明史

列傳第一百三十一 趙南星 鄒元標 孫慎行 高攀龍 馮從吾

列傳第一百三十一 趙南星 鄒元標 孫慎行 高攀龍 馮從吾

原文列傳第一百三十一 趙南星 鄒元標 孫慎行 高攀龍 馮從吾

○趙南星 鄒元標 孫慎行(盛以弘)高攀龍 馮從吾

原文○趙南星 鄒元標 孫慎行(盛以弘)高攀龍 馮從吾

趙南星

原文趙南星

趙南星、字あざなは夢白、高邑の人。萬曆二年の進士。汝寧推官に任ぜられる。治績は廉潔公平であり、やがて戸部主事に昇進した。張居正が病に臥せると、朝士が群れをなして祈禱したが、南星は顧憲成・姜士昌とともに行かないことを戒めた。居正が没すると、吏部考功に転じた。病気を理由に辞職して帰郷した。

原文趙南星,字夢白,高邑人。萬歷二年進士。除汝寧推官。治行廉平,稍遷戶部主事。張居正寢疾,朝士群禱,南星與顧憲成、姜士昌戒弗往。居正歿,調吏部考功。引疾歸。

文選員外郎として再起用された。天下の四大害を上疏して陳べた。「楊巍が致仕を乞うと、左都御史の呉時来がその後任を謀り、戸部尚書の宋糸熏の声望を妬み、相次いで上疏して排擠した。副都御史の詹仰庇は吏部・兵部の二侍郎の職を力謀した。大臣がこのようであるならば、どうして小臣を責めることができようか、これを幹進の害という。礼部尚書の沈鯉・侍郎の張位・諭徳の呉中行・南京太僕卿の沈思孝が相次いで自ら免職となったが、ただ南京礼部侍郎の趙用賢だけが在職していた。詞臣の黄洪憲らは常に陰に彼を讒し、言官の唐堯欽・孫愈賢・蔡系周はさらに公然と誣謗した。衆正が容れられず、宵小が志を得る、これを傾危の害という。州県の長吏の選授が軽すぎる。部寺の官は日数を数えて郡守に取り立てられ、才能と行いを問わない。そして巡撫・巡按が人を論じ、贓私の証拠があっても、『甚だしからず』とか『任が浅い』などと言い、一概に降格・転任で済ませる。その意は、才を惜しむとしているが、これは不才を惜しんでいるのだと知らない。吏治は日に日に汚れ、民の生計は日に日に疲弊する、これを州県の害という。郷官の権力が太守・県令よりも大きく、横行して忌憚がなく、誰もどうすることもできない。渭南知県の張棟のように、治績比類なき者が、郷官を裁抑したために、讒言されて行取に選ばれなかった、これを郷官の害という。四害を除かなければ、天下を治めることはできない。」上疏が出ると、朝論はこれを是とした。しかし、その中で抨撃した者はすべて時の宰相が庇護する者たちであった。そこで給事中の李春開が起ち上がってこれを駁した。その上疏が先に下され、南星は譴責を受けそうになった。給事中の王継光・史孟麟・万自約、部曹の姜士昌・呉正志がともに南星を助けて春開を詆毀し、さらに時来・仰庇・洪憲が讒諂する様子を暴いた。春開は気勢をそがれたが、しかし南星は結局病気を理由に帰郷した。再び起用され、考功郎中を歴任した。

原文起歷文選員外郎。疏陳天下四大害,言:「楊巍乞休,左都御史吳時來謀代之,忌戶部尚書宋糸熏聲望,連疏排擠。副都御史詹仰庇力謀吏、兵二部侍郎。大臣如此,何以責小臣,是謂幹進之害。禮部尚書沈鯉、侍郎張位、諭德吳中行、南京太僕卿沈思孝相繼自免,獨南京禮部侍郎趙用賢在,詞臣黃洪憲輩每陰讒之,言官唐堯欽、孫愈賢、蔡系周復顯為詆誣。眾正不容,宵人得誌,是謂傾危之害。州縣長吏選授太輕,部寺之官計日而取郡守,不問才行。而撫按論人贓私有據,不曰未甚,則曰任淺,概止降調,其意以為惜才,不知此乃惜不才也。吏治日汙,民生日瘁,是謂州縣之害。鄉官之權大於守令,橫行無忌,莫敢誰何。如渭南知縣張棟,治行無雙,裁抑鄉官,被讒不獲行取,是謂鄉官之害。四害不除,天下不可得治。」疏出,朝論韙之。而中所抨擊悉時相所庇,於是給事中李春開起而駁之。其疏先下,南星幾獲譴。給事中王繼光、史孟麟、萬自約,部曹姜士昌、吳正誌並助南星詆春開,且發時來、仰庇、洪憲讒諂狀。春開氣沮,然南星卒以病歸。再起,歷考功郎中。

二十一年、京官の大計(考課)が行われ、尚書の孫鑨とともに公明正大に澄汰した。まず親しい都給事中の王三余および孫鑨の甥である文選員外郎の呂胤昌を罷免し、その他政府に附麗する者や大学士の趙志臯の弟も免れず、政府は大いに堪えられなかった。給事中の劉道隆がこれに乗じて、吏部が拾遺された庶僚を議留したのは法に反すると弾劾した。詔勅を得て、南星らが専権し党を植えつけたとして、三官を貶した。まもなく李世達らの上疏による救護のため、南星は庶民に落とされた。後に論救した者はすべて譴責を受け、孫鑨もまた去位し、一時的に善類はほとんど空になった。事柄は孫鑨の伝に詳しい。

原文二十一年大計京官,與尚書孫鑨秉公澄汰。首黜所親都給事中王三余及鑨甥文選員外郎呂胤昌,他附麗政府及大學士趙誌臯弟皆不免,政府大不堪。給事中劉道隆因劾吏部議留拾遺庶僚非法。得旨,南星等專權植黨,貶三官。俄因李世達等疏救,斥南星為民。後論救者悉被譴,鑨亦去位,一時善類幾空。事具鑨傳。

南星は郷里に居て、名声はますます高く、鄒元標・顧憲成とともに、海内で「三君」と擬せられた。朝廷内外から論薦する者は百十の上疏に及んだが、ついに起用されなかった。

原文南星裏居,名益高,與鄒元標、顧憲成,海內擬之「三君」。中外論薦者百十疏,卒不起。

光宗が即位すると、太常少卿に起用された。まもなく右通政に改められ、太常卿に進み、着任すると工部右侍郎に抜擢された。数か月後、左都御史に拝命し、慨然として天下を整斉することを己が任とした。天啓三年、京官の大計が行われ、元給事中の亓詩教・趙興邦・官応震・呉亮嗣が先朝において党を結び政を乱したことを理由に、彼らを罷免することを議し、吏科都給事中の魏応嘉が強く反対した。南星は『四兇論』を著し、ついに考功郎の程正己とともに四人を「不謹」の評価に置いた。その他の澄汰は、かつて考功であった時と全く同じであった。浙江巡按の張素養が管内の人材を推薦し、姚宗文・邵輔忠・劉廷元に及んだが、南星はその誤りを弾劾し、素養は俸給を剥奪された。以前より、巡按御史には提薦の慣例があったが、南星はすでに上奏してこれを止めさせていた。しかし陝西の高弘図・山西の徐揚先・宣大の李思啓・河東の劉大受が再び以前のようにこれを行ったため、南星は彼らを一括して弾劾上奏した。これにより巡按御史は初めて法を畏れるようになった。

原文光宗立,起太常少卿。俄改右通政,進太常卿,至則擢工部右侍郎。居數月,拜左都御史,慨然以整齊天下為任。天啟三年大計京官,以故給事中亓詩教、趙興邦、官應震、吳亮嗣先朝結黨亂政,議黜之,吏科都給事中魏應嘉力持不可。南星著《四兇論》,卒與考功郎程正己置四人不謹。他所澄汰,一如為考功時。浙江巡按張素養薦部內人材,及姚宗文、邵輔忠、劉廷元,南星劾其謬,素養坐奪俸。先是,巡方者有提薦之例,南星已奏止之;而陜西高弘圖、山西徐揚先、宣大李思啟、河東劉大受,復踵行如故,南星並劾奏之,巡方者始知畏法。

まもなく張問達に代わって吏部尚書となった。この時、人々は奔走競争に務め、賄賂が恣に行われ、言路の横暴が特に甚しかった。文選郎が出るたびに、しばしば途中で待ち伏せし、人のために官を求め、得られなければ悪声を加え、あるいは追い払った。選郎はたとえ公正であってもどうしようもなく、尚書もただ嘆息するのみであった。南星は平素よりこの弊害を憎み、鋭意澄清朝政に努め、独り己が志を行い、政府や中貴といえども私的な請託をすることができず、人々はその剛直厳格さを畏れて敢えて犯す者はなかった。ある給事中が財をなした郎官のために塩運司の官を求めたが、南星は即座にその郎官を王府の官に註し、その給事中を外任に出した。知県の石三畏は平素より貪欲で、縁故を頼みに行取されようとしていたが、南星もまた彼を王府に置いた。当時、進士で王官となる者はなかったが、南星は顧みなかった。

原文尋代張問達為吏部尚書。當是時,人務奔競,苞苴恣行,言路橫尤甚。每文選郎出,輒邀之半道,為人求官,不得則加以惡聲,或逐之去。選郎即公正無如何,尚書亦太息而已。南星素疾其弊,銳意澄清,獨行己誌,政府及中貴亦不得有所幹請,諸人憚其剛嚴不敢犯。有給事為貲郎求鹽運司,即註貲郎王府,而出給事於外。知縣石三畏素貪,夤緣將行取,南星亦置之王府。時進士無為王官者,南星不恤也。

魏忠賢は彼を大いに重んじ、かつて帝の前でその任事ぶりを称えた。ある日、姉妹の子の傅応星を介して一中書に礼を持たせて面会を求めたが、南星はこれを退けた。かつて弘政門で並んで座り、通政司参議を選ぶ際、厳しい顔色で忠賢に言った。「主上は幼少である。我々内外の臣子はそれぞれ善をなすよう努めるべきである。」忠賢は黙り、怒りを顔色に表した。大学士の魏広微は、南星の友人である魏允貞の子で、南星は平素より通家の子として遇していた。広微が内閣に入ると、三度南星の門を訪れたが、南星は会おうとしなかった。またかつて嘆いて言った。「見泉に子なし。」見泉は允貞の別号である。広微は骨髄に徹して恨み、忠賢と結びついて南星を齧ろうとした。

原文魏忠賢雅重之,嘗於帝前稱其任事。一日,遣娣子傅應星介一中書贄見,南星麾之去。嘗並坐弘政門,選通政司參議,正色語忠賢曰:「主上沖齡,我輩內外臣子宜各努力為善。」忠賢默然,怒形於色。大學士魏廣微,南星友允貞子也,素以通家子畜之。廣微入內閣,嘗三至南星門,拒勿見。又嘗嘆曰:「見泉無子。」見泉,允貞別號也。廣微恨刺骨,與忠賢比而龁南星。

東林党の勢力が盛んとなり、衆正が朝廷に満ちた。南星はますます遺佚を探し挙げて、諸官に配置した。高攀龍・楊漣・左光斗が憲職を執り、李騰芳・陳於廷が銓衡を補佐し、魏大中・袁化中が科道の長となり、鄭三俊・李邦華・孫居相・饒伸・王之寀らはすべて卿貳に置かれた。そして四司の属官である鄒維璉・夏嘉遇・張光前・程国祥・劉廷諫もまたみな民望のある者たちであった。朝廷内外は喜び治世を望んだが、小人たちは側目し、ますます南星を除こうとした。給事中の傅櫆は、維璉が吏部に改められたことを自分が関知しなかったことを理由に、まず汪文言を口実に難を発し、南星が旧制を乱し、私党を植えつけたと弾劾した。維璉は辞職しようとしたが、南星が上奏して留任させたため、小人たちの恨みはますます深まった。ちょうど楊漣が忠賢を弾劾する上疏を奉ったため、宮中と政府の関係はますます水と火のようになった。南星はついに門を閉ざして休職を乞うたが、許されなかった。

原文東林勢盛,眾正盈朝。南星益搜舉遺佚,布之庶位。高攀龍、楊漣、左光鬥秉憲;李騰芳、陳於廷佐銓;魏大中、袁化中長科道;鄭三俊、李邦華、孫居相、饒伸、王之寀輩悉置卿貳。而四司之屬,鄒維璉、夏嘉遇、張光前、程國祥、劉廷諫亦皆民譽。中外忻忻望治,而小人側目,滋欲去南星。給事中傅櫆以維璉改吏部己不與聞,首假汪文言發難,劾南星紊舊制,植私人。維璉引去,南星奏留之,小人愈恨。會漣劾忠賢疏上,宮府益水火。南星遂杜門乞休,不許。

高攀龍が崔呈秀を弾劾したとき、南星は彼を辺境に戍らせることを議した。呈秀は窮地に陥り、夜に忠賢の邸に走り、叩頭して哀願し、「南星および攀龍・漣らを除かなければ、我々二人は死ぬ場所もわからない」と言った。忠賢は大いにその通りだと思い、ついに謀を定めた。ちょうど山西に巡撫が欠員し、河南布政使の郭尚友がその職を求めた。南星は太常卿の謝応祥に清望があるとして、まず彼を推薦して請うた。すでに旨を得たところ、御史の陳九疇が広微の指図を受け、応祥がかつて嘉善県の知県を務め、魏大中はその門下であった、大中は師の縁故で、文選郎の夏嘉遇と謀って彼を用いた、私情に循ったとして斥けられるべきだと上言した。大中・嘉遇が上疏して弁明し、言葉が九疇を侵害したため、九疇は再上疏して力を込めて誹謗し、ともに下部に下って議させた。南星・攀龍は極力、応祥は人望によって推挙されたのであり、大中・嘉遇に私心はなく、九疇の妄言は聞くに足らないと主張した。忠賢は大いに怒り、詔勅を偽って大中・嘉遇を罷免し、九疇もまた罷免し、南星らが朋党を結んで謀ったと責めた。南星は急いで罪を引いて去ることを求め、忠賢は再び詔勅を偽って厳しく責め、帰郷させた。翌日、攀龍もまた辞職した。給事中の沈惟炳が論救したが、これもまた外任に出された。まもなく会推が忠賢の意に逆らったため、陳於廷・楊漣・左光斗・袁化中を一括して斥け、南星が退けた徐兆魁・喬応甲・王紹徽らを要職に置いた。小人たちが競って進み、天下の大権はすべて忠賢に帰した。

原文攀龍之劾崔呈秀也,南星議戍之。呈秀窘,夜走忠賢邸,叩頭乞哀,言:「不去南星及攀龍、漣等,我兩人未知死所。」忠賢大以為然,遂與定謀。會山西缺巡撫,河南布政使郭尚友求之。南星以太常卿謝應祥有清望,首列以請。既得旨,而御史陳九疇受廣微指,言應祥嘗知嘉善,大中出其門,大中以師故,謀於文選郎嘉遇而用之,徇私當斥。大中、嘉遇疏辯,語侵九疇,九疇再疏力詆,並下部議。南星、攀龍極言應祥以人望推舉,大中、嘉遇無私,九疇妄言不可聽。忠賢大怒,矯旨黜大中、嘉遇,並黜九疇,而責南星等朋謀結黨。南星遽引罪求去,忠賢復矯旨切責,放歸。明日,攀龍亦引去。給事中沈惟炳論救,亦出之外。俄以會推忤忠賢意,並斥於廷、漣、光鬥、化中,引南星所擯徐兆魁、喬應甲、王紹徽等置要地。小人競進,天下大柄盡歸忠賢矣。

魏忠賢とその党は趙南星を甚だ憎み、詔勅を偽って諭すごとに必ず元凶と目した。そこで御史張訥が趙南星の十大罪を弾劾し、並びに維璉・国祥・嘉遇及び王允成を弾劾した。詔を得て、共に官籍を削られた。さらに趙南星の私党を奏上するよう命じ、張訥は再び邦華及び孫鼎相ら十四人を列挙して上奏し、皆貶黜された。これより趙南星に排斥された者は、抜擢されない者はなく、その平素推奨していた者は、悉く奇禍に遭った。諸々の官途に急ぎ昇進を求める者どもは、一度趙南星を撃てば、直ちに望みを遂げた。而して石三畏もまた起用されて御史となり、上疏して趙南星及び李三才・顧憲成・孫丕揚・王図ら十五人を攻撃した。死者は皆官爵を削奪され、縉紳の禍は益々烈しくなった。まもなく汪文言の獄の供詞が趙南星に連座し、巡撫・巡按に下して取り調べさせた。丁度郭尚友が保定巡撫であり、巡按馬逢臯もまた趙南星を恨んでいたので、乃ち相共に公廷で辱しめた。その子清衡及び外孫王鐘龐を笞打ち、獄に繋ぎ、趙南星に贓罪一万五千を着せた。趙南星の家は元より貧しく、親戚故旧が援助して、始めて完済を得た。遂に趙南星を代州に、清衡を荘浪に、鐘龐を永昌に戍らせた。嫡母馮氏・生母李氏は、共に悲嘆して卒去した。子は七歳で、驚き恐れて死んだ。趙南星は戍所に着くと、それを泰然と処した。

原文忠賢及其黨惡南星甚,每矯敕諭,必目為元兇。於是御史張訥劾南星十大罪,並劾維璉、國祥、嘉遇及王允成。得旨,並削籍。令再奏南星私黨,訥復列上邦華及孫鼎相等十四人,並貶黜。自是為南星擯棄者,無不拔擢,其素所推獎者,率遭奇禍。諸幹進速化之徒,一擊南星,輒遂所欲。而石三畏亦起為御史,疏攻南星及李三才、顧憲成、孫丕揚、王圖等十五人。死者皆削奪,縉紳禍益烈。尋以汪文言獄詞連及南星,下撫按提問。適郭尚友巡撫保定,而巡按馬逢臯亦憾南星,乃相與庭辱之。笞其子清衡及外孫王鐘龐,系之獄,坐南星贓萬五千。南星家素貧,親故捐助,始獲竣。卒戍南星代州,清衡莊浪,鐘龐永昌。嫡母馮氏、生母李氏,並哀慟而卒。子生七齡,驚怖死。南星抵戍所,處之怡然。

荘烈帝が即位し、詔を下して赦免し帰還させた。巡撫牟志夔は魏忠賢の党であったので、敢えて派遣を遅らせ、遂に戍所で卒去した。崇禎初年、太子太保を追贈し、諡して忠毅とした。劉櫆・崔呈秀・魏広微・陳九疇・徐兆魁・喬応甲・劉紹徽・張訥・石三畏・郭尚友・牟志夔は、皆名を逆案に連ね、世の大いなる辱めを受けた。

原文莊烈帝登極,有詔赦還。巡撫牟誌夔,忠賢黨也,故遲遣之,竟卒於戍所。崇禎初,贈太子太保,謚忠毅。櫆、呈秀、廣微、九疇、兆魁、應甲、紹徽、訥、三畏、尚友、誌夔,俱名麗逆案,為世大僇焉。

鄒元標

原文鄒元標

鄒元標、字は爾瞻、吉水の人。九歳で『五経』を通じた。泰和の胡直は、嘉靖年間の進士で、官は福建按察使に至り、欧陽徳・羅洪先に師事し、王守仁の学統を得た。鄒元標は弱冠にして胡直に従い遊学し、即ち学問に志すところがあった。万暦五年に進士に挙げられ、刑部で政務を見習った。

原文鄒元標,字爾瞻,吉水人。九歲通《五經》。泰和胡直,嘉靖中進士,官至福建按察使,師歐陽德、羅洪先,得王守仁之傳。元標弱冠從直遊,即有誌為學。舉萬歷五年進士。觀政刑部。

張居正が喪に服さず政務に留まった時、鄒元標は抗疏して切に諫め、且つ言うには、「陛下は張居正が社稷に利益があるとお考えか。張居正の才は為すべきものがあるが、学術は偏っている。志は為そうとするが、自らを用いることが甚だしい。その施設が道理に背くものは、例えば州県の入学を十五、六人に制限し、有司が意を迎えて更にその数を減らす。これは賢を進めることが広くないのである。諸道の囚人を処刑するにも定額があり、所司は罰を恐れて数は必ず満たそうとする。これは刑を断ずることが濫りである。大臣は禄を保って苟くも容れられ、小臣は罪を恐れて黙する。今日陳言して明日譴責を受ける者がある。これは言路が通じていないのである。黄河が氾濫して災いとなり、民には蒿を架けて巣とし、水を啜って餐とする者があるのに、有司は上聞しない。これは民の苦しみが行き届いていないのである。その他用いるに深刻な吏を以てし、豪傑の材を沮むなど、枚挙に遑がない。謹んで勅諭を拝読するに『朕が学は未だ成らず、志は未だ定まらず、先生既に去らば前功尽く隳れん』と。陛下が此れに言及されることは、宗社の無疆の福である。然りと雖も、聖学を弼成し、聖志を輔翼する者は、朝廷に人無しと謂うべからず。且つ幸いに張居正が父母の喪に遭い、猶も挽留し得る。仮に不幸にして遂に館舎を捐てば、陛下の学は終に成らず、志は終に定まらざるか。臣、張居正の上疏に『世に非常の人あり、然る後に非常の事を弁ず』とあるのを見る。若し奔喪を常事として屑さず為さざる者と為すは、人のみ此の五常の道を尽くし、然る後に人と謂うを知らざるなり。今人ありて此れに、親生きるを顧みず、親死するに奔らず、猶も自ら世に号して曰く我は非常の人なりと。世、心を喪うと為さざれば、則ち禽獣と為す。非常の人と謂うべけんや」と。疏が成ると、懐に入れて朝に入り、丁度廷杖で呉中行らを打つ時であった。鄒元標は杖が終わるのを待ち、疏を取って中官に授け、欺いて「これは休暇を乞う疏である」と言った。入ると、張居正は大いに怒り、また廷杖八十に処し、都勻衛に謫戍とした。衛は万山の中にあり、夷獣と居するも、鄒元標は泰然と処した。益々心を究めて理学に励み、学問は大いに進んだ。巡按御史は張居正の意を受けて、鄒元標を害そうとした。鎮遠に至った時、一夜のうちに、御史は急死した。

原文張居正奪情,元標抗疏切諫。且曰:「陛下以居正有利社稷耶?居正才雖可為,學術則偏;誌雖欲為,自用太甚。其設施乖張者,如州縣入學,限以十五六人,有司希指,更損其數。是進賢未廣也。諸道決囚,亦有定額,所司懼罰,數必取盈。是斷刑太濫也。大臣持祿茍容,小臣畏罪緘默,有今日陳言而明日獲譴者。是言路未通也。黃河泛濫為災,民有駕蒿為巢、啜水為餐者,而有司不以聞。是民隱未周也。其他用刻深之吏,沮豪傑之材,又不可枚數矣。伏讀敕諭『朕學尚未成,誌尚未定,先生既去,前功盡隳』,陛下言及此,宗社無疆之福也。雖然,弼成聖學,輔翼聖誌者,未可謂在廷無人也。且幸而居正丁艱,猶可挽留;脫不幸遂捐館舍,陛下之學將終不成,誌將終不定耶?臣觀居正疏言『世有非常之人,然後辦非常之事』,若以奔喪為常事而不屑為者,不知人惟盡此五常之道,然後謂之人。今有人於此,親生而不顧,親死而不奔,猶自號於世曰我非常人也,世不以為喪心,則以為禽彘,可謂之非常人哉?」疏就,懷之入朝,適廷杖吳中行等。元標俟杖畢,取疏授中官,紿曰:「此乞假疏也。」及入,居正大怒,亦廷杖八十,謫戍都勻衛。衛在萬山中,夷獠與居,元標處之怡然。益究心理學,學以大進。巡按禦中承居正指,將害元標。行次鎮遠,一夕,御史暴死。

鄒元標は謫居六年、張居正が没すると、召されて吏科給事中に拝された。まず聖徳を培い、臣工に親しみ、憲紀を粛にし、儒行を崇め、撫臣を飭めるの五事を陳べた。まもなく礼部尚書徐学謨・南京戸部尚書張士佩を弾劾して罷免させた。

原文元標謫居六年,居正歿,召拜吏科給事中。首陳培聖德、親臣工、肅憲紀、崇儒行、飭撫臣五事。尋劾罷禮部尚書徐學謨、南京戶部尚書張士佩。

徐学謨は、嘉定県の人。嘉靖年間、荊州知府となった。景恭王が徳安に藩国すると、荊州城北の沙市の地を奪おうとした。徐学謨は力抗して与えず、王に弾劾され、巡撫・巡按に下って逮問され、官を改めた。荊州の人々はその徳を感じ、沙市を「徐市」と称した。張居正は平素より彼と親厚であった。万暦年間、累進して右副都御史となり、鄖陽を撫治した。張居正が父の葬儀に帰った時、徐学謨は謹んで事え、召されて刑部侍郎となった。二年を経て、礼部尚書に抜擢された。弘治以後、礼部長官は翰林でなければ授からず、ただ席書が「大礼」の議論の故に、他の部署から遷ったのみ。万士和は翰林ではなかったが、然し先にその部の侍郎を歴任していた。徐学謨は直に尚書に拝され、廷臣は張居正の故を以て、敢えて言う者無かった。張居正が卒すると、徐学謨は急ぎ大学士申時行と姻戚を結んで自らを固めた。及んで寿宮を選ぶ命を受けると、通政参議梁子琦がその始めは張居正に結び、次いで申時行に附いたと弾劾し、詔して梁子琦の俸禄を奪った。鄒元標が再びこれを弾劾したので、遂に致仕して帰らせた。

原文徐學謨者,嘉定縣人。嘉靖中,為荊州知府。景恭王之藩德安,欲奪荊州城北沙市地。學謨力抗不予,為王所劾,下撫按逮問,改官。荊州人德之,稱沙市為「徐市」。居正素與厚。萬歷中,累遷右副都御史,撫治鄖陽。居正歸葬父,學謨事之謹,召為刑部侍郎。越二年,擢禮部尚書。自弘治後,禮部長非翰林不授,惟席書以言「大禮」故,由他曹遷;萬士和不由翰林,然先歷其部侍郎。學謨徑拜尚書,廷臣以居正故,莫敢言。居正卒,學謨急締姻於大學士申時行以自固。及奉命擇壽宮,通政參議梁子琦劾其始結居正,繼附時行,詔為奪子琦俸。元標復劾之,遂令致仕歸。

慈寧宮が火災に遭うと、鄒元標は再び時政六事を上奏し、中に言うには、「臣が曩に無欲の訓を進めた。陛下自ら省みられよ、果たして無欲か。寡欲か。語に云う『人に聞かせざらんと欲せば、莫れ自ら為さざるに若くは』と。陛下誠に翻然として自ら省み、意を加えて培養せらるべきである」と。この時、帝は丁度壮齢で、声色遊宴に留意しており、鄒元標が己を諷刺したと謂い、怒り甚だしく、降旨して譙責した。首輔申時行は鄒元標が己の門生でありながら、その姻戚徐学謨を弾劾して罷めさせたので、心に恨み、遂に南京刑部照磨に左遷した。就いて兵部主事に遷った。召されて吏部に改め、員外郎に進み、病を以て免じられた。起用されて験封に補された。吏治十事、民瘼八事を陳べ、疏は凡そ万言に及んだ。文選に員外郎が欠員となり、尚書宋纁が鄒元標を用いるよう請うたが、久しく命を得ず、宋纁は連疏してこれを促した。給事中楊文煥・御史何選もまた以て言う。帝は怒り、宋纁を詰責し、楊文煥・何選を外に謫し、而して鄒元標を南京に転じた。刑部尚書石星が論じて救うも、また譙譲を受けた。鄒元標は南京に三年居り、病を移して帰った。久しくして、本部郎中に起用されたが、赴任しなかった。間もなく母の憂いに遭い、郷里に居て講学し、従い遊学する者日増し、名は天下に高かった。朝廷内外から遺佚を推薦する上疏は、凡そ数十百上り、鄒元標を首としないものは無かった。終に用いられなかった。家に閑居すること三十年に垂んとした。

原文慈寧宮災,元標復上時政六事,中言:「臣曩進無欲之訓,陛下試自省,果無欲耶?寡欲耶?語云:『欲人勿聞,莫若勿為。』陛下誠宜翻然自省,加意培養。」當是時,帝方壯齡,留意聲色遊宴,謂元標刺己,怒甚,降旨譙責。首輔時行以元標己門生,而劾罷其姻學謨,亦心憾,遂謫南京刑部照磨。就遷兵部主事。召改吏部,進員外郎,以病免。起補驗封。陳吏治十事,民瘼八事,疏幾萬言。文選缺員外郎,尚書宋糸熏請用元標,久不獲命,糸熏連疏趣之。給事中楊文煥、御史何選亦以為言。帝怒,詰責糸熏,謫文煥、選於外,而調元標南京。刑部尚書石星論救,亦被譙讓。元標居南京三年,移疾歸。久之,起本部郎中,不赴。旋遭母憂,裏居講學,從遊者日眾,名高天下。中外疏薦遺佚,凡數十百上,莫不以元標為首。卒不用。家食垂三十年。

光宗が即位すると、召されて大理卿に任ぜられた。未だ到着せず、刑部右侍郎に進んだ。天啓元年四月に朝廷に戻り、まず和衷の説を進言し、言うには、「今日の国事は、皆二十年間の諸臣の醸成したものである。往時は賢を進め能を譲ることを事とせず、日に賢を錮し能を逐い、而して事を言う者は又心を降ろし気を平らかにせず、専ら門を分け戸を立つることを務めた。臣は謂う、今日の急務は、ただ朝臣の和衷のみである。朝臣が和すれば、天地の和は自ずから応ずる。向こう人を論じ事を論ずる者は、各々偏見を懐き、偏より迷い生じ、迷いより執着生じ、執着して我となり、復た人のあるを知らず、禍い将に国に移らんとす。今諸臣と約す、一人を論ずるには公に平らかにすべく、軽々しく筆端を揺るがすことなかれ、一事を論ずるには前を懲らし後を慮り、軽々しく耳食を試みることなかれ、天下万世の心を以て、天下万世の人と事を衡うれば、則ち議論公にして、国家自ずから安静和平の福を享けん」と。因みに塗宗浚、李邦華等十八人を推薦した。帝は優詔を下して褒め納れた。二日居て、復た茅を抜き幽を闡き、財を理め武を振う数事及び保泰の四規を陳べた。且つ葉茂才、趙南星、高攀龍、劉宗周、丁元薦を召し用いることを請い、而して羅大紘、雒於仁等十五人を恤み録することを請うた。帝も亦褒め納れた。

原文光宗立,召拜大理卿。未至,進刑部右侍郎。天啟元年四月還朝,首進和衷之說,言:「今日國事,皆二十年諸臣醞釀所成。往者不以進賢讓能為事,日錮賢逐能,而言事者又不降心平氣,專務分門立戶。臣謂今日急務,惟朝臣和衷而已。朝臣和,天地之和自應。向之論人論事者,各懷偏見,偏生迷,迷生執,執而為我,不復知有人,禍且移於國。今與諸臣約,論一人當惟公惟平,毋輕搖筆端,論一事當懲前慮後,毋輕試耳食,以天下萬世之心,衡天下萬世之人與事,則議論公,而國家自享安靜和平之福。」因薦塗宗浚、李邦華等十八人。帝優詔褒納。居二日,復陳拔茅闡幽、理財振武數事,及保泰四規。且請召用葉茂才、趙南星、高攀龍、劉宗周、丁元薦,而恤錄羅大纮、雒於仁等十五人。帝亦褒納。

初め、元標は朝廷に立ち、方正厳格をもって畏れられたが、晩節は和易を務めた。或る者が其の初仕の時に比べて遜ると議するや、元標は笑って曰く、「大臣と言官は異なる。風裁が踔絶なるは、言官の事である。大臣は大なる利害でなければ、即ち国体を護持すべきで、少年の如く悻悻として動くことができようか」と。時に朋党盛んにして、元標は心に之を悪み、其の弊を矯えんと思い、故に其の薦引する者は一途に専らならず。嘗て李三才を挙用せんと欲し、言路と与せざるにより、元標は即ち中止した。王德完は其の首鼠を譏ったが、元標も亦較べなかった。南京御史王允成等は両人の不和を以て、帝に諭解を請うた。元標は言う、「臣と德完は初め微塵の芥蒂も無し、此れ必ずや人ありて其の間に交構す。臣嘗て朝士に語りて曰く、『方今上は沖歳に在り、敵は門庭に在り、只だ同心共済あるのみ。倘し復た党同伐異せば、国に在っては則ち不忠、家に在っては則ち不孝なり。世自ずから偏無く党無きの路あり、奈何ぞ室内より戈矛を起こさんや』と」と。帝の即位已久しいに、先朝の廃死した諸臣未だ贈恤せられず、元標は再び闡幽の典を陳べ、言益々懇切であった。

原文初,元標立朝,以方嚴見憚,晚節務為和易。或議其遜初仕時,元標笑曰:「大臣與言官異。風裁踔絕,言官事也。大臣非大利害,即當護持國體,可如少年悻動耶?」時朋黨方盛,元標心惡之,思矯其弊,故其所薦引不專一途。嘗欲舉用李三才,因言路不與,元標即中止。王德完譏其首鼠,元標亦不較。南京御史王允成等以兩人不和,請帝諭解。元標言:「臣與德完初無纖芥,此必有人交構其間。臣嘗語朝士曰:『方今上在沖歲,敵在門庭,只有同心共濟。倘復黨同伐異,在國則不忠,在家則不孝。世自有無偏無黨之路,奈何從室內起戈矛耶?』」帝嗣位已久,而先朝廢死諸臣猶未贈恤,元標再陳闡幽之典,言益懇切。

其の年十二月に吏部左侍郎に改めた。未だ官に到らざるに、左都御史に拝された。明年、外察を典とし、去留は惟だ公のみであった。御史潘汝楨、過庭訓は雅に物議有り、及び庭訓の秩満するに、汝楨は考を註して溢美した。元標は疏を上って之を論じ、両人並びに疾を引いて去った。已にして、丁巳の京察の不公を言い、専ら異己を禁錮したことを請い、章家禎、丁元薦、史記事、沈正宗等二十二人を収録することを請うた。是より諸臣多く昭雪を得た。又言う、「明詔を以て遺佚を収召すと雖も、諸老臣の処する所は猶是三十年前に応得の官なり、宜しく三品の崇秩を添註し、陛下の耆旧を褒め尊ぶ至意を昭らかにすべし」と。帝は其の言を納れた。是に於いて両京の太常、太僕、光禄の三卿各々二員を増した。

原文其年十二月改吏部左侍郎。未到官,拜左都御史。明年,典外察,去留惟公。御史潘汝楨、過庭訓雅有物議,及庭訓秩滿,汝楨註考溢美。元標疏論之,兩人並引疾去。已,言丁已京察不公,專禁錮異己,請收錄章家禎、丁元薦、史記事、沈正宗等二十二人。由是諸臣多獲昭雪。又言:「明詔收召遺佚,而諸老臣所處猶是三十年前應得之官,宜添註三品崇秩,昭陛下褒尊耆舊至意。」帝納其言。於是兩京太常、太僕、光祿三卿各增二員。

孫慎行が「紅丸」を論ずるに当たり、元標も亦上疏して曰く、「乾坤の毀れざる所以は、惟だ此の綱常に在り、綱常の植立する所以は、此の信史を恃むに在り。臣去年舟にて南中を過ぎしに、南中の士大夫争って言う、先帝猝然として崩じ、大事未だ明らかならず、以て信を伝え難しと。臣初め然りと謂わず。既に都に入り、人の為に先帝の盛徳を言い、宜しく速やかに信史に登すべしとす。諸臣曰く、『先帝の弥留の大事に言及すれば、人をして筆を閣かしめ、誰か敢えて此れを領せん』と。臣始めて前日の言に疑いを有す。元輔方従哲は賊を討つの義を伸べず、反って奸を賞するの典を行い、即ち其の心無しと謂うも、何を以て自ら世に解せん。且つ従哲は政を秉ること七年、未だ何事を建樹せるを聞かず、只だ馬上に一日三たび戦を趣け、我が十万の師徒を喪うを聞く。訊問す、誰か国成を秉りて、先帝を震驚せしめ、奸人宮を闖き、豺狼路に当たり、憸邪政を乱すやと。従哲何の詞を以て対せん。從來乱賊を懲戒するは、全く信史に在り。今を失って成さざれば、安んぞ底止せん」と。時に刑部尚書黄克纘は内廷の意を希い、群小之に和し、而して従哲は世々京師に居り、党附する者衆く、崔文升の党復た内に弥縫し、慎行と衆議を格し、皆伸びず。未だ幾ばくもなく、慎行及び王紀偕に逐われ、元標は疏を上って救うも、聴かれず。

原文孫慎行之論「紅丸」也,元標亦上疏曰:「乾坤所以不毀者,惟此綱常;綱常所以植立者,恃此信史。臣去年舟過南中,南中士大夫爭言先帝猝然而崩,大事未明,難以傳信。臣初不謂然。及既入都,為人言先帝盛德,宜速登信史。諸臣曰:『言及先帝彌留大事,令人閣筆,誰敢領此?』臣始有疑於前日之言。元輔方從哲不伸討賊之義,反行賞奸之典,即謂無其心,何以自解於世?且從哲秉政七年,未聞建樹何事,但聞馬上一日三趣戰,喪我十萬師徒。訊問誰秉國成,而使先帝震驚,奸人闖宮,豺狼當路,憸邪亂政?從哲何詞以對?從來懲戒亂賊,全在信史。失今不成,安所底止。」時刑部尚書黃克纘希內廷意,群小和之,而從哲世居京師,黨附者眾,崔文升黨復彌縫於內,格慎行與眾議,皆不得伸。未幾,慎行及王紀偕逐,元標疏救,不聽。

元標は還朝以来、危言激論を為さず、物と猜み無し。然るに小人其の東林なるを以て、猶之を忌んだ。給事中朱童蒙、郭允厚、郭興治は明年の京察己に利せざるを慮り、潜かに逐い驅ることを謀った。会うに元標と馮従吾が首善書院を建て、同誌を集めて講学するや、童蒙まず之を禁ずるを請うた。元標は疏を上って弁じて去らんことを求め、帝已に慰留したが、允厚復た疏を上って劾し、語尤も妄誕であった。而して魏忠賢方に柄を窃み、旨を伝えて宋室の亡ぶるは講学に由ると謂い、将に厳譴を加えんとす。葉向高力めて弁じ、且つ同去を乞うたので、乃ち温旨を得た。興治及び允厚復た交章して力攻し、興治は至って之を山東の妖賊に比した。元標は連疏して請うこと益々力め、詔して太子少保を加え、伝に乗じて帰らしめた。陛辞に当たり、『老臣去国情深疏』を上り、歴に軍国の大計を陳べ、而して寡欲を以て規を進め、人伝え誦した。四年、家に卒した。明年、御史張訥は天下の講壇を毀つことを請い、力めて元標を詆り、忠賢遂に旨を矯って削奪した。崇禎初め、太子太保、吏部尚書を贈り、謚して忠介と曰う。

原文元標自還朝以來,不為危言激論,與物無猜。然小人以其東林也,猶忌之。給事中朱童蒙、郭允厚、郭興治慮明年京察不利己,潛謀驅逐。會元標與馮從吾建首善書院,集同誌講學,童蒙首請禁之。元標疏辨求去,帝已慰留,允厚復疏劾,語尤妄誕。而魏忠賢方竊柄,傳旨謂宋室之亡由於講學,將加嚴譴。葉向高力辨,且乞同去,乃得溫旨。興治及允厚復交章力攻,興治至比之山東妖賊。元標連疏請益力,詔加太子少保,乘傳歸。陛辭,上《老臣去國情深疏》,歷陳軍國大計,而以寡欲進規,人為傳誦。四年,卒於家。明年,御史張訥請毀天下講壇,力詆元標,忠賢遂矯旨削奪。崇禎初,贈太子太保、吏部尚書,謚忠介。

童蒙等は元標を劾して後、遂に清議に得罪し、尋ねて年例に以て外遷された。及び忠賢志を得るに及び、三人並びに召還された。歳余りして、允厚は戸部尚書、太子太保に至り、童蒙は右副都御史に至り、延綏を巡撫し、母死して服せず、忠賢の為に生祠を建てた。興治も亦太僕卿に加えられた。忠賢敗るるに及び、三人並びに逆案に麗せられしと云う。

原文童蒙等既劾元標,遂得罪清議,尋以年例外遷。及忠賢得誌,三人並召還。歲餘,允厚至戶部尚書、太子太保。童蒙至右副都御史,巡撫延綏,母死不持服,為忠賢建生祠。興治亦加至太僕卿。忠賢敗,三人並麗逆案雲。

孫慎行

原文孫慎行

孫慎行、字は聞斯、武進の人。幼くして外祖父唐順之の緒論を習い聞き、即ち学を嗜んだ。万暦二十三年進士第三人に挙げられ、編修を授かり、累官して左庶子に至った。数度仮を請いて裏居し、戸を鍵して交を息み、精を覃めて理学に励んだ。当事の請い見るも、率ね納れず。政事を以て詢う者有れば、答えず。

原文孫慎行,字聞斯,武進人。幼習聞外祖唐順之緒論,即嗜學。萬歷二十三年舉進士第三人,授編修,累官左庶子。數請假裏居,鍵戶息交,覃精理學。當事請見,率不納。有以政事詢者,不答。

四十一年五月、少詹事より礼部右侍郎に抜擢され、部事を署理した。当時、郊廟大享の諸礼は、帝が二十余年躬親せず、東宮の講義は八年に至って停止し、皇長孫は九歳にして未だ外傅に就かず、瑞王は二十三歳にして未だ婚せず、楚宗人は久しく錮されて未だ釈放されず、代王は長子を廃して幼子を立て、久しく更正せず、臣僚の章奏は一切留中され、福府の荘田は四万頃を取り満たさんとし、慎行はこれらを並べて切諫した。既にして、東宮の講義開始、皇孫の出閣は宗社の安危に係ることを思い、疏を七八上した。代王が長子鼎渭を廃し、愛子鼎莎を立てたのは、李廷機が侍郎の時にこれを主とし、その後、群臣が争うこと百余疏、帝は皆省みなかった。慎行が屡疏して争い、乃ち更置を獲た。楚宗人が巡撫趙可懷を撃殺し、首謀六人は死罪と論じ、更に英憔等二十三人を高墻に錮し、蘊鈁等二十三人を遠地に禁じた。慎行は力くしてその叛に非ざるを白し、諸人はこれにより釈放を獲た。皇太子の儲位は定まったとはいえ、福王は尚京師に留まり、荘田四万頃を須いて乃ち行かんとし、宵小多く窺伺す。廷臣の之国を請う者愈々衆く、帝は愈々これを遅らせた。慎行は疏を十余上したが、省みられず。最後に、貴妃が復た帝に王を留めて太后の七旬寿節を慶せんことを請い、群議益々籍籍たり。慎行は乃ち文武諸臣を合わせて闕に伏して力く請い、大学士葉向高も亦強く争った。帝は已むを得ず、明年の季春に之国するを許し、群情始めて安んず。韓敬の科場の議、慎行は敬を黜すことを擬した。而して家居の時、素より東林に講学し、敬の党は特にこれを忌んだ。会に吏部に侍郎欠け、廷議は右侍郎李鋕を左に改め、以て慎行を右と為さんとし、命は俱に未だ下らず。御史過廷訓が因って言うに、鋕は未だ任に履まず、何ぞ復た慎行を推すと、給事中亓詩教がこれに和した。慎行は遂に四疏して帰るを乞い、城を出て命を候うた。帝は乃ちこれを許した。已にして京察、御史韓浚等は福王の之国を促したことを以て、慎行が功を邀うと謂い、これを拾遺疏の中に列した。帝はその無罪を察し、免れるを得た。

原文四十一年五月,由少詹事擢禮部右侍郎,署部事。當是時,郊廟大享諸禮,帝二十餘年不躬親,東宮輟講至八年,皇長孫九齡未就外傅,瑞王二十三未婚,楚宗人久錮未釋,代王廢長立幼,久不更正,臣僚章奏一切留中,福府莊田取盈四萬頃,慎行並切諫。已,念東宮開講,皇孫出閣,系宗社安危,疏至七八上。代王廢長子鼎渭,立愛子鼎莎,李廷機為侍郎時主之,其後,群臣爭者百餘疏,帝皆不省。慎行屢疏爭,乃獲更置。楚宗人擊殺巡撫趙可懷,為首六人論死,復錮英憔等二十三人於高墻,禁蘊鈁等二十三人於遠地。慎行力白其非叛,諸人由此獲釋。皇太子儲位雖定,福王尚留京師,須莊田四萬頃乃行,宵小多窺伺。廷臣請之國者愈眾,帝愈遲之。慎行疏十餘上,不見省。最後,貴妃復請帝留王慶太后七旬壽節,群議益籍籍。慎行乃合文武諸臣伏闕力請,大學士葉向高亦爭之強。帝不得已,許明年季春之國,群情始安。韓敬科場之議,慎行擬黜敬。而家居時素講學東林,敬黨尤忌之。會吏部缺侍郎,廷議改右侍郎李鋕於左,而以慎行為右,命俱未下。御史過廷訓因言鋕未履任,何復推慎行,給事中亓詩教和之。慎行遂四疏乞歸,出城候命,帝乃許之。已而京察,御史韓浚等以趣福王之國,謂慎行邀功,列之拾遺疏中。帝察其無罪,獲免。

熹宗が立つと、召されて礼部尚書に拝された。初め、光宗が大漸の際、鴻臚寺丞李可灼が紅鉛丸薬を進めた。俄に帝崩じ、廷臣交えて章を上ててこれを劾した。大学士方従哲が旨を擬して疾を引いて帰らしめ、金幣を以て賚うた。天啓元年四月、慎行が朝に還り、上疏して曰く。

原文熹宗立,召拜禮部尚書。初,光宗大漸,鴻臚寺丞李可灼以紅鉛丸藥進。俄帝崩,廷臣交章劾之。大學士方從哲擬旨令引疾歸,賚以金幣。天啟元年四月,慎行還朝,上疏曰:

先帝の驟崩は、夙疾と雖云うも、実に医人の薬を用いること審ならざるに縁る。邸報を閲し、李可灼の紅丸は首輔方従哲の進むる所なるを知る。夫れ可灼の官は太醫に非ず、紅丸は何の薬なるかを知らず、乃ち敢えて突然に以て進む。昔し許悼公が世子の薬を飲んで卒し、世子は即ち自殺す。《春秋》も猶これを書して弑しいと為す。然らば則ち従哲は宜く何れに居るべきか。速やかに剣を引いて自裁し以て先帝に謝すは、義の上なり。門を合せて稿を席として司寇を待つは、義の次なり。乃ち悍然として顧みず、至って挙朝共に可灼を攻むるに、僅かに籍に回り調理せしむるを令するは、豈に己が実にこれを薦め、同じ罪と与るを恐るるに非ずや。臣は以為うに、従哲は縦い弑の心無くとも、卻って弑の事有り。弑の名を辞せんと欲すれば、弑の実を免れ難し。実録の中に即ち君父の為に諱いみなまんと欲すとも、敢えて直書せざるを得ず、方従哲連ねて薬二丸を進め、須臾にして帝崩ずと。恐らくは百口も以て天下後世の為に解すること能わざるべし。

原文先帝驟崩,雖雲夙疾,實緣醫人用藥不審。閱邸報,知李可灼紅丸乃首輔方從哲所進。夫可灼官非太醫,紅丸不知何藥,乃敢突然以進。昔許悼公飲世子藥而卒,世子即自殺,《春秋》猶書之為弒。然則從哲宜何居?速引劍自裁以謝先帝,義之上也;合門席稿以待司寇,義之次也;乃悍然不顧,至舉朝共攻可灼,僅令回籍調理,豈不以己實薦之,恐與同罪與?臣以為從哲縱無弒之心,卻有弒之事;欲辭弒之名,難免弒之實。實錄中即欲為君父諱,不敢不直書方從哲連進藥二丸,須臾帝崩,恐百口無能為天下後世解也。

然れども従哲の罪は実に此れに止まらず。先ずは則ち皇貴妃の皇后たらんと欲する事有り。古より未だ天子既に崩じて後に立つ者無し。倘も礼官の執奏なく、言路の力持なくば、幾何ぞ禍を宗社に遺さざらんや。此れを継ぎて則ち皇祖を恭皇帝と謚する事有り。歴て晋・隋・周・宋を考うるに、其の末世亡国の君は率ね謚して「恭」と曰い、而して以て我が皇祖に加うるは、豈に真に学無術なるか。実に乃ち君国を咒詛し、亡王に等しくす。其の心を設くる謂う所何ぞ。此れに後れて則ち選侍の簾を垂れて政を聴く事有り。劉遜・李進忠の幺麽小豎、何ぞ遂に胆大に揚言す。説く者に謂う、二豎早く以て金宝を従哲の家に輸すと。若し九卿・台諫の力くして宮を移すを請わざれば、選侍一日志を得ば、陛下幾くも駐足する所無からん。聞く、爾の時従哲は濡遅して進まず、科臣これを趣すと、則ち数日遅るるも害無しと云う。婦寺の縦横を任せ、君父の杌隉を忍ぶ、大臣たる者宜しくかくの如くすべきか。臣は礼に在りて礼を言う。其の罪悪は天に逆い、万に生くるの路無し。若し其の他の督戦誤国、上を行ない私を罔い、情を縦にして法を蔑し、天下の名義を幹犯し、国家の禍患を醸成する者は、臣悉く数うる能わず。陛下宜しく急ぎ此の賊を討ち、共にせざるの仇を雪ぐべし。近習に詢う毋れ、近習は皆従哲の攀援する所なり。忌諱に拘る毋れ、忌諱は即ち従哲の布置する所なり。並びに急ぎ李可灼を誅し、以て神人の憤を泄すべし。

原文然從哲之罪實不止此。先是則有皇貴妃欲為皇后事,古未有天子既崩而立後者。倘非禮官執奏,言路力持,幾何不遺禍宗社哉!繼此則有謚皇祖為恭皇帝事。歷考晉、隋、周、宋,其末世亡國之君率謚曰「恭」,而以加之我皇祖,豈真不學無術?實乃咒詛君國,等於亡王,其設心謂何?後此則有選侍垂簾聽政事。劉遜、李進忠幺麽小豎,何遂膽大揚言。說者謂二豎早以金寶輸從哲家,若非九卿、臺諫力請移宮,選侍一日得誌,陛下幾無駐足所。聞爾時從哲濡遲不進,科臣趣之,則雲遲數日無害。任婦寺之縱橫,忍君父之杌隉,為大臣者宜爾乎?臣在禮言禮,其罪惡逆天,萬無可生之路。若其他督戰誤國,罔上行私,縱情蔑法,幹犯天下之名義,釀成國家之禍患者,臣不能悉數也。陛下宜急討此賊,雪不共之仇!毋詢近習,近習皆從哲所攀援也;毋拘忌諱,忌諱即從哲所布置也。並急誅李可灼,以泄神人之憤。

時に朝野方に従哲を悪み、慎行の論は過刻と雖も、然れども其の言を韙とすことを争う。顧みるに近習多く従哲の為に地し、帝は乃ち報じて曰く、「旧輔は素より忠慎、可灼の薬を進むるは本より先帝の意なり。卿の言は忠愛と雖も、事は伝聞に属す。並びに進封移宮の事、当日九卿・台諫官親しく見る者は、当に実に据えて会奏し、以て群疑を釈すべし。」ここにおいて従哲疏を上てて弁す。刑部尚書黄克纘は従哲を右とし、亦曲って弁す。慎行復た疏を上ててこれを折りて曰く、「前に由れば則ち過って可灼を信じ、軽く薬を進むるの罪有り。後に由れば則ち曲って可灼を庇い、賊を討たざるの罪有り。両者均しく弑に辞する無きか。従哲は移宮に掲有りと謂うも、但だ諸臣の請いは初二に在り、従哲の請いは初五に在り。爾の時章疏の乾清に入り慈慶に入らざる者已に三日、国政幾くも中絶せんとす。他の輔臣訪い知る無く、群臣と力を合わせて請わざれば、其の害言うに勝えんや。伏して聖諭を読むに『輔臣の義は国を体し、朕が為に憂いを分つに在り。今かくの似たる景象、何ぞ朕が為に一言を伝諭して、紛擾を屏息せしめざる。君臣の大義安くにか在る。』又云う『朕は淩虐に堪えず、昼夜涕泣すること六七日。』夫れ従哲は顧命の元臣たり。少しく肯んじて色に義形せしめば、何ぞ至って至尊をしてかくの如く憂危せしめんや。惟だ婦寺の意に阿ることを多うし、聖明を戴する意を少くするが故に、敢えて皇祖を淩ぎ、皇考に悖り、而して陛下を欺くなり。」末に復た力くして克纘の謬を言う。章並びに廷議に下す。既にして議上る。惟だ可灼を吏に下して辺に戍らしめ、従哲は問わずに置く。

原文時朝野方惡從哲,慎行論雖過刻,然爭韙其言。顧近習多為從哲地,帝乃報曰:「舊輔素忠慎,可灼進藥本先帝意。卿言雖忠愛,事屬傳聞。並進封移宮事,當日九卿、臺諫官親見者,當據實會奏,用釋群疑。」於是從哲疏辨。刑部尚書黃克纘右從哲,亦曲為辨。慎行復疏折之,曰:「由前則過信可灼,有輕進藥之罪,由後則曲庇可灼,有不討賊之罪,兩者均無辭乎弒也。從哲謂移宮有揭,但諸臣之請在初二,從哲之請在初五。爾時章疏入乾清不入慈慶者已三日,國政幾於中斷,非他輔臣訪知,與群臣力請,其害可勝言哉!伏讀聖諭『輔臣義在體國,為朕分憂。今似此景象,何不代朕傳諭一言,屏息紛擾,君臣大義安在?』又雲『朕淩虐不堪,晝夜涕泣六七日。』夫從哲為顧命元臣,使少肯義形於色,何至令至尊憂危如此!惟阿婦寺之意多,戴聖明之意少,故敢於淩皇祖,悖皇考,而欺陛下也。」末復力言克纘之謬。章並下廷議。既而議上,惟可灼下吏戍邊,從哲置不問。

山東巡撫が奏す、五月中、日中に月星並び見ゆと。慎行は以て大異と為し、疏を上てて修省を請い、語極めて危切なり。秦王誼漶は旁枝より進封せられ、其の四子は法当に郡王を封ずべからず。厚く近幸に賄し、遂に温旨を得たり。慎行は堅く詔を奉ぜず、三疏して力を争うも得ず。七月、病を謝して去る。

原文山東巡撫奏,五月中,日中月星並見。慎行以為大異,疏請修省,語極危切。秦王誼漶由旁枝進封,其四子法不當封郡王,厚賄近幸,遂得溫旨。慎行堅不奉詔,三疏力爭,不得。七月謝病去。

其の冬、廷に閣臣を推挙し、慎行を首とし、吏部侍郎盛以弘を次とす。魏忠賢抑えて用いず、顧秉謙・朱国禎・朱延禧・魏広微を用う。朝論大いに駭く。葉向高連疏して両人の用いるを請うも、竟に命を得ず。已にして、忠賢大いに熾え、議して《三朝要典》を修め、「紅丸」の案は慎行を以て罪魁と為す。其の党張訥遂に疏を上てて力くして詆り、詔有って削奪す。未だ幾ばず、劉誌選復た両疏を以て追劾し、詔して撫按に提問せしめ、寧夏に遣戍す。未だ行かず、庄烈帝嗣位し、赦を以て免ず。

原文其冬,廷推閣臣,以慎行為首,吏部侍郎盛以弘次之。魏忠賢抑不用,用顧秉謙、朱國禎、朱延禧、魏廣微,朝論大駭。葉向高連疏請用兩人,竟不得命。已,忠賢大熾,議修《三朝要典》,「紅丸」之案以慎行為罪魁。其黨張訥遂上疏力詆,有詔削奪。未幾,劉誌選復兩疏追劾,詔撫按提問,遣戍寧夏。未行,莊烈帝嗣位,以赦免。

崇禎元年、故官を以て詹事府を協理することを命ぜられたが、固辞して就かず。慎行は操行峻潔にして、一時の搢紳の冠たり。朝士数度推轂して内閣に入れんとすれども、吏部尚書王永光力排し、遂に用いられず。八年、廷推して閣臣を推挙すれども、屡々旨に称せず、最後に慎行及び劉宗周・林釬の名を上すと、帝即ち之を召す。慎行既に疾を得、都に入るや、卒す。太子太保を贈られ、文介と謚す。

原文崇禎元年,命以故官協理詹事府,力辭不就。慎行操行峻潔,為一時搢紳冠。朝士數推轂入閣,吏部尚書王永光力排之,迄不獲用。八年廷推閣臣,屢不稱旨,最後以慎行及劉宗周、林釬名上,帝即召之。慎行已得疾,甫入都,卒。贈太子太保,謚文介。

盛以弘

原文盛以弘

盛以弘、字は子寬、潼関衛の人。父は訥、字は敏叔。訥の父は德、世職指揮なり、洛南の盗を討ちて戦死す。訥号泣して当事に請い、水漿数日口に入れず、為に兵を発して討ち斬らしむ。久しくして、隆慶五年の進士に挙げらる。庶吉士より累官して吏部右侍郎に至る。尚書陳有年・左侍郎趙参魯と共に銓政を厘む。母憂にて帰り、篤孝を以て聞こゆ。卒し、礼部尚書を贈られ、天啓初め、文定と謚す。

原文盛以弘,字子寬,潼關衛人。父訥,字敏叔。訥父德,世職指揮也,討洛南盜戰死。訥號泣請於當事,水漿不入口者數日,為發兵討斬之。久之,舉隆慶五年進士。由庶吉士累官吏部右侍郎。與尚書陳有年、左侍郎趙參魯共厘銓政。母憂歸,以篤孝聞。卒,贈禮部尚書。天啟初,謚文定。

以弘は、万暦二十六年の進士。庶吉士より累官して礼部尚書に至る。天啓三年、病を謝して帰る。魏忠賢政を乱し、其の職を落とす。崇禎初め、故官に起り、詹事府を協理し、官に卒す。明の世、衛所の世職にして儒業を以て顕るる者は、訥父子のみ。

原文以弘,萬歷二十六年進士。由庶吉士累官禮部尚書。天啟三年謝病歸。魏忠賢亂政,落其職。崇禎初,起故官,協理詹事府,卒官。明世,衛所世職用儒業顯者,訥父子而已。

高攀龍

原文高攀龍

高攀龍、字は存之、無錫の人。少しく書を読みて、輒ち程朱の学を志す。万暦十七年の進士に挙げられ、行人を授かる。四川僉事張世則、其の著す所の『大学初義』を進め、程・朱の章句を詆毀し、天下に頒つことを請う。攀龍抗疏して力く其の謬を駁し、其の書遂に行われず。

原文高攀龍,字存之,無錫人。少讀書,輒有誌程朱之學。舉萬歷十七年進士,授行人。四川僉事張世則進所著《大學初義》,詆程、朱章句,請頒天下。攀龍抗疏力駁其謬,其書遂不行。

侍郎趙用賢・都御史李世達、訐られて位を去り、朝論多く大学士王錫爵を咎む。攀龍上疏して曰く、

原文侍郎趙用賢、都御史李世達被訐去位,朝論多咎大學士王錫爵。攀龍上疏曰:

近く朝寧の上を見るに、善類擯斥して一空なり。大臣は則ち孫鑨・李世達・趙用賢去り、小臣は則ち趙南星・陳泰来・顧允成・薛敷教・張納陛・於孔兼・賈巖斥けらる。邇くは李禎・曾乾亨復た其の位に安んぜずして去ることを乞い、選郎孟化鯉又た言官張棟を用うるを推して、署を空くして逐われたり。

原文近見朝寧之上,善類擯斥一空。大臣則孫鑨、李世達、趙用賢去矣,小臣則趙南星、陳泰來、顧允成、薛敷教、張納陛、於孔兼、賈巖斥矣。邇者李禎、曾乾亨復不安其位而乞去矣,選郎孟化鯉又以推用言官張棟,空署而逐矣。

夫れ天地は才を生むこと甚だ難く、国家は才を需むること甚だ亟なり。此くの如く廃斥せば、後将に焉んぞ継がん。正人の扼腕せしめ、曲士の弾冠せしむるに至り、世道人心何ぞ勝慨すべけんや。且つ今陛下朝講久しく輟み、廷臣顔色を望見することを獲ず。天言伝布するも、聖裁と曰うと雖も、隠伏の中に、測るべからざる所以あり。故に中外群言、『輔臣、己に附かざる者を除かんと欲す』と曰わざれば、則ち『近侍、正人を用いるを利とせず』と曰う。陛下深く九重に居り、亦た嘗て諸臣の賢否を左右に陳する者有りや。而して陛下諸臣に於いて、亦た嘗て一たび其の罪を得たる故を思うや。果たして皆聖怒に由ると為すならば、則ち諸臣自ら孟化鯉以外、未だ旨に忤うを聞かず、何を以て皆罷斥せらるるや。仮令批鱗逆耳、董基等の如きも、陛下已に嘗て収録し、何ぞ独り諸臣に然らざるや。臣恐らくは陛下に邪を祛くの果斷有るも、左右反って以て冒嫉の私を行い、陛下に言を容るるの盛心有るも、臣工反って以て諫諍を拒むの誚を遺す。四海に伝え、史冊に垂れて、聖徳の累と為すこと少なからんことを。

原文夫天地生才甚難,國家需才甚亟,廢斥如此,後將焉繼。致使正人扼腕,曲士彈冠,世道人心何可勝慨!且今陛下朝講久輟,廷臣不獲望見顏色。天言傳布,雖曰聖裁,隱伏之中,莫測所以。故中外群言,不曰:「輔臣欲除不附己」,則曰「近侍不利用正人」。陛下深居九重,亦曾有以諸臣賢否陳於左右;而陛下於諸臣,亦嘗一思其得罪之故乎?果以為皆由聖怒,則諸臣自孟化鯉而外,未聞忤旨,何以皆罷斥?即使批鱗逆耳,如董基等,陛下已嘗收錄,何獨於諸臣不然?臣恐陛下有祛邪之果斷,而左右反借以行冒嫉之私;陛下有容言之盛心,而臣工反遺以拒諫諍之誚。傳之四海,垂諸史冊,為聖德累不小。

輔臣王錫爵等、其の自ら待つ跡を尋ぬれば、張居正・申時行に愈れるが若く、其の心を用うるを察すれば、何を以て五十歩百歩を笑うに異ならんや。即ち諸臣の罷斥するや、果たして当然と為すならば、則ち是非邪正、恒人の能く弁ずる所、何ぞ忍びて至尊の過挙を坐視し、内に其の私憤を泄らし、斥逐の尽くるを利とするに至らんや。末に力く鄭材・楊応宿の讒諂を詆し、黜くべきを論ず。応宿亦た疏を上して攀龍を訐り、語極めて妄誕なり。疏並びに部院に下り、議して両臣を薄罰し、稍く懲創を示すことを請う。帝許さず、応宿の秩を二級削り、攀龍を掲陽添註典史に謫す。御史呉弘済等論救すれども、並びに譴責を得たり。攀龍官に七月、事に因りて帰る。尋ね親喪に遭い、遂に出ず、家に居ること垂三十年。言者屡々薦ぐれども、帝悉く省みず。

原文輔臣王錫爵等,跡其自待,若愈於張居正、申時行,察其用心,何以異於五十步笑百步?即如諸臣罷斥,果以為當然,則是非邪正,恒人能辨,何忍坐視至尊之過舉,得毋內泄其私憤,而利於斥逐之盡乎?末力詆鄭材、楊應宿讒諂宜黜。應宿亦疏訐攀龍,語極妄誕。疏並下部院,議請薄罰兩臣,稍示懲創。帝不許,鐫應宿二秩,謫攀龍揭陽添註典史。御史吳弘濟等論救,並獲譴。攀龍之官七月,以事歸。尋遭親喪,遂不出,家居垂三十年。言者屢薦,帝悉不省。

熹宗立ち、光禄丞に起る。天啓元年、少卿に進む。明年四月、疏を上して戚畹鄭養性を劾し、言う、「張差の梃撃は実に養性の父国泰の主謀なり。今人言籍籍、咸く養性の奸宄と交関し、別に異謀を懐くを疑う。積疑解けず、当に善全の術を思うべし。劉保の謀逆に至りては、中官盧受之を主り、劉於簡の獄詞具在す。受は本鄭氏の私人にして、李如楨一家鄭氏と交関し、名将を計り陥れ、地を失い師を喪う。於簡の原供、明らかに李永芳如楨と内応を約すと言う。崔文升の如きは素より鄭氏の腹心たり、先帝の癥虚を知り、故に泄薬を用い、罪は赦すべからず。陛下僅に行って斥逐するも、文升猶ほ都城に潜住す。宜しく養性を勒して故里に還し、急ぎ如楨・文升の典刑を正し、以て国法を章すべし。」疏入り、攀龍の多言を責むれども、然れども卒に養性を還籍せしむ。

原文熹宗立,起光祿丞。天啟元年進少卿。明年四月,疏劾戚畹鄭養性,言:「張差梃擊實養性父國泰主謀。今人言籍籍,鹹疑養性交關奸宄,別懷異謀,積疑不解,當思善全之術。至劉保謀逆,中官盧受主之,劉於簡獄詞具在。受本鄭氏私人,而李如楨一家交關鄭氏,計陷名將,失地喪師。於簡原供,明言李永芳約如楨內應。若崔文升素為鄭氏腹心,知先帝癥虛,故用泄藥,罪在不赦。陛下僅行斥逐,而文升猶潛住都城。宜勒養性還故裏,急正如楨、文升典刑,用章國法。」疏入,責攀龍多言,然卒遣養性還籍。

孫慎行「紅丸」の事を以て旧輔方従哲を攻め、廷議に下す。攀龍『春秋』首悪の誅を引き、獄を従哲に帰す。給事中王誌道、従哲の為に解し、攀龍遺書して切に之を責む。尋ねて太常少卿に改まり、務学の要を疏陳し、因りて言う、「従哲の罪は紅丸に止まらず、其の最大なる者は鄭国泰と交結するに在り。国泰父子の先帝を謀り危うくせんとする所以は一ならず、始めに張差の梃を以てし、継いで美姝の進を以てし、終わりに文升の薬を以てす。而して従哲実に之を左右す。其の鄭氏たる者を力めて扶け、其の鄭氏たらざる者を力めて鋤き、一時人心狂うが若く、只だ鄭氏を知り、東宮を知らず。此れ賊臣なり、賊を討つは則ち陛下の孝なり。而るに説者乃ち『先帝の為に隠諱すれば則ち孝なり』と曰う、此れ大乱の道なり。陛下聖母を念わば則ち選侍の罪を宣べ、皇考を念わば則ち選侍の恩を隆くす、仁の至り義の尽きるなり。而るに説者乃ち『聖母の為に隠諱すれば則ち孝なり』と曰う。明らかなる聖諭を、目して仮托と為し、忠なる楊漣を、謗りて居功と為す。人臣居功を避け、罪に甘んじ、君父急有れば、袖手旁観す、此れ大乱の道なり。其の説に惑わされ、孝も其の孝たるを知らず、不孝も以て大孝と為し、忠も其の忠たるを知らず、不忠も以て大忠と為す。忠孝皆変乱せられ、何事か妄為せざらん。故に従哲・養性は討たざるべからず、奈何ぞ猶ほ輦轂の下に居らしむるや。」時に従哲輩の奥援甚だ固く、疏中の「不孝」の語を摘まえて帝の怒りを激し、将に厳譴を加えんとす。葉向高力く救い、乃ち祿を一年奪う。旋って大理少卿に改む。鄒元標書院を建つ、攀龍之に与る。元標攻めらる、攀龍同じく罷まることを請う、詔して之を留む。太僕卿に進み、刑部右侍郎に擢でらる。

原文孫慎行以「紅丸」事攻舊輔方從哲,下廷議。攀龍引《春秋》首惡之誅,歸獄從哲。給事中王誌道為從哲解,攀龍遺書切責之。尋改太常少卿,疏陳務學之要,因言:「從哲之罪非止紅丸,其最大者在交結鄭國泰。國泰父子所以謀危先帝者不一,始以張差之梃,繼以美姝之進,終以文升之藥,而從哲實左右之。力扶其為鄭氏者,力鋤其不為鄭氏者;一時人心若狂,但知鄭氏,不知東宮。此賊臣也,討賊則為陛下之孝。而說者乃曰『為先帝隱諱則為孝』,此大亂之道也。陛下念聖母則宣選侍之罪,念皇考則隆選侍之恩,仁之至義之盡也,而說者乃曰『為聖母隱諱則為孝』。明如聖諭,目為假托;忠如楊漣,謗為居功。人臣避居功,甘居罪,君父有急,袖手旁觀,此大亂之道也。惑於其說,孝也不知其為孝,不孝也以為大孝;忠也不知其為忠,不忠也以為大忠。忠孝皆可變亂,何事不可妄為?故從哲、養性不容不討,奈何猶令居輦轂下!」時從哲輩奧援甚固,摘疏中「不孝」語激帝怒,將加嚴譴。葉向高力救,乃奪祿一年。旋改大理少卿。鄒元標建書院,攀龍與焉。元標被攻,攀龍請與同罷,詔留之。進太僕卿,擢刑部右侍郎。

四年八月、左都御史に拝せられる。楊漣らが群をなして魏忠賢を撃つや、その勢いは既に両立せざるに至った。向高が国を去るに及んで、魏広微は日々忠賢を導いて悪を為し、攀龍は趙南星の門生として、共に要地に居た。御史崔呈秀が淮・揚を按じて還ると、攀龍はその穢状を発し、南星はこれを戍に処すべしと議した。呈秀は窮し、急ぎ忠賢の所に走り、義児となることを乞い、遂に謝応祥の事を摭って、攀龍が南星に党すと謂う。厳旨をもって詰責し、攀龍は遽に罪を引いて去った。間もなく、南京御史遊鳳翔が出て知府となり、攀龍が私を挟んで排擠すと訐った。詔して鳳翔の故官を復し、攀龍の籍を削った。呈秀は憾み已まず、必ずやこれを殺さんとし、李実が周起元を劾する疏中に名を竄入し、緹騎を遣わして往きて逮えさせた。攀龍は朝に宋儒楊亀山の祠を謁し、文を以てこれに告ぐ。帰りて二門生と一弟と後園の池上に飲し、周順昌が既に就逮せられたると聞き、笑って曰く、「吾れは死を視ること帰するが如し、今果然たり」と。入りて夫人と語ること、平時の如し。出でて、二紙を書いて二孫に告げて曰く、「明日これを官校に付せよ」と。因りてこれを遣り出し、戸を扃ぐ。移時して諸子戸を排して入るに、一燈熒然として、則ち既に衣冠を正して自ら池に沈みぬ。封じたる紙を発するに、乃ち遺表なり。云く、「臣たとえ削奪せられるとも、旧より大臣たり。大臣辱しめを受くれば則ち国を辱しむ。謹んで北に向かって叩頭し、屈平の遺則に従う」と。復た門人華允誠に別す書に云く、「一生の学問、ここに至りて亦た少しく力を得たり」と。時に年六十五。遠近その死を聞き、傷まざるは莫し。

原文四年八月,拜左都御史。楊漣等群擊魏忠賢,勢已不兩立。及向高去國,魏廣微日導忠賢為惡,而攀龍為趙南星門生,並居要地。御史崔呈秀按淮、揚還,攀龍發其穢狀,南星議戍之。呈秀窘,急走忠賢所,乞為義兒,遂摭謝應祥事,謂攀龍黨南星。嚴旨詰責,攀龍遽引罪去。頃之,南京御史遊鳳翔出為知府,訐攀龍挾私排擠。詔復鳳翔故官,削攀龍籍。呈秀憾不已,必欲殺之,竄名李實劾周起元疏中,遣緹騎往逮。攀龍晨謁宋儒楊龜山祠,以文告之。歸與二門生一弟飲後園池上,聞周順昌已就逮,笑曰:「吾視死如歸,今果然矣。」入與夫人語,如平時。出,書二紙告二孫曰:「明日以付官校。」因遣之出,扃戶。移時諸子排戶入,一燈熒然,則已衣冠自沈於池矣。發所封紙,乃遺表也,云:「臣雖削奪,舊為大臣,大臣受辱則辱國。謹北向叩頭,從屈平之遺則。」復別門人華允誠書云:「一生學問,至此亦少得力。」時年六十五。遠近聞其死,莫不傷之。

呈秀の憾み猶ほ未だ解けず、詔を矯ってその子世儒を吏に下す。刑部は世儒がその父を防閑すること能わざるを坐し、徒に謫す。崇禎初、太子少保、兵部尚書を贈り、忠憲と謚し、世儒に官を授く。

原文呈秀憾猶未釋,矯詔下其子世儒吏。刑部坐世儒不能防閑其父,謫為徒。崇禎初,贈太子少保,兵部尚書,謚忠憲,授世儒官。

初め、海内の学者は率ね王守仁を宗とす。攀龍は心にこれを非とす。顧憲成とともに東林書院に講学し、静を以て主とす。操履篤実にして、粹然として一に正より出で、一時の儒者の宗と為る。海内の士大夫、識ると識らざるとを問わず、高・顧を称えて異詞無し。攀龍の官を削るの秋、詔して東林書院を毀つ。庄烈帝嗣位し、学者更にこれを修復す。

原文初,海內學者率宗王守仁,攀龍心非之。與顧憲成同講學東林書院,以靜為主。操履篤實,粹然一出於正,為一時儒者之宗。海內士大夫,識與不識,稱高、顧無異詞。攀龍削官之秋,詔毀東林書院。莊烈帝嗣位,學者更修復之。

馮従吾

原文馮從吾

馮従吾、字は仲好、長安の人。万暦十七年進士。庶吉士に改め、御史を授かる。中城を巡視し、閹人の刺を修めて謁するを、拒みて却く。礼科都給事中胡汝寧は傾邪狡猾にして、累劾して去らず。従吾その奸を発し、遂に外に調ず。時に大計に当たり、従吾は邏偵を厳にし、苞苴跡を絶つ。

原文馮從吾,字仲好,長安人。萬歷十七年進士。改庶吉士,授御史。巡視中城,閹人修刺謁,拒卻之。禮科都給事中胡汝寧傾邪狡猾,累劾不去。從吾發其奸,遂調外。時當大計,從吾嚴邏偵,苞苴絕跡。

二十年正月、章を抗して言う、「陛下は郊廟に親しまず、朝講に御せず、章奏は中に留めて発せず。試みに戊子以前を観よ、四裔順を効し、海は波を揚げず。己丑以後、南倭は警を告げ、北寇は盟を渝え、天変人妖、累告を疊出す。励精の効は彼の如く、怠斁の患は此の如し。近く頒つ敕諭に、聖体違和と謂い、これに借りて自ら掩わんと欲す。鼓鐘は宮に在りて、声は外に聞こゆるを知らざるなり。陛下は毎夕必ず飲み、毎飲必ず酔い、毎酔必ず怒る。左右一言稍々違えば、輒ち杖下に斃す。外庭知らざるは無し。天下後世、欺くこと可けんや。願わくは陛下、天変を以て畏るるに足らずと為すこと勿れ、人言を以て恤うるに足らずと為すこと勿れ、目前の晏安を以て恃むべきと為すこと勿れ、将来の危乱を以て忽にすべきと為すこと勿れ。宗社幸甚」と。帝大いに怒り、廷杖せんと欲す。会に仁聖太后の寿辰に、閣臣力めて解きて免る。尋いで帰を告げ、起きて長蘆塩政を巡る。己を潔くし商を恵み、奸宄跡を斂む。既に朝に還るや、適た帝軍政を以て両京の言官を大いに黜く。従吾も亦た籍を削らる。猶ほ前の疏の故なり。

原文二十年正月,抗章言:「陛下郊廟不親,朝講不禦,章奏留中不發。試觀戊子以前,四裔效順,海不揚波;己丑以後,南倭告警,北寇渝盟,天變人妖,疊出累告。勵精之效如彼,怠斁之患如此。近頌敕諭,謂聖體違和,欲借此自掩,不知鼓鐘於宮,聲聞於外。陛下每夕必飲,每飲必醉,每醉必怒。左右一言稍違,輒斃杖下,外庭無不知者。天下後世,其可欺乎!願陛下勿以天變為不足畏,勿以人言為不足恤,勿以目前晏安為可恃,勿以將來危亂為可忽,宗社幸甚。」帝大怒,欲廷杖之。會仁聖太后壽辰,閣臣力解得免。尋告歸,起巡長蘆鹽政。潔己惠商,奸宄斂跡。既還朝,適帝以軍政大黜兩京言官。從吾亦削籍,猶以前疏故也。

従吾は生まれながら純愨にして、長じて濂・洛の学を志し、許孚遠に受業す。官を罷めて帰り、門を杜ぎ客を謝し、先正の格言を取り、身心に体験し、造詣益々邃し。家に居ること二十五年。光宗践阼し、尚宝卿を起し、太僕少卿に進む。並びに兄の喪に赴かず。俄かに大理に改む。

原文從吾生而純愨,長誌濂、洛之學,受業許孚遠。罷官歸,杜門謝客,取先正格言,體驗身心,造詣益邃。家居二十五年。光宗踐阼,起尚寶卿,進太僕少卿,並以兄喪未赴。俄改大理。

天啓二年、左僉都御史に擢でらる。甫く両月にして、左副都御史に進む。廷議「三安」に、従吾言う、「李可灼は至尊を以て嘗試し、而してその疾を引くを許す。国を当つる何の心ぞ。梃撃の獄に至りては、奸を発する諸臣と難を為す者は、即ち奸人なり」と。ここより群小これを悪む。

原文天啟二年擢左僉都御史。甫兩月,進左副都御史。廷議「三安」,從吾言:「李可灼以至尊嘗試,而許其引疾,當國何心!至梃擊之獄,與發奸諸臣為難者,即奸人也。」由是群小惡之。

已にして、鄒元標と共に首善書院を建て、同志を集めてその中に講学す。給事中朱童蒙、遂に疏を上してこれを詆す。従吾言う、「宋の競わざるは、講学を禁ずるの故なり。講学の故に非ざるなり。我が二祖は『六経』を表章し、天子の経筵、皇太子の出閣、皆な講学なり。臣子はこれをもって君を望み、而して己は則ち為さず、可ならんや。先臣守仁は、兵事倥傯に当たりて、講学を廃せず、卒に大功を成す。此れ臣等の毀誉を恤わずして、これ為す所以なり」と。因りて再び疾を称して罷めんことを求め、帝は温詔をもって慰留す。而して給事中郭允厚・郭興治、復た相継いで元標を詆むこと甚だ力めり。従吾また上言す、「臣壮歳に朝に登り、即ち楊起元・孟化鯉・陶望齢らと講学会を立ち、臣の帰を告ぐるより乃ち廃す。京師の講学は、昔より既にこれ有り。何ぞ今日に至りて遂に詬厲と為らんや」と。因りて再び疏を上して帰を引く。

原文已,與鄒元標共建首善書院,集同誌講學其中,給事中朱童蒙遂疏詆之。從吾言:「宋之不競,以禁講學故,非以講學故也。我二祖表章《六經》,天子經筵,皇太子出閣,皆講學也。臣子以此望君,而己則不為,可乎?先臣守仁,當兵事倥傯,不廢講學,卒成大功。此臣等所以不恤毀譽,而為此也。」因再稱疾求罷,帝溫詔慰留。而給事中郭允厚、郭興治復相繼詆元標甚力。從吾又上言:「臣壯歲登朝,即與楊起元、孟化鯉、陶望齡輩立講學會,自臣告歸乃廢。京師講學,昔已有之,何至今日遂為詬厲?」因再疏引歸。

四年春、南京右都御史を起し、累辞して未だ上らず。召して工部尚書に拝す。会に趙南星・高攀龍相継いで国を去るに及び、連疏して力辞し、致仕を予う。明年秋、魏忠賢の党張訥、疏を上して従吾を詆り、籍を削る。郷人王紹徽は素より従吾を銜み、吏部と為るに及び、喬応甲をして陜を撫ましめ、百方に捃摭すれども、得る所無し。乃ち書院を毀ち、先聖の像を曳き、城隅に擲つ。従吾憤悒に勝えず、疾を得て卒す。崇禎初、官を復し、太子太保を贈り、恭定と謚す。

原文四年春,起南京右都御史,累辭未上,召拜工部尚書。會趙南星、高攀龍相繼去國,連疏力辭,予致仕。明年秋,魏忠賢黨張訥疏詆從吾,削籍。鄉人王紹徽素銜從吾,及為吏部,使喬應甲撫陜,捃摭百方,無所得。乃毀書院,曳先聖像,擲之城隅。從吾不勝憤悒,得疾卒。崇禎初,復官,贈太子太保,謚恭定。

賛に曰く、趙南星諸人は、名檢を持ち、風節を励まし、気を厳にし性を正し、侃侃として朝に立ち、天下これを望むこと泰山喬嶽の如し。『詩』にこれ有り、「邦の司直」と。その斯人を謂うか。権枉廷に盈ち、譴謫相継ぎ、「人の雲う亡きは、邦国殄瘁す」と。悲しいかな。

原文贊曰:趙南星諸人,持名檢,勵風節,嚴氣正性,侃侃立朝,天下望之如泰山喬嶽。《詩》有之,「邦之司直」,其斯人謂歟?權枉盈廷,譴謫相繼,「人之雲亡,邦國殄瘁」,悲夫!