明史

列傳第一百三十六 梅之煥 劉策 李若星 耿如杞 顏繼祖 李繼貞 方震孺 徐從治

列傳第一百三十六 梅之煥 劉策 李若星 耿如杞 顏繼祖 李繼貞 方震孺 徐從治

原文列傳第一百三十六 梅之煥 劉策 李若星 耿如杞 顏繼祖 李繼貞 方震孺 徐從治

○梅之煥劉策(徐縉芳陳一元)李若星耿如杞(胡士容)顏繼祖(王應豸等)李繼貞方震孺徐從治(謝璉余大成等)

原文○梅之煥劉策(徐縉芳陳一元)李若星耿如杞(胡士容)顏繼祖(王應豸等)李繼貞方震孺徐從治(謝璉余大成等)

梅之煥

原文梅之煥

梅之煥、字あざなは彬父、麻城の人、侍郎梅國楨の從子なり。十四歳にして諸生となる。御史が部を行き武を閱するに、之煥馬に騎りて教場に突入す。御史怒り、材官と角射せしむるを命ず。九発九中し、長揖して馬に上りて去る。

原文梅之煥,字彬父,麻城人,侍郎國楨從子也。年十四為諸生。御史行部閱武,之煥騎馬突教場。御史怒,命與材官角射,九發九中,長揖上馬而去。

萬歷三十二年進士に挙げられ、庶吉士に改む。七年居りて、吏科給事中を授かる。東廠太監李浚商人を誣いて拷す。之煥其の罪を劾す。尋ち上言す、「今天下民窮餉匱え、寇横り兵疲る。言官国事を捨てて時局を争い、部曹職掌を捨てて空言を建て、天下尽く虚文に束縛せらる。意有りて振刷せんとする者は、生事と曰わざれば、則ち苛求と曰う。事未だ就かざるに謗興り、法未だ伸びざるに怨集まり、豪傑心を灰にし、庸人拙を養い、国事将に為すべからざるに至らんとす。請う陛下厳に綜核して以て実事を責め、言路を通じて以て紀綱を重んじ、臧否を別ちて以て人才を惜しみ、庶幾くは国事に済わんことを」と。時に朝臣部党角立す。之煥廉觚自ら勝え、嘗て言う、「小人に附く者は必ず小人なり、君子に附く者は未だ必ずしも君子ならず。蠅の驥に附く、即ち千里と雖も猶お蠅のみ」と。時に故相張居正を追論する者有り。之煥曰く、「今日に名実を綜べ、紀綱を振うこと江陵の如き者有らば、𧬈訿の徒敢えてかくの如くせんや」と。其の持平して人に傅会せんと欲せざること此の如し。出でて広東副使と為り、豪民にして烈女を沈殺する者を擒え誅す。民其の神なるに服す。海寇袁進潮州を掠む。之煥海道を扼し、其の党を散じ招き、遂に進を降す。山東学政を視るに改む。天啓元年通政参議を以て召され太常少卿に遷り、右僉都御史に擢てられ、南・贛を巡撫す。内外艱に丁り、家居す。此の時に当たり、魏・客政を乱し、応山楊漣首めて忠賢の奸を発す。忠賢甚だ恚み、漣を拷殺す。此れより悍然として益々善類を誅鋤し、楚人を𢠼慀す。漣逮えらるる時、麻城を過ぐ。漣は罪人なり。之煥と盤桓流涕す、削籍すべしと謂う。其の実は漣未だ嘗て麻城を過ぎざるなり。未だ幾ばくもあらざるに、逆党梁克順贓私を以て誣う。詔して贓を征す。

原文萬歷三十二年舉進士,改庶吉士。居七年,授吏科給事中。東廠太監李浚誣拷商人,之煥劾其罪。尋上言:「今天下民窮餉匱,寇橫兵疲。言官舍國事爭時局,部曹舍職掌建空言,天下盡為虛文所束縛。有意振刷者,不曰生事,則曰苛求。事未就而謗興,法未伸而怨集,豪傑灰心,庸人養拙,國事將不可為矣。請陛下嚴綜核以責實事,通言路以重紀綱,別臧否以惜人才,庶於國事有濟。」時朝臣部黨角立,之煥廉觚自勝,嘗言:「附小人者必小人,附君子者未必君子。蠅之附驥,即千里猶蠅耳。」時有追論故相張居正者,之煥曰:「使今日有綜名實、振紀綱如江陵者,𧬈訿之徒敢若此耶?」其持平不欲傅會人如此。出為廣東副使,擒誅豪民沈殺烈女者,民服其神。海寇袁進掠潮州,之煥扼海道,招散其黨,卒降進。改視山東學政。天啟元年以通政參議召遷太常少卿,擢右僉都御史,巡撫南、贛。丁內外艱,家居。當此之時,魏、客亂政,應山楊漣首發忠賢之奸。忠賢恚甚,拷殺漣。由此悍然益誅鋤善類,𢠼慀楚人矣。謂漣被逮時,過麻城,漣罪人也,之煥與盤桓流涕,當削籍,其實漣未嘗過麻城也。無何,逆黨梁克順誣以贓私,詔征贓。

莊烈帝即位し、乃ち征を免じ、故官を起し、甘粛を巡撫す。大いに套寇を破り、首級七百余を斬り、部長三人を生得し、六百余人を降す。明年春、寇復た大いに入り、豌豆創を患い、大黄山を環りて病む。諸将掩うことを請う。之煥不可と曰く、「災を幸いとするは仁ならず、危きに乗ずるは武ならず。之を捨つるに如かず、因りて以て徳と為さん」と。遂に戦わず。一月を踰え、群寇辺城を望みて搏顙涕泣して去る。冬、京師戒厳す。詔有りて入衛す。将に行かんとし、西部虚に乗じて河西を犯す。之煥留まるを止め、兵を遣わして賀蘭山の後に伏せ、其の帰路を邀う。大兵水泉峽口を出で、再戦して再び之を敗り、首級八百四十有奇を斬り、軍を引きて東す。俄に悍卒王進才参将孫懐忠等を殺し以て叛き、蘭州に走る。之煥遂に西して其の変を定め、復た軍を整えて東す。明年五月京師に抵る。已に時を後る。詔有りて之煥朝に入る。翌日又た詔有りて之煥職を落とし候勘す。温体仁已に政を柄とす。初め、体仁錢謙益を訐つ。之煥書を中朝に移し、謙益を右す。此に至り、体仁隙を修む。之煥遂に罪を得。

原文莊烈帝即位,乃免征,起故官,巡撫甘肅。大破套寇,斬首七百餘級,生得部長三人,降六百餘人。明年春,寇復大入,患豌豆創,環大黃山而病。諸將請掩之,之煥不可,曰:「幸災不仁,乘危不武,不如舍之,因以為德焉。」遂不戰。逾月,群寇望邊城搏顙涕泣而去。冬,京師戒嚴,有詔入衛。且行,西部乘虛犯河西。之煥止留,遣兵伏賀蘭山後,邀其歸路,大兵出水泉峽口,再戰再敗之,斬首八百四十有奇,引軍東。俄悍卒王進才殺參將孫懷忠等以叛,走蘭州。之煥遂西定其變,復整軍東。明年五月抵京師,已後時矣,有詔之煥入朝。翌日又詔之煥落職候勘,溫體仁已柄政矣。初,體仁訐錢謙益,之煥移書中朝,右謙益。至是,體仁修隙,之煥遂得罪。

之煥文士と雖も、材武を負い、射を善くす。既に廢せられ、見る所無し。居る県は、山に阻まれて盗多し。之煥事無きときは、輒ち健児を率いて吏を助け捕らえ、脱する者無し。是に先立ち、甘粛兵変す。其の潰卒捕え誅さるるを畏れ、往往山谷の間に亡命し、群盗と為り、賊勢益々張る。此に至り、賊数万来たりて麻城を攻む。之煥の部署を見るに、輒ち引き去る。帝甘粛前後の功を追叙し、之煥の官を復し、子を蔭す。然れども終に召さず。明年病卒す。

原文之煥雖文士,負材武,善射,既廢,無所見。所居縣,阻山多盜。之煥無事,輒率健兒助吏捕,無脫者。先是,甘肅兵變,其潰卒畏捕誅,往往亡命山谷間,為群盜,賊勢益張。至是,賊數萬來攻麻城,望見之煥部署,輒引去。帝追敘甘肅前後功,復之煥官,蔭子,然終不召。明年病卒。

劉策

原文劉策

劉策、字は範董、武定の人。萬歷二十九年進士。保定新城知県より入りて御史と為り、疏を上りて太僕少卿徐兆魁を劾し、復た力めて熊廷弼の行勘及び湯賓尹の科場事を争う。賓尹家居すと雖も、遙かに朝柄を執り、其の党を嗾きて攻むる者孫振基・王時熙を逐わしむ。

原文劉策,字範董,武定人。萬歷二十九年進士。由保定新城知縣入為御史,疏劾太僕少卿徐兆魁,復力爭熊廷弼行勘及湯賓尹科場事。賓尹雖家居,遙執朝柄,嗾其黨逐攻者孫振基、王時熙。

已にして給事中劉文炳両淮巡塩御史徐縉芳を劾す。策葉向高の幕に入り、票擬を幹く。策の同官陳一元は向高の姻親、権利を顧みると言う。時に策宣・大を按ず。疏を上りて言う、「文炳は湯賓尹の死友、韓敬に代わりて反噬す。昔年奸を発すること振基・時熙の輩の如き、今皆安在にか」と。向高も亦た策私交無きを以て、辨雪す。文炳・策屢疏相詆む。南京御史呉良輔言う、「文炳一疏にして御史縉芳・一元・策及び李若星を弾じ、再疏にして詞臣蔡毅中・焦竑及び監司李維楨を弾ず。他の波及尚ほ多し。人才摧残すること甚だ易し。清品策の如き、雅望竑の如き、詆斥を免れず。天下寧くんぞ完人有らんや」と。策復た文炳を詆り、方従哲を倚りて冰山と為し、苟も一時の富貴を図り、清議を顧みずとす。一元銓政を論じ、嘗て向高を譏切す。時に江西を按ず。文炳の疏を見て憤り甚だし。遂に文炳の陰事を掲ぐ。且つ曰く、「向高行かんとす。今政を秉る者は従哲、文炳の郷人、奴顔婢膝、任せて好く之を為せ」と。御史馬孟楨も亦た言う、「敬の関節実に真なり。既に両侍郎・両給諫を斥け謝す。乃ち伉直の劉策、攻撃止まず。而同じく奸を発するの張篤敬、復た駆除将に及ばんとす。何ぞ甚だしきや」と。疏入るも、帝皆省みず。策憤り、病を謝して去る。時に兆魁・廷弼・賓尹の輩を攻むる者、党人率ね指目して東林と為し、年例を以て之を外に出だす。四十六年秋に至り、朝に在る者は已に逐う可き無し。乃ち即ち家に於て策を徙めて河南副使と為す。策疾を辞して赴かず。

原文已而給事中劉文炳劾兩淮巡鹽御史徐縉芳,言策入葉向高幕,幹票擬;策同官陳一元,向高姻親,顧權利。時策按宣、大,疏言:「文炳為湯賓尹死友,代韓敬反噬。昔年發奸如振基、時熙輩,今皆安在?」向高亦以策無私交,為辨雪。文炳、策屢疏相詆,南京御史吳良輔言:「文炳一疏而彈御史縉芳、一元、策及李若星,再疏而彈詞臣蔡毅中、焦竑及監司李維楨,他波及尚多。人才摧殘甚易,清品如策,雅望如竑,不免詆斥,天下寧有完人?」策復詆文炳倚方從哲為冰山,茍一時富貴,不顧清議。一元論銓政,嘗譏切向高,時按江西,見文炳疏,憤甚,遂揭文炳陰事。且曰:「向高行矣。今秉政者從哲,文炳鄉人,奴顏婢膝,任好為之。」御史馬孟楨亦言:「敬關節實真,既斥兩侍郎、兩給諫謝之矣。乃伉直之劉策,攻擊不休,而同發奸之張篤敬復驅除將及,何太甚也!」疏入,帝皆不省。策憤,謝病去。時攻兆魁、廷弼、賓尹輩者,黨人率指目為東林,以年例出之外。至四十六年秋,在朝者已無可逐,乃即家徙策為河南副使,策辭疾不赴。

天啓元年春、天津兵備を起す。右僉都御史に擢てられ、山西を巡撫す。召されて兵部右侍郎を拝し、戎政を協理す。五年冬、党人策を劾して東林の遺奸と為す。遂に削籍す。崇禎二年夏、故官を起し、右僉都御史を兼ね、薊・遼・保定軍務を総理す。大清兵大安口より由りて内地に入る。策禦ぐ能わず、劾せらる。祖大寿東に潰く。策孫承宗に偕い招きて還らしむ。明年正月総兵張士顯と並び逮えらる。死を論じ、市に棄つ。

原文天啟元年春,起天津兵備。擢右僉都御史,巡撫山西。召拜兵部右侍郎,協理戎政。五年冬,黨人劾策為東林遺奸,遂削籍。崇禎二年夏,起故官,兼右僉都御史,總理薊、遼、保定軍務。大清兵由大安口入內地,策不能禦,被劾。祖大壽東潰,策偕孫承宗招使還。明年正月與總兵張士顯並逮,論死,棄市。

縉芳は晋江の人。御史と為り、首めて顧憲成の謚を請い、天津税監馬堂の九大罪を劾し、敢言の名有り。両淮を巡り、頗る賓客賂遺を通ず。劾せられ、贓に坐す。天啓中、戍に遣わさる。

原文縉芳,晉江人。為御史,首為顧憲成請謚,劾天津稅監馬堂九大罪,有敢言名。巡兩淮,頗通賓客賂遺,被劾,坐贓。天啟中,遣戍。

一元は侯官の人。江西に在り、饑を振うに法有り。疾を移して去る。天啓初め、起きて歴り応天府丞と為る。御史余文縉向高を劾し、一元に及ぶ。遂に落職す。崇禎初め、官を復す。温体仁国を柄とし、其の東林に附くを悪む。而して己が門生と為すを以て、嫌を引きて召さず。家に卒す。

原文一元,侯官人。在江西,振饑有法。移疾去。天啟初,起歷應天府丞。御史余文縉劾向高,及一元,遂落職。崇禎初,復官。溫體仁柄國,惡其附東林,而以為己門生也,引嫌不召。卒於家。

李若星

原文李若星

李若星、字は紫垣、息県の人。万暦三十二年進士。棗強・真定の知県を歴任。御史に抜擢され、まず南京兵部尚書黄克纘を弾劾した。庫蔵を巡視し、国を蝕み商を害する四つの弊害を陳述し、十庫の出納を稽査して侵漁を杜絶することを請うたが、回答はなかった。山西を巡按し、税使の撤廃を請うた。ついで再び克纘が沈一貫の私党であり湯賓尹の死友であることを弾劾し、罷免すべきと論じたが、聞き入れられなかった。還朝し、出向して福建右参議となり、病を理由に帰郷した。

原文李若星,字紫垣,息縣人。萬歷三十二年進士。歷知棗強、真定。擢御史,首劾南京兵部尚書黃克纘。巡視庫藏,陳蠹國病商四弊,請得稽十庫出納,以杜侵漁,不報。巡按山西,請撤稅使。因再劾克纘為沈一貫私人、湯賓尹死友,宜罷,不從。還朝,出為福建右參議,移疾歸。

天啓初年、陝西で起用され、尚宝少卿に召され、さらに大理右少卿に転じた。三年春、右僉都御史として甘粛を巡撫した。陛辞の際、魏忠賢・客氏の奸悪を告発した。翌年、将の丁孟科・官維賢を遣わして河套松山の諸部鎮番を撃ち、二百四十余級を斬首した。捷報が聞こえると、叙勲されぬうちに、若星が義兵を起こして君側の悪を清めようとするという風説が流れた。忠賢はこれを聞き、ただちに許顕純に命じて汪文言の獄詞に組み込み、趙南星に賄賂して節鉞を得たと誣告させた。五年三月、ついに若星の名を削除し、河南の巡撫・巡按に取り調べさせた。翌年、獄が上奏され、百回の杖刑に処し、廉州に流罪とした。

原文天啟初,起官陜西,召為尚寶少卿,再遷大理右少卿。三年春,以右僉都御史巡撫甘肅。陛辭,發魏忠賢、客氏之奸。明年,遣將丁孟科、官維賢擊河套松山諸部鎮番,斬首二百四十餘級。捷聞,未敘,有傳若星將起義兵清君側之惡者。忠賢聞之,即令許顯純入之汪文言獄詞,誣其賄趙南星,得節鉞。五年三月遂除若星名,下河南撫按提問。明年,獄上,杖之百,戍廉州。

荘烈帝が即位すると、赦されて還った。崇禎元年、工部右侍郎兼右僉都御史に起用され、河道を総理した。甘粛での功績を追論され、二品に進んだ。黄河が大決壊し、泗州を水没させ、睢寧城を沈めた。若星は祖陵を修築し、睢寧県治を他所に移すことを請い、聞き入れられた。都城が戒厳すると、兵を派遣して守衛に加わらせた。病で帰郷し、父の喪に遭った。久しくして、兵部右侍郎に召された。十一年、本官のまま右僉都御史を兼ね、朱燮元に代わって川・湖・雲・貴の軍務を総督し、貴州巡撫を兼ねた。安位の残党安隴璧及び苗仲の諸賊を討伐して功績があった。

原文莊烈帝即位,赦還。崇禎元年,起工部右侍郎兼右僉都御史,總理河道。追論甘肅功,進秩二品。黃河大決,淹泗州,沒睢寧城。若星請修祖陵,移睢寧縣治他所,從之。都城戒嚴,遣兵入衛。病歸,遭父憂。久之,召為兵部右侍郎。十一年,以本官兼右僉都御史,代朱燮元總督川、湖、雲、貴軍務,兼巡撫貴州。討安位余孽安隴璧及苗仲諸賊有功。

福王の時、解職した。郷里が荒廃したため、貴州に寓居した。桂王が武岡に遷ると、吏部尚書に召された。赴任せず、乱に遭い、兵乱の中で死んだ。

原文福王時,解職。以鄉邑殘破,寓居貴州。桂王遷武岡,召為吏部尚書。未赴,遭亂,死於兵。

耿如杞

原文耿如杞

耿如杞、字は楚材、館陶の人。万暦四十四年進士。戸部主事に任じられた。

原文耿如杞,字楚材,館陶人。萬歷四十四年進士。除戶部主事。

天啓初年、才能により職方郎中を歴任した。軍書が錯綜し、日に数十件の事に対応した。出向して陝西参議となり、遵化兵備副使に転じた。この時、逆奄が権柄を窃み、諂う者は手段を選ばず、祠を建てて福を祈った。巡撫劉詔は忠賢の画像を喜峰行署に掲げ、文武の将吏を率いて五拝三叩頭し、九千歳と呼んだ。如杞はその像が冕旒を着けているのを見て、軽く揖するだけで出て行った。忠賢は詔に弾劾させ、詔獄に捕らえ、贓六千三百を着せられ、死罪と論じられた。

原文天啟初,以才歷職方郎中。軍書旁午,日應數十事。出為陜西參議,遷遵化兵備副使。當是時,逆奄竊柄,諂子無所不至,至建祠祝禧。巡撫劉詔懸忠賢畫像於喜峰行署,率文武將吏五拜三稽首,呼九千歲。如杞見其像,冕旒也,半揖而出。忠賢令詔劾之,逮下詔獄,坐贓六千三百,論死。

時にまた胡士容という者がいた、薊州参議であり、郷官の崔呈秀にたびたび逆らい、呈秀はこれを恨んだ。忠賢のために祠を建てようとした時、士容はまた命に従わなかった。士容が江西副使に転じ、通州を通った時、多量の駅馬を乗り継ぎ、倉儲を侵盗したと誣告し、詔獄に捕らえて拷問し、贓七千を着せられ、死罪と論じられた。

原文時又有胡士容者,薊州參議也,數忤其鄉官崔呈秀,呈秀銜之。將為忠賢建祠,士容又不奉命。及士容遷江西副使,道通州,遂誣以多乘驛馬,侵盜倉儲,捕下詔獄掠治,坐贓七千,論死。

秋になり、刑を執行しようとした時、荘烈帝が即位し、崔・魏が相次いで誅殺された。帝は言った、「廠衛が深文を弄し、附会して鍛錬するのは、朕は深く痛む。耿如杞を赦し、原官に復せよ。胡士容らは改めて擬議せよ」。そこで如杞は上疏して言った、「臣が鎮撫司に入って以来、五毒を並施され、縛られて市曹に赴く者は、日に聞こえております。幸いに皇上が臣を赦して死なせず、驚魂やや定まりました。乞う、臣を放ち帰家させて疾を養わせてください」。帝は許さず、ただちに如杞を右僉都御史に抜擢し、山西を巡撫させた。

原文至秋,將行刑,而莊烈帝即位,崔、魏相繼伏誅。帝曰:「廠衛深文,附會鍛煉,朕深痛焉。其赦耿如杞,予復原官。胡士容等改擬。」於是如杞上疏言:「臣自入鎮撫司,五毒並施,縛赴市曹者,日有聞矣。幸皇上赦臣以不死,驚魂粗定,乞放臣還家養疾。」帝不許,立擢如杞右僉都御史,巡撫山西。

插漢の虎墩兔が順義王の地を占拠し、辺境の患いとなり、戦うか和するか定策がなかった。如杞は辺境を守ることを上策とし、塞垣を修築し、戦塁を繕い、山を削り谷に塹を設け、事が順調に進んだ。二年、京師が戒厳すると、如杞は総兵官張鴻功を率いて兵五千人を率いて援軍に赴き、先に京師に着いた。軍令では、兵が到着した翌日、汛地が定まってからでなければ糧餉を与えない。如杞の兵は到着すると、兵部は通州を守らせ、翌日は昌平に調動し、また翌日は良郷に調動し、汛地が累次変更され、軍は三日間糧餉を得られず、騒いで大掠奪した。帝はこれを聞き、大いに怒り、詔して如杞・鴻功を逮捕させ、廷臣で救おうとする者はなかった。四年、ついに西市で斬られた。

原文插漢虎墩兔據順義王地,為邊患,戰款無定策。如杞言守邊為上,修塞垣,繕戰壘,鏟山塹谷,事有緒矣。二年,京師戒嚴,如杞率總兵官張鴻功以卒五千人赴援,先至京師。軍令,卒至之明日,汛地既定,而後乃給餉。如杞兵既至,兵部令守通州,明日調昌平,又明日調良鄉,汛地累更,軍三日不得餉,乃噪而大掠。帝聞之,大怒,詔逮如杞、鴻功,廷臣莫敢救者。四年竟斬西市。

かつて如杞が職方郎であった時、主事鹿善継とともに張鶴鳴に与し、熊廷弼を排して王化貞を庇い、辺境の事はこれにより大いに壊れた。そしてこの時に罪を得たのである。

原文方如杞之為職方郎也,與主事鹿善繼黨張鶴鳴,排熊廷弼而庇王化貞,疆事由是大壞,及是得罪。

士容は獄から釈放されると、二年に陝西副使に任じられ、右参政に進み、官のまま卒した。士容は初め長洲県令となり、豪悪を捕らえ、婁江の石塘を築き、政声があった。

原文士容既釋出獄,二年除陜西副使,進右參政,卒於官。士容初令長洲,捕豪惡,築婁江石塘,有政聲。

福王の時、如杞に右僉都御史を追贈した。子の章光は進士、尚宝卿となった。士容、字は仁常、広済の人。

原文福王時,贈如杞右僉都御史。子章光,進士,尚寶卿。士容,字仁常,廣濟人。

顔継祖

原文顏繼祖

顔継祖、漳州の人。万暦四十七年進士。工科給事中を歴任した。崇禎元年正月、工部の冗員及び三殿の叙功の濫れを論じ、加秩寄俸の二百余人を淘汰した。また魏忠賢一派の李魯生・霍維華の罪状を極論した。また御史の袁弘勛という者がおり、大学士劉鴻訓を弾劾し、錦衣の張道浚がこれを助けた。継祖は二人が邪党と結び政を乱すと論じ、重く創らなければ禍いは極まりないと言った。帝はいずれもその言を採用した。

原文顏繼祖,漳州人。萬歷四十七年進士。歷工科給事中。崇禎元年正月,論工部冗員及三殿敘功之濫,汰去加秩寄俸二百餘人。又極論魏黨李魯生、霍維華罪狀。又有御史袁弘勛者,劾大學士劉鴻訓,錦衣張道浚佐之。繼祖言二人朋邪亂政,非重創,禍無極。帝皆納其言。

工科右給事中に転じた。三年、京城十六門の濠塹を巡視し、八事を疏に列挙し、監督主事方応明の職務怠慢を弾劾した。帝は応明を杖罰して罷免した。外城が低く薄いため、高く厚くすることを議したが、継祖は時勢が逼迫して余裕がないことを挙げて中止させた。再び吏科都給事中に転じ、時事の十大弊を疏陳した。憂いにより帰郷した。

原文遷工科右給事中。三年,巡視京城十六門濠塹,疏列八事,劾監督主事方應明曠職。帝杖斥應明。外城庳薄,議加高厚,繼祖言時絀難舉贏而止。再遷吏科都給事中,疏陳時事十大弊。憂歸。

八年に元の官に起用され、上言した。「六部の政務は尚書が管掌し、諸司の事務は正郎が掌握するが、侍郎及び副郎・主事はただ列座して署名するのみで、政事が廃れないはずがあろうか。督撫諸臣で罪を得る者が相次ぐが、当初は皆会推によるものである。しかし会推はただ六科の掌印官が主となり、卿貳・台臣はほとんど出席しない。また九卿・台諫はただ選郎に伝言させるのみで、唯諾はあっても異議はなく、どうして会推と言えようか。」帝は善しとした。

原文八年起故官,上言:「六部之政筦於尚書,諸司之務握之正郎,而侍郎及副郎、主事止陪列畫題,政事安得不廢?督撫諸臣獲罪者接踵,初皆由會推。然會推但六科掌篆者為主,卿貳、臺臣罕至。且九卿、臺諫止選郎傳語,有唯諾,無翻異,何名會推?」帝稱善。

まもなく太常少卿に抜擢され、右僉都御史として山東を巡撫した。兵を分けて境上を扼し、河南の賊は青州・済南を窺うことができなかった。前任の巡撫李懋芳が軍餉二万有余を侵食したことを弾劾し、詔旨により嘉奨された。十一年、畿輔が戒厳となり、継祖に德州への移駐を命じた。当時、麾下の兵卒はわずか三千で、兵部尚書楊嗣昌の命令により、五十日の間に三度も配置転換させられた。後に德州の専防を命じられたため、済南はこれにより空虚となった。継祖はしばしば諸将の劉沢清・倪寵らに赴援を命じるよう請願したが、皆逗留して進まなかった。翌年正月、大清兵が済南を陥落させ、徳王を捕らえた。継祖一人では両方を顧みることができず、言官が相次いで継祖を弾劾した。継祖は嗣昌を咎め、かつ言った。「臣の兵は少なく力は弱く、徳州を守った功績に安住することはできず、済南を失った罪責を分かち合わないわけにはいきません。朝廷に爵禄を還し、父母に骸骨を還すことを請います。」帝は従わず、捕らえて獄に下し、市で処刑した。

原文尋擢太常少卿,以右僉都御史巡撫山東。分兵扼境上,河南賊不敢窺青、濟。劾故撫李懋芳侵軍餉二萬有奇,被旨嘉獎。十一年,畿輔戒嚴,命繼祖移駐德州。時標下卒僅三千,而奉本兵楊嗣昌令,五旬三更調。後令專防德州,濟南由此空虛。繼祖屢請敕諸將劉澤清、倪寵等赴援,皆逗遛不進。明年正月,大清兵克濟南,執德王。繼祖一人不能兼顧,言官交章劾繼祖,繼祖咎嗣昌,且曰:「臣兵少力弱,不敢居守德之功,不敢不分失濟之罪。請以爵祿還朝廷,以骸骨還父母。」帝不從,逮下獄,棄市。

崇禎朝を通じて、巡撫で殺戮された者は十一人いた。薊鎮の王応豸、山西の耿如杞、宣府の李養沖、登萊の孫元化、大同の張翼明、順天の陳祖苞、保定の張其平、山東の顔継祖、四川の邵捷春、永平の馬成名、順天の潘永図である。また河南の李仙風は捕らえられて自縊したが、これには含まれない。

原文終崇禎世,巡撫被戮者十有一人:薊鎮王應豸,山西耿如杞,宣府李養沖,登萊孫元化,大同張翼明,順天陳祖苞,保定張其平,山東顏繼祖,四川邵捷春,永平馬成名,順天潘永圖,而河南李仙風被逮自縊,不與焉。

王応豸は掖県の人である。戸部主事となり、魏忠賢に諂い、わずか三年で急に巡撫に至り、右都御史を加えられた。崇禎二年春、薊州の兵卒が糧餉を要求し、騒ぎ立てて武装した。参政徐従治がその衆を諭して解散させた。応豸は飯に毒を入れ、誘い出して皆殺しにしようとしたため、諸軍が再び大いに乱れた。帝は巡按方大任に命じてその糧餉横領の実情を調査させ、死罪に処した。

原文王應豸,掖縣人。為戶部主事,諂魏忠賢,甫三歲,驟至巡撫,加右都御史。崇禎二年春,薊卒索餉,噪而甲,參政徐從治諭散其眾。應豸置毒飯中,欲誘而盡殺之,諸軍復大亂。帝命巡按方大任廉得其克餉狀,論死。

李養沖は永年の人である。兵部右侍郎を歴任し、宣府を巡撫した。崇禎二年に既に職を辞した後、御史呉玉がその撫賞銀七万両を侵盗したこと、及び功績を詐称し敗戦を隠蔽した諸状況を弾劾した。死罪に処せられ、獄中で死んだ。

原文李養沖,永年人。歷兵部右侍郎,巡撫宣府,崇禎二年既謝事,御史吳玉劾其侵盜撫賞銀七萬,及冒功匿敗諸狀。論死,斃於獄。

張翼明は永城の人である。兵部右侍郎として大同を巡撫した。崇禎元年、插漢の虎墩兔が侵入し、殺戮略奪は万を数えた。翼明及び総兵官渠家楨は防禦できず、ともに死罪に処せられた。

原文張翼明,永城人。以兵部右侍郎巡撫大同。崇禎元年,插漢虎墩兔入犯,殺掠萬計。翼明及總兵官渠家楨不能禦,並坐死。

陳祖苞は海寧の人である。崇禎十年、右副都御史として順天を巡撫した。翌年、事を失った罪で獄に繋がれ、毒を飲んで死んだ。帝は祖苞が刑を免れたことを怒り、その子の編修陳之遴を終身禁錮に処し、永久に叙用しなかった。

原文陳祖苞,海寧人。崇禎十年,以右副都御史巡撫順天,明年坐失事繫獄,飲鴆卒。帝怒祖苞漏刑,錮其子編修之遴,永不敘。

張其平は偃師の人である。右僉都御史を歴任し、保定を巡撫した。十一年冬、管轄する県邑での損失が多かった罪により、継祖とともに西市で並んで処刑された。

原文張其平,偃師人。歷右僉都御史,巡撫保定。十一年冬,坐屬邑失亡多,與繼祖駢死西市。

馬成名は溧陽の人である。潘永図は金壇の人で、成名と姻戚関係にあった。崇禎十四年冬、成名は右僉都御史として永平を巡撫した。永図も昌平兵備僉事に起用され、一年も経たないうちに巡撫に至った。畿輔が兵乱に遭い、成名・永図はともに軍機を失った罪で、十六年に西市で斬られた。その他はそれぞれ伝がある。

原文馬成名,溧陽人。潘永圖,金壇人,與成名為姻婭。崇禎十四年冬,成名以右僉都御史巡撫永平。永圖亦起昌平兵備僉事,未浹歲,至巡撫。畿輔被兵,成名、永圖並以失機,十六年斬西市。余自有傳。

李継貞

原文李繼貞

李継貞は、字を征尹といい、太倉州の人である。万暦四十一年の進士。大名推官に任じられ、兵部職方主事に歴遷した。天啓四年秋、山東で典試を務め、試録が魏忠賢を諷刺した罪で降級され、やがて官籍を削られた。

原文李繼貞,字征尹,太倉州人。萬歷四十一年進士。除大名推官,歷遷兵部職方主事。天啟四年秋,典試山東,坐試錄刺魏忠賢,降級,已而削籍。

崇禎元年、武選員外郎に起用され、職方郎中に進んだ。当時軍書が頻繁に往来し、職方司は特に郎中を増設し、司事を協理させた。継貞は才幹に優れ敏速で、尚書熊明遇は深く頼り信頼し、「副将以下を推挙選抜するのは、私が承認するだけだ」と言った。四年、孔有徳が山東で反乱を起こすと、明遇は招撫を主張したが、継貞は不可を疏陳し、さらに関外の兵を調発して討伐に入れるよう請願した。明遇は従えなかったが、後についにその言葉を用いて賊を滅ぼした。初め、延綏で盗賊が起こると、継貞は国庫の金を出し、董摶霄の人運法を用いて、米を買い軍前に輸送するよう請願した。また四方の贖罪金や捐納事例による者は、辺境に粟を輸送して飢民を撫恤するよう命じた。また言った。「兵法は撫・剿を併用するが、賊を撫するのではなく、賊に従った飢民を撫するのである。今、一斗の米が四銭であり、既に賊に従った者はまだ少ないが、未だ賊に従わず、勢い必ず賊に従う者は無限である。神宗皇帝が特に御史を派遣して救済された故事のように、三十万石を持って行き、飢民を安んじて集め、賊とならせず、賊の勢力を孤立させることを請う。」帝はその言葉に感じ、御史呉甡に十万金を持たせて派遣した。継貞は少ないと思ったが、帝は聞き入れず、後、賊は果たして日に日に勢いを増した。

原文崇禎元年,起武選員外郎,進職方郎中。時軍書旁午,職方特增設郎中,協理司事。繼貞幹用精敏,尚書熊明遇深倚信之,曰:「副將以下若推擇,我畫諾而已。」四年,孔有德反山東,明遇主撫,繼貞疏陳不可,且請調關外兵入剿。明遇不能從,後訖用其言滅賊。初,延綏盜起,繼貞請發帑金,用董摶霄人運法,糴米輸軍前。且令四方贖鍰及捐納事例者,輸粟於邊,以撫饑民。又言:「兵法撫、剿並用,非撫賊也,撫饑民之從賊者耳。今鬥米四錢,已從賊者猶少,未從賊而勢必從賊者無窮。請如神廟特遣御史振濟故事,賫三十萬石以往,安輯饑民,使不為賊,以孤賊勢。」帝感其言,遣御史吳甡以十萬金往。繼貞少之,帝不聽,後賊果日熾。

継貞は人となり強情で、職務において清廉で固執し、私的な請託を行わせなかった。大学士周延儒は継貞の同年の生まれで、継貞に総兵官を推挙するよう頼んだ。継貞は目を見開いて断り、「私が命に従わなければ、必ず罪を得るでしょう。刑部の獄はとても広いので、継貞を容れることができます」と言った。延儒はこれを恨んだ。やがて尚宝寺卿を加えられた。昇任すべき時、帝はいつも長期在任を命じた。田貴妃の父田弘遇は門功により優遇された叙任を求めたが得られず、しばしば上疏して継貞を誹謗したが、帝は聞き入れなかった。宦官曹化淳は私的な者を使いの把総にしようとしたが、継貞は認めなかった。そこで戎政尚書陸完学に頼み、尚書張鳳翼を通じて継貞に命じさせようとしたが、継貞もまた認めなかった。鳳翼は継貞の意見を退けてその者を用いた。化淳は怒り、弘遇とともに日々その隙を窺い、帝に讒言し、小さな過失に坐して三階級降格させられた。ちょうど甘肅の功績を叙する際、継貞が前任の巡撫梅之煥を起用するよう請願したため、帝は遂に怒り、継貞の官籍を削った。やがて四川桃紅壩の功績を論じ、官職を回復し、致仕した。

原文繼貞為人強項,在事清執,請謁不得行。大學士周延儒,繼貞同年生,屬總兵官於繼貞。繼貞瞠目謝曰:「我不奉命,必獲罪。刑部獄甚寬,可容繼貞也。」延儒銜之。已,加尚寶寺卿。當遷,帝輒令久任。田貴妃父弘遇以坐門功求優敘不獲,屢疏詆繼貞,帝不聽。中官曹化淳欲用私人為把總,繼貞不可;乃囑戎政尚書陸完學言於尚書張鳳翼以命繼貞,繼貞亦不可,鳳翼排繼貞議而用之。化淳怒,與弘遇日伺其隙,讒之帝,坐小誤,貶三秩。會敘甘肅功,繼貞請起用故巡撫梅之煥,帝遂發怒,削繼貞籍。已,論四川桃紅壩功,復官,致仕。

十一年に推薦により起用され、両京の尚宝卿を歴任した。翌年春、召対に応じ、水利・屯田について非常に詳しく陳述し、順天府丞に転じた。まもなく超えて兵部右侍郎兼右僉都御史に任じられ、天津を巡撫し、薊・遼の軍餉を監督した。そこで大いに屯田を興し、経地・招佃・用水・任人・薄賦の五議を上奏した。白塘・葛沽の数十里の間で、田畑が大いに実った。

原文十一年用薦起,歷兩京尚寶卿。明年春召對,陳水利屯田甚悉,遷順天府丞。尋超拜兵部右侍郎兼右僉都御史,巡撫天津,督薊、遼軍餉。乃大興屯田,列上經地、招佃、用水、任人、薄賦五議。白塘、葛沽數十里間,田大熟。

十四年の冬、詔して水師を発して遼を援けしむるも、戦艦整わざるを坐し、除名せらる。翌年の夏、召されて兵部添註右侍郎と為る。疾を得て、途上に卒す。この夕、星中庭に隕つ。右都御史を贈られ、一子に官す。

原文十四年冬,詔發水師援遼,坐戰艦不具,除名。明年夏,召為兵部添註右侍郎。得疾,卒於途。是夕,星隕中庭。贈右都御史,官一子。

方震孺

原文方震孺

方震孺、字は孩未、桐城の人、家を寿州に移す。万暦四十一年進士。沙県知県より入りて御史と為る。

原文方震孺,字孩未,桐城人,移家壽州。萬歷四十一年進士。由沙縣知縣入為御史。

熹宗位を嗣ぐ、逆璫魏忠賢内に客氏と結ぶ。震孺疏を上し三朝の艱危を陳べ、言う「宮妾近侍は、嚬笑仮り易く、間を窺うは慮るべし。中旨頻りに宣べらるるは、斜封の隠禍を蹈まんことを恐る」と。元年に『抜本塞源論』を陳べて曰く「曩に梃撃の案に、王之寀・陸大受・張庭・李俸悉く廃斥に遭い、而して東林の趙南星・高攀龍・劉宗周諸賢は、廃錮終身す、亟に召復すべし。楊漣の移宮を争うに至りては、幸いに罪無かるべし、何ぞ以てか功有るの説有り、又交通の疑有らんや。将に天下後世をして堯・舜上に在りて、交通矯旨の閹宦有りと謂わしめんとす」と。疏入り、直声朝廷に震う。その春南城を巡視す。中官張曄・劉朝訟われ、忠賢為に請うも、震孺従わず、遂に上聞に上り、忠賢益々恚怨す。

原文熹宗嗣位,逆珰魏忠賢內結客氏。震孺疏陳三朝艱危,言:「宮妾近侍,嚬笑易假,窺間可慮。中旨頻宣,恐蹈斜封隱禍。」元年陳《拔本塞源論》曰:「曩者梃擊之案,王之寀、陸大受、張庭、李俸悉遭廢斥,而東林如趙南星、高攀龍、劉宗周諸賢,廢錮終身,亟宜召復。至楊漣之爭移宮,可幸無罪,不知何以有居功之說,又有交通之疑?將使天下後世謂堯、舜在上,而有交通矯旨之閹宦。」疏入,直聲震朝廷。其春巡視南城。中官張曄、劉朝被訟,忠賢為請,震孺不從,卒上聞,忠賢益恚怨。

遼陽既に破れ、震孺一日に十三疏し、巡撫の増設、海運の通漕、辺兵の調発、司馬の更易を請う。日五鼓に公卿の門を撾ち、籌画して痛哭し、而して自ら師を犒うことを請う。是の時、三岔河以西四百里、人煙絶え、軍民尽く竄し、文武将吏一騎東する者無し。帝其の言を壮とし、帑金二十万を発し震孺に師を犒わしむ。六月、震孺関を出で、将士に延見し、死を弔い傷を扶け、軍民大いに悦ぶ。因りて上言す「河広さ七十歩に過ぎず、一葦以て航すべく、驚濤怒浪の険有るに非ず、恃むに足らざる者一なり。兵来たり、木を斬りて排と為し、土を以て浮かべ、多人之を推せば、平地を履むが如し、恃むに足らざる者二なり。河代子河に遠からず、兵代子より径ちに渡らば、河を守るの卒二万に満たず、能く其の半渡を望みて之を遏がんや。恃むに足らざる者三なり。河に沿うこと百六十里、城を築けば則ち能わず、柵を列ねれば則ち用無し、恃むに足らざる者四なり。黄泥窪・張叉站沖浅の処は、守りを修むる可し、今地我に有るに非ず、恃むに足らざる者五なり。転眼氷合し、遂に平地と成り、間次に防を置くも、猶五十万人を得べく、兵何れのより来たらん。恃むに足らざる者六なり」と。又言う「我退を以て守りと為せば、則ち守り足らず;我進を以て守りと為せば、則ち守り余り有り。専ら三岔を倚りて家と為すは、万一時事偶に非ざれば、榆関一線遂に薊門を鎖すに足らんや」と。疏入り、帝震孺をして遼東を巡按し、軍事を監紀せしむ。

原文遼陽既破,震孺一日十三疏,請增巡撫,通海運,調邊兵,易司馬。日五鼓撾公卿門,籌畫痛哭,而自請犒師。是時,三岔河以西四百里,人煙絕,軍民盡竄,文武將吏無一騎東者。帝壯其言,發帑金二十萬震孺犒師。六月,震孺出關,延見將士,吊死扶傷,軍民大悅。因上言:「河廣不七十步,一葦可航,非有驚濤怒浪之險,不足恃者一。兵來,斬木為排,浮以土,多人推之,如履平地,不足恃者二。河去代子河不遠,兵從代子徑渡,守河之卒不滿二萬,能望其半渡而遏之乎?不足恃者三。沿河百六十里,築城則不能,列柵則無用,不足恃者四。黃泥窪、張叉站沖淺之處,可修守,今地非我有,不足恃者五。轉眼冰合,遂成平地,間次置防,猶得五十萬人,兵從何來?不足恃者六。」又言:「我以退為守,則守不足;我以進為守,則守有餘。專倚三岔作家,萬一時事偶非,榆關一線遂足鎖薊門哉?」疏入,帝命震孺巡按遼東,監紀軍事。

震孺遼に按じ、廬に居らず、火を食わざること七月。議者三岔河を棄て、退きて広寧を守らんと欲す。震孺兵を振武に駐ることを請う。軍法厳しからず、震孺寧前監軍を敕し、専ら逃軍逃将を斬らしむることを請う。並びに其の言に従う。然れども是の時、経撫和せず、疆事益々壊る。震孺再び疏し山海外衛無きを言い、宜しく亟に兵を中前に駐め、以て眼目と為すべしとす、省みられず。

原文震孺按遼,居不廬、食不火者七月。議者欲棄三岔河,退守廣寧,震孺請駐兵振武。軍法不嚴,震孺請敕寧前監軍,專斬逃軍逃將。並從其言。然是時,經撫不和,疆事益壞。震孺再疏言山海無外衛,宜亟駐兵中前,以為眼目,不省。

明年正月、任満ち、前屯にて代を候う。而して大清兵已に再び三岔河を渡る。先鋒孫得功戦わずして、振武に呼びて曰く「兵敗れたり」と、遂に走る。巡撫王化貞広寧に在り、亦倉皇として走る。列城之を聞きて皆走る、惟だ震孺前屯は動かず。当是の時、西平守将羅一貫已に戦死し、参将祖大寿残兵を擁し覚華島上に駐る。ここにおいて震孺水師帥張国卿を召し相与に謀りて曰く「今東師四外糧を搜す、祖将軍島上に米豆二十余万、兵十余万、人民数万、戦艦・器仗・馬牛数無し有るを聞く、東師即ち島兵を媾わば、島兵を得て以て榆関を攻めん、豈に幸あらんや」と。ここにおいて震孺・国卿航海して大寿に見え、慷慨として語りて曰く「将軍帰らば、相保ちて富貴を以てす;帰らざれば、震孺請う頸血を以て将軍に濺がん」と。大寿泣き、震孺亦泣き、遂に相携えて以て帰り、軍民輜重しちょう算無きを得る。

原文明年正月,任滿,候代前屯,而大清兵已再渡三岔河。先鋒孫得功不戰,而呼於振武曰「兵敗矣」,遂走。巡撫王化貞在廣寧,亦倉皇走。列城聞之皆走,惟震孺前屯無動。當是時,西平守將羅一貫已戰死,參將祖大壽擁殘兵駐覺華島上。於是震孺召水師帥張國卿相與謀曰:「今東師四外搜糧,聞祖將軍在島上有米豆二十餘萬,兵十餘萬,人民數萬,戰艦、器仗、馬牛無數,東師即媾得島兵,得島兵以攻榆關,豈有幸哉?」於是震孺、國卿航海見大壽,慷慨語曰:「將軍歸,相保以富貴;不歸,震孺請以頸血濺將軍。」大壽泣,震孺亦泣,遂相攜以歸,獲軍民輜重無算。

主事徐大化と云う者有り、忠賢の党なり、震孺を劾して曰く「差を攘う」と。都御史鄒元標奮筆して曰く「方御史山海を保全し、過無く且つ社稷の功有り」と。給事中郭興治遂に道学を借りて以て元標を逐う。元標去り、震孺亦即ち罷め帰る。明年、忠賢・広微大獄を興し、再び方御史を劾する者を募る。興治再び震孺の河西における贓私を論ず。逮問し掠治し、贓六千有奇を坐し、絞を擬す。而して揚州守劉鐸の咒詛の獄又起り、遂に震孺と交通せしを誣う、大辟を坐し、獄に繫がる。邏卒有り時時震孺の飲啖を佐く、之を問えば、則ち曰く「小人妻有り、公の精忠を聞き、手づから治めて以て献ずる者なり」と。輒ち璫に報じて曰く「某病革まり、某死に瀕す」と。璫是を以て防益々疏なり。

原文有主事徐大化者,忠賢黨也,劾震孺曰「攘差」。都御史鄒元標奮筆曰:「方御史保全山海,無過且有社稷功。」給事中郭興治遂借道學以逐元標。元標去,震孺亦即罷歸。明年,忠賢、廣微興大獄,再募劾方御史者,興治再論震孺河西贓私。逮問掠治,坐贓六千有奇,擬絞。而揚州守劉鐸咒詛之獄又起,遂誣震孺與交通,坐大辟,繫獄。有邏卒時時佐震孺飲啖,問之,則曰:「小人有妻,聞公精忠,手治以獻者也。」輒報珰曰:「某病革,某瀕死。」珰以是防益疏。

明年、庄烈帝位を嗣ぎ、釈放され還る。八年春、流賊寿州を犯す。州長吏適に秩を遷して去る。震孺士民を倡し固守す。賊是より寿州を逼ることを敢えず。巡撫史可法其の功を上る。用いて広西参議と為す。尋いで右僉都御史に擢げ、広西を巡撫す。京師陥ち、福王南京に立ち、即日疏を拝し勤王す。馬士英・阮大鋮之を憚り、敕して還鎮せしむ。震孺竟に郁郁憂憤して卒す。

原文明年,莊烈帝嗣位,得釋還。八年春,流賊犯壽州,州長吏適遷秩去,震孺倡士民固守,賊自是不敢逼壽州。巡撫史可法上其功,用為廣西參議。尋擢右僉都御史,巡撫廣西。京師陷,福王立南京,即日拜疏勤王。馬士英、阮大鋮憚之,敕還鎮。震孺竟郁郁憂憤而卒。

徐従治

原文徐從治

徐従治、字は仲華、海塩の人。母夢みしに神人庭に戈を舞う、寤めて生む。従治万暦三十五年進士に挙げられ、桐城知県を除く。累官して済南知府に至り、卓異を以て兗東副使に遷り、沂州に駐る。

原文徐從治,字仲華,海鹽人。母夢神人舞戈於庭,寤而生。從治舉萬歷三十五年進士,除桐城知縣。累官濟南知府,以卓異遷兗東副使,駐沂州。

天啓元年、妖賊徐鴻儒鄆城に反し、連ねて鄒・滕・嶧県を陥す。従治其の党の沂に伏する者を捕え之を殺し、就きて家より故総兵楊肇基を起して兵事を主らしむることを請い、而して賊の中堅を搗つ策を献じ、遂に鴻儒を滅す。事詳しくは『趙彦伝』に在り。

原文天啟元年,妖賊徐鴻儒反鄆城,連陷鄒、滕、嶧縣。從治捕得其黨之伏沂者殺之,請就家起故總兵楊肇基主兵事,而獻搗賊中堅之策,遂滅鴻儒。事詳《趙彥傳》。

従治警敏にして変に通じ、其の賊を禦するは類く剿を主とし撫を主とせず、故に往々賊を滅す。旋って右参政を以て済南を分守す。功を録すれば、従治最も上り、右布政使に進み、江南の漕を督む。妖賊再び起る。巡撫王惟儉奏して従治を留め、仍お沂を守らしむ。按臣撫を主とす。従治議合わず、遂に告帰す。

原文從治警敏通變,其禦賊類主剿不主撫,故往往滅賊。旋以右參政分守濟南。錄功,從治最,進右布政使,督漕江南。妖賊再起,巡撫王惟儉奏留從治,仍守沂。按臣主撫,從治議不合,遂告歸。

中外計議調う。崇禎初め、故秩を以て薊州兵備を飭む。薊軍久しく餉を欠き、巡撫王応豸を遵化に囲む。従治単騎馳せ入り、陰に夷丁・標兵を部署し、四門に分営し、甲を按じて動かず、城に登りて呼びて曰く「三月の糧を与え、趣に帰りて汛地を守れ、否んば将に汝を撃たん」と。衆声に応じて散ず。其の応変多く此に類す。左布政使に進秩し、再び告帰を請う。

原文中外計議調,崇禎初,以故秩飭薊州兵備。薊軍久缺餉,圍巡撫王應豸於遵化。從治單騎馳入,陰部署夷丁、標兵,分營四門,按甲不動,登城而呼曰:「給三月糧,趣歸守汛地,否將擊汝!」眾應聲而散。其應變多類此。進秩左布政使,再請告歸。

四年、起きて武徳兵備を飭む。孔有徳山東に反す。巡撫余大成檄して従治に監軍せしむ。明年正月馳せて萊州に赴く。而して登州已に陥つ。大成削籍せられ、遂に従治を擢げ右副都御史として之に代え、登萊巡撫謝璉と並びに命ず。詔して璉は萊州に駐まり、従治は青州に駐まり、兵食を調度せしむ。従治曰く「吾青に駐まらば、萊の人を鎮むるに足らず;萊に駐まらば、全斉の命を系ぐに足る」と。乃ち璉と同に事を萊に受けしむ。

原文四年,起飭武德兵備。孔有德反山東,巡撫余大成檄從治監軍。明年正月馳赴萊州,而登州已陷。大成削籍,遂擢從治右副都御史代之,與登萊巡撫謝璉並命。詔璉駐萊州,從治駐青州,調度兵食。從治曰:「吾駐青,不足鎮萊人心;駐萊,足系全齊命。」乃與璉同受事於萊。

孔有德は遼東の人である。耿仲明、李九成、毛承祿らと共に皆、毛文龍の麾下の兵卒であった。文龍が死ぬと、登州に逃げ込んだ。登萊巡撫孫元化は長く遼東に官職にあり、平素より遼東の兵は用いるに足ると言っており、そこで承祿を副将に、有德と仲明を遊撃に、九成を偏裨に用い、かつ多く遼東の兵を牙兵として収容した。この年、大淩河新城が包囲されると、兵部は元化に檄を飛ばし精鋭を海路で派遣し、耀州塩場に向かわせ、牽制の意を示させた。有德は風向きが逆だと偽って言い、陸路から寧遠へ赴くことに変更した。十月晦、有德および九成の子で千総の応元が千余人を率いて出発し、一月かけて呉橋に到着したが、県人は市を閉ざし、兵たちは食を得ることができなかった。一兵卒が諸生と争い、有德がこれを鞭打つと、兵たちは大いに騒ぎ立てた。九成は先に元化の銀を携えて塞上で馬を買っていたが、使い果たして償う術がなく、丁度呉橋に到着した。兵たちの怨嗟を聞くと、遂に応元と謀り、有德を脅迫し、共に乱を起こし、陵県、臨邑、商河を陥とし、斉東を荒らし、徳平を包囲した。やがてこれを捨て去り、青城、新城を陥とし、兵を整えて東進した。

原文有德者,遼人。與耿仲明、李九成、毛承祿輩皆毛文龍帳下卒也。文龍死,走入登州。登萊巡撫孫元化官遼久,素言遼人可用,乃用承祿為副將,有德、仲明為遊擊,九成為偏裨,且多收遼人為牙兵。是年,大淩河新城被圍,部檄元化發勁卒泛海,趨耀州鹽場,示牽制。有德詭言風逆,改從陸赴寧遠。十月晦,有德及九成子千總應元統千餘人以行,經月抵吳橋,縣人罷市,眾無所得食。一卒與諸生角,有德抶之,眾大嘩。九成先賫元化銀市馬塞上,用盡無以償,適至吳橋。聞眾怨,遂與應元謀,劫有德,相與為亂,陷陵縣、臨邑、商河,殘齊東,圍德平。既而舍去,陷青城、新城,整眾東。

余大成は、江寧の人である。兵事を知らない。初め職方郎中となり、かつて大学士劉一燝の私信を奏上して発覚させ、彼を失脚させた。後にまた事があって魏忠賢に逆らい、官籍を削られて帰郷し、清廉で節操ある名声があった。しかし山東巡撫となると、白蓮教の妖賊がちょうど勢い盛んであり、また逃兵の変乱もあり、いずれも討伐できなかった。有德の反乱を聞くと、すぐに病気と称して数日も出仕できず、やむを得ず中軍の沈廷諭と参将の陶廷鑨を派遣して防禦させたが、いずれも敗れて逃走した。大成は恐れ、遂に撫慰の策を定め、一方で元化の軍も到着した。

原文余大成者,江寧人也。不知兵。初為職方,嘗奏發大學士劉一燝私書,齮之去。後又以事忤魏忠賢,削籍歸,有清執名。而巡撫山東,則白蓮妖賊方熾,又有逃兵之變,皆不能討。及聞有德叛,即托疾數日不能出,不得已遣中軍沈廷諭參將陶廷鑨往禦,則皆敗而走。大成恐,遂定議撫,而元化軍亦至。

元化は、かつて西洋大砲に精通していると称されていた者であるが、この時もまた撫慰を主張し、賊が通過する郡県に迎撃しないよう檄を飛ばした。賊は長駆し、敢えて一矢を加える者もなかった。賊は元化に降伏すると偽って約束した。元化は軍を黄山館に駐屯させて引き返し、賊は遂に登州に到達した。元化は将の張燾に遼東兵を率いさせて城外に駐屯させ、総兵の張可大に南兵を率いさせて賊を防がせた。元化はなおも賊を招降しようとしたが、賊は応じなかった。五年正月、城東で戦い、遼東兵が急に退却し、南兵は遂に敗れた。燾の兵の多くが賊に降り、賊は彼らを帰還させたが、士民は争って受け入れず防ぐよう請うたが、元化は聞き入れず、賊は遂に入城した。日が暮れる頃、城中で火の手が上がり、中軍の耿仲明、都司の陳光福らが賊を導いて東門から入り、城は遂に陥落した。可大はここで戦死した。元化は自刎したが死にきれず、参議の宋光蘭、僉事の王征および府県の官らことごとく捕らえられた。大成は萊州に馳せ入った。

原文元化者,故所號善西洋大炮者也,至是亦主撫,檄賊所過郡縣無邀擊。賊長驅,無敢一矢加者。賊佯許元化降。元化師次黃山館而返,賊遂抵登州。元化遣將張燾率遼兵駐城外,總兵張可大率南兵拒賊。元化猶招降賊,賊不應。五年正月戰城東,遼兵遽退,南兵遂敗。燾兵多降賊,賊遣之歸,士民爭請拒勿內,元化不從,賊遂入。日夕,城中火起,中軍耿仲明、都司陳光福等導賊入自東門,城遂陷。可大死之。元化自刎不殊,與參議宋光蘭、僉事王征及府縣官悉被執。大成馳入萊州。

初め、登州が包囲された時、朝廷は大成と元化の官位を三級降格し、賊の処理を命じた。登州が陥落すると、元化を解任し、謝璉を後任とした。有德は登州を陥とした後、九成を主と推し、己はその次、仲明はまたその次とした。巡撫の印を用いて州県に兵糧を要求する檄を飛ばし、元化に書簡を移して大成に撫慰を求めるよう急がせ、「登州一郡を与えれば、包囲を解く」と言った。大成は朝廷に報告した。帝は怒り、大成を解任するよう命じ、徐従治を後任とした。

原文初,登州被圍,朝廷鐫大成、元化三級,令辦賊。及登失守,革元化職,而以謝璉代。有德既破登州,推九成為主,己次之,仲明又次之。用巡撫印檄州縣餉,趣元化移書求撫於大成曰:「畀以登州一郡,則解。」大成聞於朝。帝怒,命革大成職,而以從治代。

先に、賊は黄県を攻め落とし、知県の呉世揚がここで死んだ。この時、萊州を攻撃し、従治、璉および総兵の楊禦蕃らがそれぞれ城壁を分けて守った。禦蕃は肇基の子である。肇基は、従治と共に妖賊の鄒県、滕県を剿滅した者である。禦蕃は戦功を積んで通州副総兵に至った。ちょうど登州陥落の時、兵部尚書の熊明遇が上奏して総兵官に任命し、山東の兵をすべて率いさせ、保定総兵の劉国柱、天津総兵の王洪と兼行で進軍させた。新城で賊に遭遇し、洪が先に逃走した。禦蕃は二日間防戦したが勝てず、包囲を突破して出ると、遂に萊州城に入り、従治と璉は賊を剿滅するのを彼に頼った。賊は萊州を攻め落とせず、兵を分けて平度を陥とし、知州の陳所問は自縊した。賊はますます萊州を攻め、元化が製造させた西洋大砲を車で運び、毎日城壁に穴を穿ち、城壁は多く崩れた。従治らは火を投げ込み水を注ぎ、穴を穿つ者は数え切れぬほど死んだ。決死隊を時折出撃させて掩撃し、賊の砲台を破壊し、多くを斬り捕らえた。しかし明遇は結局大成の撫慰論に惑わされ、主事の張国臣を賛画として派遣して撫慰に当たらせ、「山東にいる遼東の人々を安んじ輯める」と言い、国臣もまた遼東の人であったからである。国臣は先に廃将の金一鯨を賊の陣営に入らせ、やがて国臣自身も入り、賊のために書簡を移し、一鯨を帰還させて報告させた。「出兵して撫慰の局面を壊すな」と。従治らはその偽りを知り、一鯨を叱り退け、密使を遣わして三度上疏し、賊は撫慰すべからざることを言った。最後に言うには、「萊城は五十日包囲され、累卵の如く危うい。日夜援兵を待つが、ついに至らず、必ずや撫慰の議論に誤られたと知る。国臣が臣に送った書簡の中に、詔旨と兵部の諭帖を写したものがあり、そこで部臣が既に国臣の報告に基づいて、聖聴に達したことを知った。そもそも国臣は郷里の情が重く、聖明を欺き封疆を陥れることを忍ぶ。その初めに一鯨を賊営に入れた時、どうして兵を止めて攻めないなどということがあったか?もし本当に兵を止め、あるいは少し退いたなら、臣らどうして喜んで撫慰しないことがあろう?ただ国臣が撫慰を以て賊を弁解し、賊は実に撫慰を借りて緩兵の計としているのである。一鯨は賊から賄賂を受け、援軍に対しては賊は数万で軽々しく進むべからずと誑かし、諸将に対しては賊は西洋砲で攻め、城は陥落寸前だが、我が招撫のおかげで賊は攻撃を止めたと誑かす。そもそも一鯨は三度賊営に入ったが、入るたびに賊の攻撃はますます激しくなった。それなのに国臣は、賊は我々が城から縋り下りて撃ったことを怒り、それで彼らが攻撃したのだと言う。これは賊に任意に攻撃させ、我々は一矢も加えず、元化が登州城を断送したようにして、それから国臣の撫慰を成し遂げよというのか?賊が青州を通った時、大成は三千の兵を擁し、賊を剿滅するのは甚だ容易であった。元化が書簡を送り『賊は既に撫慰に応じた、そちの兵は東に向かうな』と言ったので、大成は遂に追撃を止め、賊が蔓延するに任せた。今、賊は臣らを元化同様に見なし、賊のために弁解し、呉橋での激変には原因があったと言い、一路刀を封じて殺さなかったと言い、天子の詔を聞いて攻撃掠奪を止めたと言う。誰を欺こうというのか!朝廷中が国臣の妄報に満ち、必ずや一枚の書簡は十万の兵に勝り、援軍が来ないのはこのためであると言う。臣は死して厲鬼となり賊を殺すであろうが、断じて撫慰をもって至尊を欺き、国是を混乱させ、封疆を誤り、生命を害することはしない。」上疏が入ったが、返答はなかった。

原文先是,賊攻破黃縣,知縣吳世揚死之。至是,攻萊,從治、璉與總兵楊禦蕃等分陴守。禦蕃,肇基子。肇基,從治所共剿滅妖賊鄒、滕者也。禦蕃積戰功至通州副總兵。會登州陷,兵部尚書熊明遇奏署總兵官,盡將山東兵,與保定總兵劉國柱、天津總兵王洪兼程進。遇賊新城,洪先走。禦蕃拒之二日,不勝,突圍出,遂入萊城,從治、璉倚以剿賊。賊攻萊不下,分兵陷平度,知州陳所問自經。賊益攻萊,輦元化所制西洋大炮,日穴城,城多頹。從治等投火灌水,穴者死無算。使死士時出掩擊之,毀其炮臺,斬獲多。而明遇卒惑大成撫議也,命主事張國臣為贊畫往撫之,曰「安輯遼人之在山東者」,以國臣亦遼人也。國臣先遣廢將金一鯨入賊營,已而國臣亦入,為賊移書,遣一鯨還報曰:「毋出兵壞撫局。」從治等知其詐,叱退一鯨,遣間使三上疏,言賊不可撫。最後言:「萊城被圍五十日,危如累卵。日夜望援兵,卒不至,知必為撫議誤矣。國臣致書臣,內抄詔旨並兵部諭帖,乃知部臣已據國臣報,達聖聽。夫國臣桑梓情重,忍欺聖明而陷封疆。其初遣一鯨入賊營,何嘗有止兵不攻之事?果止兵,或稍退舍,臣等何故不樂撫?特國臣以撫為賊解,而賊實借撫為緩兵計。一鯨受賊賄,對援師則誑言賊數萬,不可輕進;對諸將則誑言賊用西洋炮攻,城將陷矣,賴我招撫,賊即止攻。夫一鯨三入賊營,每入,賊攻益急。而國臣乃雲賊嗔我縋城下擊,致彼之攻。是使賊任意攻擊,我不以一矢加遺,如元化斷送登城,然後可成國臣之撫耶?當賊過青州,大成擁兵三千,剿賊甚易。元化遺書謂『賊已就撫,爾兵毋東』,大成遂止勿追,致賊延蔓。今賊視臣等猶元化,乃為賊解,曰吳橋激變有因也,一路封刀不殺也,聞天子詔遂止攻掠也。將誰欺!盈庭中國臣妄報,必謂一紙書賢於十萬兵,援師不來,職是故矣。臣死當為厲鬼以殺賊,斷不敢以撫謾至尊,淆國是,誤封疆,而戕生命也。」疏入,未報。

この時、城外の包囲は日増しに切迫し、国柱、洪および山東の援軍はすべて昌邑に頓挫して進まず、二人の巡撫は城中に包囲されて困窮した。ここにおいて朝廷はさらに総督一人を設置することを議し、兵部右侍郎の劉宇烈をこれに任じた。薊門、四川の兵を調発し、総兵の鄧玘に統率させ、密雲の兵を調発し、副将の牟文綬に統率させ、右布政使の楊作楫にこれを監させ、萊州救援に向かわせた。三月、宇烈、作楫、国柱、洪、玘および監視の中官の呂直、巡按御史の王道純、義勇副将の劉澤清、新兵参将の劉永昌、朱廷祿、監紀推官の汪惟効らが並びに昌邑に集結した。玘、国柱、洪、澤清らは萊州に到着し、馬歩軍二万五千、気勢は甚だ盛んであった。しかし宇烈には方策も戦略もなく、諸将師は懦怯で、沙河に到着すると、一日に十度も撫慰を議するために行き、捕らえた賊の陳文才を釈放して帰した。ここにおいて賊は我が方の虚実をことごとく知り、ますます撫慰をもって我々を愚弄し、ひそかに兵をその背後に回らせ、我が輜重をすべて焼き払った。宇烈は恐れ、遂に青州に逃走し、三将の兵を撤収させ食糧を得させた。玘らは夜半に陣営を引き払って散り、賊はこれに乗じ、大敗した。洪、国柱は青州、濰県に逃走し、玘は昌邑に逃走し、澤清は萊城で交戦し、二本の指を傷つけ、また敗れて平度に逃走し、ただ作楫のみが軍を統率できた。三将が既に敗れると、朝廷中が嘩然とし、明遇は官軍が用に足らぬと見て、撫慰の議論はますます固くなった。

原文當是時,外圍日急,國柱、洪及山東援軍俱頓昌邑不敢進,兩撫臣困圍城中。於是廷議更設總督一人,以兵部右侍郎劉宇烈任之。調薊門、四川兵,統以總兵鄧玘,調密雲兵,統以副將牟文綬,以右布政使楊作楫監之,往援萊。三月,宇烈、作楫、國柱、洪、玘及監視中官呂直,巡按御史王道純,義勇副將劉澤清,新兵參將劉永昌、朱廷祿,監紀推官汪惟效等並集昌邑。玘、國柱、洪、澤清等至萊州,馬步軍二萬五千,氣甚盛。而宇烈無籌略,諸師懦怯,抵沙河,日十輩往議撫,縱還所獲賊陳文才。於是賊盡得我虛實,益以撫愚我,而潛兵繞其後,盡焚我輜重。宇烈懼,遂走青州,撤三將兵就食。玘等夜半拔營散,賊乘之,大敗。洪、國柱走青、濰,玘走昌邑,澤清接戰於萊城,傷二指,亦敗走平度,惟作楫能軍。三將既敗,舉朝嘩然,而明遇見官軍不可用,撫議益堅。

先に、登州総兵の可大が死に、副将の呉安邦を以てこれに代えたが、安邦は特に怯懦で鈍重であった。命令を奉じて寧海に屯し、登州を攻略せんと図った。仲明は城を以て降ると言い触らし、安邦はこれを信じ、城より二十五里離れて軍を置いた。中軍の徐樹聲が城に迫って捕らえられ、安邦は走って寧海に還った。登州は既に下せず、賊は萊州を長く包囲し、璉、従治、禦蕃は日々堅守して救援を待った。四月十六日に至り、従治が砲弾に当たって死に、萊州の人々は大いに慟哭し、城壁を守る者も皆泣いた。

原文先是,登州總兵可大死,以副將吳安邦代之,安邦尤怯鈍。奉令屯寧海,規取登州。仲明揚言以城降,安邦信之,離城二十五里而軍。中軍徐樹聲薄城被擒,安邦走還寧海。登既不能下,而賊困萊久,璉、從治、禦蕃日堅守待救。至四月十六日,從治中炮死,萊人大臨,守陴者皆哭。

山東の士官で南京にいた者たちが、上疏を合わせて宇烈を攻撃し、増兵を請うた。ここにおいて昌平の兵三千を調発し、総兵の陳洪範にこれを統率させた。洪範もまた遼東の人である。明遇は日々足を上げて望み言うには、「行け、撫すればよいのだ」と。天津の旧将の孫応龍なる者が、大言を吐いて衆に言うには、「仲明兄弟は私と親しい、私は彼らに有徳と九成を縛って来させることができる」と。巡撫の鄭宗周がこれに兵二千を与え、海路より往かせた。仲明はこれを聞き、偽って他人の死人頭を函に入れて欺き言うには、「これが有徳である」と。応龍は舟師を率いて水城に到着した。賊はこれを招き入れて、突然縛り斬り、一人として脱する者はなかった。賊は巨艦を得て、勢い益々張った。島帥の黄龍がこれを攻めて克たずに還った。遂に招遠を破り、萊陽を包囲した。知県の梁衡が固守し、賊は敗れて去った。

原文山東士官南京者,合疏攻宇烈,請益兵。於是調昌平兵三千,以總兵陳洪範統之,洪範亦遼人。明遇日跂望曰:「往哉,其可撫也。」天津舊將孫應龍者,大言於眾曰:「仲明兄弟與我善,我能令其縛有德、九成來。」巡撫鄭宗周予之兵二千,從海道往。仲明聞之,偽函他死人頭紿之曰:「此有德也。」應龍率舟師抵水城。延之入,猝縛斬之,無一人脫者。賊得巨艦,勢益張。島帥黃龍攻之不克而還。遂破招遠,圍萊陽。知縣梁衡固守,賊敗去。

宇烈は再び昌邑に至り、洪範、文綬等もまた至った。萊州推官の屈宜陽が賊営に入って撫を講じることを請い、賊は偽って礼を以てこれに接した。宜陽は使いをして賊が既に命を受けたと言わせ、宇烈は上奏して許可を得た。乃ち手書を以て賊を諭し、包囲を解かせんとした。賊は宇烈を招いたが、宇烈は恐れて行かなかった。営将の厳正中が龍亭を担ぎ河に至ると、賊はこれを擁して去り、宜陽をして萊州に還らせ、文武の官を出城させて開読させ、包囲は即時に解けると言った。禦蕃は不可としたが、璉は言うには、「包囲すでに六月、既にどうしようもない、宜しく暫くこれに従うべし」と。遂に監視中官の徐得時、翟升、知府の朱万年と共に出た。有徳等は叩頭して伏し、涕泣が頬に交わり、璉は慰諭すること久しくして還った。明日また宜陽をして入らせ、璉、禦蕃の同出を請わせた。禦蕃は言う、「私は将家の子、賊を殺すことを知るのみ、何ぞ撫の事を知らんや」と。璉等は遂に出た。有徳はこれを捕らえ、突然城を攻め、却って万年をして降を呼ばせた。万年は呼んで言う、「我は死ぬ、汝等は宜しく固守すべし」と。罵り絶えずして死んだ。賊は璉及び二中官を登州に送って囚え、正中、宜陽は皆死んだ。

原文宇烈復至昌邑,洪範、文綬等亦至。萊州推官屈宜陽請入賊營講撫,賊佯禮之。宜陽使言賊已受命,宇烈奏得請,乃手書諭賊令解圍。賊邀宇烈,宇烈懼不往。營將嚴正中舁龍亭及河,賊擁之去,而令宜陽還萊,文武官出城開讀,圍即解。禦蕃不可,璉曰:「圍且六月,既已無可奈何,宜且從之。」遂偕監視中官徐得時、翟升,知府朱萬年出。有德等叩頭扶伏,涕泣交頤,璉慰諭久之而還。明日復令宜陽入,請璉、禦蕃同出。禦蕃曰:「我將家子,知殺賊,何知撫事?」璉等遂出。有德執之,猝攻城,卻令萬年呼降。萬年呼曰:「吾死矣,汝等宜固守。」罵不絕口而死。賊送璉及二中官至登囚之,正中、宜陽皆死。

初め、撫議が起こり、独り従治が不可を主張した。宇烈諸将はこれを信じ、尚書の明遇がその議を主とした。従治が死に、璉は遂に捕らえられた。ここにおいて挙朝憤慨し、宇烈を捕らえて獄に下し、関外の勁卒を調発してこれを剿滅し、総督及び登萊巡撫を廃して設けず、専ら従治に代わる者朱大典に任じて行かせた。明遇は撫を主として国を誤った罪に坐し、罷免されて帰り、遂に撫議は絶えた。八月、大典は兵を合わせて萊州を救った。兵が接するや、賊は直ちに大敗し、包囲は解けた。有徳は登州に走り、九成は璉及び二中官を殺した。大典は登州を包囲し、九成は戦死した。城は破れ、追剿し、有徳、仲明は海に入って遁走した。承禄等を生け捕りにし、応元を斬り、賊は尽く平定した。事は詳しく『大典伝』にある。詔して従治に兵部尚書を贈り、祭葬を賜い、錦衣百戸を蔭し、祠を建てて「忠烈」と曰い、璉に兵部右侍郎を贈り、また祭葬を賜い、祠を建て、子を蔭し、禦蕃は功多きを以て、都督同知を署し、総兵とし、登州、萊州に鎮せしめた。而して宇烈は翌年に遣戍せられた。璉は字を君実といい、監利の人である。宇烈は綿竹の人で、大学士の宇亮の兄である。その戍せられたるを、人は刑を失したと為した。大成は捕らえられて獄に下り、遣戍せられた。赦されて還り、家に卒した。

原文初,撫議興,獨從治持不可。宇烈諸將信之,而尚書明遇主其議。從治死,璉遂被擒。於是舉朝恚憤,逮宇烈下獄,調關外勁卒剿之,罷總督及登萊巡撫不設,專任代從治者朱大典以行。明遇坐主撫誤國,罷歸,遂絕撫議。八月,大典合兵救萊。兵甫接,賊輒大敗,圍解。有德走登州,九成殺璉及二中官。大典圍登,九成戰死。城破,追剿,有德、仲明入海遁。生擒承祿等,斬應元,賊盡平。事詳《大典傳》。詔贈從治兵部尚書,賜祭葬,蔭錦衣百戶,建祠曰「忠烈」;贈璉兵部右侍郎,亦賜祭葬,建祠,蔭子;以禦蕃功多,加署都督同知,總兵,鎮登、萊。而宇烈以次年遣戍。璉,字君實,監利人。宇烈,綿竹人,大學士宇亮兄也。其戍也,人以為失刑。大成逮下獄,遣戍。赦還,卒於家。

元化は字を初陽といい、嘉定の人である。天啓年間に郷挙された。よくした西洋砲法は、徐光啓より得たものである。広寧が覆没すると、京を備え辺を防ぐ二策を条上した。孫承宗が朝廷に請うて、経略軍前の賛画を得た。砲台を建て教練する法を主とし、因って寧遠、前屯を拠ることを請い、策を以て王在晋に干したが、在晋は用いなかった。承宗が辺を行き、還って奏し、兵部司務に授けられた。承宗が在晋に代わり、遂に重関の非を破り、台を築き砲を制するは、一様に元化の言う如くであった。還って元化を職方主事に授け、已にして、元化は袁崇煥の寧遠を賛画した。還朝し、尋いて罷められた。

原文元化,字初陽,嘉定人。天啟間舉於鄉。所善西洋炮法,蓋得之徐光啟雲。廣寧覆沒,條備京、防邊二策。孫承宗請於朝,得贊畫經略軍前。主建炮臺教練法,因請據寧遠、前屯,以策幹王在晉,在晉不能用。承宗行邊,還奏,授兵部司務。承宗代在晉,遂破重關之非,築臺制炮,一如元化言。還授元化職方主事,已,元化贊畫袁崇煥寧遠。還朝,尋罷。

崇禎初年、武選員外郎に起用され、職方郎中に進んだ。崇煥は既に経略となり、元化を自ら輔けんことを乞い、遂に元化を山東右参議に改め、寧前兵備を整飭せしめた。三年、皮島副将の劉興治が乱を為し、廷議は再び登萊巡撫を設け、遂に元化を右僉都御史に擢げてこれに任じ、登州に駐せしめた。明年、島衆が興治を殺し、元化は副将の黄龍を代わらせることを奏し、その兵六千人を汰った。有徳の反するに及び、朝野はここにおいて元化の討伐できざるを怨んだ。賊は元化を放って還らせ、詔してこれを捕らえた。首輔の周延儒がその死を脱せんと謀ったが、得られず、則ちその師の光啓を援けて内閣に入らせてこれを図ったが、終に得られず、張燾と共に棄市された。光蘭、征は軍に充てられた。

原文崇禎初,起武選員外郎,進職方郎中。崇煥已為經略,乞元化自輔,遂改元化山東右參議,整飭寧前兵備。三年,皮島副將劉興治為亂,廷議復設登萊巡撫,遂擢元化右僉都御史任之,駐登州。明年,島眾殺興治,元化奏副將黃龍代,汰其兵六千人。及有德反,朝野由是怨元化之不能討也。賊縱元化還,詔逮之。首輔周延儒謀脫其死,不得也;則援其師光啟入閣圖之,卒不得,同張燾棄市。光蘭、征充軍。

賛に曰く、疆圉に多故あれば、則ち事に任ずる臣を思う。梅之煥諸人は、風采機略尚お大いに巽懦恇怯の徒と異なるも、而して文法に牽かれ、或いは廃され或いは死し、悲しいかな!叛将が横行するも、縛り斬るは、一偏裨の力のみ。中に撫議を撓がせ、堅城を委ねてこれに与え、援師は観望して進まず、徒に擾擾たるのみ。官を設け将を命ずるも、何の益かあらん。撫議の国を誤るや、言うに勝えんや!

原文贊曰:疆圉多故,則思任事之臣。梅之煥諸人,風采機略尚大異於巽懦恇怯之徒,而牽於文法,或廢或死,悲夫!叛將衡行,縛而斬之,一偏裨力耳。中撓撫議,委堅城畀之,援師觀望不進,徒擾擾焉。設官命將,何益之有?撫議之誤國也,可勝言哉!