賊知らざる無し。是に至りて賊に遇い、其愚故に轡を放ちて三善を沖きて馬を墜とす。三善変有るを知り、急ぎ印綬を解きて家人に付し、刀を抜きて自刎すも、殊れず、群賊これを擁して去る。罵りて屈せず、遂に害に遇う。同知梁思泰、主事田景猷等四十余人皆死す。賊は監軍副使岳具仰を拘して撫を要し、具仰は人を遣わして蠟書を外に馳せしむも、殺さる。

三善は倜儻として気を負い、多く権略有り。中州に家し、四方の奇士侠客を好みて交わり、後辄ち其の用を得たり。貴陽を救う時、邸報を得て視ず、曰く、「吾方に賊を弁ず、奚ぞ暇あらんか此れに及ぶに?且つ朝議戦守紛紛たり、之を閲ずれば徒らに人の意を乱すのみ」と。其の堅決此の如し。然れども性卞急にして、重きを持する能わず、竟に敗る。先に囲みを解くの功を以て、兵部右侍郎を加えられ、既に歿し、巡按御史陸献明は優恤を請うも、所司格して行わず。崇禎改元、兵部尚書を贈られ、世蔭して錦衣僉事とし、祠を立てて祭祀す。九年冬、再び囲みを解くの功を叙し、太子少保を贈らる。

大方の役、御史貴陽の徐卿伯上言して曰く、「邦彦は四方の奸宄を招き、多く狡計有り。撫臣勝ちを得て驟進し、蠢苗平らぐに足らずと視る。知らず、澤溪以西、陸広河を渡れば、皆鳥道にして、深林叢箐たり、彼我を誘いて深入せしめ、木石を以て路を塞ぎ、其の郵書を断ち、餉道を阻み、援師を遮らば、則ち彼は一卒を労せず、一矢を費やさずして、我が兵は已に坐困す」と。後悉く其の言の如し。

岳具仰は、延安の人なり。郷に挙げられ、瀘州知州・戸部郎中を歴る。貴州乱れ、朝議具仰の兵を知るを以て、用いて監軍副使と為す。内莊の敗れ、監軍四人、其の三は脱して還るを得、惟だ具仰竟に死す。

田景猷は、貴州思南の人なり。天啓二年甫に褐を釈け、邦彦の反するに憤り、疏を上りて敕を賫し宣諭するを請う。廷議之を壮とし、即ち職方主事に擢ぐ。賊方に貴陽を囲む、景猷単騎にして往き、禍福を以て暁し、兵を釈きて朝に帰らしむ。邦彦聴かず、景猷を屈せんと欲し、日々宝玩を陳べて以て之を誘うも、為に動かず。賊は乃ち景猷を留め、其の徒を遣わして危禍を以て恐るるも、景猷怒り、刀を抜きて之を撃つ、其の人走りて免る。賊中に羈すること二年、是に至りて害に遇う。具仰には光祿卿を贈り、景猷には太常少卿を贈り、並びに其の一子を録す。

楊明楷なる者は、銅仁烏羅司の人なり。内莊の敗れ、明楷は中軍と為り、死を免る。後に魯欽に従い長田の賊を討ち、功最も、終に副総兵と為る。

朱家民は、字は同人、曲靖の人なり。万暦三十四年郷に挙げられ、涪州知州と為る。天啓二年貴陽知府に官す。三善の命を奉じ、援兵を四川に乞い、又河南の兵を借り、共に其の囲みを解く。乃ち傷残を撫し、流移を招き、徭賦を寛め、遠邇悦服す。父憂に丁り、情を奪われ、安普監軍副使に擢げられ、右参政を加う。崇禎の時、就いて按察使・左布政に遷り、寇を平ぐるの功を以て、俸一級を加う。久しくして、致仕して帰り、卒す。邦彦の乱を始めてより、雲・貴の諸土酋尽く反し、安南等上六衛を攻め陥とし、雲南路断つ。其の後路は雖も通ずるも、群苗猶出没して患いと為す。家民は参将許成名等を率いて盤江外の阿野・魯頗諸砦を討平し、是に於いて盤江の西坡・板橋・海子・馬場諸要害を相度し、石城五を築き、兵を宿して民を衛る。又其の間に六城を築き、廨舎廬井畢く備わる。群苗惕息し、行旅晏然たり。盤江は雲・貴の交に居り、両山夾峙し、一水中絶し、湍激迅悍にして、舟にて済む者は多く陷溺す。家民は瀾滄橋の制に倣い、鉄を冶して縆三十有六と為し、長さ数百丈、両崖の石を貫きて之を懸け、板を以て覆い、蜀の棧に類し、而して道始めて通ず。

蔡復一は、字は敬夫、同安の人なり。万暦二十三年進士。刑部主事を除き、兵部郎中を歴る。郎署に居ること十七年、始めて湖広参政に遷り、湖北を分守す。按察使・右布政使に進み、疾を以て帰る。光宗立ち、故官に起き、山西左布政使に遷る。

天啓二年、右副都御史として鄖陽を撫治す。歳大旱、布衣素冠、自ら獄に繫がり、遂に大雨。奢崇明・安邦彦反し、貴州巡撫王三善敗死す。復一を兵部右侍郎に進めて之に代わる。兵燹の余、斗米一金に値し、復一労徠拊循し、人心始めて定まる。尋いで楊述中に代わり総督貴州・雲南・湖広軍務、兼ねて貴州を巡撫し、尚方剣を賜り、便宜に事を行わしむ。復一乃ち将吏を召集し、紀律を厳しくし、総理魯欽等を遣わして凱裏を救い、賊衆五百余を斬る。賊普定を囲む。参将尹伸・副使楊世賞を遣わして救い、之を却け、其の巣を搗ち、首千二百級を斬る。兵を発して盤江路を通じ、逆酋沙国珍及び従賊五百を斬る。欽と総兵黄鉞等復た賊を汪家沖・蒋義寨に破り、首二千二百を斬り、織金に長駆す。織金は邦彦の巣なり。縁道皆重関疊隘、木石山径を塞ぎ、将士巨斧を用いて之を開き、或いは藤を攀じ竇を穿ちて入る。賊戦いに敗れ、深箐に遁れ、首復た千級を斬る。窮搜して邦彦を得ず、乃ち師を班す。是の役、賊巂数十里を焚き、牛馬・甲仗獲ること算無し。復一、隣境討に協せざるを以て、賊未だ滅せざるを致すとし、勅して四川に出兵せしめ遵義に抵り水西に至らしめ、雲南に出兵せしめ沾益に抵り烏撒に至らしめ、犄角して賊を平げんことを請う。帝悉く之を可とす。因って命ず、広西・雲南・四川諸郡貴州に隣する者は、復一の節制を聴かしむ。

五年正月、欽等師を旋し河を渡る。賊後より襲撃し、諸営尽く潰え、死者数千人。時に復一総督たり。而して朱燮元も亦た尚書として四川・湖広・陝西諸軍を督す。以て故に復一の節制境外に行われず。欽等深入すも、四川・雲南の兵皆至らず。復一自ら劾し、因って事権一ならざるを論じ、故に敗る。巡按御史傅宗龍も亦た以て言と為す。廷議燮元を移して河道を督せしめ、復一をして専ら五路の師を督せしむ。御史楊維垣独り燮元易うべからずと言う。帝之に従い、復一の任を解きて勘を聴かしめ、而して王瑊を右僉都御史と為し、代わりて貴州を撫せしむ。

復一代を候い、仍兵事に拮据し、宗龍と計り、烏粟・螺蝦・長田及び両江十五砦の叛苗を剿破し、七百余級を斬る。賊党安効良首めて邦彦を助け沾益を陥す。雲南巡撫沈儆炌兵を遣わして之を討つも、未だ定まらず、侍郎に遷り去る。代わる者閔洪学、之を招撫すも、亦た未だ定まらず。是に及びて雲南の出師を見、懼れ、邦彦と約して曲靖・尋甸を犯す。復一許成名を遣わして往き援わしむ。賊風を望みて遁る。又た劉超等を遣わして平越の苗阿秩等を討たしめ、百七十砦を破り、二千三百有奇の級を斬る。十月に至り、復一平越の軍中に卒す。訃聞き、帝其の忠勤を嘉し、兵部尚書を贈り、謚して清憲と曰い、一子に官を任ず。

復一古を好み博学、文を属するに善く、耿介として大節を負う。既に歿し、橐に遺貲無し。

瑊既に至り、邦彦平らぎ易からざるを見、解き去らんと欲す。魏党李魯生に夤縁し、南京戸部右侍郎に遷る。崇禎初、劾せられて帰る。流賊応城を陥し、害に遇う。

沈儆炌、字は叔永、帰安の人。父子木、官は南京右都御史。儆炌萬暦十七年の進士に登る。歴て河南左布政使、入りて光禄卿と為る。四十七年、右副都御史として雲南を巡撫す。神宗末、詔して歳貢の黄金二千を増す。儆炌疏を上りて争う。会に光宗立ち、其の請の如くす。

雲龍州の土舎段進志、永昌・大理を掠む。儆炌之を討ち擒う。安邦彦反し、諸土目並び起つ。安効良沾益を陥し、李賢平夷を陥し、禄千鐘尋甸・嵩明を犯し、張世臣武定を攻め、邦彦の女弟設科曲靖を掠め、転じて陸涼を寇す。儆炌故参将雲南の人袁善を起し、守備金為貴・土官沙源等を率い馳せて嵩明を救わしめ、之を大破す。賊転じて尋甸を寇し、復た大いに敗れて去る。乃ち善の故官を復し、諸将と分かち賊を討たしめ、数功有り。会に儆炌南京兵部右侍郎に遷り、而して代わる者閔洪学至る。乃ち兵事を之に委して去る。後に拝して南京工部尚書と為るも、魏忠賢の党石三畏に劾せられ、職を落とし閑住す。崇禎初、官を復し、家に卒す。子允培、礼科都給事中。

洪学既に至り、亦た袁善を用う。賊普安を陥し、安南を囲む。善之を攻め破り、上六衛の道を通ず。王三善の歿するや、六衛復た梗まる。善御史傅宗龍を護り黔に赴き、道復た通ず。已にして安効良を沾益に敗り、又た賊を炎方・馬龍に敗る。七年、御史朱泰禎武定・嵩明・尋甸の賊を破る功を核め上る。大小百三十三戦、四千六百余級を斬る。捷を宣し廟に告げんことを請う。之に従う。魏忠賢等並びに秩を進め、子を蔭す。善に都督同知を加え、世に錦衣指揮僉事を蔭す。崇禎初、官に卒す。

周鴻図、字は子固、即墨の人。歳貢生より起家し、宿遷県を知る。侯恂の薦に以て、貴陽同知に遷り、軍事を監紀し、軍功を積みて知府に至る。会に勻哈の叛苗と邦彦相倚りて乱を為す。天啓六年春、巡撫王瑊及び御史傅宗龍、胡従儀及び都司張雲鵬の軍を監せしめ、道を分かち山を捜し、向かう所摧破す。会に魯欽の敗を聞き、賊復た龍場に趨り邦彦を助く。已にして邦彦屡敗す。賊故巣に返る。鴻図・従儀等之を攻め、一百余寨を破り焚き、首千二百余級を斬る。鴻図副使に擢げられ、新鎮道を分巡す。従儀副総兵に進む。当是の時、鴻図平越に駐し、下六衛を轄す。参議段伯炌安荘に駐し、上六衛を轄す。千余里の間、奸宄屏息す。両人の力なり。鴻図終に陝西参政。

伯炌、雲南晉寧の人。郷挙より鎮寧知州と為る。力をもって安邦彦を拒ぎ、超擢して僉事と為り、鎮寧を分巡す。邦彦普定を寇す。従儀と偕に之を撃ち破り、此れより参議に擢ぐ。

胡従儀、山西の人。天啓四年、遊撃として普定を援い、功多し。既にして賊を長田に破る。参将として勻哈を討ち平げ、後又た諸将と老虫添を平ぐ。崇禎三年、苗賊汪狂・抱角を討ち平げ、召されて保定総兵官と為り、京邸に卒す。都督僉事を贈る。黔人之を愛し、真将軍碑を立てしむ。

賛して曰く、奢・安の乱、窃かに蜀に発し、黔に蔓延し、師を労する者幾十載。燮元之を兵威をもって戡し、俗に因り制を宜しくし、屯を開き衛を設け、亟亟として其の地を郡県するに非ず、以て三善の覆轍を蹈まず。而して西南此れより永寧を滋し、庶幾くは趙営平の羌を制し、韋南康の蜀を鎮むるに方ぶべきか。