○梅之煥劉策(徐縉芳陳一元)李若星耿如杞(胡士容)顏繼祖(王應豸等)李繼貞方震孺徐從治(謝璉余大成等)
梅之煥
梅之煥、字は彬父、麻城の人、侍郎梅國楨の從子なり。十四歳にして諸生となる。御史が部を行き武を閱するに、之煥馬に騎りて教場に突入す。御史怒り、材官と角射せしむるを命ず。九発九中し、長揖して馬に上りて去る。
莊烈帝即位し、乃ち征を免じ、故官を起し、甘粛を巡撫す。大いに套寇を破り、首級七百余を斬り、部長三人を生得し、六百余人を降す。明年春、寇復た大いに入り、豌豆創を患い、大黄山を環りて病む。諸将掩うことを請う。之煥不可と曰く、「災を幸いとするは仁ならず、危きに乗ずるは武ならず。之を捨つるに如かず、因りて以て徳と為さん」と。遂に戦わず。一月を踰え、群寇辺城を望みて搏顙涕泣して去る。冬、京師戒厳す。詔有りて入衛す。将に行かんとし、西部虚に乗じて河西を犯す。之煥留まるを止め、兵を遣わして賀蘭山の後に伏せ、其の帰路を邀う。大兵水泉峽口を出で、再戦して再び之を敗り、首級八百四十有奇を斬り、軍を引きて東す。俄に悍卒王進才参将孫懐忠等を殺し以て叛き、蘭州に走る。之煥遂に西して其の変を定め、復た軍を整えて東す。明年五月京師に抵る。已に時を後る。詔有りて之煥朝に入る。翌日又た詔有りて之煥職を落とし候勘す。温体仁已に政を柄とす。初め、体仁錢謙益を訐つ。之煥書を中朝に移し、謙益を右す。此に至り、体仁隙を修む。之煥遂に罪を得。
之煥文士と雖も、材武を負い、射を善くす。既に廢せられ、見る所無し。居る県は、山に阻まれて盗多し。之煥事無きときは、輒ち健児を率いて吏を助け捕らえ、脱する者無し。是に先立ち、甘粛兵変す。其の潰卒捕え誅さるるを畏れ、往往山谷の間に亡命し、群盗と為り、賊勢益々張る。此に至り、賊数万来たりて麻城を攻む。之煥の部署を見るに、輒ち引き去る。帝甘粛前後の功を追叙し、之煥の官を復し、子を蔭す。然れども終に召さず。明年病卒す。
劉策
劉策、字は範董、武定の人。萬歷二十九年進士。保定新城知県より入りて御史と為り、疏を上りて太僕少卿徐兆魁を劾し、復た力めて熊廷弼の行勘及び湯賓尹の科場事を争う。賓尹家居すと雖も、遙かに朝柄を執り、其の党を嗾きて攻むる者孫振基・王時熙を逐わしむ。
已にして給事中劉文炳両淮巡塩御史徐縉芳を劾す。策葉向高の幕に入り、票擬を幹く。策の同官陳一元は向高の姻親、権利を顧みると言う。時に策宣・大を按ず。疏を上りて言う、「文炳は湯賓尹の死友、韓敬に代わりて反噬す。昔年奸を発すること振基・時熙の輩の如き、今皆安在にか」と。向高も亦た策私交無きを以て、辨雪す。文炳・策屢疏相詆む。南京御史呉良輔言う、「文炳一疏にして御史縉芳・一元・策及び李若星を弾じ、再疏にして詞臣蔡毅中・焦竑及び監司李維楨を弾ず。他の波及尚ほ多し。人才摧残すること甚だ易し。清品策の如き、雅望竑の如き、詆斥を免れず。天下寧くんぞ完人有らんや」と。策復た文炳を詆り、方従哲を倚りて冰山と為し、苟も一時の富貴を図り、清議を顧みずとす。一元銓政を論じ、嘗て向高を譏切す。時に江西を按ず。文炳の疏を見て憤り甚だし。遂に文炳の陰事を掲ぐ。且つ曰く、「向高行かんとす。今政を秉る者は従哲、文炳の郷人、奴顔婢膝、任せて好く之を為せ」と。御史馬孟楨も亦た言う、「敬の関節実に真なり。既に両侍郎・両給諫を斥け謝す。乃ち伉直の劉策、攻撃止まず。而同じく奸を発するの張篤敬、復た駆除将に及ばんとす。何ぞ甚だしきや」と。疏入るも、帝皆省みず。策憤り、病を謝して去る。時に兆魁・廷弼・賓尹の輩を攻むる者、党人率ね指目して東林と為し、年例を以て之を外に出だす。四十六年秋に至り、朝に在る者は已に逐う可き無し。乃ち即ち家に於て策を徙めて河南副使と為す。策疾を辞して赴かず。
縉芳は晋江の人。御史と為り、首めて顧憲成の謚を請い、天津税監馬堂の九大罪を劾し、敢言の名有り。両淮を巡り、頗る賓客賂遺を通ず。劾せられ、贓に坐す。天啓中、戍に遣わさる。
一元は侯官の人。江西に在り、饑を振うに法有り。疾を移して去る。天啓初め、起きて歴り応天府丞と為る。御史余文縉向高を劾し、一元に及ぶ。遂に落職す。崇禎初め、官を復す。温体仁国を柄とし、其の東林に附くを悪む。而して己が門生と為すを以て、嫌を引きて召さず。家に卒す。
李若星
福王の時、解職した。郷里が荒廃したため、貴州に寓居した。桂王が武岡に遷ると、吏部尚書に召された。赴任せず、乱に遭い、兵乱の中で死んだ。
耿如杞
耿如杞、字は楚材、館陶の人。万暦四十四年進士。戸部主事に任じられた。
天啓初年、才能により職方郎中を歴任した。軍書が錯綜し、日に数十件の事に対応した。出向して陝西参議となり、遵化兵備副使に転じた。この時、逆奄が権柄を窃み、諂う者は手段を選ばず、祠を建てて福を祈った。巡撫劉詔は忠賢の画像を喜峰行署に掲げ、文武の将吏を率いて五拝三叩頭し、九千歳と呼んだ。如杞はその像が冕旒を着けているのを見て、軽く揖するだけで出て行った。忠賢は詔に弾劾させ、詔獄に捕らえ、贓六千三百を着せられ、死罪と論じられた。
時にまた胡士容という者がいた、薊州参議であり、郷官の崔呈秀にたびたび逆らい、呈秀はこれを恨んだ。忠賢のために祠を建てようとした時、士容はまた命に従わなかった。士容が江西副使に転じ、通州を通った時、多量の駅馬を乗り継ぎ、倉儲を侵盗したと誣告し、詔獄に捕らえて拷問し、贓七千を着せられ、死罪と論じられた。
秋になり、刑を執行しようとした時、荘烈帝が即位し、崔・魏が相次いで誅殺された。帝は言った、「廠衛が深文を弄し、附会して鍛錬するのは、朕は深く痛む。耿如杞を赦し、原官に復せよ。胡士容らは改めて擬議せよ」。そこで如杞は上疏して言った、「臣が鎮撫司に入って以来、五毒を並施され、縛られて市曹に赴く者は、日に聞こえております。幸いに皇上が臣を赦して死なせず、驚魂やや定まりました。乞う、臣を放ち帰家させて疾を養わせてください」。帝は許さず、ただちに如杞を右僉都御史に抜擢し、山西を巡撫させた。
かつて如杞が職方郎であった時、主事鹿善継とともに張鶴鳴に与し、熊廷弼を排して王化貞を庇い、辺境の事はこれにより大いに壊れた。そしてこの時に罪を得たのである。
福王の時、如杞に右僉都御史を追贈した。子の章光は進士、尚宝卿となった。士容、字は仁常、広済の人。
顔継祖
八年に元の官に起用され、上言した。「六部の政務は尚書が管掌し、諸司の事務は正郎が掌握するが、侍郎及び副郎・主事はただ列座して署名するのみで、政事が廃れないはずがあろうか。督撫諸臣で罪を得る者が相次ぐが、当初は皆会推によるものである。しかし会推はただ六科の掌印官が主となり、卿貳・台臣はほとんど出席しない。また九卿・台諫はただ選郎に伝言させるのみで、唯諾はあっても異議はなく、どうして会推と言えようか。」帝は善しとした。
まもなく太常少卿に抜擢され、右僉都御史として山東を巡撫した。兵を分けて境上を扼し、河南の賊は青州・済南を窺うことができなかった。前任の巡撫李懋芳が軍餉二万有余を侵食したことを弾劾し、詔旨により嘉奨された。十一年、畿輔が戒厳となり、継祖に德州への移駐を命じた。当時、麾下の兵卒はわずか三千で、兵部尚書楊嗣昌の命令により、五十日の間に三度も配置転換させられた。後に德州の専防を命じられたため、済南はこれにより空虚となった。継祖はしばしば諸将の劉沢清・倪寵らに赴援を命じるよう請願したが、皆逗留して進まなかった。翌年正月、大清兵が済南を陥落させ、徳王を捕らえた。継祖一人では両方を顧みることができず、言官が相次いで継祖を弾劾した。継祖は嗣昌を咎め、かつ言った。「臣の兵は少なく力は弱く、徳州を守った功績に安住することはできず、済南を失った罪責を分かち合わないわけにはいきません。朝廷に爵禄を還し、父母に骸骨を還すことを請います。」帝は従わず、捕らえて獄に下し、市で処刑した。
崇禎朝を通じて、巡撫で殺戮された者は十一人いた。薊鎮の王応豸、山西の耿如杞、宣府の李養沖、登萊の孫元化、大同の張翼明、順天の陳祖苞、保定の張其平、山東の顔継祖、四川の邵捷春、永平の馬成名、順天の潘永図である。また河南の李仙風は捕らえられて自縊したが、これには含まれない。
陳祖苞は海寧の人である。崇禎十年、右副都御史として順天を巡撫した。翌年、事を失った罪で獄に繋がれ、毒を飲んで死んだ。帝は祖苞が刑を免れたことを怒り、その子の編修陳之遴を終身禁錮に処し、永久に叙用しなかった。
張其平は偃師の人である。右僉都御史を歴任し、保定を巡撫した。十一年冬、管轄する県邑での損失が多かった罪により、継祖とともに西市で並んで処刑された。
馬成名は溧陽の人である。潘永図は金壇の人で、成名と姻戚関係にあった。崇禎十四年冬、成名は右僉都御史として永平を巡撫した。永図も昌平兵備僉事に起用され、一年も経たないうちに巡撫に至った。畿輔が兵乱に遭い、成名・永図はともに軍機を失った罪で、十六年に西市で斬られた。その他はそれぞれ伝がある。
李継貞
李継貞は、字を征尹といい、太倉州の人である。万暦四十一年の進士。大名推官に任じられ、兵部職方主事に歴遷した。天啓四年秋、山東で典試を務め、試録が魏忠賢を諷刺した罪で降級され、やがて官籍を削られた。
継貞は人となり強情で、職務において清廉で固執し、私的な請託を行わせなかった。大学士周延儒は継貞の同年の生まれで、継貞に総兵官を推挙するよう頼んだ。継貞は目を見開いて断り、「私が命に従わなければ、必ず罪を得るでしょう。刑部の獄はとても広いので、継貞を容れることができます」と言った。延儒はこれを恨んだ。やがて尚宝寺卿を加えられた。昇任すべき時、帝はいつも長期在任を命じた。田貴妃の父田弘遇は門功により優遇された叙任を求めたが得られず、しばしば上疏して継貞を誹謗したが、帝は聞き入れなかった。宦官曹化淳は私的な者を使いの把総にしようとしたが、継貞は認めなかった。そこで戎政尚書陸完学に頼み、尚書張鳳翼を通じて継貞に命じさせようとしたが、継貞もまた認めなかった。鳳翼は継貞の意見を退けてその者を用いた。化淳は怒り、弘遇とともに日々その隙を窺い、帝に讒言し、小さな過失に坐して三階級降格させられた。ちょうど甘肅の功績を叙する際、継貞が前任の巡撫梅之煥を起用するよう請願したため、帝は遂に怒り、継貞の官籍を削った。やがて四川桃紅壩の功績を論じ、官職を回復し、致仕した。
十一年に推薦により起用され、両京の尚宝卿を歴任した。翌年春、召対に応じ、水利・屯田について非常に詳しく陳述し、順天府丞に転じた。まもなく超えて兵部右侍郎兼右僉都御史に任じられ、天津を巡撫し、薊・遼の軍餉を監督した。そこで大いに屯田を興し、経地・招佃・用水・任人・薄賦の五議を上奏した。白塘・葛沽の数十里の間で、田畑が大いに実った。
十四年の冬、詔して水師を発して遼を援けしむるも、戦艦整わざるを坐し、除名せらる。翌年の夏、召されて兵部添註右侍郎と為る。疾を得て、途上に卒す。この夕、星中庭に隕つ。右都御史を贈られ、一子に官す。
方震孺
方震孺、字は孩未、桐城の人、家を寿州に移す。万暦四十一年進士。沙県知県より入りて御史と為る。
遼陽既に破れ、震孺一日に十三疏し、巡撫の増設、海運の通漕、辺兵の調発、司馬の更易を請う。日五鼓に公卿の門を撾ち、籌画して痛哭し、而して自ら師を犒うことを請う。是の時、三岔河以西四百里、人煙絶え、軍民尽く竄し、文武将吏一騎東する者無し。帝其の言を壮とし、帑金二十万を発し震孺に師を犒わしむ。六月、震孺関を出で、将士に延見し、死を弔い傷を扶け、軍民大いに悦ぶ。因りて上言す「河広さ七十歩に過ぎず、一葦以て航すべく、驚濤怒浪の険有るに非ず、恃むに足らざる者一なり。兵来たり、木を斬りて排と為し、土を以て浮かべ、多人之を推せば、平地を履むが如し、恃むに足らざる者二なり。河代子河に遠からず、兵代子より径ちに渡らば、河を守るの卒二万に満たず、能く其の半渡を望みて之を遏がんや。恃むに足らざる者三なり。河に沿うこと百六十里、城を築けば則ち能わず、柵を列ねれば則ち用無し、恃むに足らざる者四なり。黄泥窪・張叉站沖浅の処は、守りを修むる可し、今地我に有るに非ず、恃むに足らざる者五なり。転眼氷合し、遂に平地と成り、間次に防を置くも、猶五十万人を得べく、兵何れのより来たらん。恃むに足らざる者六なり」と。又言う「我退を以て守りと為せば、則ち守り足らず;我進を以て守りと為せば、則ち守り余り有り。専ら三岔を倚りて家と為すは、万一時事偶に非ざれば、榆関一線遂に薊門を鎖すに足らんや」と。疏入り、帝震孺をして遼東を巡按し、軍事を監紀せしむ。
震孺遼に按じ、廬に居らず、火を食わざること七月。議者三岔河を棄て、退きて広寧を守らんと欲す。震孺兵を振武に駐ることを請う。軍法厳しからず、震孺寧前監軍を敕し、専ら逃軍逃将を斬らしむることを請う。並びに其の言に従う。然れども是の時、経撫和せず、疆事益々壊る。震孺再び疏し山海外衛無きを言い、宜しく亟に兵を中前に駐め、以て眼目と為すべしとす、省みられず。
明年正月、任満ち、前屯にて代を候う。而して大清兵已に再び三岔河を渡る。先鋒孫得功戦わずして、振武に呼びて曰く「兵敗れたり」と、遂に走る。巡撫王化貞広寧に在り、亦倉皇として走る。列城之を聞きて皆走る、惟だ震孺前屯は動かず。当是の時、西平守将羅一貫已に戦死し、参将祖大寿残兵を擁し覚華島上に駐る。ここにおいて震孺水師帥張国卿を召し相与に謀りて曰く「今東師四外糧を搜す、祖将軍島上に米豆二十余万、兵十余万、人民数万、戦艦・器仗・馬牛数無し有るを聞く、東師即ち島兵を媾わば、島兵を得て以て榆関を攻めん、豈に幸あらんや」と。ここにおいて震孺・国卿航海して大寿に見え、慷慨として語りて曰く「将軍帰らば、相保ちて富貴を以てす;帰らざれば、震孺請う頸血を以て将軍に濺がん」と。大寿泣き、震孺亦泣き、遂に相携えて以て帰り、軍民輜重算無きを得る。
主事徐大化と云う者有り、忠賢の党なり、震孺を劾して曰く「差を攘う」と。都御史鄒元標奮筆して曰く「方御史山海を保全し、過無く且つ社稷の功有り」と。給事中郭興治遂に道学を借りて以て元標を逐う。元標去り、震孺亦即ち罷め帰る。明年、忠賢・広微大獄を興し、再び方御史を劾する者を募る。興治再び震孺の河西における贓私を論ず。逮問し掠治し、贓六千有奇を坐し、絞を擬す。而して揚州守劉鐸の咒詛の獄又起り、遂に震孺と交通せしを誣う、大辟を坐し、獄に繫がる。邏卒有り時時震孺の飲啖を佐く、之を問えば、則ち曰く「小人妻有り、公の精忠を聞き、手づから治めて以て献ずる者なり」と。輒ち璫に報じて曰く「某病革まり、某死に瀕す」と。璫是を以て防益々疏なり。
明年、庄烈帝位を嗣ぎ、釈放され還る。八年春、流賊寿州を犯す。州長吏適に秩を遷して去る。震孺士民を倡し固守す。賊是より寿州を逼ることを敢えず。巡撫史可法其の功を上る。用いて広西参議と為す。尋いで右僉都御史に擢げ、広西を巡撫す。京師陥ち、福王南京に立ち、即日疏を拝し勤王す。馬士英・阮大鋮之を憚り、敕して還鎮せしむ。震孺竟に郁郁憂憤して卒す。
徐従治
徐従治、字は仲華、海塩の人。母夢みしに神人庭に戈を舞う、寤めて生む。従治万暦三十五年進士に挙げられ、桐城知県を除く。累官して済南知府に至り、卓異を以て兗東副使に遷り、沂州に駐る。
従治警敏にして変に通じ、其の賊を禦するは類く剿を主とし撫を主とせず、故に往々賊を滅す。旋って右参政を以て済南を分守す。功を録すれば、従治最も上り、右布政使に進み、江南の漕を督む。妖賊再び起る。巡撫王惟儉奏して従治を留め、仍お沂を守らしむ。按臣撫を主とす。従治議合わず、遂に告帰す。
中外計議調う。崇禎初め、故秩を以て薊州兵備を飭む。薊軍久しく餉を欠き、巡撫王応豸を遵化に囲む。従治単騎馳せ入り、陰に夷丁・標兵を部署し、四門に分営し、甲を按じて動かず、城に登りて呼びて曰く「三月の糧を与え、趣に帰りて汛地を守れ、否んば将に汝を撃たん」と。衆声に応じて散ず。其の応変多く此に類す。左布政使に進秩し、再び告帰を請う。
四年、起きて武徳兵備を飭む。孔有徳山東に反す。巡撫余大成檄して従治に監軍せしむ。明年正月馳せて萊州に赴く。而して登州已に陥つ。大成削籍せられ、遂に従治を擢げ右副都御史として之に代え、登萊巡撫謝璉と並びに命ず。詔して璉は萊州に駐まり、従治は青州に駐まり、兵食を調度せしむ。従治曰く「吾青に駐まらば、萊の人を鎮むるに足らず;萊に駐まらば、全斉の命を系ぐに足る」と。乃ち璉と同に事を萊に受けしむ。
孔有德は遼東の人である。耿仲明、李九成、毛承祿らと共に皆、毛文龍の麾下の兵卒であった。文龍が死ぬと、登州に逃げ込んだ。登萊巡撫孫元化は長く遼東に官職にあり、平素より遼東の兵は用いるに足ると言っており、そこで承祿を副将に、有德と仲明を遊撃に、九成を偏裨に用い、かつ多く遼東の兵を牙兵として収容した。この年、大淩河新城が包囲されると、兵部は元化に檄を飛ばし精鋭を海路で派遣し、耀州塩場に向かわせ、牽制の意を示させた。有德は風向きが逆だと偽って言い、陸路から寧遠へ赴くことに変更した。十月晦、有德および九成の子で千総の応元が千余人を率いて出発し、一月かけて呉橋に到着したが、県人は市を閉ざし、兵たちは食を得ることができなかった。一兵卒が諸生と争い、有德がこれを鞭打つと、兵たちは大いに騒ぎ立てた。九成は先に元化の銀を携えて塞上で馬を買っていたが、使い果たして償う術がなく、丁度呉橋に到着した。兵たちの怨嗟を聞くと、遂に応元と謀り、有德を脅迫し、共に乱を起こし、陵県、臨邑、商河を陥とし、斉東を荒らし、徳平を包囲した。やがてこれを捨て去り、青城、新城を陥とし、兵を整えて東進した。
余大成は、江寧の人である。兵事を知らない。初め職方郎中となり、かつて大学士劉一燝の私信を奏上して発覚させ、彼を失脚させた。後にまた事があって魏忠賢に逆らい、官籍を削られて帰郷し、清廉で節操ある名声があった。しかし山東巡撫となると、白蓮教の妖賊がちょうど勢い盛んであり、また逃兵の変乱もあり、いずれも討伐できなかった。有德の反乱を聞くと、すぐに病気と称して数日も出仕できず、やむを得ず中軍の沈廷諭と参将の陶廷鑨を派遣して防禦させたが、いずれも敗れて逃走した。大成は恐れ、遂に撫慰の策を定め、一方で元化の軍も到着した。
元化は、かつて西洋大砲に精通していると称されていた者であるが、この時もまた撫慰を主張し、賊が通過する郡県に迎撃しないよう檄を飛ばした。賊は長駆し、敢えて一矢を加える者もなかった。賊は元化に降伏すると偽って約束した。元化は軍を黄山館に駐屯させて引き返し、賊は遂に登州に到達した。元化は将の張燾に遼東兵を率いさせて城外に駐屯させ、総兵の張可大に南兵を率いさせて賊を防がせた。元化はなおも賊を招降しようとしたが、賊は応じなかった。五年正月、城東で戦い、遼東兵が急に退却し、南兵は遂に敗れた。燾の兵の多くが賊に降り、賊は彼らを帰還させたが、士民は争って受け入れず防ぐよう請うたが、元化は聞き入れず、賊は遂に入城した。日が暮れる頃、城中で火の手が上がり、中軍の耿仲明、都司の陳光福らが賊を導いて東門から入り、城は遂に陥落した。可大はここで戦死した。元化は自刎したが死にきれず、参議の宋光蘭、僉事の王征および府県の官らことごとく捕らえられた。大成は萊州に馳せ入った。
初め、登州が包囲された時、朝廷は大成と元化の官位を三級降格し、賊の処理を命じた。登州が陥落すると、元化を解任し、謝璉を後任とした。有德は登州を陥とした後、九成を主と推し、己はその次、仲明はまたその次とした。巡撫の印を用いて州県に兵糧を要求する檄を飛ばし、元化に書簡を移して大成に撫慰を求めるよう急がせ、「登州一郡を与えれば、包囲を解く」と言った。大成は朝廷に報告した。帝は怒り、大成を解任するよう命じ、徐従治を後任とした。
先に、賊は黄県を攻め落とし、知県の呉世揚がここで死んだ。この時、萊州を攻撃し、従治、璉および総兵の楊禦蕃らがそれぞれ城壁を分けて守った。禦蕃は肇基の子である。肇基は、従治と共に妖賊の鄒県、滕県を剿滅した者である。禦蕃は戦功を積んで通州副総兵に至った。ちょうど登州陥落の時、兵部尚書の熊明遇が上奏して総兵官に任命し、山東の兵をすべて率いさせ、保定総兵の劉国柱、天津総兵の王洪と兼行で進軍させた。新城で賊に遭遇し、洪が先に逃走した。禦蕃は二日間防戦したが勝てず、包囲を突破して出ると、遂に萊州城に入り、従治と璉は賊を剿滅するのを彼に頼った。賊は萊州を攻め落とせず、兵を分けて平度を陥とし、知州の陳所問は自縊した。賊はますます萊州を攻め、元化が製造させた西洋大砲を車で運び、毎日城壁に穴を穿ち、城壁は多く崩れた。従治らは火を投げ込み水を注ぎ、穴を穿つ者は数え切れぬほど死んだ。決死隊を時折出撃させて掩撃し、賊の砲台を破壊し、多くを斬り捕らえた。しかし明遇は結局大成の撫慰論に惑わされ、主事の張国臣を賛画として派遣して撫慰に当たらせ、「山東にいる遼東の人々を安んじ輯める」と言い、国臣もまた遼東の人であったからである。国臣は先に廃将の金一鯨を賊の陣営に入らせ、やがて国臣自身も入り、賊のために書簡を移し、一鯨を帰還させて報告させた。「出兵して撫慰の局面を壊すな」と。従治らはその偽りを知り、一鯨を叱り退け、密使を遣わして三度上疏し、賊は撫慰すべからざることを言った。最後に言うには、「萊城は五十日包囲され、累卵の如く危うい。日夜援兵を待つが、ついに至らず、必ずや撫慰の議論に誤られたと知る。国臣が臣に送った書簡の中に、詔旨と兵部の諭帖を写したものがあり、そこで部臣が既に国臣の報告に基づいて、聖聴に達したことを知った。そもそも国臣は郷里の情が重く、聖明を欺き封疆を陥れることを忍ぶ。その初めに一鯨を賊営に入れた時、どうして兵を止めて攻めないなどということがあったか?もし本当に兵を止め、あるいは少し退いたなら、臣らどうして喜んで撫慰しないことがあろう?ただ国臣が撫慰を以て賊を弁解し、賊は実に撫慰を借りて緩兵の計としているのである。一鯨は賊から賄賂を受け、援軍に対しては賊は数万で軽々しく進むべからずと誑かし、諸将に対しては賊は西洋砲で攻め、城は陥落寸前だが、我が招撫のおかげで賊は攻撃を止めたと誑かす。そもそも一鯨は三度賊営に入ったが、入るたびに賊の攻撃はますます激しくなった。それなのに国臣は、賊は我々が城から縋り下りて撃ったことを怒り、それで彼らが攻撃したのだと言う。これは賊に任意に攻撃させ、我々は一矢も加えず、元化が登州城を断送したようにして、それから国臣の撫慰を成し遂げよというのか?賊が青州を通った時、大成は三千の兵を擁し、賊を剿滅するのは甚だ容易であった。元化が書簡を送り『賊は既に撫慰に応じた、そちの兵は東に向かうな』と言ったので、大成は遂に追撃を止め、賊が蔓延するに任せた。今、賊は臣らを元化同様に見なし、賊のために弁解し、呉橋での激変には原因があったと言い、一路刀を封じて殺さなかったと言い、天子の詔を聞いて攻撃掠奪を止めたと言う。誰を欺こうというのか!朝廷中が国臣の妄報に満ち、必ずや一枚の書簡は十万の兵に勝り、援軍が来ないのはこのためであると言う。臣は死して厲鬼となり賊を殺すであろうが、断じて撫慰をもって至尊を欺き、国是を混乱させ、封疆を誤り、生命を害することはしない。」上疏が入ったが、返答はなかった。
この時、城外の包囲は日増しに切迫し、国柱、洪および山東の援軍はすべて昌邑に頓挫して進まず、二人の巡撫は城中に包囲されて困窮した。ここにおいて朝廷はさらに総督一人を設置することを議し、兵部右侍郎の劉宇烈をこれに任じた。薊門、四川の兵を調発し、総兵の鄧玘に統率させ、密雲の兵を調発し、副将の牟文綬に統率させ、右布政使の楊作楫にこれを監させ、萊州救援に向かわせた。三月、宇烈、作楫、国柱、洪、玘および監視の中官の呂直、巡按御史の王道純、義勇副将の劉澤清、新兵参将の劉永昌、朱廷祿、監紀推官の汪惟効らが並びに昌邑に集結した。玘、国柱、洪、澤清らは萊州に到着し、馬歩軍二万五千、気勢は甚だ盛んであった。しかし宇烈には方策も戦略もなく、諸将師は懦怯で、沙河に到着すると、一日に十度も撫慰を議するために行き、捕らえた賊の陳文才を釈放して帰した。ここにおいて賊は我が方の虚実をことごとく知り、ますます撫慰をもって我々を愚弄し、ひそかに兵をその背後に回らせ、我が輜重をすべて焼き払った。宇烈は恐れ、遂に青州に逃走し、三将の兵を撤収させ食糧を得させた。玘らは夜半に陣営を引き払って散り、賊はこれに乗じ、大敗した。洪、国柱は青州、濰県に逃走し、玘は昌邑に逃走し、澤清は萊城で交戦し、二本の指を傷つけ、また敗れて平度に逃走し、ただ作楫のみが軍を統率できた。三将が既に敗れると、朝廷中が嘩然とし、明遇は官軍が用に足らぬと見て、撫慰の議論はますます固くなった。
先に、登州総兵の可大が死に、副将の呉安邦を以てこれに代えたが、安邦は特に怯懦で鈍重であった。命令を奉じて寧海に屯し、登州を攻略せんと図った。仲明は城を以て降ると言い触らし、安邦はこれを信じ、城より二十五里離れて軍を置いた。中軍の徐樹聲が城に迫って捕らえられ、安邦は走って寧海に還った。登州は既に下せず、賊は萊州を長く包囲し、璉、従治、禦蕃は日々堅守して救援を待った。四月十六日に至り、従治が砲弾に当たって死に、萊州の人々は大いに慟哭し、城壁を守る者も皆泣いた。
山東の士官で南京にいた者たちが、上疏を合わせて宇烈を攻撃し、増兵を請うた。ここにおいて昌平の兵三千を調発し、総兵の陳洪範にこれを統率させた。洪範もまた遼東の人である。明遇は日々足を上げて望み言うには、「行け、撫すればよいのだ」と。天津の旧将の孫応龍なる者が、大言を吐いて衆に言うには、「仲明兄弟は私と親しい、私は彼らに有徳と九成を縛って来させることができる」と。巡撫の鄭宗周がこれに兵二千を与え、海路より往かせた。仲明はこれを聞き、偽って他人の死人頭を函に入れて欺き言うには、「これが有徳である」と。応龍は舟師を率いて水城に到着した。賊はこれを招き入れて、突然縛り斬り、一人として脱する者はなかった。賊は巨艦を得て、勢い益々張った。島帥の黄龍がこれを攻めて克たずに還った。遂に招遠を破り、萊陽を包囲した。知県の梁衡が固守し、賊は敗れて去った。
宇烈は再び昌邑に至り、洪範、文綬等もまた至った。萊州推官の屈宜陽が賊営に入って撫を講じることを請い、賊は偽って礼を以てこれに接した。宜陽は使いをして賊が既に命を受けたと言わせ、宇烈は上奏して許可を得た。乃ち手書を以て賊を諭し、包囲を解かせんとした。賊は宇烈を招いたが、宇烈は恐れて行かなかった。営将の厳正中が龍亭を担ぎ河に至ると、賊はこれを擁して去り、宜陽をして萊州に還らせ、文武の官を出城させて開読させ、包囲は即時に解けると言った。禦蕃は不可としたが、璉は言うには、「包囲すでに六月、既にどうしようもない、宜しく暫くこれに従うべし」と。遂に監視中官の徐得時、翟升、知府の朱万年と共に出た。有徳等は叩頭して伏し、涕泣が頬に交わり、璉は慰諭すること久しくして還った。明日また宜陽をして入らせ、璉、禦蕃の同出を請わせた。禦蕃は言う、「私は将家の子、賊を殺すことを知るのみ、何ぞ撫の事を知らんや」と。璉等は遂に出た。有徳はこれを捕らえ、突然城を攻め、却って万年をして降を呼ばせた。万年は呼んで言う、「我は死ぬ、汝等は宜しく固守すべし」と。罵り絶えずして死んだ。賊は璉及び二中官を登州に送って囚え、正中、宜陽は皆死んだ。
初め、撫議が起こり、独り従治が不可を主張した。宇烈諸将はこれを信じ、尚書の明遇がその議を主とした。従治が死に、璉は遂に捕らえられた。ここにおいて挙朝憤慨し、宇烈を捕らえて獄に下し、関外の勁卒を調発してこれを剿滅し、総督及び登萊巡撫を廃して設けず、専ら従治に代わる者朱大典に任じて行かせた。明遇は撫を主として国を誤った罪に坐し、罷免されて帰り、遂に撫議は絶えた。八月、大典は兵を合わせて萊州を救った。兵が接するや、賊は直ちに大敗し、包囲は解けた。有徳は登州に走り、九成は璉及び二中官を殺した。大典は登州を包囲し、九成は戦死した。城は破れ、追剿し、有徳、仲明は海に入って遁走した。承禄等を生け捕りにし、応元を斬り、賊は尽く平定した。事は詳しく『大典伝』にある。詔して従治に兵部尚書を贈り、祭葬を賜い、錦衣百戸を蔭し、祠を建てて「忠烈」と曰い、璉に兵部右侍郎を贈り、また祭葬を賜い、祠を建て、子を蔭し、禦蕃は功多きを以て、都督同知を署し、総兵とし、登州、萊州に鎮せしめた。而して宇烈は翌年に遣戍せられた。璉は字を君実といい、監利の人である。宇烈は綿竹の人で、大学士の宇亮の兄である。その戍せられたるを、人は刑を失したと為した。大成は捕らえられて獄に下り、遣戍せられた。赦されて還り、家に卒した。
元化は字を初陽といい、嘉定の人である。天啓年間に郷挙された。よくした西洋砲法は、徐光啓より得たものである。広寧が覆没すると、京を備え辺を防ぐ二策を条上した。孫承宗が朝廷に請うて、経略軍前の賛画を得た。砲台を建て教練する法を主とし、因って寧遠、前屯を拠ることを請い、策を以て王在晋に干したが、在晋は用いなかった。承宗が辺を行き、還って奏し、兵部司務に授けられた。承宗が在晋に代わり、遂に重関の非を破り、台を築き砲を制するは、一様に元化の言う如くであった。還って元化を職方主事に授け、已にして、元化は袁崇煥の寧遠を賛画した。還朝し、尋いて罷められた。
賛に曰く、疆圉に多故あれば、則ち事に任ずる臣を思う。梅之煥諸人は、風采機略尚お大いに巽懦恇怯の徒と異なるも、而して文法に牽かれ、或いは廃され或いは死し、悲しいかな!叛将が横行するも、縛り斬るは、一偏裨の力のみ。中に撫議を撓がせ、堅城を委ねてこれに与え、援師は観望して進まず、徒に擾擾たるのみ。官を設け将を命ずるも、何の益かあらん。撫議の国を誤るや、言うに勝えんや!