明史

列傳第一百二十九 周嘉謨 張問達 汪應蛟 王紀 孫瑋 鍾羽正 陳道亨

列傳第一百二十九 周嘉謨 張問達 汪應蛟 王紀 孫瑋 鍾羽正 陳道亨

原文列傳第一百二十九 周嘉謨 張問達 汪應蛟 王紀 孫瑋 鍾羽正 陳道亨

○周嘉謨 張問達(陸夢龍 傅梅)汪應蛟 王紀(楊東明)孫瑋 鐘羽正 陳道亨(子弘緒)

原文○周嘉謨 張問達(陸夢龍 傅梅)汪應蛟 王紀(楊東明)孫瑋 鐘羽正 陳道亨(子弘緒)

周嘉謨

原文周嘉謨

周嘉謨、字あざなは明卿、漢川の人。隆慶五年の進士。戸部主事に任じられ、韶州知府を歴任した。

原文周嘉謨,字明卿,漢川人。隆慶五年進士。除戶部主事,歷韶州知府。

萬暦十年、四川副使に遷り、瀘州を分巡した。大悪党の楊騰霄を徹底的に取り調べて死罪に処した。建武所の兵が総兵官沈思学の官舎を焼き討ちしたが、単身で赴き諭して鎮定させた。まもなく白草番を撫治した。邛州・灌県で兵を督し、いずれも方略があった。五年在任して按察使に進み、病を理由に辞職して帰郷した。久しくして、元の官に起用された。税を徴収する宦官の丘乗雲が暴虐をふるい、逮捕・拘束が相次いだ。嘉謨は管轄の役所に命じてこれを拒絶させ、悪事を助ける奸民を打ち殺したので、乗雲は行いを改めた。

原文萬歷十年遷四川副使,分巡瀘州。窮治大猾楊騰霄,置之死。建武所兵燔總兵官沈思學廨,單車諭定之。尋撫白草番。督兵邛州、灌縣,皆有方略。居五年,進按察使,移疾歸。久之,起故官。榷稅中官丘乘雲播虐,逮系相屬。嘉謨檄所司拒絕,而搒殺奸民助虐者,乘雲為戢。

そのまま左布政使に遷った。右副都御史に抜擢され、雲南を巡撫した。隴川宣撫の多安民が反乱を起こし、緬甸に入り、蛮湾を占拠した。嘉謨はこれを討伐して捕らえ、その弟の安靖を立てて帰還した。兵部右侍郎に進み、巡撫はもとのままとした。黔国公の沐昌祚が民田八千余頃を侵奪したので、嘉謨はこれを弾劾して処罰し、さらにその孫の沐啓元の罪状を弾劾した。久しくして、両広軍務を督し、広東巡撫を兼ねるよう改められた。任期満了の考査を経て、右都御史を加えられた。広西の土司の酋長が交趾の兵を引き入れて侵犯したが、官軍がこれを撃退し、嘉謨は兵を増やし守備を置いた。南海・三水・高要・四会・高明などの諸県で大水が起こり、堤防が決壊したので、贖罪金を留保してこれを修築させた。

原文就遷左布政使。擢右副都御史,巡撫雲南。隴川宣撫多安民叛,入緬,據蠻灣。嘉謨討擒之,立其弟安靖而還。進兵部右侍郎,巡撫如故。黔國公沐昌祚侵民田八千餘頃,嘉謨劾治之,復劾其孫啟元罪狀。久之,改督兩廣軍務兼巡撫廣東。滿考,加右都御史。廣西土酋引交址兵內犯,官軍拒退之,嘉謨為增兵置戍。南海、三水、高要、四會、高明諸邑大水,壞圩岸,留贖鍰築之。

南京戸部尚書に遷り、まもなく召されて工部尚書に任じられた。孝定太后の喪に際し、内廷が際限なく物品を要求した。嘉謨は喪礼には適切な定めがあるべきで、左右の者の言を信じて妄りに国庫を消耗すべきでないと上言したが、聞き入れられなかった。ほどなく吏部尚書に改められた。

原文遷南京戶部尚書,尋召拜工部尚書。孝定後喪,內廷宣索不貲。嘉謨言喪禮有中制,不當信左右言,妄耗國帑,不納。俄改吏部尚書。

四十八年七月、神宗が崩御した。八月丙午朔、光宗が即位した。鄭貴妃が乾清宮に居座り、さらに皇太后に封ぜられることを求めた。嘉謨は言官の楊漣・左光斗らの意見に従い、大義をもって貴妃の従子の鄭養性を責め、利害を示した。貴妃はようやく慈寧宮に移り、封后の件も沙汰止みとなった。外廷では皆、貴妃が八人の侍女を進めたために皇帝が病気になったと言っていた。二十六日、嘉謨は召見の機会に、寡欲を旨とするよう進言した。皇帝はしばらく彼を見つめ、皇長子に外廷に伝えさせた、「伝聞は信じるに足らぬ」と。諸臣はようやく退いた。二十九日、皇帝の病状が極めて重くなり、嘉謨は大学士の方従哲・劉一燝・韓爌らとともに顧命を受けた。その夜、皇帝は崩御した。夜明け、九月乙亥朔、光宗の遺詔により皇長子が位を継ぐこととなったが、李選侍が宮中で専横し、その勢いは甚だ盛んであったため、廷臣は不測の事態を憂慮した。拝謁した後、皇長子に拝謁を請い、万歳を唱えて文華殿に奉じて朝賀を受けさせ、慈慶宮に送って住まわせた。嘉謨は上奏して言った、「殿下の御身は、社稷の託する所、出入は軽々しくすべきではありません。大小の殮、朝夕の拝謁は、臣らが到着してから行うべきです」。皇長子はうなずいた。諸大臣は議を定めた、皇長子は九月六日に即位することと。選侍は相変わらず乾清宮に居座り、皇長子を抱き込んで同居しようとした。嘉謨は急いで上疏を草し、廷臣を率いて移宮を請い、光斗・漣もこれに続いた。五日、選侍はようやく噦鸞宮に移った。当時は大きな変事が相次ぎ、国勢が不安定であった。首輔の従哲は態度を曖昧にし、一燝・爌はまた新たに政務を執り始めたばかりであった。嘉謨は厳然として朝廷に立ち、重要な議論を力強く支持し、朝廷内外が頼みとした。神宗の末年、斉・楚・浙の三党が政権を握り、官吏の昇降の権は吏部が主とすることができなかった。嘉謨が選任の任に当たると、ただ才能によって任用した。光宗・熹宗が相次いで即位すると、嘉謨は廃免された者を大々的に起用し、老練な重臣が朝廷に満ちた。かつて三党の首領と称され、徒党を組んで政事を乱した者も、次第に自ら退いていき、朝廷は清らかになった。その後、吏治の弊害が甚だしいことを極言し、巡撫・巡按・監司に責任を負わせるよう請うた。上官が考課を記すのに、概ね四六駢儷体の文を用い、多くは実態を失っていた。嘉謨は六つの事柄によって官吏の評価を定めるよう請うた。一は守(節操)、二は才(才能)、三は心(心がけ)、四は政(政績)、五は年(年齢)、六は貌(容姿・風采)である。それぞれ実状を記し、虚飾の言葉で飾るべきでない。皇帝は善しとし、これを行った。

原文四十八年七月,神宗崩。八月丙午朔,光宗即位。鄭貴妃據乾清宮,且邀封皇太后。嘉謨從言官楊漣、左光鬥等言,以大義責貴妃從子養性,示以利害。貴妃乃移慈寧宮,封後事亦寢。外廷皆言貴妃進侍姬八人,致帝得疾。二十六日,嘉謨因召見,以寡欲進規,帝註視久之,令皇長子諭外廷:「傳聞不可信。」諸臣乃退。二十九日,帝疾大漸,嘉謨偕大學士方從哲、劉一燝、韓爌等受顧命。其夕,帝崩。質明,九月乙亥朔,光宗遺詔皇長子嗣位,而李選侍專制宮中,勢頗張,廷臣慮不測。既入臨,請見皇長子,呼萬歲,奉至文華殿受朝,送居慈慶宮。嘉謨奏言:「殿下之身,社稷是托,出入不宜輕脫。大小殮,朝暮臨,須臣等至乃發。」皇長子頷之。諸大臣定議:皇長子以九月六日即位。選侍居乾清自如,且欲挾皇長子同居。嘉謨亟草疏率廷臣請移宮,光鬥、漣繼之。五日,選侍始移噦鸞宮。時大故頻仍,國勢杌隉,首輔從哲首鼠兩端,一燝、爌又新秉政,嘉謨正色立朝,力持大議,中外倚以為重。神宗末,齊、楚、浙三黨為政,黜陟之權,吏部不能主。及嘉謨秉銓,惟才是任。光、熹相繼踐祚,嘉謨大起廢籍,耆碩滿朝。向稱三黨之魁及朋奸亂政者,亦漸自引去,中朝為清。已,極陳吏治敝壞,請責成撫、按、監司。上官註考,率用四六儷語,多失實,嘉謨請以六事定官評:一曰守,二曰才,三曰心,四曰政,五曰年,六曰貌。各註其實,毋飾虛詞。帝稱善,行之。

天啓元年、御史の賈継春が罪を得た。その同官の張慎言・高弘図が上疏して救ったが、皇帝は彼らもともに罪に処そうとした。嘉謨らが力を尽くして弁解したため、慎言・弘図の俸給を削るにとどまった。朱欽相・倪思輝が貶謫されたときも、嘉謨は救済を申し立てた。給事中の霍維華が魏忠賢の意を迎えて王安を弾劾し、死に追いやった。嘉謨はこれを憎み、維華を外任に出した。忠賢は怒り、給事中の孫傑に命じて嘉謨を弾劾させ、劉一燝の依頼を受けて王安の仇を討ったこと、および袁応泰・佟卜年らを用いたことを嘉謨の罪とした。嘉謨は退任を求めたので、忠賢は詔を偽ってこれを許した。大学士の葉向高等は嘉謨を留めて官吏考課の大事を終わらせるよう請うたが、聞き入れられなかった。翌年、広寧が陥落すると、嘉謨は憂憤し、急ぎ上疏して兵部尚書の張鶴鳴が主戦して国を誤った罪を弾劾した。五年の秋、忠賢の党与の周維持がまた嘉謨を弾劾し、王安を曲げて庇ったとして、ついに官籍を削られた。

原文天啟元年,御史賈繼春得罪,其同官張慎言、高弘圖疏救,帝欲並罪之。嘉謨等力為解,乃奪慎言、弘圖俸而止。朱欽相、倪思輝被謫,嘉謨亦申救。給事中霍維華希魏忠賢指劾王安,置之死。嘉謨惡之,出維華於外。忠賢怒,嗾給事中孫傑劾嘉謨受劉一燝屬為安報仇,且以用袁應泰、佟卜年等為嘉謨罪。嘉謨求退,忠賢矯旨許之。大學士葉向高等請留嘉謨竣大計事,不聽。明年,廣寧陷,嘉謨憂憤,馳疏劾兵部尚書張鶴鳴主戰誤國罪。五年秋,忠賢黨周維持復劾嘉謨曲庇王安,遂削籍。

崇禎元年、推薦されて南京吏部尚書に起用され、太子太保を加えられた。翌年、任上で卒去した。八十四歳。少保を追贈された。

原文崇禎元年,薦起南京吏部尚書,加太子太保。明年,卒官,年八十四。贈少保。

張問達

原文張問達

張問達、字は徳允、涇陽の人。萬暦十一年の進士。高平・濰の二県の知県を歴任し、善政があった。刑科給事中に召し出されて任じられた。寧夏で戦争があったとき、陝西全省の未納租税を全て免除するよう請い、聞き入れられた。父の喪が明けると、元の官に起用され、工科左給事中を歴任した。皇帝がちょうど両宮を営建中で、宦官が中飽を図り、さらに他の工事を起こそうとしたので、問達は強く停止を請うたが、聞き入れられなかった。まもなく鉱税の害を陳述し、「宦官が一朝命令を受けるや、あえて郡守を糾弾し、甚だしきは巡撫・巡按の重臣までも糾弾する。そして孫朝が連れてきた程守訓・陳保の輩は、命官を鞭打ち殺し、家屋を破壊し、墳墓を掘り返すに至った。一つとして取り調べもせぬとは、天下の怨み嘆きをどうするのか」と言った。山東で科挙試験を主管し、途中で見た飢饉と離散の状況を上疏して陳べ、天下の鉱税を直ちに廃止するよう請うたが、いずれも返答がなかった。その後、廠庫を巡視した。旧例として、商人に内府の器物を調達させ、その名を記して進上させ、これを僉商と呼んだ。しかし多くの資産家は概ね近幸に賄賂を贈って免除を求め、皇帝はこれを許していた。問達は二度上疏して争い、さらに守訓の罪を極論したが、ともに沙汰止みとなった。礼科都給事中に進んだ。晋江の李贄が邪説で衆を惑わすと弾劾し、獄中に逮捕して死なせた。李贄の事は『耿定向伝』に詳しい。

原文張問達,字德允,涇陽人。萬歷十一年進士。歷知高平、濰二縣,有惠政。征授刑科給事中。寧夏用兵,請盡蠲全陜逋賦,從之。父喪除,起故官,歷工科左給事中。帝方營建兩宮,中官利乾沒,復興他役,問達力請停止,不納。俄陳礦稅之害,言:「閹尹一朝銜命,輒敢糾彈郡守,甚且糾撫按重臣。而孫朝所攜程守訓、陳保輩,至箠殺命吏,毀室廬,掘墳墓。不一按問,若萬方怨恫何!」典試山東,疏陳道中饑饉流離狀,請亟罷天下礦稅,皆不報。已,巡視廠庫。故事,令商人辦內府器物,僉名以進,謂之僉商。而諸高貲者率賄近幸求免,帝輒許之。問達兩疏爭執,又極論守訓罪,並寢不行。進禮科都給事中。劾晉江李贄邪說惑眾,逮死獄中。贄事具《耿定向傳》。

三十年十月、星変があったので、再び鉱税を全て廃止するよう請うた。当時は毎年のように日食が四月に起こっていた。問達は純陽の月にその変異が特に大きいとして、先後に上疏して修徳反省を請い、言葉は極めて切迫していたが、皇帝は終いに聞き入れなかった。まもなく太常少卿に遷り、右僉都御史として湖広を巡撫した。管轄区域に水害があり、たびたび租税免除と救済を請うた。皇帝がちょうど三殿を営建中で、楚の地から木材を採り、費用は四百二十万有余と見積もられたが、問達は方々をやりくりして、民が重い困苦を免れるようにした。久しくして、召されて刑部右侍郎に任じられ、部の事務を代理し、都察院の事務も兼ねて代理した。

原文三十年十月,星變,復請盡罷礦稅。時比年日食皆在四月,問達以純陽之月其變尤大,先後疏請修省,語極危切,帝終不納。尋遷太常少卿,以右僉都御史巡撫湖廣。所部水災,數請蠲貸。帝方營三殿,采木楚中,計費四百二十萬有奇,問達多方拮據,民免重困。久之,召拜刑部右侍郎,署部事兼署都察院事。

四十三年五月、張差の梃撃事件を審理した。問達は員外郎陸夢龍の言に従い、十三司に会審させたところ、供述が鄭貴妃の宮監龐保・劉成に及んだ。朝廷内外で噂が立ち、貴妃の弟鄭国泰が関与したと疑われた。問達らは張差の獄案を上奏した。帝は龐保・劉成の名を見ると、上疏を留中して下さなかった。やがて方従哲・呉道南および問達らを慈寧宮に召し、二人をともに磔刑に処すよう命じた。帝が宮に戻るや、またも心変わりし、まず張差を誅殺し、九卿三法司に文華門で龐保・劉成を会審させた。龐保・劉成は本名が鄭進・劉登雲であると供したが、罪は認めなかった。審理の最中、東宮より伝諭があった。「張差は実際に風癲であり、誤って宮門に入り、内侍を傷つけた。罪は赦さぬ。後に龐保・劉成が内官であり、本宮を謀害しようとしたと招いたが、彼らに何の益があろう。仇による誣告であるから、軽く罪を擬すべし。」問達らは審理が尽くされていないとして上疏した。「奸人が宮中に闖入したことは、宗廟社稷に関わる。今張差は死に、二囚は容易に言い逃れようとする。文華門は尊厳の地であり、臣らは刑訊できず、どうして実情を得られようか。二囚の偏った言葉が、どうして証拠足りえよう。張差は死んだが、供述は残っており、同謀の馬三道らも皆供述が記録にある。誰がこれを消せようか。況や慈寧宮での召対では、面諭してともに誅すと仰せられた。煌々たる天語は、国中が聞いている。もし外廷に付さず、官を集めて厳しく審理しなければ、どうして真情を吐かせられよう。真情を吐かなければ、どうして正法に処せられよう。祖宗二百年の間、罪囚を法司に付さず、いきなり罪を擬させたことはない。かつ二人は内臣である。法は近きより行うもので、陛下は特にその轡を厳しくし、重い刑罰に処すべきである。どうして彼らが弁明するに任せ、天下とともに棄てないのか。」帝は二囚が鄭氏に関わるため、外廷に付せば議論がさらに沸騰すると考え、ひそかに内廷で殺害し、皆創傷が重くて死んだと言わせた。そして馬三道ら五人については、軽く比して流配に処すよう命じた。事件はここで止んだ。この年、都察院の職務を解かれた。しばらくして戸部尚書に転じ、倉場を監督した。やがて刑部を兼ねて署理し、左都御史に任じられた。光宗の病が篤くなると、ともに顧命を受けた。

原文四十三年五月,讞問張差梃擊事。問達從員外郎陸夢龍言,令十三司會訊,詞連鄭貴妃宮監龐保、劉成。中外籍籍,疑貴妃弟國泰為之。問達等奏上差獄。帝見保、成名,留疏不下。尋召方從哲、吳道南及問達等於慈寧宮,命並磔二人。甫還宮,帝意復變,乃先戮差,令九卿三法司會訊保、成於文華門。保、成供原姓名曰鄭進、劉登雲,而不承罪。方鞫時,東宮傳諭曰:「張差情實風癲,誤入宮門,擊傷內侍,罪不赦。後招保、成系內官,欲謀害本宮。彼何益,當以仇誣,從輕擬罪。」問達等以鞫審未盡,上疏曰:「奸人闖宮,事關宗社。今差已死,二囚易抵飾。文華門尊嚴之地,臣等不敢刑訊,何由得情?二囚偏詞,何足為據?差雖死,所供詞故在,其同謀馬三道等亦皆有詞在案,孰得而滅之?況慈寧召對,面諭並決。煌煌天語,通國共聞。若不付之外庭,會官嚴鞫,安肯輸情?既不輸情,安從正法?祖宗二百年來,未有罪囚不付法司,輒令擬罪者。且二人系內臣。法行自近,陛下尤當嚴其銜轡,而置之重辟。奈何任彼展辨,不與天下共棄之也。」帝以二囚涉鄭氏,付外庭,議益滋,乃潛斃之於內,言皆以創重身死。而馬三道等五人,命予輕比坐流配。其事遂止。是年解都察院事。久之,遷戶部尚書,督倉場。尋兼署刑部,拜左都御史。光宗疾大漸,同受顧命。

天啓元年冬、周嘉謨に代わって吏部尚書となった。内外の大計(京察・外察)を連ねて掌り、すべて公論に叶った。当時、万暦年間に建言して過ちにより譴責された諸臣は林下に棄てられて久しく、死者はすでに半数を超えていた。問達らは議を定めた。廷杖・繫獄・遣戍された者を一等とし、官を贈り子に蔭を与える。貶竄・削籍された者を一等とし、官を贈るのみとする。恤典を得た者は七十五人であった。

原文天啟元年冬,代周嘉謨為吏部尚書。連掌內外大計,悉葉公論。當是時,萬歷中建言詿誤獲譴諸臣棄林下久,死者已過半。問達等定議:以廷杖、繫獄、遣戍者為一等,贈官蔭子;貶竄、削籍者為一等,但贈官。獲恤者七十五人。

ちょうど孫慎行・鄒元標が「紅丸」事件を追及して論じ、方従哲を激しく攻撃した。詔して廷臣を集めて議させ、参与した者は百十余人に及んだ。問達は衆議を集めた後、戸部尚書汪応蛟らとともに上疏した。

原文會孫慎行、鄒元標追論「紅丸」,力攻方從哲。詔廷臣集議,與議者百十餘人。問達既集眾議,乃會戶部尚書汪應蛟等上疏曰:

孫慎行の上奏によれば、まず李可灼が紅丸を進めたことを罪とする。可灼は先に方従哲に会っており、臣らは初め知らなかった。召しを受けて乾清宮に進み、丹墀で待っていると、方従哲が臣らとともに李可灼の進薬について話し合い、皆慎重で決めかねていた。やがて臣らが宮内に宣され御前に跪くと、先帝は自ら「朕が身体虚弱である」と言い、寿宮(陵墓)のことに及び、陛下を輔けて堯・舜のようになるよう諭され、そこで「可灼はどこにいるか」と問われた。可灼が小走りに入り、薬を調えて進め、しばらくしてまた進めた。聖躬は安らかで舒かになり、就寝された。これが進薬の始末であり、方従哲および文武諸臣がともに目撃したところである。この時、群情は慌てふためき、悲しみに切なる思いを共にしていた。弑しい逆の二字は、どうして口にできようか。諸臣はもとより方従哲にそのような心がないことを諒とし、孫慎行の上疏の中でもすでに諒としている。もし可灼が軽々しく薬を進めたのであれば、方従哲だけでなく止められず、臣と衆人も止められなかったのであり、臣らは皆罪がある。御史王安舜らが可灼を論劾した上疏に対して、方従哲は自ら重く擬すべきであったのに、まず罰俸で止め、次いで養疾を命じたのは、軽すぎる過ちである。今可灼を重く罪さなければ、どうして先帝を慰め、朝廷内外の心を服せられようか。法司に引き渡し、刑罰をもって正すべきである。崔文升が妄りに涼薬を投じた罪もまた誅すに当たる。ともに法司に下し、可灼とともに審理を請う。方従哲については、その自らの請いの通り、官階を削り去り、法のために咎を負うべきである。これも大臣が罪を引く道として当然であり、臣らが敢えて議するところではない。

原文按慎行奏,首罪李可灼進紅丸。可灼先見從哲,臣等初未知。及奉召進乾清宮,候於丹墀,從哲與臣等共言李可灼進藥,俱慎重未決。俄宣臣等至宮內跪御前,先帝自言「朕躬虛弱」,語及壽宮,並諭輔陛下為堯、舜,因問「可灼安在」。可灼趨入,和藥以進,少頃又進。聖躬安舒就寢。此進藥始末,從哲及文武諸臣所共見者。是時群情倉惶,淒然共切,弒逆二字,何可忍言。在諸臣固諒從哲無是心,即慎行疏中亦已相諒。若可灼輕易進藥,非但從哲未能止,臣與眾人亦未能止,臣等均有罪焉。及御史王安舜等疏論可灼,從哲自應重擬,乃先止罰俸,繼令養疾,則失之太輕。今不重罪可灼,何以慰先帝而服中外之心?宜提付法司,正以刑辟。若崔文升妄投涼藥,罪亦當誅。請並下法司,與可灼並按。從哲則應如其自請,削去官階,為法任咎,此亦大臣引罪之道宜然,而非臣等所敢議也。

選侍が垂簾聴政しようとしたことについては、群臣が初めて入臨した時、閽者が阻んで入ることを許さず、群臣は門を押し開けて進んだ。哭臨を終え、聖躬を奉じて文華殿に至り、朝謁嵩呼の礼を行い、再び駕を奉じて慈慶宮に還した。そこで新主の登極について議し、選侍が再び乾清宮に居るべきでないとした。九卿がすぐに公疏を上して移宮を請い、言官がこれに続き、方従哲がようやく揭帖を具して奏請したので、選侍は即日移宮した。しかし輿論はなお方従哲の上奏が毅然として百官を率先しなかったことを憾んだ。もし諸臣が共に大義を挟み、連章して急ぎ迫らなければ、乾清宮は何たる場所か、依然混居したままで、彼女に魁柄を仮窃させ、陛下が登極して宮に還る時にどうなったことか。

原文至選侍欲垂簾聽政,群臣初入臨,閽者阻不容入,群臣排闥而進。哭臨畢,奉聖躬至文華殿,行朝謁嵩呼禮,復奉駕還慈慶宮。因議新主登極,選侍不當復居乾清。九卿即公疏請移,言官繼之,從哲始具揭奏請,選侍遂即日移宮。然輿論猶憾從哲之奏,不毅然為百僚倡。倘非諸臣共挾大義,連章急趨,則乾清何地,猶然混居,令得假竊魁柄,將如陛下登極還宮何!

上疏が入ると、帝は方従哲の心跡は自ら明らかであり、軽々しく議すべきでないとし、ただ李可灼を逮捕して官吏に下すのみとした。崔文升はすでに南京に安置されており、問わなかった。

原文疏入,帝謂從哲心跡自明,不當輕議,止逮可灼下吏。文升已安置南京,弗問。

問達は歴任して大きな任に就き、「梃撃」「紅丸」「移宮」の三大案をすべてその手で経た。議論を平允に持ち、過激にも追随もしなかった。先に任期満了により太子太保を加えられ、ここに至って休暇を乞い、上疏十三度に及んだ。詔して少保を加え、駅伝で帰郷させた。

原文問達歷更大任,「梃擊」、「紅丸」、「移宮」三大案並經其手。持議平允,不激不隨。先以秩滿,加太子太保,至是乞休,疏十三上。詔加少保,乘傳歸。

五年、魏忠賢が国政を擅った。御史周維持が問達が力を尽くして王之寀を引き立て党を植え政を乱したと弾劾し、ついに官爵を削奪された。御史牟志夔がさらに問達が贓私(賄賂・私利)があると誣告し、官吏に下して審問するよう請うた。十万の資金を捐じて軍興を助けるよう命じられた。まもなく問達は卒去した。巡撫張維樞の言により、その半額を免じられたため、問達の家はついに破産した。崇禎初年、太保を贈られ、一子に官を与えられた。周維持・牟志夔はともに名が逆案に掛けられた。

原文五年,魏忠賢擅國。御史周維持劾問達力引王之寀植黨亂政,遂削奪。御史牟誌夔復誣問達贓私,請下吏按問。命捐貲十萬助軍興。頃之,問達卒。以巡撫張維樞言,免其半,問達家遂破。崇禎初,贈太保,予一子官。維持、誌夔鹹名掛逆案。

陸夢龍 傅梅

原文陸夢龍 傅梅

陸夢龍、字は君啓、会稽の人。万暦三十八年の進士。刑部主事に授けられ、員外郎に進んだ。

原文陸夢龍,字君啟,會稽人。萬歷三十八年進士。授刑部主事,進員外郎。

張差の獄が起こると、宮殿に向かって箭を射ち、弾を放ち、磚石を投げる等の律を引き、斬刑に当たるとした。獄案が整うと、提牢主事王之寀が張差の口供が非常に詳しいと奏し、会審を勅するよう請い、大理丞王士昌も上疏してこれを促した。当時夢龍は広東の典試のため門を閉ざしていたが、主事邢臺の傅梅が訪ねてきて言った。「人情は奸を庇い、儲皇(皇太子)に甘心している。我は山右の恤刑であっても、上疏して極論しようと思う。君は共に事を為せるか。」夢龍は言った。「張公(問達)は我を厚く遇している。急に上疏するのは、張公にどうするというのか。力爭すべきである。」そこでともに張問達に会った。当時郎中胡士相等は再審を望まず、張問達に疏を具して旨を請うよう促し、疏が入れば必ず留中され、事件はそのまま終わると考えた。夢龍はその内情を得て、再び請うことを止めた。衆人は言った。「馬三爺・李外父らを引き出すには、旨を得なければならない。」夢龍は言った。「堂堂たる法司が、一編氓を捕らえられず、天子の詔を須いるのか。張差の供述は、必ず訊問して実証すべきである。」問達はこれを然りとした。

原文張差獄起,引凡向宮殿射箭、放彈、投磚石等律當以斬。獄具,提牢主事王之寀奏差口詞甚悉,乞敕會問,大理丞王士昌亦上疏趣之。時夢龍以典試廣東杜門,主事邢臺傅梅過之曰:「人情庇奸,而甘心儲皇。吾雖恤刑山右,當上疏極論,君能共事乎?」夢龍曰:「張公遇我厚,遽上疏,若張公何?當力爭之耳。」乃偕見問達。時郎中胡士相等不欲再鞫,趣問達具疏請旨,以疏入必留中,其事可遂寢。夢龍得其情,止勿復請。眾曰:「提馬三爺、李外父輩,非得旨不可。」夢龍曰:「堂堂法司,不能捕一編氓,須天子詔耶?差所供,必當訊實。」問達以為然。

翌日、会審が行われ、士相・永嘉・会禎・夢龍・梅・之寀及び鄒紹先の七人、ただ之寀・梅と夢龍のみが意見を同じくした。審問を始めようとすると、皆口ごもった。夢龍が刑具を三度呼んだが応じる者なく、机を叩いて大声で叫ぶと、ようやく準備された。張差は背が高く肋骨が密生し、横目で傲然と語り、癲狂の様子はなかった。夢龍が紙筆を呼び、侵入した経路を描かせた。梅が問う、「お前はどうして道を知っているのか」。張差は言う、「私は薊州の者で、案内者がいなければ、どうして入ることができようか」。問う、「案内者は誰か」。曰く、「大老公の龐公、小老公の劉公」。また言う、「私を三年間養い、金銀の壺を一つずつ与えた」。夢龍が言う、「何のためか」。曰く、「小爺を打つためだ」。ここにおいて士相は立ち上がり座を推して言う、「これはこれ以上問うべきではない」。そこで審問を中止した。夢龍はどうしても宦官の名を知りたかった。数日後、問達が再び十三司に会審させると、張差は逆謀と龐保・劉成の名を供述し、少しも隠さなかった。士相が筆を執ったが、躊躇して下せず、郎中馬德灃が促し、永嘉もまた難しいとした。夢龍は不満げに言う、「陸員外が隠そうとしないのに、誰が隠せようか」。こうして獄案が整った。給事中何士晉は上疏して鄭国泰を誹謗した。帝はここにおいて龐保・劉成を内廷で誅殺し、張差を市で処刑した。梅は密かにすり替えられるのを憂い、自ら監刑を請うた。この時、夢龍・之寀・梅・德灃を除いて、鄭氏に与する者でない者はほとんどいなかった。やがて之寀・德灃はことごとく罪を得、梅は京察で罷官した。夢龍は問達の力に頼って免れ、郎中から副使に至った。

原文明日,會訊,士相、永嘉、會禎、夢龍、梅、之寀及鄒紹先凡七人,惟之寀、梅與夢龍合。將訊,眾鹹囁嚅。夢龍呼刑具三,無應者,擊案大呼,始具。差長身駢脅,睨視傲語,無風癲狀。夢龍呼紙筆,命畫所從入路。梅問:「汝何由識路?」差言:「我薊州人,非有導者,安得入?」問:「導者誰?」曰:「大老公龐公,小老公劉公。」且曰:「豢我三年矣,予我金銀壺各一。」夢龍曰:「何為?」曰:「打小爺。」於是士相立推坐起曰:「此不可問矣。」遂罷訊。夢龍必欲得內豎名。越數日,問達再令十三司會審,差供逆謀及龐保、劉成名,一無所隱。士相主筆,躊躇不敢下,郎中馬德灃趣之,永嘉復以為難。夢龍咈然曰:「陸員外不肯匿,誰敢匿?」獄乃具。給事中何士晉遂疏詆鄭國泰。帝於是斃保、成於內,而棄差市,梅慮其潛易,躬請監刑。當是時,自夢龍、之寀、梅、德灃外,鮮不為鄭氏地者。已而之寀、德灃悉被罪,梅以京察罷官。夢龍賴問達力獲免,由郎中歷副使。

天啓四年、貴州の賊が平定されず、総督蔡復一が夢龍が兵事に通じていると推薦し、右参政に改め、監軍として賊を討たせた。安邦彦が普定を犯すと、夢龍は総兵黄鉞とともに三千人でこれを防いだ。暁に大霧の中を行軍し、まっすぐに賊に迫ると、賊は大敗した。三山の苗が叛き、思州が危急を告げた。夢龍は夜に中軍呉家相を遣わして賊の巣窟を急襲させ、苗の太鼓を打ち鳴らすと、声は山谷に響き渡り、苗は大いに潰走し、その巣窟を焼いて帰還した。まもなく湖広監軍に改め、広東按察使に遷った。上官が魏忠賢の祠を建て、夢龍の名を列ねると、急ぎ使者を遣わして削り去らせた。

原文天啟四年,貴州賊未靖,總督蔡復一薦夢龍知兵,改右參政,監軍討賊,安邦彥犯普定。夢龍偕總兵黃鉞以三千人禦之。曉行大霧中,直前薄賊,賊大敗。三山苗叛,思州告急。夢龍夜遣中軍吳家相進搗賊巢,撾苗鼓,聲振山谷,苗大奔潰,焚其巢而還。尋改湖廣監軍,遷廣東按察使。上官建忠賢祠,列夢龍名,亟遣使鏟去之。

崇禎元年の大計で、忠賢の党与がまだ権勢を振るい、二級を削って転任させた。三年に副使として起用され、元の官で東兗道を分巡した。曹州・濮州の間に盗賊が起こると、その首魁を討ち斬り、残党はすべて降伏した。右参政に遷り、固原を守った。夢龍は慷慨として兵談を好み、群盗を掃討することを自任した。七年夏、賊が来襲したが撃退した。閏八月、賊が隆徳を陥落させ、知県費彦芳を殺し、ついに静寧州を包囲した。夢龍は遊撃賀奇勛・都司石崇徳を率いて防ぎ、老虎溝に到着した。賊は初め千に満たなかったが、やがて大軍が到来した。夢龍の率いる兵はわずか三百余人で、数重に包囲され、賊の矢石が雨のごとく、包囲を突破して出ることができなかった。二将は夢龍を抱いて泣いたが、夢龍は手を振って言う、「どうしてこのような婦女子の態をするのか」。大声で奮撃し、自ら数人を斬り、二将とともに戦死した。事が聞こえ、太僕卿を追贈された。

原文崇禎元年大計,忠賢黨猶用事,鐫二級調任。三年起副使,以故官分巡東兗道。盜起曹、濮間,討斬其魁,余眾悉降。遷右參政,守固原。夢龍慷慨好談兵,以廓清群盜自負。七年夏,賊來犯,擊卻之。閏八月,賊陷隆德,殺知縣費彥芳,遂圍靜寧州。夢龍率遊擊賀奇勛、都司石崇德禦之,抵老虎溝。賊初不滿千,已而大至。夢龍所將止三百餘人,被圍數重,賊矢石如雨,突圍不得出。二將抱夢龍泣,夢龍揮之曰:「何作此婦孺態!」大呼奮擊,手馘數人,與二將俱戰死。事聞,贈太僕卿。

一方、傅梅は、崇禎年間に台州知府を歴任し、解職して帰郷した。十五年冬、金を寄付して知府吉孔嘉の城守を助けた。城が破れて殉難し、太常少卿を追贈された。

原文而傅梅,崇禎中歷台州知府,解職歸。十五年冬,捐金佐知府吉孔嘉守城。城破殉難,贈太常少卿。

汪応蛟

原文汪應蛟

汪応蛟、字は潜夫、婺源の人。万暦二年の進士。南京兵部主事に授かり、南京礼部郎中を歴任した。給由で都に入り、吏部侍郎陸光祖と御史江東之らが互いに非難し合っているのに遭い、応蛟は光祖を正しいとせず、上疏して抗論し弾劾し、政府に対して多くを諷諫した。

原文汪應蛟,字潛夫,婺源人。萬歷二年進士。授南京兵部主事,歷南京禮部郎中。給由入都,值吏部侍郎陸光祖與御史江東之等相訐,應蛟不直光祖,抗疏劾之,於政府多所譏切。

累進して山西按察使となった。易州で兵を治め、鉱税使王虎の貪欲で勝手な様を上奏したが、回答がなかった。朝鮮で再び戦争が起こると、応蛟を天津に移した。天津巡撫万世徳が朝鮮経略に就くと、ただちに応蛟を右僉都御史に抜擢して後任とし、しばしば兵糧に関する事案を上奏し、要害を押さえて屯列し、軍勢は大いに振るった。税使王朝が死ぬと、帝は代わりを遣わそうとした。応蛟は上疏してこれを止めるよう請い、旨に逆らい、厳しく責められた。朝鮮の事が収まると、保定巡撫に移った。旱魃と蝗害こうがいの年で、救恤に力を尽くした。やがて、畿内の民の困窮疲弊を極言し、鉱税をすべて廃止するよう請うた。ちょうど奸人柳勝秋らが畿輔の税を徴収すれば十三万両の銀が得られると妄言したので、応蛟は三度上疏して強く争ったが、ただ半減を得たに過ぎなかった。三十年春、帝は鉱税停止を命じたが、まもなく中止した。応蛟は再び強く争ったが、採用されなかった。

原文累遷山西按察使。治兵易州,陳礦使王虎貪恣狀,不報。朝鮮再用兵,移應蛟天津。及天津巡撫萬世德經略朝鮮,即擢應蛟右僉都御史代之,屢上兵食事宜,扼險列屯,軍聲甚振。稅使王朝死,帝將遣代。應蛟疏請止之,忤旨,切責。朝鮮事寧,移撫保定。歲旱蝗,振恤甚力。已,極言畿民困敝,請盡罷礦稅。會奸人柳勝秋等妄言括畿輔稅可得銀十有三萬,應蛟三疏力爭,然僅得減半而已。三十年春,帝命停礦稅,俄中止。應蛟復力爭,不納。

応蛟は天津において、葛沽・白塘などの田地がすべて荒れ地となっているのを見て、土地の者に尋ねると、皆塩分が強く耕作できないと言った。応蛟は、地に水がなければ塩分が強く、水を得れば潤うと考え、もし水田を営めば、必ず利益があるだろうと思った。そこで民を募って五千畝を開墾させ、そのうち水田としたのは十の四で、一畝あたり四、五石を収穫し、田の利益は大いに興った。保定に移ると、上疏して言った、「天津に屯兵四千、兵糧六万を費やし、すべて民間から徴収している。兵を留めれば民が苦しみ、民を恤ねば軍に供給できない。考えられるのは屯田のみが食糧を充足させうるということである。今、荒れた土地が続き、蒿や萊が望み見る限りである。もし渠を開き堰を設け、これを田と定めれば、七千頃となり、一頃あたり三百石の穀物を得られる。近鎮の年例も兼ねて賄うことができ、天津の兵糧だけが充足するのではない」。そこで、墾田の丁夫と税額の多少を条画して請うと、詔旨を得て実行された。

原文應蛟在天津,見葛沽、白塘諸田盡為汙萊,詢之土人,鹹言斥鹵不可耕。應蛟念地無水則堿,得水則潤,若營作水田,當必有利。乃募民墾田五千畝,為水田者十之四,畝收至四五石,田利大興。及移保定,乃上疏曰:「天津屯兵四千,費餉六萬,俱斂諸民間。留兵則民告病,恤民則軍不給,計惟屯田可以足食。今荒土連封,蒿萊彌望,若開渠置堰,規以為田,可七千頃,頃得谷三百石。近鎮年例,可以兼資,非獨天津之餉足取給也。」因條畫墾田丁夫及稅額多寡以請,得旨允行。

やがて、水利を広く興すよう請うた。おおよそ次のように述べた、「臣の管轄内の諸河川は、易水は金台を、滹水は恒山を、溏水は中山を、滏水は襄国を灌漑でき、漳水は鄴下から来て、西門豹がかつて用いた。瀛海は諸河の下流に当たり、江南の水郷と異ならない。その他の山下の泉、地中の水は至る所にあり、すべて引き入れて田を灌漑できる。どうか渠を通し堤防を築き、軍夫を適量発し、すべて南方の水田の法に準じて行わせてほしい。管轄する六府で、数万頃の田を得られ、毎年千万石の穀物が増え、畿内の民はこれから豊かになり、旱魃や水害の心配がなくなる。たとえ不幸にも漕河に支障があっても、南で折納に改め、北で買い入れができる」。工部尚書楊一魁はその建議を強く称賛し、帝もまた許可したが、後に結局実行されなかった。工部右侍郎に召されたが、着任せず、休暇を許されて去った。やがて兵部左侍郎に進んだが、親を養うため出仕しなかった。親が没すると、ついに召されなかった。

原文已,請廣興水利。略言:「臣境內諸川,易水可以溉金臺,滹水可以溉恒山,溏水可以溉中山,滏水可以溉襄國,漳水來自鄴下,西門豹嘗用之,瀛海當諸河下流,視江南澤國不異。其他山下之泉,地中之水,所在而有,鹹得引以溉田。請通渠築防,量發軍夫,一準南方水田之法行之。所部六府,可得田數萬頃,歲益谷千萬石,畿民從此饒給,無旱潦之患。即不幸漕河有梗,亦可改折於南,取糴於北。」工部尚書楊一魁亟稱其議,帝亦報許,後卒不能行。召為工部右侍郎,未上,予告去。已,進兵部左侍郎,以養親不出。親沒,竟不召。

光宗が即位すると、南京戸部尚書として起用され、天啓元年に北京戸部尚書に改めた。東西で戦争が起こり、急に数百万の賦税が加えられた。応蛟は赴任途中で、急ぎ上疏して言った、「漢の高帝が蕭何の功を称えて言う、『国家を鎮め、百姓を撫で、糧餉の供給を絶やさない点では、私は蕭何に及ばない』と。糧餉を供給するに先立って百姓を撫でるからこそ、漢を興し楚を滅ぼすことが掌を運ぶようにできたのである。今、国家は多難で、経費が支えられず、勢いとして徴税を緩めることはできないが、民力を愛養せずにただその脂膏を搾り尽くせば、財は尽き民は窮し、変乱が必ず起こる。どうして前もって計らわないでいられようか」。そこで愛養すべき十八事を列挙して上奏すると、帝は賞賛して採用した。熊廷弼が三方布置の策を建て、千二百万の兵糧を必要としたが、応蛟は強く阻止した。廷議で「紅丸」の事について、崔文升・李可灼を法に置き、方従哲を編氓に貶すよう請うた。

原文光宗立,起南京戶部尚書,天啟元年改北部。東西方用兵,驟加賦數百萬。應蛟在道,馳疏言:「漢高帝稱蕭何之功曰:『鎮國家,撫百姓,給餉饋不絕,吾不如蕭何。』夫給饋餉而先以撫百姓,故能興漢滅楚,如運諸掌也。今國家多難,經費不支,勢不得緩催科,然弗愛養民力,而徒竭其脂膏,財殫氓窮,變亂必起,安得不預為計?」因列上愛養十八事,帝嘉納焉。熊廷弼建三方布置之策,需餉千二百萬,應蛟力阻之。廷議「紅丸」事,請置崔文升、李可灼於法,而斥方從哲為編氓。

応蛟の為人は、明らかで正直で節操があり、国を家のように見た。出納を謹み、無駄遣いを杜絶し、国家の財政はこれに頼った。帝の保母客氏が墓地を制度を超えて求めたが、応蛟は与えず、これによって疎まれた。ちょうど老いて職務に耐えられないという者がおり、強いて骸骨を乞うた。詔して太子少保を加え、駅伝で帰郷させた。陛辞の際、聖学について上疏し、宋儒の言葉を引き、宦官・宮妾を戒めとした。久しくして、家で卒した。応蛟の学問は誠敬を主とし、その出処進退と辞受はすべて義に基づいた。郷里に居て、俗事を謝絶し、常に麻の綿入れを着ていた。

原文應蛟為人,亮直有守,視國如家。謹出納,杜虛耗,國計賴之。帝保母客氏求墓地逾制,應蛟持不予,遂見忤。會有言其老不任事者,力乞骸骨。詔加太子少保,馳傳歸。陛辭,疏陳聖學,引宋儒語,以宦官、宮妾為戒。久之,卒於家。應蛟學主誠敬,其出處辭受一軌於義。裏居,謝絕塵事,常衣缊枲。

王紀

原文王紀

王紀は字を惟理といい、芮城の人である。万暦十七年に進士となり、池州推官に任ぜられた。召されて祠祭主事となり、儀制郎中を歴任した。礼を守り正を保ち、当時の声望は盛んであった。二十九年、帝が東宮を冊立せんとしたが、数度遷延して決断せず、王紀は抗疏して極論した。その冬、礼が成り、光禄少卿に抜擢されたが、病を理由に辞去した。

原文王紀,字惟理,芮城人。萬歷十七年進士。授池州推官。入為祠祭主事,歷儀制郎中。秉禮持正,時望蔚然。二十九年,帝將冊立東宮,數遷延不決,紀抗疏極論。其冬,禮成,擢光祿少卿,引疾去。

四十一年、太常少卿から右僉都御史に抜擢され、保定諸府を巡撫した。連年水旱の災害があり、王紀は救荒の法を設けて甚だ周到であった。税監張曄が恩詔ですでに免除された諸税の徴収を請うたが、王紀は二度上疏して力爭し、張曄はついに中旨を得てこれを実行した。王紀は張曄が詔書に抗違し、成命を沮格したことを弾劾したが、いずれも報いられなかった。四年在任し、管内は大いに治まり、戸部右侍郎に遷り、漕運を総督し、兼ねて鳳陽諸府を巡撫した。凶作の年には、畿輔と同様に振救した。光宗が即位すると、召されて戸部尚書に拝され、倉場を督した。

原文四十一年,自太常少卿擢右僉都御史,巡撫保定諸府。連歲水旱,紀設法救荒甚備。稅監張曄請征恩詔已蠲諸稅,紀兩疏力爭,曄竟取中旨行之。紀劾曄抗違詔書,沮格成命,皆不報。居四年,部內大治,遷戶部右侍郎,總督漕運兼巡撫鳳陽諸府。歲大兇,振救如畿輔。光宗立,召拜戶部尚書,督倉場。

天啓二年、黄克纘に代わって刑部尚書となった。時にちょうど「紅丸」の事を会議しており、王紀は侍郎楊東明とともに議を署し、「方従哲は貴妃の存在を知ってはいるが、君父の存在を知らない。李可灼が薬を進めて駕崩させたのに、かえって恩諭をもって慰め、銀幣を賜うとは、国典はどこにあるのか。李可灼を逮捕しなければ天下を服させることはできず、崔文升を逮捕しなければ李可灼を服させることはできず、方従哲の官階・禄・蔭を削奪しなければ天地神人の憤りを泄らすことはできない」と言った。議が出ると、群情は甚だ恐れおののいた。

原文天啟二年,代黃克纘為刑部尚書。時方會議「紅丸」事,紀偕侍郎楊東明署議,言:「方從哲知有貴妃,不知有君父。李可灼進藥駕崩,反慰以恩諭,賚之銀幣,國典安在?不逮可灼,無以服天下;不逮崔文升,無以服可灼;不削奪從哲官階祿蔭,無以泄天地神人之憤。」議出,群情甚竦。

主事徐大化という者は、もとより無頼の徒で、日々魏忠賢の門を走り、善類を陥れ、また公然と給事中周朝瑞・恵世揚を弾劾した。王紀は甚だ憤り、徐大化が職務を怠る様子を弾劾し、ついでに「徐大化が誠に朝廷のために賊を撃つならば、大臣の中に権勢ある宦官と交結し、正士を誅鋤する者がいる。宋の蔡京のような者を、なぜ弾劾文に掲げず、正人と日々水火の争いをしているのか」と言った。その言う大臣とは、大学士沈纮を指す。徐大化はこれにより罷免されたが、沈纮と魏忠賢は深くこれを恨んだ。御史楊維垣は徐大化と関係があり、かつもとより沈纮に附いていたので、ついに沈纮を助けて王紀を誹謗し、王紀が弾劾した大臣に主名がないと言い、指実するよう請うた。王紀はついに直ちに沈纮を攻撃し、「沈纮と蔡京は生きた時代は異なるが、事実は類似している。魏忠賢と結納するのは、蔡京が童貫と契合したのと同じである。董羽宸に哀れみを乞うのは、蔡京が陳瓘に懇ろにしたのと同じである。死友邵輔忠・孫傑と盟約を結ぶのは、蔡京が呉居厚と固く結んだのと同じである。顧命の元臣劉一燝・周嘉謨を逐うのは、呂大防・蘇軾を安置したのと同じである。言官江秉謙・熊徳陽・侯震旸を斥逐するのは、安常民・任伯雨を貶謫したのと同じである。婦寺に賄賂を交わし、威権を窃弄し、中旨が頻繁に伝えられても上は悟らず、朝柄を陰に握っても下は知らない。これまた蔡京が国を迷わし上を欺き、百世を経ても符合する点である」と言った。客氏と魏忠賢はこれを聞いて怒り、沈纮のために帝の前で泣き訴えた。帝は王紀の言葉を煩わしいとし、譙責を加えた。

原文主事徐大化者,素無賴,日走魏忠賢門,構陷善類,又顯劾給事中周朝瑞、惠世揚。紀憤甚,劾大化溺職狀,因言:「大化誠為朝廷擊賊,則大臣中有交結權珰,誅鋤正士,如宋蔡京者,何不登彈文,而與正人日尋水火。」其言大臣,指大學士沈纮也。大化由此罷去,而纮及忠賢深憾之。御史楊維垣與大化有連,且素附纮,遂助纮詆紀,言紀所劾大臣無主名,請令指實。紀遂直攻纮,言:「纮與京,生不同時,而事實相類。其結納魏忠賢,與京之契合童貫同也;乞哀董羽宸,與京之懇款陳瓘同也;要盟死友邵輔忠、孫傑,與京之固結吳居厚同也;逐顧命元臣劉一燝、周嘉謨,與安置呂大防、蘇軾同也;斥逐言官江秉謙、熊德陽、侯震旸,與貶謫安常民、任伯雨同也。至於賄交婦寺,竊弄威權,中旨頻傳而上不悟,朝柄陰握而下不知,此又京迷國罔上,百世合符者。」客、魏聞之怒,為纮泣訴帝前。帝謂紀煩言,加譙責焉。

初め、李維翰・熊廷弼・王化貞が吏に下され、王紀はいずれも重い刑罰に処した。しかし、都御史・大理卿とともに熊廷弼・王化貞の爰書を上奏し、微かに両人に矜れむべき状があることを露わにし、不測の特恩は言うまでもなく、法官が軽々しく議することのできないものであると言った。千総杜茂という者がおり、登萊巡撫陶朗先に千金を携えて行き、兵を募ったが、金は尽きて兵は未だ募らず、帰るに敢えず、薊州の僧舎に戻り、邏者に捕らえられ、その言葉は佟卜年に連なった。佟卜年は遼陽の人で、進士に挙げられ、南皮・河間の知県を歴任し、夔州同知に遷ったが、赴任せず、経略熊廷弼に登萊監軍僉事に推薦された。邏者が拷打した。杜茂はかつて佟卜年の河間の官舎に三ヶ月客としており、謀叛を語り、その二僕を挟んで李永芳に通じたと言った。行辺尚書張鶴鳴がこれを聞いた。張鶴鳴はもとより熊廷弼と不和があり、佟卜年を藉りてその罪を重くしようとした。朝士はみな佟卜年の冤罪を知っていたが、敢えて言う者はいなかった。鎮撫司がすでに獄を成し、刑部に移すと、王紀はこれを疑い、諸曹郎に問うた。員外郎顧大章が「杜茂は既に二僕と往来三千里したというのに、拷訊して死に瀕しても、終に二僕の姓名を知らず、その誣服は疑いない。佟卜年は間諜ではないが、しかし実は佟養真の族子である。流三千里とすべきである」と言った。王紀の議はこれに従った。邏者はまた奸細劉一巘を捕らえた。魏忠賢は劉一燝の兄弟を疑い、ただちに劉一讞と佟卜年を誅し、劉一讞によって劉一燝を株連させようとした。王紀はいずれも執って不可とした。沈纮はついに王紀が熊廷弼を庇い、佟卜年らの獄を緩めたことを弾劾し、二つの大罪とした。帝は王紀に陳状を責め、ついに民に斥けた。侍郎楊東明に部事を署させ、佟卜年を流二千里に坐させた。獄は三度上奏され三度退けられた。給事中成明枢・張鵬雲・沈惟炳は佟卜年の同年の生まれで、憤りを発し、他の事を拾って連ねて楊東明を弾劾した。佟卜年は長期の拘禁を得て、獄死し、楊東明はついに病を理由に辞去した。

原文初,李維翰、熊廷弼、王化貞下吏,紀皆置之重辟。而與都御史、大理卿上廷弼、化貞爰書,微露兩人有可矜狀,而言不測特恩,非法官所敢輕議。有千總杜茂者,賫登萊巡撫陶郎先千金,行募兵,金盡而兵未募,不敢歸,返薊州僧舍,為邏者所獲,詞連佟卜年。卜年,遼陽人,舉進士,歷知南皮、河間,遷夔州同知,未行,經略廷弼薦為登萊監軍僉事。邏者搒掠。茂言嘗客於卜年河間署中三月,與言謀叛,因挾其二仆往通李永芳。行邊尚書張鶴鳴以聞。鶴鳴故與廷弼有隙,欲藉卜年以甚其罪。朝士皆知卜年冤,莫敢言。及鎮撫既成獄,移刑部,紀疑之,以問諸曹郎。員外郎顧大章曰:「茂既與二仆往來三千里,乃拷訊垂斃,終不知二仆姓名,其誣服何疑,卜年雖非間諜,然實佟養真族子,流三千里可也。」紀議從之。邏者又獲奸細劉一巘,忠賢疑劉一燝昆弟,欲立誅一讞與卜年,因一讞以株連一燝。紀皆執不可。纮遂劾紀護廷弼,緩卜年等獄,為二大罪。帝責紀陳狀,遂斥為民。以侍郎楊東明署部事,坐卜年流二千里。獄三上三卻。給事中成明樞、張鵬雲、沈惟炳,卜年同年生也,為發憤,摭他事連劾東明。卜年獲長繋,瘐死,而東明遂引疾去。

王紀が既に斥けられると、大学士葉向高・何宗彦・史継偕が論救したが、いずれも聞き入れられなかった。後に閹党が善類を羅織したが、王紀は先に卒したので、免れた。崇禎元年に官を復し、少保を贈られ、一子を蔭し、諡して荘毅といった。

原文紀既斥,大學士葉向高、何宗彥、史繼偕論救,皆不聽。後閹黨羅織善類,紀先卒,乃免。崇禎元年復官,贈少保,蔭一子,謚莊毅。

楊東明

原文楊東明

楊東明は字を啓修といい、虞城の人である。官は給事中であった。国本を定め、出閣して豫教し、早朝に勤政し、宋応昌・李如松の功罪の公平を酌むことを請うた。『河南饑民図』を上し、寺丞鐘化民を推薦して往って振恤させた。吏科を掌り、孫丕揚に協力して大計を主った。後に沈思孝を弾劾し、沈思孝と互いに誹謗し合い、三官を貶めて陝西布政司照磨となった。郷里に居ること二十六年。光宗が即位すると、太常少卿に起用された。天啓年間に累進して刑部右侍郎となった。帰った後、ついに卒した。崇禎初年に刑部尚書を贈られた。

原文楊東明,字啟修,虞城人。官給事中。請定國本,出閣豫教,早朝勤政,酌宋應昌、李如松功罪之平。上《河南饑民圖》,薦寺丞鐘化民往振。掌吏科,協孫丕揚主大計。後以劾沈思孝,思孝與相詆,貶三官為陜西布政司照磨。裏居二十六年。光宗立,起太常少卿。天啟中,累遷刑部右侍郎。既歸,遂卒。崇禎初,贈刑部尚書。

孫瑋

原文孫瑋

孫瑋は字を純玉といい、渭南の人である。万暦五年に進士となり、行人に任ぜられ、兵科給事中に抜擢された。宦官魏朝及び東廠弁事官鄭如金の罪を弾劾し、鄭如金は詔獄に坐した。二人はともに馮保の心腹であった。

原文孫瑋,字純玉,渭南人。萬歷五年進士。授行人,擢兵科給事中。劾中官魏朝及東廠辦事官鄭如金罪,如金坐下詔獄。二人皆馮保心腹也。

初め、張居正は刑部侍郎同安洪朝選が遼王の罪を軽くしたことを恨んだ。後に労堪が福建を巡撫し、張居正の意を迎え、同安知県金枝に洪朝選の事を捜索させ、労堪が飛章してこれを奏上した。命令はまだ下らず、捕らえて獄に置き、飯食を絶つこと三日、死に至らしめ、殮することを禁じ、屍は獄中で腐った。労堪はまもなく左副都御史に召されたが、京に至らぬうちに張居正が卒した。洪朝選の子で都察院検校の洪競が闕下に冤罪を訴え、労堪はまた飛書を馮保に送り、洪競の籍を削り、廷杖して帰らせた。この時、孫瑋がその事を白状し、併せて労堪の諸々の貪虐な状を及ぼし、労堪は免官された。まもなく、洪朝選の妻が冤罪を訴え、邱橓もまた訟え、洪競はさらに胡槚・王宗載の事を引き合いに出し、労堪とともに死ぬことを請うたので、ついに労堪を戍に遣わした。この時、廠衛は馮保の余威を承け、民の訴訟を濫りに受け、撫按は奸猾を訪察して多く無辜を累わし、有司は獄を断じて往々にして罪の外に罰を加え、帝は立枷を用いることを好み、重さ三百余斤、犯者はたちまち死んだ。孫瑋はいずれもその害を極言して陳べた。詔して立枷は従前の通りとし、その余は孫瑋の言に従った。母の病のため、命を待たずに擅に帰り、坐して桃源主簿に貶せられた。久しくして、累進して太常卿となった。

原文初,張居正以刑部侍郎同安洪朝選輕遼王罪,銜之。後勞堪巡撫福建,希居正意,諷同安知縣金枝捃摭朝選事,堪飛章奏之。命未下,捕置之獄,絕其飯食三日,死,禁勿殮,屍腐獄中。堪尋召為左副都御史,未至京而居正卒。朝選子都察院檢校競訴冤闕下,堪復飛書抵馮保,削競籍,廷杖遣歸。至是,瑋白髮其事,並及堪諸貪虐狀,堪免官。未幾,朝選妻訴冤,邱橓亦為訟,競復援胡槚、王宗載事,請與堪俱死,乃遣堪戍。當是時,廠衛承馮保余威,濫受民訟;撫按訪察奸猾,多累無辜;有司斷獄,往往罪外加罰;帝好用立枷,重三百餘斤,犯者立死。瑋皆極陳其害。詔立枷如故,余從瑋言。以母病,不候命擅歸,坐謫桃源主簿。久之,歷遷太常卿。

三十年、右副都御史として保定を巡撫した。朝鮮に出兵するに当たり、天津に軍を置き、月の兵糧六万をすべて民間に割り当てた。前任の巡撫汪応蛟は軍を動員して大規模に水田を開墾し、その収入をもって兵糧に充てた。李三才はこれを踏襲して行い、田畑はますます開墾され、ついに加派を免れた。年々凶作が続き、旱魃・蝗害・大水が相次いだが、李三才は多方面から救済し、帝も時に内帑金を出してこれを助けた。上奏した救荒策は、おおむね許可された。畿輔の鉱山使は他省の倍もおり、鉱脈はすでに尽きたのに掘削をやめず、毎年民に賠償納入を責め立てた。李三才は累次上疏してその害を述べ、さらに天津の税使馬堂の六大罪を列挙したが、いずれも取り上げられなかった。

原文三十年,以右副都御史巡撫保定。朝鮮用兵,置軍天津,月餉六萬,悉派之民間。先任巡撫汪應蛟役軍大治水田,以所入充餉。瑋踵行之,田益墾,遂免加派,歲比不登,旱蝗、大水相繼,瑋多方振救,帝亦時出內帑佐之。所條荒政,率報允。畿輔礦使倍他省,礦已竭而搜鑿不已,至歲責民賠納。瑋累疏陳其害,且列天津稅使馬堂六大罪,皆不省。

兵部侍郎に進み、召されて右都御史となり、倉場を監督した。戸部尚書に進み、引き続き倉場を監督した。高官に欠員が多かったため、戎政を代行するよう命じられた。やがて、さらに兵部も兼ねて代行した。李三才は言った。「陛下が重なる三つの印をすべて臣に与えられるとは、はたして国に人材がいないとお考えなのですか。臣が知る高官には呂坤・劉元震・汪応蛟がおり、下級官には鄒元標・孟一脈・趙南星・姜士昌・劉九経がおり、台諫官には王徳完・馮従吾らがおり、いずれも徳を立て行いを修め、任用に足ります。もしさらに数年を経れば、陛下が用いようとしても、できなくなるでしょう。」聞き入れられなかった。

原文就進兵部侍郎,召為右都御史,督倉場。進戶部尚書,督倉場如故。大僚多缺,命署戎政。已,又兼署兵部。瑋言:「陛下以累累三印悉畀之臣,豈真國無人耶?臣所知大僚則有呂坤、劉元震、汪應蛟,庶僚則有鄒元標、孟一脈、趙南星、姜士昌、劉九經,臺諫則有王德完、馮從吾輩,皆德立行修,足備任使。茍更閱數年,陛下即欲用之,不可得矣。」弗聽。

都御史は温純が去って以来、八年間後任が置かれなかった。四十年十二月、外官考査の時期が迫り、ようやく李三才を兵部尚書として左都御史の事務を執掌させた。李三才は平素より時望を負い、風紀を振るおうとしたが、この時は朋党の勢いが成り、言路が大いに横暴であった。ちょうど南畿巡按御史の荊養喬と提学御史の熊廷弼が互いに非難し合い、李三才は熊廷弼を解職して審査を待つよう議した。熊廷弼の与党である官応震・呉亮嗣らは連続して上疏して李三才を攻撃した。李三才は累次上疏して休職を願い出たが、帝はことごとく慰留した。まもなく、吏部が年例によって二人の御史を地方に出したが、都察院に関与させなかった。李三才は失職として、ますます強く辞任を求め、上疏は十数回に及んだ。翌年七月、文華門で叩頭し、城外に出て命令を待った。十月になって、ようやく告帰を許された。

原文都御史自溫純去後,八年不置代。至四十年十二月,外計期迫,始命瑋以兵部尚書掌左都御史事。瑋素負時望,方欲振風紀,而是時朋黨勢成,言路大橫。會南畿巡按御史荊養喬與提學御史熊廷弼相訐,瑋議廷弼解職候勘。廷弼黨官應震、吳亮嗣輩遂連章攻瑋。瑋累疏乞休,帝皆慰留。無何,吏部以年例出兩御史於外,不關都察院。瑋以失職,求去益力,疏十餘上。明年七月稽首文華門,出郭候命。至十月,始予告歸。

天啓元年、南京吏部尚書に起用され、兵部に改められ、機務に参与した。三年、召されて刑部尚書に任じられた。囚人が多く、獄舎が収容しきれないほどになったため、李三才は近畿の者は州県に分けて収監するよう請願した。内使の王文進が人を殺し、司礼監に下って罪を議させ、その余党は法司に付された。李三才は一つの獄事を二か所に分けるべきでないと述べ、王文進も合わせて官吏に下すよう請願したが、聞き入れられなかった。その冬、吏部尚書として再び左都御史の事務を執掌し、老病を理由に累次辞任を願い出たが、許されなかった。翌年秋、病が重くなり、上疏して言った。「今、天災が重なって現れ、民は生活の道がない。内には城社の憂いがあり、外には窓戸が未だ固まらない。法紀は廃れ、人心は瓦解している。陛下が治平を図られるなら、人心を固く結ぶに如くはなく、人心を固く結ぶなら、善類を登用するに如くはない。旧輔臣の劉一燝、憲臣の鄒元標、尚書の周嘉謨・王紀・孫慎行・盛以弘・鐘羽正ら、侍郎の曹於汴、詞臣の文震孟、科臣の侯震旸、台臣の江秉謙、寺臣の満朝薦、部臣の徐大相は、いずれも老成で忠直でありながら、草野に伏しているのはまことに嘆惜すべきことである。もし簡抜されれば、必ずや徳を明らかにし違いを塞ぎ、陛下のために人心を収拾することができましょう。特に、欲を少なくして聖躬を保ち、学を勤めて主徳を進め、寛容をもって言路を広げ、明断をもって大権を掌握されることを望みます。臣は危篤の病に遭い、主君に報いる期がなく、敢えて微かな誠意を尽くし、屍をもって諫めとします。」こうして死去し、太子太保を追贈された。魏忠賢が権力を握ると、陝西巡撫の喬応甲が李三才が平素より李三才・趙南星と与党であったと弾劾し、恩恤を辱うべきでないとした。詔によって追贈された官位を奪い、蔭官を剥奪した。崇禎初年、これを回復した。後に荘毅と諡された。

原文天啟改元,起南京吏部尚書,改兵部,參贊機務。三年,召拜刑部尚書。囚系眾,獄舍至不能容,瑋請近畿者就州縣分系。內使王文進殺人,下司禮議罪,其餘黨付法司。瑋言一獄不可分兩地,請並文進下吏,不聽。其冬,以吏部尚書再掌左都御史事,累以老疾辭,不允。明年秋,疾篤,上疏曰:「今者天災叠見,民不聊生。內而城社可憂,外而牖戶未固。法紀淩遲,人心瓦解。陛下欲圖治平,莫如固結人心;欲固結人心,莫如登用善類。舊輔臣劉一燝,憲臣鄒元標,尚書周嘉謨、王紀、孫慎行、盛以弘、鐘羽正等,侍郎曹於汴,詞臣文震孟,科臣侯震旸,臺臣江秉謙,寺臣滿朝薦,部臣徐大相,並老成蹇諤,跧伏草野,良可嘆惜。倘蒙簡擢,必能昭德塞違,為陛下收拾人心。尤望寡欲以保聖躬,勤學以進主德,優容以廣言路,明斷以攬大權。臣遘疾危篤,報主無期,敢竭微忱,用當屍諫。」遂卒,贈太子太保。魏忠賢用事,陜西巡撫喬應甲劾瑋素黨李三才、趙南星,不當叨冒恩恤。詔追誥命,奪其蔭。崇禎初,復之。後謚莊毅。

鐘羽正

原文鐘羽正

鐘羽正、字は叔濂、益都の人。万暦八年の進士。滑県知県に任じられた。弱冠に満たぬ年齢で、多くの善政を行い、召されて礼科給事中に任じられた。朝講を廃すべきでないこと、張鯨を赦すべきでないことを上疏して述べたが、回答がなかった。

原文鐘羽正,字叔濂,益都人。萬歷八年進士。除滑縣知縣。甫弱冠,多惠政,征授禮科給事中。疏言朝講不宜輟,張鯨不宜赦,不報。

工科左給事中に昇進し、出向して宣府の辺務を視察した。哈剌慎の老把都ら諸部が市賞の増額二十七万余りを要求したが、鐘羽正はこれを削減するよう建議した。参政の王象乾と利害を説き、動く者はいなかった。兵部左侍郎の許守謙はかつて宣府を巡撫し、賄賂で知られていたが、鐘羽正は弾劾して去らせた。さらに副総兵の張充実らを弾劾して罷免し、軍資を侵奪した者をすべて法に照らして処置した。

原文遷工科左給事中,出視宣府邊務。哈剌慎詟老把都諸部挾增市賞二十七萬有奇,羽正建議裁之。與參政王象乾詟以利害,莫敢動。兵部左侍郎許守謙先撫宣府,以賄聞,羽正劾去之。又劾罷副總兵張充實等,而悉置諸侵盜軍資者於理。

帰朝して吏科都給事中となった。礼部侍郎の韓世能、薊遼総督の蹇達、大理少卿の楊四知・洪声遠が職務を果たしていないと弾劾し、楊四知・洪声遠は貶謫に処せられた。ちょうど朝覲の時期であったため、贈り物を禁ずるよう請願し、言った。「臣の罪は貪欲より大きいものはありません。しかし、内臣が貪っても外臣が応じず、外臣が貪っても内臣が助けなければ、まだ互いに顧みて畏れ、敢えてほしいままにはしないでしょう。今、内は外を府庫とし、外は内を巣窟とし、互いに通じて賄賂を贈り、結託して奸をなしています。これでは仕官の道が清く、世の運が泰平になることは得られません。」帝はその言葉を良しとし、関係部署に禁止するよう命じた。さらに閣部大臣には公事を朝房で議し、私邸で賓客を接してはならないと命じた。吏部が孟一脈を応天府丞に、蔡時鼎を江西提学に推挙し、副として呂興周・馬猶龍を添えた。帝は孟一脈・蔡時鼎がかつて建言したことを憎み、いずれも副の者を用いた。鐘羽正は同僚を率いて上疏して言った。「陛下が孟一脈・蔡時鼎を用いられないのは、内外に建言した臣は一時的に斥けられるだけでなく、再び進む階梯もないと思わせ、忠直の気を消し、諫諍の舌を結ばせるもので、国家の福ではありません。」上疏が入り、旨に逆らい、俸給を差等に従って奪われた。

原文還為吏科都給事中。劾禮部侍郎韓世能,薊遼總督蹇達,大理少卿楊四知、洪聲遠不職,四知、聲遠坐貶謫。時當朝覲,請禁饋遺,言:「臣罪莫大於貪。然使內臣貪而外臣不應,外臣貪而內臣不援,則尚相顧畏莫敢肆。今內以外為府藏,外以內為窟穴,交通賂遺,比周為奸,欲仕路清、世運泰,不可得也。」帝善其言,敕所司禁之。且命閣部大臣公事議於朝房,毋私邸接賓客。吏部推孟一脈應天府丞,蔡時鼎江西提學,副以呂興周、馬猶龍。帝惡一脈、時鼎嘗建言,皆用副者。羽正率同列上言:「陛下不用一脈、時鼎,中外謂建白之臣,不惟一時見斥,而且復進無階,銷忠直之氣,結諫諍之舌,非國家福。」疏入,忤旨,奪俸有差。

二十年正月、同官の李献可らとともに皇長子の出閣と予備教育を請願した。帝は怒り、李献可を貶官した。鐘羽正は自分が実際に議を主導したとして、ともに貶謫されるよう請願し、ついに民に落とされた。門を閉じて読書に励み、士大夫がその地を往来しても、おおむね面会を断った。山林に住むことほぼ三十年。光宗が即位すると、太僕少卿に起用された。着任前に、本寺卿に進んだ。

原文二十年正月,偕同官李獻可等請皇長子出閣豫教。帝怒,謫獻可官。羽正以己實主議,請與同謫,竟斥為民。杜門讀書,士大夫往來其地,率辭不見。林居幾三十年。光宗立,起太僕少卿。未至,進本寺卿。

天啓二年、吏部が左副都御史に任用しようとしたが、鐘羽正は辞して言った。「馮公(従吾)が僉都御史になって久しいのに、私が後から入って先んじるのは、競争を助長することです。西台(都察院)はどのような場所か、これをもって在職者を風化させることができましょうか。」そこで僉都御史を受け、馮従吾に副の地位を譲った。官署に入るや、すぐに言った。「方従哲は進薬・議謚・封后・移宮において、謀略がなく決断に乏しく、佞に似て欺きに似ている。その官秩を免じて、法のために過ちを受けるべきである。沈纮は内援を結び、権勢と賄賂を招いた。速やかにその去就を決すべきである。」多くの小人たちはこれを喜ばなかった。熊廷弼・王化貞の獄事について、衆議が紛糾した。鐘羽正は言った。「以前、開原・鉄嶺の罪が明らかでなかったため、遼陽を失い、遼陽の罪が明らかでなかったため、広寧を失った。朝廷の疆土は、何度も敗壊に耐えられようか。」これによって二人はともに大辟に処せられた。ちょうど朱童蒙が講学を理由に鄒元標と馮従吾を攻撃したが、鐘羽正は書院の設置は実に京師の首善を勧めるものであり、禁ずるべきでないと述べ、自らを弾劾して休職を願い出た。まもなく、馮従吾に代わって左副都御史となり、やがて戸部右侍郎に改められ、倉場を監督した。

原文天啟二年,吏部將用為左副都御史,羽正辭曰:「馮公從吾僉院已久,吾後入先之,是長競也。西臺何地,可以是風有位乎?」乃受僉都御史而讓從吾為副。甫入署,即言:「方從哲進藥議謚,封後移宮,無謀鮮斷,似佞似欺,宜免其官秩,使為法受過。沈纮結內援,招權賄,宜遄決其去。」群小多不悅。熊廷弼、王化貞之獄,眾議紛呶。羽正言:「向者開原、鐵嶺之罪不明,致失遼陽;遼陽之罪不明,致失廣寧。朝廷疆土,堪幾番敗壞!」由是二人皆坐大辟。會朱童蒙以講學擊鄒元標及從吾,羽正言書院之設,實為京師首善勸,不當議禁,因自劾乞休。頃之,代從吾為左副都御史,俄改戶部右侍郎,督倉場。

翌年の春、工部尚書に任ぜられた。故事によれば、宦官の冬衣は隔年に一度支給されるものであった。この年の夏六月、宦官千余人が前払いを求め、蜂のごとく押し寄せて官署に入り、公座を打ち砕き、掾吏を殴打し、罵詈を浴びせて去った。これは羽正を憎む者が宦官を唆して事を起こさせたのである。羽正は上疏してこれを奏聞し、罷免を求めた。詔により司礼太監が群宦を杖罰・左遷し、羽正に出仕して政務を執るよう諭した。羽正はますます強く辞任を求め、言上した。「今、国庫は空しく、九辺の壮士は日夜戈を荷い甲を寝具とし、一飽も得られず、慶陵の工卒は重荷を負い高所に登り、炎風赤日の下に曝され、賃銭を得られない。それなのに、内官の請乞だけは朝に届けば夕に従う。この者らがこれを聞けば、誰が憤りを抱かぬことがあろうか。臣は職務にふさわしくなく、義として罷免されるべきである。」さらに三度上疏して自ら退任を請うた。

原文明年春,拜工部尚書。故事,奄人冬衣隔歲一給。是夏六月,群奄千餘人請預給,蜂擁入署,碎公座,毆掾吏,肆罵而去。蓋忌羽正者嗾奄使發難也。羽正疏聞,因求罷。詔司禮太監杖謫群奄,而諭羽正出視事。羽正求去益堅,因言:「今帑藏殫虛,九邊壯士日夜荷戈寢甲,弗獲一飽;慶陵工卒負重乘高,暴炎風赤日中,求傭錢不得;而獨內官請乞,朝至夕從。此輩聞之,其誰不含憤?臣奉職不稱,義當罷黜。」復三疏自引歸。

一年余り後、逆党の霍維華が三案を追及して理非を論じ、羽正が身を門戸(東林党)に委ねたと言い、ついに官爵を削奪された。崇禎初年、官職を回復した。久しくして死去した。太子太保を追贈された。

原文逾年,逆黨霍維華追理三案,言羽正委身門戶,遂削奪。崇禎初,復官。久之,卒。贈太子太保。

陳道亨

原文陳道亨

陳道亨、字は孟起、新建の人。万暦十四年の進士。刑部主事に任ぜられ、南京吏部郎中を歴任した。同郷の鄧以贊・衷貞吉もまた南都に官し、人々は「江右三清」と称した。母の喪に遭い、家は火災で焼失し、家屋を借りて住んだ。厳冬に帷もなく、妻は葛の裳をまとい、子と共に落ち薪を拾って燃やし寒さを凌ぎ、贈り物があっても受け取らなかった。湖広参政から山東按察使・右布政使に転じ、福建に移って左布政使となり、赴任先ごとに一銭も私せず。右副都御史として操江を提督した。光宗が即位すると、工部右侍郎に進み、河道を総督した。

原文陳道亨,字孟起,新建人。萬歷十四年進士。除刑部主事,歷南京吏部郎中。同里鄧以贊、衷貞吉亦官南都,人號「江右三清」。遭母喪,家毀於火,僦屋以居。窮冬無幃,妻禦葛裳,與子拾遺薪爇以禦寒,或有贈遺,拒弗受。由湖廣參政遷山東按察使、右布政使,轉福建為左,所至不私一錢。以右副都御史提督操江。光宗立,進工部右侍郎,總督河道。

天啓二年、妖賊徐鴻儒が乱を起こした。道亨は済寧を守り、諸要害を扼して漕運の船を守った。乱が平定されると、俸禄を増やされ銀幣を賜った。まもなく南京兵部尚書に任ぜられ、機務に参賛した。楊漣らが群をなして魏忠賢を弾劾し、譴責を受けた。道亨は憤慨し、九卿とともに上奏した。「高皇帝が定めた令によれば、内臣は掃除を供するのみで、兵権を執り政事に預かってはならない。陛下はただ忠賢の微功を思い、大権を彼に授け、欲するままにさせ、朝廷の忠諫をすべて容れられない。どうして宦官を重んじ、天下の士大夫を軽んずること、ここに至るのか。」上疏は入れられなかった。道亨はついに連続して上疏して去職を求め、詔により駅伝で帰郷することを許された。一年余り後に死去した。

原文天啟二年,妖賊徐鴻儒作亂。道亨守濟寧,扼諸要害,以衛漕舟。事平,增俸賜銀幣。尋拜南京兵部尚書,參贊機務。楊漣等群擊魏忠賢,被譙責。道亨憤,偕九卿上言:「高皇帝定令,內臣止供掃除,不得典兵預政。陛下徒念忠賢微勞,舉魁柄授之,恣所欲為,舉朝忠諫皆不納。何重視宦豎輕天下士大夫至此?」疏入,不納。道亨遂連疏求去,詔許乘傳歸。逾年卒。

道亨は貞亮で節操があった。参政から尚書に至るまで、家族を従えず、一人の下僕が炊事をするのみであった。崇禎初年、太子少保を追贈され、諡は清襄。

原文道亨貞亮有守。自參政至尚書,不以家累自隨,一蒼頭執爨而已。崇禎初,贈太子少保,謚清襄。

子 弘緒

原文子 弘緒

子の弘緒、字は士業。晉州知州となり、文名があった。

原文子弘緒,字士業。為晉州知州,以文名。

賛して曰く、光宗・熹宗の時代、朝廷には多くの変事があり、また神宗の頽廃の余波を受け、政体は怠惰弛緩し、六曹はその職務を修めなかった。周嘉謨・張問達らは懇ろに公務に奉じ、『詩経』にいう「位に懈かず」という者に、ほぼ近かった。汪応蛟は国計を執り、出納を謹み、水田の議は確かに施行が見込まれた。孫瑋は善類を登用することを請い、鐘羽正は贈賄を禁ずることを請うた。まことに、時弊を救う良規であった。

原文贊曰:光、熹之際,朝廷多故,又承神宗頹廢之余,政體怠弛,六曹罔修厥職。周嘉謨、張問達諸人,懇懇奉公,《詩》所稱「不懈於位」者,蓋庶幾焉。汪應蛟持國計,謹出納,水田之議,鑿鑿可見施行。孫瑋請登用善類,鐘羽正請禁饋遺,韙哉,救時之良規也。