劉綎
劉綎、字は省吾、都督劉顕の子なり。勇敢にして父の風あり、蔭により指揮使となる。
萬暦初年、劉顕に従い九絲蠻を討つ。先登し、その酋長阿大を擒える。功により雲南迤東守備に遷り、南京小教場坐営に改む。
十年冬、緬甸永昌・騰越を犯す。巡撫劉世曾兵の増援を請う。明年春、劉綎を遊撃将軍に擢げ、騰沖守備事を署す。緬甸は雲南より遠く、その酋長莽瑞體兵をもって諸番を服してより、勢い強く成り、数たび辺境を擾す。江西人嶽鳳なる者、隴川に商い、驍桀にして智謀多く、宣撫多士寧の記室となり、士寧は妹を以て妻とす。鳳は士寧を誘い瑞體に見えしめ、密かに子曩烏と謀り毒を以て之を殺し、併せてその妻子を殺し、金牌印符を奪い、瑞體の偽命を受け、士寧に代わり宣撫となる。瑞體死し、子応裏嗣ぐ。鳳は耿馬の賊罕虔・南甸土舎刀落參・芒市土舎放正堂と結び、応裏の従父猛別・弟阿瓦等と、各象兵数十万を率い雷弄・盞達・幹崖・南甸・木邦・老姚・思甸諸処を攻め、殺掠算うるに遑あらず。騰越・永昌・大理・蒙化・景東・鎮沅・元江を窺う。已にして順寧を陥とし、盞達を破り、又曩烏に令し緬兵を引き猛淋を突かしむ。指揮呉継勛等戦死す。鄧川土官知州何鈺は、鳳の僚婿なり、使者を遣わし之を招く、鳳は縛し応裏に献ず。
是の時に当たり、車裏・八百・孟養・木邦・孟艮・孟密・蠻莫皆兵を以て賊を助け、賊勢益々盛んなり。黔国公沐昌祚警報を聞き、洱海に移り駐し、巡撫劉世曾も亦楚雄に移る。大いに漢土軍数万を徴し、参政趙睿に令し蒙化に壁し、副使胡心得に令し騰沖に壁し、陸通霄に令し趙州に壁し、僉事楊際熙に令し永昌に壁せしめ、監軍副使傅寵・姜忻と参将胡大賓等を督し分道進撃す。大小十余戦、積級千六百余、猛別・落參皆斃る。参将鄧子龍は姚関に於いて罕虔を撃ち斬る。応裏は鳳を促し東は姚関を寇し、北は湾甸・芒市を拠る。会に劉綎軍に至り、軍大いに振う。鳳懼れ、乃ち妻子及び部曲を令し来降す。劉綎は責めて金牌印符及び蠻莫・孟密の地を献ぜしむ。乃ち鳳の妻子を送り隴川に還すを名とし、兵を分かち沙木籠山に趨り、その険を拠り、而して己は馳せて隴川境に入る。鳳は四面皆兵なるを度り、遂に軍門に詣り降る。劉綎復た兵を率い緬に進む、緬将先ず遁れ、少兵を隴川に留む。劉綎之を攻む、鳳の子曩烏も亦降る。劉綎乃ち鳳父子を携え蠻莫を攻め往き、乗勝掩撃す。賊窘し、緬人及び象馬を縛し来たり献ず、蠻莫平ぐ。遂に孟養の賊を招撫す、賊将象に乗りて走る、追いて之を獲る。復た師を移し孟璉を囲み、その魁を生擒す。
雲南平ぐ、朝に俘を献ず。帝は郊廟に告謝し、百官の賀を受けしむ。大学士申時行以下、悉く官を進め子を蔭す。劉綎も亦副総兵に進み、世蔭を予う。乃ち孟密安撫司を宣撫に改め、安撫二を増設し、曰く蠻莫、曰く耿馬、長官司二、曰く孟璉、曰く孟養;千戸所二、一は姚関に居し、一は猛淋に居す。皆之を「鎮安」と名づく。劉綎に命じ副総兵を以て臨元参将を署し、蠻莫に移鎮せしむ。初め、鳳の降るは本より計を以て誘いしに在りしも、巡撫世曾は陣擒と称し、遂に献俘の礼を行い、功を叙し閣部に及ぶ。
劉綎は、将家の子なり。父劉顕の部曲に健児多し、劉綎之を擁し自ら雄とす。緬征伐の役、兵を金沙江に勒め、将台を王驥の故址に築き、威名甚だ盛んなり。然れども性貪にして、下を禦うに法無し。兵還り騰沖に至り、甲し噪き、民居を焚く。劉綎蠻莫に在り、之を聞き馳せ至り、金銭を以て犒い、始めて定まる。思順は禍の及ぶを恐れ、叛き莽酋に帰す。詔して劉綎の任を革め、遊撃として調を候わしむ。
二十年召し五軍三営参将を授く。会に朝鮮に師を用う、劉綎川兵五千を率い赴き援けんことを請う、詔して副総兵として従征せしむ。至れば則ち倭已に王京を棄て遁れ、劉綎は尚州烏嶺に趨る。嶺は七十里に亙り、峭壁一線を通ず、倭は険に拠り拒ぐ。別将査大受・祖承訓等は間道より槐山を逾え、烏嶺の後に出づ。倭大いに驚き、遂に釜山浦に移り駐す。劉綎及び承訓等は進み大邱・忠州に屯し、金羅水兵を以て釜山海口に布き、朝鮮略く定まる。未だ幾ばくもせず、倭は小西飛を遣わし款を納れ、遂に咸安・晉州を犯し、全羅に逼る。提督李如松急ぎ李平胡・査大受を遣わし南原に屯し、祖承訓・李寧を咸陽に屯し、劉綎を陜川に屯し、之を扼せしむ。倭果たして分かち犯す、諸将並びに斬獲有り。倭乃ち釜山より西生浦に移り、王子を送り朝鮮に帰す。帝は命じ李如松の大軍を撤し還らしめ、止む劉綎及び遊撃呉惟忠を留め合わせ七千六百人とし、分かち要口を扼せしむ。総督顧養謙は力めて尽く撤くを主とし、劉綎・惟忠も亦先後に還る。
二十四年三月、火落赤・真相・昆都魯・歹成・他卜囊等は番を掠め内境を窺う。劉綎の部将周国柱等は之を莽剌川脳に撃ち、首級百三十余を斬り、馬牛雑畜二万計を獲る。帝は郊廟に告げ捷を宣ぶ。劉綎等は秩を進め蔭を予うること差等有り。
翌年五月、朝鮮に再び出兵した。詔して劉綎を禦倭総兵官に充て、漢土の兵を提督して討伐に赴かせた。さらに翌年二月に朝鮮に到着すると、楊鎬・李如梅は既に敗れていた。経略邢玠は軍を三つに分け、中央は董一元、東は麻貴、西は劉綎とし、陳璘は専ら水兵を率いた。劉綎は水源に営した。倭も三路に分かれ、西の行長は順天を占拠し、壕と砦は深く堅固であった。劉綎は彼を誘い捕らえようと、使者を遣わして会見の日時を請うた。使者が三度往復し、劉綎は皆単騎で道中に待った。行長はこれを窺い知り、ようやく信じ、八月朔日を期して約定を定めた。期日に至り、劉綎の部下の兵卒がその謀を漏らしたので、行長は大いに驚き、逃げ去った。劉綎は進攻して利を得ず。監軍参政王士琦は怒り、その中軍を縛った。劉綎は恐れ、力戦してこれを破り、賊は退いて敢えて出なかった。諸将が三道より進み、劉綎は挑戦してこれを破り、賊を大城に駆り入れた。やがて、賊は平秀吉の死を聞き、逃げ去ろうとした。劉綎は夜半に栗林・曳橋を攻め奪い、斬獲多く。石曼子が舟師を率いて救援し、陳璘が海中で邀撃した。行長は遂に順天を棄て、小舟に乗って逃げた。
軍を返し、劉綎を都督同知に進め、世蔭千戸とした。遂に軍を移して楊応龍を征討した。時に四川総兵官万鏊が罷免されたので、直ちに劉綎を以てこれに代えた。時に兵は八道に分かれ、四川はその四つを占めた。川東はさらに二つに分かれ、綦江道が最も要衝であったので、劉綎にこれを担当させた。応龍は劉綎の才に通じており、頗る懼れ、要害を守る兵を増やした。二十八年正月、諸将は丁山・銅鼓・厳村を攻克し、遂に直ちに楠木・山羊・簡台の三峒を搗いた。峒は極めて険しく、賊将穆照ら数万の衆が連営し、諸将はこれを憚った。劉綎は兵を分けてその三面を攻め、李漢壩にて大戦し、その魁を生擒し、残賊は峒に奔り入った。勢いに乗じて三関を攻克し、直ちに峒前に搗き入り、これを焼き、賊多く死す。三峒をことごとく攻克し、穆照及び賊魁呉尚華を擒えた。この日、劉綎は督戦し、左手に金を持ち、右手に剣を挺てて大呼して曰く「命を用いる者は賞し、命を用いざる者は剣にかかる」と。戦い死する者四十人、遂に大捷した。応龍は乃ち子の朝棟・惟棟及びその党楊珠に命じ、鋭卒数万を統率させ、松坎・魚渡・羅古池の三道より並進させた。劉綎は万人を羅古に伏せ、松坎の賊を待ち、万人を営外に伏せ、魚渡の賊を待ち、別に一軍を以て策応させた。賊果たして至り、伏兵尽く起つ。劉綎は部下を率いて転戦し、数百を斬首し、五十里を追奔した。賊は石虎関に聚まって守り、劉綎もまた塹を掘って守った。
初め、劉綎は播州征討の命を聞き、逗留し、多く難題を設けて朝廷に要請した。言官が交々に弾劾し、南京右府僉書に調ずることを議した。劉綎はこの時に至ってこれを聞き、即ち任を辞した。総督李化龍は播州平定は劉綎でなければならぬとし、固くこれを留め、力を以て朝廷に推薦した。劉綎は乃ち再び事を受け、夜郎旧城を越え、賊の滴涙・三坡・瓦窯坪・石虎の諸隘を攻克し、直ちに婁山関に抵った。婁山は万峰天を挿し、叢箐の中に一径僅か数尺、賊は木関十三座を設け、柵を並べ深坑を置き、百の険しきこと俱に備わっていた。劉綎は奇兵を左右路に分け、間道より関後に向かわせ、自らは大軍を督して仰ぎ攻め、その関を奪い、永安庄まで追撃し、両路軍もまた合流した。劉綎は老将として慎重を保ち、賊の衝突を慮り、諸営を連ねた。一つは婁山関を占めて老営とし、一つは白石口を占めて腰営とし、一つは永安庄を占めて前営とした。都指揮王芬という者は、勇猛だが謀り事に乏しく、毎戦ごとに前鋒を請い、連勝して軽敵の心があり、独り松門埡の要衝に営し、大営より数里の距離にあった。賊はちょうど烏江の勝利を得て、再び婁山を奪わんと謀っていた。折しも穆照が使者を遣わして王芬の孤軍の状を漏らしたので、賊は乃ち襲撃して王芬を殺し、守備陳大剛・天全招討楊愈もまた死に、士卒二千人を失った。劉綎はこれを聞き、親しく騎卒を率いて往き救い、部将周以徳・周敦吉が両翼に分かれて挟撃し、賊は始めて大いに奔り、養馬城まで追撃して還った。この日、応龍は危うく捕らえられんとしたので、乃ち敢えて婁山を窺わなかった。劉綎は前の過失を戒め、関に近く堅壁を劄し、且つ援軍を請うた。十余日を過ぎて、後水囤を攻克し、冠子山に営した。まもなく馬孔英・呉広諸軍と会し、海龍囤下に迫り、諸将と共に賊を平定し、劉綎の功績が最も多かった。
初め、李化龍が劉綎を推薦した時、言官は劉綎が嘗て応龍の賄賂を受け取ったとし、官を奪って軍に従うべきと論じた。部議して事官に貶し、罪を戴いて賊を討たしめた。劉綎は化龍に恩を感じ、使者を使わして玉帯一・黄金百・白金千を化龍の家に届けさせたが、化龍の父に叱られた。巡按御史崔景栄の家に届けても同様であった。化龍・景栄は共にその事を奏上し、詔して劉綎の任を革め、永く収録せず、その物を官に没収した。やがて、播州平定の功を録し、左都督に進め、世蔭指揮使とした。
三十六年、雲南で阿克が反し、劉綎を起用して討賊総兵官とした。未だ至らぬうちに、賊は既に平定され、前の任命は取りやめとなった。四十年、四川建昌で倮族が乱を起こし、劉綎を総兵官に命じてこれを討たせた。参政王之機と共に八道に分かれて諸将を督いて攻め、自らは中央に在って節制し、桐槽・沈渣・阿都・廈卜・越北の諸砦を攻克し、大小五十六戦、斬首三千三百余り、諸倮の巣穴は一空となった。
劉綎は将として、数度罷黜抑圧されたが、性驕恣なること従前の如し。嘗て拳を以て馬湖知府詹淑を毆り、淑は改調され、劉綎は俸禄を半年奪われた。久しくして、軍政拾遺を以て罷免され帰郷した。
四十六年、帝は遼東の警報を思い、召して左府僉書とした。明年二月、経略楊鎬は劉綎及び杜松・李如柏・馬林の四路に出師を命じた。劉綎の兵四万、寛佃より出で、副使康応乾がこれを監し、遊撃喬一琦が別に朝鮮軍を監して並進した。劉綎は蜀を鎮守すること久しく、蜀兵を用いることを好んだ。久しく待っても至らぬので、遂に出発した。而して分けられた道は特に険阻遠く、重岡疊嶺、馬は列を成さず。深河に次ぎ、連ねて牛毛・馬家の二砦を攻克した。大清兵五百が董鄂路を守り、劉綎の軍の至るを聞き、逆襲して戦った。劉綎は兵を放って数重に囲み、大清兵は衆寡敵せず、裨将二人を失い、五十人を傷つけ、残りは囲みを潰して出た。劉綎は既に三百里深く入り、杜松の軍の覆滅を知らなかった。再び衆を整えて進み、大清兵に遇い、劉綎は軍を率いて阿布達里岡に登り、陣を布かんとした。大清兵もまた岡に登り、その上に出で、別に一軍を以て劉綎の西に向かわせた。岡上の軍は高きより馳せ下り、奮撃して劉綎の軍を撃ち、劉綎は殊死に戦った。劉綎の西に向かった軍もまた傍より夾撃し、劉綎の軍は支えることができず。大清兵は勢いに乗じて追撃し、劉綎の後方の二営の軍に遇った。未だ陣を布かず、また大清兵に乗ぜられ、大いに潰え、劉綎は戦死した。養子の劉招孫という者は最も驍勇で、包囲を突破し、手ずから数人を格殺したが、亦た死んだ。士卒で脱出した者は僅かであった。
時に康応乾及び朝鮮軍は富察の野に営し、大清は遂に師を移してこれを邀撃した。応乾の兵及び朝鮮兵は兵器を並べて将に戦わんとしたが、狂風驟然として起こり、砂石を揚げた。応乾が火器を発すると、己の営を反撃し、大いに乱れた。大清兵は趨撃し、これを大破し、掩殺して幾らくも尽くし、応乾は数百騎を以て免れた。一琦もまた大清兵に破られ、朝鮮の営に走り入った。朝鮮の都元帥姜弘立・副元帥金景瑞は懼れ、衆を率いて降り、一琦は崖に投身して死んだ。楊鎬は杜松・馬林の師の敗北を聞き、馳せて劉綎及び李如柏を召還した。騎が未だ至らぬうちに、劉綎は既に覆滅し、独り如柏のみ全うした。事が聞こえ、帝は中使を遣わして陣亡の将士を祭り、劉綎の家を恤った。
劉綎は諸将の中で最も驍勇であった。緬寇を平らげ、羅雄を平らげ、朝鮮の倭を平らげ、播州の酋長を平らげ、倮族を平らげ、大小数百戦、威名は海内に震うた。綎が死ぬと、朝廷は大いに悚然とし、辺境の事は日増しに難しくなった。綎の用いた鑌鐵の刀は百二十斤あり、馬上で輪の如く回転させて飛ばし、天下は「劉大刀」と称した。天啓初年、少保を追贈され、世襲の指揮僉事を賜り、「表忠」と称する祠が立てられた。
喬一琦
一琦、字は伯珪、上海の人。
李応祥
李応祥は、湖広九溪衛の人である。武生として軍に従い、功を積んで広西思恩参将に至った。
万暦七年、巡撫張任が十寨を大征した際、応祥はこれに参与して功績があった。その地に三鎮を設け、城を築き戍を列ねた。応祥はちょうど営建の職務に当たっていたが、松潘副総兵に抜擢されることとなり、当事者が奏上して留任させ、新たな官位で旧任に臨ませた。総兵王尚文に従い馬平の賊韋王明を大破し、まもなく都督僉事を署理し、入って五軍営副将となった。
ほどなくして、雒遵は罷免され、徐元泰が代わった。檄を発して諭し、三度使者を往復させたが、番は応じなかった。蒲江関を窺い、帰水崖・黄土坎の道を断ち、五哨溝に墻を築き、東南からの声援を絶った。官軍が少ないのを見て、互いに顧みて笑い、「このような磨子兵が、我らをどうしようというのか」と言った。磨子とは、屡々旋転しても数が増えないものを言う。その冬、平夷堡を急襲し、良民を掠め、その腸を刳り、二つの牛の角に巻きつけた。牛が奔ると、腸は寸断された。翌年正月、遂に蒲江関を包囲し、砲で雉堞を破壊した。守将朱文達が出撃し、数十人を斬った。賊はやや退き、東南路がようやく通じた。
元泰は大征を決断した。諸路の兵が悉く集まり、遊撃周於徳に播州兵を率いて前鋒とさせ、遊撃辺之垣に酉陽兵を率いて後詰とさせ、元総兵郭成に敘州・馬湖の兵を率いてその喉元を扼たせ、参将朱文達に平茶兵を率いてその脇腹を撃たせ、応祥は中央にあって節制し、参議王鳳がこれを監察した。応祥は軍中にそれぞれ赤・白の幟を一本ずつ立てさせ、賊に陥った良民は徒手で赤幟の下に立ち、賊に附かない熟番は徒手で白幟の下に立てば、即ち罪を免じるとした。番は多くとも、急に遇えば互いに救わない。国師喇嘛という者は狡猾で、青海の酋長丙兔及び湾仲・占柯らと姻戚を結び、木に大小諸姓を連ね刻み、血を啜って盟を誓った。この時、湾仲・占柯を誘って先に帰化を犯させて官軍を試させた。於徳は喇嘛・湾仲を誘き出して捕らえ、守備曹希彬はさらに占柯を撃ち斬った。丟骨・人荒・没舌の三砦が最も強く、於徳は皆これを攻略し、さらに卜洞王らの諸砦を連破した。文達・郭成・之垣もそれぞれ数砦を抜き、於徳の軍と合流し、遂に蜈蚣・茹児らの巣窟を攻め破った。嘉靖初年、之垣の祖父辺輪が指揮として茹児賊を討ち、殺され、その頭を漆塗りの飲器にされた。ここに至ること六十年、之垣はようやくそれを得て、還葬した。
賊は屡々敗北し、窮して、悉く輜重を棄てて官軍を餌とした。官軍は顧みず、関を斬って入り、賊は多く死に、河東は平定された。まもなく河を渡って西に進み、西坡・西革・歪地・乾溝・樹底らの巣窟を連破した。小粟谷という者がおり、最初に乱を起こし、大軍が西にあると窺って、備えを設けなかった。郭成が夜襲し、大いに獲るところがあった。牛尾砦は特に険悪で、将士が三路から挟撃し、その柵に火を放ち、酋長合児結父子を斬った。河西も平定された。諸軍は蓄積された稞粟を得て、十日間留まり、その砦を悉く焼き、六月に凱旋した。窮谷に逃れた者は、偏頭結賽に降伏を乞うた。応祥は奴隷を埋めて誓わせ、それから許した。埋奴とは、番人がその奴隷を手を後ろに縛り、軍前に献じ、天を呼んで誓い、即ち要路に引きずって行き、穴を掘って埋め、その首を露出させるもので、合わせて二十三人を埋めた。偏頭結賽は天竺僧と親しく、僧は歳が鶏犬にある時、番に厄があると言った。偏頭はこれを信じ、予め山谷に匿れていた。逃れた賊は彼を神と思い、跡を追って拝み求めたので、偏頭が彼らのために請うたのである。この役で、碉房千六百余りを焼き、賊の首魁三十余人を生け捕りにし、捕虜と首級は千余りに及んだ。ここに至って群番は震驚し、敢えて患いを為さず、辺境の人は碑を立ててその功績を記した。
建昌・越巂の諸衛は、番と倮が雑居していた。建昌の逆酋は安守・五咱・王大咱といい、越巂邛部の黒骨夷と共に乱を起こした。巡撫徐元泰が討伐を議し、一万八千の兵を徴した。依然として文達・之垣に分将させ、応祥がこれを統率し、副使周光鎬がその軍を監察した。十一月、光鎬が先に瀘水を渡ると、黒骨夷と大咱はすでに相嶺を占拠し、三峡橋を焼き、五咱らもまた礼州・徳昌の二所を寇した。当時徴兵は未だ集まっておらず、光鎬は先に疑兵を設け、相嶺の賊を試みると、賊は果たして退いて桐槽に拠った。桐槽は、大咱の巣穴である。やがて諸道の兵が尽く越巂に到着し、応祥は文達に五咱を攻めさせ、之垣に大咱を攻めさせ、暫く黒骨夷は問わずに置いた。夜半に三百里を走って礼州に到着すると、賊は半ば渡河中であり、文達がこれを撃破し、遂に河を渡ってその巣窟を衝いた。之垣もまた屡々桐槽を破り、大咱は山峪の中に逃げ込んだ。
ほどなくして、五咱は磨旗山に拠って挑戦した。官軍が挟撃すると、賊は退いて毛牛山に拠った。山は六七百里に延袤し、大小西番の界に連なり、文達の兵はこれを大破した。五咱は西に逃れ、安守と合流し、西溪に砦を結んだ。ちょうど徴発した塩井の剌馬兵三千が到着した。彼らは猙獰として跳躍し、人形に類せず、諸番が深く畏れるところであった。応祥は賊が営を劫掠しようとしているのを偵知し、密かに自らの営を移し、剌馬兵にその場所に屯させた。夜半に賊が来襲すると、馬剌兵が起きてこれを撃ち、伏屍は狼藉を極めた。諸将は遂に西溪に進攻し、敗走する敵を追って磨砦七板番に至り、連兵して五咱を図り、裨将田中科に麦達に営させて安守を逼迫させた。ちょうど諜者が安守が中科を襲おうと謀っていると報告したので、応祥は夜に材官高逢勝に三つの巨觥を飲ませ、敢死の士三百を率いて七十里を疾走させ、麦達に到着して伏せさせた。安守が夜に到着し、伏兵に遇って捕らえられた。安守は群寇の首魁であり、守が滅びると、西南の邛笮・苴蘭・靡莫の諸酋長は皆震怖した。商山四堡番は之垣に降伏を乞い、大小七板番は文達に降伏を乞い、それぞれ道の左に奴隷を埋め、呼号頓首して、世々敢えて叛かぬことを誓った。五咱は勢い窮まり、昌州に逃れたが、これも裨将王言に捕らえられた。
土木安四児という者は、連昌城中に住み、密かに外で剽掠していた。この時禍いが及ぶことを知り、徒党数百人を率いて走り、虚郎溝に拠った。諸軍が五咱を滅ぼした後、応祥は之垣を北に遣わし、黒骨夷を討とうとすることを示したので、四児は遂に備えを弛めた。将士が忽然と軍を返してこれを襲い、四児を捕らえた。
また大咱を討伐した。初め、大咱は敗れて、親しい普雄の酋長姑咱の所に匿われていた。大軍が到着すると、姑咱は恐れ、密かに裨将王之翰に告げ、之翰は大咱を捜索して捕らえた。また黒夷の酋長阿弓ら七人が大孤山にいたが、これも先に之翰によって捕らえられていた。こうして建昌・越巂の諸番はことごとく平定された。首級の功績は二千余り、降伏して撫でられた者は三千余人に及んだ。時は万暦十五年七月であった。
邛部に属する夷の膩乃なるものは、地が馬湖に近い。その酋長撒假は、外兄の安興・木瓜夷の白祿・雷坡の賊楊九乍らとともに、しばしば内境を侵掠した。巡撫曾省吾がこれを討つことを議した。ちょうど都蛮の役があり、果たせなかった。そこで六つの堡を築き、守兵を千二百人増やしたが、諸蛮は相変わらず猛威を振るった。建昌・越巂で軍を起こすと、また叛人を匿った。元泰は都指揮李献忠らに分かれて討伐させた。賊は偽って降伏し、献忠ら三将を誘き出して捕らえ、士卒数千人を殺し、勢いはますます猖獗となった。応祥らの軍が帰還すると、元泰はさらに播州・酉陽の諸土兵を徴発し、合わせて五万人とし、応祥に文達・之垣及び周於德ら諸将を督いて三路から進軍させ、故総兵郭成も従軍した。十一月、於德がまず白祿の兵を破り、馬蝗山まで追撃し、懸け縄を登って賊を潰走させた。勢いに乗じて木瓜夷を攻め、白祿を射殺した。利済山まで追撃し、雪は数尺深く、於德が先に登り、また賊を大破し、その巣窟を破壊した。初め、撒假と九乍は一万人を率いて山に拠り、播州兵がこれを撃退した。この時、文達がまた大田壩でこれを破り、於德の兵と合流して追撃し、向かうところすべて勝利した。遊撃万鏊が鼠囤で撒假を追撃し、その妻子を捕らえた。郭成がまた三宝山に至り大戦し、撒假を生け捕りにした。安興は巣窟に拠って守り、文達と鏊が分かれて進軍し、その母と妻を捕らえた。安興は途中に金を投げ捨て、追手を遅らせ、こうして逃げ延びた。やがて諸軍が深く入り、ついにこれを捕らえた。他の夷倮で威を畏れて降伏した者は二千余人、ことごとく土田を献上して返還し、職貢を修めることを願い、兵はようやく罷めた。凡そ斬首一千六百九十余、捕虜七百三十余、その地に屏山県を置いた。功績を論じ、応祥はたびたび都督同知を加えられ、元泰も兵部尚書に至った。
この時、蜀中の大賊はことごとく平定され、応祥の威名は大いに著しかった。御史傅霈が巡察し、応祥が兵糧を着服したことを詰問した。応祥は千金を賄賂として贈ったが、奏上され、職を罷められた。兵部が応祥を南京右府僉書に推挙したが、給事中薛三才が認めなかった。
二十八年、大いに播州を征伐した。貴州総兵官童元鎮が逗留したため、総督李化龍がこれを弾劾し、応祥を代わりに推薦した。時に兵を八道に分け、貴州は烏江・興隆の二道に分かれた。詔して元鎮を事官とし、烏江から進軍させ、応祥は興隆から進軍させ、諸道は二月十五日に進軍するよう命じた。応祥が任務に就く前、副将陳寅らがすでに数つの屯を連続して陥落させ、賊を四牌高囤の下に防ぎ、別に兵を間道から派遣して龍水囤を直撃した。他の将蔡兆吉がまた乾坪から箐岡に至り、四牌を通過した。賊首謝朝俸がその地に営し、四面は切り立った崖と深い竹林で、前に二つの関があった。賊は高みから鬨の声を上げ、官軍は決死の戦いをし、朝俸の妻子を捕虜とし、勢いに乗じて河畔に到達した。ちょうど烏江の敗報が伝わり、兵を収めて十日間進軍しなかった。応祥が任務を受けると、ますます諸将に急いで渡河するよう促した。寅らは別の道を取って渡河し、密かに浮橋を作って軍を渡した。諸軍が渡河すると、賊は険要を失い、降伏を乞う者が相次ぎ、応祥はことごとくこれを受け入れた。賊が頼みとするのは黄灘の一関のみで、壁のように立ち、衆は死守した。ちょうど賊徒の石勝俸らが一万余人を率いて降伏し、告げて言うには、「黄灘から三十里のところに三つの関があり、播州に入る門戸である。先にこれを襲い破れば、黄灘は孤立して守り難い」と。応祥はその計略をよしとし、勝俸に陳寅とともに精兵四千を率いて夜に関の下に到達させた。勝俸は数十騎で関門を開かせておびき出し、その守兵を殲滅した。黄灘の賊は恐れた。寅が諸将を督いて河を渡り関の前を攻め、勝俸が墳林から暗に渡って関の後を襲い、賊は大敗した。応祥は直ちに海龍囤に到達し、諸道の兵と合流して楊応龍を滅ぼした。
播州が平定されると、銅仁に戻って鎮守した。翌年、四川に改めて鎮守した。播州の残党の呉洪・盧文秀らは、法が厳しいことを憎み、また遵義知県蕭鳴世が衆望を失った。洪らはそこで応龍に子があると称し、衆を集めて乱を起こした。応祥は副使傅光宅とともにこれを捕らえ、ことごとく捕獲した。応祥はまもなく官で卒した。播州平定の功により、左都督を追贈され、世襲の千戸の蔭官を受けた。
応祥は将として、謀略と勇気を兼ね備え、赴くところすべて功績を奏上した。蜀の三大賊を平定し、功績が最も多かった。
童元鎮
童元鎮は、桂林右衛の人である。万暦年間に指揮となり、平楽の賊莫天龍を討伐して功績があり、たびたび昇進して遊撃将軍となった。高江の瑶が反乱すると、呼良朋に従ってこれを平定した。永寧・潯・梧の参将を歴任し、副総兵に進んだ。都督僉事を署理し、広西総兵官となった。まもなく、広東に改めた。
ちょうど日本が朝鮮を破った。朝廷で議論し、浙江・福建から海を渡ってその巣窟を突き、牽制しようとし、そこで元鎮を浙江に改めた。やがて事は中止となり、貴州に移鎮した。
二十八年、李化龍が楊応龍を大征討するに当たり、呉元鎮に命じて永順・鎮雄・泗城などの諸土司軍を督率させ、烏江から進軍させた。元鎮は応龍を恐れ、長く銅仁に駐屯して進まず、しばしば催促されてようやく出発した。時に劉綎・呉広らの諸軍は既に進軍しており、賊徒らは兵を分けて守備することを議した。その党の孫時泰が言うには、「兵を分ければ力は弱くなる。官軍が未だ集結しないうちに、その弱い者を先に破れば、残りは自ずから退くだろう」。応龍はこれを良しとした。元鎮が烏江を発したと聞き、応龍は喜んで言った、「これは容易い相手だ」。謀って彼らを渡江させ、密かに計略で取ろうとした。監軍の按察使楊寅秋は、烏江は播州から遠くないので、諸道の軍が深く入るのを待ち、共に進むべきだと述べたが、元鎮は従わなかった。そこで永順兵が先に烏江を奪い、賊は千余人を遣わして川沿いに叫び罵り、誘い出そうとした。諸軍が渡河した後、再び老君関を奪った。前哨の参将謝崇爵は勢いに乗じて泗城及び水西の兵を督率し、再び河渡関を陥とした。三月十五日、賊は歩騎数千をもって先ず水西軍を沖き、軍中は象を駆り出して戦ったため、賊は多く傷ついた。やがて象を操る者が斃れると、象は反転して走り、火器を投げる者がまた誤って自軍の陣営を撃ち、陣は乱れた。泗城兵が先に逃走し、崇爵もまた逃走し、浮橋を争って渡ろうとしたが、橋は断たれ、殺され溺死した者は数千人に及んだ。
河渡で敗れた後、烏江は六十里離れていたが、まだそのことを知らなかった。翌日、参将楊顕が永順兵三百を発して哨戒に出させたが、途中で賊数万に遭遇した。賊は皆水西軍の装いをしていた。永順兵は彼らを疑わず、賊は三百人を襲撃して殺し、またその装いを奪って、まっすぐ烏江に向かった。烏江の軍は彼らを水西・永順の軍と信じ、防備を設けなかったため、遂に賊に破られ、我先に江を渡ろうと争った。賊は先に浮橋を断ち切ったため、士卒は多く溺死し、楊顕とその二人の子もその中にあった。元鎮の率いる三万の軍は、十分の一も残らず、将校は崇爵ら三人だけとなり、江水は流れを絶った。
貴陽は警報を聞き、居民は皆城内に避難し、遠近震動した。化龍は上方剣を用いて崇爵を斬り、さらに兵を徴発し、檄を飛ばして鎮雄の土官隴澄に賊の帰路を遮らせた。隴澄とは、即ち安堯臣、水西の安疆臣の弟である。その軍は元鎮と合流せず、独り全うしたので、当局は彼が賊と通じているのではないかと大いに疑った。寅秋は鎮雄が播州までわずか二日の距離であることから、賊の本拠を急襲して直ちに功を立てるよう命じ、澄はこれを承諾した。河渡で敗れる前、澄は既に部将の劉嶽・王嘉猷を遣わして苦竹関及び半壩嶺を攻め落としていた。敗れた後、二将は新站に移った。賊は大水田に伏兵を置き、別に五千人を以て来襲させたが、敗れて還った。嘉猷はそこで声を揚げて大水田を急襲すると言いながら、密かに一軍を以て大夫関を陥とし、まっすぐ馬坎に抵り、賊の帰路を断ち、疆臣と合流した。賊は遂に逃げ去った。時に都指揮徐成が兵を率いて到着し、泗城の土官岑紹勛の兵と合流して、再び河渡関を奪回した。賊将の張守欽・袁五受が長箐・万丈林に拠ったが、永順兵がこれを撃破し、守欽を生け捕りにした。清潭洞を攻め、また五受を捕らえた。時に朝廷の議により元鎮の敗戦の状況が責められ、李応祥にその軍を併せて統率させた。そこで水西・鎮雄などの諸部と合流し、まっすぐ海龍囤に抵り、遂に賊を滅ぼした。
出兵の初め、元鎮は逗留の罪に問われ、事官に貶謫された。この時至り、捕らえられて京に至り、吏部に下され、罪は死に当たるとされた。法司は以前の岑溪での功績を引き合いに出し、煙瘴の地への戍守に貶すことを請うた。赦令に遇い、広西巡撫戴耀が請願したが、部議は許さず、遂に戍所で卒した。
陳璘
陳璘、字は朝爵、広東翁源の人。嘉靖の末、指揮僉事となった。英徳の賊討伐に従い功があり、広東守備に進んだ。大盗賊頼元爵及び嶺東の残寇を平定した。万暦初年、高要の賊鄧勝龍を討平し、また掲陽の賊及び山賊の鐘月泉を平定し、累進して署都指揮僉事となり、広東都司の僉書を務めた。
官軍が諸良宝を攻めた時、副将李成立が戦いに敗れた。総督殷正茂は陳璘を仮に参将とし、自ら一軍を率いさせることを請うた。賊が平定されると、肇慶遊撃将軍を授かり、高州参将に転じた。総督淩雲翼が大規模に羅旁を征討しようとし、先に彫剿を下令した。璘の破った巣窟は凡そ九十に及んだ。その後、十道に分かれて大征した。璘は信宜から入り、諸軍と会合して、賊を覆滅し、その地に羅定州及び東安・西寧の二県を設置した。直ちに璘を副総兵に昇進させ、東安参将の事務を署理させた。間もなく、残党が官吏・民衆を殺害したため、璘に罪を戴いて賊を討つことを命じた。璘は他の将軍朱文達と会して石牛・青水などの諸巣を攻め破り、三百六十余人を斬捕し、俸給は元の通り授けられた。
当時東安は平定されたばかりで、璘は大いに土木を興し、寺廟を営み、部下の兵卒を役務に就かせ、かつ彼らに出資することを強制した。兵卒は皆怒り、ある事を契機に乱を起こし、州県を掠奪したため、巡按御史羅応鶴に弾劾され、詔により璘の官を奪われた。その後賊を捕獲したため、罪を除かれ、狼山副総兵に改任された。
璘は謀略があり、兵を率いることに長けていたが、赴任先で貪欲で汚職を行い、また弾劾されて官を褫奪された。長く廃されたが、朝士の多くはその才能を惜しみ、敢えて推薦する者はいなかった。二十年、朝鮮で戦役が起こると、璘が倭情に詳しいことから、神機七営参将に添註することを命じられたが、到着すると神樞右副将に改められた。間もなく、署都督僉事に抜擢され、副総兵官を充て、薊鎮の協守を務めた。翌年正月、本官を以て薊・遼・保定・山東の軍を統率し、倭を防ぎ海を守ることを詔された。時に封貢の議があり、一時兵を休め、璘を漳州・潮州の協守に改任した。石星に賄賂を贈った罪に問われ、彼に奏劾され、また罷免されて帰郷した。
二十五年、封事(日本の封貢)が失敗に終わると、璘を元の官に起用し、広東兵五千を統率させて朝鮮を救援させた。翌年二月、禦倭総兵官に抜擢され、麻貴・劉綎と共に将軍となった。部下の兵卒が山海関で次に駐屯中に騒動を起こし、璘は責められた。間もなく水軍を提督することを命じられ、貴・綎及び董一元と分道進軍し、副将陳蠶・鄧子龍、遊撃馬文煥・季金・張良相らは皆その配下となり、兵一万三千余人、戦艦数百隻を以て、忠清・全羅・慶尚などの諸海口に分布した。初め、賊は海上に出没し、官軍は舟船に乏しかったため、賊は意のままにしていた。璘の水軍を見て、恐れて海中を往来できなくなった。時に平秀吉が死に、賊将は遁走しようとしたので、璘は急ぎ子龍を朝鮮将李舜臣と共に派遣して邀撃させた。子龍は戦死したが、蠶・金らの軍が到着し、邀撃したため、倭は戦う意志を失い、官軍はその船を焼いた。賊は大敗し、岸に脱出登陸した者もまた陸兵に殲滅され、焼死溺死した者は万を数えた。時に綎はちょうど小西行長を攻め、順天の大城に追い込んでいた。璘は水軍を以て挟撃し、またその船百余隻を焼いた。石曼子(島津義弘)が西進して行長を救援したので、璘は半洋でこれを邀え撃ち、これを撃ち殺し、その徒三百を殲滅した。賊は錦山に退いて守り、官軍が挑んでも出て来なかった。その後、乙山に渡って隠れた。崖は深く道は険しく、将士は進もうとしなかった。璘は夜ひそかに潜入し、その巌洞を包囲した。夜明け頃、砲を発すると、倭は大いに驚き、後山に奔り、高所に拠って抵抗した。将士は決死の攻撃を加え、賊は逃走した。璘は分道して追撃し、賊で逃げおおせた者はなかった。功績を論じ、璘が首位となり、綎がこれに次ぎ、貴がまたその次となった。璘を都督同知に進め、世蔭として指揮僉事を授けた。
軍が帰還したばかりのところに、ちょうど播州征討の役が起こった。命じて陳璘を湖広総兵官とし、偏橋より進軍させ、副将陳良比を龍泉より進ませ、陳璘の節制を受けることとした。二十八年二月、軍は白泥に駐屯し、楊応龍の子朝棟が二万の兵を率いて烏江を渡り迎撃してきた。陳璘はまずこれを防ぎ、また両翼を分けてその背後を襲わせた。賊はやや敗退し、追撃して龍溪山に至ると、賊は四牌の賊と合流して共同で抵抗した。四牌は江の外にあり、江の内の七牌とともに皆五司の残党、九股の凶悪な苗人であり、平素より賊を助けていた。陳璘は広く招撫を行い、それから龍溪に進軍した。賊に伏兵があることを偵知し、遊撃陳策に命じて火器でこれを撃たせたが、賊は険阻な地に拠り、矢石が雨のように降ってきた。陳璘は先頭に立ち、退却した小校を斬って見せしめとし、把総呉応龍らが敵陣に突入すると、賊は大いに潰走し、四牌の保児囤に退いて守った。陳璘の二人の副将がこれに迫ったが、伏兵に遭った。陳璘は決死隊を募り、呉応龍らとともに奮撃し、賊はまたも潰走し、囤の頂上に拠って守り、夜に山の後ろから逃げた。夜明け前に袁家渡で追いつき、またこれを破った。四牌の賊はこうして尽きた。
三月の十五日、諸軍は浮橋を作って江を渡った。賊将張佑・謝朝俸・石勝俸らが七牌の野猪山に陣を構えていることを知ると、陳璘はその夜に出発して苦練坪に到着した。前鋒が戦いを交えると、後軍が到着し、挟み撃ちにして、賊は敗れて深い竹林に逃げ込み、官軍は苦菜関に入った。ちょうど童元鎮の烏江の軍が敗れたので、陳璘は恐れて退却を請うたが、総督李化龍は許さなかった。陳璘はそこで進軍して楠木橋に陣を置き、湄潭に駐屯した。賊はすべて青蛇・長坎・瑪瑙・保子の四つの囤に集結していたが、その地は皆極めて険しく、青蛇が特にひどかった。陳璘は協議し、同日に攻撃すれば兵力が弱くなり、一つの囤だけを攻めれば他の三囤が必ず助けに来ると考え、まず三つの囤を攻め、次に青蛇を攻めることにした。陳良比の軍も来て合流し、囤の後ろに伏兵を置かせ、別に一軍を板角関に守らせ、賊の逃亡を防いだ。陳璘は諸将を督して力攻めを三日間続け、賊の死傷者は数え切れず、三つの囤はついに陥落した。青蛇は四面が切り立って絶壁であり、陳璘は三面を包囲し、決死隊を募って瑪瑙の後ろから葛を伝って山の背に至り、砲を挙げさせた。賊は慌て恐れ、諸軍が進攻し、その茅屋を焼いた。賊は囤内に退き、木や石を次々に落とした。将兵は死を冒して登り、大柵二重を破壊し、前後から撃って、賊は大敗し、一千九百余りの首級を斬り、七牌の賊もまた尽きた。
そこで兵を六道に分け、大小三渡関を攻め落とし、勝ちに乗じて海龍囤の下に到達した。諸将は皆囤の前を攻めたが、ただ水西の安疆臣だけがその背後を攻め、四十余日相持した。その部下は賊から多額の賄賂を受け、多くが賊と通じ、ひそかに火薬を賊に与えていたので、賊は備えをしなかった。その後陳璘がこれを知り、監軍者と謀り、安疆臣に一舎(三十里)退くよう命じ、陳璘がその場所に移り、鉄牌百余りを置き、囤から一丈ほど離れたところに設置した。賊の強弩は用をなさず、また柵の前に箛板を設けたので、賊が毎夜出撃して略奪しようとしても、釘で傷つき、再び出てこなくなった。楊応龍は窮地に陥り、集まって泣いた。李化龍は初めに命令を出し、諸将が日を分けて攻撃することとしていた。六月六日、陳璘と呉広が進軍することとなった。陳璘は夜の四更に枚を銜んで登り、賊は鼾をかいて眠っていたので、関を守る者を斬り、白旗を立て、砲を鳴らすと、賊は大いに驚き潰走し、楊応龍は自ら焼死した。呉広の軍も到着し、賊は完全に平定された。
そこで軍を移して皮林を討った。皮林は湖広と貴州の境にあり、九股苗と接していた。呉国佐という者がおり、洪州司特峒寨の苗人で、凶暴で狡猾なならず者であり、その叔父の大栄が反乱を起こして誅殺されると、呉国佐はその妾を奪った。黎平府が厳しく追及したため、ついに反逆し、自ら「天皇上将」と称し、その党の石纂太は「太保」と称し、合流して上黄堡を攻め、参将黄沖霄を誘い出して破り、永従県まで追撃し、守備張世忠を殺して焼き、その肉を食らい、七十余りの屯堡を掠奪し、五開の南城を焼き、永従を陥落させ、中潮所を包囲した。当時はちょうど播州を征討中で、討伐の暇がなかった。播州が平定された後、偏沅巡撫江鐸は陳璘と陳良比に命じて合流してこれを討たせたが、陳良比は敗れた。翌年、江鐸は靖州に駐屯地を移し、陳璘に副将李遇文らを率いて七道より進軍するよう命じた。陳璘は苗の首長銀貢らを捕らえた。遊撃宋大斌は特峒を攻め破り、焼き払った。呉国佐は天浦四十八寨に逃げ、また古州毛洞に入ったが、追撃して捕らえた。石纂太は広西上巖山に逃げたが、指揮徐時達が誘い出して縛り上げた。賊党の楊永祿は一万余りの兵を率いて白冲に駐屯していた。遊撃沈弘猷らが挟み撃ちにして攻撃し、楊永祿を生け捕りにした。諸苗はすべて平定された。
呉広
呉広は広東の人である。武生として従軍し、戦功を重ね、福建南路参将を歴任したが、事に坐して罷免され帰郷した。ちょうど岑渓の瑶族が反乱を起こしたので、総督陳大科が檄を飛ばして呉広を総兵童元鎮に従わせてこれを討たせた。将兵が少し後退したので、呉広は自ら一兵卒を斬って見せしめとし、ついにこれを大破した。功績を論じ、元の官職に復した。
初め、広が二郎に留まったとき、賄賂を受けて賊を養っているという言上があり、詔により事官に貶謫された。後に功を論じて都督同知を追贈され、世襲の千戸を賜った。
鄧子龍
鄧子龍は豊城の人である。容貌魁偉で、驍勇敏捷、比類なきものあり。嘉靖年間、江西に賊が起こり、樟樹鎮を掠奪した。子龍は有司の募りに応じ、これを平定した。功を重ねて広東把総に任じられた。
万暦初年、大帥張元勛に従い巨盗頼元爵を討ち平らげた。やがて陳金鶯・羅紹清を平定した。賊の首魁黄高暉が逃れたが、子龍は山中に入り生け捕りにした。銅鼓石守備に遷る。まもなく署都指揮僉事に抜擢され、浙江都司を掌った。弾劾されて職を奪われるべきところ、帝は子龍の罪が軽いとし、たまたま麻陽の苗人金道侶らが乱を起こしたので、参将に抜擢してこれを討たせた。大いに賊を破り、その党を解散させた。五開衛の兵卒胡若盧らが監司の行署に放火し、守備及び黎平守を鞭打ち追い払った。靖州・銅鼓・龍裏の諸苗はことごとく呼応して乱を起こした。子龍はその東門に放火して賊を誘い出し、ひそかに兵を北門に入れ、賊はついに滅んだ。
十一年閏二月、緬甸が雲南を侵犯した。詔により子龍を永昌に移す。木邦部耿馬の奸人罕虔が嶽鳳とともに叛逆し、緬酋莽応裏を説いて内侵させ、虔は従って千崖・南甸を掠奪した。やがて查理江を渡り、直ちに姚関を侵犯し、湾甸土知州景宗真及び弟の宗材がこれを助けた。子龍は攀枝樹下で急戦し、陣中で宗真・虔を斬り、宗材を生け捕りにした。虔の子招罕・招色は三尖山に奔り、叔父の罕老に蒲人の薬弩手五百を率いさせて要害を阻ませた。子龍は蒲人に金で餌を与え、賊の間道をことごとく知った。そこで裨将鄧勇らに命じて北勝・蒗渠の諸番兵を率い、直ちに賊の巣窟を衝かせ、あらかじめ山後に伏兵を置いて挟撃した。夜半に登り、招罕・招色・罕老及びその党百三十余人を生け捕りにし、五百余級を斬首し、尖山の巣窟は空となり、ついに流移の民数千人を撫した。たまたま劉綎もまた嶽鳳を捕らえて献上した。帝は喜び、子龍を副総兵に進め、世襲の官を賜った。まもなく、緬人がまた猛密を寇し、把総高国春が大いにこれを破った。子龍は犄角の功により、また優れた叙勲を受けた。これより、先に緬に附いていた蛮人は多く来附した。
永昌・騰冲はもとより楽土と称されていたが、嶽・罕の猖獗した乱より、初めて募兵を議し、募った者は多く亡命者であり、ついに騰冲・姚安の両営を立てた。劉綎が騰軍を将い、子龍が姚軍を将いたが、互いに相容れず、両軍は争闘した。帝は両将ともに功があるとして、問わずに置いた。やがて綎が罷免され、劉天俸が代わり、天俸が逮捕されると、ついに子龍に兼ねて統率させた。子龍は騰兵を抑え、仕事があるごとに虐待的に使い、姚兵を優遇した。隴川に用兵したとき、子龍は故意に差別をつけ、牛を屠って兵士に饗し、姚兵は騰兵の倍を与えられ、騰兵は大いに耐えられず、散り去ろうとした。副使姜忻が他の将にこれを管轄させ、ようやく定まった。しかし姚兵は久しく驕り、糧秣を要求して乱を起こし、永昌・大理より会城に至るまで、過ぎ行くところで掠奪した。諸兵が挟撃し、八十四級を斬り、四百余人を捕虜とし、乱はようやく鎮まった。子龍は官を褫奪され、吏に下された。
十八年、孟養の賊思箇が叛いた。子龍はまさに審理を受けていたが、巡撫吳定が功を立てて自ら贖罪させるよう請い、帝はこれを許した。命令が届かぬうちに、定はすでに黔国公沐昌祚とともに将を遣わしてこれを退けた。まもなく、丁改十寨の賊普応春・霸生らが乱を起こし、勢いは甚だ張っていた。定は大いに漢土の軍を徴発し、子龍にその右翼を将わせ、遊撃楊威に左翼を将わせ、大いにこれを破り、一千二百級を斬首し、六千六百人を招降した。帝は郊廟に告謝し、捷報を宣して賀を受け、子龍を副総兵に復し、金山参将事を署理させた。先に、猛広の土官思仁がその嫂の甘線姑を犯し、妻にしようとしたが、果たせなかった。その党丙測とともに叛いて緬に帰し、しばしば導いて侵犯させた。二十年、孟養を攻め、蛮莫を犯し、土同知思紀は等練山に奔った。子龍はこれを撃破し、ついに去った。子龍はまもなく弾劾されて罷免され帰郷した。
二十六年、朝鮮に出兵した。詔により旧官をもって水軍を率い、陳璘に従って東征した。倭将が海を渡って遁走しようとしたとき、璘は子龍に朝鮮統制使李舜臣とともに水軍千人を督し、三隻の巨艦に乗って前鋒とし、釜山南海でこれを邀撃させた。子龍はもとより慷慨であり、年七十を超えても意気はますます奮い、先陣の功を得んと欲し、急いで壮士二百人を率いて朝鮮船に躍り乗り、直ちに前進して奮撃し、賊の死傷は数えきれなかった。他の船が誤って火器を子龍の船に投げ入れ、船中は火災となり、賊はこれに乗じ、子龍は戦死した。舜臣は救いに向かったが、また死んだ。事が聞こえ、都督僉事を追贈され、一子に世襲の官を賜い、朝鮮に廟祀された。
馬孔英
馬孔英は、宣府塞外の降丁であり、戦功を積んで寧夏参将となった。
万暦二十年、哱拜が反し、套寇を引き入れて掠奪させたが、孔英はしばしばこれを撃破した。卜失兔が下馬関に侵入したので、麻貴に従って邀撃し、大いに捕獲した。本鎮副総兵に進んだ。二十四年九月、著力兔・宰僧が平虜・横城を侵犯した。孔英は参将鄧鳳と力を合わせて奮戦し、二百七十余りの首級を斬り、金幣を賜った。大将の欠員を推挙するよう命じられ、都督僉事を署任し、総兵官として旧任に臨み、まもなく進級して本官となった。二十七年、著力兔・宰僧がふたたび平虜・興武を侵犯したので、孔英は杜桐らと分道して襲撃し、これを破った。再び侵入したが、またこれを破った。
ちょうど播州の楊応龍を大征討することとなった。詔して陝西四鎮の兵を発し、孔英に率いさせて赴かせた。兵は八道に分かれ、孔英の道は南川で、ただ険阻で遠く、応龍の海龍囤から六七百里離れていた。未だ到着せぬうちに、重慶推官高折枝が軍事を監紀し、独り一面を担当することを請うた。そこで参将周国柱とともに先に石砫宣撫馬千乗の兵を率いて賊の金築を破り、さらに酉陽宣撫冉禦龍を督して官壩で賊を破った。孔英が軍に到着すると、平茶・邑梅の兵も集結し、軍容は甚だ壮であった。師期より一日早く真州に入り、土官の鄭葵・路麟を郷導とし、別に辺兵千人を遣わして明月関を扼させた。諸軍は鼓を鳴らして進み、四つの寨を連破し、赤崖に駐屯し、清水坪・封寧関に至り、賊の営十数ヶ所を破り、桑木関に迫った。関内の民で降る者は日に千を数えた。折枝は三大砦を結んでこれを収容し、殺掠を禁じたので、降る者は日増しに多く、賊はますます孤立した。関は賊の要害で、山険しく箐深く、賊は高みに拠って抵抗した。そこで千乗・禦龍に関の左右から出させ、国柱にその中央を突かせた。賊は標槍と薬矢を用い、鋭気甚だしかった。官軍は決死の戦いをし、その関を奪い、敗走する賊を風坎関まで追撃し、賊はまた大敗した。九杵・黒水の諸関を連破し、苦竹・羊崖・銅鼓の諸寨を破った。国柱が金子壩を攻めたが、一人もおらず、伏兵ありと疑い、空砦十九を焼き、厳兵して待った。賊は果たして突出し、これを撃破した。孔英はそこで王之翰の兵を留めて白玉台を守らせ、糧道を衛らせ、平茶・邑梅の兵に桑木関を守らせ、自らは大軍を率いて進み、金子壩に営を置いた。
初め、総督李化龍が師期を定めたが、諸将は先に入るのを利としなかった。孔英の率いる辺卒および諸土兵は皆獷悍であり、監紀の折枝は勇猛で謀略があったので、ただその軍だけが先んじた。八道で海龍を囲んだが、諸将は囤の後方が攻めやすいとして、争ってその後方に向かったが、孔英だけは関前に陣を布いた。功を録し、都督同知に進み、世蔭千戸となった。
久しくして、総兵官として貴州を鎮守した。金築・定番の叛苗を平定し、首悪の阿包・阿牙らを生け捕りにした。やがて黄柏山の苗を襲撃しようとした。苗はこれを知り、先に発して官兵を破ったが、これを隠して報告しなかった。また苗酋の石阿四を誘い捕らえ、陣で生け捕りにしたと称して功を偽った。巡撫胡桂芳に弾劾され、罷免されて帰郷し、死去した。
【賛】
賛に曰く、播州の役は、諸将が命令に従い、八道の師を合わせ、時を経ること五月、ようやくこれを克った。労といえるであろう。劉綎の勇略は諸将の冠であり、労も最も多く、その後、死事もまた最も烈しかった。鄧子龍は初め姚安に事え、名は綎と並び称され、老いて命を捧げ、海隅に廟祀された。昔の人は「武官は死を惜しまず」と言ったが、両人はまさにこの言葉に恥じないものであろう。