○朱燮元(徐如珂 劉可訓 胡平表 盧安世 林兆鼎) 李枟(史永安 劉錫元) 王三善(岳具仰等 朱家民) 蔡復一(沈儆炌) 袁善 周鴻圖 段伯炌(胡從儀)
朱燮元、字は懋和、浙江山陰の人なり。萬歷二十年の進士。大理評事に除せらる。蘇州知府・四川副使に遷り、廣東提督學校に改む。右參政として病を謝して帰る。陜西按察使として起用され、四川右布政使に移る。
崇明は偽号を僭し、丞相五府等の官を設け、統ぶる所の部及び徼外の雑蛮数万、分道して成都に趨く。新都・内江を陥し、尽く木椑・龍泉諸の隘口を拠る。指揮周邦太は降り、冉世洪・雷安世・瞿英は戦死す。成都の兵は僅かに二千、餉又絀す。燮元は檄を飛ばし石砫・羅綱・龍安・松・茂諸道の兵を征し入援せしめ、二百里内の粟を斂めて城に入る。巡按御史薛敷政・右布政使周著・按察使林宰等と偕に分かって陴を守る。賊は革を障ぎ竹牌を裹み鉤梯を以て城に附き、土山を壘み、上に蓬蓽を架し、弩を伏せて城中を射る。燮元は火器を用いて之を撃ち却け、又人を遣わし都江堰の水を決して濠に注がしむ。賊は橋を治め、少しく息むを得、因って城中の賊に通ずる者二百人を斬り、賊は内応を失う。賊は四面に望楼を立て、高さ城と斉しく、燮元は死士を命じて突出し、三賊帥を撃斬し、其の楼を燔く。
既にして援兵漸く集まる。登萊副使楊述程は募兵を以て湖広に至り、遂に安綿副使劉芬謙・石砫女土官秦良玉の軍と合し、賊を牛頭鎮に敗り、新都を復す。他路の援兵も亦連ねて賊に勝つ。然れども賊も亦愈々増し、日に冢を発し、枯骸を擲つ。忽ち林中より大いに噪き、数千人舟の如き物を擁し、高さ丈許、長さ五十丈、楼数重、牛革を以て左右を蔽い、板を置くこと平地の如し。一人は髪を披き剣を仗し、上に羽旗を載せ、中に数百人機弩毒矢を挟み、旁に両雲楼を翼とし、牛を以て曳き、俯瞰して城中を望めば、城中の人皆哭く。燮元曰く「此れ呂公車なり」と。乃ち巨木を以て機関と為し、索を転じて砲を発し、千鈞の石を飛ばして之を撃ち、又大砲を以て牛を撃てば、牛は返り走り、敗れて去る。
諸生の賊中に陥りし者有り、人を遣わして言う、賊将羅乾象は正に返らんと欲すと。燮元は乾象と倶に至らしめ、戍楼中に呼びて飲ましめ、其の佩刀を脱がず、与に同臥して酣く寝る。乾象は死を誓いて報いんとし、復た縋りて出づ。是より、賊中の挙動知らざる無し。乃ち部将を遣わし詐りて降り、崇明を誘いて城下に至らしむ。伏起こり、崇明は跳ねて免る。会に諸道の援軍至り、燮元は賊将に走らんと策し、木牌数百を錦江に投じ、流れて下らしめ、有司に命じて舟を沈め橋を断ち、厳兵して待たしむ。乾象は因って内より自ら火を放ち、崇明父子は遁走して瀘州に至り、乾象は遂に衆を以て来帰す。城の囲み百二日にして解く。
初め、朝廷重慶の変を聞き、即ち燮元を擢て僉都御史と為し、四川を巡撫せしめ、楊愈懋を以て総兵官と為し、而して河南巡撫張我続を擢て四川・貴州・云南・湖広の軍を総督せしむ。未だ至らざるに成都の囲み解け、官軍は乗勢して州県衛所凡そ四十余を復す、惟だ重慶は樊龍等の拠る所と為る。其の地は三面江に阻まれ、一面陸に通ず、副使徐如珂は兵を率いて仏図関の後より繞り出で、良玉と与に之を攻め抜く。崇明は卒数万を発して来援し、如珂は迎え戦い、檄を飛ばし同知越其傑に賊の後を躡わしめ、万余人を殺す。監軍僉事戴君恩は守備金富廉に命じて賊将張彤を攻め斬らしめ、樊龍も亦戦死す。帝は廟に告げて賀を受け、君恩の官を三進む。燮元の遣わす他所の将は亦建武・長寧を復し、偽丞相何若海を獲、瀘州も亦旋ちに復す。
是に先立ち、国禎は遵義を陥し、貴州巡撫李枟は已に兵を遣わして之を復す。永寧の人李忠臣は嘗て松潘副使と為り、家に居り、賊に陥り、書を以て愈懋と約し内応と為らんとす、事覚え、合門害に遇う。賊は即ち其の家僮を用いて愈懋を紿し、襲い之を殺し、並びに順慶推官郭象儀等を殺し、再び遵義を陥し、推官馮鳳雛を殺す。
当時、蜀中の兵は十六万で、土兵と漢兵が半分ずつであった。漢兵は戦闘に耐えず、土兵は驕慢で淫らで、力を尽くそうとしなかった。成都の包囲が解けても、直ちに重慶を取らず、重慶が回復しても、直ちに永寧を攻めず、永寧・藺州が共に陥ちて賊が巣窟を失っても、また遠くに逃げるのを放任した。おおむね土官は賊を養うことを利とし、官軍もそれに倣い、賊は転々として計略を巡らすことができた。崇明父子はまさに非常に窮していたが、燮元は蜀には既に賊がいないとして、遂に窮追しなかった。永寧が既に陥ち、千里の地を拓いた。燮元は肥沃な地を割いて永寧衛に帰属させ、残りの地を四十八屯とし、降伏した賊で功のあった者に与え、毎年官に賦を納めさせ、「屯将」と称し、叙州府に隷属させ、同知一人を増設してこれを統領させた。また叙州兵備道を衛城に移し、貴州参将と共に駐屯させ、蜀中は遂に平定された。しかし邦彦は甚だ勢いを張った。
四年の春、貴州を陥落させ、巡撫王三善の軍は全滅した。翌年、総理魯欽は織金で敗れ、貴州総督蔡復一の軍もまた敗れた。廷臣は三善らの失態は川軍が協力しなかったためであるとして、両督府を合併することを議した。そこで燮元を兵部尚書として貴州・雲南・広西の諸軍を兼ねて督かせ、遵義に鎮を移させ、尹同臯を代わりに四川を巡撫させた。燮元が重慶に赴くと、邦彦はこれを探知した。六年二月、官軍が未だ出発しないうちに乗じて、分かれて雲南・遵義を犯し、寅に専ら永寧を犯させようと謀った。未だ行わないうちに、寅が殺害されたので、やめた。寅は非常に凶暴で淫らであり、阿引という者が、燮元の金銭を受け取り、寅が酔った隙に乗じてこれを殺した。寅が既に死ぬと、崇明は年老いて為す能わず、邦彦もまた降伏を乞うた。燮元は朝廷に報告し、これを許したので、参将楊明輝を派遣して降伏させようとした。燮元は間もなく父の喪で帰郷し、偏沅巡撫閔夢得が代わりに来た。
先に、貴州巡撫王瑊は督臣が貴陽に鎮を移すことには十の利便があると述べ、朝廷の議論はこれに従った。夢得はそこで用兵の機宜を陳べ、永寧から始め、次に普市・摩泥・赤水へと進むべきことを請うた。百五十里は皆平坦な道であり、赤水には城があり兵を屯駐でき、白巖・層臺・畢節・大方へ進むのは僅か二百余里である。我らが既に重兵を駐屯させれば、諸番の交通の路は絶たれ、その後で貴陽・遵義の軍が期日を定めて進めば、賊は必ず支えられないと。上疏は未だ返答を得ず、夢得は召還され、尚書張鶴鳴が代わりとなり、議は遂に止んだ。鶴鳴が未だ到着しないうちに、明輝は制書を奉じて、僅かに安位を招撫し、邦彦を赦すとは述べなかった。邦彦は怒り、明輝を殺し、降伏の議はこれによって絶えた。鶴鳴は軍を監督すること年余り、一度も戦わず、賊はその鋭気を養うことができた。
初め、崇明・邦彦の死は、実は川中の諸将の功績であったが、黔の将がこれを争った。燮元はやや黔将を支持し、しばしば朝廷に上奏したため、四川巡按御史馬如蛟に弾劾された。燮元は力を尽くして罷免を求め、帝は慰留した。その冬、定番・鎮寧の叛く苗を討伐平定し、そこで威清などの上六衛及び平越・清平・偏橋・鎮遠の四衛の道路を通じ、凡そ一千六百余里にわたり、亭障を繕い、遊僥を置いた。貴陽の東北に洪辺十二馬頭があり、以前は宣慰宋嗣殷の地であった。嗣殷は邦彦を助けたため討伐滅ぼされ、そこでその地に開州を置き、また以前の施秉県を復することを奏上し、流民を招いて実らせた。
四年、阿迷州土官普名聲が乱を起こし、彌勒州曲江所を陥落させ、また臨安及び寧州を攻め、遠近震動した。巡撫王伉・総兵官沐天波は防禦できず、伉は捕らえられて戍にされた。燮元は兵を臨ませ、そこで降伏させた。
龍場壩は大方に隣接し、邦彦が崇明に与えたものであった。崇明が既に滅ぼされると、総兵侯良柱は官を置き屯守して自ら広げようとした。しかし安位は自分の旧地であるとして、しばしば兵を挙げて争い、燮元はこれを禁じなかった。ちょうど燮元が良柱が職務を果たさないと弾劾した。良柱もまた燮元が安氏を曲げて庇い、その重賄を受け取ったと告発した。上奏文は四川巡按御史劉宗祥に下された。宗祥もまた燮元が賄賂を受け取ったと弾劾し、かつ龍場・永寧に邑衛を置かないことを欺瞞とした。帝は燮元を責め、燮元はそこで上奏して言った、「夷を防禦する方法は、来ればこれを安んじ、専ら攻め取ることにあるのではない。今、水西は既に降伏し、ただ明らかに疆界を定め、自ら耕牧させて国賦を納めさせるべきである。もし官を置き兵を屯らせれば、この地は四方孤懸し、中は河水に隔てられ、応援に利なく、城を築き渡しを守れば、転運は煩雑で費用がかかる。かつ内には藺州の必死の闘いを激発し、外には水西の喉を扼する嫌疑を挑み、兵端が一旦開けば、容易に急に止めることはできず、国家の久遠の計ではない」。帝は未だ許さなかった。後にその地を検分すると、果たしてその議論の通りであった。桃紅壩の功績を論じ、少師に進め、世蔭として錦衣指揮使とした。一品六年満ちて、左柱国を加えた。再び賊平定の功績を議し、世蔭として錦衣指揮僉事とした。
十年、安位が死に、後嗣がなく、族属が争って立った。朝廷の議論はまたその地を郡県としようとしたが、燮元は強く争った。そこで檄を土目に伝え、上(朝廷)の威徳を布いた。諸蛮は争って土地を納め、重器を献じた。燮元はそこで疆域を分割し、諸蛮を多く建てた。また上疏して言うには、
水西には宣慰の土地があり、各目(土目)の土地がある。宣慰の公土は、朝廷に還すべきである。各目の私土は、分守に与え、その戸口を籍に載せ、その賦税を徴収し、異俗を内に響かせ、編氓と同等にすべきである。大方、西溪、谷裏、北那の要害の地には、城を築き兵を戍らせれば、反側を消すに足る。そもそも西南の境は、皆荒服である。楊氏は播州で反し、奢氏は藺州で反し、安氏は水西で反した。滇の定番は、小さな州に過ぎないが、長官司となっているものが十七あり、数百年の間反した者はなかった。他の苗が叛逆を好むのではなく、定番が忠順な性質だからである。地が大きいことは跋扈の資となり、勢いが弱いことは世を保つ策となる。今、臣が水西の地を分け、酋長及び功ある漢人に授け、皆世襲して守らせる。虐政と苛斂は一切免除し、漢法を参用すれば、長久の計とすることができる。そこでその便益が九つあることを言う。郡県を設けず軍衛を置き、その故俗に因り、土と漢が相安んずるは、便益その一。土地が益々開墾され、聚落が日に繁くなり、経界が既に正しくなれば、土酋が民地を侵軛することができないは、便益その二。黔の地は荒蕪で、外邦に仰給しているが、今自らその地の物を食すれば、転輸の労を省けるは、便益その三。功ある将士に、金で酬いれば国幣はまさに乏しく、爵で酬いれば名器は軽んぜられようが、土田を賜れば、国に損はないは、便益その四。既にその土を世襲すれば、各々久遠を図り、子孫のために計り、反側が生じないは、便益その五。大小相い維り、軽重相い制し、事なき時は安んじ易く、事ある時は制し易いは、便益その六。農を訓え兵を治め、河上に武を耀かし、賊の遺孽をして窺伺せしめざるは、便益その七。軍民で耕すことを願う者に田を与え、且つ耕し且つ守り、衛所自ら実れば、勾軍の煩わしさがないは、便益その八。軍が耕して餉に抵当て、民が耕して糧を輸し、屯をもって耕を課し、その籍に拘わらず、耕をもって人を聚め、その伍を世襲しないは、便益その九。
帝は皆これを許可した。間もなく、撫した土目に叛く者があり、諸将の方国安等の軍は敗れ、燮元は坐して一階貶せられた。やがて、ついにこれを破滅させた。十一年春、官で卒した。年七十三。
燮元の身長は八尺、腹は十圍もあり、飲食は二十人分を兼ねた。西南を鎮めること久しく、軍資や贖鍰は、年に数十万に下らず、皆官に籍した。事を治めるのは明決で、軍書が絡繹としても、幕佐に手を借りなかった。行軍は務めて持重を旨とし、謀を定めて後に戦い、特に間を用いることを善くした。人を使うには各々その材に当て、法を犯せば、親愛の者でも必ず誅し、功あれば、賤しい者でも賞を遺さなかった。蛮を御するには忠信をもってし、妄りに殺さず、苗民はこれを懐いた。初め陜西に官した時、一人の老翁に遇い、車に載せて帰り、その風角、占候、遁甲の諸術をことごとく会得した。別れに臨み、燮元に語って言うには、「幸いに自ら愛せよ、他日西南に事あらば、公がこれに当たるであろう」と。内江の牟康民という者は、奇士であった。兵が未だ起こらぬ時、人に語って言うには、「蜀に且つ変あり、これを平らぐる者は朱公であろうか」と。已にして果たしてそのようであった。
魏忠賢が楊漣を逐うと、如珂は郊外でこれを餞別し、忠賢は甚だ恨んだ。光禄卿に遷り、公廨の修築が竣り、疏の詞に称頌する所がなかった。六年九月、廷推で南京工部右侍郎に推されたが、ついに官籍を削られた。郷里に帰って三月、具を整えて客を飲ませた。間もなく卒した。崇禎初め、原推をもって起用されたが、死んでから一年余り経っていた。間もなく賊を破った功を録し、祭葬を賜り、秩一等を進め、一子に官を与えた。
盧安世は、貴州赤水衛の人である。万暦四十年に郷試に合格し、富順の教諭となった。天啓初め、奢崇明が反乱を起こし、賊を遣わして県印を強奪させた。代理の県令は城を棄てて逃げた。安世は印を回収し、壮士を率いて賊を撃ち斬った。まもなく、賊数万が突然到来した。安世は単騎で戦い、自ら数人を斬り、上官に兵を請いその城を回復した。皇帝は大学士孫承宗の言を用い、超擢して僉事とし、監軍として賊を討たせ、屡々戦って功績があった。五年四月、総督朱燮元が上言した。「遵義より五路に進兵し、永寧で賊の本拠を破って以来、大小数百戦、捕獲することほぼ四万人、賊将百三十四人を降し、群賊及び土・漢・苗仲二十九万三千二百余人を招撫した。これらは皆、監司李仙品・劉可訓・鄭朝棟及び安世らの功績である。武将では林兆鼎・秦翼明・羅象乾、土官では陳治安・冉紹文・悦先民らである。」帝はこれを聞き入れた。安世は貴州右参議に進み、四川副使・遵義監軍に転じ、功績また多かった。崇禎初め、世襲の武職を賜り、右参政に進んだ。久しくして官を解かれ、帰郷して卒した。
李枟は、字を長孺といい、鄞の人である。曾祖父の循義は、衡州知府であった。祖父の生威は、鳳陽推官であった。枟は万暦二十九年の進士に及第し、行人に授けられ、御史に抜擢された。例により広東塩法僉事に転じ、山東参議・陝西提学副使・山東参政・按察使を歴任した。
四十七年秋、右僉都御史に擢られ、貴州巡撫となった。貴州宣慰同知の安邦彦は、宣慰使堯臣の族子である。堯臣が死に、子の位が幼かったので、その母の奢社輝が代わってその事を領した。社輝は、永寧宣撫奢崇明の妹である。邦彦はついに兵権を専らにした。時に朝議で西南の兵を徴発して遼東を援けようとすると、邦彦は元来桀黠であり、これに乗じて挙兵しようと企み、枟のもとに赴いて出征を請うた。枟は諭して止めた。邦彦は帰り、ますます反逆の謀をめぐらした。枟は累次上疏して兵の増強と糧秣の補給を請うたが、朝廷は遼東の事態を急務としており、取り上げなかった。
枟と永安は変報を聞き、急ぎ城守を議した。時に藩司・臬司・守令らは皆入朝しており、彦方は銅仁を鎮守し、運清は遵義に駐屯していた。城中の文武官は僅か数人であった。そこで兵を五つに分け、錫元及び参議邵応禎・都司劉嘉言・元副総兵劉嶽に四門を守備させ、枟は自ら北門の要衝に当たった。永安は譙楼に居て、街市の兵をまとめ、内変を防いだ。学官及び諸生もまた民兵を督してそれぞれ城壁を守った。賊が到着し、全力を挙げて北城を攻撃した。枟は迎え撃ち、これを破った。賊は転じて東門を攻めたが、錫元によって退けられた。そこで賊は昼夜分番して突撃し、官兵を疲弊させようとした。三丈の高楼を築いて城に臨み、婦人・鶏犬を用いた厭勝の術を行った。枟と永安は豚を煮て雑穀飯に混ぜ、鶏犬に投げ与え、虎豹の皮を城楼に張ってこれを祓い、ようやく砲石を施すことができ、夜に死士を縋り下ろしてその楼を焼いた。賊はまた竹籠万余りを作り、土を積み上げて、城壁の高さを越えた。永安は急いで大寺の鐘楼を撤去して城上に建てた。賊は籠を棄てて去り、官軍は出撃してこれを焼いた。数度城を出て賊の糧秣を遮ったため、賊は怒り、城外の墳墓をことごとく発き、村砦を遍く焼いた。また先後に広州・普定・威清・普安・安南諸衛を攻め陥とした。貴陽より西数千里は、尽く賊の占拠するところとなった。
初め包囲された時、彦方と運清が救援に来て、新添で賊を破った。賊はこれを龍裏におびき寄せ、二将は共に敗れ、賊は彼らを城内に入れた。「お前らの糧秣を消耗させてやる」と言って。城中は果たして大いに困窮した。川貴総督張我続・巡撫王三善は兵を擁しながら進まず、枟と永安は連続して上疏して急を告げた。詔旨が彼らを督責した。時に彦方らが出戦して頻りに利を得、賊は澤溪に退いて守った。そこで裨将商士傑らを率い九千人を遣わし、威清・新添二衛を分かって押さえさせ、かつ援兵を乞うた。賊は城は必ず陥ちると思い、山に沿って営柵を列ねて内外を隔て、十日ごとに一度攻めて来ては、退散した。副総兵徐時逢・参将範仲仁が救援に赴き、甕城河で賊に遭遇した。仲仁は戦って不利となり、時逢は兵を擁して救わず、ついに大敗し、諸将馬一龍・白自強らは殲滅され、援軍はついに絶えた。賊は三善が進兵しようとしていると聞き、ますます日夜攻撃を加え、長梯をかけて蟻のように登り、城は数度陥ちそうになった。枟が奮臂一呼すると、士卒は疲弊していても、皆奮い立って賊を斬り、賊は皆城下で倒れ死んだ。王三善は屡々厳しい詔旨を受け、ついに軍を率いて重囲を破って進んだ。十二月七日、貴陽城下に到着し、包囲はようやく解けた。枟はついに兵事を辞し、官を解いて去った。三善が既に賊を破ると、我続は寸功もなく、軍資六十万を着服し、言官が相次いで弾劾し、解職して審理を待った。
我続は、邯鄲の人で、刑部尚書国彦の子である。その後、魏忠賢に縁故を求めて戸部侍郎に起用され、尚書に進み、名は逆案に連なったという。
官倉の食糧が尽きようとした時、米一升の値段は二十金に達した。糠・木の実・草木・腐った皮革を食い尽くし、死人肉を食べ、後には生きた人を食い、ついには親族同士で食い合うに至った。彦方・運清の部下の兵卒は公然と人を屠り市で売り、一斤が銀一両と交換された。枟は書籍と冠服をことごとく焼き、あらかじめ家人に戒め、危急の際には自尽するよう、皆に刀と縄を与えた。城中の戸数十万、包囲三百日、残存した者は千余人に過ぎなかった。孤城がついに安定したのは、皆、枟及び永安・錫元の功績である。熹宗は都御史鄒元標の言を用い、枟を兵部右侍郎に進め、永安を太僕少卿に、錫元を右参政に進めた。包囲が解けた後、再度功績を叙する際、御史蔣允儀が、安位が職を襲封した時、枟がその金盆を要求したため、争いを引き起こしたと上言した。上奏文は貴州巡按侯恂に下って審査されたが、返答がないうちに、御史張応辰が力を込めて枟の功績を称えた。恂が審査して上奏し、その誣告であることも明らかにした。帝は允儀を責めた。
九年冬、城守の功を叙し、一階進み、銀幣を賜った。久しくして、家で卒した。錫元は長洲の人である。崇禎年間、寧夏参政に任じた。
永安は武定の人である。共に枟と城を守り、功績多かった。辺境在任時に魏忠賢の祠を建てたため、後に御史寧光先に弾劾されて罷免され、人から重んじられなかったという。
王三善、字は彭伯、永城の人。万暦二十九年の進士。荊州推官から吏部主事に入る。斉・楚・浙の三党が李三才を抨撃した時、三善は自ら単騎で行って実地調査することを請い、遂にその党から推挙された。考功文選郎中を歴任し、太常少卿に進む。
十二月朔日に至り、貴陽の包囲が益々窮迫していることを知り、衆を集めて計議して言うには、「城を失えば法により死し、進んで援ければ敵により死す、死は等しい。どうして敵により死なぬことがあろうか」。乃ち兵を三つに分けた。副使何天麟らは清水江から進み、右部と為す。僉事楊世賞らは都勻から進み、左部と為す。自ら二万人を将い、参議向日升、副総兵劉超、参将楊明楷・劉誌敏・孫元謨・王建中らと共に中路より、賊の鋒に当たる。舟で新安に駐留し、龍頭営に到着した。超の前鋒が賊に遭遇し、衆は退こうとしたが、二人を斬ってようやく定まった。賊酋阿成は驍勇であり、超は歩卒張良俊を率いて直前に進みその首を斬り、賊衆は披靡した。三善らの大軍もまた至り、遂に龍裏城を奪った。諸将は駐屯して形勢を見ようと議したが、三善は許さず、策馬して先んじた。邦彥は三善に数十万の兵がいるかと疑い、乃ち潜かに逃れ、残賊は退いて龍洞に屯した。官軍は遂に七里沖を奪い、進軍して畢節鋪に至る。元模・明楷が連続して賊を破り、その渠帥安邦俊は砲に中って死に、邦彥の弟阿倫を生け捕りにし、遂に貴陽城下に到着した。賊は包囲を解いて去った。枟・永安は三善に入城を請うたが、三善は言うには、「賊兵は遠くない。我は安んじることはできない」。南門外に営した。明日、賊を澤溪で破り、賊は逃れて陸広河を渡った。数日居て、左右二部の兵及び湖広・広西・四川の援兵が先後に至った。
諸苗は王師の失利を見て、再び蜂起した。土酋何中尉が進んで龍裏を占拠し、邦彥は李阿二を使わして青巖を包囲し、定番の糧道を断ち、宋萬化・呉楚漢を左右翼と為し、自ら将いて貴陽に向かい、遠近大いに震動した。三善は急ぎ遊撃祁継祖らを派遣して龍裏を奪取させ、王建中・劉誌敏に青巖を救援させた。継祖は上・中・下の三牌及び賊の百五十砦を焼き払い、建中もまた賊の四十八荘を焼き払い、龍裏・定番の路は皆通じた。三善はまた夜に建中・継祖を派遣して楚漢の八姑蕩を搗き、荘砦二百余を焼き払い、迫ってこれを攻めた。賊の溺死すること数知れず。萬化は楚漢の敗北を知らず、詐降した。三善は偽ってこれを許し、諸将に甲を巻いて急行させた。萬化は倉皇として出戦し、生け捕りにされ、邦彥は気を奪われた。群苗は再び順を效し、三善は黄幟を与え、営中に立てるよう命じた。邦彥はこれを見て敢えて出ず、鴨池・陸広の諸要害に兵を増やして守った。
時に崇明父子は屡敗し、邦彦これを救い、川師に敗れて走る。総理魯欽等は中尉を剿擒し、彦方もまた賊を鴨池に追うたが、賊は再び隙に乗じて普安を陥とした。総督楊述中は沅州に駐し、賊を畏れた。朝命が屡々促し、始めて鎮遠に移鎮す。議は三善と左し、三善は屡々退くを求め、許されず。会に崇明が川師に窘まされ、貴州龍場に逃れ、邦彦に依る。三善は会師して進討するを議し、述中及び諸将は多く不可を執る。三善は群議を排し、閏十月を以て、自ら六万人を将いて烏江を渡り、黒石に次ぎ、連ねて賊に敗れ、前に逃れた将覃弘化を斬りて徇せしむ。賊は乃ち漆山に柵し、日々遊騎を遣わして樵采者を掠む。軍中食乏しく、諸将は退師を請う。三善怒りて曰く、「汝曹退かんと欲せば、吾が首を斬りて賊に詣り降るに如かず」と。諸将は乃ち敢えて言わず。三善は壮士を募りて漆山に逼る。緋衣峨冠、肩輿に蓋を張り、自ら陣を督し、将士に語りて曰く、「戦い捷からずんば、此れ即ち吾が身を致す処なり」と。傍ら一山頗る峻し、左軍を麾して其の顛に拠らしむ。賊倉皇として柵を抜き山を争い、将士殊死に戦い、賊大いに敗れ、邦彦狼狽して走る。
三善は渭河を渡り、降る者相継ぐ。師は大方に抵り、安位の第に入り居る。位は母奢社輝とともに火灼堡に走り、邦彦は織金に竄じ、先に陥とされた将楊明楷は乃ち得て還る。位窘み、使いを遣わして述中に詣り降を請う。述中は崇明父子を縛って自贖せしめ、三善は邦彦を併せて献ずるを責む。往返の間に、賊は計を用いて備えを為すを得たり。三善は賊方に平らぎ、其の地を郡県とするを議し、諸苗及び土司は皆惴恐し、益々邦彦に合す。三善は先に四川総兵官李維新と賊を滅すを約すも、餉乏しきを以て辞す。
三善は大方に屯すること久しく、食尽き、述中は援け為さず、已むを得ず退師を議す。四年正月、大方の廬舎を尽く焚きて東し、賊これに躡う。中軍参将王建中、副総兵秦民屏戦いて歿す。官軍は行き且つ戦い、内莊に至り、後軍は賊に断たる。三善還りて救い、士卒多く奔る。陳其愚なる者は、賊の心腹にして、先に詐降し、三善これを信じ、兵事を籌るを以て、故に軍中の虚実賊知らざる無し。是に至りて賊に遇い、其愚故に轡を放ちて三善を沖きて馬を墜とす。三善変有るを知り、急ぎ印綬を解きて家人に付し、刀を抜きて自刎すも、殊れず、群賊これを擁して去る。罵りて屈せず、遂に害に遇う。同知梁思泰、主事田景猷等四十余人皆死す。賊は監軍副使岳具仰を拘して撫を要し、具仰は人を遣わして蠟書を外に馳せしむも、殺さる。
三善は倜儻として気を負い、多く権略有り。中州に家し、四方の奇士侠客を好みて交わり、後辄ち其の用を得たり。貴陽を救う時、邸報を得て視ず、曰く、「吾方に賊を弁ず、奚ぞ暇あらんか此れに及ぶに?且つ朝議戦守紛紛たり、之を閲ずれば徒らに人の意を乱すのみ」と。其の堅決此の如し。然れども性卞急にして、重きを持する能わず、竟に敗る。先に囲みを解くの功を以て、兵部右侍郎を加えられ、既に歿し、巡按御史陸献明は優恤を請うも、所司格して行わず。崇禎改元、兵部尚書を贈られ、世蔭して錦衣僉事とし、祠を立てて祭祀す。九年冬、再び囲みを解くの功を叙し、太子少保を贈らる。
大方の役、御史貴陽の徐卿伯上言して曰く、「邦彦は四方の奸宄を招き、多く狡計有り。撫臣勝ちを得て驟進し、蠢苗平らぐに足らずと視る。知らず、澤溪以西、陸広河を渡れば、皆鳥道にして、深林叢箐たり、彼我を誘いて深入せしめ、木石を以て路を塞ぎ、其の郵書を断ち、餉道を阻み、援師を遮らば、則ち彼は一卒を労せず、一矢を費やさずして、我が兵は已に坐困す」と。後悉く其の言の如し。
岳具仰は、延安の人なり。郷に挙げられ、瀘州知州・戸部郎中を歴る。貴州乱れ、朝議具仰の兵を知るを以て、用いて監軍副使と為す。内莊の敗れ、監軍四人、其の三は脱して還るを得、惟だ具仰竟に死す。
楊明楷なる者は、銅仁烏羅司の人なり。内莊の敗れ、明楷は中軍と為り、死を免る。後に魯欽に従い長田の賊を討ち、功最も、終に副総兵と為る。
五年正月、欽等師を旋し河を渡る。賊後より襲撃し、諸営尽く潰え、死者数千人。時に復一総督たり。而して朱燮元も亦た尚書として四川・湖広・陝西諸軍を督す。以て故に復一の節制境外に行われず。欽等深入すも、四川・雲南の兵皆至らず。復一自ら劾し、因って事権一ならざるを論じ、故に敗る。巡按御史傅宗龍も亦た以て言と為す。廷議燮元を移して河道を督せしめ、復一をして専ら五路の師を督せしむ。御史楊維垣独り燮元易うべからずと言う。帝之に従い、復一の任を解きて勘を聴かしめ、而して王瑊を右僉都御史と為し、代わりて貴州を撫せしむ。
復一代を候い、仍兵事に拮据し、宗龍と計り、烏粟・螺蝦・長田及び両江十五砦の叛苗を剿破し、七百余級を斬る。賊党安効良首めて邦彦を助け沾益を陥す。雲南巡撫沈儆炌兵を遣わして之を討つも、未だ定まらず、侍郎に遷り去る。代わる者閔洪学、之を招撫すも、亦た未だ定まらず。是に及びて雲南の出師を見、懼れ、邦彦と約して曲靖・尋甸を犯す。復一許成名を遣わして往き援わしむ。賊風を望みて遁る。又た劉超等を遣わして平越の苗阿秩等を討たしめ、百七十砦を破り、二千三百有奇の級を斬る。十月に至り、復一平越の軍中に卒す。訃聞き、帝其の忠勤を嘉し、兵部尚書を贈り、謚して清憲と曰い、一子に官を任ず。
復一古を好み博学、文を属するに善く、耿介として大節を負う。既に歿し、橐に遺貲無し。
瑊既に至り、邦彦平らぎ易からざるを見、解き去らんと欲す。魏党李魯生に夤縁し、南京戸部右侍郎に遷る。崇禎初、劾せられて帰る。流賊応城を陥し、害に遇う。
沈儆炌、字は叔永、帰安の人。父子木、官は南京右都御史。儆炌萬暦十七年の進士に登る。歴て河南左布政使、入りて光禄卿と為る。四十七年、右副都御史として雲南を巡撫す。神宗末、詔して歳貢の黄金二千を増す。儆炌疏を上りて争う。会に光宗立ち、其の請の如くす。
雲龍州の土舎段進志、永昌・大理を掠む。儆炌之を討ち擒う。安邦彦反し、諸土目並び起つ。安効良沾益を陥し、李賢平夷を陥し、禄千鐘尋甸・嵩明を犯し、張世臣武定を攻め、邦彦の女弟設科曲靖を掠め、転じて陸涼を寇す。儆炌故参将雲南の人袁善を起し、守備金為貴・土官沙源等を率い馳せて嵩明を救わしめ、之を大破す。賊転じて尋甸を寇し、復た大いに敗れて去る。乃ち善の故官を復し、諸将と分かち賊を討たしめ、数功有り。会に儆炌南京兵部右侍郎に遷り、而して代わる者閔洪学至る。乃ち兵事を之に委して去る。後に拝して南京工部尚書と為るも、魏忠賢の党石三畏に劾せられ、職を落とし閑住す。崇禎初、官を復し、家に卒す。子允培、礼科都給事中。
洪学既に至り、亦た袁善を用う。賊普安を陥し、安南を囲む。善之を攻め破り、上六衛の道を通ず。王三善の歿するや、六衛復た梗まる。善御史傅宗龍を護り黔に赴き、道復た通ず。已にして安効良を沾益に敗り、又た賊を炎方・馬龍に敗る。七年、御史朱泰禎武定・嵩明・尋甸の賊を破る功を核め上る。大小百三十三戦、四千六百余級を斬る。捷を宣し廟に告げんことを請う。之に従う。魏忠賢等並びに秩を進め、子を蔭す。善に都督同知を加え、世に錦衣指揮僉事を蔭す。崇禎初、官に卒す。
周鴻図、字は子固、即墨の人。歳貢生より起家し、宿遷県を知る。侯恂の薦に以て、貴陽同知に遷り、軍事を監紀し、軍功を積みて知府に至る。会に勻哈の叛苗と邦彦相倚りて乱を為す。天啓六年春、巡撫王瑊及び御史傅宗龍、胡従儀及び都司張雲鵬の軍を監せしめ、道を分かち山を捜し、向かう所摧破す。会に魯欽の敗を聞き、賊復た龍場に趨り邦彦を助く。已にして邦彦屡敗す。賊故巣に返る。鴻図・従儀等之を攻め、一百余寨を破り焚き、首千二百余級を斬る。鴻図副使に擢げられ、新鎮道を分巡す。従儀副総兵に進む。当是の時、鴻図平越に駐し、下六衛を轄す。参議段伯炌安荘に駐し、上六衛を轄す。千余里の間、奸宄屏息す。両人の力なり。鴻図終に陝西参政。
伯炌、雲南晉寧の人。郷挙より鎮寧知州と為る。力をもって安邦彦を拒ぎ、超擢して僉事と為り、鎮寧を分巡す。邦彦普定を寇す。従儀と偕に之を撃ち破り、此れより参議に擢ぐ。
賛して曰く、奢・安の乱、窃かに蜀に発し、黔に蔓延し、師を労する者幾十載。燮元之を兵威をもって戡し、俗に因り制を宜しくし、屯を開き衛を設け、亟亟として其の地を郡県するに非ず、以て三善の覆轍を蹈まず。而して西南此れより永寧を滋し、庶幾くは趙営平の羌を制し、韋南康の蜀を鎮むるに方ぶべきか。