○楊漣 左光斗(弟光先) 魏大中(子學洢 學濂) 周朝瑞 袁化中 顧大章(弟大韶) 王之寀
楊漣
四十八年、神宗が病に臥せり、半月ほど食事もせず、皇太子も拝謁できず。楊漣は諸給事・御史と共に大学士方従哲を訪ね、御史左光斗は従哲に催促して安否を問わせた。従哲は「帝は病を忌み隠す。たとえ左右に問うても、伝えることを敢えてせず」と言う。楊漣は「昔、文潞公が宋の仁宗の病を問うた時、内侍が言おうとしなかった。潞公は『天子の起居を、汝らが宰相に知らせぬとは、他に志があるのではないか、速やかに中書に下して法を行え』と言った。公は誠に日に三度問い、必ずしも面会せず、また必ずしも上に知らせずとも、ただ宮中に廷臣がいることを知らせれば、事は自ずから成る。公は更に閣中に宿直すべきである」と言う。従哲は「先例なし」と言う。楊漣は「潞公は史志聰を咎めなかったが、今は何時か、まだ先例を問うのか」と言う。二日後、従哲はようやく廷臣を率いて入内し安否を問う。帝の病が篤くなると、太子はなお宮門外で躊躇していた。楊漣と左光斗は人を遣わして東宮伴読の王安に告げる。「帝の病は甚だ重い。太子を召さぬのは帝の本意ではない。力を尽くして入内伺候し、薬を嘗め膳を視て、日暮れになってから帰るよう強く請うべきである」と。太子は深くこれを容れた。
間もなく、神宗崩御す。八月丙午朔、光宗が位を嗣ぐ。四日後、病に罹る。都人の喧伝するところでは、鄭貴妃が美姫八人を進め、また中官崔文升に利剤を投ぜさせ、帝は一昼夜に三四十度起き出だすという。この時、貴妃は乾清宮に居座り、帝の寵愛する李選侍と結託し、貴妃は選侍のために皇后の封を請い、選侍もまた貴妃を皇太后に封ずるよう請うた。帝の外戚である王・郭の二家は、朝士を遍く訪ね、宮禁の危険な状況を涙ながらに訴え、「帝の病は必ず癒えぬ。文升の薬の故である。誤りではない。鄭・李の交わりは甚だ固く、禍心を包蔵している」と言う。廷臣はその言葉を聞き、甚だ憂えた。果たして帝は礼部に貴妃を皇太后に封ずるよう促す。楊漣と左光斗は朝廷で声を上げ、共に鄭養性を詰問責めて、貴妃に宮を移させ、貴妃は即座に慈寧宮に移る。楊漣はそこで崔文升を弾劾し、薬の用い方が無状であるとして、推問を請う。かつ言う。「外廷に流言あり、陛下の起居に節度なく、侍御が蠱惑したという。必ずや文升が口実とし、その薬を用いた奸を掩い、文升の党が煽り布いて、予め外廷の口を塞ごうとするのである。既に聖躬を損ない、また聖徳を虧いている。その罪は死をもって償うに足りぬ。貴妃の封号に至っては、特に典常に背く。嫡母として尊ぶならば、大行皇后をどうするのか。生母として尊ぶならば、本生の太后をどうするのか。前の命令を速やかに取り止められたい」。上疏して三日後の丁卯、帝は大臣を召見し、楊漣にも及び、かつ錦衣官校を宣する。衆人は楊漣の上疏が旨に逆らったとして、必ず廷杖に処せられると考え、方従哲に取り成しを頼む。従哲は楊漣に罪を認めるよう勧めるが、楊漣は声を張り上げて言う。「死ぬればそれまで、楊漣に何の罪があろうか」。入内すると、帝は長く穏やかな言葉をかけ、楊漣を幾度も見つめ、外廷に流言を信じるなと語る。そこで文升を追放し、太后に封ずる命令を停止する。再び大臣を召し、皆楊漣にも及んだ。
楊漣は小臣ながら顧命に預かったことを感激し、死をもって報いんと誓う。九月乙亥朔、未明、帝崩御す。廷臣は駆け入る。諸大臣の周嘉謨・張問達・李汝華らは、皇長子に嫡母も生母もなく、勢い甚だ孤孑なるを慮り、共に李選侍に託そうとする。楊漣は言う。「天子をどうして婦人に託せようか。かつ選侍は昨日、先帝が群臣を召対された時、強いて上(皇長子)を中に入れ、また押し出した。これはどうして幼主を託せようか。速やかに儲皇に拝謁し、即座に万歳を呼び、乾清宮から擁し出して、暫く慈慶宮に居らせられたい」。語り終わらぬうちに、大学士方従哲・劉一燝・韓爌が到着する。楊漣は諸大臣に促して共に乾清宮へ向かう。閽人が棒を持って入ることを許さぬ。楊漣は大声で罵る。「奴才め!皇帝が我らを召された。今は既に晏駕された。汝らが入ることを聞かぬとは、何をしようというのか」。閽人が退くと、ようやく入って拝する。群臣は万歳を呼び、初六日の登極を請い、御駕を文華殿に奉じて、群臣の嵩呼を受ける。御駕が中宮に至るや、内豎が寝閣から出てきて、大声で呼ぶ。「少主をどこへ連れて行くのか。主上は年少で人を畏れる」。衣を掴んで奪い返そうとする者あり。楊漣はこれを阻み叱って言う。「殿下は群臣の主、四海九州臣子ならざるはなく、また誰を畏れようか」。そこで文華殿に擁する。礼が終わり、御駕を慈慶宮に奉じ入れる。この時、李選侍は乾清宮に居る。一燝が奏上する。「殿下は暫くここにおられ、選侍が宮を出てから、乾清宮に帰られますように」。群臣は退いて登極の期日を議す。語りは紛紛として定まらず、初三日に改めるよう請う者あり、即日の午時を請う者あり。楊漣は言う。「今、海内は清晏にして、内に嫡庶の嫌疑なし。父の死とは何たることか。含殮未だ終わらず、袞冕を着て臨朝するは、礼にあらず」。或いは登極すれば人心安らかになると言う。楊漣は言う。「安らかとなるか否かは、登極の早晩に在らず。処し方を得宜にすれば、たとえ朝に委裘(天子の衣だけを置く)とすることも何の害があろうか」。議定して出て文華殿を過ぎる。太僕少卿徐養量・御史左光斗が到着し、楊漣が大事を誤ったと責め、その顔に唾して言う。「事がもし成らねば、汝は死ぬが、その肉は食うに足るか」。楊漣は竦然とする。そこで左光斗と共に周嘉謨の許に朝房に赴き、選侍には恩徳なく、必ず同居すべからずと説く。
翌日、周嘉謨・左光斗は各々上疏して選侍の移宮を請う。初四日、詔勅を得る。しかし選侍は李進忠の計を聞き入れ、必ず皇長子と同居せんとし、左光斗の上疏中の「武氏」という言葉を憎み、皇長子を召して左光斗に重い譴責を加えようと議する。楊漣が麟趾門で内豎に遇うと、内豎は詳しく状況を語る。楊漣は厳しい顔色で言う。「殿下は東宮にあっては太子、今は則ち皇帝である。選侍がどうして召せようか。かつ上は既に十六歳、他日たとえ選侍をどうすることもできぬとしても、汝らは身をどこに置くつもりか」。怒目して之を見る。その人は退く。給事中恵世揚・御史張潑が東宮門に入り、驚いて互いに告げる。「選侍が垂簾して左光斗を処断しようとしている。汝らはどうして平然としていられるのか」。楊漣は「そんなことはない」と言う。皇極門を出て、九卿科道が公疏を上奏することを議するが、未だ決せず。
初五日、移宮の期日を緩めようとする風聞が流れた。楊漣及び諸大臣は悉く慈慶宮の門外に集まり、楊漣は方従哲に語ってこれを促した。従哲は言った、「遅れても害はない」。楊漣は言った、「昨日は皇長子が太子の宮に就くのはまだしも可であったが、明日は天子となるのに、かえって太子の宮に居て宮人を避けるということがあろうか。仮に両宮の聖母が在世であられたとしても、夫が死ねば子に従うべきである。選侍は何者ぞ、敢えてこのように欺き侮るとは」。この時、宦官の往来は機の如く、ある者は選侍もまた顧命の中の人であると言った。楊漣はこれを斥けて言った、「諸臣は先帝より顧命を受けた。先帝は自らまずその子を顧みられたのであって、どうして先にその寵愛する側室を顧みられたことがあろうか。選侍を九廟の前で対質させよ。お前たちは李(選侍)家の禄を食む者なのか。私を殺せるならばそれまで、さもなくば、今日移宮しなければ死んでも去らぬ」。劉一燝・周嘉謨がこれを助け、言葉も顔色も共に厳しく、声は御前にまで響いた。皇長子は使者を遣わして宣諭し、ようやく退いた。再び抗疏して言う、「選侍は表向きは保護の名を託し、内実は専擅を図る。宮は必ず移さざるを得ない。臣が言うのは今日、殿下が行うのは今日、諸大臣が賛成して決するのもまた今日のみである」。その日、選侍は遂に宮を移し、仁壽殿に居した。明日庚辰、熹宗即位した。光宗崩御よりここに至るまで凡そ六日。楊漣と一燝・嘉謨が宮府の危疑を定め、言官では左光斗のみがこれを助け、その余は悉く楊漣の指図に従った。楊漣の鬚髪は尽く白くなり、帝もまた幾度か忠臣と称した。間もなく、兵科都給事中に遷った。御史馮三元らが極力熊廷弼を誹謗したが、楊漣は疏を上ってこの事を論じ、独り公平を保った。やがて兵部尚書黄嘉善の八大罪を弾劾し、嘉善は罷免されて去った。
高皇帝の定めた令に、内官は外事に干与するを許さず、只掖廷の洒掃を供するのみ、違う者は法に赦し無し。聖明御在位に在りて、乃ち肆無忌憚、朝常を濁乱する者あり、東廠太監魏忠賢の如き是れなり。敢えてその罪状を列挙し、陛下のために之を言う。
忠賢は元より市井の無頼、中年に淨身し、縁故を以て内地に入り、初めは猶謬って小忠・小信を為して以て恩を幸いし、継いて乃ち敢えて大奸・大悪を為して以て政を乱す。祖制は、擬旨を専ら閣臣に責む。忠賢の擅権より、多くは伝奉を出し、或いは径に内批より出ず。祖宗二百餘年の政体を壊す、大罪一。
劉一燝・周嘉謨は、顧命の大臣なり。忠賢は孫傑に令して論じ去らしむ。己が忌む者を翦らんこと急にして、陛下が父の臣を改めざるを容れず、大罪二。
先帝の賓天は、実に隠恨有り。孫慎行・鄒元標は公義を以て憤発す。忠賢は悉く之を排して去る。顧みて党護選侍の沈紘には、曲意して綢繆し、終に蟒玉を加う。乱賊に親しみて忠義を仇とす、大罪三。
王紀・鍾羽正は先年国本に功有り。紀が司寇となるや、法を執ること山の如し;羽正が司空となるや、清修すること鶴の如し。忠賢は党を構えて斥逐し、必ず盛時に正色立朝の直臣有るを容れず、大罪四。
国家最も重きは枚卜に如くは無し。忠賢一手に握り定め、力めて首推の孫慎行・盛以弘を阻み、更に他の辞を以て其の出を锢す。豈に真に門生宰相を欲するか、大罪五。
朝に爵を人に授くるは、廷推より重きは莫し。去歳、南太宰・北少宰は皆陪推を用い、致して一時の名賢其の位に安んぜず。銓政を顛倒し、機権を掉弄す、大罪六。
聖政初めて新たなり、正に忠直を資とすべきに。乃ち満朝薦・文震孟・熊徳陽・江秉謙・徐大相・毛士龍・侯震暘等、抗論稍々忤うや、直ちに貶黜を行い、屡々恩典を経るも、竟に賜環を阻む。長安は天子の怒は解き易く、忠賢の怒は調え難しと言う、大罪七。
然れども猶曰く、外廷の臣子なり。去歳南郊の日、宮中に一貴人有り、徳性貞静を以て、上寵注を荷うと伝聞す。忠賢其の己が驕横を露わすを恐れ、急病と托言し、之を死地に置く。是れ陛下其の貴幸を保つ能わざるなり、大罪八。
猶曰く、名封無きなり。裕妃は妊有りを以て伝封せられ、中外方に慶幸を為す。忠賢其の己に附かざるを悪み、矯旨して勒令自尽せしむ。是れ陛下其の妃嬪を保つ能わざるなり、大罪九。
猶曰く、妃嬪に在りなり。中宮に慶有り、既に成男す。乃ち忽焉として告殒す。伝聞するに忠賢と奉聖夫人実に謀り有りと。是れ陛下将に其の子を保つ能わざるなり、大罪十。
凡そこの逆跡、昭然として人の耳目に在り。乃ち内廷は禍を畏れて敢えて言わず、外廷は舌を結んで敢えて奏せず。間或いは奸状敗露すれば、則ちまた奉聖夫人有りてこれを弥縫す。甚だしきは無恥の徒に至りては、枝葉に攀附し、門牆に依托し、更に相表裏し、迭りに呼応す。積威の劫かする所、掖廷の中に致りては、ただ忠賢有るを知り、陛下有るを知らず。都城の内もまたただ忠賢有るを知り、陛下有るを知らず。即ち前日の如く、忠賢已に涿州に往くも、一切の政務は必ず星夜馳請し、その既に旋るを待ち、詔旨始めて下る。天顔咫尺、忽ちに慢ること此くの如し、陛下の威霊尚ほ忠賢に尊きや否や。陛下春秋鼎盛、生殺予奪、豈に自主すべからざらんや。何を為して幺纻の小丑に制せられ、中外の大小をして惴惴としてその命を必にすること莫からしむる。伏して大いに雷霆を奮い、文武勲戚を集め、刑部を敕して厳訊せしめ、以て国法を正し、併せて奉聖夫人を外に出だし、以て隠憂を消さんことを乞う、臣死して且つ朽ちず。
魏忠賢は初めその上疏を聞き、大いに恐れた。その党の王体乾及び客氏が力を尽くしてこれを保持し、遂に魏広微に命じて詔旨を調え、楊漣を厳しく責めさせた。先に、楊漣は上疏を草した後、早朝に面奏しようとした。翌日が朝参免除にあたり、一晩過ごせば機密が漏れることを恐れ、会極門において上奏したので、魏忠賢は計略を為すことができたのである。楊漣はますます憤慨し、天子の出御する時に再び弾劾しようと準備したが、魏忠賢はこれを探知し、三日間帝が朝に出御しないよう阻んだ。帝が出御した時には、数百人の宦官が鎧を衣の下に着けて階の両側に立ち並び、左班の官人に上奏することを許さぬと命じたので、楊漣は止むを得ず断念した。
ここにおいて、魏忠賢は日々楊漣を殺害しようと謀った。十月に至り、吏部尚書趙南星が既に追放され、廷推で代わりの者を推挙する際、楊漣は名簿に登録されず参与しなかった。魏忠賢は詔旨を偽って楊漣が大不敬で人臣の礼を欠くと責め、吏部侍郎陳于廷・僉都御史左光斗と共に官籍を削除した。魏忠賢の恨みは止まず、再び汪文言の獄を起こし、無実の罪を着せて楊漣を殺そうとした。天啓五年、その党の大理丞徐大化が楊漣・左光斗を党派を同じくして異を伐ち、権勢を弄び賄賂を受け取ると弾劾し、汪文言を逮捕して獄に下し審問するよう命じた。許顕純が厳しく汪文言を拷問し、楊漣が熊廷弼の賄賂を受け取ったと自白させるよう迫った。汪文言は天を仰いで大呼し、「世に貪贓の楊大洪などおろうか」と言い、死に至るまで認めなかった。大洪とは、楊漣の別字である。許顕純は自ら獄詞を作成し、楊漣に贓罪二万を着せ、遂に楊漣を逮捕した。士民数万人が道に押し寄せて号泣し、通過する村や市では皆香を焚き斎醮を設け、楊漣が生きて帰るよう祈願した。詔獄に下されると、許顕純は残酷な法で拷問し、体に完膚なきまでにした。その年七月、遂に夜中に殺害した。享年五十四。
楊漣は元来貧しく、官に没収された財産は千金に満たなかった。母と妻は城門の楼上に宿泊し、二人の子は乞食をして養うまでに至った。贓物徴収の命令が厳しく、郷人は競って資財を出して助け、売菜の雇人に至るまで輸送援助した。その節義が人を感動させたのはこのようであった。崇禎初年、太子太保・兵部尚書を追贈し、諡を忠烈とし、その一子に官職を与えた。
左光斗
左光斗、字は遺直、桐城の人。万暦三十五年の進士。中書舎人に任じられた。選抜されて御史に授けられ、中城を巡視した。吏部の横暴な悪吏を捕らえて処罰し、偽印七十余顆、偽官一百余人を検挙し、京師を震撼させた。
光宗が崩御し、李選侍が乾清宮を占拠し、皇長子に皇后の冊立を迫った。左光斗は上言した。「内廷に乾清宮があるのは、外廷に皇極殿があるのと同じで、ただ天子が天に御する者が居すべきであり、ただ皇后が天に配する者が共に居すべきである。他の妃嬪は順次御するにしても、常居すべきではなく、嫌疑を避けるためだけでなく、尊卑を別つためでもある。選侍は嫡母でもなく、生母でもないのに、俨然として正宮に尊居し、殿下は慈慶宮に退き、几筵を守り大礼を行うことができない。名分はどうなるのか。選侍は先帝に仕えて脱簪戒旦の徳がなく、殿下に対して撫摩養育の恩もない。このような人物に、聖躬を託すことができようか。況や殿下は春秋十六歳、内には忠直老成の者を輔弼とし、外には公孤卿貳を輔弼とする。どうして人材が乏しいことを憂え、未だ乳を飲ませおぶう必要があろうか。ましてや睿哲が初めて開かれる時、正に欲望を引き起こすものを見せぬべきであり、何故に婦人女子の手に託す必要があろう。今早く断決しなければ、将来、養育の名を借りて専制の実を行い、武氏の禍が今再現し、将来に忍びざる事態が生じよう」。当時、選侍は大権を専らにしようとし、廷臣の上奏文は先ず乾清宮に進め、それから慈慶宮に進めるよう命じた。左光斗の上奏文を得て、大いに怒り、厳しい譴責を加えようとした。数度使者を遣わして左光斗を召し出そうとしたが、左光斗は言った。「私は天子の法官である。天子の召しでなければ赴かぬ。お前たちは何者か」。選侍はますます怒り、熹宗を乾清宮に招いて議させようとした。熹宗は行くことを肯わず、使者を遣わしてその上奏文を取って視させ、心に善しとし、日を選んで移宮するよう促したので、左光斗は難を免れた。この時、宮中と政府は危疑に満ち、人情は危惧していたが、左光斗は楊漣と心を合わせて建議し、宦官を排し、幼い君主を扶け、帝位が正されるに至ったのは、両人の力が多かった。ここにおいて朝野ともに「楊左」と称した。
間もなく、御史賈継春が内閣に上書し、帝が庶母を薄遇すべきでないと言った。左光斗はこれを聞き、即座に上言した。「先帝が宴駕し、大臣が乾清宮から皇上を奉じて慈慶宮に出居させた時、臣らは選侍を避けるべきでないと考えた。故に臣は初二日に『慎守典礼粛清宮禁』の一疏を具し、宮中は震怒し、禍い幾ばくか測り難かった。皇上のご保全により、臣の上疏を内閣に発した。初五日、閣臣が掲帖を具して再び催促し、移宮の旨を奉じた。初六日、皇上が登極し、御駕は乾清宮に還られた。宮禁は粛然とし、内外寧謐である。皇上が既に還宮されるべきならば、選侍が移るべきは、その道理明白で分かりやすい。ただ移宮以後は、自ら大体を存し、小過を捨てるべきである。もし再び株連蔓引し、宮闈を不安にさせれば、即ち国体を損なう。盗宝の宮奴劉遜等を直ちに誅し、その余は全て寛大に処することを乞う」。帝は百官に宣諭し、選侍が聖母を凌虐したいろいろな状況を詳しく述べた。召見の際、また「朕は選侍と仇あり」と言った。賈継春はこれによって罪を得て去った。
当時、廷臣が改元を議論した。或いは泰昌を削除して紀さぬと議し、或いは万暦四十八年を去り、即ち今年を泰昌とし、或いは明年を泰昌とし、後年を天啓とすべしと議した。左光斗はその説を力排し、今年八月以前を万暦、以後を泰昌とすべきことを請い、議論は遂に定まった。孫如游が中旨によって内閣に入ったが、抗疏してこれを斥けるよう請うた。畿輔の学政を督するため出向し、請託を厳しく杜絶し、人物鑑識は神の如くであった。
翌年二月、左僉都御史に任ぜられる。この時、韓爌・趙南星・高攀龍・楊漣・鄭三俊・李邦華・魏大中らは皆要職にあり、光斗は彼らと意気投合し、危言核論を務め、流品を甄別したので、正人は皆これに頼ったが、これを忌む者は次第に容れることができなくなった。光斗は給事中阮大鋮と同郷であり、彼を招いて京に入らせた。ちょうど吏科都給事中に欠員があり、昇進すべき者は、首位が周士朴、次が大鋮、次が大中であった。大鋮は中旨を請い、士朴の昇進を阻んで、自分の地位を確保しようとした。趙南星はこれを憎み、定例に従って大鋮を転任させようとした。大鋮は光斗が自分の謀略を暴露したのではないかと疑い、非常に恨んだ。熊明遇・徐良彦は共に僉都御史を得ようと望んでいたが、南星は光斗を推挙してその職に就かせたので、二人もまた光斗を恨んだ。江西の人々はまた別の理由で大中を恨んでおり、遂に共に給事中傅櫆を唆して、光斗・大中が汪文言と結託して奸利を貪っていると弾劾させた。光斗は上疏して弁明し、かつ櫆が東廠理刑傅継教と兄弟の契りを結んでいることを誹謗した。櫆は憤り、再び上疏して光斗を攻撃した。光斗は罷免を請い、事態は収拾された。
楊漣が魏忠賢を弾劾した際、光斗はその謀議に参与し、また攀龍と共に崔呈秀の贓私を発覚させたので、忠賢とその徒党は皆怒った。忠賢が南星・攀龍・大中を追放した後、次に漣・光斗に及ぼうとした。光斗は非常に憤慨し、忠賢及び魏広微の三十二の斬罪に当たる罪状を奏文に草し、十一月二日に上奏しようと計画し、先に妻子を南方に帰らせた。忠賢はこれを探知し、二日前に会推の事を口実に漣と共に官籍を削除した。群小の恨みは止まず、再び汪文言の獄を捏造し、光斗の名を連座させ、使者を派遣して逮捕に向かわせた。父老子弟が馬首に押し寄せて号泣し、声は原野に震い、緹騎もまた涙を流した。到着すると詔獄に下し、残酷な取り調べを受けた。許顕純は楊鎬・熊廷弼からの賄賂を受け取ったと誣告した。漣らは当初は自白しなかったが、やがて自白しないために酷刑で殺されることを恐れ、法司に下されることを望み、少しでも死を緩めて後の策を講じようとした。諸人は皆自ら誣服し、光斗は贓罪二万に坐せられた。忠賢は偽りの詔旨を下し、なおも顕純に五日ごとに追比するよう命じ、法司に下さなかったので、諸人は初めて失策を悔いた。容城の孫奇逢は、節義の侠士であり、定興の鹿正と共に、光斗が畿輔に恩徳があるとして、金を醵出することを提唱し、諸生が争ってこれに応じた。数千金を得て、代わりに納入して獄事を緩めようと謀ったが、光斗は漣と既に同日に獄卒によって殺害されていた。時は天啓五年七月二十六日、享年五十一歳であった。
光斗が死んだ後も、贓金の追徴は未だ完了しなかった。忠賢は巡撫・巡按に厳しく追徴するよう命じ、その一族従兄弟十四人を拘束した。長兄の光霽は連座して死に、母は子を哭いて死んだ。都御史周応秋はなお担当官が追徴に力を尽くさないとして、上疏して督促した。これにより諸人の家族はことごとく破産した。忠賢が『三朝要典』を定めた時、「移宮」の一案では漣・光斗を罪魁とし、棺を開いて屍を辱めることを議した。これを解する者がいて、ようやく免れた。忠賢が誅殺された後、光斗に右都御史を追贈し、その一子を録用した。後に、再び太子少保を追贈した。福王の時、忠毅と追諡された。
弟 光先
弟の光先は、郷挙によって御史に任官し、浙江を巡按した。任期が満了し、既に管轄を出た後、許都が東陽で反乱を起こした。光先は変事を聞いて急ぎ戻り、これを討伐平定した。福王が即位した後、馬士英が阮大鋮を推薦したので、光先は争って認められないとした。後に大鋮が権勢を得ると、光先を逮捕した。乱が激しく道が阻まれたため、光先は間道を歩いて徽嶺に逃れた。緹騎が捜索したが見つからず、やむなく止めた。
魏大中
魏大中、字は孔時、嘉善の人。諸生であった時から、読書して行いを磨き、高攀龍に師事した。家は極めて貧しかったが、意は豁如としていた。郷挙に及第し、家族が新しい衣冠に着替えさせようとすると、怒ってこれを破った。万暦四十四年進士に及第し、行人に任官した。数度使節として派遣されたが、秋毫も煩わすことがなかった。
翌年、同官の周朝瑞らと共に二度上疏して大学士沈纮を弾劾し、言葉は魏進忠・客氏に及んだ。「紅丸」の事を議するに及んで、方従哲・崔文昇・李可灼を誅殺するよう強く請い、かつ鄭国泰が東宮を傾け害した罪を追及するよう論じた。持論が峻厳切直であったため、邪党から大いに睨まれた。太常少卿王紹徽は平素より東林と対立し、巡撫の職を求めた。大中はその人柄を憎み、特に上疏して紹徽を斥けるよう請い、紹徽は結局自ら退去した。再び礼科左給事中に転じた。この時、恤典が濫用されており、大臣が卒するごとに、その子弟が要路に縁故を求めて請願し、意のままにならないことはなかった。大中は平素よりこれを憎み、一切を典制によって裁断した。
四年、吏科都給事中に転じた。大中は官に在って家族を連れて赴任せず、二人の下僕が炊事をするだけであった。朝に出ると戸に鍵をかけ、寂として一人もいなかった。外部の官吏が賄賂を持って来たが、これを摘発したので、以後大中の門に及ぶ者はなくなった。吏部尚書趙南星はその賢さを知り、事あるごとに諮問した。朝士で南星の意を得られない者は、概ね大中を怨んだ。この時、東林を排斥していた者は多く廃免されており、南星らを骨髄に徹して恨んでいた。東林の中でも、またそれぞれ地縁によって左右に分かれていた。大中はかつて蘇松巡撫王象恒の恤典を退けたことがあり、山東出身で言路に居る者は皆怒った。また浙江巡撫劉一焜の恤典を退けた時は、江西人もまた大いに怒った。給事中章允儒は江西人で、性格が特に嫉妬深く、その同官傅櫆を唆して汪文言を口実に発難させた。
文言は、歙県の人。初め県の小吏となり、智巧で術策を好み、侠気を負っていた。于玉立が彼を京に派遣して情報を探らせ、財を輸納して監生となり、計略を用いて斉・楚・浙の三党を破った。東宮伴読王安が賢明で学識があると察し、心を傾けて結び付き、当世の流品について語り合った。光宗・熹宗の際、外廷は劉一燝を頼りとし、王安は宮中にあって次々と善政を行ったが、文言がその間を奔走して尽力することが多かった。魏忠賢が王安を殺害した後、府丞邵輔忠が文言を弾劾し、その監生を剥奪した。都を出た後、再び逮捕されて官吏に引き渡されたが、軽減された。ますます公卿の間を遊走し、車馬は常に戸外に満ち溢れた。大学士葉向高が彼を内閣中書に任用し、大中及び韓爌・趙南星・楊漣・左光斗が彼と往来し、かなり形跡があった。
ちょうど給事中阮大鋮が光斗・大中と不和であったので、允儒と謀略を定め、櫆に文言を弾劾させ、かつ大中を容貌醜く心険しく、外見を取り繕い行いはそれに背き、光斗らと文言と交通して、ほしいままに奸利を貪っていると弾劾させた。上疏が入ると、忠賢は大いに喜び、直ちに文言を詔獄に下した。大中はちょうど吏科に転じようとしていた時で、上疏して強く弁明し、詔によって新任に就くことを許された。御史袁化中・給事中甄淑らが相次いで大中・光斗を弁護した。大学士葉向高は文言を推挙任用したことにより、また罪を認めて罷免を求めた。獄事が急を要する中、御史黄尊素が鎮撫劉僑に言った。「文言は惜しむに足らないが、縉紳の禍がここから起こることを許すべきではない。」僑はこれに肯き、獄の供述に連座する者はいなかった。文言は廷杖の上、官職を剥奪され、連座した者は免れた。大中は詔に従って新任に就いた。翌日、鴻臚寺が面恩の名を奏上すると、忠賢は突然偽りの詔旨を下し、大中が互いに攻撃し合ったことが未だ完了していないと責め、新任に赴くことを許さなかった。故事によれば、鴻臚寺の報名状に批諭の旨が下ることはなく、朝廷中が驚愕した。櫆もまた中旨が傍から出るべきではないと上言し、大中はようやく職務に復した。
間もなく、楊漣が上疏して魏忠賢を弾劾すると、魏大中もまた同官を率いて上言した。「古より君側の奸臣は、直ちに国を禍す能わざるなり。身を惜しまぬ忠臣ありて、その君に告ぐるも、その君悟らず、遂に救い難きに至る。今、忠賢は威福を擅にし、党与を結び、まず王安を殺して内に威を樹ち、次いで劉一燝・周嘉謨・王紀を逐って外に威を樹ち、近くは三戚畹の家人を斃して三宮に威を樹つ。保姆客氏と深く結び、陛下の起居を窺い、傅応星・陳居恭・傅継教らを広く布き、朝中の声息を通ず。下に人怨み、上に天怒る。故に楊漣は粉身碎首を惜しまずして陛下に陳ず。今、忠賢の種々の罪状を、陛下悉く親裁と為し、代わって咎を任ず。恐らくは忠賢の温旨を得る所以のもの、即ち忠賢の手より出で、而して楊漣の上疏は、陛下未だ省覧せざるなり。陛下は貴きこと天子たるに、三宮列嬪の命を尽く忠賢・客氏に寄す。寒心せざるを得んや。陛下は宮禁厳密なりと謂い、外廷安んぞ知らんとす。枚乗に言あり、『人に知らしめざらんと欲せば、為さざるに若かず』と。その事を為して他人知らざるは未だあらざるなり。又、左右を屏けて聖躬将に孤立すと謂う。夫れ陛下の一身は、大小臣工の擁衛する所、何ぞ忠賢に藉らん。若し忠賢・客氏一日去らざれば、恐らくは禁廷左右悉く忠賢・客氏の人にして、陛下の人に非ず、陛下真に上に孤立するのみ。」忠賢は疏を得て大いに怒り、矯旨して切に譲るも、未だ罪とする所以なし。大学士魏広微は忠賢に結納し、表裏して奸を為す。大中は毎にこれを糾さんと欲す。会うに孟冬の時享に、広微が偃蹇として後至するや、大中遂に抗疏してこれを劾す。広微は愠り、益々忠賢と合す。忠賢の勢い益々張り、廷臣の交攻するを以て、陽に斂戢を示し、且つ諸の奏請に曲従するも、陰にその隙を伺う。迨うに吏部が謝応祥を推挙して山西巡撫と為さんとするや、広微は遂に親しき者陳九疇を嗾して、大中が応祥の門に出ずるを劾し、推挙不公として三秩を貶し、外に出し、諸の正人たる吏部尚書趙南星らを尽く逐う。天下の大権一に忠賢に帰す。
明年、逆党梁夢環復た文言を劾し、再び詔獄に下す。鎮撫許顕純自ら牍を削りて上る。南星・漣・光斗・大中及び李若星・毛士龍・袁化中・繆昌期・鄒維璉・鄧渼・盧化鰲・錢士晉・夏之令・王之寀・徐良彦・熊明遇・周朝瑞・黄龍光・顧大章・李三才・惠世揚・施天德・黄正賓の輩、牽引せざる所なく、而して漣・光斗・大中・化中・朝瑞・大章を以て楊鎬・熊廷弼の賄を受けし者と為す。大中は三千に坐し、矯旨して俱に逮えて詔獄に下す。郷人、大中の逮え去られるを聞き、号泣して送る者数千人。鎮撫司に入るに及び、顕純酷刑を以て拷訊し、血肉狼籍たり。その年七月、獄卒指を受けて、漣・光斗と同夕にこれを斃す。故に数日を遅らせて始めて報ず。大中の屍潰敗し、識るべからざるに至る。荘烈帝嗣位し、忠賢誅せられ、広微・櫆・九疇・夢環並びに逆案に麗す。大中に太常卿を贈り、諡して忠節と曰い、その一子を録す。
子に学洢あり。
長子学洢、字は子敬。諸生たり。学を好み文を工にし、至性あり。大中逮えらるるや、学洢号慟して随行せんと欲す。大中曰く、「父子俱に碎くるも、為す所なきなり」と。乃ち微服して間行し、起居を刺探す。既に都に抵り、邏卒四布す。姓名を変えて旅舎に匿れ、昼は伏し夜に出で、称貸して以て父の贓を完うす。贓未だ竟わざるに、大中斃る。学洢慟哭して幾くんか絶せんとす。榇を扶けて帰り、晨夕号泣し、遂に病む。家人漿を進むるも、輒ち麾き去りて曰く、「詔獄中、誰か半夜に一漿を進むる者あらんや」と。竟に号泣して死す。崇禎初、有司状を以て聞え、詔して孝子と旌す。
子に学濂あり。
次子学濂、盛名あり。崇禎十六年進士に挙げらる。庶吉士に擢てらる。明年、李自成京師に逼る。同官呉爾壎と慷慨して論建する所あり、大学士范景文以て聞ゆ。荘烈帝特に両人を召見し、将に任用せんとす。間も無く、京師陥り、死する能わず、賊の戸部司務の職を受け、その家声を頽す。既にして自ら慚じ、絶命詞二章を賦し、縊死す。帝の社稷に殉ずる時より四十日を去る。
文言の再び詔獄に下さるるや、顕純迫りて漣らを引かしむ。文言備えて五毒を受け、承わず。顕純乃ち手ずから文言の供状を作る。文言垂死に、目を張りて大呼して曰く、「爾妄りに書くこと莫れ、異時に吾当に面質すべし」と。顕純遂に即日これを斃す。漣・大中等逮え至るも、質すべき者無く、贓懸坐するのみ。諸の趙南星・繆昌期の輩を誣うる所も、亦た並びに撫按に令して贓を追わしむ。衣冠の禍、ここより天下に遍し。初め熊廷弼死を論ぜられて久し。帝、孫承宗の請いに以て、詔して以て不死を待つ。刑部尚書喬允升等遂に朝審に因りてその罪を寛めんと欲す。大中力を以て不可と持す。忠賢大中を殺するに及び、乃ち廷弼の賄を受けしに坐すと云う。
周朝瑞
周朝瑞、字は思永、臨清の人。万暦三十五年進士。中書舎人を授かる。
光宗嗣位し、吏科給事中に擢てらる。疏を上して先朝の遺直を収録せんことを請う。俄かに慎初三要を陳ず。曰く、仁賢を信じ、徳沢を広め、邪佞を遠ざく。因りて上供の金花銀を留めて、以て軍興を佐けんことを請う。詞多く中貴を斥く。中貴皆これを悪み、帝を激して怒らしめ、秩を貶し外に調す。時に諫垣に列する甫めて四日なり。未だ都を出でざるに熹宗立ち、詔して故官に復す。直言を容納せんことを請う。又た考選の諸弊を陳ず。日講将に挙らんとす。君臣交警の規を進む。帝並びに褒納す。賈継春の李選侍に安んぜんことを請うるや、朝瑞力を以てこれを駁し、継春と往復すること数四。
明年二月、広寧失す。詔して経筵日講を停む。朝瑞等上言して曰く、「此れ果たして聖意より出ずるならば、輔臣当に義を引いて争うべし。若し輔臣中涓の意に阿るならば、則ちその過ち滋だ大なり。且つ主上沖齢、志意未だ定まらず、独り朝講輟まざるを頼み、諸臣一たび天顔を覲き、共に指鹿の奸を白す。今、常朝已に漸く伝免せらる。倘し並びに講筵を廃せば、九閽既に隔たり、謁見の時無く、司馬門の報格に入らず、呂大防の貶を知るに及ばず、国家の大事去らん」と。会うに礼部も亦た以て言と為す。乃ち日講を故の如くせしむ。
既にして、諸給事中・御史の惠世揚・左光斗らと共に、大学士沈纮が宦官と結託して兵を練り、肘腋の賊となることを極論した。沈纮は上疏して弁明した。朝瑞らは、彼が魏進忠・盧受・劉朝・客氏に賄賂を贈って交わり、末にはその私党の邵輔忠・徐大化にまで及んだことをことごとく暴露した。言葉が過激であったため、上疏の首唱者世揚の俸給を奪った。大化はかつて要人の意を受けて、力を尽くして熊廷弼を攻撃したので、朝瑞はこれを憎んだ。間もなく、王化貞が広寧を棄てて逃走し、大化はまた熊廷弼を直ちに誅殺するよう請うた。朝瑞は廷弼の才能が用いるに足ると考え、罪を帯びたまま山海を守らせるよう請い、四度上疏したが、いずれも抑えられて行われなかった。大化はそこで力を尽くして朝瑞を誹謗し、朝瑞は憤慨し、また大化を醜く罵った。所管の役所が両方を和解させた。朝瑞はちょうど太僕少卿に抜擢されたところであったが、大化は魏忠賢の腹心であり、どうしても朝瑞を殺そうと企み、その名を汪文言の獄中に紛れ込ませ、楊漣ら五人と共に逮捕して鎮撫司の獄に下し、妄りに「移宮」を議し、かつ廷弼から賄賂一万金を受けた罪に坐した。五日間に二度取り調べ、鞭打ち拷問をことごとく加え、ついに獄中で死なせた。崇禎初年、大理卿を追贈され、一子に官職を与えた。福王の時、忠毅と諡された。
袁化中
袁化中、字は民諧、武定の人。万暦三十五年の進士。内黄・涇陽の知県を歴任し、善政があった。
楊漣が魏忠賢を弾劾すると、化中もまた同官を率いて上疏して言った。「忠賢は日を遮り月を蔽い、威を逞しくし福を作り、大臣を奴隷の如く見なし、言官を孤雛の如く斥け、内廷・外廷の者を草菅の如く殺す。朝野共に危ぶみ、神人共に憤るが、ただ陛下がこれをご存じないので、忠賢にはなお畏れる心がある。今や楊漣は既に侃々たる言葉をもって上告しました。陛下が潜邸時代の微労を思い、あるいは忠賢を死罪にしないでお許しになるかもしれません。しかし忠賢は実は自ら死を恐れています。死を恐れる念が深くなれば、やがては挺身して危険に走り、虎に乗って下りられなくなるでしょう。臣は、その横暴に任せて振るう毒が縉紳にあるのではなく、まさに陛下にあることを恐れます。陛下は試みに考えてみてください。深宮の内に、多くを疑い多くを恐れる人を日に日に左右に侍らせて、防制しないでおけましょうか。」上疏が入ると、忠賢は大いに恨んだ。
錦衣の陳居恭という者は、忠賢の爪牙であり、楊漣の論及するところとなり、また忠賢を攻撃して自らを弁解した。化中は特に上疏してこれを弾劾し、その職を落とした。毛文龍が捕虜十二人を献上したが、幼い児童と女子がその八人を占めた。化中は力を尽くしてこれを釈放するよう請い、ついで文龍の功績叙任の濫りを言上した。忠賢は平素より文龍を庇護していたので、ますます快く思わなかった。崔呈秀が淮安・揚州を巡察し、贓物私利が狼藉であった。回道考核の際、化中は事実に基づいてこれを上奏したので、崔呈秀は大いに恨んだ。ちょうど謝応祥が廷推で讒訴された際、化中がその事に関与したので、呈秀は忠賢を唆して化中の官位を貶め、外任に転じさせた。既にして、汪文言の獄の供述の中に紛れ込ませ、詔獄に逮捕して下した。呈秀は許顕純に命じて、楊鎬・熊廷弼の賄賂六千を受けた罪に坐らせ、酷刑を加えて拷問し、獄中で死なせた。崇禎初年、太僕卿を追贈され、一子に官職を与えた。福王の時、忠愍と追諡された。
顧大章
顧大章、字は伯欽、常熟の人。父は雲程、南京太常卿。大章は弟の大韶と、双子である。大章は万暦三十五年に進士に挙げられ、泉州推官に授けられたが、常州教授に改めるよう請うた。父の喪が明けて、朝廷では朋党が対立し、正しい士人は日に日に摧折される状況にあった。大章は慨然として言った。「昔、賈彪は『顧』『厨』の目に入らず、ついに西行してその難を解いた。私は以前から東林と疎遠であったから、賈彪に自らをなぞらえることができる。」そこで都に入り、国子博士に補された。朝士と通じて往来し、ひそかにその交際の要所を察し、清流はこれに頼った。
次第に刑部主事に遷った。使いを奉じて帰郷した。還朝すると、天啓に既に改元しており、員外郎に進んだ。尚書の王紀が山東司の事務を署理するよう命じた。司は輦轂を管轄し、最も任じ難い職であった。遼陽が失陥して以来、五城及び京営巡捕は日に日に奸細を捜索することを事とし、少しでも跡形があれば、大抵死罪と論じた。全く左証のない者が二百余人おり、所管の役所は敢えて判決を下さず、多くは転任して去り、囚人で死ななかった者は僅かに四分の一であった。大章は王紀に言った。「一身をもって五十人の命と換えることさえ甘んじる、ましてや一官職などどうであろうか。」即日に会審し、三人を拘束し、残りは全て大理寺に移して釈放させた。王紀は大いに嘆服した。佟卜年の獄では、王紀は大章の言葉を用いて卜年を流刑に擬し、まだ上奏しないうちに王紀は排斥された。侍郎の楊東明が事務を署理し、卜年を大辟に処そうとしたが、大章は力爭し、ついに流刑に擬した。帝意に逆らい、詰問責めを受け、結局卜年を辟(死刑)と論じ、獄中で病死した。
魏忠賢は劉一〓の事件を借りて劉一燝に連座させようとしたが、大章は力強くその誤りを弁明したので、忠賢は大いに恨んだ。卜年・一〓の事件の詳細は『王紀伝』・『劉一燝伝』にある。熊廷弼・王化貞が法吏に下された時、法司の諸属官二十八人が共に審議し、廷弼を寛大に処するよう議する者が多かった。大章はそこで「議能」「議労」の例を援用し、化貞は誅すべきであり、廷弼は戍辺に論ずべきであると述べた。しかし二人は結局死罪に坐した。大章もまた兵部に遷って去り、異議はなかった。ちょうど王紀が徐大化を弾劾して罷免させ、また客氏を弾劾する上疏をした時、その党与は王紀の上疏が大章の手によるものと疑い、彼を恨んだ。大化は親しい御史の楊維垣に大章が妄りに「八議」を唱え、大獄を売ったと讒訴させ、大章は上疏して弁明した。維垣は四度上疏して力攻し、廷弼から賄賂四万を受け取ったと述べ、かつ彼が獄を売った数事を列挙し、反覆して誹謗讒訴して止まなかった。大章は非常に危うかったが、座主の葉向高がこれを保持したので、所管の役所に下して検問させ、都御史の孫瑋らがその誣告を明らかにした。帝は大章が濫りに弁明したとして、ややその俸給を奪い、大章はついに引退して帰郷した。
五年に起用されて官に就いた。礼部郎中、陝西副使を歴任した。大化は既に大理丞に起用され、維垣と共に忠賢の鷹犬となり、汪文言の獄を借りて大章に連座させ、逮捕して鎮撫司に下し拷問し、贓物四万の罪に坐らせた。楊漣ら五人が既に死んだ後、群小が集まって謀り、諸人がひそかに獄中で死んだのでは、人心を満足させることができないと言い、法司に付して罪を定め、天下に明詔すべきだとした。そこで大章を刑部の獄に移し、これによって楊漣らの惨死の様子を外の者が初めて聞いたのである。対簿に臨んで、大章の言葉と気概は屈しなかった。刑部尚書の李養正らは、鎮撫司の元の供述のままに、「移宮」の事を封疆の事に牽合させ、六人を大辟に坐らせた。判決文が既に上ると、忠賢は大いに喜び、詔を偽って四方に布告し、なお大章を鎮撫司に移した。大章は慨然として言った。「私はどうして再びこの獄に入ることができようか。」酒を呼び大韶と決別し、急いで薬を調合して飲んだが、死なず、首を吊って死んだ。崇禎初年、太僕卿を追贈され、一子に官職を与えた。福王の時、裕愍と追諡された。
初め、大章らが逮捕された時、秘密の獄中に忽然と黄芝が生え、光彩が遠くまで映った。六人が皆入獄すると、ちょうど六つの花弁ができ、ある者はこれを祥瑞とした。大章は嘆いて言った。「芝は瑞物である。それがここで辱めを受ける。我々は幸いがあるのだろうか。」既にして果たしてその通りであった。
弟 大韶
大韶、字は仲恭、諸生として老いた。経史百家及び内典に通じ、『詩』・『礼』・『儀礼』・『周官』について多く発明するところがあり、その他弁駁するものまた数万言に及んだ。かつて、宋・元以来、述べる者の事は備わっており、学者はただ誦読すべきで述べてはならないと考えた。死に臨んで、初めて自ら箋注した『詩』・『礼』・『庄子』を清書し、『炳燭斎随筆』と言った。
王之寀
王之寀、字は心一、朝邑の人。万暦二十九年の進士。清苑知県に任じられ、刑部主事に遷る。
その月十一日、之寀が提牢を担当し獄中に飯を配った時、最後に張差のところに至り、密かに実情を詰問した。初めは「告状する」と言い、また「涼死罷(どうせ死ぬのだ)、もう用はない」と言った。之寀は飯を張差の前に置かせ、「実を吐けば飯を与える、さもなければ餓死せよ」と言い、左右を退かせ、二人の吏を留めて支えさせて問うた。初めて言うには、「小名は張五児。馬三舅・李外父が、姓名不詳の一老公(宦官)に従えと言い、事が成れば汝に土地を数畝与えると言った。京に至ると、知らない街道の大邸宅に入った。一老公が飯を与え、『汝は先に一通り突進し、人に遇えば打ち殺せ、死んだら我々が汝を救う』と言った。私に棗木の棍棒を与え、後宰門から導いて宮門に至らせ、門番を撃って地面に落とした。老公が多かったので、遂に捕らえられた」。之寀はその言葉を詳しく書き記し、張問達を通じて奏聞させた。そして張差は狂ってもおらず狂ってもいない、心胆有る者であると述べた。凶犯を文華殿前で縛り朝廷で審問すること、あるいは九卿・科道・三法司に命じて会審することを乞うた。上疏は入ったが下されず、大理丞王士昌・行人司正陸大受・戸部主事張庭・給事中姚永済らが相次いで上疏して催促した。ところが大受の上疏に「奸戚」の二字があり、帝はこれを憎み、之寀の上疏と共に返答しなかった。廷元はまた諸々の上疏を速やかに取り調べ、法司に下して訊問断罪するよう請うた。御史過庭訓は禍が肘腋(身近)に生じたと言い、速やかに断つべきだと述べたが、これも共に返答がなかった。庭訓はそこで文書を薊州に移して跡を追わせた。知州戚延齢がその狂癲に至った経緯を詳しく述べ、「貴妃が宦官を遣わして仏寺を建てさせ、宦官が陶器を置き瓦を造ったので、住民は多く薪を売って利益を得た。張差は田を売って薪を買い、宦官のところで売ろうとしたが、土地の者がこれを妬み、その薪を焼いた。張差が宦官に訴えたが、責められ、憤りに耐えず、棍棒を持って御状を告げようとした」と言った。そこで元の審問官らはこれを口実とした。
二十一日、刑部が十三司の司官胡士相・陸夢龍・鄒紹光・曾曰唯・趙会禎・労永嘉・王之寀・呉養源・曾之可・柯文・羅光鼎・曾道唯・劉継礼・呉孟登・岳駿声・唐嗣美・馬徳沣・朱瑞鳳らを集めて再審した。張差の供述。「馬三舅の名は三道、李外父の名は守才、姓名不詳の老公は鉄瓦殿を修造した龐保、知らない街道の邸宅は朝外の大邸宅に住む劉成のものである。二人は私に宮門を打ち上げよと言い、小爺を打てば、食べるものもあり、着るものもあると言った」。小爺とは、内監が皇太子を称する言葉である。また言うには、「姉婿の孔道が同謀で、合わせて五人である」。そこで刑部は薊州道に行文し、馬三道らを召喚し、法司に龐保・劉成を召喚して対審するよう上疏して請うた。給事中何士晉と方従哲らもまた皆これについて言上した。帝はそこで主使者を究明するよう諭し、法司に罪を擬定させた。この日、刑部は薊州からの返答文書に基づいて上奏した。その後、また厳刑で審問し、速やかに典刑に正すよう諭した。当時、朝廷内外で噂が広まり、言葉多く鄭国泰を侵したので、国泰は文書を出して自ら弁明した。士晉はまた上疏して国泰を攻撃し、その言葉は『士晉伝』に詳しい。
先に、百戸王曰乾が変事を上告し、奸人孔学らが巫蠱を行い、皇太子に不利を図ろうとしていると言い、言葉はすでに劉成に連なっていた。劉成と龐保はともに貴妃宮中の内侍である。ここに至り、また劉成に及んだ。帝は心動き、貴妃に善く計らうよう諭した。貴妃は窮し、皇太子に哀願し、他意なきことを自ら明らかにした。帝もまた幾度か慰諭し、太子に廷臣に説明させた。太子もまた事が貴妃に連なることを大いに恐れ、そこで帝と貴妃の意に沿い、速やかに結着することを望んだ。二十八日、帝は親しく慈寧宮に臨御し、皇太子は御座の右に侍し、三皇孫は雁行して左階の下に立った。大学士方従哲・呉道南および文武の諸臣を召し入れ、父子を離間することを責め、張差・龐保・劉成を磔にし、他に及ばないよう諭した。そこで太子の手を執って言うには、「この児は極めて孝行で、私は極めて愛惜している」。既にしてまた太子の体を手で抱き、「襁褓の時から養い成人させたのに、私に別の考えがあるなら、何ぞ早く更えて置かなかったのか。かつ福王はすでに封国に行き、ここから数千里離れており、宣召しない限り、どうして飛んで来られようか」。そこで内侍に命じて三皇孫を石段の上に導き、諸臣に熟視させて言うには、「朕の諸孫は皆成長した、さらに何を言うことがあろうか」。顧みて皇太子に何か言うことがあるかと問い、諸臣に全て言って隠すなかれと命じた。皇太子は詳しく言うには、「狂癲の人は速やかに決断すべく、株連すべからず」。また諸臣を責めて言うには、「我が父子は何と親愛であるか、それなのに外廷では議論が紛然としている。爾らは君無き臣であり、我を不孝の子としている」。帝はまた諸臣に言うには、「爾らは皇太子の言葉を聞いたか」。また連声でこれを繰り返した。諸臣は跪いて聞き、叩頭して退出した。そこで法司に命じて張差を処断させた。明日、市中で磔にした。また明日、司礼監が廷臣と会し、文華門で龐保・劉成を審問した。当時すでに左証がなく、保・成は言を翻して承服しなかった。ちょうど太子が軽く擬定するよう伝諭したので、廷臣は散じた。十余日を過ぎて、刑部は馬三道・李守才・孔道を流罪とすることを議した。帝はこれに従い、龐保・劉成を内廷で死に至らしめた。その事は遂に止んだ。
この時、帝は群臣に会わずに二十五年が経っていたが、之寀が龐保・劉成の事を発覚させたため、特に一度出御して群臣の疑いを解き、かつ貴妃と太子の間を調和しようとした。その事に跡があるように思ったので、之寀を急に罪に問わなかったのである。四十五年、京察の時、給事中徐紹吉・御史韓浚が拾遺を用いて之寀の貪婪を弾劾し、遂にその官籍を削った。
『礼』によれば、君父の仇は、同じ天の下に戴かず。斉の襄公が九世の仇を復したことを、『春秋』は大いにこれを称える。かつて李選侍が聖母(光宗の生母、王恭妃)を気勢で殴打した時、陛下は再三中外に告げ、その貴妃の封を停めた。聖母の在天の霊は必ず心安らかで目を瞑る者であろう。これが復讐の一大義である。
そもそも先帝は一生の遭難多く、弥留の際、恨みを飲んで崩御された。試みに問う、李可灼の誤って薬を用いたこと、これを引き入れた者は誰か。崔文升の故意に薬を用いたこと、これを主導した者は誰か。恐らく方従哲の罪は可灼・文升に劣らぬであろう。これが先帝の大仇未だ復されざるもの、その一である。
張差が棍棒を手に宮中を犯し、安危は呼吸の間にあった。これは乾坤いかなる時ぞ、劉廷元は曲げて奸謀を覆い、瘋癲として獄を具えた。胡士相等は口語を改注し、薪を売る者として自白させた。その後再び審議するに、張差は同謀して挙事し、内外に多数の伏兵を設けたと供した。守才・三道もまた結党連謀したと供したが、士相らはこれを悉く抹消した。当時、内応あり、外援あり。一夫難を起こし、九廟震動す。何物の凶徒ぞ、敢えてかくの如く不道をほしいままにせんや。外戚鄭国泰がひそかに劉廷元・劉光復・姚宗文らと結び、珠玉金銭その室に満ちたるに縁る。言官は舌を結び、敢えて誰何する者なく、遂に再び顧み憚る所なく、神器を睥睨したのである。国泰は死せりといえども、その罪は誅に容れられず。法に照らせば棺を開き屍を戮し、その族を夷し、その宮を赭にすべきである。しかるに今に至るも未だ議するに及ばず。これが先帝の大仇未だ復されざるもの、その二である。
要するに、薬を用いるの術は、即ち梃撃の謀なり。撃ち中たらずしてこれを薬に促すは、文升の薬が張差の梃よりも惨き所以である。張差の前、張差あること未だ嘗て無し。劉成の後、劉成に乏しからんや。臣は陛下の上に孤立するを見る。
また言う。
郎中胡士相等は、瘋癲を主張する者なり。堂官張問達は、瘋癲を調停する者なり。寺臣王士昌は疏は忠にして心は佞なり、評には隻字なく、訟には溢詞多し。堂官張問達は語は転じて意は円なり、先ず瘋癲を允し、後に奸宄を寛うす。労永嘉・岳駿声らは同悪相済む。張差の供に「三十六頭児」とあるは、則ち胡士相は筆を閣く。供に「東辺一起幹事」とあるは、則ち岳駿声は無辜に波及すと言う。供に「紅封票、高真人」とあるは、則ち労永嘉は紅封教を究め及ばずと言う。今高一奎は薊州に監せられ、鎮朔衛の人なり。蓋し高一奎は紅封教を主宰する者なり。馬三道は紅票を管給する者なり。龐保・劉成は紅封教の多人に撒棍を供給する者なり。諸奸は会審公単を増減し、大逆不道なり。
疏が入るも、帝は問わず、而して先ず瘋癲を主張した者は骨髄に恨む。
未だ幾ばくもせず、王之寀は尚宝少卿に遷る。年を踰えて太僕少卿に遷り、尋いで本寺卿に転ず。劉廷元及び岳駿声・曾道唯は之寀が己を侵すを以て、先後疏を上べて弁ず。之寀もまた連疏して力を折り、併せて諸人が前に張差の獄を議した時、紅廟中に金を分かち、及び居間の主名の甚だ悉きを発す。事は行われざるも、諸人はますます之を疾む。
四年秋、刑部右侍郎に拝す。明年二月、魏忠賢の勢い大いに張り、その党楊維垣が首めて「梃撃」の案を翻し、力を之寀を誹謗し、坐して除名せらる。俄かに汪文言の獄に入れられ、撫按に下して提問せしむ。岳駿声また之を讦り、且つ其が鄭国泰の二万金を逼取したことを言い、詔ありて追治せしむ。及び『三朝要典』を修するに及び、その「梃撃」の事は之寀を以て罪首とす。府尹劉志選また重ねて之を劾し、遂に詔獄に逮下し、贓八千に坐し、之寀竟に瘐死す。崇禎初、官を復し、恤を賜う。
「梃撃」の議起こるより、「紅丸」「移宮」の二事これに継ぐ。両党の是非勝を争い、禍患相尋い、明の亡ぶるに至って後已む。
賛して曰く、国の将に亡ぼんとするや、先ず自らその善類を戕き、而して水旱盗賊これに乗ず。故に禍乱の端は、士君子恒に先ずその毒に被る。異なるかな、明のいわゆる「三案」なるものは。挙朝の士大夫喋喋として口を去らず、而して元悪大憝因って以て善類を剪除し、卒に楊・左諸人の身牢戸に填まり、東漢季年と一轍を蹈むが若し。国安ぞ亡ぼざらんや。